1
三月の終わり頃、大学からの帰り道に鴨川沿いを一人で当てもなく歩いていると、桜色の喧騒が多く目に入った。
花はまだ五分咲きといったところに映ったが、見物客の大半はそんなことは些事だとでも言うように互いの顔を見て笑い合っている。月が替わって満開ともなれば、いよいよ人の波が桜並木の風景を飲み込む勢いとなるだろう。もはや、桜を見に来ているのか、人を見に来ているのかわからないといった様相は想像に難くない。
歩道に、花弁を萼につけたままの桜の花が落ちていた。私はその場にしゃがみ込んで、しばらくの間、じっとその花の観察に徹していた。五枚の薄白い花びらがきれいに整って並んでいる。
似たような出来事が、去年の春にもあった。一緒に歩いていた友人が、同じように落ちていた桜の花を手にとって、蝋燭の火でも灯すように私の帽子にそっと添えた。
半歩ほど身を引いた後、「金色にも意外と映えるものね」と微笑んで言った友人のふざけた感想を、私は今でも根に持っている。
2
翌月の、四月初旬のこと。
友人の宇佐見蓮子が突然私のアパートを訪問してきたのは、日も沈み、夕食の支度に取り掛かっていた時分のことだった。
こちらが何か質問をする前に、彼女は「ふて寝させて」と一言だけ吐き捨て、ずかずかと私の部屋へと上がりこんだ。そのこと自体に対して、私が怒りを覚えたりすることはなかった。私達はお互いに下宿先の場所を把握しているし、格式めいたアポイントメントなどもなしに唐突に顔を覗かせることは日常茶飯事といっていいことだった。
だから今回の来訪も、蓮子になにか大層な理由があるわけではないだろうと私は考えていた。故に、深い詮索を行うこともしなかった。むしろ、お酒が数本入っているだけの袋をぶら下げて図々しくリビングの席に腰を下ろしたことの方にこそ、私は文句を言って然るべきだろうとも思った。遠慮がないというより、厚かましいという表現の方がしっくりとくる構図であった。私はクリームシチューの入った鍋をぐるぐるとかき混ぜながら、奔放な友人へいったいどんな文句を並べ立てようかとのんびり計画を企てていた。しかし、乾杯後、美味しい美味しいと無邪気に口へ運ぶ友人の顔を見て気づけば毒気を抜かれてしまい、私の計画はあっさり頓挫してしまった。
その日はそんな様子で終わったが、問題は翌日にも続いた。
午前中、講義のなかった私がアパートの自室でくつろいでいると、またも蓮子が「ふて寝させて」と玄関のドアを叩いてきた。私は思わず壁に掛かった時計を見た。ふて寝というが、日はまだ沈むどころか昇りきってすらいない。もちろん、ふて寝をするのに夜が更けてからでないといけないという規約が存在するわけではないが、言い訳にも限度というものがある。
とりあえず、事の詳細を訊ねるために、私は彼女を再びリビングへと招いた。席についた彼女は、目に見えて機嫌が悪そうで、ふて寝もやむ無しといった表情をしていた。それなりに珍しいことではある。
聞けば、書庫に入れないのだという。
科学世紀の現代であるからして、情報というのは電子上に格納されているのが常識な御時世ではあるのだが、一方で、紙媒体の本というのもまた当たり前に存在している。特に、大学が所有している専門書などは古くから保存されている書物も多い。
蓮子の言う書庫というのは、なにか立派な資料館というわけではなく、大学の物理学科旧研究棟の一室のことを指しているらしい。学科で所有する古い書物をその小部屋で保管しているのだという。
彼女は数日前からレポートを仕上げるためにその書庫へ籠もっていたそうだが、昨日から突然部屋へ入れなくなったのだという。
「片開きの扉でね。取っ手は回るのよ。でも、引いてもうんともすんとも言わないわけ」
「鍵が掛かってるんじゃないの?」
「そう思って、事務室に鍵を借りに行ったの。でも、鍵は掛かっていなかった。そもそも旧棟だから、建物の出入り口以外の施錠管理はしていないとも言われたわ」
なんでも、蓮子はレポートの執筆に必要な諸々の私物をその部屋へ置きっぱなしにしていたようで、このまま入れないと非常に困るらしい。
