透明なガラスの向こう側で、2つの霊魂が互いに身を押し付け合っていた。
薄暗がりを仄青い燐光で照らす球体2つ。一定のリズムで、互いの輪郭を侵食し合っている。トン、トン。音が聞こえてきそうなほど。それは私には縁遠い、脈動というモノに似て。
2つの人間霊は、飽きることなくその行為に耽っていた。普段は銘々が勝手に大した目的もなく浮遊しているだけというのに。ぶつかりあう2つの魂。その光景は異様で、何故だか私は目を離すことができなくて。
戦っている? それにしては動きに覇気がない。あまりに。
単に互いが行く手を塞いでいるから、ぶつかっているだけ? いくら人間霊とはいえ、そこまで間抜けではないだろう。
理解、不可能。考察、困難。何をしているの?
――と、我知らずガラスに手を当てていた私の背後で、フーッと。誰かが大きく、長く息を吐く音が響いて。
「――愚か。ですよねぇ。まったく」
振り向けば、そこには吉弔が立っていた。飾りの多い長煙管から、紫煙を揺蕩わせながら。
吐き出した侮蔑の言葉とは相反して、愉しげに眦を歪ませて。彼女の視線の先にあるのは、私が見ていたモノと同じようだった。
「貴女ですか」
「你好。えぇ、私です。何か問題でも?」
彼女は温和に微笑んでみせて、それから煙管の煙を私にフゥッと吹き掛けてきた。呼吸を必要としない私は、吸ったことのない煙草の煙にむせることもなく、
「……いいえ、問題はない。霊長園は開放され、もはや人間霊も袿姫様の庇護下にないわ。よって、私には貴女を排除する理由も存在しない」
「物分かりの良いお人形さんですね。好孩子。私の部下もアナタのように従順ならいいのに……いいえ、やっぱりそれはちょっと嫌ですね。无聊。つまらないです」
小馬鹿にした風の笑みを口元に携えたまま、吉弔が私の隣に並び立つ。私は彼女を見つめていたが、彼女はほんの少しだって視線を返さない。白磁器めいた彼女の横顔は、未だガラスの向こう側でぶつかり合う人間霊を嘲笑っていて。
「有趣的……いや、いや、やっぱり、馬鹿みたいですね。像个白痴。馬鹿は死ななきゃ治らない、というのは嘘ですね。人間が愚かなのは、死んでも治らないようです。命を落として、ここまで堕ちて、それでも無意味な性行に悦を見いだすなんて」
「性行?」
私は視線をガラスの向こうへとやる。トン、トン。規則的にぶつかり合う人間霊2つ。
理解不能だった行為の定義を獲得。人間霊のあれは、性行なる行為。知識の更新を確認。しかし、まだ私には判らない。性行なる行為が何を意味するのか。
「吉弔」
「八千慧、で構いませんよ。素敵なお人形さん」
「そう。では、八千慧」
「はぁい」
「性行とは何? 私はその言葉が何を意味するのか判らない」
「…………」
吉弔八千慧が私を見る。キョトン、とした風に。それこそ、理解できないと言わんばかりの顔。
「……あぁ、いえ、そうですか。えぇ、そうですよね。理解しました。我明白了」
「? 私の質問に不備が?」
「いえ、いいえ、少し驚かされましたが。いやはや。仕方ない、仕方ないね、というやつでしょうか。帮不上忙。アナタがそう言うなら、そうなのでしょうね」
八千慧は独り言のように呟いて、それからジッと私を見つめてくる。値踏みするみたいな視線。見覚えがあった。あぁ、そうだ。袿姫様が完成させた作品を検分するときの。
「想到一件好事……」
呟く八千慧が、クスッと。無垢な少女みたいに笑って。
「何だって?」
「いえ、いいえ、なんでもありません。えぇ、はい。性行の意味でしたね。お教えしますよ」
「本当? それはありがたい」
「というより、実際に体験してみましょう。眼见为实。百聞は一見に如かず。幸い、そういうことが得意な同郷の志がおりますので」
「え?」
八千慧が長煙管を振るって灰を落とし、懐から仄青い水晶玉のようなものを取り出す。なんだか話が大掛かりになってきた雰囲気。ちょっとした疑問を解決したいだけだったのに。
「ねぇ、私はアレらが何をしているのか聞きたいだけなんだけど」
私がガラスの向こうを指さすと、八千慧は人差し指を唇に当てて、
「しーっ、ですよ。请稍等。ちょっと待っててくださいね……你好? 我是。我发现了一个有趣的戏。您可能喜欢的播放――」
八千慧の両手の上にチョコン、と乗った青い球がゆったりと光る。八千慧の母国語。私には、何と言っているのか判らない。けれど、青い球とお話する八千慧の横顔は、どこか無邪気に感じられて。
体験。性交を体験する。八千慧はそう言った。
私はガラスの向こうへ目をやる。彼女曰く無意味で愚かな行為に耽っていた人間霊を。
ぶつかり合いは終わっていた。2つの人間霊は、今は寄り添って漂うばかりで動かない。
疑問。性交が無意味で愚かな人間の催しならば、それを私が体験することに何の意味が? 八千慧は何かを企んでいる?
不明。しかし、要警戒。鬼傑組は搦め手を好み、彼女はそんな連中のトップ。万が一のときには。いや、いま行動を起こした方が――?
「すぐ来るそうです……あれ? どうかしましたか? そんなに剣呑な顔をして」
水晶玉を仕舞った八千慧が、ニッコリと人好きのする笑顔を浮かべる。笑顔。コイツの笑みは信用ならない。袿姫様の浮かべるそれと似ていても、きっと内心は全然異なるから。
「何か企んでいるな?」
カマかけ。彼女が、こんなものでボロを出すとは思えない。けれど、展開の主導権を握られている状況は、打破できるかもしれない。八千慧はキョトンとした顔で小首を傾げて、
「はて? えぇと……私は何を企めば良いのでしょうか? 霊長園が解放されたいま、アナタや埴安神さんと敵対する必要もないのですが」
「質問を質問で返さないで。なぜ、私の疑問を言葉で説明しないの? 私はそれ以上のことを求めていない」
「えぇ、えぇ、そうでしょうね。言葉で説明できるのなら、私もそうしたでしょう。けれど、それは不可能だと判断しました。毫无意义。えぇ、そう。無意味だと」
「なぜ?」
「――話は聞きましたわ」
声。不意に。天井から。
聞いたことのない声。顔をあげる。霊長園の天井に闇色の穴が開いていて、そこから誰かが上半身を出していた。
青い女性。
見覚えはない。青い髪、青い服。今まで見た誰とも似ていない。妙な髪型の彼女は、私を目を合わせてニッコリと穏和な笑みを向けたかと思うと、重力なんて知らないとばかりにフワリ、真っ黒い穴から降りたって。
「ごきげんよう、素敵なお人形さん。私、青娥です。霍青娥と申しますわ」
青娥と名乗った女性はスカートの端を持ち上げて、まるで西欧の貴族令嬢か、もしくは舞台の上で舞うプリマのような大仰極まる挨拶をしてくる。そんな挨拶が鼻につかないのは、仕草が流麗だったせい?
優雅な淑女。完璧な所作に、整った顔立ち。
だからこそ、不穏。何かが歪んでいると感じた。それが具体的に何なのかは判らない。ケチのつけようがない。ケチのつけようがないことそのものが、怪しさを想起させて。
「……杖刀偶、磨弓」
「まぁまぁ、そうですか。返礼、感謝しますわ。磨弓さん、ですね。八千慧? この子が、アナタの言っていた?」
「えぇ、そうです。空的女孩。某人制作的可爱娃娃。你喜欢那些东西,对吗?」
「是的、是的……我真的很喜欢。可爱的。而且,它非常适合容器……」
青娥がうっとりと頬を赤く染めながら、恍惚のため息。そして八千慧の方を向いたまま、横目でジッと私のことを見てくる。品定めの目。私の全身を、くまなく。優美な蛇みたいに。
私がたじろいでいると、八千慧がニッコリと微笑みながら、
「さて、お人形さん。人間ってどんな風に作られると思いますか?」
「どんな風、に……?」
困惑。突然の問いかけに。
そんなこと、考えたこともなかった。ふと浮かぶのは、先日の出来事のこと。
――博麗の巫女。黒白の魔法使い。半人半霊の庭師。
私が創られて以来、初めて見た、人間霊ではない生身の人間たち。
彼女たちも、作られたもの? 私が袿姫様に作られたように、彼女たちを作った誰かがいるというの? 判らない。想像も及ばない。霊になってない、死んでない人間。生きている人間。その作り方。
土をこねられて、私は創造された。ならば人間は? 人間には肉がある。肉によって人間はできている。ならば肉をこねれば、人間を創ることができる?
