紅魔館の門番、紅美鈴。今日も今日とて一眠り。
彼女の勤務は眉間に刺さるナイフと共に始まります。目を開けると、昏く光る銀色。目線を上げれば、朝日を受けてぴかぴかと輝く銀色がありました。
「咲夜さん、今日は朝からお出掛けですか?」
「ええ、ちょっと神社まで」
「神社まで、というと」
咲夜が無言で指差したその先。霧がかかっている曇天の湖上に、見たことのない霊が見え隠れしていました。
ふわふわと漂いながら、時には追いかけっこをするように。のびのびとしていて、とても楽しそうです。
「何ですか、あれ。なにかの獣の霊のように見えますが」
「私も知らないわよ。貴方こそ一日中門前にいる癖に、あの霊が何処から来た、とか。いつから居る、とか。どうせ知らないんでしょう」
「流石、咲夜さん。私のことをよく理解していらっしゃる」
ただただため息をつくしかない咲夜。美鈴が一人感心していると、突然視界が暗転し、咲夜の姿がぱっ、と消えてしまいました。
「あッ。全くもう、落ち着きがないんだから。まだ会話の途中じゃないですか」
気を探っても、気配は既にありません。数分前には出発していたようです。がっかりとした美鈴は門扉に背を預けました。目の前が真っ暗なので、眠るには丁度良いでしょう。
「相当急いでたんだろうなぁ。三つ編み、解けてますよ。って、言えなかったや」
昔の事。むかしのこと。
いつも美鈴が彼女の髪を編んでいたのも、今はむかし。今はもう、夢の中のお話。
暗い視界に合わせて、脳がゆっくりと機能を停止し、深い水に沈み込みます。目の前に広がる湖より、ずっとずっと深い眠りに。
幻想郷中で彼女ほど夢を見る人は何処にも居ないのでしょう。
その日は朝から快晴。小手調べの一眠りが済んだ頃。湖の対岸から妖精たちが紅魔館に向かって飛んできました。彼女たちが此方に向かってあまりにも楽しそうに手を振るものですから!
ついつい引き締めていた口元を緩めて、美鈴は笑ってしまうのです。
妖精たちが謎の霊を捕まえて一通り弾幕ごっこを終えると、今度は美鈴の番。
美鈴の身体を山に見立てて、妖精たちはえっちらおっちらと足元から頭上まで息を弾ませて登ります。たまに腕を震わせたり、肩を揺らしたりして、やれ地滑りだ、やれ山体崩壊だとイベントを与えてやれば、妖精たちはきゃあきゃあと大盛り上がり。
なかなか天辺に立てない妖精たちですが、皆で協力して美鈴にしがみついて、動けなくさせる事を覚えました。これには美鈴も参ったと降参するばかり。
とうとう頂上に辿り着いた妖精が、記念に帽子を持って行こう、と言い出しました。けれども帽子は、いくら引っ張っても取れません。
どうしてだろう。何故だろう。妖精は美鈴に聞いてみました。
「ああ。ああ、それなら。引っかかっているんだよ」
美鈴は帽子を右回りに捻ってから持ち上げます。
「ここを見て」
美鈴が指し示した側頭部には対の出っ張りがありました。この凸端に帽子が引っかかっていたようです。
「子供の頃に眠って木から落ちたら、枝が頭に刺さってしまったんだ!」
だから、みんなも寝る時は安心できる場所で眠らないといけないよ、と妖精たちに伝えると。彼女たちは分かっていない様子で、分かった、と言いました。
ひと遊び終えると、妖精たちの頭がどんどん重くなっていきます。近くの木陰に入り、皆で横になると、すうすうと可愛らしい小さな寝息が響いてきました。
ここには捕食者もいません。恐ろしい怪物もいません。邪悪な悪魔もいません。安心して眠れる場所なのです。美鈴もだんだんと瞼が下がってきました。
緑、青、赤、黄……色とりどりの妖精たちが重なり七色に混ざり、やがて金色の陽光に収束しました。
幻想郷中で彼女ほど夢を見る人は何処にも居ないのでしょう。それはとても幸せな夢なのです。
「あら、もう起きたの?」
日が落ちた後の庭園。花壇の中で美鈴は目を覚ましました。芳しい香り。人を惹きつける魔力を持つ、その白い花に反射した星明かりで、美鈴の健康的な肌は死人のように青白く光っています。
「フランドール様。この毒花は此方の花壇には植わっていなかったはずですが」
「小悪魔が管理してる魔法菜園から持ってきたからね」
「私でなければ死んでましたよ」
「ええ、殺すつもりだったもの。でも、綺麗だったわよ、美鈴。それじゃこれでお葬式はお仕舞い」
そう言って彼女は白い花を蹴り散らしていきました。
「ちょ、ちょっと!私が怒られる案件を雪だるま式に増やすのはやめて下さいよ!」
「寝てたのが悪いんじゃない?」
「それはそうなんですが……というか、以前に花がお好きと言ってくれたではないですか」
「そうだったかしら?悪いけれど、今、機嫌が悪いの」
フランドールはそう言って、美鈴が横たわっていた花壇の周囲を一周すると、元々植わっていた黄色い花を摘み上げました。
「今日、お姉様の元に客人が来たのよね。貴方が寝ている間に」
フランドールの手の内で、一枚ずつ花びらが捥がれていきます。
「そして考えた。お姉様に会えなかったら、私はどれだけ辛いのかな、って。どれだけ苦しいのかな、って」
フランドールにこんな話をさせるとは。一体来客とは誰でしょう。天人に姉を奪われた疫病神?それとも、太鼓に姉を奪われた楽団員?
