「妖夢、悪霊を斬れ」
朝餉を終え、道場に来た妖夢を待っていたのは師であり祖父である妖忌の言葉であった。
「おぬしも剣を学び始めて長い。そろそろ実戦を経験すべき頃だ」
さすがの妖夢も反論を試みる。自分が剣を学び始めて数十年。が、やってきたのは愚直なまでの基本の型の繰り返しと妖忌との実戦形式の打ち合いのみ。いまだ何も『技』というものを教わっていない。そんな自分に霊など切れぬ、と。
「霊を切るのに技などいらぬ。それにその程度の技術はすでについておる。」
鼻白む妖夢に差し出されたのは一本の脇差。
――白楼剣。一族に伝わる名刀。その刃は迷いを断ち切るという。
「無手で斬れとは言わぬ。我が白楼剣を貸し与えるゆえ、見事斬ってみせい」
差し出された脇差を拝して受け取る妖夢。両手の重みは剣の重さか、はたまた重圧か。
皆伝の証ともいうべき刀を思わぬところで手にし、複雑な表情の妖夢に更に与えられた言葉は非情。
「その白楼剣。抜くも振るうも一度のみ。二度振るえば破門としれい」
それは、敵を一撃で切り伏せなければならぬと言うこと。
妖夢の手の中で白楼剣の重さが増す。
「これは師として祖父としての願いじゃ。妖夢、お主もそろそろ一人前になってもよかろう」
祖父として――。白楼剣を預けられた上、そんな事まで言われては妖夢に断れようはずもない。
「魂魄妖夢、謹んでお受けいたします。見事その悪霊一刀の元に叩き切って参りましょう!」
稽古着を脱いで、いつもの服に着替える。
白楼剣は脇差なので、腰に。楼観剣の代わりの長刀を腰の後ろに。
明朝までには帰るつもりなので、着替えの類は持たない。路銀は最小限に。
悪霊は人里に現れる。そして、その悪霊は生前名の知れた剣客であったという。
勝てる勝てないは問題ではない。師の命そして悪霊である限り叩き斬る。
雑念は不要とばかりにそれのみを頭に叩き込む。
用意が済んだところで、部屋の外から声がかかる。
「妖夢~、いる~?」
障子を開けて入ってきたのは、主人である西行寺幽々子だった。妖夢はまだ正式には幽々子に仕えているわけではない。が、師である妖忌が仕えている以上妖夢にとってそれは主人も同じである。
何か用があって来たのだろう。だが、普段着の妖夢の姿を見た途端、可愛いだの格好いいだの言って妖夢を観察してくる。
正直な所、妖夢は幽々子のこういう点は苦手であった。無論、顔にも声にも出さないが。
なんの御用でしょう、と妖夢が問うて、初めて思い出したように懐から何かを取り出す。
「妖夢は今日はおでかけなんでしょ?はいお弁当。ちゃんと食べるのよ?」
まさか弁当とは予想していなかった。差し出されるまま受け取ると意外に重みがある。
中身は握り飯だろうか、竹の葉でくるまれたそれを妖夢は懐にしまう。
「お心遣いありがとうございます、幽々子様」
礼をいい頭を下げる妖夢。そんな妖夢の両頬を不満げにぎゅっとつまんで幽々子は言う。
「もう、妖夢は真面目なんだからもっと可愛い顔しなさい笑いなさい。それ、ぎゅぎゅ~」
「痛い痛いです、幽々子様」
幽々子の手から逃れる妖夢。意外に力があるのか、頬がひりひりと痛い。
「ほら、これで気合入ったでしょ?何の用事か知らないけれど頑張ってきなさい」
そういって桜花結界まで見送りしてくれる。本当は用事の内容も知っているのではなかろうか。
しかし、年中花のように笑っている幽々子の表情から何かを読み取れるほど、幽々子との付き合いが長い妖夢ではなかった。
桜花結界を越え、人里に着いたのはそれから一刻後であった。
半霊である事が知れると厄介なので、半霊は上空高くに待機させておく。。
そうなると殆ど身一つに脇差のみとなって余計に不自然なのだが、村の守番はすんなりと通してくれた。
村に入り妖夢は驚いた。悪霊が暴れているという話であったので、てっきり村は荒廃しているものと妖夢は思っていた。
それでなくとも魑魅魍魎溢れる幻想郷において、道端では子供が独楽を回し主婦が洗濯物を干しているという光景が妖夢には衝撃的であった。
師に付いて各地を放浪した時に見た村は、何処も妖怪を恐れ外を出歩く人はあまりいなかったというのに。この村のなんと平穏な事か。
一瞬、師にたばかられたと思ったがそんなはずはないと思いなおす。
ともあれ、この村で悪霊が潜み狼藉を働いているのは事実。まずは情報を集めよう。
茶屋で団子と茶を注文し、品を持ってきた主人にそれとなく聞いてみる。
「さぁ聞いたことないねぇ。でもそういうのは皆、慧音様が倒してくださるからな」
――慧音様?