「……知らない、けど……こう、人間の素材みたいなものがあって、それを元にして……」
「――プッ」
無知を嗤われないように、とできる限り抽象的にした推論は、八千慧のお眼鏡に適うものではなかったらしい。噴き出した八千慧が、肩を震わせつつ顔を背ける。
けれど、青娥は嗤わなかった。
パチパチ。手を叩いて。キラキラ。目を輝かせて。
「えぇ、えぇ、そうです。そうなんですよ。正解。正しいです。あぁ、素晴らしい。なんて素晴らしい……」
再びの困惑。2人の相反するリアクション。1人は嗤い、1人は褒め、私は私が口にした言葉の真贋が判らなくなる。当てずっぽうの推論。その真偽が、吐いた私にすら。
青娥が胸の前でキュッと両手を組む。未だ肩を震わせる八千慧を他所に、彼女は私の方に一歩、近付いて。
「素敵なお人形さん。素晴らしい杖刀偶磨弓さん。アナタは、愛を知っていて?」
「――愛」
青娥の言葉をオウム返しして、私の脳裏をよぎったのは袿姫様の笑顔だった。がらんどうの私に脳はないけれど、愛というものが何なのかくらいは判る。
愛。袿姫様が、私に注いでくれたもの。
空っぽな私の中に満ちる、温かなもの。
胸に手を当てて、その温かさを想う。袿姫様のことを思うたび、私の中に芽吹く感情。血肉通わぬ私が唯一確かに感じられる、温かなもの。尊きもの。その感情を愛と呼ぶのなら、袿姫様を慕う私は愛を知る。だから頷くことに躊躇いはなかった。
「愛です。愛ですよ、磨弓さん」
ゆっくりと両手を広げた青娥が、天を仰ぐようにうっとりと呟いて。
「アナタの言う、人間の素材。それこそが愛なのです。人と人とは愛によって繋がり、愛によって子を成す。あぁ、愛。世界でもっとも貴きもの。なんて素晴らしい。アナタは本当に素晴らしい。土から創られたというアナタが、愛を知っているだなんて……」
「哦,真有趣。这是一部喜剧。这是一个悲剧。哪只嘴代表爱? 我可以笑一个知道爱的娃娃」
「八千慧。茶化さないで。いま私、本当に感激しているのだから」
八千慧に水を差された青娥が、険しい表情で口にする。それを受けて、八千慧が咳払いをひとつ。口元を手で隠しながらも、青娥の方を向いて、
「えぇ、えぇ、すみませんでした。对不起。けれど、気に入ったでしょう?」
「えぇ、それはもう。とっても。今すぐ私のモノにしたいくらい」
「それは駄目です。アレには……失礼、彼女には所有者がいます。埴安神袿姫という、彼女にとっての母とも呼べる、神の一柱。ですから青娥、彼女はアナタのモノにはなりません。别碰。お触り禁止です」
「あら、そうなの……」
不快。私を差し置いて、2人が私について話していることに対して。
けれど口を挟む気にはなれなかった。そんなことができるような雰囲気ではなくなった。名残惜しそうに私から視線を外した青娥が、八千慧を睨んだその瞬間から。
「――それで?」
彼女はドス黒い殺気を隠そうともせず、冷たい剣の切っ先を八千慧の喉元に突きつけるような声で言う。
「どういうつもりでしょう? アナタが手に入らないと言うのなら、本当に手に入らないのよね? 見せびらかせたかった、ということかしら? こんなに素敵な子を、私の前にぶら下げてから、ポケットに仕舞うような真似をして」
「いえいえ、そんなつもりは、まったく」
私が第三者であるという事実を幸運に思うほど濃厚な殺意を向けられながらも、八千慧はニッコリと微笑んだまま、まるで天気の話でもするかのように落ち着いた声で、
「彼女、性交が何なのか判らないので、教えて欲しいとのことです。だから、私はアナタを呼びました。そういうことなら、アナタが適任だと思いまして。她甚至不知道男人是什么。因为是洋娃娃,所以不能生育孩子。可怜的女孩。如果那个洋娃娃知道生孩子的感觉怎么办? 她的母亲埴安神袿姫感觉如何? 我在乎」
「あぁ、そういうこと……。そういうことですか」
八千慧の言葉を受けて、青娥が殺気を収める。そうして彼女はねっとりとした笑みを浮かべて、
「你是一个执着的女人」
「とんでもないです。私は純粋に、彼女の疑問を解消してあげたいだけです。因为我可以笑」
「性格不好的女人。但坏事是你的好事?」
「我不要你告诉我……ふふ、そういうわけで、お人形さん?」
「なによ。というか、母国語で話すのは、やめて。何の話をしてるのかサッパリだわ」
クルリ、と私の方へ向き直った八千慧を睨む。懐疑。私に聞かれては都合の悪い話を、母国語で話しているのでは? その可能性は充分にある。それが正しいと仮定すると、私はこの2人を排除する必要が出てくる――。
「あぁ、ごめんなさいね? 不安にさせてしまいましたか。えぇ、えぇ、申し訳ございません。同郷の方といると、つい母語で話せることが嬉しくて……」
「あら……もしかして怖がらせちゃった? あぁ、どうしましょう……そうよね、判らない言葉で話されたら、不安よね……あぁ、なんてこと……私、そんなことも気付かないなんて……」
八千慧が深々と頭を下げ、その横で青娥はオロオロしている。困惑。私の懐疑は杞憂だった? どうにも判断しかねる。いつも通り飄々とした風の八千慧はともかくとして、初対面の青娥は本当に狼狽しているようにしか見えなくて。
青娥がどのような女性なのか、私は知らない。つぶさに挙動を観察してみても、怪しい様子は見られない。チラチラと私の機嫌を窺うような目を向けてくるばかり。
再起。私はまだ、性交なる行為の意味を教えられてない。ガラスの向こうで繰り広げられた、2つの人間霊の理解不能な行動。それがどんなものなのか、判っていない。モヤモヤとした好奇心は、まだ私のがらんどうな身体の中に残っていた。
結論。ひとまず話を聞くだけ聞いてみよう。八千慧に呼び出された青娥が、私に何をもたらすのか。それが性交に関する知識であれば良し。明瞭な悪意があると判断できたら、排除すれば良し。袿姫様から賜ったこの身体を守ることだけ、注意しておけばいい。
「……今後は母国語で話さないで欲しい。話を聞く前に、それだけ誓って欲しい」
「えぇ、えぇ、誓います」
「もちろんですわ。本当にごめんなさいね? もう磨弓さんを怖がらせるようなことはしませんから」
「ありがとう。その言葉、信じてるから。では、改めて問いたい。性交とは、なに?」
安堵。置いてけぼりにされていた状況から、会話のイニシアチブを取れたことに。八千慧に会話の主導権を握られている状況だと、何をされるか判ったものじゃない。まずまずの収穫と言っていいだろう。
「……だそうですよ、青娥」
「えぇ、はい、お答えしましょう」
青娥が柔和な笑みを携えて、私に近付いてくる。どこから取り出したのやら、眼鏡を掛けて、指揮棒のように金ピカのかんざしをフリフリ、
「愛です。まず初めに愛ありき。すべてはそこから始まります。まぁ、愛がなくとも性交が行われる場合もままありますが……今回、そのパターンは無視しましょうね。重要なのは目的ですわ。性交とは手段であり、目的を達成するための過程にすぎません」
「ふむ、なるほど……して、その目的とは?」
「そこで、先ほどの八千慧の質問が効いてくるわけです。人間とはどのように作られるのか。その答えこそ、性交の目的。人間はね、磨弓さん。性交という手段を用いて愛を交わし、女人の腹に愛を宿すことで作られるのです。女性のお腹に宿る愛こそ、人間の素材。まさしく愛の結晶。それが子ども、赤ちゃんです。愛を育み、子どもを産む。そのための行為を、性交と呼ぶのです」
「……なるほど」
理解。青娥の説明は、納得のいくものだった。
性交とはすなわち、新しく人間を創るための手段。それならば、先ほど八千慧がガラスの向こうの人間霊を嘲笑った理由も判る。死した人間が性交を行ったところで、新しい命を作れないのは道理だ。
しかし、そうか。人間も、また愛によって作られるのか、と驚嘆。私がこうしていられるのは、ひとえに袿姫様の寵愛の賜物だ。袿姫様が偶像としての私を愛してくださったからこそ、私という個体が作成された。人間風には、産まれたと言うのだろう。何だかんだ、疑問を解決できてスッキリした私は、青娥の方を向き、
「感謝する、青娥どの。おかげで私は、性交の何たるかを――」
「性交、懐妊、出産を経ての誕生。それは人間であれば誰もが共通して辿る最初の一歩です。しかし興味深いと申しますか、その一連の営みが美しいのは、実に様々な愛が介在して初めて成り立つという点にあると私は思うのです」
私の礼の言葉など聞こえてないかのように、青娥が言葉を続ける。それは滔々と語る自分の言葉に酔っているかのようで。事実、私に向けられた彼女の瞳はうっとりとして。
すでに疑問は解消している。私としては満足なのだが、青娥はそうでないらしい。今のところ危害を加えてくるような兆しもなし。ならばもう少し聞いておこうか、と口を閉ざす。
「妻への愛。夫への愛。自身の中で芽吹く命への愛。そして、生れ出てくれた子への愛……あぁ、本当に素晴らしいことだと思いませんか? 愛しき者へ、自らの命さえ顧みず注がれる激情。愛は素晴らしい。愛を知る者は、誰しもが輝いています」
言いながら、コツコツと靴音を立てて。青娥が私に歩み寄ってくる。それは剣の届く距離、手の届く距離を容易く越えて。たじろぐ私が後ずさりしても、彼女は距離を詰めてきて。
そして、私の腹部にそっと手を乗せてくる。玉を磨くように、すりすりと撫でまわして。
「な、にを……?」
「愛はここに宿ります」
白く繊細な指先でトントン、と彼女が私の腹をつつく。硬質な音。土から生成された私の腹と、青娥の爪がぶつかる音。理解不能。手を振り払うべき? 判断に迷う私の思考を突き刺すように、
「でも、残念です。アナタのお腹に、命は芽吹かない。子を為すことはできない。
――だからアナタは、愛を知ることができない。愛を理解できない。違いますか?」
「い、言ってる意味が――」
「けれど大丈夫。私が体験させてあげましょう。愛の神秘。愛の極致。その奇跡の何たるかを。ほら、このように……」
「――ッ!?」
がらんどうな筈の私の体内(ナカ)で、何かが蠢いた。
「あ、あっ……!?」
腹部の内側で、仄淡い火が灯ったような感覚を覚えた。
「な、に……? これ……っ! え、え、えっ……?」
いる。何かがいる。私の中に何かが侵入りこんでいる。
「なんで……? え? あ、あぁ……!? う、動いて……っ!?」
膝を折る。知らない。こんな感覚、私は知らない。何もない空虚な私の中。そこに。
……そこに。温かな何かが。確かな実感を持つ何かが。
宿って。動いて。腹部を両手で押さえる。私を形作る冷たい陶の向こうに、在る。
今にも消えてしまいそうなほど、弱々しい炎。私の中から出てしまえば、その途端にかき消されてしまいそう。そんな連想。これ、この何か。温かなモノ。蠢くモノ。いま確かに感じられるこれ。これは、私の中に居なくてはいけない。私という外殻で守ってやらなければならない。確証。そう、しなければ。
失われてしまう。無くなってしまう。消えてしまう。この温かな知らない感覚が、永遠に閉ざされてしまう。だめ。だめ。それは。絶対に。どうして? 決まってる。だって。だって、これが――
「そう、愛です。アナタが知らなかった、愛の極限。命を宿すという、奇跡の成就」
青娥の声が耳に届く。まるで道標のように。そう。この温かさ。私は知っている――
――いいえ、違う。
知っていると思い込んでいたもの。私が袿姫様に注がれたモノ。愛。愛なるもの。これがそうだ。この温かさ。私が感じていた袿姫様の愛情。その、真なる形。思い込みではない、確かに存在する温かな感覚。
知らず、私の瞳から涙が溢れていた。後から、後から、留まることなく。視界、涙色にボヤけて。不明。どうして? どうして私は泣いているの? 不明。不明。あぁ、けれど、けれど。私は冷たく固い腹部を、その向こう側の儚い温かさを、両手で必死に繋ぎとめようとして。繋ぎとめてないと、愛という概念そのものを永遠に失ってしまう気がして――
「百聞は一見に如かず、でしたね? お人形さん」
八千慧の声が、遠くの方から聞こえてきた。先ほどと何も変わらない。機嫌の良し悪しすら定かではない、取り繕ったままの声。
「その感覚。命を宿すという感覚。説明しても、アナタには理解できないと判っていました。えぇ、えぇ、だってアナタは人形ですから。埴安神さんに創られた偶像ですから。
不要ですよね。偶像に、『本当の愛』の何たるか、なんて。
えぇ、えぇ、だって新しい命なんか、彼女がいくらでも創れますもの。アナタがそれを担う必要なんて、これっぽっちもありません。だから、アナタは知らされなかったんですよ。その感覚、思い込みではない本当の温かさ、この世で最も尊い愛の形を――
――さ、それでは青娥。そろそろ养小鬼(ヤンシャオグイ)を解除してあげましょう? 彼女、とっても辛そうですから」
「待って!!!」
叫ぶ。へたり込んだまま、泣きながら、狂おしき感情の命じるままに。言葉の子細、判らなくても。八千慧と青娥の思惑、判らなくても。
「やめて、やめて!! 無くなっちゃう、消えちゃう……っ! わた、私が、私が、守ってないと……ッ! 温かいのに、私の中で――ほら、今も!! 動いて……!!」
嫌だ、いや、イヤ、せっかく知ったのに、せっかく、がらんどうの私の中に愛、本物の愛が、いま確かにここに在るのに、失われるなんて、消えてしまうなんて、この感覚、もう二度と私の中には、宿らない、なんて――!
