Coolier - 新生・東方創想話

i really really really...

2020/05/18 00:20:08
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「どうしてこういうことするの? 楽しみにしていなかったけど、食べたかったのよ」
 メリーの買ってきたニガヨモギ(のフレーバーとして認知されている)アイスをのつこつ半分なんとか食べてソファーで動画共有サービスを垂れ流していた私は、その残骸を見つけた彼女に激怒されていた。
「たかがまずいアイスじゃない」
「問題を卑小化してるの? 私への挑戦の表現としてこの行為を象徴的に選んだのでしょ? 今更そんな逃げをしないで、戦いましょうよ、ねぇ」
「本当にまずかったわよ」
「何か喋ってる? 私が帰る前にちょっと気を効かせて買いに行けば良かったでしょ。それなのに何? 日がな一日ソファーで打ち上げられたトドの真似をしてただけじゃない」
「ごめんってばぁ、悪いと思っているから」
「シャワー浴びるから。ばっかじゃないの! そのままぶつぶつ壁に向かってドブ川のガス泡みたいな懺悔をしてればいいわ。この機会に言っておくけど、蓮子には感情がないみたいだから、これから何かしつけするときにはぶん殴ってやることに決めたからね」 
 ぐいと襟ぐりを掴みあげてきて、顔を近づける。
 私は涙で顔をぐしゃぐしゃにした。気分になって謝った。
「メリー、謝るから許してよぉ、襟首伸びる、伸びるって。……ははっ」
 昔の地上派テレビのバラエティ番組を横目にしていた私は、その芸人が掌から屁の音を出し埴生の宿を奏でたことにロックを感じてしまって思わず吹き出してしまった。
「死ねっ」
 そう言ってメリーは私を突き放して浴室へと向かった。
「はぁ」
 わたしは暇つぶしに大学から盗んできた安いベニヤ板で出来た将棋盤を取り出す。
「はやく出てこないかな」
 そう、メリーにどうしても言いたいことがあった。昼寝の夢だ、夢の内容。
 楽しいこと。
 夏のこと。
 冬かもしれない。知らない顔の中、昔の、胎盤を通って、脈々と親子を辿ってきた記憶。いや、たぶん。
 ――そう、誰かの夢、最近ずっと私はそれを見ている。夢を通していつも誰かであり続けている。特に今日の夢は早く伝えたい! 夢の中で彼女はデスクトップパソコンを起動し、駆逐されたブラウザを立ち上げ、レイアウトが古くさい、でも見覚えのあるクラウトストレージサービスのアカウントに画像を保存する。なんとも風情がない夢だが、なんと、夢で見たユーザーでログインできてしまったのだ。



「それがこの画像って訳なの。なんとも夢のあるドリームハッキングね、不正アクセスを理由に逮捕されたら私は関係ないって言い張るわよ」
「ははは。どう、私の夢も捨てたものじゃないでしょ」
「夢の話は私の専売特許だったのにね。猿まねをし始めたのだと思ったら、面白いじゃない」
「メリー、実は今まで夢の話をぐだぐだあなたに聞かされるたび本当にうんざりしていたけれど、これからはもうちょっと楽しそうに聞いてもいいわ」
 机の上には最近描きためた夢のスケッチが散らばっている。奇妙な夢を残そうと突き動かされていた私が、なんとかメリーに伝えようと筆をとったものだ。
 喜びを共有してもらいたい。そう思えばメリーにもうちょっと優しくてもいいような気がした。
「言い過ぎた? ごめん、メリーの話を聞くのは好きよ」
 そういって頭をぐりぐり服にこすりつけると、身体を揺らしてはじかれる。
「暑苦しい。寝間着が汚れるでしょ」
「なによー」
 宇佐見蓮子の奇妙な夢の舞台を探るのが、我が秘封倶楽部の最もホットな研究課題であった。
 仮説。夢はかつて私のご先祖様が見た光景であり、私の夢は母親やその母親の、そのまた母親から引き継がれてきた遺伝子のファンタジーがふとした弾みで意識に漏れ出したものである。
「夢で見たアカウントだって言ったわよね」
 クリック、クリック、画像を開き続ける。過去のスケッチと同じ光景の画像が何枚か存在していた。 
 その内の一枚、
「この一枚が導いてくれる。ねぇ、似ているわよね、私に、その子が」
 ありふれた子供部屋の、ピンボケの画像。
 撮影日時は最も古い。まだ機能を理解しておらず、消し忘れたのか、位置情報が含まれていた。そして名前も。
「宇佐見菫子?」
 少女は鏡にスマートフォンを向けている。自分を撮影しているのだろう。きっと彼女が宇佐見菫子だ。全身を怪しげなマントで覆っており、メガネの奥は赤ら引く黒闇。視線を落としているのに挑戦的。この子の気持が分かる。自分の可能生から羽ばたこうとしている。鳥のもどかしさと戦っているのだ。悪くない暗示だった、私は私一人で人生に横たわっている訳でもなく薄皮一枚下にはあらゆる人間の意思がごっちゃ煮になって詰っているのだ。とても良い傾向だ。
 素晴らしい! まぁ、今日の所は。
「そう、これ、やっぱり私のご先祖様よね。サービスが生きていた。ログインもできたし。それで、気が動転して、絶対食べないまずくて冷たいものを食べようと思って。ごめんね」
「……その話題をまだ引っ張るの? しかも自分から」
 メリーは私の図太さに戦慄したように顔面を少し離した。
 モニターには似たようで見知らぬ少女、その頬の輪郭を指先で触れていく。
「蓮子、今なら許すわ。全部ウソなのでしょう。信じやすいメリーさんを謀ろうとしているだけ」
「言ってみただけでしょ?」
「もちろん。蓮子は記憶を引き継いでいる。でもどうして」
「まぁまぁ。急かず、確実にいきましょう」
「いっぱいあるわね。これは花火? 違う、魔法? そうよ、これきっと魔法だわ。撃ち合ってる?」
 続く画像は不思議な少女たちのものばかり。音が聞こえ、脈動が指先から伝わってくる。色とりどりの光線が満眼夜空にまたたき、淡い乳白色の星屑が四顧降り注ぐ中を飛び回り、朝霧を逍遥し、万籟死した闇を伝い、月の出潮に泳いでいる。
「この子、蓮子に似てるわ」
「菫子のこと?」
「その娘も、でも、この娘も」
「ああ、この娘ね」
 巫女が空に浮いている。連続した画像。符の尾を広げ、紅白の紙が膨大な数で写真を染めている。閉じつ開きつ、近づき遠のき遊びながら、まるで天頂の絶ち線を滑るように、夜気の艶めく薄皮を切り裂き血塊を降り散らしながら弧を描くように、軌跡が光の瞬きに滲む。画像を遷移するたび近づく、捕食者の笑みが近づく、被写体はきっと仲が良かったのだろう。最後の一枚、瞼の線まで見える距離にまで、バカにした、でも邪気のないしたり顔で御幣を振り下ろす姿。
「っていうか、私じゃない?」
「凄くない? 蓮子が巫女さんになって空を飛んでいるわ。それに、他の子、耳、尻尾、きっと妖怪よ。羽根の生えた少女たちはどこかに居るのよ。でも、こんなタイミングってある? 偶然だと思う?」
「まさか、画像の位置情報がここだとはね」
 私たちは何の話をしているのか。もちろん次の旅行の話だ。宇佐見菫子氏の自撮り画像の位置情報はダム底の廃村を示していたのだが、なんと近年希な大干ばつによりダム底が干上がってしまったというニュースがつい数日前より話題になっているのだった。
 メリーは厳粛な声を出した。
「むむ、舞い込んだわ、異界の扉が開いたという御来示が。私の能力から、ぴろりんとね」
「はいはい」
「運命かしら、どうかしら。偶然であればあるほど人間って運命だと思い込むのよね」
「行けってことでしょ。もしかしたら、この写真の世界へも」
「ちょっと待って、ここ、前回ログイン日」
「一週間前……」
 押し寄せる好奇心に煽られるように気炎万丈、探索への欲求がふくれあがるのだった。
 私はメリーの腕を引く。
「ねーねー」
 何か言う前にメリーが答えた。
「いやよ」
「何を頼もうとしているのが分かっちゃった?」
「いいえ、一応聞いてあげるわ」
「お金欲しいな。旅行代」
 メリーはげろげろと鳴いた。(本当にそんな声を出したのだ)
「欲しいよ」
 甘えるように追い打ちをかける。
「お金お金、メリーのお金ほしい」
「あーうるさいうるさい。ダム底に沈めるわよ。毎年一回はこっちから話しかけに行ってあげるから」
「銭の光より仏の光っていうじゃない」
「逆よ」
「そう、えい」
 私はメリーの頭をわしゃわしゃ撫でて腹にぷーと息をしてのしかかってごろごろした。
「犬猫はこうしてあげると喜ぶのに、どうしてメリーは喜ばないの?」
 すべすべのお腹が気持ち良く、埴生の宿を吹こうとぷっ、ぷっと柔らかい臍の周りに顔を埋める。
「死ねっ!」
私は蹴倒されて天井の明りを見つめた。
「うそよ。いつでも、本当に迷惑をかけたりしないわ。知ってるでしょ?」
「アイス」
「明後日出ましょ、即断即決、雨が降る前よ」



 ヘドロと熱射の組み合わせは風情がないこともないが、もしこの光景が切り取られるとしたら涼しい部屋で真夏について夢見心地に詩神の恩寵を得ようとしている時だけだ。
 時と場合というものがある。即ち、ここでは歩格の彫琢は生を庇護しない。ここではただ氷水が歯に疼痛を与え、舌を締め、喉をゴリゴリと押し通り、胃から横っ腹へジンと届く感触の叙事詩としてのみ詩の恍惚鄕が与えられるだろう。
 とぼとぼと表土の乾いた岸辺を歩く。
 両手を広げ、天を仰ぐ。
「ここは金星よ。テラフォーミングが必要だわ。私の帽子の上に卵を落としたら簡単に目玉焼きが作れるでしょう。どうして人間なら大丈夫だと思うのかしら。メリー、もう無理よ。あとはひとりでお願い。私はそろそろ随徳寺を決めることにするわ」
「蓮子、私の体温をこれ以上あげないで」
「分かったわよ。じゃあ逆はどう? あとは私がするから、メリーは帰っていいわ」
「本当?」
「ええ当然、私は都合のいい女ですから」
「くひゃー」
 メリーが大げさにのけぞって、変な叫び声をあげた。
「滑稽な台詞ね。あー恥ずかし」
「ウソに決まってるでしょ」
 睡余のまだるさと喉の渇きは最悪の結婚だ。この誰も望んでいない結婚式に招待された人間が私たちだ。何故人間は限界があるのか。昔からあるから今もあるのか、実は無視しても何の問題もないのか、かなりどうでもいい話し合いが行われた。
「あ、あれ」
 見覚えがある光景だ。
 ちょうどニュースではその場所が干上がったダム底から復活した村落として紹介されていた。もちろん撮影クルーの冒険によってではなく、空撮によって。
「位置情報はここで合っている?」
「さぁ」
「あんよがじょうずね」
「えぇ」
「調べろ」
 メリーの暗い声にウインクで応えた私はタブレットに保存してある画像データからロケーションを探る。
「この上ね」
「上」
「むむ、私の能力によれば傾斜角は十度ってところね」
 土臭い雑草の布団から恥ずかしげにアスファルトが露出し、羞恥に焼けた黒い肌からさわり心地のいい輻射熱が頬を撫でていく。
 錆びたガードレールが山道へと伸び、遠くへ消えていく。遠く、とても遠く。
 蝉、蝉、それと蝉。紫外線の妖精が踊り狂い、腐泥の悪臭が鼻孔でべたべたの換気扇の油汚れみたいに貼りついている。抜けるような蒼天の単色おびただしく、無人の空間はうみへび座の広さ。
 もうすぐ行き倒れだ。私の魂はドス黒く浮腫に塗れ潰爛している。




 砕けた家の中庭で私たちは幽霊と出会った。
「幽霊よ」
「幽霊ね」
「女子高生よ!」
「宇佐見菫子でしょう」
「どうして知っているの?」
 幽霊種族の宇佐見菫子は目をパチパチとさせて不思議を示すアイコンとなった。
「だって、あなたの真下から掘り起こした生徒手帳には宇佐見菫子と書かれてあるけど? まぁ顔を見れば分かるけど」
「きゃー蓮子、幽霊よ。触ってもいい? あらぁー、あらあら、すごいわよ、通り抜けるわ」
 メリーが目を輝かせて宇佐見蓮子であろう幽霊の身体に手を透かした。制服のボタンを越えて背中からメリーの指が覗いている。
 そうして暫く菫子の身体の中を蹂躙すると首を傾げる。
「ちょっと冷たいような気が、案外、しないわね。私の家に来て体温計で温度を測ってちょうだい。強風にした扇風機の前に立ってもらっていいかしら、いえ、電気ショックを与えても大丈夫か試してみたいわ。電子レンジに入ってくださる?」
「あ、いや、嫌よ、さわらないでよ。感覚はあるんだからね」
 背筋を振わせて陵辱に耐えていた菫子が正気を取り戻し、メリーから離れて身体を抱く。
「身体を貫通していたわよ。痛くないの?」
「ほら、教えてあげるわ」
 私の額に菫子の手が入ってきて、脳を貫通して裏側へ飛び出る。浮遊感にも似た感覚が背筋を走った。
「なるほどお互い尊厳を持って話し合いましょう」
 掘り返した穴にはマント、チープな材質の銃、小筒に、箒、陰陽玉といったガラクタが転がっている。
 宇佐見と表札のかかった家は無常にも廃屋となり、建造物の一形態というよりもむしろ自然の一形態として存在していた。
「ここが人里だったとはねぇ」
「なんだか景色が違うんだけど」
 菫子はきょろきょろと周囲を眺め、肩を落とした。
「えーと、ねぇ、もしかして、今って結構未来なの? まぁそうなのでしょうね。家だってボロボロだし、長いこと眠っていた気がするし」
「目覚ましアラームを忘れたのが悪いのでしょ。それより、大発見よ。私の卒業論文って呼んでいい?」
 菫子の視線が少し変わる。そう、あれはよく私が受ける視線だ。天才を受容できなくて、無視することで自己防衛する凡人の視線だ。人間が一度そうなると私が何を言っても誰の頭のインク壺や唇のペン先も費やされない傾向となる。
「やっぱりここ、菫子さんの家なの」
 メリーの質問に彼女が頷く。
「そうだけど」
 被せて問う。
「ところで幽霊さん。何か私達に伝えたいことってあったりする?」
「何も」
「そうなの。幽霊っぽくないわね」
 ご先祖様が宇佐見蓮子が視る夢を巡る謎について、快刀乱麻、万機に渉って裁断するだろう。という期待がなかった訳ではない。
 だがこの運命の焦らすような甘噛みは呼び水となり、より探求心を煽ることとなるだろう。
「っていうか、あなたたち、誰よ」
 菫子はメリーのほうを見て言った。
「私はマエリベリー・ハーン。こっちは蓮子、宇佐見蓮子」
「宇佐見?」
 おずおずと私を見る彼女。
「宇佐見さんとでも呼びあってみる? 私たちは、あー、菫子、さん、菫子おばあちゃん? 宇佐見族長? ってなんだか呼び方が合っているか分からないけれど、ここには、ご先祖様であるあんたを探して訪れたって訳」
「菫子でいいわ。つまりあなたは子孫? 私に子供なんて居たっけ? 居たかも、ああ、居たわね。でもちゃんと調べて言ってる?」
 見た目年下の子供に痛いところを突かれた私は誤魔化すように大声を出した。
「凄い発見! 私ね、ここ最近、夢が他人の思い出を覗いているようだったの。そしたら夢と同じ景色をあなたの撮った画像で見つけてね」
「回顧的錯覚ね」
 なかなか腹の立つ言い回しをする娘だ。本裔世数の具合は知らないが、確かに繋がりを認めてやってもよいだろう。
「錯覚じゃなく、あなたのクラウドストレージの画像の位置情報を頼ってここまで来たけれど、それがほら、ここってダム底なの。今年は干ばつで全国水不足。ニュースで実家の写真と同じ光景が干上がったダム底として写っているじゃない。夢と現実が見計らったように符号するチャンス、運命でしょ、これ、幽霊も出てくるし、ガラクタは見付かるし、暑いし喉渇いたし、凄くない!? これからどうなっちゃうんだろう、あぁ、教授よ、蓮子教授になるわ私は。生きて帰られたら。そうスペクター菫子さん、その、地縛霊的なものでなければ、涼しいところでお話したいのだけれど」
 菫子はため息をついた。
「どこへでも行くわ。それに、歩きながらでも話はできるもの」
「大丈夫、おうち、見なくていい?」
「別に。私は菫子本人というより、彼女の持ち物の付喪神みたいなものだから」
「本人じゃないのに菫子なんだ。」
「別にいいでしょ。だいたい同じよ。思い出よ、少女時代の菫子。大人になった菫子と分かたれたもの」
 地面に散らばった遺品とおぼしきオカルトグッズを指す。
 目に付いた石を取り上げた。裸のコンクリートをくりぬいたようなつまらないものだ。
 だが他のおもちゃめいたものと違い、ただの石であるところが気になって太陽に向けたり匂いを嗅いだりする。
「それが私の本体よ」
「じゃ、リュックにこれ、詰めて学会に報告するわね」
「結構よ」
 そう言って菫子は手を使わず荷物を浮かばせた。
「こうやって、自分で持つからね」
「蓮子の地味な能力とはひと味違うわね」
「念動力! すごい、魔女だったの?」
 菫子のメガネが光った。
「へぇ、魔女って何? 男権性以前の社会における魔女、ギリシャ・ローマ男権制の魔女、キリスト教中世の魔女、近代西洋儀式魔術の魔女、現代の新異教主義の魔女のどれ? 私は悪魔を呼び出しつつある傍らで、ヘカテーやディアナを参照したり、ストリンゲンやドワーフを使役し、黄金の夜明け団謹製の様式を踏襲するの? 違うわ。これは私の力よ」
「さすが菫子教授って褒めたほうがいい?」
「蓮子の血を感じるわね」
「で、あんたたちは何かできるの?」
 鼻で笑って私たちを指差した。
「私は時間と場所が分かる。メリーは結界暴きができる。ものを浮かばせたりできないわ」
 素直に信じたのか、バカにすると思えば驚きの表情で私たちを見た。
「へー、外の世界にもそんな人が居たなんて」
「あなたから力を受け継いだのかしら」
「そんな能力私にはないけど、まぁ信じるわ。何に使えるのかは分からないけれど、私が見えているのだし。それに」
 菫子が地味な石を取り出す。それは私が触れたときとは違い、怪しく光っていた。石はふよふよと独りでに動き始める。
 それは往路とは逆方向を指す。
「ほうら、お導きよ。お二人さん、ちょっと寄らない?」
「凄い! 電気もなしに発光して浮遊するなんて。幽霊なんて呼んでごめんね。あなたは私をエネルギー王にしてくれる使者だったのね」
 暑さで茹だる頭にまかせた口先のジョークは黙殺された。


 そういって私たちは近くの神社へとやってきた。
 光の縞が割れ、再び地味な石に戻る。
「はい到着」
「ここは水に沈まなかったのね」
「おかげで草が鳥居にのれんみたいになってるけれど」
「下、くぐる? 倒壊寸前だけど」
 近くまできた私たちは蜘蛛の巣がたかるそれを指さす。
 神社もやはり自然の一部と化しており、倒壊した柱や屋根が嵐やケモノに倒され折れ曲がり伸びゆく木の芽のように、有機的な浸食を持って庭の造形に野性味を加えていた。
 鳥居に至っては半病人が尻餅をつく寸前、写真家が奇跡のタイミングで時に閉じ込めたといった体であり、生ぬるい風のもとでぐらぐらと動的な印象を保ちながら、じっと太陽に虐められていた。
「で、幻想郷に繋がってるって?」
 土が見えた石畳の草くれを根から刮げ、振りながら匂いを嗅ぐ。濃厚な緑。
 菫子はくどいというふうに繰返す。
「百万回言ったでしょ」
 メリーが驚きの声をあげた。
「蓮子、確かに境界があるわ」
「幻想郷って、花火みたいな空を飛ぶ妖怪たちの世界のことよね」
「そうよ。怖がらないの」
 菫子が私たちをまじまじと見る。
「むしろ、楽しみね」
「そう」
 それっきり。
 試しにそのまま菫子をじっと見つめ、何も言わないでおくと、そのまま菫子も私を見続ける。私は自分の顔を指さす。
「よだれのあとでもついているかな?」
 頬を擦った。
「そうじゃないわ、ちょっとあなたたち二人が、知り合いに似てただけ。まぁ今から幻想郷行くし、別にいいけれど。あとあなたに関しては、ブスを食べたようなしまりのない顔つきをしているな、と思っただけよ」
「あっそ、でも菫子が容色について一家言もつことは自暴自棄にあたるんじゃないかしら。その知り合いも同じ意見よ」
 まぁまぁとご機嫌で仲裁するメリー。
「どちらもかわいいわよ。ねぇ蓮子、年を取らないなら私たちも幽霊になりましょうよ。ほら、手を繋いで。菫子さんも。気持、ほら、気持手を繋いでる感を出して。指先を触れあわせて。これが私たちのやり方なのよ、ちゃんと守ってね」
「はい、ん、難しいわね、指先を当てるのって、ちょっと、手、動かないで」
 そのまぬけ顔を見ていると、貴重な情動の飼料がますます失われていくようだった。
「三人でくっつけばいいでしょ」
 そうして肩を寄せ合う。
「だいたい今更だけど、私という立派な子孫に出会えた感慨ってないの? 孫だって目に入れて痛くないのよ。その何倍もの親愛感に圧倒されてもいいでしょ。どうしてメリーに優しいの、気に入らない」
 できるだけ匂いのしない乾いた木の枝で草を避けて通る。が、なにも起らない。
「ねぇ、跨いだ?」
「あ、いえ、いま結界を越えたわ。ここはもうヌルヌルとしたヘドロの地獄じゃない」
「で、ここはどこなの」
 地球でしょ、などということをいう奴が居たら殴ってやろうと待ち構えるが、誰も答えなかった。
 古朽なる安普請の長屋が櫛比して佇立しており、溝には腐敗した汚水が停留している。私たちは歩みを進める。
「なんとなく、所得の低そうな一帯ね」
後を見れば、打って変わって二階建ての江戸時代のセットのような町並み。だが閑散としてる。恐らく夜の町の昼の顔だ。不潔な藻が繁殖している日陰の汚涜を跨いで、狭斜の盛りを彷徨する。
「なんか治安が悪そうじゃない?」
 きょろきょろと周囲を見渡す。
「菫子は」
「蓮子、後」
 メリーが指さす。
 振り返ると菫子が居なかった。
「居ないじゃない」
「違う。あ、また後に移った」
 再度振り返る。
「あら、見付かりましたわ。お懐かしい匂いの人」
 菫子の代りにメリーが二人になっていた。
「菫子は」
「あらら。菫子さん。聞いたことのあるお名前ね。ならば、そう、きっと、こちらには来られませんわ」
「どうして」
「そちらの世界の幻想ですから。では自己紹介を。私の名前は八雲紫です」
「宇佐見蓮子です」
「マエリベリー・ハーンです」
「まぁ、なんて礼儀正しいこどもたち! 是非我が家で休憩をしていきませんか!? ほら、イリュージョンもありますよ!」
 返事を待たず彼女に手を引かれ、みょみょみょと音を立て紫色をした生ぬるく濡れた感じの空間に放り込まれた。