百聞は一見にしかずということで、とりあえず現場へ赴くことになった。
道すがら、蓮子のレポートの完成可否と講義もない日に私が大学へ足を運ぶ労苦との関連性について多少の追及を試みたが、当人は「持つべきものは電波な友人ね」と調子のいいことを言うばかりであった。「あのね、私、霊媒師とかじゃないのよ」と私が憤ると、「本当に視える人はみんなそう言うのよ」と前を歩く彼女は来たときとは打って変わって快活に笑った。
3
件の部屋は物理学科旧研究棟の三階に位置していた。
旧棟というだけあって、建物内にはあまり人の気配がなかった。部屋の多くは資料や普段使われない実験器具などの保管場所になっているらしく、つまりは半ば物置のような扱いであるという。大学にはいろんな意味で捨てられない物が昔から多く受け継がれているらしい。
建物は俯瞰すると中央がくり抜かれた口の字型に近い構造をしていて、中央部には静かな中庭が広がっていた。最低限の手入れはされているようだったが花壇などはなく、日当たりが良くないせいか華やかさには欠けている。その空間に唯一彩りを与えうる存在として、一本の桜の木がしなやかな佇まいで花を咲かせていた。
「ここよ」
蓮子がある一室の扉を指差す。
研究棟という建物に相応しい無機質なアイボリーの片開き扉がそこにはあった。縦長の磨りガラスがはめ込んである以外に、これといって特徴はない。私の目にも、特別不自然なものは映らなかった。
「正常ですわ」
「またまた」
試しに取っ手を回して引っ張ってみるが、なるほど確かに開閉する様子がない。蓮子も手伝って、二人がかりで取っ手を破壊せんが如く体重をかけて引いてみたが、結果は変わらなかった。まず感触に違和感があった。普通のどこにでもいる一般的な華の女子大生二名程度では非力すぎるとかそういった議論以前の問題であった。まるで偶然壁に生えてきた取っ手を引いているかのようだった。地団駄を踏んで地震でも起こそうとする空虚さとやるせなさがそこに居座っていた。少なくとも、なにか扉に物理的な加工を施した結果だとは到底思えなかった。
「確かに不自然ね」
「そうでしょう」
隣人はなぜか得意げな表情で腕を組んでいる。この部屋に入れなくて不利益を被るのは疑いようもなく彼女であるため、ここまで足を運んだ友人の私に労いの言葉はあっても勝ち誇った顔をされる謂れは全くないと思うのだが、聡明で冷静な私はそれを口には出さなかった。
蓮子を無視して私は少し考えてみる。
入れない部屋というのは確かにちょっとしたオカルトである。秘封倶楽部の活動方針は世に身を潜める不思議な秘密を暴くことにあるので、これを対象として扱うことに問題はない。そうは言いつつ、秘封倶楽部は誰かに頼まれて謎の解明に明け暮れているわけではない。オカルトサークルではあるが、ボランティアサークルではない。営利目的ではないが、慈善事業でもない。目に入った秘密すべてに手を付ける義務はなく、その判断は常に会員の意志に委ねられている。
仮に出られない部屋にいたのだとすれば、これは大いに優先すべき問題である。部屋から出られないというのは生命活動を脅かす可能性を多分にはらんでおり、私達はそのためにどんな行為に及んでも問題解決に心血を注ぐべきであろう。
一方で、と思う。部屋に入れない。なるほどこれも場合によっては喫緊の課題である。ただし、部屋の所有者や利用者にとっては、という尾ひれがつく。
世の中に存在する扉という扉をすべて把握する者がいないように、この世に存在する扉と定義されたものすべてに開く機能が付与されていると確認した者もまたいない。もしかすれば開閉機構を備え忘れた扉だって世界のどこかにはあるかもしれないし、時が来たときに二度と開かないように設計された扉があってもこれは全く不思議ではない。
私は自分のお腹に手を当てた。今日は朝からまだ何も食べていなかった。
私は自然と窓の外へ目をやった。
