* * *
底冷えのする、とても寒い日のことでした。
私はその日、人通りの少ない旧都の裏通りを、小走りに進んでおりました。行きつけの店で買い物をした、その帰りでした。
覚妖怪の第三の目は、着込んだコートの内側に押し込むようにして隠していました。
といって、こうすることで覚の読心能力が封じられる訳ではありませんでしたが、第三の目を晒し、周りの妖怪にやれ覚妖怪だ嫌われ者だと後ろ指を指されながら往来を歩くのは、当時の私にはとても耐えがたく、苦痛なことでした。
ですから私は盗品を隠す盗人のように、コートの中にそれを押し込め、その上に一抱えもある紙袋を抱え、裏道を進んでいました。
それは、周りから見ればとても不自然な格好に映ったことでしょう。ですが、その日は体の芯まで凍てつかせるような寒い日でしたから、平生より人けの少ない裏通りは幸いにしていつにもまして閑散としており、まるで生物という生物の消え失せたように静まり返っておりました。
だからでしょうか。平時なら聞き逃してしまいそうなそのか細い声に、私が気づいたのは。
(チクショウ、こんなところでしくじるなんてな)
私は、足を止めました。
そうして、きょろきょろと辺りを見回します。風にかき消されそうなかすかな声が、私のもとに届いた気がしたのでした。
しかし、声の主は見当たりませんでした。
そのまま無視しても進むこともできたはずです。しかし、私にはその声の孕む、どこかどろりとした、黒く濁った感じが少々気にかかりました。
その声は、何かのっぴきならない事態に直面している者のそれのように、私には感じられたのでした。
(だが、これくらい大したことじゃねぇ。傷が癒え次第、作戦続行だ)
私は、その声の主を探して、今来た道を戻りました。か細いその声を辿って、あたりを見まわし、先ほど過ぎた辻の角をひょいと覗き込みました。
なーぅ。
そこに、声の主がいました。入り組んだ路地裏の先の、袋小路になった行き止まりに。ごみだめに身を隠すようにして、キジトラ猫が、うずくまるようにして、こちらを睨んでいました。
(なんだ、誰だこいつは)
なーぅ。
警戒するような目つき。低く唸るような鳴き声。私は、キジトラ猫から目線を外さずにしゃがみ、両手に抱えた紙袋を地面にそっと置いてから、しゃがんだまま手を差し出しゆっくりと近づきます。
「大丈夫。大丈夫だよ」
私は貴方に危害を加えない。精一杯身振り手振りでそれをアピールしながら、私はにじり寄ります。
動物は聡い。相手に敵意があるかないか、簡単に雰囲気からそれを察します。私は地霊殿でのペットとのふれあいから、それを学んでいました。
こうやって、敵意がないことをアピールすれば、仮に言葉は通じずともそれが伝わるはず。
(チッ、ヘラヘラしやがって。まあとりあえず、敵じゃねえらしいな)
キジトラ猫は、ふいに興味を失ったように私から視線を外しました。友好的には見えませんが、少なくともこちらに向ける敵意はなくなったようでした。
そうして、手が届くくらいの距離までにじり寄ったとき、ふと、鼻先を不穏なにおいがかすめました。錆びた鉄のようなにおい。
血の匂い。
私は、まじまじとキジトラ猫を観察しました。見れば、彼は怪我をしているようでした。毛深くて傷自体は確認できませんでしたが、寝そべった彼の腹からはじくじく血が滲みだし、地面を赤く湿らせていたのでした。
私は、恐る恐るそのキジトラ猫に手を伸ばします。
(とにかく、地霊殿に襲う作戦はまだ終わっちゃいねえ。もう一回、別動隊と合流しねえと)
そこで、私ははたと手を止めました。この猫は何を言っている?