「あー食べた食べた」
 開け放しの襖から吹き込む円満なそよ風が、食後の甘い呼気を循環させる。
 清涼な外気が喉元を乾かしていく味を楽しみ、私は大きく伸びをした。肺の奥から、食後の血液で熱された、粘性を帯びた湿り気が追い出される。
 意外にも健啖家であった八雲紫さんは湯飲みを傾けて一服し、膳に茶碗を置いた。
 消化が始まり、身体に栄養が行き渡る気配を感じた。がつがつと胃に詰め込みすぎたのか、飽食の甘い揺り戻しにふらつく視界がじわりと白くぼやけていく。所詮一時の身体の変調と分かってはいたが、眠りは持ち提げならない誘惑として私の瞼を苛むのだった。
 中庭では九尾の狐が枝切りばさみを持って庭を整えていた。私たちに気付くと笑顔で会釈をする。
「えー、本物。九尾の狐」
 私たちを救いだした家主は自慢げな顔をした。
「本物も本物。お金を出しても買えるものではないですわ。仕事中なので、構わないであげてくださいね」
 コルク栓を抜き取る軽い音が私の魂を刺激する。
 そうしてワイングラスに深い赤紫色をした液体が注がれる。
「これも本物?」
「本物よ。こちらはお金を出せば買えますわ」
 ごくり、と喉が鳴る。
「では、可愛いお客さまとの出会いを祝して」
 杯を掲げて、傾ける。この瞬間、私から辛かったことが吹き飛んだ。明日の百より今日の五十。どうせ私も死ぬのだ、今を楽しめ。蜻蛉、朝霧、泡沫、胡蝶の夢、ゴム風船の美しきかな。枚挙に暇がない、そうだとも、今日在って明日無き命、仮の現はじつに儚い。薔薇の雨を降らせ、酒の噴水をあげよう。人生を宴にしよう、消尽こそが人生の本懐なのだ。
 そうして私とメリーは、八雲紫と名乗るメリーそっくりの妖怪との催合で円かなるアルコールの夢路につくのだった。
「すっごーい、おいし」
 満面の笑みで八雲紫を見つめながら、グラスの縁を小枝をついばむように口にした。透き通った紫色の液体を飲み下す。
 おおげさなんだから、とメリーは呆れたように微笑むと自身も杯を傾けた。あ、なんとなく馴れた雰囲気を出してるな、腹が立つ。そういうの自然体じゃないから恥ずかしいんだぞ。
「嗜好品としてのお酒は、むしろあなたの時代のほうが洗練されているわ。手が出ないでしょうけれどね」
 苦笑しながら八雲紫さんは一息で飲み干した私のグラスにおかわりを入れてくれる。私はまたそれをごくごくと飲みきった。舌の上でスキップするという体験は初めてだ。
「いくらでもいけるわね。はいおかわり」
「あのう蓮子さん、私も結構これを楽しみにしていたのですが」
「亭主一杯客三杯って言うでしょ」
「そうだったかしら」
「ねぇ、紫さんお願い」
「仕方ないわね。じゃあ私のこと、紫って呼び捨てにしてくださる」
「紫、ほら。はやくしなさいよ紫」
 ピンときた私は顎をあげて空のグラスを寄せると、まんざらでもなさそうに首を振って継ぎ足してくれた。自慢じゃないが、ねだられたそうな年上におねだりするのに馴れているのだ。
「そういえば菫子の残したデータに幻想郷の画像があったわね。いつ彼女は幻想郷に来たの」
「遠い昔、生きてた頃。でも、菫子さんだけではございませんわ。あなたの一族はよくよくここを訪れていますよ。ごらんなさって」
 膝下に慴伏するワインの液面に私の顔が写った。
 液面の私がウインクしたので思わず私は目を剥き、メリーの袖を引く。そのまま液面が揺らぎ、私と似た顔の少女がモンタージュのように形を変えながら、最後にはまた私の顔に戻った。
 メリーも横で口を半分開けてそれを眺めていた。
「何これ」
「ちょっとした魔法です。趣味でしてね。私はこれでも妖怪で、いろんなことができますから」
「彼女たちはだれ」
「まぁ、思い出の友人たちですわ。ご縁があるのです」
 ワインの液面を揺らし、匂いを嗅ぎ、味を確かめてみても別に変わったりしていない。
 もう一度空になったグラスをぶらぶらさせる。メリーに似た妖怪は引きつった笑いをしながら反応しなかったので、私は手酌で勝手に注いだ。
「あ」
「私の一族の来訪者って訳でしょ。全員私と同じか、年下じゃない。大人になってからは誰もが夢から覚めてこんな浮き世離れしたところには来られないって訳?」
「さぁ、知りません」
「ねぇ、あなたがメリーに似てることも、関係あるの。どうなの、ほら、紫、はやく吐きなさい、紫」
「……もちろん。でも蓮子さんと私も似ていますよ。二人とも、三分の一ぐらい。メリーさんは髪の色が同じですから」
 彼女はきっと文化的な教養を与えるため、高級酒を私たちに提供するつもりだったのだろう。彼女の態度にはどこか教育的な年長者ぶったところがあった。だからこのようにガブガブと虎の子を飲まれることになるのだ。私たちは成長期なのだ。
「そういえば、菫子が幽霊になっていたのはどうしてなの。なんだか当人は菫子の持ち物の付喪神だって言ってたけれど」
「菫子さんは、あなたがたが産んだのではないですか。宇佐見蓮子さん、マエリベリー・ハーンさん」
「どういうこと?」
「真夜中には明りを求め、真昼には暗がりを求める。それが人間であればこそ。そう、明らかなる精神こそが私たちを求めるのです。怪異を巡って旅行していませんか? 不思議な体験、たくさんしたのでしょう。あなたたちだけが、それを見つけた、と思っているのなら逆です。あなた方がそれを産み出す力を持っているのですよ。菫子さんを産み出したのもあなた方です」
「えーと、ちょっと待って、私たちがそれを出来るっていう訳? 今までの私たちの探検が自作自演で、この世の不思議なことが私の周りだけに起っているってこと? 有り得ないでしょう」
「彼女の遺品を掘り起こしたのでしょう」
「それが?」
「縁というものが必要です。空想を何でもかんでも描き出せるのではなく、繋ぎ合わさった境を超えているのですわ」
「菫子もそういう力を持っていたの」
「神秘への渇望の表現は個性があるようですよ。もとを辿れば同じ能力ですが。まあ、色々ですわ」
「へぇ、そんな気がしていたわ。昨日からね。ってことは、お母さんも?」
「ええ、あなたのお母さんもね」
「おばあさんも」
「そうね」
「父は?」
「いいえ」
「なるほどね」
「お察しのようですね。そう、母型の血ですから。幻想郷の外側で産み出せるその境界を越える願望が、そちらの世界にこちらの世界への扉を残してくれているのでしょう。あなた方がこの幻想郷を出て行った子供の裔だからです。ふしぎな目は小さな幻想郷です。名残ですよ。蓮子さんは幻想郷の座標と時間を見ていて、メリーさんの能力は幻想郷と同じ別世界との繋がりを示しています」
 もしかすると、幻想郷に戻りたがっているのでしょうか。そう付け加える。
「私たちの祖先は幻想郷からやってきたってこと?」
「ええ」
 だがその歴史の授業からは、親戚の集いで年寄りから我が家系はお城の大名の兄弟の親戚の末裔なりと昔話をされた百回目と同じ、あの頭がぼんやりとして退屈が充ち満ちる気配しか与えられなかった。
「物憂げな午後にそんなラジオ放送が聞こえてきたところで、感銘を受けて人生観が変わるっていうの? ねぇメリー。力の出自を与えてくれる神恩を謝し、この聖徳を仰がなくちゃ。人は因果という誘惑には弱いからね。でもね、私は私よ、出自がどうだっていうの」
 まだ私のグラスには少しワインが残っている。
 だがそれを飲みきって瓶に最後に残ったワインを注ごうとしたとする気配を察したのだろう。
「まぁ実に感心な意見です。まことご立派な自恃の精神。あなたそっくりな博麗霊夢という住人がかつて居ました。巫女ですわ。彼女が始まりです。興味があれば血筋をお調べすればいかがです。どうせ夏休みの暇な学生なのでしょう」
 八雲紫氏は若干早口で渡世の講釈を完結して私たちを現実世界に放り出した。
「まって、ほら、おかわり。それと、あの花火みたいなの見せ」



「ずっと待ってたの?」
 菫子は鳥居の前で三角座りをしていた。
 何もせずぼーっと黄昏ている。菫子はいじけた目で私たちを見た。
 彼女はそっぽを向いた。
「待ってた。でも別に寂しくなんてないわ。こうしていると」
 菫子は目を閉じて、手を合わせる。
「全ての生物の鼓動が聞こえるの。深遠なるミクロコスモスとマクロコスモスの照応を感じるわ。私もしょせんは偉大なものに連なったデキモノに過ぎないのだという全一の蘊奥を会得することができるのよ」
「会得したら教えてね」
「いいわよ」
 振り返り、スカートをなおす。やや後れて頭を振った。
「やっぱり私だけ、幻想郷にいけないのね」
「で、何してたの」
「だから、精神統一よ」
「うそつきはっけーん」
 私は菫子の頬に指を入れた。
「消えてた? 消えかけてあせってた? 私たちが居ないと消えるんでしょ?」
 メリーがフォローする。
「ごめん、紫さんから聞いた。その、あなた、私たちが産み出しているって」
「さぁ、産んでくれてありがとうって言いなさい」
 菫子は仕返しに私の目に指を突っ込んで脳みそをかき乱す。
「そうよ、産まれたかもね。この辺から」
「あわ、ひっ」
 そして私をじろりと睨み付けると渋々認める。
「確かに。私はただの思い出に過ぎないわ」
結界を超える私たちを見送った彼女は徐々に姿が薄れていったそうだ。だが彼女は別段慌てもせず、受容れているようだった。
「でもいい。そういうものだから」
「あなた博麗霊夢とかいう人知ってるわよね、画像を保存してた巫女の彼女。どうやら血縁関係にあるらしいわよ。八雲紫は知ってるわね。彼女曰く、私達の祖先らしいわ」
「会ったのね。でも、そう、霊夢がね、初耳よ。あぁ、だから似てるのね」
「教えて貰わなかったの。あーかわいそう、ねぇ、どういう関係だったの、ねぇねぇ、友達って言いたいのでしょ」
「……友達よ。紫も、霊夢も。私が決めていいならね。昔はよく幻想郷へ行っていたから」
「へぇ、会ったことあるんだ。え、あれ、そういえば何故、おかしいわ。霊夢って、菫子より昔の人でしょ」
「そうよ」
「蓮子。きっと幻想郷では、時間が混乱しているのよ。私、行ったことある気がする」
 メリーが顎に手を当てて悩んでいる。
 彼女の夢の話が記憶から甦る。あの話だ。ふむ、なるほど。私はそういうこともあるだろうと納得し、菫子をいじめる。
「ねぇ、菫子はいつどうやって死んだの」
 遠慮のない私の質問に彼女は気分を害すよりも先に呆れてしまったようだった。
「いくら聞いたって、覚えていないって言っているでしょ」
「何よ、減るもんじゃなし」
「自分の死に方を気にしたら? ろくな死に方しないのでしょうけれど」
 どうやら私はこれから彼女と仲良くなるために努力が必要であるらしい。
 背筋を反らしておおきく伸びをした。ぐらりと上体を倒し中空にもたれかかる。
「役に立たないわねぇ。とりあえず、帰るわ」
「道案内ぐらいするわよ」
 菫子は先頭に立ち、私たちを一度振り返った。
「幻想郷はどうだった」
「その八雲紫っていう自称妖怪に会ってご飯食べただけ。メリーそっくりだったわよ」
「似てはいるかな。私たちぐらいはね」
 などとぶつぶつ歩きはじめて、迷ったのだった。


 菫子の背中に向かって呟く
「がっかりだわ菫子さん。偉大なる我が祖、のようなもの」
 彼女は一瞬振り返ろうか躊躇った様子があったが、そのまま歩みを進めた。
「土地勘あるって? 自分の死に方も覚えていないのだから、期待はしていなかったわよ。あと五歩歩いたら、菫子、あんたの命と引き換えには進む気はないわよ」
 シュリーマンが例えこの土地で頑張ってみても、何か見つかるとすれば飢えと渇きだけだと1時間で認めてしまうだろう。
 私は体の全ての部分を使って面倒くささを表現する。舞台の上でこれが出来れば天才女優だ。
 隣で蔑んだ表情をしている菫子と呼ばれた存在は透けているので人間じゃなく、しかも浮いているので歩いても疲れない。その存在は私の語彙でいうと、霊的な間抜けということになる。
「確かに私は自分がどうやって死んだのか覚えてないわ。でも、私は就職して子供を産んだし、お母さんは定年まで働いたはずよ。そんなに早死にじゃないわ」
「じゃあその姿は何よ」
 くるりと回ってスカートを翻す。
 ゆっくりと振り返ると、しなを作ってウインクする。
「女子高生よ!」
「はー」
 その痛々しい女の本当の名前は役立たずというのだが、自分では宇佐見菫子と名乗っている。宇佐見菫子とは言うまでもないことだが祖霊であり、その実態は百歩譲って祖霊であり、日々の仕事は祖霊という言葉に対する挑戦である。足の裏がビリビリしている。
 菫子は名前以外に私との関係っぽいところを見つける作業は暗礁に乗り出していて、そのついでにインチキ道案内に乗り出した彼女であるが、その彼女の年季を積んでいるところを敢えて探すとしても、どれほどの年月に渡って増長し続ければこんな厚かましい根性が形成されるのだろう、という疑問が見つかるのが関の山だ。私も我慢の限界だ。あぁー!
「ほら五歩、ちょうど五歩よ。もぉーー! どうなってるのよ一体。あんた、私のミイラが欲しいの、仲間になれって、ねぇ」
「もうちょっと考えて喋ったら?」
「蓮子の代りに謝っておくわ。蓮子は小さい頃息止めゲームを頑張りすぎて脳が半分になっているのよ。皆それを知らないの」
 私は何をするために遭難しているのか。遭難をするために遭難しているのではない。
 唇に入り込んだ汗を舐める。
「死にたくなってくるわね……、しょぼい廃村のクセにこんなに広いのよ。暑い暑い暑い暑い暑い、誰が私をこんなところに呼び寄せたのかしら! こいつは相当手の込んだ嫌がらせね……この前聞いたんだけど、さる世界的な嫌がらせの権威が宇佐見家に居たらしいわよ」
 嫌味を垂れ流してでもおかないと、とてもじゃないがやってられない。髪の毛からぶら下がったり鼻先にべたべた貼りつくクモの巣、 顔面をしつこくうろつく小蠅に似た謎の羽虫が好きではない場合、人間は誰もが常に手を振って歩く運命に服しなければならない。
 道なき道を進む。周囲をできるだけ見ないようにして早足で歩いているのだが、どこから昇ってくるのか二の腕に訳の分からない虫が熱烈なキスをしていた。どうやら今のところ私は虫のエサになるために参上しただけであるようだ。
「うわぁっ、なんじゃこりゃ、いつからイモ虫に羽が生えたのよ」
 慌てて手を振って追い払う。
「ったく、歩く蜂蜜を提供しているようなものね。あんた、土着の虫の神様なんじゃない」
「もうここは見覚えがあるわ。んん……、確か、そう。うまく見つかれば良いのだけれど。ほら、通りに出たわよ。あとはここをまっすぐ行けば、国道に出るわ」
 通りと紹介されたそれは、東南アジアのもっとも草深い村でも単にブッシュと呼ばれるものに違いなかった。
「ふぅん……」
「ほら、見え始めたでしょ」
 草に手を切られ、足下も手元も何も見ず、心を殺して早足で進む私たちの足が硬い舗装道路に辿り着く。
「えーと」
 急に立ち止まった菫子と歩調を合わせて私も立ち止まった。
 菫子は少し悩み、うつむきながら私たちに告げる。
「やっぱり行けない」
「成仏しなさいよ」
 私は手を合わせる。
「ひどい。殺人未遂よ」
「はーめんどくさ。どうして唐突に幽霊と一夏の出会いみたいな演出を?」
 こいつは私に引き留めて欲しいのか? それとももったいぶった態度で何故何故とエサをねだる生徒に教えたいのか? 閉じた唇を芋虫のようにむにむにと蠕動させ、口内に残った呼吸を咀嚼する。肺が吹き上げる外気より湿っぽく暑い蒸気の塊。迂遠なやりとりが大嫌いな私は菫子の顔を近くから覗き込み、息を吹きかけた。
「ふぅー」
「なにすんのよ」
「外が怖いの? 怖いんでしょう。しょぼいわ。自分を置いて過ぎ去っていった時に追いつく勇気がないのね」
「喧嘩売ってるの? あんたへの評価は、ただでさえ重力の終点を見ようとしているのに」
「話したいことがいっぱいあるわ」
「別に、もう聞くことなんてないでしょ。だって私はなにも覚えてないのだもの」
「ふーん」
「腹立つわね」
「話したいことがある、って言ったのよ。聞きたいことじゃないわ。言葉、雑よ」
 行き止まりに到達した。道が溶けるように草むらに消えている。
 正体も知りたくない虫の音が、じりじりと照る日光と振幅を合わせて降り集いていた。
 しかして御言葉は人となり給ひ。
「前から人なつこいペットが欲しかったの。手乗り幽霊よ。エサも寿命もないなんて最高よ」



 結局彼女は私の言葉に気分を害し、付喪神としての本分を全うするため、菫子の家で眠りに付くことに決めてしまった。
 すぐダムには水が満ち、再び彼女に会うことは遠い未来となってしまった。
 彼女はこちらの世界の幻想だということなので、もう一度会うことはできるだろう。もしかすると岸辺で呼びかければクロールで駆けつけるかもしれないが、それを試すよりも前に。
「で、市役所に行って戸籍をかき集めたって訳」
「そうよ」
「結果から言えば博麗霊夢も、宇佐見菫子も居た。そしてお母さんは死んでいた」
「蓮子、あなたのお母様はまだご存命でしょう」
 最初に発行した戸籍には見知らぬ人物が記載されていることはなかったし、母親が死亡したりもしていなかった。
「確かにね」
 と言いながら戸籍をめくる。
「そう思っていたわ。でも戸籍ってね、今の戸籍を調べても何も分からないの。辿っていかなくっちゃいけないの。今の私の戸籍はただの核家族。でもね、一個前のものは、ちゃんと別の母親から私が産まれたって分かるでしょ」
 宇佐見姓は産みの母の姓であった。死亡後に父が再婚し、戸籍を作り直しているので一見綺麗だが、戸籍を辿るとすぐに産みの母の死が分かったのであった。
 調べられる限り集めたカラフルな戸籍の冊子を取り出して、親指で端を抑えて厚みを見せつけるように順に解放していく。自治体によって偽造防止用紙の納入業者が違うのでパラパラめくるととても綺麗なのだ。
「戸籍ってとても難しいわ。改正原戸籍、除籍謄本、様式が変わって改正前の戸籍を辿らないといけないしね。おかげでお小遣いがなくなったわ。まあいいや、そんなことより」
そして私は生まれの秘密を知ったのだった。 
「宇佐見蓮子は連れ子だったの。私の本当の母親はもう死んでいる。だけれどもメリーに慰めてもらおうとは思わない。これは家族の問題だし、どうでもいいことだわ」
 私の出生時の戸籍。母は死亡により、父は宇佐見姓を継続した新戸籍編成により、全員除籍されていることが表形式で簡単に記されていた。
「まあ実際、何と言っていいか分からないわ。傷ついてるの?」
「いいえ。傷ついてはいないわね。傷つくべき?」
「うーん」
 それで終わり。
 私の本来の家系は、女系である。我の強い女性が多いようで、近年には入り婿を取ったり人工授精のシングルマザーであったりで宇佐見という姓が続いている。
 昔は違う姓のこともあったらしい。辿れたのは明治まで途切れなく。そこには博麗霊夢と読めなくもない悪筆が確かに存在していた。母、父は空欄。
「博麗霊夢。これが紫さんが言っていた、幻想郷から出て行ったという人?」
「そのようね」
「でも歴史ロマンに浸るより、もっと強い興味を引く違和感があるわ」
「ほう」
「私のお母さんたちってずっと、寿命じゃなく死んでいることが多いのよ」
「どういうこと」
「ほら、ほとんどの人が二十代で死ぬか、或いは三十代で失踪しているでしょ」
 ふと指先が冷たくなった鼻の頭に触れた、鼻水をかみたくなってカバンを漁るがティッシュは見付からない、ハンカチで誤魔化した。やむにやまれぬ事情、例えば本能、人間の原罪とかそういった理由から、きちんと中身を確認して、顔をしかめる。
 何かが引っかかる。すぐに原因が分かった。
「あ、いま分かったわメリー。皆、子供を産んですぐよ。ねぇ、最初の子供を産んですぐに死んでいない? 失踪した人も、逆算すると、出産後よ」
 宇佐見菫子のことも調べることができた。彼女もまた、同じく出産後に死んでいるのだった。
「ちょっと見せてみて。ほら、私に持たせて、じっくり見るから」
 私はその間、真剣なメリーの表情を見て、飽きたり、見惚れたりしていた。
 メリーは十分ほど格闘しつつ、頷いた。
「怖くない?」
「怖い。でも見たい。ふふ、子供かぁ!」
 メリーの目にうつる私の笑顔が好奇心に取り憑かれ私を興味深く見返していた。メリーの瞳を通して蓮子と蓮子は笑い会う。
「わたし、産むわ」
「本気?」