「私は篭っていてもお姉様と会える状態だったから、分からないのよね。ねぇ、美鈴。姉妹が離れ離れで生きるのは……辛いこと?」
最期の一枚が捥がれると、茎は緑の粒となり風の中に消えてしまいました。
「いや、それは……私にも分からないです」
生き別れの姉妹!ああ、それはどんなに辛いことでしょう。どんなに苦しいことでしょう。美鈴には分かりません。
「それは美鈴が馬鹿だから?」
「そうですね」
「つまらない答えねぇ」
フランドールのほっそりした手首が美鈴の首を締め落とすと、月明かりの下で動くものはもう何もありませんでした。
幻想郷中で彼女ほど夢を見る人は何処にも居ないのでしょう。それはとても幸せな夢なのです。現実では起こり得ない夢なのです。
そのあくる日。美鈴は、いつもと変わらないあたたかなお日さまの光を浴びて、元気いっぱいに居眠りをしていました。そんな風にして午前を過ごした後、正午を過ぎ、新たな昼寝に突入します。
風が強くなり、青い空に少し灰がかかると、美鈴はどうにもなんだか身体の一部に違和感を感じました。けれども、その原因が何なのかは、夢の中にいる美鈴には分かりません。
何故なら、夢の中と外を同時に見張ることなど出来ないのですから!
「あら、今日は眠りが深いのね。もう直接頭蓋骨をノックした方が早いかしら」
「ちょっと甘いんじゃない、咲夜。穴でも開けてカラッポの中身を覗いてみた方が早いわよ」
肉質を通した鈍い振動ではなく、頭蓋から背骨を通って、尾まで響く鋭い音。ようやく夢の世界から戻ってきた美鈴は、悲鳴と共に目を開けました。
「もう昼過ぎだけど、おはよう、美鈴」
「おはようございます、お嬢様、咲夜さん。不肖紅美鈴、只今夢の世界でお嬢様を護衛していたところです」
「あら、そ。不審者は居たかしら?」
「ドレミーさんが通りすがったくらいで。もう、平和そのものでした、ハイ」
「私は用事があって今日は朝から起きてたんだけどね。無駄な努力ご苦労様」
咲夜が傾ける傘の下、レミリアはくす、くす、と笑っていました。
「さて、夢の世界の賃金の話なんてどうでもいいの。今日は、大事な大事なお話をしに来たのよ、美鈴」
「大事な、おはなし。もしや私、クビでしょうか?」
もう二度と紅い姉妹や紅魔館の皆と会えない。それは、とてもとても悲しいことです。美鈴はまったく震え上がって、どうかそれだけはやめてほしい、と心の中で乞い願いました。
「そんなわけないでしょ」
「あっ、そうですかぁ。それは良かった。まぁ私がクビになるわけないですもんね」
「むしろうちに対するツケがたっぷり溜まってるんだから。このまま払わせずに返すわけがないわ」
うん、うん、と頷いていた美鈴ですが、ツケ、という言葉を聞いて目を丸くしました。
「……えッと。私、紅魔館に借金とか。そういう行為はしてない筈なんですが」
勤務態度が怠慢なのは明らかですが、不当な負債を背負わされてしまってはたまりません。美鈴は力強く反論しました。
「美鈴。あんた、通いじゃなくてウチに住み込みよね?」
「はぁ、そうですね」
「住み込みの場合、給与から衣食住その他の金額を引いたものを手取りとして渡してるのは覚えてる?」
レミリアは一枚の黄ばんだ紙を取り出してぺしぺしはたきました。内容はどうやら契約書のようですが、蚯蚓がのたくり蛞蝓で湿らせたような字で、到底読み取ることは出来ません。
「……手取り?給与?そんなもの貰ってましたっけ?」
「あ、そっから覚えてないのね。まぁいいわ、咲夜、先月の美鈴の手取り言ってやって」
「0円ですね。実際はマイナスの値になってますが」
「まいなすッ!?何でそんなことが起きるんですか!?」
「まず美鈴の場合食費が凄いのよね。で、危険手当を含んで一日一時間勤務とすると……一日につきご飯三杯分の値段はツケが溜まっていくわよ」
一日一時間勤務って、その評価は幾らなんでもナイでしょう、と言い返したい美鈴でしたが、監視役を付けられると一日数十分も勤務していないことがバレるのでただただ縮こまるしかありません。
