気が付いてしまったのだ。
〇 〇 〇 〇 〇
レティ・ホワイトロックの固く握られた拳が空を切る。寸でのところで躱したリリーホワイトのローキックが、回避した体の勢いのままレティの左足を捉えた。だが、体格の壁は厚く、彼女は全く揺らがない。差し出した蹴り足を掴まれまいと、リリーは体を返して素早く距離を取った。
涼しい顔で獲物を追い詰めるレティとは対照的に、リリーの表情は強張っている。こめかみから頬にかけて汗が伝い、歯を食いしばりながらも眼光は鋭く襲撃者を睨みつけていた。
「いい加減にして!もう冬は終わったのよ!」
「春は来ないわ」
大げさなほど大きく振り上げたレティの拳が、ただただ力任せに振り下ろされた。直撃すれば絶命は免れない。リリーは敢えてレティの側へ大きく跳ねて空へ逃れ、通り過ぎざまにレティの後頭部にストンピングキックを繰り出した。リリーの蹴りはレティの体勢を多少は崩したものの、パンチの勢いは変わらない。振り下ろされた拳はそのまま地面へ吸い込まれ、まるで砂糖菓子を砕くかのように易々と大地を叩き割った。大地の破片は宙を舞い、ぱらぱらと二人の頭上に降り注いだ。
ゆっくりと振り向いたレティの表情は変わらない。冷ややかな笑み。だが、その裏には隠し切れないほど強烈な敵意がはっきりと感じ取れた。
「春告せ、」
口を開きかけたレティの横っ面をリリーの拳が打ち抜いた。ストンピングから着地した瞬間には前に踏み出していた。パワーで劣るリリーは、少しでもダメージの通りそうな箇所に攻撃し続けるしかない。絶え間なく。連続して。息もつかせず。リードパンチから右、左と顔面へジャブを打ち続けた。少しでもレティの体勢を崩せるように腕を大きく振るうスイングも織り交ぜた。
とにかく隙を与えてはならない。とにかく反撃させてはならない。とにかく奴に攻撃の機会を与えてはならない。
リリーは自分でも気づかぬうちに声を上げていた。体の奥底から轟く野生の叫び。一撃、一撃と拳が振るわれるたびに吐き出されるその声は、まるで幻想郷の自然そのものが悲鳴をあげているかのようにも聞こえた。
どうして……どうして私がこんな目に遭っているの。
リリーホワイトは幻想郷に生きる妖精である。
彼女は春という季節を心から愛していた。
暖かな日差しが好きだ。軽やかに舞う蝶が好きだ。心を安らげる花の香りが好きだ。
春を愛し、春に生きた彼女は、長い年月を経るうちに春告精と呼ばれるようになった。
自称したわけではない。春になると決まって姿をあらわす彼女を、誰かがそう呼んだ。
そして彼女自身もまた、そう呼ばれることは嫌いではなく、むしろ誇らしくもあった。
大好きな季節をその名に冠することは、気恥ずかしくもあったが誉れであった。
私が春を告げることで人々は春の訪れを喜び、ますますもって世界に春の気質が満ちるような。そんな気さえ感じ始めた。
だが。
それがこのような事態を引き起こすとは。
「わ、私を、消したところで!」
必死に繰り出す両腕が重い。もう息が続かない。もてる力を振り絞り、最後にレティの鼻面めがけて渾身の右を放った。
仕留めるつもりで突き出したその右拳は、確かにレティの顔の中心を捉え、鼻骨をひしゃげさせた。だが、それでも巨躯は揺らがない。自分の全力をぶつけ切っても尚。微動だにしない敵を目の前にしてリリーの目に一瞬、諦観が宿った。それが良くなかった。
リリーの細腕が掴まれる。正気に戻ったのも既に遅く、振り払おうとしたところで寸とも動きやしない。
レティは打ち込まれた拳を掴んだまま、それをゆっくり引きはがした。その表情は先ほどまでの獲物を狩る氷の顔ではなく、まるで幼子を慈しむような、まるで死の間際の者を哀れむような、そんなかなしい目をしていた。
それでもリリーを拘束する腕の力は弱まることはない。レティの表情と、掴まれた手の平から伝わる容赦の無い冷気が、リリーの体温と平静を奪っていった。
「私を消したところで季節が変わるわけじゃない!無駄なことなの!」
リリーは空いている方の手でレティの手を外そうと必死にもがきながら叫んだ。力比べでは決して敵わない。掴まれた時点で終わっていた。それでも抵抗を続けた。ここで終わりたくなかった。
「春は来ないわ」
レティはリリーの腰へ手を回し、両腕で抱えるように高く持ち上げた。
「春告精であるあなたが春を告げなければ、来ることはない」
「だ、から……私が呼んでいる、わけでは……」
「あなたが呼んでいるのよ」
はじめは違ったのかもしれない。
彼女は訪れる春を喜ぶ、ただの一妖精だったのかもしれない。
だが、彼女は春告精と呼ばれた。呼ばれてしまった。成ってしまったのだ。
リリーの体を支える両腕に力が込められた。
嵐の日に裏戸を叩く風の音に、妖が生まれるのが幻想郷だ。
遠い山の音の反響に、命が宿るのが幻想郷だ。
信仰の宿った路傍の石が、神と成るのが幻想郷だ。
彼女の訪れで人々が春を感じるようになった時、彼女は春となった。本人も気づかぬまま。
「だから、ごめんね」
恨んでくれて構わない。これは私のエゴなのだから。
大地を容易く砕く力のまま、リリーホワイトの体は地面に叩きつけられた。
〇 〇 〇 〇 〇
計画を意識したのは、あの異変の時だった。
漂う春度を集めてしまうことで、結果として冬が延びた。異変の首謀者たちが目指したところはそこではなかったが、レティは春気が抜けきった世界を見つめ、心臓が大きく跳ねるのを感じた。
発想はあった。だが方法が分からなかった。こんなに簡単なことだったのだ。
動機があった。小さな小さな動機だった。冬が延びれば、かわいい氷精も喜んでくれるかなと思った。
そして決意が漲った。
〇 〇 〇 〇 〇
リリーホワイトが倒れたことで、幻想郷に春が告げられることはなくなった。
レティは周囲の空気から春気が薄れるのを感じた。
植物の、動物の、自然の、命のもつエネルギーは凄まじく、到底単なる一妖怪の力で書き換えることは敵わない。レティ一人の力では季節そのものを塗り替えることはできない。
しかし、気の行く先を変えてやることくらいならどうだろう。
先ほどの小さな戦いの結末を教えてやろう。幻想郷という小さな箱庭に告げてやろう。
「冬が終われば次の冬。未来永劫、冬のまま――」
レティは軽く開いた右手に冷気をまとわせ、そっとなでるように空気をかき回した。
彼女の送った冷気に囁かれ、伸びかけていた草花の新芽から力が失われた。陽気を待つ動物たちは再び眠りについた。ほんの少し、世界から色が失われた。
これでよいだろう。あとは冬の気配が再び目を覚ますのを待つだけだ。
「そ、そんなことをしても……無駄よ」
えぐれた地面に埋もれたままのリリーホワイトが絶え絶えの息で口を開いた。もはや指先にすら力が入らず、いつ意識が途切れてもおかしくないといった様相で、焦点の合わない瞳がただ空を眺めている。
「今は思い通りでも……すぐに、あの人間が来る」
レティを中心に、少しずつ冬が生まれ始めた。春の暖かさと共に揺らめいていた水蒸気たちが急激に冷やされ、氷の結晶となって空中を漂う。まだ陽気をもたらしている遠くの陽光に照らされて輝くそれらは、春と冬の織り成す、正しく目を疑うような美しさを造り出していた。
「博麗が、放っておくもんか……!」
その言葉を最後に、リリーの意識は冬に飲み込まれた。やがて足元から徐々に霜が降り、彼女の体が冬によって完全に覆い尽くされた頃、この世界は理解した。まだ冬は終わっていないのだと。
山の表面をなぞるように寒波が吹きおろし、冬の再来であると人妖問わずに告げた。溶け出していた積雪が再び形を作った。新たな雪が降り注ぎ、あらゆる命の芽吹きを包み隠してしまった。
そして吹き荒ぶ氷雪の嵐の中、雪女が独り、佇んでいる。
その頬は紅潮し、瞳孔が開いている。呼吸のたびに肩が震え、おかしなことに、胸の内が燃えるように熱い。
「なんだか、のぼせてしまいそう」
きっと戦いの後の疲れのせいだろう。
レティが額の汗をぬぐうと、そのしぶきは結晶となって砕けて消えた。
〇 〇 〇 〇 〇
「へっ、ひぇっ、へぶぇーーーっくしょい!」
報せを受ける間もなく、慈悲の無い冬の再来は当然この神社も襲った。
建物全体を揺るがすような大きなくしゃみの主は、皆さまご存知貧乏神社の看板巫女こと、博麗霊夢であった。
「最近暖かくなってきたから参拝客も増えるかしら」なんて呑気なことを考えていた彼女も、人間でも妖怪でもなく勿論参拝客では決してない冬将軍の訪れにはさすがに焦った。せっかく押し入れにしまった冬服を慌てて出しなおす羽目になったのだが、冬服も脇の部分が開いていたためにすっかり風邪を引いた。
