彼岸に太陽が差す事はない。
なぜなら光を必要とするのは生きとし生けるものだけだからだ。
光なき世界とは、即ち地獄。
地獄の閻魔の裁きは公平で、人種、性別、年齢問わず、犯した罪を償わなければ次の輪廻転生は叶わない。
そう、それは人の形すら成せなかった胎児ですらも。
此岸と彼岸の境、賽の河原にはそんな水子の霊が集まり毎日のように石塔を作り続けている。
作る事に意味があるわけでは、決して無い。石を積んで罪が消えるのならば誰しも拷問よりそちらを選ぶだろう。
そもそも石を積んだところで巡回に来た鬼が崩してしまうのだから罪を償うなと言っているのも同然だ。
よって形骸化した石積みという刑罰を、水子達は転生までの唯一の娯楽としたのだった。
「みんな集合ー!それでは、早積みコンテストの結果を発表するよー!」
水子達のアイドル的存在である戎瓔花は石積みを遊びにしだした張本人だ。
三途の川に居る水子の中で瓔花よりも前から存在する者は居ない。
誰よりも長く石を積み続け、誰よりも水子達の心の支えになっている。半透明で不安定な霊魂からしっかり人の形になっているのも彼女だけだ。大抵はそこまで存在が大きくなる前に次の輪廻の旅に出てしまうから。
「……はい、今日の一番はこの子だよー! おめでとうございまーす!」
瓔花の称賛の声に呼応して水子達は舞い上がり、瓔花の視界を埋め尽くす。
三途の川の大部分は白か灰色だ。薄暗く霧がかかって岩だらけの灰色の景色。瓔花を始めとした水子達は白いし、川を渡る死者も白装束に身を包んでいる。
「……あれ、何だか変な人が河原にいる?」
それ故に、黒い上半身に三原色の下半身の彼女が三途の川を闊歩しているのを見てしまった瓔花が、それを変、いや異変と捉えたのも無理からぬ事であった。
「あら、こんにちは。彼岸らしいどんよりとした良い天気ね」
奇抜な格好の女性はとても気安く瓔花に声をかけた。三途の川にはあまりにも似つかわしくない見た目だが、不思議と圧倒されそうな空気を纏っている。
艷やかな青い髪、傷一つ無い肌、女性らしいふくらみとくびれを兼ね備えた身体。その女性はあまりにも女性として完成しすぎていたが、それをファッションでぶち壊しにしている。
いや、ファッションが悪いと言うよりもTPOの問題なのか、ともかく三途の川に着てくるには明らかに浮いていた。何より頭に乗せた地球のような球体が放つ珍妙な様相だけは取り繕うのも無理であった。
「お姉さん、どうしてこんな所に来たの? この辺りじゃ全然見ない格好してるけど」
その変なお姉さんはくすくすと笑って瓔花の視線の高さに腰を下ろす。
「この服、可愛いでしょう? 気に入ってるのよ。それで私はね、ここに住んでいると言われるとってもユニークなお魚を見に来たの」
ユニークなファッションの女性はそう言って川に浮かぶ船の方に目を向ける。
三途の川には此岸では絶滅した古代魚や海竜といった危険生物が生息しているのだ。あの船はそれを捕らえて生計を立てている牛鬼の物だろう。
「そうなんだー。でもでも、ここには怖い鬼が見回りに来るからとっても危ないよ。この前は鬼じゃないけど鬼みたいに強い女の子も三人通ったし」
「大丈夫よ。お姉さんね、こう見えてもとっても強いんだから。鬼ぐらいじゃ束になっても敵わないわ」
女性はそう言って右肘で力こぶを作る。確かに引き締まった腕こそしているが剛腕とは言い難い。瓔花にはとてもじゃないが鬼と真っ向からぶつかり合って勝てるとは思えなかった。
ヘカーティア・ラピスラズリ。それが彼女の名前だ。
異界・地球・月にそれぞれ存在する地獄の女神で、三つの世界に対応する三つの身体を持つ。
