妹】金善暴『鳥』性脚貧【姉(Great Pornographie)
【終】わりし道の標へと辿りつかないために、名もない夜が降らないように、ただ善良でありたいと思う。いかに神さまと人間は“善”を追求できるのだろう……?
金、金、金、金、金、金、金、金。
私は何より金が好きさ。そして指で輝く宝石の光と、それを羨む貧乏人の羨望だけが、この魂を満たしてくれる。それだけが真実。
私の生きかたは、いつでも募金箱を司る“Bird”の赤羽とは無縁なのだ。これまではそうであり、これからもそうと決まっている。
……いつか映画館で見た、西部劇の決闘。荒野で構える男たちの汗を輝かせる、みかん色の夕日。それと同じ光がまさに今、大渓谷のようなビルディングをかいくぐり、私の座っているベンチを照らす。
空でBirdが鳴いている。あれはカラスだ。あいつと同じ、人間の廃棄物に縋る者たち。
道路の向こうには、選挙に立候補しているのだろう、おそらく共産主義者の街頭演説がおこなわれている。しかし、誰もその政治屋の卵の声に耳を傾けはしないのだ。
いくら熱っぽく語ろうと、その夢が九年ほどまえに、ソビエト崩壊とともに失われたのは、もはや周知の事実なのである。それでも彼は語りつづける。カール・マルクスから脈々と受けついできた思想の火を、この島国でも消えてしまわないように。
……それはそれとして。
ベンチで『友達』を静かに待ちたい身としては、その声があまりに煩わしいので、私は暇つぶしに近くの紀伊國屋書店を物色することにした。
『待ちあわせ場所の近くの、紀伊國屋書店にいる』
そう『友達』にメールを送ると、私はベンチから立ちあがる。
そのとき私の目は、たしかに向かいの政治屋と交わった。すると同時に彼の熱弁は、まるで南極の海水を浴びたように縮こまり、この距離ではもうぼそぼそとしか聞こえない。
この対面は西部劇だ。あるいは大審問なのだろうか?
政治屋の向かいでベンチを占領していた私は、自分で思っていたよりも、彼のよき聴衆だったらしいのだ。そして彼の前を大衆が無関心に通りすぎる以上は唯一の……。
私なら横断歩道を渡って政治屋に近づき、彼の思想の火の燃料になってやれたのかもしれない。
しかし私はそうしなかった。壁があったからだ。赤色の歩行者用信号と、それにまつわる車たちは、どうしようもない壁であり、その政治屋の目からのがれる口実だった。
それにしても私の感じている“見えない壁”はなんのために在るのだろう? 街の中には物理的な壁でさえ多すぎると言うのに、今さらどうして街の迷路に見えない壁を張りつけて、心の通路まで塞ぐのだろう?
……私が書店に向けて歩きだすと、聴衆の喪失に耐えきれなかったのだろう、向かいで政治屋のむせび泣く声がした。彼はその行為で大衆の感心を集められて、Birdがそれをカアカアと蔑んでいた。
Birdは大衆だった。
自動ドアを抜けると、冷房でひやされた鉄くさい空気と、書店に特有の尿意をもよおす(らしい)紙の臭気が、鼻の中を通りすぎた。夏の暑さで茹でられた体が、皮フと肺からひやされて身ぶるいしてしまう。
私は文学に凝っておらず、漫画のほうが好きだったけれども、今日は理由もなく足が小説陳列棚のほうへ動いた。静寂はびこる店内で、自分のブーツがいやにうるさい。
その音が人目を引くような気がして、私はビッコを引くように足を摺らせた。
政治陳列棚の前を通りすぎたとき、私の頭にあの政治屋がよぎってゆく。しかし、その“よぎり”も一瞬だった。無関心に通りすぎる棚と同じくして、心を占める割合はとても儚い。
江戸、明治、大正、昭和、平成の時代を私は駆けてきた。
それでも私は政治に目を向けたおぼえがない。疫病神はとても人間的な神さまであるのにだ。
いつも感心があるのはもっぱら他者から、すべてを奪いさることだけである。
ただ政治屋……いや、リーダー・シップを発揮できるならなんでもかまわない……その立場には興味がある。
学級委員長。家長。宗教家。総理大臣。大統領……とにかくそう言う立場の連中は、およそ一人から数億人の期待と不満を、その肩に乗せているわけなのだ。大勢に期待であれ不満であれ、自分のことを認められたら、どれだけ快いだろう。それは絶対に書店でブーツを打ちならしても、得られる部類の人目ではない。
それはとても情熱があって、何より高尚な人目なのだ。
そのうち不意に、小説陳列棚の下段あたりで、あるタイトルが目に留まる。
【善の研究・西田幾多郎 全注釈・小坂国継】
“善の研究”だと? ……私は鼻じろむ。
「うさんくさい」
つい独りごとまで口から漏れる。その“善”と言う文字に連想されて、頭の中で次々に、善にまつわる者事が、灰汁のように浮いては掬いとられた。
神さま。イエス・キリスト。仏門。清貧。
しかし、それは無意味な連想だった。私が善とは、真逆の生きものだからである。
私は鼻を鳴らしてしまう。
別にそのタイトルを、人間の青くさい理想と思ったわけではない。ただ“善の研究”などと言う本が、疫病神の手のひらにあるのを、滑稽に感じてしまっただけである。
まさか作者も疫病神が手にしているとは思わないだろう。
ただ今は金がすこし余っていて、疫病神と善の研究の組みあわせに“パンチ”を感じてしまったらしい。私は皮肉な巡りあいに従って、その本を買おうと心に決めた。
裏を見ると、善の研究の成果は税込で千円くらいだった。それなりに手軽な“善”だった。
しかしレジに向かおうとすると、途端に私の足は釘を打たれでもしたように、書店の床へ縫いつけられてしまったのだ。
それはおそらく、春本を何か難解な本で挟んでレジへ向かう、男児の心境に近かった。
私は“善の研究”を買うと店員に認知されるのが、急にたまらなく恥ずかしくなり、その場面を想像するだけで顔から火を噴きそうになる。
それは中学生高学年くらいの容姿をしている自分を、格好つけて哲学書を買う子供と誤解されたくないからだろうか。それとも疫病神である自分と“善の研究”の秘めた邂逅を独占したいためだろうか?
いや、そんな稚拙な感情ではないはずだ。さらに底しれない痛みがあった。それこそ三大疼痛にまさる勢いで“それ”は私の喉を圧迫して息を詰まらせる。正体不明そのままで。
しかし、だからと言って哲学書を春本で挟むわけにもいかない。恥ずかしい(と思う)本を春本でサンド・ウィッチにしたところで、ただの露出狂じゃないか! なら同じく哲学書に挟んでしまうべきだろうか? ……そうしたところで、店員には見られてしまうのだ。もちろんどんなふうに買ったところで、私の心中は見やぶられない。
それでも私は店員の考えに関わらず“見られる”のが苦痛だった。見ることに愛情はあっても、見られることには憎悪が伴うらしいのだ。
そうなると八方ふさがりの感情をほぐす手段は、おのずとひとつに収束した。
私はつねに頭の中で渦まいている、強欲の化身の悪霊に唆されて、本をすばやく鞄に入れた。
その瞬間、まるで狙ったように声をかけられた。
あの……
と言う今にも消えそうな『友達』の声は、まるでスピーカーで何百倍にも増幅したように心臓へ響いた。そして私の心臓は、その声のために息の根を止められ、けれどもすぐに咽せかえり、汗腺から急に噴きだした汗と同じく勢いを増した。
横を向いて『友達』を見たとき、心臓はすぐに胸を撫でおろす。
久々に呼吸をした気分で、それから唇を舐めたあと。
「あんた……おどろかさないでよ」
友達と呼ぶのは奇妙なので、これからは『ありふれた悲劇ちゃん』と呼ぶことにする。最初に言っておくならば、彼女は何日かすると家庭内暴力で死ぬことになる……おそらく。
『ありふれた悲劇ちゃん』は下目づかいに私を見ると、卑屈な草食動物のようにエヘエヘと笑った。
「何? ……言いたいことがあるの」
私の窃盗を本心では咎めたいのだろう。しかし『ありふれた悲劇ちゃん』は母親からの暴力に無力(かも)だったから、したがってこの世のすべての悪行に対して無力も同然だったのだ。ただ彼女は悪行を咎められないために、それに自分も荷担していると感じてしまっているらしい。彼女のBirdは善良で、だからこそ無力な平和のハトだ。
それに比べたら私のBirdはトンビのようにしたたかだから、すぐに悪行に怯えくさっている『ありふれた悲劇ちゃん』の手を、自分の悪行まみれの手で掴んで本屋を出た。
その強引さこそ“有力”だった。
『ありふれた悲劇ちゃん』は身長が私よりすこしだけ高い。
『ありふれた悲劇ちゃん』は高校二年生だったとおぼえている。
私と『ありふれた悲劇ちゃん』が友達になったのは、その日から一ヶ月くらい前だった。公園のベンチで俯いている彼女の容姿と雰囲気が、あまりに“あいつ”と似ていたので、みさおを二万で買ってやった。それ以来、関係を持っている。
『ありふれた悲劇ちゃん』を抱いたから、私は彼女について知っているすべてを好きに語る。抱いた者は抱かれた者を、告発されないかぎりは好きに語る権利があるのだ。
『ありふれた悲劇ちゃん』が女でよかったと思う。男は金に服従しても、女に対して性では服従されたがらないからきらいだ。
私たちは法律をかろんじてくれる酒屋へ行って、ビールを山ほど買ったあと、そのまま邂逅した公園に向かっていった。産まれたてのBirdのように『ありふれた悲劇ちゃん』はちょこちょことうしろをついてくる。それもあいつにそっくりだった。
夏の十七時三十分はまだあかるく、親子づれをちらほらと見かけた。ベンチに座ると私たちはビールのプルタブを開ける。たちまち子供たちの親が、それを耳にして顔をしかめる。
「プルタブの正式名称はイージー・オープン・エンドなんだよ」
と私が豆知識を与えると『ありふれた悲劇ちゃん』はふんふんと頷いて、知識をハトのようについばんでいた。
それから私は盛大に、
「昼間からビールを飲むのと、親子づれの前でビールを飲むのは、どちらがより背徳的なのかしら!」
錆びたブランコのきしみのように、耳ざわりな大声で公園に響きわたらせる。
『ありふれた悲劇ちゃん』が金魚じみた、かわいらしい目を大きく開けた。
親たちはまるで劇場で、一流のオーケストラを聞いたように唖然として、けれどもすぐに立ちなおったらしい。それから私がぐるりを蛇にらみすると、子供を連れて逃げていった。
それが追いたてられる駄馬のようでおかしかった。一人の子供が親の歩幅のリズムへ乗れずにころんでいる。
ファッキン・テンポだ!
