Coolier - 新生・東方創想話

ライフ・シミュレーター

2020/05/30 19:25:21
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「むん? なんでだろう? ……あー、ただのコピペミスか。GAAGC……」
「ねえ蓮子。それ、ほんとに楽しい?」
「楽しいからやってるのよ、決まってるじゃない。そうだ、この際だからメリーも一緒に……えっ? メリー?」宇佐見蓮子は驚いて顔を上げた。メリーが向かいの席で頬杖をついていた。「いつからいたの?」
「あなたがコーヒーを注文して、ノートパソコンを開いた辺りからかしら」
「言ってくれたら良かったのに」
「言わなくても気付くと思ったのよ」
 メリーは呆れたような目で紅茶を飲んだ。四角い陶器の皿の上に銀色のシートとフォークが乗っている。白い汚れは生クリームだろうか。
「いつの間にケーキなんか食べたの?」
「蓮子がそれに夢中になってる間によ。うんとゆっくり食べたのに、結局、あなたは私が話しかけるまで気が付かなかったわ」
 メリーは無表情のまま皿の上のフォークを摘まみ上げ、蓮子の黒いノートパソコンをちょいちょいと示した。
「ごめんごめん。つい没頭しちゃうのよね。お詫びにそのケーキ代、私が三割くらい……」
「最近、学内で随分と流行ってるみたいだけど、そんなに面白いの? その『ライフ・シミュレーター』ってやつ」
 蓮子は目を丸くした。「え? なんで私がLSやってるって分かったの?」
「誰だって分かるわよ。蓮子ったら、目の前の私には目もくれないで、GだのAだの、ぶつぶつぶつぶつ……」
「もしかして、独り言を言ってた? 恥ずかしいなぁ。そんなことなら……」
「相づちでも打ってくれれば良かったって?」
「そう。それで少なくとも、独り言ではなくなる計算」
「大した計算能力だわ」
 メリーはわざとらしく口を開き、くるりと目を回してみせた。
 がやがやと賑やかな店内では、蓮子と同じようにしてパソコンやタブレット端末を睨み付けている大学生が何人も見つかる。昨今のブームに鑑みて、おおかた走っているアプリケーションも同じだろう。
 ライフ・シミュレーター。通称LSは、今から三ヶ月ほど前にリリースされた研究者向けのコンピュータアプリだ。
 アプリ内には地球上に棲息する七十二種類の生物のDNAサンプルがあらかじめ登録されており、ユーザーはそれらの塩基配列を自由に編集することができる。
 もちろん、それだけでは何の面白味もないアルファベットの並べ替えに過ぎない。そんな虚無的な作業に熱中する人間などいないだろう。
 世界各国で優秀な研究者たちがこぞってこのアプリに取り憑かれているのには当然理由がある。ライフ・シミュレーターはそのシステム上で、編集されたDNAを持った生物の発生過程を――とりもなおさず、生命そのものをシミュレートすることができるプログラムなのだ。
「見てよメリー、これは今私が遺伝子操作してる『ショウジョウバエ―宇佐見モデル一〇八式』なんだけど……」
「ネーミングはもうちょっとなんとかならなかったの?」
 蓮子はディスプレイがメリーに見えるようにパソコンを回転させた。
 暗い青地に赤いグリッド線が入った不思議な画面だ。目を凝らしてよく見ると、その背景の中央には小さな黒いゴミのようなものが映っている。
「拡大するよ」
 メリーの隣へ来た蓮子が少しキーボードを叩くと、画面が勢いよくズームされた。
 黒いゴミかゴマのようだった点が引き伸ばされる。それはたしかに蓮子の言った通り、一匹のハエだった。
 画面の中のハエはまるで写真のような精巧さだった。薄い半透明の羽がざらざらと擦れ合い、ぶよりと膨らんだ腹から生えた六本の足はしきりに空を掻いてバタついている。一歩間違えば悪趣味ともとられかねないほどのリアルさだ。モニター越しに凝視してくる赤橙色の両目など、ありったけの不快感を熱して鋳造した集塊のようだ。
 メリーはすっかり気が滅入ってしまい、画面から目をそらした。
「これがなんなの? ただのハエじゃない」
「ここからが凄いのよ、このショウジョウバエ―蓮子式タイプAには秘密があるの」
「名前変わってるわよ」