「全く、また話が逸れたわ。最近牛鬼と魚の宅配契約した話なんてどうでもいいの。今日は、大事も大事、だーいじなお話をしに来たのよ、美鈴」
美鈴としては先程の話より大事なお話など無いように思えるのですが、夢のない大事なお話よりは、夢のあるかもしれない大事なお話。レミリアよりも背を縮こめたまま、じっと話を聞いていました。
「おほん。それでは、えーと。……改めてこういうのを聞くのも変だけど。美鈴、あんた、大事な人はいる?」
恋バナは紅茶でも淹れながらしませんかね、と思いつつも、とりあえず美鈴は真面目に返答します。
「そうですね。お嬢様、フランドール様。そしてこの紅魔館にいる皆さん、が大事ですかね」
大事な皆さんを護るために毎朝心を新たに門前に立っています、とカッコいい台詞でも付け加えようか、と美鈴が思っていたところ、
「あ、そーいうハートウォーミングな感じはいいから」
と、あんまりな返し。そのやり取りに顔を背けた咲夜は、美鈴からは笑っているように見えました。実際は、絡みついてきた緑色の霊を構っていただけなのですが。
「私が聞きたいのはね、こういうこと」
レミリアは、先程までとは一風変わって、酷く真面目な顔で言いました。
「紅魔館を置いて。この紅い門から離れて。それでも逢いに行きたい、心の底から求めている『だれか』。そういう人が。今!……美鈴は居る?」
空に占める青と灰の割合が逆転し、肌に当たる日差しが三割程に減ってゆきます。
「『だれか』……」
肌寒くなり、美鈴の腕には鳥肌が立ちました。これほど雲が増えてきたなら、レミリアも傘無しで出歩けそうです。
美鈴は傘の影に入っているレミリアの紅黒い瞳をじっと見つめます。今彼女が話した言葉を、ゆっくりと味わって。風に紛れて消えてしまったその言葉に、深い意味が込められていることを想いました。
「随分と、回りくどい言い方をされるのですね、お嬢様」
美鈴の瞳孔が細まり、湖の表面が凪に入ったかのように静まりかえります。
「もう、私は」
少なくとも、今だけは美鈴は千年寝太郎の門番ではありません。
「私には、ここだけなんです」
今だけは、二人の姉妹と出会った化け物でした。妹を愛し懸命に生きようとする姉と、姉との接し方を測りかねて心を閉ざした妹、その姉妹に。
「……はぁ」
重い想い溜息を、レミリアが吐き出しました。
「ちょっと、卑怯な言い方だったけど。美鈴がそれでいいなら、いいわ」
「ありがとうございます」
「でもね。何かあったら、いつでも言いなさい。踏み倒すツケは……いつか必ず回収に行くから」
館へ向けて歩き出すレミリア。湖の霧の向こうをひたすらに見つめる美鈴。
ただ、咲夜だけが、レミリアに浮かぶ安堵と苦渋を見ていました。
眠れない者はそれだけで不安でしょう。安堵する場所などないのですから。
眠れない者はそれだけで不幸でしょう。治る傷も治らないのですから。
唾液でべとべとに濡れた頰がそろそろ不快に感じてきた頃、ようやく美鈴は目を覚まします。背もたれに寄りかかり体を伸ばしたところで、本から粘着質の液体が発射され、鼻頭を濡らしました。
「……くさっ」
「何処かの誰かさんが机の上で本を開いたまま寝ないように、ってことで最近水の反射魔法がかかりましたので」
パチュリー様も甘いですねえ、と呟きながら美鈴が座るテーブルの背後を通り過ぎて行ったのは小悪魔。今日も新たに拡張された空間の書架整理に大忙しです。
「全くあの本泥棒も余計なことを」
『何処の誰のせいで余計な手間が増えてるのかしらね』
愚痴りながら美鈴は化粧室に向かおうとしていましたが、頭上から降ってきた水塊のお陰で綺麗さっぱりネバつきは洗い流されてしまいました。
「ま、顔洗いに行く手間が省けたと考えれば良いですね」
そう開き直りながら、美鈴は改めて本と頰の間に羊皮紙を挟んで眠りに旅立とうとします。
うつらうつらと思考が歪んできたその時、テーブルに投げ出された手を、そろそろと撫ぜるもう一本の手がありました。
