夜も日付を跨いだころ、一人の男が廊下を歩いていた。
廊下は薄暗く、大陸風の赤い格子の窓が設えられている。窓の外は暗闇が広がっているが、少し先には街の明かりが見える。
男の服や肌は血で汚れていた。身長は二メートルに届かないくらいだろうが肩幅が広く、屈強という言葉が似つかわしい。人相も悪く、もし街ですれ違う時には距離を取りたくなるような外見だ。
もっとも本人は急な任務を成功させたところであり、いたって上機嫌だった。
彼は鬼傑組に所属する猪の動物霊だった。
組長である吉弔八千慧からの緊急の命令を遂行し事務所に戻ってきたところだった。
その内容とは、ある地域の中心人物となっている大工の棟梁の家が剛欲同盟に襲われているので、彼を逃せというものだった。
命令を受けた彼は棟梁の家を取り囲んだ剛欲同盟の何人かを倒し、囲みを抜けて夜の闇に紛れて棟梁とその妻を脱出させたのだった。
「あー……シャワーが先だったか」
猪の動物霊はそう独りごちた。自分が返り血で汚れていることを忘れていたのだ。
しかし既に報告のために組長の部屋に向かってしまっている。報告自体は自分のサポートに入っていたカワウソ霊が先にしているだろうから急ぐ必要はない。ただ組長は見てくれより効率を重んじる人物で自分が多少汚れていても気にしないだろうし、今から一階のシャワー室に戻るのも面倒だ。
少しの逡巡の後、彼は結局引き返さずに組長の元へ向かうことにした。
カワウソが報告しているなら、彼の報告は二度手間に思える。しかし八千慧は報告を受ける際、可能であれば複数の部下から報告させるようにしていた。
それは主観が入ることによる情報の歪曲を防ぐためだ、と周りに語っている。
しかし一番の理由は裏切りの防止であった。手段を選ばないような非合法な組織はとかく裏切りに弱い。複数人から報告させれば部下が行動を隠蔽し辛く、またコミュニケーションを直に取る機会を増やすことができる。
猪霊が廊下を進んでいくと、突き当たりに大きな扉があった。
彼はその扉をノックした。
「組長、今戻りました」
数秒後、中から返事が聞こえた。
「……入りなさい」
珍しいな、と猪の動物霊は思った。ほんの少しだったとはいえ入室前に待たされたのは初めてかもしれない。いつも呼びかけるとすぐに返事が返ってきていたのに。
「失礼します」
彼は扉を開けて部屋の中に入った。
中には甕や日本刀などの豪奢なものが飾られ、部屋の主人の権力を誇示してはいた。しかし剛欲同盟など他の組織の事務所と比べると比較的シンプルに纏まっている。
部屋の中心には大きめの机と黒い革張りの椅子が置いてある。吉弔八千慧はそこに座っていた。
「シャワーを浴びてからくると思ったのですが」
「報告は早い方が良いと思いまして……」
サポートに入ったカワウソの動物霊が既に一通りの報告は済ませてるから、急ぐ意味はあまり無かったのだが、他に明確な理由もないので彼はそう答えた。
その後、汚れたまま入ってくるなと怒られるのではと彼は少し不安になった。吉弔があまりそういうことに頓着する人物でないことは彼もわかってはだったが、本人を目の前にしたら、つい不安になってしまったのだ。
「殊勝な心がけですね」
吉弔は揶揄うように薄く微笑んだ。その微笑みを見て、猪霊は自分の頬が緩むのを感じた。
そして彼は、自分はただ彼女に早く褒められたくてシャワーを後回しにしたのではないかと思った。あまりに幼稚な自分の思考に気づき恥ずかしくなって、彼は唇の裏を噛んだ。
少し褒められただけで喜んでいると気づかれたくない。そう思うと益々動揺し、顔が赤くなってはいないだろうかと不安になってきた。
彼は動揺を誤魔化すために、八千慧の机の上に置いてある箱に目をつけた。厚紙の箱だ。
「その箱は……?」
「中身を見たいですか?」
八千慧は微笑んでそう答えたが、目が明らかに笑っておらず声色も冷たい。
猪霊は厭なエピソードを思い出した。
鬼傑組に裏切り者が出てきたときの話である。
その裏切り者は事もあろうに八千慧を暗殺しようとしたのだ。彼女の機転によりその裏切り者は取り押さえられ、暗殺は未遂に終わった。
その後、背後関係を洗うために拷問が行われた。
実行したのは拷問を専門とする、普段から周りに疎まれている変わり者の組員だった。その内容は凄惨を極めたという。
立ち会ったのは八千慧と一人の幹部だった。後者の彼はそれなりに鉄火場を潜り抜けてきた叩き上げのベテランだったが、それほどの猛者ですら途中で退室し嘔吐したという(裏切りが起きたのは彼の監督責任もあったので、立ち合わせたのは罰の意味合いもあった)。
胃酸の気持ち悪さに顔をしかめながら彼が拷問部屋に戻ると、裏切り者は血の跡を残して居なくなっていた。彼はそのとき、裏切り者の組員が逃げたのではと一瞬焦ったという。
そして八千慧から木箱を捨ててくるよう命じられた。木箱は小脇に抱えられる程度のサイズのものだった。
その箱を持ち上げると、中で何かが動いている感触がしたという。