「あら、そう? でも可哀相じゃない? 磨弓さんのお腹の子、新しいお母さんができたって、すごく喜んでるのに……」
「ダメです。だーめ。言いましたよね? 彼女には、もう立派な所有者がいますもの。よそ様の持ち物を、汚したまま返すわけにはいきません。筋が通りませんから」
「そ、じゃ、しょうがないわね……あぁ、可哀相。本当に可哀相。せっかくの容れ物も、お触り禁止なら仕方ないわね――」
「待っ――!!」
「あぁ、本当に、仕方ない」
パチン。青娥が指を鳴らす。
途端、フッと。戯れに蝋燭の灯を吹き消すように。あぁ、あっさりと。
……私の中の温かさ、何事もなかったみたいに、消えてしまって――
◆
――回想。
「これでよし、と。さ、目を開いて。私の愛しい磨弓ちゃん」
私は目蓋を開く。光。まず初めに光ありき。目蓋が遮断していた景色が、眼球を通して私という魂に書き込まれ始める。
工房。そこは、袿姫様の工房。生命もつ被造物が次々と創り上げられる神の座。ざわざわ、袿姫様が創り出したモノに宿る魂たちの囁く声。そのただなかに私は在って。
私。私という自我。私が私であるという認識。それがどこを境として目覚めたのかは定かではない。けれど、けれども、私が私であることを自覚したその瞬間から、私はもう既に杖刀偶磨弓で、それ以外の何者でもないという確信があった。
私は杖刀偶磨弓。造形神である埴安神袿姫様に創られた近衛。彼女を守り、彼女を信仰する人間霊たちを守ることが、私の務め。
産まれたという自覚はなかった。私は、私という作品は、袿姫様が作業の手を止めた瞬間に完成していて。袿姫様が完璧な造形主であらせられるからこそ、私も完璧な杖刀偶磨弓として在ることができて。
「あぁ、可愛い……うん、とっても! ね、磨弓ちゃん。私だけの可憐な騎士様。何か言ってみて?」
「……はい、袿姫様。何なりとお申し付けください」
「あぁん、かわいいーッ!! 素敵よ! 磨弓ちゃん、とーっても!」
袿姫様がキュッと両手を胸の前で握りしめる。白雪のような頬を優しい赤で彩って。星のように瞳、輝かせて。袿姫様、まるで永遠に無垢なる少女。土からできた冷たい私の身体に、いっぱいの愛情を注いでくださる方。
この方をお守りせねばならない。そう思う。強く、そう強く。それは私がそう創られたからではなくて、それは私がそのために出来た人形だからではなくて。
それは、そう。感じることができたから。
冷たいこの身体だからこそ、温かなモノを強く。袿姫様の視線、袿姫様の声、クルクルとカレイドスコープのように七変化する袿姫様の表情、所作、そのすべて、私に向けられた一挙手一投足のすべてから、感じ取ることができる。感情、袿姫様の御心、その温かさのなんと尊いことかと。
歓喜に打ち震える。杖刀偶磨弓として与えられた身体に宿る魂が。あぁ、温かい。なんて温かい。冷たいこの身体では、生み出すことなどできようもないモノ。それを与えてくださるのだ。この方は、際限なく、この私に。何の迷いもなく、まっすぐに。
「磨弓ちゃん、あぁ、磨弓ちゃん、磨弓ちゃん。可愛らしい子。愛しい私だけの騎士様! 好き、好きよ、私、アナタのこと好きだからね? 本当よ? 我が子のように、恋人のように、命の恩人のように、アナタを愛してるんだから!」
「はい、袿姫様」
両手を伸ばして、クルクルと袿姫様は回る。可愛らしい歌を紡ぎながら、全身で嬉しさを表現しようと。その様を見て、がらんどうの胸に宿る温かいモノ。それこそが、愛。袿姫様が私という個体を創り出した原初の感情。故に、この世で最も尊いモノ。
信じてた。
私はその感情を知っているのだと。
この冷たい身体に灯る温かい感覚こそ、私と袿姫様とを繋ぐ絆なのだと。私がそれを感じ取ることができる奇跡をもって、私が袿姫様を敬愛する根拠に足るのだと。
そう、信じてた。
「私も、貴女を愛しておりますよ。我が主、埴安神袿姫様」
そんな風に臆面もなく、のたまうことができるほど――
――回想終了。
◆
忘我。
私は霊長園の薄暗い廊下にへたり込んだまま、絶望的なまでの喪失感に囚われていた。
ここには誰もいない。
八千慧も青娥も、もうどこかへ行ってしまっていた。だからここには私だけ。私という、がらんどうな外殻がひとつ。ガラスの向こうの人間霊たちは、いつもみたく虚ろに揺蕩うばかり。
両手で腹部を押さえていた。あの儚い温かさの残響を探していた。どこかに、私の内側を塗り潰す冷たい空虚のどこかに、残っているんじゃないかと。必死で探せば、あの温もりの欠片を見つけて、繋ぎ合わせることが、できるんじゃないかと。あぁ、でも――
ここには誰もいない。
どれほど願っても、どれほど焦がれても、奈落の底のような虚無しかない。形のない愛を妄信してきた、詰まらない中身しか。
「……袿姫様」
あぁ、あぁ、思い知る。突きつけられる。激烈な実感の前に、すべての妄信がひれ伏してしまう。私を突き動かしてきたもの、私という魂を構築していた基盤、何もかも。ひび割れて、砕けて、崩れて。
「……何もかも、まやかしだった……」
私が信じてきたもの。私が感じていたもの。愛。温かな感情。そもそも私は、温かいという感覚を本当には知らなかった。ただ漠然と、袿姫様から向けられる感情に対して抱く気持ちを、温かいと呼称していただけで。
揺るぎないと思っていた愛情。私から袿姫様への。袿姫様から私への。つまりは私という個体が存在する意味。私を織りなす絶対的な価値観が、たった数分にも満たない体験でバラバラになってしまった。気付けば私は、もう後戻りのできない彼岸に取り残されていた。
涙が私の頬を伝う。袿姫様が特別に、と私に付け加えてくれた機能。悲しい時に涙を流せないのは可哀相だもの、って。その通りだった。自分が涙を流しているということが、私が悲しいと感じている事実を裏付けてくれていて。少しだけ救われたような気分になれた。
悲しい。
……悲しい。
でも、何が悲しいのか、もうよく判らない。
激烈に感じ取れた温かさが消え失せたこと? 埴輪である私には、性交も懐妊も経験できないこと? 守らなくてはいけないと強く、強く思った何かが、あっさりと私の中で喪われたこと? どれもきっと正解で、だからこそ全部違う。そうだけど、そうじゃない。私の涙の理由。それは私という魂の、もっとずっと深いところ。私自身の心の内海。
その最深部に垣間見えるのは、あの日の袿姫様の笑顔。
愛してる、と伝えてくださったあの御方の、一点の曇りもない笑み。
「あぁ、そうか……」
私が泣くのは、私が悲しむのは、袿姫様の愛を、奇跡としてカタチにすることができないと知ってしまったから。
――『本当の愛』。それは私には宿らない。
私には、袿姫様の愛を宿す資格がない。
温かさを、想う。袿姫様が私に与えてくださるモノ。青娥の手を通じて、この身に、私のお腹の中に感じたモノ。冷たいこの身体は、否応なしに温かさに恋い焦がれる。それは灯に群がる夜の蟲のように。陽光へ手を伸ばす早朝の青葉のように。
空っぽ。私、空っぽだ。今まで意識なんてしたこともない私の中の虚無。何もないのに、その何もないが、重い。重くて、苦しくて、私は自分の立ち方さえ思い出せない。
あぁ、もう一度。もう一度。あの温かさを感じたい。あの儚げな灯を、私の中で守ってあげたい。一時のお試し体験なんかじゃなくて、真に、本当に、私は愛を宿すための器になりたい。
あぁ、だから、だから……願わくば、私は妊娠したい。
この世で最も尊い愛の形を、お腹の中で守り続けていたい。
温かさを、温もりを、もう一度、もう一度――
「――磨弓ちゃん?」
背後から聞こえた声が、私に身体の動かし方を思い出させた。
振り返る。そこに、彼女は立っていた。いつかのように胸の前でキュッと両手を握って。今まで見たことのない、心配そうな表情で。
「あぁ、磨弓ちゃん! 泣いているの? 泣いているのね!? どうしよう、あぁ、どうしよう……悲しいの? 磨弓ちゃん、どうしてアナタ、こんなところで泣いているの?」
「……袿姫、様……」
顔を真っ青にしてオロオロする主が、私の元に駆け寄ってきて。そして私の身体をぎゅっと抱きしめてくる。袿姫様の体温、心臓の響く音。セラミックで出来た私の身体に伝わって。
「泣かないで、泣かないで、私の騎士様。世界で一番大切な子。アナタが悲しいと、私も悲しくなってしまうわ。何も怖くないのよ? 何も悲しくないの。だって、私が来たもの。アナタの心の悲しい叫びを聞いて、急いで来たんだもの」
