震えが止まらない。
骨の髄まで染み渡らせた覚悟も、幾度も重ねて掛けた暗示も、遂には臆病な私を救ってはくれなかった。
「早鬼っ……」
私は駆けた。
まだ生々しい温かさを保ったままの血の絨毯に脚を踏み入れるのは躊躇われたが、それを避けて通る道もない。
ほんの数秒前まで自分と同じ形の生物の内を巡っていた赤いべとつきが私の素足を濡らしていく。それは見えない手が道連れを求めてしがみ付こうとするかのようで、私はそれを振り解くように我を忘れて走った。
立ち止まったら自分も彼らと同じ液状になって床に拡がる気がした。
「早鬼、無事でいて……!」
不意に濃い血溜まりが私と床との摩擦を奪う。重心が崩れ、前のめりに倒れると眼前に一面の紅が走馬灯のようにゆっくりと迫るのが見えた。
べちゃ、と両手が第三第四の脚となって地に着く。生命の泥濘が掌と膝を冒すのを感じた。
咄嗟に立ち上がり、顔を上げると視界の端で動くものがあった。それは何かを振り上げていて、私に向かって血の道を駆けてくる。
「貴様ァ!」
私の走馬灯は続いていた。血と恐怖と憎悪に歪んだ彼の顔がはっきりと見えた。振り上げているそれは折れた刀で、けれどその尖った先端は私の頭を荒く切り裂くだろう。
私は必死に救いを乞う言葉を練り上げる。
「と、『止まれ』っ!」
彼は止まった。
振り下ろす両手は彼の両目を隠す位置にあり、その中にある刀はあと数秒のうちに私へ到達するというところまで来ている。
そのまま、動かない。
時が止まったようだけど、そうではないことを私は理解していた。掌を染める血はなお温かく、激しい鼓動は依然私の頭でがんがんと反響している。
彼の、叫んだままの口から唾液が糸を引いて落ちた。
「……『死んで』」
「ハイ」
歪な刃先が頭蓋を刺し貫き、軟い臓器を破壊する音がして彼は崩れ落ちた。創部から流れ出す流血が私の足の指に触れ、思わず後ずさる。
他に似たような生き残りはいないだろうか。改めて振り返ると一面の死体、死体、死体、死体――。
「『起きて』……」
静寂に呪いの言葉が木霊する。行き場のない音はがらんどうに微かな反響を漂わせて消えた。
立ち上がるものはなく、既に彼らは私の意志に忠誠を示し終えていた。
「早鬼を助けに行かなくちゃ……」
階段を登る。
途中、折り返しの陰に隠れていた一人、部屋の扉の裏に張り付いていた一人、それから三階の広間に避難していた十数人を死なせた。
「「「ハイ」」」
人形のように一言、私に恭順を示して彼らは手にした武装で自らを屠る。
銃弾の一つ、刀の一閃すら私に届くことはなかった。私と彼らの間には埋めがたい力の差があり、それを自覚するたびに無数の可能性が重く圧し掛かっていく。
私を虐げていた連中も同じように死んでくれるのだろうか。
浮かぶ顔は一人や二人ではない。名前しか知らない奴が、それどころか名前も知らない奴もいる。震えが止まらない。
四階。これがこの建物の物理的限界。
力任せに打ち破られた扉の向こうは酷く静かで、何もかもが終わっていることを示していた。
私は乾ききった喉で僅かばかりの唾液を呑み込み、早鬼が無事であることを祈った。
「早鬼……」
それが私の最期の言葉となるならば、それ以上望むことなどない。
縁起でもないことに、私は扉の向こうにある相棒の亡骸を思った。そうであるならば、せめて私もその隣に横たわりたいと願う。短く儚い夢だったが、溝鼠が見るには十分過ぎた。
地上四階。薄汚い路地裏で星に手を伸ばすばかりの私如きが、随分と来たものだ。
私は震えながら、けれども澄んだ心で、静まり返った部屋に踏み入った。
「―――あ」
言葉を失う。
早鬼のものであれ、敵のものであれ、床を満たすのは血の赤だと覚悟していた。だから網膜を灼く一面の黄金色は夢、もしくは私の知覚を置き去りにして訪れた死後の超越的な経験なのだとさえ思えた。
だって、羽ばたいた翼は黒くて。
「楽勝だ!」
早鬼の声が呆けた頭を覚醒させる。
金、金、一面の金。浴びるような、埋もれるような金の山。
地を這い、泥を啜り、灰と埃にのみ横たわって生き延びてきた二人にとって、それは夢にすら見たことのない光景。
「こんなに蓄えてたんだ、あの野郎」
弱いくせに、と早鬼は付け加えた。その背で割れた窓ガラスから月光が射している。
この日、早鬼もまた自らの力を知ったのだ。途端に彼女を救わねばと駆られていた自分の傲慢さが恥ずかしくなった。
「いつまでそんな石の床に突っ立ってるんだ?」
掬い上げた金の粒を指の隙間から降らせながら早鬼は言う。
けれど私は怖いのだ。私たちはとても強くて、一帯を統べていた連中は思っていたよりも弱くて、たった二人で屈強な連中を皆殺しにして、それからこれだけの黄金を手に入れて――?