「罪のない者だけが唾を吐きかけよ。って、本は言っているように見える?」
「……良くここが分かりましたね、図書館の中でも良い昼寝スポットなのに」
「分からないはずがない。手首から血の匂いをプンプンさせちゃって。止めた方がいいよ、せっかく綺麗な手をしているんだから」
「お褒め頂き恐縮です」
どうやら今日という日は美鈴を安眠させてはくれないようです。身体を起こすと、美鈴はルーミアに向き直って挨拶しました。
「ル……妹様。お久しぶりです。今日は何故こちらに?」
「追い払いたいから交代してくれって言われたの。何があったか知らないけど。でも助かったわ〜。最近、外はへんな獣のお化けが出るし。たまんないわ」
「あぁ……あの霊ですか。大変ですね」
「それで、暇つぶしに面白そうな本を見つけたからさ。読んでよ、美鈴」
「パチュリー様や使い魔達にでも頼んだらどうでしょうか?」
「この紅魔館で一番暇してる女がそれを言うの?」
美鈴は、いったい自分はこの紅魔館の何なのだろう、と嘆きながら、ルーミアが差し出した本を受け取りました。
「って。中国語の文献なんですね」
「当たり前でしょ。そうじゃなかったら美鈴なんかに頼まないよ。で、この……『龍紋』と『星脈』ってところなんだけど」
「あッ」
「え?」
「あ〜。何でもないです。ちょっとこの文は解釈が難しいんですよね、何から話したものか……」
二言三言、断片的な言葉が美鈴の口から漏れ出ます。ルーミアは、思っていたよりも美鈴が真剣に考え込んでいたので、いったいどんな頓珍漢な話が飛び出るのだろうと、わあくわあく、していました。
一体の使い魔が雑巾で美鈴の椅子の下を拭いていった後に、いよいよ美鈴が方針を纏めたようで、ルーミアに向かってこんな質問をしてきます。
「妹様。古代中国に於いて、統治者が生涯をかけて追い求めたものは何でしょうか?」
「なにそれー。今の話と全然関係なくない?」
「いや、ただこの文を読み下しても現在の価値観ではピンと来ないかと思いまして、その前提説明の為にですね……」
「ふぅん?」
別にルーミアは急いでいるわけでもありません。とりあえずは美鈴の言に従ってみようと、その問いについて考え始めました。
「うーん。統治者が欲したものねぇ。食・酒・女……とか?」
「あはは。まぁそれらが重要だった人達も居るみたいですが」
「ううん。分からないなぁ。富・名声・力。かつて彼らはその全てを手に入れていたんでしょう。掌の中に何でもあるなら、何を欲しがっていたのかな」
「ありますよ〜喉から手が出るほど欲されたものが。ただ、妖怪という視点からは分かりにくいかもしれませんね」
暫くうんうん唸っていたルーミアですが、観念したようで両腕を頭の上に振り上げました。
「駄目だ、降参。一体何なの?」
「それはですね、二つの『天』です」
「てん?」
ピンと来ない様子で、ルーミアは首を傾げます。
「一つ目は、天球の『天』。要は卜占ですね。統治者にとって現在を生きる為には未来を予知する術が不可欠です。天体の運行を詠み、日食や月食を予想する。天候の変化を予測する。そして果てには国の命運は、自分を裏切る者は、謀反がいつ起きるのか、とバリバリにまつりごとに役立てていたわけですよ」
「……ふむふむ?」
「二つ目は、天界の『天』。仏教のナントカ天から分かると思いますが、ここでの『天』とは日本における多神教の神に近い意味となります。統治者にとって未来を生きる為には永遠を生きることが不可欠。なので、死後の世界を導入したり、あるいは自分自身が神仙になって不老不死になるわけです」
「あぁ、なるほどね。私の視点からはたしかに分かりにくいかも」
少々長い説明になりそうなので、ルーミアは若干瞼を重そうにし始めました。
「はてさて、古き人々は統治者……文字通りの天子を通して遥かな天を仰ぎ見ていたわけですが。技術が発達してくると、空に神に雨乞いをするよりも、灌漑をした方が、品種改良をした方が、多くの米が取れるようになります」
