※この話は作品集23に収録された「こあくま きたん」とクロスオーバーした作品となっております。
どちらから読んでも問題ありませんが、両方読んで頂けるとより一層楽しめる……はず?
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――例えるならば、それは何らかの拍子に結末を先に知ってしまった本のようなもので、
全てを読み終えたときに浮かんでしまうちょっとした疑問。
「もし私があの結末を知らなかったのなら、今の私よりも幾倍清新な気持ちになったのだろうか?」
どんなに忘れようと努めても、本を読み進めて行くうちに結末を思い出してしまうように、
知らなかった頃の自分に戻ることなんて出来はしない。
思いを馳せるのは、その本の結末を知らずに最後まで読破できた別の世界の『私』
――収束してしまえば、それは無知への憧憬、不自由への羨望で、
単に有力なる私に対する私からの当て付けなのであった……。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「おーい、小悪魔?」
突然背後から聞こえてきた声に手に、私は思わず抱えていた本を取り落としそうになる。
知らず知らずのうちに思考が余所に飛んでいったようで、慌てて来客の方に向き直った。
「はっ、はい! なんでしょうか藍さん?」
「紫様に頼まれて本の返却に来たのだが……。」
藍さんは私を驚かせてしまったことを申し訳なく思っているのか、語尾を濁すように答える。
「ええ、確かに承りました。」
私は笑みを浮べて藍さんの手元にある三冊の週刊誌へと手を伸ばし…………
「………………………」
「……………………………」
「…………………………………藍さん?」
「ああっと、スマンスマン。」
今度は私の呼びかけで藍さんはがっしりと掴んでいた本を慌てて手放した。
「どうしたんです? 私の顔に何かついてますか?」
私の顔を覗き込んでいた藍さんに私はおずおずと問いかける。
もしかしたら私の口元に涎の跡でも残っていたのだろうか?
あのとき意識が飛んでいたのは思索でもなんでもなく、居眠りだったとしたら十分に考えられる可能性だ。
「いいや、そういうわけじゃない。寧ろ何もついてなかったというべきかな?」
横を向いて口元を押さえる私に藍さんの苦笑いの混じった声が投げかけられた。
「まあ深い意味はない、私事だよ。」
そういって藍さんは適当に本棚の本を物色し始めている。
私は不思議に思いながらも、そういうことならばと受け取った本を抱えてカウンターの方へと足を向けていた。
◆ ◆ ◆
返却手続きのためにカウンターを訪れると、そこには見知った人物が談笑していた。
「妖夢さんに小町さんもご返却ですか?」
御二人の手元にある本を確認してそう声をかけると、彼女達は一瞬驚いたように身構える。
「……ええ、幽々子様に頼まれましたので。」
「……あたいも四季様からね。」
「そうですか……。」
どことなく硬い口調の御二人に、私はそんなに驚かせるようなことを言ったのかと内心では首を傾げていた。
妖夢さんと小町さんの間にあるパーソナルスペースに比べると、私と御二人との間合いは優に倍以上広がっている。
双方が手を真っ直ぐに伸ばして漸く握手できるような距離。
微妙に漂う緊張感の中で私の伸ばした手の上に本が載せられていった。
「ご利用ありがとうございました。」
好意的な笑みで返してみるものの、やはり御二人の態度は余所余所しいまま変わらない。
「……あの、今日の私はどこかおかしいところがあるのでしょうか?」
普段とは違う、刺さるような視線に堪え切れなくなって私は思い切って問いかける。
藍さんの言葉を疑うわけではないのだけれど、自然と手に持った本で口元を隠してしまう私。
対して御二人は雷撃にでも当たったかのように身をビクッと竦ませた。
「いっ、いいえ、そういうわけじゃないんですよ! あっ、そうそう幽々子様から言伝を預かってきたんです。」
「そっ、そうそう! あたいも四季様から承ってきたんだった。」
確かに思い切った質問だとは自覚していたけれど、私の予想を大きく上回って御二人はあたふたと答える。
「?」
不審とまではいかないまでも、こうも立て続けだと流石に怪訝には思えてくるのは仕方がない。
私の表情にもそれが表れていたのか、彼女達はあたふたと笑みを浮べて矢継ぎ早に言葉を重ねていく。
「今度図書館を訪れるときは菓子折を持参してくるとのことですよ。」
大仰な身振り手振りを交えながら妖夢さんは幽々子さんからのメッセージを話してくれた。
「まあ、いつもありがとうございます。」
しかし、私のこの何気ない一言で先程まで慌しかった妖夢さんの動きが完全に停止する。
それまでの遠巻きから観察するような態度でも、何かを取り繕うような態度でもなく、はっきりと窺えるのは『驚愕』という二文字だった。
「いつも……ですか?」
喉仏から擦り出したような声色で妖夢さんは聞き返す。
「ええ、幽々子さんのお持ちになる和菓子は絶品ですからね。洋館暮らしの私たちにも評判良いですよ。私ももう少しグリーンティーの淹れ方を勉強しないといけませんね。」
別段、幽々子さんが秘密にしているような事柄とは思わなかったので、私は素直に感想を述べた。
妖夢さんが知らないことは意外だったけれど、幽々子さんが妖夢さんにわざわざ報告するような話でもないと思う。
「そうですか……。」
それにも拘らず、妖夢さんの私に向ける視線が更に奇異の色が濃くなったように感じたのは何故なのだろうか?
「あたいの方も良いかな?」
妖夢さんの肩を労うようにポンポンと叩きながら、今度は小町さんが口を開いた。
私は笑顔で続きを促すようにゆっくりと頷く。
「四季様からの言伝は『今度暇ができたら、一緒に杯を酌み交わしながら昔のお話をしましょう。』だそうだよ。」
「そうですね、私も映姫さんも師走になると手が離せなくなるでしょうから、新しい年を迎えたら今度は私の方からお邪魔させていただくとお伝え下さい。」
旧友からの誘いに自然と顔が綻びながら私はこう告げた。
「今度ってことは、前からこういうことはあったのかい?」
「ええ、まあ。映姫さんは公私共にお忙しい方ですから数回といったところですけれど……。」
口調こそは軽いものの、私と小町さんとの距離は相変わらずだ。
その間の取り方を小町さんも意識しているのだろう、スウッと目を細めて私を見据えた。
「四季様とあんたとの関係は何なんだい? 単なる図書館利用者と司書なんて関係とは思えないね。」
彼女が元来回りくどいことが合わない性分だということは知っていた。
ひどく真っ直ぐで、裏表のないからりとした性格。
好ましくもあり、羨ましくもあるけれど、それを向けられている私にはチクリと痛むものがあった。
胸がチクリと痛む理由は簡単――
「古くからの知り合いなんですよ。お互い幻想郷に赴任してくる以前からの知り合い……すみません、これ以上はお話しすることはできません。」
――そう、私はその問いに答えることができないから。
私は頭を下げて強引に話題を打ち切る。
小町さんは不満そうな表情で、何かを口にしようと言葉を探しているようだった。
当然私の方から口を挟むわけにもいかず、沈黙は時間を経るごとに重みを増していく。
「おっ、小町に妖夢、お前達もここに来ていたのか。」
その空気を払拭するように暢気な口調で藍さんが遠くから声を聞こえてきた。
小町さんも毒気が抜かれたのか、軽く一息ついたあと鎌を担ぎ直して藍さんの方を向く。
「そういう藍もかい?」
「まあね、目的もおそらく一緒だろう。」
含みのあるニヒルな笑みを口元から吊り上げて藍さんは答えた。
藍さんの言葉通り、確かに皆さんはお使いでこの図書館を訪れている。
そのこと自体にどういう意味があるのか分からないけれど、小町さんと妖夢さんは何故か表情を輝かせて藍さんのところに集まっていった。
「私たちはもう少し図書館をぶらぶらしているが小悪魔は気にせず仕事に戻っていてくれ。なにやら忙しいみたいじゃないか。」
「ええ、今日は新刊入荷日なんですよ。それで多少は慌しくなってるかもしれませんね。」
「ならば尚更だ。ここは私に任せてもらっても構わないよ、少し3人で話をしたら出て行くから。」
藍さんは泰然とした笑みを浮べて私に提案する。
折角の親切を無碍にするのも憚られるし、御三方の話に私が立ち会うのも野暮というものだろう。
「……それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきますね。」
私は一人ひとりに丁重に礼をした後、先程まで本の整理をしていた棚へと踵を返した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「貴方はもう少し積極性を持つこと。これが今の貴方が積める善行よ。」
小町さんのことで改めて思い出し訳ではないけれど、映姫さんは私に会うたびに必ず一度はその言葉を口にする。
例えそれが先週の貸出カウンター越しの邂逅であっても、千古の殿として天使を食い止めていた戦場の真っ只中であっても……。
「今の私には何の力もありませんよ?」
冗談まじりでそう返したこともあったが、映姫さんは首を横に振っていた。
「有力、無力の問題ではありません。貴方が積極的に行動することで大なり小なり誰かが救われる。貴方は悪魔ですが、それが貴方の本質なのですよ。」
――だから、貴方はもう少し積極性を持つこと。これが今の貴方が積める善行よ。
冬湖のような群青の瞳で真っ直ぐに私を見つめて、彼女は言う。
その綺麗な瞳から先に目を逸らすのは決まって私なのだった。
