※作品集18、19にあります「月ノ涙-魔理沙編-」の第二話になります。
※今回の話は第一話「紅花」より五十年ほど後のお話。
※作中、一度だけ出てくる「萃香」については第一話「紅花」を参照とのこと。
思い返せば、浮かんでくるのは笑顔ばかり。
辛い事もあった。悲しい事もあった。
でも、最後にはいつも笑っていた。
ここに来てから過ごした日々は本当に充実していた。
なによりも、最後までこうしてあの人と共に在れた。
その事だけで、私にはもう悔いも何もない。
逆に、こんなに幸せなままに幕を引いてしまっていいのだろうかと、申し訳なく思ってしまう。
∽
「様子はどうだ?」
「変化なし。だから無駄だと言っているだろう?」
開口一番に言われたのは、そんな言葉だった。
雑木林の中にぽつんと広がる草原で、霧雨魔理沙は長年苦楽を共にしてきた愛用の箒を片手で担ぐように、とんとんと肩を叩いていた。
「おいおい、あれから何年経ったと思っているんだ? いい加減外に出ないと体に悪いぜ?」
魔理沙は自分の前に立つ人物を真っ直ぐに見ていた。
歳を経てなおその瞳には一寸の曇りもなく、今も光に満ちて輝いていた。
「私だってそう思ってはいるさ。だが……今の紫様には、私たちの声など届いていないんだよ」
ふっと振り返り、目を細めて先に小さく見える家を見ているその顔は、どこか寂しそうに、しかし全てを諦めた瞳だった。
魔理沙はその様子を見て、はあぁぁぁ、と盛大に息を吐くと、なんの躊躇いもなく持っていた箒をそのまま前へと振り下ろした。
「いたっ! なにをするんだ、いきなり」
「自慢の式神様がそんなのでどうするんだよ。八雲藍は名前だけか?」
片手で頭を擦っていた藍だったが、魔理沙の言葉にその手を止めて顔を俯かせた。
もちろん魔理沙は知っている。
彼女がこれまでにどれだけの苦労を積み重ねてきたのかを。
黄金色に輝いていた髪や尾も今はその輝きも鈍り、どれだけ繕っても繕いきれないでいた。
そしていつからか、藍は先ほどのような目をするようになった。
今の彼女に、昔弾幕を交えた時のような力はもうない。
もちろん彼女は九尾の妖狐であり、その力は全ての妖怪の中でも上位に入るであろうという事は今も変わらない。
だが、彼女は変わってしまった。
「今の私は……ただの妖怪狐さ」
八雲藍は八雲紫の式神だった。
元々あった藍という肉体の上に紫が式を憑ける事によって、その力を高められていた者。
紫が全く人前に──藍と橙の前にすら──姿を現さなくなってから既に半世紀が経とうとしている。
いつしか藍に憑いていた式神も落ち、彼女の言うとおりただの化け狐に戻っていた。
「それでも、お前はまだここにいるんだろ?」
「それは……」
「お前がそんな顔ばっかりしてると、あの猫が五月蝿いんだよ」
「橙が?」
「どうやったらお前が元気になってくれるかー、なんてあちこちに聞きまわってるらしいぜ?」
それを聞いた藍が更に顔を俯かせる。
「昔のようにとは言わないさ。だけど、もう一度……もう少しだけ、頑張ってみないか?」
「……私はもう疲れ──あいたっ!?」
再び箒で頭を叩かれ、藍は少し目を潤ませて両手で頭を擦った。
魔理沙は振り下ろした箒を再び肩に担ぎ、そのまま逆の手でびしっと藍を指差すと、曇りない瞳を真っ直ぐに向けてにっと笑った。
「見てな。スキマだかなんだか知らないが、そんなものは私が取っ払ってやるよ。必ずな!」
∽
不思議なものだ。
聳えるように高く伸びる入道雲の白の中に向かって小さくなっていく黒い点を見送りながら、ふと懐かしい感覚に捕らわれた。
昔からそうだった。
魔理沙が笑うと、大抵の事はどうにかなってしまうのではないかと、そんな事を思ってしまうほどに彼女の笑みには不思議な力があった。
どんな窮地に追い込まれても、彼女はいつも笑っていた。
そして、その悉くを覆してきた。
幾度となく目の前にしてきたそんな場面。魔理沙の力は十分すぎるほどによく解っている。
だが、だからこそ──。
「お前の力じゃ、紫様のスキマは解けないんだよ……」
およそ五十年前に、その身をもって知る事となった主の絶対的な力。
もしあの時の事がなければ、藍もまた彼女のように頑張れたのかもしれない。希望をもてたのかもしれない。
しかし、全ては“もし”の話。
そもそもあの事件がなければ、紫が姿を晦ますような事はなかっただろう。
そして紫のスキマを解く、その鍵を握っていたであろう萃香も既にこの世にはいない。
今の博麗も先代、先々代の時ほどの力はないと聞いている。
『もう少しだけ、頑張ってみないか?』
「今の私に……何ができるというのだ」
魔理沙を見送った空に背を向けて歩いていくその後姿は、知る人が見てもそれが八雲藍だと誰が気付けただろうか。
いくら背筋を伸ばして姿勢良く歩いていても、垂れた尻尾と落とした肩はその落ち込み具合を隠し切れずにいた。
『それでも、お前はまだここにいるんだろ?』
「……どうして私はまだここにいるんだろうな」
足取りも重く、ようやく辿り着いた戸に手をかける。
「藍……」
「──! 紫様っ!?」
俯かせていた顔をばっと右に向けると、ちょうど家の角に消えていく流れる金髪が見えた。
「紫様っ!」
駆け出そうとしたところで、勢いあまって足が縺れて転ぶ。
それでも立ち上がる間さえ惜しいと、ろくに体勢も立て直さずにわたわたと駆けていく。
そうして角を曲がった先には──光があった。
縁側から広がる青い芝生が風に揺られて波打っている。
その中心、初夏の太陽が照らすその場所には、もう何年もの間待ち焦がれていた彼女の姿があった。
「藍……永い間家を空けてしまってごめんなさいね」
「いえ……いえ、そんな事は……っ!」
滲む。視界が滲む。
ようやく彼女が帰ってきたというのに、その姿が滲んでぼやける。
諦めてなんていなかった。
本当はずっと帰ってきてほしかった。
また三人で一緒に──!