 蓮子はキーボードを操作し、「ショウジョウバエ―蓮刈型プロトB.ls」というファイルを実行した。
 画面に一瞬だけプログレスバーが表示された。ほんの一、二フレームの硬直の後、すぐさまプログラムが実行される。
 画面の中のハエが口吻から火を吹いた。
「なにこれ、どういうこと?」
 メリーは引きつった笑みでモニターを指差している。
「体内でメタンガスを過剰分泌するようにDNAを書き換えたのよ」蓮子は自慢げに胸を張ってみせた。「それから硬い歯を何本か生やして、顎の筋肉もかなり強く発達させたわ。このハエが強く歯を噛み合わせることで火花が散って、可燃性のメタンガスに引火するっていうカラクリなわけよ」
「それは良いんだけど、ハエが燃えてるわよ」
 画面の中のハエは自らの炎が口内に引火し、次の瞬間には爆発して死んだ。
「そう。燃えちゃうのよ」
「燃えちゃうのよ。じゃないわよ。これじゃあとんだ欠陥生物じゃないの」
「そうなんだよねぇ。きっとこうなるから、地球の生物は誰も火を吹こうとしないんだわ。つまんないの」
 蓮子がタンッとキーを叩くと、ハエは何事もなかったかのように画面上で復活した。
 メリーは「これはハエじゃなくて、ホタルね」という駄洒落を思い付いたが、言おうとしてやめた。
「でも、たしかに凄いわ。分子生物学なんて全然専門じゃないのに、ここまで自由に弄れるものなの?」
「まあ、私くらいになるとね。……って、うそうそ。いくら私がファーブル並みの観察眼を持っていると言っても、さすがにこのアプリを独学でプレイするのは無理」
 そう言うと、蓮子はまたキーボードを操作した。
 LSのアプリとは別のウィンドウが立ち上がる。今度はプログラムファイルではなく、ウェブサイトのリンクを開いたようだ。
 現れたページはシンプルなレイアウトだった。
 蓮子が画面をスクロールさせると、白い背景の上を簡素な英文のリストが流れていく。リストにはいくつかの数字や人名らしき文字列のほかに、『Download』という青文字のリンクがある。
 何も分からないまま、スクロールは最下部に到達した。ページは複数あるようだ。
「ここで公開されているのは、世界中の研究者が自作した改造DNAのサンプルなの。この中から好きなものをダウンロードして、重要な部分をコピペすれば、私みたいな素人でも結構遊べるのよ。もちろん、それなりの勉強はしたけどね」
「ふーん……あれっ? このショウジョウバエなんちゃらかんちゃらって」メリーがリストの中の一つを指差して言った。
「うん、私のデータよ。自動アップロード設定にしてるの」
「ダウンロード数、十三件だって。これって多いの?」
「多い、多い」蓮子のハエの一つ上には、ロシア人の改造イルカのデータが置かれている。ダウンロード数は、七八〇六件。「……多いのよ、ゼロとかよりは」
 メリーはあまり興味も無かったが、ざっとデータを眺めてみた。
 犬、猫、蝿、蟻、狐、猿、象、鯨、鳩、蝶、鮪、楓、蛤……。リストには実に多様な種のデータが並んでいる。彼らの最も深遠なる秘密――生命の設計図が、無邪気な好奇心のままに切り貼りされ、明け透けに展覧されている。
 メリーはやはり、退屈そうだった。
「……ねえ蓮子。人間のサンプルは無いの?」
「えっ?」
 メリーはリストから目を上げて言った。「このリスト、一番ありそうな人間の改造データが無いみたい。やっぱり倫理的な問題?」
 蓮子は突然の質問に面食らったようだったが、すぐに気を取り直して答えた。
「そうそう。ヒトゲノムはアップロード時に弾かれるようになってるの。今の世の中、DNAは最大の個人情報だからね」
 メリーの頬がほっと緩んだ。「それを聞いて安心したわ。えっと、蓮子は知ってるかしら? 大昔の映画なんだけど。何かの実験のミスで、人間とハエが合体しちゃうってやつ」メリーは小さく身震いした。「私、さっきのハエを見て、その映像を思い出しちゃったの。人間のキメラ……まさに禁断の実験だわ。あんなおぞましいモノは、たとえバーチャルでも見たくないものね」
 メリーの話を聞いて、蓮子はしばらく固まっていた。
 顎に手を持っていき、またその姿勢で固まった。何か良くない事実を、メリーに伝えるべきかどうか悩んでいるようだ。
