私は読んでいた本から目を離した。
耳をすませば、戸の外からしとしとと雨の降る音が聞こえる。
人里の貸本屋、鈴奈庵の店内には店番をしている私以外誰も居なかった。
雨の日は客がほとんど来ない。生活必需品を扱っている店ならともかく、貸本屋のような娯楽品としての性質が強い品を扱う店に、わざわざ雨の日に来るような物好きはあまりいない。
もっとも晴れていたら沢山客が来るかというと、そういうわけでもない。
私が店番を任されるようになってから大分経つが、少なくとも店内が客でひしめき合っているという光景は一度も見たことがない。
小さかった頃は子供心にウチは大丈夫なのだろうか、ひょっとして物凄く貧乏なのではないだろうか、という不安を抱えることもあった。今では店での収入より訪問や印刷業の方が主な稼ぎだとわかっている。
お茶に口をつけると、すっかり冷え切っていた。私は番台から立ち上がり、読み終えた本を店の本棚に戻した。
窓から雨が降る様子が見えた。大雨と言うほどではないが、この雨の中出かけるのは躊躇われる。
雨は私が本を読み始める前から同じ調子で降っており、止む気配がなく永遠に降り続けそうな気さえする。
私としては本が好きなだけ読めるので、いっそずっと降り続けて欲しいくらいだ。たまに来る面倒な客の相手をする必要もなくなる。
それに雨音を聞くのは楽しい。ぼうっと聞いていると、彼我の境界が薄れ、まるで自分が空気に溶け出しているかのような気分になれる。
雨音に耳を傾けて意識を揺蕩たせていたら、木戸が開く音がしたので私は慌てて立ち上がった。
「いらっしゃいま……何だ阿求か」
接客用の高い声出して損した。
「何だとはご挨拶ね」
阿求はそう言ってフンと鼻を鳴らし、後ろ手で戸を閉めた。そして番傘を壁に立てかける。
「何もこんな雨の日にわざわざ来なくてもいいじゃない」
「寄合があったからそのついでよ。それにこの本、次の貸し手が決まってるんでしょ?」
彼女は懐から油紙に包まれた本を取り出し、私に手渡した。
そういえば阿求は本を借りる必要はない。店内で立ち読みすれば内容を全て覚えられるからだ。とはいえ育ちの良い彼女はそんな真似はしない。
「新作、書けそう?」
「そうね。内容は固まったし、後は筆を走らせるだけ」
今回借りた本は、阿求が今構想している「東方鈍行殺人事件」の参考資料らしい。一読者として新作が楽しみな私としては、参考資料を見てネタバレになるのは嫌だ。中身は改めずに、そのまま番台に置いた。
阿求は本棚の前に突っ立って何やら本を探し始めた。何かまだ必要な資料があるのだろうか。いや、あの棚は新しく入荷したものを置いておくところだから、何か面白い本がないか探しているだけだろう。
彼女は指先で髪を弄びながら、背表紙に目を通していく。
「阿求、髪伸びた?」
「そうかしら。まあ、そういえば最近切ってなかったわね」
阿求は自分の髪をぴんと指で弾いた。
「そうだ。私が切ってあげようか?」
「えっ……」
半ば濁点が入り混じった、随分と嫌そうな「えっ」だった。
「失礼ね。これでも私、良く長屋の女の子たちの髪を切ってあげてるんだから」
男の子たちは髪型なんて大して気にしないから親が適当に切る。女の子は物心つくとそれを嫌がり、髪結床に行かせろと我儘を言う。親としてはわざわざ子供を髪結床に連れていくのは出費が馬鹿にならない。そんなときこそ、髪結床鈴奈庵の出番だった。
人の髪を切るのは楽しいし、店の宣伝にもなるので一石二鳥だ。
「うーん、刃物持たせた小鈴を後ろに立たせるのはちょっとねぇ」
「私のことなんだと思ってる?」
「一言で言うと、危うくて危ない奴」
「……」
何か言い返そうとしたが、自覚している部分があるので言葉が出てこなかった。私がやらかしては霊夢さんや魔理沙さんに助けられているのを、阿求が良く思っていないのは知っていた。