つまるところ、その広大な視点を以て宇宙全体を見渡してみれば、世界中に数多存在するうちの一つである目の前の扉が唐突に開かなくなる偶然によって部屋に入れなくなる事象はそれほど大仰に目くじらを立てて批難することでもないのではないかという私の今しがた導き出した結論に、おおよその問題はないように思われた。その帰する所として一名のレポートの提出が間に合わなかったとしても、所詮はただの数値の変化だ。そんなことは、大したニュースでもない。
そういった聡明な思考を目の前の彼女へ一から説明するのは大層骨が折れるため、私は「蓮子」と言って、中庭に広がる景色を指差した。
「何はともあれ、外でお花見でもしながら考えましょうよ」
「ねぇメリー。お腹が空いたのならそう言いなさい」
「蓮子のレポートなんてどうでもいいから私お腹が空いたわ」
秘封倶楽部はその後、近所の食料品店まで短い追いかけっこに興じた。
4
花見の物資を調達した後、私達二人は中庭に敷物を敷いて昼食を取った。
一部の通路を除いて四方をほぼ建物に囲まれているためか、通り抜ける春風は落ち着いていた。春の匂いが漂う気持ちの良い日和の中、頭上の桜はただ平穏に満開の花を揺らしていた。昼下がりの旧棟はとても静かで、まるで人里離れた廃墟の中に迷い込んだような気にさせられた。
始めのうちこそ件の書庫について議論を交わしていたが、お酒が入ってしばらく経つと真面目に考える者はすぐにいなくなってしまった。「きっと明日になれば開いてるわよ」と蓮子は気楽そうに笑ったが、私達が二日続けて乾杯している理由はその楽観視にこそ原因がある気もした。冷静な判断ができる状態を、私達は随分前に通り過ぎていた。秘封倶楽部は今日も平和だった。
途中、二階の窓から男子学生が二名ほど顔を出して、蓮子に声をかけた。どうやら同じ学科の知り合いらしい。彼女の顔が広いのは今に始まったことではないので、私は黙って横でやり取りを聞いていた。混ざらないかと蓮子が冗談めいた口調で彼らへ訊ねると、少しの間があって、顔を出した学生が「花園に割って入る勇気はないよ!」と笑いながら叫ぶ声が響いた。蓮子は「なによそれ!」と愉快そうな声音で反論していた。飲みすぎたせいか、私は少し顔が熱くなったように感じた。
少し疲れたので、私は身体を横にして額に手を当てた。
敷物の上に寝転んでぼんやりと天を見上げると、建物の輪郭がカメラのフレームのように桜花と背景の青空とを鮮やかに収めていた。思わず酔いの醒める心地だった。この春めいた美しい風景をここでこうして瞳に映した者が果たして他にいただろうか。きっと誰も知らない。誰も知らない秘密を暴くのは秘封倶楽部の役目なのだった。すなわちこれは秘封倶楽部の由緒正しい活動として成立しているに違いない、と私は一人で納得していた。秘封倶楽部は今日も平和だった。
「私知らなかったわ。こんな特等席があったこと」
「日本人みたいなこと言うのね、メリー」
「なんのこと?」
「少し寂れているくらいがむしろ風流だっていう感性のこと」蓮子が穏やかな表情で遠くを見ている。「なんだか俳句でも作れそうね」
「蓮子、そんな特技あったの?」
「春うらら、秘封倶楽部と、なりにけり」蓮子が適当なことを言う。「私、物理学科専攻よ。そんなお作法なんて存じ上げませんわ」
「むしろ、俳句って物理学じゃないのかしら。観察して詠んでるんだもの」
「観測物理学はもうとっくに終わってるからね。今は視えないものを解釈して詠む時代よ」
「ただの変な人ね、それ」
私達はそれから飽きるまで互いに詩を詠み合った。後から考えると、人気のない旧棟で花見をしながら滅茶苦茶な詩を交わしている花園というのは、開かない扉と同等かそれ以上に不可解といって差し支えない光景であることは自明だったが、そのときの私達にとってはそれほど問題にはならなかった。
翌日、書庫の小部屋の扉はまるで魔法でも解けたかのように開閉機構を取り戻した。
5
蓮子が書庫でレポートの仕上げに打ち込んでいる間、私は中庭に下りて孤高に佇む桜の木を見上げていた。大して広くもない質素な中庭の景色には薄白い桜吹雪が舞い始めていた。葉桜へと移ろいゆく姿は生き物の脱皮のようでもあり、眠るようでもあった。
扉の魔法が解けた謎について、私達はお互いの持論を語り合った。しかし結局は再現性がないこともあり、議論は自然と彼方へ発散してしまった。
