*かなり間が開いてしまいましたが、これは作品集20にある話の続き。「蒼き風走る」シリーズの、六から七までの藍様サイドの話になります。どうぞご了承ください。
生温く澱む泥濘の様な眠りの中で。
まただ
また、同じ夢を見る。あれからずっと。
始まりは赤。そして視界が徐々に赤黒く染まってゆく。血に黒い墨をたらし続けるかの様に。
やがて、ある光景が見えてくる。
全ての物が輪郭を無くした世界。
色や形が曖昧な世界。
ゆうらりと、その混沌とした世界の中を、私は海月の様に漂っている。
ある場所へと、流されるままに。
ある場所へと、行き着く為に。
もう、何度も見てきたあの場所へ、私は流されていく。
私に、それに逆らう力は無い。
始めは何度も拒もうとした。だが、それが無駄だと知るのも早かった。
これは私の見ている夢で、私はただ目の前の光景を眺めるだけの傍観者にすぎない。
赤く、黒い夢。
私には目を閉ざす事ができない。
私には耳をふさぐ事もできない。
あの場所が近づいてくる。
そこは、夢の世界で唯一はっきりと形付けられた場所。
私がよく知っている場所。知りすぎている場所。
マヨヒガ。
黒い大地に見慣れた家屋と、それを囲む木々が見える。
そして。
嫌だ。もうあんな物を見せないでくれ。
黒土が広がる庭。かなりの広さがあるその隅で何かが燃えている。
機械仕掛けの鋼の馬が、赤い業火に包まれていた。断末魔を思わせる黒い煙が空を染めてゆく。
嫌だ。
庭の中央付近には、地に横たわる黒装束の人影と。
嫌だ。嫌だ。
その人影に覆いかぶさる赤い影が見える。
もうやめてくれ。
横たわるのは、見知った顔。幻想郷に惹かれ迷い込んだ男。互いに酒を酌み交わした男、そして私の式、橙を任せても良いとまで思わせた男。
だが彼の顔には、もはや命の灯火は無い。ただの死体が、人だった肉の塊が天を仰ぎ倒れているだけだ。
小さな音が聞こえる。
音が聞こえてしまう。
柔らかい肉と汁を呑み込む音、硬い骨を齧り砕く音。
その音は、男の腹に頭を被せ夢中で租借を繰り返す赤い影が立てていた。
やめろ、もうたくさんだ。
音が止んだ。
赤い影がゆっくりと立ち上がる。そして私に向かって微笑みを浮かべた。血に染まった口元を手でぬぐい、両の目を閉じながら。
その影は私の式である猫又、橙。
あの子が次に吐き出す言葉を私は知っている
ああ、その言葉を口に出すな。
出さないでくれ。
「ずるいよ、藍様。人間がこんなに美味しいなんて。何で教えてくれなかったの」
お願いだ、その目を開かないでくれ。
「これで、わたしはもっと強くなれる。藍様のお役に立てる。」
橙の両目が静かに見開かれた。
私の知らない瞳が私を見つめる。
紅い濁りを含んだ凶眼が、私の目をじっと見据える。
橙は私の知らない、淫蕩な笑みを浮かべ呟いた。
「八雲の式を名乗る事ができる」
夢は何時もそこでふつりと途切れ、そして私の心を何処とも知れない暗闇へと突き落とす。
闇へ。
黒い闇へと。
私は堕ちてゆく。
どこまでも。
「夕焼け小焼けで・・・・・・ 目が真っ赤」
「ねえ」
「橙のおめめも真っ赤だよう・・・・・・ 」
「ねえってば!! 」
「こおんな橙はちぇんじゃ・・・・・・ 」
「喝!! 日の高いうちから、そんな奇怪な歌を歌わない!! 」
私の頭に鈍い音が響いた。
それが、隣に座る紅白の巫女のお払い棒の一撃だと気付くのに、たっぷり十秒程かかってしまった。頭を殴りつけた当の本人は呆れ顔で私を見ている。
「まったく、どうしちゃったのかしら? 」
まったくだ。自分でもどうかしていると思う。
「酷い顔ね藍、目の下は真っ黒だわ、顔色は悪いわ、目は・・・・・・ 元から赤かったっけ? ちゃんと寝てるの? って聞くのも野暮ね」
「ちょっとな、悩みが多すぎてな・・・・・・ 」
空は青く優しく輝き、博麗神社の境内を照らしている。
風は無い。油断すると睡魔に襲われる様な温かな空気が周囲を取り巻いていた。
のんびりとした縁側での休憩中、神社の巫女、博麗霊夢にぼんやりとしていた私はそう尋ねられた。
よっぽど見栄えの悪い様相に見えるのだろう。ここ最近、自分の顔を鏡で見る事も止めた。見る気も失せた。
私を包む気だるい感覚を何と表現したら良い物だろう。一言で語るなら無力感とでも言うべきか。
原因は分かっている。あの夢のせいだ。
あの夢を見る度に、私の心、魂のどこかがおかしくなってゆく。崩れていく様な、蝕まれる様な、そんな不快感が私を襲う。
「悩みがあるなら聞いてあげるくらいの事、してあげるわよ。作業もなんだか身が入っていないようだし。何時ものあなたなら朝飯前の仕事が、一週間以上も滞るなんてね」
彼女は神社の入り口、鳥居のあった場所に目を向けた。今、その鳥居の台の上には何も無い。きれいさっぱり。
何時ぞやの、春の訪れに狂喜して私の起こした落雷が鳥居を直撃したせいで、木っ端微塵になったそうだ。
その為に、私はこうして神社の鳥居を建て直す事を押し付けられた。自業自得でもあるが、ついでに三度の食事も作らされている。まるで家政婦か通い妻の様だ。
境内の、雨が降りかからない様に結界を張った場所には、山から切り出してきた新しい鳥居となる木材が並べられている。木皮を剥がし、それぞれの部品となる様に削り出し、形を整え表面を磨き上げた。完成までもう一息か。
加工の際に出た木屑は食事や風呂の焚き付けに使った。私は塵とて無駄に捨てたりはしない。マヨヒガに無駄という言葉は無い。
余計に眠りを貪る主人がいるだけだ。
一度だけ霊夢と一緒に湯にも入ったが、それ以降「お湯が無駄に減る」と言われてから、私は残り湯につかる事になった。あの怠惰な巫女が倹約の重要さに気付いてくれたのは嬉しい事だ。
鳥居の作業は色を塗り組み上げるのみ。大工仕事は苦手ではないが、正直ここまで時間がかかるとは思わなかった。以前マヨヒガが半壊した時などは、一日で修繕を終わらせたのだが、我ながら重傷らしい。ふぅ。
「下らない悩みだと思って聞き流してもいい。霊夢、お前にだいぶ前、幻想郷に迷い込んだ男の話をしたが、覚えているか? 」
あれは、橙が外界に追い出されて私がふて腐れていた秋の終わり。
食事をたかりに来た彼女につい口がすべり、結果として私の心のわだかまりを消してくれたのだが、果たして常に頭が春満開の当人が覚えているか・・・・・・ 。
「覚えてるわよ、当然」
意外な答えが返ってきた。これは少し認識を改めなくてはならないな。
あの時、私は彼女に『その人間に危害を加えるような事があれば、私は全力であなたを払う』と告げられたのだ。
さすがは妖怪退治の玄人だ。
だが。
「なにしろ、とがずに炊ける不思議なお米を送ってくれる、ずいぶんと気前のいい人の事でしょ。忘れる訳が無いじゃないの」
そっちの方だったか。やはり、霊夢に対する認識は改める必要は無い。
全く無い。
こいつは三度の食事が一番重要な関心事なのだ。
「ところで、昨日その人から荷物が届いたから。言うのが遅れたけど」
「え? 」
それは初耳だ。というか、なんで昨日教えてくれないの。普通言ってくれるものだろうに。
「久方ぶりに『車』を見たわ。外の世界は便利な物が沢山有るみたいね」
霊夢は私の気持ちも知らずにマイペースに話しを続ける。
「あなたは何だか上の空だったから、別にいいかなあと思って。あ、八雲家宛ての荷物には手を出していないわよ。開けたのは私宛の物だけだから、本当よ、本当。ずいぶんと沢山、色んな物を送ってくれたわ。感謝、感謝」
こいつは・・・・・・ 、本当に呆れた奴だ。
「あなたの家のお土産の方は更に多いわね。人間が入れそうよ。ま、冗談だけど。美味しそうなお酒の匂いもするわよ。羨ましいわね」
霊夢はもの欲しそうな目で私を見つめている。おおかた分けてくれとでも思っているのだろう。
「話がだいぶ反れた様だが、私の悩みの種はその男なんだよ、霊夢」
強引にでもこちらから話を進めない限り、彼女は土産物の事しか頭に無さそうだ。
「どうして? 遊びに来るだけじゃないの。橙を連れて春の幻想郷に」
「違うぞ、奴は・・・・・・ あの男は命懸けでマヨヒガに来る。紫様の試練を受ける為に。そして」
私は、一呼吸置いてから一気に吐き出した。私自身の最大の悩みを。
「男が試練を越えられず、倒れ伏した時。その時、紫様はその男を橙に喰わせると言った。人間を喰わせると、これはもう決まってしまった事なんだよ、霊夢」
今まで自分の中に隠していた物を吐き出した瞬間、彼女の私を見る目が、普段の平々凡々とした物から退魔を生業とする物に変わった。
「詳しい話を聞く必要があるわね。場所を変えましょうか」
霊夢は立ち上がると、神社の中へ来るように私を手招きした。私も膝を上げ案内されるままに彼女の後に続く。
廊下をしばらく歩き、やがて博麗神社の『外界』との境に差しかかる。
「あなたなら、『境界』も越えられるわね」
「ああ、無論だ」
幻想郷を取り巻く博麗大結界の唯一のつなぎ目。それが博麗神社であり『外界』との接点でもある事は知っている。
結界に生じた歪みの修復も私の仕事の一つだ。そして、歪みから幻想郷の中に迷い込んだ人間をさらう事も・・・・・・ 。
霊夢の後を追い、私は『境界』を潜り抜けた。妖怪が『外界』に出ない様に、また幻想郷の存在が外に知られない様に設置された結界は、霊夢の手により作られたと聞く。
以前、強引に『境界』を突破しようとした氷精が痛い目にあったと聞いた。妖力の弱い者には通り抜ける事は出来ない壁。通過できるのは結界を張った霊夢と同等の力を持つ物か、私の様に結界の維持に携わる者くらいだろう。
大きく息を吸いこむ。『外界』の空気は、何時も何故かしら薄く感じる。『幻想』が失われて久しいからだろうか。
そして。
私はあの男からの土産である荷物の置かれた部屋に案内された。
『博麗神社宛八雲藍様』と丁寧に書かれた張り紙の付いた木箱は、なるほど畳1枚程の大きさの木箱だ。これなら確かに人間も入れるだろう。中からは彼女の言った通り良い匂いが漂ってくる。その上に霊夢は腰を下ろし私に告げた。
「さてと、紫がどういう理由でそんな事を企てたのか。教えてちょうだい」
「『幻想』が『現実』に侵食される、か。あいつらしいわね、そんな事考えるなんて。気持ちは分からないでもないけどね」
霊夢に今までの一部始終を、『恐怖』を喪失し妖怪を恐れない男の為に、幻想郷の平衡が崩れる可能性がある事を伝えた後の感想がこの言葉だった。
「で、あなたは橙に人間を食べさせたくなくて悩んでる。どう考えても普通の人間が、あの大妖怪の出す試練を越える事はできないから。というところかしらね」
「情けない話だが、全くその通りだ。私も身内には甘い事をほとほと痛感している」
「そうね、主人の主食が人間なのにね。何時ものあなたなら迷いもしないでしょうけど、今回は特殊な訳だしね~。でも」
霊夢が視線を動かしたその先には、彼女が腰掛けている物より半分程度の、男から送られてきたと思われる木箱が置かれていた。それまで気付かなかったのは何故だろう?