 そしてまた時は過ぎる。
 家族への愛情が喪失するに従い出産への欲求は高まっていった。
 最近の私はもう殆どのことに興味を失い、ただ自分が子供を産めばどうなるのかということにだけ関心が向いている状態であった。
「はいはい。で、どうするつもり? お相手は?」
繰返された質問に私は今日ついに答えを持っていた。
「ええ、そこで考えたの、方法は二つよメリー。まず一つ目、メリー。私の父親と寝て、その精子を私に頂戴」
「いいわよ」
 あっさりメリーは頷いた。さすが私のメリー!
「いい返事ね」
「蓮子は自分の父親が好きなの?」
「私は親の人形じゃない。そして子供も私の人形じゃない」
「で」
「お互い一人の人間よ。相手を尊重すべきだわ。身近で、コントロールできる他人が父親よ」
「母性に目覚めたのかしら。違うでしょ、産まれた子はどうするのよ」
「何故皆子供を育てたがるのかしら。答えはそれしか生きる意味が見いだせなかったからよ。それが唯一の救いなのよ」
 もちろん私だって考えもなしに言ってる訳じゃない。自らの子を産むことの意味についてちゃんとここ最近検討していたのだ。
 が、私にはそれが特別なことだとはどうしても思えなかった。むしろ、生きる目的のない人間でも子供を作ることで全て許される現代風の阿弥陀思想が世界を支配しているのだと信じるしかなく、子供をかけがえのないものだと感じるよう強いる有形無形の圧力に飽き飽きしていた。
「殺してやるわ。苦しまないように優しく生を終わらせてあげるの。そう、それで、何もなかったことになる」
「何もなかったことにはならないわ」
「そうでしょうよ。何かは変わる。はい先生、教えられましたって顔が見たいわけ? 出来事は元通りにはならない。いくら極端な永劫回帰論者も一人の人 生の時間でそれが起るとは言わないでしょうよ。私は一人の赤子の命を奪うことは、どうでもいいことだって言っているの」
「社会通念上、許されないわ」
「現代の異端を駁すって訳。考えないでもないけれど、というか、私の思考かメリーの思考か最近分からなくなってきたわ。私の考えを代りに喋ってくれているの? 自問自答しているのかしら」
「残酷よ」
「そもそも一個の人格をこの世に産み出すって、残酷だと思わない? 乳歯を生やし、おむつを乾すより、何も分からないまま終わらせてあげるほうが責任ある態度じゃなくて」
 私の持論で言えば、生とは身を引き裂く欲求と現実との絶えざる闘争であり、不一致、違和感こそが意識あるときなのだから、意識の総和としての人生とは不可避的に絶望のミルフィーユとなるのだ。そこにまた犠牲者を放り込み、ぶちゅりとプレスして層を重ねようというのだ。生や世間の価値観への冒涜として子供を産む確信犯のほうがまだ私にとって理解しやすい。
「じゃあ産まなかったらいいじゃない」
 だが、だが、だがである。私は今この瞬間、まぎれもなく、子供を産みたいのである! そしてこの世は地獄である。だったら答えは一つ。私の興味も満たされる。私に訪れる光景をしたい喘ぐ日々。私の母の母の母の母の母の母からずっと見てきた光景、これは呪いか、或いは試練か。
「もう止められない」
「だからって。罪が怖くないの」
「常識なんて私にふさわしくないわ。私から言わせれば、それは凡人が人生の前半で宣告される精神的死をエンバーミングする虚偽の化粧に過ぎないわ。命の尊さ、家族や友人、恋人が人生の質と関係するなどという慰めは永遠のパンとサーカスで、貧者のファンタジーよ」
 準備された関係性の下に居ることが正しいのだと強情に言い張ったところで、化粧はペンキやモルタルになり、やがて人の尊厳を睥睨し警察するタブーの立像に接近するだけだ。もはや自己を失った宗教像が一朝厳命の下に『我々の承認なしに良く生きることは錯覚である』と大声で宣伝する。噴飯物だ。私にとっての常識とは邪教の躾であった。感受性を遊び半分で愚弄し、生の窮乏を受け容れることを強い、涙に濡れた表情筋を針金で弥縫し外傷的な笑顔を作る不謹慎な悪ふざけ!
「私は信じているわ。厚かましい末人どものタンデムをぶち破る方法とは、それはまさしく、遅刻をし、授業をサボり、結婚せずに子供を産もうとし、そして子供を殺そうと待ち構えることだと。そうよ、話ながら気付いたわ。私が子供を殺すのもきっとそうなの! 笑い飛ばしてやるためよ」
 果たしてそのとき認知不協和を是正する鮮烈な日差しが呼び込まれ、私の精神は安息を取り戻すのだ。そして見よ、物事を本来の名前で呼ぶ権利が回復され、ゴミはゴミ、宝石は宝石、人生には高級なものと低級なものがあるという子供でも分かることがようやく認められるのだ。遅刻をしても、授業をサボっても、結婚をせずに子供を産んでも、子供を殺しても、親を悲しませても、マエリベリー・ハーンの友情に挑戦しても、宇佐見蓮子の天賦はいささかも揺るがず、何の天賦も持たざるものどもがよりどころとする宗教を冒涜しても天罰など降らないのだと。私は幸せで、自分を生きているのだと!
 メリーはお説ご尤もというふうに頷いた。
「いいおやつね。糖分が控えめなのは長所かもしれないわ。それで、もう一つの方法は? 父親と寝る以外の」
「メリーの子供が欲しい」
 おそらくメリーの頭の中では生物学の知識と、最近の世界各国の法制度と、日本での実例と、世間体が駆け巡っているはずだった。私の代りに考えてくれるメリー、素敵なメリー、あなたは私だわ。秘封倶楽部は神話なのよ。東京からおのぼりした、のぼせあがった大根娘の大いなる誤謬ですって、誰が私たちになれるっていうの? 誰もなれない。現代のこの乾いた関係性の中に奇跡的に邂逅した天才同士の神話なの。
「私の子も殺すの。蓮子ちゃんは」
「どちらでも。メリーと一緒に育ててもいいわ。愛情を注ぐわよ。あなたもずっと一緒にいてくれるなら、可愛いペットのようにね」
 言ってる途中でメリーが口に指を当てる仕草をする。静かにしろというジェスチャーだ。
「誰のことでもない話ね」
「……そうね、メリーが否定するなら」
 私が黙るとしばらくメリーは考えて、あっさりとした口調で答えた。
「私も視たいわ。あなたの未来を。あなたを正面から説得できるとは思っていない」
「じゃあ」
「でもあなた、そこまで覚悟があるのなら、自分で父親の子を産めば」
「なるほど、盲点だったわ。私も常識に毒されていたようね」
 私は人の選択を信じない。もちろん自分も含め。だって私はメリーの子を産んでも良かった。そもそも子供を殺さないと言っても良かった。
 と、思った。私やメリーは戯れで解答をしたのだと私は思った。でも言葉に出してしまった。
 言葉に出すと思考が決められてしまうようでむずむずする。そうじゃないのに、言葉の轍に沿ってのろのろと転がっていってしまう。
「でも、何故メリーの子じゃだめなの」
「夫婦になりたいの?」
「分からない」
「一緒ね」
「分からない。メリーと私が違ってもいい。でも本当は違わない。私たちって、自分が言わないことを代りに喋っているだけで、結局どっちでもいい。だからそれは私の考えよ」
「統合過剰症ね」
 近づいて肩を寄せ合う。
「蓮子、私もよ。蓮子を止めることができないのか、私が止まらないのか、分からないの」
 だけど――。もしこのまま静かに立ち寄って、二度と会わないで、さようなら。と言えたならは本当にマエリベリー・ハーンは私を嫌うことができるのだろうか。なんて。そんな未来が選べないなんて残酷すぎるわ。
 私はそっちのメリーも欲しいのに、と憫笑する。そうして幼稚な想像に身を窶す。
 自己憐憫は一人芝居だけに何のしがらみもなく、ただ真冬の冷えるのにまかせるぬるい湯船のように先が無いくせに抜け出せない。稚さも弥増すばかりだ。
 え? 私いま、自己憐憫だって、めそめそと、これが私だって!? ふざけるんじゃない。私はこの先へ行かなくてはいかないんだ。邪魔をするんじゃない。
「後に悔ゆるとも、何ぞ及ばん。見ていなさい。私が、宇佐見蓮子が父親の子を産んであげるわ」



 誰も何も分からない。それでも確信する。人は盲で真理を持っている。怖いことだ。だってその時その人は限界を迎えるのだ。
 せいぜい神が真理を与えてくださらないと嘆いて手中の私的な真理を相対性の竈へくべて敬虔な態度を取ったつもりでいるか、逆に開き直り、この世に神はなく、他でもありえたものを選んだ己の真理こそまさに己の不可侵の権能だと自慢するのが関の山だ。だがそういった昨日の倫理の時代は既に過ぎ去った。
 むしろ人は万止むを得ずその人の確信から逃れられないのか、何故口先でお題目を念仏のごとく唱え得ても人はその人の限界を超えていけないのか、といった揺らぎを真正面から捉え、御し、操るべきだ。願望の出自など詮無いことだ。私は別の世界を見たい。私の真理を超えていきたい。私を裏切っていたい。今の興奮をくだらない日常に堕として、また次の世界を見るのだ。永遠に、生尽きるまで。
 私の両親が自殺した。
「メリー、別に慰めの言葉はいらないわ。喜ばしいことよ。私が望んでいたのだもの」
 少子高齢化を乗り越える前の日本はのたれ死ぬことを許してくれなかった。
 豊かな福祉制度の網の目が墜落する人を絡げとり、欠格事由も忘れ去られ、そのまま過去も未来もなく腐るまで見つめてくれる素晴らしい世界であったことは、皆さんご存じであると思う。だが昔の話だ。自力救済の支配下においては両親を失っただけの女子大生が利用できる福祉制度など存在しない。
 ましてや死人などすぐ忘れ去られる。私は言われるがまま判子を押し、サインをし、お金を払い続けた。だがこんな手続きに興味はない。もう私には関係がない。
 そう、私は、とうとう一人になれた!
「これからは自由よ、この宇佐見蓮子に権利を持つと思い込んでいる家族という不審者どもに煩わされる心配はない」
「ええと、まさか蓮子が殺したの」
「礼儀的な質問ありがとう」
 朝方の快晴とはうってかわって靉靆とした雲が日差しを遮ってる。夏も終わりだ。
「その前に、部屋が暗いわね」
「雰囲気かも」
 灯りを付け、ソファーに隣り合って座る。
 まだ片付けていない昼食のトマトソースが皿の端で乾涸らびながら私の鬱屈の反照を深々と承けて残り香を漂わせていた。
「殺したかもしれないわ」
「あらそう」
 私は思い出し、耐えられなくなって吹き出す。
「ねぇ。メリー。私ね、お父さんに聞いてみたの。『本当のお母さんを殺したの? じゃあ私も殺すの? 宇佐見の家系には呪いがあることを知っていながら私を産んだの? いつ殺すの? 私は産んで欲しくなかった。産まれてから一回も幸せなことなんてなかった。自殺するわ。私を殺したのはお父さんよ、おめでとう、ずっと騙していたのね。すごいわね』って」
「あなたの産みの母親の死因は自殺だって聞いたけれど」
「でも、そう言うとお父さんを傷けられるでしょ?戸籍を隠してたの、うしろめたいでしょ?母親の死因は確かに自殺よ。でもお父さんにも原因が分からないんだって」
「分かってて責めたのね」
「そうよ。こんな、犯罪者を見る目を向けてやってね、指を指して、『ずっと騙していたのね! 私は産まれたくなかった! お母さんを殺した殺人者の顔なんか見たくない!』って毎日、毎日、毎日。平坦で、散文的で、私の創意を発揮することもできない、ただ人を傷つけるためだけのくだらない台詞をぶつけ続けた。だけれども、親を傷つける子供が使いそうな言葉って使ってみるとすごく一方的で気分が良くなるわよね。それに子を愛する親には覿面に効くのよ。最後にはお父さんかわいそうに、ごめん、お父さんがいるからみんな不幸になる、お父さんなんて居なくなったほうがみんな幸せになる、だって! ははは、笑っちゃうわよね。いつも嫌らしい目で見て、子供のころいたずらされたことを忘れてないってね。全部ウソだけど」
「ええ」
「だから言ってやったわ。私も子供産んでお前に復讐してやるって。子供を産んで自殺してやるって。『もし自殺を止めたければ私をレイプしてから、今の偽物の母親との離婚届を書いて先に死ね』ってね。それが一週間前の出来事なのだけれど、お父さん、泣いてすがるものだから私も思わず手を緩めちゃって」
「で?」
「お父さんが出した精液を、私が大学の実験室で保存して、その子供を産むってことで許してあげたの。『産まれる子供は本当のお母さんの産まれ変わりだから、私は死ぬけど、今度は殺さないであげてね』、って、優しく伝えて許してあげたわ。別に面白くない見世物だったけど。やっぱり私には死んでほしくないんだって。私をあまりに必死に止めてきて、どうしたら私が自殺しないでくれるか聞いたから、『お父さんが私の言うとおりの遺書書いて自殺したら私は死なないでおいてあげる』って約束したら、そしたら首をくくってちゃんと死んでくれたの。どうメリー、私って天才でしょ」
「それは良かったわね」
「私がお父さんと相思相愛で、毎日寝てたって葬式でお母さんに自慢してあげたわ。お父さんに無理矢理書かせた私への愛の告白に満ちた遺書と、あとはお母さんが判子押すだけの離婚届を突き付けてやった。お母さんのせいでお父さんが死んだ。私の本当のお母さんも死んだ。って毎日言ってやった! 毎日名前で、さん付けで呼んで、絶対にお母さんと呼ばなかった。喧嘩もしたけど、毎日目の前でごはんや飲み物に漂白剤入れたり、寝てる時に殺虫剤炊いたり、お父さんの遺灰をゴミの日に出したりして娘からの可愛い悪意に晒し続けたら、お母さんも自殺したのよ。何それ、弱すぎない? 何のために生きてるの彼氏彼女は? ただ意地悪するつもりだっただけなのにね。あー、やっぱり子供なんてゴミよ。敗北のモニュメントよ。ただ哀れにも何の取り柄もない凡人どもを対象にした、ただ自分が生きていても良いのだと思い込めるよう遺伝子に組み込まれた、神が投げあたえた最低生活者の福祉制度への屈服なのよ」
「そう思うわ」
「もちろん認めるわ。一個の宇佐見蓮子という存在が、自分の子供をとりあげれば感動するよう仕組まれていることを。だからといって、反射的な反応に存在を賭す自堕落に価値があると思える? 美味しいものを食べたら美味しい、好きな人と居れば楽しい、家族を大事に、友達と仲良くすると人生が充実する。全部全部、刻み込まれた呪いなの。でも宇佐見蓮子にはホモ・サピエンスに焼き印された価値観はいらない。だって宇佐見蓮子としての価値観があるもの。私の精神的財産の目録は所与の毒物を注意深く除かれた、厳選された宇佐見蓮子セレクションであるべきものなの」
「素晴らしいわね」
「別にこの真実を世に広めようなんて思わないわ。何の努力もなしに手に入れられる立派だとされる偽金のような価値観って退屈な連中の唯一の精神的財産だから、それを取り上げてはかわいそうでしょう。貧しい知能で苦労せず手に入れられる価値観しか認めない奴らなんて、ばかばかしいわ。言うまでもなく私は違うの。友達ですって? 恋人ですって? 親を大事にし、約束を守り、遅刻をせず、ほどほどに働き、たいした娯楽もないですって? ぞっとするわ。裂け目から漏れ出すディストピアの光景。予定の樹氷よ」
「でも遅刻はやめてね」
 人間の精神の鋳型である友愛、互恵精神……。そういった回路に電流を流せ、その回路の発熱量こそが価値審級なのだ。ぷぷっ、そんなもの、ハン・ファン・メーヘレンに騙されて偽物を高く買わされているだけなのに。
 メリーを前に何も隠さず本心を叫んでいると、酔ったように気分がよくなる。上戸かわいや丸裸といったところで、気分もいよいよ滔天の盛りだ。
「喋りすぎたら喉が渇いたわね。メリーにコーヒーをいれてあげるわ!」
「いただこうかしら。そうね、一つだけ注文を付けるとすれば、わたしが蓮子に接するように煎れると、とても上品な味になると思うわ」
「身に沁みているわ。蛇口からならすぐ済むから。でも今日はちゃんとポットから煎れてあげる。ホットの気分でしょ」
 芝居じみたやり取りに笑いあって、マグカップを二つ取り出し、バブブと鳴くオンボロのポットを宥めすかし、ついでにポットから流れる二日前の天気と今日の日付の歴史的出来事と五十個ある挨拶のうちのひとつを聞き流し、メリーはじっと黙って私を見ており、掌からはじわりと熱が伝わり、私はそこで身体が興奮で冷たくなり、暖かい飲み物を希求していたことを思い出す。
「蓮子、本当に悲しくないの?」
 熱すぎる。これではちびちびと唇を熱で鞭打つことしかできない。
 暫く飲み物は諦めて、マグカップを放置する。
「信じてメリー。私は彼らを愛していたの。そりゃまぁ、世界一とは言わないけれど、彼らとの関係に相応しい程度はね。だから悲しいわ。後悔はないわよ。嬉しいけど。別に気分って中和する必要ないでしょ? 相反する気持を同時に表現することを不謹慎だと見なす戒律がある人の前では配慮してもいいけど、秘封倶楽部には関係ないものね。嬉しいも悲しいも、どちらも本当よ。いくらでもお喋りできることよ。そんなことより」
「はいはい。何かしら」
 メリーが小首をかしげた。その所作に脈幅が昂ぶる。彼女は嬌のある身振りをするようになった。重瞳にも見える彼女の瞳孔は角度によって色を変えながら、じっと私の視心を射貫く。ある種の匂いがそこから立ち上って、胸を締め付ける。その誑惑を孕んだものを不安に襲われずに見つめ続けるのは無理だと心に認める。
 斜光が差し込んで輝映を散らし、無色でただ眩しい紗膜を形作る。私の瞼を切ない印象が包む。
 人恋しさ、これほど私とほど遠い焼き印はないだろう。それは性欲ではない。性欲は他者を求めない、空腹や眠気のようなもので、処理してやればそれで済むものだ。だが私を支配するのは他者の肌であり、単純な欲求を越えたある種の願望であった。
 誰かと触れあいたい。
 子供を産むという考えが心臓の鼓動を高めて以来、全身の血管に乗って皮膚から染みだしている。欲求の火が甍を争い、瞬きのリズムで息継ぎをし、識域に昇り照らしている。
 呪いに押し潰される。私にはふさわしくない。
「これがそうよ。ここに入っているわ」
 鞄からステンレスの保存缶を取りだす。
「どこに保存していたの」
「言ったでしょ、大学よ。デュワー瓶と液体窒素は学費分使わせてもらったわ」
「生きているの」
「ちゃんと調べたわよ。分離もしたし、不凍液も自作なんだから」
「蓮子」
「なに」
「見たいわ。あなたが受精するところ。私には要求する権利があるはずよ」
「どうすればいいの」
「下、脱いで」
 至極につまり、沈黙が始まった。
「今から? シャワー浴びなくていい?」
しなをつくる私にメリーは不機嫌な声を出した。
「はやく」
 強引なメリーも悪くない。
 もちろんメリーには性的な感情がないことは分かっていた。でも悪意もない。
 白濁したストローを取り出す。冷たい煙が膝下を舐めていく。
 亡き父親の匂いがするかとこわごわ鼻先に近づけ、奇妙な感動をもってそのスポイトをライトに照らした。
「これが、そう。これが私の中に入るの」
ぽい、と解凍のため、半分残ったコーヒーへぼちゃりと入れてかき混ぜる。
「雑ね。使えなくなったらどうするの」
「いいえ、違うわ。これは運命を試しているの。或いは躊躇い。ぬるいコーヒーが飲みたい気分だし」
 それに予備はまだある。
 移し替えたシリンジをメリーに渡し、スカートと下着を脱いだ私はソファーに寝そべり、メリーの前へ身体を投げ出した。
「蓮子、私も共犯になってあげる。言わないと分からないでしょ。私の心意気を理解したわよね」
「これはメリーの子よ。メリーが私に注いでちょうだい」
「もちろん」
 メリーは濡れた私の膣を見て少し目を細めた。
「ねぇ蓮子、今更私がやっぱり眠いから明日にしようって言ったら怒る? 」
「笑うかもしれないわね。いえ、実際それは面白いわ」
「そう、蓮子が笑うと私も嬉しいわ」
 冷たい容器が入ってくる。
「くすぐったい」
「どこまで入れて良いのかしら。痛くない?」
「いたっ」
「ごめん」
「そこでいいわ」
「はい。ほら、終わり」
「つめた」
 そして離れる。随分あっさりしたものだ。所要時間約三分。
 背中をパンと叩いて立つように強いる。弊履を棄つるが如しとはこのことだ。
「もっとセレモニーはなかったの」
「どんな」
「緩やかなBGMを流しながら、薫沐し、香の匂いを漂わせ、美味しい食事や思い出話でムードを高めて、イチャイチャしながら、一滴ずつ押し込んでいくとか」
「ほら、服着て」
「何だったのよ。ちょっとドキドキしたじゃない」
 そういう友達であり続けるのも悪くない。
 念のためしばらく横になろうとベッドに寝転んだ。
「ちゃんと入ったわよね」
 メリーが背後から抱きつきながらお願いする。
「ダメだったらどうするの」
「彼氏彼女は無駄死にね。でも調度良かった。死んでほしかったから」
「次は」
「行きずり?」
 メリーが背中を殴った。
「ウソよ。まだお父さんの精子はあるわ。夏休みが終わったら気付かれるでしょうけど」
「蓮子お願い。私と居て。私が居なくなったら絶対蓮子はダメよ」
 涙声。それを聞くと私も悲しくなってきた。
「地に足を付けながら飛ぶことはできないのよメリー。後戻りできないほうを選び続けるの。もともとそうでしょ。だったらどうしてみんな、くだらないやり方ばかり選ぶの?」
「怖いのよ。あなたは怖くないの? 力尽きるときが。報いは重力となりあなたを打ち砕く。飛び方を忘れるときもあるわ」
「今度それ、サイン色紙に書いて清書してね」
 メリーが太ももを膝で蹴った。
「ははは、負けないって知ってるでしょ」
 私はメリーの二の腕に服の上から口づけした。
「湿るからやめて」
 口づけか、いや、ただ繊維を通して呼吸しているだけだ。息を吐くと暖かくなり、吸うと冷たくなる。それが楽しくて、時間が爛熟し、溶けて腐り落ちるのを待つかのように、ずっと続ける。しばらくしている間にお互い眠る気配がしてきた。
 俳味に乏しい思考の持続はほつれ、砂埃を巻き上げる一瞬の造形のごとく溶けて消え、戻ることはない望みを望み、放ち、また別なるを求め、自我のぬた場でいじけた蔦を身体に絡げて遊ぶ。
 それが精一杯だった。私はこれ以上誰かと混じり合ったりできない。というよりも、これで十分混じっているつもりなのだ。