 やがて蓮子は渋い顔のまま、またキーボードを触り始めた。
「あのね、メリー。あくまでも、禁止されているのはアップロードだけなの。つまり、LSでヒトの遺伝子を改造すること自体は、なんら問題なくできるのよ」
 蓮子が一つのファイルを読み込んだ。
 やや長いロード時間のあと、画面の中央に表示された生物の姿に、メリーは思わず息を飲んで目を見張った。
 そこに現れた人間は、紛れもなく宇佐見蓮子の顔をしていた。
 服装や髪型こそ現実と違うが、メリーには一目で分かった。暗い焦げ茶色の髪。強い意思を秘めた瞳。不敵に笑う口元。ぎこちないアニメーションで紡がれる何気ない仕草の一つまで、今自分の隣にいる、宇佐見蓮子そのものなのだ。
 メリーは引きつった顔で蓮子に尋ねた。「蓮子……これは?」
「見ての通り、私」蓮子は苦笑いして答えた。「私のDNAから作ったクローン蓮子よ。あっ! さすがに弄ってはいないよ。ただの好奇心なの。いくらなんでも、自分のキメラとか……ねぇ」
 メリーは溜め息をついた。「蓮子って、たまに本当に突飛なことをするわよね」
「いやまぁ、私もこれを見てると何とも言えない気持ちになるんだけどね」蓮子も深く息を吐き、改めて考え込んだ。「どうしても、〝この私〟がただのデータだなんて思えないの」
 メリーは呆れて目を瞑った。「このゲーム、ちょっと異常なんじゃない?」膝の上に置いていたバッグを持ち、椅子を引いて立ち上がる。「こんなのが流行ってるなんて……いや、流行るのも当然ね」
 蓮子は慌てて引き留めようと右手を出した。「あっ、待ってよメリー。これはあくまでアカデミックな……」
「私には向かない、ってだけよ」
 メリーはひらひらと手を振り、精算を済ませて出ていってしまった。
 残された蓮子は、一人悶々とコーヒーを口にした。冷たい苦味が喉を伝う。
 メリーの感想はもっともだ、と蓮子は思った。
 蓮子は少し浮かれていた自分に気付いた。いや、世界中の研究者が浮かれているのだ。
 数十年も昔、生命の改変は禁忌だった。それは技術的にも倫理的にも触れることの許されない、絶対不可侵の神の聖域。しかし、人間は聖域の錠前に手をかけた。あらゆる手段で鍵穴の形を調べあげ、ついには存在しないはずの鍵を作り出した。
 ひとたび技術的な問題が解決されてしまえば、倫理という名の幻想の霧が完全に吹き払われるのに時間はかからなかった。
 不意に、蓮子の脳裏に朱色の瞳が浮かび上がった。
 それは二年前に見たネットニュースの映像だった。
 爆発事故が起きた中国の研究所。立ち上る炎の渦。足を引きずって逃げる何人もの白衣。慌ただしく揺れ動くカメラの画角に入り込んだ、いくつもの鉄の檻。左半身に酷い火傷を負った少女。
 少女は檻の中で自分の膝を抱いていた。死んだ光を放つ朱色の瞳。その眼光は画面越しに、たしかに蓮子の両目を射抜いた。
 今でも蓮子の網膜には、その一瞬の光景が焼き付いている。
 人の業に片翼を焼かれた憐れなキメラ。
 美しい白鷺のキメラ……。
「……お客様?」
 後ろから声をかけられ、蓮子はハッと我に返った。振り返ると、困り顔のウェイターがすぐ側に立っていた。
「先ほど帰られたお客様が、『残りのお代はあそこの黒帽子が払いますから』と仰っていたのですが……」
 蓮子は額を押さえて溜め息をついた。冷たい汗が指に触れ、少し驚く。
「変な精算ですみません、成り行きで私が三割出すことになっちゃって」
「えーっと……お連れ様が支払っていかれたのは、六割……ですね」
「……そうですか」
 蓮子はノートパソコンを閉じ、鞄にしまうと、残っていたコーヒーを飲み干した。
 メリーのやつめ、明日会ったときはどんな皮肉を言ってやろう。
 浮かない気分で席を立ち、財布を取り出そうとしたとき、ふと、あるものが目に入った。
(……あっ)
 蓮子はゆっくりと腕を伸ばし、テーブルの上のそれをつまみ上げた。細い繊維状の物体が、午後の陽射しを浴びて怪しく光っている。
 どくんと心臓が高鳴る。
(メリーの……髪の毛)
 先日の実験がフラッシュバックする。あの日蓮子が自分のクローンを作成するために使用したのも、自らの毛髪から取ったDNAだった。
 いけない考えが頭を巡る。これは越えてはいけないラインだろうか?