私は、蓮子に対する桜の粋な計らいのようなものだと考えていた。つまり、レポートに疲弊して花見も満足にできないような学生を憐れんだ桜が仕向けた悪戯ではないか、というちょっと都合のいい話だった。当人は、仮にそうだったらむしろ余計なお世話だと複雑そうに顔を顰めていた。
一方で、蓮子の説明は少し違っていた。曰く、これは書庫に対する桜の嫉妬であるという。レポートのために蓮子に読まれる書庫の本に対して、満開であるのにも関わらず一切詠まれる気配がないことに憤った桜が起こした反逆である。つまり、私達が詩を詠み合ったことで桜はようやく満足し、書庫の扉の魔法を解いたというわけだ。「ただの駄洒落?」と私は呆れたが、彼女は微笑んでそれ以上は何も言わなかった。
どちらでもいいし、そのどちらでなくともいいとも思った。結果的に開いたのだからそれでいいのだという春の陽気の如き呑気さを秘封倶楽部は兼ね備えていた。
見ると、桜の木の根の辺りに、五枚の花びらがついたままの桜の花が落ちていた。
私は拾い上げたそれをそっと手の平で包み、蓮子のいる書庫まで急いだ。
レポート執筆に集中しているのか、友人は部屋に入ってきた私にも全く気づいていないようだった。私は持ってきた桜の花を崩さないように静かに友人の頭につけてあげた。調子がいいのか、蓮子はタイピングの手も止めずに「メリー?」とだけ言った。
彼女の正面へと回って、その様子をひとしきり観察する。
「やっぱり蓮子は日本人ね」
「当たり前じゃない。何言ってるの?」
友人が不思議そうに呟く。それだけで、長い間抱えていた重石を下ろしたような気が済んだ気持ちになって、私は一人で満足した。
三月の終わり頃、大学からの帰り道に鴨川沿いを一人で当てもなく歩いていると、桜色の喧騒が多く目に入った。
花はまだ五分咲きといったところに映ったが、見物客の大半はそんなことは些事だとでも言うように互いの顔を見て笑い合っている。月が替わって満開ともなれば、いよいよ人の波が桜並木の風景を飲み込む勢いとなるだろう。もはや、桜を見に来ているのか、人を見に来ているのかわからないといった様相は想像に難くない。
歩道に、花弁を萼につけたままの桜の花が落ちていた。私はその場にしゃがみ込んで、しばらくの間、じっとその花の観察に徹していた。五枚の薄白い花びらがきれいに整って並んでいる。
似たような出来事が、去年の春にもあった。一緒に歩いていた友人が、同じように落ちていた桜の花を手にとって、蝋燭の火でも灯すように私の帽子にそっと添えた。
半歩ほど身を引いた後、「金色にも意外と映えるものね」と微笑んで言った友人のふざけた感想を、私は今でも根に持っている。
2
翌月の、四月初旬のこと。
友人の宇佐見蓮子が突然私のアパートを訪問してきたのは、日も沈み、夕食の支度に取り掛かっていた時分のことだった。
こちらが何か質問をする前に、彼女は「ふて寝させて」と一言だけ吐き捨て、ずかずかと私の部屋へと上がりこんだ。そのこと自体に対して、私が怒りを覚えたりすることはなかった。私達はお互いに下宿先の場所を把握しているし、格式めいたアポイントメントなどもなしに唐突に顔を覗かせることは日常茶飯事といっていいことだった。
だから今回の来訪も、蓮子になにか大層な理由があるわけではないだろうと私は考えていた。故に、深い詮索を行うこともしなかった。むしろ、お酒が数本入っているだけの袋をぶら下げて図々しくリビングの席に腰を下ろしたことの方にこそ、私は文句を言って然るべきだろうとも思った。遠慮がないというより、厚かましいという表現の方がしっくりとくる構図であった。私はクリームシチューの入った鍋をぐるぐるとかき混ぜながら、奔放な友人へいったいどんな文句を並べ立てようかとのんびり計画を企てていた。しかし、乾杯後、美味しい美味しいと無邪気に口へ運ぶ友人の顔を見て気づけば毒気を抜かれてしまい、私の計画はあっさり頓挫してしまった。
その日はそんな様子で終わったが、問題は翌日にも続いた。