上白沢慧音。なんでも代々この村を守ってくれている術士様との事。
代々守っているということから、おそらく慧音という名は世襲なのだろう。
そして、たった一人でこの村を守りきっているからには相当の腕前。ならすでに悪霊は討ち果たされた後であろうか?否、師から討伐を命じられたのは今朝方のこと。幾らなんでもそんな短時間に倒されたとは思い難い。
それ以前に、村の術士に先を越されました、などと報告できるはずもない。
「主人、馳走になった」
まずはその術士に会ってみるか。確か村の外れの屋敷に住んでいるんだったな。
妖夢の期待も空しく慧音は不在であった。
こうしている間にも悪霊が退治されてはいまいか。心ばかりが焦る。
本来ならば、悪霊が退治されれば誰が倒したかなど些細な問題なのだが、功を焦る今の妖夢にそこまで考えは至らない。
時間はそろそろ未の刻。日没までには情報を集めておきたい。
あとはもうがむしゃらだった。子供から大人。道行く人々に尋ねてまわる。
が、帰ってくるのはほぼ同じ答えばかり。そんな妖夢に声をかける男が一人。
蟇のような浅黒い顔をし、背中のひん曲がったその男は妖夢にこう言った。
「あんた悪霊を探してるんだって? おりゃそれに心当たりがあってねぇ。ちょいとそこで話聞かないかい?」
げへへと嫌らしく笑う男は路地裏を指差す。そんな男妖夢はに嫌悪感を抱いたが、藁にも縋る一心で男の後を付いていく。
路地裏の奥まで来たところで妖夢が問う。
「悪霊の情報とはなんだ」
「へっへっへ、いやなに私がその悪霊ですよ」
そう言ってふざける男の背後から屈強だが頭の悪そうな男が二人現れる。妖夢の背後にも二人。全員刀を持っている。
「お嬢ちゃんのその脇差、さぞ名刀なんでしょう? 売ればいい金になるかねぇ」
下品に笑うその男を冷ややかに見つめる妖夢。
何者かが潜んでいるのは路地裏に入った時点でわかっていた。が、情報が手に入ればと見逃していたのだ。
――やはり即座に倒しておくべきだったか。
軽率な自分の行動を悔やむ。と、同時に少し冷静になる。いったい自分は何を焦っていたというのか。
「ささ、その脇差を渡してもらいましょうか」
下品な声が妖夢の思考を断ち切る。
「断る。貴様等のような下種に渡すものなど何一つとしてあるものか」
「ちっ、手前等やっちまいな!」
その声と同時に後ろの男が斬りかかってくる。
妖夢は膝を曲げ一歩下がる。頭の上を刀が通りすぎると同時に白楼剣の鞘を男の鳩尾に叩き込む。
倒れる男を回り込むように体を移動させ、もう一人の側面に回りこみ、わき腹を白楼剣で突く。
その男の腰から刀を奪い、側面の壁を蹴り左右の壁から壁へ跳躍。
空中で反転し正面の男達の背後に降り立つ。男達が振り向くより疾く妖夢の刀が唸る。どうと倒れる男達。
「――峰打ちだ。安心しろ」
抜き身の刀を引っさげ、蟇顔の男に近づく。男は腰を抜かしていた。まさかこんな年端もいかぬ少女が剣の達人だとは夢にも思うまい。
男の鼻先に長刀を突きつけ問う。
「さぁ、悪霊について知っている事をすべて話してもらおう」
「むむむ村の端に庄屋屋敷がある。そこに悪霊が化けて出ているって話だ。ほ、ほら話したから命まではーー!」
――村の奥の屋敷、ね。
何はともあれ無駄足にならずに済んだ。曲がった背を更に曲げてうずくまる男を無視して路地裏を出る。
大通りを進むとすぐにその屋敷は見つかった。人目でわかるほどの大きな屋敷。
さて、ここからどうするか。真っ直ぐ門を叩いて事情を聞くのが早いが、怪しまれるのは明白。
門の前で妖夢が思案していると、門が開き人が出て来た人物と目が合う。
「そこな少女、この家に何か御用かな?」
四角い羽根飾りのついた帽子、銀髪に蒼の混じった髪、紺色の裾の広がった服。
思い当たるのは話に聞いた村の術士。
「あなたが……、上白沢慧音……殿?」
「いかにもそうだが……、ふむ何か事情でもあるようだな。なら中に入らないか?」
「よろしいのですか?」
「ああ、私も事情があってあまりこの家を離れたくないのでな。ほら着いて来なさい」
そういって門の奥に消える慧音をあわてて追いかける。
玄関に入ると女中らしき人が迎えてくれ、一室に通される。
部屋に入り、茶を持ってきた女中が下がると慧音が話を切り出してきた。