 蓮子はしばらくその場に立ち尽くしていた。
 やがて彼女は小さく微笑み、おもむろに歩きだした。
 金色に輝く毛髪は、そっとポケットにしまってあった。

 蓮子の思った通り、夜の研究室には誰もいなかった。
 窓から見上げた夜空によると、時刻は深夜の二時を回っている。蓮子は部屋の電気を点けず、携帯電話の明かりで作業を始めた。
 昼間に拾ったメリーの毛髪を一体型DNA抽出装置にセットする。操作手順は蓮子自身のクローンを作成したときに専門の学部生から教わった。試料をセットしてタッチパネルの誘導に従えば、後はほとんどのプロセスを自動で行ってくれる。大学が去年奮発して導入した、最新式の装置だ。
 蓮子は鞄からUSBケーブルを取り出し、装置と自分のノートパソコンを繋いだ。
 突然装置が低い唸り声をあげ、蓮子は心臓が止まりそうになった。ケラチンの分解が始まったのだ。
 蓮子は呼吸を落ち着かせ、すぐにパソコンのセッティングに取りかかる。
 こんな時間にこそこそと装置を使っているのは、これがれっきとした違法行為であるからだ。ゲノムデータは要配慮個人情報であり、本人の許可なく取得することは個人情報保護法に抵触する。そして当然ながら、深夜に勝手に大学の備品を使用することも、やはり明らかな違反行為だ。蓮子の強烈な好奇心の前には、二重の拘束力も意味を持たなかった。
 毛髪の溶解は僅か数十秒で完了した。数年前の常識で見れば恐ろしほどの高速さだが、蓮子からすればあまりにも焦れったい。
 試料は装置の中で分離され、直接PCRにかけられる。外部から様子は見えないが、マシンは細かい振動を続け、内部の溶液の温度を急速に変化させている。試料溶液はおよそ九十度まで加熱され、数秒後には六十度付近まで冷却される。一サイクルが終わるたびにDNAの複製は倍になる。その繰り返しが三分ほど続いた。
 暗闇のなか、パソコンの画面に変化があった。インストールの準備が整ったのだ。蓮子はそっとキーを押し、ゲノムデータのインストールを開始した。
 数秒後、蓮子は画面の表示に異変を感じ取った。
(インストールが進まない……?)
 画面上のプログレスバーは未だ数ミリしか動いていない。蓮子のパソコンはノートとはいえ、プロ仕様の最新型だ。たかが七五〇メガバイトのヒトゲノムを転送するのに、〇・一秒すらかかるはずはなかった。
 明らかなエラーだ。
 蓮子は安心した。
 安心?
(私は心のどこかで、この実験が失敗することを期待していたのかしら?)
 彼女は自分の心の機微に気付き、暗い実験室の真ん中でくすくすと笑った。
「誰かいるのか!?」
 蓮子は驚きのあまり飛び上がった。
 懐中電灯の光と足音が近付いてくる。装置の振動と音が大きすぎたのだ。
 蓮子は反射的にパソコンを閉じ、次に身を隠す場所を探した。携帯のライトで室内を走査する。見通しの良い室内は几帳面に整頓され、隠れる場所も物陰も無い。自分たちの乱雑で荒れ果てた研究室とは大違いだと、蓮子は思わず歯噛みした。
 足音が廊下のドアの前で止まった。蓮子は咄嗟に、隣の準備室のドアノブを回した。
 警備員が部屋のドアを開けるのと、蓮子が準備室のドアを閉めるのとはほとんど同時だった。蓮子は息を殺して部屋の奥へ進む。幸運なことに、準備室のもう一つの扉は外の廊下へと繋がっていた。
 蓮子は慎重に扉に手をかけ、警備員が隣の研究室を調べている隙にこっそりと逃げ出した。
 必死に足音を殺しながら早歩きをする心境は、さながら一昔前のホラーゲームのようだった。蓮子は急いで階段を降り、大学から抜け出した。
 建物を出てからは全力疾走だった。門を抜けて二百メートルほど走ったところで息があがり、塀に手をついて立ち止まる。
 酸欠でぼんやりとした頭の中で、蓮子はあることを思い出していた。
(そうだ……認証が無いから……最初から無駄だったんだ……)
 蓮子はへなへなと地べたに座り込んだ。
 彼女が思い出していたのは、LSのヒトゲノムシミュレート規約のことだった。
 実在する人物のDNAを何らかの方法でシミュレートする場合、本人の許可があることを確認するため、そのゲノムの持ち主の国民登録番号――ここで求められる認証データの形態は国によって異なる――を求められるのだ。
 つまり、蓮子の企てには前提からして欠陥があったということだ。
(DNAのインストールが進まなかったのは……さすがに、自然脱落の毛髪一本じゃ駄目だったのね)
 蓮子はようやく落ち着きを取り戻した。一度、大きく深呼吸をする。スチールのように冷たい京都の夜が肺いっぱいに吸い込まれる。
 洗練された町並みには街灯が少なく、あの研究室よりもずっと暗い。
 蓮子は暗闇の中でぼんやりと光るディスプレイを想起した。そして次の瞬間、自分がパソコンを置き忘れて来たことに気付いた。

 翌朝、蓮子は遠くから響くサイレンの音で目が覚めた。時計を確認してすぐ二度寝の構えに入るが、またどこかから別のサイレンが聞こえてくる。救急車のサイレンだ。