 霧のような小雨と寂寥が暗闇を領している。
 秋宵の湿りを帯びた木々が土の匂いを立てているのが心地よい。
 一宇の神社の前、もう一度幻想郷へ行くためメリーが目の前で結界を潜った。
 だが私が苔むした鳥居を超えても何も起らない
 すぐメリーが戻ってくる。
「あれ、蓮子、どうしてついて来ないの」
「わたれないの」
「そう。でも向こう側は幻想郷じゃないわ」
 何度か試したものの、メリーは幻想郷に辿り付けなかったし、私は結界すらまたげない。
「他の世界には行けるから、幻想郷から着信拒否されているのかしらね」
「ごはん食べに行きましょう」
 夜更けのしじまをぬって、私たちひたひたと帰り路を歩く。
 道半ばでふと立ち止まり振り向けば、晦冥に沈んだ後ろ手に術無い心身は気をはやらせる。

 ファストフードのむせかえるような油の匂いの中、私はドロ水のようなコーヒーをチューチュー吸いながら訴えかける。
「マエリベリーさん。私は宇佐見蓮子じゃないわ」
「そうね」
 彼女は私の言葉を否定しない。どこまで信じているのか。彼女はいつでもそうだった。
「軽いわね。本当のことなのに」
「そうね。そういうこともあるわ。で、気分は」
「辺幅を飾っても仕方ない。あなたの知っている宇佐見蓮子は居ないっていうことよ」
「今何時か分かる」
 何のことか一瞬理解できなかった。私はそういえば、空を見て時間が分かるということになっていたのだった。記憶が消えている?
「それは大丈夫」
 うそだった。結局飾ってしまった。実際は、宇佐見蓮子は夜空を見上げてももう時間が分からない。
 鼻溝に手を当て、指先を体温に温めながら私はしばらく沈思する。
 『それは大丈夫』自らの声が反響し、耳道の奥深くで気に障る擦過音として脳に消えていく。畏れよ! 耳目を塞げ! 意気阻喪せよ。虚栄で己の壙穴を開張することが我が底の事業である。
 まるで病人が脳梗塞やガンをなかなか認めないように、ちょっと調子が悪いだけと誤魔化し続けて取り返しがつかなくなるように。
 ここに至っては既に能力の永遠なる喪失を考慮しなければならないのだろうか……。
「いいじゃない。ま、こんな日もあるわ」
 メリーは『ちゃんと何時か言って』とは言わなかった。


 懐妊していた。
 恐らく、お腹が大きくなるにつれ私は能力と記憶を失っている。
 つい最近までまばゆい黄金の生命力が燎原の火のごとく周囲を燃やしつくし、その振りかざす爪痕の大きさを自慢し、死体の上でお茶を啜り酔っていたことなど、夢のようであった。毎日わたしは家族へしてしまったことの罪の大きさ、産まれた子供をどう育てていくか、この先の人生をどうやって生きていくかばかりを考えている。
 メリーに私の窮乏を訴える。
「最近、産みの母が、何故自殺したのか分かったわ。宇佐見家の女には普通の人として生きていく準備なんてないもの。私はもう能力も知識もない、ただの人よ。失敗したのよ、人生に。自己を使い果たしたのに肉体が生きているゾンビよ。ブードゥよ。死んだほうがマシよ。次の瞬間このゾンビが『まぁほどほどに生きていくのも楽しいよ』なんて思わないか、恐怖でおかしくなってしまうわ! そうなったら殺して欲しいの」
「能力が子供に引き継がれているってことかしら」
 メリーは抱きつく私の背をさすり慰めてくれる。他人と溶け合うと、まるで自分を抱いているようで倦厭とする。どこまで行ってもそうだ。形影相弔うだ。
 陰鬱な気分で私は現状を分析する。
「子供を産みたくなるのも、……血を、記憶と能力を赤ん坊に引き継ぐためかしら」
「有り得るでしょうね」
 可能生を口に出す、だが。
「でもおかしい。私は私を産んだ人の記憶を何も覚えてない。その伝でいえば、他ならぬ私も赤ん坊の頃に記憶と能力を奪ったはずだわ。でも、おぼろげに夢を見るだけ。あー分からない」
 背伸びして口ずさむ。かすけき光眺むれば、神秘は深し無象の世だ。
「ねぇ」
「何?」
「その能力、お母さんのじゃない?」
「んー、それは」
「記憶のほうは……もしかしたら、胎児は大人の記憶を受け継ぐ準備ができていないのかも。だから、赤ん坊の記憶はすぐに消えて夢のスープになってしまう」
「でも能力を引き継ぐといっても、私は菫子みたいな超能力を持っていないわ。ああ、そういえば幻想郷で出会った八雲紫っていうメリーのそっくりさんは、同じ能力でも発現に個人差があるって言っていたかしら。どう、覚えているわよ私は」
「そうだったわね」
「借り物の能力に振り回されてるのよ私は、宇佐見蓮子は」
「蓮子は蓮子よ」
「へー、浮気性ね」
「どういう意味?」
 答えなかった。
 その人が好きなら、その人が好きなのだ。顔が好き、名前が好き、しぐさが好き、そうかもしれない。でも「その人」は取り除いたり、付け足したりできない。そんなことはありはしない。人が変わると、そう、トートロジーだが、人は変わるのだ。
 思い人が豹変する試練に耐えられるならそいつは浮気性だ。別人を、名前が一緒というだけで愛しているのだから。
 だがメリーは私の絶った話を続けた。
「いまの蓮子が別人だって言いたいなら、同一性は物質的な構造の比較よりも連続性の物語に依拠するという単純な事実を提供するわ。あなたはまだ、私の中で宇佐見蓮子との連続性が途切れていないと認識されているのよ。間近で見ているのだから」
「ねぇメリー、最後にもう一度だけあなたを試していいかしら」
「もう、強情ね」
 困惑したように目を逸らしたメリーは、面差しに少しの紅を溶かして、気を取り直したのか微笑んで続ける。私たちは関係を規定することを避けているため、実は今だに友達でしかない。親友や恋人などといった気恥ずかしい尊称は構学上のお題目に身をやつしているが、もしも私たちが本気でお互いを大切にしたいと照れずに素直に向き合うなら、どのような関係が相応しいのだろう。主人と奴隷。
「何でもどうぞ」
「私は両親の遺産で別の町へ行く。奇跡的にもう一度出会えたら、残りの人生を全てメリーのために使う。約束する。絶対に約束する。何でもする。一生奴隷でいい。迷惑かけない。アイスのお使いでも洗濯や掃除でも何でもする。もう私には何もないのだし、このまま対等のように見えてメリーに優しくお世話されるだけの関係なんて絶対に続かない。だから、私は考えたの。関係性を再構築し、お互い一緒に居られる方法を。もう一度はじめるために。無価値な私もメリーの隣りに居るために。じゃ、失踪するから、お別れよ。あとは運命にまかせましょう」
「うーん。約束ね。うーん……」
 メリーは考える。
「今のままじゃダメ?」
「ダメ」

 重い。重い。何かが、重い。目覚めた私はぐるぐる回る天井を眺めている。
 避けようのない歪みが降りてくる。胸が苦しい。気分は最悪だった。が、最悪には底はない。
 マタニティウェアに身を包み、外へ出る。妊婦の一人暮らしなど怪しすぎる。が、詮索しないのは現在社会の持つ数少ない美徳だ。
 今日は車を出して、閑散とした浜辺を歩くことにする。私は一人で足跡を残しながらこの一瞬を永遠に切り取れたらどんな対価も厭わないと誓った。
 指甲をねぶり、ちろちろと舌を出すとささくれた皮を剥く。
 身体は重いがまだ動く。
 私は子を産むときの多幸感を人生であると錯覚したりしない。お腹の異物感、彼か彼女を一個の人格として扱うだろう。そして人格あるものにこの世は生き辛すぎる。優しく看取ってやるのが正しいのだ。なんて、……はぁ、もういいよそんなことは。もう私には子殺しを突き通す輝かしい信条も勇気もきっとない。もう出来ない。なし崩しに産み、なし崩しに育て、誰か適当な男と一緒になって過ごすのだろう。私の過去も罪も理想も夢も何もかも、私の夫となる男は知らない。ただ私は微笑み、曖昧に過ごしながら、それなりに幸せを与えるだろう。
 体は泣き方を忘れていた、それでも心は泣こうとするからとても胸が苦しい。見えるのは散逸とした視界じゃなくて、つい昨日までのありふれた一幕、私は全能で、メリーもいて、秘封倶楽部さえあれば永遠だった。今となっては観客席で見る輝かしい舞台上。
「私はっ」
 合わせ物は離れ物、全ては流れ去る。花の色も、色の名前も、千変万化は世の習い。いずれは宇佐見蓮子も忘れ去られ、秘蔵の家系図で世を早うする習慣の名宛て人として、見ず知らずの可愛い子孫に謎を提供するだけの存在となるだろう。全ては流れ去る。素晴らしい! この世の真理とは唱えるだけで全てチャラになる。これで満足か、過去の私。好奇心が何の役に立つ。そんなもの私には必要なかった。
「もう、戻れない。ごめんなさい。おかあさん、おとうさん」
 悲しみに打ちひしがれている人間を救うのは、自分で立ち直ることのできる手頃な試練でもなければ、詳細な約束の日付について語ることを避ける時の癒しの魔力でもない。蝶々は必要ない! 救済とはすぐなる奇跡か、死かだ。いくら口当たりの良いお題目を唱道したとしても、一向に額の茨を取り除いたりできるものか。週末の聖歌の練習で一汗かくか? 自恃の精神など、砂上の楼閣だ。甘言家になりたい。だけれども、私は救いを求めないだろう。私は自分の住んでいる建物から一度でも出てみたことがあるのか? 筋力では抗えぬ鋼鉄の鋳型に嵌められたかのように窮屈だ。締め付けは忽せになったりはしない。力を持つものが取り除かねば、決して癒されない。それは可能なものにしか可能ではない。どんどんと思考が落ち込んで、でも、私は私の考えから外へ出ることができない。
「私の人生は」
 私は突々としゃべり始めた。
「思い返せば、私の人生は」
 うんうん唸って頭の中で宇佐見蓮子が分厚い金属に抗ってもがいてへとへとになったりする様を天井から眺めたりしてみるが、全く何の効果もなかった。しかしその愚にも付かない想像ですら下手に思考を巡らすよりゼロであるだけずっとマシだったといえよう。してみると、私には意識など必要ないのかもしれない。興味のあることなど何もないのだから人生の時間を八十年ぐらいすっ飛ばしてその喪失感について考えてみたい。
「あああああ! 私のお腹を蹴るんじゃない!!! 動くな、気持ち悪い!!!」
 私が私でなくなることが、一番怖い。いやだ、変わりたくない。だってもう、私が死んじゃいそうだもの。とても弱いの、だから、守ってあげないと。私が見捨てると、もう居なくなる。
 せせらぎが麓を洗う。曇りの空。広く、そして歪んでいる。
 お椀が被さっているようだ。
 立って目を閉じる、人の流れはなく、雲が流れる音しか聞こえない。
 いや、それは言い過ぎだ。目を塞ぐ。余念を静め、安んじ、ゆっくりと呼吸を整える。目を閉じると真っ暗になることをご存じか? だが、閉ざされた目皮の薄明かりからもほのかに赤いような緑のようなものが混じる。内面の気配に浸される。心拍、呼気、筋や血管の擦過音が、まるで夜の森が扉の前まで忍び寄り、酔いの虹が信号機の景物として取巻くように、私の芯に押し寄せる。
 もっと深く、深く沈潜する。この場と様相を一に。目にも見えぬ塵埃が求愛する囀りや、色彩が時の熱気で蒸発する悲鳴まで捉えるように。腕を組んでうつむき、目を静かに塞ぐ。私は。沈んでいく。意識が身中奥深くに縮退していく。
 車の音、足音、体が軋む音。矛盾、皮肉、嘲弄、誣妄、軽蔑。
 深く、深く潜っていく。だが。
 ――――とくり。
 ―――――――――――。
 いやだ、もういやいやいやいやいやいやいやいや。
 私は生まれてなんかこなくちゃ良かったんだ、夢の中に居る有りえた私の影は薄く、とても薄く。
 行かないで、あなたが居ないと私はおかしくなっちゃう、どうしたら良いのか教えてよ、いやよ私は、もう居たくない。
 止めて……誰か、お母さん、お父さん、メリー、ねぇ、顔も知らない私を産んだ人、お願い助けて、私が消える、全部なくなる。どうして私は誰にも見付からないの? ねぇ。私は、何も、私は
 何を抱いている。



 そして秘封倶楽部であることを忘れた私は、手帖に残されていた自らのおぞましい罪に対峙しなければならなかった。
 私は両親を自殺に追い込んで父親の精子で受精し、果てはマエリベリー・ハーンという女性といかがわしい関係にあったということだ。つまり私は親殺しで近親相姦していてレズだった漁色家だということ! そして私はそれを完全に忘れている。
「耐えられない。気持ち悪い」
 だが、失ってから得るものもある。予断なく自己分析した私は、かつて秘封倶楽部と名乗っていたころ、大学生に入って、マエリベリー・ハーンと出会い、彼女に興味を持ってからの記憶がなくなっていることを理解した。
お腹を抱えたまま、自分の情報端末を弄り、そこにインストールされていたSNSのアプリにログインする。
 秘封倶楽部。マエリベリー・ハーンとの共有アカウントだったのだろう。
 しばらく悩んで、苦い表情でメッセージを入れる。
 無味乾燥に、すぐ近くの浜辺の座標情報と明後日の日付、時間だけを入力する。
 数時間経ってメッセージが入っていた。会おうとのことだった。



 背にしている太陽から、服を通してやわらかな暖かさが伝わってくる。
 眠くてたまらない。頭に真綿が入っている気分だ。優しく世界を狭めて、知らない間に何もできなくなっていくあれが詰まってる。
 うっすらと瞼を開くが、白すぎる光はまだ強く突き刺ささる。目じりから少しの堕涙。
 ペンキのひすらいだ椅子と、まだらに照映える陽光、窓から見える湖岸の綾なす汀線。視心を追っていく。鳥の鳴き声がするが、姿はない。鳥、自由であること。
 (いま私はまどろみに深く包まっている。椅子に座っていて、起き上がろうとしても力が出ない。……思い出す気にもならない、目覚める前のことも、私の名前も。どうして私はこんなところで眠っていたのだろう)
 メッセージが入った。
『後ろにいるの』
 彼女は堤防の天端に立っていた。
「久しぶり」
「ええ」
 私は暫く迷って、宇佐見蓮子を装うことにした。彼女にバレず、どこまで元の人間であるかのように振る舞うか。情報を引き出すゲームのようなものだった。
「降りるわね」
 彼女はスカートのはためきも気にせず飛び降り、絶対砂まみれにあるであろう履き口の低いスニーカーをめり込ませながらやってきた。
「……海を見てみれば、ぼんやりしていても飽きないわね。ねぇ、蓮子はこの海の先をどう想像する? 何も無いわ。今の気分はね」
 自然に私の手を取り、重ねる。実際会ってみたマエリベリー・ハーンは優しげで美しい女性だったが、私への親しげな態度には馴れなかった。
「私も」
「ふふ、遅くなったけど、誕生日おめでとう。私たちついに十代最後になっちゃったね」
 彼女はきっと私が寂しくなったから手がかりを発信して呼び寄せたと思っているだろう。
 彼女は近場の枯れ枝を手に取り、こよりのようにくるくる回した。
「蓮子、カレンダー、つけて」
「どうして」
「私と木星のガスを固めた宝石を作りましょうよ。それを枕にして眠りましょう」
その哀婉な物言いにとまどい。
「えー、食べられるものがいいかな」
「どうして」
「成長期だから」
 そういうとマエリベリー・ハーンはくすくすと口に手を当て、私はそれを見て失礼な、とへらへらして、口から乾いた笑いが漏れた。どうやらこのまま笑い続けれそうだ、楽しすぎて、もう今日の元気を使い果たして、私は蓮子を装うことを辞めた。
「でもごめん。それは無理なのよマエリベリーさん。私は宇佐見菫子じゃないから」
「蓮子そのものじゃない。ふざけてるの?」
「そう、おふざけ。どうせ全て冗談。いや、マエリベリーさんは勘違いしているんだよ、私は真面目なんだ。そうだねぇ、だから、私の言葉のウソとホントが見分けられない内は癪だからぶち殺すことは勘弁してあげるわよ」
「そういう言い方は止めて」
 口内で吐息を燻らす。
「品がないわ」
「品!」
 彼女の肩を押してよろめかせる。
「なにそれ、レスボス島じゃ父親を殺したり、その父親の子を孕む伐性が尊敬を集めるんでしょうね。また他愛無い探検をして自分たちを秘封倶楽部と呼ぶような無邪気な遊びを繰り返す? 好きね。欲望が止められないの? だから、また私に首輪をつけるの? お姉さま、ねえおねえさま」
「な、蓮子、何を言っているの」
「最後にどうなるか私は知っているわ、あなたの悔悛の秘蹟は私を縛って、座敷牢に監禁するのよ」
「蓮子!」
 彼女は私を真正面から覗き込み、目を逸らしたらタダでは済まさないと恫喝するかのように視線の握力をぎゅっと強めたので、私はしばらく彼女の涙袋の台地や、白目の血管を行き来する細胞を眺めたりしなくてはならなかった。
「ウソって言って」
「ウソ」
 彼女は私から離れてうつむいた。
「へぇ、私が蓮子じゃないって心当たりはあるようね。死ね。死んじゃえ、もう二度と見たくない。私の手帖には、ずっとあなたと居るのに辟易としていたって何度も書かれていたわよ。私を止めず、弄んで面白がっていた人でなし。倫理感の欠如した子供だって、あんた。くそ、メッセージが入ってから何度も出会ったら包丁で刺し殺してやろうかと思ったわよ。殺しても殺したりないわ。私の人生めちゃくちゃじゃない!」
 眉を顰めてマエリベリー・ハーンは耳から離れない残響に耐えている。
 友達になれれば良かった。でも無理ね。無理だと思ってみても、ある完全な理想に向かって行動しちゃうのが、人間じゃない? マエリベリー・ハーンは私が想像したとおりの人物で、もう一度宇佐見蓮子を繰返すことに恐怖を覚え、絶対に近くに居てはだめだと確信してしまったのだ。
話し合いにカタはついた。私は離別を肯い、確然たる段落が置かれた。マエリベリー・ハーンはゆるやかな沙汰を賜り、出来得べくんば段落をよじのぼろうと、土壇場をやり過ごす会話を考えることに糖分を費やしているのだろう。
 私は何をしているのだろう。背を向け、波を見ながら、もっと早く動くよう念じたり、こいつの脳みそを使ったシャーベットを作る段取りを想像していた。
 最後に聞いてやる。
「何とか言ったらどうなの」
「記憶は崩れる。だけどあなたは無くならないわ」
「なにそれ!? それがとっておき? あんたはいつだって私をまともに扱ったことなんてないじゃない! 一度だって……その伺うような嫌らしい目を、私から離したことないのでしょう。近づかないで、さよなら。つけてこないでね」
「におい」
「は?」
「そのにおい、覚えてる……」
「今すぐくたばれ、マエリベリー・ハーン!」
 過去なんていらない。振り切ったと思っていた問題に追いつかれるだけだ。思い出される数々が終わったのではなく、実は手に余っていただけなのだと教える、ひりついて血も廻らない生の文法に外れたメモワールでしかない。
「紕うわよ」
 安息を。
 私だけじゃない。全ての人に安息を。真剣にそう願う。
「あなた一人だけの罪科じゃないわ」
 追い銭をメリーは擲つ。秋晴れなのに靴底が凍みて、ジクジクと足裏が疼ぐ。その旋律は体温が戻らない苛立たしさと喜戯していた。
 それら全てが恐れながらと訴える詩的観照。きっと今日と明日が地続きである限り永久に寒いままだ。なんて。シャワー浴びて寝たら覚えているはずがない。いやもう何も考えるな。私の心の潰爛は見たくない、宇佐見蓮子のような体験はもうしたくない。(忘れろ、忘れろ、忘れろ)真っ黒で、何も見えなくなったら、大丈夫。
 後も見ずに早足で去る。
 自制が既成の残高だけでは足りず一分未来から掻き集めてなんとか駐車場まで歩く。一分経過、目についたゴミ箱を思いっきり蹴り飛ばした。
 緊張の糸が切れ汀まさり熱い水が頬から顎から砂地へぽつりとしたむ。
 一言なら簡単なことで――。誰か私が何をしたいのか教えてくれ。
 色艶も失せて死脈に陥ったこの方舟のフィギュア・ヘッドは、埋め込められた己の身体を剥がそうともがき苦しむプロメテウスだ。