彼は「この箱は……」と小さく口にした。
八千慧は唇だけで微笑んで「中身を見たいですか?」とだけ答えた。
猪霊は直接その場を見たわけではないが、持った箱の中身が動く感触のことを想像すると背筋がぞくりとする。
「いえ……結構です」
「そうですか」
恐らくだがこの箱の中身もロクなものではない。敵対組織の組員の指でも詰められているかもしれない。彼はそう思った。
先ほどまでの浮ついた気分は消え失せていた。
八千慧は小さく咳払いし場をしきり直して、彼に報告を促した。
「補佐に向かわせたカワウソから大体の経過は聞いていますが、貴方の口からも説明してくれますか?」
「はっ。カワウソから命令を受け取った後、自分は指示通り布とサングラスで顔を隠し、指定された場所に向かいました」
背筋を伸ばした猪霊の報告を、八千慧は椅子に深くもたれかって聞く。
「その大工の家へ辿り着くと、既に剛欲同盟の夜討ちを受けている最中でした。自分は隣の建物の屋上から、その施設に飛び移りました」
建物の間の距離は五メートルほど離れていた。あれを飛び越えるのは肝が冷えたなと猪霊は思い返した。
「中に入ると棟梁の妻が重傷を負っていました。彼女がいたため逃げるのが難しかったようです。彼女の応急手当の道具を渡せたおかげで、彼に自分は味方だと説得できました」
手当ての道具は鬼傑組が八千慧に持たされているものであり、そう大したものではなかった。しかし愛妻家と評判の棟梁の信頼を得るには十分だったようだ。
もっとも剛欲に対立する者、としか名乗らなかった猪霊を完全に信頼したわけではない。現状を打開するにはこの怪しい人物に頼るしかない、と棟梁が決断したというだけだ。
「煙幕を建物裏手に投げて一度そちらで騒いでそちら引きつけたところで、正面からの突破に打って出ました。案外と戦力もあまり大したことがなく、夜の闇に逃げ込んで二人を脱出させることに成功しました」
元々鬼傑組は戦力で剛欲同盟や勁牙組に劣る組織だ。故に陽動や奇襲が得意にならざるをえない。
猪霊のような鬼傑組の中でそれなりの場数を踏んだ構成員であれば、この程度の立ち回りはできて当然だった。
「二人は?」
「勁牙のシマの中心街まで見送りました」
いかに剛欲同盟といえども、勁牙組の勢力下の中心部ではコトは起こせない。仮に武力を行使するなら、そのまま勁牙と剛欲の戦争になってもおかしくはない。
「重畳です」
「……ありがとうございます」
「何か聞きたいことがあるようですが」
猪霊の顔に一瞬現れた疑問の感情を汲み取って、八千慧はそう促した。
「いえ……自分にはこの任務の持つ意味が……その」
よく分からない、と言うのは情けないような気がして彼は言葉尻をぼかした。
「現状維持のためですよ。あの場所とあの棟梁についてどこまで知っていますか?」
「あのあたりは……勁牙と剛欲の緩衝地域ですよね」
八千慧は頷いた。
棟梁の家の一帯は勁牙組と剛欲同盟の支配地域に挟まれ、かつどちらにも属していなかった。より正確には剛欲同盟が手中に収めようと画策しているが、上手くいっていない状況だ。
その地域は大工をはじめ職人が多く住んでおり、彼らは外からの支配を是としない集まりであった。
「あそこは剛欲の圧力にも屈しない独立性の強い地域ですが、棟梁はその中のタカ派のリーダー格でした」
「剛欲同盟は彼を排除し見せしめにして、反抗する気力を削ごうとしたと」
「そうでしょうね。更なる反発を招き逆効果にもなりかねない危うい賭けですが」
剛欲同盟はその巨大さゆえ比較的トップの権力が弱く、組織内での競争や内輪揉めが激しい。大方功を焦った幹部の一人が早まってしまったのが今回の一件だと八千慧は見ていた。
そこまでは猪霊もわかっている。しかし何故それに鬼傑組が介入した理由がわからなかった。
「棟梁に恩を売り、我々の傘下に迎えたい……わけではありませんよね」
猪霊は命令を受けた際、自分の身分は明かすなとカワウソから伝えられていた。身分を隠させたのは鬼傑組が剛欲同盟を妨害したという話が広まり対立が深まるのを嫌がったためであった。
もし恩を売るのであれば誰が助けたのか分からなければ意味がない。よって棟梁を味方につけたいというわけではないと彼も理解していた。
「ええ。勁牙と剛欲に挟まれた地域を手にしようというのはあまりに利が薄いですしね」
支配地域が隣り合えば、それだけ火種を抱えることになる。あの一帯を手に入れることは勁牙と剛欲の両方との対立を深めることに繋がってしまう。
「まず前提として、剛欲には数の利があり、勁牙はそれを埋められるような勇猛な組員が多く、我々はそれらと比べると戦力不足です」
剛欲同盟は歴史も古く、複数の組織が集まってできただけあって、その人数の多さは他組織の比ではない。牙組は驪駒を信奉する力自慢たちが自然と集まって形成された組織だった。故に構成員たちは猛者揃いだ。
一方の鬼傑組はというと、力自慢の構成員は少なく、新興の組織であり人数も少ない。