「い、異変よ、これは異変よ」
唸るように声を絞り出して正面を睨みつけているが、その先にはよく見るボロの天井が広がっているだけであった。つまるところ布団で寝込んでいるのである。
「おおかわいそうに、だからってそんな体じゃ行くだけ無駄だぜ」
寝たきり巫女の隣で甲斐甲斐しく世話をしているのが、こちらも皆さまご存知霧雨魔理沙である。ここではいつもの白黒ドレスは脱ぎ捨て、割烹着姿での看病であった。アンテナの広い彼女は今回の異変をすぐに察知し、解決へ行こうと霊夢を誘いに来た。そして今に至る。
「看病してくれてありがとう、でも私もう行くから」
「おっとっとっと、待て待て」
起き上がろうとした霊夢を魔理沙が制止した。額に額を合わせ、熱の高さを確認する。
「こりゃ駄目だろ。おでこで目玉焼きでも作る気か?」
「降ってくる雪が溶けるからちょうどいいわ」
「冗談言ってる場合かよ」
魔理沙は濡らした手ぬぐいを霊夢の顔に押し付けると、「ちょっと待ってな」と言い残して部屋を出た。
風邪っ引きが一人になると無性にさみしい。魔理沙は台所の方で何やら始めたようだが、それ以外は無音である。栓が壊れたように降り積もる雪によって、音すらも隠されてしまったようだ。こうもすることが無いと、自然と思案に暮れてしまう。今回の異変、誰が起こしたものなのだろう。
またあの冥界コンビであれば話が早いのだが。ちょっくら出かけて張り倒してくれば話は済む。そうでなくとも、寒気の発生しているところに向かって行って、出会う妖怪みんなひっぱたいてやればやっぱり話は済むだろう。妖怪でなくとも怪しい奴はとりあえず祓っておけば……。
熱に侵されている脳みそではこれ以上の思考は無理らしい。とにかく熱が退くのを待つほかないか。
ああ、体調さえ万全ならこんな異変さくっと解決してやるというのに。茹だる頭は瞼をも重くさせ、霊夢は夢の世界へ落ちていった。
〇 〇 〇 〇 〇
春告精が倒れてからというもの、幻想郷はすっかり冬の気に呑まれてしまった。猛烈な吹雪があらゆる土地で暴れ狂い、人から妖、動物から羽虫に至るまで殆どの生命が春を焦がれながら住処に閉じこもってしまった。目を開けるのもままならないほど吹き付けてくる雪嵐。白と灰色が支配する世界に、レティは居た。
針葉樹に背を預けてそっと息を吹くと、吐息は青白く光る結晶に姿を変え、空気に混ざり消えていった。
世界に冬の気が満ちている。幻想郷の隅の隅に至るまで、冬が告げられたことだろう。
軽く手を握ってみる。体内に妖気が満ちている。作られた冬ではなく、レティにあてられて世界そのものが冬を纏っている。正真正銘、冬が延びたのだ。だが……。
レティが少しだけ目を伏せた。その時、目の前が真っ白になった。
雪の白さではない。結晶の輝きではない。照らされたものすべてを押しつぶし、破壊する暴力的なまでの光の放射。
気づいた時にはもう遅い。だが備えてあれば話は違う。
魔砲は円柱状に地面を抉り取っていったものの、レティの周りは青白いヴェールによって守られていた。
「このスペルは見たことがあるわね……そう、確か」
「マスタースパーク」
そろそろ何者かが異変を止めに来るだろうと予期していたレティは、事前に防御スペルを展開していた。その予感は当たり、こうして敵と相対した。唯一、スペルを放った声の主が想像と異なっていたことを除けばすべて想定内だった。
「ごきげんよう、雪女さん。前置きは要らないわよね?」
薔薇よりも赤くひるがえるチェックのスカート。草木の生命力を体現するかのように青々しく映える緑髪。吹雪など意に介せず、堂々と開かれた日傘。
百合の花がたおやかに揺れるように歩みをすすめるその姿は。
「風見幽香……?」
「やだ、知ってるの?私ったら案外有名なのかしら」
幽香は頬に手を当ててかわいらしくおどけて見せた。その手には先ほどまで握られていた傘が見当たらない。
「!」
傘は開かれたまま風に乗り、レティの眼前を覆い隠した。レティは傘を振り払い、一瞬でも油断したことを後悔した。幽香は既にいない。
レティの下顎に鈍器で殴りつけられたような衝撃が襲った。いや、鈍器の方がまだマシであったろうか。幽香のアッパーカットがレティの顎を突き上げた。その衝撃は脳を揺らし、電撃が全身を駆け抜ける。追撃を避けるため、レティは考える間もなく両腕を幽香へ突き出した。レティの手から放たれた冷気は氷の盾を形成し、幽香との間を遮った。
しかしフラワーマスターにそのような苦し紛れは通用しない。
アッパーの勢いを失わないままに、振り下ろすような裏拳。盾はたやすく打ち割られ、レティの体を地面に叩きつけた。次いで顔面を狙った踏みつけ。腕をクロスしてガード。踏みつけ、踏みつけ、踏みつけ。
5度目のストンピングに合わせ、レティは幽香の足をしかと受け止めて力任せに投げ飛ばした。
幽香はひらりと容易く着地し、体についた雪を手で払いながらレティを流し見た。
「そうこなくっちゃあ、つまらないわよね。だけど」
レティからの追撃は無い。なんとか立ち上がったものの、初撃のアッパーが足に来ている。幽香の猛撃によるダメージを回復しきるにはもう少し時間がかかりそうだ。
「まさか、これで終わりにならないでよね。せっかく寒いなか出向いてきたんだから……もっと虐めさせて?」
幽香がぽんと手を打つと、一輪の小さな向日葵が現れた。彼女はそれを指で軽く弄び、ピンと弾き飛ばすと、向日葵は無数の光弾に姿を変え、レティへ襲い掛かった。
「はっ!」
レティは薄青に淡く光る冷気を纏い、打ち出された光弾を一薙ぎに払い落とした。はじかれた弾幕は雪原に突き刺さり、爆風が雪を吹き散らす。
「そんなんじゃ足りないかしら」
舞い上がる雪のために視界は悪くなっているものの、幽香の唇がつり上がっていることは見て取れる。そして大げさに手が打ち鳴らされ、先ほどの比ではないほど多くの向日葵が空間を満たした。
何もない空から日輪の花が現れる。凍えた大地を割るように太陽の花が顔を出す。想像できるだろうか、この目を疑う光景を。幻想が支配するこの幻想郷においてもトップクラスの異様を誇る、冬に咲き乱れる向日葵を。それらすべてに殺意を向けられる、この絶望を。
下手な役者のわざとらしい演技のように、幽香がレティに向けて手を伸ばすと、向日葵たちはゆっくりとレティに照準を合わせた。
レティ・ホワイトロックは覚悟を決めた。足が震えるのは頭部へのダメージのためか、それとも……。
幽香は子どもの拳銃遊びのように、指先で銃の形を作った。
「ばん」
合図の声と同時に、色とりどりの弾幕が一斉に放たれる。
光弾が、レーザーが、花弾が、その一つ一つが必殺の威力を有しながら獲物を絶命させんと襲い掛かった。
「ずああああああ!」
レティの猛り声が雪原にこだました。おびただしい弾幕に正面から立ち向かった。
冷気を帯びた両腕を大きく振るい、光弾をはじき返した。妖力の塊ともいえる氷の盾を作り出し、レーザーを受け止めた。それも数秒と保たず破壊されるものの、何度も盾を張りなおした。かわし切れない分の攻撃がレティの髪を焦がした。花弾をはじめとした実弾が盾にぶつかるたびに、金属同士が激しくこすれ合うような不愉快な音を響かせる。
一発の弾がレティの肩を貫いた。苦痛にレティの表情は歪み、赤い飛沫が雪を染めた。弾幕は未だ止まない。
「はいはいひまわりさん。どんどん撃っちゃってーお仲間を作っちゃおー」
幽香が指揮者のように腕を振るえば、描いた軌跡に花が咲く。雪を蹴り上げれば、露出した地面に草が茂る。幽香の鼻歌に合わせてめきめきと成長したそれらは、踊り、歌うように弾幕を放ち、標的を襲い続けた。
もはや舞い上がる雪煙のために何も見えない。幽香は召喚した日傘をぐるぐると振り回すと、仕上げと言わんばかりに妖力を込めた。
「はい、マスタースパーク」
はじめに光。そして轟音。真っすぐに放たれた光線は、吹きすさぶ雪嵐の粒子さえ消し飛ばした。少し遅れて、遠くで山が崩れる音がした。
衝撃で乱れた髪を撫で付けながら、幽香は辺りを見回して人影のないことを確かめた。
季節を無理に塗り替えるような黒幕がどんなやつかと見に来れば、なあんだ、こんなものかと落胆した。そして同時に、幽香は自分の胸の内にぐずぐずとくすぶる苛立ちが消えずに残っていることにも気が付いた。