 何か事故でもあったのだろうかと目を擦りながら、蓮子は渋々ベッドから抜け出した。
(そうだ! 早く大学に行って、パソコンを回収しなくちゃ)
 蓮子は慌てて身支度を済ませ、急いで家を飛び出した。
 息を切らして研究室に滑り込むも、幸いまだ誰も来ておらず、パソコンも昨日と同じ状態でそこにあった。あの警備員も、詳細の不明な精密機器を迂闊に触ることができなかったのだろう。
 蓮子はホッとしてケーブルを抜き、パソコンを開いた。
「えっ?」
 そこには何かがいた。
 その何かは一見黒いゴムの塊のような外見で、画面の中でもぞもぞと蠢いている。
 見ているだけで不安を煽られるような嫌なグラフィックだ。
 出し抜けに、黒い塊に血の筋のような亀裂が入った。亀裂はすっと縦に開き、中から真っ赤に充血した眼球が現れた。まっすぐにこちらを見据える金色の瞳には、何故だか狂おしいほどの既視感があった。
 蓮子は燃えるような恐怖心に突き動かされ、すぐにあらゆる表示を確認した。動いているアプリはライフ・シミュレーター。現在開いているのは見知らぬ生体ファイルだ。ファイル名は何十桁もの数字とアルファベットの羅列で意味を成していない。設定を変える前のデフォルトネーム。
 蓮子は画面の右下で小さく点滅しているアイコンを見付けた。開いてみると、飾り気のない簡素なフォントで、「インストールが完了しました」というメッセージがポップアップした。
 蓮子はもう一度画面の中の塊を見た。
 あの寒気のするような大きな目はもう閉じている。生物は時々体をぶるりと震わせ、ゆっくりと呼吸しているようだ。
(これって……ひょっとして、これがメリーのクローンなの?)
 蓮子は自分の考えに驚いた。
 こんな得体の知れない物体が人間のDNAから生まれるなんてあり得ない。ましてや、メリーのDNAからなんて。
 しかし、状況証拠は蓮子の直感を後押ししている。
 蓮子は自分の仮説を否定するため、その反証を探すことに脳のリソースを費やした。
(……そうだ、やっぱりメリーであるはずはない。この生物のDNAをインストールするとき、本人確認の認証を求められなかった。つまり、この生物のゲノムはヒトのそれではないということよ。けれど、メリーは人間なのだから、この生物がメリーのクローンであるという仮説と矛盾する。よし、証明完了)
 蓮子は頭の中を整理し終え、改めて黒い塊に向き直った。
 こいつはどういう生物なのだろう?
 体は直径五十センチほどの球体で、やや偏平に潰れている。これは重力シミュレートの影響だろう。手足は無く、先ほどの眼球以外は感覚器官のようなものも見当たらない。
 特筆すべきは、体表の様子が絶えずさざ波のように変化していることだ。ざらざらとしたヤスリのような表皮かと思えば、次の瞬間にはぶつぶつと鳥肌が覆い、また次の瞬間にはつるつるのプラスチックのように変質し、仮想の太陽光をチラチラと反射している。その奇妙な生態にどのような意味があるのかは想像も付かなかった。
 蓮子は画面の中で静かに眠る生き物を見て、考え込んだ。
 いったい、この不可思議な生体データをどうすれば良いのだろうか。こんな生物は地球上のどこにもいない。恐らくPCRの不具合かLSのバグによって天文学的な確率の下に産み落とされた、唯一無二の生物だろう。
 親も同族もいない孤独な生き物。一人一種族。存在しない生き物。怪異。妖怪……。
 何にせよ、この生物は奇跡の産物だ。データをネットにアップロードすれば、即座に世界中で一大センセーションが巻き起こるだろう。
 しかし、それは同時に、このデータの出自を徹底的に調べられることにも繋がる。ド素人の蓮子がベタ打ちでDNAを組み上げるなどあり得ない。既存の遺伝子をベースにしたことは考えるまでもなく自明なのだ。自分の毛髪を使ったなどと嘘をついても、専門家の目はごまかせないかもしれない。
 蓮子が恐れていたのは、法的に罰せられることなどではなかった。ただ一つ、親友のメリーにこのことがバレて、軽蔑されることだけが何より死ぬほど恐ろしかった。
 蓮子の逡巡は一瞬だった。彼女は心を決め、生体ファイルを削除する操作を始めた。
 彼女にとって、それは迷うような選択ではなかった。
 生物は何も知らず、幸せそうに眠っている。
 蓮子は削除を実行しようとした。
 そのとき、黒い物体が彼女の腕に絡み付いた。
「ひっ!?」
 蓮子は弾かれたように腕を振り払い、後ろにばたりと尻餅をついた。
 額からザアッと冷や汗が噴き出す。
 机に乗せられたキーボードの上で、黒い生物が触手のような体を伸ばしているのが見える。その体はモニターを貫き、蓮子のいる現実世界に染み出していた。
 蓮子は言葉を失い、戦慄に身を震わせた。
(まさか……リアルとバーチャルの境界……やっぱり、あれはメリーの遺伝子を……!)