「それでこの荷物の謎が解けたわ。中からなんだか封印されてるみたいなのよ。でも悪い『気』は感じられない。どちらかというと、わたしの使う道具に雰囲気が似ているわね」
彼女の言う通りその荷物からは、まるでそこに何も無いかの様な力を感じた。あの男が『外界』の神から貸し与えられた道具が入っているのかもしれない。
「その人も覚悟は出来てるようね」
「ああ、間違いない。奴も最初は私と一戦交えるつもりだったからな」
「そう、じゃ、行ってくるわ」
「どこへいくつもりだ? 」
木箱から勢い良く立ち上がった霊夢は、私に向かって断言した。
「決まってるじゃない、こんな馬鹿げた事を考えた本人を張り倒してくるのよ。」
木漏れ日の差す林道、道端には春の花。
光を求めて咲く一輪。淡い赤色の花弁が風に揺れている。
それにしても、ふぅ、ふぅ。
重い重い。ふぅ、ふぅ。
奴め、一体どれだけ詰め込んだんだか。重いぞ、全く、ふぅ、ふぅ、ふぅ~、もう駄目ぇ~。
私は今、男からの土産の入った木箱を背に担ぎマヨヒガへ向かって・・・・・・ 迷っていた。飛べば帰るのは簡単なのだが、正直それだけの力も無い。歩いてマヨヒガにたどり着くには、間抜けな話だが迷うしかないのだ。そういう場所だから仕方が無いとは思っているのだが。
先程の花を見るのも九回目か、いい加減帰りたい。泣きそう、私。
「すまない、少し場所を貸してくれ」
私は花を傷つけない様に荷物を降ろし、その上に腰掛た。重荷が降りた為、体が楽になった気がする。懐から手ぬぐいを取り出し汗を拭う。木々の間を流れる風が心地良い。
「それにしても」
私は霊夢との別れ際の事を思い出した。
霊夢の言い分はこうだ。紫様が危険人物と考えている男が、幻想郷に入らなければいいだけの話だと。男には橙を連れてきてもらい、お茶でも出して帰ってもらうとか。
薄い胸をドンと叩き、紫様にその事を強引に納得させ諦めさせるとか言ってはいたが。
「紫様、冬眠明けで寝起きは機嫌が悪いんだよなぁ~ 」
おまけにまだ日は沈んではいない。今頃、霊夢はマヨヒガに着いただろうか。飛び去り小さくなる彼女の姿を見送った時は一抹の希望も湧いた。だが歩いている途中で不安ばかりが大きくなる。
昨日紫様を起こした時は平手打ちが四往復だった。理由を聞いたら『叩きがいのある顔が見えたから』だと。こっちは危うく首がもげるかと思ったのに。シクシク。
今日、帰ってみたらマヨヒガが影も形も無くなっていたらどうしよう。霊夢と紫様が本気になって暴れたらなどと、下らない事を心配していた私は誰かに声をかけられた。
「人さらいは諦めたか、八雲の式殿よ」
私は多少の毒気を含ませた返事を相手に返す。
「お前こそ人間達の里から追い出されたのか。こんな所で油を売っているとはな」
声の主が木陰の中から姿を現し私の目の前に立ちはだかる。奇妙な帽子を頭に載せ、長髪をなびかせ毅然とした態度で私を指差した。失礼な奴だ。
「私は里の近くを、ぐるぐるとふらついている妖狐を監視していたんだ。追い出されてなんかいないぞ、いないからな、本当だぞ」
妙に念を押すのは、彼女が真面目すぎるからだろう。つい口に含み笑いがもれてしまう。
「む、私を馬鹿にしたか、式殿よ」
「いや、悪い。馬鹿にしたつもりは無いよ。それに人に危害を加えようなどとも思っていないさ。それよりどうかな、立っていないでここにでも座るといい」
私は自分が腰掛けている木箱を軽く叩いて目の前の相手を、上白沢慧音を誘った。
「そうか悪意が無いなら遠慮無く休ませてもらおう。何しろずっと式殿の事を見張っていたからな、正直疲れた」
私が迷い歩いている間、彼女は身を隠しながら付いてきたらしい。なんともまあたいした奴だというかご苦労様な事だ。
「で、式殿はだいぶ前から一体何をしているんだ? それにこの荷物は『外界』の物だな。どうやって手に入れたんだ」
彼女は私の顔にずずずいっと瞳を近づけ尋ねてきた。なんか眩しすぎて困る、こーいうのは。
「聞きたいかな? 」
「聞きたいな、なかなか面白そうな歴史もこの荷物から伝わってくる」
「長い話になるぞ、かまわんか? 」
「ああ、妹紅への土産話にもなるしな」
「じゃあ、そうだな。一番始めは奇妙な旅人の話から始めるか」
私は慧音にこれまでの経緯を語り続けた。彼女は隣でうなずき、時には驚きながら私の話を聞いてくれる。私も彼女に、今まで起きた事を話すうちに何だか胸のつかえが消えてゆく様な、そんな感じがした。
話の終わり、私は歩いてマヨヒガに帰る為に途方に暮れていたのだという所で、彼女は見た事も無い様な笑顔を見せた。いつもむっつりしている顔ばかりなのでなんとも新鮮に感じる。可愛いなと少しだけ思ったのは秘密だ。
「そうか、『外界』の人間からの土産物か。そして霊夢は八雲の主に話を付けにいったのか」
「ああ、なるべく穏便に万事解決してくれればありがたいよ」
「それにしても」
「ん? 」
慧音は林道の上の青空を見上げ小さく呟いた。
「守りたい存在が有るという事は、色々と苦労するものだな」
「そうだな」
彼女の言葉に同意しながら、私は秋の終わりに『外界』に旅立っていった小さな赤い姿を思い出した。
「ところで、似たような話が過去にあった事を貴女は知っているか」
「いや、初耳だ。何があったんだ」
「なら今度は私が語る番だな」
慧音は胸の前で腕を組み、目を閉じて静かに語り始めた。
ある一つの話を、ゆっくりと。
「もうどれだけ昔になるか、夜の幻想郷に迷い込んだ人間がいた。機械仕掛けの馬に乗った男だったよ。黄色い、流線型の鋼の馬を巧みに操りながら妖怪達の追撃を回避していた」
彼女は水の底から掬い上げる様に、話を続ける。
「十数匹の妖怪達に追われながら、その男が里に近づいて来るのを、私は里の上空で確認して助けに行こうとした、その時」
「男は急に里とは反対方向へと走り始めた。妖怪達の群れを引き連れてな。私は慌てて追いかけて、なんとか男を救う事ができたが」
ため息が彼女の口からもれる。
「男は片足を喰われてしまっていた。何故そのまま里に逃げ込まなかったという私の言葉に、男は苦し紛れにこう答えたよ『自分の命惜しさに他人を危険にさらしたくなかった』だと」
「馬鹿な奴だ」
「確かにな、だが『外界』にも骨の有る奴がいると感心したよ。傷の手当ての為に博麗神社に運び込まれて、男とはそれっきり会う事は無かった。風の便りではその後、義足を作ってもらい『外界』へ一人で帰ったそうだ。鋼の馬は古道具屋の倉庫の中で『眠り』に付いたと聞いた。今もまだ眠り続けているのだろうな、新しい主が現れる事を夢見ながら」
そうか。
そんな事が過去にあったのか。
彼女の話を聞き終えると共に、ふと生じた疑問がつい私の口に出た。
「もし、もしも『外界』の人間が手助けしてくれと現れたとしたら。お前はどうする? 」
彼女は鼻で笑いながら、私に向かって迷いも無くはっきりと答えた。
「決まっている、私は何時でも『人間』のみ・か・ただ。それではこれで別れるとしよう。私も色々やる事があるからな」
慧音は木箱から立ち上がり去ろうとしたが、急にこちらを振り向くとある方向を指差した。
「私の中のマヨヒガの出現場所の歴史によれば、この先に進めば辿り着ける、はずだ。でわ、さらばだ式殿」
彼女はそのまま風を伴いつつ飛び上がると、里の方へ向かい矢の様に飛び去っていった。
「借りが・・・・・・ できてしまったかな。さて、日が沈む前に帰れると有り難いが」
私は再び木箱を背負い、慧音の指差した方へ進む事にした。休息と自分の悩み事を聞いてもらったせいか、だいぶ体が楽になった気もする。さて、我が家へ急ごう。
ふと傍に咲いていた小さな花に目をやると、それは一生懸命に光を浴びようと体を広げている様に見えた。
「お前もがんばれよ」
微風のせいだろうか、揺れるその花は私に向かって会釈をした様に感じられた。