先の解れた袖で乱暴に目を擦る。
泣くのにはまだ少しだけ早い。
彼女の元に、彼女の元に──。
「紫さ──……ま……?」
溢れ出た涙を拭って、もう一度目の前に立つ彼女を見やる……が、そこには誰もいなかった。
庭は荒れ、手入れの施されていない草木はその枝葉を好きに伸ばしている。
初夏の風が背を伸ばした草を撫で、さわさわと擦れ合う音が響いていた。
確かに見たはずの彼女の姿はその痕跡すら見つけ出せず、ただただ無情にも過ぎていった時間の傷痕だけが、その場にはあった。
焦点の定まらない虚ろな瞳で呆然とその光景を見る藍は息をする事も忘れ、すとんと膝を付いた。
「紫……様……」
へたり込むように腰を落とし、両手をついて項垂れる藍の肩が震える。
伸びた草はそんな藍の頬を撫で、この時だけはその顔を優しく隠してくれていた。
「諦められる訳が……ないじゃないか」
どうして諦める事ができようか。
どうして離れる事ができようか。
捨てるにはここは暖かすぎて。
忘れるには彼女は大きすぎた。
広がる空は青く、蒼く。
流れる雲だけが、あの頃から何も変わらず。
八雲藍は、その時紫が消えてから初めて泣いた。
∽
「さて、ああは言ったものの」
遥か上空を、箒に乗って滑るように飛びながら考える。
正直、あの紫のスキマをどうこうできるなどと思ってはいない。
だがしかし、どうこうできないとも思っていない。
思い返せば、霊夢だって瞬間移動みないな事をやっていたじゃないか。
霊夢にできるという事は、少なくとも人間にだってそれくらいの事はできるという事。
空間移動ができるなら、それを応用すれば空間の狭間をこじ開ける事だってできるだろう。きっとできる。
できないなんて事は考えない。
なぜか? だって、諦めたらそこで試合は終わりなんだぜ?
そうと決まればやる事はただ一つ。
「紅い館に針路変更──っと」
まったく、世話のかかる奴らだぜ。
そうぼやきながらも、その顔はどこか楽しそうでもあった──。
∽
だから、この幸せをあの人にも残すために、最後に一つ、私は罪を犯そう。
きっとあの人は傷ついてしまう。
傷ついて、傷ついて、壊れてしまうかもしれない。
でも、それは仕方のない事。
傷はいつか癒えるものだと信じている。
永い永い時間の中でいつか元通りになって、私の残したものに気付いてくれる。そう信じている。
だから、私は罪を犯そう。
どれだけの時間が必要になるかは解らないけれど、いつかのその日その時にまた彼女が笑ってくれるように。
大丈夫。ほんの少しのさよならですよ、お嬢様……。
──そして再び時は動き出す。
「─────────────!!!」
∽
「ここがこうなって……となると、この回路をこっちに展開すれば……いやいや、それだと最初の部分が」
薄く広がる闇の中、ランタンの火が部屋の一角にある机に向かう魔理沙の背を照らしていた。
ランタンの火とは別に、時折机の上で小さな魔法陣が輝いてはその顔を蒼く輝かせている。
淡く輝き、すぐ消えて。
また淡く輝き、またすぐ消えて。
あれからまた季節は巡り、秋が過ぎ、冬が過ぎ、春が来て、訪れた夏も盛りを過ぎ、吹く風は少しずつ冷たさを含んでいっていた。
「こんなものか。さて、何か実験に使えそうなものは、と」
今回はそれなりに自信があった。
この一年、術式を組み上げては実験、失敗の流れを何度やった事だろう。
初めて試した時は魔法陣に触れた途端に突っ込もうとした木の枝が燃えた。
二回目は燃える事はなかったが、出口から出てきた木の枝が溶けていた。
三回目は成功したかに見えたが、突っ込んだ箸がどこからも出てこなかった。
翌日、それは何故か別の部屋で見つかった。
四回目は潜り抜ける途中で魔法陣が消えて、ペーパーナイフが真っ二つになった。
自分の体で実験していなくて本当によかったと思う。
その後も同じような失敗を、それこそ数え切れないほどに繰り返してきたが、それらを踏まえ、ようやく自信のもてる術式を組み上げる事が出来たのだ。
これで何度目になるだろうか。小さな魔法陣を浮かび上がらせて、深呼吸をひとつ。
手近にあったペンを手に取り、右手で摘むように先を持って目の前に蒼く輝く紋様へと近づけていく。
安定性を欠いて僅かに震えるペン先が魔法陣に触れたかどうかというところで、弾かれるように一度手を引いた。
暫くそのまま魔法陣の様子を見るが、特に変わったところはない。
それを確認すると、今度はもう一度、ゆっくりと近づけていく。
再び魔法陣の手前で手が止まる。深く息を吸って……吐いて。
決意も新たに、そのペン先が浮かび上がる紋様に触れると、魔法陣全体の輝きが増し、零れた光が粒となって小さく弾けた。
「んっ……」
ずず……と、飲み込まれるようにペンが魔法陣の中へと消えていく。