別に心を見透かされるのが怖いわけではない。
……ただ、水面のような瞳に映る自分の姿から私は目を背けていた。
私は映姫さんほど自分の力に対してきちんと向き合ってはいない。
また紫さんほどしなやかに受け流せてもいないし、幽々子さんほどきっぱりと割り切ることもできてはいない。
私だけが己が姿に呪いをかけてでも目を覆い隠そうとしている。
小町さんの質問に答えなかったこと……その事実が何よりも雄弁に物語っていた。
あの余所余所しい態度だった御二人だって、私の中途半端さが原因なのだろう。
そう思うと胸がズキリと痛む。
考えれば考えるほど痛みは深く、広く、この身を侵蝕していく。
そうまでして私が守ろうとしているモノ……
図書館の司書として、『小悪魔』として、私がここに在る理由……
下ろし立ての本の背表紙を補強しながら、私はぼんやりと考えて巡らせていた。
まだ逆立っている装丁の手触りと、強いインクのにおい。
図書館の持つ独特のにおいにまだ溶け込めないこれらの本は、夏風にのる青草のように清々しい。
――思いを馳せるのは、その本の結末を知らずに最後まで読破できた別の世界の『私』
……ああ、そういえば、あの言葉はここのにおいがきっかけだった。
私が顕現して最初に触れたもの――それは皮革のにおい、布のにおい、草木のにおい、墨のにおい、鉱石のにおい、油脂のにおい……そんなものが混じり合った『本のにおい』
だからこそ、自然と本を用いた例えが連想されたのだろう。
私は作業の手を止めて、館内をずらっと見回す。
あのときと比べて蔵書の数は比較にならないほど増えた。
タイトルは全て把握しているけれど、結末を知らない本も沢山目に付く。
……未来を知りうるというのは、過去と現在において全知でなければならない。
現在と過去の観測なくして未来を計れないように、しがない小悪魔である私には未来のことなど判りはしない。
現在、過去、未来を知りうる悪魔の大公爵グレモリーにとって、私のような脆弱な存在はそれこそ『当て付け』なのだった……。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「小悪魔さん。ちょっといいですか?」
新刊の整理もひと段落し休憩がてらにディスプレイの仕方に思いを巡らせていると、不意に声をかけられる。
凛とした馴染みのある声に、私は席を立って同僚へと向き直った。
「ええ、どうしたんですか? 美鈴さん。……もしかして、今は夜の休憩時間だったりします?」
図書館には窓も時計もなく、照明も常に一定なので時間感覚を失うことがある。
今日のような日は作業に没頭して、気が付いたら二つばかり夜を越えていたということも一度ではなかったりする。
「いいえ、まだ日が傾き始めた頃ですよ。それに今回は私用ではなくて取次ぎなんです。」
「取次ぎ……ですか?」
意外な言葉に私は鸚鵡返しをしてしまっていた。
紅魔館の来訪者は同時に闖入者を兼ねている。
なぜなら、お嬢様が他人を招待するといった行為を滅多になさらない方だからである。
最近では闖入者を見逃すことは暗黙の了解にありつつあるけれど、正門を素通りというのも示しがつかないため門番だけはきちんと機能させている。
簡潔に言うと、正規の手続きでこの館に訪れる者そのものが珍しいのであった。
「小悪魔さんにどうしても伝えなきゃいけないことがあるらしくて……、本来ならお嬢様か咲夜さんの許しもなく通すわけにもいかないんですけどねぇ。」
美鈴さんは頭に手を当てて困ったように笑う。
その腰元でチラチラと蒼い綿毛のようなものが見え隠れしていた。
「まあ、知らない相手じゃないですし、普段もここを訪れているみたいですからね。……それにこんな姿になってまで『小悪魔のお姉ちゃんに話があるの!』と懇願されたら、追い返すのも気が引けるわけですよ。」
そういって美鈴さんは音もなく横に移動する。
自然と蒼い綿毛の正体が相対するように姿を現した。
「チルノちゃん! どうしたの!? こんなに汚れちゃって……。」
私は驚きのあまり口元に手を当てたまま、反射的に問いかける。
チルノちゃんは土埃に塗れた衣服に、ぼさぼさになった髪の毛、よく見ると腕や脚といった至るところに痣や擦り傷を作っていた。
「あたいのことはどうでもいいの! それよりも小悪魔のお姉ちゃんが大変なの!」
「えっ、私がですか?」
上目遣いで縋るように見つめてくるチルノちゃん。
その表情はどこまでも真摯で、この小さい氷精が必死だということは誰の目から見ても明らかだった。
「そうだよ、アイツらが小悪魔のお姉ちゃんを罠にはめようとしてるんだ! ……だから、あたいは何とか縄から抜け出してここまで来たんだ。」
語尾が急に弱々しくなる。
おそらく自分の話を信じてくれるか不安になったのだろう。
私は膝を折り、チルノちゃんの両肩に手を置く。
「詳しく聞かせてくれるかな?」
そうして私は伏し目がちなチルノちゃんを覗き込むようにして微笑んだ。
「うんっ!」
嬉しそうに大きく頷くチルノちゃん。
その言葉をきっかけに表情から瞬く間に輝きを取り戻していた。
「あたいが蓮沼で遊んでいたら、狐と半幽霊と死神の三人が突然やってきて、そこらにいたブン屋と相談事をしていたの。」
「それが私を罠にはめる相談だったというわけですか?」
チルノちゃんと同じ目線で、私はゆっくりと優しい口調で続きを促す。
「そうなんだ! 小悪魔のお姉ちゃんのリアクション…? を見るとか、実力を見きわめるとか、なんかそんなことを言っていたよ!」
「なるほど……。」
確かにあのときの御三方の様子を考えると無理らしからぬ行動かもしれない。
私如き者の正体を知ったところで、何の意味もありはしないというのに……。
そう思っているくせに、私は自分の正体を明かさなかった。
だからこれは間違いなく私が蒔いた種……。
「お姉ちゃん?」
その声にハッとして、チルノちゃんの方に意識を集中する。
しかし最早手遅れで、一瞬とはいえ私の表情から柔和さが消えたことをこの娘は敏感に察知してしまっていた。
見る見るうちに表情が曇っていき、いつ雨が降り出してもおかしくない状態になっている。
「チ、チルノちゃんはあのお姉ちゃんたちがどこに罠を仕掛けようとしているかわかる?」
気を逸らそうと慌てて口にした言葉は、皮肉にも止めを刺す結果になってしまった……。
「あ、あたいは…その、すぐに気絶させられちゃったから…わか、わからなくて…」
驚いたように大きく見開かれた瞳からは、すぐさま止め処なく涙が零れ落ちていく。
肩に置いた手を通して、チルノちゃんの体が強張っていくのを感じた。
「そう、だよね…、それだけじゃ、意味ない…もんね……。あは、あははは…あたいバカだから。……ごめんなさい」
握り締められた拳、震える肩、前髪で隠れても滴っていく涙……。
泥だらけの衣服に、ぼさぼさの髪、生傷だらけの身体……。
「ごめん…ごめんなさい、役に…立てな…くて………」
掠れていく声は徐々に嗚咽へと転じていく……。
――それは、一言で括ってしまうのなら『衝動』だったと思う。
動機も理由も投げ出して、刹那のいらっとした感情に任せて私は自分の奥歯を噛み鳴らす。
「大丈夫だから! 本当に…本当にありがとうね。」
そして私はこの愛らしい氷精を抱きしめて囁いていた。
「……お姉ちゃん? ……あたい冷たいから、風邪ひいちゃうよ?」
私の腕の中でもがきながら、チルノちゃんはそんなことを口にする。
戸惑いと躊躇いを含んだ声色は私を気遣ったものなのだろう。
確かに氷精であるチルノちゃんの体温は低く、『温もり』とは違う感覚が身体全体を通して流れ込んできていた。
……でも、私は一層抱きしめる腕に力を込める。
「大丈夫、チルノちゃんは誰よりもあたたかいよ。もっとも、私の体温が暑苦しいのなら離れるけど……。」
「ううん、大丈夫……。」
チルノちゃんも観念したのか、私の背中に手を回してくれた。
私は微笑んでこの娘の髪と背中を優しく撫でる。
「……ありがとうね。」
口の中だけでそっと呟きながら、身体の緊張がとけるまで私はこの優しい氷精さんの『ぬくもり』を肌で感じていた。
◆ ◆ ◆
「それじゃあ、何かお菓子と温かい飲み物を持ってくるから、そこの椅子で待っていてね。……あっ、チルノちゃんは冷たい飲み物がいいんだもんね。」
私は立ち上がって、再びチルノちゃんの頭に軽く手を置いて微笑む。
「あたいはお姉ちゃんが淹れてくれるなら熱い物でも我慢するよ。」
「そんな無理しなくてもいいから……。美鈴さんも一緒に待っていて下さい。」
「あっ、お構いなく。」
すっかり和んでいる美鈴さんの声に背を押されながら、私は給湯室の方へと進んでいく。
……ひとりになると自然と自分の置かれた状況というものに考えを巡らせてしまう。
御三方に文さんが私の正体を探るために罠を仕掛けている。
罠といっても伏兵か奇襲といったところだとは思う。
仕える者がいる御三方にとって時間はそうそう自由に使えるものではないはずだから、朝日が昇るまでが刻限といったところだろう。
場所は特定できないけれど、罠というくらいだから私の外出を狙っていることは明らかだった。
しかし、それは同時に私が外出さえしなければやり過ごせるということでもある。
私は――改めて普段通り外出することを決意する。
自分で蒔いた種を放置したところで、疑念の種は芽吹くばかりで良いことなんてひとつもない。
素直に正体を明かすか、多少の怪我を覚悟で小悪魔を演じ続けるか、その結末については未だ決めかねている。
ただ、私にとって『逃げる』という選択肢を放棄したことが最も重要なことだった。
……ねえ、映姫さん。今の私は少しは積極的かな?