現実と呼ぶにはあまりにも出来過ぎてはいないだろうか。
希望はいつだって私を不安にさせる。震えは今も絶えず私を戒めていた。血に濡れた足の裏が冷たい石の床に貼りついて動かない。
「大丈夫」
そんな私の卑屈な心を読んだかのように、早鬼は優しく微笑んだ。
「夢じゃないよ。これは紛れもなく、私たちが手に入れた栄光だ」
「……ははっ!」
夢は醒める。
確かな瞬きのあと、見えた景色は変わることなく一面の黄金。まるで伸ばした手が宙に触れたような感覚。
この瞬間、夢は見るものではなく叶えるものなのだと確かに理解した。
金の海がはじける。飛び込んだ体が積み上がった金を崩し、飛散した粒子がきらきらと輝いた。
初めて触れる黄金は不思議な熱を帯びており、あまりの眩しさに視界が滲んでぼやけた。
「早鬼!最高だ、私は今日のために生まれてきたのかもしれない!」
「はは、馬鹿言うな、八千慧!」
黒い翼と、龍の尾で底無しの黄金を泳ぐ。
私たちは子供のように、無数の黄金を両手で撒き、裸足で蹴散らした。
「ここからだ!私たちは、ここから羽ばたく!」
黄金の海に漂いながら早鬼は私の手を取る。輝きに彩られた彼女の顔は美しく、私は指を絡めてそれに応えた。
早鬼はいつだって私が欲しいものをくれる。夢を、希望を、勇気を、冒険を、果てもない私たちの物語を。それから――
翼が私の身体を覆う。漆黒の羽毛は煌びやかな輝きの上に小さな闇を作り出した。
その熱に絆された私の尾が蛇のように彼女の背を這い、早鬼は負けじと抱きすくめた私の首元に噛み付く。
「……っ」
私たちに不可能はなく、全てが手に入るような気がした。
くすんだ世界は色を帯びて、空っぽだった未来が満ちていく。いつしか震えは止まっていた。
「この果てしない地獄の全てが私たちに跪く」
闇の中で聞こえる囁き。瞳を閉じれば、その通りの景色が鮮やかに浮かぶ。
叶えられる気がした。早鬼となら、どんなことでも。
「そうね。いつかその上で、こうして踊りましょう」
幾重にも覆い隠すように、翼が私の背を撫でる。
この地獄の王になるのは早鬼だ。
全てが傅く頂で、私の手を取ってくれればそれでいい。
†
黒龍来る。
突如出現した黒翼の天馬と龍の末裔の噂は瞬く間に広がった。
弱肉強食の地獄で突然名を上げる者が現れるのは珍しいことではないが、無道にのさばるアウトローたちを震撼させたのは、その稀有な種族と襲撃の恐るべき速さ、そして徹底した鏖殺による無慈悲さである。
西で噂が上がったと思えば東で殺戮が起きる。その恐るべき機動力は今にもその牙が自分の喉元に及びかねないという恐怖を聞くものに抱かせた。
「……だそうだ、鼻が高いな」
「それはそれは。光栄なことね」
噂とは便利なもので、虚と実が螺旋を描いて拡散するものらしい。恐慌が恐慌を呼び、大いなる怪物像を創り上げる。龍の末裔などという小狡い詐欺で日銭を稼いでいた頃の嘘が今更現実味を帯びているのは可笑しかった。
「期待には応えていかなくちゃ」
嘘を健やかに育むためには生きのいい真実を食わせてやる必要がある。幸い、それを培う苗床はこの地獄に腐るほどいた。
「いつも通りでいいかしら」
「それ以外にあるのか?」
私が首を振ると、弾丸の跳ねる地面を蹴って早鬼は飛んだ。その腕に抱えられた私は風圧に髪を撫でつけられながら舌に灯を燈す。
一直線に翔ける早鬼の突撃に正面玄関のガラスが割れ、彼女はそのまま敵の首領が潜むであろう最上階へと駆け抜ける。最速最短。早鬼の往く道はいつだってそうだ。
閃光のような速度は武装した連中の認識を置き去りにし、代わりに早鬼の腕から降り立った私がその注目を集めた。
「ごきげんよう、みなさん」
凍てつくような殺意と照準が肌を刺した。もはや震えることもない指先を掲げて彼らの注意を惹きつける。
早鬼の背中は追わせない。
私は彼女の翔け抜ける覇道を血色に染める轍。
