静かだ。
自室のベッドの上、寝そべった状態でそんなことを考えた。それがずいぶん久しぶりのような気がした。静かだと感じたことがではない。何かを考えること、それ自体が、だ。
冷蔵庫からは時折恨めしそうなモーター音を吐き、窓の外からは換気扇が室内にまで唸り声のような音を響かせ、部屋を照らす蛍光灯はジジ……という耳障りな音を奏で、隣の住人のテレビの音と品の無い笑い声が薄い学生アパートの壁を揺らす。
それでも、静かだと思った。
環境が静かなのではない。心が、静かなんだ。
§
メリーがいなくなってから一ヶ月が経った。
忽然と。別れの言葉も姿を消す予兆もなく、当たり前のように私のそばにいたはずの彼女は、最初から居なかったように私のそばから消えていた。
もちろん、メリーを探した。私も、彼女の友人も、警察だって。それでも彼女は見つからないまま、一ヶ月という時間だけが過ぎた。
「今の私を見たら、メリーはどう思うのかしら」
呟く。
その呟きを聞いてくれる友人は、今の私にはいない。
生来だらしない私を、彼女は気に掛けてくれた。時には料理や掃除をしにわざわざ私の部屋まで来てくれることもあったし、私が不摂生な食事を取ったと知ったら怒ってくれることもあった。そして夜になれば、秘封倶楽部として一緒に活動した。私たちは、二人で一つだった。学部も、住んでる部屋も違うけど、ずっと一緒だった。
「メリーがいないとダメね。私って」
呟く。
その呟きを窘めてくれる隣人は、今の私にはいない。
今の私はあのころ以上に酷いありさまだった。
メリーがいなくなって、探すことを諦めた私に待っていたのは、大学の講義を漠然と受けて、コンビニの一番安い弁当を漫然と食べて、このベッドの上で夜を怠惰に眠って過ごす、そんな生活。
ついこの前の私なら、そんな生き方を絶対に認めなかっただろうに。
「不思議。私、貴方と出会ってから決して長い時間を過ごした訳じゃないのに」
呟く。
その呟きに返してくれる相棒は、今の私にはいない。
心に一切のさざ波を産むことの無い、平凡で平坦で平常な生活。自分の心がどれだけメリーで満たされていたのかが、メリーがいなくなってようやく理解した。大切なものは無くなって初めて分かるなんて月並みな言葉を身を以て知った。
だから、今の私の中は空っぽ。そんな心に波なんて立つはずもない。だって、波紋すら立たないくらい、何も入ってないんだから。
「私は、メリーで溢れてた。メリーに溺れてた。だから、メリーとずっと一緒にいたいって思ったの。本当よ?」
呟く。
その呟きに同意してくれる愛しの人はいない。……もしかしたら恥ずかしがって同意してくれないかもしれないが。
今の私には何もない。
玄関を見る。
あのドアをメリーが開けるのを何度も見た。メリーがドアを開けて、私が「おかえり」と言って、メリーがどこか照れた様子で「ただいま」と帰す。メリーはメリーで別のアパートを借りているから同棲という訳でもないけど、気付けばそうやって言い合うのが当たり前になって、それがとても好きだった。だからメリーがこの部屋に来る時は、決まって私は玄関を見ながら待ち続けた。外で待ち合わせるのは遅刻常習犯だった私だけど、これだけは遅刻していない。私がドアを開けたメリーに初めて「おかえり」と言ったあの日から、メリーがあの扉を開けるのを見逃したことはない。
でも、それも今となっては昔の話。どれだけ玄関を見つめたところで、あのドアを開ける人間は私以外にはいない。
コトン。
そう、私しかいない。そのはずだ。
だから、その音を聞いた時は少し驚いた。私の心に小さな、それでも確かにさざ波が揺れた。
まるで生まれたての小鹿のように……もしくは二日酔いに苦しむ旧型酒飲みのように、よろよろと私は体を起こす。
「……誰?」
千鳥足のまま、玄関へと向かう。
乱雑に脱ぎ捨てられた靴の上。そこに、封筒が落ちていた。便箋用の縦長の物ではなく、正方形の封筒。状況から見るに、誰かがドアの郵便受けにこれを差し込んだようだが……。
「誰かいるの?」
ドアを開けて通路を覗き込む。
アパートの通路はがらんとしており、誰もいない。私が玄関まで移動するのに随分時間が掛かったし、既に階段へ移動してしまったのかもしれない。
私はその『誰か』を探すことを諦め、封筒を手に取った。
固い。触っただけで中のものが少なくとも紙ではないことは自明だった。封筒を改めて見てみれば、そこには差出人どころか宛先も書かれておらず、切手すら貼られていない。
謎。ともすればいたずらとも思えるその封筒から、私は面影のようなものを見た。ただの封筒なのに、懐かしさを感じた。彼女が便箋を書くところを見たわけでもないのに、その姿が心の中に再び浮かび上がった。
「……メリー、なの?」
この科学世紀において、手紙なんてほとんど廃れたといってもいい。速度、精度、費用、個人情報保護、あらゆる観点でEメールに遥かに劣る手紙を好んで使う人間は少ない。今やEメールすらチャットツールの台頭によって衰退しつつあるというのに。
それでも、メリーはそういうのが好きだった。懐古主義、ともいうべきか。ちょっとした一昔前の日常生活の不便さを楽しむのが好きだとよく言い、効率こそ正義だと豪語する私とは意見が合わないこともあった。
この便箋からは、そんなメリーの『らしさ』のようなものを感じたんだ。
「メリー! メリー!? いるんでしょ!?」
慌てて靴を履き、玄関を飛び出す。廊下を走り、階段を駆け下り、駐車場で彼女の名を叫んだ。それでも、そこにいたのは私に奇異の目を向ける同じアパートの住人ばかり。街に飛び出して闇雲に走って、走って。それでもあの綺麗なブロンドの髪、有象無象の人込みの中でも一際輝くあの髪はどこにも見つからない。