常に私を気遣ってくれる知己に心の中で問いかける。
彼女のことだ、口元に微笑みを浮かべて「まだまだ、日々の積み重ねが大切なのです。」とでもいうのだろう。
……チルノちゃん、ありがとう。
身体を傷だらけにしてでも、私のためにやってきた少女に心から礼を述べる。
この選択肢を私に与えてくれたのは、間違いなくこの娘だったのだから……。
◆ ◆ ◆
「お待たせしました……って、あらあら。」
湯気立つティーカップふたつと、グラスに入ったジュースを持って戻ってくると、チルノちゃんは椅子に腰掛けたまま眠っていた。
私は美鈴さんの元にカップを置くと、カウンターの奥から毛布を持ってきてチルノちゃんにそっとかけてあげる。
「流石に疲れていたんでしょうね。椅子に腰を下ろした途端、糸が切れたように眠りこけてしまいましたよ。」
「そうですか……。」
愛くるしい寝顔を見せている氷精さんの髪を何度か手で軽く梳いた。
一度梳くごとに小さく声を洩らすところが、なんとも微笑ましい。
しばらくそんなことをしていると、不意に美鈴さんが独り言のように呟いた。
「私もあの三人に訊かれたんですよ。小悪魔さんの正体について。」
「そうなんですか?」
私は振り返って美鈴さんの方を注視する。
美鈴さんはカップをソーサーの上に置いて頷いた。
「そりゃあ、気にならないといえば嘘になります。」
はっきりと断言して美鈴さんは真っ直ぐに私のほうを見つめる。
お茶を飲んでいたときの柔らかい表情から一転、長年紅魔館の外敵を排除してきた警備隊長のとしてのものへと変化していた。
敵か、味方か、これ以上にないくらい簡潔で容赦のない視線。
私は呼吸をすることも忘れ、美鈴さんと相対した。
「……………………………」
「……………………………」
一瞬とも無限ともつかない時間。
……先に表情を崩したのは美鈴さんの方だった。
美鈴さんは再びカップを手に取る。
カップからはまだ湯気が立っており、あれが一瞬の出来事だったということを告げていた。
「でも、先程のやり取りを見て改めて思いましたよ。小悪魔さんが何者であろうと、やっぱり小悪魔さんなんだって。だから……いいんです、そんな瑣末事。」
「美鈴さん……。」
穏やかな表情でそう言うと、美鈴さんはカップの中身を飲み干して立ち上がった。
「私もそろそろ持ち場に戻らないと咲夜さんに叱られてしまいますからね。お茶、ご馳走様でした。」
そのまま颯爽と歩いていく美鈴さん。
あまりの展開の速さに私もどう言葉をかけてよいのかわからない。
焦れば焦るほど言葉が次々と逃げていくなか、美鈴さんは突然止まって振り向いた。
「ああ、そうそう、この娘はどうしますか?」
のんびりとした声がかけられる。
少し離れてしまったので表情ははっきり窺えないけれど、美鈴さんははにかんだような笑みを浮べているように思えた。
「私の寝室まで連れて行きますからご安心下さい。……それと色々とありがとうございました。」
結局言えたのはそんな一言だけ。
だけど、美鈴さんは頭に手を当ててあっけらかんと答えた。
「なぁに同僚のよしみってことでいいじゃないですか。お互いに。」
「ええ、そうですね。」
そのサッパリとした答えに私は笑みを浮べて美鈴さんの後姿を見送ったのだった。
◆ ◆ ◆
チルノちゃんを私の部屋に寝かせて、外出の許可を得るためにパチュリー様の書斎を訪れる。
いつも通りノックを二回。……返事はない。
心の中で十秒数えて、書斎のドアを開け放つ。
真っ先に目に入るのは、正面にある本が山のように平積みにされた机。
その天高く積まれている本の山から、微かに紫色のモノが見え隠れしていた。
「パチュリー様、今から貸出者のお宅を巡回したいのですがよろしいですか?」
普段なら「……ええ。」と頁を捲る音で掻き消えてしまいそうなくらい、か細い返事が聞こえてくる。
「大丈夫なの? あなた狙われているんでしょう?」
……しかし、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「門番から話は聞いていたわ。面倒なことになったわね。」
本の山に隠れてパチュリー様の表情は窺えない。
ただ声だけは普段通り落ち着き払ったものであった。
「ええ、そうですね……。でも、いつかはこうなるって判っていましたから。」
「『判っていた』ね。まあ、あなたならそれくらいのことは知っていたんでしょうね。」
頁を繰る音と共に聞こえてくる淡々とした声。
私は静かに首を横に振る。
「いいえ、予想外なことばかりです。だからこそ、この姿でいる甲斐があるというものです。」
胸に手を当てて、私はきっぱりと答えた。
間断なく聞こえてきた頁を捲る音がピタリと止む。
「それなのにあなたは行くというの?」
先程までと全く変わらない淡々とした声色。
でも、私にはパチュリー様が私を気に掛けて下さっているのが感じられた。
「ええ、だって私は…この小悪魔は図書館の司書ですからね。そんな個人的な事情でお仕事を滞らせるわけに参りません。」
私は微笑みながら、力強く、噛み締めるようにゆっくりと言い放つ。
それは私のことを『小悪魔』と呼んでくれた方々へのせめてものケジメだと私は思っていた。
私の返事に対して、机の奥からは嘆息にも似た小さな溜息が聞こえてくる。
「そう、ならば行ってきなさい。ささやかで有能な私の司書さん。」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
暗々とした森の中を私は足元に注意しながら慎重に歩いていく。
魔法の森は鬱蒼とした樹木に覆われ一日中光が入ってはこないが、流れ込んでくる風は夜の匂いを確かに感じさせていた。
一歩進むごとに枯れ草や小枝の折れる音が驚くほど森の中に響いていく。
そんな中、私はリストの一番上に名前が載っているアリスさんの家を目指していた。
リストは五十音とアルファベット順で構成されており、どちらにせよアリスさんが最上位であることには変わりない。
それにしても、アリスさんが何の連絡もなしに遅滞するのはこれが初めてのことだった。
魔法使いというのは自分の研究に没頭すると大抵のことは忘れてしまう。
アリスさんもその例に漏れないけれど、いつもなら人形に手紙を持たせてその旨を伝えていた。
……人形に本を持たせれば済むのではないのだろうか?
何度となくそう思う。
でも、そんなところがアリスさんらしいといえばアリスさんらしいので私は何も言わないでいた。
――バサッバサッバサッ……
突然の鳥の羽ばたきに私の意識は森の中に再び戻される。
そういえば、魔法の森とはいえ鳥の鳴き声が全くしていない。
夜は鳥が木々に止まる時間。
息遣いすら感じないというのは少々おかしいことであった。
訝しく感じているうちに森の先が徐々に開けてくる。
門柱のように太い二本の樹木を抜けると、天を覆っていた暗幕が一気にあがって星空が顔を出した。
目の前にはアリスさんの家が鎮座しており、窓からは灯りが漏れ出している。
案の定、アリスさんはご在宅のようだ。
カーテンを閉めていないのは研究に夢中でそこまで気が回らなかったのだろう。
そんなことを思って家に近づいていると、不意に窓ガラスが弾け飛ぶ。
「……えっ?」
あまりにも唐突な出来事に頭の中が完全に真っ白になった。
その一瞬の隙を突いて、窓から飛び出してきた影は私の背後に回りこみ力場を形成する。
そして影は何事もなかったように私の正面に対峙した。
「こんばんは、小悪魔さん。」
両刀を構えた影は厳かに告げた。
「こんばんは、妖夢さん。……あの、これはいったいどういうことなのでしょうか?」
私はあのときと全く異なる雰囲気に戸惑いながらも、妖夢さんに問いかける。
「訳は訊かないで頂きたい。ただ、アリスが借りた本を取り返したくば私を倒してからにしてもらいましょうか!」
「はあ……。」
私の想像した罠とは大きくかけ離れた威風堂々とした奇襲に、私は気圧されるように頷いた。
しかしながら、迫力に圧倒されたままでは意味がない。
真っ直ぐと揺らぎすら感じさせない妖夢さんの瞳を見つめて、私はできるだけ普段通りの笑みを浮べる。
「ですけど、私と妖夢さんが争ったところで私に勝ち目なんてありませんよ? 妖夢さんもそのことは承知のはず……」
「ええ、わかっています! それでも、戦わなければならないこともあるんです!」
でも、その一喝に再び気圧されて私は身を竦ませた。
「……これが最後ですよ小悪魔さん。これは私とあなたとの戦いではない。図書館司書としてのあなた自身との戦いです。」
妖夢さんの口調には焦りも苛立ちも微塵も含まれてはいない。
どこまでも静かで抑揚のない無機質な口調。
それはまるで抜き身の刀のように冷たく、私の姿を反映させる。
また誤魔化そうとしている自分に、私はハッとなって表情を引き締めた。
「悟入幻想によって退路を立たれた今、あなたに戦う以外の選択肢は残されていません。さあ、どうしますか!? 小悪魔さん!」
刀の切っ先を私に突きつけて妖夢さんは強く言い放つ。
――私の取り得る選択肢……。
ひとつは素直に正体を明かす。
ふたつは多少の怪我を覚悟で小悪魔を演じ続ける。
それは私がこのことを見越して予め用意していた選択肢。
いつかこの日がきたときのためにと……。
でも、私の予期した日は常に私の予想を裏切ってくれる。
私のために馳せ参じてくれたチルノちゃん。
私は私だといってくれた美鈴さん。
図書館の司書として送り出してくれたパチュリー様。
……だから、私も――私を裏切ろう。
表情を引き締めて私は妖夢さんの方を見据える。
背筋を伸ばし、片手を胸に当てて、できる限り厳かな声で、
「……わかりました。本の管理保管するのが司書の務め。ならば紅魔館の司書として私の本分を全うさせていただきます。」
私ははっきりと、この場にいる全ての者に向かって宣言した。
間髪いれずに私は体中の魔力を総動員して、空間に術式を編みこんでいく。
こちらにきてからも何度かヘルプを喚ぶときに使用した魔法陣。
ただ、今回喚ぶ相手は今までの相手とは力の桁が違う。
「――――我が喚び声に答えよ。汝は空を駆ける獣。誠実なる魔獣。」
六芒星の印を幾重にもなぞりながら、呪文を口にする。
呪文といっても相手の特徴を思いつくまま口に出しているに過ぎない。
正規のものとは違い、簡易召喚というのは往々にしてこういうものなのである。
「――――汝は勇敢な闘士。30の軍団を従える猛者。」
魔界の扉が開き始めたのか、足元からじわりじわりと魔力が溢れ出していた。
頬を撫でるように流れていく風が、魔素を掻き回しては漂わせていく。
幻想郷と魔界の空気が溶け合う感覚に、私はふと既視感を覚えた。
……ああ、そういえば、私が喚び出されたときもこんな空気が漂っていたと思う。
本のにおいで充満した部屋。
私は魔法陣以外に本の山に囲まれるかたちで覚醒した。
目の前には紫色の髪をした魔女。
――私を召喚したのはあなたですか?
空気を介さず思念による一方的な問いかけ。
それにハッとしたように紫色の少女は無言で首を縦に振る。
吹けば消えてしまうくらいの圧倒的な力の差が私と魔女にはあった。
私を従えるほどの力も、相応の力を持った呪具もないことは判っている。
彼女は私を誤って召喚してしまったのだろう。
表情こそは変わらないものの、小刻みに肩が震えていることで悟る。
……さて、どうしたものだろう?
召喚ミスの代償はその命で償わなければならない。
それは召喚という儀式がそれ相応のリスクを背負うというルールを体現したもので、例外は許されない。
殺生は元来好まないが、進んで秩序を乱す気にもなれなかった。
――あなたの願いは何ですか?
試しに問いかけてみる。
これは召喚ミス時の私の常套句で、本当のことをいえば生死の懸かった問いかけだった。
私利私欲や復讐といった願いならば…命を奪う。
悪魔に魂を売ってでも他者のために願うものがあるのなら…叶えてあげる。
もっとも、後者を願った者に出逢ったことは一度もないのだけれど……。
私は魔女の方を注視する。
彼女は震える身体を押さえつけるように、服の裾を強く握り締めて口を開いた。
「願いなんて大層なものじゃないわ。私はこの散らかっている部屋を整理してくれる誰かが欲しかっただけよ。」
――はい?