ぜいはぁ、ぜいはぁ、草木を掻き分け。
ぜいはぁ、ぜいはぁ、斜面を登り。
ひぃふう、ひぃふう、川原を渡って。
ひぃふう、ひぃふう、森を駆け抜け。
そして。
「着いた、着いたよ~愛しの我が家に~」
日はすでに沈み、かなりの時間が経ってしまっていたが、私はようやく目的地に辿り着く事ができた。
目の前には古ぼけてはいるが、私がよく知っている。知りすぎている家屋と黒土の庭が広がっていた。危惧していた破壊の後も無い。マヨヒガは平穏無事だ。ああ、なんだか目頭が熱い。だって、私も女の子だもん。
それにしても、ぼんやりとした視界に映る家屋には明かりが付いている様な・・・・・・ 。
服の袖で目をこすり、もう一度凝視する。
やっぱり、灯っている。という事から考えるに。
一、 紫様が夕餉の支度をして私を待っていて、くれる訳無いな。
二、 霊夢が勝手に食料を食い漁っている。これは十分考えられるな。
三、 紫様が玄関で鬼の様な形相をして待ち構えている。どうしよう、博麗神社に逃げ込もうかしら。土産の木箱をここに置いて。
私がどうしようかと躊躇していると、玄関の戸が音を立てて開いた。思わず文字通り尻尾を巻いて戦術的撤退をしようとした正にその時。
「あ~ やっぱり藍様だ。おかえりなさい」
天使の声が聞こえた。
その姿も声も、心配していた変化も無い。
数ヶ月の間、遠く離れて暮らしていた、私の、私の。
「ちぇぇぇぇぇぇん、チェン、橙~ うわぁあああああああああん」
その時の私の頭にはそれ以外、橙の事意外無かったのだろう。まるで猛牛の突進の様に走り出した私だったが。
「はい感動の対面はそこまでよ」
更に聞き知った声と共に、私の体は突如足元に空いた隙間の中へ、重力の法則に従い吸い込まれ落下した。薄れてゆく意識の中で、紫様の高笑いが聞こえた様な気が確かにした。したもん、絶対。
私が再び目を覚ますと、そこはマヨヒガの茶の間で、紫様、心配そうに私を見る橙、そして茶碗を片手に持ち飯をほおばる霊夢の姿があった。
だが何故か私の体は縄と筵で簀巻きにされ、更に天井から逆さ吊りにされている。
「あの~、質問があるのですが」
「な・あ・に? らぁ~ん」
「なぜ私はこのような目に会っているのでしょうか? 」
胡散臭い微笑を浮かべる紫様の代わりに、口元にご飯粒を付けた霊夢が口を開いた。
「藍、あんたが結果を聞いて暴れない様に念入りに縛らせてもらったわ」
ああ、簡潔で分かり易過ぎる答えだな。ところでお前、一日に何食食べるんだ。
「一から説明するから良く聞いて。わたしの策は失敗しました、以上」
頭に血が溜まってくらくらする。ただ霊夢の話は理解する事ができた、っておい失敗ってどういう事だ。
「貴方が橙を可愛がる気持ちも分かるわ、でもね」
今度は紫様が口を開く。
「主が決めた事を反故にするような悪い子にはお仕置きが必要だと思うのよ。うふふ」
冷や汗が背筋を流れた。この流れで行くと問答無用で袋叩きか、『かいぞくききいっぱい』とかやられるに違いない。ああ、無情なり。
「待ってください、紫様」
悲観に暮れていた私に助け舟を出してくれたのは以外にも橙だった。私の小さな式は紫様の前に立ちはだかる。以前の橙には考えられない行動だ。というかなんで橙がマヨヒガに戻ってきているんだ? 私は努めて冷静に現状を把握しようとしたが、うまく頭が回らない。
「紫様は強引です。わたしの役目はもう終わりだとか、景一に試練を与えるから自分の力でマヨヒガまで来いとか、横暴すぎます。それに主を守るのは式の努め、藍様を責めないでください」
おぉ、なんとまあ頼もしい口ぶりだ。私には到底真似出来ない。紫様の恐ろしさを嫌という程知ってるから。
「聞いたかしら藍。貴方の式もたくましくなって帰ってきたわ。じゃ、私は寝なおす事にするから、詳しい話はそこでがっついてる紅白にでも聞いてちょうだいな。おやすみなさい」
紫様は寝室への襖に手をかけたが、そこで振り向いて私の心に直接語りかけてきた。
『あの男を橙に喰わせる、その事を話すのは貴方の役目よ。だから私は引き下がるわ。いいわね』
紫様は残酷な役目を私に押し付け、姿を消した。
私はやっとの事で束縛から解放された。そして今は米びつに首を突っ込んでいる霊夢の襟首を引っつかむ。
「いい加減食うのを止めてくれ、そして何があったのか教えて欲しい」
「わかったから手を離して、首が絞まる、絞まるって」
ぜーはーと言っていた霊夢は、橙が出したお茶で一服した後、事の顛末を話し始めた。
「ここに着いたら紫は寝てたの。揺すっても、叩いても、蹴飛ばしても起きないから奥の手を使ったわ」
「奥の手? 」
「そう、鼻と口を塞いで、首を絞めました。効果はばっちり、すぐ起きたわ」
おい、普通の人間だったら死ぬって。そんな事したら。
「それで例の件を諦めろって言ったらね、『気が変わった』って言って雲隠れされちゃって、仕方が無いから適当に台所を漁っていたら、ついさっき帰ってきたのよ。橙連れてね」
明日の食料残っているかな・・・・・・
「話を聞いたら、『良い物を見せてもらったから更に気が変わった』だって。あ、例の男の人も無事みたいね。ただ」
どうやら奴も生きている。いや『生かされている』という事か。先程の紫様の言葉から察するに。
「『蜘蛛の糸からは逃さない』だそうよ」
「そうか、分かった。奴は幻想郷へ、マヨヒガ目指してやって来る。来るしか選択肢が無いのだな」
「そうね」
橙は無事に幻想郷へ帰還した。元の姿で。それは喜ばしい事だがしかし、私の悩みの根本は解決してはいない。
「じゃ、お腹一杯になったから私は帰るわ。それと」
「なんだ? 」
「私はその人にだけ肩入れする事は出来ない。紫の推測が正しかったらね。私も幻想郷の住人だから。じゃまた明日。鳥居は出来上がってないんだから忘れないように」
散々他人の家の食料を食い漁り、私の痛い所を突く台詞を残して霊夢は帰っていった。
後に残されたのは私と橙の二人だけになってしまった。
紫様から出された問題を、橙にどう真実を伝えよう。頭を抱えてしまいたい衝動にかられる。
「藍様、藍様」
ふと、私は橙に話しかけられた。
「お話があるんでしょ、月がきれいだから縁側に出たいな」
黒い夜空に鋭い三日月が浮かんでいる。私には死神の鎌の様に思えた。
春の風は夜でも暖かい。
縁側に腰掛け、橙を膝の上に乗せ夜空を眺める。
橙の体温が私の体に伝わってくる。なのに、私の心は沈んだままだ。
どう伝えようか。その辛い沈黙を先に破ったのは橙だった。
「フフフ~ン、フフフンフ~ン」
軽いソプラノの鼻歌。私が聞いた事の無いメロディ。
「なんだ、その歌は? 」
「え~とね、これは『アメイジング・グレイス』って外の世界の歌を、景一が替え歌にしたの。お酒飲みながらよく歌ってた。こんな感じだったかな」
橙は静かに、その歌を再び口ずさみ始めた。どこか、癒しを含んだようなメロディが私の耳に囁きかける。
傷を負い、全てを閉ざされた。
進むべき道を失い、暗闇の中にただ一人取り残された。
深い絶望と悲しみの中で、そんな私に手を差し伸べてくれた者がいた。
私が進むべき場所を示し、再び道を照らしてくれた。
今は見える、はっきりと見える。
もう迷いはしない。
もう失いはしない。
指し示す、その手がある限り。
その光が道を照らし続ける限り。
私は再び立ち上がり、歩き出す事ができる。
ゆこう、この道の先に希望が有ると信じて。
ゆこう、生きる力を与えてくれた者に応える為に。
進み、そして私の人生を全うする為に。
歌が終わった。何故だろう、私の心に何かが深く響く。何かが深く刻まれる。
「景一は言ってたよ」
橙が優しく私を見つめ上げる。
「藍様は自分にとって2級天使のクラレンスなんだって。自分の好きなお話に出てくる救い人の様なんだって」
私が、救い人だと?