しかしながら悲しいことに、ここ一ヶ月の泥のようなだらしない生活で体はすっかり衰えてしまったようで、しばらく走り回っている内に体が言う事を聞かなくなって、足が次第に鈍くなって、ぜえぜえとだらしなく息を吐きながら膝に手をついて立ち止まってしまう。
そこで初めて自分があの封筒を持ったまま、街の中を走り回っていたことに気付く。
いるかも分からない誰かを追いかけるよりも、優先するべきは物的証拠か。
元々自分は諦めが悪いほうだったのに……なんてセリフが頭を過ったが、私はメリーの幻影を追いかけるよりも手の中にいる手掛かりを優先することにした。
近くの路地の入口、そこの壁に寄りかかって封を開ける。その中から出てきたのは、プラスチックで出来た、円盤状の物体。
「……CD? これはまたレトロな。今の京都でこんなの再生出来るのなんてメリーくらいしかいないでしょ……」
中に入っていたのは、これまたオールドメディアになって懐かしい、コンパクトディスク 。レーベルには何も書かれておらず真っ白で、封筒にはそのCD以外に何も入っていない。
より省スペース、大容量の記憶媒体や各種オンライン配信サービスによって、今や見る機会も機械もめっきり減ってしまった媒体、CD。メリーが『こういうの』を使って音楽を聴くのが好きというのは以前から知っていた。CDをプレーヤーにセットして、歌詞カード片手に曲を聞いて、収録されている曲を全て再生したらCDを取り出して次のCDをセットする。曲も歌詞も端末に保存してしまえばそんな手間はかからないのに、メリーはそんな手間を楽しんだ。
『自分で挽いたコーヒーが美味しいのと一緒。そんな手間の一つ一つが、音を素晴らしいものに変えるの。無駄を楽しむのよ』とはメリー談。その話を聞かされるたびに『CDの中はバイナリデータなんだから、音質がいいのはプレーヤーの性能なんじゃないの?』などと返していたが、その考えは物理学者としては良くてもオカルティストとしては間違っていたのかもしれない。万物には神が宿る。コーヒーミルにもカップにもCDにもプレーヤーにも。だったら手間暇かけてより多くの物、即ち神を経由すればするほどコーヒーの味も奏でられる音も神秘性を増すに決まっているというのに。
とはいえ、私はCDプレーヤーを持ってないし、そもそもCDプレーヤーなんてメリーみたいな好事家か骨董屋くらいにしか置いていない。ただ、メリー以外にも心当たりはある。
ポケットから携帯端末を取り出……そうとして部屋に端末を置いたままだったことに今更気が付く。
「……甘いなあ。色々と」
一ヶ月という短いようで長い時は、私から牙やら爪やら奪い去ってしまったようだ。……何かと戦っている訳じゃないけど。かつてプランク並(自称)だったこの頭だって衰えてしまった。今の私には自由に動く……とも言い難いことを先程知ったこの手足しかない。
「それでも、止まってなんていられないじゃない!」
だったら。だから。私は走った。私には手足しかないのなら、それを最大限使うまで。
またメリーを見つけられるなら、手でも足でも何でも使ってやるんだ。
§
「ああ、宇佐見か……どうしたお前?」
「ちゆり……ちょうどよかった。あんたでいいや……CDプレーヤー持ってない?」
「言い方は気になるが……なんだ? お前、音楽にでも目覚めたのか?」
走って走って、たどり着いた先は馴染みの我が大学だった。大学なら音楽を聞くためのCDプレーヤーは無くてもデータを読み書きするためのCDドライブくらいあるだろうと推測したわけだ。
私は息も絶え絶えな状態で、大学の助教授であるちゆりにことのあらましを説明する。彼女も以前からメリーと面識があり、メリーを捜索してくれた一人でもある。
ともすれば戯言のような私の話を、ちゆりは真剣に聞いてくれた。
「つまりあれか。根拠はないがそのCDが失踪したハーンの手掛かりかもしれなくて、中を見たい訳だ」
「そういうこと」
「で、……なぜハーンはそんな回りくどいことをする必要がある? そもそも本当にこれを持ってきたのはハーンなのか?」
「分からないからここに来たのよ。それにメリーの仕業じゃなかったら……それこそ誰がこんなことをするのよ」
私は自分の価値が分からないほど馬鹿じゃない。客観的に見ても人並み、大学の同窓よりは頭脳明晰だとは自覚しているが、逆に言えばそれだけ。所詮私はその程度の人間だ。唯一無二の、この世界の秘密を暴く瞳を持つメリーとは違って。ましては今の私はただの過去に囚われた腑抜け。
だから今、メリーがそばにいない今、私に対して何かアプローチを仕掛けようとする人間がいるとは到底思えない。
私の返しに、ちゆりはどこか訝しげな笑みを見せた。
「そうだな……例えばこんなシナリオはどうだ? この中には音声ではなくコンピュータウィルスが入っている。CDプレーヤーを持たない宇佐見蓮子は私、もしくは夢見様にそのディスクを持ってくる。あとはその怪しいディスクを解析しようとして私らのサーバにウィルスが侵入、研究成果を引っこ抜こうってな。よくあるソーシャルハッキングってやつさ」
「それは……」
「まあ、そういうのにも気をつけろってことだ。今のお前なら、『私メリー、実は事故にあって、相手から示談金払わないと帰してくれないって』とか電話掛かってきたらホイホイ振り込みそうだし」
その評価は不服だが……否定出来ない自分がいる。どうも今の私は、メリーのことで頭がいっぱいらしい。
口を閉ざした私の反応が面白かったのか、ちゆりがニヤニヤとしている。