「それじゃあ――『死んで』」
殺して、殺して、殺して、殺す。
奪って、奪って、奪って、奪う。
殺戮と収奪に明け暮れるうちに金銀財宝はいつしか珍しいものではなくなり、無意味と知りながらも貪欲にそれらを求めた。
黄金に満ちた、はじまりの部屋も今や倉庫のひとつと化している。最後に足を運んだのはいつだっただろう。
倉庫が増え、拠点が増え、やがてそれらを護る部下が必要になった。私と早鬼の二人なら何でも叶うという幻想が、こんな物理的な事情に破られたのは皮肉なことだ。
部下の統括は私に適正があり、強い暗示でもって彼らを従えた。私の魔法的威圧にかかれば目的に忠実な人形に作り変えるなど造作もない。
財宝が積まれた幾多の拠点を持ち、無私の兵を従え、いつしか私たちは黒龍組なんて名で呼ばれるようになった。
囁かれる噂は轟く恐慌となり、誇大化した虚偽と少なくない事実が混ざり合って、地獄の輩は誰しも黒龍の恐怖に震えた。
殺して、殺して、殺して、殺す。
奪って、奪って、奪って、奪う。
部下が集まり、金が集まる。
満ちていく、満たされていく。
私たちは全てを手に入れつつあった。
「…………」
けれど夢が叶うたびに、欲しかったものが手に入るたびに、純粋な憧れが微かな虚しさを残して消えていく。
届かないと知りながら、宙に手を伸ばしていた頃の私が見れば憤慨するに違いないけれど。
呆と伸ばした手に早鬼が触れる。組み合わさった指はどちらともなく折り重なった。
「ねえ、早鬼」
褥に横たわりながら呟く。
「怖いの」
とは言わない。この言いようのない不安を上手く言葉にすることはできないだろうし、する必要もない。
不完全に打ち切った私の言葉を早鬼はそれ以上掘り下げようとしなかった。
きっと彼女も同じなのだろう。早鬼は黙って私の腕を引いて、いつものように闇の翼で二人を覆った。
こうしている間は言葉はいらない。それは彼女なりの優しさだろうか。
引き寄せあう体温だけは未だ熱を失わず、互いにそれを確かめるように慰めあった。この温もりだけは永遠だと祈りながら、自分に言い聞かせながら。
満ちていく。満たされていく。
それはとても怖ろしいことなのだと、私たちは知ってしまっていた。
†
その日が来るのは必然で、早鬼が行動を起こしたことは何ら驚くべきことではない。むしろ、せっかちな彼女にしては我慢した方だと思う。
先制は彼女に譲ることにしていた。これまでの襲撃と同じように、と訳の分からない言い訳で。狡い私は、この幕引きを自分の手で始める勇気がなかったのだ。
そして早鬼は、そう、いつだって私が欲しいものをくれる。
「言いたいことは分かってるつもりよ」
「だろうな、相棒」
拠点の一つ、その最上階に私はいた。
強い暗示をかけた兵士を多く備えていたはずだが、やはり彼女を止めるには至らない。
早鬼は屍の頭部を私に向かって放り投げる。それらは洗脳に漬かった無表情のまま、真新しい鮮血を床に広げた。
「宣戦布告のつもりかしら」
「ああ、待たせたな」
私たちは深く繋がりすぎた。皮肉なことに。
嘲るつもりだったが、漏れたのは溜息まじりの湿った笑いだった。
「怖くなったのでしょう?」
「なったとも。八千慧、お前もそうだろう?」
「悲しいことね」
二人で地獄を統べるという大それた夢、その終わり。
それはとても悲しいことのはずなのに。
私たちはあの頃のまま、笑っていた。
「その挑戦、受けましょう」
私は親指を唇に当てて、強制の言葉を探る。
早鬼にだけは向けるまいと思っていた能力。背徳を帯びたかつてない緊張に喉が疼き、幾つかの命令が冴え渡る頭に浮かぶ。
離れないで。
側にいて。
ずっとこのままで。
二人ならきっと、この恐怖も乗り越えられるのだから。
「――『跪け』ッ!」
「!!」
幾度も知った温度を拭い去る親指に紅が走る。