鬼傑組において猪霊のような根っからの武闘派はあまり数が多くなく珍しい存在だった。そういう者は勁牙に惹かれるのが普通だ。
彼としては比較的正道を重んじ腕力しか評価されない勁牙よりも、工夫が必要となってくる鬼傑の方が面白いと思っていた。もっとも一番の理由は驪駒早鬼よりも吉弔八千慧に惹かれたからなのだが、彼自身はそのことを明確に意識したことはなかった。
「三番手に甘んじている我々としては、状況は複雑であるほど都合が良い。サシで負ける相手でも、バトルロワイヤルなら後ろから刺せるかもしれない」
猪霊は段々と八千慧が言わんとしていることがわかり始めた。
「もう少し具体的に話しましょうか。剛欲同盟と勁牙組が全面抗争にならないのは我々の存在が大きい。漁夫の利を掻っ攫われるのが恐ろしいのですね。であるならあなたが剛欲や勁牙だったらどうします?」
「……剛欲と勁牙で手を組んでまずは我々鬼傑を潰しますね」
「その通り。私たちにとっての一番の最悪のシナリオはそれです」
「そうさせないために状況の複雑化が必要です。勢力図が綺麗になる程、先が読み辛く大胆な行動には出られなくなりますから」
勢力図がシンプルになる程、剛欲や勁牙は思いきった手段に出るかもしれない。組織として発展途上にある鬼傑組としては、全面抗争はなるべく先延ばしにしたかった。
なお剛欲と手を組み勁牙を潰すという選択肢などもあるが、そのあとの決勝戦で剛欲負けるのがオチだ。
「私の読みではあそこが剛欲の手に落ちると一時的に剛欲と勁牙の対立が深まりますが、その後両組織が一時和解し、最悪のシナリオを辿る公算が高かった」
「成る程……」
自分が組長の意図がわからなかったのも無理はないな、と猪霊は思った。
単にあの棟梁を助けないといけない理由があるのではなく、棟梁を助けなかった場合の勢力図の変化を見越しての任務だったのだ。
「もちろん理由はそれだけではありませんよ。剛欲同盟は土建屋に強い影響力を持っていますから、剛欲の息のかかっていない大工を減らしたくない、という差し迫った理由もあります」
「……いえ、単に疑問に思っただけです」
猪霊は八千慧が自分に気を遣って他の理由も挙げたのだと思った。勢力図の変化の可能性という不確実なものを恐れ、自分を危ない任務に就かせたのが不満、そう思われるのは心外だった。
忠誠を疑われた気分になったのだ。彼は八千慧が必要だと判断したのなら、命がけの鉄火場にも躊躇なく飛び込む覚悟は普段から持っていた。
「勢力図の変化というのなら、棟梁の様子を見る限り期待できるかもしれませんね」
「ほう」
「妻を傷つけられた彼は……中々鬼気迫るところがありましたから」
棟梁は愛妻家で通った男だ。
別れ際、ベッドで眠る負傷した妻の横で座る彼の表情は、覚悟を決めた者の目だった。あの様子であれば、剛欲と完全に決別し極道として身を立てかねない。状況の複雑化という観点からすれば、剛欲に従わない大工の顔役よりも、剛欲に徹底抗戦する半分極道の大工の方が望ましいだろう。猪霊はそう思った。
こうやって新しい組が出来上がるのは珍しく無い。極道とは往々にして地域や利益を守ろうとして生まれるものなのだから。
「そうですか。それはいい」
もっともそれは現状では僅かな可能性の期待に過ぎない。八千慧も彼の言いたいことはわかったが、それ以上掘り下げることはしなかった。
「他に何か聞いておきたいことはありますか?」
「そういえば……状況の複雑化といえば袿姫……あの邪神もその一つの要因とお考えですか?」
袿姫の名を口にした瞬間、八千慧の体が固まり空気が張り詰める。
ひょっとして自分は地雷を踏み抜いてしまったのだろうかと、彼は身が縮んだような気がした。
八千慧は長く息を吐き、言葉を紡いだ。
「現状では……というところですね。あれは然程畜生界に興味があるように思えません。職人気質というか。一番の興味が己の創造物なのでしょう」
「確かに……人間霊の救済にそこまで固執してるようではないようですし」
八千慧の邪神討伐のために地上の人間を利用する、という策は所詮一時凌ぎに過ぎない。彼女らとて畜生界を守る義理は無いのだから、もう一度袿姫討伐に協力してくれるとは考えにくい。
埴安神袿姫が本気になれば、もう一度畜生界を制圧するのはそう難しく無いだろう。
しかし現状彼女は動く気配はない。人間霊が再び虐げられる地位に戻ったにも関わらずだ。
恐らくは人間霊の救済は二の次で、己の創造物たる埴輪兵長が活躍させたくて畜生界を制圧したのではないだろうか。という考えが畜生界のヤクザたちの上層部では何となく共有されていた。
もっとも動物霊たちとしては、またあの古神に介入されては堪らないので、人間霊に対する当たりは以前より大分柔らかくなっている。
袿姫がその現状に満足しているという見方もあった。
「完全に埴安神袿姫は我々に介入しないと判断されれば、それはもう不確定要素とは呼べないでしょう。先程言った最悪のシナリオが起きるのは、そのことが前提でもあります」