まあいい。所詮思いつきで言っただけだ。
それで話は終わったつもりだったが、少し間を開いた後、阿求が口を開いた。
「いや、たまにはそういうのも悪くないかもね」
店は土間なので、店内の真ん中に椅子を置いて阿求を座らせた。髪が着物につかないよう白い布を被せる。その様子はさながら紫色のてるてる坊主といったていだ。
この雨なので客はそう来ないだろうが、もし来たら驚くだろう。一応店先の「商い中」の札はひっくり返しておいた。
「えっと……痒いところとかある?」
「……髪を切る前のセリフじゃないでしょそれ」
阿求が呆れ気味に言う。
店の本棚の真ん中での散髪という風景がどうにもおかしくて、何か言わなければという気分になったのだ。
気を取り直して、私は櫛を手に取った。
「それじゃ失礼しま……うわぁ」
「人様の髪を梳いておいて、何だってのよ」
阿求の髪を櫛をで梳こうとしたら、まるで水に櫛を通しているかのように、ほとんど抵抗がなかった。
「アンタの髪ってほんっとサラサラよねぇ……」
「小鈴の髪質が悪いだけでしょ」
「うるさいな。黙って褒められときなさいよ」
実際、同世代の同性と比べると私の髪質は悪い方だった。慧音先生のような長髪にも憧れるのだが、寝癖やらが酷すぎてとてもじゃないが真似できない。それに髪の手入れに時間をかけられる性分でもない。
髪を一通り梳いてみたが、特に必要な工程ではなかったかもしれない。
私はハサミを手に取って、阿求の髪を切り始めた。
ハサミの音と雨が降る音だけが聞こえる。
髪を切っていたら、そういえば彼女は普段どこで髪を切っているのだろうという疑問が湧いた。
「そういや阿求ってどこで髪切ってるの? 髪結床で見かけたとかないけど」
「そりゃそうでしょうよ。髪結いの方から屋敷に来てもらってるんだもの」
「うわっ、流石金持ち」
危うくバッサリ髪を切り落としそうになる。
流石稗田家のご令嬢といったところか。
「いいなーウチにも来てくれないかなー。髪結床で知り合いと出くわすと気まずいのよね」
「そんな良いもんじゃないわよ」
彼女ため息をついた。
「髪結いの人、切ってる間ずっと話しかけてくるんだけど、私としては散髪の時くらいはゆっくりしたいのよね」
「私は話しかけて欲しい派だけどなー。まあ阿求は普段が忙しいもんね。そう思うのも無理ないか」
阿求は忙しい。子供ながらに里の寄合でも大きな発言権を持っている。こと妖怪対策の話ともなれば、自警団の団長と同等かそれ以上に阿求の意見は重要視される。
家でも使用人を取り仕切っているのは阿求本人だし、部屋にいる間は幻想郷縁起後記の執筆とそのための資料の読み込みをしている。
彼女にとっての息抜きの時間はアガサ・クリスQとしての活動であり、ぐうたらと怠ける時間は彼女には存在しない。
阿求に限らず、人里で頼りにされているような、所謂デキる人、と称される人は本当に一日が二十四時間なのか疑いたくなる。それほど生活の密度な濃いだけなのだが。
私なんかは寝そべりながら以前読んだ本を繰り返し読んだり、日向ぼっこしながらぼけーっとしたりよくするのだが、彼らにそういった無駄な時間はないのだろう。
だが、阿求が忙しなく生きているのは寿命が限られているというのもあるのかもしれない。単純に嫉妬を向けるのはあまりに浅薄なような気がする。
「稗田のところのお嬢さんを退屈させちゃいけないと思って、頑張って話題振ってくれてるんじゃないかな」
私もお金持ちのお客さんが来たらそうなってしまうかもしれない。
何とかご贔屓にしてもらおうという気負いから、沈黙が恐ろしくなり無理に会話を繋ごうとする。親の手伝いとはいえ商売をしている身からすると、髪結いさんのことが他人事には思えなかった。