私は一瞬、この少女の言ったことを理解できなかった。
それはあまりにも些細で、……というよりも命を賭して悪魔召喚をするほどのことでもない願い。
そして、なによりも私の予想を遥かに凌駕した答えだった。
私の口元が自然と綻ぶ。
この世界の過去と現在と未来を知りうるこの私に予想外のことが起きる。……そのことが愉快でならなかった。
そう、ここは幻想郷なのだ。
私の知っている世界とはまた別の世界。
だから私は笑みを浮べたまま、召喚主である魔女に口を開いていた……。
「――――汝は魔界の侯爵。72の1柱。」
魔界へのバイパスは完全に繋がり、あとは名前を口にするだけで召喚は完了する。
魔力が暴風のように吹き荒れるなか、妖夢さんは私の儀式を微動だにせず佇んでいた。
私も懐かしい魔力の奔流に晒されながら、笑みを浮べていた。
あのときの気紛れがこんなことになるなんて思いもしなかっただろう。
――別の世界の『私』
そんな戯れから始まった幻想郷での新しい生活。
本と一日中向き合い、来館者と軽くお話しをし、同僚とお茶を交える。
子供に本を読んで聞かせ、上司の机を整理し、遅滞者には催促に向かう。
ただそれだけの生活。
だけど、それが私にとっては何事にも代えがたく清新なものだった。
私は司書。グレモリーでもなく、単なる小悪魔でもない。
紅魔館の司書である小悪魔なのだ。
……それは言葉にしてしまうと本当にささやかなプライドだと思う。
確かに私は映姫さんのように赫々と死者を導いているわけではない。
幽々子さんのように悠々と暮らしているわけでもないし、紫さんのように飄々と世界を渡り歩いているわけでもない。
でも、私は私なりにこの粛々とした生活が気に入っていた。
だからこそ――
――それを侵す者には容赦はしない!
「――――顕在せよ。汝の名はマルコシアス。」
完成した術式が空中から地面へと転移し、霧のように高濃度の魔素が噴き上げていく。
その影響で辺りの木々が台風に遭遇したかのように大きくたわんでいた。
一方で私の周りだけは目のように無風の空間となっている。
――久しいな我が主。健勝か?
「ええ、おかげさまで。」
私は暴風に晒されている妖夢さんの方を見つめながら答えた。
儀式も終わり、そろそろ彼女も動き出してくるだろう。
そう思った途端、彼女の周りの気流だけが横から縦へと変化する。
「……妖怪が鍛えたこの楼観剣に斬れぬものなど、殆ど無い! ……将を射んと欲すれば先ず馬を射よと云います。悪く思わないでくださいね、小悪魔さん。」
剣風をぶつけて一時的な無風状態を作り、妖夢さんは魔法陣へと殺到していく。
妖夢さんは刀を横に構えて、擦れ違いざまに薙ぐつもりだろう。
徐々に徐々に速度が増していく。
その目で追うのがやっとといった圧倒的なスピードに私は傍観することしかできなかった。
「哈ぁッ!!」
気合一閃、
……しかし、斬り捨てるはずの妖夢さんの刀は魔法陣の前で完全に動きを停止していた。
刹那、魔法陣の周りを覆っていた霧が晴れる。
そこから出現した者は、妖夢さんの渾身の一撃を細く白い手と一本のナイフで持って完全に受け止めていた。
「……咲夜、どうしてここに? ……って、あれ? えっ!? ええええっ!!」
仇敵を見るような鋭い目つきから、突然、目を丸くして妖夢さんは硬直する。
顔色も茹で上がったかのように一瞬にして真っ赤に変化した。
「……それで、どうすれば良いのだ我が主?」
そんな妖夢さんには目もくれず、マルコシアスは私に問いかける。
好戦的とはいわないまでも、私の命令ひとつで瞬時に妖夢さんを血煙に変えてしまうことくらい辞さないだろう。
「良い子はもう良い夢を見る時間だと思いませんか?」
私は普段通りの笑みを浮べて、咲夜さんの姿を借りた悪魔に提案する。
「御意に。」
この子は、咲夜さんの笑みとは違う、もっと雄々しい笑みを全身から湛えて頷いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ちょっと、はしゃぎ過ぎたかもしれませんね……。」
帰りの夜道にて私はぼそりと呟く。
あのときの私は少し魔力に酔っていた。
おそらくマルコシアスの強大な魔力が私にフィードバックしたのだろう。
「なあに、我が主は貞淑すぎるのだ。たまにはハレの日があっても良かろうに。」
「……そうかしら?」
頭上から掛けられる声に私は首を捻る。
アリスさん宅での一件は既に終結したのだけど、マルコシアスは一刻の間顕在し続けるのだという。
そういうわけで私は暫しこの子との散歩を楽しんでいた。
まあ、『散歩』といっても私は歩いてはいないのだけれど……。
だからといって飛翔しているというわけでもない。
――そう、私はマルコシアスに抱きかかえられる形で移動していた。
「どうした? 我が主。」
私の顔を不思議そうに覗き込んでくる。
首に手を回しているだけにその視線から顔を隠すのは難しい。
この不躾ともいえる不器用さは昔から全く変わってなかった。
「いいえ、ただ、あなたがずいぶんと強く主張したものだから……。」
私の言葉にこの子は頬を染めて目を逸らす。
言うまでもなく、最初、私はこの姿勢になることを反対した。
幾らマルコシアスが私の元騎乗獣だからといっても、身体は咲夜さんのものであったから。
しかしながら、結果的には熱弁をふるうマルコシアスに私が折れてしまったのが現状だった。
……明日にでも咲夜さんに何かプレゼントを贈っておこう。
漠然とプランを組み立てていると、マルコシアスが数度軽く咳払いをしていた。
「……我も、浮き足立っていたのかもしれないな。何せ主が私を喚び出したのは久方ぶりのことだ。」
何度か咳払いや、言葉を途切れさせながらマルコシアスは呟く。
私を抱えているために口元を隠せないのだろう、私の顔からできる限り離れる位置に首を背けていた。
「マルコシアス……。」
私は首に回していた手を解き、頬に手を当ててこちらを向かせる。
それから、ゆっくりと頭を撫でた。
気持ち良さそうに目を細めて、なすがままにされるマルコシアス。
こういうところは幼い狼だった頃から全く変わっていない。
「……ねえ、マルコシアス。あなたはこんな姿の私をどう思っているの?」
――だから、自然とそんなことを口にしていた。
今度は私がこの子の目を覗き込む。
どんな答えを期待しているのか私にはわからないけれど、おそらく私は何かを期待していた。
「……確かに最初は驚いたな。この程度の力ならば路傍の石の方がまだ脅威であろう。」
苦笑いとも自嘲ともつかない表情でマルコシアスは呟く。
そして表情を引き締めて私の方を真っ直ぐに見つめた。
「……だがそんなことは関係ない。我は主の忠実なる僕、主が願うならば我はいつでも矛となり盾となろう。」
そう答えると、急に表情が柔らかく緩んで私に微笑みかける。
「そうよ、私はあなたの頼みだから力を貸したの。あなたに守りたいものがあるのなら私たちも一緒に守るわ。……だってあなたは私たちの家族だから。紅魔館の全ての住人がそう思っているわよ。」
その口調も、雰囲気も、紛れもなく私の知っている紅魔館メイド長のものだった……。
「……咲夜、さん?」
驚きで私の口からはそれ以上の言葉が出てこない。
「我もそう思っているよ。餓死しかけていた子狼を拾って育ててくれたのは主だ。理由など他にはいらないよ。……我が母。」
咲夜さんの言葉を引き継ぐように、不器用な笑みを浮べてマルコシアスは再び頬を赤らめる。
「ああ、すまないな我が主。この憑代は自我が強く、気を抜くと制御から外れてしまうのだ。」
……それから、マルコシアスはとぼけたようにこう付け加えたのだった。
――結局、私が何を期待していたのかはわからない。
否、どれが欲しかった言葉なのかわからない。
ただ、……ただ、それだけで十分だった。
「……我が主?」
私の身体が小刻みに震えたのがわかったのだろう。
再び顔を覗き込まれる前に私は口を開いた。
「マルコシアス、こちらを見ないで下さい。これは命令ですよ。」
私は震える喉を押さえて、精一杯凛とした声を振り絞る。
「承知……。」
マルコシアスは静かに一言、それだけを呟いた。
「……ありがとう。」
私は口元を綻ばせて、あさっての方向を見つめている我が子の頭を優しく撫でる。
緩んだ口元から流れ込んでくる温かい液体は、やはり少し塩辛かった……。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
いつも通りノックを二回。……返事はない。
心の中で十秒数えて、書斎のドアを開け放つ。
真っ先に目に入るのは、正面にある本が山のように平積みにされた机。
ただ、昨日片付けたばかりなので、本で顔を覆っている人物を容易に発見できた。
「パチュリー様、これから文さんが取材に来ますから宜しくお願いしますね。」
「……ええ。」
頁を捲る音で掻き消えてしまいそうなくらい、か細い返事が聞こえてくる。
その普段通りの光景に私はつい苦笑いを浮べてしまう。
「あっ、そうそう。パチュリー様、頼まれていたサイレントセレナを改良してみたのですが。」
「あら早いわね。」
本から顔を上げてパチュリー様はこちらの方を見つめてくる。
「改良といっても私は大したことはしていませんよ。基本的な構造には触れていませんし、ただ月の精霊の好きな文句を書き加えただけです。」
私はそう前置きをしながらパチュリー様に月符を手渡す。
「なるほど……、これだけでも制御系の効率性が二割上昇するのね。」
パチュリー様はそれをしばらく注視して、独り言のように呟いた。
「流石だわ、小悪魔。」
「ありがとうございます。もっとも、私は月の精霊以外お役に立てませんけれど……。」
パチュリー様の言葉に私は笑顔で頷く。
「それだけで十分よ。……でも、今まではそういう仕事は断っていたのにどういう風の吹き回しかしら?」
歯に衣を着せず、ストレートに問いかけてくるパチュリー様。
……確かに今までの私は自分の正体に関わりそうな仕事はできるだけ避けていた。
月の眷属に接触することすら、あの頃までの私なら忌避したことだろう。
「この姿ではただでさえ『できないこと』が多いのに、加えて『やらないこと』まで課すなんておかしいと思ったのですよ。……単にそれだけのことです。」
私はにっこりと笑って答えた。
――それは本当に些細な変化なのかもしれない。
だけど、蝶の羽ばたきが台風を起こす可能性を秘めているように、何かが始まるかもしれないのだ。
だってここは私の夢見た別の世界、行く先の見えぬ幻想郷なのだから……。
@ @ @ @ @
「小悪魔様! 私に少しでもいいから貴女様のお慈悲を! 世界中の女性とは言わないわ。せめて魔理沙と霊夢だけでも!……ね?」
「あはははは…………」
勿論、できないことはできないわけで、こればっかりはどうしようもないのだった……。
どちらから読んでも問題ありませんが、両方読んで頂けるとより一層楽しめる……はず?