「まあいいさ。研究室で待ってな。解析終わったらコイツの中身を聞かせてやるよ。なあに、私がウィルスに引っかかるとでも思ってるのか?」
§
研究室で一人、ちゆりの帰りを待つ。
研究室には時間を潰すというにはヘビーな分厚い本も大量にあるが、手に取る気にはならない。手持ち無沙汰だけど、何もするにも落ち着かない。手術の成功を手術室前で待つというのはこんな気分なのだろうか。
そわそわしながら待ち続けていると、扉を開けて研究室にちゆりが入ってきた。時間的には30分も掛かってないだろうが、何時間も待たされていたような気分だ。
「メリーは!?」
叫ぶ私に、ちゆりは冷静に返す。
「落ち着けよ。ここにマエリベリー・ハーンはいないぜ」
「ごめん……それで、CDの中は何だったの」
「ウィルスでも何でもなかったよ。ただの音声データだ。中身はお前の端末に送ったよ。だから今日は帰んな」
「何よそれ……ここで聞けばいいじゃない」
メリーの手がかりかもしれないというのに、ちゆりの態度にはどこかよそよそしさを感じた。
「もしかして、聞いたの?」
ちゆりには図星だったようで、ばつの悪そうな顔を見せた。
「頭だけちょっとな。その上で、私はこれをこれ以上聞くべきじゃないって思った。夢美様に言うべきかも迷ったが、私はあんたと、そしてハーンを尊重して、誰にも言わないと決めた」
「何が言いたいのよ」
「これはな、宇佐見。あんたが、あんただけが聞くべきだよ。これはあんたへ向けられたメッセージであり、あんたの片道切符だ。それを聞いてどうするかは、宇佐見、あんたが決めろ」
「ちゆり……あんた、何を聞いたのよ」
私の言葉に、ちゆりは戸惑い交じりの声を出した。常に自信に満ちている彼女らしくない、などと感じてしまった。
「正直言うと、分からねぇ。普段ならあり得ねぇって一蹴するところだが、妙な説得力があった。……なるほど、確かにこれは物理学 の領分じゃない。相対性精神学の領分だ」
「相対性……精神学」
もちろん知っている。
客観こそ絶対とする物理学と、主観にこそ真実が宿ると謳う相対性精神学。物理専攻の私から見れば眉唾ものだが、同時に一笑に付すことが出来ないということも、相対性精神学を専攻する彼女と同じ時間を過ごしたことでよく知っている。
そう。彼女、メリーと。
またここでメリーの名前が出てきた。
「ちゆりの言いたいことは分かったわ。要は私だけで聞けってことでしょ」
「そういうことだ。私にしてやれるのはこれまで」
「……あんたって、意外と気が回るのね」
「うるさい。意外は余計だ。早く行け」
「ありがとね、ちゆり。あんたに相談して良かった。……待ってて。必ずメリーを連れ戻してくるから」
短く礼を伝えると、研究室を後にする。
そして再び私は走り出す。メリーからのメッセージを受け取るため、自宅へと向かう。どこか近場のネカフェからデータにアクセスすることも出来たが、どうしてもそれをする気にはなれなかった。これは誰にも聞かれない場所で、私一人で聞かなきゃダメだと思ったから。
「…………宇佐見、ちゃんとこっちに帰ってこいよ。お前はこっちの人間なんだからな」
§
「はぁ……はぁ……先にシャワー浴びよ」
また全力疾走で帰ってきた私。息は荒く、全身を汗と疲労感が包み込んでいる。はやる気持ちを抑え、とりあえずシャワーで一度リセットすることにした。
服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。熱いくらいの湯が出てびっくりしたが、今はそれくらいが気持ち良かった。それくらいでないと、この体にまとわりつくような汗と疲労感は洗い落とせないような、そんな気がしたから。
「さて、と……」
そうしてしばらくして私は風呂場から出る。
タオルで雫を拭き取りながら、端末片手にふと思考が冷静になる。
いや、認めたくはないが躊躇しているのかもしれない。データのダウンロードは完了していて、タップするだけで部屋のスピーカーからはCDに記録されていた音声がすぐにでも流れ出すというのに、それが出来ないでいる。
指を動かそうとすると、ちゆりの顔がよぎって指が止まる。何か、これを聞いてしまえば後に戻れないような、そんな気がして…………、
「ええい、何をビビってるのよ宇佐見蓮子! 目の前に謎があるなら、それを暴くのが私でしょ!」
自分自身に激を飛ばして無理やり端末に指を叩きつける。ここで引けば、データを見ないことにしたら、何も変わらないと思ったから。この怠惰で不毛で退屈な一ヶ月が永遠に続くような気がした。
変わらないことと、変わること。私なら、後者を選ぶ。選ばなきゃいけないの。それが宇佐見蓮子だから。メリーを迎えに行くのは、他でもない宇佐見蓮子でなきゃいけないの。
端末の操作に連動し、スピーカーが振動する。機械が聞き覚えのある声で喋りだした。
『こんにちは、蓮子』
「メリー!」
スピーカーに話しかけたところで返事なんて返ってくるはずもないのに、思わず叫んでしまった。名前を呼んでしまった。この音声データにメリーの声が録音されていることは容易に想像出来たし、実際そうだと思っていた。それでもその声を聞いたら彼女を名前を呼ばずにはいられなかった。
さっきまで不安を感じていたのが馬鹿らしくなった。ちゃんと、メリーの声だ。ずっと聞きたくて聞きたくて、探し求めたメリーの声だ。それが、機械越しとはいえ私の鼓膜を震わせる。それだけで嬉しかった。
『あなたがこれを聞いているということは、私はもう、貴方の隣にはいないでしょう……なんて、こんな映画でしか聞かないようなセリフを自分が言うなんて思ってもみなかったわ』