「どうして逃げるのよ!」
もたついている親子づれをあざわらい、そして『ありふれた悲劇ちゃん』の肩に手を回し。
「この子が哀れと思わないのか? 連れで人を判断するなよ、この子は家庭内暴力の被害者なんだから!」
肺いっぱいに空気を入れてもう一度、
「家庭内暴力だぞ!」
そうだよ、家庭内暴力なんだってば! ……しかし私の主張もむなしく、非人情な親子づれは去ってしまう。
私の無限のコーラスが聞こえなかったのだろうか。相手は心の耳栓でもしていたのだろう。
ビールを一気に飲みほすと、私は『ありふれた悲劇ちゃん』の髪に顔を擦りよせて、メリット・シャンプーの安っぽい香りをたのしみつつ、これこそノストラダムスの大予言を乗りこえた2000年っ子の匂いなのだと安心した。大予言を信じて金を使いまくっていたから、今の私は以前よりも清貧だった。
私は髪に溺れていたから『ありふれた悲劇ちゃん』の顔は見えない。それでも彼女はさきほどの絶叫を、よろこんでくれていたと思う。彼女はくすくすと笑っていたから。
私が四本目のビールを開けたとき、もうあたりは暗くなりかけていた。みかん色とむらさき色と泥を混ぜたベールに空は包まれる。
それから私がビールを飲もうとしたときに『ありふれた悲劇ちゃん』は一冊の本を鞄から取りだしたのだった。それは世界地図だった。彼女はそわそわと 「どうして世界地図を?」 と聞かれるのを待ちわびている。
小型犬のようだ。私は心の隅で慈しみと嘲笑を化合しながら、望むように言ってやった。
「どうして世界地図を?」
『ありふれた悲劇ちゃん』の表情はタンポポのように華やかになる。しかし彼女の口からは言葉を伝えたいはずなのに、醜いオットセイじみたアウッアウッと言う焦りばかりが漏れている。
七年間の家庭内暴力の蓄積で『ありふれた悲劇ちゃん』は伝心能力が壊れていた。典型的な失語症だったのだ。彼女の特技は服従であり、伝心はその真逆の行為だった。
それでも電波なら『ありふれた悲劇ちゃん』は意志を伝えられる。声をださないこと以上に、メールにはそもそも独りごとも延長のきらいがあるらしい。彼女はメールを使えば独りよがりに言葉を伝えられるのだ。
『うまく話せなくてごめんなさい(何やら悲しそうな絵文字)
わたし、女苑さんに貰った最初のお金で世界地図を買いました。
夜に内職しても取られてるお金、すこしなら分けてもらえるけど、ほとんど日用品に消えるから。
わたし誰かに沢山のお金を貰ったことがないから。女苑さんに貰ったお金を、本当に欲しい物に使いました。
わたし、いつでも世界地図が欲しかった。
いつも本屋で眺めていました。
海を渡ってどこへでもいけると信じられるから』
『ありふれた悲劇ちゃん』のタイピングはキーボードでもないのに雷速だった。あるいはこれが、人間の意思伝心の進化のかたちなのだろうか? 少なくともその技術も、世界地図へのささやかな望みも、彼女にできる最大限の“今”への報復だった。
『世界ってなんですか?』
今度はあまりに素朴すぎる質問が、私の携帯電話の画面に映しだされる。あいつが同じことを言ったとしても、絶対に素朴とは思えないだろう。虫唾の走るニヒリズムとして受けとるはずだ。
『ありふれた悲劇ちゃん』の瞳が期待で水晶のように輝いている。
私はそれになんと答えるべきなのだろうか?
何百年も生きているから、これでも結論は出ているつもりだ。
世界とはおよそクリストファー・コロンブスのように海の向こうでは見つけられない。
おそらく人間たちの世界は、さらに身近にあるんだよ。それは期末テストだったりする。表彰状だったりする、身分証明書だったりする、郵便配達物だったりする。酒屋だったりする、スーパーだったりする、調剤薬局だったりする、総合病院だったりする。
その書類と建築物を人間のかたちに鋳造すれば『ありふれた悲劇ちゃん』にぴったりの世界ができるにちがいない。それはとても狭いけれども、どうしようもなく切実に必要なんだって!
私はときどき現代人よりも、江戸時代くらいの人間の心が清らかだったと信じている、懐古主義者のはらわたを引きずりだして、ロープ・ウェイのワイヤーにして晒したくなる。
あのころの人間たちには余裕がなくて、とても現代人のように遠方の殺人事件で、心を痛められはしなかった。そんな余裕も、知るすべもなかった。
私は自分の信じている世界を伝えたくなくて、口を縫われた人形のように黙りこくった。
すると……余計な質問で……私の気をわるくしたと思ったのだろう。
『ありふれた悲劇ちゃん』は私にきらわれたくない一心に、また別の口あたりがよい質問を送ってくるのだった。
『どの国へ行ってみたいですか?』
これならすぐに答えられる。と私は思って、すぐに気分を切りかえる。
しかし切りかえた矢先に……これまた鬱陶しい人種に目をつけられたようである。
公園の出口あたりから、ゆっくりと二人の警察官が近づいてきた。
「ちょっと……よろしいですか」
「何か?」
公園から追いだした親子づれが通報したにちがいない。
高身長の警察官に応対しながらビールを舐める。そして鞄からタオルを取りだし『ありふれた悲劇ちゃん』の頭へと、顔が見えないようにかぶせてやる。
『ありふれた悲劇ちゃん』は非力にも絶滅しそうなヤンバルクイナのように怯えている。それは警察官に対する恐怖ではなく、未成年飲酒が露見して母親に折檻されることへの恐怖(かも)なのだ。
「未成年の学生さんが、公園で飲酒していると通報があってね……」
と低身長の警察官が言う。代わりばんこに言うさまは、ありがちな芸人のコントじみていた。
「ふん。年増が若者に嫉妬して、青春を破壊しようと権力にたよったのかな?」
警察官たちは苦わらう。どうヒステリックに事情を説明されたにせよ、私と同じことを思わないでもなかったのだろう。
私は調子づいたフリをして、
「いつも思うんですね……殺人よりも未成年飲酒よりも、安全圏から誰かを告発するのが、何より卑怯なんだって……言いたいなら“じか”に言えばよろしいでしょう? それでも相手のきもちが分からないこともありません。私がモハメド・アリより強いとなっては!」
「これは学生さん、ひどく酔ってるな?」 と高身長の警察官。
「何? 知らないの、モハメド・アリ……近ごろの男児は、あの有名なボクサーを知らないくらい、格闘技への情熱を失っているのかな? これでも私は、ちょっとは腕にオボエ・アリなんですよ」
低身長の警察官はオボエ・アリで横隔膜にジャブを喰らい、つい笑いを我慢しつつ。
「観念して学生証を見せてもらえる? おれたちも仕事で来てるからね、そればかりは譲れないよ」
「困ったなあ……なら、なら。チャンスをちょうだいよ!」
「チャンス?」
「今からラリアットするからさ、一回ね! それがモハメド・アリくらいだったら、私たちを許してよ」
警察官たちは子供のかわいらしい頼みとでも思ったのだろう。顔を突きあわせて、にやつきながら了承した。
言質を取った! と私は腕に力を込める。
私は背を合わせるために跳びあがり、放たれた砲丸の勢いで、警察官たちの首をめがけて、折れないくらい(かも)のラリアットを喰らわせてやる。ダブルでだ。
たちまち警察官たちが地面に倒れる。ふたりは蟹のように泡を噴いていた。
「むかつくなあ……権力!」
悪は滅びた!
私はベンチを表彰台の代わりに上へ乗ると、虚空へピース・サインをした。カメラのフラッシュは明滅している、公園の古びた白熱電灯がしてくれる。
「行こう!」
ベンチから降りると、私は『ありふれた悲劇ちゃん』の手を引いて公園を去った。彼女は何度も振りかえり、倒れた警察官たちを見て、そのたびに体をこわばらせていた。
ビールは償いとして警察官たちにくれてやった。
私たちは無言で歩いた。蒸しあつい夏の空の下を。手のひらに“ほてり”と胡椒味のアナキズムを握りしめながら。
平静をよそおいつつも、血管の下で興奮の虫が這いまわる。
人を殴った! と私は何度も噛みしめる。
暴力を振るったのは久しぶりだ。
私はベトナム戦争で戦っている兵士の気分が分かる気がした。争いの輪に巻きこまれると、それが心を高ぶらせて、誰しも自慰に耽りたくなると言う。
アパートメントに帰ったらすぐに『ありふれた悲劇ちゃん』と性交しよう! と私は決めた。
別に今日は一緒にビールの飲みたいだけで、抱くために『ありふれた悲劇ちゃん』を呼びだしたわけではなかったのに……しかし警察官を殴った興奮を、そのまま彼女との性交につなげて、より生き々きとした開放感を味わう機会をのがすのは、エビの尻尾を残すくらい、冒涜的ではないだろうか?
やがてアパートが見えてくる。年月風雨に打ちのめされ、裂傷と黴くさきを受けいれた古い根城。その一室を借りている。
階段を登って二〇八号室のドアを開けて、私たちは中にはいった。
それからすぐに『ありふれた悲劇ちゃん』を万年布団に押したおした。彼女の手を引く私の手から興奮が伝染していたのか……彼女はなんの抵抗感もなく布団の上に倒れてくれる。
その従順さが、さらに私を煽りたてた。
正直なところ『ありふれた悲劇ちゃん』の母親が、彼女を殴る理由も分かる気がする。すこしは逆上でもしてくれたら、罪悪感もおぼえるだろうに、彼女がすべてを受けいれるサンド・バッグの態度でいるから、それが却って心の乱暴な部分をざわめかせる。
無抵抗主義者ほど、こちらをむかつかせる者もいないのだ。
『ありふれた悲劇ちゃん』はどうして無力なのだろう? 彼女はどうして殴りかえさないのだろう?
そう聞いてみれば、卑屈な微笑が返ってくるにちがいない。
かわいげのないマハトマ・ガンディーのBird。
『ありふれた悲劇ちゃん』はあいつとちがって気がついていない。彼女の卑屈な態度こそ、暴力的な態度の鏡なのだ……鏡になって、こちらの暴力的な側面を、無闇に反射してくるから、こちらのほうでも自己防衛に鏡を殴って、ばらばらに叩きこわさなければならなくなる……彼女のような人間が抵抗しないことにより、却って周囲を獣に近づけてしまうのだ。
『ありふれた悲劇ちゃん』のシャツを、乳房の上まで押しあげる。肌色の海に浮かんでいる、いくつもの痛ましい殴打の痕が、まるで小島のように見えた。暴力でえがかれた世界地図……。
『どの国へ行ってみたいですか?』
そう言えば、質問に返事をしていなかったっけ……どの国にも興味などない。ただ壁がなければよろこばしい。種族の壁、性別の壁、言語の壁、貧富の壁……世間を弁当のバランのように切りわける“見えない壁”のない……砂漠とか、草原とか……空襲で更地になっているとか……。
あいつは 「幻想郷に行かないと」 といつも催促する。まだ私たちに、力が残っているうちに。
そこは本当に私が望んでいる国なのだろうか?
『ありふれた悲劇ちゃん』の股を弄ぼうとしたときに、急に部屋があかるくなった。光を唐突に吸収した目がおどろいて、眉間のあたりが重くなる。
「誰よ、その子」
「姉さん!」
私はいまいましげに、電気をつけたあいつを見た。
迂闊にも鍵をしわすれていたらしい。
こんな日に帰ってこないでほしい! いつも夢遊病者のように、街の迷路で右往左往している分際で、いてほしいときはいないくせに……それにしてもあいつは、どうして錆びた鉄パイプを杖にして、体を支えているのだろうか?
しかし今は、そんな疑問に気は回らない。
私は唾を飛ばしつつ、
「出ていってよ、性交してるのよ!」
私は泣きたくなってしまう。どうにも今日は“ついて”いない。それも世界で二番目に。
別に私は性交が中断されて泣きたいのではない。あいつにそっくりの『ありふれた悲劇ちゃん』を本人(神)に見られて泣きたいのだ。
どうやらふたりも、互いの顔に類似点を見つけたらしい。
じわじわと……あいつは愉悦を、引きかえ『ありふれた悲劇ちゃん』は失望を、涙腺から分泌しはじめる。
急にふたりを世間から切りはなし、網走の監獄にでもとじこめておきたくなる。私は恥ずかしくて顔の血管が破裂しそうだ。
あいつは鉄パイプで、何度か畳を打ちならし。
「かわいらしい妹! 私と性交したいなら言えばよかったのに。そっくりさんで慰めずにさあ」
あいつは私ではなく『ありふれた悲劇ちゃん』に言っているはずだ。
私は牙を剥きだして、あいつの腹を殴ってでも、胃液を吐かせてやりたいと思った。
しかし憤りも……さめざめと泣きはじめた『ありふれた悲劇ちゃん』の声で萎えてしまう。彼女は私に恋をしていた。
私はあいつが好き(かも)だった。
つめたい汗を背中に流し、おろおろと言う音を背後で垂れながしつつ。
「ちがうのよ。私は姉さんの代わりに“あんた”を抱いたかもしれないけど、それでも真剣に性交してはいたんだって! 真心を込めてキッスをしたし、痛くないようにしてあげていたでしょう?
