何かに呼ばれた気がした。それ自体は珍しいことではない。
スキマを通してそういった声が聞こえるなど数え切れないほどある。
人間ならばまともな正気は保てないだろう。彼女のように変わった妖怪でもなければそれには耐えられない。
その全てに答えていたのでは身体がいくつあっても足りるものではない。だから普通は無視していた。
その声の主を見てみたいと思ってのは何のことはない気分だった。
暇だった、というのが大きい。暇潰しになれば良い程度の考えだったのだ。
どんな所であろうと―――それこそ冥界にすら瞬く間に移動が出来る彼女からすれば距離などあってないようなものである。
目的の場所はすぐに見つかった。
眼前に広がるは彼女ですら少し息を呑んでしまうほどの大きな桜の木。
その場所で一体何百年在り続けたのだろう。
「あなたかしら?私を呼んだのは?」
風も吹いてないのに木は大きく揺れる。
あいにくと声無き声を聞き取ることは出来ないが、そうだと答えるように聞こえた。
「何の用なのかしら?あなた程の力を持つモノなら出来ないことの方が少ないでしょうに」
それこそ冥界の門を開くのも出来るはずだ。
尤も、それをすればこの辺り一帯は間違いなく地獄絵図さながらになるだろうし、そんな無意味なことをする輩も居ないだろう。
「……誰かいるの?」
不意に声がかけられる。声が聞こえたのは木の上から。
見上げてみれば上の方から彼女の方を見下ろしている一人の少女の姿があった。
「あら、こんな所にお客様なんて珍しい」
少女は嬉しそうにそう笑った。
そこははっきり言えば年頃の少女が住むものとはおよそ遠いものであった。
人間が一人で住むには広すぎるといえる広さの屋敷。
にもかかわらず、使用人らしき人物は一人としてなく、幽霊屋敷と言われてもすんなり納得できる。
「こんな所に尋ねてくる人なんていないからろくな御もてなしも出来なくてごめんなさい」
「ご心配なく。私は人間ではないからそういったルールで考えなくて良いわ」
「あら、ごめんなさい」と面白そうにクスクスと笑う少女。
少女は彼女が人間でないと一目で見抜いた。
それ自体に異常は感じない。数だけは異様に多い人間だ、そういった人間がいたところで特に不思議にも思わない。
もし異常なのだとしたら少女に招かれてあっさりと招待に応じた彼女自身であろう。
何故だか分からないが興味が沸いたのだ。
この人が暮らすにはあまりに不向きな場所で一人で暮らす少女に。
もしかするとあの妖怪桜に何かをされたのかもしれない、と何となく思った。
だが、それはそれで良いではないか。
これこそが彼女が求めていた暇潰しになるのだから。
「ねぇ、あの世って本当にあるのかしら?」
出会い頭の、しかも妖怪に対して一つ目の質問がこれである。
少女に対する興味がさらに増していくのを感じた。
ここまで色々な意味で面白そうな人間は本当に久しぶりだ。
思った以上の暇潰しが出来るかもしれない。
「……あ、妖怪だからと言って何でも知っているとは限らないわよね」
「安心なさい。そこらの低級妖怪なら兎も角、私に行けない所なんてないわ」
「本当?なら、どんな所か知ってるの?」
「そうね。一言で言えば『色鮮やか』ね」
「……色鮮やか?」
少女は不思議そうに聞き返してくる。自身がイメージしていたものと違っていたのだろう。
成仏を忘れた亡霊は新たな生を生まない。
死ねない人間は色鮮やかな冥界を知らない。
これは絶対の理であり、彼女のような規格外でもない限りは真実の姿など知りえない。
「あなた達のイメージでは暗いとかなのかもしれないけれど、それとは正反対ね」
あの世―――正確には冥界のことではあるが、暗いというよりはむしろ陽気に近い。
この地上の方がよっぽど暗いとすら言える。
彼女の話を少女は目を輝かせる様子すら見せて聞いている。
そんな少女の様子に彼女は内心ほくそ笑む。
―――彼女はいつでも赤子の手を捻るよりも簡単に少女の全てを蹂躙できるのに。
力関係でいってしまえば捕食者と捕食される側でしかないのに。
それを知っているのか、それとも知らないのか。
どちらにしても楽しいことには違いない。
「ねぇ、他にも聞きたいことがあるんだけど、いいかしら?」