 と、思ったら走る足音が近づいてきた。
 私はとっさに振り返る。
 マエリベリー・ハーンが真顔で私を殴りつけた。
 目がチカチカして、衝撃で目が回る。痛みが後からやってくる。
「どう」
「どう、って、な、なにするのよ!」
「よこしなさい」
 彼女は私から車のキーを奪い、助手席を開き、ふんぞり返った。
「運転して。蓮子の家に行くわ」
「妊婦を何だと思ってるの」
「どうでもいいでしょ、蓮子も、蓮子の子供もどうでもいい。全部どうでもいいの」
「どいて。ついてこないで」
「はぁー」
「ため息つかないで」
「勘違いしてない? あなた嫌いよ。呆れて、とっくに見捨ててるわ。勝手に死んだらいいじゃない」
「だったら」
「あなたの子供を殺していい?ミキサーにかけて、下水に流し込みたいの。お腹にスタンガン当ててあげようか」
「酷い」
「酷い? そうね、じゃあ食べましょ。つみれ鍋にしましょ。あなたの犯罪を告発してアフィリエイト収入を稼がせて」
「メリー」
 と、呼んでしまった。
「なに?」
「昔から私たちこうだったの?」
 皮脂で曇った窓には透けたメリーの横顔も写っている。眸子は日本人で、二重眼瞼のぱっちり睫毛。作られたイメージはきっとこんな瞳も捨て去りにして、彼女の個性を語る上で最初から無かったことにされているのだろう。
「だったらメリー、よっぽど私が好きなのね」
 この弁駁にはあまりにも虚勢の強調が入りすぎていた。
「まだ愛される資格があると? 顎が外れながら閉口するわね」
 メリーはまだ宇佐見蓮子から味のついたお茶を飲めると思っているのだ。決まりが悪く、首元のボタン穴を指でかがる。車外の光景と思考の経巡りが歩調を合わせるように後に流されていく。
「でも顔は好きよ」
「気持が悪いのよ」
 でも蓮子もそうでしょ、ほら、あなたが言わないからよ。といった表情で私を横目で見て、すぐに窓の外に顔をそむけた。
「嫌がる顔を楽しんでる?」
「いいえ、蓮子。もしかして同性愛者に差別的? 前時代的ね」
「同性愛者への嫌悪を抑圧するほうが前時代的よ」
「もういっかい言ってよ。おねえさまーって」
 私は車を止めた。
「降りろ」
「あなたの懸念は杞憂よ」
「またこの話をしたら蹴り出す」
 舌打ちして、再び車は発進した。私は負けたのか? そうかもしれない。
「でも約束は守ってもらうから」
 とメリーは呟いた。私はもうそれに反応しなかった。
 こうして短い逃避行は終わったのだ。
 喚想する。しかし点竄された余韻であり、床のない中空で踊るように頼りない。水澄む頃もそろそろ冬隣となる趣の、散りゆく街路樹に秋惜しむ季節。少し寂しい季節。



 アスファルトに巻き上がる旋風が何もかも悪いような気がして、そちらの方を睨みつけながら足を止める。
 髪に掛かった枯葉を払い、駅前の雑踏が途切れ始める場所にある喫茶店の扉を開くと、客入りは五分と言ったところだった。店員に待ち人が居ると告げる。
 一番奥に陣取っていたマエリベリー・ハーンはどういう理由でかご機嫌だった……傍目には。
「酷い遅刻。奴隷の分際でご主人様を待たせるとはね」
「またそれ?」
 彼女はよく私を奴隷扱いした。一度言った冗談にこだわらない彼女にしてはしつこい冗談だ。
「コーヒーおごるわよ。何飲む?」
「逆に聞くけど、何杯目だと思う?」
「ごめんなさい。また記憶が消えたの」
 言い訳。不可能な役割を背負わされるその種の言葉は、やはり何を成すこともないまま存在を消した。
「そう、だから約束を忘れちゃったの?」
「はい。でもメリーのことを必死に思い出して。これって奇跡よ。秘封倶楽部の次の探求目的じゃないかしら」
 スプーンがカラン、と音を立てる。
「夢の話はもういいから。何か食べ物頼もうかしら。お腹が減ってきちゃった」
「きっと不味いわよ」
「罰を与えるわ。メリーさま。と呼びなさい。ほら、今すぐよ、すぐ償って」
「はいメリーさま。ワッフルはいかがでしょうか」
「二つ頼んで。私は一個半、蓮子は半分よ」
「でぶ」
 メリーは笑う。機嫌が良いのではなく、怒りすぎて笑ってしまうというものなのかもしれない。
 私はそれと分かる追従笑いしかできなかった。
 思えば関係が固まり、付き合いやすくなった頃でもあった。当初の不安も消えて、確かに私達はやっていけるという妄想さえ手にしつつある。
 だが仮初めの遊びであるからこそ状況が成立するのだという側面も、瞑色に照らし出された蝙蝠のように見え隠れした。私は今の状態が好きだった。これ以上進みたくはない。何故か、分からない。幸せになるのが嫌なのかもしれない、或いは縛られるのが嫌なのかもしれない。理屈で追認したければすればいい。そういうことじゃない。ただ誰もがぶら下げている映えない怯え、胸の奥がざわめいて、心臓が凍り付いたように痛む。
「蓮子は何も分かっていないわね」
 思わせぶりに言う。
 メニューをつらつら通覧している間に、ふと店頭に飾っていたレプリカを思い出した私はティラミスと混ぜ物コーヒーを頼む。ブレンドコーヒーをメリーはそう呼ぶのだ。
 胃の中に先立つ物が無くてはこの束の間の夢境に遊ぶことも叶わない、この世に私しか居ないのならばピザとカツカレーも加えたい所だが、僅かに残った外聞を憚る心延えが健気にも囀るので、手心を加えてやった形だ。
 店員にお願いする。
「これ、このコーヒー。それに、ワッフルふたつとティラミスで。ああ、メリー、心配しないで、あなたの分のティラミスはないから。いらないでしょ」
「あなたもでぶじゃない。というか、ぶくぶくね、そのお腹、醜いわ。脂肪の塊。つぶしてやりたいわ」
暖かいお絞りを貰い、手を包んで温めるとほっと一息ついた。体に血が行き渡り、じわりと眠気がする。
 やがて湯気を立ててコーヒーが運ばれる。揺れる私の顔が誰のものでもないのが不思議だった。前にも同じことがあった気がする。
 全ての名前あるものは仮に同じ名前で呼ばれようとも一つとして完全には重ならない、それを心のどこかで望まない訳でも無かったが、しかし。
「蓮子」
(それが無理だったというお話でした。おしまい)
 どんな安物でも、匂いはいいものだ。期待感に胸を躍らせながら、口に運ぶ。
「ほら蓮子、みてみて、念動力よ」
 マエリベリー・ハーンはストローを静電気で動かしていた。
「何か言うの嫌なんだけど」
 そっけなくそう言うとメリーは歯切れ悪そうに答えた。
「ええ、そうね。面白くないときは笑わなくていいわ。その通りよ」
「良かった。メリーさまの表情を見ていると、また私の方が失礼な受け答えをしてしまったのかって」
 紅茶が入ったカップを置き、膝に手を当て、うつむいた。
「なぜ私は、メリーさまと居ると時折笑えなくなるのだろうって。ごめんなさい、メリーさま」
「もういいわ。それ以上喋ったらこの飲み残しを浴びせるからね」
「えへへ」
「かわいくないわ」
 逃げるようにカップを口に運ぶ。ああ、砂糖を入れようと思ったのに。
 雲間が途切れ、夕陽と私たちが橙色の光の直線で繋がれる。会話に忘れられたテーブルクロスに針状の光が鮮明に残る振幅を穿つ。
「メリー」
「なに」
「記憶は最近もう失うことはないわ。だからきっと」
「産まれる」
「そうね。でもいい」
 会話が途切れる。
 実際のところメリーは私のことをどう思っているのだろう。ただの知り合い、いや、親友、恋人、どれも違う。
「メリーは私をどう思っているの」
「いつも小指をぶつける自室の扉の段差」
「なにそれ。意味分からない」
「ぶつけた時の気持ち、あなた分かって?」
「私は痛くないわ」
「で、本題は」
「私はメリーのことをストーカーだと思ってるわ」
 彼女は無言でコーヒーのついたスプーンを振って私の服に染みを作った。
 酷い奴だ。普通そんなことしない。
「子供、育てようと思うの。両親のお墓へも参ろうかなって。がっかりした?」
「眠いわね。蛍の光を歌ってるの?」
 仄日が差し込む午後が甘美な憂鬱を誘うのは、それはきっとそいつが普段から何も考えていないから、とりあえず目に入ったもので頭を埋め立てているから、という可能性もまたあるのではないだろうか。
 過去どれほどの人間が誰にも知り得ない描写をしてきたのだろう。
 だけど一日の終わりはこれっきりの貴重な体験という訳じゃない、また明日も望みもしない再演を約束されているのだという明示にも受け取れ、それに耐える意気を阻喪しまいそうになる。自分を押しつぶされそうな、そんな感じ。
(私は単にそれっぽく演じているだけだ、空っぽの樽そのものでペラペラと、有難味のない出自を背負った悲劇を、延々と延々と)
「でも」
「自分勝手なクズ人間」
 薄花色をしたメリーの手が私の手に重なった。
「すっかり忘れてたけど、従順な奴隷役はもうおしまいなの? マッチ一本分にも満たなかったわね」
「……今も続いてますが、メリーさま」
「だめ、逃げないで。とても冷たいね、蓮子の手は。さすが冷血人間。親殺しの大罪人ね」
「そう言うメリーの手も、冷たいわ」
「それはおかしいわ。両方冷たいなんて。じゃあ、どちらかが嘘をついているってことじゃない。でも、そんな他愛ないことも分からないままなのかしら」
 そのまま指を絡ませて、片手だけが思惑を孕んだ机の上で結ばれた。指の触感を私は持て余す。
 指先の凋萎した色節が、交じり合う彼女の肌色を濁らせる。
「ねぇ。あなたは私と違う人間、そうでしょう?」
「私は……」
(同じだと思っていた)
 口には出せなかった。その台詞が私たちそぐうものなのか、自分で分からなかったのだ。都合が悪くなれば私は緘黙し、周囲の状況だけを無理やりに進めて、一人では素描さえ浮かび上がらせることができない。私はこのまま一生臆病なのだろうか。
(メリーなら、言わなくても分かってくれるはず)
「どうせメリーはさ……」
 言い差して、瞑目する。手を少し離して小指だけを絡ませる。寒さに悴むことがなければ、指の僅かな動きを通して彼女の感情を拉しえた。
「蓮子、指きりでもする?」
「はい?」
 眉毛を読もうと、視点を結ぶ。他人の感情は推し量れない、本当に?
 分からないものと、分かるものがあるだけだ。明白なものまで疑念に駆られ捨ててしまうのは……臆病、なのかしら。いつもそうだったのかもしれない。でも、そんなこと誰にでも自明の事じゃないかしら。私だけが、覚束ないだけで。
「蓮子は私が飽きて捨てるまで遊び道具になること。はい指切った」
 手を離す。私は呆然と呟く。
「ねぇメリー。もしかして寂しがってるの」
「頷くと思う」
「ねぇメリー。私と一緒に住む? いいわよ」
「ご飯を炊かなきゃダメそうなときとか、ポットのお湯を使い切りそうなときとか、ティッシュが無くなりそうなときとか、ババは蓮子に引かせるけど、それでいいのなら」
「わぁ、最悪。それは無理ね」
「だいたい、一緒に住むなんて、何様のつもり? お話してあげるのも、私が飽きるまでよ」
「あ、また言った。こっちも願い下げよ。雰囲気で喜ばせてあげようと思ったのに」
 たまたま出会った好事家も飽きがくる。私はこの先、今よりマシなことがあるとは到底思えなかった。
 話題を変えたくて、取り留めなく尋ねた。
「昔、幻想郷というところへ行った。そう言ったわよね。私のかつての能力の出自。運命の濫觴。博麗霊夢は何のために幻想郷を出て、私は子を産み、何のために記憶と能力を失うのか。あなたの答えを聞かせて。ちなみに私の答えは、能力を貶め、持ち主を苦しめ、あざ笑うため。世を憾み、絶望を振りまくため」
 冷えたカップを手にとって口に運ぶが、飲む気もせずに唇を湿らせただけでテーブルに戻す。
「そもそも私が子を産まずに死んだらどうなるの? 途絶えるの? なにそれ、杜撰すぎない? いや……違う。博麗霊夢は生きている。今もどこかで。追い出された幻想郷に復讐するため、外の世界に幻想を振りまきながら。結界を無視してそれを作ることができる人間を増そうと。私なんて、あの世の憧れを使い果たせばお役ご免でどうでもいいの。これ以外の正解ってあるかしら。メリーの答えは?」
「あなたが失敗したからでしょ」
 からかうようなメリーの言葉に私は無邪気に反応してしまった。
「だったら何が成功なの」
 メリーは何気ない風を装って目線を絡ませ、私の瞳を捕まえる。まるで、どちらが先に耐えられなくなるかを試すゲームのように。私の動揺を捉えた彼女は、そのゲームに必ず勝てることを知っている。
 決定的なしくじりをしたことを思い知らせるように、メリーはゆっくりと、言葉を切りながら諭す。
「恋人と普通に幸せな家庭を築けば良かったでしょ」
失ったのは秘封倶楽部の記憶だけ。幻想に恋い憧れた時代がすっぽりと抜け落ちていく。
「この話はやめましょう。もう私にはそれを追う情熱もない。全てはどうでもいい。先のことなんて考えられない」
 口先だけのじゃれ合いとはまた違った、何かを賭けたやりとりになってしまいそうなことが私たちには分かった。後悔、説得、相手を染めようとすること、口先の無責任さとは違う気持ち悪さ。
 この安易な話題は明らかな失点。致命的なミス――どんな神がかった運指も脇へ寄せて、その不調和が関係を領してしまう。
「だって、戻れないからね。そりゃ、もう一度やりなせるなら、こんなバカなことはしないわ」
「無理よ。繰返すわ」
「ならメリーとは出会わないよ」
 言い繕いは場を和ませるだけで役に立たないということを実演した私は、言い終わった状況から暗示的に要を撮してはいたが、勘は当たった。
メリーはしたり顔で本日最高に面白くない事を教えてくれる。
「蓮子としばらく会わないことにするわ」
「あっそう。じゃあじゃあ蓮子ごっこもしばらくお休みしようかな」
 記憶が違う態度が違う。だから私は宇佐見蓮子ではないのか。そうではない。宇佐見蓮子を名乗るため10カ国語を操ったり、年収2,000万円であったり、メンサの会員であったり、フェルト帽の収集が趣味であることが必要だと時宜に応じて使い分けることは、めでたくも各業界のカタログで金字に発光する栄誉に与るだろう。だが私はそういった動揺を軽蔑する。自己同一性とは体験の質であり憑依された瞬間しかないものだ。
 というか、私はもはや誰でもいい。蓮子でも菫子でもメリーでも山田太郎でもいい。こだわりなどない。だけれども、マエリベリー・ハーンから宇佐見蓮子であるという署名をいただくたび舞い上がり脳はじわりと甘美な汁を滴らせるのだから、まぁ宇佐見蓮子でもいいかなと思ったりもする。彼女以外の宣言で私を保証することはできない。ここ最近はそうだった。しかしながらその神威が失効している間は、私を同定するのは私しかないのだ。そして私は誰でも良いのだ。そのときたまたま、それだけのものだ。つまり秘封倶楽部ではない宇佐見蓮子は私ではない。
 目を伏せてコートのボタンを留める。
「寂しくないよ……、じゃあ私から先に帰るから」
 メリーはお腹を抱えて笑った。
「やったー、蓮子が悔しそう。あははっ、じゃあ私はもうちょっと居よ」
 最近分かったことがある。皮肉屋で世話焼きのマエリベリー・ハーンが月曜日でも金曜日でも揃ってこんな言動をするのは、きっと専門の訓練を修めたからに違いということだ。
「からかわないで」
 近寄るとメリーは私の肩を抱き寄せ、頭を撫でる。
「そう怒らないで。子育ては手伝ってあげるわ」
 そうして耳擦りし、わざとらしい佞弁にまかせて。
「ういやつめ」
 すきよ。なんて取ってつけたようなごまかし方と、その匂い。囁きうごめく印象。
「蓮子はずっと、私の友達よ。でも、それは片方が勝手に決めることではないかしら」
 分かってるわよ、これでおしまいでしょ。もう無理よ、私たちは私たちの関係を使いつくしたわ。これ以上、一滴だって絞れないほどね。あとは繰返し。素晴らしい日々、メリーを悲しませる、素晴らしい日々、メリーを悲しませる。サンドイッチを積み上げるのは心苦しいの。まぁ、たまにはピクルスみたいに私が悲しんでも良いアクセントとなるかもしれない。でも終わろう。私はまた別の土地へ行く。メリーもそれを分かっている。これで本当に私たちは最後だ。と、言えたら。



 そして宇佐見蓮子の話は終わり、マエリベリー・ハーンの話となる。
「蓮子、鍵開いてたわよ」
 私が蓮子の部屋を尋ねると、蓮子は眠っているかのように机に突っ伏していた。散乱する白いカプセル。GHB。溶けかかったものもある。
「ふーん」
 手を取ってその冷たさに総毛立ち、私はついに終わりが来たことを知ったのだ。蓮子は遺書やそれに類する生きた証を残さなかった。私は生涯における最大の罪悪感と冒険心において蓮子の情報端末を無断で確認しようしたが、ゴミ箱に破壊された残骸が捨てられていた。手帖は燃やされたようだった。蓮子にその内容を尋ねると微かに自慢げな微笑を浮かべたのが思い出される。あれは確かに蓮子の宝物だったが、同時に蓮子を縛る害悪でもあった。私はその中身を読んだことは無いので、もう永遠に知ることは出来ないのだけれど、きっとそこに私と蓮子のことが書かれていたのだと断定する。それ以外は有得ないのだ。私は蓮子を幸せにすることは出来なくて、蓮子を追い詰める以外の方法を取ることが出来なかったのだが、私はしかし、蓮子が決して世に出ないストーリーや、他者の嘲笑に晒される思考をそこに書き連ね、いつか見出される可能性を想像していたのではないのだと、そう思わないと私は頭がどうにかなりそうで、蓮子を知るのが私ただ一人しか居ないことに耐えられないのだった。
 私は蓮子の耳に囁く。
「もっと死ね。死んじゃえ。地獄へ行け。腐ってドロドロになるまで動画を撮ってさらし者にしてあげる。ねぇそれとも、通報して、解剖されて、中年親父に子宮の中まで写真撮られちゃうほうがいいかしら。ほら、どっちよ、ほら」
 まだいい匂い。夢と現の隣境が溶け失せた、死色の虹彩。



 我が半身の不審死という青天の霹靂に対する社会の衝撃は、私の皮膚を天の羽衣のごとく優しくくすぐり、ひとつの傷も残さず過ぎ去っていった。
 日々は過ぎていく。私、マエリベリー・ハーンはたった一人の秘封倶楽部を続けていた。
 日本の国内津々浦々、宇宙や海底、果てに常世、九泉の類いまで。だが結局あれから蓮子と出会えないまま、能力だけが強まっていき、半睡にぼやけた視界に曖昧となる境界を泳がせながら二十歳の誕生日を迎えることとなる。
 そう、私は蓮子を探している。死んでいることは知っているが、探し続けている。趣味だ。趣味ぐらいあってもいい。生涯の趣味になりそうだし。
 二十歳の誕生日を家族で祝うべし、と両親から呼び出しを受けた。で、久しぶりに実家で、そぶりも見せずくつろぎながら昼寝をしていた私は、午後を丸ごと潰して夕陽のなか母親がキッチンで作業する音と肉が焼ける臭いで目を覚まし、そのままただぼんやりと天井を眺めていた。両親が誕生日祝いにどんなサプライズプレゼントをくれるか分かっている。出生の秘密のことだろう。
 私は最近、夢を視ている。遠い遠い記憶のような、懐かしい記憶。
 見知った顔もあった。私の両親。だがそれは有り得ない。何故か、
「母親と父親が居る。だとすれば、その光景を見ている夢の持ち主は誰なのか。何よ。私を産んだ人で、死んでるってことでしょ。我がハーン家も宇佐見家と同じ宿命だってわけ」
 先祖の記憶を私も視ているのだ。私の母親の、その母親の、ずっと先の。皆が少女の時代に幻想に惹かれ、或いは幻想郷に辿り着き、或いは蓮子の祖先と出会い、或いはただ孤独に、幻想を虫かごと網を持って追い回すような体験。
 半睡のまどろみの中で、カーテンから漏れ落ちる夕蔭に踊躍する埃を眺めていると、目覚めを忘れてこの静けさの中で眠り続ける私の姿を幻視した。ソファーに埋まっていくその姿を想像して、寝ぼけのよく分からない頭でそれもいいか、なんて意味も分からず良しとして、それでも悪い気はしなかった。
「見たい」
 やはりマエリベリー・ハーンも見てみたいのだ。この先を。私が一体どうなるかを。というか、蓮子は勘違いしている。私はブレーキ役じゃない。ずっとずっと、神秘を、別の世界を覗いてみたいという願望があるということを。
 ディナーが始まり、祝いの言葉を贈り合うと、父親が気まずげに、だが決心したように口を開く。
「実はメリー、大人になったら言うと思っていたんだ。いきなりで戸惑うだろうし、隠していた私たちを許してくれとも言わないが、ただ、愛しているのは本当だ。私たちの子だ。でも実はメリーの本当のお母さんは、その、もう居なくて、メリーは……」
 ダクリ、と、心が震えた。呪いが私を支配する。
 蓮子のことを思い出していた。妊娠する前の蓮子が言っていたことを。急激に高まる子を産むという欲望。それを認知したとき、呪いが頭蓋にはめ込まれた音が聞こえたと。やっぱり私は子孫を残す、蓮子のように。私も同じ光景を見たい。
「お父さん、お母さん、本当のことを言ってくれてありがとう。気持は整理できていないけど、愛してるわ、本当よ」


 ひとしきり家族の絆を確かめたあと下宿先へ帰った私の生活は破綻した。
 今日も自室で一人電子秤と見つめ合う。小さいチャック付のプラ袋の白いシールにボールペンで薬品名が書かれている。海外から取り寄せたものだ。通常郵便で二週間ほどかかるがEMSは開封され易いので致し方がない。
 灯りもつけず、ただ己とだけ向き合う。
 視界にごま粒のような光が飛び始める。
 夢と現が溶け始める。