午前中、講義のなかった私がアパートの自室でくつろいでいると、またも蓮子が「ふて寝させて」と玄関のドアを叩いてきた。私は思わず壁に掛かった時計を見た。ふて寝というが、日はまだ沈むどころか昇りきってすらいない。もちろん、ふて寝をするのに夜が更けてからでないといけないという規約が存在するわけではないが、言い訳にも限度というものがある。
とりあえず、事の詳細を訊ねるために、私は彼女を再びリビングへと招いた。席についた彼女は、目に見えて機嫌が悪そうで、ふて寝もやむ無しといった表情をしていた。それなりに珍しいことではある。
聞けば、書庫に入れないのだという。
科学世紀の現代であるからして、情報というのは電子上に格納されているのが常識な御時世ではあるのだが、一方で、紙媒体の本というのもまた当たり前に存在している。特に、大学が所有している専門書などは古くから保存されている書物も多い。
蓮子の言う書庫というのは、なにか立派な資料館というわけではなく、大学の物理学科旧研究棟の一室のことを指しているらしい。学科で所有する古い書物をその小部屋で保管しているのだという。
彼女は数日前からレポートを仕上げるためにその書庫へ籠もっていたそうだが、昨日から突然部屋へ入れなくなったのだという。
「片開きの扉でね。取っ手は回るのよ。でも、引いてもうんともすんとも言わないわけ」
「鍵が掛かってるんじゃないの?」
「そう思って、事務室に鍵を借りに行ったの。でも、鍵は掛かっていなかった。そもそも旧棟だから、建物の出入り口以外の施錠管理はしていないとも言われたわ」
なんでも、蓮子はレポートの執筆に必要な諸々の私物をその部屋へ置きっぱなしにしていたようで、このまま入れないと非常に困るらしい。
百聞は一見にしかずということで、とりあえず現場へ赴くことになった。
道すがら、蓮子のレポートの完成可否と講義もない日に私が大学へ足を運ぶ労苦との関連性について多少の追及を試みたが、当人は「持つべきものは電波な友人ね」と調子のいいことを言うばかりであった。「あのね、私、霊媒師とかじゃないのよ」と私が憤ると、「本当に視える人はみんなそう言うのよ」と前を歩く彼女は来たときとは打って変わって快活に笑った。
3
件の部屋は物理学科旧研究棟の三階に位置していた。
旧棟というだけあって、建物内にはあまり人の気配がなかった。部屋の多くは資料や普段使われない実験器具などの保管場所になっているらしく、つまりは半ば物置のような扱いであるという。大学にはいろんな意味で捨てられない物が昔から多く受け継がれているらしい。
建物は俯瞰すると中央がくり抜かれた口の字型に近い構造をしていて、中央部には静かな中庭が広がっていた。最低限の手入れはされているようだったが花壇などはなく、日当たりが良くないせいか華やかさには欠けている。その空間に唯一彩りを与えうる存在として、一本の桜の木がしなやかな佇まいで花を咲かせていた。
「ここよ」
蓮子がある一室の扉を指差す。
研究棟という建物に相応しい無機質なアイボリーの片開き扉がそこにはあった。縦長の磨りガラスがはめ込んである以外に、これといって特徴はない。私の目にも、特別不自然なものは映らなかった。
「正常ですわ」
「またまた」
試しに取っ手を回して引っ張ってみるが、なるほど確かに開閉する様子がない。蓮子も手伝って、二人がかりで取っ手を破壊せんが如く体重をかけて引いてみたが、結果は変わらなかった。まず感触に違和感があった。普通のどこにでもいる一般的な華の女子大生二名程度では非力すぎるとかそういった議論以前の問題であった。まるで偶然壁に生えてきた取っ手を引いているかのようだった。地団駄を踏んで地震でも起こそうとする空虚さとやるせなさがそこに居座っていた。少なくとも、なにか扉に物理的な加工を施した結果だとは到底思えなかった。
「確かに不自然ね」
「そうでしょう」
隣人はなぜか得意げな表情で腕を組んでいる。この部屋に入れなくて不利益を被るのは疑いようもなく彼女であるため、ここまで足を運んだ友人の私に労いの言葉はあっても勝ち誇った顔をされる謂れは全くないと思うのだが、聡明で冷静な私はそれを口には出さなかった。