私たちは別れなければならない。叶うと同時に腐り落ちる夢を幾度も見てきた。私たちは満たされてはいけないのだ。
膝を折る早鬼を見て、複雑な感情が押し寄せた。全てを叶えた暁に君臨するのは彼女であるべきだと思っていた。その夢は未だ、そして二度と、叶わぬゆえに輝きを失わずに在る。
次なる命令を紡ぐ私に向けて、早鬼は歪に笑った。
「……初めて喰らったが」
彼女が地に付けた両脚、その爪先が床を砕くほどに踏みしめられていることに気付いた次の瞬間、私の身体はガラス窓を貫いて地上十階の宙空に投げ出されていた。
「大したことないもんだな」
「……あなたもね」
早鬼の蹴りに砕かれた遺体を幾つも見てきた。本気ならこの程度で済むはずがない。
お互いに、つまりはそういうことなのだろう。ならば――。
私は唾をひとつ虚空に吐いて、重力に引かれ始めた身体に力を込める。
水下いっぱいに強制の言葉が渦巻くのを感じて、叫ぶ。
「『死んでんじゃない!私の敵を殺せ!』」
部下を殲滅しておけば丸腰にできると思っていたのだろう。だが狡い私は既にこの日に備えていた。
死体たちは長く活動することはできないが、恐怖や痛覚を超えて、より一貫した忠誠を示してくれる。
早鬼は死角から現れた無数の手に、体勢を立て直す間もなく私と同じ窓から押し出された。
「驚いた?これからは背中にも気をつけることね」
「……忠告ありがとよ、じゃあな」
翼を拡げて一人重力から逃れる早鬼に尾を伸ばし、その脚を掴む。
振り払おうとする死角から、屍が次々とその背に飛び乗った。
「ほら、言わんこっちゃない」
屍骸と共に早鬼の身体を這い上がり、体勢を得た。早鬼の手で既に損壊している亡者のあちこちから迸る流血が二人を染め、汚していく。
一体、二体、三体目で彼女の体幹が崩れ、下半身の拉げた四体目が翼にしがみ付くと、ようやく重力が私たちを捕らえた。さらに五体、六体、盲いた肉が止むことなく早鬼を追って降り注ぐ。
もはや飛ぶことは叶わず、二人風を切って落ちていく。それはとてもゆっくりとした時間で、どこか懐かしさすら覚えた。
地上十階、さすがにこの高さから無数の体重を乗せて落ちたなら互いに無事では済むまい。
それで終わるのなら、まあそれもいいだろう。
そんなことを思うのだが、どうもセンチメンタルは噛み合わない。私も、早鬼も、ここで終わるはずがないという奇妙な確信があった。
早鬼の背中に尾を這わせ、屍を振り払おうともがく腕を抑えて、堕ちる身体を強く抱きしめる。
仄温かい血に塗れた接触は泥の海を駆けた無邪気なあの頃に、蕩けるように睦み合った日々に、少し似ていた。
「こんなはずじゃなかったんだけどな」
「思い通りにならないことなんて久しぶりね」
「……ああ、そうだな」
いつからか見失った憧憬。もう二度と手の届かない空想の彼方。
早鬼の黒髪を梳いて、露わになった耳元に唇を添える。精一杯の呪いの言葉を囁く瞬間、世界が弾け飛ぶような衝撃が意識を粉々に砕いていた。
ここから、私たちは羽ばたく。
この果てのない地獄を、どこまでも。
骨の髄まで染み渡らせた覚悟も、幾度も重ねて掛けた暗示も、遂には臆病な私を救ってはくれなかった。
「早鬼っ……」
私は駆けた。
まだ生々しい温かさを保ったままの血の絨毯に脚を踏み入れるのは躊躇われたが、それを避けて通る道もない。
ほんの数秒前まで自分と同じ形の生物の内を巡っていた赤いべとつきが私の素足を濡らしていく。それは見えない手が道連れを求めてしがみ付こうとするかのようで、私はそれを振り解くように我を忘れて走った。
立ち止まったら自分も彼らと同じ液状になって床に拡がる気がした。
「早鬼、無事でいて……!」
不意に濃い血溜まりが私と床との摩擦を奪う。重心が崩れ、前のめりに倒れると眼前に一面の紅が走馬灯のようにゆっくりと迫るのが見えた。
べちゃ、と両手が第三第四の脚となって地に着く。生命の泥濘が掌と膝を冒すのを感じた。