 蓮子は床に両手をついて後ずさる。その僅かな動きを生物は敏感に嗅ぎ付け、自身の体積を一気に膨張させた。
 蓮子の口から声にならない悲鳴が漏れた。
 暗黒の生物はアメーバのように空中で広がり、天井や床にへばり付いている。あちらこちらで血のような筋が走っては、金色の瞳が不規則に瞬いた。
 アメーバの一部が蓮子の靴に触れた。蓮子は焦って靴を脱ぎ捨てようとしたが、既にアメーバは足首まで上ってきている。
 アメーバが靴下の端の素肌に触れた瞬間、蓮子は脳髄をかき混ぜられるような猛烈な吐き気に襲われ、どたばたとのたうち回った。足の細胞の一つ一つに黒い異物が侵入してくるのが分かった。皮膚の下で毛細血管のような模様が生まれ、それが急速に膝の辺りまで這い上ってくる。
 足の爪先からふくらはぎまで皮膚が螺旋状に裂け、傷口から形も大きさも不揃いな歯列が生え揃った。
 蓮子は今度こそ、声の限りに絶叫した。
 黒い生物は足から順に蓮子の体を蝕んでいく。生物が侵入した部分では皮膚が裂け、ある場所は半透明の鱗で覆われ、ある場所では無数の爪が生え、ある場所では新緑の若葉が萌え出で、またある場所では金色の瞳がぎょろぎょろと輝いた。
 蓮子の半身は無秩序なキメラになっていった。蓮子は恐怖で腰を抜かし、自分の膝の横に貼り付いた目玉を呆然と見つめた。目玉は蓮子に気付き、にやにやと笑ったように見えた。
 身体中から何がなんだか分からないものが生えてきた。服の下から三本目の腕が生え、その掌には十二本の指と胃袋が付いている。鎖骨からカブトムシの角と鮫の背鰭と血の通っていない血管が這いずり出し、一メートルもある鳥の翼が腹を割って突き出した。
 蓮子は仰向けに倒れ、天を仰いだ。真っ黒になった天井を金色の瞳がびっしりと覆い尽くしている。それは今までに見たどんな星空よりも綺麗で、彼女の不思議な両目には、確かに、無限に引き伸ばされた須臾が映っていた。
 蓮子はゆっくりと目を閉じた。首の中を何かが這い上がってきているが、もう確認する意味も無い。
(メリー、ごめんなさい……。魔が差した、なんて、言い訳にならないわよね……)
 遠くで蓮子を呼ぶ声が聞こえた気がした。
 耳の中でわんわんと虫の羽音が響き、音がよく聞こえない。
「……蓮子!!」
 蓮子は目を見開き、声のした方へ首を向けた。
 そこには大きな消火器を抱えたメリーが立ち、懸命にキメラアメーバを殴打していた。
「メ、ェッ……」
 蓮子は声を出そうとしたが、口から西洋タンポポの綿毛が大量に噴き出したので喋ることができなかった。息を吸うと細かい綿毛が肺に詰まり、六つの目から大粒の涙が流れた。
 メリーは必死の形相でアメーバを殴り続けている。しかし、大したダメージは無さそうだ。
 蓮子は死力を振り絞り、茶色い蔓の巻き付いた右腕を上げた。彼女の指差した先には、黒いノートパソコンがあった。
 メリーはそれを見て、即座に消火器を抱え上げ、パソコンの背面に向けて勢いよく振り下ろした。
 ガキンという鈍い音とともに火花が散った。
 ノートパソコンは破壊と同時にバクリと閉じ、黒い生物を挟み込んだ。
 部屋中の眼球が一斉に見開き、二人を見つめたまま凍りつく。
 一瞬、この世のすべての時間が止まったような気がした。
 そして次に気が付いたとき、黒い生物や体中の異物は、すべて跡形もなく消え失せていた。
 蓮子は激しく咳き込みながら、虚ろな目でメリーを見上げた。「メリー……どうしてここに……?」
 メリーは今にも泣きだしそうな顔で跪いた。「蓮子、ごめんなさい。私、昨日あなたに冷たい態度をとっちゃったから……些細なことだとは思ったけど、なんだか無性に怖くなって……。どうしても朝一番に謝りたくて、探していたの」
 蓮子はメリーの瞳を見つめ、よろけながらその場に立ち上がった。「ありがとう、メリー。……助かった」
 メリーはなぜか、まだ不安そうな顔をしていた。
 本当に危機が去ったのか、確信できていないという顔だ。
「もう大丈夫だよ、メリー。あいつは私がLSを弄っていたら偶然できちゃった化け物なの。もう二度と同じものは生まれないわ」
「やっぱり、あなたが作ったのね……」
 蓮子は背筋が凍りそうになった。
 しかし、その言葉の意図は蓮子が危惧したようなものではなかった。
「これを見て、蓮子」