「まずは自己紹介しておこうか。私は上白沢慧音。ゆえあって当家を守護している」
「私は魂魄妖夢。……悪霊退治を生業としています」
少し苦しいかと思ったが、まさか正直に言うわけにもいかないのでそう答える。
「で、半人半霊か?」
思いがけず正体を看破され、刀に手が伸びる。
「あぁ待て待て。おまえに危害を加えるつもりはないよ。それに……私も半獣半人だからな」
その告白に妖夢は面食らう。話を聞いてみれば、白澤との混血らしい。妖夢が半人半霊とわかったのもその能力故だという。
ならば話は早い。妖夢は師匠からの命で悪霊を探していること。この屋敷でそれらしい現象が起きていることを話す。
「そうか、おまえは冥界の守護の一族だったのだな。ならば、お前の師のいう悪霊とやらはここの家に出没するもので相違なかろう」
聞けば慧音自身も、その悪霊からこの家を守る為に逗留しているという。
「お前に頼みたいのだ。その白楼剣で悪霊を成仏させてやってくれないか」
そういって頭を下げる慧音。妖夢は悩む。
それに、白楼剣がいかに未練を断つといってもそれは強制的なもの。なるべくなら説得できないものか。
「私も説得しようとした。だが、悪霊となった彼の耳には届かなかったのだ」
いずれは斬らねばならぬ相手。声が届かぬならば致し方ない。
「わかりました。まだ未熟ではありますがその者の未練、断ち切って見ましょう」
急に不躾に襖が開けられる。
「そこの少女か? 儂を悪霊から守ってくれるというのは」
現れたのは、恰幅のよい男。むしろ脂ぎっているというほうが正しいかもしれない。
「確かにその年齢にしては目つきの方は鋭いが……。腕が立つのかあやしいものじゃな」
不躾な物言いとねめまわすような視線。
「どうじゃ一つ腕前でも見せてくれんか?」
「お断りします。剣は見せびらかすものではありません。その時になれば特等席でご覧いただけるでしょう」
つっけんどんに断る。
「餓鬼が吠えよるわ。貴様のような子供に守ってもらおうなどこちらも思わんわ」
「私は悪霊を斬りにきただけだ。あなたを守りに来たわけではない」
「なんだと!」
「極論、悪霊を斬れさえすればあなたの命などどうでもいい」
無論死ねばいいなどとは思っていない。だが、初対面の相手に対してあの態度。少しくらい言い返したところで問題はないだろう。
そんな答えが返ってくるとはまさか予想していなかったのか、主人は鼻白み顔を真っ赤にして部屋を出て行った。
「妖夢、気持ちはわかる。が、少しは抑えてくれ……」
疲れた顔で慧音がつぶやく。案外苦労性だな、などと思いつつ妖夢は茶を啜った。
妖夢は与えられた一室でぼんやりとしていた。夜まではまだ時間がある。
先ほどの慧音の反応を思い出す。
「彼はおそらく今晩も来るだろう。それまでここでゆっくりしてくれ。ここの主人には私が話をつけておこう」
そう言って部屋を出て行く慧音を妖夢は複雑な表情で見送った。
果たして自分に彼を斬ることはできるのだろうか。剣を学び始めて数十年。が、一度たりとも実戦は経験したことがない。
やってきたのは基本の修練のみ。先のゴロツキとのは戦いなどと呼べるものではない。
奥義の一つも教えられていない。基本の型のみの私に倒せるだろうか。
いや、技はある。師の技を見よう見まねで工夫したものだ。
現世斬。それがその技の名前。
神速で相手の懐まで踏み込み、ほぼ零距離からの居合斬り。それが妖夢の見た現世斬であった。
果たして、それを使っても勝てるのだろうか。
それに、悪霊がここの主人を狙う動機も気になる。あの主人の事だ、恨みを買っていても不思議でないが……。
いや、動機などどうでもいい。悪霊を斬る。それだけのことなのだ。
おもむろに刀を抜き青眼に構える。正面に師を幻視する。鋭い打ち込み。刀で受ける。刀ごと両断される。
妖夢は肩を落とす。あの程度の打ち込み耐えられねば勝機はないだろう。
再度、青眼に構える。今は自分にできる事をしよう。たとえそれが影との付け焼刃の訓練であろうとも。
気がつけばとっくに日は暮れていた。
いったい何度影に頭を割られたろう。何度命を失っただろう。
体を畳に横たえ、深く息を吸う。次第に呼吸が整う。
その時、妖夢の耳は微かに聞こえる剣戟の音を捉える。
――しまった!