そうして、もう一度じっとそのキジトラ猫を観察します。少し汚れていますが、さらさらとした上質そうな毛並み。それは、とても野良猫のそれには見えず、だからきっと彼はどこかで飼われている猫なのだろうと思いました。この猫はただの猫ではない、と私の頭の中で警鐘が鳴り響きます。
(自警団に見つかるとはついてねえ。あの勇儀のヤロウ、正義漢ぶりやがって。何とか巻いてやったが……)
それからふいに、思い出します。そのキジトラ猫は、以前地霊殿で見かけはしなかったか。
地霊殿は、半野良も飼ってるペットも入り交じり、誰も全容が把握できないほどとても雑然とした動物屋敷です。私とて地霊殿の動物たちを全部は把握していません。が、よくよく見ればそのキジトラ猫は以前地霊殿で飼っていて、ふらりといなくなってしまったペットの一匹に似ていました。
さして珍しい柄ではありませんので、偶然だと言われればそれまでですが。
なーぅ。
(それにしても腹が立つのはアイツだ。古明地さとりのクソヤロウ。アイツさえいなければ。ニヤニヤとうすら笑い浮かべて、自分の都合で心の中を晒らし上げやがってよ。おかげでオレらのようなハグレモンはやりにくくて仕方がねえ)
キジトラ猫は、ひょいと立ち上がり、ふらふらとどこかへ去っていこうとしました。
ひょこひょこと不格好でしたが、それでも思ったよりもしっかりとした足取りでした。流れ落ちた血が、ぽつぽつと路地道を濡らしていきます。私の胸は早鐘を打ち始めました。何とか。この猫を何とかしないと。いや、猫だけではだめだ。
(アイツさえいなければ、旧都はもっと住みやすくなるのによ。アイツの目さえつぶしてしまえば。そうさ、盗みも殺しも、どんな犯罪もやり放題なのによ。へへ)
私は、私の脇を通り抜けて、去っていこうとするキジトラ猫を目で追いかけました。ぽたぽた、猫のたどった道を示すように、血の跡が続きます。この血の跡を辿れば、追いかけられる。別動隊とやらと接触する場所も分かる。ならば。
足を引きづりながら歩くその姿を見ながら私は――ようやく自分のすべきことに気づきました。
このままではいけない。何とかしないと。
私は、去っていこうとするキジトラ猫ににじりより、その頭を優しく撫でました。
「猫さん、ちょっと待っててね」
それに返事をするかのように、猫はなーぅと一鳴きします。
(ああ? 待つわけねえだろうが。あとちょっとなんだ。アイツに恨みを持つ半端妖怪たちを集めて、地霊殿に奇襲をかける。アイツに恨みを持つ奴なんざ、ごまんといるんだ)
私は、キジトラ猫を撫でると、おもむろにすっくと立ち上がります。
そしてそのまま、私は小走りになりながら、閑散とした裏路地を、地霊殿目指しました。
(そうさ、俺さえいればできる。元ペットで人型化可能な俺ならば、地霊殿の構造を知ってる俺ならば。あとちょっとなんだ。とりあえず別動隊と合流だ)
なーぅ。
背中の向こうから、まだか細い声が聞こえていました。
* * *
私は地霊殿にたどり着くと、正面玄関を横目に通り過ぎ、ぐるりと屋敷の外壁をたどって裏手に回りました。
いつもは使わないその裏口には、地霊殿のペットである黒猫が二匹、退屈そうにあくびをしておりました。私はその平和そうな顔を眺めてから顔を少しほころばせ、それから口を真一文字に結んで、裏口の取っ手をつかんで、引きました。
そして開いた扉に音もたてずにするりと忍び込むと、そこは厨房です。私は、迷いなくつかつかと進んで、棚の一つの扉を、ぐいと開きます。
そして、そこにひっかけるようにして置いてある、ソレを一つ、むんずとつかみ目の前に掲げてみました。
窓から差し込む薄明かりが、その長い刀身を、怪しくぬらりと光らせたことを、私は昨日のことのように鮮明に覚えています。
そこからのことは一瞬でした。私はその刃渡りの長い出刃包丁を手に、キジトラ猫の元に舞い戻りました。
ぎょっとするキジトラ猫、そこに一緒にいたチンピラ崩れのような妖怪たち。それらを、切りつけ、刺し貫きました。動かなくなるまで、念入りに。私は覚妖怪ですから、武芸をろくに嗜んでもいないようなチンピラ崩れの半端妖怪の動きなど、手に取るように分かりました。事は簡単に済みました。