私の愛情は本当に代償行為だけなんかじゃない……信じてよ」
私は頬にキッスをして『ありふれた悲劇ちゃん』を籠絡しようと、頬へ顔を近づける。
しかし『ありふれた悲劇ちゃん』の瞳に憎悪が灯ったかと思うと……私はもう頬に平手を喰らい、布団の上へ倒れていた。
『ありふれた悲劇ちゃん』が服を着はじめる音を聞きながら、心の中で舌を打つ。これほど従順な女でも、自分の価値を認めさせないかぎりは、抱かせない自尊心が残っていたらしい……高校二年生らしい、性の神聖視とでも言うべきだろうか……その態度の一部でも母親にぶっつけたら、すこしは生活もよくなるだろうに。
私の傍を離れても、結局はしあわせになれないのだ。
男が私よりもやさしく抱いてくれると思うなら、それはひどいまちがいだ。
起きあがる気力は、もう失っていた。私たちは『ありふれた悲劇ちゃん』が服を着るまで黙っていた。
『ありふれた悲劇ちゃん』はあいつの脇を通りすぎて、威嚇的にドアを打ちならして去っていった。
「女苑、食べものある?」
「死にくされ!」
どうしてユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカはあいつのいるところへ核爆弾を落とさなかったのだろう?
あいつが戦争の不幸に門外漢だったので、広島県と長崎県で大勢が亡くなってしまったのだ。
【目】が覚めると、あいつが朝のニュースを見ていた。ニュース・キャンサーがありふれた悲劇を世に伝えている。
『ありふれた悲劇ちゃん』が出ていったあとはおぼえていない。ブラック・ニッカの瓶が枕の傍に転がっていた。
「おはよう」
私は返事をしなかった。
「今度はやさしくしてね」
あいつの首に、私の歯形がついていた。
吐きそうだ。と私は思った。
それから水を飲むためにキッチンへ向かう。乾いた舌が、白い唾液でねとついていた。
口をゆすいだ。ついでに歯ブラシに歯ミガキ粉をつけようとしたとき、その中身がカラであるのに気がつかされる。
私はうしろに振りかえり、
「歯ミガキ粉を食べるなって、何度も言ったよね!」
「だって冷蔵庫に食べものがなかったのよ」
「まさか洗剤まで食べてないよね……?」
「ごめんなさい」
気のない謝罪を投げやがって! 私は歯ミガキ粉のチューブを、あいつの背中に投げつけたくなる。実際にはやらないけれども。
そんなことをしても、あいつは堪えすらしないのだ。サンド・バッグを相手に怒りのあやつり人形になるのはまっぴらだった。
水をつけて歯を磨き、そのあとしばらく、あいつと一緒にニュースを見ていた。
ありふれた悲劇が胃をむかつかせる。殺人事件、台風被害、交通事故、政治汚職……ニュース・キャンサーだって、好きで不愉快な伝聞をしているわけでもないだろうに……悲しみながら、誰かの不幸をたのしむことはたやすい。2000年代ではどんな感情も両立できる。刺激を求める大衆の需要が、キャスターをキャンサーに変えてしまうのだ。
そのうちあいつが、独りごとのようにぽつりと言った。
「病院へ行きたいの」
「なんだって?」
「このまえから体が、特に足が重くてさ」
「だから鉄パイプを杖にしてたの?」
「うん」
仮病だろうか? ……すぐに考えをあらためる。
そんなフリには意味がないし、演じるために鉄パイプまで用意するのは袈裟が大きすぎるだろう。
私はあいつの足に触れた。なんとなく“むくみ”があるように思われた。
「女苑さあ」
「何?」
「昨日はあの……似ている子を煽っちゃったけどさ。それは嫉妬したからだよ。私は本当にあんたのことが好きだからね。本当さ」
あいつは私の髪にキッスをした。
「あの子は不幸になるよ」
私はあいつが好き(かも)だけれども、できるだけ抱きたくないと思う。
あいつを抱くとひどく乱暴になってしまう。愛撫をしていると胸がざわつく。痛がらないように揉んだり舐めたりするのは馬鹿々々しい。それは私に善意が欠けているからだ。
だから私が乱暴に抱ける相手は、あいつだけになってしまった。
それでも分かって欲しいのは、あいつをできるだけ抱かないことで、私は暴力的な側面を遠ざけて、善良にあろうとはしたと言うことだ。
それが私の善への向きあいかたなんだってば!
そうでしょう? 凶悪な猛禽類にも似ている私のBird。
いつまでも小学生のいじめっ子のように、誰かへ気ままにコブラ・ツイストをしかける生活は、もういやなんだ!
十時くらいにあいつを担いで病院へ言った。
渡されたボードに、あいつの症状を鑑みてチェックを打ち、先客たちを蹴ちらしたい気分を押さえつつ、ボードを受けつけの看護婦に渡す。
「あっ。それと保険証を……」
保険証? ……私はすこし逡巡する。そう言えば、そんな物があったっけ。しかし神さまが保険証を持っているわけもない。
私たちには人(神)権も戸籍もなく、安アパートを借りるように、役所を騙くらかして国民健康保険証をせしめるわけにも行かないのだ。
神権保護法は、いつ制定されるのだろう。
看護婦にへこへこと頭をさげ 「家に忘れた」 と私は弁解するしかなかった。それで結局は、後日また持ってくると言うことで場をのがれた。
面倒なあいつ……人間に頭をさげさせやがって……。
私を誰だと思っているのだ。
客は神さまなどと言う、傲慢なことわざ程度で済まない。
本物の神さまが客なのだ。
そう思いつつも、私は最後まで演技派でいた。
席に座って、一時間ほど仏像のように耐えしのび……やがて看護婦の呼びだしを受けて、診察室に通される。病院の薬の臭いや、私には理解できない器具類が、やたらと威嚇的に感じてしまい、余計に気分がわるくなる。
平日の朝から小娘(に見える)が来たのは以外だったらしい。老人ばかりを相手にしている、うだつのあがらない医者の目に、詮索が灯るさまが苦痛に思われた。
口内検査や、聴診を終えたあと。
「それで、どうです?」
私はあいつが余計なことを言うまえに話しはじめた。
「姉さんは何か、わるい病気なんですか?」
「これだけでは、なんともねえ……熱もないようですし」
「それでも実際、まともに歩けないくらい、足が弱っていますから……」
「なら今度は、足も見ましょうか?」
「頼みます」
あいつをベッドに寝かせてやる。
医者があいつの足に触れはじめた。
そして膝を検査しているときだった。それまで機械的だった医者の動きへ、急に精気が満ちはじめたのだ。彼は執拗にあいつの膝下を叩きだす。叩くほどに、彼の目に確信と動揺が揺らめいていた。
「血液検査をしないことには、断定的には言えませんが……」
私はまごつく医者の言葉を待った。
「妹さん……でよろしいですか?」
「はい」
「あるいはこれは、脚気のような病気かもしれないねえ」
脚気……英語でBeriBeriとか言う、ふざけた名前だったっけ? 結核と並ぶ、かつての二大国民病だ。
「江戸わずらい?」
「よく知ってるね。いや、私も相手にしたことはない。今では珍しい病気だから……その、森鴎外のころとはちがって!」
鏡の自分におどろいている犬のように、医者は興奮してまくしたてる。
「一種のビタミンが不足して、神経が弱っているんだね。膝蓋腱反射ですよ。正常なら膝下のくぼみを叩かれると、下肢が勝手に動くのです。しかし脚気の場合は神経が弱っていて動かない……それにしても本当に珍しい、現代では偏食家でもなければ、患わないはずなのに……」
「馬鹿々々しい!」
聞いてもいない“べしゃり”が鬱陶しくて、私は急に叫んでいた。
医者は善意で説明しているのではない。いつもは老人ばかり相手にしている自分が、奇病と邂逅したことにロマンチシズムを感じてしまい、その情熱をひけらかしているだけだ。それが強烈に態度へ出ていた。
あいつは実験動物なんかじゃないんだぞ!
私の叫びで自覚したのか……医者は自分の感情と、哀れなあいつを比較して、羞恥を感じているのだろう。
すこし俯き、紅潮しつつ咳をはらって。
「ここは小さな病院ですが、入院用のベッドのひとつやふたつはありますよ。安くしておきます……ビタミンさえ接種すれば、すぐに治る病気ではありますが、足のわるい身内がいると大変でしょう……それに誤診も考慮して、精密検査も。じつのところ脚気は今でも断定のむずかしい病気のままですから……入院させますか?」
私は無言で頷くしかなかった。
「そう言えば、親御さんは?」
「親なんていない」
あいつは本当になさけない。どうして身内を脚気(かも)で入院させるのだろう?
時間には『ありふれた悲劇ちゃん』に平手を喰らったり、脚気(かも)の身内を入院させるより、ほかに有意義な使いかたがあるはずだ。
千里浜でビールを片手に夕日を見たり、ラクダで砂漠を横断したりとか……。
【あ】いつの入院の手つづきをすると、私は病院を逃げるように去っていった。病院のまえでタバコを吸うと、わずかにみじめさが、煙とともに体外へ出た。
私は急に、壁のない遠くの国へ行きたくなって、近くのスーパーのまえを通りがかったとき、その駐車場へ置いてあった、鍵をつけっぱなしのバイク(SR400)を掻っぱらう。
頭の中で尾崎豊の歌がうるさい。
私は信号に捕まったとき、ミラーに映る自分の目を見て考えた。
買った女に平手を喰らい、身内を病院へ押しつけて、あまつさえ盗んだバイクで走っている私は何者なのか?
頭の深いところで、空想の裁判所に踏みこむと、私は法廷で訴える。
(別に好きで犯罪行為に手を染めたり、誰かを傷つけているわけじゃない!)
ならどうして、君はそんなことをするのかな? 本の窃盗、警察官への暴行、未成年との淫行、二輪の窃盗……二日だけでもギネス級だよ。
(それは……言ってしまえば性分なんだよ! 私は疫病神で、誰かを搾取する衝動で、息をつなぎとめているから、已めたくても已められないんだよ! 已めると窒息して、死んでしまうんだ……それでも本当に、いつか必ず、慎ましく暮らしたいと思っている。誰から助けられると信じている。善良になりたいと望んでいる!)
ならいくつか例を挙げるから、どれでも好きなやつになりなさい。
今の君は……?
(一) 壁を壊そうとするベルリンの聖戦士
(二) 混沌を司るきわめて日本的な神さま
(三) ただの馬鹿
(四) シスター・コンプレックスの妹
私は(二)を選びとると、疱瘡神を祀っている神社へ向けて、青いランプを合図にアクセルを吹かした。
疱瘡神は疫病神の一種である。悪神を退治するのではなく、祭りあげて鎮めると言う、この国に独特の手法もあって、私にまつわる神社がこの街の東に残っているのだ。
私はつらくなったとき、いつもその神社へ行っていた。そうすれば卑しくも、自分が神さまの末席にいると実感できるからである。
意外にも神社の前に車が一台だけ止まっていた。私はバイクを鳥居の傍へ止めるとナンバーを見る。
これは隣県のナンバーじゃないか。この寂れた神社になんの用だろう……うらぶれた神社マニヤだろうか?
社に近づくと、賽銭箱の前で、祈りを捧げている女がいた。
それを見たとき私の中へ、雷のように強い感情が押しよせる。女から伝わってくる、今どき珍しい本物の信奉心だった。
砂利を踏む音を聞いたのか、女がこちらに振りかえる。しかし、またすぐに向きなおって祈りを捧げはじめてしまった。
その姿があまりに清らかなので私は一瞬、何か神聖な儀式でも眺めているように錯覚した。そして願わくば、その輪の中に加わりたいと思ってしまった。
私は女の隣で祈りはじめた。
そして何十分か無心で祈り、時が経ったころだった。
女は急に私を見て、
「あなたもですか?」
蜘蛛の糸にしがみついているような声だった。
「あなたも、とは?」
「身内がひどい皮膚病で……」
一緒に祈ったことで、何か共感を得たのだろう。
女は聞いてもいない事情を語りだす。
しかし別に医者の“べしゃり”とちがって不快感はすこしもない。女の言葉はただ切実に尽きていた。
女は顔にひどい皮膚炎のある娘のために祈っていたらしい。どんな治療も一定の効果を得られたけれども、すぐに再発してしてしまい、それが原因で今は鬱病までも併発しているのだと教えられた。
娘のために、女は藁にも縋る思いで疱瘡神を訪ねてきたわけだった。
どうやら現代で疱瘡神に求められているのは、その名前に由来する病ではなく、アトピーを静めることであるらしい。たしかに症状は似ているし、中々におもしろい変化だと思った。
それから私は『ありふれた悲劇ちゃん』の母親と、この女のちがいについて考える。片方は娘を殴る親、片方は娘のために祈る親。何がここまで人格に差異をつけるのだろう?