急いで屋敷の奥へ向かう。
刀を持ち、音のする方へ向かう。座敷への襖を開けたその先に広がっていたのは、血に塗れた畳。折り重なる死体。
慧音は肩口を斬られている。かなりの深手。背中に庄屋をかばい結界を展開している。
こちらに背を向けている男。紅く染まった瞳が悪霊の証。
「そこまでだ、悪霊武士!」
背後から問答無用で斬りかかる。が、あっさりと弾き返される。元より不意打ちで倒せる相手とは思っていない。
「妖夢!」
「慧音殿はそこに居てください。こやつは私が!」
悪霊も妖夢こそが障害と見たか、こちらに斬りかかって来る。
狭い室内では不利。右手の襖を叩き斬り、庭へと誘導する。
枯山水を踏み荒らし、銀の光がぶつかり合う
互いに全開で突進。咬み合う刃と刃。鍔迫り合いでは自分のほうが不利。
妖夢はそう考え刀を弾き返す。悪霊は弾かれた反動を腕力でねじ伏せそのまま振り下ろす。
反動に自らの体の回転を加え加速しての下段からの打ち上げ。
再び刃と刃がぶつかり合う。今度は競り合いにもちこまず間合いをあける。
男が疾風の如く飛び込んでくる。構える妖夢の目の前で男の姿が掻き消える。
左方向からの殺気に体の方が先に反応。
――直前で左に跳んだか!?
白楼剣を鞘ごと立て、その鞘で胴薙ぎを受ける。
鞘と刀を噛み合わせたまま、力点をずらすように体を捻りつつの回転斬り。
後方へ飛びつつ一閃。再び間合いが開く。
妖夢の左袖が赤く染まっていく。
飛び退きつつ振るわれた刃は正確に妖夢を捉えていた。
刀を掴む左手に力を込める。
――大丈夫、傷は浅い。
実は妖夢の回転斬りも男の胴を捉えていた。が、男の衣服に斬られた後はない。
妖夢は白楼剣でなければ、幽体である悪霊には傷を負わすことが出来ない。が、悪霊は何の障害もなく妖夢を斬ることが出来る。
これが悪霊と妖夢との絶対的な差。
――抜くも振るうも一度のみ。二度振るえば破門としれい。
師の言葉が頭をよぎる。抜くも振るうも一度。抜く動作と斬る動作は同時であればあるほどよい。
――ならば居合い、か。
思い浮かぶのは現世斬。あの零距離からの居合であれば抜くのも斬るのも一度で済む。
だが、そうそう相手も使わせてくれるものでもない。
腕だけではない、剣速も相手のほうが一枚上手。
先ほどまでの斬り合いで妖夢はそう感じた。
居合とはもともと後の先を取る技。相手に斬られるより早く相手を切らねばならない。
剣速で負けている時点で、居合に持ち込むのは不利。
如何に相手の虚をつけるか、妖夢の神経はそこに向いていた。
すぅと悪霊の構えが青眼から八双に変化。咆哮をあげて突っ込んでくる。
紙一重で見切り避けようとした妖夢の背筋を悪寒が走る。
横に回避する動きを無理矢理抑え後方に飛ぶ。直後、妖夢のいた位置を切り上げの剣が通り抜ける。
――上段は囮の残像か!
上段からの打ち降ろしが瞬時に下段からの切り上げに変化する剣。
背中を嫌な汗が流れ落ちる。直感に従わなければ斬られていた。
再び八双の構え。
――またあの残像剣か。
一度正体を見破ってしまえばどうということはない。
振り下ろされる上段より下段を――違う! 今度は下段が囮!