「本当よ。メリーには誰かを待っているような役が似合うと思ってたのに、そんなこれから死地に向かうような言葉が出てくるなんて」
スピーカーに向けて言葉を返す。
メリーのその口調は、自分が失踪しているという異常事態にも関わらず、まるでカフェでいつものように話しているような口調だった。優しげで、おっとりしていて、人を安心させる声。私の好きな声。
こうして言葉を返していると、実はメリーは目の前にいるんじゃないかって思ってしまう。
『そして、これを聞いてくれているということは、私はまだ忘れられてなくて、蓮子の中にいるということでもある。……当たってるかしら? 私のうぬぼれでなければいいのだけど』
「うぬぼれなんかじゃないわ……この一ヶ月、メリーがいなくなってからの私がどう過ごしていたか知らないくせに」
スピーカーに向けて言葉を返す。
本当のメリーに届いているかなんてどうでも良かった。ただメリーと話している、それだけで楽しかった。
『さて、話は変わるけど……蓮子は「催眠術」についてどう思う?』
催眠術。
突然現れたその言葉に、どう返していいか分からずに一瞬思考がフリーズした。
『催眠術……紐でぶら下げた5円玉を揺らして「貴方はだんだん眠くなる〜」ってするアレ。一時はテレビで催眠術のヤラセが横行したことで今でも眉唾物だって思っている人も多いけど、リラクゼーションの分野なんかでは今でも積極的に使われたりしてるの』
催眠術。
私も、オカルトティストの端くれとしてそれくらいは知っている。イメージや思い込みで対象をトランス状態にし、見えないはずの無いものを見せたり、異なる認識を受け付けたりする技術。今では心理学の一つとして扱われているが、確かに昔は「うさんくさいもの」でありオカルティストの領分であった。超常的な能力の一つと信じられ、それを扱えるものにはある種の神秘が宿っていた。
私も人のことは言えないが、講義モードに入ったメリーの話は長い。体を拭っていたタオルを洗濯籠に放り込むと、ワークチェアに腰掛ける。長期戦の構えだ。
『さて、そんな催眠術についてなんだけど、相対性精神学では「主観を上書きする技術」という捉え方をしているわ。暗示なんかを使って、対象の五感に働きかけ、上書きする。主観は絶対と考えている相対性精神学において、他者に主観を伝達する手段として期待、あるいは忌避されているの……つまり、これを使えば誰かに見せたいものを見せることが出来る。例えば、夢とか、ね』
夢。
何度も聞かされたメリーの夢。
メリーの夢についてのカウンセリングをしたのもひどく昔のような気がする。メリーの口からその言葉が出るたびに、まだ見ぬ理想郷に心を躍らせ、そしてそれを垣間見るメリーが遠い存在のようで恐怖した。
『そう、私の夢。蓮子が見たいといった、私の夢。妖怪がいて、妖精が空を飛んで、子供が笑う、そんな私の夢。私は今そこにいるの。……ねぇ。蓮子は私の夢……見てみたくはないかしら? 私がそこで見聞きしたのを蓮子に話して聞かせるんじゃない。蓮子が、その目で見るの』
見たい。
見たいに決まってるじゃない。そんな、まるで夢のような素敵な世界。メリーだけが見てるなんてずるい。メリーだけが、私をこんなところに置き去りにして別のところに行くなんて、もう絶対にさせないんだから。
『さあ、私の声に全身を預けて。私の言うとおりにしてくれれば、連れて行ってあげる。私の夢に。
まずは大きく深呼吸をして、力を抜いて。夢の世界に現の肉体は不要だから、力を抜いて、肉体を置いていくの。
さあ、息を、吸って、……吐いて。
吸って、……吐いて。
吸って、……吐いて』
言われるがままに呼吸をする。息を吸って、吐く。体の中で暖かい何かが生まれているのと同時に、自分の中から大事なものが口から吐き出されて虚空に消えていくような気がする。
目がトロンとしてきたのが自分でも分かる。そういえばついさっきまで街中をさんざん走り回ってたんだって、今更ながら思い出す。
『吸って、……吐いて。
吸って、……吐いて。
吸って、……吐いて。
……どう? だんだんリラックスしてきたでしょ? そう、それでいいの。何も怖くない。夢を見るのは、とても楽しくて、気持ちよくて、素敵なこと。
蓮子は、次第に瞼が重くなってくる。眠くなってくる。そうして目を閉じたまま、想像して? 京都にはない、緑に溢れた山を。妖精が飛ぶ空を』
私の瞼は自らの意思で動かすことが出来ないくらいピッタリと閉じているのに、うっすらと見える。光が見える。見た事も無い光景のはずなのに、デジャヴを感じた。
ああ、これが夢なんだ。メリーがカフェで話してくれた夢の光景、それをまさに今、私が見ようとしているんだ。
『まだまだ、こんなものじゃないわ。見るだけじゃ終わらない。私の声に身を委ねて。そうしたら、連れていってあげるから。私の夢に。素敵な夢に。
さあ、想像して。蓮子の目の前には湖が広がっている。霧がかった、大きな湖。少し肌寒いけど気持ち良いでしょ?』
そうだ。私は今、湖のほとりに立っているんだ。岸に打ち上げられている、陽の光をキラキラと反射しているのは氷の欠片だろうか。耳をすませばささやかだが波が岸辺を打つ音が聞こえてくる。そういえば、土を踏むのもなんだか久しぶりな気がする。
メリーの声に誘われるまま、私は肉体を科学世紀の京都に置いたまま、意識だけが夢の世界へと足を運んで………………
……………………
………………
…………
……
……
…………
………………
……………………
…………………………蓮子。夢に着いたかしら?