私は急に鞄から御守リを取りだし、女の手に押しつける。
女は言う。
「どうしてこれを? あなたも必要でしょう……」
善良さはすぐ触れられるところにある。私はそれを信じている。
それはあまりに近いはずなのに、どうしても遠くに感じるのだ。
それでも求めて生きないと。
「私は神さまだから要らないわ」
女は礼をして去っていった。
あの御守リがどれほど効くか分からないし、別に私と女に契約などはひとつもない。それを渡したのは……ただ一歩を踏みだしたかったのだ。
いつの日か、目のまえの“見えない壁”を、叩きこわせるようになるために。
『ありふれた悲劇ちゃん』に謝ろう……そして一緒に暮らそうと言おう! と私は急に決意が満ちた。
今なら乾く者へあたいなしに水を飲ませ、家なき者に家を与えられるような気がしたのだ。
私は根拠のない、けれども清々しいほどの全能感に捕らわれていた。
そして携帯電話をひらいて『ありふれた悲劇ちゃん』にメールを送ろうとして、すでに彼女からメールが送られていたのだと気がつかされる。
期待に胸を膨らませつつ携帯電話をひらく。
滑稽にも次の間に、絶望的な気分に陥ることなどすこしも知らず……。
『昨日は本当にごめんなさい。私はいつも女苑さんに助けてもらっていたのに、あれくらいで叩いてしまうなんて。
女苑さん、本当のところ知っていました。
顔を見たことさえなかったけど、女苑さんはおねえさんが好きなんだって。
女苑さんはときどき、おねえさんがどれだけ頭がわるくて、どれだけ滑稽かを話してくれました。
それでも女苑さん、知っていましたか? あなたがおねえさんのことを話すときは、いつでも私と話すときよりも、まぶしい笑顔をしていたって。ホテルであなたが先に眠ったとき 「紫苑」 と寝言を呟いていたって。
私はそれに、もう怒りを感じたりはしていません。だって女苑さんは沢山のたのしさをくれたのに、私は馬鹿だから何も返せない。あなたを満足させられない。
女苑さん、なんだか昨日の夜から母親の機嫌がとてもわるい。
なんだかとても不幸だと思う。
世界地図が見つかって、取られてしまいました。
勝手なことをするなって。
部屋にとじこめて、ひどく叩かれて、肋骨のところが熱いです。
もう会えないかも』
メールを返しても、いつまでも返事がこないので、私は携帯電話の首を逆に折った。
私が特にはげしい自己嫌悪と自己憐憫を感じるのは、決まって性交のあとだった。性交のあとに自分を哀れむよりも相手を侮辱する態度もない。
何をそんなに怯えているのだ? ……もうあいつのそっくりさんに、心を乱されずに済むじゃないか!
たしかに『ありふれた悲劇ちゃん』を助けようとは決心したさ……しかし、それは“助けられる状況なら”の話しだろう。
そう思いこもうとしても……まるで靄がかかったように、気分はくもったままだった。
私は『ありふれた悲劇ちゃん』の家も住所も知らなかったのだ。彼女は自分を語らなかったし、そもそも彼女に“自分”などあったのだろうか?
舌を切られて、ひたすら黙りこむスズメのBird。
機会はあったはずなのだ。私から『ありふれた悲劇ちゃん』のことを聞けば、従順な彼女は家でも住所でも教えてくれたにちがいない。
私は自分なりに『ありふれた悲劇ちゃん』に愛情を与えていたはずなのに。
本当のところ私はあいつにそっくりの『ありふれた悲劇ちゃん』の容姿と雰囲気を見ていたのみで、その中身にはかけらも期待していなかったのだろうか? ……。
今の私は……。
(一) 壁を壊そうとするベルリンの聖戦士
(二) 混沌を司るきわめて日本的な神さま
(三) 失恋した馬鹿
(四) シスター・コンプレックスの妹
私は(四)を選びとった。
じつのところ『ありふれた悲劇ちゃん』が家庭内暴力で死んだと言うのは嘘でしかない。
正確に言うと、分からないのである。それから『ありふれた悲劇ちゃん』とは会えなくなってしまったので、私が勝手に決めつけているだけだった。
だって私は神さまなのに『ありふれた悲劇ちゃん』の最後のメールは、自分から離れるための嘘で、公園で買った女に振られただけなのだしたら、あまりにマヌケすぎるだろう。
なので私はそう決めつけて、ちっぽけな自尊心を守っている。
それでも『ありふれた悲劇ちゃん』は、私に嘘は言わないと思う。
『ありふれた悲劇ちゃん』は私に恋をしていたからである。
かわいらしくて、都合のよかった、愛玩動物のように保健所へ送られた私のBird……。
だからこそ、私は『ありふれた悲劇ちゃん』と呼んでいるのだ。彼女が家庭内暴力で死んだところで、それは名前のとおり“ありふれた悲劇”なのである。
アパートから離れたところにバイクを捨て、その足で208号室に帰っていった。
針のようにちくちくとする無力感を味わいながら、不意に鞄へ入れっぱなしの“善の研究”を思いだす。
本を取りだして、数ページほど読むと、飽きて本を投げすてた。
その内容があまりに難解すぎるためか、それとも難解に見えるのは作者がこじらせているためだろうか?
私には善の哲学は理解できないし、注釈も含めて五百ページを読むのは馬鹿々々しい。
それでも私は気がつくと号泣していた。
この世のどこかに、善と言う曖昧な観念を馬鹿まじめに考えぬいて、それは字にしたためられる人間がいる事実に、私は号泣してしまった。
それは私にはできないことだった。
その本には“善”を語る資格があった。私には善どころか、その本を読む資格さえなかった。
【次】の日の夜、私は忍びこむつもりで病院へ向かった。
すると小さな病院にしては珍しく明かりがついていたので、私はつい舌を打った。仕方がないので扉を叩くと、目を充血させた医者で出てきた。
「あなたでしたか! さきほど何度か連絡したところですよ……昨日のうちにすればよかったのに、つい研究に熱中してしまって!」
「研究……?」
鼻じろむ私をかまわずに、
「あなたの姉さんですよ! 血液検査をしておどろきました。ビタミンどころじゃない。彼女には人間が血中に持っている成分がひとつもないんです。ただの、ひとつも! よろしいですか、ひとつもですよ! ……これはもう、大発見なんて程度じゃない……彼女はまったく、未知の生命体と言うことなんですね……待てよ。そうなると妹さんも……」
私は医者の頭を殴りつけた。彼の頭が壁にぶっつかり、だらだらと糞尿のように血を流しはじめる。
「ヤブめ。神さまは脚気になんてならない」
私はあいつのいる部屋へ向かった。医者の口ぶりから、手ひどい実験でもされていると思ったけれども……さすがに考えすぎだったらしい。
いつもどおりのあいつが、窓からはいる月光を眺めていた。
「血を抜かれるなんて迂闊。殺しておいた」
「そう」
「あの子も死んだわ。あんたが不幸にしてしまったのよ」
「それなら殺した数は“アイコ”よね?」
私はあいつの肩を支えて、病院をあとにした。
「私の足だけど」
あいつはビッコを引きながら、
「これも結局、力を失いつつあるからじゃないのかな。その症状が、偶然にも脚気と似ていた」
「神さまが脚気なんて滑稽すぎるわ」
「女苑だって、本当は分かっているんでしょう? 私たちはもう、幻想郷に行かないと生きられないって」
「いやよ。佐渡の二ツ岩でさえ、まだこちらにしがみついているらしいのにさ……」
「どうして女苑は、こちらに拘りつづけているの?」
「私は……」
私は善を探してる。自分が産まれもっている、強欲の化身の悪霊を倒すために。
何百年も私はそればかりを願っている。今さら別の土地へ逃げこんで、すべてをだいなしにするのはまっぴらなのだ。
「ちくしょう! 善良になりたいなあ、慎ましく生きたいなあ……姉さん、私を鎖でぐるぐると巻いておいてちょうだいよ」
「そうしたら女苑は鎖を引きちぎって悪行をする」
「海に沈めてちょうだいよ」
「そうしたら女苑は砂浜に這いあがって悪行をする」
「首を切りおとしてちょうだいよ」
「そうしたら女苑は首だけで悪行をする」
しかし私が善良になったとして、本当に悪行をせずにいられるのだろうか? 善良さを求めているのは本心で、悪行をこのんでいるのも本心なのだ。
もし悪行を已めてしまえば、私が誰かを搾取してきた数百年は、すべてが無意味になってしまう……自分の過去と善良さをうまく両立できなければ、かつてない深刻な恐怖のとりこになるにちがいない。
私は急に辞書で“忍耐”と言う文字の意味を調べたくなる。
そのとき不意に、目のまえから若いカップルが歩いてくる。私は自分たちのありさまと、そのカップルの幸福そうな様子を比べて、ひどくみじめな気分になった。
そしてあろうことかそのカップルは、私たちの横を通りすぎた瞬間にわざとらしい、くすくすと言う笑いを漏らすのだった。
“忍耐”の文字が頭から消え、腕の筋肉がいきみたち、私はもう一人も二人も変わらないので、カップルを殴りころしてやろうと思ったのに……。
「駄目」
それを察したのか、あいつは急に私のほうへ体重をかけて、近くの電柱に押しつけてきた。
そして私の口に、はげしいキッスが振りかかった。
あいつのおかげで助かった。まさに今“忍耐”について考えていたばかりじゃないか……私は善良になるのだ。善良に……。
そう考えたとき、カップルの歩いていった方角で、爆発するような音がした。横目でそちらを見ると、ふたりはトラックに引きころされて、ぐしゃぐしゃの肉片を晒していた。それは悲劇のはずなのに、あまりに唐突すぎたので、私にはまるで三流のコメディアンのトークの産物に見えていた。
即死だ! ……私の頭で、驚愕と狂悦を化合した、脳内麻薬が分泌されはじめる。
あいつは口を放したあと、カップル(の肉片)に言いはなつ。
「へへ……あっかんべえ」
その赤い舌を見た途端、底しれないもので力がみなぎる。私は興奮して、この世のすべての権力者と成金の家に、航空機を墜落させたいと思うような、乱暴な側面に囚われる。
私はばねのようにあいつへ掴みかかると、近くの路地へ引きづりこんだ。爆音を聞いて窓を開けた近所の明かりも、遠くで聞こえはじめるパトカーの音も、もはや気にならなかった。
「ふウーー……うっ。うっ……」
思わず怪物のように呻きを漏らす。スカートを捲りあげて、あいつは下着を見せびらかし、挑発的にほほえんでいる……ちくしょう! ……善ってやつが本当にあるのなら、私の獣を殺してくれ!
本物の神さま、善良の歌詞で歌ってくれ。
本物の神さま、あなたの居場所を教えてくれ。
人間のBirdは神さまに救ってもらえるのに。
それなら誰が、神さまのBirdを救ってくれるのだ!
妹】金善暴『鳥』性脚貧【姉(Great Pornographie) 終わり
【終】わりし道の標へと辿りつかないために、名もない夜が降らないように、ただ善良でありたいと思う。いかに神さまと人間は“善”を追求できるのだろう……?