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――例えるならば、それは何らかの拍子に結末を先に知ってしまった本のようなもので、
全てを読み終えたときに浮かんでしまうちょっとした疑問。
「もし私があの結末を知らなかったのなら、今の私よりも幾倍清新な気持ちになったのだろうか?」
どんなに忘れようと努めても、本を読み進めて行くうちに結末を思い出してしまうように、
知らなかった頃の自分に戻ることなんて出来はしない。
思いを馳せるのは、その本の結末を知らずに最後まで読破できた別の世界の『私』
――収束してしまえば、それは無知への憧憬、不自由への羨望で、
単に有力なる私に対する私からの当て付けなのであった……。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「おーい、小悪魔?」
突然背後から聞こえてきた声に手に、私は思わず抱えていた本を取り落としそうになる。
知らず知らずのうちに思考が余所に飛んでいったようで、慌てて来客の方に向き直った。
「はっ、はい! なんでしょうか藍さん?」
「紫様に頼まれて本の返却に来たのだが……。」
藍さんは私を驚かせてしまったことを申し訳なく思っているのか、語尾を濁すように答える。
「ええ、確かに承りました。」
私は笑みを浮べて藍さんの手元にある三冊の週刊誌へと手を伸ばし…………
「………………………」
「……………………………」
「…………………………………藍さん?」
「ああっと、スマンスマン。」
今度は私の呼びかけで藍さんはがっしりと掴んでいた本を慌てて手放した。
「どうしたんです? 私の顔に何かついてますか?」
私の顔を覗き込んでいた藍さんに私はおずおずと問いかける。
もしかしたら私の口元に涎の跡でも残っていたのだろうか?
あのとき意識が飛んでいたのは思索でもなんでもなく、居眠りだったとしたら十分に考えられる可能性だ。
「いいや、そういうわけじゃない。寧ろ何もついてなかったというべきかな?」
横を向いて口元を押さえる私に藍さんの苦笑いの混じった声が投げかけられた。
「まあ深い意味はない、私事だよ。」
そういって藍さんは適当に本棚の本を物色し始めている。
私は不思議に思いながらも、そういうことならばと受け取った本を抱えてカウンターの方へと足を向けていた。
◆ ◆ ◆
返却手続きのためにカウンターを訪れると、そこには見知った人物が談笑していた。
「妖夢さんに小町さんもご返却ですか?」
御二人の手元にある本を確認してそう声をかけると、彼女達は一瞬驚いたように身構える。
「……ええ、幽々子様に頼まれましたので。」
「……あたいも四季様からね。」
「そうですか……。」
どことなく硬い口調の御二人に、私はそんなに驚かせるようなことを言ったのかと内心では首を傾げていた。
妖夢さんと小町さんの間にあるパーソナルスペースに比べると、私と御二人との間合いは優に倍以上広がっている。
双方が手を真っ直ぐに伸ばして漸く握手できるような距離。
微妙に漂う緊張感の中で私の伸ばした手の上に本が載せられていった。
「ご利用ありがとうございました。」
好意的な笑みで返してみるものの、やはり御二人の態度は余所余所しいまま変わらない。
「……あの、今日の私はどこかおかしいところがあるのでしょうか?」
普段とは違う、刺さるような視線に堪え切れなくなって私は思い切って問いかける。
藍さんの言葉を疑うわけではないのだけれど、自然と手に持った本で口元を隠してしまう私。
対して御二人は雷撃にでも当たったかのように身をビクッと竦ませた。
「いっ、いいえ、そういうわけじゃないんですよ! あっ、そうそう幽々子様から言伝を預かってきたんです。」
「そっ、そうそう! あたいも四季様から承ってきたんだった。」
確かに思い切った質問だとは自覚していたけれど、私の予想を大きく上回って御二人はあたふたと答える。
「?」
不審とまではいかないまでも、こうも立て続けだと流石に怪訝には思えてくるのは仕方がない。
私の表情にもそれが表れていたのか、彼女達はあたふたと笑みを浮べて矢継ぎ早に言葉を重ねていく。
「今度図書館を訪れるときは菓子折を持参してくるとのことですよ。」
大仰な身振り手振りを交えながら妖夢さんは幽々子さんからのメッセージを話してくれた。
「まあ、いつもありがとうございます。」
しかし、私のこの何気ない一言で先程まで慌しかった妖夢さんの動きが完全に停止する。
それまでの遠巻きから観察するような態度でも、何かを取り繕うような態度でもなく、はっきりと窺えるのは『驚愕』という二文字だった。
「いつも……ですか?」
喉仏から擦り出したような声色で妖夢さんは聞き返す。
「ええ、幽々子さんのお持ちになる和菓子は絶品ですからね。洋館暮らしの私たちにも評判良いですよ。私ももう少しグリーンティーの淹れ方を勉強しないといけませんね。」
別段、幽々子さんが秘密にしているような事柄とは思わなかったので、私は素直に感想を述べた。
妖夢さんが知らないことは意外だったけれど、幽々子さんが妖夢さんにわざわざ報告するような話でもないと思う。
「そうですか……。」
それにも拘らず、妖夢さんの私に向ける視線が更に奇異の色が濃くなったように感じたのは何故なのだろうか?
「あたいの方も良いかな?」
妖夢さんの肩を労うようにポンポンと叩きながら、今度は小町さんが口を開いた。
私は笑顔で続きを促すようにゆっくりと頷く。
「四季様からの言伝は『今度暇ができたら、一緒に杯を酌み交わしながら昔のお話をしましょう。』だそうだよ。」
「そうですね、私も映姫さんも師走になると手が離せなくなるでしょうから、新しい年を迎えたら今度は私の方からお邪魔させていただくとお伝え下さい。」
旧友からの誘いに自然と顔が綻びながら私はこう告げた。
「今度ってことは、前からこういうことはあったのかい?」
「ええ、まあ。映姫さんは公私共にお忙しい方ですから数回といったところですけれど……。」
口調こそは軽いものの、私と小町さんとの距離は相変わらずだ。
その間の取り方を小町さんも意識しているのだろう、スウッと目を細めて私を見据えた。
「四季様とあんたとの関係は何なんだい? 単なる図書館利用者と司書なんて関係とは思えないね。」
彼女が元来回りくどいことが合わない性分だということは知っていた。
ひどく真っ直ぐで、裏表のないからりとした性格。
好ましくもあり、羨ましくもあるけれど、それを向けられている私にはチクリと痛むものがあった。
胸がチクリと痛む理由は簡単――
「古くからの知り合いなんですよ。お互い幻想郷に赴任してくる以前からの知り合い……すみません、これ以上はお話しすることはできません。」
――そう、私はその問いに答えることができないから。
私は頭を下げて強引に話題を打ち切る。
小町さんは不満そうな表情で、何かを口にしようと言葉を探しているようだった。
当然私の方から口を挟むわけにもいかず、沈黙は時間を経るごとに重みを増していく。
「おっ、小町に妖夢、お前達もここに来ていたのか。」
その空気を払拭するように暢気な口調で藍さんが遠くから声を聞こえてきた。
小町さんも毒気が抜かれたのか、軽く一息ついたあと鎌を担ぎ直して藍さんの方を向く。
「そういう藍もかい?」
「まあね、目的もおそらく一緒だろう。」
含みのあるニヒルな笑みを口元から吊り上げて藍さんは答えた。
藍さんの言葉通り、確かに皆さんはお使いでこの図書館を訪れている。
そのこと自体にどういう意味があるのか分からないけれど、小町さんと妖夢さんは何故か表情を輝かせて藍さんのところに集まっていった。
「私たちはもう少し図書館をぶらぶらしているが小悪魔は気にせず仕事に戻っていてくれ。なにやら忙しいみたいじゃないか。」
「ええ、今日は新刊入荷日なんですよ。それで多少は慌しくなってるかもしれませんね。」
「ならば尚更だ。ここは私に任せてもらっても構わないよ、少し3人で話をしたら出て行くから。」
藍さんは泰然とした笑みを浮べて私に提案する。
折角の親切を無碍にするのも憚られるし、御三方の話に私が立ち会うのも野暮というものだろう。
「……それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきますね。」
私は一人ひとりに丁重に礼をした後、先程まで本の整理をしていた棚へと踵を返した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「貴方はもう少し積極性を持つこと。これが今の貴方が積める善行よ。」
小町さんのことで改めて思い出し訳ではないけれど、映姫さんは私に会うたびに必ず一度はその言葉を口にする。
例えそれが先週の貸出カウンター越しの邂逅であっても、千古の殿として天使を食い止めていた戦場の真っ只中であっても……。
「今の私には何の力もありませんよ?」
冗談まじりでそう返したこともあったが、映姫さんは首を横に振っていた。
「有力、無力の問題ではありません。貴方が積極的に行動することで大なり小なり誰かが救われる。貴方は悪魔ですが、それが貴方の本質なのですよ。」
――だから、貴方はもう少し積極性を持つこと。これが今の貴方が積める善行よ。
冬湖のような群青の瞳で真っ直ぐに私を見つめて、彼女は言う。
その綺麗な瞳から先に目を逸らすのは決まって私なのだった。
別に心を見透かされるのが怖いわけではない。
……ただ、水面のような瞳に映る自分の姿から私は目を背けていた。