「ええ、私に答えられることならね」
彼女は内心をおくびにも出さずに、そして少女もまた無邪気に笑う。
その日二人は夜遅くまで話し続けていた。
次の日も、会話は続けられた。ただ、取り交わすのはさして重要性もない会話ばかり。
少女が一方的に質問をして、彼女は適当に答える、それだけだった。
「私はこれでも良家の娘なのよ」
二人が出会ってどれくらいのときが経っただろうか。
少女が自分のことを話すのは初めてだった。彼女はへぇ、と相槌を打つ。
身なりや仕草から良い所のお嬢様であろう、ということ自体は納得できた。
ただ、そんな良い所のお嬢様が何故こんな所にいるかという疑問は残るが。
そしてその疑問自体はすぐに解決されることになる。
彼女が生まれた家は代々様々な能力者を産み出し、魔を祓う家系であった。
それは彼女も例外ではない。
『人を死に誘う力』
彼女の力はその中でもさらに特異な力であった。
最初は死霊を操る程度の能力でしかなかったのだが、次第に力が上がるにつれて死すらも操るようになったのだ。
周りは神子と彼女を称えた。普通では手に負えない怪物すらいとも簡単に屠ってしまうその力はそれほどに凄まじかったのだ。
―――が、それは人の身には余りあるものであったのだ。
その力は次第に彼女の意思に関係なく周りに牙を剥き始める。
神子だと言っていた人達が鬼子だと彼女指差すようになるまで時間はさほど要らなかった。
それでも、味方がいなかったわけでなかった。
父親すらに恐れられるようになった彼女の味方となってくれる人物はただ一人だけいた。
彼女を産むのと引き換えに命を落とした母親から「この娘をお願い」と頼まれたらしく、周りがどのような評価を下そうが彼だけは彼女の味方であった。
数年間曲がりなりにもまともな生活をを送れたのは間違いなく彼のおかげだった。
―――だけど、彼は殺されてしまった。他でもない彼女の手によって。
言い訳をしてしまえば死んで欲しいと願ったわけはなくただ「もう少し一緒にいたい」と思っただけ。
でも、彼はその願いのために死んでしまった。永遠に彼女と共にあるために。
そして彼女は本当の意味で一人きりになった。
「愚かな少女は完全に隔離されて、一人きりの生活を送っているというわけ。欲望は抑えないととろくな事にならないというお話ね」
彼女は笑顔の少女をなんとなしに見つめながら思う。
人間とはこんなに強いものであっただろうか。
人間が群れるのは数が多いからではない。群れるため数が多いのだ。
人間ほど『個』が弱い生き物は他にほとんどいない。
ウサギは寂しいと死んでしまう、と誰かが言っていたがそれは間違えている。
寂しいと死んでしまうのは人間の方だ。一人で正気を保てるほど人間は強くはない。
なのに、少女はワラッテイル。
ああ、と瞬時に理解した。
何故この考えに今まで至らなかったのかが不思議なくらいだ。
案外自分も狂っていると、他人の狂気というものには気付かないものなのかもしれない。
「……そう、そういうこと」
合点がいった。
危険だと知っているはずなのに、彼女の前で少女が無防備な姿を晒している理由を。
―――つまり、この少女は狂っていた。
「あなたは私に殺して欲しいのね」
「ええ、その通りよ。さすがね」
少女は変わらぬ笑みを浮かべたままはっきりとそう言った。
それは恐ろしいほどに純粋な笑み。
とっくの昔にどうしようもないほど完全に狂っていた。
唯一の味方を殺してしまった時か、それとももっと前からかは知らない。
知る必要もない。彼女を留めいていたのが少女の狂気故だと分かればそれ以上何の必要もない。
案外自分の直感も捨てたものではない。
―――こんな掘り出し物に出会えたのだ、これ以上の何を望むというのか。
「この子なんでしょう?あなたを呼んだのは」
全て知っていた、と少女は言った。
この妖怪桜が少女の望みをかなえようとしていたことを。
その力故に少女は他者が殺すことが出来なくなってしまった。
「だから探していたの。私を殺すことの出来るモノを探していた」
彼女の力はそのモノの生の過程を強制的に奪うものだ。
例えて言うのなら徒競走でのスタートからゴールまでの距離を失くすようなもの。
終わりあるものに終わりをもたらす力だ。