私はここ、夢にいるから。貴方が来るのを、待っているから。だから来て、夢の彼方まで、我が愛しい人。
貴方は、私だけの人。絶対に、あの子 には渡さないから』
自室のベッドの上、寝そべった状態でそんなことを考えた。それがずいぶん久しぶりのような気がした。静かだと感じたことがではない。何かを考えること、それ自体が、だ。
冷蔵庫からは時折恨めしそうなモーター音を吐き、窓の外からは換気扇が室内にまで唸り声のような音を響かせ、部屋を照らす蛍光灯はジジ……という耳障りな音を奏で、隣の住人のテレビの音と品の無い笑い声が薄い学生アパートの壁を揺らす。
それでも、静かだと思った。
環境が静かなのではない。心が、静かなんだ。
§
メリーがいなくなってから一ヶ月が経った。
忽然と。別れの言葉も姿を消す予兆もなく、当たり前のように私のそばにいたはずの彼女は、最初から居なかったように私のそばから消えていた。
もちろん、メリーを探した。私も、彼女の友人も、警察だって。それでも彼女は見つからないまま、一ヶ月という時間だけが過ぎた。
「今の私を見たら、メリーはどう思うのかしら」
呟く。
その呟きを聞いてくれる友人は、今の私にはいない。
生来だらしない私を、彼女は気に掛けてくれた。時には料理や掃除をしにわざわざ私の部屋まで来てくれることもあったし、私が不摂生な食事を取ったと知ったら怒ってくれることもあった。そして夜になれば、秘封倶楽部として一緒に活動した。私たちは、二人で一つだった。学部も、住んでる部屋も違うけど、ずっと一緒だった。
「メリーがいないとダメね。私って」
呟く。
その呟きを窘めてくれる隣人は、今の私にはいない。
今の私はあのころ以上に酷いありさまだった。
メリーがいなくなって、探すことを諦めた私に待っていたのは、大学の講義を漠然と受けて、コンビニの一番安い弁当を漫然と食べて、このベッドの上で夜を怠惰に眠って過ごす、そんな生活。
ついこの前の私なら、そんな生き方を絶対に認めなかっただろうに。
「不思議。私、貴方と出会ってから決して長い時間を過ごした訳じゃないのに」
呟く。
その呟きに返してくれる相棒は、今の私にはいない。
心に一切のさざ波を産むことの無い、平凡で平坦で平常な生活。自分の心がどれだけメリーで満たされていたのかが、メリーがいなくなってようやく理解した。大切なものは無くなって初めて分かるなんて月並みな言葉を身を以て知った。
だから、今の私の中は空っぽ。そんな心に波なんて立つはずもない。だって、波紋すら立たないくらい、何も入ってないんだから。
「私は、メリーで溢れてた。メリーに溺れてた。だから、メリーとずっと一緒にいたいって思ったの。本当よ?」
呟く。
その呟きに同意してくれる愛しの人はいない。……もしかしたら恥ずかしがって同意してくれないかもしれないが。
今の私には何もない。
玄関を見る。
あのドアをメリーが開けるのを何度も見た。メリーがドアを開けて、私が「おかえり」と言って、メリーがどこか照れた様子で「ただいま」と帰す。メリーはメリーで別のアパートを借りているから同棲という訳でもないけど、気付けばそうやって言い合うのが当たり前になって、それがとても好きだった。だからメリーがこの部屋に来る時は、決まって私は玄関を見ながら待ち続けた。外で待ち合わせるのは遅刻常習犯だった私だけど、これだけは遅刻していない。私がドアを開けたメリーに初めて「おかえり」と言ったあの日から、メリーがあの扉を開けるのを見逃したことはない。
でも、それも今となっては昔の話。どれだけ玄関を見つめたところで、あのドアを開ける人間は私以外にはいない。
コトン。
そう、私しかいない。そのはずだ。
だから、その音を聞いた時は少し驚いた。私の心に小さな、それでも確かにさざ波が揺れた。
まるで生まれたての小鹿のように……もしくは二日酔いに苦しむ旧型酒飲みのように、よろよろと私は体を起こす。
「……誰?」
千鳥足のまま、玄関へと向かう。
乱雑に脱ぎ捨てられた靴の上。そこに、封筒が落ちていた。便箋用の縦長の物ではなく、正方形の封筒。状況から見るに、誰かがドアの郵便受けにこれを差し込んだようだが……。
「誰かいるの?」
ドアを開けて通路を覗き込む。
アパートの通路はがらんとしており、誰もいない。私が玄関まで移動するのに随分時間が掛かったし、既に階段へ移動してしまったのかもしれない。
私はその『誰か』を探すことを諦め、封筒を手に取った。
固い。触っただけで中のものが少なくとも紙ではないことは自明だった。封筒を改めて見てみれば、そこには差出人どころか宛先も書かれておらず、切手すら貼られていない。
謎。ともすればいたずらとも思えるその封筒から、私は面影のようなものを見た。ただの封筒なのに、懐かしさを感じた。彼女が便箋を書くところを見たわけでもないのに、その姿が心の中に再び浮かび上がった。
「……メリー、なの?」
この科学世紀において、手紙なんてほとんど廃れたといってもいい。速度、精度、費用、個人情報保護、あらゆる観点でEメールに遥かに劣る手紙を好んで使う人間は少ない。今やEメールすらチャットツールの台頭によって衰退しつつあるというのに。
それでも、メリーはそういうのが好きだった。懐古主義、ともいうべきか。ちょっとした一昔前の日常生活の不便さを楽しむのが好きだとよく言い、効率こそ正義だと豪語する私とは意見が合わないこともあった。
この便箋からは、そんなメリーの『らしさ』のようなものを感じたんだ。
「メリー! メリー!? いるんでしょ!?」