ふざけた格好からは想像できないが天体そのものを攻撃手段に用いる圧倒的な魔力を持つ、幻想郷とは桁が違う実力者である。
鬼どころかそれを束ねる閻魔をもヘカーティアは上回り、本来なら瓔花など彼女からすれば蟻に等しい存在なのだ。
「それよりも貴方、水子なのよね? 何だか随分と立派な姿をしているから驚いたわ」
「えへへー。私は水子のリーダーですから! 私がしっかりしてないと子供達も悲しんじゃうわ!」
瓔花は胸を張る。背丈は目の前の女性の腰ほどしか無いというのに妙な貫禄があった。
「今日も石を積むのよね。鬼にはあまり意地悪をしないようにキツく注意しておいてあげるから、ツラくても頑張ってね」
「お姉さん……。うん、ありがとう! 私、頑張るね!」
鬼に言うのも、鬼が言うことを素直に聞くかも半信半疑だったが、ともかく瓔花の心は弾んだ。
自分達の虚無にも等しい行為を応援してくれる人がいる。それが彼女には何よりも喜ばしかったのだ。
ヘカーティアは大岩に腰掛け、水子達が石を積む様子と川で時々飛び跳ねる怪魚の姿を交互に眺めていた。
三途の川を泳ぐ古代魚は鎧を着込んでいるかのように厳つい見た目のものが多い。漁師がいるからにはこれを食べているのだろうが、果たしてこれを常食にできるだろうか。
ヘカーティアが温めている計画には川の幸や海の幸も不可欠だ。だとしても見た目や味まで地獄っぽくある必要はないのだが。
ばしゃん、ばしゃん。
牛鬼の船とは別に一艘の渡し船が川の上に現れた。
三途の川で活動する船と言えば本来はこちらである。そう、死神の船だ。
死した魂は此岸と彼岸の境であるここにまず辿り着く。そこから閻魔の裁きを受ける為に川の向こうまで案内するのが死神の役目なのだ。
船は瓔花の居る岸へと寄せてくる。辺りにお迎えを待つ魂は見えないので上陸して休憩するのだろうか。
「お~い、瓔花ちゃ~ん!」
死神は船の上から瓔花に声をかけた。親しげな呼びかけ方からこの死神は普段から水子と親交を深めている事がわかる。
「あ~、またサボりに来たの~?」
瓔花も死神に手を振った。
歓迎の第一声から随分な言い方だが、ヘカーティアはこのような扱いの死神に一人心当たりがあった。というのも、そんな死神の上司に当たる幻想郷の閻魔、四季映姫から愚痴を聞かされていたからだ。
「へへっ、サボりじゃないって~。船を漕ぐっていうのは想像以上の重労働なのさ。ちゃんと仕事をする為の休憩は仕事の一部ってね」
死神、小野塚小町は船からひょいと飛び降りた。
本人はこのように毎回言い訳するが、小町のサボりっぷりは現世でも知れ渡っているほどだ。実際、それが為に幻想郷に花が咲き乱れる異変が起きた事もあるのだから。
「渡し守も大変そうですね。毎日お仕事ご苦労さま」
「…………へ?」
ヘカーティアは瓔花の向こうから霧をかき分けて姿を現した。
最初、小町は自分の目が信じられなかった。
きっと仕事疲れで幻覚を見ているだけなのだ。疲れていないけど思ったより疲れていたのだ。そう思いたかった。
確認の為に二度見、三度見した。何度見てもその姿は確かにそこにあった。
もう疑いようがない。疑念は確信へと変わる。そもそもいくら幻覚でもこんな妙ちきりんな姿の幻を見るものか。もはや小町の取るリアクションは一つしか無かった。
「ヘ、ヘカーティア様ぁぁああああ~!?」
小町の絶叫は川を覆う霧に吸い込まれていった。
「どどどどど、どうして! どどどどうしてこのような所に!?」
「どどどど鳴らしちゃって、何だか土木工事をしているみたいね」