これで異変も片付き、そのうちに季節も戻ることだろうが、それだけでは釈然としていない自分もそこにいた。思いっきり暴れて超すっきり、春のお花も咲き乱れて万々歳。となってもよいのだが。
こうなれば、八つ当たりに風邪っ引きの顔を拝んで、思いっきり笑い転げてやろうかしら。
そうして神社へと足を向けた幽香だったが、その一歩目が雪を踏めずに投げ出されたとき、自分が殴り飛ばされたのだと気が付いた。
幽香は雪の上に倒れこみ、口内に広がる鉄の味を感じながら、上半身だけを起こした。先ほど自分を殴ったであろうレティの腕だけが浮いている。その腕を中心に冷気の風が地面から吹き上がり、集まった雪や氷の結晶が少しずつ人の形を作っていった。
「へえ……案外器用な真似もするのね」
「ただのパンチよ」
「効いたわ」
そう言いながら、幽香は事も無げに立ち上がってみせた。
ただのパンチといっても、冬のエネルギーでレティの妖力は何倍にも増している。一般妖怪や妖獣であれば一撃でKOされるはずのパンチなのだが。レティは、自分がいま相対している敵が噂通りの化け物であることを改めて実感した。
「でも状況はまるで変わっていないのよ雪女さん。あなたは私の弾幕を攻略できるの?」
手を打ち鳴らす合図は無いが、再び無数の向日葵が幽香の周りに姿を現した。そしてそれらは、いつでもお前を撃ち抜けると言わんばかりに張り詰めた様子でレティを見つめていた。
「それは違うわ、風見幽香」
「なに?」
その時、幽香は背後に何か冷たい気配を感じた。振り向く間もなかったがすぐに分かった。
いま、後ろの向日葵たちが死んだ。
愛しい彼らは無残にも凍りつき、乾いた音をわずかにたてながら全てばらばらと崩れ落ちていく。
首を刎ねるために日傘を握り、レティと距離を詰めようとしたが、足が動かない。積雪が凍り固まり、幽香の足下を掴んで離さない。
「フラワーウィザラウェイ――今度はあなたが攻略する側よ」
世界は冬。ここは雪原、天候は猛吹雪。彼女は雪女であり、理も、利も、彼女の掌中である。彼女の許しを得ることなく、草花が生きることはかなわない。
幽香の土俵で戦っていては勝つことはできない。冬を活かして戦わなくては。
吹雪は勢いを増し、レティの妖気と混ざり合いながら、雪の結晶ひとつひとつが弾幕と化していく。
「はっ、この程度で私を責めるって?舐めすぎじゃない?」
幽香の体が赤い妖気を帯びる。その鮮やかな赤は立ち上る炎のように明るく、また、その力の奔流は夏の陽炎を思わせるようにちらちらと周囲を歪ませて見せた。
「足を封じたくらいで、いい気になるな!」
幽香は日傘を思い切り振り回し、次々とレティの弾幕を打ち落としていく。力任せに振るわれる日傘は、鋭い真空刃を生じさせてレティの肌を裂いた。レティも負けじと弾幕の勢いを強め、時折レーザーや氷のつぶても織り交ぜながら攻めの手を休めなかった。二人の激しい応酬の余波を受け、周囲の木々から命が失われていく。およそ通常の冬では有り得ない猛烈な寒気により、落葉松は散り、銀杏散り、冬木立すら身を凍えさせながら砕けていった。
レティが胸の前で手を合わせると、手の間から巨大な氷晶が現れる。レティは氷晶の端を掴み、振りかぶって幽香へ放った。幽香はおびただしい弾幕の処理に追われていたが、傘を持っていない方の手でそれを受け止め、そのままレティの方へ投げ返した。勢いを増しながら顔面に襲い掛かる氷晶を、レティは避けきれずに両腕でガードした。氷晶はレティの腕をえぐり、血しぶきを飛ばしながら砕け散った。破片が宙を舞い、べっとりと鮮血を浴びた赤い雹を降らせる。
ダメージからほんの一瞬止んだ弾幕に、風見幽香は勝機を見た。
閉じた日傘を突きつけ、即座に妖気を込める。
「もらった――!」
だが、幽香の日傘からマスタースパークが放たれることはなかった。
幽香の伸ばした腕には地面から突き出た氷柱が深々と突き刺さり、噴き出した血が雪に降りそそいでいる。
幽香は目を見開き、痛みによる苦痛と驚きが混ざった表情を浮かべた。
「あなただけではなかったのよ――機会をうかがっていたのは」
「わざと隙を……!?」
レティは前方へ飛びあがりながら、両手を振り上げて固く組んだ。まるで一つの氷塊と化した拳から繰り出されるスレッジ・ハンマー。しかし幽香は、今まさに頭蓋を打ち砕かんとする凶拳ではなく、その先にある雪女の目を見ていた。僅かに憂いを帯びた、青くて、冷たい――――
そして凶拳は振り下ろされた。雪原に鮮やかな紅い花が咲き、レティの袖をまだらに染めた。決着は付いたかのように思われたが、レティは息をのみ、緊張に体をこわばらせていた。振り下ろした腕を、幽香の手が掴んで離さなかったのだ。
確かに直撃した。幽香の体は力無くしなだれていて、頭部からは血がしたたっている。だがそれでも、手だけは万力のようにレティを捉え続けていた。
レティは自分の呼吸が荒くなっていることに気が付いた。戦闘による疲れではなく、もっと内側からくる、まるで内臓を押し上げてくるような何かによって。
一瞬なのか、しばらくそのままだったのか、レティにはわからなかった。ただ、幽香の髪に付着した血液が、吹き付ける吹雪によって徐々に凍っていく様を見つめていた。
ふいに、幽香の顔が上がった。
「そんなんじゃ、だめね」
顔の半分を血で染めながら、幽香は何事もなかったかのような様子で立ち上がった。レティの腕は握ったままだ。
「ほんとはこのまま負けてやってもいいかなとも思ったんだけれど……」
幽香は握ったままの手を引き、レティの顔をぐいと引き寄せながら言った。
「そんな情けない顔のやつになんか負けてやんない」
幽香がぱっと手を離すと、レティはまるで糸が切れたかのように、その場に座り込んでしまった。幽香の静かな迫力に、その姿をただ茫然と見つめることしかできなかった。
「情けな、い……?」
「そ。情けないったらないわ。あんたみたいのがいるとね、妖怪の面目丸つぶれよ」
「なんだとっ……!」
力の抜けていたレティの体に、もう一度妖気が灯った。レティが乱暴に妖力を放つと、辺りから間欠泉のように雪の柱が立ち上った。雪は勢いのまま幽香に向かって突進し、あっという間にその体を覆いつくしてしまった。しかし、レティが追撃する間もなく、極太の熱線が幽香の周りの雪を消し飛ばした。
幽香は余裕に満ちた表情を浮かべ、にんまりとレティを見下ろしている。
「いくらか血が吹っ飛んだおかげで、頭の中すっきりしたわー。あ・り・が・と!」
「何をばかな!」
「お礼に、何発でも撃ってきなさいよ。ま、一発も当たんないけどね」
幽香は「かまんかまん」と手招きしながら言った。
あまりにも安い挑発であり、こんな挑発を買うのは鬼くらいのものだと思われたが、今のレティの気を逆なでするには十分すぎるものだった。
レティは思い切り飛び上がり、幽香に向かって猛烈に弾幕を叩きつけた。雹弾、光線、氷塊に、弾の形も成さないような妖気の数々。それらが積雪とぶつかりあう爆発音が、山肌に反響して何倍にもなって聞こえる。そして、これらの弾幕は、幽香にかすり傷一つ付けられていなかった。
業を煮やしたレティは、直接幽香に飛び掛かった。右、左と大ぶりな打撃がいともたやすく幽香に避けられる。キックは幽香のキックで打ち落とされ、直線的な突きは寸でのところで届かない。
「どうして!?」レティは叫んだ。
「どうして、一発も、当たらない!」
レティは振りかぶって拳を突き出そうとしたが、それ以上動くことはできなかった。いつの間にか、首元に傘が突きつけられている。
「だってあなた、最初から私のことなんて見てなかったんだもの。そっちから誘っておいて、あんまりだわ」
幽香はレティの横っ面を傘で殴り飛ばした。レティは倒れなかったものの、困惑した表情で幽香をにらみつけた。
「あなたは何のために戦っているの、雪女さん?」幽香はレティの顔を覗き込むようにしながら喋りかけた。
「こんな、命の在り方すら変えてしまいかねないほどの大異変を起こしたのはどうして?」
レティは口を開こうとしたが、幽香は構わず続けた。
「あなたが心から望んだことでしょう?」
幽香の言葉を聞いた瞬間、レティは自分の胸に宿っている熱の正体に気が付いた。気が付いてしまったのだ。
〇 〇 〇 〇 〇
異変を企てたきっかけは、ある日の氷精との会話を思い出したからだった。
「やっぱさー、あたいは春と夏と秋と冬だと、冬が最強だとおもうんだよね」
「どうして?」レティは尋ねた。