「去年の秋に、景一が藍様にお礼に来た事があったでしょ」
「ああ、そんな事もあったな」
「どうして命の危険を冒してまで来たのって、この前しつこく聞いたら顔赤くして言ったの。『自分の恩人だからだ』って」
それなら私も直接本人から聞いた事がある。どうして些細な事の為に、再びここへ来たのだと。
あの時は、ずいぶんと呆れ果てた奴だと思ったが、奴はあの頃から私に自分の救いを見出していたのか?
「それからね、口止めされてたけど言っちゃう」
「『美人だな』って、耳まで真っ赤にして。うわ~、藍様もてもてだよね~」
「こらっ、ふざけるんじゃない!! 」
ぺろりと舌を出し、悪びれる事無く私に笑いかける橙を見据える。どうやら居候先の家主の悪ふざけが、橙にまで伝染したらしい。はぁ。
「紫様はどんな試練を景一にだすのかなあ」
「わからん、あの方の考えは全く理解不能な事が多すぎる」
「そっか、でも」
橙は夜空を眺め呟く。その目には以前には無い強い力が宿っていた。
「景一はよく言ってた、『最後まで絶対に生きる事を諦めない』って。今はその言葉の意味がわかる。だから」
私に向かって橙ははっきりと宣言した。一片の迷いも無く。
「わたしは景一の試練の手伝いをする。いいよね、藍様」
この子は、外の世界でずいぶんと強くなった。それに比べ私は・・・・・・ 何を迷っているのだろう。
「もう夜も遅い、私達も寝よう」
「うん、藍様と一緒に寝るのも久しぶりだね」
その晩、私はまた夢を見た。
いつもの赤黒い夢ではない、別の夢を。
暗い闇に包まれた幻想郷を、私は何処か高い場所から見下ろしている。
月も見えない闇の世界で何かが聞こえる。聞こえてくる。
遠雷の轟きの様な、鼓動を刻む心臓の様な深い重低音が。
私は音の聞こえてくる方向に視線を動かす。
光が見えた。
闇を貫く一条の光が、あの音を伴い近付いて来る。
私の目に、徐々にそれが形を現し始めた。
それは見た事も無い流線型の、黄色く染められた鉄の騎馬。
勇ましい咆哮を響かせながら、バイクは風の如く駆ける。
それにまたがっているのは、黒い鎧の様な装束の人間。
奴だ。
あの男だ。
顔は見えないが、何故か分かる。迷いの無い想いが伝わって来る。
男は一直線に闇の中を走り抜けていった。
私の視界が、一瞬だけ暗転し場面が変わった。
私はマヨヒガの黒い大地に立っていた。
そしてそこに見える物は。
私の目の前で、あの男が黄染めのバイクにまたがり前方を凝視している。
男の両の手には、紫雷を放つ木剣が握られていた。
男の乗騎は更に猛々しく、弾ける様な荒ぶる気息を上げている。
私は男の視線の先に在る物を見た。
巨大な黒い霞の中に、何かがいる。
それは、たとえるなら金色の斑模様の異形の影。
夢だと分かっていても、押しつぶされそうな威圧感をそれから感じた。
これほどの威圧感の持ち主は・・・・・・ 。
だが、しかし。
男は臆する事無く、涼やかな風を受けるかの様に平然と威圧を身に浴びていた。
一瞬、男と目が合った様な気がした。その目には『大丈夫だよ』とでも云う様な光が灯っていた。心配するなと。俺は平気だと。
男が両手に持つ木剣を振り上げる。紫電を帯びた剣から、太い稲妻が天に向かって放たれた。遅れて響く雷鳴の轟音が周囲を揺るがす。
男のバイクにも変化が起きた。前後の二本の車輪に柔らかな光が宿る。静かに明滅を繰り返すそれは、まるで光の法輪を思わせた。
鉄の騎馬が動き出す。その時を、その瞬間を待ちかねていたかの様に、砲弾の如く息巻きながらバイクは疾走を開始する。
男とバイクは、周囲に唸る風と眩い光、猛る咆哮を伴いながら眼前の山の如き影に向かって突進してゆく。
次の瞬間、私の視界は白い光で覆い尽くされた。
私は眠りから覚めた。
目覚めに伴う何時もの不快感はまったく無い。むしろ何かすがすがしい気がするくらいだ。
隣では橙が穏やかな寝息を立てていた。
以前はひどく寝相が悪く、時々頭を蹴られた事があったのだが、今は自分の寝具におとなしくくるまって笑顔を浮かべている。
私は橙を起こさない様に静かに寝室を出て、縁側に立ち外の風景を眺めた。
夜明けが近いらしく山の稜線に光が見える。その光に照らされ、天にかかる雲は赤と青が互いに睦みあう様な色に染まり始めていた。
そして反対の位置に見えるのは、今にも沈みそうな薄く白く染まる月。
私はその月を眺めながら物思いにふける。
奴も今、この光景を眺めているのだろうかと。
揺るぎ無い決意を胸に秘め、もうすでに幻想郷を目指しているのかと。
男よ。
小角よ。
奇妙な縁によって我らは出会った。
出会ってしまった。
そしてその縁に、決着をつける日も近いだろう。
私の心も決まった。
私は紫様の式だ。主を守る事、それが式の努めだ。
そしてお前の覚悟を受け止める。
お前の決死の想いを正面から受け止めてやろう。
私の大事なものを守る為に。それが、私の覚悟だ。
来い、さあ早くやって来い。
小角よ。
機械仕掛けの馬を操る風変わりな男よ。
そして。
この因縁に答えを出そう。
外伝(終)
そして物語は結末へと流れゆく。
生温く澱む泥濘の様な眠りの中で。
まただ
また、同じ夢を見る。あれからずっと。
始まりは赤。そして視界が徐々に赤黒く染まってゆく。血に黒い墨をたらし続けるかの様に。
やがて、ある光景が見えてくる。
全ての物が輪郭を無くした世界。
色や形が曖昧な世界。
ゆうらりと、その混沌とした世界の中を、私は海月の様に漂っている。
ある場所へと、流されるままに。
ある場所へと、行き着く為に。
もう、何度も見てきたあの場所へ、私は流されていく。
私に、それに逆らう力は無い。
始めは何度も拒もうとした。だが、それが無駄だと知るのも早かった。
これは私の見ている夢で、私はただ目の前の光景を眺めるだけの傍観者にすぎない。
赤く、黒い夢。
私には目を閉ざす事ができない。
私には耳をふさぐ事もできない。
あの場所が近づいてくる。
そこは、夢の世界で唯一はっきりと形付けられた場所。
私がよく知っている場所。知りすぎている場所。
マヨヒガ。
黒い大地に見慣れた家屋と、それを囲む木々が見える。
そして。
嫌だ。もうあんな物を見せないでくれ。
黒土が広がる庭。かなりの広さがあるその隅で何かが燃えている。
機械仕掛けの鋼の馬が、赤い業火に包まれていた。断末魔を思わせる黒い煙が空を染めてゆく。
嫌だ。
庭の中央付近には、地に横たわる黒装束の人影と。
嫌だ。嫌だ。
その人影に覆いかぶさる赤い影が見える。
もうやめてくれ。
横たわるのは、見知った顔。幻想郷に惹かれ迷い込んだ男。互いに酒を酌み交わした男、そして私の式、橙を任せても良いとまで思わせた男。
だが彼の顔には、もはや命の灯火は無い。ただの死体が、人だった肉の塊が天を仰ぎ倒れているだけだ。
小さな音が聞こえる。
音が聞こえてしまう。
柔らかい肉と汁を呑み込む音、硬い骨を齧り砕く音。
その音は、男の腹に頭を被せ夢中で租借を繰り返す赤い影が立てていた。
やめろ、もうたくさんだ。
音が止んだ。
赤い影がゆっくりと立ち上がる。そして私に向かって微笑みを浮かべた。血に染まった口元を手でぬぐい、両の目を閉じながら。
その影は私の式である猫又、橙。
あの子が次に吐き出す言葉を私は知っている
ああ、その言葉を口に出すな。
出さないでくれ。
「ずるいよ、藍様。人間がこんなに美味しいなんて。何で教えてくれなかったの」
お願いだ、その目を開かないでくれ。
「これで、わたしはもっと強くなれる。藍様のお役に立てる。」
橙の両目が静かに見開かれた。
私の知らない瞳が私を見つめる。
紅い濁りを含んだ凶眼が、私の目をじっと見据える。
橙は私の知らない、淫蕩な笑みを浮かべ呟いた。
「八雲の式を名乗る事ができる」
夢は何時もそこでふつりと途切れ、そして私の心を何処とも知れない暗闇へと突き落とす。
闇へ。
黒い闇へと。
私は堕ちてゆく。
どこまでも。
「夕焼け小焼けで・・・・・・ 目が真っ赤」