ヘカーティアは飛び跳ねる小町を愉快に笑う。悪鬼羅刹ひしめく地獄で屈指の強さと恐れられるヘカーティアも、こういう驚かれ方は新鮮だ。
「あれれ? 小町ちゃん、このお姉さんと知り合いなの?」
「し、知り合いっていうか知らなきゃマズいというか……」
ヘカーティア・ラピスラズリといえば地獄の頂点に君臨する存在だ。知らないなどと言った日には、もしヘカーティアが鬼のような難物であれば小町の存在すら危うくなっていたところだ。
「小野塚小町、ですね。映姫から何度か話を聞いていますよ」
「そそそそんな! 泣く子も黙る地獄の女神様ともあろうものが私の名前なんてとんでもない!」
小町がガクガクと震えあがる。確かに泣く子も黙るだとか言われた事も無くはないが、あまりこれが続けば瓔花の自分を見る目も悪くなろう。そう彼女は判断した。
ヘカーティアは自分の口の前に人差し指を立ててシッと息を吐く。
「今日はね、お忍びなの。以降は私が女神だとかの身分は忘れて普通に会話なさい。変にへりくだった言葉遣いは逆に無礼と見なすから、いいわね?」
「ははは、ハイッ! そういう事でしたら謹んで普通に話させていただきますッ!」
小町は真っ直ぐ立って挙手の敬礼をした。今のもアウトにだいぶ近いが仏の顔も三度までと、ヘカーティアは大目に見ることにするのだった。
「……ふう、それにしてもヘカーティア様が居るだなんてビックリしましたよー。しかもそんな変わった格好で」
「変わった? 楽で気に入ってるんだけど、この格好って変かしら?」
「いいいいえいえいえ! そんな滅相もない!!」
小町は地獄で女神らしく振る舞っている時の姿しか知らなかったのだ。まさかこちらのTシャツ姿こそがヘカーティアの普段着であるとはつゆ知らず。
「私もびっくりしたよ。お姉さん、ただ者じゃないとは思ったけど神様だったなんて」
「普通にしていてもオーラは隠せないのよねえ。強すぎるのも考えものだわ」
ヘカーティアは両手の平を天に向けて自慢混じりの溜息をついた。
瓔花は彼女の正体を知ってから浮かない顔のままであった。
所詮は瓔花も地獄の囚人の一人。つまり地獄の神とは瓔花を始めとした水子達を苦しませている権力側だからだ。
「改めまして、私はヘカーティアっていうの。貴方は瓔花っていうのね?」
「そう、戎瓔花。お姉さんは……ヘカーティア様って呼んだ方がいいですか?」
ヘカーティアは首を横に振った。
「私はお忍びで来た謎の素敵なお姉さんよ。だからそうね、気軽にヘカちゃんって呼んでくれると嬉しいわ」
「えっと、それはちょっと……」
瓔花が困惑するのも無理はない。二人の間は月と鼈ほどに差があるのだ。それをちゃん付けしろと言われても他でもない瓔花が受け入れないだろう。
「何かその、すみません。あたいが余計な事を言っちゃったせいですよね。あー……こんな事ならやっぱり河原の影じゃなくて青空の下に昼寝をしに行けばよかったよ」
先程の小町は船を漕ぎながら考えていたのだ。今日は薄暗い霧の中に隠れて安らかに寝ようか、それとも青空の陽気の下で寝ようか。
どちらにもそれぞれの良さがあって捨てがたいが、船から降りればすぐという距離の近さはやはり魅力という事でこちらを選んでしまった。小町もまさか地獄の覇者が居るとは思いもよらず。
「小町は何も悪くないよ。私はここに来てくれる人が居るだけで嬉しいから!」
「そうよ。その様子ならここの子達とも仲良くしてくれているのよね? 私や映姫じゃ立場上難しいから……貴女みたいにいい加減な子がいるくらいで丁度良いのよ」
「い、いやいやそんな……」