と同時に、肩幅ほどに離れた左側に同じ紋様の魔法陣が浮かび上がった。
そしてその中心部からは、魔理沙が右側の魔法陣に通したペンが先を覗かせていた。
それは二つの魔法陣の間に存在している空間を確かに飛び越えていた。
「ここで気を抜いたらまた真っ二つだぜ……」
左側から出てきたペンの先を左手で同じく摘むように持ち、右から左へ、慎重に、慎重に、ゆっくりと、ゆっくりと、魔法陣の中を通していく。
魔法陣から溢れる光で明るく照らされた机の上に、額から流れて頬を伝っていった汗が落ちる。
それでも一切の集中を切らせる事なく、ペンを持つ両手と魔法陣を形成するための魔力の開放は怠らない。
半分以上が左側から出てきたところで右手を離し、ゆっくりと抜き取るように左手を引いていく。
「もう少し、もう少し……ここまできて失敗なんてしてくれるなよ?」
やがてペンは完全に右側の魔法陣の中へと消え、左側からその全貌を現した。
それでも魔理沙はまだ気を緩めずに、ゆっくりとペンを引いていく。
そうしてペンが魔法陣から離れたのを確認したところでぴたりと動きを止めた。
「成功……だよな?」
自問自答。しかしその答えは左手に持つペンが教えてくれた。
それを見るや否や、魔理沙は両手を広げてびたーん、と机の上に突っ伏した。
二つの魔法陣は光の粒となって霧散し、広げられていた本がばさばさと床に落ち、散乱していたメモ用紙の束が宙を舞った。
本が落ちた衝撃ですっかり溜まっていた埃が舞い上がり、ごほごほと咽返る。
暫くするとそれらも大人しく、宙を舞っていたメモ用紙の最後の一枚が再び机の上に帰ってくると、部屋の中は物音一つなく。
ただランタンの火だけが時折ジジジ、と燃えて部屋の中を照らしていた。
「……疲れた」
とりあえず空間上に点と点を作り出す事はできた。
最終的にはその間に線を引き、更にその線を広げて面にしなければいけないのだろうが……。
「この調子だと後何年かかるんだ?」
今やっている事が本当に合っているのか、正解なのかは相変わらず解らない。
それでもきっと何かが解るはずだとやってきたが、ここまで苦戦を強いられるとは思ってもいなかった。
しかし、正解を知る紫は行方不明。
そもそも紫を探す為にこんな事をしているのだから当然といえば当然である。
その紫の一番側にいたであろう藍にしても、スキマの事は解らないという始末。
パチュリーやアリスと協力すればもう少し捗るのだろうが、元来の性格が災いしてか言うに言えない状況にあった。
それ以上に、今回の事ばかりは自分でどうにかしなければならないと思っている所為もあるのだろう。
「霊夢……お前はどうやっていたんだ?」
机の突っ伏したまま、今となっては懐かしいかつての友の名を呟く。
余程緊張していたのか、想像以上に力を使っていたのか、魔理沙はそのまま緩いまどろみの中へと誘われていった。
∽
『なんだ、またサボってるのか?』
『五月蝿いわね。サボってるんじゃなくて休憩中なのよ』
『一日中休憩してれば、それは立派なサボリだぜ』
『いいじゃない。別に誰が来る訳でもなしに……ねぇ魔理沙』
『私が来てるぜ──っと、なんだ?』
『私がいなくなったら……幻想郷はどうなるのかしらね』
『? お前らしくもない質問だな?』
『ちょっと……なんとなくね』
『別に変わらないだろ。博麗だって今まで続いてきたんだろ? ならこれからも続いていくんじゃないのか?』
『次ね……考えた事もないわね、そういえば』
『それにあれだ。紫とかもいるじゃないか。あいつだってなんだかんだ言って似たようなものだろ』
『紫じゃあねぇ……』
『なら私が見といてやろう──いや冗談だが』
『あー、でもあんたなら二百年くらい生きてそうよね』
『おいおい、私は人間だぜ?』
∽
「ふむ、間に物理的な弊害があっても問題は無し、か」
あれから一月程、魔理沙の実験は休む事なく続いていた。
実験自体が失敗する事もほとんどなくなり、細い棒のような物しか通せなかった魔法陣も少しずつ改良を加え、もう少し大きな物でも通せるようになっていた。
入り口から出口への距離も徐々に広げ、両手を広げたくらいの距離までなら物を“跳ばせる”事が出来た。
それでもまだ自分の体を通すには魔法陣は小さく、些か頼りない。
「まだまだ効率化が必要か……」
家の外、外壁から生えるように突出している箒の柄を持ち、一気に引き抜いた。
そのまま箒を肩に担ぎ、考え込むようにとんとんと肩を叩く。
片手を腰に当て、暫くそのまま佇む。
この点と点の間を切り開くにはどうすればいいか。
やはり自分が実際に通ってみるしかないだろう。
「先は長いぜ」
「なんだ、貴方はまだ生きていたのね」
心臓がどくんと跳ねた。
後ろを取られた? 気付けなかった? 油断? そんなはずはない……。なら何故?