袿姫様が震える声で、まるで自分自身に言い聞かせるみたいに言う。私の背に回した手で、優しく私の頭を撫でながら。
――あぁ、私は駄目な人形だ。悪い子だ。
泣かないで、と袿姫様がおっしゃっているのに、また涙が溢れてくる。袿姫様を心配させてしまったことが申し訳なくて、袿姫様が私のために来てくださったことが、こうしてくださっていることが、嬉しくて。
「磨弓ちゃん、安心して。大丈夫。もう、大丈夫。ここにアナタがいて、ここに私がいる。こんなに近くにいるの。ほら、平気でしょう? もうセカイが相手だってへっちゃらでしょう? 愛しい子、私の大好きな磨弓ちゃん。あぁ、可哀想。可哀想に。アナタはどうして悲しいの? どうして泣いているの? どうすればアナタの痛みを消してしまえるの? 教えて。アナタのためなら、私、何でもするんだから」
「……もうし、わけ……ありま、せん……っ」
「あぁ、謝らないで。謝らなくていいのよ、磨弓ちゃん。だって、アナタは悪くないのだもの。何も悪くなんてないのだもの。アナタはいつだって完璧よ。いつだって素敵で、凛々しくて、可愛らしい、世界一の女の子なのだもの」
私は袿姫様に縋りつくようにして彼女の身体を抱きしめる。この手を放してしまったら、触れ合っているこの身が離れてしまえば、無明の奈落の底へと果てなく落ちていってしまいそうで。失うことが怖くて、また、無くなってしまうのではないかと、そう思ってしまって。
「袿姫様……ッ、袿姫様……! わ、私は、磨弓は、あ、あ……」
「うん、うん、聞いてる。大丈夫よ、大丈夫だからね……ゆっくりでいいのよ……」
「わ、私は……私では……う、ぅ、貴女の、貴女の愛を――ッ!」
「うん、うん、何も心配ないからね……磨弓ちゃん、私だけの可憐な騎士様……」
「――貴女の愛を……お腹に宿すことは……っ!」
「……うん?」
それまで私の頭を優しく撫でつけてくださっていた手が、ピタリと止まった。
それまで壊れてしまいそうな私を抱いてくださっていた腕が、私から離れた。
それまで私に温もりと鼓動を伝えてくださっていた身体が、スルリと抜けた。
袿姫様が不思議そうな表情を浮かべて、私を置いて立ち上がる。腕を組んだかと思うと、小さく首を傾げる。
――あぁ、あの視線だ。
先ほど八千慧が私に向けたような、そこから連想したような、値踏みするみたいな眼。
袿姫様が、完成させた作品を検分するときの。
「…………袿姫様?」
何か、私は間違ったことを言ってしまったのだろうか。
何か、袿姫様の気に入らないことを口走っただろうか。
矢庭に不安になる私を見下ろして、袿姫様はやがてパッと顔を明るくさせて、
「――変なことを、吹き込まれちゃったのね」
彼女は腰に手を当てて、小さく独り言のように呟いて。
「可哀相に。本当に、本当に、可哀相……磨弓ちゃん、私の一番のお気に入り、世界で一番大好きな騎士様、愛しい我が子。あぁ、可哀相に、可哀相に……」
まるで歌うように口ずさむと、
慈愛に満ちた美しい笑みを浮かべたまま、
エプロンに取り付けてある小型のハンマーを手にして、
膝を曲げて、へたり込んだままの私と視線を合わせて、
「磨弓ちゃん」
「……は、い」
「私は、磨弓ちゃんのこと愛してる。心の底から大好き。アナタのためなら、何でも捧げていいやって、本当に思ってる」
「はい……」
「まだ教えてなかったかしら。愛ってね、正解はないの。いろんな形の愛が在るの。在っていいの。触れ合うだけでも、愛かもしれない。語り合うだけでも、愛かもしれない。好きな人の子どもを産むのも、愛かもしれない。どれも正解。けど、どれも間違いかも知れない。そんな不確かなものを、私たちは愛と呼んでいるのよ」
「……はい」
「えぇ、判ってる。磨弓ちゃんだって、私のこと、愛してくれてる。それは私がそう創ったからじゃなくて、磨弓ちゃん自身が育んでくれた、私に対する本物の感情」
「えぇ、もちろんです……はい」
「けれど、磨弓ちゃんは、ひとつの愛の果てを見てしまったのよね? 好きな人の子を、お腹に宿すこと。だからこそ、そんなにも泣いているのよね? 自分は私の、袿姫さまの子を宿せないって」
「はい……っ」
「あぁ、なんてこと……、可哀想。本当に、本当に……」
そう溢して、袿姫様は――
――手にしたハンマーで、私の側頭部を振り抜いて……
ピシリ、ひびの入る音。私の身体が欠ける音。勢い、私は床へ横なぎに倒されて。
「ぅあっ……っ!? う、ぐ……け、袿姫様? 袿姫様!?」
不明。不明。不明。何がどうなってるの? 判らない、判らない判らない。状況把握、既に終わっていてもなお。
「まぁ」
袿姫様はあの日と同じ永遠に無垢なる少女の微笑みを浮かべたまま、
「判らない?」
「わ、私には……その……っ」
「これが、私のアナタに対する愛なの」
袿姫様が握りしめたハンマーが、再び私の頭めがけて振り抜かれる。
衝撃。鈍い打音。私が欠ける音。
避けようとは思わなかった。防御だってしようとはしなかった。私は自分の損傷度合いを冷静に見積りながら、袿姫様の御言葉を待った。ただ待った。主の寵愛から逃げる部下などどこにいよう。
「あぁ、心が痛いわ……すっごく苦しい……可哀想で可哀想で、見ていられない。でもね、磨弓ちゃん、やらなくてはならないの。私、やらなくてはいけないの。アナタを世界一愛し続けるために。だってだって、アナタが自分を不完全だと感じてしまうなら、より完全なアナタに作り替えてあげなきゃいけないもの。たとえゼロからだろうと何度でも作り替えて、いつだって私の最高傑作の騎士様でないと、だめなの。耐えられないの。アナタの痛みは私の痛み。アナタの哀しみは私の哀しみ。愛してる、愛してる愛してる愛してる。だからお願い――」
私の愛、すごく重たいの判ってるけど。
磨弓ちゃん、アナタだけは、しっかりと受け止めてね。
袿姫様がハンマーを振るう。その度に私はひび割れて、私は欠けていく。
けれど、けれども――。
私の胸には、咽び泣きたくなるほどの感激しかなかった。
袿姫様はこんなにも、私を愛してくださっているのだ。あの日の言葉に偽りはなく、彼女は世界一私を愛している。この方が世界一愛すべき最高傑作であり続けることこそ、私の使命、私の喜び!
叩かれて、砕けていく私は、けれど満たされていた。胸のなかに感じる熱量は、もはや温もりなどという次元を越えて、絶頂すら覚えるほどの熱さにまで昂っていた。
袿姫様の狂気的とさえ言えるほどの愛が、私の隙間から流れ込んでくる――
「磨弓ちゃん、痛くない?」
「何も、痛くなどありません」
「磨弓ちゃん、怖くない?」
「もう私は、何も怖くなんてありません」
「私のこと、愛してる?」
「溺れてしまいそうなほど」
「私の子ども、妊娠したい?」
「貴女が望むままに」
「完璧!! なんて素敵なの!! 可愛らしい私の愛し子! 世界中の何よりも大切な最高傑作! あぁ、あぁ、素敵! とっても! 待っててね! もっともっと素敵にしてあげるから! もっともっと完璧にしてあげるから! それまで私を待っててね! 絶対に待っててね! 可愛らしい私だけの騎士様!」
熱に浮かされたようにはしゃぐ袿姫様自身の手で、私は少しずつ壊れていく。腕がもげ、片目が潰れ、両足が破裂する。それは私が新たな自分に生まれ変わるための通過儀礼。擬似的な胎内回帰。私はもう一度、袿姫様の最高傑作として産まれなおす。
あぁ、袿姫様。私の主。我が神。無邪気で、無垢で、どんなときでも私を最大の愛で包み込んでくださる大いなるイドラデウス。
私は貴女の望む私で在り続けよう。
貴女の望む愛のカタチを、賜り続けよう。
それが、そう。それこそが、私たちの愛の果てなのだから。
私は私の意識が途切れるまで、歓喜の中で砕けていった。
薄暗がりを仄青い燐光で照らす球体2つ。一定のリズムで、互いの輪郭を侵食し合っている。トン、トン。音が聞こえてきそうなほど。それは私には縁遠い、脈動というモノに似て。
2つの人間霊は、飽きることなくその行為に耽っていた。普段は銘々が勝手に大した目的もなく浮遊しているだけというのに。ぶつかりあう2つの魂。その光景は異様で、何故だか私は目を離すことができなくて。
戦っている? それにしては動きに覇気がない。あまりに。
単に互いが行く手を塞いでいるから、ぶつかっているだけ? いくら人間霊とはいえ、そこまで間抜けではないだろう。
理解、不可能。考察、困難。何をしているの?