 フィルムが廻る。

 からからからから。

 からからからから。

 私が大学の大教室で一人授業を受けていると、遅刻をしてきた女が居た。教授は「どうして遅刻を?」と聞いているのだが、まるで「どこへ行ってきたの?」という母親の質問を無視して二階に上がる思春期の少年になったがごとく、彼女は構わず堂々と壇上に上がり、教授の隣りに座った。
 そいつは一人でぶつぶつと何か言っている。マイクが拾い、教室中に内容が聞こえる。「どうして私がこんな洞窟を歩かなくちゃいけないんだ」囁いている。囁き続ける。「この世はばかばかりだ」大教室が少しざわついた。「うるさいうるさいうるさい。だから私はこんなところに来たくなかったんだ、殺してやる殺してやる殺してやる」ぶつぶつぶつぶつ。私はこいつに蓮子と名付けることに決めた。
 教授はしばらく呆気にとられていたが、すぐにこれをノイズと認知することが決まったらしく、講義は進む。「講義中はお友達とはしゃべらないようにしましょう」
 隣の人が、うらやましそうにさっきの女を見ているのに気付いた。まるでお仲間さん、私だけは分かっていますよ、という視線だ。私はこの子を菫子と名付けることにした。この手の人種の考えることは分からないわね、と心の中でため息をついていると、いきなり話しかけてきた。「かわいそうな人ですね。彼女はきっといま、ひとりぼっちなんです」「そうですね、でも結局のところは、彼女は人殺しですよ」密告のような言葉が飛び出す。
 「彼女はあれでお終いですよ。誰も助けられませんから、あとはもう、ボタン押すしかないですね」ボタンというのは、腕時計に装備されている人間の運命を左右する未来的なアイテムだ。気分が超バッドな時は心臓を停止するボタンが現れる。死にたいと思っているのに肉体が生きている人のために作られたボタンで、これを装備した時計は思想実現ウォッチと呼ばれ、通販雑誌でしか売っていない。「押してあげてください」『菫子』に『蓮子』のボタンを手渡された私は、これかな、と思ってボタンを押す。バコン! と女の心臓の止まる音が教室中に響いた。眼が破裂し、鼻血を吹き出し、喀血する。「ああ、彼女は七機ありますから、六回押してあげてください。愛の鞭です」「あと一機しか残りませんよ」「ちょっと荒療治ですが、この方法しかないですね」2,3,4,5,バコン! バコン! 彼女はまるでフライパンで飛跳ねる蛙みたいになっていた。頭蓋骨が破裂し、割れ目から真っ赤な中身が見えている。蓮子が途切れ途切れ呟く「消して……私の全てを、もう世界に思い出されないように……ゲボゲボ、ゴボッウェ、ゲロゲロゲロ」おうおうかわいそうに、でもこれで大丈夫。6。Kaboom!Awwwwww! ヤートナソレヨイヨイヨイ ヤートナソレヨイヨイヨイ! 教室が湧き、教授は両手でコルナサインをして聴衆に答えた。あれ、蓮子の四肢が断裂して動かなくなったぞ。「死にました」「大丈夫だって言ったじゃない」「分かるでしょう?」分かった。蓮子はもともと六人分の命しか無かったんだ、しかしそれは神様のミスだ。「誰のせいだ、ということに関して、私はボタンの機能と、あなた自身に責任を帰す用意ができています」彼女の隣には弁護士として博麗霊夢が居た。「今すぐ蓮子氏の恥知らずな業績を永遠に全人類の網膜に表示することを義務づけなければならない」私はそいつにカフカの友人ブルート氏と名付けた。誰もが知っている表層的な伝説だが、カフカは今際の際に自分の作品の価値を疑って、友人ブルート氏に全て破棄してくれ、と頼んだ。だが愛すべき友人ブルート氏は「出版して、俺の作品を管理して世界に萌えさせよ」という意味にとった。だから私はカフカの作品を読める訳だね。私は菫子に言う「あなたも同じ病気にかかっていますよ、さっきの彼女と」「なんですって?」空気を読んだ教授が「じゃあ、今日はここまで」と宣言したので私はトイレに向かう。
 菫子はすぐさま「菫子は病気じゃない。天才、可愛い、女子高生!」と叫びながら教室を飛び出した。やれやれ、彼女はあれを若さだと思っているのだ。私がトイレのドアを開けると掃除のおばちゃんがスリッパの位置について悩んでいた。それはよく見ると化粧をしていない八雲紫だった。「何をしているのですか?」「スリッパをドイツ軍の潜水艦に見立てて、最適な位置を割り出そうとしているのよ、おほほほ」脊髄からもうひとつ胴体を生やして別の八雲紫が顔を出す「あの、そ、そそ、の。ドイツ軍は実は潜水艦を使っていなかったっとととという説がありまして」「それは初耳ですね」「シュバババルツバルトの森があったたので、忍者のけっけけんんきゅうをしていたらしい」そんな話を聞いたことがある。ネットで調べてみよう。………電脳を起動、調べ中。真っ赤なウソだ。もめごとはゴメンなので「失礼」と私は空の下に出る。さっき啖呵を切って出ていった菫子が中庭で頭を抱えて悩んでいた。
「菫子さんは鬱病ですか!」私は話をしようと声を掛ける。「そうよ」「自分の正確な状況を誰も分かってくれない?」「そんなこともあったわね」「でも大丈夫! マエリベリー・ハーンには分かります。あなたはそうですね、気分は五段階評価で一、でもみんなは三ぐらいあるのに謙遜するな、と言う。医者さえもね」菫子はどうやら私の話を聞く気になってきたらしい。「分かっているじゃない」「気分は他者に規定されるもの? ノー、ノー、断じて、ノー。自分が全てだ。その自分が一というのだから、一だ。でしょう?」「ええ、マエリベリーさん、どうやらあなたは他の人間と違うみたいね」「勝手にのたれ死んだら良いでしょう」「なんですって、殺してやる」「一人でそうやって一生悩んでみれば良いのでは」おっと危ない。食堂に転移する。あの女、宇佐見菫子はクレイジーだった。混ぜ物コーヒーを飲む。ひざにこぼした。熱……くない、そして世界を渡る。


 鉄道会社の偉い人たちは空調を節約することで他の鉄道会社との差異を出すことに決めたようだ。いくら祈ったとこころで、やって来た電車に暖房が効いているかどうか事前に予測することができない。車掌の指が間違って空調のボタンに触れるか触れないかを知ることが出来るはずがない。巨大な卵が皮をペラペラ風に剥がされながら2241番ホームへ到着した。ほら、暖房が効いていない。黄身も硬い。これだから田舎はダメだ。公衆便所のような臭いがする換気されていない車内は空気が喉に引っかかり惨めな気分にさせられる。混んでおり、空席はない。目の前ではウロウロと歩き回る人々。
 座席を求めて混んでる車内を移動する人間は現代の旅人だ。どこか見知らぬユートピアを求め、結局どの車両も同じだということに絶望しつつ、やはり歩みは止められない。その不屈さは車両を往復すれば同じ場所に戻ってくるという稀代の発見をもたらす。まったく、たいしたヒスロディ氏だ。願わくば一刻も早く彼らが約束の地を認め、その迷惑な行為を収めんことを。
 そして東京駅に着く。
 駅の雑踏、まず塵埃の匂いが私を居た堪れなくさせた。
 刹那に思い出す、かつて見た光景が、その全てが。瞬目に過ぎ行く。蓮子との思い出。百年前の若き日の幻想。甘酸っぱい青春。切なさに耐えることができず、封印して忘れ去ってしまったもの。全部飛びだし、脳裡の劇場が振動し、蜘蛛の巣が払われ、埃が吹き飛び、光が全ての窓から闇を払い、シンバルの音は腹の底を振わせる。
「さぁーここはどこでしょー、地元の駅に似てますが当然違います。あー淡路島ですねー」
 と蓮子が言った。
 やたらただっ広いヴェルサイユ宮の庭が駅前に広がっていて、そこに『淡路島』という大理石のモニュメントが飾られていた。「東経百三十五度! 幻想郷はここにあったのよ、私の目はずっと淡路島に注がれていたの。日本標準時も当たり前、ここが私の能力のグリニッジ天文台よ!」「でっかいねー」「ピート・モンドリアンだ」私が良いところを見せようと蓮子に言う。「彼は淡路島と深い関係を持っていた。父親が淡路島と結婚したんだ」「あ、それ昨日テレビでやってたよ」「知識をどうやって得たか、という面で貴賤はないよ」「見て、光化学スモッグだ」虹色の煙が降りすだく中で、私はテンションがあがってきた。「ようしみんな、光化学スモッグになるわよ」「わぁすごーい。蓮子もなれるかなぁ……」 光化学スモッグはこの時既に物珍しいものではなくなり、夏のころ幻想の衣を纏っていた往事の地位は既に遠く、今はもう雨の双子でしかない。
 小さな卵に乗り駅前から街へ出る。やがて狭いトンネルの中に入ったのだが、これは脇に下水道みたいな溝を通しているので、余計に狭い。その上とても長いので、暗闇がひたすらに領する景気の悪い場所なのだ。卵がプスンプスンと言い始めた。 「すすすすみません、暗い場所が苦手てでで」運転手のおばちゃんが泣きを入れたので応援する。「頑張って」おばちゃんは良くみれば化粧をしていない八雲紫だった。「では」ドカン。「すみません、アクセルを壊してしまいました」「いい加減にしろよ」私は毒づく。「あ、『八』を落としました」といったきり雲紫はうつむいて動かない。やがてICレコーダーに何やら吹き込み始める。「私は助けを求めていたのに。ずっと私を止めてって言っていたのに。私を倒してって、あれだけアピールしたのに、誰も止めてくれなかった。色が悪いのかしら。紫色は流行らないから」ばっ、と顔を上げて乗客をまるごと抱くように腕を広げ「だって免許持ってないんだから仕方ないじゃない!」「みんな仲良くしようよ」蓮子はかわいいなあ。 「雲も落とした」「ほら、紫、免許もあげるわ。新しい色よ」そこには名前が「丼鼠」と書かれてある。「なくさないでね」
 トンネルには当然緊急脱出用のルートがある。横の水道を潜って、隣の脱出用の区画に出なければならない。そのルートというのは設計した人間の頭の悪さを露骨に示すものだった。薄く水が流れている崖を、ロープで山の上まで登っていかなければならないのだ。 運転手の元八雲紫は手を振った「私はロープを守らなくちゃいけないから」「どうしてだい?」「ずっとそうやって生きてきたの」「いつか君を解放してあげるよ」 私と蓮子はロープを登り始めようとする。ロープは四本。『上昇』『下降』『敵』『毒』という四つの札がある。「これは上昇でしょ……」私はこれを作った人間の無骨さに呆れて引っ張る。「しまったこれはアミダ籤ね」血まみれの胎盤からもがき逃れようとする色々な成長過程の胎児たちの塊が踊りながらロープを這い回る。人間たちをエサとして探り当てガキゴキリ、ペっ。頭蓋骨が飛び出す。胎児たちは共有する胎盤のうえでもがき、それぞれ別の方向へ引っ張り合い、お互い殺し合っており、全体として調和がとれていた。淡路島のご当地キャラクターだ。「これが調和、ハーモニー。真の静寂とは無音ではなくホワイトノイズの爆音に102569+83333333ある」随喜の形で世の真理を語る元八雲紫。胎児は踊りながらアミダを降っていく。彼の名は売僧と書いて水子君だ。チャラリラリ。明るい音楽が鳴って結果が表示された。『敵』である。パーン、と遠くから音がして私を撃ち抜く。

 薄暗い館の中で、私は蓮子と向かい合っている。
 死を受入れるとは、他者の物語の続きを引き受けることである。蓮子の続きを私が行うこと以外に彼女の死を消化することができないのだ。
「この館は私の心のサンクチュアリで、私が好きな人と常に私を罰してくれる人しかいない、私の世界なの。しかも館の住人は、全部私と蓮子の姿をしている。夕陽は綺麗で、海もあって、雨も晴れも注文通り。嵐がガラス窓を洗う夜の中でピアノを聞いていると、意識が溶けそうになるのよ。本も美術品も、私の記憶にあるものはぜーんぶ、ここに大切に保管されている。今日のギャラリーのテーマは浮世絵だから、あとで一緒に見ようね。毎日ここでマエリベリーちんは何かになるんだよ、すごい!」
 立ち上がって誇らしく胸を張る私だが、反応は芳しくない。
「メリー、なにか、言いたいことはある」
 まるで居たたまれない、と思った、腐朽して渾然となった貝殻虫の骸が私であり、木か骨かも分からぬイングリッシュ・オークのホールチェアーの硬さで背をいじめるのがちょうど良い償いといったところだ。
足裏は天国だ。床の絨毯はスイカズラのギリシャ文様で縁取られている。
「ここには一日があるわ、時間もある」
 またか、と愁色を帯びた表情で蓮子はぽつりと呟いた。
「市松模様の床と天井のうるさいスタッコ細工も目が被れれば枯れた野のようね」
「仕方話ではあるけどね、ここには美味しい午後四時から夕食は配膳されるわ。キャンドルを点して、暖炉に火を入れて、灯りはそれだけ。豊穣の神セレスとワインの象徴バッカスの立像が時折照らされこちらを盗み見る中、のろ鹿のソテーで舌鼓を打つの」
 蓮子は言った。
「メリーの話は知ったところで何の役にも立たないわ、明日からも多くの物語が失われ、生きた彼らは死人になり、ハイエナ共が排泄物にしてしまう。そうでしょう? 何か感じたらどうなの? メリーは泣くの? 泣いてみせてくださらないと、私はメリーが心配よ」
 言を俟たないことである。口さがなく、相手をのんでかかる癖があり、自負に溢れる蓮子を眩惑させることなどメリーの術無い思いつきでは及ばない。しかし。
「そ、そんなふうにしても無駄よ蓮子。あなたは私。私はあなた。続きは私が生きる。だからあなたも生きているのよ」
「ねえ。知ってるかなぁ?」
 目前に立たれ、指で耳の穴を塞がれる。くぐもった声と、指がガサガサと。
「人間には二つ頭はないのよぉ? ねぇえ? メリーちゃん、そういう事を考えている間はねぇ。他のことを考えられないのよぉ? 頭をこんなに塗りつぶしちゃって、誰が掃除するのかしらぁ。私はやぁよぉ」
「気遣いは嬉しい。でもそれ以上いけないわ罪の女よ、Noli me tangere. 私に触れてはいけない。試みているのかしら」
 問いは霧消する。
 蓮子は私の記憶の引用をあざ笑う。
「引用のお白粉こそが、付箋から付箋へと飛び跳ねるノミにとって、みじめな跳躍をごまかす魔法足ることには太鼓判を押そう」
 蓮子の挑戦的な眼差しをかいくぐりながら彼女の瞼のあたりを眺める。
「他のことって、分からないの。私はもう分からない。何がどういうふうになっていくのかしら」
「メリーはいけないお薬してここに居るのね」
「そうよ。研究目的の個人輸入が再び解禁されたから。お気に入りは2c-p。幻想の世界への特急切符。すぐに緑の粒子が踊りくるい、精霊と輪になって踊る。改札はいつもそこから。そしていつのまにか旅行が終わり、いつも泡吹いて部屋がボロボロ。死ぬか通報されるか、スリルがたまらないわ」
 長く生きることに意味はない。人生には意味がない。永遠でなければ意味がない。でも地蔵と化する訳ではなく、〝何か〟を感じることから卒業することはない。であれば感じることしか意味が残されていない。幸せだ、幸せを感じよう。幸せは実はとっくの昔に化学式で記述され最終的決着が図られている。そう、残されるのは感覚を全て快楽で埋め尽くすこと、それが人生計画だ。
「はっきり言わないと分からないかしら? メリーには」
 言っちゃうのね。
「続きをする資格はないわ」
 背中に冷ややかな感覚が走った。
 一寸遅疑逡巡し、述べるべき千種の言葉を殺し、結局は「はい……」と呟いた。
「認めるけど、言うとおりだけど……だからって、明日から何が一体変わるっていうの」
「そう、何も変わらない。だから、ずっと変わらずに、ずっと、ずっと、ずっと、続くのよ。あなたの今が、延々と、死ぬまで。メリー! 死者の教えよ。そうやって人は死ぬの」
 キャハハと甲走った声をあげて蓮子は私を叩く。叩く。叩く。
 しかし非力である。私は居場所を失って困った顔をするが彼女はいつかマエリベリー・ハーンの全身の骨が壊れると思っているかのように叩く。
 蓮子の後ろにはいつもいつも何か居る。その何かはとても模糊とした存在で、私がそれを認知できるというよりもむしろ人間のアプリオリな認識形式に含まれ、今すぐに名付けを済ませて他人と話題を共有させれば理解という感情を発生させるものであり、名前をつけたいところだが、宇佐見菫子と呼んで彼女に気付いたそぶりを露呈するぐらいなら貝になったほうがいい。私は暇で暇でしょうがないから黙って彼女の言い分を聞いてみることにした。
「はい、宇佐見菫子です。死にたい!」
 第一声がそれで、何に言い訳しているのか気まずそうな声で続けるのだった。
「私だって生きているのだよ……だから傷ついたりするんだ。他人に知って貰わないと不安なのです。それが私に残った唯一の存在証明なのです。……しかし恐るべきことに私はなんというか……無能力者で……。なんでこんなことになったのでしょうか。は? 殺すぞバカ。こっち見て悦に入ってんじゃねえよ、日々幸せなんて絶対認めない、お前たちが幸せだっていうのなら! わたしはー。わたしはわたしはわたしは。わたしは。生きていたいのに。息苦しいのです。呼吸ができない。だれか居るのかいそこに? 私を誰か見ているのかな? 誰にも見られないんだよ私は。見えないのさ! 見えないはずだよ。だって眠いんだもの。私は眠っているのさ」
 ゾクゾクしちゃうわ! などと自分で自分を苛めて性的興奮を得ている彼女はまだまだ言いたいことがあるようだった。
「ああよわい。能力は使わないと弱くなっていきます。私は弱くなりすぎました。弱い弱いと自覚しながらも私は私から離れられない。かくも残酷な意識という刑。私には努力する自由などないというのに! あははははははっははっはははっは。笑ってないよ? 口がね、笑うんだ。うぁははは。ってえさ。口が笑えるのに私が笑えないってさぁ。わらえなーい。おもしろくなあい。なんかさーあぁ? 私はもう口以下なのかねぇ? へぇ? ひひひ。はひひひえ」
「宇佐見菫子ね。なにしてるの」
「夢に呼ばれて」
「仕方がないからあなたも私が頑張って作った英国式庭園を冒険しない? 長方形の池には純水が凍っていて手乗りのフィジーの原住民で戦争もできるわ。それに、巨大なアルファルファの生け垣の迷路も楽しめるわよ」
「私のせいよ」
「なにが」
「私のせいよ。子供を作ったら、幻想に憧れていた気持も、自分を輝かしていた能力も、そして青春の記憶もなくしてしまうようにしてしまったのは、私のせいよ。菫子からの子孫への贈り物よ。だって私が夢に破れて、少女ではなくなり、ただ平凡に人生を消化することに耐えられなかったから。そして私の他に宇佐見の姓を持つ者は誰も耐えられないと信じたかったから、最後の力で祈ったの。誰か、私が敗れ去った呪縛の破り方を代わりに見つけてくれることを祈り。そして誰もが私と同じ呪縛に負けることを祈った。私のかわいいこどもたち。きゃはは、結局、みーんな私と同じで失敗だらけ、ばかばか、かわいいかわいい。ばかばか、ばーか、すきよとても」
 あ、これはいけない。
 蓮子が背中に手をあてて語りかけてくるのであった「私のところへ来てもいいのよぉ」そうだ、死にたかったら死んでも良いのだ。では何故死なないのか。「面倒くさがりにはとても適わぬ夢なのよ」私は熱を帯びて続ける「そう、別の言い方もあるわ。情動。努力。コナトゥス。私が私せしめる構造が、私の身体が死を選ばぬ以上死することはできない」黙る。
 時が降り積もり腰まで沈黙に浸かる。サイド・ボードの前の、大理石製のワイン・クーラーから溢れ出す沈黙は緑色をしており、冷ややかで、炎天下のプールの塩素の匂いがした。このまま溺れて窒息してもいい。見つめ合いながら。
 二人同時には喋れない。夢では二人同時には喋れない。だから蓮子は私が喋っているあいだは黙る。なぜ夢は二人同時に喋れないのか? いや。しかし沈黙が続いた相思相愛のカップルにのみそれは可能なのだ。『あっ』私と蓮子の声がかぶる。お先にどうぞいいえぇあなたこそぉ。しかし意識はどうか。意識を同時に発露することなど可能なのか? かつて視点というものがあった。今は私の視点しかない。イルクーツクにおいても、何故他者の意識は確認できないのか。私はついに答えを得た。無限の意識が私を取り巻いているのだ。しかしそれらは触れ得ない。私という構造における観想が意識である。すると私以外の構造における意識は触れ得ない。構造を区切るのは境界である。とすると境界も無限である。だけどそれらは触れ得ない。私以外には。或いはマエリベリー・ハーンと蓮子という構造は溶け合い、彼女たちを含めた構造としての意識がこの〈私〉かもしれない。『あっ』また。うふふ、あはは、気が合うわね。私からおしゃべりしますわよ。遠い遠い昔のこと。