猪霊は頷いた。袿姫の影がちらついている間は、大規模な抗争を起こすのは躊躇われるだろう。しかし介入してこないと分かれば気にせず大規模な抗争に入ることができる。
「他には何か?」
「いえ、お時間を取らせ失礼しました」
彼が頭を小さく下げ、八千慧は微笑んだ。
「とんでもない。一人一人が組のことを考えていくのは大切なことですから」
やはり自分は鬼傑組に来て良かったと猪霊は思う。
腕っぷし自慢の彼としては勁牙組に惹かれる部分があるが、それよりも吉弔八千慧という一個人に惹かれる部分の方が大きかった。
聡明で組員一人一人のことを考え評価してくれる。一方で敵に対しては他の組長よりも苛烈かつ冷酷。自分の上に立つ者がこのような人物であることが頼もしく、仕えられることが誇りでもある。
また八千慧の私生活があまり見えないことが、より一層彼女の神秘性のようなものを高めていた。彼の八千慧への感情は既にある種の崇拝に近い。
「それでは失礼しました」
「ええ。今日はもうおやすみなさい」
猪霊はもう一度彼女に頭を下げ、部屋を出て行った。幹部でもなくまだまだ若輩者の彼としては、これだけ長い間二人で組長と話せたのは初めてであり、話が終わった後も興奮冷めやらぬといった様子であった。
しばらく歩いてから、そういえば棟梁を助けた際に付いた血の汚れのことを途中から完全に忘れていたことに気づいた。そんなことも完全に忘れるほど自分は舞い上がっていたのか彼は苦笑した。
猪霊がいなくなり、一人になった自室で八千慧は椅子にもたれかかっていた。視線はぼんやりと天井に向けられている。
「ふーっ……」
彼女は長く息を吐いた。
報告自体はカワウソ霊がしていたので、猪霊はシャワーを浴びてから来ると思っていたが、それは大きな誤算だった。
危うく見られるところだったと八千慧はため息をつく。
「さて、ようやく……」
彼女は小さく独りごちた。
そして机の上に置いてあった、厚紙の箱に手を伸ばした。そしてその箱をもったいぶりながらゆっくりと開いた。
「……ふふっ」
八千慧の唇から笑みが溢れる。
箱の中には、一ホールの食べかけの苺のショートケーキが入っていた。
早速彼女はショートケーキを一口食べた。
「んー……地上からわざわざ取り寄せた甲斐がありますね」
頬に手を当てながら緩む口元を抑えられない。
その様子は畜生界の一角を占める鬼傑組組長には到底見えず、見た目通りの年頃の少女のようだった。顔を知らないものが見たら、彼女こそが敵への容赦の無さで知られる吉弔八千慧その人であるとは思わないだろう。
彼女はケーキを口に運び一息ついた。
こんな甘味にはしゃいでるところは誰にも見せられないな、と八千慧は思った。
小さめのサイズとはいえ、ショートケーキをホール一つ丸ごと一人で堪能しているなんて、構成員たちは夢にも思わないだろう。
鬼傑組を支えているのが周囲の自分に対するイメージであるということに、彼女は自覚的だった。
的確な指示を出し、多角的な評価に基づいて有能なものは取り立てるが、裏切り者や敵対するものに対しては一切の情けをかけずとことん追い詰める鬼傑組の女帝。その完璧なイメージがあるからこそ構成員は忠誠をつくし、他の組の者は対立を恐れる。
かの邪神の埴輪兵長より、自分の方がよっぽど偶像を演じている。彼女は自嘲的に小さく鼻で笑った。
しかしそんなことより目の前の甘味を楽しむべきだ。彼女はそう思い、それまでの思考を脳の片隅へと追いやった。苺のショートケーキを頬張りながら、あまりの美味しさに独り言が漏れてしまう。
「クリームの甘味に苺の酸味がアクセントとなって……ある種の完成形というべきか……」
猪霊が部屋を訪れた際、咄嗟にケーキを箱に閉まったが、あまり間を空けるのも怪しいので目のつかないところに仕舞うことまではしなかった。
甘い臭いでバレるかもしれなかったが、血の臭いで彼の嗅覚が鈍っているだろうと八千慧は予想した。彼が返り血に濡れていることはカワウソの報告で聞いていたし、報告に来る早さでその汚れを落としていないことも容易に予想できた。
計算外だったのは、彼がケーキの入った箱に興味を持ったことだった。
気にするなと誤魔化すとかえって怪しまれるかと思い、出来る限り冷たいトーンで中身が見たいかと冷たく吐き捨てたが、八千慧は内心肝が冷える思いだった。
彼がケーキ、といきなり口にしたときは心拍数が瞬間的に跳ね上がった。
ケーキではなく袿姫だったとすぐわかったが、我ながら少し滑稽だなと八千慧は自嘲する。
「ご馳走様でした」
八千慧は口元をハンカチで拭った。
結局、彼女はケーキをホール一つ丸ごと平らげてしまった。
組長も楽ではない。
そんなことを考えながら、彼女はケーキの入っていた箱を片付けた。
こうして畜生界の夜は更けていく。
廊下は薄暗く、大陸風の赤い格子の窓が設えられている。窓の外は暗闇が広がっているが、少し先には街の明かりが見える。