「ねえ」
「橙のおめめも真っ赤だよう・・・・・・ 」
「ねえってば!! 」
「こおんな橙はちぇんじゃ・・・・・・ 」
「喝!! 日の高いうちから、そんな奇怪な歌を歌わない!! 」
私の頭に鈍い音が響いた。
それが、隣に座る紅白の巫女のお払い棒の一撃だと気付くのに、たっぷり十秒程かかってしまった。頭を殴りつけた当の本人は呆れ顔で私を見ている。
「まったく、どうしちゃったのかしら? 」
まったくだ。自分でもどうかしていると思う。
「酷い顔ね藍、目の下は真っ黒だわ、顔色は悪いわ、目は・・・・・・ 元から赤かったっけ? ちゃんと寝てるの? って聞くのも野暮ね」
「ちょっとな、悩みが多すぎてな・・・・・・ 」
空は青く優しく輝き、博麗神社の境内を照らしている。
風は無い。油断すると睡魔に襲われる様な温かな空気が周囲を取り巻いていた。
のんびりとした縁側での休憩中、神社の巫女、博麗霊夢にぼんやりとしていた私はそう尋ねられた。
よっぽど見栄えの悪い様相に見えるのだろう。ここ最近、自分の顔を鏡で見る事も止めた。見る気も失せた。
私を包む気だるい感覚を何と表現したら良い物だろう。一言で語るなら無力感とでも言うべきか。
原因は分かっている。あの夢のせいだ。
あの夢を見る度に、私の心、魂のどこかがおかしくなってゆく。崩れていく様な、蝕まれる様な、そんな不快感が私を襲う。
「悩みがあるなら聞いてあげるくらいの事、してあげるわよ。作業もなんだか身が入っていないようだし。何時ものあなたなら朝飯前の仕事が、一週間以上も滞るなんてね」
彼女は神社の入り口、鳥居のあった場所に目を向けた。今、その鳥居の台の上には何も無い。きれいさっぱり。
何時ぞやの、春の訪れに狂喜して私の起こした落雷が鳥居を直撃したせいで、木っ端微塵になったそうだ。
その為に、私はこうして神社の鳥居を建て直す事を押し付けられた。自業自得でもあるが、ついでに三度の食事も作らされている。まるで家政婦か通い妻の様だ。
境内の、雨が降りかからない様に結界を張った場所には、山から切り出してきた新しい鳥居となる木材が並べられている。木皮を剥がし、それぞれの部品となる様に削り出し、形を整え表面を磨き上げた。完成までもう一息か。
加工の際に出た木屑は食事や風呂の焚き付けに使った。私は塵とて無駄に捨てたりはしない。マヨヒガに無駄という言葉は無い。
余計に眠りを貪る主人がいるだけだ。
一度だけ霊夢と一緒に湯にも入ったが、それ以降「お湯が無駄に減る」と言われてから、私は残り湯につかる事になった。あの怠惰な巫女が倹約の重要さに気付いてくれたのは嬉しい事だ。
鳥居の作業は色を塗り組み上げるのみ。大工仕事は苦手ではないが、正直ここまで時間がかかるとは思わなかった。以前マヨヒガが半壊した時などは、一日で修繕を終わらせたのだが、我ながら重傷らしい。ふぅ。
「下らない悩みだと思って聞き流してもいい。霊夢、お前にだいぶ前、幻想郷に迷い込んだ男の話をしたが、覚えているか? 」
あれは、橙が外界に追い出されて私がふて腐れていた秋の終わり。
食事をたかりに来た彼女につい口がすべり、結果として私の心のわだかまりを消してくれたのだが、果たして常に頭が春満開の当人が覚えているか・・・・・・ 。
「覚えてるわよ、当然」
意外な答えが返ってきた。これは少し認識を改めなくてはならないな。
あの時、私は彼女に『その人間に危害を加えるような事があれば、私は全力であなたを払う』と告げられたのだ。
さすがは妖怪退治の玄人だ。
だが。
「なにしろ、とがずに炊ける不思議なお米を送ってくれる、ずいぶんと気前のいい人の事でしょ。忘れる訳が無いじゃないの」
そっちの方だったか。やはり、霊夢に対する認識は改める必要は無い。
全く無い。
こいつは三度の食事が一番重要な関心事なのだ。
「ところで、昨日その人から荷物が届いたから。言うのが遅れたけど」
「え? 」
それは初耳だ。というか、なんで昨日教えてくれないの。普通言ってくれるものだろうに。
「久方ぶりに『車』を見たわ。外の世界は便利な物が沢山有るみたいね」
霊夢は私の気持ちも知らずにマイペースに話しを続ける。
「あなたは何だか上の空だったから、別にいいかなあと思って。あ、八雲家宛ての荷物には手を出していないわよ。開けたのは私宛の物だけだから、本当よ、本当。ずいぶんと沢山、色んな物を送ってくれたわ。感謝、感謝」
こいつは・・・・・・ 、本当に呆れた奴だ。
「あなたの家のお土産の方は更に多いわね。人間が入れそうよ。ま、冗談だけど。美味しそうなお酒の匂いもするわよ。羨ましいわね」
霊夢はもの欲しそうな目で私を見つめている。おおかた分けてくれとでも思っているのだろう。
「話がだいぶ反れた様だが、私の悩みの種はその男なんだよ、霊夢」
強引にでもこちらから話を進めない限り、彼女は土産物の事しか頭に無さそうだ。
「どうして? 遊びに来るだけじゃないの。橙を連れて春の幻想郷に」
「違うぞ、奴は・・・・・・ あの男は命懸けでマヨヒガに来る。紫様の試練を受ける為に。そして」
私は、一呼吸置いてから一気に吐き出した。私自身の最大の悩みを。
「男が試練を越えられず、倒れ伏した時。その時、紫様はその男を橙に喰わせると言った。人間を喰わせると、これはもう決まってしまった事なんだよ、霊夢」
今まで自分の中に隠していた物を吐き出した瞬間、彼女の私を見る目が、普段の平々凡々とした物から退魔を生業とする物に変わった。
「詳しい話を聞く必要があるわね。場所を変えましょうか」
霊夢は立ち上がると、神社の中へ来るように私を手招きした。私も膝を上げ案内されるままに彼女の後に続く。
廊下をしばらく歩き、やがて博麗神社の『外界』との境に差しかかる。
「あなたなら、『境界』も越えられるわね」
「ああ、無論だ」
幻想郷を取り巻く博麗大結界の唯一のつなぎ目。それが博麗神社であり『外界』との接点でもある事は知っている。
結界に生じた歪みの修復も私の仕事の一つだ。そして、歪みから幻想郷の中に迷い込んだ人間をさらう事も・・・・・・ 。
霊夢の後を追い、私は『境界』を潜り抜けた。妖怪が『外界』に出ない様に、また幻想郷の存在が外に知られない様に設置された結界は、霊夢の手により作られたと聞く。
以前、強引に『境界』を突破しようとした氷精が痛い目にあったと聞いた。妖力の弱い者には通り抜ける事は出来ない壁。通過できるのは結界を張った霊夢と同等の力を持つ物か、私の様に結界の維持に携わる者くらいだろう。
大きく息を吸いこむ。『外界』の空気は、何時も何故かしら薄く感じる。『幻想』が失われて久しいからだろうか。
そして。
私はあの男からの土産である荷物の置かれた部屋に案内された。
『博麗神社宛八雲藍様』と丁寧に書かれた張り紙の付いた木箱は、なるほど畳1枚程の大きさの木箱だ。これなら確かに人間も入れるだろう。中からは彼女の言った通り良い匂いが漂ってくる。その上に霊夢は腰を下ろし私に告げた。
「さてと、紫がどういう理由でそんな事を企てたのか。教えてちょうだい」
「『幻想』が『現実』に侵食される、か。あいつらしいわね、そんな事考えるなんて。気持ちは分からないでもないけどね」
霊夢に今までの一部始終を、『恐怖』を喪失し妖怪を恐れない男の為に、幻想郷の平衡が崩れる可能性がある事を伝えた後の感想がこの言葉だった。
「で、あなたは橙に人間を食べさせたくなくて悩んでる。どう考えても普通の人間が、あの大妖怪の出す試練を越える事はできないから。というところかしらね」
「情けない話だが、全くその通りだ。私も身内には甘い事をほとほと痛感している」
「そうね、主人の主食が人間なのにね。何時ものあなたなら迷いもしないでしょうけど、今回は特殊な訳だしね~。でも」
霊夢が視線を動かしたその先には、彼女が腰掛けている物より半分程度の、男から送られてきたと思われる木箱が置かれていた。それまで気付かなかったのは何故だろう?