ならば、終わりというものがあやふやな存在なら少女を殺すことが出来るということ。
「止めはしないけど、言っておくわ。そんなことをしても無駄よ」
少女は『死』に触れすぎたのだ。
もはや輪廻の輪に乗ることすら出来まい。
何もかも最早手遅れなのだ。
「―――良いの。もう、決めたことだから」
その時の少女には僅かばかりの正気が見て取れた。
もしかすると、彼女の残酷な運命に対するせめてのもの抵抗だったのかもしれない。
「そう。なら私から言うことは何もないわ」
何かを考えるように目を瞑り、そして、
「嫌よ」
「……え?」
その願いを却下した。
その日から彼女は時折少女の住む小屋を訪ねるようになった。
朝だろうが昼だろうが夜だろうがお構いなく、気分次第で行ったり行かなかったりもした。
それでも、少女が彼女のことを拒んだことはなかった。
「あなたなら私を殺せるんでしょう?」
その度に同じ問答を繰り返す。そして、答えはいつも同じだった。
「そうね。赤子の手を捻るくらいには簡単ね」
「だったら、何故?」
「何故私が貴方を殺さないといけないの。そんな縁もないし、別に必要でもないもの」
妖怪が何の理由もなく人間を襲うとでも思っているのだろうか。
全く以ってその通りである。
では、何故少女の願いを断るか。単にやる気がないだけだ。
やる気が出ないことをやる必要などどこにもありはしない。
「そんなに死にたいなら自分でやりなさい。わざわざ私が手を下す必要もないでしょう」
「……出来るならとっくにやってるわ」
自分で自分の命を絶つのが怖いのだと言う。
全く我侭なことだ。彼女は人間より妖怪の方が向いてるのかもしれない。
「どうしてもって言うならそこの妖怪桜にでも頼みなさい」
「……え?」
「え、じゃないわ。知ってるんでしょう?この桜は意思があるんだって」
指差すのは狂い咲きというやつか、季節はずれの満開を見せる妖怪桜。
生物であろうが、別のモノであろうが、長きに渡ってそこに在るというだけで相当の妖力を持つ。
当然この桜の木も例外はないわけで、ここまでの力を持っていれば少女を殺すこともわけないことだろう。
「見たところあなたにご執心みたいだし、頼めばきっちり殺してくれるわよ」
嬉々としてね、と心の中で付け加えておく。
「……西行妖よ」
「?……ああ、この子の名前ね。随分と立派な名前だことで」
「由来までは知らないけど何百年も前からそう呼ばれてるそうよ。……さっきの話だけど、それも嫌よ。これは私の我侭だから」
曰く、この西行妖は少女が小さい時から心休まる唯一の場所と言っても良いところだった。
一人で寂しい時も、周りから認められて嬉しかった時も、真の孤独となった時も、いつでも西行妖とともにあった。
向こうがどう思っているかは分からないが、少女にとっては半身のようなものなのだ。
だから殺させるような真似をしたくない、と。
正気じゃないくせに随分冷静なものね、と思う。
案外人間から正気を抜いたら妖怪っぽくなるのかもしれない。
「あら、私なら殺させても良いのね」
「だって縁も大してないんだから、心を痛める必要はないでしょう?」
「―――それもそうね」
「でしょう?」
狂人達は笑いあった。
ひとしきり笑った後で彼女は少女に気付かれないように西行妖の方をちらりと見て呟いた。
「飛ばぬなら、殺してしまえ、揚羽蝶」
「?何か言った?」
「いーえ、きっと空耳よ」
異変はその日ある意味いつも通りに彼女が気まぐれでぼろ屋敷に泊まることにした夜のことだった。
外が騒がしかった。元より彼女が夜行性という事もあるが、それを置いても眠気など全く起こらなかった。
人間風に言えば嫌な予感というやつだろう。
―――それはとても素敵なことだと彼女は考えている。
嫌な予感ほどわくわくするものが他にあるだろうか。
それは大切にしなければならない。ほぼ確実に厄介事に首を突っ込めるということなのだから。
もはや戸としての意味はなしていないぼろぼろ障子を開けて外の様子を伺う。
そこに広がってたのは地獄絵図さながらの百鬼夜行。
数多の魑魅魍魎が我が物顔で闊歩している。
冥府の門が開かれた、と理解するまでにはそほど時間は必要としなかった。