先ほどと同じ上段からの残像であるかのように見せかけての上段からの斬撃。
慌ててよけるが一挙動遅れ、肩を浅く裂かれる。
そして、三度八双の構え。
次は上段か下段か。迷いながら妖夢は構える
袈裟斬りと同時に切り上げの軌道。
下段を本命と見切り弾く。だが、悪霊は更に体を捻り無理矢理胴薙ぎ。
服と皮一枚裂かれる。
八双を起点にして、無限に変化する剣の軌道。
妖夢の背を嫌な汗が流れる。
慧音は座敷からその戦いを見ていた。
妖夢も幼いとはいえ腕は確かである。達人同士の戦いに慧音が混ざれようはずもない。
先ほどから妖夢は防戦一方になっている。
八双の構えからの攻撃を見切れず、その度に妖夢の体に赤い線が増える。
見ていることしかできない自分に、慧音は歯噛みする。
都合十度目の八双からの攻撃。また一つ己の体に傷が増える。
倒れそうになる体を必死で支える。一つ一つの傷は致命傷ではない。だが、それらは確実に妖夢から体力集中力を奪っていっている。
上段か下段か、それともそれ以外か。妖夢の心はちじに乱れる
青眼で構え向かってくる悪霊。後方に跳ぼうとした妖夢の足がもつれる。
一瞬の隙、だが相手にとっては絶好の機会。
受け止めた刀が折れる。元々特別な刀ではない。いままでもったのが不思議なくらい。
刀を折り自らに振り下ろされる刀を妖夢は見つめる。
ああ、ここで終わりなのか。師の命も果たせずここで終わりなのか。死んだら白玉楼に戻れるのだろうか。
取り留めのないことが頭をよぎる。――そして
それは鍛錬の成果か、本能のなせる業か。
もつれた足が大地を踏みしめ体を捻る。
左手の指が白楼剣の鯉口を斬り、右手が柄へとかかる。
一閃。
気がつけば悪霊と妖夢の位置は入れ替わっていた。
妖夢の手には鞘から抜かれ、振り切られた白楼剣。
半ば放心状態で妖夢は師の言葉を思い出す。
――技だけが斬る術ではない。無念無想の境地にこそ得られるものもあろう。
無意識の内に放った現世斬。あれが無念無想の境地だろうか。
そんな思考を断ち切るかのように、悪霊の叫びが迸る。
慌てて振り返れば徐々に消え逝く悪霊。だが、どのような未練がそうさせるのか。いまだ現界に留まっている。
ゆっくりと庄屋に向かって歩き出す。
「我……妻と……娘……仇を……」
地の底から響くようなその声を聞いて庄屋がひぃと悲鳴をあげる。
「し、ししし……仕方なかったんじゃあ! あの時儂等が生き延びるためには、囮が必要じゃったんじゃ!」
数年前、とある里が妖怪によって滅び、生き残った村人はこの里に逃げ込んできた。
その際庄屋やその他の村人は団体で逃げていたのだが、夜半夜雀の襲来に遭い、その男の家族を見殺しにしたという。
男は一足先にこの里へ連絡を入れるために先行していた為に無事であった。
「あの時、おぬしの家族を助けておれば皆が死んでおった! 儂とて苦渋の決断だったんじゃ!」
その話を聞いて、慧音は苦悩する。真実かどうかは歴史を喰えばわかる。
実際、その話は間違いではない。男の家族が自ら犠牲になることを望んだ事と、庄屋がそれを嬉々として受け入れたことを除けば。
「待て! 確かにこの男の行動は褒められたものではない! だが、死んだお主の家族はそんな事を望んじゃいない!」
慧音は必死で叫ぶ。だが。
「……もう……遅い……」
縁側を越え、座敷へ。
一部始終を妖夢は聞いていた。
過去を見る能力のない妖夢にはいまひとつ要領が得ない。
このままでは悪霊は慧音毎庄屋を叩き斬るだろう。
だが、もう一度白楼剣を叩き込めば完全に成仏させることができる。
――その白楼剣。抜くも振るうも一度のみ。二度振るえば破門としれい。
出掛けの妖忌の言葉が蘇る。
もう一度白楼剣を振れば、――破門。
もう妖忌から剣術を習う事もなければ、白玉楼へ行くこともなくなる。
妖忌の顔、そして幽々子の笑顔が脳裏をよぎる。
数時間の付き合いだが、半霊と知っても協力してくれた慧音。
それを見捨てれば怒るだろうか。
悪霊が慧音の前に立ち、刀を振り上げる。
――おじいさま、幽々子様、すいません!