自分の中を駆け巡っては消えていく様々な考えを押し殺し、平然を装ってゆっくりと振り向く。
と、そこには──。
「……なんだ、妖夢か。一瞬誰か解らなかったぜ」
「久しぶりにこっちに出てこれたから、色々見て回るついでに寄ってみたんだけど……」
背中に一刀、腰に一刀携えたその少女。
服も背丈もほとんど昔から変わらず、しかしそれを彼女だと認識するのが遅れたのは肩の下まで伸びた銀の髪の所為だろうか。
魔理沙の視線に気付いたのか、妖夢が右手の人差し指にくるりと髪を巻いた。
「これは……幽々子様がたまには伸ばしてみたら……って」
「へぇ、なかなか“おんなのこ”してるじゃないか」
「なっ──!」
妖夢の顔が赤くなる。
そのまま怒るかと思ったが、だから私は短い方が……とか、剣士たるもの……などと呟いた後、再び魔理沙の視線に気付いてわざとらしく咳払いをした。
「なんにしても、元気そうでなによりね。その分だと今でもあちこち飛び回っていたりするの?」
「んー? あー、そういえば最近外に出た覚えがないな」
「また一週間も篭ってたりしたのか?」
「いや……あれ? 前に外に出たのはいつだ?」
記憶の中に埋もれた情報をどうにか引っ張り出そうと、顎に手を当てて考える。
「確か……あまりの暑さに部屋で茹で上がっていたな」
「夏から出てないのか!」
「いや、あまりの寒さに凍えていた記憶もある」
「半年くらい……なのか?」
「あぁ、最近涼しくなってきた、なんて言って空を飛んでいた記憶はある。多分そこからだな」
「ほとんど一年じゃないか……」
導き出された真相にからからと笑う魔理沙とは対照的に、妖夢はがっくりと肩を落としていた。
なんでこんなに疲れなければいけないんだと思いながらも、項垂れていた顔を上げて魔理沙を見る。
見た目こそ老いてはしまったものの、その内に輝く魂の光は昔から何も変わっていない。
どこからそんな活力が生み出されるのか、生涯現役とは正に彼女の為にある言葉なのではないかと思ってしまう。
「でも、それだと外で起きた事とか何も知らないんじゃないの?」
「いや、少しくらいなら解るぜ。どっかの天狗が勝手に新聞置いていくからな」
どれもこれも音速の遅い話題ばっかりだけどな、と魔理沙が笑う。
「しかし、遅いにも程があるぜ。どれもこれも過ぎた季節の事ばかりだ」
「じゃあ、あの話はまだ知らないのか?」
「なんの話だ?」
「いや、私もついさっき初めて知った事なんだけど……」
はたして言ってもいい事なのか、と躊躇いを見せる妖夢に、業を煮やした魔理沙が持っていた箒を迷うことなく振り下ろした。
それは見事な弧を描き、狙い定めた先はただ一点。この半世紀の間にすっかり手馴れてしまった芸術的な一振りであった。
「あいたっ!?」
「言いかけた事は最期まで言え、って言われなかったか?」
「わかったよ……でも、気を落とさないでよ?」
「なんだ? 遂にパチュリーが引篭もりじゃなくなったとかか?」
それは気を落とす事なのか……。
「うーん……当たらずとも遠からずってとこかな」
「ん? パチュリーの事なのか?」
「いやいや、紅魔館の話ってとこだけは正解だ」
「ふーん……それで、一体なんだっていうだ?」
そこでまたしても言い留まる妖夢に向かって、魔理沙の箒が弧を描いた。
「……なんか手癖が悪くなってない?」
「お前よりは断然マシだ。いいからもったいぶらずに言えばいいんだよ」
「わかったよ……でも、気を落とさないでよ?」
「またループさせるつもりか……」
妖夢が握りこんだ拳を口の前に当てて咳払いを一つ。
再び面を上げたその目は更に鋭く、この話が嘘や冗談ではないという事を物語っていた。
それを見て魔理沙は思わずごくりと喉をならしたところで、妖夢の小さな口が言葉を紡ぎだす。
「一月ほど前の事らしいんだけど……」
十六夜咲夜が──死んだらしい
月ノ涙~野路菊~ 完
※今回の話は第一話「紅花」より五十年ほど後のお話。
※作中、一度だけ出てくる「萃香」については第一話「紅花」を参照とのこと。
思い返せば、浮かんでくるのは笑顔ばかり。
辛い事もあった。悲しい事もあった。
でも、最後にはいつも笑っていた。
ここに来てから過ごした日々は本当に充実していた。
なによりも、最後までこうしてあの人と共に在れた。
その事だけで、私にはもう悔いも何もない。
逆に、こんなに幸せなままに幕を引いてしまっていいのだろうかと、申し訳なく思ってしまう。
∽
「様子はどうだ?」
「変化なし。だから無駄だと言っているだろう?」
開口一番に言われたのは、そんな言葉だった。
雑木林の中にぽつんと広がる草原で、霧雨魔理沙は長年苦楽を共にしてきた愛用の箒を片手で担ぐように、とんとんと肩を叩いていた。
「おいおい、あれから何年経ったと思っているんだ? いい加減外に出ないと体に悪いぜ?」