「それでこの荷物の謎が解けたわ。中からなんだか封印されてるみたいなのよ。でも悪い『気』は感じられない。どちらかというと、わたしの使う道具に雰囲気が似ているわね」
彼女の言う通りその荷物からは、まるでそこに何も無いかの様な力を感じた。あの男が『外界』の神から貸し与えられた道具が入っているのかもしれない。
「その人も覚悟は出来てるようね」
「ああ、間違いない。奴も最初は私と一戦交えるつもりだったからな」
「そう、じゃ、行ってくるわ」
「どこへいくつもりだ? 」
木箱から勢い良く立ち上がった霊夢は、私に向かって断言した。
「決まってるじゃない、こんな馬鹿げた事を考えた本人を張り倒してくるのよ。」
木漏れ日の差す林道、道端には春の花。
光を求めて咲く一輪。淡い赤色の花弁が風に揺れている。
それにしても、ふぅ、ふぅ。
重い重い。ふぅ、ふぅ。
奴め、一体どれだけ詰め込んだんだか。重いぞ、全く、ふぅ、ふぅ、ふぅ~、もう駄目ぇ~。
私は今、男からの土産の入った木箱を背に担ぎマヨヒガへ向かって・・・・・・ 迷っていた。飛べば帰るのは簡単なのだが、正直それだけの力も無い。歩いてマヨヒガにたどり着くには、間抜けな話だが迷うしかないのだ。そういう場所だから仕方が無いとは思っているのだが。
先程の花を見るのも九回目か、いい加減帰りたい。泣きそう、私。
「すまない、少し場所を貸してくれ」
私は花を傷つけない様に荷物を降ろし、その上に腰掛た。重荷が降りた為、体が楽になった気がする。懐から手ぬぐいを取り出し汗を拭う。木々の間を流れる風が心地良い。
「それにしても」
私は霊夢との別れ際の事を思い出した。
霊夢の言い分はこうだ。紫様が危険人物と考えている男が、幻想郷に入らなければいいだけの話だと。男には橙を連れてきてもらい、お茶でも出して帰ってもらうとか。
薄い胸をドンと叩き、紫様にその事を強引に納得させ諦めさせるとか言ってはいたが。
「紫様、冬眠明けで寝起きは機嫌が悪いんだよなぁ~ 」
おまけにまだ日は沈んではいない。今頃、霊夢はマヨヒガに着いただろうか。飛び去り小さくなる彼女の姿を見送った時は一抹の希望も湧いた。だが歩いている途中で不安ばかりが大きくなる。
昨日紫様を起こした時は平手打ちが四往復だった。理由を聞いたら『叩きがいのある顔が見えたから』だと。こっちは危うく首がもげるかと思ったのに。シクシク。
今日、帰ってみたらマヨヒガが影も形も無くなっていたらどうしよう。霊夢と紫様が本気になって暴れたらなどと、下らない事を心配していた私は誰かに声をかけられた。
「人さらいは諦めたか、八雲の式殿よ」
私は多少の毒気を含ませた返事を相手に返す。
「お前こそ人間達の里から追い出されたのか。こんな所で油を売っているとはな」
声の主が木陰の中から姿を現し私の目の前に立ちはだかる。奇妙な帽子を頭に載せ、長髪をなびかせ毅然とした態度で私を指差した。失礼な奴だ。
「私は里の近くを、ぐるぐるとふらついている妖狐を監視していたんだ。追い出されてなんかいないぞ、いないからな、本当だぞ」
妙に念を押すのは、彼女が真面目すぎるからだろう。つい口に含み笑いがもれてしまう。
「む、私を馬鹿にしたか、式殿よ」
「いや、悪い。馬鹿にしたつもりは無いよ。それに人に危害を加えようなどとも思っていないさ。それよりどうかな、立っていないでここにでも座るといい」
私は自分が腰掛けている木箱を軽く叩いて目の前の相手を、上白沢慧音を誘った。
「そうか悪意が無いなら遠慮無く休ませてもらおう。何しろずっと式殿の事を見張っていたからな、正直疲れた」
私が迷い歩いている間、彼女は身を隠しながら付いてきたらしい。なんともまあたいした奴だというかご苦労様な事だ。
「で、式殿はだいぶ前から一体何をしているんだ? それにこの荷物は『外界』の物だな。どうやって手に入れたんだ」
彼女は私の顔にずずずいっと瞳を近づけ尋ねてきた。なんか眩しすぎて困る、こーいうのは。
「聞きたいかな? 」
「聞きたいな、なかなか面白そうな歴史もこの荷物から伝わってくる」
「長い話になるぞ、かまわんか? 」
「ああ、妹紅への土産話にもなるしな」
「じゃあ、そうだな。一番始めは奇妙な旅人の話から始めるか」
私は慧音にこれまでの経緯を語り続けた。彼女は隣でうなずき、時には驚きながら私の話を聞いてくれる。私も彼女に、今まで起きた事を話すうちに何だか胸のつかえが消えてゆく様な、そんな感じがした。
話の終わり、私は歩いてマヨヒガに帰る為に途方に暮れていたのだという所で、彼女は見た事も無い様な笑顔を見せた。いつもむっつりしている顔ばかりなのでなんとも新鮮に感じる。可愛いなと少しだけ思ったのは秘密だ。
「そうか、『外界』の人間からの土産物か。そして霊夢は八雲の主に話を付けにいったのか」
「ああ、なるべく穏便に万事解決してくれればありがたいよ」
「それにしても」
「ん? 」
慧音は林道の上の青空を見上げ小さく呟いた。
「守りたい存在が有るという事は、色々と苦労するものだな」
「そうだな」
彼女の言葉に同意しながら、私は秋の終わりに『外界』に旅立っていった小さな赤い姿を思い出した。
「ところで、似たような話が過去にあった事を貴女は知っているか」
「いや、初耳だ。何があったんだ」
「なら今度は私が語る番だな」
慧音は胸の前で腕を組み、目を閉じて静かに語り始めた。
ある一つの話を、ゆっくりと。
「もうどれだけ昔になるか、夜の幻想郷に迷い込んだ人間がいた。機械仕掛けの馬に乗った男だったよ。黄色い、流線型の鋼の馬を巧みに操りながら妖怪達の追撃を回避していた」
彼女は水の底から掬い上げる様に、話を続ける。
「十数匹の妖怪達に追われながら、その男が里に近づいて来るのを、私は里の上空で確認して助けに行こうとした、その時」
「男は急に里とは反対方向へと走り始めた。妖怪達の群れを引き連れてな。私は慌てて追いかけて、なんとか男を救う事ができたが」
ため息が彼女の口からもれる。
「男は片足を喰われてしまっていた。何故そのまま里に逃げ込まなかったという私の言葉に、男は苦し紛れにこう答えたよ『自分の命惜しさに他人を危険にさらしたくなかった』だと」
「馬鹿な奴だ」
「確かにな、だが『外界』にも骨の有る奴がいると感心したよ。傷の手当ての為に博麗神社に運び込まれて、男とはそれっきり会う事は無かった。風の便りではその後、義足を作ってもらい『外界』へ一人で帰ったそうだ。鋼の馬は古道具屋の倉庫の中で『眠り』に付いたと聞いた。今もまだ眠り続けているのだろうな、新しい主が現れる事を夢見ながら」
そうか。
そんな事が過去にあったのか。
彼女の話を聞き終えると共に、ふと生じた疑問がつい私の口に出た。
「もし、もしも『外界』の人間が手助けしてくれと現れたとしたら。お前はどうする? 」
彼女は鼻で笑いながら、私に向かって迷いも無くはっきりと答えた。
「決まっている、私は何時でも『人間』のみ・か・ただ。それではこれで別れるとしよう。私も色々やる事があるからな」
慧音は木箱から立ち上がり去ろうとしたが、急にこちらを振り向くとある方向を指差した。
「私の中のマヨヒガの出現場所の歴史によれば、この先に進めば辿り着ける、はずだ。でわ、さらばだ式殿」
彼女はそのまま風を伴いつつ飛び上がると、里の方へ向かい矢の様に飛び去っていった。
「借りが・・・・・・ できてしまったかな。さて、日が沈む前に帰れると有り難いが」
私は再び木箱を背負い、慧音の指差した方へ進む事にした。休息と自分の悩み事を聞いてもらったせいか、だいぶ体が楽になった気もする。さて、我が家へ急ごう。
ふと傍に咲いていた小さな花に目をやると、それは一生懸命に光を浴びようと体を広げている様に見えた。
「お前もがんばれよ」
微風のせいだろうか、揺れるその花は私に向かって会釈をした様に感じられた。
ぜいはぁ、ぜいはぁ、草木を掻き分け。
ぜいはぁ、ぜいはぁ、斜面を登り。
ひぃふう、ひぃふう、川原を渡って。
ひぃふう、ひぃふう、森を駆け抜け。
そして。