まさかの地獄の女神直々のお褒め?の言葉だ。喜ばしい事には違いないが、ここに映姫が居なくて良かったとも思う。聞けば間違いなく顔をしかめていただろう。
「そして私には私にしかできない事もあると。瓔花ちゃん、さっきの話は本当よ。鬼には意地悪を控えるように言ってあげるから……ね?」
「お姉さん……うん、ありがとう」
まだ少しぎこちないがこれでも上等だろう。立場の差を埋めるというのは口で言うほど決して容易いものではないのだから。
「それにしても、青空の下でお昼寝か。いいなぁ……」
瓔花は石に腰掛けながら黄昏れた。
同じく正三角形が描けるような位置取りにヘカーティアと小町も腰を下ろす。
「むぅ……すまないね。あんたの前で言うのは無神経だったか」
小町はポリポリと頭をかく。
賽の河原から水子が離れる事は不可能だ。彼女らは地縛霊のような性質も持ち合わせている。
「そうよね。三途の川はいつも曇ってるからお日様も見えないもの」
水子は青空を知らないのだ。生きていた頃の記憶どころか、産まれてすらいない事も珍しく無い。
「私は子供達のためにずっとここに居るんだけど、やっぱり時々思っちゃうの。生きている世界を歩いてみたいなあって」
照れくさそうに笑う瓔花を見て、小町は胸が締め付けられそうになった。
外に連れて行ってあげられない事はないが、それは明らかに死神としては越権行為だ。その裁量は四季映姫の下にある。
されど映姫は良くも悪くも平等だ。気の毒だからで規則を曲げる人物では無いことを、規則破りの常習犯たる小町は他の誰よりもよく知っていた。
自分が違反するだけなら自分が怒られるだけで済む。しかし地獄の罪人の脱走の手助けなど、露見すれば瓔花までどうなるか判らないのだ。
一方でヘカーティアの心には火が灯っていた。
「……いいえ、貴方は何も間違ってないわ。地獄に居たって太陽の光を浴びていいじゃない。私はずっとそう考えていたの」
ヘカーティアの握り拳にぐっと力が入る。地獄を生命に満ち溢れた世界に作り変える為に、彼女は幻想郷に部下を送り込んでずっと模索していたのだ。三途の川に住む魚を調査に来たのもその一環だった。
「異界の私は地獄の業火の魔法を得意としています。その炎を空に打ち上げれば人工的に太陽を作れるでしょう」
「ああー、旧地獄の八咫烏と同じ力と言うことですかい。流石はヘカーティア様です!」
小町は以前サボっていた時にその八咫烏こと霊烏路空と戦った事があった。理由は特に無い。
とにかく火力が凄い事だけはわかるので、あのレベルの炎ならば十分太陽の代わりになるだろう。
「ただ、そこまではいいのだけど……」
「だけど、なあに?」
「問題は青空なのです。細かい理屈は省くけど、太陽の光から青空を作るにはある程度の距離と空気の層が要るわ。地獄はなにしろ地面で蓋をされちゃってるから高度を稼げないのが難点でね」
確かに、と小町は一人つぶやいた。
旧地獄は時折お空の人工太陽の光に包まれるが、それは単に火の玉が眩しいだけでやはり空は黒いのだ。
そうやってちょくちょく昼寝を妨害されるので、地底で異変が起きてからは小町がそちらに行く頻度は激減した。
「……待てよ、八咫烏か」
そこから連想して小町の頭に一つの案が浮かんだ。あの人物なら、もしかしたら、もしかしてくれるかもしれないと。
小町は立ち上がる。
「ちょっと期待しないで待っててくれませんかね。あたいに考えが浮かんだんですよ」
「んー、できれば期待できる考えが浮かんでたら嬉しかったわね」
「申し訳ありません! その代わりにすぐ戻りますんで!」
小町は背中の得物に手をかけた。死神のシンボルたる大鎌だ。
ヒュバッ!