「多分そうでしょうね。気持ちはわかるし気の良い人なんだけど、今ひとつ話題が合わないというか……」
そう言って阿求はまた一つため息をついた。
「むしろね、髪結床に行ってみたいくらいなのよ」
「行ったことないの?」
後ろ髪が整ったので、私は阿求の前に回って前髪を切り始めた。阿求は目を閉じた。
「小さい頃は家で使用人に切ってもらってたんだけど、ある時に髪結床に行ってみたい、って言ったのよ」
「え、それで行かせてくれなかったの?」
いくら彼女が箱入り娘とはいえ、それくらいの我儘は聞いてくれそうなものだが。
「うん。その使用人の散髪の腕に不満を言ったんだと勘違いされてね、それ以来、髪結いを呼ぶようになったのよ」
「あちゃー、なるほど」
阿求としては髪結床という場所に興味があったのだろうが、使用人は家のものではなく本職の人間に切って欲しいという意味に曲解してしまったわけだ。
まあ彼女は言い回しが迂遠すぎることもあるので、一概に使用人の方を責めるわけにはいかないかもしれない。
「でもその後誤解を訂正して行きたいって言えば良かったじゃない」
「そうなんだけど……ウチに切りに来てるってのは広告にも良い稼ぎにもなるのよね。稗田家としても里内での繋がりはあるに越したことはないし。それを考えるとそこまでして行きたいものでもないのよ」
確かに稗田家の御用となるのは、それだけで箔が付く。来てもらうのに料金も上乗せしていることだろう。
それを止めることは、髪結いさんの稼ぎを減らすことにもなるし、ひょっとしたら良くない噂を呼び込むことになるかもしれない。稗田家は特殊な家なので、いつも井戸端会議で人気の議題なのだ。
とはいえその予想は、心配しすぎのようにも感じる。
「うーん、考えすぎな気もするけど」
「確かに杞憂かもね。でもその時の私はそう考えて、何となくそれが今も続いちゃってるのよね」
前世の記憶があるせいか、阿求の精神年齢は周りよりも高い。そのせいか、小さい頃から子供らしくない配慮を周りにしていたと聞く。
「あれ? ていうか私が切るのもあんま良くない感じ?」
「そうね。まあでも一回くらいなら良いでしょ」
「あー……切って良いって返事するまで少し間があったのはその辺考えてたわけね」
もし継続的に私が切るようになったら、心無い人は御用髪結いさんに「素人に劣る」と陰口を言うかもしれない。もしくは何か稗田家で粗相をしでかしたと噂されるかもしれない。でも一回くらいならそう問題はないと阿求は判断したわけだ。
「髪を切るだけでよくもまあ色々と……随分と大層な髪の毛ね」
私が呆れまじりにそう言うと、阿求は悪戯っぽく微笑んだ。
「そうよ。心して切りなさい」
私は「何言ってんのよ」とわざと大袈裟にため息をついてみせた。
前髪が終わったので、今度は横に回る。
サラサラとした髪の毛を櫛で梳いて、指先で摘んでハサミを通す。
「髪を切る時のハサミの音って何か良いわよね。小気味良い感じっていうか、一定のテンポで聞いてて落ち着くっていうか」
阿求はそう言って微笑んだ。
「うーむ、言われてみるとわかるようなわからないような……」
あまり考えたことが無かったが、耳を傾けてみると確かにそんな気がした。
切られるときは髪結いさんと話しているし、切るときはちびっ子たちを大人しく椅子に座らせるのに精一杯で、ハサミの音に耳を傾けたことなどなかった。
一通り切り終わったので、私は全体を整え始めた。部分部分に集中していると、上手く切れたと思っても全体で見ると微妙になっていたりするので、全体で見ることは大切だ。
髪を櫛で梳いて、人差し指と中指で挟んで、ハサミを入れる。それを繰り返していく。
雨音を背景に、ハサミが一定のリズムで音を奏でていく。
確かに聞いていて心地よい音かもしれない。