「着いた、着いたよ~愛しの我が家に~」
日はすでに沈み、かなりの時間が経ってしまっていたが、私はようやく目的地に辿り着く事ができた。
目の前には古ぼけてはいるが、私がよく知っている。知りすぎている家屋と黒土の庭が広がっていた。危惧していた破壊の後も無い。マヨヒガは平穏無事だ。ああ、なんだか目頭が熱い。だって、私も女の子だもん。
それにしても、ぼんやりとした視界に映る家屋には明かりが付いている様な・・・・・・ 。
服の袖で目をこすり、もう一度凝視する。
やっぱり、灯っている。という事から考えるに。
一、 紫様が夕餉の支度をして私を待っていて、くれる訳無いな。
二、 霊夢が勝手に食料を食い漁っている。これは十分考えられるな。
三、 紫様が玄関で鬼の様な形相をして待ち構えている。どうしよう、博麗神社に逃げ込もうかしら。土産の木箱をここに置いて。
私がどうしようかと躊躇していると、玄関の戸が音を立てて開いた。思わず文字通り尻尾を巻いて戦術的撤退をしようとした正にその時。
「あ~ やっぱり藍様だ。おかえりなさい」
天使の声が聞こえた。
その姿も声も、心配していた変化も無い。
数ヶ月の間、遠く離れて暮らしていた、私の、私の。
「ちぇぇぇぇぇぇん、チェン、橙~ うわぁあああああああああん」
その時の私の頭にはそれ以外、橙の事意外無かったのだろう。まるで猛牛の突進の様に走り出した私だったが。
「はい感動の対面はそこまでよ」
更に聞き知った声と共に、私の体は突如足元に空いた隙間の中へ、重力の法則に従い吸い込まれ落下した。薄れてゆく意識の中で、紫様の高笑いが聞こえた様な気が確かにした。したもん、絶対。
私が再び目を覚ますと、そこはマヨヒガの茶の間で、紫様、心配そうに私を見る橙、そして茶碗を片手に持ち飯をほおばる霊夢の姿があった。
だが何故か私の体は縄と筵で簀巻きにされ、更に天井から逆さ吊りにされている。
「あの~、質問があるのですが」
「な・あ・に? らぁ~ん」
「なぜ私はこのような目に会っているのでしょうか? 」
胡散臭い微笑を浮かべる紫様の代わりに、口元にご飯粒を付けた霊夢が口を開いた。
「藍、あんたが結果を聞いて暴れない様に念入りに縛らせてもらったわ」
ああ、簡潔で分かり易過ぎる答えだな。ところでお前、一日に何食食べるんだ。
「一から説明するから良く聞いて。わたしの策は失敗しました、以上」
頭に血が溜まってくらくらする。ただ霊夢の話は理解する事ができた、っておい失敗ってどういう事だ。
「貴方が橙を可愛がる気持ちも分かるわ、でもね」
今度は紫様が口を開く。
「主が決めた事を反故にするような悪い子にはお仕置きが必要だと思うのよ。うふふ」
冷や汗が背筋を流れた。この流れで行くと問答無用で袋叩きか、『かいぞくききいっぱい』とかやられるに違いない。ああ、無情なり。
「待ってください、紫様」
悲観に暮れていた私に助け舟を出してくれたのは以外にも橙だった。私の小さな式は紫様の前に立ちはだかる。以前の橙には考えられない行動だ。というかなんで橙がマヨヒガに戻ってきているんだ? 私は努めて冷静に現状を把握しようとしたが、うまく頭が回らない。
「紫様は強引です。わたしの役目はもう終わりだとか、景一に試練を与えるから自分の力でマヨヒガまで来いとか、横暴すぎます。それに主を守るのは式の努め、藍様を責めないでください」
おぉ、なんとまあ頼もしい口ぶりだ。私には到底真似出来ない。紫様の恐ろしさを嫌という程知ってるから。
「聞いたかしら藍。貴方の式もたくましくなって帰ってきたわ。じゃ、私は寝なおす事にするから、詳しい話はそこでがっついてる紅白にでも聞いてちょうだいな。おやすみなさい」
紫様は寝室への襖に手をかけたが、そこで振り向いて私の心に直接語りかけてきた。
『あの男を橙に喰わせる、その事を話すのは貴方の役目よ。だから私は引き下がるわ。いいわね』
紫様は残酷な役目を私に押し付け、姿を消した。
私はやっとの事で束縛から解放された。そして今は米びつに首を突っ込んでいる霊夢の襟首を引っつかむ。
「いい加減食うのを止めてくれ、そして何があったのか教えて欲しい」
「わかったから手を離して、首が絞まる、絞まるって」
ぜーはーと言っていた霊夢は、橙が出したお茶で一服した後、事の顛末を話し始めた。
「ここに着いたら紫は寝てたの。揺すっても、叩いても、蹴飛ばしても起きないから奥の手を使ったわ」
「奥の手? 」
「そう、鼻と口を塞いで、首を絞めました。効果はばっちり、すぐ起きたわ」
おい、普通の人間だったら死ぬって。そんな事したら。
「それで例の件を諦めろって言ったらね、『気が変わった』って言って雲隠れされちゃって、仕方が無いから適当に台所を漁っていたら、ついさっき帰ってきたのよ。橙連れてね」
明日の食料残っているかな・・・・・・
「話を聞いたら、『良い物を見せてもらったから更に気が変わった』だって。あ、例の男の人も無事みたいね。ただ」
どうやら奴も生きている。いや『生かされている』という事か。先程の紫様の言葉から察するに。
「『蜘蛛の糸からは逃さない』だそうよ」
「そうか、分かった。奴は幻想郷へ、マヨヒガ目指してやって来る。来るしか選択肢が無いのだな」
「そうね」
橙は無事に幻想郷へ帰還した。元の姿で。それは喜ばしい事だがしかし、私の悩みの根本は解決してはいない。
「じゃ、お腹一杯になったから私は帰るわ。それと」
「なんだ? 」
「私はその人にだけ肩入れする事は出来ない。紫の推測が正しかったらね。私も幻想郷の住人だから。じゃまた明日。鳥居は出来上がってないんだから忘れないように」
散々他人の家の食料を食い漁り、私の痛い所を突く台詞を残して霊夢は帰っていった。
後に残されたのは私と橙の二人だけになってしまった。
紫様から出された問題を、橙にどう真実を伝えよう。頭を抱えてしまいたい衝動にかられる。
「藍様、藍様」
ふと、私は橙に話しかけられた。
「お話があるんでしょ、月がきれいだから縁側に出たいな」
黒い夜空に鋭い三日月が浮かんでいる。私には死神の鎌の様に思えた。
春の風は夜でも暖かい。
縁側に腰掛け、橙を膝の上に乗せ夜空を眺める。
橙の体温が私の体に伝わってくる。なのに、私の心は沈んだままだ。
どう伝えようか。その辛い沈黙を先に破ったのは橙だった。
「フフフ~ン、フフフンフ~ン」
軽いソプラノの鼻歌。私が聞いた事の無いメロディ。
「なんだ、その歌は? 」
「え~とね、これは『アメイジング・グレイス』って外の世界の歌を、景一が替え歌にしたの。お酒飲みながらよく歌ってた。こんな感じだったかな」
橙は静かに、その歌を再び口ずさみ始めた。どこか、癒しを含んだようなメロディが私の耳に囁きかける。
傷を負い、全てを閉ざされた。
進むべき道を失い、暗闇の中にただ一人取り残された。
深い絶望と悲しみの中で、そんな私に手を差し伸べてくれた者がいた。
私が進むべき場所を示し、再び道を照らしてくれた。
今は見える、はっきりと見える。
もう迷いはしない。
もう失いはしない。
指し示す、その手がある限り。
その光が道を照らし続ける限り。
私は再び立ち上がり、歩き出す事ができる。
ゆこう、この道の先に希望が有ると信じて。
ゆこう、生きる力を与えてくれた者に応える為に。
進み、そして私の人生を全うする為に。
歌が終わった。何故だろう、私の心に何かが深く響く。何かが深く刻まれる。
「景一は言ってたよ」
橙が優しく私を見つめ上げる。
「藍様は自分にとって2級天使のクラレンスなんだって。自分の好きなお話に出てくる救い人の様なんだって」
私が、救い人だと?
「去年の秋に、景一が藍様にお礼に来た事があったでしょ」
「ああ、そんな事もあったな」
「どうして命の危険を冒してまで来たのって、この前しつこく聞いたら顔赤くして言ったの。『自分の恩人だからだ』って」
それなら私も直接本人から聞いた事がある。どうして些細な事の為に、再びここへ来たのだと。
あの時は、ずいぶんと呆れ果てた奴だと思ったが、奴はあの頃から私に自分の救いを見出していたのか?