――と、我知らずガラスに手を当てていた私の背後で、フーッと。誰かが大きく、長く息を吐く音が響いて。
「――愚か。ですよねぇ。まったく」
振り向けば、そこには吉弔が立っていた。飾りの多い長煙管から、紫煙を揺蕩わせながら。
吐き出した侮蔑の言葉とは相反して、愉しげに眦を歪ませて。彼女の視線の先にあるのは、私が見ていたモノと同じようだった。
「貴女ですか」
「你好。えぇ、私です。何か問題でも?」
彼女は温和に微笑んでみせて、それから煙管の煙を私にフゥッと吹き掛けてきた。呼吸を必要としない私は、吸ったことのない煙草の煙にむせることもなく、
「……いいえ、問題はない。霊長園は開放され、もはや人間霊も袿姫様の庇護下にないわ。よって、私には貴女を排除する理由も存在しない」
「物分かりの良いお人形さんですね。好孩子。私の部下もアナタのように従順ならいいのに……いいえ、やっぱりそれはちょっと嫌ですね。无聊。つまらないです」
小馬鹿にした風の笑みを口元に携えたまま、吉弔が私の隣に並び立つ。私は彼女を見つめていたが、彼女はほんの少しだって視線を返さない。白磁器めいた彼女の横顔は、未だガラスの向こう側でぶつかり合う人間霊を嘲笑っていて。
「有趣的……いや、いや、やっぱり、馬鹿みたいですね。像个白痴。馬鹿は死ななきゃ治らない、というのは嘘ですね。人間が愚かなのは、死んでも治らないようです。命を落として、ここまで堕ちて、それでも無意味な性行に悦を見いだすなんて」
「性行?」
私は視線をガラスの向こうへとやる。トン、トン。規則的にぶつかり合う人間霊2つ。
理解不能だった行為の定義を獲得。人間霊のあれは、性行なる行為。知識の更新を確認。しかし、まだ私には判らない。性行なる行為が何を意味するのか。
「吉弔」
「八千慧、で構いませんよ。素敵なお人形さん」
「そう。では、八千慧」
「はぁい」
「性行とは何? 私はその言葉が何を意味するのか判らない」
「…………」
吉弔八千慧が私を見る。キョトン、とした風に。それこそ、理解できないと言わんばかりの顔。
「……あぁ、いえ、そうですか。えぇ、そうですよね。理解しました。我明白了」
「? 私の質問に不備が?」
「いえ、いいえ、少し驚かされましたが。いやはや。仕方ない、仕方ないね、というやつでしょうか。帮不上忙。アナタがそう言うなら、そうなのでしょうね」
八千慧は独り言のように呟いて、それからジッと私を見つめてくる。値踏みするみたいな視線。見覚えがあった。あぁ、そうだ。袿姫様が完成させた作品を検分するときの。
「想到一件好事……」
呟く八千慧が、クスッと。無垢な少女みたいに笑って。
「何だって?」
「いえ、いいえ、なんでもありません。えぇ、はい。性行の意味でしたね。お教えしますよ」
「本当? それはありがたい」
「というより、実際に体験してみましょう。眼见为实。百聞は一見に如かず。幸い、そういうことが得意な同郷の志がおりますので」
「え?」
八千慧が長煙管を振るって灰を落とし、懐から仄青い水晶玉のようなものを取り出す。なんだか話が大掛かりになってきた雰囲気。ちょっとした疑問を解決したいだけだったのに。
「ねぇ、私はアレらが何をしているのか聞きたいだけなんだけど」
私がガラスの向こうを指さすと、八千慧は人差し指を唇に当てて、
「しーっ、ですよ。请稍等。ちょっと待っててくださいね……你好? 我是。我发现了一个有趣的戏。您可能喜欢的播放――」
八千慧の両手の上にチョコン、と乗った青い球がゆったりと光る。八千慧の母国語。私には、何と言っているのか判らない。けれど、青い球とお話する八千慧の横顔は、どこか無邪気に感じられて。
体験。性交を体験する。八千慧はそう言った。
私はガラスの向こうへ目をやる。彼女曰く無意味で愚かな行為に耽っていた人間霊を。
ぶつかり合いは終わっていた。2つの人間霊は、今は寄り添って漂うばかりで動かない。
疑問。性交が無意味で愚かな人間の催しならば、それを私が体験することに何の意味が? 八千慧は何かを企んでいる?
不明。しかし、要警戒。鬼傑組は搦め手を好み、彼女はそんな連中のトップ。万が一のときには。いや、いま行動を起こした方が――?
「すぐ来るそうです……あれ? どうかしましたか? そんなに剣呑な顔をして」
水晶玉を仕舞った八千慧が、ニッコリと人好きのする笑顔を浮かべる。笑顔。コイツの笑みは信用ならない。袿姫様の浮かべるそれと似ていても、きっと内心は全然異なるから。
「何か企んでいるな?」
カマかけ。彼女が、こんなものでボロを出すとは思えない。けれど、展開の主導権を握られている状況は、打破できるかもしれない。八千慧はキョトンとした顔で小首を傾げて、
「はて? えぇと……私は何を企めば良いのでしょうか? 霊長園が解放されたいま、アナタや埴安神さんと敵対する必要もないのですが」
「質問を質問で返さないで。なぜ、私の疑問を言葉で説明しないの? 私はそれ以上のことを求めていない」
「えぇ、えぇ、そうでしょうね。言葉で説明できるのなら、私もそうしたでしょう。けれど、それは不可能だと判断しました。毫无意义。えぇ、そう。無意味だと」
「なぜ?」
「――話は聞きましたわ」
声。不意に。天井から。
聞いたことのない声。顔をあげる。霊長園の天井に闇色の穴が開いていて、そこから誰かが上半身を出していた。
青い女性。
見覚えはない。青い髪、青い服。今まで見た誰とも似ていない。妙な髪型の彼女は、私を目を合わせてニッコリと穏和な笑みを向けたかと思うと、重力なんて知らないとばかりにフワリ、真っ黒い穴から降りたって。
「ごきげんよう、素敵なお人形さん。私、青娥です。霍青娥と申しますわ」
青娥と名乗った女性はスカートの端を持ち上げて、まるで西欧の貴族令嬢か、もしくは舞台の上で舞うプリマのような大仰極まる挨拶をしてくる。そんな挨拶が鼻につかないのは、仕草が流麗だったせい?
優雅な淑女。完璧な所作に、整った顔立ち。
だからこそ、不穏。何かが歪んでいると感じた。それが具体的に何なのかは判らない。ケチのつけようがない。ケチのつけようがないことそのものが、怪しさを想起させて。
「……杖刀偶、磨弓」
「まぁまぁ、そうですか。返礼、感謝しますわ。磨弓さん、ですね。八千慧? この子が、アナタの言っていた?」
「えぇ、そうです。空的女孩。某人制作的可爱娃娃。你喜欢那些东西,对吗?」
「是的、是的……我真的很喜欢。可爱的。而且,它非常适合容器……」
青娥がうっとりと頬を赤く染めながら、恍惚のため息。そして八千慧の方を向いたまま、横目でジッと私のことを見てくる。品定めの目。私の全身を、くまなく。優美な蛇みたいに。
私がたじろいでいると、八千慧がニッコリと微笑みながら、
「さて、お人形さん。人間ってどんな風に作られると思いますか?」
「どんな風、に……?」
困惑。突然の問いかけに。
そんなこと、考えたこともなかった。ふと浮かぶのは、先日の出来事のこと。
――博麗の巫女。黒白の魔法使い。半人半霊の庭師。
私が創られて以来、初めて見た、人間霊ではない生身の人間たち。
彼女たちも、作られたもの? 私が袿姫様に作られたように、彼女たちを作った誰かがいるというの? 判らない。想像も及ばない。霊になってない、死んでない人間。生きている人間。その作り方。
土をこねられて、私は創造された。ならば人間は? 人間には肉がある。肉によって人間はできている。ならば肉をこねれば、人間を創ることができる?