魔理沙は自分の前に立つ人物を真っ直ぐに見ていた。
歳を経てなおその瞳には一寸の曇りもなく、今も光に満ちて輝いていた。
「私だってそう思ってはいるさ。だが……今の紫様には、私たちの声など届いていないんだよ」
ふっと振り返り、目を細めて先に小さく見える家を見ているその顔は、どこか寂しそうに、しかし全てを諦めた瞳だった。
魔理沙はその様子を見て、はあぁぁぁ、と盛大に息を吐くと、なんの躊躇いもなく持っていた箒をそのまま前へと振り下ろした。
「いたっ! なにをするんだ、いきなり」
「自慢の式神様がそんなのでどうするんだよ。八雲藍は名前だけか?」
片手で頭を擦っていた藍だったが、魔理沙の言葉にその手を止めて顔を俯かせた。
もちろん魔理沙は知っている。
彼女がこれまでにどれだけの苦労を積み重ねてきたのかを。
黄金色に輝いていた髪や尾も今はその輝きも鈍り、どれだけ繕っても繕いきれないでいた。
そしていつからか、藍は先ほどのような目をするようになった。
今の彼女に、昔弾幕を交えた時のような力はもうない。
もちろん彼女は九尾の妖狐であり、その力は全ての妖怪の中でも上位に入るであろうという事は今も変わらない。
だが、彼女は変わってしまった。
「今の私は……ただの妖怪狐さ」
八雲藍は八雲紫の式神だった。
元々あった藍という肉体の上に紫が式を憑ける事によって、その力を高められていた者。
紫が全く人前に──藍と橙の前にすら──姿を現さなくなってから既に半世紀が経とうとしている。
いつしか藍に憑いていた式神も落ち、彼女の言うとおりただの化け狐に戻っていた。
「それでも、お前はまだここにいるんだろ?」
「それは……」
「お前がそんな顔ばっかりしてると、あの猫が五月蝿いんだよ」
「橙が?」
「どうやったらお前が元気になってくれるかー、なんてあちこちに聞きまわってるらしいぜ?」
それを聞いた藍が更に顔を俯かせる。
「昔のようにとは言わないさ。だけど、もう一度……もう少しだけ、頑張ってみないか?」
「……私はもう疲れ──あいたっ!?」
再び箒で頭を叩かれ、藍は少し目を潤ませて両手で頭を擦った。
魔理沙は振り下ろした箒を再び肩に担ぎ、そのまま逆の手でびしっと藍を指差すと、曇りない瞳を真っ直ぐに向けてにっと笑った。
「見てな。スキマだかなんだか知らないが、そんなものは私が取っ払ってやるよ。必ずな!」
∽
不思議なものだ。
聳えるように高く伸びる入道雲の白の中に向かって小さくなっていく黒い点を見送りながら、ふと懐かしい感覚に捕らわれた。
昔からそうだった。
魔理沙が笑うと、大抵の事はどうにかなってしまうのではないかと、そんな事を思ってしまうほどに彼女の笑みには不思議な力があった。
どんな窮地に追い込まれても、彼女はいつも笑っていた。
そして、その悉くを覆してきた。
幾度となく目の前にしてきたそんな場面。魔理沙の力は十分すぎるほどによく解っている。
だが、だからこそ──。
「お前の力じゃ、紫様のスキマは解けないんだよ……」
およそ五十年前に、その身をもって知る事となった主の絶対的な力。
もしあの時の事がなければ、藍もまた彼女のように頑張れたのかもしれない。希望をもてたのかもしれない。
しかし、全ては“もし”の話。
そもそもあの事件がなければ、紫が姿を晦ますような事はなかっただろう。
そして紫のスキマを解く、その鍵を握っていたであろう萃香も既にこの世にはいない。
今の博麗も先代、先々代の時ほどの力はないと聞いている。
『もう少しだけ、頑張ってみないか?』
「今の私に……何ができるというのだ」
魔理沙を見送った空に背を向けて歩いていくその後姿は、知る人が見てもそれが八雲藍だと誰が気付けただろうか。
いくら背筋を伸ばして姿勢良く歩いていても、垂れた尻尾と落とした肩はその落ち込み具合を隠し切れずにいた。
『それでも、お前はまだここにいるんだろ?』
「……どうして私はまだここにいるんだろうな」
足取りも重く、ようやく辿り着いた戸に手をかける。
「藍……」
「──! 紫様っ!?」
俯かせていた顔をばっと右に向けると、ちょうど家の角に消えていく流れる金髪が見えた。
「紫様っ!」
駆け出そうとしたところで、勢いあまって足が縺れて転ぶ。
それでも立ち上がる間さえ惜しいと、ろくに体勢も立て直さずにわたわたと駆けていく。
そうして角を曲がった先には──光があった。
縁側から広がる青い芝生が風に揺られて波打っている。
その中心、初夏の太陽が照らすその場所には、もう何年もの間待ち焦がれていた彼女の姿があった。
「藍……永い間家を空けてしまってごめんなさいね」
「いえ……いえ、そんな事は……っ!」
滲む。視界が滲む。
ようやく彼女が帰ってきたというのに、その姿が滲んでぼやける。
諦めてなんていなかった。
本当はずっと帰ってきてほしかった。
また三人で一緒に──!