「そりゃさ?あたいは毎日最強だけどさー、冬はさー、レティがいるし」
二人は妖気の特性も似通っていたため、よく気が合った。
しかし、妖精であるチルノと違って、冬の妖怪であるレティは他の季節に活動することができない。そのため、毎年冬になるとチルノが真っ先にレティのもとへ向かい、貴重な時間を一緒に過ごすのが定番であった。
チルノの言う「最強」は基準があいまいで、レティは妖精にありがちな意味不明な言葉のひとつだと思い、いつも話半分で相槌を打っていた。それでも、自分に懐いてくれていて、一生懸命話しかけてくれるチルノに対し、悪い気持ちはしなかった。
「一番あたいは一番最強なんだけどさ。でもレティは氷投げっこもアイスの早食いも強いじゃん?毎回あたいが勝ってるけどね!」
「いつもぎりぎりだけどね」
「圧勝だし!ぶっちぎりだし!」
むきになって怒るチルノを見て、レティはくすくす笑った。
チルノは「笑うなよ!」と地団太踏んだが、レティは更に笑った。
チルノはすぐにぷんぷん怒るのだ。ゲームでレティが勝ってしまうと、氷でできた羽も溶けてしまうのではというくらいぷんぷん怒る。だから、レティはいつも負けてあげている。
「もういいよ!何の話してたか分かんなくなった!」
「冬が最強って話」
「そうだった」
先ほどの怒りもどこへやら、チルノはケロっと機嫌を直して話を再開した。妖精は気まぐれに怒って気まぐれに笑うので、見ていて飽きない。
「でさ、最強のあたいと、二番目に最強なレティがいるからさ。だから冬が一番最強だと思うんだよね」
「ふふふ、だったら、ずうっと冬だったらいいのにね」
「それなんだよなー!ずっと冬だったらなー!霊夢もやっつけられるのになー!」
そこまで言い終えたチルノだったが、はっとした表情の後、あわてて首を振った。
「言っとくけど、霊夢にはわざと負けてあげてるんだからね!」
「はいはい」
馬鹿みたいな会話だったが、かくいうレティも「ずっと冬だったら」と思わないこともなかった。半ば冬眠(春眠?夏眠?)のような状態とはいえ、誰にも会えないのは寂しいものだ。何かの拍子に冬が延びればいいなあ、という淡い願いはもち続けていた。
〇 〇 〇 〇 〇
それが今回の動機だと、自分でも勘違いしていた。
レティがチルノとの会話で考えたのは、冬が延びればいいなんていう小さな願いではなかった。あのとき、本当に私の心に熱を帯びさせたのは――――。
「レティ・ホワイトロックこそが最強」
氷精ではない。吸血鬼でもない。魔法使いでも、巫女でも、そのほかの有象無象共でもない。私こそが。レティ・ホワイトロックと冬の幻想こそがこの世界で最も最強に強いのだ。
「ほら、いい顔になった。そうでなくっちゃ、やり甲斐もない」
急激に熱を帯びていくレティの体に反し、周囲の空気は雪女の妖気にあてられて冷え切っていった。辺りを舞う雪ですら、あまりの冷気に凍り付き、鋭い雹となっていく。
レティは自分でも気が付いていなかった。戦うたびに胸の内から湧き上がる感情を、自らの身すら溶かしつくしてしまいかねないほどの衝動の正体を。だが、今ならはっきりとわかる。
立ち昇る妖力が血流を介して全身を蠢きまわっている。
今にも破裂してしまいそうな心臓が、鼓膜ごと鼓動を響かせている。
ああ、私はきっと自分でも見たことがないような表情をしていることだろう。未だ感じたことのない歓喜にも似た魂の躍動。目の焦点が合わない。体は自分のものじゃないみたいだ。だが、いま、ここで何をしたらよいか、何をしたいのかは、よくわかっている。
レティは、震える体を押さえながら、泣き出してしまいそうな声で言った。
「今すぐ、あなたと思いっきり戦いたい……っ」
「いいわ。私が勝つけどね」
幽香の返答を合図に、二人の姿が消えた。
吹雪が巻き上げる雪煙の中、拳と拳が、骨と骨が、体と体がぶつかり合う音だけが聞こえる。
もはや常人には目で追うこともかなわぬほどの速度で攻防が行われ、打ち合うほどにその速度は増していく。
「風見幽香!あなたは、分かっていたのね!私の本当の心を!」
「なんのことかしら。私はただ、異変も起こしたくせに煮え切らない顔をしてる、妖怪の恥晒しを殺そうとしただけよ」
レティが拳を振り下ろせば、幽香は前腕で捌き、脇腹に空いた拳を捻じ込んだ。
幽香が顔面に掌底打ちを繰り出すと、レティは幽香の袖を取り、ヘッドバットを叩き込んだ。
どちらも一歩も引かない打ち合いであり、その勢いは全く衰えようともしない。
力を行使することへの歓喜が場を支配する狂気の雪原に、二人の笑い声がこだました。
きっといつからか狂ってしまっていたのだろう。
風見幽香が雪原を訪れたときからだろうか。
リリーホワイトを打ち倒したときからだろうか。
異変を志したときか。かつて博麗に容易く負かされたときか。
はたまた、それよりも前か。
「感謝しているわ、風見幽香。だから、ぜひお礼をしたいの」
「つまらないものだったら要らないわ」
「きっと気に入ってくれるわ。初めてだから、うまくできないかもしれないけれど……」
レティの体が、これまでで最も強い光を帯びはじめた。青白いエナジーが雪原を染め上げていく。
レティは手のひらを幽香へ突き出すように、右手をゆっくりと前に向けた。その顔は淡く紅潮していて、青く光る妖気のなかで、恍惚の表情を際立たせていた。
「私の全力、受け取って?」
この時の衝撃により幻想郷中を空前の地響きが襲い、併せて発生した雪崩への対応に、天狗や河童をはじめとする山の妖怪たちは追われたという。
〇 〇 〇 〇 〇
ところ変わって博麗神社である。
ふわふわ浮いてる紅白の巫女さんは、引き続き熱に浮かされながら生死の境界をぷわぷわ浮いていた。布団にしっかりと包まっているはずであるのに、寝間着も脇が開いているため風邪が長引いていたのである。
霊夢はこんこんとか弱い咳をしながら、割烹着魔女の作る食事を待っていた。
「うう……魔理沙あ……おかゆまだぁ……?」
「まだだめだぜ。いまは魔理沙さんが素敵な魔法生姜を刻んでいるところだぜ」
余談だが、魔理沙の作るメシは意外と美味い。魔理沙が基本的に独り暮らしで普段から自炊をしていることもあるが、本人曰く「魔法も料理も愛情とパワーだからおんなじだぜ」とのことである。材料に二抹ほどの不安は残るものの、その味は絶品である。
「魔理沙あ……まだぁ……?」
「まだまだだぜ。今は溶き卵を入れようとしているところだぜ」
「は?卵なんか殻のままでいいでしょさっさと入れなさいよ」
「うえええええ!?な、なにやってんだぜ幽香!」
余談だが、幽香の作るメシは普通に美味い。幽香も基本的に独り暮らしであるし、花蜜の採取や食用植物の栽培なども手掛けている。そのため、自然素材をふんだんに使った、幽香の作るロカボご飯は絶品である。つまるところ、いま霊夢用のお粥に生卵を殻のままどんどんぶん投げているのはただの嫌がらせである。
「あーあーあーあー殻は雑菌がいっぱい付いてるからそのままはダメなんだぜ!」
「なにこれ?薬味ネギ?切るの面倒だからそのままいきなさいよ、ほーれ」
「あーあーあーあー!っていうかゆうかりんよく見たら血まみれなんだぜ!?卵に血が混じってるとかそういうレベルじゃなくなってるんだぜ!」
「えっ、私のおかゆ今どうなってんの」
頼むからどっか行ってくれ、と魔理沙に無理やり台所を追い出された幽香は、口を尖らせながら霊夢の布団の横へどっかり腰を下ろした。
「相変わらずうるっさいのね、あの白黒は。霊夢なんてアブラムシでも食べさせておけばいいのに」
「本人の前で言うな……」
「あら、いたの」
台所では魔理沙が一からお粥を作り直している。
神社は次第に強さを増してきている風ががたがたと雨戸を揺らしたりするものの、霊夢の咳がよく聞こえる程度には静かな空間だった。
「何があったか別に知らないけどさ」
霊夢が目線だけ幽香に向けながら言った。
「なんか、いいことあったでしょ」
「……いいえ、別にぃ?」
吹雪は変わらず幻想郷を白く染め上げている。
お粥を霊夢の目の前で全部食べ終わったら、真っ赤なポインセチアでも探してみるか、と幽香は思った。
〇 〇 〇 〇 〇
数日後、すっかり風邪の治った霊夢により、この厳冬異変はあっさりと解決された。
しかし、帰ってきた霊夢は「あいつ、絶対またやるわ」と呆れかえった様子だったという。
〇 〇 〇 〇 〇