慌てて靴を履き、玄関を飛び出す。廊下を走り、階段を駆け下り、駐車場で彼女の名を叫んだ。それでも、そこにいたのは私に奇異の目を向ける同じアパートの住人ばかり。街に飛び出して闇雲に走って、走って。それでもあの綺麗なブロンドの髪、有象無象の人込みの中でも一際輝くあの髪はどこにも見つからない。
しかしながら悲しいことに、ここ一ヶ月の泥のようなだらしない生活で体はすっかり衰えてしまったようで、しばらく走り回っている内に体が言う事を聞かなくなって、足が次第に鈍くなって、ぜえぜえとだらしなく息を吐きながら膝に手をついて立ち止まってしまう。
そこで初めて自分があの封筒を持ったまま、街の中を走り回っていたことに気付く。
いるかも分からない誰かを追いかけるよりも、優先するべきは物的証拠か。
元々自分は諦めが悪いほうだったのに……なんてセリフが頭を過ったが、私はメリーの幻影を追いかけるよりも手の中にいる手掛かりを優先することにした。
近くの路地の入口、そこの壁に寄りかかって封を開ける。その中から出てきたのは、プラスチックで出来た、円盤状の物体。
「……CD? これはまたレトロな。今の京都でこんなの再生出来るのなんてメリーくらいしかいないでしょ……」
中に入っていたのは、これまたオールドメディアになって懐かしい、
より省スペース、大容量の記憶媒体や各種オンライン配信サービスによって、今や見る機会も機械もめっきり減ってしまった媒体、CD。メリーが『こういうの』を使って音楽を聴くのが好きというのは以前から知っていた。CDをプレーヤーにセットして、歌詞カード片手に曲を聞いて、収録されている曲を全て再生したらCDを取り出して次のCDをセットする。曲も歌詞も端末に保存してしまえばそんな手間はかからないのに、メリーはそんな手間を楽しんだ。
『自分で挽いたコーヒーが美味しいのと一緒。そんな手間の一つ一つが、音を素晴らしいものに変えるの。無駄を楽しむのよ』とはメリー談。その話を聞かされるたびに『CDの中はバイナリデータなんだから、音質がいいのはプレーヤーの性能なんじゃないの?』などと返していたが、その考えは物理学者としては良くてもオカルティストとしては間違っていたのかもしれない。万物には神が宿る。コーヒーミルにもカップにもCDにもプレーヤーにも。だったら手間暇かけてより多くの物、即ち神を経由すればするほどコーヒーの味も奏でられる音も神秘性を増すに決まっているというのに。
とはいえ、私はCDプレーヤーを持ってないし、そもそもCDプレーヤーなんてメリーみたいな好事家か骨董屋くらいにしか置いていない。ただ、メリー以外にも心当たりはある。
ポケットから携帯端末を取り出……そうとして部屋に端末を置いたままだったことに今更気が付く。
「……甘いなあ。色々と」
一ヶ月という短いようで長い時は、私から牙やら爪やら奪い去ってしまったようだ。……何かと戦っている訳じゃないけど。かつてプランク並(自称)だったこの頭だって衰えてしまった。今の私には自由に動く……とも言い難いことを先程知ったこの手足しかない。
「それでも、止まってなんていられないじゃない!」
だったら。だから。私は走った。私には手足しかないのなら、それを最大限使うまで。
またメリーを見つけられるなら、手でも足でも何でも使ってやるんだ。
§
「ああ、宇佐見か……どうしたお前?」
「ちゆり……ちょうどよかった。あんたでいいや……CDプレーヤー持ってない?」
「言い方は気になるが……なんだ? お前、音楽にでも目覚めたのか?」
走って走って、たどり着いた先は馴染みの我が大学だった。大学なら音楽を聞くためのCDプレーヤーは無くてもデータを読み書きするためのCDドライブくらいあるだろうと推測したわけだ。
私は息も絶え絶えな状態で、大学の助教授であるちゆりにことのあらましを説明する。彼女も以前からメリーと面識があり、メリーを捜索してくれた一人でもある。
ともすれば戯言のような私の話を、ちゆりは真剣に聞いてくれた。
「つまりあれか。根拠はないがそのCDが失踪したハーンの手掛かりかもしれなくて、中を見たい訳だ」
「そういうこと」
「で、……なぜハーンはそんな回りくどいことをする必要がある? そもそも本当にこれを持ってきたのはハーンなのか?」
「分からないからここに来たのよ。それにメリーの仕業じゃなかったら……それこそ誰がこんなことをするのよ」
私は自分の価値が分からないほど馬鹿じゃない。客観的に見ても人並み、大学の同窓よりは頭脳明晰だとは自覚しているが、逆に言えばそれだけ。所詮私はその程度の人間だ。唯一無二の、この世界の秘密を暴く瞳を持つメリーとは違って。ましては今の私はただの過去に囚われた腑抜け。
だから今、メリーがそばにいない今、私に対して何かアプローチを仕掛けようとする人間がいるとは到底思えない。
私の返しに、ちゆりはどこか訝しげな笑みを見せた。
「そうだな……例えばこんなシナリオはどうだ? この中には音声ではなくコンピュータウィルスが入っている。CDプレーヤーを持たない宇佐見蓮子は私、もしくは夢見様にそのディスクを持ってくる。あとはその怪しいディスクを解析しようとして私らのサーバにウィルスが侵入、研究成果を引っこ抜こうってな。よくあるソーシャルハッキングってやつさ」
「それは……」
「まあ、そういうのにも気をつけろってことだ。今のお前なら、『私メリー、実は事故にあって、相手から示談金払わないと帰してくれないって』とか電話掛かってきたらホイホイ振り込みそうだし」
その評価は不服だが……否定出来ない自分がいる。どうも今の私は、メリーのことで頭がいっぱいらしい。
口を閉ざした私の反応が面白かったのか、ちゆりがニヤニヤとしている。
「まあいいさ。研究室で待ってな。解析終わったらコイツの中身を聞かせてやるよ。なあに、私がウィルスに引っかかるとでも思ってるのか?」