私は映姫さんほど自分の力に対してきちんと向き合ってはいない。
また紫さんほどしなやかに受け流せてもいないし、幽々子さんほどきっぱりと割り切ることもできてはいない。
私だけが己が姿に呪いをかけてでも目を覆い隠そうとしている。
小町さんの質問に答えなかったこと……その事実が何よりも雄弁に物語っていた。
あの余所余所しい態度だった御二人だって、私の中途半端さが原因なのだろう。
そう思うと胸がズキリと痛む。
考えれば考えるほど痛みは深く、広く、この身を侵蝕していく。
そうまでして私が守ろうとしているモノ……
図書館の司書として、『小悪魔』として、私がここに在る理由……
下ろし立ての本の背表紙を補強しながら、私はぼんやりと考えて巡らせていた。
まだ逆立っている装丁の手触りと、強いインクのにおい。
図書館の持つ独特のにおいにまだ溶け込めないこれらの本は、夏風にのる青草のように清々しい。
――思いを馳せるのは、その本の結末を知らずに最後まで読破できた別の世界の『私』
……ああ、そういえば、あの言葉はここのにおいがきっかけだった。
私が顕現して最初に触れたもの――それは皮革のにおい、布のにおい、草木のにおい、墨のにおい、鉱石のにおい、油脂のにおい……そんなものが混じり合った『本のにおい』
だからこそ、自然と本を用いた例えが連想されたのだろう。
私は作業の手を止めて、館内をずらっと見回す。
あのときと比べて蔵書の数は比較にならないほど増えた。
タイトルは全て把握しているけれど、結末を知らない本も沢山目に付く。
……未来を知りうるというのは、過去と現在において全知でなければならない。
現在と過去の観測なくして未来を計れないように、しがない小悪魔である私には未来のことなど判りはしない。
現在、過去、未来を知りうる悪魔の大公爵グレモリーにとって、私のような脆弱な存在はそれこそ『当て付け』なのだった……。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「小悪魔さん。ちょっといいですか?」
新刊の整理もひと段落し休憩がてらにディスプレイの仕方に思いを巡らせていると、不意に声をかけられる。
凛とした馴染みのある声に、私は席を立って同僚へと向き直った。
「ええ、どうしたんですか? 美鈴さん。……もしかして、今は夜の休憩時間だったりします?」
図書館には窓も時計もなく、照明も常に一定なので時間感覚を失うことがある。
今日のような日は作業に没頭して、気が付いたら二つばかり夜を越えていたということも一度ではなかったりする。
「いいえ、まだ日が傾き始めた頃ですよ。それに今回は私用ではなくて取次ぎなんです。」
「取次ぎ……ですか?」
意外な言葉に私は鸚鵡返しをしてしまっていた。
紅魔館の来訪者は同時に闖入者を兼ねている。
なぜなら、お嬢様が他人を招待するといった行為を滅多になさらない方だからである。
最近では闖入者を見逃すことは暗黙の了解にありつつあるけれど、正門を素通りというのも示しがつかないため門番だけはきちんと機能させている。
簡潔に言うと、正規の手続きでこの館に訪れる者そのものが珍しいのであった。
「小悪魔さんにどうしても伝えなきゃいけないことがあるらしくて……、本来ならお嬢様か咲夜さんの許しもなく通すわけにもいかないんですけどねぇ。」
美鈴さんは頭に手を当てて困ったように笑う。
その腰元でチラチラと蒼い綿毛のようなものが見え隠れしていた。
「まあ、知らない相手じゃないですし、普段もここを訪れているみたいですからね。……それにこんな姿になってまで『小悪魔のお姉ちゃんに話があるの!』と懇願されたら、追い返すのも気が引けるわけですよ。」
そういって美鈴さんは音もなく横に移動する。
自然と蒼い綿毛の正体が相対するように姿を現した。
「チルノちゃん! どうしたの!? こんなに汚れちゃって……。」
私は驚きのあまり口元に手を当てたまま、反射的に問いかける。
チルノちゃんは土埃に塗れた衣服に、ぼさぼさになった髪の毛、よく見ると腕や脚といった至るところに痣や擦り傷を作っていた。
「あたいのことはどうでもいいの! それよりも小悪魔のお姉ちゃんが大変なの!」
「えっ、私がですか?」
上目遣いで縋るように見つめてくるチルノちゃん。
その表情はどこまでも真摯で、この小さい氷精が必死だということは誰の目から見ても明らかだった。
「そうだよ、アイツらが小悪魔のお姉ちゃんを罠にはめようとしてるんだ! ……だから、あたいは何とか縄から抜け出してここまで来たんだ。」
語尾が急に弱々しくなる。
おそらく自分の話を信じてくれるか不安になったのだろう。
私は膝を折り、チルノちゃんの両肩に手を置く。
「詳しく聞かせてくれるかな?」
そうして私は伏し目がちなチルノちゃんを覗き込むようにして微笑んだ。
「うんっ!」
嬉しそうに大きく頷くチルノちゃん。
その言葉をきっかけに表情から瞬く間に輝きを取り戻していた。
「あたいが蓮沼で遊んでいたら、狐と半幽霊と死神の三人が突然やってきて、そこらにいたブン屋と相談事をしていたの。」
「それが私を罠にはめる相談だったというわけですか?」
チルノちゃんと同じ目線で、私はゆっくりと優しい口調で続きを促す。
「そうなんだ! 小悪魔のお姉ちゃんのリアクション…? を見るとか、実力を見きわめるとか、なんかそんなことを言っていたよ!」
「なるほど……。」
確かにあのときの御三方の様子を考えると無理らしからぬ行動かもしれない。
私如き者の正体を知ったところで、何の意味もありはしないというのに……。
そう思っているくせに、私は自分の正体を明かさなかった。
だからこれは間違いなく私が蒔いた種……。
「お姉ちゃん?」
その声にハッとして、チルノちゃんの方に意識を集中する。
しかし最早手遅れで、一瞬とはいえ私の表情から柔和さが消えたことをこの娘は敏感に察知してしまっていた。
見る見るうちに表情が曇っていき、いつ雨が降り出してもおかしくない状態になっている。
「チ、チルノちゃんはあのお姉ちゃんたちがどこに罠を仕掛けようとしているかわかる?」
気を逸らそうと慌てて口にした言葉は、皮肉にも止めを刺す結果になってしまった……。
「あ、あたいは…その、すぐに気絶させられちゃったから…わか、わからなくて…」
驚いたように大きく見開かれた瞳からは、すぐさま止め処なく涙が零れ落ちていく。
肩に置いた手を通して、チルノちゃんの体が強張っていくのを感じた。
「そう、だよね…、それだけじゃ、意味ない…もんね……。あは、あははは…あたいバカだから。……ごめんなさい」
握り締められた拳、震える肩、前髪で隠れても滴っていく涙……。
泥だらけの衣服に、ぼさぼさの髪、生傷だらけの身体……。
「ごめん…ごめんなさい、役に…立てな…くて………」
掠れていく声は徐々に嗚咽へと転じていく……。
――それは、一言で括ってしまうのなら『衝動』だったと思う。
動機も理由も投げ出して、刹那のいらっとした感情に任せて私は自分の奥歯を噛み鳴らす。
「大丈夫だから! 本当に…本当にありがとうね。」
そして私はこの愛らしい氷精を抱きしめて囁いていた。
「……お姉ちゃん? ……あたい冷たいから、風邪ひいちゃうよ?」
私の腕の中でもがきながら、チルノちゃんはそんなことを口にする。
戸惑いと躊躇いを含んだ声色は私を気遣ったものなのだろう。
確かに氷精であるチルノちゃんの体温は低く、『温もり』とは違う感覚が身体全体を通して流れ込んできていた。
……でも、私は一層抱きしめる腕に力を込める。
「大丈夫、チルノちゃんは誰よりもあたたかいよ。もっとも、私の体温が暑苦しいのなら離れるけど……。」
「ううん、大丈夫……。」
チルノちゃんも観念したのか、私の背中に手を回してくれた。
私は微笑んでこの娘の髪と背中を優しく撫でる。
「……ありがとうね。」
口の中だけでそっと呟きながら、身体の緊張がとけるまで私はこの優しい氷精さんの『ぬくもり』を肌で感じていた。
◆ ◆ ◆
「それじゃあ、何かお菓子と温かい飲み物を持ってくるから、そこの椅子で待っていてね。……あっ、チルノちゃんは冷たい飲み物がいいんだもんね。」
私は立ち上がって、再びチルノちゃんの頭に軽く手を置いて微笑む。
「あたいはお姉ちゃんが淹れてくれるなら熱い物でも我慢するよ。」
「そんな無理しなくてもいいから……。美鈴さんも一緒に待っていて下さい。」
「あっ、お構いなく。」
すっかり和んでいる美鈴さんの声に背を押されながら、私は給湯室の方へと進んでいく。
……ひとりになると自然と自分の置かれた状況というものに考えを巡らせてしまう。
御三方に文さんが私の正体を探るために罠を仕掛けている。
罠といっても伏兵か奇襲といったところだとは思う。
仕える者がいる御三方にとって時間はそうそう自由に使えるものではないはずだから、朝日が昇るまでが刻限といったところだろう。
場所は特定できないけれど、罠というくらいだから私の外出を狙っていることは明らかだった。
しかし、それは同時に私が外出さえしなければやり過ごせるということでもある。
私は――改めて普段通り外出することを決意する。
自分で蒔いた種を放置したところで、疑念の種は芽吹くばかりで良いことなんてひとつもない。
素直に正体を明かすか、多少の怪我を覚悟で小悪魔を演じ続けるか、その結末については未だ決めかねている。
ただ、私にとって『逃げる』という選択肢を放棄したことが最も重要なことだった。
……ねえ、映姫さん。今の私は少しは積極的かな?