咄嗟に立ち上がり、顔を上げると視界の端で動くものがあった。それは何かを振り上げていて、私に向かって血の道を駆けてくる。
「貴様ァ!」
私の走馬灯は続いていた。血と恐怖と憎悪に歪んだ彼の顔がはっきりと見えた。振り上げているそれは折れた刀で、けれどその尖った先端は私の頭を荒く切り裂くだろう。
私は必死に救いを乞う言葉を練り上げる。
「と、『止まれ』っ!」
彼は止まった。
振り下ろす両手は彼の両目を隠す位置にあり、その中にある刀はあと数秒のうちに私へ到達するというところまで来ている。
そのまま、動かない。
時が止まったようだけど、そうではないことを私は理解していた。掌を染める血はなお温かく、激しい鼓動は依然私の頭でがんがんと反響している。
彼の、叫んだままの口から唾液が糸を引いて落ちた。
「……『死んで』」
「ハイ」
歪な刃先が頭蓋を刺し貫き、軟い臓器を破壊する音がして彼は崩れ落ちた。創部から流れ出す流血が私の足の指に触れ、思わず後ずさる。
他に似たような生き残りはいないだろうか。改めて振り返ると一面の死体、死体、死体、死体――。
「『起きて』……」
静寂に呪いの言葉が木霊する。行き場のない音はがらんどうに微かな反響を漂わせて消えた。
立ち上がるものはなく、既に彼らは私の意志に忠誠を示し終えていた。
「早鬼を助けに行かなくちゃ……」
階段を登る。
途中、折り返しの陰に隠れていた一人、部屋の扉の裏に張り付いていた一人、それから三階の広間に避難していた十数人を死なせた。
「「「ハイ」」」
人形のように一言、私に恭順を示して彼らは手にした武装で自らを屠る。
銃弾の一つ、刀の一閃すら私に届くことはなかった。私と彼らの間には埋めがたい力の差があり、それを自覚するたびに無数の可能性が重く圧し掛かっていく。
私を虐げていた連中も同じように死んでくれるのだろうか。
浮かぶ顔は一人や二人ではない。名前しか知らない奴が、それどころか名前も知らない奴もいる。震えが止まらない。
四階。これがこの建物の物理的限界。
力任せに打ち破られた扉の向こうは酷く静かで、何もかもが終わっていることを示していた。
私は乾ききった喉で僅かばかりの唾液を呑み込み、早鬼が無事であることを祈った。
「早鬼……」
それが私の最期の言葉となるならば、それ以上望むことなどない。
縁起でもないことに、私は扉の向こうにある相棒の亡骸を思った。そうであるならば、せめて私もその隣に横たわりたいと願う。短く儚い夢だったが、溝鼠が見るには十分過ぎた。
地上四階。薄汚い路地裏で星に手を伸ばすばかりの私如きが、随分と来たものだ。
私は震えながら、けれども澄んだ心で、静まり返った部屋に踏み入った。
「―――あ」
言葉を失う。
早鬼のものであれ、敵のものであれ、床を満たすのは血の赤だと覚悟していた。だから網膜を灼く一面の黄金色は夢、もしくは私の知覚を置き去りにして訪れた死後の超越的な経験なのだとさえ思えた。
だって、羽ばたいた翼は黒くて。
「楽勝だ!」
早鬼の声が呆けた頭を覚醒させる。
金、金、一面の金。浴びるような、埋もれるような金の山。
地を這い、泥を啜り、灰と埃にのみ横たわって生き延びてきた二人にとって、それは夢にすら見たことのない光景。
「こんなに蓄えてたんだ、あの野郎」
弱いくせに、と早鬼は付け加えた。その背で割れた窓ガラスから月光が射している。
この日、早鬼もまた自らの力を知ったのだ。途端に彼女を救わねばと駆られていた自分の傲慢さが恥ずかしくなった。
「いつまでそんな石の床に突っ立ってるんだ?」
掬い上げた金の粒を指の隙間から降らせながら早鬼は言う。
けれど私は怖いのだ。私たちはとても強くて、一帯を統べていた連中は思っていたよりも弱くて、たった二人で屈強な連中を皆殺しにして、それからこれだけの黄金を手に入れて――?