先の解れた袖で乱暴に目を擦る。
泣くのにはまだ少しだけ早い。
彼女の元に、彼女の元に──。
「紫さ──……ま……?」
溢れ出た涙を拭って、もう一度目の前に立つ彼女を見やる……が、そこには誰もいなかった。
庭は荒れ、手入れの施されていない草木はその枝葉を好きに伸ばしている。
初夏の風が背を伸ばした草を撫で、さわさわと擦れ合う音が響いていた。
確かに見たはずの彼女の姿はその痕跡すら見つけ出せず、ただただ無情にも過ぎていった時間の傷痕だけが、その場にはあった。
焦点の定まらない虚ろな瞳で呆然とその光景を見る藍は息をする事も忘れ、すとんと膝を付いた。
「紫……様……」
へたり込むように腰を落とし、両手をついて項垂れる藍の肩が震える。
伸びた草はそんな藍の頬を撫で、この時だけはその顔を優しく隠してくれていた。
「諦められる訳が……ないじゃないか」
どうして諦める事ができようか。
どうして離れる事ができようか。
捨てるにはここは暖かすぎて。
忘れるには彼女は大きすぎた。
広がる空は青く、蒼く。
流れる雲だけが、あの頃から何も変わらず。
八雲藍は、その時紫が消えてから初めて泣いた。
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「さて、ああは言ったものの」
遥か上空を、箒に乗って滑るように飛びながら考える。
正直、あの紫のスキマをどうこうできるなどと思ってはいない。
だがしかし、どうこうできないとも思っていない。
思い返せば、霊夢だって瞬間移動みないな事をやっていたじゃないか。
霊夢にできるという事は、少なくとも人間にだってそれくらいの事はできるという事。
空間移動ができるなら、それを応用すれば空間の狭間をこじ開ける事だってできるだろう。きっとできる。
できないなんて事は考えない。
なぜか? だって、諦めたらそこで試合は終わりなんだぜ?
そうと決まればやる事はただ一つ。
「紅い館に針路変更──っと」
まったく、世話のかかる奴らだぜ。
そうぼやきながらも、その顔はどこか楽しそうでもあった──。
∽
だから、この幸せをあの人にも残すために、最後に一つ、私は罪を犯そう。
きっとあの人は傷ついてしまう。
傷ついて、傷ついて、壊れてしまうかもしれない。
でも、それは仕方のない事。
傷はいつか癒えるものだと信じている。
永い永い時間の中でいつか元通りになって、私の残したものに気付いてくれる。そう信じている。
だから、私は罪を犯そう。
どれだけの時間が必要になるかは解らないけれど、いつかのその日その時にまた彼女が笑ってくれるように。
大丈夫。ほんの少しのさよならですよ、お嬢様……。
──そして再び時は動き出す。
「─────────────!!!」
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「ここがこうなって……となると、この回路をこっちに展開すれば……いやいや、それだと最初の部分が」
薄く広がる闇の中、ランタンの火が部屋の一角にある机に向かう魔理沙の背を照らしていた。
ランタンの火とは別に、時折机の上で小さな魔法陣が輝いてはその顔を蒼く輝かせている。
淡く輝き、すぐ消えて。
また淡く輝き、またすぐ消えて。
あれからまた季節は巡り、秋が過ぎ、冬が過ぎ、春が来て、訪れた夏も盛りを過ぎ、吹く風は少しずつ冷たさを含んでいっていた。
「こんなものか。さて、何か実験に使えそうなものは、と」
今回はそれなりに自信があった。
この一年、術式を組み上げては実験、失敗の流れを何度やった事だろう。
初めて試した時は魔法陣に触れた途端に突っ込もうとした木の枝が燃えた。
二回目は燃える事はなかったが、出口から出てきた木の枝が溶けていた。
三回目は成功したかに見えたが、突っ込んだ箸がどこからも出てこなかった。
翌日、それは何故か別の部屋で見つかった。
四回目は潜り抜ける途中で魔法陣が消えて、ペーパーナイフが真っ二つになった。
自分の体で実験していなくて本当によかったと思う。
その後も同じような失敗を、それこそ数え切れないほどに繰り返してきたが、それらを踏まえ、ようやく自信のもてる術式を組み上げる事が出来たのだ。
これで何度目になるだろうか。小さな魔法陣を浮かび上がらせて、深呼吸をひとつ。
手近にあったペンを手に取り、右手で摘むように先を持って目の前に蒼く輝く紋様へと近づけていく。
安定性を欠いて僅かに震えるペン先が魔法陣に触れたかどうかというところで、弾かれるように一度手を引いた。
暫くそのまま魔法陣の様子を見るが、特に変わったところはない。
それを確認すると、今度はもう一度、ゆっくりと近づけていく。
再び魔法陣の手前で手が止まる。深く息を吸って……吐いて。
決意も新たに、そのペン先が浮かび上がる紋様に触れると、魔法陣全体の輝きが増し、零れた光が粒となって小さく弾けた。