男の服や肌は血で汚れていた。身長は二メートルに届かないくらいだろうが肩幅が広く、屈強という言葉が似つかわしい。人相も悪く、もし街ですれ違う時には距離を取りたくなるような外見だ。
もっとも本人は急な任務を成功させたところであり、いたって上機嫌だった。
彼は鬼傑組に所属する猪の動物霊だった。
組長である吉弔八千慧からの緊急の命令を遂行し事務所に戻ってきたところだった。
その内容とは、ある地域の中心人物となっている大工の棟梁の家が剛欲同盟に襲われているので、彼を逃せというものだった。
命令を受けた彼は棟梁の家を取り囲んだ剛欲同盟の何人かを倒し、囲みを抜けて夜の闇に紛れて棟梁とその妻を脱出させたのだった。
「あー……シャワーが先だったか」
猪の動物霊はそう独りごちた。自分が返り血で汚れていることを忘れていたのだ。
しかし既に報告のために組長の部屋に向かってしまっている。報告自体は自分のサポートに入っていたカワウソ霊が先にしているだろうから急ぐ必要はない。ただ組長は見てくれより効率を重んじる人物で自分が多少汚れていても気にしないだろうし、今から一階のシャワー室に戻るのも面倒だ。
少しの逡巡の後、彼は結局引き返さずに組長の元へ向かうことにした。
カワウソが報告しているなら、彼の報告は二度手間に思える。しかし八千慧は報告を受ける際、可能であれば複数の部下から報告させるようにしていた。
それは主観が入ることによる情報の歪曲を防ぐためだ、と周りに語っている。
しかし一番の理由は裏切りの防止であった。手段を選ばないような非合法な組織はとかく裏切りに弱い。複数人から報告させれば部下が行動を隠蔽し辛く、またコミュニケーションを直に取る機会を増やすことができる。
猪霊が廊下を進んでいくと、突き当たりに大きな扉があった。
彼はその扉をノックした。
「組長、今戻りました」
数秒後、中から返事が聞こえた。
「……入りなさい」
珍しいな、と猪の動物霊は思った。ほんの少しだったとはいえ入室前に待たされたのは初めてかもしれない。いつも呼びかけるとすぐに返事が返ってきていたのに。
「失礼します」
彼は扉を開けて部屋の中に入った。
中には甕や日本刀などの豪奢なものが飾られ、部屋の主人の権力を誇示してはいた。しかし剛欲同盟など他の組織の事務所と比べると比較的シンプルに纏まっている。
部屋の中心には大きめの机と黒い革張りの椅子が置いてある。吉弔八千慧はそこに座っていた。
「シャワーを浴びてからくると思ったのですが」
「報告は早い方が良いと思いまして……」
サポートに入ったカワウソの動物霊が既に一通りの報告は済ませてるから、急ぐ意味はあまり無かったのだが、他に明確な理由もないので彼はそう答えた。
その後、汚れたまま入ってくるなと怒られるのではと彼は少し不安になった。吉弔があまりそういうことに頓着する人物でないことは彼もわかってはだったが、本人を目の前にしたら、つい不安になってしまったのだ。
「殊勝な心がけですね」
吉弔は揶揄うように薄く微笑んだ。その微笑みを見て、猪霊は自分の頬が緩むのを感じた。
そして彼は、自分はただ彼女に早く褒められたくてシャワーを後回しにしたのではないかと思った。あまりに幼稚な自分の思考に気づき恥ずかしくなって、彼は唇の裏を噛んだ。
少し褒められただけで喜んでいると気づかれたくない。そう思うと益々動揺し、顔が赤くなってはいないだろうかと不安になってきた。
彼は動揺を誤魔化すために、八千慧の机の上に置いてある箱に目をつけた。厚紙の箱だ。
「その箱は……?」
「中身を見たいですか?」
八千慧は微笑んでそう答えたが、目が明らかに笑っておらず声色も冷たい。
猪霊は厭なエピソードを思い出した。
鬼傑組に裏切り者が出てきたときの話である。
その裏切り者は事もあろうに八千慧を暗殺しようとしたのだ。彼女の機転によりその裏切り者は取り押さえられ、暗殺は未遂に終わった。
その後、背後関係を洗うために拷問が行われた。
実行したのは拷問を専門とする、普段から周りに疎まれている変わり者の組員だった。その内容は凄惨を極めたという。
立ち会ったのは八千慧と一人の幹部だった。後者の彼はそれなりに鉄火場を潜り抜けてきた叩き上げのベテランだったが、それほどの猛者ですら途中で退室し嘔吐したという(裏切りが起きたのは彼の監督責任もあったので、立ち合わせたのは罰の意味合いもあった)。
胃酸の気持ち悪さに顔をしかめながら彼が拷問部屋に戻ると、裏切り者は血の跡を残して居なくなっていた。彼はそのとき、裏切り者の組員が逃げたのではと一瞬焦ったという。
そして八千慧から木箱を捨ててくるよう命じられた。木箱は小脇に抱えられる程度のサイズのものだった。
その箱を持ち上げると、中で何かが動いている感触がしたという。
彼は「この箱は……」と小さく口にした。
八千慧は唇だけで微笑んで「中身を見たいですか?」とだけ答えた。
猪霊は直接その場を見たわけではないが、持った箱の中身が動く感触のことを想像すると背筋がぞくりとする。