 そう言って、メリーはバッグからタブレット端末を取り出した。メリーがブックマークを開くと、画面は何かのウェブサイトに飛ぶ。見覚えのあるサイトだった。シンプルなリストに、無数のゲノムデータが並んでいる。
「LSのアップローダ……?」
 蓮子は画面をスクロールしようと指を近付け、突然そのままの姿勢で固まった。全身の血が逆流し、頭の中が真っ白になる。
 そこには蓮子のユーザーネームで、身に覚えのないゲノムデータがアップロードされていた。ファイル名には意味の無い文字が並んでいる。アップロード日時は昨夜、二時四十八分。
 総ダウンロード回数、一〇五九三件。
「なんで……ヒトゲノムの自動アップロードは……」
 蓮子はすぐに間違いに気付いた。あの生物は人ではない。アップローダの検閲にも引っ掛かる理由はない。
「ヒトゲノム? 蓮子、あなた何を……」
 蓮子は唾を飲み込んだ。メリーが訝しげな顔で覗き込んでいる。
 蓮子の顎から玉のような汗が落ちた。
「と、とにかく今は……早くこのことを誰かに知らせないと!」
 蓮子は顔を上げ、部屋の窓から外の様子を見渡した。
 町のあちこちから黒っぽい煙が上がっていた。京都中のあらゆる場所でサイレンが鳴り響き、時おり地鳴りのような重低音が建物を伝って這い上ってくる。
 キャンパス内のテラスでも何人かの学生がパソコンを開き、不思議そうに音の出所を探して立ち上がっているのが見えた。
 蓮子は廊下に向かって走り出した。
「私は下のみんなにファイルをダウンロードしないよう言ってくる! メリーはネットから呼び掛けをお願い!」
 メリーが呼び止める間もなく、蓮子はどたどたと階段を駆け下りていってしまった。
 取り残されたメリーは壊れてスパークしているノートパソコンをぼんやりと見下ろし、その場に呆然と立ち尽くしていた。

 私は心臓の動悸が止められなかった。
 どうしてこんなことになったのだろう。
 PCRの不具合? LSのバグ? そんなことはあり得ない。偶然は無限の可能性を持つが、現実的に考えて、あのような生命体が偶然生成される確率はゼロに等しい。
 メリーはまだ研究室から動いていない。
 蓮子はテラスの学生を必死で説得している。
 私は二つのウィンドウを開き、二人の同行を息を飲んで見守り続ける。
 私は手探りでテーブルの上のコーヒーを探し、流し込むように喉を潤した。
 初めはほんの悪ふざけだった。ただの幼稚な好奇心から、私は私とメリーの生体データを『ワールド・シミュレーター』にインストールした。
 ワールド・シミュレーター、通称WSは、今大流行のシミュレーションアプリだ。ユーザーは任意の生命を主人公に設定し、いくつかの初期状態を入力したら、コンピュータ上で簡単にもう一つの〝世界〟をシミュレートすることができる。
 私は二人のクローンを眺めながら、彼女たちの日常を楽しんでいた。そのほとんどは現実の世界と同じなのだが、たまに知らないイベントが起こったり、メリーが現実の彼女とは違う選択をしたり、そのちょっとした変化が興味深く、ついつい何ヵ月もシミュレートし続けてしまっていた。
 画面の中の二人は、ずっと自分を眺めている私の存在に気付いていない。そこには越えられない壁があるから。
 しかし、メリーの遺伝子から生まれたあの化け物――いや、正確には〝メリーのクローンのクローン〟か――。あいつはなぜか、仮想空間上の仮想空間からその壁を破り、一つ上の次元へ脱出してのけた。これについては、まあ、完全にあり得ない話ではない。LSの世界はWSの中で作られた仮想空間だが、両者は本質的に独立し得ない。なぜなら、巨視的に見ればどちらの世界も私のパソコンによって動いているわけで、その存在のレイヤーは同一だからだ。
 LSからWSへの脱出は原理的に不可能ではない。もちろん、WSから私たちのいる現実世界へは話が別だ。
 ただ……結局、あの化け物はどういうことなのだろう。
 あれはメリーのクローンのクローンだ。つまり、メリーのクローンのDNAは、本質的にあの化け物と同一のものということになる。そしてメリーのクローンの正体が化け物であるならば、必然的に、現実のメリーも……。
 私は背筋に寒気を感じた。
 そんなわけはない。これはWSのバグだ。メリーは正真正銘、紛れもない人間だ。
 本当に?