ルーミアが予期していなかった、熱を入れて語る美鈴。身振り手振りも加えて、なんだかとても力が入っています。
「そしてここが転換点。まつりごとに内包されていた神話・宗教・占術・学問が一気に分化し、それぞれ発展していくことになるのです。『仰以観於天文、俯以察於地理、是故知幽明之故』……つまり、人々は知れることを知った。知ってしまったんですね」
少し懐かしそうな、寂しそうな、そんな目を浮かべる美鈴。ルーミアはさっぱり理解できませんが、この話が美鈴にとって重要であることはなんとか理解できました。
「さて。お話が長くなってすみませんでした。前置きもそろそろ終わりです」
ふらふらと揺れるルーミアの肩を、ぽんぽんと美鈴が優しく叩きます。
「天を明らかにする、という意味の天文。その対となる概念として、この地球上にある、地上を祖とした現象を説明する為に、様々な学問が拓かれました。地文、気文、水文、人文……そしてその中にあったものが」
「龍紋?」
「流石妹様。その通りです!」
「ああ、よかった。やっと最初に戻ってきたんだ」
1人で言葉を綴る美鈴について行けなくなりそうだったルーミアは、漸く安心して夢の世界から戻ってきました。
「でも、おかしいなぁ。私のイメージする学問で捉えるなら、龍紋ってなんだか変な感じがする。恐竜でも調査していたの?」
「それはですね、今の前提を理解した上でこの本を読めば頭に入りますよ。まず内容を大雑把に言うと……龍紋とは龍が天に上がる時に地上に残す痕跡であり。星脈とは天に上がった龍がやがて至る境地である。……というようなことを言っています」
先程までの美鈴の説明が、ルーミアの中で一つの像を結んできました。
「あ、ってことはつまり……龍紋は地殻活動による現象ってこと?」
「はい、正解です。現代で言う地学に吸収された分野なんですよ。火山の噴火、熱水泉、液状化地盤、などなど。これらは『莫大なエネルギーを持った何かが地から天に向かって移動した』痕跡と解釈され、特に水と関わりが深い龍と結び付けられました。これが龍が生まれ出た場所、龍紋の成り立ちです」
「はあ、現代とは全くかけ離れた考え方なんだね」
「最後に星脈ですが。これは変光星を喩えたものです」
「へんこーせい?」
「明るさが変化する恒星のことです。連星型や爆発型等がありますが、この文脈から龍の心臓に喩えられることもあるので……膨張収縮を繰り返している脈動変光星を特に指すのでしょうね」
ふと、美鈴が、パチュリーの作業台に浮かんでいる天球儀を指しました。太陽を中心として、水星から冥王星までの惑星が規則正しく運行を続けています。
「まだ望遠鏡さえ開発されていない時代。辰星から鎮星の五星に役割が与えられた様から分かるように、全天において裸眼で見える星のうち、恒ではないものは非常に珍しいものです」
天球儀を見つめる美鈴の瞳には、惑星達は映っていません。静寂に包まれた図書館の中で、ただ球から発される僅かな振動音だけが宙に発されます。
「そして、星脈へと至れる龍も又希少。それらが結び付けられ、あの星に龍神様が在わすと。古代中国の人々はそう考えたのでしょう」
そう切って、美鈴はふっと息を吐きます。
丁度その時、冥王星とカロンが海王星軌道の外側に膨らみ、ルーミアが座るテーブルに最も接近しました。
「……気を遣い。気を遣われ。気を失わせ。そして又、気を養う。大いなる循環であった龍脈は、天地開闢と共に分かたれた」
二人で一つの惑星は、手を取り合っていつまでも。死の川を挟んで楽しそうに、くるくる、くるくる、と、回っていました。
「これでおしまい。私の主観的な訳文と解説でした」
説明を終えた美鈴の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいます。暢気で怠慢な、居眠り癖のある門番。そこにちょっとだけ、昔話を加えた彼女がそこにいました。
「……そーなのかー」
どうしてスペルカードに星脈弾と名付けたの?