そうして私は気づいたら、地霊殿の厨房に戻っておりました。
なんとなく気持ちにもやがかかったようなふわふわした心持でしたが、同時に心の奥底が冷たく冴え返っていたのを覚えています。そして私の心の冷静な部分が、私に問いかけました。「これからどうする?」
私は、自分がやったことにけして後悔はありません。現場に私がいた痕跡は注意深く消してきましたし、幸いにしてとても寒い日でしたから、裏通りを通って誰にも見つからずに行き来することができました。ですからきっと、私が口を割りさえしなければ、今日のことはひっそりと闇に葬られることでしょう。
ただ一つの例外を除いて。
私は、無意識に厨房の壁の方を見やりました。その方向には、もう一人のさとり妖怪――さとりお姉ちゃんの部屋があります。
当然、壁を透視などできようもありませんから、私はお姉ちゃんのことを思いながら壁を見つめていただけに過ぎないのですが、ともかく私が一番に気にしないといけないのは、お姉ちゃんのことなのでした。
人妖の口をふさげば、秘密は守られます。
ただ一つの例外――覚り妖怪さえいなければ。
私はしばし、目をつぶって考えました。
私がこの秘密を、たった一人血を分けたお姉ちゃんに知られず、墓場まで持っていく方法を。
そうして、ゆっくりと目を開けました。私はそのまま視線を、自分の胸に滑らせます。
私の第三の目と、視線が合いました。
覚妖怪の象徴。読心能力のみなもと。私とお姉ちゃんが、血を分けた姉妹であることの証。
私は、握ったままでいた包丁を両手で逆手に握りなおしました。そうすると、外に向いていた切っ先が、自然、私の体に向きます。
その長い銀色の刃渡りを、窓からの明かりが、より一層怪しく光らせました。
そしてゆっくりと正確に、その切っ先を私のぎょろりと見開いた第三の目へと向けました。
確かに、口をつぐんだだけでは、覚妖怪の読心能力――心の送受信機能を妨げられない。秘密を守れないのです。
だけどそれは、送信装置と受信装置が正しく機能している場合、の話です。
受信装置を壊せないのなら、送信装置を壊してしまえばいい。
私は、寸分の狂いもなく、躊躇もなく、その刃を振り下ろしました。
ぐちゅり、と嫌な音が、私の頭に、心に、響きました。
痛い。
痛い。
痛い。
でも――これでいい、という満足感がありました。
私は第三の目を塞ぐことで、心を閉ざそうとしました。
でも何故でしょうね。何故あのときの私は、第三の目を塞げば心を閉ざせる、と考えたのでしょうか。今考えると不思議なのですが、心を閉ざすには第三の目を無理やりにでも閉ざさねばならない、そういう確信めいた予感が私の中にあったのでした。
その予感は結局、事実として正解だったのですが。
激痛に身をよじらせ、悶えながらも、私が考えていたことは、なおもお姉ちゃんのことでした。
私は、痛みに耐えながら、頭の中のスクリーンにお姉ちゃんの姿を映していました。出不精のお姉ちゃん。いつも悠然としていて、薄ら笑いを絶やさないお姉ちゃん。
私の頭の中でお姉ちゃんは、いつも自信満々でした。私と違い、覚の能力をかけらも苦にしないような人でした。そうして、そういうお姉ちゃんが私は好きでした。
だからこれでいい。
私の後ろ暗い秘密は、お姉ちゃんは知らなくていい。知って笑顔を曇らせる必要なんかない。私はこうやって、秘密と一緒に自分を心の奥底に沈めればいい。
私の秘密は、私だけで完結する。
私の第三の目から、赤黒い血がぼとぼと際限なくあふれてきます。
それは私の衣服を赤く染め上げることでしょう。そうして、私の衣装が真っ赤に染まり、きっと誰もが、その一部が他者の返り血の赤であったことなんて、気にも止めないことでしょう。
私は、くずおれるようにして、血だまりにうずくまりました。
遠くから、バタバタと騒がしい足音がしました。この惨状を見た誰かが、お姉ちゃんに知らせたのでしょうか。いや、それともお燐でしょうか? それともおくう?
近づいてくる足音が誰かなんて、うつぶせに倒れる私には、もう知るすべもありませんでした。
こいしの不安定さと不器用さが真に迫っていて面白かったです。