蓮子を無視して私は少し考えてみる。
入れない部屋というのは確かにちょっとしたオカルトである。秘封倶楽部の活動方針は世に身を潜める不思議な秘密を暴くことにあるので、これを対象として扱うことに問題はない。そうは言いつつ、秘封倶楽部は誰かに頼まれて謎の解明に明け暮れているわけではない。オカルトサークルではあるが、ボランティアサークルではない。営利目的ではないが、慈善事業でもない。目に入った秘密すべてに手を付ける義務はなく、その判断は常に会員の意志に委ねられている。
仮に出られない部屋にいたのだとすれば、これは大いに優先すべき問題である。部屋から出られないというのは生命活動を脅かす可能性を多分にはらんでおり、私達はそのためにどんな行為に及んでも問題解決に心血を注ぐべきであろう。
一方で、と思う。部屋に入れない。なるほどこれも場合によっては喫緊の課題である。ただし、部屋の所有者や利用者にとっては、という尾ひれがつく。
世の中に存在する扉という扉をすべて把握する者がいないように、この世に存在する扉と定義されたものすべてに開く機能が付与されていると確認した者もまたいない。もしかすれば開閉機構を備え忘れた扉だって世界のどこかにはあるかもしれないし、時が来たときに二度と開かないように設計された扉があってもこれは全く不思議ではない。
私は自分のお腹に手を当てた。今日は朝からまだ何も食べていなかった。
私は自然と窓の外へ目をやった。
つまるところ、その広大な視点を以て宇宙全体を見渡してみれば、世界中に数多存在するうちの一つである目の前の扉が唐突に開かなくなる偶然によって部屋に入れなくなる事象はそれほど大仰に目くじらを立てて批難することでもないのではないかという私の今しがた導き出した結論に、おおよその問題はないように思われた。その帰する所として一名のレポートの提出が間に合わなかったとしても、所詮はただの数値の変化だ。そんなことは、大したニュースでもない。
そういった聡明な思考を目の前の彼女へ一から説明するのは大層骨が折れるため、私は「蓮子」と言って、中庭に広がる景色を指差した。
「何はともあれ、外でお花見でもしながら考えましょうよ」
「ねぇメリー。お腹が空いたのならそう言いなさい」
「蓮子のレポートなんてどうでもいいから私お腹が空いたわ」
秘封倶楽部はその後、近所の食料品店まで短い追いかけっこに興じた。
4
花見の物資を調達した後、私達二人は中庭に敷物を敷いて昼食を取った。
一部の通路を除いて四方をほぼ建物に囲まれているためか、通り抜ける春風は落ち着いていた。春の匂いが漂う気持ちの良い日和の中、頭上の桜はただ平穏に満開の花を揺らしていた。昼下がりの旧棟はとても静かで、まるで人里離れた廃墟の中に迷い込んだような気にさせられた。
始めのうちこそ件の書庫について議論を交わしていたが、お酒が入ってしばらく経つと真面目に考える者はすぐにいなくなってしまった。「きっと明日になれば開いてるわよ」と蓮子は気楽そうに笑ったが、私達が二日続けて乾杯している理由はその楽観視にこそ原因がある気もした。冷静な判断ができる状態を、私達は随分前に通り過ぎていた。秘封倶楽部は今日も平和だった。
途中、二階の窓から男子学生が二名ほど顔を出して、蓮子に声をかけた。どうやら同じ学科の知り合いらしい。彼女の顔が広いのは今に始まったことではないので、私は黙って横でやり取りを聞いていた。混ざらないかと蓮子が冗談めいた口調で彼らへ訊ねると、少しの間があって、顔を出した学生が「花園に割って入る勇気はないよ!」と笑いながら叫ぶ声が響いた。蓮子は「なによそれ!」と愉快そうな声音で反論していた。飲みすぎたせいか、私は少し顔が熱くなったように感じた。
少し疲れたので、私は身体を横にして額に手を当てた。
敷物の上に寝転んでぼんやりと天を見上げると、建物の輪郭がカメラのフレームのように桜花と背景の青空とを鮮やかに収めていた。思わず酔いの醒める心地だった。この春めいた美しい風景をここでこうして瞳に映した者が果たして他にいただろうか。きっと誰も知らない。誰も知らない秘密を暴くのは秘封倶楽部の役目なのだった。すなわちこれは秘封倶楽部の由緒正しい活動として成立しているに違いない、と私は一人で納得していた。秘封倶楽部は今日も平和だった。