「んっ……」
ずず……と、飲み込まれるようにペンが魔法陣の中へと消えていく。
と同時に、肩幅ほどに離れた左側に同じ紋様の魔法陣が浮かび上がった。
そしてその中心部からは、魔理沙が右側の魔法陣に通したペンが先を覗かせていた。
それは二つの魔法陣の間に存在している空間を確かに飛び越えていた。
「ここで気を抜いたらまた真っ二つだぜ……」
左側から出てきたペンの先を左手で同じく摘むように持ち、右から左へ、慎重に、慎重に、ゆっくりと、ゆっくりと、魔法陣の中を通していく。
魔法陣から溢れる光で明るく照らされた机の上に、額から流れて頬を伝っていった汗が落ちる。
それでも一切の集中を切らせる事なく、ペンを持つ両手と魔法陣を形成するための魔力の開放は怠らない。
半分以上が左側から出てきたところで右手を離し、ゆっくりと抜き取るように左手を引いていく。
「もう少し、もう少し……ここまできて失敗なんてしてくれるなよ?」
やがてペンは完全に右側の魔法陣の中へと消え、左側からその全貌を現した。
それでも魔理沙はまだ気を緩めずに、ゆっくりとペンを引いていく。
そうしてペンが魔法陣から離れたのを確認したところでぴたりと動きを止めた。
「成功……だよな?」
自問自答。しかしその答えは左手に持つペンが教えてくれた。
それを見るや否や、魔理沙は両手を広げてびたーん、と机の上に突っ伏した。
二つの魔法陣は光の粒となって霧散し、広げられていた本がばさばさと床に落ち、散乱していたメモ用紙の束が宙を舞った。
本が落ちた衝撃ですっかり溜まっていた埃が舞い上がり、ごほごほと咽返る。
暫くするとそれらも大人しく、宙を舞っていたメモ用紙の最後の一枚が再び机の上に帰ってくると、部屋の中は物音一つなく。
ただランタンの火だけが時折ジジジ、と燃えて部屋の中を照らしていた。
「……疲れた」
とりあえず空間上に点と点を作り出す事はできた。
最終的にはその間に線を引き、更にその線を広げて面にしなければいけないのだろうが……。
「この調子だと後何年かかるんだ?」
今やっている事が本当に合っているのか、正解なのかは相変わらず解らない。
それでもきっと何かが解るはずだとやってきたが、ここまで苦戦を強いられるとは思ってもいなかった。
しかし、正解を知る紫は行方不明。
そもそも紫を探す為にこんな事をしているのだから当然といえば当然である。
その紫の一番側にいたであろう藍にしても、スキマの事は解らないという始末。
パチュリーやアリスと協力すればもう少し捗るのだろうが、元来の性格が災いしてか言うに言えない状況にあった。
それ以上に、今回の事ばかりは自分でどうにかしなければならないと思っている所為もあるのだろう。
「霊夢……お前はどうやっていたんだ?」
机の突っ伏したまま、今となっては懐かしいかつての友の名を呟く。
余程緊張していたのか、想像以上に力を使っていたのか、魔理沙はそのまま緩いまどろみの中へと誘われていった。
∽
『なんだ、またサボってるのか?』
『五月蝿いわね。サボってるんじゃなくて休憩中なのよ』
『一日中休憩してれば、それは立派なサボリだぜ』
『いいじゃない。別に誰が来る訳でもなしに……ねぇ魔理沙』
『私が来てるぜ──っと、なんだ?』
『私がいなくなったら……幻想郷はどうなるのかしらね』
『? お前らしくもない質問だな?』
『ちょっと……なんとなくね』
『別に変わらないだろ。博麗だって今まで続いてきたんだろ? ならこれからも続いていくんじゃないのか?』
『次ね……考えた事もないわね、そういえば』
『それにあれだ。紫とかもいるじゃないか。あいつだってなんだかんだ言って似たようなものだろ』
『紫じゃあねぇ……』
『なら私が見といてやろう──いや冗談だが』
『あー、でもあんたなら二百年くらい生きてそうよね』
『おいおい、私は人間だぜ?』
∽
「ふむ、間に物理的な弊害があっても問題は無し、か」
あれから一月程、魔理沙の実験は休む事なく続いていた。
実験自体が失敗する事もほとんどなくなり、細い棒のような物しか通せなかった魔法陣も少しずつ改良を加え、もう少し大きな物でも通せるようになっていた。
入り口から出口への距離も徐々に広げ、両手を広げたくらいの距離までなら物を“跳ばせる”事が出来た。
それでもまだ自分の体を通すには魔法陣は小さく、些か頼りない。
「まだまだ効率化が必要か……」
家の外、外壁から生えるように突出している箒の柄を持ち、一気に引き抜いた。
そのまま箒を肩に担ぎ、考え込むようにとんとんと肩を叩く。
片手を腰に当て、暫くそのまま佇む。
この点と点の間を切り開くにはどうすればいいか。
やはり自分が実際に通ってみるしかないだろう。
「先は長いぜ」
「なんだ、貴方はまだ生きていたのね」
心臓がどくんと跳ねた。
後ろを取られた? 気付けなかった? 油断? そんなはずはない……。なら何故?