鎌で空を切り裂く。すると小町の姿が一瞬にして消えてしまった。
小町は距離を操る程度の能力を持つ。それを使って移動をショートカットしたのだ。
別に鎌を振る必要は無いのだが、そもそも鎌自体がサービス精神で持ち歩いてる代物だから演出という事で一つ。
取り残された二人の間にしばしの沈黙が訪れた。
小町の帰りはまだだろうか。その期待の前で石を積み、川を眺めながら雑談という雰囲気でもない。
「……お姉さん。一つ聞いてもいい?」
「ええ、どうしたの?」
小町の結果がどうであれ、瓔花にはどうしても知っておきたい事があった。
「どうして私なんかの為にそこまでがんばってくれるの? 空を変えるのだって女神様にもできないくらい、とっても大変なことなんでしょ?」
「私……なんか?」
ヘカーティアは瓔花の肩をポンポンと叩いて笑顔を浮かべる。
「貴方が自分で思っている程つまらない子だったら私も小町ちゃんも何もしないわよ」
「つまらなくないの? 私、そんなにおもしろかった?」
「えっと、そういうことじゃなくてね」
日本語って難しい。笑顔に少しだけ苦味を混ぜつつ彼女は話を続ける。
「貴方は自分より小さな子の為にずっと頑張ってきたのでしょう? だから私達も、貴方の為に一度くらい頑張ってみてもいいじゃない?」
「でも私は二人には何もしてあげられないんだよ。お姉さんとはさっき会ったばかりだし……」
「そうかもしれないわね。でも、そうではないかもしれないのよ」
「うーん……どういうこと?」
瓔花の問いに答える代わりに彼女は立ち上がって空を見る。
灰色の霧が覆う彼岸の空に太陽は無い。それでも霧の向こうに太陽が現れるはずだとヘカーティアは確信していた。
散々サボると悪評が立っている小町なのに、何故ずっと同じ仕事を続けられているのか。
それは曖昧を許さない四季映姫が認める程に、彼女がやる時はやる人物だからだ。
「ほら、来たみたいよ。神様が」
ヘカーティアの声に瓔花が空を仰ぐ。
空気が変わった。
霧で覆われた空の先、何かが確かに存在している。瓔花にも感じ取れる程の強烈なオーラだ。
空が揺れる。
大気が震える。
霧が大渦を巻く。
渦の中央に穴が開き、地獄の業火に照らされた赤い空が川原を覗く。
「私には分かるわ。あの神には成し遂げるだけの力がある。ここまでご足労いただき感謝するわ……!」
空に一人のシルエットが浮かんでいた。何やら綱のような輪っかを背負った人物、その周りの八本の柱がまるで日輪の輝きのように漂っている。
「へへっ。まさか本当にこの為だけに来てくれるとは思いませんでしたよ」
「……小町ちゃん、いつの間に帰ってきたの? おかえり!」
空を見ている間に小町は二人の後ろに立っていた。
行って、要件を伝え、戻ってくる。ただそれだけの話だが実際に神を動かすのは容易ではない。しかし小町はこの短時間でそれをやり遂げたのだ。
──古き幼子の一人も救えなくて何が神か。戎瓔花よ、この八坂神奈子がそなたの望みを叶えよう!
天から彼女の威厳に満ち溢れた声が降り注ぐ。
八坂神奈子。乾を創造する程度の能力を持つ、妖怪の山の頂に鎮座する守矢神社三柱の一人だ。
乾とは即ち空。その御力で一時でもいいから青空を創って貰えぬだろうか。
何の見返りも無しの無茶としか思えない頼み事だったが、戎瓔花とヘカーティアの名を聞いた神奈子はそれを快諾したのだ。
「さあ、私も一仕事させてもらおうかしら!」
ヘカーティアの周りを漂う球体の内一つが移動する。
先に載っていた地球を弾き飛ばし、代わりに赤い玉が彼女の頭上に嵌まり込んだ。
「あはは、やっと出番ね! もう待ちくたびれたわよ!」
ヘカーティア三体の一つ、異界を統べる地獄の女神の姿。地球との違いは鮮血のように真っ赤な艶髪だ。
異界の彼女が右手で空を指差した。その指の先に甚大なエネルギーが集まっていく。
集った力は圧に耐えきれず爆発するが、それを上回る魔力で抑え込まれ、再び彼女の指先に収束する。
発散と凝縮、二つの挙動を繰り返したエネルギーは膨張に膨張を繰り返し、地鳴りを起こす程の質量を持った輝く火の玉へと変貌を遂げたのだ。
「それにしても皮肉よねえ。太陽を墜とした奴の復讐に燃えていた私が、自分で太陽を作ることになるなんてね」
彼女の自嘲は炎が巻き起こす轟音にかき消されて二人の耳には届かなかった。
「さあ、完・成! 地獄の女神お手製の人工太陽よ。八坂の神よ、受け取って!」
ヘカーティアは指先の火球を空に向けて投げ放つ!
霧の渦を突き破り眼前まで届いた火球を、神奈子は自信に満ちた顔でさらなる高度へと導いた。
「仕上げだ! 地獄よ、八坂の神の力をとくと見るがいい!」
大火が十分な高さに打ち上げられたのを確認し、神奈子は両腕を左右に開く!