現実と呼ぶにはあまりにも出来過ぎてはいないだろうか。
希望はいつだって私を不安にさせる。震えは今も絶えず私を戒めていた。血に濡れた足の裏が冷たい石の床に貼りついて動かない。
「大丈夫」
そんな私の卑屈な心を読んだかのように、早鬼は優しく微笑んだ。
「夢じゃないよ。これは紛れもなく、私たちが手に入れた栄光だ」
「……ははっ!」
夢は醒める。
確かな瞬きのあと、見えた景色は変わることなく一面の黄金。まるで伸ばした手が宙に触れたような感覚。
この瞬間、夢は見るものではなく叶えるものなのだと確かに理解した。
金の海がはじける。飛び込んだ体が積み上がった金を崩し、飛散した粒子がきらきらと輝いた。
初めて触れる黄金は不思議な熱を帯びており、あまりの眩しさに視界が滲んでぼやけた。
「早鬼!最高だ、私は今日のために生まれてきたのかもしれない!」
「はは、馬鹿言うな、八千慧!」
黒い翼と、龍の尾で底無しの黄金を泳ぐ。
私たちは子供のように、無数の黄金を両手で撒き、裸足で蹴散らした。
「ここからだ!私たちは、ここから羽ばたく!」
黄金の海に漂いながら早鬼は私の手を取る。輝きに彩られた彼女の顔は美しく、私は指を絡めてそれに応えた。
早鬼はいつだって私が欲しいものをくれる。夢を、希望を、勇気を、冒険を、果てもない私たちの物語を。それから――
翼が私の身体を覆う。漆黒の羽毛は煌びやかな輝きの上に小さな闇を作り出した。
その熱に絆された私の尾が蛇のように彼女の背を這い、早鬼は負けじと抱きすくめた私の首元に噛み付く。
「……っ」
私たちに不可能はなく、全てが手に入るような気がした。
くすんだ世界は色を帯びて、空っぽだった未来が満ちていく。いつしか震えは止まっていた。
「この果てしない地獄の全てが私たちに跪く」
闇の中で聞こえる囁き。瞳を閉じれば、その通りの景色が鮮やかに浮かぶ。
叶えられる気がした。早鬼となら、どんなことでも。
「そうね。いつかその上で、こうして踊りましょう」
幾重にも覆い隠すように、翼が私の背を撫でる。
この地獄の王になるのは早鬼だ。
全てが傅く頂で、私の手を取ってくれればそれでいい。
†
黒龍来る。
突如出現した黒翼の天馬と龍の末裔の噂は瞬く間に広がった。
弱肉強食の地獄で突然名を上げる者が現れるのは珍しいことではないが、無道にのさばるアウトローたちを震撼させたのは、その稀有な種族と襲撃の恐るべき速さ、そして徹底した鏖殺による無慈悲さである。
西で噂が上がったと思えば東で殺戮が起きる。その恐るべき機動力は今にもその牙が自分の喉元に及びかねないという恐怖を聞くものに抱かせた。
「……だそうだ、鼻が高いな」
「それはそれは。光栄なことね」
噂とは便利なもので、虚と実が螺旋を描いて拡散するものらしい。恐慌が恐慌を呼び、大いなる怪物像を創り上げる。龍の末裔などという小狡い詐欺で日銭を稼いでいた頃の嘘が今更現実味を帯びているのは可笑しかった。
「期待には応えていかなくちゃ」
嘘を健やかに育むためには生きのいい真実を食わせてやる必要がある。幸い、それを培う苗床はこの地獄に腐るほどいた。
「いつも通りでいいかしら」
「それ以外にあるのか?」
私が首を振ると、弾丸の跳ねる地面を蹴って早鬼は飛んだ。その腕に抱えられた私は風圧に髪を撫でつけられながら舌に灯を燈す。
一直線に翔ける早鬼の突撃に正面玄関のガラスが割れ、彼女はそのまま敵の首領が潜むであろう最上階へと駆け抜ける。最速最短。早鬼の往く道はいつだってそうだ。
閃光のような速度は武装した連中の認識を置き去りにし、代わりに早鬼の腕から降り立った私がその注目を集めた。