常に私を気遣ってくれる知己に心の中で問いかける。
彼女のことだ、口元に微笑みを浮かべて「まだまだ、日々の積み重ねが大切なのです。」とでもいうのだろう。
……チルノちゃん、ありがとう。
身体を傷だらけにしてでも、私のためにやってきた少女に心から礼を述べる。
この選択肢を私に与えてくれたのは、間違いなくこの娘だったのだから……。
◆ ◆ ◆
「お待たせしました……って、あらあら。」
湯気立つティーカップふたつと、グラスに入ったジュースを持って戻ってくると、チルノちゃんは椅子に腰掛けたまま眠っていた。
私は美鈴さんの元にカップを置くと、カウンターの奥から毛布を持ってきてチルノちゃんにそっとかけてあげる。
「流石に疲れていたんでしょうね。椅子に腰を下ろした途端、糸が切れたように眠りこけてしまいましたよ。」
「そうですか……。」
愛くるしい寝顔を見せている氷精さんの髪を何度か手で軽く梳いた。
一度梳くごとに小さく声を洩らすところが、なんとも微笑ましい。
しばらくそんなことをしていると、不意に美鈴さんが独り言のように呟いた。
「私もあの三人に訊かれたんですよ。小悪魔さんの正体について。」
「そうなんですか?」
私は振り返って美鈴さんの方を注視する。
美鈴さんはカップをソーサーの上に置いて頷いた。
「そりゃあ、気にならないといえば嘘になります。」
はっきりと断言して美鈴さんは真っ直ぐに私のほうを見つめる。
お茶を飲んでいたときの柔らかい表情から一転、長年紅魔館の外敵を排除してきた警備隊長のとしてのものへと変化していた。
敵か、味方か、これ以上にないくらい簡潔で容赦のない視線。
私は呼吸をすることも忘れ、美鈴さんと相対した。
「……………………………」
「……………………………」
一瞬とも無限ともつかない時間。
……先に表情を崩したのは美鈴さんの方だった。
美鈴さんは再びカップを手に取る。
カップからはまだ湯気が立っており、あれが一瞬の出来事だったということを告げていた。
「でも、先程のやり取りを見て改めて思いましたよ。小悪魔さんが何者であろうと、やっぱり小悪魔さんなんだって。だから……いいんです、そんな瑣末事。」
「美鈴さん……。」
穏やかな表情でそう言うと、美鈴さんはカップの中身を飲み干して立ち上がった。
「私もそろそろ持ち場に戻らないと咲夜さんに叱られてしまいますからね。お茶、ご馳走様でした。」
そのまま颯爽と歩いていく美鈴さん。
あまりの展開の速さに私もどう言葉をかけてよいのかわからない。
焦れば焦るほど言葉が次々と逃げていくなか、美鈴さんは突然止まって振り向いた。
「ああ、そうそう、この娘はどうしますか?」
のんびりとした声がかけられる。
少し離れてしまったので表情ははっきり窺えないけれど、美鈴さんははにかんだような笑みを浮べているように思えた。
「私の寝室まで連れて行きますからご安心下さい。……それと色々とありがとうございました。」
結局言えたのはそんな一言だけ。
だけど、美鈴さんは頭に手を当ててあっけらかんと答えた。
「なぁに同僚のよしみってことでいいじゃないですか。お互いに。」
「ええ、そうですね。」
そのサッパリとした答えに私は笑みを浮べて美鈴さんの後姿を見送ったのだった。
◆ ◆ ◆
チルノちゃんを私の部屋に寝かせて、外出の許可を得るためにパチュリー様の書斎を訪れる。
いつも通りノックを二回。……返事はない。
心の中で十秒数えて、書斎のドアを開け放つ。
真っ先に目に入るのは、正面にある本が山のように平積みにされた机。
その天高く積まれている本の山から、微かに紫色のモノが見え隠れしていた。
「パチュリー様、今から貸出者のお宅を巡回したいのですがよろしいですか?」
普段なら「……ええ。」と頁を捲る音で掻き消えてしまいそうなくらい、か細い返事が聞こえてくる。
「大丈夫なの? あなた狙われているんでしょう?」
……しかし、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「門番から話は聞いていたわ。面倒なことになったわね。」
本の山に隠れてパチュリー様の表情は窺えない。
ただ声だけは普段通り落ち着き払ったものであった。
「ええ、そうですね……。でも、いつかはこうなるって判っていましたから。」
「『判っていた』ね。まあ、あなたならそれくらいのことは知っていたんでしょうね。」
頁を繰る音と共に聞こえてくる淡々とした声。
私は静かに首を横に振る。
「いいえ、予想外なことばかりです。だからこそ、この姿でいる甲斐があるというものです。」
胸に手を当てて、私はきっぱりと答えた。
間断なく聞こえてきた頁を捲る音がピタリと止む。
「それなのにあなたは行くというの?」
先程までと全く変わらない淡々とした声色。
でも、私にはパチュリー様が私を気に掛けて下さっているのが感じられた。
「ええ、だって私は…この小悪魔は図書館の司書ですからね。そんな個人的な事情でお仕事を滞らせるわけに参りません。」
私は微笑みながら、力強く、噛み締めるようにゆっくりと言い放つ。
それは私のことを『小悪魔』と呼んでくれた方々へのせめてものケジメだと私は思っていた。
私の返事に対して、机の奥からは嘆息にも似た小さな溜息が聞こえてくる。
「そう、ならば行ってきなさい。ささやかで有能な私の司書さん。」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
暗々とした森の中を私は足元に注意しながら慎重に歩いていく。
魔法の森は鬱蒼とした樹木に覆われ一日中光が入ってはこないが、流れ込んでくる風は夜の匂いを確かに感じさせていた。
一歩進むごとに枯れ草や小枝の折れる音が驚くほど森の中に響いていく。
そんな中、私はリストの一番上に名前が載っているアリスさんの家を目指していた。
リストは五十音とアルファベット順で構成されており、どちらにせよアリスさんが最上位であることには変わりない。
それにしても、アリスさんが何の連絡もなしに遅滞するのはこれが初めてのことだった。
魔法使いというのは自分の研究に没頭すると大抵のことは忘れてしまう。
アリスさんもその例に漏れないけれど、いつもなら人形に手紙を持たせてその旨を伝えていた。
……人形に本を持たせれば済むのではないのだろうか?
何度となくそう思う。
でも、そんなところがアリスさんらしいといえばアリスさんらしいので私は何も言わないでいた。
――バサッバサッバサッ……
突然の鳥の羽ばたきに私の意識は森の中に再び戻される。
そういえば、魔法の森とはいえ鳥の鳴き声が全くしていない。
夜は鳥が木々に止まる時間。
息遣いすら感じないというのは少々おかしいことであった。
訝しく感じているうちに森の先が徐々に開けてくる。
門柱のように太い二本の樹木を抜けると、天を覆っていた暗幕が一気にあがって星空が顔を出した。
目の前にはアリスさんの家が鎮座しており、窓からは灯りが漏れ出している。
案の定、アリスさんはご在宅のようだ。
カーテンを閉めていないのは研究に夢中でそこまで気が回らなかったのだろう。
そんなことを思って家に近づいていると、不意に窓ガラスが弾け飛ぶ。
「……えっ?」
あまりにも唐突な出来事に頭の中が完全に真っ白になった。
その一瞬の隙を突いて、窓から飛び出してきた影は私の背後に回りこみ力場を形成する。
そして影は何事もなかったように私の正面に対峙した。
「こんばんは、小悪魔さん。」
両刀を構えた影は厳かに告げた。
「こんばんは、妖夢さん。……あの、これはいったいどういうことなのでしょうか?」
私はあのときと全く異なる雰囲気に戸惑いながらも、妖夢さんに問いかける。
「訳は訊かないで頂きたい。ただ、アリスが借りた本を取り返したくば私を倒してからにしてもらいましょうか!」
「はあ……。」
私の想像した罠とは大きくかけ離れた威風堂々とした奇襲に、私は気圧されるように頷いた。
しかしながら、迫力に圧倒されたままでは意味がない。
真っ直ぐと揺らぎすら感じさせない妖夢さんの瞳を見つめて、私はできるだけ普段通りの笑みを浮べる。
「ですけど、私と妖夢さんが争ったところで私に勝ち目なんてありませんよ? 妖夢さんもそのことは承知のはず……」
「ええ、わかっています! それでも、戦わなければならないこともあるんです!」
でも、その一喝に再び気圧されて私は身を竦ませた。
「……これが最後ですよ小悪魔さん。これは私とあなたとの戦いではない。図書館司書としてのあなた自身との戦いです。」
妖夢さんの口調には焦りも苛立ちも微塵も含まれてはいない。
どこまでも静かで抑揚のない無機質な口調。
それはまるで抜き身の刀のように冷たく、私の姿を反映させる。
また誤魔化そうとしている自分に、私はハッとなって表情を引き締めた。
「悟入幻想によって退路を立たれた今、あなたに戦う以外の選択肢は残されていません。さあ、どうしますか!? 小悪魔さん!」
刀の切っ先を私に突きつけて妖夢さんは強く言い放つ。
――私の取り得る選択肢……。
ひとつは素直に正体を明かす。
ふたつは多少の怪我を覚悟で小悪魔を演じ続ける。
それは私がこのことを見越して予め用意していた選択肢。
いつかこの日がきたときのためにと……。
でも、私の予期した日は常に私の予想を裏切ってくれる。
私のために馳せ参じてくれたチルノちゃん。
私は私だといってくれた美鈴さん。
図書館の司書として送り出してくれたパチュリー様。
……だから、私も――私を裏切ろう。
表情を引き締めて私は妖夢さんの方を見据える。
背筋を伸ばし、片手を胸に当てて、できる限り厳かな声で、
「……わかりました。本の管理保管するのが司書の務め。ならば紅魔館の司書として私の本分を全うさせていただきます。」
私ははっきりと、この場にいる全ての者に向かって宣言した。
間髪いれずに私は体中の魔力を総動員して、空間に術式を編みこんでいく。
こちらにきてからも何度かヘルプを喚ぶときに使用した魔法陣。
ただ、今回喚ぶ相手は今までの相手とは力の桁が違う。
「――――我が喚び声に答えよ。汝は空を駆ける獣。誠実なる魔獣。」
六芒星の印を幾重にもなぞりながら、呪文を口にする。
呪文といっても相手の特徴を思いつくまま口に出しているに過ぎない。
正規のものとは違い、簡易召喚というのは往々にしてこういうものなのである。
「――――汝は勇敢な闘士。30の軍団を従える猛者。」
魔界の扉が開き始めたのか、足元からじわりじわりと魔力が溢れ出していた。
頬を撫でるように流れていく風が、魔素を掻き回しては漂わせていく。
幻想郷と魔界の空気が溶け合う感覚に、私はふと既視感を覚えた。
……ああ、そういえば、私が喚び出されたときもこんな空気が漂っていたと思う。
本のにおいで充満した部屋。
私は魔法陣以外に本の山に囲まれるかたちで覚醒した。
目の前には紫色の髪をした魔女。
――私を召喚したのはあなたですか?
空気を介さず思念による一方的な問いかけ。
それにハッとしたように紫色の少女は無言で首を縦に振る。
吹けば消えてしまうくらいの圧倒的な力の差が私と魔女にはあった。
私を従えるほどの力も、相応の力を持った呪具もないことは判っている。
彼女は私を誤って召喚してしまったのだろう。
表情こそは変わらないものの、小刻みに肩が震えていることで悟る。
……さて、どうしたものだろう?
召喚ミスの代償はその命で償わなければならない。
それは召喚という儀式がそれ相応のリスクを背負うというルールを体現したもので、例外は許されない。
殺生は元来好まないが、進んで秩序を乱す気にもなれなかった。
――あなたの願いは何ですか?
試しに問いかけてみる。
これは召喚ミス時の私の常套句で、本当のことをいえば生死の懸かった問いかけだった。
私利私欲や復讐といった願いならば…命を奪う。
悪魔に魂を売ってでも他者のために願うものがあるのなら…叶えてあげる。
もっとも、後者を願った者に出逢ったことは一度もないのだけれど……。
私は魔女の方を注視する。
彼女は震える身体を押さえつけるように、服の裾を強く握り締めて口を開いた。
「願いなんて大層なものじゃないわ。私はこの散らかっている部屋を整理してくれる誰かが欲しかっただけよ。」
――はい?