「……知らない、けど……こう、人間の素材みたいなものがあって、それを元にして……」
「――プッ」
無知を嗤われないように、とできる限り抽象的にした推論は、八千慧のお眼鏡に適うものではなかったらしい。噴き出した八千慧が、肩を震わせつつ顔を背ける。
けれど、青娥は嗤わなかった。
パチパチ。手を叩いて。キラキラ。目を輝かせて。
「えぇ、えぇ、そうです。そうなんですよ。正解。正しいです。あぁ、素晴らしい。なんて素晴らしい……」
再びの困惑。2人の相反するリアクション。1人は嗤い、1人は褒め、私は私が口にした言葉の真贋が判らなくなる。当てずっぽうの推論。その真偽が、吐いた私にすら。
青娥が胸の前でキュッと両手を組む。未だ肩を震わせる八千慧を他所に、彼女は私の方に一歩、近付いて。
「素敵なお人形さん。素晴らしい杖刀偶磨弓さん。アナタは、愛を知っていて?」
「――愛」
青娥の言葉をオウム返しして、私の脳裏をよぎったのは袿姫様の笑顔だった。がらんどうの私に脳はないけれど、愛というものが何なのかくらいは判る。
愛。袿姫様が、私に注いでくれたもの。
空っぽな私の中に満ちる、温かなもの。
胸に手を当てて、その温かさを想う。袿姫様のことを思うたび、私の中に芽吹く感情。血肉通わぬ私が唯一確かに感じられる、温かなもの。尊きもの。その感情を愛と呼ぶのなら、袿姫様を慕う私は愛を知る。だから頷くことに躊躇いはなかった。
「愛です。愛ですよ、磨弓さん」
ゆっくりと両手を広げた青娥が、天を仰ぐようにうっとりと呟いて。
「アナタの言う、人間の素材。それこそが愛なのです。人と人とは愛によって繋がり、愛によって子を成す。あぁ、愛。世界でもっとも貴きもの。なんて素晴らしい。アナタは本当に素晴らしい。土から創られたというアナタが、愛を知っているだなんて……」
「哦,真有趣。这是一部喜剧。这是一个悲剧。哪只嘴代表爱? 我可以笑一个知道爱的娃娃」
「八千慧。茶化さないで。いま私、本当に感激しているのだから」
八千慧に水を差された青娥が、険しい表情で口にする。それを受けて、八千慧が咳払いをひとつ。口元を手で隠しながらも、青娥の方を向いて、
「えぇ、えぇ、すみませんでした。对不起。けれど、気に入ったでしょう?」
「えぇ、それはもう。とっても。今すぐ私のモノにしたいくらい」
「それは駄目です。アレには……失礼、彼女には所有者がいます。埴安神袿姫という、彼女にとっての母とも呼べる、神の一柱。ですから青娥、彼女はアナタのモノにはなりません。别碰。お触り禁止です」
「あら、そうなの……」
不快。私を差し置いて、2人が私について話していることに対して。
けれど口を挟む気にはなれなかった。そんなことができるような雰囲気ではなくなった。名残惜しそうに私から視線を外した青娥が、八千慧を睨んだその瞬間から。
「――それで?」
彼女はドス黒い殺気を隠そうともせず、冷たい剣の切っ先を八千慧の喉元に突きつけるような声で言う。
「どういうつもりでしょう? アナタが手に入らないと言うのなら、本当に手に入らないのよね? 見せびらかせたかった、ということかしら? こんなに素敵な子を、私の前にぶら下げてから、ポケットに仕舞うような真似をして」
「いえいえ、そんなつもりは、まったく」
私が第三者であるという事実を幸運に思うほど濃厚な殺意を向けられながらも、八千慧はニッコリと微笑んだまま、まるで天気の話でもするかのように落ち着いた声で、
「彼女、性交が何なのか判らないので、教えて欲しいとのことです。だから、私はアナタを呼びました。そういうことなら、アナタが適任だと思いまして。她甚至不知道男人是什么。因为是洋娃娃,所以不能生育孩子。可怜的女孩。如果那个洋娃娃知道生孩子的感觉怎么办? 她的母亲埴安神袿姫感觉如何? 我在乎」
「あぁ、そういうこと……。そういうことですか」
八千慧の言葉を受けて、青娥が殺気を収める。そうして彼女はねっとりとした笑みを浮かべて、
「你是一个执着的女人」
「とんでもないです。私は純粋に、彼女の疑問を解消してあげたいだけです。因为我可以笑」
「性格不好的女人。但坏事是你的好事?」
「我不要你告诉我……ふふ、そういうわけで、お人形さん?」
「なによ。というか、母国語で話すのは、やめて。何の話をしてるのかサッパリだわ」
クルリ、と私の方へ向き直った八千慧を睨む。懐疑。私に聞かれては都合の悪い話を、母国語で話しているのでは? その可能性は充分にある。それが正しいと仮定すると、私はこの2人を排除する必要が出てくる――。
「あぁ、ごめんなさいね? 不安にさせてしまいましたか。えぇ、えぇ、申し訳ございません。同郷の方といると、つい母語で話せることが嬉しくて……」
「あら……もしかして怖がらせちゃった? あぁ、どうしましょう……そうよね、判らない言葉で話されたら、不安よね……あぁ、なんてこと……私、そんなことも気付かないなんて……」
八千慧が深々と頭を下げ、その横で青娥はオロオロしている。困惑。私の懐疑は杞憂だった? どうにも判断しかねる。いつも通り飄々とした風の八千慧はともかくとして、初対面の青娥は本当に狼狽しているようにしか見えなくて。
青娥がどのような女性なのか、私は知らない。つぶさに挙動を観察してみても、怪しい様子は見られない。チラチラと私の機嫌を窺うような目を向けてくるばかり。
再起。私はまだ、性交なる行為の意味を教えられてない。ガラスの向こうで繰り広げられた、2つの人間霊の理解不能な行動。それがどんなものなのか、判っていない。モヤモヤとした好奇心は、まだ私のがらんどうな身体の中に残っていた。
結論。ひとまず話を聞くだけ聞いてみよう。八千慧に呼び出された青娥が、私に何をもたらすのか。それが性交に関する知識であれば良し。明瞭な悪意があると判断できたら、排除すれば良し。袿姫様から賜ったこの身体を守ることだけ、注意しておけばいい。
「……今後は母国語で話さないで欲しい。話を聞く前に、それだけ誓って欲しい」
「えぇ、えぇ、誓います」
「もちろんですわ。本当にごめんなさいね? もう磨弓さんを怖がらせるようなことはしませんから」
「ありがとう。その言葉、信じてるから。では、改めて問いたい。性交とは、なに?」
安堵。置いてけぼりにされていた状況から、会話のイニシアチブを取れたことに。八千慧に会話の主導権を握られている状況だと、何をされるか判ったものじゃない。まずまずの収穫と言っていいだろう。
「……だそうですよ、青娥」
「えぇ、はい、お答えしましょう」
青娥が柔和な笑みを携えて、私に近付いてくる。どこから取り出したのやら、眼鏡を掛けて、指揮棒のように金ピカのかんざしをフリフリ、
「愛です。まず初めに愛ありき。すべてはそこから始まります。まぁ、愛がなくとも性交が行われる場合もままありますが……今回、そのパターンは無視しましょうね。重要なのは目的ですわ。性交とは手段であり、目的を達成するための過程にすぎません」
「ふむ、なるほど……して、その目的とは?」
「そこで、先ほどの八千慧の質問が効いてくるわけです。人間とはどのように作られるのか。その答えこそ、性交の目的。人間はね、磨弓さん。性交という手段を用いて愛を交わし、女人の腹に愛を宿すことで作られるのです。女性のお腹に宿る愛こそ、人間の素材。まさしく愛の結晶。それが子ども、赤ちゃんです。愛を育み、子どもを産む。そのための行為を、性交と呼ぶのです」
「……なるほど」
理解。青娥の説明は、納得のいくものだった。
性交とはすなわち、新しく人間を創るための手段。それならば、先ほど八千慧がガラスの向こうの人間霊を嘲笑った理由も判る。死した人間が性交を行ったところで、新しい命を作れないのは道理だ。
しかし、そうか。人間も、また愛によって作られるのか、と驚嘆。私がこうしていられるのは、ひとえに袿姫様の寵愛の賜物だ。袿姫様が偶像としての私を愛してくださったからこそ、私という個体が作成された。人間風には、産まれたと言うのだろう。何だかんだ、疑問を解決できてスッキリした私は、青娥の方を向き、
「感謝する、青娥どの。おかげで私は、性交の何たるかを――」
「性交、懐妊、出産を経ての誕生。それは人間であれば誰もが共通して辿る最初の一歩です。しかし興味深いと申しますか、その一連の営みが美しいのは、実に様々な愛が介在して初めて成り立つという点にあると私は思うのです」
私の礼の言葉など聞こえてないかのように、青娥が言葉を続ける。それは滔々と語る自分の言葉に酔っているかのようで。事実、私に向けられた彼女の瞳はうっとりとして。
すでに疑問は解消している。私としては満足なのだが、青娥はそうでないらしい。今のところ危害を加えてくるような兆しもなし。ならばもう少し聞いておこうか、と口を閉ざす。
「妻への愛。夫への愛。自身の中で芽吹く命への愛。そして、生れ出てくれた子への愛……あぁ、本当に素晴らしいことだと思いませんか? 愛しき者へ、自らの命さえ顧みず注がれる激情。愛は素晴らしい。愛を知る者は、誰しもが輝いています」
言いながら、コツコツと靴音を立てて。青娥が私に歩み寄ってくる。それは剣の届く距離、手の届く距離を容易く越えて。たじろぐ私が後ずさりしても、彼女は距離を詰めてきて。
そして、私の腹部にそっと手を乗せてくる。玉を磨くように、すりすりと撫でまわして。
「な、にを……?」
「愛はここに宿ります」
白く繊細な指先でトントン、と彼女が私の腹をつつく。硬質な音。土から生成された私の腹と、青娥の爪がぶつかる音。理解不能。手を振り払うべき? 判断に迷う私の思考を突き刺すように、
「でも、残念です。アナタのお腹に、命は芽吹かない。子を為すことはできない。
――だからアナタは、愛を知ることができない。愛を理解できない。違いますか?」
「い、言ってる意味が――」
「けれど大丈夫。私が体験させてあげましょう。愛の神秘。愛の極致。その奇跡の何たるかを。ほら、このように……」
「――ッ!?」
がらんどうな筈の私の体内(ナカ)で、何かが蠢いた。
「あ、あっ……!?」
腹部の内側で、仄淡い火が灯ったような感覚を覚えた。
「な、に……? これ……っ! え、え、えっ……?」
いる。何かがいる。私の中に何かが侵入りこんでいる。
「なんで……? え? あ、あぁ……!? う、動いて……っ!?」
膝を折る。知らない。こんな感覚、私は知らない。何もない空虚な私の中。そこに。
……そこに。温かな何かが。確かな実感を持つ何かが。
宿って。動いて。腹部を両手で押さえる。私を形作る冷たい陶の向こうに、在る。
今にも消えてしまいそうなほど、弱々しい炎。私の中から出てしまえば、その途端にかき消されてしまいそう。そんな連想。これ、この何か。温かなモノ。蠢くモノ。いま確かに感じられるこれ。これは、私の中に居なくてはいけない。私という外殻で守ってやらなければならない。確証。そう、しなければ。
失われてしまう。無くなってしまう。消えてしまう。この温かな知らない感覚が、永遠に閉ざされてしまう。だめ。だめ。それは。絶対に。どうして? 決まってる。だって。だって、これが――
「そう、愛です。アナタが知らなかった、愛の極限。命を宿すという、奇跡の成就」
青娥の声が耳に届く。まるで道標のように。そう。この温かさ。私は知っている――
――いいえ、違う。
知っていると思い込んでいたもの。私が袿姫様に注がれたモノ。愛。愛なるもの。これがそうだ。この温かさ。私が感じていた袿姫様の愛情。その、真なる形。思い込みではない、確かに存在する温かな感覚。
知らず、私の瞳から涙が溢れていた。後から、後から、留まることなく。視界、涙色にボヤけて。不明。どうして? どうして私は泣いているの? 不明。不明。あぁ、けれど、けれど。私は冷たく固い腹部を、その向こう側の儚い温かさを、両手で必死に繋ぎとめようとして。繋ぎとめてないと、愛という概念そのものを永遠に失ってしまう気がして――
「百聞は一見に如かず、でしたね? お人形さん」
八千慧の声が、遠くの方から聞こえてきた。先ほどと何も変わらない。機嫌の良し悪しすら定かではない、取り繕ったままの声。
「その感覚。命を宿すという感覚。説明しても、アナタには理解できないと判っていました。えぇ、えぇ、だってアナタは人形ですから。埴安神さんに創られた偶像ですから。
不要ですよね。偶像に、『本当の愛』の何たるか、なんて。
えぇ、えぇ、だって新しい命なんか、彼女がいくらでも創れますもの。アナタがそれを担う必要なんて、これっぽっちもありません。だから、アナタは知らされなかったんですよ。その感覚、思い込みではない本当の温かさ、この世で最も尊い愛の形を――
――さ、それでは青娥。そろそろ养小鬼(ヤンシャオグイ)を解除してあげましょう? 彼女、とっても辛そうですから」
「待って!!!」
叫ぶ。へたり込んだまま、泣きながら、狂おしき感情の命じるままに。言葉の子細、判らなくても。八千慧と青娥の思惑、判らなくても。
「やめて、やめて!! 無くなっちゃう、消えちゃう……っ! わた、私が、私が、守ってないと……ッ! 温かいのに、私の中で――ほら、今も!! 動いて……!!」
嫌だ、いや、イヤ、せっかく知ったのに、せっかく、がらんどうの私の中に愛、本物の愛が、いま確かにここに在るのに、失われるなんて、消えてしまうなんて、この感覚、もう二度と私の中には、宿らない、なんて――!