──青。
分厚い霧をヘカーティアの炎が消し飛ばし、太陽が届かぬ宵闇の空を神奈子が塗り替え、そこには青空が広がっていた。
空には人工の太陽が燦々と白く輝き、川原に柔らかな光を注いでいる。
「うわぁ……!」
瓔花は片手を太陽に透かし、初めて日光の眩しさを知った。
「すごいすごーい! お姉さん達、本当の本当に神様だったんだねー! ありがとー!」
そこらに散らばっていた水子達もあまりの出来事に飛び回ったり岩場の影に隠れたりと様々な反応を見せている。
「畏れられるのも良いけれど、やっぱり感謝されるのが一番神様冥利に尽きるってものよね」
「あたいからも感謝しますよ。瓔花の事はずっと……何とかしてあげたいと思ってたんで。でも貴女があの子の為にここまでしてくれたのは何故なんですかい?」
「あららら、瓔花ちゃんからも全く同じ事を聞かれたわよ」
ヘカーティアが赤毛をくりくりと弄りながら笑う。異界の彼女は地球よりもノリが軽いようだ。
「元々賽の河原なんてのはね、見ていて胸糞悪くなるし取り潰しもよく議題に上がる旧態依然の凝り固まった場所なのよ。私もぶっ壊すのに賛成派なの」
「は、はあ……それでこのような荒業を?」
「……と言うのは建前でね?」
ヘカーティアがわざとらしく愛らしいウインクを飛ばした。建前ならぶっ壊すとか言わないで欲しい、と小町は念ずる。
「瓔花ちゃんを見ていたら、今は幻想郷で暮らしている私の大事な部下を思い出しちゃったのよ。背格好もあれぐらいで、やんちゃだけど賢くて良い子だわ」
「ああ……博麗神社の縁下に住み着いてるっていう、あの」
狂気を操る妖精、クラウンピース。
地獄の女神の忠実な部下だが、とある目的の為に幻想郷を観察する任務に就いている。
「あの子にも会いたくなっちゃったなあ。でも駄目よね、あんまり頻繁に行くとあの子の為にならないもの」
「そうですか? 貴女みたいな上司だったらいつでも会いに来てほしいなあって思うんじゃないですかね。いや、お世辞でもなんでもなく」
「あらぁ? それは私みたいじゃない上司だったらあんまり会いたくないって事?」
「いやいやいや! そういう事ではなく決して!!」
小町の上司だってちょっと真面目すぎるが気配りに長けている人物だ。それは小町にも伝わっているだろうと信じて、ヘカーティアは改めて自分が創った太陽を見上げた。
「う~ん……我ながら、良い出来栄えね」
一仕事終えたヘカーティアは両手を絡ませて背伸びをする。そこに同じく役目を果たした神奈子も降りてきて、神と神が初めて相対す事になった。
「ヘカーティア様! こちらは幻想郷が守矢神社の一柱である八坂の……」
「いいよいいよ死神」
招いたのは自分だと小町が二人の間に割って入るが、神奈子は軽い口調で自分から紹介を始める。
「改めまして、私は八坂神奈子だ。貴女があの地獄の女神様かい。お会いできて光栄だよ」
「ヘカーティア・ラピスラズリ、ご協力に心から感謝するわ。貴方のような実力者も居るだなんて、幻想郷がますます侮れないわねえ」
ヘカーティアが手を差し出す。それを神奈子の手がしっかりと握りしめた。
「それにしても本当によく来てくれたわね。差し支えなければ理由を聞いてもいいかしら?」
「理由かい? その一つは貴女に借りがあるからだよ」
「借り、とは? 貴方とは初対面のはずよねえ?」
「東風谷早苗ってのと以前弾幕を交わしたのは覚えてるかい? あれさあ、うちの神社の巫女なんだよ……」
忘れるはずもなかった。紺珠伝異変で月の味方となって楯突いてきた四人の中で最も暴言を飛ばした人間だ。
そういう事かとヘカーティアが頷く。
「あの時はうちの早苗が大変に失礼な事を申しましたようで、あの子に代わりましてお詫びを……」
神奈子は手を前で組んでヘカーティアに頭を下げた。