レティ・ホワイトロックの固く握られた拳が空を切る。寸でのところで躱したリリーホワイトのローキックが、回避した体の勢いのままレティの左足を捉えた。だが、体格の壁は厚く、彼女は全く揺らがない。差し出した蹴り足を掴まれまいと、リリーは体を返して素早く距離を取った。
涼しい顔で獲物を追い詰めるレティとは対照的に、リリーの表情は強張っている。こめかみから頬にかけて汗が伝い、歯を食いしばりながらも眼光は鋭く襲撃者を睨みつけていた。
「いい加減にして!もう冬は終わったのよ!」
「春は来ないわ」
大げさなほど大きく振り上げたレティの拳が、ただただ力任せに振り下ろされた。直撃すれば絶命は免れない。リリーは敢えてレティの側へ大きく跳ねて空へ逃れ、通り過ぎざまにレティの後頭部にストンピングキックを繰り出した。リリーの蹴りはレティの体勢を多少は崩したものの、パンチの勢いは変わらない。振り下ろされた拳はそのまま地面へ吸い込まれ、まるで砂糖菓子を砕くかのように易々と大地を叩き割った。大地の破片は宙を舞い、ぱらぱらと二人の頭上に降り注いだ。
ゆっくりと振り向いたレティの表情は変わらない。冷ややかな笑み。だが、その裏には隠し切れないほど強烈な敵意がはっきりと感じ取れた。
「春告せ、」
口を開きかけたレティの横っ面をリリーの拳が打ち抜いた。ストンピングから着地した瞬間には前に踏み出していた。パワーで劣るリリーは、少しでもダメージの通りそうな箇所に攻撃し続けるしかない。絶え間なく。連続して。息もつかせず。リードパンチから右、左と顔面へジャブを打ち続けた。少しでもレティの体勢を崩せるように腕を大きく振るうスイングも織り交ぜた。
とにかく隙を与えてはならない。とにかく反撃させてはならない。とにかく奴に攻撃の機会を与えてはならない。
リリーは自分でも気づかぬうちに声を上げていた。体の奥底から轟く野生の叫び。一撃、一撃と拳が振るわれるたびに吐き出されるその声は、まるで幻想郷の自然そのものが悲鳴をあげているかのようにも聞こえた。
どうして……どうして私がこんな目に遭っているの。
リリーホワイトは幻想郷に生きる妖精である。
彼女は春という季節を心から愛していた。
暖かな日差しが好きだ。軽やかに舞う蝶が好きだ。心を安らげる花の香りが好きだ。
春を愛し、春に生きた彼女は、長い年月を経るうちに春告精と呼ばれるようになった。
自称したわけではない。春になると決まって姿をあらわす彼女を、誰かがそう呼んだ。
そして彼女自身もまた、そう呼ばれることは嫌いではなく、むしろ誇らしくもあった。
大好きな季節をその名に冠することは、気恥ずかしくもあったが誉れであった。
私が春を告げることで人々は春の訪れを喜び、ますますもって世界に春の気質が満ちるような。そんな気さえ感じ始めた。
だが。
それがこのような事態を引き起こすとは。
「わ、私を、消したところで!」
必死に繰り出す両腕が重い。もう息が続かない。もてる力を振り絞り、最後にレティの鼻面めがけて渾身の右を放った。
仕留めるつもりで突き出したその右拳は、確かにレティの顔の中心を捉え、鼻骨をひしゃげさせた。だが、それでも巨躯は揺らがない。自分の全力をぶつけ切っても尚。微動だにしない敵を目の前にしてリリーの目に一瞬、諦観が宿った。それが良くなかった。
リリーの細腕が掴まれる。正気に戻ったのも既に遅く、振り払おうとしたところで寸とも動きやしない。
レティは打ち込まれた拳を掴んだまま、それをゆっくり引きはがした。その表情は先ほどまでの獲物を狩る氷の顔ではなく、まるで幼子を慈しむような、まるで死の間際の者を哀れむような、そんなかなしい目をしていた。
それでもリリーを拘束する腕の力は弱まることはない。レティの表情と、掴まれた手の平から伝わる容赦の無い冷気が、リリーの体温と平静を奪っていった。
「私を消したところで季節が変わるわけじゃない!無駄なことなの!」
リリーは空いている方の手でレティの手を外そうと必死にもがきながら叫んだ。力比べでは決して敵わない。掴まれた時点で終わっていた。それでも抵抗を続けた。ここで終わりたくなかった。
「春は来ないわ」
レティはリリーの腰へ手を回し、両腕で抱えるように高く持ち上げた。
「春告精であるあなたが春を告げなければ、来ることはない」
「だ、から……私が呼んでいる、わけでは……」
「あなたが呼んでいるのよ」
はじめは違ったのかもしれない。
彼女は訪れる春を喜ぶ、ただの一妖精だったのかもしれない。
だが、彼女は春告精と呼ばれた。呼ばれてしまった。成ってしまったのだ。
リリーの体を支える両腕に力が込められた。
嵐の日に裏戸を叩く風の音に、妖が生まれるのが幻想郷だ。
遠い山の音の反響に、命が宿るのが幻想郷だ。
信仰の宿った路傍の石が、神と成るのが幻想郷だ。
彼女の訪れで人々が春を感じるようになった時、彼女は春となった。本人も気づかぬまま。
「だから、ごめんね」
恨んでくれて構わない。これは私のエゴなのだから。
大地を容易く砕く力のまま、リリーホワイトの体は地面に叩きつけられた。
〇 〇 〇 〇 〇
計画を意識したのは、あの異変の時だった。
漂う春度を集めてしまうことで、結果として冬が延びた。異変の首謀者たちが目指したところはそこではなかったが、レティは春気が抜けきった世界を見つめ、心臓が大きく跳ねるのを感じた。
発想はあった。だが方法が分からなかった。こんなに簡単なことだったのだ。
動機があった。小さな小さな動機だった。冬が延びれば、かわいい氷精も喜んでくれるかなと思った。
そして決意が漲った。
〇 〇 〇 〇 〇
リリーホワイトが倒れたことで、幻想郷に春が告げられることはなくなった。
レティは周囲の空気から春気が薄れるのを感じた。
植物の、動物の、自然の、命のもつエネルギーは凄まじく、到底単なる一妖怪の力で書き換えることは敵わない。レティ一人の力では季節そのものを塗り替えることはできない。
しかし、気の行く先を変えてやることくらいならどうだろう。
先ほどの小さな戦いの結末を教えてやろう。幻想郷という小さな箱庭に告げてやろう。
「冬が終われば次の冬。未来永劫、冬のまま――」
レティは軽く開いた右手に冷気をまとわせ、そっとなでるように空気をかき回した。
彼女の送った冷気に囁かれ、伸びかけていた草花の新芽から力が失われた。陽気を待つ動物たちは再び眠りについた。ほんの少し、世界から色が失われた。
これでよいだろう。あとは冬の気配が再び目を覚ますのを待つだけだ。
「そ、そんなことをしても……無駄よ」
えぐれた地面に埋もれたままのリリーホワイトが絶え絶えの息で口を開いた。もはや指先にすら力が入らず、いつ意識が途切れてもおかしくないといった様相で、焦点の合わない瞳がただ空を眺めている。
「今は思い通りでも……すぐに、あの人間が来る」
レティを中心に、少しずつ冬が生まれ始めた。春の暖かさと共に揺らめいていた水蒸気たちが急激に冷やされ、氷の結晶となって空中を漂う。まだ陽気をもたらしている遠くの陽光に照らされて輝くそれらは、春と冬の織り成す、正しく目を疑うような美しさを造り出していた。
「博麗が、放っておくもんか……!」
その言葉を最後に、リリーの意識は冬に飲み込まれた。やがて足元から徐々に霜が降り、彼女の体が冬によって完全に覆い尽くされた頃、この世界は理解した。まだ冬は終わっていないのだと。
山の表面をなぞるように寒波が吹きおろし、冬の再来であると人妖問わずに告げた。溶け出していた積雪が再び形を作った。新たな雪が降り注ぎ、あらゆる命の芽吹きを包み隠してしまった。
そして吹き荒ぶ氷雪の嵐の中、雪女が独り、佇んでいる。
その頬は紅潮し、瞳孔が開いている。呼吸のたびに肩が震え、おかしなことに、胸の内が燃えるように熱い。
「なんだか、のぼせてしまいそう」
きっと戦いの後の疲れのせいだろう。
レティが額の汗をぬぐうと、そのしぶきは結晶となって砕けて消えた。
〇 〇 〇 〇 〇
「へっ、ひぇっ、へぶぇーーーっくしょい!」
報せを受ける間もなく、慈悲の無い冬の再来は当然この神社も襲った。
建物全体を揺るがすような大きなくしゃみの主は、皆さまご存知貧乏神社の看板巫女こと、博麗霊夢であった。
「最近暖かくなってきたから参拝客も増えるかしら」なんて呑気なことを考えていた彼女も、人間でも妖怪でもなく勿論参拝客では決してない冬将軍の訪れにはさすがに焦った。せっかく押し入れにしまった冬服を慌てて出しなおす羽目になったのだが、冬服も脇の部分が開いていたためにすっかり風邪を引いた。