「それからね、口止めされてたけど言っちゃう」
「『美人だな』って、耳まで真っ赤にして。うわ~、藍様もてもてだよね~」
「こらっ、ふざけるんじゃない!! 」
ぺろりと舌を出し、悪びれる事無く私に笑いかける橙を見据える。どうやら居候先の家主の悪ふざけが、橙にまで伝染したらしい。はぁ。
「紫様はどんな試練を景一にだすのかなあ」
「わからん、あの方の考えは全く理解不能な事が多すぎる」
「そっか、でも」
橙は夜空を眺め呟く。その目には以前には無い強い力が宿っていた。
「景一はよく言ってた、『最後まで絶対に生きる事を諦めない』って。今はその言葉の意味がわかる。だから」
私に向かって橙ははっきりと宣言した。一片の迷いも無く。
「わたしは景一の試練の手伝いをする。いいよね、藍様」
この子は、外の世界でずいぶんと強くなった。それに比べ私は・・・・・・ 何を迷っているのだろう。
「もう夜も遅い、私達も寝よう」
「うん、藍様と一緒に寝るのも久しぶりだね」
その晩、私はまた夢を見た。
いつもの赤黒い夢ではない、別の夢を。
暗い闇に包まれた幻想郷を、私は何処か高い場所から見下ろしている。
月も見えない闇の世界で何かが聞こえる。聞こえてくる。
遠雷の轟きの様な、鼓動を刻む心臓の様な深い重低音が。
私は音の聞こえてくる方向に視線を動かす。
光が見えた。
闇を貫く一条の光が、あの音を伴い近付いて来る。
私の目に、徐々にそれが形を現し始めた。
それは見た事も無い流線型の、黄色く染められた鉄の騎馬。
勇ましい咆哮を響かせながら、バイクは風の如く駆ける。
それにまたがっているのは、黒い鎧の様な装束の人間。
奴だ。
あの男だ。
顔は見えないが、何故か分かる。迷いの無い想いが伝わって来る。
男は一直線に闇の中を走り抜けていった。
私の視界が、一瞬だけ暗転し場面が変わった。
私はマヨヒガの黒い大地に立っていた。
そしてそこに見える物は。
私の目の前で、あの男が黄染めのバイクにまたがり前方を凝視している。
男の両の手には、紫雷を放つ木剣が握られていた。
男の乗騎は更に猛々しく、弾ける様な荒ぶる気息を上げている。
私は男の視線の先に在る物を見た。
巨大な黒い霞の中に、何かがいる。
それは、たとえるなら金色の斑模様の異形の影。
夢だと分かっていても、押しつぶされそうな威圧感をそれから感じた。
これほどの威圧感の持ち主は・・・・・・ 。
だが、しかし。
男は臆する事無く、涼やかな風を受けるかの様に平然と威圧を身に浴びていた。
一瞬、男と目が合った様な気がした。その目には『大丈夫だよ』とでも云う様な光が灯っていた。心配するなと。俺は平気だと。
男が両手に持つ木剣を振り上げる。紫電を帯びた剣から、太い稲妻が天に向かって放たれた。遅れて響く雷鳴の轟音が周囲を揺るがす。
男のバイクにも変化が起きた。前後の二本の車輪に柔らかな光が宿る。静かに明滅を繰り返すそれは、まるで光の法輪を思わせた。
鉄の騎馬が動き出す。その時を、その瞬間を待ちかねていたかの様に、砲弾の如く息巻きながらバイクは疾走を開始する。
男とバイクは、周囲に唸る風と眩い光、猛る咆哮を伴いながら眼前の山の如き影に向かって突進してゆく。
次の瞬間、私の視界は白い光で覆い尽くされた。
私は眠りから覚めた。
目覚めに伴う何時もの不快感はまったく無い。むしろ何かすがすがしい気がするくらいだ。
隣では橙が穏やかな寝息を立てていた。
以前はひどく寝相が悪く、時々頭を蹴られた事があったのだが、今は自分の寝具におとなしくくるまって笑顔を浮かべている。
私は橙を起こさない様に静かに寝室を出て、縁側に立ち外の風景を眺めた。
夜明けが近いらしく山の稜線に光が見える。その光に照らされ、天にかかる雲は赤と青が互いに睦みあう様な色に染まり始めていた。
そして反対の位置に見えるのは、今にも沈みそうな薄く白く染まる月。
私はその月を眺めながら物思いにふける。
奴も今、この光景を眺めているのだろうかと。
揺るぎ無い決意を胸に秘め、もうすでに幻想郷を目指しているのかと。
男よ。
小角よ。
奇妙な縁によって我らは出会った。
出会ってしまった。
そしてその縁に、決着をつける日も近いだろう。
私の心も決まった。
私は紫様の式だ。主を守る事、それが式の努めだ。
そしてお前の覚悟を受け止める。
お前の決死の想いを正面から受け止めてやろう。
私の大事なものを守る為に。それが、私の覚悟だ。
来い、さあ早くやって来い。
小角よ。
機械仕掛けの馬を操る風変わりな男よ。
そして。
この因縁に答えを出そう。
外伝(終)
そして物語は結末へと流れゆく。
期待してますね。
次の話も楽しみにしてます。
気になってるんですが外伝1ってどこにあるんですか?(空気読め
久々に沙門分を補給しましたw
3ヶ月暖めていただけあって、藍さまはかわいすぎるは、
橙は一回りでかくなって帰ってくるは、霊夢は餌付けされるは(違、
と色々と楽しましてもらいました。
個人的に慧音のキャラに少し違和感を感じたのがちょっと残念ですが。
「男」の試練にどんな結末を与えるのか今から楽しみです、謝々。
*名前が無い程度の能力様
長らくお待たせしてしまってすみません。時間が過ぎるほど、ああしたら、こうしたらと迷いまくりながら、なんとか完成までこぎつける事ができました。続きも頑張ります。しゅ!!
*日吉様
本編の残りの話もほぼ出来上がっているので、後は私の根性次第です。先日の「響鬼」の中で「元気をもらったよ」という台詞がありましたが、感想を下さった方、点数を入れてくれた方、皆さんから私も「元気」をいただきました。これからも自分に打ち克てるよう頑張ります。
*名前が無い程度の能力様
本当に有難うございます。え~、外伝の一話と本編の四話がプチの作品集2にあります。よろしければお読みいただけると幸いです。この一話目が無ければ続きは書けなかったかも知れません。でわ、次の作品でまたお会いしましょう。
*紅狂様
ただいま帰りました。おっかなびっくりと。
事故を起こした後、色々と考える様になりまして、もっと自分が学ばなければならない事があるなと試行錯誤の連続でした。作中で「2級天使のクラレンス」という言葉が出てきますが、「素晴らしき哉、人生!」という映画が元ネタになっています。まだまだ未熟な私ですが、「始まりの君へ」を熱唱しながら走り続けようと思います。多謝。
いつも見ていた貴方の名前がないのは、とても寂しかったですよ。
物語も緊迫の度合を増し、続きが楽しみです。
三者三様の八雲一家と男の物語にどのような決着が着けられるのか。
期待しております。
お帰りっすノシ
本編も楽しみにしてます。
それにしても……がぉんか?がぉん来るか?w
*床間たろひ様
いつも感想有難うございます。今回は特に。ここからが作品の正念場です。幻想郷の住人達の、外の人間に対する立場も固まりました。後は話を書ききるだけですが、寄り道して短編なども書いてしまうかもしれません。こーりんと箒の話とか、色々。
*おやつ様
深く静かに潜行していました。今回の話、楽しんでいただけたら幸いです。本編は、主人公はオリキャラで男で、おまけに幻想郷の外の人間なので三重苦な訳ですが、好きで育てた『我が子』ですから力の限り書き貫こうと思います。
私もこういう風に、読者の心を惹きつけるような作品を作れたらいいな、と思います。
いよいよ、完結編が近くなってきたと感じます。どのような終幕を迎えるのか、本当に楽しみです。
それでは、また。
*鬼瓦嵐様
温かいお言葉、有難うございます。肝心の本編の続きは四話を予定しています。最近、トレーニングも兼ねて近所の山の上に在る金毘羅様に通っているのですが、山道を歩いているだけでも、あーでもない、こーでもないと続きの話を考えて迷う日々です。ある意味幸せなんですが。
私は言葉を使い、作品に言霊を込めた物を作れる様になるのが今の目標ですので「お前に魂を吹き込んでやる!! 」と精進中の毎日です。でわまた、多謝。
本編第一部の方に書いた感想があまりに至らない文になってたのでこちらにてリベンジ。申し訳ありません。
お話にすごく引き込まれました。是非続きが読みたいです。橙も可愛いけど月風さんもかっこいいよ。
あと本編第一部感想にも書きましたが八雲紫自身が人を食す、という設定は何故か違和感をぬぐいきれませんでした。月風を試すための口上なのかもしれませんがどうもそうは思えなかったので…もしそうだったとしても何の問題もないわけですが。若気の至りです(?
今も頑張って執筆していらっしゃるのでしたら全力で応援させていただきます。お待ちしております。
本気で続きドコ------!!?
考えたこともなかった。
新しい視点の物語でしたこれ…!
非情に感銘を受けました。結末がマジで気になります。
人を喰うという事に多大な違和感と恐怖を感じました。これって何となく微ホラーに思えるのですが…
しかし黒い世界だ…
こんな幻想郷ってありか? と思いましたorz(決してこの物語を否定しているわけではありません)
なんていうか私の中に私に対してもとる感情が生まれてくるのを実感しました。
本当に、衝撃というか、刺激が強くて…ショッキング。
っていうかこれ以上深く考えるともっとおかしくなりかねないので、主に心中と私の頭の中が。
自分の考えていた東方の世界観が完膚無きまでに壊れてしまいそうな気が…。
…恐ろしい。
今まで見てきた東方の中で一番衝撃的かつ、トラウマになった小説をありがとうございました。
藍様が最後の良心!
最後まで見れば多分わだかまりもなくなってトラウマでも無くなるんでしょうけどねー、たとえバッドエンドでも。
未完結、と言うのが話の続きを深く考え込んでしまって世界観崩壊をおこしそうです…
そういう意味でも本当に結末を書いて欲しいです。
…まさか恐怖感をあおる為の未完結(脳内補完させる作戦)でしたら畏怖します…
結末を読める日が来ることを切に願います。