「あっははは! いいわよいいわよん。子供なんてあれぐらい生意気なぐらいで丁度良いのだわ。じゃないと面白くないじゃない?」
ヘカーティアの笑い声に神奈子はほっと胸を撫で下ろした。
地獄の女神の恨みが持続していたら大変だ。その祟りはおそらく守矢神社を真に治めるもう一柱の比ではないであろうと。
「それともう一つ、やはりあの戎瓔花という水子の為だよ。その名前に少し思う所があってね」
「ふむ、つまり?」
「もしかして、だよ。あの子は私の遠い御先祖様かもしれないんだ。あの子に聞いても当然分からないだろうけど、ね」
「……なーるほど、ね」
ヘカーティアも一つ腑に落ちた。そのルーツが神代のものであるならば、瓔花が他の水子とは一線を画しているのも納得だ。
もちろん神奈子が言った通り、瓔花にその頃の記憶が無い以上、真相は川の底なのだが。
「みんな、本当にありがとう! お日様の光ってとっても気持ちいいんだね!」
瓔花の明るい笑顔に釣られて他の三人も自然と笑顔になる。
「本来は青空一つ取っても季節でいろいろな顔を見せるものさ。この天気はちょっと快晴すぎて昼寝には向かないねえ」
「あー! 小町ちゃんったらまだサボること考えてる~。いけないんだー!」
四人の笑い声が川原に響き渡った。
さて、これでハッピーエンドと行きたい所だが、そうは問屋が卸さないのは誰もが承知の上だろう。
地鳴りを響かせ空を創り変える。そんな暴挙が河原を騒がせるだけで済むはずなど、当然ない。
地獄の鬼から是非曲直庁を伝って閻魔へと。
彼女は空よりも青い顔をして、誰よりも全速力で河原にすっ飛んで来ていたのだった。
「……小町!!」
怒声が川に響き渡る。
実行犯でない小町の名が呼ばれたのはやむを得なかった。
瓔花は何もしていない。神奈子は面識がない。ヘカーティアを怒鳴るなど以ての外だ。だから小町しか選択肢が無かった。
「え、映姫様ぁ……」
小町の上司、幻想郷の裁判長、四季映姫その人だ。
この馬鹿げた力からして誰がやったのかは概ね想像が付いていた。それでも映姫がこのような掟破りを見逃せるはずもない。
「……ヘカーティア様。この日差しは言うまでもなく貴女の犯行ですね。そして八坂神奈子、乾の創造をこのような形で見たくはありませんでした。何か申し開きをする事はありますか?」
瓔花がヘカーティアの腰にしがみついて映姫を睨みつける。彼女の瞳は必死に訴えていた。この人は悪くないと。
小町からしてみれば、映姫とヘカーティアの睨み合いなど怪獣同士の決戦に匹敵する恐怖で何も口を挟めない。
神奈子はというと肩をすくめて成り行き任せという面持ちだ。何かあれば弾のぶつけ合いで決着を付ければいいと思っていた。
「……映姫ちゃんったら、犯行とは人聞きが悪いわねえ。逆に聞くけど、彼岸の空を青くしてはいけないなんて法があったかしら?」
分かっているくせに粘らないでほしいと映姫はため息をつく。
「貴女様は彼岸という家の屋根を勝手に青く塗り替えた上にそこで火を燃やしたのです。当然家主は激怒する事でしょう。そして三途の川に住まう生物は日差しの無い世界に適応しています。それを捻じ曲げればそこの者達は今までと同じ様には居られない。器物損壊と環境破壊……これで宜しいですか?」
ヘカーティアは本日二回目のヤレヤレのポーズを取った。
罪人にされる気などは毛頭ないが、映姫もそれができると本気で思っているわけでもない。それでも彼女の立場として出てこざるを得ないのだ。
つまり落とし所はこれしかなかった。
ヘカーティアが左手を高く挙げる。
何かをする気だ。全員の注目が彼女の手に集まった。
パチン! とヘカーティアが指を弾く。
パアン! とガラスが割れるかの如く、青空が砕け散る。
破片となった青空は砂塵のように粉々に舞い散り空に消えた。
空に浮かんでいた太陽は音もなく消え去り、光源を失った空は再び宵闇に支配される。