「い、異変よ、これは異変よ」
唸るように声を絞り出して正面を睨みつけているが、その先にはよく見るボロの天井が広がっているだけであった。つまるところ布団で寝込んでいるのである。
「おおかわいそうに、だからってそんな体じゃ行くだけ無駄だぜ」
寝たきり巫女の隣で甲斐甲斐しく世話をしているのが、こちらも皆さまご存知霧雨魔理沙である。ここではいつもの白黒ドレスは脱ぎ捨て、割烹着姿での看病であった。アンテナの広い彼女は今回の異変をすぐに察知し、解決へ行こうと霊夢を誘いに来た。そして今に至る。
「看病してくれてありがとう、でも私もう行くから」
「おっとっとっと、待て待て」
起き上がろうとした霊夢を魔理沙が制止した。額に額を合わせ、熱の高さを確認する。
「こりゃ駄目だろ。おでこで目玉焼きでも作る気か?」
「降ってくる雪が溶けるからちょうどいいわ」
「冗談言ってる場合かよ」
魔理沙は濡らした手ぬぐいを霊夢の顔に押し付けると、「ちょっと待ってな」と言い残して部屋を出た。
風邪っ引きが一人になると無性にさみしい。魔理沙は台所の方で何やら始めたようだが、それ以外は無音である。栓が壊れたように降り積もる雪によって、音すらも隠されてしまったようだ。こうもすることが無いと、自然と思案に暮れてしまう。今回の異変、誰が起こしたものなのだろう。
またあの冥界コンビであれば話が早いのだが。ちょっくら出かけて張り倒してくれば話は済む。そうでなくとも、寒気の発生しているところに向かって行って、出会う妖怪みんなひっぱたいてやればやっぱり話は済むだろう。妖怪でなくとも怪しい奴はとりあえず祓っておけば……。
熱に侵されている脳みそではこれ以上の思考は無理らしい。とにかく熱が退くのを待つほかないか。
ああ、体調さえ万全ならこんな異変さくっと解決してやるというのに。茹だる頭は瞼をも重くさせ、霊夢は夢の世界へ落ちていった。
〇 〇 〇 〇 〇
春告精が倒れてからというもの、幻想郷はすっかり冬の気に呑まれてしまった。猛烈な吹雪があらゆる土地で暴れ狂い、人から妖、動物から羽虫に至るまで殆どの生命が春を焦がれながら住処に閉じこもってしまった。目を開けるのもままならないほど吹き付けてくる雪嵐。白と灰色が支配する世界に、レティは居た。
針葉樹に背を預けてそっと息を吹くと、吐息は青白く光る結晶に姿を変え、空気に混ざり消えていった。
世界に冬の気が満ちている。幻想郷の隅の隅に至るまで、冬が告げられたことだろう。
軽く手を握ってみる。体内に妖気が満ちている。作られた冬ではなく、レティにあてられて世界そのものが冬を纏っている。正真正銘、冬が延びたのだ。だが……。
レティが少しだけ目を伏せた。その時、目の前が真っ白になった。
雪の白さではない。結晶の輝きではない。照らされたものすべてを押しつぶし、破壊する暴力的なまでの光の放射。
気づいた時にはもう遅い。だが備えてあれば話は違う。
魔砲は円柱状に地面を抉り取っていったものの、レティの周りは青白いヴェールによって守られていた。
「このスペルは見たことがあるわね……そう、確か」
「マスタースパーク」
そろそろ何者かが異変を止めに来るだろうと予期していたレティは、事前に防御スペルを展開していた。その予感は当たり、こうして敵と相対した。唯一、スペルを放った声の主が想像と異なっていたことを除けばすべて想定内だった。
「ごきげんよう、雪女さん。前置きは要らないわよね?」
薔薇よりも赤くひるがえるチェックのスカート。草木の生命力を体現するかのように青々しく映える緑髪。吹雪など意に介せず、堂々と開かれた日傘。
百合の花がたおやかに揺れるように歩みをすすめるその姿は。
「風見幽香……?」
「やだ、知ってるの?私ったら案外有名なのかしら」
幽香は頬に手を当ててかわいらしくおどけて見せた。その手には先ほどまで握られていた傘が見当たらない。
「!」
傘は開かれたまま風に乗り、レティの眼前を覆い隠した。レティは傘を振り払い、一瞬でも油断したことを後悔した。幽香は既にいない。
レティの下顎に鈍器で殴りつけられたような衝撃が襲った。いや、鈍器の方がまだマシであったろうか。幽香のアッパーカットがレティの顎を突き上げた。その衝撃は脳を揺らし、電撃が全身を駆け抜ける。追撃を避けるため、レティは考える間もなく両腕を幽香へ突き出した。レティの手から放たれた冷気は氷の盾を形成し、幽香との間を遮った。
しかしフラワーマスターにそのような苦し紛れは通用しない。
アッパーの勢いを失わないままに、振り下ろすような裏拳。盾はたやすく打ち割られ、レティの体を地面に叩きつけた。次いで顔面を狙った踏みつけ。腕をクロスしてガード。踏みつけ、踏みつけ、踏みつけ。
5度目のストンピングに合わせ、レティは幽香の足をしかと受け止めて力任せに投げ飛ばした。
幽香はひらりと容易く着地し、体についた雪を手で払いながらレティを流し見た。
「そうこなくっちゃあ、つまらないわよね。だけど」
レティからの追撃は無い。なんとか立ち上がったものの、初撃のアッパーが足に来ている。幽香の猛撃によるダメージを回復しきるにはもう少し時間がかかりそうだ。
「まさか、これで終わりにならないでよね。せっかく寒いなか出向いてきたんだから……もっと虐めさせて?」
幽香がぽんと手を打つと、一輪の小さな向日葵が現れた。彼女はそれを指で軽く弄び、ピンと弾き飛ばすと、向日葵は無数の光弾に姿を変え、レティへ襲い掛かった。
「はっ!」
レティは薄青に淡く光る冷気を纏い、打ち出された光弾を一薙ぎに払い落とした。はじかれた弾幕は雪原に突き刺さり、爆風が雪を吹き散らす。
「そんなんじゃ足りないかしら」
舞い上がる雪のために視界は悪くなっているものの、幽香の唇がつり上がっていることは見て取れる。そして大げさに手が打ち鳴らされ、先ほどの比ではないほど多くの向日葵が空間を満たした。
何もない空から日輪の花が現れる。凍えた大地を割るように太陽の花が顔を出す。想像できるだろうか、この目を疑う光景を。幻想が支配するこの幻想郷においてもトップクラスの異様を誇る、冬に咲き乱れる向日葵を。それらすべてに殺意を向けられる、この絶望を。
下手な役者のわざとらしい演技のように、幽香がレティに向けて手を伸ばすと、向日葵たちはゆっくりとレティに照準を合わせた。
レティ・ホワイトロックは覚悟を決めた。足が震えるのは頭部へのダメージのためか、それとも……。
幽香は子どもの拳銃遊びのように、指先で銃の形を作った。
「ばん」
合図の声と同時に、色とりどりの弾幕が一斉に放たれる。
光弾が、レーザーが、花弾が、その一つ一つが必殺の威力を有しながら獲物を絶命させんと襲い掛かった。
「ずああああああ!」
レティの猛り声が雪原にこだました。おびただしい弾幕に正面から立ち向かった。
冷気を帯びた両腕を大きく振るい、光弾をはじき返した。妖力の塊ともいえる氷の盾を作り出し、レーザーを受け止めた。それも数秒と保たず破壊されるものの、何度も盾を張りなおした。かわし切れない分の攻撃がレティの髪を焦がした。花弾をはじめとした実弾が盾にぶつかるたびに、金属同士が激しくこすれ合うような不愉快な音を響かせる。
一発の弾がレティの肩を貫いた。苦痛にレティの表情は歪み、赤い飛沫が雪を染めた。弾幕は未だ止まない。
「はいはいひまわりさん。どんどん撃っちゃってーお仲間を作っちゃおー」
幽香が指揮者のように腕を振るえば、描いた軌跡に花が咲く。雪を蹴り上げれば、露出した地面に草が茂る。幽香の鼻歌に合わせてめきめきと成長したそれらは、踊り、歌うように弾幕を放ち、標的を襲い続けた。
もはや舞い上がる雪煙のために何も見えない。幽香は召喚した日傘をぐるぐると振り回すと、仕上げと言わんばかりに妖力を込めた。
「はい、マスタースパーク」
はじめに光。そして轟音。真っすぐに放たれた光線は、吹きすさぶ雪嵐の粒子さえ消し飛ばした。少し遅れて、遠くで山が崩れる音がした。
衝撃で乱れた髪を撫で付けながら、幽香は辺りを見回して人影のないことを確かめた。
季節を無理に塗り替えるような黒幕がどんなやつかと見に来れば、なあんだ、こんなものかと落胆した。そして同時に、幽香は自分の胸の内にぐずぐずとくすぶる苛立ちが消えずに残っていることにも気が付いた。
これで異変も片付き、そのうちに季節も戻ることだろうが、それだけでは釈然としていない自分もそこにいた。思いっきり暴れて超すっきり、春のお花も咲き乱れて万々歳。となってもよいのだが。