「ごきげんよう、みなさん」
凍てつくような殺意と照準が肌を刺した。もはや震えることもない指先を掲げて彼らの注意を惹きつける。
早鬼の背中は追わせない。
私は彼女の翔け抜ける覇道を血色に染める轍。
「それじゃあ――『死んで』」
殺して、殺して、殺して、殺す。
奪って、奪って、奪って、奪う。
殺戮と収奪に明け暮れるうちに金銀財宝はいつしか珍しいものではなくなり、無意味と知りながらも貪欲にそれらを求めた。
黄金に満ちた、はじまりの部屋も今や倉庫のひとつと化している。最後に足を運んだのはいつだっただろう。
倉庫が増え、拠点が増え、やがてそれらを護る部下が必要になった。私と早鬼の二人なら何でも叶うという幻想が、こんな物理的な事情に破られたのは皮肉なことだ。
部下の統括は私に適正があり、強い暗示でもって彼らを従えた。私の魔法的威圧にかかれば目的に忠実な人形に作り変えるなど造作もない。
財宝が積まれた幾多の拠点を持ち、無私の兵を従え、いつしか私たちは黒龍組なんて名で呼ばれるようになった。
囁かれる噂は轟く恐慌となり、誇大化した虚偽と少なくない事実が混ざり合って、地獄の輩は誰しも黒龍の恐怖に震えた。
殺して、殺して、殺して、殺す。
奪って、奪って、奪って、奪う。
部下が集まり、金が集まる。
満ちていく、満たされていく。
私たちは全てを手に入れつつあった。
「…………」
けれど夢が叶うたびに、欲しかったものが手に入るたびに、純粋な憧れが微かな虚しさを残して消えていく。
届かないと知りながら、宙に手を伸ばしていた頃の私が見れば憤慨するに違いないけれど。
呆と伸ばした手に早鬼が触れる。組み合わさった指はどちらともなく折り重なった。
「ねえ、早鬼」
褥に横たわりながら呟く。
「怖いの」
とは言わない。この言いようのない不安を上手く言葉にすることはできないだろうし、する必要もない。
不完全に打ち切った私の言葉を早鬼はそれ以上掘り下げようとしなかった。
きっと彼女も同じなのだろう。早鬼は黙って私の腕を引いて、いつものように闇の翼で二人を覆った。
こうしている間は言葉はいらない。それは彼女なりの優しさだろうか。
引き寄せあう体温だけは未だ熱を失わず、互いにそれを確かめるように慰めあった。この温もりだけは永遠だと祈りながら、自分に言い聞かせながら。
満ちていく。満たされていく。
それはとても怖ろしいことなのだと、私たちは知ってしまっていた。
†
その日が来るのは必然で、早鬼が行動を起こしたことは何ら驚くべきことではない。むしろ、せっかちな彼女にしては我慢した方だと思う。
先制は彼女に譲ることにしていた。これまでの襲撃と同じように、と訳の分からない言い訳で。狡い私は、この幕引きを自分の手で始める勇気がなかったのだ。
そして早鬼は、そう、いつだって私が欲しいものをくれる。
「言いたいことは分かってるつもりよ」
「だろうな、相棒」
拠点の一つ、その最上階に私はいた。
強い暗示をかけた兵士を多く備えていたはずだが、やはり彼女を止めるには至らない。
早鬼は屍の頭部を私に向かって放り投げる。それらは洗脳に漬かった無表情のまま、真新しい鮮血を床に広げた。
「宣戦布告のつもりかしら」
「ああ、待たせたな」
私たちは深く繋がりすぎた。皮肉なことに。
嘲るつもりだったが、漏れたのは溜息まじりの湿った笑いだった。
「怖くなったのでしょう?」
「なったとも。八千慧、お前もそうだろう?」
「悲しいことね」
二人で地獄を統べるという大それた夢、その終わり。
それはとても悲しいことのはずなのに。