§
研究室で一人、ちゆりの帰りを待つ。
研究室には時間を潰すというにはヘビーな分厚い本も大量にあるが、手に取る気にはならない。手持ち無沙汰だけど、何もするにも落ち着かない。手術の成功を手術室前で待つというのはこんな気分なのだろうか。
そわそわしながら待ち続けていると、扉を開けて研究室にちゆりが入ってきた。時間的には30分も掛かってないだろうが、何時間も待たされていたような気分だ。
「メリーは!?」
叫ぶ私に、ちゆりは冷静に返す。
「落ち着けよ。ここにマエリベリー・ハーンはいないぜ」
「ごめん……それで、CDの中は何だったの」
「ウィルスでも何でもなかったよ。ただの音声データだ。中身はお前の端末に送ったよ。だから今日は帰んな」
「何よそれ……ここで聞けばいいじゃない」
メリーの手がかりかもしれないというのに、ちゆりの態度にはどこかよそよそしさを感じた。
「もしかして、聞いたの?」
ちゆりには図星だったようで、ばつの悪そうな顔を見せた。
「頭だけちょっとな。その上で、私はこれをこれ以上聞くべきじゃないって思った。夢美様に言うべきかも迷ったが、私はあんたと、そしてハーンを尊重して、誰にも言わないと決めた」
「何が言いたいのよ」
「これはな、宇佐見。あんたが、あんただけが聞くべきだよ。これはあんたへ向けられたメッセージであり、あんたの片道切符だ。それを聞いてどうするかは、宇佐見、あんたが決めろ」
「ちゆり……あんた、何を聞いたのよ」
私の言葉に、ちゆりは戸惑い交じりの声を出した。常に自信に満ちている彼女らしくない、などと感じてしまった。
「正直言うと、分からねぇ。普段ならあり得ねぇって一蹴するところだが、妙な説得力があった。……なるほど、確かにこれは
「相対性……精神学」
もちろん知っている。
客観こそ絶対とする物理学と、主観にこそ真実が宿ると謳う相対性精神学。物理専攻の私から見れば眉唾ものだが、同時に一笑に付すことが出来ないということも、相対性精神学を専攻する彼女と同じ時間を過ごしたことでよく知っている。
そう。彼女、メリーと。
またここでメリーの名前が出てきた。
「ちゆりの言いたいことは分かったわ。要は私だけで聞けってことでしょ」
「そういうことだ。私にしてやれるのはこれまで」
「……あんたって、意外と気が回るのね」
「うるさい。意外は余計だ。早く行け」
「ありがとね、ちゆり。あんたに相談して良かった。……待ってて。必ずメリーを連れ戻してくるから」
短く礼を伝えると、研究室を後にする。
そして再び私は走り出す。メリーからのメッセージを受け取るため、自宅へと向かう。どこか近場のネカフェからデータにアクセスすることも出来たが、どうしてもそれをする気にはなれなかった。これは誰にも聞かれない場所で、私一人で聞かなきゃダメだと思ったから。
「…………宇佐見、ちゃんとこっちに帰ってこいよ。お前はこっちの人間なんだからな」
§
「はぁ……はぁ……先にシャワー浴びよ」
また全力疾走で帰ってきた私。息は荒く、全身を汗と疲労感が包み込んでいる。はやる気持ちを抑え、とりあえずシャワーで一度リセットすることにした。
服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。熱いくらいの湯が出てびっくりしたが、今はそれくらいが気持ち良かった。それくらいでないと、この体にまとわりつくような汗と疲労感は洗い落とせないような、そんな気がしたから。
「さて、と……」
そうしてしばらくして私は風呂場から出る。
タオルで雫を拭き取りながら、端末片手にふと思考が冷静になる。
いや、認めたくはないが躊躇しているのかもしれない。データのダウンロードは完了していて、タップするだけで部屋のスピーカーからはCDに記録されていた音声がすぐにでも流れ出すというのに、それが出来ないでいる。
指を動かそうとすると、ちゆりの顔がよぎって指が止まる。何か、これを聞いてしまえば後に戻れないような、そんな気がして…………、
「ええい、何をビビってるのよ宇佐見蓮子! 目の前に謎があるなら、それを暴くのが私でしょ!」
自分自身に激を飛ばして無理やり端末に指を叩きつける。ここで引けば、データを見ないことにしたら、何も変わらないと思ったから。この怠惰で不毛で退屈な一ヶ月が永遠に続くような気がした。
変わらないことと、変わること。私なら、後者を選ぶ。選ばなきゃいけないの。それが宇佐見蓮子だから。メリーを迎えに行くのは、他でもない宇佐見蓮子でなきゃいけないの。
端末の操作に連動し、スピーカーが振動する。機械が聞き覚えのある声で喋りだした。
『こんにちは、蓮子』
「メリー!」
スピーカーに話しかけたところで返事なんて返ってくるはずもないのに、思わず叫んでしまった。名前を呼んでしまった。この音声データにメリーの声が録音されていることは容易に想像出来たし、実際そうだと思っていた。それでもその声を聞いたら彼女を名前を呼ばずにはいられなかった。
さっきまで不安を感じていたのが馬鹿らしくなった。ちゃんと、メリーの声だ。ずっと聞きたくて聞きたくて、探し求めたメリーの声だ。それが、機械越しとはいえ私の鼓膜を震わせる。それだけで嬉しかった。
『あなたがこれを聞いているということは、私はもう、貴方の隣にはいないでしょう……なんて、こんな映画でしか聞かないようなセリフを自分が言うなんて思ってもみなかったわ』
「本当よ。メリーには誰かを待っているような役が似合うと思ってたのに、そんなこれから死地に向かうような言葉が出てくるなんて」
スピーカーに向けて言葉を返す。