こうなれば、八つ当たりに風邪っ引きの顔を拝んで、思いっきり笑い転げてやろうかしら。
そうして神社へと足を向けた幽香だったが、その一歩目が雪を踏めずに投げ出されたとき、自分が殴り飛ばされたのだと気が付いた。
幽香は雪の上に倒れこみ、口内に広がる鉄の味を感じながら、上半身だけを起こした。先ほど自分を殴ったであろうレティの腕だけが浮いている。その腕を中心に冷気の風が地面から吹き上がり、集まった雪や氷の結晶が少しずつ人の形を作っていった。
「へえ……案外器用な真似もするのね」
「ただのパンチよ」
「効いたわ」
そう言いながら、幽香は事も無げに立ち上がってみせた。
ただのパンチといっても、冬のエネルギーでレティの妖力は何倍にも増している。一般妖怪や妖獣であれば一撃でKOされるはずのパンチなのだが。レティは、自分がいま相対している敵が噂通りの化け物であることを改めて実感した。
「でも状況はまるで変わっていないのよ雪女さん。あなたは私の弾幕を攻略できるの?」
手を打ち鳴らす合図は無いが、再び無数の向日葵が幽香の周りに姿を現した。そしてそれらは、いつでもお前を撃ち抜けると言わんばかりに張り詰めた様子でレティを見つめていた。
「それは違うわ、風見幽香」
「なに?」
その時、幽香は背後に何か冷たい気配を感じた。振り向く間もなかったがすぐに分かった。
いま、後ろの向日葵たちが死んだ。
愛しい彼らは無残にも凍りつき、乾いた音をわずかにたてながら全てばらばらと崩れ落ちていく。
首を刎ねるために日傘を握り、レティと距離を詰めようとしたが、足が動かない。積雪が凍り固まり、幽香の足下を掴んで離さない。
「フラワーウィザラウェイ――今度はあなたが攻略する側よ」
世界は冬。ここは雪原、天候は猛吹雪。彼女は雪女であり、理も、利も、彼女の掌中である。彼女の許しを得ることなく、草花が生きることはかなわない。
幽香の土俵で戦っていては勝つことはできない。冬を活かして戦わなくては。
吹雪は勢いを増し、レティの妖気と混ざり合いながら、雪の結晶ひとつひとつが弾幕と化していく。
「はっ、この程度で私を責めるって?舐めすぎじゃない?」
幽香の体が赤い妖気を帯びる。その鮮やかな赤は立ち上る炎のように明るく、また、その力の奔流は夏の陽炎を思わせるようにちらちらと周囲を歪ませて見せた。
「足を封じたくらいで、いい気になるな!」
幽香は日傘を思い切り振り回し、次々とレティの弾幕を打ち落としていく。力任せに振るわれる日傘は、鋭い真空刃を生じさせてレティの肌を裂いた。レティも負けじと弾幕の勢いを強め、時折レーザーや氷のつぶても織り交ぜながら攻めの手を休めなかった。二人の激しい応酬の余波を受け、周囲の木々から命が失われていく。およそ通常の冬では有り得ない猛烈な寒気により、落葉松は散り、銀杏散り、冬木立すら身を凍えさせながら砕けていった。
レティが胸の前で手を合わせると、手の間から巨大な氷晶が現れる。レティは氷晶の端を掴み、振りかぶって幽香へ放った。幽香はおびただしい弾幕の処理に追われていたが、傘を持っていない方の手でそれを受け止め、そのままレティの方へ投げ返した。勢いを増しながら顔面に襲い掛かる氷晶を、レティは避けきれずに両腕でガードした。氷晶はレティの腕をえぐり、血しぶきを飛ばしながら砕け散った。破片が宙を舞い、べっとりと鮮血を浴びた赤い雹を降らせる。
ダメージからほんの一瞬止んだ弾幕に、風見幽香は勝機を見た。
閉じた日傘を突きつけ、即座に妖気を込める。
「もらった――!」
だが、幽香の日傘からマスタースパークが放たれることはなかった。
幽香の伸ばした腕には地面から突き出た氷柱が深々と突き刺さり、噴き出した血が雪に降りそそいでいる。
幽香は目を見開き、痛みによる苦痛と驚きが混ざった表情を浮かべた。
「あなただけではなかったのよ――機会をうかがっていたのは」
「わざと隙を……!?」
レティは前方へ飛びあがりながら、両手を振り上げて固く組んだ。まるで一つの氷塊と化した拳から繰り出されるスレッジ・ハンマー。しかし幽香は、今まさに頭蓋を打ち砕かんとする凶拳ではなく、その先にある雪女の目を見ていた。僅かに憂いを帯びた、青くて、冷たい――――
そして凶拳は振り下ろされた。雪原に鮮やかな紅い花が咲き、レティの袖をまだらに染めた。決着は付いたかのように思われたが、レティは息をのみ、緊張に体をこわばらせていた。振り下ろした腕を、幽香の手が掴んで離さなかったのだ。
確かに直撃した。幽香の体は力無くしなだれていて、頭部からは血がしたたっている。だがそれでも、手だけは万力のようにレティを捉え続けていた。
レティは自分の呼吸が荒くなっていることに気が付いた。戦闘による疲れではなく、もっと内側からくる、まるで内臓を押し上げてくるような何かによって。
一瞬なのか、しばらくそのままだったのか、レティにはわからなかった。ただ、幽香の髪に付着した血液が、吹き付ける吹雪によって徐々に凍っていく様を見つめていた。
ふいに、幽香の顔が上がった。
「そんなんじゃ、だめね」
顔の半分を血で染めながら、幽香は何事もなかったかのような様子で立ち上がった。レティの腕は握ったままだ。
「ほんとはこのまま負けてやってもいいかなとも思ったんだけれど……」
幽香は握ったままの手を引き、レティの顔をぐいと引き寄せながら言った。
「そんな情けない顔のやつになんか負けてやんない」
幽香がぱっと手を離すと、レティはまるで糸が切れたかのように、その場に座り込んでしまった。幽香の静かな迫力に、その姿をただ茫然と見つめることしかできなかった。
「情けな、い……?」
「そ。情けないったらないわ。あんたみたいのがいるとね、妖怪の面目丸つぶれよ」
「なんだとっ……!」
力の抜けていたレティの体に、もう一度妖気が灯った。レティが乱暴に妖力を放つと、辺りから間欠泉のように雪の柱が立ち上った。雪は勢いのまま幽香に向かって突進し、あっという間にその体を覆いつくしてしまった。しかし、レティが追撃する間もなく、極太の熱線が幽香の周りの雪を消し飛ばした。
幽香は余裕に満ちた表情を浮かべ、にんまりとレティを見下ろしている。
「いくらか血が吹っ飛んだおかげで、頭の中すっきりしたわー。あ・り・が・と!」
「何をばかな!」
「お礼に、何発でも撃ってきなさいよ。ま、一発も当たんないけどね」
幽香は「かまんかまん」と手招きしながら言った。
あまりにも安い挑発であり、こんな挑発を買うのは鬼くらいのものだと思われたが、今のレティの気を逆なでするには十分すぎるものだった。
レティは思い切り飛び上がり、幽香に向かって猛烈に弾幕を叩きつけた。雹弾、光線、氷塊に、弾の形も成さないような妖気の数々。それらが積雪とぶつかりあう爆発音が、山肌に反響して何倍にもなって聞こえる。そして、これらの弾幕は、幽香にかすり傷一つ付けられていなかった。
業を煮やしたレティは、直接幽香に飛び掛かった。右、左と大ぶりな打撃がいともたやすく幽香に避けられる。キックは幽香のキックで打ち落とされ、直線的な突きは寸でのところで届かない。
「どうして!?」レティは叫んだ。
「どうして、一発も、当たらない!」
レティは振りかぶって拳を突き出そうとしたが、それ以上動くことはできなかった。いつの間にか、首元に傘が突きつけられている。
「だってあなた、最初から私のことなんて見てなかったんだもの。そっちから誘っておいて、あんまりだわ」
幽香はレティの横っ面を傘で殴り飛ばした。レティは倒れなかったものの、困惑した表情で幽香をにらみつけた。
「あなたは何のために戦っているの、雪女さん?」幽香はレティの顔を覗き込むようにしながら喋りかけた。
「こんな、命の在り方すら変えてしまいかねないほどの大異変を起こしたのはどうして?」
レティは口を開こうとしたが、幽香は構わず続けた。
「あなたが心から望んだことでしょう?」
幽香の言葉を聞いた瞬間、レティは自分の胸に宿っている熱の正体に気が付いた。気が付いてしまったのだ。
〇 〇 〇 〇 〇
異変を企てたきっかけは、ある日の氷精との会話を思い出したからだった。
「やっぱさー、あたいは春と夏と秋と冬だと、冬が最強だとおもうんだよね」
「どうして?」レティは尋ねた。
「そりゃさ?あたいは毎日最強だけどさー、冬はさー、レティがいるし」
二人は妖気の特性も似通っていたため、よく気が合った。