「だから言ったのよ。我慢は身体に悪いって」
視線の先には怪しい輝きを灯している西行妖の姿。
堪えていたものを吐き出すように冥府の亡霊達を導き続ける。
不意に亡霊どもの一体が彼女の方を向いてきた。
彼女もまた見つめ返した。それは時にしてほんの一瞬の出来事。
そして、それだけだった。亡霊は視線を戻し、どこかへ去る。
彼女は地獄の再現図と化した屋敷の庭を何事もないかのように歩く。
亡霊達はそんな彼女に見向きすらせずに目的の場所へと殺到している。
そして、聞こえてくる少女の悲鳴。
視線を移してみれば亡霊達に身体の自由を奪われて外に引きずり出されている少女の姿。
少女の視界の中に彼女が入る。
「た、助け―――っ!」
「あら、良かったじゃない」
「……え?」
化け物達の拘束されたまま少女の表情は凍りつく。
「あなたの望み通り殺してくれるわよ。何の縁もなくて、心を痛める必要がないから」
「―――」
少女は今度は思考ごと凍りつく。
確かにその通りだ。彼女の言っていることは何も間違えてはいない。
相手は死体も同然のものだ。終わりを迎えているものに終わりを迎えさせることなど出来ない。
自分を殺すのにこれ以上にうってつけのモノがあるだろうか。
―――だけど、
「……嫌」
こんなに怖いのは違う。
こんなに痛いのは違う。
こんなものは自分の知っている『死』ではない。
「嫌、嫌っ!」
少女は知らない。彼女の知る死者は全て安らかなものであったから。
彼女の力で死んだ者は終わりを迎えさせらるものけれど、終わりを迎えるということは本当は幸せなのだということを。
その途中で脱落してしまった者達の無念を、怨念を彼女は知らない。それはとても怖いものだと知った。
だから、
「―――死にたくないっ!」
今更ながらに自分のそんな本心に気がついた。
一人は寂しかった―――だから力を求めた。
孤独は痛かった―――だから死んでしまえば良いと思っていた。
「そう。なら私が殺してあげる」
そして、そんな少女に彼女はそう宣告した。
絶望の色に変わる少女の表情。
「残念だけど、もう手遅れなのよ。あなたが犠牲にならない限りは西行妖は止まらないわ」
西行妖は少女を欲している。愛しているといっても過言ではない。それが観察を今まで続けた彼女の結論だった。
欲しければ力づくで奪ってしまえば良かったのだ。この妖怪桜にはそのくらいの力は十分すぎるほどある。
にもかかわらず、西行妖はそういったことはせず、しかもその強大な力は一切使わず少女を見守り続けた。
だが、悲しいかな。ダムは使われなければいつかは貯水量を上回ってしまうものなのだ。
だから『狂い咲き』をした。もう自分を抑えるのは限界だと言わんばかりに。
少女が欲しいがために狂っているのだから、少女を生贄にすれば収まるのが道理だ。
「……私が死ねば西行妖は止まるの?」
「ええ、他に手の打ちようはないわね。まぁ、好きになさい。あなた一人が助かって他が死のうが、逆になろうが私にはどっちでも良いもの」
選べ、と彼女は言った。この亡霊達をこのまま放っておけば近隣の村をここと同様の地獄絵図に変えるは必然。
少女が一人死ねばその被害はほぼ確実に失くすことができる。
だが、そんな代償問題など彼女にとってはどうでもよく、ただ少女がどう決断するが興味があるだけである。
「……私の命だけで良いのね」
少女の決断にはそう時間はいらなかった。
この子を汚したくないのだ、と少女は言った。
少女の知る西行妖はいつでも雄大であり、美しかった。
だからこのようなことでそれを汚したくないのだといった。
「そう。なら今回だけはそのお願い叶えてあげる」
「……あ、あともう一つだけお願い」
「何?」
「痛くないようにしてね」
「……そうね。良い物を見せてくれたせめてのものお礼よ。苦しまないようにしてあげるわ」
「―――ありがとう」
交わす言葉はそれだけで、彼女は少女の魂を『喰』らった。
糸の切れた人形のように動かなくなる少女。
……刹那、亡霊達が何かを悲しむかのように一斉に雄叫びを上げる。
それに呼応するかのように大きく震える西行妖。それは西行妖の嘆きのようだった。
「そう、あなたは欲しいのね。この子を」
少女に群がる亡霊達を力づくでどかして、少女の死体を抱きかかえる。