美鈴に会うまで、ルーミアはこの質問を心の中で浮かべていましたが、結局口の外に出ることはありませんでした。
余韻に浸る美鈴を、わざわざうつつに戻すこともありません。それよりも今必要だったのは、夢の世界に落ちること。
大判の百科事典でも持ってきて、一緒の枕として寝て。それでまた、いつもの門番に元通り。
幻想郷中で彼女ほど夢を見る人は何処にも居ないのでしょう。それはとても幸せな夢なのです。現実では起こり得ない夢なのです。彼女が壊してしまった夢なのです。
霧の中を惑うようにフラフラと飛ぶ妖精は、未だに夢うつつの状態でした。無理もありません、ここ三日三晩四六時中、謎の霊の弾幕ごっこに付き合わされていたのですから。
「ふぁ……」
欠伸の呼気で霧が晴れ、薄くなった幕の間から水晶の輝きが覗きます。
「こっちも駄目!居なかった!」
対照的に湖の対岸まで届きそうなキンキン声を上げる氷精。まだまだ遊び足りないといった様子です。
「気づかないうちにあたいが全部倒しきっちゃったのかしら」
「きっと、そうだよぉ……そろそろ紅魔館でのんびりしよ?」
「むうう。しょうがない」
何故急に謎の霊が消えたのかは分かりませんが、とりあえずの安息を得て妖精は胸をなでおろしました。
「じゃ、美鈴探そっか。今日は塀の上でお昼寝かな?それとも木陰で?……んん?」
「どうしたの?」
動きを止めた氷精の視線の先には紅い水があります。
「紅髪探してたら血溜まりを見つけてしまったわ。湖のヌシかワカサギがまた何かやったかな?」
それよりも、と、氷精は本物の美鈴探しに戻りましたが、妖精はその紅色をじっと見つめていました。
「お、珍しく花壇で土いじりか。さ、行こう!」
妖精は少し逡巡しましたが、すぐに氷精と共に紅魔館へ向かって飛び始めました。手を繋いで空を駆けていく2人に、血に群がる肉食生物達は見向きもしません。
妖精というものにもう少し記憶力があれば。美鈴が起きている日は必ず、紅魔館側の水が紅く染まっていることに気づくことでしょう。
幻想郷中で彼女ほど夢を見る人は何処にも居ないのでしょう。それはとても幸せな夢なのです。現実では起こり得ない夢なのです。彼女が壊してしまった夢なのです。
けれども今日の夢はいつもと様子が違います。いつもは角が邪魔にならないように、美鈴は決して彼女に頭を向けることはありません。
だというのに、今は彼女の膝の上で深い眠りについている。こんなことがありえるのでしょうか。もしや何らかの奇跡が起こって、彼女が美鈴の元にやってきてくれたのでしょうか。
いえいえそんなはずがありません。彼女の今の居場所は天国。あんなにいい子が天国に行けないわけがありません。
もし天国に居ないとしたら、それは美鈴を恨んで探している場合だけ。
あまりにも幸せな夢でした。美鈴にとって、都合の良すぎる夢でした。
あの日に消えてしまった夢が、今再び、幻想の中に帰ってきた。
そう、錯覚出来るだけで、美鈴はとても幸せでした。
強くなってきた日差しに木陰が掻き消され、美鈴は今日も職務放棄から目を覚まします。
「今日はいいナイフの刺さり具合ですねぇ」
ふと、木のたもとに目をやると、一匹の小さな鮫龍がキュウ、キュウと瞳を潤ませて泣いていました。
親とはぐれたのでしょうか。美鈴はその鮫龍を抱き上げて、湖に放してやりました。
陸上での緩慢な動作が嘘のように、その身を流線型に変え、すうい、すいと、あっという間に深いみどりの中に消えてしまいました。
おしまい。