しかし、妖精であるチルノと違って、冬の妖怪であるレティは他の季節に活動することができない。そのため、毎年冬になるとチルノが真っ先にレティのもとへ向かい、貴重な時間を一緒に過ごすのが定番であった。
チルノの言う「最強」は基準があいまいで、レティは妖精にありがちな意味不明な言葉のひとつだと思い、いつも話半分で相槌を打っていた。それでも、自分に懐いてくれていて、一生懸命話しかけてくれるチルノに対し、悪い気持ちはしなかった。
「一番あたいは一番最強なんだけどさ。でもレティは氷投げっこもアイスの早食いも強いじゃん?毎回あたいが勝ってるけどね!」
「いつもぎりぎりだけどね」
「圧勝だし!ぶっちぎりだし!」
むきになって怒るチルノを見て、レティはくすくす笑った。
チルノは「笑うなよ!」と地団太踏んだが、レティは更に笑った。
チルノはすぐにぷんぷん怒るのだ。ゲームでレティが勝ってしまうと、氷でできた羽も溶けてしまうのではというくらいぷんぷん怒る。だから、レティはいつも負けてあげている。
「もういいよ!何の話してたか分かんなくなった!」
「冬が最強って話」
「そうだった」
先ほどの怒りもどこへやら、チルノはケロっと機嫌を直して話を再開した。妖精は気まぐれに怒って気まぐれに笑うので、見ていて飽きない。
「でさ、最強のあたいと、二番目に最強なレティがいるからさ。だから冬が一番最強だと思うんだよね」
「ふふふ、だったら、ずうっと冬だったらいいのにね」
「それなんだよなー!ずっと冬だったらなー!霊夢もやっつけられるのになー!」
そこまで言い終えたチルノだったが、はっとした表情の後、あわてて首を振った。
「言っとくけど、霊夢にはわざと負けてあげてるんだからね!」
「はいはい」
馬鹿みたいな会話だったが、かくいうレティも「ずっと冬だったら」と思わないこともなかった。半ば冬眠(春眠?夏眠?)のような状態とはいえ、誰にも会えないのは寂しいものだ。何かの拍子に冬が延びればいいなあ、という淡い願いはもち続けていた。
〇 〇 〇 〇 〇
それが今回の動機だと、自分でも勘違いしていた。
レティがチルノとの会話で考えたのは、冬が延びればいいなんていう小さな願いではなかった。あのとき、本当に私の心に熱を帯びさせたのは――――。
「レティ・ホワイトロックこそが最強」
氷精ではない。吸血鬼でもない。魔法使いでも、巫女でも、そのほかの有象無象共でもない。私こそが。レティ・ホワイトロックと冬の幻想こそがこの世界で最も最強に強いのだ。
「ほら、いい顔になった。そうでなくっちゃ、やり甲斐もない」
急激に熱を帯びていくレティの体に反し、周囲の空気は雪女の妖気にあてられて冷え切っていった。辺りを舞う雪ですら、あまりの冷気に凍り付き、鋭い雹となっていく。
レティは自分でも気が付いていなかった。戦うたびに胸の内から湧き上がる感情を、自らの身すら溶かしつくしてしまいかねないほどの衝動の正体を。だが、今ならはっきりとわかる。
立ち昇る妖力が血流を介して全身を蠢きまわっている。
今にも破裂してしまいそうな心臓が、鼓膜ごと鼓動を響かせている。
ああ、私はきっと自分でも見たことがないような表情をしていることだろう。未だ感じたことのない歓喜にも似た魂の躍動。目の焦点が合わない。体は自分のものじゃないみたいだ。だが、いま、ここで何をしたらよいか、何をしたいのかは、よくわかっている。
レティは、震える体を押さえながら、泣き出してしまいそうな声で言った。
「今すぐ、あなたと思いっきり戦いたい……っ」
「いいわ。私が勝つけどね」
幽香の返答を合図に、二人の姿が消えた。
吹雪が巻き上げる雪煙の中、拳と拳が、骨と骨が、体と体がぶつかり合う音だけが聞こえる。
もはや常人には目で追うこともかなわぬほどの速度で攻防が行われ、打ち合うほどにその速度は増していく。
「風見幽香!あなたは、分かっていたのね!私の本当の心を!」
「なんのことかしら。私はただ、異変も起こしたくせに煮え切らない顔をしてる、妖怪の恥晒しを殺そうとしただけよ」
レティが拳を振り下ろせば、幽香は前腕で捌き、脇腹に空いた拳を捻じ込んだ。
幽香が顔面に掌底打ちを繰り出すと、レティは幽香の袖を取り、ヘッドバットを叩き込んだ。
どちらも一歩も引かない打ち合いであり、その勢いは全く衰えようともしない。
力を行使することへの歓喜が場を支配する狂気の雪原に、二人の笑い声がこだました。
きっといつからか狂ってしまっていたのだろう。
風見幽香が雪原を訪れたときからだろうか。
リリーホワイトを打ち倒したときからだろうか。
異変を志したときか。かつて博麗に容易く負かされたときか。
はたまた、それよりも前か。
「感謝しているわ、風見幽香。だから、ぜひお礼をしたいの」
「つまらないものだったら要らないわ」
「きっと気に入ってくれるわ。初めてだから、うまくできないかもしれないけれど……」
レティの体が、これまでで最も強い光を帯びはじめた。青白いエナジーが雪原を染め上げていく。
レティは手のひらを幽香へ突き出すように、右手をゆっくりと前に向けた。その顔は淡く紅潮していて、青く光る妖気のなかで、恍惚の表情を際立たせていた。
「私の全力、受け取って?」
この時の衝撃により幻想郷中を空前の地響きが襲い、併せて発生した雪崩への対応に、天狗や河童をはじめとする山の妖怪たちは追われたという。
〇 〇 〇 〇 〇
ところ変わって博麗神社である。
ふわふわ浮いてる紅白の巫女さんは、引き続き熱に浮かされながら生死の境界をぷわぷわ浮いていた。布団にしっかりと包まっているはずであるのに、寝間着も脇が開いているため風邪が長引いていたのである。
霊夢はこんこんとか弱い咳をしながら、割烹着魔女の作る食事を待っていた。
「うう……魔理沙あ……おかゆまだぁ……?」
「まだだめだぜ。いまは魔理沙さんが素敵な魔法生姜を刻んでいるところだぜ」
余談だが、魔理沙の作るメシは意外と美味い。魔理沙が基本的に独り暮らしで普段から自炊をしていることもあるが、本人曰く「魔法も料理も愛情とパワーだからおんなじだぜ」とのことである。材料に二抹ほどの不安は残るものの、その味は絶品である。
「魔理沙あ……まだぁ……?」
「まだまだだぜ。今は溶き卵を入れようとしているところだぜ」
「は?卵なんか殻のままでいいでしょさっさと入れなさいよ」
「うえええええ!?な、なにやってんだぜ幽香!」
余談だが、幽香の作るメシは普通に美味い。幽香も基本的に独り暮らしであるし、花蜜の採取や食用植物の栽培なども手掛けている。そのため、自然素材をふんだんに使った、幽香の作るロカボご飯は絶品である。つまるところ、いま霊夢用のお粥に生卵を殻のままどんどんぶん投げているのはただの嫌がらせである。
「あーあーあーあー殻は雑菌がいっぱい付いてるからそのままはダメなんだぜ!」
「なにこれ?薬味ネギ?切るの面倒だからそのままいきなさいよ、ほーれ」
「あーあーあーあー!っていうかゆうかりんよく見たら血まみれなんだぜ!?卵に血が混じってるとかそういうレベルじゃなくなってるんだぜ!」
「えっ、私のおかゆ今どうなってんの」
頼むからどっか行ってくれ、と魔理沙に無理やり台所を追い出された幽香は、口を尖らせながら霊夢の布団の横へどっかり腰を下ろした。
「相変わらずうるっさいのね、あの白黒は。霊夢なんてアブラムシでも食べさせておけばいいのに」
「本人の前で言うな……」
「あら、いたの」
台所では魔理沙が一からお粥を作り直している。
神社は次第に強さを増してきている風ががたがたと雨戸を揺らしたりするものの、霊夢の咳がよく聞こえる程度には静かな空間だった。
「何があったか別に知らないけどさ」
霊夢が目線だけ幽香に向けながら言った。
「なんか、いいことあったでしょ」
「……いいえ、別にぃ?」
吹雪は変わらず幻想郷を白く染め上げている。
お粥を霊夢の目の前で全部食べ終わったら、真っ赤なポインセチアでも探してみるか、と幽香は思った。
〇 〇 〇 〇 〇
数日後、すっかり風邪の治った霊夢により、この厳冬異変はあっさりと解決された。
しかし、帰ってきた霊夢は「あいつ、絶対またやるわ」と呆れかえった様子だったという。
己の大事なもののために戦うレティが素敵でした。
バトルシーンも分かりやすく面白かったです。
風邪引いてる霊夢が解決しちゃうのも面白かった
面白かったです……!
白熱した戦いが素晴らしかったです