私が夢中になって髪を切っていると、阿求は目を瞑って寝息を立てている。頭を傾けて船を漕いではいないので、熟睡しているというわけではなく、意識が現実と夢の間を揺蕩っているような状態だろう。
阿礼乙女は妖怪にとって脅威ということもあり、先代ほどでないにしろ危険に晒されている。忙しいと言うこともあり、せかせかしているというか、彼女は常に気を張っている。
他人の前で眠りこけるなんてこと、そうそうないんじゃないだろうか。
私は自分の頰が緩むのを感じた。
「お客さん、終わりましたよ」
「ん……」
私が冗談めかしてそう声をかけると、阿求はゆっくりと目蓋を開いた。
このまま寝かしておきたいような気もしたが、帰りがあまり遅くなると屋敷の人たちが心配してしまうだろう。
私は阿求の正面に回り、鏡で彼女の仕上がりを映してやった。
「じゃーん、どう?」
阿求は髪を弄ってみたり首を捻ったりして仕上がりを確認した。その仕草は妙に絵になっていた。
「へぇ。案外と上手く切れてるじゃない」
「でしょ?」
「貸本屋廃業して髪結いになったら?」
「いやいや……あー、でもどうせなら両方やったら儲かるんじゃないかな。切られてる間色んな本が読める店」
阿求は「結構ウケそうね」と笑った。
私は彼女に被せていた白い布を脱がせて、バサバサと髪を土間に落とす。阿求は自分が座っていた椅子を店の端っこに寄せた。その後、二人で土間に散らばった髪を箒で綺麗にした。
「さて、そろそろ帰らないと」
そう言って彼女は壁に立てかけていた番傘を手に取って戸を開いた。
雨の匂いがする。外はまだ雨が降り続けていた。
「またね」
「ええ、またね」
そう言って阿求は帰途についた。
人気のない大通りに赤い番傘は良く映えた。
私は何となく、ぼうっと彼女の背中を眺めていた。
すると視線を感じたのか、阿求が振り返った。私と目が合うと、「何見てんのよ」とでも言いたげに彼女は笑った。
耳をすませば、戸の外からしとしとと雨の降る音が聞こえる。
人里の貸本屋、鈴奈庵の店内には店番をしている私以外誰も居なかった。
雨の日は客がほとんど来ない。生活必需品を扱っている店ならともかく、貸本屋のような娯楽品としての性質が強い品を扱う店に、わざわざ雨の日に来るような物好きはあまりいない。
もっとも晴れていたら沢山客が来るかというと、そういうわけでもない。
私が店番を任されるようになってから大分経つが、少なくとも店内が客でひしめき合っているという光景は一度も見たことがない。
小さかった頃は子供心にウチは大丈夫なのだろうか、ひょっとして物凄く貧乏なのではないだろうか、という不安を抱えることもあった。今では店での収入より訪問や印刷業の方が主な稼ぎだとわかっている。
お茶に口をつけると、すっかり冷え切っていた。私は番台から立ち上がり、読み終えた本を店の本棚に戻した。
窓から雨が降る様子が見えた。大雨と言うほどではないが、この雨の中出かけるのは躊躇われる。
雨は私が本を読み始める前から同じ調子で降っており、止む気配がなく永遠に降り続けそうな気さえする。
私としては本が好きなだけ読めるので、いっそずっと降り続けて欲しいくらいだ。たまに来る面倒な客の相手をする必要もなくなる。
それに雨音を聞くのは楽しい。ぼうっと聞いていると、彼我の境界が薄れ、まるで自分が空気に溶け出しているかのような気分になれる。
雨音に耳を傾けて意識を揺蕩たせていたら、木戸が開く音がしたので私は慌てて立ち上がった。
「いらっしゃいま……何だ阿求か」
接客用の高い声出して損した。
「何だとはご挨拶ね」
阿求はそう言ってフンと鼻を鳴らし、後ろ手で戸を閉めた。そして番傘を壁に立てかける。
「何もこんな雨の日にわざわざ来なくてもいいじゃない」
「寄合があったからそのついでよ。それにこの本、次の貸し手が決まってるんでしょ?」
彼女は懐から油紙に包まれた本を取り出し、私に手渡した。