神の力は失われ、またあの陰鬱な霧が帰ってきた。
ヘカーティアは顔の前で右人差し指をピンと上に向けた。
「さて、映姫ちゃんに質問です。空の色は何色でしょーうか?」
「……灰色ですね」
「ならば私達は?」
映姫は待ちかねたようにくすりと微笑んだ。
「……さて、何のことでしょうか? 白黒を付けるのが私の役割です。このような灰色の空の下で下せる判決などありませんよ」
「え、映姫様……!」
小町が映姫に頭を下げた。
お咎めなし。地獄の女神の顔に免じて大負けに負けて。映姫が言っているのはそういう事だから。
「何故だか分かりませんが先程まで彼岸の空が青く見えたのですよ。それにこんな所にヘカーティア様が居るだなんて幻覚まで見る始末。どうやら疲れが溜まっていたようです。小町、一緒に休憩を取りませんか?」
「は、はい! お供致します!」
お小言の一つもあろうが断れるはずもない。あの四季映姫が、幻想郷の最高裁判長が目の前の罪を不問にしようというのだ。
これは当分映姫様には逆らえないなと、小町は気持ちを新たにするのだった。
「戎瓔花」
「…………なに?」
映姫は背を向けた状態で瓔花に声をかけた。彼女こそ水子に刑罰を与えている張本人だ。瓔花が心を閉ざすのも無理はない。
「貴方一人は当然許しませんが……監視者と共に外で行う刑務もありますよ。そちらを勤めたければ後ほど小町にでも聞いてみるといいでしょう」
「え……? ねえ、それって……!」
映姫はそれ以上何も言わなかった。ふわりと宙を浮いて三途の川を飛び越えていく。
「また来るよ!」
小町は瓔花に手を振って映姫の後ろを付いて行った。
瓔花は映姫の言葉の意味を噛みしめて表情をふわふわとさせている。残された両名の神は、その姿を微笑ましく見守っていた。
「しかし意外だったねえ。ヤマザナドゥがあんなに融通が利く奴だったなんて」
「映姫ちゃんは真面目だけど、それ以上にとても優しいのよ。賽の河原だって本当はあの子が一番取り潰したいと思ってるんだから」
水子を救うのは地蔵菩薩の役割だと言われている。映姫は地蔵から閻魔に成り上がった存在だ。気にかけていないはずがなかったのだ。
「……なるほどね。今回は来た甲斐が有った。今度はうちの神社にでも寄ってくれよ。早苗にはキツく指導しておくからさ」
「あはははは! その時が来たら楽しみにしておくわ」
「じゃあね、戎瓔花」
神奈子も自分の社へと踵を返す。自身を祀る場所ならばどこへでも、それが神の力だ。小町の力で一瞬にしてこちらに来たならば、帰るのもまた神の力で一瞬だった。
前代未聞の騒ぎとなった賽の河原は再びしめやかさを取り戻した。
いろいろあったが結局は元の木阿弥だ。瓔花にはまた石を積むだけの毎日がやってくる。
「私もそろそろ行くとするわ。次に来る時にはお土産でも持ってくるから楽しみにしててね」
違うとすれば瓔花に新しい友人ができた事だろう。その人物はきっとまた騒ぎをもたらすに違いない。
「また来てね! 約束だよ、ヘカお姉ちゃん」
ヘカーティアは微笑むと、しゃがんで瓔花を優しく抱き寄せた。
「また来るわ。約束ね」
瓔花の背中をぽんぽんと叩くと、彼女はゆっくりと空へ浮かんでいく。
お互いの姿が霧に隠れて見えなくなるまで、二人はずっと手を振り続けた。
「……よし! みんなー、コンテストを再開するよー! えーと、何してたんだっけ……?」
瓔花のひときわ大きな声が河原に響き渡る。
彼女が居る限り、水子達は道を見失う事もないだろう。
瓔花こそが三途の川を照らす太陽なのだから。
しかしリクエストで出来た話とは思えない自然な話の流れとストンとしたオチがあり、そこはお見事でした。
神奈子の能力をちゃんと物語に落とし込んでいるのを始めてみた気がします。
瓔花のために力を尽くす神様たちが優しさにあふれていよかったです。