 たくさんの霧雨魔理沙がいきなり争い合って土地が荒れ果ててしまったね。
 そういえば霧雨魔理沙は最後に見たとき育ちすぎて天を衝くほど大きくなっていたよ。でも薄まって広がってついに空になってしまったんだ。私たちの見ている空は彼女なんだね。
 本当の空はどこなんだろう。
 生まれたときからのことしか知らないマエリベリー・ハーンに知る余地はないのであった。
 白く、一面、ただ白、とても白い。
 私達の影だけが地面の在処を指し示す。
「安息を」
 霧雨魔理沙がしなだれかかって掠声を出す「呪文だぜ。蜃気楼が弾けそうな時そう祈誓するんだ」しかし私は末世だ末世だと愛吟するお題目を唱える「ああ、マエリベリー・ハーン、やめてマエリベリー・ハーン。私の祈りが届かなくなっちゃう」おお、困ってる困ってる。
「人間はさ」
 霧雨魔理沙の艶麗な首元を愉しんでいる間にも、彼女も私の、マエリベリー・ハーンの首元に見とれているに違いない、きっとそうなのだろうと推量し、気もそぞろに放言する。
「理想として思考を作ったのよ。でもどの思考も一度として理想足りえたことはない。霧雨魔理沙もマエリベリー・ハーンを理想として作ったのかな?」
 泣きそうな顔で霧雨魔理沙は私に抱きついた。
「もういいの」
「だからこうなった」
「マエリベリー・ハーン、そんな事を言わないで、抱きしめてあげることでも、あなたの心は非言語的でありつつも断じて認識可能な、ある心地よさに染め上げれるんだよ」
 艶麗なしびれが表皮を覆う。
「待って霧雨魔理沙、私の体は汚い。私は愛を欲している訳ではないわ。そう、例えば近所のスーパーの話。知っているかしら、ご存じかしら、毎月十五日の特売を? あらゆる金融空間の重力を、階層や主義までも取り込んだ並列化まで認めて、大量出血しながら、尚且つそう、私の解釈で言えば徳を積んであれという聖なる懇願なの。汚い油を使った胸焼け待ったなしの白身フライも許せる世界がそこにはある。アクリルアミドも血漿でダンスをして春を言祝いでいる」
 抱擁を解いた私は満面の笑顔でくるくる回る。
「私も、私の親も、親も、蓮子も、菫子も、みんな幸せだった」
「そうだぜ。ここでは悲劇など起こらない。ここは皆が修辞的に永遠に詩的に平和に暮らす世界という宣言でもって逐次的に構成されるのさ」
「この打ち捨てられたルールブックによるとそのような宣言の後でもあるブギーマンがチェーンソーで私らを血祭りにあげることや世界がミキサーにかけられて唐突に終わるということも違反でないと書いてあるわよ」
「あーあー」
 霧雨魔理沙は耳を塞いでうつむいてしまった。
「杞憂。杞憂。聞こえない。今現在起こっていないということは起こっていないということで、もしそれが始まったらどうあがいても始まってしまったということだから。やめて、やめて」
 物干し竿でできた棒人間が低く太い吠え声を出し、チェーンソーのエンジンがぶるぶると取れそうなほど震え始める。身体の底が音波で震え、恐怖で思考がひりつく。
「……そんな。また、無駄死にだというの。私は、また失敗したの」
 巨大なピンセットで手足を捕まれた霧雨魔理沙が身もだえをしながら絶望のうめきを漏らす。
 些細な唇の掠れが耳に届く。
「幸せになるためなのに」
 すぐに四肢が引き裂かれ、チェーンソーがボロボロになる。棒人間は私に向かって別に取り出した刃が乳幼児の犬歯でできたチェーンソーを振り乱しながら突進してくる。
 霧雨魔理沙の帽子が踏みつけられる。キュ、と青虫を踏みつぶしたような音がする。
 私の身体が殴り倒されて空を飛び、ぐしゃりと血だまりに沈みゆく。
 でも私は消えない。
 血がゆっくりと広がっていく。棒人間は苛立ち、地団駄を踏みながらチェーンソーを私の目に入れ続ける。ぐるぐる回る錆びた歯が私をえぐり取る。でも痛くない。痛いとおもっちゃだめ。
 ぐるぐる。ぐるぐる。
 どれほど時間が経っただろう。
 海の底で私は腐る。
 ガスで膨らんでいく。
 息苦しい。
 石を抱いている。
 沈んでいく。
 朝になる。
 夜になる。
 何年も。
 腐っていく。
 骨になる。
 私は流される。
 岸辺につく。
 土がつく。
 流される。
 草が根付かない。
 生命が終わる。
 一面が白い砂浜となり、血肉は風化し、骨は水晶となる。寄せては返す海辺が、生命の芽吹きを洗い流していく。
 透明な私の胎盤を、綺麗なさざなみがさらっていく。
 芽生え始めた双葉が、根ごと洗われる。
「お願い、やめて、最後の生命なの、さらっていかないで、その子を、さらっていかないで。命が途切れる。何も生まれなくなっていく。命がなくなるの」
霧雨魔理沙はフェルトの帽子を押さえ、嗚咽を隠さずに告白を続ける。
「あげたかった。見せたかった。美しい世界を教えてあげたかった。自由を、空の飛び方を。そして教えて欲しかった。魔法にはもっと素晴らしい使い方があるのだと」
「ねぇ、霧雨魔理沙さん、私たちに取り付いているものの話でしょ。それは何」
「お茶を飲みたいという気持ちだ。霊夢」
「はいはい」
 弁護士のようなスーツを着こなし。だて眼鏡を付けた博麗霊夢が空からびたんと降ってきた。
 そして私たちにスチール缶入りのお茶を配る。人肌だ。愛情の温度だ。
「霊夢は実は蓮子の方が好きなんだ。でも私はマエリベリー・ハーンのほうが好きだぜ。メリーはベリー可愛い。これは真理なんだ」
「メリー覚えたのー」



 パチリ。



 映写室から伸びる光。
 カラカラカラ。


 フィルムのカウントダウンがはじまる。
 5
 からからから。



 夕焼け こやけ
 まんしょんの一室。

 あたたかい日差し。

 窓から そらをながめる。

 こどものわたし。

 踏切が信号音を鳴らし続ける。
 通学路を示す標識。
 電車がぶつかり、標識に血が飛び散る。

 血涙を流し、衣服がボロボロの八雲紫。
 艶麗な装いで隙無くめかし込んだ金髪の女が私の肩を揺らす。
「はやく! 夢を止めて。私たちが、私たちの」
 青い沈澱とミントの匂いの液体。舌に落とすとしびれ、有機溶剤の味がする。
 おぎゃあ おぎゃあ。

「これが、夢?」
 映画のフィルムが周り続ける。
 からからから。
 4


「この煙の味、タバコとはまた違った美味しさがあるわね。この味がまたいいわ。どんな銘柄でも同じ。モノが燃える煙なのかしら」
「ごほっごほっ」蓮子は私の咳き込んだ姿に苦笑した。「ゆっくり吸いなさい。すぐに吐き出しちゃだめ、肺に溜めるの」そうして蓮子は深く煙を吸い込み、じっと秒針を眺め、十秒ほど経つと煙を吐き出した。私も蓮子の真似をして、深く煙を吸い込む。そして肺をパンパンにし、顔面が熱くなるまで息を止める。蓮子が焦ったように私の頬に手を当てた。「だめ! 吐き出して、長すぎるわ。なんてことを、メリー!」重力感覚が消失し、加速する動悸は心臓が破裂するまで無限に短く、強くなり。ドクドクと胸を押し上げる血管と、脳みその疼き。
 いわゆる回復体位にも救いはない。呼吸の不随意による酸欠過呼吸、または胃腸停止によるガスの排出困難。緊張からの脊椎への負担が発生する。だからといって動けば胃腸への負担からの血管の苦痛。
 立とうか。
「あ、無理」立ちくらみでどこに居ようと地獄でありようは身の処しどころがない。「そうよ、水分補給よ。私のスペシャルな水分回復ドリンクを飲まないと」容赦なくおそってくる渇水からの低ナトリウム血症または塩分過多からの血圧上昇。じぶんが塩分不足なのか水分不足なのかまったく把握できないまま、渇水のままに水分または塩水を摂取し、何リットル飲んでも改善せず、ミネラルは排出され、何が原因なのか、何が悪いのか、不快感だけが先行し、改善のためにしていることが、より悪化するためにしていることなのか、何が正解なのか分からないままとにかくこの地獄を抜けようとする死の体験消化器系からは大量のガスが出て、お腹が張り、常にガスを放出していなければ腹部膨満による血圧上昇、毒素の再摂取により少しの動作で血管が破裂するような頭痛、心臓の痛み、意識の明滅が起こる自律神経がメタメタズタズタになり、いくら意識しても呼吸が上手くいかず、自分が酸欠なのか過呼吸なのか分からないまま激しい頭痛が起こる。弛緩と緊張も把握できず、循環系が死亡して血圧が乱降下し、意識がもうろうとする。
 くるくる。からからから。
 宇佐見蓮子先輩!
 大学の論文が発表される!素晴らしい、喝采、スタンディングオベーション!
 3
 くるくる。からからから!



「何をしたっていうの!? 私が、………誰か、誰かお願い、助けてください!」
 私は往来を走る。ボロ切れと汚物を纏い、不潔な髪と痩せた身体を震わせながら、天に助けを求める。
 助けて。誰か、私は大声で叫ぶ。
 助けを。
「殺されるんです。私はご飯もお水も与えられないのです。私は家畜といっしょに寝ています。家畜のエサも与えられません。食べ残したエサ籠を舐めて生きています。お願いです。誰か! 私は霧雨魔理沙です。お願いです、誰か、助けてください!」
 しかし誰もが、私に冷ややかな目線を投げかけ、先へ急ぐ。
 私に許された方法は、大声で助けを求めることしかなかった。
 私は分かる、多分私は、今夜を越えられない。身体の限界だった。もう一日だって耐えられない。指先が痺れ、呼吸がうまくいかない。足がもつれる。
「お願いです。追われています。殺される」
 通りかかった家に入って、涙ながらに助けを求めるも、箒で追い立てられる。
 私はついに力尽き、大通りの真ん中で地面に伏した。
 枯れたと思っていた涙が流れです。
「ひっく、お願い。誰か。助けて。どうして声をあげても助けてくれないの。私が汚いから。私が一人子だから」
 目の前に貧しい干物と玄米がもこもこと湧いてきた。
 手を伸ばそうとすると赤鬼が金棒を振り下ろして地面ごと粉砕する。
「食べるな!」
 振りかぶり、豆腐を投げつけられた。
 額にぶつかり、ぱりんと音がする。あの豆腐も私たちの家族の思い出なのに。私は怒りでぐちゃぐちゃになった頭で立ち上がり、絡む舌で対抗した。
「ふざけないで。どうして私が食べられないの。このご飯だって私のお父様のお金なのでしょう」
「ぐちぐちいうな! ばか!」
 髪の毛をつかまれ、平手打ちにされる。
 私は悔しさと憎悪で涙が出てきた。
 そのまま私は髪を引きずられ、庭先に引きずり出され、足裏で蹴飛ばされる。
 巫女様。あの巫女様みたいに力があれば。
 あの山の上の巫女様のように、空を飛ぶことが出来れば、妖怪を退治する力があれば、私だって自分で生きていくことができたのかもしれない。
 襟元を捕まれる。私は地面を引きずりながら、顔をくしゃくしゃにして天を仰ぐ。
「いや! いやだ! 戻りたくない」
 涙で空が歪む。絶望に歪んだ白い空。
 手を伸ばす。
 巫女様、あなたなら………。


 2

 膜に包まれた紅色の脳裏にはいくつもの相反する感情が、拡大し渦巻いた。キャンパスには個人的な破局のまたたきが、老い、病や、労苦が、無理解が、超えることの許されない世界の壁が、もがき苦しむ見放された人間たちの胴体とともに絶望の絵の具で塗りこめられていた。いずれもが蓮子でありマエリベリー・ハーンだ。善しきにつけ悪しきにつけ、覆せない現実を水のように鯨飲し溺れている。
「ダメですわ」
 のどの奥で怒りや同情や、誇りや嫌悪が、焦りや満足が、輪になって丸まったものが支え、息ができなくなった。何なのだ? この理不尽は。どうして意思するだけで、あり得べき幸福が手に入らないのだろう。意思のとおりに何もかもあるのが、もっとも自然な世界ではないのか。火が手のひらから出るように、何もかもが私の心持で……。
「ダメですわ」
「……」
「あ、やっと気付いてくれました。ほら。何か言って」
「何故か声が届かない。私は周りの営みの全てを理解できなくなって、ただ一人異国へ放り出されてしまったの。どうして? 八雲紫さん、私はそんなにおかしなことを言っているの」
 八雲紫に詰め寄った私は、彼女に腕をつかませる。
「ぎゅ、と、握ってみて。この私の腕、この腕は、一般的なイヴの娘の手。こんな枯れ枝みたいなのが何に抗い得るというの。弱い。細腕の痙攣は蚊と腕相撲するのを趣味とするのがせいぜいよ。最初私は蓮子を助けられなかった、そして次は私も。何故。何故どこまでいっても異人なの」
「どんな助けが必要ですか」 
「なら力が欲しい。そうすれば、あなたたちにもっと強い言葉で語りかけてやる。お前達の魂に届き、刻みつけてやることができる火花が欲しい……」
 霧雨魔理沙が私の身体から生えだして八雲紫の首を絞める。
 八雲紫は私をいきなり抱き締めた。
「あなたは立派です。尊敬します」
「い、いきなり何を」
「私があなたを許します」
 扼咽されながらその柳腰で私を抱く八雲紫の体臭に埋まる。
 私は自分の目から涙がこぼれたことに驚いた。
「何、なんで」
「あなたはとても危うい状態にあります」
「離れろ。抱きしめられることで人間は安心し、満足を得ることができる! 確かにそうだろう。だが私は、私は、こんなことが、少しお前に慰められたからといって信念が自分の体に支配されることが認められない。私は正常だ。危ういとおもっていなければ、危うくないのだ。いかにもやり手ババアのやりそうなことだ。お前の慰めや、私の安息ですらもそうだ。それは私の思想とはまったく別のところにある」
「でも戻せます」
「違う。時を巻き戻せない以上、私は罪に殉じるしかない。やり直しなど無意味だ。過去の衝動に突き動かされたまま生きていくしかない。なにをおいても私たちはこの幻想郷で死んで地獄に行くわけにはいかない!!!! ま、まて引っ張るな霊夢。幻想郷に破滅を!!!! くたばれ、地獄におちろ人殺しども!!!!」
 くるくる。
 からからから。
 あああ、すべて収束する、私なら、次の私なら分かってくれる。これが終わるまでに私の仕事を。

 しゅぽしゅぽ。チャカチャカ。
 巨大な原色のオウムガイ。
 それは宇宙の他のオウムガイとの交信機械だった。
 緑色の色彩がフィルムの疵のように、柔らな雨の雪のように、壁に浮かぶ。
 小さいオウムガイも大きなオウムガイも、全てが宇宙越しに通じ合っている。
 しゅこしゅこ。

 世界が終わるまでに、前の私から引き継いだ仕事を。ああ、今なら分かる。この世には、私とメリーのような優しい人間と、歪で醜い人間との二種類が居て、戦争をしているんだ。私たちが勝たないと。
 からからから。
 1

 ここれでこれで、わわたしは。虫が、ゴキブリが這い回る。いっぱい、息ができないのに動けない。巣を作っている。私の顔のうえで交配し、卵を。ああ、夢、こどものころ、夕焼け。カーテンコール!!!!!
 やがて団欒は散けぬ。

 くるくる。
 からからから。
 放漫な音と共に、抱卵し、私の精神が崩れ落ちる。バラバラになる。散逸する、星屑の重元素の散乱と結合が繰り返し、認識の濃度が勝手にいくつも発生し、記述が乱脈し、私は認識の文法を喪失する。

 掌から命が抜け落ちていく。
 取り戻せない。
 力を入れても、中心に集まらない。
 ほどけていく。
 手からこぼれおちていく。するすると、重力のなくなった星のように、私から命が逃げ出していく。

 あ、死んだ。
 いま死んだ。


 これが、死だ。


 ぽちゃん。

 ぽちゃん。

 蛇口の水音。

 体温が戻り始める。

 時計の針の一杪が、一秒を刻んでいる。離脱感。

 脊髄の冷たさと痺れの質が変わる。

 死から。

【逃がさない……】
 逃げて、メリー。
 お願い。
 戻って!
 からからから。
 0


 血が。

 心臓に冷たい死んだ血がとどき、暖かい血が出ていく。めぐりが。

 戻ってきた。


「あああはぁァーーァァーーーああ! ァぁ? あ!……ア」


 分節し、繋ぎ、ひとつにする。
 再び結界は自我のスープを結び界い合わせる。

 そして私は蓮子ばかりでなく宇佐見菫子や博麗霊夢、霧雨魔理沙、八雲紫といった精神と混じり、重なり、分かたれ、元通り、マエリベリー・ハーンが形作られる。
「まだ生きていますか」
 虫籠窓からの千路とした光が、遠くの山稜から駆け下りてきた陰にへし潰されていき、翼にあるこの部屋を通り過ぎていく。
 八雲紫は夢の余韻に頭がぐらぐらしている私を辛抱強く待っていた。
 地滑りのように揺れ動く想像の裂け目がゆるやかになり、脳の塵が払われつくす。指を降って、胸に手を当て、夢の名残を消沈させる。
 じっと、見つめあう。
「あなたは」
 指を指し、私を同定するかのように胸の中央を捉える。
「何だか初めて出会った気がしませんわ」
 当然初対面ではなく、変節した私への彼女一流の諧謔であった。白々しい冗談を受け流した私は、ぼんやり彼女の顔を見ている。筋が動くたびに神経が毒で悲鳴をあげ、身体が痺れる。涎をぬぐい、苦労して言葉を択み立てる。
「ぜんぶ、まぼろし、だったのね。わらっていたの」
「たわいないことですよ。私とあなたの差なんて、金平糖一粒ほどの知識が溶けるぐらい、熱々のコーヒーの最初の一口が飲めるようになるぐらい僅かな時間で埋まるほどのものです」
「まぼろし、あれが、うそだったの」
「正気に戻りましたか」
 問いに対し、飛び出たのは懇願だった。
「……もう、許して欲しいの」
「何を?」
「能力なんていらない」
「怖い思いをしましたね。でもあなたを虜にした眠りの海の滴にはウソもあれば真実もありました。夢で出会った人たちは本物ではなく、私の血を縁として呼び出した記憶の幻想でしょう」
「何が目的なの」
「黒幕扱いですか」
 泥酔したときに勢い込んで飲んだ水が酢だと気付いた表情で八雲紫は顔をしかめる。
「では黒幕らしく」
 掌を向ける。いじけた枝を張ってぼつぼつ生えているイチョウの木のように指を折り曲げ、私の顔面に手をかざす。
「このまま全部奪ってあげることもできましょう、が。そもそも自分の血から解放されるための方法があるではないですか。蓮子さんはそれを試しまして自由になりましたよ」
 間の抜けた釈義に驚愕した私は、次の注釈を加えたい気持ちになった。出産。すなわち支配からの解放は全て失った哀れな女性が望まれぬ子を育てたり、自殺したり、失踪したりする自由を提供してくれるだろうと。
「心ない言葉で私を捏ねて、釘裂きにしないで」
 彼女の腕を振り払う。
 よろめきながら私は彼女を押し倒し、お返しとばかり顔面に手を当て、力を込める。
「自由。そして、そしてみな、絶望の果てに早逝し続けてきた。じっと、あなたの眼差しに収めとられながら。いわば、彼女たちは公道上で虐殺されたのよ。博麗霊夢と霧雨魔理沙が宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーンに至るまで」
 能力を失った彼女たちは白袈裟を来てつづら折りの黄泉路へ向かう以外何一つ可能性を示せず、宇佐見蓮子が親殺しとなることで経歴の頂点となったのだ。
 あの夢は夢ではない。あれは混ざり合った記憶の告発だ。
 そして八雲紫の気持ちも含めて。
「八雲紫、今なら殺せる。私も同じ能力を持っている」
「導きましたから。でもまだ無理。人生諦めが肝心です」
 境界を操る能力は私のものとなっている。それは幻想郷、八雲紫、霧雨魔理沙といった私を構成する内なる要素のヒロイックな火事場の目覚めというよりも、八雲紫に助けられて自分の能力を伸ばしてもらったからであるのだが。
 彼女と同じ能力に至るにあたり、私だって彼女の気持が分からないわけじゃない。それに血の記憶は夢となり私に追体験の巡らさせた。少しばかり理解できたが故に、彼女の行いが私たち人間とはまったく異質であることも分かった。だがいい面も。
「そうね、もう出来ない。あなたのことも知ったから。ごめんね紫さん。韜晦はもういいわ。ねぇ、はー。好きよ。あなたが。マエリベリー・ハーンはね、あなたを受容れるから」
「ほう」
「誰もが知って尚許そうとはしない。でも私は、許すために知る。素敵な提案じゃないかしら、今からの私たちのように。どう、あなた、怖いのでしょう。あなた以外に、あなたと同じ状況で同じことを知るものが居て、でも、あなたを間違いだと断じるのが」
 背中には錯覚か、彼女のしんしんと降り注ぐ思索の重みを感じることができた。
「最近、外の世界では」
「なに」
「妖怪の目撃証言が相次いでいるようですわ。おかしいですわねぇ。それは『私たち』のものですのに。日ごと幻想に恋焦がれる外の世界に私たちの召還はもう、実はとっくの昔から、ずっとずっと臨界しています。きっと私たちに会いたい人はいっぱい居るでしょうねぇ。かわいそうに、居ればと信じ、創造し、描き、夢に希うでしょう。いつか大結界という幻想の逆止弁が、うふふ、ギシギシと限界のうめきをあげる爆発の絶頂が今訪れ全てが一つに溶けあうのだと。まだまだ、まだまだ。神秘は作られねばなりません。私の神秘、この幻想郷は八雲紫の思いの丈ですよ。だからずっとずっと、今更呼ばれても、あちらの世界にこれをあげたりするものですか、と私は頑張って幻想郷のほころびをなおしているのです。ああ、妖怪も妖精も神様も、悶々とラブレターを百万通重ねても、あちら側に何一つ、匂いひとつ、現出させてやりませんわ。ですが」
 ふぅ、と大きなため息をついて方を落とす。
「私は妖怪です。私にも私が刻み込まれています。いつも正しくはあれません。間違うこともあります。だから、私が最後まで思い通りにならないようにしているのです。あなたみたいな、外の世界で幻想を作るのことができる人間が増えるのを見守ったりね」
「今更なぜ私があなたの間違いっぷりを知らないと思ったのか分からないのだけど? この後に及んで私の前に巨大な謎を置いて目を反らす作戦なの?」
「およよ」
 泣き真似をする。
「ついさっき、私のことが分かったと言いましたね」
「ええ」
「どのように」
「たとえば、思考を頭ではなく舞台でする。脳みそがないのよ」
「およよ」
 八雲紫の理解されない行動は、彼女が内なる己と分裂することができない惑乱から始まっている。出自に縛られる彼女は己の内で自己を検討することができず、不可避的に外へ外へと試論が放出され、大脳皮質の放熱の代わりに現実を、己と分裂した可能態を陳列する劇場の舞台をお熱とするのだ。私の舌がもう少し軽く畏れ知らずであれば、自己を止揚せんとする迂回されたタナトスの象徴を召喚し、つつき、じゃれ合うことが、彼女に許された唯一の思考様式であると大上段に宣言するだろう。
 それは実際的には単に八雲紫が己を信じておらず、役割の決められた茶番ばかり企んでいるのだと他者に嫌われるということを示しているのだが、……人間が頭の中であらゆる考えを産み出し打ち消す思考過程の代わりに、彼女は博麗霊夢や霧雨魔理沙や、マエリベリー・ハーン、或いは宇佐見菫子をあおり立て、べたべた接し、言葉を交わし、戦い、足蹴にされ、それでも八雲紫は己でそれを望み、己であり続け、誰も滅ぼすことなく、つまり、そういったじゃれ合いの気の長い過程を経てようやく検討を済ますのだと。
「ちゃんと考えたいのでしょ、自分が間違っているかどうか」
 観念したかのように、八雲紫は真面目な言葉に戻る。
「そう、あなた方が持つ能力は、幻想郷から去った住人をもとにしています。名は博麗霊夢と霧雨魔理沙。彼女たちは幻想郷から立ち去るとき、私の能力と幻想郷と同じ仕組みをその身体に宿していきました」
「彼女たちの希望を叶えた。或いは、あなた、八雲紫以外の形が見たかったって訳ね」
「別に私が強いたわけではありません。遠い昔のことです。ですがその時には、子を産めば記憶がなくなるというようなことはなかったはずです」
「誰かが……、当ててあげる。はじめの女性の宇佐見姓は菫子から始まっていた。宇佐見菫子ね。きっと姓を残すのは本質ではないのだけれど、ヒントかしら。菫子は幻想に極端な憧れを抱いていた。誰かに刻まれた虚構の欲望を」
「それで」
「何者かに刻まれた欲望に突き動かされるだけの一族。幻想を産み出し、また幻想を神秘として隔離する人間。彼女は能力を捨て、束縛から逃げようとした。そして彼女は出産すると能力を失うというルールを付け加えたのよ。誰が耐えうる? 誰もが毀つ。そう言いたくて」
 宇佐見菫子は刻み込まれた能力から解放する方法を編み出した。それが出産し、少女時代を脱却するところで新しい人生をみつけるこの方法。菫子の自我は悲劇的にもこの引力からもがく強さはあっても脱する強さはなかった。
「まぁ、当たらずとも遠からずです。山勘。証拠はどこに」
「推理の本懐は総当たりの論理パズルを偶然一番はやく解くこと? 証拠は私の頭脳。言語化できない言語よりも高次の思考がより確かな答えを導いてくれる」
 それに私は探偵でも警察でもないのだ。
「えらいですわ」
「みっつ、聞きたいことがあるわ」
「何でしょう」
「私たちの能力は何のためにあるの」
「霊夢と魔理沙からの贈り物ですわ。幻想郷の外でも幻想を探求できるように」
「宇佐見菫子を係累に持ったない私が子供を産むとどうなるの」
 私の祖先は宇佐見菫子じゃない。じゃあ私が子を産めばどうなるの。私は何故子供を産もうとしているの? 蓮子は記憶を失った。じゃあ、私は、どうなるの? 誰が私に子供を産ませたがっているの?
「どうにも。あなたは未知を求めている。それが最も身近で大きい未知へ向いただけ。呪いは宇佐見蓮子の症状を再現しようとしているに過ぎない。本来、あなたが子供を産んでも記憶も能力も消えません。……あなたが望まない限り」
「さいご」
「こわいですわ。何が飛び出すのやら」
「博麗霊夢と霧雨魔理沙はどこに居るの」
「……あちらで元気にやっていますわ。ごくごく幸せにね。あなた方のことは多分知りません」
 やっぱり。
 これは単純で壮大な失敗劇だ。
 皆が皆、自分と同じ状況を与えたかった。宇佐見菫子は絶望から、博麗霊夢と霧雨魔理沙は希望から。そして八雲紫は寂しさから。自分のようになってほしい、だが自分よりもうまくあってほしい。それだけだったのだ。
「で、私は戻れるの」
「オーバードーズで半死半生ですが、戻ればまだ生き延びることができますよ。戻りますか。こちらには菫子さんや、菫子も居ますよ」
「だと思った」
 あまり驚かない私にがっかりしたかのように問う。
「どうして」
 理由は何か。能力の回収、魂の回収、幻想郷に訪れたとき縁を結ばれたか、或いは何かの役割に力を持った外の人間が必要だから。いいや、好きなので助けたいのだ。だが彼女独特の方法で。
「あなたなら、そうするから」
 八雲紫は目をきらきらさせて感激する。
「そう、自己が自己であるために、自己を押しつけるのではなく、逆説的に他は何もかも、何もかものまま許し、受容れることが必要です。私も、八雲紫もまた八雲紫が、そうあるために。ですから! 私はあなたたちの努力も止めません。霊夢も魔理沙も、菫子も蓮子も、ぜんぶぜんぶ、愛しています。助けてあげます。ええ、あなた方があなた方の思うことをした後で、結果を受容れた後で、それから、助けてあげます」
 と、冗談めかして口角をつり上げた。目を細めながら、窓外に漂う気配に想いを馳せている。
「それで好かれると思っているの。・・・・・・思っているのね。性悪ね」
 はぁー、と八雲紫は大きなため息をついて肩を落とす。
「少し通じ合ったと思ったのに。私はいつでも。どうして誤解されるのかしら。涕涙共に降る告白劇を一席打てば、爾汝の間柄となることは理解できるし、ちゃらんぽらんを繰り返すことを選べば、この部屋の眉毛が全部吊り上がることは分かっているの。でも、聞く耳のある人は聞いて、私は本当に、衷心からの言葉しか口に出さないし、実は、ただこんなふうに振る舞うしか知らない憐れな精神の持ち主なのよ!」
「蓮子はいるの」
「はい」
 意気込む私をたしなめるように手の平をあげた。
 そのとき足音が近づいてきて、誰かが襖を開けた。
「どうぞ」
 表情を変える。
「目が醒めたのね」
 宇佐見菫子が居た。
「え、いや、菫子、さん。はじめましてでいいかしら」
「はじめまして」
 菫子は含みのある笑顔をした。
「でも私が呼んだのは蓮子なのだけれど……」
「いますよ、里に。菫子さんが案内してくれます」
「あっそ」
「ようこそ幻想郷へ、まずは一枚」
 そして菫子は憮然とする私の顔にスマートフォンのレンズを向け、パシャリと人を腹立たせるような音を立てた。