落ちている長刀に飛びつき、拾い上げ納刀。
反転、起き上がると同時に居合の構え。
「餓えず迷わず天に還れ、復讐剣!」
踏み込み開始。
悪霊に向かって駆ける。
妖夢の目には長刀の間合いがはっきりと見える。
長刀の鯉口を切る。だが足は止めない。
狙うは振り下ろされる刀。
悪霊が未だ現界してられるのはあの刀が霊刀なのも一因。
――まずはその刀を断つ!
長刀の間合いに入った瞬間、居合いで刀を弾き飛ばす。
握る手の力を緩め、勢いそのままに長刀を放る。
が、腕は即座に腰の白楼剣に。
更に一歩踏み込む。
瞬間、鞘から抜かれた白楼剣が悪霊の胴を両断した。
消え逝く男の背後で妖夢は膝をつく。
緊張が解け、疲労が激しく妖夢を襲う。
慧音が何か叫んでいるが聞き取れない。
肩が激しく上下し、呼吸がままならない。白楼剣にすがり喘ぐ。
だが、体とは逆に心は晴れ晴れとしてた。
破門の事など頭から吹き飛んでいる。
心地よい疲労が全身を包む。
深呼吸を繰り返し、やっと落ち着く。
その時、服の斬られた隙間から何かが転がり落ちる。
それは行きがけに幽々子が渡してくれた竹の葉でくるまれたお弁当。
――そういえば、昼からなにも食べていないな。
苦笑し、竹の葉を剥く。中からでてきたのはいびつな握り飯2つ
幽々子が悪戦苦闘しながら作る光景を思い浮かべながら、一口食べる。
それはひどくしょっぱかった。
その日最初の陽射しに照らされながら、妖夢は白玉楼へ戻ってきた。
服はぼろぼろ。うっすらと血の滲む包帯が痛々しい。
静かに庭に降り立つ。
今の時間なら、道場にいるはず。
昨晩の出来事を包み隠さず報告しなくてはならない。
足取りは重かったが、何故か心は晴れていた。
「師匠、魂魄妖夢ただいま戻りました」
道場の上座に座って瞑想している妖忌に話しかける。
「師の命どおり、悪霊を断ち切って参りました」
「……」
「お借りしていた白楼剣、お返しいたします」
「……」
沈黙が重い。今になって緊張が体を支配する。
「その際、命に背き、私は二度白楼剣を振るってしまいました。如何様な処分でも甘んじて受けますゆえ、破門なり申しつけくださいませ」
「……すべて申してみよ」
そして妖夢は語る。
村の様子。ごろつきに絡まれたこと。慧音との邂逅。庄屋の印象。悪霊との激戦。幽々子様の握り飯の味。
一つ一つ思い出して語るたびに、遠い思い出のような気がする。
「……以上でございます」
語り終えた頃には緊張は綺麗になくなっていた。
妖忌は黙ってそれらを聞いていた。
白楼剣に制限を付けたのは、剣を振るう事の重みを教える為。
斬る斬らぬの判断は別として、師の命などという瑣末事を気にして『斬れぬ』ようでは話にならぬ。
それがわかって帰って来るならば何度振るっていようと咎め無し。理解していなければ即追い出すつもりであった。
そして、妖夢は言葉にはできずとも見事それを自覚できたようだ。ならばなにも言うことは無い。
少し褒めてやろうと思い、戸口を見ればひょこひょこ此方の様子を伺う渦巻き。
思わず溜息が出る。事情は全て昨日の内に説明したというのに。蝶の姫は、よほど妖夢の事が心配らしい
「……妖夢」
問いかける
「はい」
「何を悟った」
「どのような状況であろうとも、自らの判断こそ全て。意思を持って斬れば、斬れぬ『モノ』はないと悟りました。」
「よかろう。白楼剣おぬしに預ける。そして今日から技の伝授に入る。心しておけ。」
一瞬唖然とし、その後満面の笑みで頷く。
「……はい!」
妖夢にはこれからももっと大きくなっていただきたい。
それほどに、断つための刃とは重いのだ。
美しき文言の並び、そこに奔る若武者の一閃が実に、ここちよう御座いました。
剣を振るうことは斬るだけでなく背負うことも半面に持ち合わせているんでしょうねぇ。
そしてそれをこそ望んでいた、妖忌の意図も深い。
真にお見事でした。