自分の中を駆け巡っては消えていく様々な考えを押し殺し、平然を装ってゆっくりと振り向く。
と、そこには──。
「……なんだ、妖夢か。一瞬誰か解らなかったぜ」
「久しぶりにこっちに出てこれたから、色々見て回るついでに寄ってみたんだけど……」
背中に一刀、腰に一刀携えたその少女。
服も背丈もほとんど昔から変わらず、しかしそれを彼女だと認識するのが遅れたのは肩の下まで伸びた銀の髪の所為だろうか。
魔理沙の視線に気付いたのか、妖夢が右手の人差し指にくるりと髪を巻いた。
「これは……幽々子様がたまには伸ばしてみたら……って」
「へぇ、なかなか“おんなのこ”してるじゃないか」
「なっ──!」
妖夢の顔が赤くなる。
そのまま怒るかと思ったが、だから私は短い方が……とか、剣士たるもの……などと呟いた後、再び魔理沙の視線に気付いてわざとらしく咳払いをした。
「なんにしても、元気そうでなによりね。その分だと今でもあちこち飛び回っていたりするの?」
「んー? あー、そういえば最近外に出た覚えがないな」
「また一週間も篭ってたりしたのか?」
「いや……あれ? 前に外に出たのはいつだ?」
記憶の中に埋もれた情報をどうにか引っ張り出そうと、顎に手を当てて考える。
「確か……あまりの暑さに部屋で茹で上がっていたな」
「夏から出てないのか!」
「いや、あまりの寒さに凍えていた記憶もある」
「半年くらい……なのか?」
「あぁ、最近涼しくなってきた、なんて言って空を飛んでいた記憶はある。多分そこからだな」
「ほとんど一年じゃないか……」
導き出された真相にからからと笑う魔理沙とは対照的に、妖夢はがっくりと肩を落としていた。
なんでこんなに疲れなければいけないんだと思いながらも、項垂れていた顔を上げて魔理沙を見る。
見た目こそ老いてはしまったものの、その内に輝く魂の光は昔から何も変わっていない。
どこからそんな活力が生み出されるのか、生涯現役とは正に彼女の為にある言葉なのではないかと思ってしまう。
「でも、それだと外で起きた事とか何も知らないんじゃないの?」
「いや、少しくらいなら解るぜ。どっかの天狗が勝手に新聞置いていくからな」
どれもこれも音速の遅い話題ばっかりだけどな、と魔理沙が笑う。
「しかし、遅いにも程があるぜ。どれもこれも過ぎた季節の事ばかりだ」
「じゃあ、あの話はまだ知らないのか?」
「なんの話だ?」
「いや、私もついさっき初めて知った事なんだけど……」
はたして言ってもいい事なのか、と躊躇いを見せる妖夢に、業を煮やした魔理沙が持っていた箒を迷うことなく振り下ろした。
それは見事な弧を描き、狙い定めた先はただ一点。この半世紀の間にすっかり手馴れてしまった芸術的な一振りであった。
「あいたっ!?」
「言いかけた事は最期まで言え、って言われなかったか?」
「わかったよ……でも、気を落とさないでよ?」
「なんだ? 遂にパチュリーが引篭もりじゃなくなったとかか?」
それは気を落とす事なのか……。
「うーん……当たらずとも遠からずってとこかな」
「ん? パチュリーの事なのか?」
「いやいや、紅魔館の話ってとこだけは正解だ」
「ふーん……それで、一体なんだっていうだ?」
そこでまたしても言い留まる妖夢に向かって、魔理沙の箒が弧を描いた。
「……なんか手癖が悪くなってない?」
「お前よりは断然マシだ。いいからもったいぶらずに言えばいいんだよ」
「わかったよ……でも、気を落とさないでよ?」
「またループさせるつもりか……」
妖夢が握りこんだ拳を口の前に当てて咳払いを一つ。
再び面を上げたその目は更に鋭く、この話が嘘や冗談ではないという事を物語っていた。
それを見て魔理沙は思わずごくりと喉をならしたところで、妖夢の小さな口が言葉を紡ぎだす。
「一月ほど前の事らしいんだけど……」
十六夜咲夜が──死んだらしい
月ノ涙~野路菊~ 完
今はただ続きを待つのみ。