金、金、金、金、金、金、金、金。
私は何より金が好きさ。そして指で輝く宝石の光と、それを羨む貧乏人の羨望だけが、この魂を満たしてくれる。それだけが真実。
私の生きかたは、いつでも募金箱を司る“Bird”の赤羽とは無縁なのだ。これまではそうであり、これからもそうと決まっている。
……いつか映画館で見た、西部劇の決闘。荒野で構える男たちの汗を輝かせる、みかん色の夕日。それと同じ光がまさに今、大渓谷のようなビルディングをかいくぐり、私の座っているベンチを照らす。
空でBirdが鳴いている。あれはカラスだ。あいつと同じ、人間の廃棄物に縋る者たち。
道路の向こうには、選挙に立候補しているのだろう、おそらく共産主義者の街頭演説がおこなわれている。しかし、誰もその政治屋の卵の声に耳を傾けはしないのだ。
いくら熱っぽく語ろうと、その夢が九年ほどまえに、ソビエト崩壊とともに失われたのは、もはや周知の事実なのである。それでも彼は語りつづける。カール・マルクスから脈々と受けついできた思想の火を、この島国でも消えてしまわないように。
……それはそれとして。
ベンチで『友達』を静かに待ちたい身としては、その声があまりに煩わしいので、私は暇つぶしに近くの紀伊國屋書店を物色することにした。
『待ちあわせ場所の近くの、紀伊國屋書店にいる』
そう『友達』にメールを送ると、私はベンチから立ちあがる。
そのとき私の目は、たしかに向かいの政治屋と交わった。すると同時に彼の熱弁は、まるで南極の海水を浴びたように縮こまり、この距離ではもうぼそぼそとしか聞こえない。
この対面は西部劇だ。あるいは大審問なのだろうか?
政治屋の向かいでベンチを占領していた私は、自分で思っていたよりも、彼のよき聴衆だったらしいのだ。そして彼の前を大衆が無関心に通りすぎる以上は唯一の……。
私なら横断歩道を渡って政治屋に近づき、彼の思想の火の燃料になってやれたのかもしれない。
しかし私はそうしなかった。壁があったからだ。赤色の歩行者用信号と、それにまつわる車たちは、どうしようもない壁であり、その政治屋の目からのがれる口実だった。
それにしても私の感じている“見えない壁”はなんのために在るのだろう? 街の中には物理的な壁でさえ多すぎると言うのに、今さらどうして街の迷路に見えない壁を張りつけて、心の通路まで塞ぐのだろう?
……私が書店に向けて歩きだすと、聴衆の喪失に耐えきれなかったのだろう、向かいで政治屋のむせび泣く声がした。彼はその行為で大衆の感心を集められて、Birdがそれをカアカアと蔑んでいた。
Birdは大衆だった。
自動ドアを抜けると、冷房でひやされた鉄くさい空気と、書店に特有の尿意をもよおす(らしい)紙の臭気が、鼻の中を通りすぎた。夏の暑さで茹でられた体が、皮フと肺からひやされて身ぶるいしてしまう。
私は文学に凝っておらず、漫画のほうが好きだったけれども、今日は理由もなく足が小説陳列棚のほうへ動いた。静寂はびこる店内で、自分のブーツがいやにうるさい。
その音が人目を引くような気がして、私はビッコを引くように足を摺らせた。
政治陳列棚の前を通りすぎたとき、私の頭にあの政治屋がよぎってゆく。しかし、その“よぎり”も一瞬だった。無関心に通りすぎる棚と同じくして、心を占める割合はとても儚い。
江戸、明治、大正、昭和、平成の時代を私は駆けてきた。
それでも私は政治に目を向けたおぼえがない。疫病神はとても人間的な神さまであるのにだ。
いつも感心があるのはもっぱら他者から、すべてを奪いさることだけである。
ただ政治屋……いや、リーダー・シップを発揮できるならなんでもかまわない……その立場には興味がある。
学級委員長。家長。宗教家。総理大臣。大統領……とにかくそう言う立場の連中は、およそ一人から数億人の期待と不満を、その肩に乗せているわけなのだ。大勢に期待であれ不満であれ、自分のことを認められたら、どれだけ快いだろう。それは絶対に書店でブーツを打ちならしても、得られる部類の人目ではない。
それはとても情熱があって、何より高尚な人目なのだ。
そのうち不意に、小説陳列棚の下段あたりで、あるタイトルが目に留まる。
【善の研究・西田幾多郎 全注釈・小坂国継】
“善の研究”だと? ……私は鼻じろむ。
「うさんくさい」
つい独りごとまで口から漏れる。その“善”と言う文字に連想されて、頭の中で次々に、善にまつわる者事が、灰汁のように浮いては掬いとられた。
神さま。イエス・キリスト。仏門。清貧。
しかし、それは無意味な連想だった。私が善とは、真逆の生きものだからである。
私は鼻を鳴らしてしまう。
別にそのタイトルを、人間の青くさい理想と思ったわけではない。ただ“善の研究”などと言う本が、疫病神の手のひらにあるのを、滑稽に感じてしまっただけである。
まさか作者も疫病神が手にしているとは思わないだろう。
ただ今は金がすこし余っていて、疫病神と善の研究の組みあわせに“パンチ”を感じてしまったらしい。私は皮肉な巡りあいに従って、その本を買おうと心に決めた。
裏を見ると、善の研究の成果は税込で千円くらいだった。それなりに手軽な“善”だった。
しかしレジに向かおうとすると、途端に私の足は釘を打たれでもしたように、書店の床へ縫いつけられてしまったのだ。
それはおそらく、春本を何か難解な本で挟んでレジへ向かう、男児の心境に近かった。
私は“善の研究”を買うと店員に認知されるのが、急にたまらなく恥ずかしくなり、その場面を想像するだけで顔から火を噴きそうになる。
それは中学生高学年くらいの容姿をしている自分を、格好つけて哲学書を買う子供と誤解されたくないからだろうか。それとも疫病神である自分と“善の研究”の秘めた邂逅を独占したいためだろうか?
いや、そんな稚拙な感情ではないはずだ。さらに底しれない痛みがあった。それこそ三大疼痛にまさる勢いで“それ”は私の喉を圧迫して息を詰まらせる。正体不明そのままで。
しかし、だからと言って哲学書を春本で挟むわけにもいかない。恥ずかしい(と思う)本を春本でサンド・ウィッチにしたところで、ただの露出狂じゃないか! なら同じく哲学書に挟んでしまうべきだろうか? ……そうしたところで、店員には見られてしまうのだ。もちろんどんなふうに買ったところで、私の心中は見やぶられない。
それでも私は店員の考えに関わらず“見られる”のが苦痛だった。見ることに愛情はあっても、見られることには憎悪が伴うらしいのだ。
そうなると八方ふさがりの感情をほぐす手段は、おのずとひとつに収束した。
私はつねに頭の中で渦まいている、強欲の化身の悪霊に唆されて、本をすばやく鞄に入れた。
その瞬間、まるで狙ったように声をかけられた。
あの……
と言う今にも消えそうな『友達』の声は、まるでスピーカーで何百倍にも増幅したように心臓へ響いた。そして私の心臓は、その声のために息の根を止められ、けれどもすぐに咽せかえり、汗腺から急に噴きだした汗と同じく勢いを増した。
横を向いて『友達』を見たとき、心臓はすぐに胸を撫でおろす。
久々に呼吸をした気分で、それから唇を舐めたあと。
「あんた……おどろかさないでよ」
友達と呼ぶのは奇妙なので、これからは『ありふれた悲劇ちゃん』と呼ぶことにする。最初に言っておくならば、彼女は何日かすると家庭内暴力で死ぬことになる……おそらく。
『ありふれた悲劇ちゃん』は下目づかいに私を見ると、卑屈な草食動物のようにエヘエヘと笑った。
「何? ……言いたいことがあるの」
私の窃盗を本心では咎めたいのだろう。しかし『ありふれた悲劇ちゃん』は母親からの暴力に無力(かも)だったから、したがってこの世のすべての悪行に対して無力も同然だったのだ。ただ彼女は悪行を咎められないために、それに自分も荷担していると感じてしまっているらしい。彼女のBirdは善良で、だからこそ無力な平和のハトだ。
それに比べたら私のBirdはトンビのようにしたたかだから、すぐに悪行に怯えくさっている『ありふれた悲劇ちゃん』の手を、自分の悪行まみれの手で掴んで本屋を出た。
その強引さこそ“有力”だった。
『ありふれた悲劇ちゃん』は身長が私よりすこしだけ高い。
『ありふれた悲劇ちゃん』は高校二年生だったとおぼえている。
私と『ありふれた悲劇ちゃん』が友達になったのは、その日から一ヶ月くらい前だった。公園のベンチで俯いている彼女の容姿と雰囲気が、あまりに“あいつ”と似ていたので、みさおを二万で買ってやった。それ以来、関係を持っている。
『ありふれた悲劇ちゃん』を抱いたから、私は彼女について知っているすべてを好きに語る。抱いた者は抱かれた者を、告発されないかぎりは好きに語る権利があるのだ。
『ありふれた悲劇ちゃん』が女でよかったと思う。男は金に服従しても、女に対して性では服従されたがらないからきらいだ。
私たちは法律をかろんじてくれる酒屋へ行って、ビールを山ほど買ったあと、そのまま邂逅した公園に向かっていった。産まれたてのBirdのように『ありふれた悲劇ちゃん』はちょこちょことうしろをついてくる。それもあいつにそっくりだった。
夏の十七時三十分はまだあかるく、親子づれをちらほらと見かけた。ベンチに座ると私たちはビールのプルタブを開ける。たちまち子供たちの親が、それを耳にして顔をしかめる。
「プルタブの正式名称はイージー・オープン・エンドなんだよ」
と私が豆知識を与えると『ありふれた悲劇ちゃん』はふんふんと頷いて、知識をハトのようについばんでいた。
それから私は盛大に、
「昼間からビールを飲むのと、親子づれの前でビールを飲むのは、どちらがより背徳的なのかしら!」
錆びたブランコのきしみのように、耳ざわりな大声で公園に響きわたらせる。
『ありふれた悲劇ちゃん』が金魚じみた、かわいらしい目を大きく開けた。
親たちはまるで劇場で、一流のオーケストラを聞いたように唖然として、けれどもすぐに立ちなおったらしい。それから私がぐるりを蛇にらみすると、子供を連れて逃げていった。
それが追いたてられる駄馬のようでおかしかった。一人の子供が親の歩幅のリズムへ乗れずにころんでいる。
ファッキン・テンポだ!
「どうして逃げるのよ!」
もたついている親子づれをあざわらい、そして『ありふれた悲劇ちゃん』の肩に手を回し。
「この子が哀れと思わないのか? 連れで人を判断するなよ、この子は家庭内暴力の被害者なんだから!」
肺いっぱいに空気を入れてもう一度、
「家庭内暴力だぞ!」
そうだよ、家庭内暴力なんだってば! ……しかし私の主張もむなしく、非人情な親子づれは去ってしまう。
私の無限のコーラスが聞こえなかったのだろうか。相手は心の耳栓でもしていたのだろう。
ビールを一気に飲みほすと、私は『ありふれた悲劇ちゃん』の髪に顔を擦りよせて、メリット・シャンプーの安っぽい香りをたのしみつつ、これこそノストラダムスの大予言を乗りこえた2000年っ子の匂いなのだと安心した。大予言を信じて金を使いまくっていたから、今の私は以前よりも清貧だった。
私は髪に溺れていたから『ありふれた悲劇ちゃん』の顔は見えない。それでも彼女はさきほどの絶叫を、よろこんでくれていたと思う。彼女はくすくすと笑っていたから。
私が四本目のビールを開けたとき、もうあたりは暗くなりかけていた。みかん色とむらさき色と泥を混ぜたベールに空は包まれる。
それから私がビールを飲もうとしたときに『ありふれた悲劇ちゃん』は一冊の本を鞄から取りだしたのだった。それは世界地図だった。彼女はそわそわと 「どうして世界地図を?」 と聞かれるのを待ちわびている。
小型犬のようだ。私は心の隅で慈しみと嘲笑を化合しながら、望むように言ってやった。
「どうして世界地図を?」
『ありふれた悲劇ちゃん』の表情はタンポポのように華やかになる。しかし彼女の口からは言葉を伝えたいはずなのに、醜いオットセイじみたアウッアウッと言う焦りばかりが漏れている。
七年間の家庭内暴力の蓄積で『ありふれた悲劇ちゃん』は伝心能力が壊れていた。典型的な失語症だったのだ。彼女の特技は服従であり、伝心はその真逆の行為だった。
それでも電波なら『ありふれた悲劇ちゃん』は意志を伝えられる。声をださないこと以上に、メールにはそもそも独りごとも延長のきらいがあるらしい。彼女はメールを使えば独りよがりに言葉を伝えられるのだ。
『うまく話せなくてごめんなさい(何やら悲しそうな絵文字)
わたし、女苑さんに貰った最初のお金で世界地図を買いました。
夜に内職しても取られてるお金、すこしなら分けてもらえるけど、ほとんど日用品に消えるから。
わたし誰かに沢山のお金を貰ったことがないから。女苑さんに貰ったお金を、本当に欲しい物に使いました。
わたし、いつでも世界地図が欲しかった。
いつも本屋で眺めていました。
海を渡ってどこへでもいけると信じられるから』
『ありふれた悲劇ちゃん』のタイピングはキーボードでもないのに雷速だった。あるいはこれが、人間の意思伝心の進化のかたちなのだろうか? 少なくともその技術も、世界地図へのささやかな望みも、彼女にできる最大限の“今”への報復だった。
『世界ってなんですか?』
今度はあまりに素朴すぎる質問が、私の携帯電話の画面に映しだされる。あいつが同じことを言ったとしても、絶対に素朴とは思えないだろう。虫唾の走るニヒリズムとして受けとるはずだ。
『ありふれた悲劇ちゃん』の瞳が期待で水晶のように輝いている。
私はそれになんと答えるべきなのだろうか?