「いえ……結構です」
「そうですか」
恐らくだがこの箱の中身もロクなものではない。敵対組織の組員の指でも詰められているかもしれない。彼はそう思った。
先ほどまでの浮ついた気分は消え失せていた。
八千慧は小さく咳払いし場をしきり直して、彼に報告を促した。
「補佐に向かわせたカワウソから大体の経過は聞いていますが、貴方の口からも説明してくれますか?」
「はっ。カワウソから命令を受け取った後、自分は指示通り布とサングラスで顔を隠し、指定された場所に向かいました」
背筋を伸ばした猪霊の報告を、八千慧は椅子に深くもたれかって聞く。
「その大工の家へ辿り着くと、既に剛欲同盟の夜討ちを受けている最中でした。自分は隣の建物の屋上から、その施設に飛び移りました」
建物の間の距離は五メートルほど離れていた。あれを飛び越えるのは肝が冷えたなと猪霊は思い返した。
「中に入ると棟梁の妻が重傷を負っていました。彼女がいたため逃げるのが難しかったようです。彼女の応急手当の道具を渡せたおかげで、彼に自分は味方だと説得できました」
手当ての道具は鬼傑組が八千慧に持たされているものであり、そう大したものではなかった。しかし愛妻家と評判の棟梁の信頼を得るには十分だったようだ。
もっとも剛欲に対立する者、としか名乗らなかった猪霊を完全に信頼したわけではない。現状を打開するにはこの怪しい人物に頼るしかない、と棟梁が決断したというだけだ。
「煙幕を建物裏手に投げて一度そちらで騒いでそちら引きつけたところで、正面からの突破に打って出ました。案外と戦力もあまり大したことがなく、夜の闇に逃げ込んで二人を脱出させることに成功しました」
元々鬼傑組は戦力で剛欲同盟や勁牙組に劣る組織だ。故に陽動や奇襲が得意にならざるをえない。
猪霊のような鬼傑組の中でそれなりの場数を踏んだ構成員であれば、この程度の立ち回りはできて当然だった。
「二人は?」
「勁牙のシマの中心街まで見送りました」
いかに剛欲同盟といえども、勁牙組の勢力下の中心部ではコトは起こせない。仮に武力を行使するなら、そのまま勁牙と剛欲の戦争になってもおかしくはない。
「重畳です」
「……ありがとうございます」
「何か聞きたいことがあるようですが」
猪霊の顔に一瞬現れた疑問の感情を汲み取って、八千慧はそう促した。
「いえ……自分にはこの任務の持つ意味が……その」
よく分からない、と言うのは情けないような気がして彼は言葉尻をぼかした。
「現状維持のためですよ。あの場所とあの棟梁についてどこまで知っていますか?」
「あのあたりは……勁牙と剛欲の緩衝地域ですよね」
八千慧は頷いた。
棟梁の家の一帯は勁牙組と剛欲同盟の支配地域に挟まれ、かつどちらにも属していなかった。より正確には剛欲同盟が手中に収めようと画策しているが、上手くいっていない状況だ。
その地域は大工をはじめ職人が多く住んでおり、彼らは外からの支配を是としない集まりであった。
「あそこは剛欲の圧力にも屈しない独立性の強い地域ですが、棟梁はその中のタカ派のリーダー格でした」
「剛欲同盟は彼を排除し見せしめにして、反抗する気力を削ごうとしたと」
「そうでしょうね。更なる反発を招き逆効果にもなりかねない危うい賭けですが」
剛欲同盟はその巨大さゆえ比較的トップの権力が弱く、組織内での競争や内輪揉めが激しい。大方功を焦った幹部の一人が早まってしまったのが今回の一件だと八千慧は見ていた。
そこまでは猪霊もわかっている。しかし何故それに鬼傑組が介入した理由がわからなかった。
「棟梁に恩を売り、我々の傘下に迎えたい……わけではありませんよね」
猪霊は命令を受けた際、自分の身分は明かすなとカワウソから伝えられていた。身分を隠させたのは鬼傑組が剛欲同盟を妨害したという話が広まり対立が深まるのを嫌がったためであった。
もし恩を売るのであれば誰が助けたのか分からなければ意味がない。よって棟梁を味方につけたいというわけではないと彼も理解していた。
「ええ。勁牙と剛欲に挟まれた地域を手にしようというのはあまりに利が薄いですしね」
支配地域が隣り合えば、それだけ火種を抱えることになる。あの一帯を手に入れることは勁牙と剛欲の両方との対立を深めることに繋がってしまう。
「まず前提として、剛欲には数の利があり、勁牙はそれを埋められるような勇猛な組員が多く、我々はそれらと比べると戦力不足です」
剛欲同盟は歴史も古く、複数の組織が集まってできただけあって、その人数の多さは他組織の比ではない。牙組は驪駒を信奉する力自慢たちが自然と集まって形成された組織だった。故に構成員たちは猛者揃いだ。
一方の鬼傑組はというと、力自慢の構成員は少なく、新興の組織であり人数も少ない。
鬼傑組において猪霊のような根っからの武闘派はあまり数が多くなく珍しい存在だった。そういう者は勁牙に惹かれるのが普通だ。