私たちはあの頃のまま、笑っていた。
「その挑戦、受けましょう」
私は親指を唇に当てて、強制の言葉を探る。
早鬼にだけは向けるまいと思っていた能力。背徳を帯びたかつてない緊張に喉が疼き、幾つかの命令が冴え渡る頭に浮かぶ。
離れないで。
側にいて。
ずっとこのままで。
二人ならきっと、この恐怖も乗り越えられるのだから。
「――『跪け』ッ!」
「!!」
幾度も知った温度を拭い去る親指に紅が走る。
私たちは別れなければならない。叶うと同時に腐り落ちる夢を幾度も見てきた。私たちは満たされてはいけないのだ。
膝を折る早鬼を見て、複雑な感情が押し寄せた。全てを叶えた暁に君臨するのは彼女であるべきだと思っていた。その夢は未だ、そして二度と、叶わぬゆえに輝きを失わずに在る。
次なる命令を紡ぐ私に向けて、早鬼は歪に笑った。
「……初めて喰らったが」
彼女が地に付けた両脚、その爪先が床を砕くほどに踏みしめられていることに気付いた次の瞬間、私の身体はガラス窓を貫いて地上十階の宙空に投げ出されていた。
「大したことないもんだな」
「……あなたもね」
早鬼の蹴りに砕かれた遺体を幾つも見てきた。本気ならこの程度で済むはずがない。
お互いに、つまりはそういうことなのだろう。ならば――。
私は唾をひとつ虚空に吐いて、重力に引かれ始めた身体に力を込める。
水下いっぱいに強制の言葉が渦巻くのを感じて、叫ぶ。
「『死んでんじゃない!私の敵を殺せ!』」
部下を殲滅しておけば丸腰にできると思っていたのだろう。だが狡い私は既にこの日に備えていた。
死体たちは長く活動することはできないが、恐怖や痛覚を超えて、より一貫した忠誠を示してくれる。
早鬼は死角から現れた無数の手に、体勢を立て直す間もなく私と同じ窓から押し出された。
「驚いた?これからは背中にも気をつけることね」
「……忠告ありがとよ、じゃあな」
翼を拡げて一人重力から逃れる早鬼に尾を伸ばし、その脚を掴む。
振り払おうとする死角から、屍が次々とその背に飛び乗った。
「ほら、言わんこっちゃない」
屍骸と共に早鬼の身体を這い上がり、体勢を得た。早鬼の手で既に損壊している亡者のあちこちから迸る流血が二人を染め、汚していく。
一体、二体、三体目で彼女の体幹が崩れ、下半身の拉げた四体目が翼にしがみ付くと、ようやく重力が私たちを捕らえた。さらに五体、六体、盲いた肉が止むことなく早鬼を追って降り注ぐ。
もはや飛ぶことは叶わず、二人風を切って落ちていく。それはとてもゆっくりとした時間で、どこか懐かしさすら覚えた。
地上十階、さすがにこの高さから無数の体重を乗せて落ちたなら互いに無事では済むまい。
それで終わるのなら、まあそれもいいだろう。
そんなことを思うのだが、どうもセンチメンタルは噛み合わない。私も、早鬼も、ここで終わるはずがないという奇妙な確信があった。
早鬼の背中に尾を這わせ、屍を振り払おうともがく腕を抑えて、堕ちる身体を強く抱きしめる。
仄温かい血に塗れた接触は泥の海を駆けた無邪気なあの頃に、蕩けるように睦み合った日々に、少し似ていた。
「こんなはずじゃなかったんだけどな」
「思い通りにならないことなんて久しぶりね」
「……ああ、そうだな」
いつからか見失った憧憬。もう二度と手の届かない空想の彼方。
早鬼の黒髪を梳いて、露わになった耳元に唇を添える。精一杯の呪いの言葉を囁く瞬間、世界が弾け飛ぶような衝撃が意識を粉々に砕いていた。
ここから、私たちは羽ばたく。
この果てのない地獄を、どこまでも。
よかったです
素晴らしいやちさき黎明期でした
二人が素敵でした。
面白かったです。