そういえば阿求は本を借りる必要はない。店内で立ち読みすれば内容を全て覚えられるからだ。とはいえ育ちの良い彼女はそんな真似はしない。
「新作、書けそう?」
「そうね。内容は固まったし、後は筆を走らせるだけ」
今回借りた本は、阿求が今構想している「東方鈍行殺人事件」の参考資料らしい。一読者として新作が楽しみな私としては、参考資料を見てネタバレになるのは嫌だ。中身は改めずに、そのまま番台に置いた。
阿求は本棚の前に突っ立って何やら本を探し始めた。何かまだ必要な資料があるのだろうか。いや、あの棚は新しく入荷したものを置いておくところだから、何か面白い本がないか探しているだけだろう。
彼女は指先で髪を弄びながら、背表紙に目を通していく。
「阿求、髪伸びた?」
「そうかしら。まあ、そういえば最近切ってなかったわね」
阿求は自分の髪をぴんと指で弾いた。
「そうだ。私が切ってあげようか?」
「えっ……」
半ば濁点が入り混じった、随分と嫌そうな「えっ」だった。
「失礼ね。これでも私、良く長屋の女の子たちの髪を切ってあげてるんだから」
男の子たちは髪型なんて大して気にしないから親が適当に切る。女の子は物心つくとそれを嫌がり、髪結床に行かせろと我儘を言う。親としてはわざわざ子供を髪結床に連れていくのは出費が馬鹿にならない。そんなときこそ、髪結床鈴奈庵の出番だった。
人の髪を切るのは楽しいし、店の宣伝にもなるので一石二鳥だ。
「うーん、刃物持たせた小鈴を後ろに立たせるのはちょっとねぇ」
「私のことなんだと思ってる?」
「一言で言うと、危うくて危ない奴」
「……」
何か言い返そうとしたが、自覚している部分があるので言葉が出てこなかった。私がやらかしては霊夢さんや魔理沙さんに助けられているのを、阿求が良く思っていないのは知っていた。
まあいい。所詮思いつきで言っただけだ。
それで話は終わったつもりだったが、少し間を開いた後、阿求が口を開いた。
「いや、たまにはそういうのも悪くないかもね」
店は土間なので、店内の真ん中に椅子を置いて阿求を座らせた。髪が着物につかないよう白い布を被せる。その様子はさながら紫色のてるてる坊主といったていだ。
この雨なので客はそう来ないだろうが、もし来たら驚くだろう。一応店先の「商い中」の札はひっくり返しておいた。
「えっと……痒いところとかある?」
「……髪を切る前のセリフじゃないでしょそれ」
阿求が呆れ気味に言う。
店の本棚の真ん中での散髪という風景がどうにもおかしくて、何か言わなければという気分になったのだ。
気を取り直して、私は櫛を手に取った。
「それじゃ失礼しま……うわぁ」
「人様の髪を梳いておいて、何だってのよ」
阿求の髪を櫛をで梳こうとしたら、まるで水に櫛を通しているかのように、ほとんど抵抗がなかった。
「アンタの髪ってほんっとサラサラよねぇ……」
「小鈴の髪質が悪いだけでしょ」
「うるさいな。黙って褒められときなさいよ」
実際、同世代の同性と比べると私の髪質は悪い方だった。慧音先生のような長髪にも憧れるのだが、寝癖やらが酷すぎてとてもじゃないが真似できない。それに髪の手入れに時間をかけられる性分でもない。
髪を一通り梳いてみたが、特に必要な工程ではなかったかもしれない。
私はハサミを手に取って、阿求の髪を切り始めた。
ハサミの音と雨が降る音だけが聞こえる。
髪を切っていたら、そういえば彼女は普段どこで髪を切っているのだろうという疑問が湧いた。
「そういや阿求ってどこで髪切ってるの? 髪結床で見かけたとかないけど」
「そりゃそうでしょうよ。髪結いの方から屋敷に来てもらってるんだもの」
「うわっ、流石金持ち」
危うくバッサリ髪を切り落としそうになる。
流石稗田家のご令嬢といったところか。