こんなにも巨大な力を持つ妖怪桜が一人の少女のためにこんなにも悲しんでいる。
ああ、何て麗しき愛情だろうか。
「良いわ。この子の『生前』は私のもの。『生後』はあなたに譲ってあげる」
彼女は一歩ずつ西行妖の元へと近付いていく。亡霊達は道を譲るように彼女から離れていく。
そして、彼女が西行妖の目の前までに着いた時、変化は起きた。
少女の死体が輝いたかと思うと西行妖に取り込まれ始めたのだ。
桜の木は冥界に繋がる。ならば、その門を潜れば少女は――
刹那、西行妖は目がくらむほどの輝きを放つ。
その輝きが収まったときには優雅に咲き誇っていたはずの西行妖はその面影の欠片もなく、ただの一本の枯れた大樹であった。
そして、亡霊達は最初からいなかったかのように一匹足りとて残ってはいない。
一人残された彼女は変わり果てた西行妖を見ながら呟く。
「―――また会いましょう」
今更ながらに気付いた。最後まで少女は自分の名を名乗らなかった。
彼女もまた自分の名を名乗らなかった。
結局、二人はそういう程度の関係でしかなかったのだと。
『彼女』が目を覚ました時、そこ一本の巨大な桜の木の下だった。
周りの桜は満開なのに、その桜の木だけは何故か一輪の花すら咲いていない。
でも、不思議とその桜が満開に咲いた時のイメージだけははっきりと浮かんだ。
「こんにちわ」
ぼーっとその桜の木を見上げていると不意に声がかけられる。
視線を向ければそこにいたのは日傘を差した見覚えのない女性の姿。
その傍らにはやや古風な感じの男の姿もある。
「……お久しゅうございます」
そして、男は深く頭を垂れた。
その表情からは親愛、懐かしさ、色々なものが感じ取れる。だけど、
「……あなた誰だったかしら?」
「―――」
彼女には男の事がまるで分からない。
そもそも何故こんな所にいるのか、それ以前にここは何処なのか全くな分からない。
男はショックを隠せないようだったが、記憶のほうがないのではどうしようもないではないか。
「……いえ、あなたとってはその方が良いのかもしれませぬな」
男がぶつぶつ呟くのを聞いて、自分はもしかすると記憶喪失というやつなのかもしれないと気付く。
それならば色々と合点が行くが多い。
「えっと、もしかするとあなたも私の知り合いだったのかしら?ごめんなさい、全然覚えてないのよ」
「ええ。でも気にすることはないわ。自己紹介もしない程度の縁だったのだし。それとあなたは記憶喪失というものではないわ。あなたは生まれ変わったの。死に変わったと言った方が正確だけど」
女性の言っていることはよく分からないが、ああそうなんだ、と単純に納得した。
ここは死に逝く者達の辿り着く場所で、だからこそこんなにも色鮮やかなのだと。
「気分はどうかしら?」
「……悪くないわ」
実際とても晴れやか気分だった。長く背負っていた重荷を下ろしてしまったようなそんな感覚。
「そう。それは良かったわ。では、改めて―――」
彼女は両手を大きく広げる。まるでこの世界の代表であるかのように。
「―――ようこそ、亡霊さん。色鮮やかなあの世の世界に」
こうして『西行寺幽々子』の時は始まった。
その声の主を見てみたいと思ってのは
少女は彼女が人間でないと人目で見抜いた。
「あら、私なら頃させても良いのね」
ちょいと偉そうに言わせてもらいますと、
台詞回しは割といいセンスしてます。
ただ2点、紫が幽々子を殺せる理由と幽々子の「西行妖を止めるためには~→それなら死んでも~」の展開に少々違和感が。
前者は「なんでそうなるの?」って感じです。亡霊になった後ならともかく、人間なのに殺せるものが限定されるのがよく分からない。
後者は急すぎると言うか、もうちょっと説明が入ってもいいかと。「何故西行妖が狂い咲きしたか」の理由は書いてても「何故幽々子がそういう決断を下したか」が弱い気がします。「自分だけが犠牲になれば~」を理由にするなら、「もう誰も殺したくない」ってのを前に出さないとインパクトがないというか。
先生、「慣れない事はするもんじゃない」って名言ですよね。
ただ、幽々子と紫の出会いについて「ああ、そうか。こういうのもありなんだな」と思わせてくれた作品だと思います。