彼としては比較的正道を重んじ腕力しか評価されない勁牙よりも、工夫が必要となってくる鬼傑の方が面白いと思っていた。もっとも一番の理由は驪駒早鬼よりも吉弔八千慧に惹かれたからなのだが、彼自身はそのことを明確に意識したことはなかった。
「三番手に甘んじている我々としては、状況は複雑であるほど都合が良い。サシで負ける相手でも、バトルロワイヤルなら後ろから刺せるかもしれない」
猪霊は段々と八千慧が言わんとしていることがわかり始めた。
「もう少し具体的に話しましょうか。剛欲同盟と勁牙組が全面抗争にならないのは我々の存在が大きい。漁夫の利を掻っ攫われるのが恐ろしいのですね。であるならあなたが剛欲や勁牙だったらどうします?」
「……剛欲と勁牙で手を組んでまずは我々鬼傑を潰しますね」
「その通り。私たちにとっての一番の最悪のシナリオはそれです」
「そうさせないために状況の複雑化が必要です。勢力図が綺麗になる程、先が読み辛く大胆な行動には出られなくなりますから」
勢力図がシンプルになる程、剛欲や勁牙は思いきった手段に出るかもしれない。組織として発展途上にある鬼傑組としては、全面抗争はなるべく先延ばしにしたかった。
なお剛欲と手を組み勁牙を潰すという選択肢などもあるが、そのあとの決勝戦で剛欲負けるのがオチだ。
「私の読みではあそこが剛欲の手に落ちると一時的に剛欲と勁牙の対立が深まりますが、その後両組織が一時和解し、最悪のシナリオを辿る公算が高かった」
「成る程……」
自分が組長の意図がわからなかったのも無理はないな、と猪霊は思った。
単にあの棟梁を助けないといけない理由があるのではなく、棟梁を助けなかった場合の勢力図の変化を見越しての任務だったのだ。
「もちろん理由はそれだけではありませんよ。剛欲同盟は土建屋に強い影響力を持っていますから、剛欲の息のかかっていない大工を減らしたくない、という差し迫った理由もあります」
「……いえ、単に疑問に思っただけです」
猪霊は八千慧が自分に気を遣って他の理由も挙げたのだと思った。勢力図の変化の可能性という不確実なものを恐れ、自分を危ない任務に就かせたのが不満、そう思われるのは心外だった。
忠誠を疑われた気分になったのだ。彼は八千慧が必要だと判断したのなら、命がけの鉄火場にも躊躇なく飛び込む覚悟は普段から持っていた。
「勢力図の変化というのなら、棟梁の様子を見る限り期待できるかもしれませんね」
「ほう」
「妻を傷つけられた彼は……中々鬼気迫るところがありましたから」
棟梁は愛妻家で通った男だ。
別れ際、ベッドで眠る負傷した妻の横で座る彼の表情は、覚悟を決めた者の目だった。あの様子であれば、剛欲と完全に決別し極道として身を立てかねない。状況の複雑化という観点からすれば、剛欲に従わない大工の顔役よりも、剛欲に徹底抗戦する半分極道の大工の方が望ましいだろう。猪霊はそう思った。
こうやって新しい組が出来上がるのは珍しく無い。極道とは往々にして地域や利益を守ろうとして生まれるものなのだから。
「そうですか。それはいい」
もっともそれは現状では僅かな可能性の期待に過ぎない。八千慧も彼の言いたいことはわかったが、それ以上掘り下げることはしなかった。
「他に何か聞いておきたいことはありますか?」
「そういえば……状況の複雑化といえば袿姫……あの邪神もその一つの要因とお考えですか?」
袿姫の名を口にした瞬間、八千慧の体が固まり空気が張り詰める。
ひょっとして自分は地雷を踏み抜いてしまったのだろうかと、彼は身が縮んだような気がした。
八千慧は長く息を吐き、言葉を紡いだ。
「現状では……というところですね。あれは然程畜生界に興味があるように思えません。職人気質というか。一番の興味が己の創造物なのでしょう」
「確かに……人間霊の救済にそこまで固執してるようではないようですし」
八千慧の邪神討伐のために地上の人間を利用する、という策は所詮一時凌ぎに過ぎない。彼女らとて畜生界を守る義理は無いのだから、もう一度袿姫討伐に協力してくれるとは考えにくい。
埴安神袿姫が本気になれば、もう一度畜生界を制圧するのはそう難しく無いだろう。
しかし現状彼女は動く気配はない。人間霊が再び虐げられる地位に戻ったにも関わらずだ。
恐らくは人間霊の救済は二の次で、己の創造物たる埴輪兵長が活躍させたくて畜生界を制圧したのではないだろうか。という考えが畜生界のヤクザたちの上層部では何となく共有されていた。
もっとも動物霊たちとしては、またあの古神に介入されては堪らないので、人間霊に対する当たりは以前より大分柔らかくなっている。
袿姫がその現状に満足しているという見方もあった。
「完全に埴安神袿姫は我々に介入しないと判断されれば、それはもう不確定要素とは呼べないでしょう。先程言った最悪のシナリオが起きるのは、そのことが前提でもあります」
猪霊は頷いた。袿姫の影がちらついている間は、大規模な抗争を起こすのは躊躇われるだろう。しかし介入してこないと分かれば気にせず大規模な抗争に入ることができる。
「他には何か?」