「私知らなかったわ。こんな特等席があったこと」
「日本人みたいなこと言うのね、メリー」
「なんのこと?」
「少し寂れているくらいがむしろ風流だっていう感性のこと」蓮子が穏やかな表情で遠くを見ている。「なんだか俳句でも作れそうね」
「蓮子、そんな特技あったの?」
「春うらら、秘封倶楽部と、なりにけり」蓮子が適当なことを言う。「私、物理学科専攻よ。そんなお作法なんて存じ上げませんわ」
「むしろ、俳句って物理学じゃないのかしら。観察して詠んでるんだもの」
「観測物理学はもうとっくに終わってるからね。今は視えないものを解釈して詠む時代よ」
「ただの変な人ね、それ」
私達はそれから飽きるまで互いに詩を詠み合った。後から考えると、人気のない旧棟で花見をしながら滅茶苦茶な詩を交わしている花園というのは、開かない扉と同等かそれ以上に不可解といって差し支えない光景であることは自明だったが、そのときの私達にとってはそれほど問題にはならなかった。
翌日、書庫の小部屋の扉はまるで魔法でも解けたかのように開閉機構を取り戻した。
5
蓮子が書庫でレポートの仕上げに打ち込んでいる間、私は中庭に下りて孤高に佇む桜の木を見上げていた。大して広くもない質素な中庭の景色には薄白い桜吹雪が舞い始めていた。葉桜へと移ろいゆく姿は生き物の脱皮のようでもあり、眠るようでもあった。
扉の魔法が解けた謎について、私達はお互いの持論を語り合った。しかし結局は再現性がないこともあり、議論は自然と彼方へ発散してしまった。
私は、蓮子に対する桜の粋な計らいのようなものだと考えていた。つまり、レポートに疲弊して花見も満足にできないような学生を憐れんだ桜が仕向けた悪戯ではないか、というちょっと都合のいい話だった。当人は、仮にそうだったらむしろ余計なお世話だと複雑そうに顔を顰めていた。
一方で、蓮子の説明は少し違っていた。曰く、これは書庫に対する桜の嫉妬であるという。レポートのために蓮子に読まれる書庫の本に対して、満開であるのにも関わらず一切詠まれる気配がないことに憤った桜が起こした反逆である。つまり、私達が詩を詠み合ったことで桜はようやく満足し、書庫の扉の魔法を解いたというわけだ。「ただの駄洒落?」と私は呆れたが、彼女は微笑んでそれ以上は何も言わなかった。
どちらでもいいし、そのどちらでなくともいいとも思った。結果的に開いたのだからそれでいいのだという春の陽気の如き呑気さを秘封倶楽部は兼ね備えていた。
見ると、桜の木の根の辺りに、五枚の花びらがついたままの桜の花が落ちていた。
私は拾い上げたそれをそっと手の平で包み、蓮子のいる書庫まで急いだ。
レポート執筆に集中しているのか、友人は部屋に入ってきた私にも全く気づいていないようだった。私は持ってきた桜の花を崩さないように静かに友人の頭につけてあげた。調子がいいのか、蓮子はタイピングの手も止めずに「メリー?」とだけ言った。
彼女の正面へと回って、その様子をひとしきり観察する。
「やっぱり蓮子は日本人ね」
「当たり前じゃない。何言ってるの?」
友人が不思議そうに呟く。それだけで、長い間抱えていた重石を下ろしたような気が済んだ気持ちになって、私は一人で満足した。
日常のちょっとした不思議に触れる秘封は良いものですね。
綺麗な文章で読み心地も良かったです。有難う御座いました。
変人度合いが少し高めな良い雰囲気の秘封でした。連続で登場する「秘封倶楽部は今日も平和だった」の文言だとか、風情の振りをした「今でも根に持っている」描写だとかが、閑話的で小噺的な奇妙な味わいに繋がっているように思います。お見事でした。
こういうのめっちゃ好きで面白かったです
詠まれるためにドアを閉めるなんてかわいい桜ですね
開かない扉がなにを言っていたのかはメリーは分かったのか。とても素敵でした。
超常現象がさらっと出てくる少し不思議な雰囲気が、秘封倶楽部にとても映えているように思えました