「あら、そう? でも可哀相じゃない? 磨弓さんのお腹の子、新しいお母さんができたって、すごく喜んでるのに……」
「ダメです。だーめ。言いましたよね? 彼女には、もう立派な所有者がいますもの。よそ様の持ち物を、汚したまま返すわけにはいきません。筋が通りませんから」
「そ、じゃ、しょうがないわね……あぁ、可哀相。本当に可哀相。せっかくの容れ物も、お触り禁止なら仕方ないわね――」
「待っ――!!」
「あぁ、本当に、仕方ない」
パチン。青娥が指を鳴らす。
途端、フッと。戯れに蝋燭の灯を吹き消すように。あぁ、あっさりと。
……私の中の温かさ、何事もなかったみたいに、消えてしまって――
◆
――回想。
「これでよし、と。さ、目を開いて。私の愛しい磨弓ちゃん」
私は目蓋を開く。光。まず初めに光ありき。目蓋が遮断していた景色が、眼球を通して私という魂に書き込まれ始める。
工房。そこは、袿姫様の工房。生命もつ被造物が次々と創り上げられる神の座。ざわざわ、袿姫様が創り出したモノに宿る魂たちの囁く声。そのただなかに私は在って。
私。私という自我。私が私であるという認識。それがどこを境として目覚めたのかは定かではない。けれど、けれども、私が私であることを自覚したその瞬間から、私はもう既に杖刀偶磨弓で、それ以外の何者でもないという確信があった。
私は杖刀偶磨弓。造形神である埴安神袿姫様に創られた近衛。彼女を守り、彼女を信仰する人間霊たちを守ることが、私の務め。
産まれたという自覚はなかった。私は、私という作品は、袿姫様が作業の手を止めた瞬間に完成していて。袿姫様が完璧な造形主であらせられるからこそ、私も完璧な杖刀偶磨弓として在ることができて。
「あぁ、可愛い……うん、とっても! ね、磨弓ちゃん。私だけの可憐な騎士様。何か言ってみて?」
「……はい、袿姫様。何なりとお申し付けください」
「あぁん、かわいいーッ!! 素敵よ! 磨弓ちゃん、とーっても!」
袿姫様がキュッと両手を胸の前で握りしめる。白雪のような頬を優しい赤で彩って。星のように瞳、輝かせて。袿姫様、まるで永遠に無垢なる少女。土からできた冷たい私の身体に、いっぱいの愛情を注いでくださる方。
この方をお守りせねばならない。そう思う。強く、そう強く。それは私がそう創られたからではなくて、それは私がそのために出来た人形だからではなくて。
それは、そう。感じることができたから。
冷たいこの身体だからこそ、温かなモノを強く。袿姫様の視線、袿姫様の声、クルクルとカレイドスコープのように七変化する袿姫様の表情、所作、そのすべて、私に向けられた一挙手一投足のすべてから、感じ取ることができる。感情、袿姫様の御心、その温かさのなんと尊いことかと。
歓喜に打ち震える。杖刀偶磨弓として与えられた身体に宿る魂が。あぁ、温かい。なんて温かい。冷たいこの身体では、生み出すことなどできようもないモノ。それを与えてくださるのだ。この方は、際限なく、この私に。何の迷いもなく、まっすぐに。
「磨弓ちゃん、あぁ、磨弓ちゃん、磨弓ちゃん。可愛らしい子。愛しい私だけの騎士様! 好き、好きよ、私、アナタのこと好きだからね? 本当よ? 我が子のように、恋人のように、命の恩人のように、アナタを愛してるんだから!」
「はい、袿姫様」
両手を伸ばして、クルクルと袿姫様は回る。可愛らしい歌を紡ぎながら、全身で嬉しさを表現しようと。その様を見て、がらんどうの胸に宿る温かいモノ。それこそが、愛。袿姫様が私という個体を創り出した原初の感情。故に、この世で最も尊いモノ。
信じてた。
私はその感情を知っているのだと。
この冷たい身体に灯る温かい感覚こそ、私と袿姫様とを繋ぐ絆なのだと。私がそれを感じ取ることができる奇跡をもって、私が袿姫様を敬愛する根拠に足るのだと。
そう、信じてた。
「私も、貴女を愛しておりますよ。我が主、埴安神袿姫様」
そんな風に臆面もなく、のたまうことができるほど――
――回想終了。
◆
忘我。
私は霊長園の薄暗い廊下にへたり込んだまま、絶望的なまでの喪失感に囚われていた。
ここには誰もいない。
八千慧も青娥も、もうどこかへ行ってしまっていた。だからここには私だけ。私という、がらんどうな外殻がひとつ。ガラスの向こうの人間霊たちは、いつもみたく虚ろに揺蕩うばかり。
両手で腹部を押さえていた。あの儚い温かさの残響を探していた。どこかに、私の内側を塗り潰す冷たい空虚のどこかに、残っているんじゃないかと。必死で探せば、あの温もりの欠片を見つけて、繋ぎ合わせることが、できるんじゃないかと。あぁ、でも――
ここには誰もいない。
どれほど願っても、どれほど焦がれても、奈落の底のような虚無しかない。形のない愛を妄信してきた、詰まらない中身しか。
「……袿姫様」
あぁ、あぁ、思い知る。突きつけられる。激烈な実感の前に、すべての妄信がひれ伏してしまう。私を突き動かしてきたもの、私という魂を構築していた基盤、何もかも。ひび割れて、砕けて、崩れて。
「……何もかも、まやかしだった……」
私が信じてきたもの。私が感じていたもの。愛。温かな感情。そもそも私は、温かいという感覚を本当には知らなかった。ただ漠然と、袿姫様から向けられる感情に対して抱く気持ちを、温かいと呼称していただけで。
揺るぎないと思っていた愛情。私から袿姫様への。袿姫様から私への。つまりは私という個体が存在する意味。私を織りなす絶対的な価値観が、たった数分にも満たない体験でバラバラになってしまった。気付けば私は、もう後戻りのできない彼岸に取り残されていた。
涙が私の頬を伝う。袿姫様が特別に、と私に付け加えてくれた機能。悲しい時に涙を流せないのは可哀相だもの、って。その通りだった。自分が涙を流しているということが、私が悲しいと感じている事実を裏付けてくれていて。少しだけ救われたような気分になれた。
悲しい。
……悲しい。
でも、何が悲しいのか、もうよく判らない。
激烈に感じ取れた温かさが消え失せたこと? 埴輪である私には、性交も懐妊も経験できないこと? 守らなくてはいけないと強く、強く思った何かが、あっさりと私の中で喪われたこと? どれもきっと正解で、だからこそ全部違う。そうだけど、そうじゃない。私の涙の理由。それは私という魂の、もっとずっと深いところ。私自身の心の内海。
その最深部に垣間見えるのは、あの日の袿姫様の笑顔。
愛してる、と伝えてくださったあの御方の、一点の曇りもない笑み。
「あぁ、そうか……」
私が泣くのは、私が悲しむのは、袿姫様の愛を、奇跡としてカタチにすることができないと知ってしまったから。
――『本当の愛』。それは私には宿らない。
私には、袿姫様の愛を宿す資格がない。
温かさを、想う。袿姫様が私に与えてくださるモノ。青娥の手を通じて、この身に、私のお腹の中に感じたモノ。冷たいこの身体は、否応なしに温かさに恋い焦がれる。それは灯に群がる夜の蟲のように。陽光へ手を伸ばす早朝の青葉のように。
空っぽ。私、空っぽだ。今まで意識なんてしたこともない私の中の虚無。何もないのに、その何もないが、重い。重くて、苦しくて、私は自分の立ち方さえ思い出せない。
あぁ、もう一度。もう一度。あの温かさを感じたい。あの儚げな灯を、私の中で守ってあげたい。一時のお試し体験なんかじゃなくて、真に、本当に、私は愛を宿すための器になりたい。
あぁ、だから、だから……願わくば、私は妊娠したい。
この世で最も尊い愛の形を、お腹の中で守り続けていたい。
温かさを、温もりを、もう一度、もう一度――
「――磨弓ちゃん?」
背後から聞こえた声が、私に身体の動かし方を思い出させた。
振り返る。そこに、彼女は立っていた。いつかのように胸の前でキュッと両手を握って。今まで見たことのない、心配そうな表情で。
「あぁ、磨弓ちゃん! 泣いているの? 泣いているのね!? どうしよう、あぁ、どうしよう……悲しいの? 磨弓ちゃん、どうしてアナタ、こんなところで泣いているの?」
「……袿姫、様……」