メリーのその口調は、自分が失踪しているという異常事態にも関わらず、まるでカフェでいつものように話しているような口調だった。優しげで、おっとりしていて、人を安心させる声。私の好きな声。
こうして言葉を返していると、実はメリーは目の前にいるんじゃないかって思ってしまう。
『そして、これを聞いてくれているということは、私はまだ忘れられてなくて、蓮子の中にいるということでもある。……当たってるかしら? 私のうぬぼれでなければいいのだけど』
「うぬぼれなんかじゃないわ……この一ヶ月、メリーがいなくなってからの私がどう過ごしていたか知らないくせに」
スピーカーに向けて言葉を返す。
本当のメリーに届いているかなんてどうでも良かった。ただメリーと話している、それだけで楽しかった。
『さて、話は変わるけど……蓮子は「催眠術」についてどう思う?』
催眠術。
突然現れたその言葉に、どう返していいか分からずに一瞬思考がフリーズした。
『催眠術……紐でぶら下げた5円玉を揺らして「貴方はだんだん眠くなる〜」ってするアレ。一時はテレビで催眠術のヤラセが横行したことで今でも眉唾物だって思っている人も多いけど、リラクゼーションの分野なんかでは今でも積極的に使われたりしてるの』
催眠術。
私も、オカルトティストの端くれとしてそれくらいは知っている。イメージや思い込みで対象をトランス状態にし、見えないはずの無いものを見せたり、異なる認識を受け付けたりする技術。今では心理学の一つとして扱われているが、確かに昔は「うさんくさいもの」でありオカルティストの領分であった。超常的な能力の一つと信じられ、それを扱えるものにはある種の神秘が宿っていた。
私も人のことは言えないが、講義モードに入ったメリーの話は長い。体を拭っていたタオルを洗濯籠に放り込むと、ワークチェアに腰掛ける。長期戦の構えだ。
『さて、そんな催眠術についてなんだけど、相対性精神学では「主観を上書きする技術」という捉え方をしているわ。暗示なんかを使って、対象の五感に働きかけ、上書きする。主観は絶対と考えている相対性精神学において、他者に主観を伝達する手段として期待、あるいは忌避されているの……つまり、これを使えば誰かに見せたいものを見せることが出来る。例えば、夢とか、ね』
夢。
何度も聞かされたメリーの夢。
メリーの夢についてのカウンセリングをしたのもひどく昔のような気がする。メリーの口からその言葉が出るたびに、まだ見ぬ理想郷に心を躍らせ、そしてそれを垣間見るメリーが遠い存在のようで恐怖した。
『そう、私の夢。蓮子が見たいといった、私の夢。妖怪がいて、妖精が空を飛んで、子供が笑う、そんな私の夢。私は今そこにいるの。……ねぇ。蓮子は私の夢……見てみたくはないかしら? 私がそこで見聞きしたのを蓮子に話して聞かせるんじゃない。蓮子が、その目で見るの』
見たい。
見たいに決まってるじゃない。そんな、まるで夢のような素敵な世界。メリーだけが見てるなんてずるい。メリーだけが、私をこんなところに置き去りにして別のところに行くなんて、もう絶対にさせないんだから。
『さあ、私の声に全身を預けて。私の言うとおりにしてくれれば、連れて行ってあげる。私の夢に。
まずは大きく深呼吸をして、力を抜いて。夢の世界に現の肉体は不要だから、力を抜いて、肉体を置いていくの。
さあ、息を、吸って、……吐いて。
吸って、……吐いて。
吸って、……吐いて』
言われるがままに呼吸をする。息を吸って、吐く。体の中で暖かい何かが生まれているのと同時に、自分の中から大事なものが口から吐き出されて虚空に消えていくような気がする。
目がトロンとしてきたのが自分でも分かる。そういえばついさっきまで街中をさんざん走り回ってたんだって、今更ながら思い出す。
『吸って、……吐いて。
吸って、……吐いて。
吸って、……吐いて。
……どう? だんだんリラックスしてきたでしょ? そう、それでいいの。何も怖くない。夢を見るのは、とても楽しくて、気持ちよくて、素敵なこと。
蓮子は、次第に瞼が重くなってくる。眠くなってくる。そうして目を閉じたまま、想像して? 京都にはない、緑に溢れた山を。妖精が飛ぶ空を』
私の瞼は自らの意思で動かすことが出来ないくらいピッタリと閉じているのに、うっすらと見える。光が見える。見た事も無い光景のはずなのに、デジャヴを感じた。
ああ、これが夢なんだ。メリーがカフェで話してくれた夢の光景、それをまさに今、私が見ようとしているんだ。
『まだまだ、こんなものじゃないわ。見るだけじゃ終わらない。私の声に身を委ねて。そうしたら、連れていってあげるから。私の夢に。素敵な夢に。
さあ、想像して。蓮子の目の前には湖が広がっている。霧がかった、大きな湖。少し肌寒いけど気持ち良いでしょ?』
そうだ。私は今、湖のほとりに立っているんだ。岸に打ち上げられている、陽の光をキラキラと反射しているのは氷の欠片だろうか。耳をすませばささやかだが波が岸辺を打つ音が聞こえてくる。そういえば、土を踏むのもなんだか久しぶりな気がする。
メリーの声に誘われるまま、私は肉体を科学世紀の京都に置いたまま、意識だけが夢の世界へと足を運んで………………
……………………
………………
…………
……
……
…………
………………
……………………
…………………………蓮子。夢に着いたかしら?
私はここ、夢にいるから。貴方が来るのを、待っているから。だから来て、夢の彼方まで、我が愛しい人。
貴方は、私だけの人。絶対に、
よかったです
透き通った闇の深い作品でした。良いですね。
最後まで深く惹きつけられてとても良かったです。
これ誰だったんでしょう
よかったです
面白いラストでした