私は一瞬、この少女の言ったことを理解できなかった。
それはあまりにも些細で、……というよりも命を賭して悪魔召喚をするほどのことでもない願い。
そして、なによりも私の予想を遥かに凌駕した答えだった。
私の口元が自然と綻ぶ。
この世界の過去と現在と未来を知りうるこの私に予想外のことが起きる。……そのことが愉快でならなかった。
そう、ここは幻想郷なのだ。
私の知っている世界とはまた別の世界。
だから私は笑みを浮べたまま、召喚主である魔女に口を開いていた……。
「――――汝は魔界の侯爵。72の1柱。」
魔界へのバイパスは完全に繋がり、あとは名前を口にするだけで召喚は完了する。
魔力が暴風のように吹き荒れるなか、妖夢さんは私の儀式を微動だにせず佇んでいた。
私も懐かしい魔力の奔流に晒されながら、笑みを浮べていた。
あのときの気紛れがこんなことになるなんて思いもしなかっただろう。
――別の世界の『私』
そんな戯れから始まった幻想郷での新しい生活。
本と一日中向き合い、来館者と軽くお話しをし、同僚とお茶を交える。
子供に本を読んで聞かせ、上司の机を整理し、遅滞者には催促に向かう。
ただそれだけの生活。
だけど、それが私にとっては何事にも代えがたく清新なものだった。
私は司書。グレモリーでもなく、単なる小悪魔でもない。
紅魔館の司書である小悪魔なのだ。
……それは言葉にしてしまうと本当にささやかなプライドだと思う。
確かに私は映姫さんのように赫々と死者を導いているわけではない。
幽々子さんのように悠々と暮らしているわけでもないし、紫さんのように飄々と世界を渡り歩いているわけでもない。
でも、私は私なりにこの粛々とした生活が気に入っていた。
だからこそ――
――それを侵す者には容赦はしない!
「――――顕在せよ。汝の名はマルコシアス。」
完成した術式が空中から地面へと転移し、霧のように高濃度の魔素が噴き上げていく。
その影響で辺りの木々が台風に遭遇したかのように大きくたわんでいた。
一方で私の周りだけは目のように無風の空間となっている。
――久しいな我が主。健勝か?
「ええ、おかげさまで。」
私は暴風に晒されている妖夢さんの方を見つめながら答えた。
儀式も終わり、そろそろ彼女も動き出してくるだろう。
そう思った途端、彼女の周りの気流だけが横から縦へと変化する。
「……妖怪が鍛えたこの楼観剣に斬れぬものなど、殆ど無い! ……将を射んと欲すれば先ず馬を射よと云います。悪く思わないでくださいね、小悪魔さん。」
剣風をぶつけて一時的な無風状態を作り、妖夢さんは魔法陣へと殺到していく。
妖夢さんは刀を横に構えて、擦れ違いざまに薙ぐつもりだろう。
徐々に徐々に速度が増していく。
その目で追うのがやっとといった圧倒的なスピードに私は傍観することしかできなかった。
「哈ぁッ!!」
気合一閃、
……しかし、斬り捨てるはずの妖夢さんの刀は魔法陣の前で完全に動きを停止していた。
刹那、魔法陣の周りを覆っていた霧が晴れる。
そこから出現した者は、妖夢さんの渾身の一撃を細く白い手と一本のナイフで持って完全に受け止めていた。
「……咲夜、どうしてここに? ……って、あれ? えっ!? ええええっ!!」
仇敵を見るような鋭い目つきから、突然、目を丸くして妖夢さんは硬直する。
顔色も茹で上がったかのように一瞬にして真っ赤に変化した。
「……それで、どうすれば良いのだ我が主?」
そんな妖夢さんには目もくれず、マルコシアスは私に問いかける。
好戦的とはいわないまでも、私の命令ひとつで瞬時に妖夢さんを血煙に変えてしまうことくらい辞さないだろう。
「良い子はもう良い夢を見る時間だと思いませんか?」
私は普段通りの笑みを浮べて、咲夜さんの姿を借りた悪魔に提案する。
「御意に。」
この子は、咲夜さんの笑みとは違う、もっと雄々しい笑みを全身から湛えて頷いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ちょっと、はしゃぎ過ぎたかもしれませんね……。」
帰りの夜道にて私はぼそりと呟く。
あのときの私は少し魔力に酔っていた。
おそらくマルコシアスの強大な魔力が私にフィードバックしたのだろう。
「なあに、我が主は貞淑すぎるのだ。たまにはハレの日があっても良かろうに。」
「……そうかしら?」
頭上から掛けられる声に私は首を捻る。
アリスさん宅での一件は既に終結したのだけど、マルコシアスは一刻の間顕在し続けるのだという。
そういうわけで私は暫しこの子との散歩を楽しんでいた。
まあ、『散歩』といっても私は歩いてはいないのだけれど……。
だからといって飛翔しているというわけでもない。
――そう、私はマルコシアスに抱きかかえられる形で移動していた。
「どうした? 我が主。」
私の顔を不思議そうに覗き込んでくる。
首に手を回しているだけにその視線から顔を隠すのは難しい。
この不躾ともいえる不器用さは昔から全く変わってなかった。
「いいえ、ただ、あなたがずいぶんと強く主張したものだから……。」
私の言葉にこの子は頬を染めて目を逸らす。
言うまでもなく、最初、私はこの姿勢になることを反対した。
幾らマルコシアスが私の元騎乗獣だからといっても、身体は咲夜さんのものであったから。
しかしながら、結果的には熱弁をふるうマルコシアスに私が折れてしまったのが現状だった。
……明日にでも咲夜さんに何かプレゼントを贈っておこう。
漠然とプランを組み立てていると、マルコシアスが数度軽く咳払いをしていた。
「……我も、浮き足立っていたのかもしれないな。何せ主が私を喚び出したのは久方ぶりのことだ。」
何度か咳払いや、言葉を途切れさせながらマルコシアスは呟く。
私を抱えているために口元を隠せないのだろう、私の顔からできる限り離れる位置に首を背けていた。
「マルコシアス……。」
私は首に回していた手を解き、頬に手を当ててこちらを向かせる。
それから、ゆっくりと頭を撫でた。
気持ち良さそうに目を細めて、なすがままにされるマルコシアス。
こういうところは幼い狼だった頃から全く変わっていない。
「……ねえ、マルコシアス。あなたはこんな姿の私をどう思っているの?」
――だから、自然とそんなことを口にしていた。
今度は私がこの子の目を覗き込む。
どんな答えを期待しているのか私にはわからないけれど、おそらく私は何かを期待していた。
「……確かに最初は驚いたな。この程度の力ならば路傍の石の方がまだ脅威であろう。」
苦笑いとも自嘲ともつかない表情でマルコシアスは呟く。
そして表情を引き締めて私の方を真っ直ぐに見つめた。
「……だがそんなことは関係ない。我は主の忠実なる僕、主が願うならば我はいつでも矛となり盾となろう。」
そう答えると、急に表情が柔らかく緩んで私に微笑みかける。
「そうよ、私はあなたの頼みだから力を貸したの。あなたに守りたいものがあるのなら私たちも一緒に守るわ。……だってあなたは私たちの家族だから。紅魔館の全ての住人がそう思っているわよ。」
その口調も、雰囲気も、紛れもなく私の知っている紅魔館メイド長のものだった……。
「……咲夜、さん?」
驚きで私の口からはそれ以上の言葉が出てこない。
「我もそう思っているよ。餓死しかけていた子狼を拾って育ててくれたのは主だ。理由など他にはいらないよ。……我が母。」
咲夜さんの言葉を引き継ぐように、不器用な笑みを浮べてマルコシアスは再び頬を赤らめる。
「ああ、すまないな我が主。この憑代は自我が強く、気を抜くと制御から外れてしまうのだ。」
……それから、マルコシアスはとぼけたようにこう付け加えたのだった。
――結局、私が何を期待していたのかはわからない。
否、どれが欲しかった言葉なのかわからない。
ただ、……ただ、それだけで十分だった。
「……我が主?」
私の身体が小刻みに震えたのがわかったのだろう。
再び顔を覗き込まれる前に私は口を開いた。
「マルコシアス、こちらを見ないで下さい。これは命令ですよ。」
私は震える喉を押さえて、精一杯凛とした声を振り絞る。
「承知……。」
マルコシアスは静かに一言、それだけを呟いた。
「……ありがとう。」
私は口元を綻ばせて、あさっての方向を見つめている我が子の頭を優しく撫でる。
緩んだ口元から流れ込んでくる温かい液体は、やはり少し塩辛かった……。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
いつも通りノックを二回。……返事はない。
心の中で十秒数えて、書斎のドアを開け放つ。
真っ先に目に入るのは、正面にある本が山のように平積みにされた机。
ただ、昨日片付けたばかりなので、本で顔を覆っている人物を容易に発見できた。
「パチュリー様、これから文さんが取材に来ますから宜しくお願いしますね。」
「……ええ。」
頁を捲る音で掻き消えてしまいそうなくらい、か細い返事が聞こえてくる。
その普段通りの光景に私はつい苦笑いを浮べてしまう。
「あっ、そうそう。パチュリー様、頼まれていたサイレントセレナを改良してみたのですが。」
「あら早いわね。」
本から顔を上げてパチュリー様はこちらの方を見つめてくる。
「改良といっても私は大したことはしていませんよ。基本的な構造には触れていませんし、ただ月の精霊の好きな文句を書き加えただけです。」
私はそう前置きをしながらパチュリー様に月符を手渡す。
「なるほど……、これだけでも制御系の効率性が二割上昇するのね。」
パチュリー様はそれをしばらく注視して、独り言のように呟いた。
「流石だわ、小悪魔。」
「ありがとうございます。もっとも、私は月の精霊以外お役に立てませんけれど……。」
パチュリー様の言葉に私は笑顔で頷く。
「それだけで十分よ。……でも、今まではそういう仕事は断っていたのにどういう風の吹き回しかしら?」
歯に衣を着せず、ストレートに問いかけてくるパチュリー様。
……確かに今までの私は自分の正体に関わりそうな仕事はできるだけ避けていた。
月の眷属に接触することすら、あの頃までの私なら忌避したことだろう。
「この姿ではただでさえ『できないこと』が多いのに、加えて『やらないこと』まで課すなんておかしいと思ったのですよ。……単にそれだけのことです。」
私はにっこりと笑って答えた。
――それは本当に些細な変化なのかもしれない。
だけど、蝶の羽ばたきが台風を起こす可能性を秘めているように、何かが始まるかもしれないのだ。
だってここは私の夢見た別の世界、行く先の見えぬ幻想郷なのだから……。
@ @ @ @ @
「小悪魔様! 私に少しでもいいから貴女様のお慈悲を! 世界中の女性とは言わないわ。せめて魔理沙と霊夢だけでも!……ね?」
「あはははは…………」
勿論、できないことはできないわけで、こればっかりはどうしようもないのだった……。
凄い、凄くいい。
こあもマルコも可愛いし、格好いい。
咲夜さんの台詞が出てきたときには驚いたけど、「まあ、あの人ならやれるだろ」という事でそこはプラマイゼロ。
見事なり。
しかしアリス、お前ってやつぁ…
ekoekoazarakuekoekoazaraku…
あ、制御みs………(消滅
そんな私は二十代。
小悪魔との合わせ技で上限一杯。
でも、50点では満足できないのでこちらで