何百年も生きているから、これでも結論は出ているつもりだ。
世界とはおよそクリストファー・コロンブスのように海の向こうでは見つけられない。
おそらく人間たちの世界は、さらに身近にあるんだよ。それは期末テストだったりする。表彰状だったりする、身分証明書だったりする、郵便配達物だったりする。酒屋だったりする、スーパーだったりする、調剤薬局だったりする、総合病院だったりする。
その書類と建築物を人間のかたちに鋳造すれば『ありふれた悲劇ちゃん』にぴったりの世界ができるにちがいない。それはとても狭いけれども、どうしようもなく切実に必要なんだって!
私はときどき現代人よりも、江戸時代くらいの人間の心が清らかだったと信じている、懐古主義者のはらわたを引きずりだして、ロープ・ウェイのワイヤーにして晒したくなる。
あのころの人間たちには余裕がなくて、とても現代人のように遠方の殺人事件で、心を痛められはしなかった。そんな余裕も、知るすべもなかった。
私は自分の信じている世界を伝えたくなくて、口を縫われた人形のように黙りこくった。
すると……余計な質問で……私の気をわるくしたと思ったのだろう。
『ありふれた悲劇ちゃん』は私にきらわれたくない一心に、また別の口あたりがよい質問を送ってくるのだった。
『どの国へ行ってみたいですか?』
これならすぐに答えられる。と私は思って、すぐに気分を切りかえる。
しかし切りかえた矢先に……これまた鬱陶しい人種に目をつけられたようである。
公園の出口あたりから、ゆっくりと二人の警察官が近づいてきた。
「ちょっと……よろしいですか」
「何か?」
公園から追いだした親子づれが通報したにちがいない。
高身長の警察官に応対しながらビールを舐める。そして鞄からタオルを取りだし『ありふれた悲劇ちゃん』の頭へと、顔が見えないようにかぶせてやる。
『ありふれた悲劇ちゃん』は非力にも絶滅しそうなヤンバルクイナのように怯えている。それは警察官に対する恐怖ではなく、未成年飲酒が露見して母親に折檻されることへの恐怖(かも)なのだ。
「未成年の学生さんが、公園で飲酒していると通報があってね……」
と低身長の警察官が言う。代わりばんこに言うさまは、ありがちな芸人のコントじみていた。
「ふん。年増が若者に嫉妬して、青春を破壊しようと権力にたよったのかな?」
警察官たちは苦わらう。どうヒステリックに事情を説明されたにせよ、私と同じことを思わないでもなかったのだろう。
私は調子づいたフリをして、
「いつも思うんですね……殺人よりも未成年飲酒よりも、安全圏から誰かを告発するのが、何より卑怯なんだって……言いたいなら“じか”に言えばよろしいでしょう? それでも相手のきもちが分からないこともありません。私がモハメド・アリより強いとなっては!」
「これは学生さん、ひどく酔ってるな?」 と高身長の警察官。
「何? 知らないの、モハメド・アリ……近ごろの男児は、あの有名なボクサーを知らないくらい、格闘技への情熱を失っているのかな? これでも私は、ちょっとは腕にオボエ・アリなんですよ」
低身長の警察官はオボエ・アリで横隔膜にジャブを喰らい、つい笑いを我慢しつつ。
「観念して学生証を見せてもらえる? おれたちも仕事で来てるからね、そればかりは譲れないよ」
「困ったなあ……なら、なら。チャンスをちょうだいよ!」
「チャンス?」
「今からラリアットするからさ、一回ね! それがモハメド・アリくらいだったら、私たちを許してよ」
警察官たちは子供のかわいらしい頼みとでも思ったのだろう。顔を突きあわせて、にやつきながら了承した。
言質を取った! と私は腕に力を込める。
私は背を合わせるために跳びあがり、放たれた砲丸の勢いで、警察官たちの首をめがけて、折れないくらい(かも)のラリアットを喰らわせてやる。ダブルでだ。
たちまち警察官たちが地面に倒れる。ふたりは蟹のように泡を噴いていた。
「むかつくなあ……権力!」
悪は滅びた!
私はベンチを表彰台の代わりに上へ乗ると、虚空へピース・サインをした。カメラのフラッシュは明滅している、公園の古びた白熱電灯がしてくれる。
「行こう!」
ベンチから降りると、私は『ありふれた悲劇ちゃん』の手を引いて公園を去った。彼女は何度も振りかえり、倒れた警察官たちを見て、そのたびに体をこわばらせていた。
ビールは償いとして警察官たちにくれてやった。
私たちは無言で歩いた。蒸しあつい夏の空の下を。手のひらに“ほてり”と胡椒味のアナキズムを握りしめながら。
平静をよそおいつつも、血管の下で興奮の虫が這いまわる。
人を殴った! と私は何度も噛みしめる。
暴力を振るったのは久しぶりだ。
私はベトナム戦争で戦っている兵士の気分が分かる気がした。争いの輪に巻きこまれると、それが心を高ぶらせて、誰しも自慰に耽りたくなると言う。
アパートメントに帰ったらすぐに『ありふれた悲劇ちゃん』と性交しよう! と私は決めた。
別に今日は一緒にビールの飲みたいだけで、抱くために『ありふれた悲劇ちゃん』を呼びだしたわけではなかったのに……しかし警察官を殴った興奮を、そのまま彼女との性交につなげて、より生き々きとした開放感を味わう機会をのがすのは、エビの尻尾を残すくらい、冒涜的ではないだろうか?
やがてアパートが見えてくる。年月風雨に打ちのめされ、裂傷と黴くさきを受けいれた古い根城。その一室を借りている。
階段を登って二〇八号室のドアを開けて、私たちは中にはいった。
それからすぐに『ありふれた悲劇ちゃん』を万年布団に押したおした。彼女の手を引く私の手から興奮が伝染していたのか……彼女はなんの抵抗感もなく布団の上に倒れてくれる。
その従順さが、さらに私を煽りたてた。
正直なところ『ありふれた悲劇ちゃん』の母親が、彼女を殴る理由も分かる気がする。すこしは逆上でもしてくれたら、罪悪感もおぼえるだろうに、彼女がすべてを受けいれるサンド・バッグの態度でいるから、それが却って心の乱暴な部分をざわめかせる。
無抵抗主義者ほど、こちらをむかつかせる者もいないのだ。
『ありふれた悲劇ちゃん』はどうして無力なのだろう? 彼女はどうして殴りかえさないのだろう?
そう聞いてみれば、卑屈な微笑が返ってくるにちがいない。
かわいげのないマハトマ・ガンディーのBird。
『ありふれた悲劇ちゃん』はあいつとちがって気がついていない。彼女の卑屈な態度こそ、暴力的な態度の鏡なのだ……鏡になって、こちらの暴力的な側面を、無闇に反射してくるから、こちらのほうでも自己防衛に鏡を殴って、ばらばらに叩きこわさなければならなくなる……彼女のような人間が抵抗しないことにより、却って周囲を獣に近づけてしまうのだ。
『ありふれた悲劇ちゃん』のシャツを、乳房の上まで押しあげる。肌色の海に浮かんでいる、いくつもの痛ましい殴打の痕が、まるで小島のように見えた。暴力でえがかれた世界地図……。
『どの国へ行ってみたいですか?』
そう言えば、質問に返事をしていなかったっけ……どの国にも興味などない。ただ壁がなければよろこばしい。種族の壁、性別の壁、言語の壁、貧富の壁……世間を弁当のバランのように切りわける“見えない壁”のない……砂漠とか、草原とか……空襲で更地になっているとか……。
あいつは 「幻想郷に行かないと」 といつも催促する。まだ私たちに、力が残っているうちに。
そこは本当に私が望んでいる国なのだろうか?
『ありふれた悲劇ちゃん』の股を弄ぼうとしたときに、急に部屋があかるくなった。光を唐突に吸収した目がおどろいて、眉間のあたりが重くなる。
「誰よ、その子」
「姉さん!」
私はいまいましげに、電気をつけたあいつを見た。
迂闊にも鍵をしわすれていたらしい。
こんな日に帰ってこないでほしい! いつも夢遊病者のように、街の迷路で右往左往している分際で、いてほしいときはいないくせに……それにしてもあいつは、どうして錆びた鉄パイプを杖にして、体を支えているのだろうか?
しかし今は、そんな疑問に気は回らない。
私は唾を飛ばしつつ、
「出ていってよ、性交してるのよ!」
私は泣きたくなってしまう。どうにも今日は“ついて”いない。それも世界で二番目に。
別に私は性交が中断されて泣きたいのではない。あいつにそっくりの『ありふれた悲劇ちゃん』を本人(神)に見られて泣きたいのだ。
どうやらふたりも、互いの顔に類似点を見つけたらしい。
じわじわと……あいつは愉悦を、引きかえ『ありふれた悲劇ちゃん』は失望を、涙腺から分泌しはじめる。
急にふたりを世間から切りはなし、網走の監獄にでもとじこめておきたくなる。私は恥ずかしくて顔の血管が破裂しそうだ。
あいつは鉄パイプで、何度か畳を打ちならし。
「かわいらしい妹! 私と性交したいなら言えばよかったのに。そっくりさんで慰めずにさあ」
あいつは私ではなく『ありふれた悲劇ちゃん』に言っているはずだ。
私は牙を剥きだして、あいつの腹を殴ってでも、胃液を吐かせてやりたいと思った。
しかし憤りも……さめざめと泣きはじめた『ありふれた悲劇ちゃん』の声で萎えてしまう。彼女は私に恋をしていた。
私はあいつが好き(かも)だった。
つめたい汗を背中に流し、おろおろと言う音を背後で垂れながしつつ。
「ちがうのよ。私は姉さんの代わりに“あんた”を抱いたかもしれないけど、それでも真剣に性交してはいたんだって! 真心を込めてキッスをしたし、痛くないようにしてあげていたでしょう?
私の愛情は本当に代償行為だけなんかじゃない……信じてよ」
私は頬にキッスをして『ありふれた悲劇ちゃん』を籠絡しようと、頬へ顔を近づける。
しかし『ありふれた悲劇ちゃん』の瞳に憎悪が灯ったかと思うと……私はもう頬に平手を喰らい、布団の上へ倒れていた。
『ありふれた悲劇ちゃん』が服を着はじめる音を聞きながら、心の中で舌を打つ。これほど従順な女でも、自分の価値を認めさせないかぎりは、抱かせない自尊心が残っていたらしい……高校二年生らしい、性の神聖視とでも言うべきだろうか……その態度の一部でも母親にぶっつけたら、すこしは生活もよくなるだろうに。
私の傍を離れても、結局はしあわせになれないのだ。
男が私よりもやさしく抱いてくれると思うなら、それはひどいまちがいだ。
起きあがる気力は、もう失っていた。私たちは『ありふれた悲劇ちゃん』が服を着るまで黙っていた。
『ありふれた悲劇ちゃん』はあいつの脇を通りすぎて、威嚇的にドアを打ちならして去っていった。
「女苑、食べものある?」
「死にくされ!」
どうしてユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカはあいつのいるところへ核爆弾を落とさなかったのだろう?