 私は喉が乾き、コーヒーに手を伸ばした。
 視界の端にケーキ皿が映った。
≪まったく、蓮子ったら≫画面の中のクローンメリーが独り言を言った。≪勝手に人のクローンを作るなんて、どうこらしめてやろうかしら≫
 指先が震える。そんなはずはない。まずはWSを切るんだ。こいつは電源を落とせば消える。
≪あら、もちろん独り言じゃないわよ? 私はあなたとは違うもの≫
 私はパソコンの電源ボタンに力を込める。
 画面の中とモニターの向こうから、二重になった声が囁いた。
『結局、あなたは私が話しかけるまで気が付かなかったわ』
 彼女は向かいの席に座って、紅茶の香りを楽しんでいた。
 午後の陽射しがカップの中の水面に反射し、金色の瞳が輝いている。
「ああ、メリー」私は震える声で話しかけた。「いつからいたの?」
 彼女は答えの代わりに優しく笑った。
 ……さて……。ケーキ代、私が半分出すって言ったら、今度も許してもらえるかしら。
https://twitter.com/K_T_Takenoko
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面白く楽しめました
2.100終身削除
そういうことだったんだ…追い詰められたときに機転のきいた行動が取れたり小粋な軽口を飛ばせる蓮子のピンチに強いようなところとか話の流れとか終わりに近づくにつれてどんどん加速していくような感じがとても好きでした 
3.90名前が無い程度の能力削除
こっわ! こわ!
全編を通して感じさせる薄暗い嫌悪感と終盤のありえない事態への恐怖の緩急が非常に嫌な感じでした(SFホラーとしてべた褒めです)。
蓮子もこの世界も倫理観が「あるけど負けている」所がいやに生々しく、これもまた嫌悪感を煽り立てられました(SFホラーとして(ry)。

ところで、ずっと蓮子を眺めている読者の存在に気付いていない蓮子に
『ずっと自分を眺めている私の存在に気付いていない。そこには越えられない壁があるから』とか
『LSからWSへの脱出は原理的に不可能ではない。もちろん、WSから私たちのいる現実世界へは話が別だ。』とか言われると
早くこのページを閉じてしまいたくなりますね……
4.100名前が無い程度の能力削除
未知に対する恐怖感が素晴らしかったです。
5.100サク_ウマ削除
うわあ……
恐ろしさ、おぞましさ、得体の知れなさが丹念に盛り込まれた見事なホラーでした。
正直ここまでやっておいてケーキ代全額って言い出さない蓮子さんほんと肝が据わってて好きです
6.100名前が無い程度の能力削除
とても面白かったです
ホ、ホラー……!
8.100kawasemi削除
面白かったです。
越えてはいけないラインを越えてしまうことに定評のある蓮子さん。
あの時代の怪談本にはこのような話が収録されているのでしょうか?(怪談本があるとすれば)
9.100名前が無い程度の能力削除
寄って立つ現実の自明性が足元から崩れていくような展開と、それに説得力を持たせる細部の描写が良かったです。良いホラーSFでした
10.100名前が無い程度の能力削除
メリー、やはり……
11.100ヘンプ削除
怖い!読み終わった後に思いました。ほんとうにあったらどうなるんでしょうね……とても面白かったです。
12.100南条削除
面白かったです
第4の壁を突き破ってくるメリーさんが怖くて良かったです
やっぱりメリーは科学で解析とかしちゃダメなんでしょうね
13.90夏後冬前削除
良質のホラーSFでした。こういうの大好き。さまざまな名作の影響を垣間見たりなんかして、その作品を読んだ時の感動を思い出したりなんかしちゃったりして。
14.100名前が無い程度の能力削除
メリーの能力解釈が良かったです
15.90z削除
どこか一つ崩せば全部崩れてしまいそうな危うい雰囲気を醸し出しているけれど結局何かが起きるわけではないヒフウが好きなのでとてもよかったです。蓮子ちゃん......
17.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしかったです。
聡明ながらメリーのことが一番大切であり、しかし好奇心に溢れる蓮子が恐怖する姿がとても良かったです。
ありがとうございました。
18.100fushiana削除
ザ・フライ…
キメラアメーバと化したのメリーもどきも、本能的な部分は正真正銘のメリーだったのかなあと思いました(一連の行動は彼女なりの愛情表現だったのかも…)
タイトルの時点から興味深さと同時に微かな不安もあって楽しく読めました
19.90名前が無い程度の能力削除
東方を食べて秘封を錬成したような素晴らしい小説でした。命を仮想的に想像し、改造する。そんな技術も将来完成するのでしょうか。