「全部知っているわ。紫から聞いたもの」
 蓮子が住んでいる人里はごくごく平穏で、治安も良さそうな絵に描いたような牧歌的な雰囲気だった。
 少し安心する。彼女がもしも遊女に身を落としていたりしたら私はどうして良いか分からなかったところだ。
「なら絶対に言わないで」
 前を歩く宇佐見菫子に懇願する。
 分かっているはずなのに、にやにやと嫌らしい笑みを浮かべる宇佐見菫子。
 あの日夏のダム底で出会った雰囲気そのままだが、本人はやはり覚えていないそうだ。
「何のことを?」
 形容枯稿と植わった桜、街の一隅で売られる飴や焼き物の蒸気が殷賑と波折り綯い、憧憬を徴す。これから先、永く思い返すのは劇的なエピソードではなく、この印象だという、そんな確信。
「その、私が蓮子を失ってから自暴自棄になってドラッグにハマってたことよ」
「どうしようかしら」
 でも私にだって彼女の弱味を知っているのだ。
「言ったら、あなたが子孫に呪いを残したこと言うから」
 菫子は静電気たっぷりの指先を耳たぶに押しつけられたようにびくりと反応する。
 そう、宇佐見菫子は自分が能力に突き動かされているといって無い腹を立て、平穏な日常を追い求め子孫もそうあれと決めつけ、能力を失っても生きていける仕組みを記憶の喪失と共に仕組んでしまった盛大なやらかし人間なのだ。
「だ、だから説明したでしょ! 普通に生きて欲しくて、能力を捨てる方法を作っただけだって。悪意のほうが少ないの。まぁそりゃ、ちょっとは世を恨んだりしたけれど」
「それで失敗して大量殺人鬼になっていれば世話はないわ」
「ちがっ」
 菫子は立ち止まり、これだけは説明しておかなければといった使命感に溢れた反論を行う。
「失踪も死亡もあちらの世界とつじつまを合わせただけ。結局みんな幻想が好きで、この幻想郷に来てただけって分かったでしょ。それにそう、仕組み自体は悪くないわ。能力を捨てたい人だってやっぱり居るもの」
 そう、そうかもしれない。でもそれは。
「急すぎるのよ。誰もが怖がるわ。少女から大人になるのは誰だって不安なのに、何の説明もなく能力と記憶が消えるのだもの。だいたい、幻想郷に招いたのもあなたの功績じゃなくて、八雲紫の親切心でしょう」
「えーん」
「見てください宇佐見家のみなさん、引き起こした結果に比べてこの軽い態度」
「だってとどのつまり、死んだ私がやったことだしー」
 宇佐見菫子は現世へ帰ることができず、かつての菫子ですらない。既に死んだ宇佐見菫子が幻想郷へ紛れ込んだときに取り残された夢の形見が動いているゴースト菫子らしい。彼女は永遠に彼女のまま、ここ産まれた幻想郷で日々を繰返し、日常の写真をクラウドストレージへアップロードし、訪れた子孫をからかい続けるのだ。宇佐見菫子の行動様式のエコーとして。
 しかしだからといって本物は死んだので彼女は偽物であり、せいぜい昆虫レベルの魂の質量しか持っていないのだと見下すことは適当ではない。確かに傘を部屋を歩くときにも差すことのできる才能があれば、神の似姿として象られた人間が堕罪により肖を失うに至ったといった神話を無限に適用し、同じようにロボットやサイボーグや人工生命体やゴースト菫子が失われた人間の肖に憧れており、我々は庇護者面して天助を与えるのだという神話を無邪気に信じ込んで行動様式とすることができるだろう。しかしながら私を振り駆りながら歩くこの女については片目で見たところで半分になるタマではない。
「ばかなんじゃないかしら、私以外の秘封倶楽部を名乗る人間って。蓮子も良い子なんだけれど、やっぱりきっかけあるとプッツンしちゃうのかしらねー」
 それに宇佐見菫子が昆虫レベルの脳の質量しか持っていないことについては議論してもよいだろう。
「別人だから責任は無い。向ける先が違うって? とんだ逃げ口上ね。だったら毎時私も別人よ」
 しかし彼女のせいにしたいわけではない。他の誰かの不良品とも思わない。軽い冗談交じりの言いがかりは癖のようなものだ。
「そうね。これから初対面同士、仲良くやりましょ」
 そうして私は蓮子が住んでいるという家の前まで案内された。
 田舎の農家を思い出すような門構えの、なかなか立派な家である。
「じゃあ若いものに任せて、私はこれで」
 石畳をこつ、とつま先で鳴らし、宇佐見菫子はいそいそと長屋門の前から立ち去る。
「永遠に若い姿のままそれ言うって、嫌味よね」


 家の周りには水路が通ってある。
 真っ白で手入れの行届いた石橋を渡り、黒ずんだケヤキを触りながら主門から、少し悩んで、足を踏みいれる。
 こんにちはもないだろうと、時代がかった表現をすることにした。
「たのもう」
 少し離れた場所で縁側で座りながら本を読んでいる少女に声を掛ける。
「メリー」
 いかなことか蓮子はトレードマークのフェルト帽を卒業し、映画のような海老茶袴を着てがとたとたとこちらに小走りで近寄ってくる。彼女に意を致す子女諸姉は新鮮な装いに紅涙をしぼることだろう。
「メリーなの。うそでしょ」
 彼女と抱き合う。
 その時の私の胸に押し寄せる複雑な感情は、最上級のワインの香気成分の伽藍というよりも、アロマホイールで福笑いするような愛憎半ばし、悲喜こもごもぶちまけたもので、漸を以ても飲み下せない正体不明の衝動であった。
「そうよメリーよ。そういうあなたは宇佐見蓮子? 何コスプレしてんのよ。ばか」
 私は蓮子の頭を撫でて、肩に手を置く。
「メリーはどうしてここに」
 少し悩んだすえ、言い訳をすることにした。
「……私はここへ来る方法を知っているから(この婉曲な言い回しを八雲紫が聞けば憎たらしい笑い皺を作ることだろう)。電車に乗って、知らない駅で降りたら紫さんが居て。それより、蓮子、いつからここに。まさか、ここに住んでいるの、子供のいない夫婦って聞いたけど。大丈夫?」
「誰に聞いたの」
「宇佐見菫子よ」
「えー、まぁ、大丈夫よ、っていうか、住まわせてもらっているわ。良くして、……もらっているわ」
 引っかかりの悪い彼女の言葉の理由はすぐに明らかになった。
 客間に案内された私がお茶を持ってきた中年の女性を見たとき、愕然として腰を抜かし、肌に触れる微風が産毛をうつことすら全宇宙の脈拍に拡大されたかと思ったものだ。彼女を引き取った夫婦とは紛れもない彼女の育ての親で、つまり蓮子の両親は幻想郷へ招かれて再び親子を続けているというご機嫌な首尾であった。
 何気なく私を友人と紹介した蓮子と歩調を合わせるかのようにその女性に曖昧な挨拶を交わし、じっと彼女が退室するまで質樸と背筋を伸ばして微笑んだ。
 そして襖が閉じられると同時に大きなため息をつく。
 決まり悪げに蓮子が頬をかいた。
「説明は必要ないわよね」
「こちらの寸感の表明も必要ないわね」
「聞きたくない訳ではないわよ」
 会話が一旦中断する。
 甘い。
 お茶の甘さが染み渡る。蓮子と二人、静かに時を過ごす。
 そして結局、私は自分が薬物中毒者であることも、自己に酣酔した宇佐見菫子が余計なことをしたことも、倫落の淵の底まで全部喋ってしまった。
 蓮子は呆れたように肩をすくめる。
「……みんな、バカばっかりね」
「それだけは真実ね」
「両親へは謝った?」
 蓮子は目を反らす。
「一度は。でも、もっとちゃんとしたいの。タイミングが分からなくて」
「何故自殺したの、子供が理由なの」
「違うわ。子供は希望だった。新しい生活の灯台として」
 そう、ただ一人の女性として、秘封倶楽部であることも忘れて生活するため、子供を産みたい。それは未だ往事の姿を留め置く思い出を展翅板に据え玉針を取りつけることだ。秘封倶楽部という思い出を褪色させたい。ふたたび蘇り、戯謔の羽ばたきの鱗粉を吸い込まないうちに。
「だったら何故」
「死ぬ理由。ないわ。あえていえば、ただ、ねぇ、死の誘惑に、或いは特別な概念だという考えに腹が立ったの。だからこちらから死を殺してやったのよ。死よ、お前はただの運命の棒倒しに過ぎない。どうでもいいことだってね。宇佐見蓮子は理由なくそれが出来るのだと」
「ぜんぜんわかんない。なんだか、どういう顔をしていいか分からないわ」
「もう私にも今ではわからないわ。同じね。でも眠り込んで、死ぬときに、最後にごめんなさいって思ったの。メリー、ずっと謝りたかった」
「そう。いえ、ショックだったけれども、蓮子の顔と声でそう言われると、もっと酷いこともいっぱい許してきたから」
 寝転び、畳みの匂いを吸い込む。天井を眺める。
 ぐるぐると、目の中の体液が廻り視界が歪むが、すぐに静かになる。
「子供、産まれたわよ」
「知っている。最悪の結末ね。私を許さない?」
「いいえ、もっと酷いことも許したから」
「私何をしたのかしら」
「いいじゃない」
 伸びをして、身体を起こす。
 私たちは老い。そして死んでいく。人間は見たい光景しか見ることしかできない。絶望も希望も。
 一歩も進むことができない。死ぬ直前までこの厭世の縷述による瀰漫を劃することなく繰返すだろう。
 何もない。
 生きていくことと折り合いなどつけることはできない。私たちは答えを拒む。このまま寿命が尽きるまで、中空で首をつりながら。
「何を言ったところで」
「ハッピーエンドじゃないけれど」
 本当に? こんな結果を認めるのか? 例えばジャン・クリストフが音楽を知らず、エドモン・ダンテスが素寒貧で、ファウスト博士が文盲で、恐るべき子供たちが実は一人っ子であるかのように、秘封倶楽部が軽率な親殺しと薬物中毒者のコラボレーションであり、実はあるべき何かがあれば別の何かになれたのではないのか?
「いいの?」
 それとも、その何かは最初から描けない無理な妄想だったのか。ゆえに、モラトリアムの衣を失い剥き身となった私たちは世の辛酸にマリネされ、秘封倶楽部は失敗作の不味いランチとして夕べには腐臭と共に歴史の下水管へと流し込まれ、軌跡は暗闇へと巴の字のごとく渦を巻き消える運命なのか。どうやってもその他大勢の生の端書の域を出ず、偶発的なエピソードを散乱させるくず物屋としてしか私たちは青春を準備できなかったのか。
 恥という言葉は秘封倶楽部のために作られ、私たちの前には誰も発明しなかったお誂えの言葉で、寒い季節しかなく、いまや月は落ち鳥は鳴いて霜は天に満ちるのか。買ったカブトムシは世代を継ぐことなく枯れ、洗濯物を干したときに雨が降り、おはようを語りかけたクマのジャムパンは極みなき沈黙を返し、隣りの家では独居老人が腐るままに捨て置かれ、道では逃げ出したペットの亀の親子が潰されてアスファルトの溝に肉をジャーキー状に残し、高い服は素面では着ることなくダマされて売りつけられたことに気付き、誕生日に友達から貰ったワイングラスは喧嘩のついでに割れるのか。つまり、つまり、蓮子と結婚すれば幸せだったのか。だから、だから、気分が鬱々とした時にも電子決済はワオーンニャンニャンと陽気に鳴くのか。この連中を似合わしい運命として受容れられなければならないのか。さらさら、葉擦れの音。綺麗な太陽が庭の緑をほの白く綾なす薄膜で安らかに染める。かわいい子雀がつぶらな瞳を向ける。何年ぶりか、心情的にも晴の午後。これら全ては本日のお慰みのランチセットなのか。
「答えは出ない。結局、何も進んでいない。また最初から」
「だったらここには寿命を延ばす薬もあるみたい。永遠に生きてみたくない? そうしたらずっと、こうやってくだらないことを続けられる」
「素晴らしい、それが正解よ」
 そうかもしれない。そうだ、きっとそうだ。時という無慈悲な厨宰に哀れな食材である私たちが刃向かえるなどという思い上がりを抱いたりしない。時から逃げるかわりに永遠に支配してもらおう。シャッポを脱いだ。価値を留め置くことなく、完成することなく、お日柄で気分をとりかえ、空際なき日々の曲折に居続けを打つこと、それが答え。単純で、だけれど、幻想郷ではそれができる。
 夢でもいい。我が手にあるのなら。
「反省の色は」
「ない。それに楽しかったでしょ」
「そうかなぁ」
「目が輝いているわよ」
「怒られても知らないわよ。また痛い目みるかも」
「蓮子と一緒にね」
 結局二人で居ればいいのか。それも違う。あらゆる全ての創作物は一行ごとに世界を規定していくのに関わらず掌握する領域は広げていく、紙幅は果てることのない無尽の景色を含隠る。言葉は拡散と集束を同時に行いながら、それでも物語は必ず最後の一行が訪れる。終幕までは全て真実でもあり虚偽でもある。堂堂巡りを潰やすのは、以上を持って擱筆とする、そのおしまいという呪文の結尾。物語における最後の審判とは、停止した時の中で意味を見つけることである。
 だけど現実は続く、紙幅は窮すれど尽きず。私はきっと一人になっても止まれない。蓮子もそう。きっと止まらない。失敗を続けて行く。永遠となった私達は私達自身を過去に流し、昨日と今日を忘れるだろう。下水は流れつづけ、それも良しとして、憂き世糸瓜の皮頭巾つってね、苦悩と喜びをあざ笑い反転させながら。貪婪に体験を飲みこんで。
「なんて」


【許せない】


 ここで終わっても良い。きっともうないこの瞬間。だから、私は夢の世界に半身をおいて戻ってきた。
「ごめんね蓮子、ありがとう。さようなら」
 夢の世界の蓮子とマエリベリー・ハーンには聞こえなかっただろう。
 引き戻された私はボロボロの部屋を見渡して、よろよろと立ち上がった。
 まだ生きている。よって、私は今や結果となることができるだろう。全霊を支配した青春の情動の結果・・・・・・私と蓮子の半生の明細として、別の希望や冗語に浸ることで過去を裏切る永遠となることなく、不感症でも健忘症でもなく、そしてこの先には一生何か別なことなどなく。
 或いは私はようやく全てを同時に選ぶことができないということを認めたので、許さないことを選び、この瞬間の押し花になったのだ。
 死んだ蓮子にはできないことでもあるのだし。
「私はもう幻想郷にはいかない。私は、私たちに殉じる。私は、私たちを許さない。生き延びて、無為に死ぬ」
 そうして私は蓮子の残した子の居場所を突き止め、蓮子と名付け、彼女を養子にし、若い頃の冒険を忘れて平凡な日々を過ごし、その子と反りは合わず絶縁し、やがて薬物の後遺症が身体をむしばみ人事不省に陥ると、施設で虐待されながら一生を過ごした。
 それでも私は最後まで自分を許せなかった。幻想を拒み、幻想郷のことを努めて忘れ、唯一の人生の意義として、秘封倶楽部になれなかった私自身を罰しながら。
読んでいただきありがとうございました。
tama
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コメント



0.70簡易評価
1.無評価名前が無い程度の能力削除
いつまでも覚えていたいような名作と 忘れてしまいたい名作があると存じます
そしてこの作品はまちがいなく後者でしょう
この作品のえがく世界も文章も まるで薬物中毒者の強迫観念で書かれたようなすばらしい作品だったのに!
この作品はたしかにすばらしくはありますけれども最後の最後に読者とキャラクターをからかうような悲劇を 取ってつけたように挿入してくれたのには失望した 少なくとも私は受けいれられませんでした
それは映画『ミスト』のオチと同種の不快感です
最後の数十行がなかったら この作品を永遠に記憶できたのに


わたしではこの作品を好きなれませんけれども この作品を好きになってくれる人が 現れることを願っています
2.100名前が無い程度の能力削除
最高でした
3.100終身削除
前半の辛辣な言い方と当たり方が多いけど感情の流しどころをお互いに分かっているような2人の関係がとても良いなと思い入れがあっただけにその後の展開はどうしようもなく心苦しくも目が離せなくなりました 所々の表現とか例えとか言い回しが鋭くその場の状況とか背景にあるものを言い表していてしまっているようで自分の中のこの作品の印象の大きいところでもあったと思います
メリーが最後に選んだのはメリーなりの責任の取り方として尊重して忘れようとしなかった事だし忘れたくても忘れられなかった事だったのかなと思いました
4.90奇声を発する程度の能力削除
何とも言えない展開でしたが面白かったです
5.100名前が無い程度の能力削除
この腐った臓物とゲロの匂いまみれた秘封の物語
そそわはたまにこういう作品が出るから侮れない
6.100モブ削除
この最期は作者様の自罰なのでしょうか。どちらでもいいですが。なんか色々書きたいことはあるのですが、陳腐に見えるので止めておきます。ご馳走様でした。
7.100名前が無い程度の能力削除
遺伝子に組み込まれた欲求を忌避してる筈の蓮子が幻想を求める欲求に支配されてるってのがなんかなぁ生きる意味とは
8.100名前が無い程度の能力削除
すげえなあ
熱っぽくて、素敵でした。
9.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしかったです。蓮子が持ってる矜持というか縋るものというか、自分が信じていた幻想の力が消えて自棄になったような心理が妙にリアルでした。後半に語られたの自殺した理由も負け惜しみの後付けのようで、ある意味では成長を感じ取れました。
なんやかんやで心情や行動が変わり続ける蓮子と、ひたすら執着してしまうメリーが何だか対比のように思えて、うまく言えないのですがやるせないなぁと。