あいつが戦争の不幸に門外漢だったので、広島県と長崎県で大勢が亡くなってしまったのだ。
【目】が覚めると、あいつが朝のニュースを見ていた。ニュース・キャンサーがありふれた悲劇を世に伝えている。
『ありふれた悲劇ちゃん』が出ていったあとはおぼえていない。ブラック・ニッカの瓶が枕の傍に転がっていた。
「おはよう」
私は返事をしなかった。
「今度はやさしくしてね」
あいつの首に、私の歯形がついていた。
吐きそうだ。と私は思った。
それから水を飲むためにキッチンへ向かう。乾いた舌が、白い唾液でねとついていた。
口をゆすいだ。ついでに歯ブラシに歯ミガキ粉をつけようとしたとき、その中身がカラであるのに気がつかされる。
私はうしろに振りかえり、
「歯ミガキ粉を食べるなって、何度も言ったよね!」
「だって冷蔵庫に食べものがなかったのよ」
「まさか洗剤まで食べてないよね……?」
「ごめんなさい」
気のない謝罪を投げやがって! 私は歯ミガキ粉のチューブを、あいつの背中に投げつけたくなる。実際にはやらないけれども。
そんなことをしても、あいつは堪えすらしないのだ。サンド・バッグを相手に怒りのあやつり人形になるのはまっぴらだった。
水をつけて歯を磨き、そのあとしばらく、あいつと一緒にニュースを見ていた。
ありふれた悲劇が胃をむかつかせる。殺人事件、台風被害、交通事故、政治汚職……ニュース・キャンサーだって、好きで不愉快な伝聞をしているわけでもないだろうに……悲しみながら、誰かの不幸をたのしむことはたやすい。2000年代ではどんな感情も両立できる。刺激を求める大衆の需要が、キャスターをキャンサーに変えてしまうのだ。
そのうちあいつが、独りごとのようにぽつりと言った。
「病院へ行きたいの」
「なんだって?」
「このまえから体が、特に足が重くてさ」
「だから鉄パイプを杖にしてたの?」
「うん」
仮病だろうか? ……すぐに考えをあらためる。
そんなフリには意味がないし、演じるために鉄パイプまで用意するのは袈裟が大きすぎるだろう。
私はあいつの足に触れた。なんとなく“むくみ”があるように思われた。
「女苑さあ」
「何?」
「昨日はあの……似ている子を煽っちゃったけどさ。それは嫉妬したからだよ。私は本当にあんたのことが好きだからね。本当さ」
あいつは私の髪にキッスをした。
「あの子は不幸になるよ」
私はあいつが好き(かも)だけれども、できるだけ抱きたくないと思う。
あいつを抱くとひどく乱暴になってしまう。愛撫をしていると胸がざわつく。痛がらないように揉んだり舐めたりするのは馬鹿々々しい。それは私に善意が欠けているからだ。
だから私が乱暴に抱ける相手は、あいつだけになってしまった。
それでも分かって欲しいのは、あいつをできるだけ抱かないことで、私は暴力的な側面を遠ざけて、善良にあろうとはしたと言うことだ。
それが私の善への向きあいかたなんだってば!
そうでしょう? 凶悪な猛禽類にも似ている私のBird。
いつまでも小学生のいじめっ子のように、誰かへ気ままにコブラ・ツイストをしかける生活は、もういやなんだ!
十時くらいにあいつを担いで病院へ言った。
渡されたボードに、あいつの症状を鑑みてチェックを打ち、先客たちを蹴ちらしたい気分を押さえつつ、ボードを受けつけの看護婦に渡す。
「あっ。それと保険証を……」
保険証? ……私はすこし逡巡する。そう言えば、そんな物があったっけ。しかし神さまが保険証を持っているわけもない。
私たちには人(神)権も戸籍もなく、安アパートを借りるように、役所を騙くらかして国民健康保険証をせしめるわけにも行かないのだ。
神権保護法は、いつ制定されるのだろう。
看護婦にへこへこと頭をさげ 「家に忘れた」 と私は弁解するしかなかった。それで結局は、後日また持ってくると言うことで場をのがれた。
面倒なあいつ……人間に頭をさげさせやがって……。
私を誰だと思っているのだ。
客は神さまなどと言う、傲慢なことわざ程度で済まない。
本物の神さまが客なのだ。
そう思いつつも、私は最後まで演技派でいた。
席に座って、一時間ほど仏像のように耐えしのび……やがて看護婦の呼びだしを受けて、診察室に通される。病院の薬の臭いや、私には理解できない器具類が、やたらと威嚇的に感じてしまい、余計に気分がわるくなる。
平日の朝から小娘(に見える)が来たのは以外だったらしい。老人ばかりを相手にしている、うだつのあがらない医者の目に、詮索が灯るさまが苦痛に思われた。
口内検査や、聴診を終えたあと。
「それで、どうです?」
私はあいつが余計なことを言うまえに話しはじめた。
「姉さんは何か、わるい病気なんですか?」
「これだけでは、なんともねえ……熱もないようですし」
「それでも実際、まともに歩けないくらい、足が弱っていますから……」
「なら今度は、足も見ましょうか?」
「頼みます」
あいつをベッドに寝かせてやる。
医者があいつの足に触れはじめた。
そして膝を検査しているときだった。それまで機械的だった医者の動きへ、急に精気が満ちはじめたのだ。彼は執拗にあいつの膝下を叩きだす。叩くほどに、彼の目に確信と動揺が揺らめいていた。
「血液検査をしないことには、断定的には言えませんが……」
私はまごつく医者の言葉を待った。
「妹さん……でよろしいですか?」
「はい」
「あるいはこれは、脚気のような病気かもしれないねえ」
脚気……英語でBeriBeriとか言う、ふざけた名前だったっけ? 結核と並ぶ、かつての二大国民病だ。
「江戸わずらい?」
「よく知ってるね。いや、私も相手にしたことはない。今では珍しい病気だから……その、森鴎外のころとはちがって!」
鏡の自分におどろいている犬のように、医者は興奮してまくしたてる。
「一種のビタミンが不足して、神経が弱っているんだね。膝蓋腱反射ですよ。正常なら膝下のくぼみを叩かれると、下肢が勝手に動くのです。しかし脚気の場合は神経が弱っていて動かない……それにしても本当に珍しい、現代では偏食家でもなければ、患わないはずなのに……」
「馬鹿々々しい!」
聞いてもいない“べしゃり”が鬱陶しくて、私は急に叫んでいた。
医者は善意で説明しているのではない。いつもは老人ばかり相手にしている自分が、奇病と邂逅したことにロマンチシズムを感じてしまい、その情熱をひけらかしているだけだ。それが強烈に態度へ出ていた。
あいつは実験動物なんかじゃないんだぞ!
私の叫びで自覚したのか……医者は自分の感情と、哀れなあいつを比較して、羞恥を感じているのだろう。
すこし俯き、紅潮しつつ咳をはらって。
「ここは小さな病院ですが、入院用のベッドのひとつやふたつはありますよ。安くしておきます……ビタミンさえ接種すれば、すぐに治る病気ではありますが、足のわるい身内がいると大変でしょう……それに誤診も考慮して、精密検査も。じつのところ脚気は今でも断定のむずかしい病気のままですから……入院させますか?」
私は無言で頷くしかなかった。
「そう言えば、親御さんは?」
「親なんていない」
あいつは本当になさけない。どうして身内を脚気(かも)で入院させるのだろう?
時間には『ありふれた悲劇ちゃん』に平手を喰らったり、脚気(かも)の身内を入院させるより、ほかに有意義な使いかたがあるはずだ。
千里浜でビールを片手に夕日を見たり、ラクダで砂漠を横断したりとか……。
【あ】いつの入院の手つづきをすると、私は病院を逃げるように去っていった。病院のまえでタバコを吸うと、わずかにみじめさが、煙とともに体外へ出た。
私は急に、壁のない遠くの国へ行きたくなって、近くのスーパーのまえを通りがかったとき、その駐車場へ置いてあった、鍵をつけっぱなしのバイク(SR400)を掻っぱらう。
頭の中で尾崎豊の歌がうるさい。
私は信号に捕まったとき、ミラーに映る自分の目を見て考えた。
買った女に平手を喰らい、身内を病院へ押しつけて、あまつさえ盗んだバイクで走っている私は何者なのか?
頭の深いところで、空想の裁判所に踏みこむと、私は法廷で訴える。
(別に好きで犯罪行為に手を染めたり、誰かを傷つけているわけじゃない!)
ならどうして、君はそんなことをするのかな? 本の窃盗、警察官への暴行、未成年との淫行、二輪の窃盗……二日だけでもギネス級だよ。
(それは……言ってしまえば性分なんだよ! 私は疫病神で、誰かを搾取する衝動で、息をつなぎとめているから、已めたくても已められないんだよ! 已めると窒息して、死んでしまうんだ……それでも本当に、いつか必ず、慎ましく暮らしたいと思っている。誰から助けられると信じている。善良になりたいと望んでいる!)
ならいくつか例を挙げるから、どれでも好きなやつになりなさい。
今の君は……?
(一) 壁を壊そうとするベルリンの聖戦士
(二) 混沌を司るきわめて日本的な神さま
(三) ただの馬鹿
(四) シスター・コンプレックスの妹
私は(二)を選びとると、疱瘡神を祀っている神社へ向けて、青いランプを合図にアクセルを吹かした。
疱瘡神は疫病神の一種である。悪神を退治するのではなく、祭りあげて鎮めると言う、この国に独特の手法もあって、私にまつわる神社がこの街の東に残っているのだ。
私はつらくなったとき、いつもその神社へ行っていた。そうすれば卑しくも、自分が神さまの末席にいると実感できるからである。
意外にも神社の前に車が一台だけ止まっていた。私はバイクを鳥居の傍へ止めるとナンバーを見る。
これは隣県のナンバーじゃないか。この寂れた神社になんの用だろう……うらぶれた神社マニヤだろうか?
社に近づくと、賽銭箱の前で、祈りを捧げている女がいた。
それを見たとき私の中へ、雷のように強い感情が押しよせる。女から伝わってくる、今どき珍しい本物の信奉心だった。
砂利を踏む音を聞いたのか、女がこちらに振りかえる。しかし、またすぐに向きなおって祈りを捧げはじめてしまった。
その姿があまりに清らかなので私は一瞬、何か神聖な儀式でも眺めているように錯覚した。そして願わくば、その輪の中に加わりたいと思ってしまった。
私は女の隣で祈りはじめた。
そして何十分か無心で祈り、時が経ったころだった。
女は急に私を見て、
「あなたもですか?」
蜘蛛の糸にしがみついているような声だった。
「あなたも、とは?」
「身内がひどい皮膚病で……」
一緒に祈ったことで、何か共感を得たのだろう。
女は聞いてもいない事情を語りだす。
しかし別に医者の“べしゃり”とちがって不快感はすこしもない。女の言葉はただ切実に尽きていた。
女は顔にひどい皮膚炎のある娘のために祈っていたらしい。どんな治療も一定の効果を得られたけれども、すぐに再発してしてしまい、それが原因で今は鬱病までも併発しているのだと教えられた。
娘のために、女は藁にも縋る思いで疱瘡神を訪ねてきたわけだった。
どうやら現代で疱瘡神に求められているのは、その名前に由来する病ではなく、アトピーを静めることであるらしい。たしかに症状は似ているし、中々におもしろい変化だと思った。
それから私は『ありふれた悲劇ちゃん』の母親と、この女のちがいについて考える。片方は娘を殴る親、片方は娘のために祈る親。何がここまで人格に差異をつけるのだろう?