「いいなーウチにも来てくれないかなー。髪結床で知り合いと出くわすと気まずいのよね」
「そんな良いもんじゃないわよ」
彼女ため息をついた。
「髪結いの人、切ってる間ずっと話しかけてくるんだけど、私としては散髪の時くらいはゆっくりしたいのよね」
「私は話しかけて欲しい派だけどなー。まあ阿求は普段が忙しいもんね。そう思うのも無理ないか」
阿求は忙しい。子供ながらに里の寄合でも大きな発言権を持っている。こと妖怪対策の話ともなれば、自警団の団長と同等かそれ以上に阿求の意見は重要視される。
家でも使用人を取り仕切っているのは阿求本人だし、部屋にいる間は幻想郷縁起後記の執筆とそのための資料の読み込みをしている。
彼女にとっての息抜きの時間はアガサ・クリスQとしての活動であり、ぐうたらと怠ける時間は彼女には存在しない。
阿求に限らず、人里で頼りにされているような、所謂デキる人、と称される人は本当に一日が二十四時間なのか疑いたくなる。それほど生活の密度な濃いだけなのだが。
私なんかは寝そべりながら以前読んだ本を繰り返し読んだり、日向ぼっこしながらぼけーっとしたりよくするのだが、彼らにそういった無駄な時間はないのだろう。
だが、阿求が忙しなく生きているのは寿命が限られているというのもあるのかもしれない。単純に嫉妬を向けるのはあまりに浅薄なような気がする。
「稗田のところのお嬢さんを退屈させちゃいけないと思って、頑張って話題振ってくれてるんじゃないかな」
私もお金持ちのお客さんが来たらそうなってしまうかもしれない。
何とかご贔屓にしてもらおうという気負いから、沈黙が恐ろしくなり無理に会話を繋ごうとする。親の手伝いとはいえ商売をしている身からすると、髪結いさんのことが他人事には思えなかった。
「多分そうでしょうね。気持ちはわかるし気の良い人なんだけど、今ひとつ話題が合わないというか……」
そう言って阿求はまた一つため息をついた。
「むしろね、髪結床に行ってみたいくらいなのよ」
「行ったことないの?」
後ろ髪が整ったので、私は阿求の前に回って前髪を切り始めた。阿求は目を閉じた。
「小さい頃は家で使用人に切ってもらってたんだけど、ある時に髪結床に行ってみたい、って言ったのよ」
「え、それで行かせてくれなかったの?」
いくら彼女が箱入り娘とはいえ、それくらいの我儘は聞いてくれそうなものだが。
「うん。その使用人の散髪の腕に不満を言ったんだと勘違いされてね、それ以来、髪結いを呼ぶようになったのよ」
「あちゃー、なるほど」
阿求としては髪結床という場所に興味があったのだろうが、使用人は家のものではなく本職の人間に切って欲しいという意味に曲解してしまったわけだ。
まあ彼女は言い回しが迂遠すぎることもあるので、一概に使用人の方を責めるわけにはいかないかもしれない。
「でもその後誤解を訂正して行きたいって言えば良かったじゃない」
「そうなんだけど……ウチに切りに来てるってのは広告にも良い稼ぎにもなるのよね。稗田家としても里内での繋がりはあるに越したことはないし。それを考えるとそこまでして行きたいものでもないのよ」
確かに稗田家の御用となるのは、それだけで箔が付く。来てもらうのに料金も上乗せしていることだろう。
それを止めることは、髪結いさんの稼ぎを減らすことにもなるし、ひょっとしたら良くない噂を呼び込むことになるかもしれない。稗田家は特殊な家なので、いつも井戸端会議で人気の議題なのだ。
とはいえその予想は、心配しすぎのようにも感じる。
「うーん、考えすぎな気もするけど」
「確かに杞憂かもね。でもその時の私はそう考えて、何となくそれが今も続いちゃってるのよね」
前世の記憶があるせいか、阿求の精神年齢は周りよりも高い。そのせいか、小さい頃から子供らしくない配慮を周りにしていたと聞く。