「いえ、お時間を取らせ失礼しました」
彼が頭を小さく下げ、八千慧は微笑んだ。
「とんでもない。一人一人が組のことを考えていくのは大切なことですから」
やはり自分は鬼傑組に来て良かったと猪霊は思う。
腕っぷし自慢の彼としては勁牙組に惹かれる部分があるが、それよりも吉弔八千慧という一個人に惹かれる部分の方が大きかった。
聡明で組員一人一人のことを考え評価してくれる。一方で敵に対しては他の組長よりも苛烈かつ冷酷。自分の上に立つ者がこのような人物であることが頼もしく、仕えられることが誇りでもある。
また八千慧の私生活があまり見えないことが、より一層彼女の神秘性のようなものを高めていた。彼の八千慧への感情は既にある種の崇拝に近い。
「それでは失礼しました」
「ええ。今日はもうおやすみなさい」
猪霊はもう一度彼女に頭を下げ、部屋を出て行った。幹部でもなくまだまだ若輩者の彼としては、これだけ長い間二人で組長と話せたのは初めてであり、話が終わった後も興奮冷めやらぬといった様子であった。
しばらく歩いてから、そういえば棟梁を助けた際に付いた血の汚れのことを途中から完全に忘れていたことに気づいた。そんなことも完全に忘れるほど自分は舞い上がっていたのか彼は苦笑した。
猪霊がいなくなり、一人になった自室で八千慧は椅子にもたれかかっていた。視線はぼんやりと天井に向けられている。
「ふーっ……」
彼女は長く息を吐いた。
報告自体はカワウソ霊がしていたので、猪霊はシャワーを浴びてから来ると思っていたが、それは大きな誤算だった。
危うく見られるところだったと八千慧はため息をつく。
「さて、ようやく……」
彼女は小さく独りごちた。
そして机の上に置いてあった、厚紙の箱に手を伸ばした。そしてその箱をもったいぶりながらゆっくりと開いた。
「……ふふっ」
八千慧の唇から笑みが溢れる。
箱の中には、一ホールの食べかけの苺のショートケーキが入っていた。
早速彼女はショートケーキを一口食べた。
「んー……地上からわざわざ取り寄せた甲斐がありますね」
頬に手を当てながら緩む口元を抑えられない。
その様子は畜生界の一角を占める鬼傑組組長には到底見えず、見た目通りの年頃の少女のようだった。顔を知らないものが見たら、彼女こそが敵への容赦の無さで知られる吉弔八千慧その人であるとは思わないだろう。
彼女はケーキを口に運び一息ついた。
こんな甘味にはしゃいでるところは誰にも見せられないな、と八千慧は思った。
小さめのサイズとはいえ、ショートケーキをホール一つ丸ごと一人で堪能しているなんて、構成員たちは夢にも思わないだろう。
鬼傑組を支えているのが周囲の自分に対するイメージであるということに、彼女は自覚的だった。
的確な指示を出し、多角的な評価に基づいて有能なものは取り立てるが、裏切り者や敵対するものに対しては一切の情けをかけずとことん追い詰める鬼傑組の女帝。その完璧なイメージがあるからこそ構成員は忠誠をつくし、他の組の者は対立を恐れる。
かの邪神の埴輪兵長より、自分の方がよっぽど偶像を演じている。彼女は自嘲的に小さく鼻で笑った。
しかしそんなことより目の前の甘味を楽しむべきだ。彼女はそう思い、それまでの思考を脳の片隅へと追いやった。苺のショートケーキを頬張りながら、あまりの美味しさに独り言が漏れてしまう。
「クリームの甘味に苺の酸味がアクセントとなって……ある種の完成形というべきか……」
猪霊が部屋を訪れた際、咄嗟にケーキを箱に閉まったが、あまり間を空けるのも怪しいので目のつかないところに仕舞うことまではしなかった。
甘い臭いでバレるかもしれなかったが、血の臭いで彼の嗅覚が鈍っているだろうと八千慧は予想した。彼が返り血に濡れていることはカワウソの報告で聞いていたし、報告に来る早さでその汚れを落としていないことも容易に予想できた。
計算外だったのは、彼がケーキの入った箱に興味を持ったことだった。
気にするなと誤魔化すとかえって怪しまれるかと思い、出来る限り冷たいトーンで中身が見たいかと冷たく吐き捨てたが、八千慧は内心肝が冷える思いだった。
彼がケーキ、といきなり口にしたときは心拍数が瞬間的に跳ね上がった。
ケーキではなく袿姫だったとすぐわかったが、我ながら少し滑稽だなと八千慧は自嘲する。
「ご馳走様でした」
八千慧は口元をハンカチで拭った。
結局、彼女はケーキをホール一つ丸ごと平らげてしまった。
組長も楽ではない。
そんなことを考えながら、彼女はケーキの入っていた箱を片付けた。
こうして畜生界の夜は更けていく。
関係ないけど1コメの人の時間凄いことになってますね
猪霊の緊張した雰囲気、その彼の思いなんかもとても良かったです。
最後でやられました
スジ者としての戦略眼もさることながら、その一方でケーキに目がないという落差に八千慧の魅力を感じました
そのまま本筋のみでも、楽しめますが、洒落が散らばって尚楽しめました。
他の人のコメントで気づいたのですが、題名のセンスがすごい…