私は急に鞄から御守リを取りだし、女の手に押しつける。
女は言う。
「どうしてこれを? あなたも必要でしょう……」
善良さはすぐ触れられるところにある。私はそれを信じている。
それはあまりに近いはずなのに、どうしても遠くに感じるのだ。
それでも求めて生きないと。
「私は神さまだから要らないわ」
女は礼をして去っていった。
あの御守リがどれほど効くか分からないし、別に私と女に契約などはひとつもない。それを渡したのは……ただ一歩を踏みだしたかったのだ。
いつの日か、目のまえの“見えない壁”を、叩きこわせるようになるために。
『ありふれた悲劇ちゃん』に謝ろう……そして一緒に暮らそうと言おう! と私は急に決意が満ちた。
今なら乾く者へあたいなしに水を飲ませ、家なき者に家を与えられるような気がしたのだ。
私は根拠のない、けれども清々しいほどの全能感に捕らわれていた。
そして携帯電話をひらいて『ありふれた悲劇ちゃん』にメールを送ろうとして、すでに彼女からメールが送られていたのだと気がつかされる。
期待に胸を膨らませつつ携帯電話をひらく。
滑稽にも次の間に、絶望的な気分に陥ることなどすこしも知らず……。
『昨日は本当にごめんなさい。私はいつも女苑さんに助けてもらっていたのに、あれくらいで叩いてしまうなんて。
女苑さん、本当のところ知っていました。
顔を見たことさえなかったけど、女苑さんはおねえさんが好きなんだって。
女苑さんはときどき、おねえさんがどれだけ頭がわるくて、どれだけ滑稽かを話してくれました。
それでも女苑さん、知っていましたか? あなたがおねえさんのことを話すときは、いつでも私と話すときよりも、まぶしい笑顔をしていたって。ホテルであなたが先に眠ったとき 「紫苑」 と寝言を呟いていたって。
私はそれに、もう怒りを感じたりはしていません。だって女苑さんは沢山のたのしさをくれたのに、私は馬鹿だから何も返せない。あなたを満足させられない。
女苑さん、なんだか昨日の夜から母親の機嫌がとてもわるい。
なんだかとても不幸だと思う。
世界地図が見つかって、取られてしまいました。
勝手なことをするなって。
部屋にとじこめて、ひどく叩かれて、肋骨のところが熱いです。
もう会えないかも』
メールを返しても、いつまでも返事がこないので、私は携帯電話の首を逆に折った。
私が特にはげしい自己嫌悪と自己憐憫を感じるのは、決まって性交のあとだった。性交のあとに自分を哀れむよりも相手を侮辱する態度もない。
何をそんなに怯えているのだ? ……もうあいつのそっくりさんに、心を乱されずに済むじゃないか!
たしかに『ありふれた悲劇ちゃん』を助けようとは決心したさ……しかし、それは“助けられる状況なら”の話しだろう。
そう思いこもうとしても……まるで靄がかかったように、気分はくもったままだった。
私は『ありふれた悲劇ちゃん』の家も住所も知らなかったのだ。彼女は自分を語らなかったし、そもそも彼女に“自分”などあったのだろうか?
舌を切られて、ひたすら黙りこむスズメのBird。
機会はあったはずなのだ。私から『ありふれた悲劇ちゃん』のことを聞けば、従順な彼女は家でも住所でも教えてくれたにちがいない。
私は自分なりに『ありふれた悲劇ちゃん』に愛情を与えていたはずなのに。
本当のところ私はあいつにそっくりの『ありふれた悲劇ちゃん』の容姿と雰囲気を見ていたのみで、その中身にはかけらも期待していなかったのだろうか? ……。
今の私は……。
(一) 壁を壊そうとするベルリンの聖戦士
(二) 混沌を司るきわめて日本的な神さま
(三) 失恋した馬鹿
(四) シスター・コンプレックスの妹
私は(四)を選びとった。
じつのところ『ありふれた悲劇ちゃん』が家庭内暴力で死んだと言うのは嘘でしかない。
正確に言うと、分からないのである。それから『ありふれた悲劇ちゃん』とは会えなくなってしまったので、私が勝手に決めつけているだけだった。
だって私は神さまなのに『ありふれた悲劇ちゃん』の最後のメールは、自分から離れるための嘘で、公園で買った女に振られただけなのだしたら、あまりにマヌケすぎるだろう。
なので私はそう決めつけて、ちっぽけな自尊心を守っている。
それでも『ありふれた悲劇ちゃん』は、私に嘘は言わないと思う。
『ありふれた悲劇ちゃん』は私に恋をしていたからである。
かわいらしくて、都合のよかった、愛玩動物のように保健所へ送られた私のBird……。
だからこそ、私は『ありふれた悲劇ちゃん』と呼んでいるのだ。彼女が家庭内暴力で死んだところで、それは名前のとおり“ありふれた悲劇”なのである。
アパートから離れたところにバイクを捨て、その足で208号室に帰っていった。
針のようにちくちくとする無力感を味わいながら、不意に鞄へ入れっぱなしの“善の研究”を思いだす。
本を取りだして、数ページほど読むと、飽きて本を投げすてた。
その内容があまりに難解すぎるためか、それとも難解に見えるのは作者がこじらせているためだろうか?
私には善の哲学は理解できないし、注釈も含めて五百ページを読むのは馬鹿々々しい。
それでも私は気がつくと号泣していた。
この世のどこかに、善と言う曖昧な観念を馬鹿まじめに考えぬいて、それは字にしたためられる人間がいる事実に、私は号泣してしまった。
それは私にはできないことだった。
その本には“善”を語る資格があった。私には善どころか、その本を読む資格さえなかった。
【次】の日の夜、私は忍びこむつもりで病院へ向かった。
すると小さな病院にしては珍しく明かりがついていたので、私はつい舌を打った。仕方がないので扉を叩くと、目を充血させた医者で出てきた。
「あなたでしたか! さきほど何度か連絡したところですよ……昨日のうちにすればよかったのに、つい研究に熱中してしまって!」
「研究……?」
鼻じろむ私をかまわずに、
「あなたの姉さんですよ! 血液検査をしておどろきました。ビタミンどころじゃない。彼女には人間が血中に持っている成分がひとつもないんです。ただの、ひとつも! よろしいですか、ひとつもですよ! ……これはもう、大発見なんて程度じゃない……彼女はまったく、未知の生命体と言うことなんですね……待てよ。そうなると妹さんも……」
私は医者の頭を殴りつけた。彼の頭が壁にぶっつかり、だらだらと糞尿のように血を流しはじめる。
「ヤブめ。神さまは脚気になんてならない」
私はあいつのいる部屋へ向かった。医者の口ぶりから、手ひどい実験でもされていると思ったけれども……さすがに考えすぎだったらしい。
いつもどおりのあいつが、窓からはいる月光を眺めていた。
「血を抜かれるなんて迂闊。殺しておいた」
「そう」
「あの子も死んだわ。あんたが不幸にしてしまったのよ」
「それなら殺した数は“アイコ”よね?」
私はあいつの肩を支えて、病院をあとにした。
「私の足だけど」
あいつはビッコを引きながら、
「これも結局、力を失いつつあるからじゃないのかな。その症状が、偶然にも脚気と似ていた」
「神さまが脚気なんて滑稽すぎるわ」
「女苑だって、本当は分かっているんでしょう? 私たちはもう、幻想郷に行かないと生きられないって」
「いやよ。佐渡の二ツ岩でさえ、まだこちらにしがみついているらしいのにさ……」
「どうして女苑は、こちらに拘りつづけているの?」
「私は……」
私は善を探してる。自分が産まれもっている、強欲の化身の悪霊を倒すために。
何百年も私はそればかりを願っている。今さら別の土地へ逃げこんで、すべてをだいなしにするのはまっぴらなのだ。
「ちくしょう! 善良になりたいなあ、慎ましく生きたいなあ……姉さん、私を鎖でぐるぐると巻いておいてちょうだいよ」
「そうしたら女苑は鎖を引きちぎって悪行をする」
「海に沈めてちょうだいよ」
「そうしたら女苑は砂浜に這いあがって悪行をする」
「首を切りおとしてちょうだいよ」
「そうしたら女苑は首だけで悪行をする」
しかし私が善良になったとして、本当に悪行をせずにいられるのだろうか? 善良さを求めているのは本心で、悪行をこのんでいるのも本心なのだ。
もし悪行を已めてしまえば、私が誰かを搾取してきた数百年は、すべてが無意味になってしまう……自分の過去と善良さをうまく両立できなければ、かつてない深刻な恐怖のとりこになるにちがいない。
私は急に辞書で“忍耐”と言う文字の意味を調べたくなる。
そのとき不意に、目のまえから若いカップルが歩いてくる。私は自分たちのありさまと、そのカップルの幸福そうな様子を比べて、ひどくみじめな気分になった。
そしてあろうことかそのカップルは、私たちの横を通りすぎた瞬間にわざとらしい、くすくすと言う笑いを漏らすのだった。
“忍耐”の文字が頭から消え、腕の筋肉がいきみたち、私はもう一人も二人も変わらないので、カップルを殴りころしてやろうと思ったのに……。
「駄目」
それを察したのか、あいつは急に私のほうへ体重をかけて、近くの電柱に押しつけてきた。
そして私の口に、はげしいキッスが振りかかった。
あいつのおかげで助かった。まさに今“忍耐”について考えていたばかりじゃないか……私は善良になるのだ。善良に……。
そう考えたとき、カップルの歩いていった方角で、爆発するような音がした。横目でそちらを見ると、ふたりはトラックに引きころされて、ぐしゃぐしゃの肉片を晒していた。それは悲劇のはずなのに、あまりに唐突すぎたので、私にはまるで三流のコメディアンのトークの産物に見えていた。
即死だ! ……私の頭で、驚愕と狂悦を化合した、脳内麻薬が分泌されはじめる。
あいつは口を放したあと、カップル(の肉片)に言いはなつ。
「へへ……あっかんべえ」
その赤い舌を見た途端、底しれないもので力がみなぎる。私は興奮して、この世のすべての権力者と成金の家に、航空機を墜落させたいと思うような、乱暴な側面に囚われる。
私はばねのようにあいつへ掴みかかると、近くの路地へ引きづりこんだ。爆音を聞いて窓を開けた近所の明かりも、遠くで聞こえはじめるパトカーの音も、もはや気にならなかった。
「ふウーー……うっ。うっ……」
思わず怪物のように呻きを漏らす。スカートを捲りあげて、あいつは下着を見せびらかし、挑発的にほほえんでいる……ちくしょう! ……善ってやつが本当にあるのなら、私の獣を殺してくれ!
本物の神さま、善良の歌詞で歌ってくれ。
本物の神さま、あなたの居場所を教えてくれ。
人間のBirdは神さまに救ってもらえるのに。
それなら誰が、神さまのBirdを救ってくれるのだ!
妹】金善暴『鳥』性脚貧【姉(Great Pornographie) 終わり
悲劇ちゃんの行末も分からない、混ざりもののない善にも悪にもなってしまえない、どうしても突き当たりに行きあたらずに途切れてしまうどこにも行き場の無い感じがどうしようもなくやるせないところが一番心に残りました
最初から最後まで散々苦しんで何も解決していないところがとても女苑でした
最高です
この作品の女苑から神っぽさ(神性)を感じないことが、この作品の彼女の魅力だと感じます。文中で女苑は自身のことをきちんと人間とは区別して考ええているのに、例えば女の子一人に対してもままならないし、姉を人間と同じような感覚で病院に連れていくし、世界なんかどうにかなっちまえと他力に頼る。そして基本的に傲慢であり、無駄にひねくれている。ですが私はこの作品を読んでいても、女苑に「こいつは神様なんかじゃない」というイメージは湧きませんでした。
きっとこの女苑はろくでもない消え方をするんだろうなあとも思いますし、そのときに潔さなんか全くないだろうし後悔とか呪詛とか罵詈雑言を並べ立てまくるんだろうなあと。だからこそ、私たちの住んでいる身近に、神様として存在しているのかもしれませんね。
ご馳走様でした。面白かったです。
ここまでの文体はなかなか見ることができません。
ストーリーラインも切ないし伏線もあるし、文句なしに100点です。
いや本当に素晴らしい。感動です。
好きです
それでも簡単に解決は与えられないだろうと思わされながらも