「あれ? ていうか私が切るのもあんま良くない感じ?」
「そうね。まあでも一回くらいなら良いでしょ」
「あー……切って良いって返事するまで少し間があったのはその辺考えてたわけね」
もし継続的に私が切るようになったら、心無い人は御用髪結いさんに「素人に劣る」と陰口を言うかもしれない。もしくは何か稗田家で粗相をしでかしたと噂されるかもしれない。でも一回くらいならそう問題はないと阿求は判断したわけだ。
「髪を切るだけでよくもまあ色々と……随分と大層な髪の毛ね」
私が呆れまじりにそう言うと、阿求は悪戯っぽく微笑んだ。
「そうよ。心して切りなさい」
私は「何言ってんのよ」とわざと大袈裟にため息をついてみせた。
前髪が終わったので、今度は横に回る。
サラサラとした髪の毛を櫛で梳いて、指先で摘んでハサミを通す。
「髪を切る時のハサミの音って何か良いわよね。小気味良い感じっていうか、一定のテンポで聞いてて落ち着くっていうか」
阿求はそう言って微笑んだ。
「うーむ、言われてみるとわかるようなわからないような……」
あまり考えたことが無かったが、耳を傾けてみると確かにそんな気がした。
切られるときは髪結いさんと話しているし、切るときはちびっ子たちを大人しく椅子に座らせるのに精一杯で、ハサミの音に耳を傾けたことなどなかった。
一通り切り終わったので、私は全体を整え始めた。部分部分に集中していると、上手く切れたと思っても全体で見ると微妙になっていたりするので、全体で見ることは大切だ。
髪を櫛で梳いて、人差し指と中指で挟んで、ハサミを入れる。それを繰り返していく。
雨音を背景に、ハサミが一定のリズムで音を奏でていく。
確かに聞いていて心地よい音かもしれない。
私が夢中になって髪を切っていると、阿求は目を瞑って寝息を立てている。頭を傾けて船を漕いではいないので、熟睡しているというわけではなく、意識が現実と夢の間を揺蕩っているような状態だろう。
阿礼乙女は妖怪にとって脅威ということもあり、先代ほどでないにしろ危険に晒されている。忙しいと言うこともあり、せかせかしているというか、彼女は常に気を張っている。
他人の前で眠りこけるなんてこと、そうそうないんじゃないだろうか。
私は自分の頰が緩むのを感じた。
「お客さん、終わりましたよ」
「ん……」
私が冗談めかしてそう声をかけると、阿求はゆっくりと目蓋を開いた。
このまま寝かしておきたいような気もしたが、帰りがあまり遅くなると屋敷の人たちが心配してしまうだろう。
私は阿求の正面に回り、鏡で彼女の仕上がりを映してやった。
「じゃーん、どう?」
阿求は髪を弄ってみたり首を捻ったりして仕上がりを確認した。その仕草は妙に絵になっていた。
「へぇ。案外と上手く切れてるじゃない」
「でしょ?」
「貸本屋廃業して髪結いになったら?」
「いやいや……あー、でもどうせなら両方やったら儲かるんじゃないかな。切られてる間色んな本が読める店」
阿求は「結構ウケそうね」と笑った。
私は彼女に被せていた白い布を脱がせて、バサバサと髪を土間に落とす。阿求は自分が座っていた椅子を店の端っこに寄せた。その後、二人で土間に散らばった髪を箒で綺麗にした。
「さて、そろそろ帰らないと」
そう言って彼女は壁に立てかけていた番傘を手に取って戸を開いた。
雨の匂いがする。外はまだ雨が降り続けていた。
「またね」
「ええ、またね」
そう言って阿求は帰途についた。
人気のない大通りに赤い番傘は良く映えた。
私は何となく、ぼうっと彼女の背中を眺めていた。
すると視線を感じたのか、阿求が振り返った。私と目が合うと、「何見てんのよ」とでも言いたげに彼女は笑った。
雨音が二人の間のプライベートなやり取りを外界から守るようで優しい雰囲気も感じました
とても可愛い二人で面白かったです。
可愛いかよ