顔を真っ青にしてオロオロする主が、私の元に駆け寄ってきて。そして私の身体をぎゅっと抱きしめてくる。袿姫様の体温、心臓の響く音。セラミックで出来た私の身体に伝わって。
「泣かないで、泣かないで、私の騎士様。世界で一番大切な子。アナタが悲しいと、私も悲しくなってしまうわ。何も怖くないのよ? 何も悲しくないの。だって、私が来たもの。アナタの心の悲しい叫びを聞いて、急いで来たんだもの」
袿姫様が震える声で、まるで自分自身に言い聞かせるみたいに言う。私の背に回した手で、優しく私の頭を撫でながら。
――あぁ、私は駄目な人形だ。悪い子だ。
泣かないで、と袿姫様がおっしゃっているのに、また涙が溢れてくる。袿姫様を心配させてしまったことが申し訳なくて、袿姫様が私のために来てくださったことが、こうしてくださっていることが、嬉しくて。
「磨弓ちゃん、安心して。大丈夫。もう、大丈夫。ここにアナタがいて、ここに私がいる。こんなに近くにいるの。ほら、平気でしょう? もうセカイが相手だってへっちゃらでしょう? 愛しい子、私の大好きな磨弓ちゃん。あぁ、可哀想。可哀想に。アナタはどうして悲しいの? どうして泣いているの? どうすればアナタの痛みを消してしまえるの? 教えて。アナタのためなら、私、何でもするんだから」
「……もうし、わけ……ありま、せん……っ」
「あぁ、謝らないで。謝らなくていいのよ、磨弓ちゃん。だって、アナタは悪くないのだもの。何も悪くなんてないのだもの。アナタはいつだって完璧よ。いつだって素敵で、凛々しくて、可愛らしい、世界一の女の子なのだもの」
私は袿姫様に縋りつくようにして彼女の身体を抱きしめる。この手を放してしまったら、触れ合っているこの身が離れてしまえば、無明の奈落の底へと果てなく落ちていってしまいそうで。失うことが怖くて、また、無くなってしまうのではないかと、そう思ってしまって。
「袿姫様……ッ、袿姫様……! わ、私は、磨弓は、あ、あ……」
「うん、うん、聞いてる。大丈夫よ、大丈夫だからね……ゆっくりでいいのよ……」
「わ、私は……私では……う、ぅ、貴女の、貴女の愛を――ッ!」
「うん、うん、何も心配ないからね……磨弓ちゃん、私だけの可憐な騎士様……」
「――貴女の愛を……お腹に宿すことは……っ!」
「……うん?」
それまで私の頭を優しく撫でつけてくださっていた手が、ピタリと止まった。
それまで壊れてしまいそうな私を抱いてくださっていた腕が、私から離れた。
それまで私に温もりと鼓動を伝えてくださっていた身体が、スルリと抜けた。
袿姫様が不思議そうな表情を浮かべて、私を置いて立ち上がる。腕を組んだかと思うと、小さく首を傾げる。
――あぁ、あの視線だ。
先ほど八千慧が私に向けたような、そこから連想したような、値踏みするみたいな眼。
袿姫様が、完成させた作品を検分するときの。
「…………袿姫様?」
何か、私は間違ったことを言ってしまったのだろうか。
何か、袿姫様の気に入らないことを口走っただろうか。
矢庭に不安になる私を見下ろして、袿姫様はやがてパッと顔を明るくさせて、
「――変なことを、吹き込まれちゃったのね」
彼女は腰に手を当てて、小さく独り言のように呟いて。
「可哀相に。本当に、本当に、可哀相……磨弓ちゃん、私の一番のお気に入り、世界で一番大好きな騎士様、愛しい我が子。あぁ、可哀相に、可哀相に……」
まるで歌うように口ずさむと、
慈愛に満ちた美しい笑みを浮かべたまま、
エプロンに取り付けてある小型のハンマーを手にして、
膝を曲げて、へたり込んだままの私と視線を合わせて、
「磨弓ちゃん」
「……は、い」
「私は、磨弓ちゃんのこと愛してる。心の底から大好き。アナタのためなら、何でも捧げていいやって、本当に思ってる」
「はい……」
「まだ教えてなかったかしら。愛ってね、正解はないの。いろんな形の愛が在るの。在っていいの。触れ合うだけでも、愛かもしれない。語り合うだけでも、愛かもしれない。好きな人の子どもを産むのも、愛かもしれない。どれも正解。けど、どれも間違いかも知れない。そんな不確かなものを、私たちは愛と呼んでいるのよ」
「……はい」
「えぇ、判ってる。磨弓ちゃんだって、私のこと、愛してくれてる。それは私がそう創ったからじゃなくて、磨弓ちゃん自身が育んでくれた、私に対する本物の感情」
「えぇ、もちろんです……はい」
「けれど、磨弓ちゃんは、ひとつの愛の果てを見てしまったのよね? 好きな人の子を、お腹に宿すこと。だからこそ、そんなにも泣いているのよね? 自分は私の、袿姫さまの子を宿せないって」
「はい……っ」
「あぁ、なんてこと……、可哀想。本当に、本当に……」
そう溢して、袿姫様は――
――手にしたハンマーで、私の側頭部を振り抜いて……
ピシリ、ひびの入る音。私の身体が欠ける音。勢い、私は床へ横なぎに倒されて。
「ぅあっ……っ!? う、ぐ……け、袿姫様? 袿姫様!?」
不明。不明。不明。何がどうなってるの? 判らない、判らない判らない。状況把握、既に終わっていてもなお。
「まぁ」
袿姫様はあの日と同じ永遠に無垢なる少女の微笑みを浮かべたまま、
「判らない?」
「わ、私には……その……っ」
「これが、私のアナタに対する愛なの」
袿姫様が握りしめたハンマーが、再び私の頭めがけて振り抜かれる。
衝撃。鈍い打音。私が欠ける音。
避けようとは思わなかった。防御だってしようとはしなかった。私は自分の損傷度合いを冷静に見積りながら、袿姫様の御言葉を待った。ただ待った。主の寵愛から逃げる部下などどこにいよう。
「あぁ、心が痛いわ……すっごく苦しい……可哀想で可哀想で、見ていられない。でもね、磨弓ちゃん、やらなくてはならないの。私、やらなくてはいけないの。アナタを世界一愛し続けるために。だってだって、アナタが自分を不完全だと感じてしまうなら、より完全なアナタに作り替えてあげなきゃいけないもの。たとえゼロからだろうと何度でも作り替えて、いつだって私の最高傑作の騎士様でないと、だめなの。耐えられないの。アナタの痛みは私の痛み。アナタの哀しみは私の哀しみ。愛してる、愛してる愛してる愛してる。だからお願い――」
私の愛、すごく重たいの判ってるけど。
磨弓ちゃん、アナタだけは、しっかりと受け止めてね。
袿姫様がハンマーを振るう。その度に私はひび割れて、私は欠けていく。
けれど、けれども――。
私の胸には、咽び泣きたくなるほどの感激しかなかった。
袿姫様はこんなにも、私を愛してくださっているのだ。あの日の言葉に偽りはなく、彼女は世界一私を愛している。この方が世界一愛すべき最高傑作であり続けることこそ、私の使命、私の喜び!
叩かれて、砕けていく私は、けれど満たされていた。胸のなかに感じる熱量は、もはや温もりなどという次元を越えて、絶頂すら覚えるほどの熱さにまで昂っていた。
袿姫様の狂気的とさえ言えるほどの愛が、私の隙間から流れ込んでくる――
「磨弓ちゃん、痛くない?」
「何も、痛くなどありません」
「磨弓ちゃん、怖くない?」
「もう私は、何も怖くなんてありません」
「私のこと、愛してる?」
「溺れてしまいそうなほど」
「私の子ども、妊娠したい?」
「貴女が望むままに」
「完璧!! なんて素敵なの!! 可愛らしい私の愛し子! 世界中の何よりも大切な最高傑作! あぁ、あぁ、素敵! とっても! 待っててね! もっともっと素敵にしてあげるから! もっともっと完璧にしてあげるから! それまで私を待っててね! 絶対に待っててね! 可愛らしい私だけの騎士様!」
熱に浮かされたようにはしゃぐ袿姫様自身の手で、私は少しずつ壊れていく。腕がもげ、片目が潰れ、両足が破裂する。それは私が新たな自分に生まれ変わるための通過儀礼。擬似的な胎内回帰。私はもう一度、袿姫様の最高傑作として産まれなおす。
あぁ、袿姫様。私の主。我が神。無邪気で、無垢で、どんなときでも私を最大の愛で包み込んでくださる大いなるイドラデウス。
私は貴女の望む私で在り続けよう。
貴女の望む愛のカタチを、賜り続けよう。
それが、そう。それこそが、私たちの愛の果てなのだから。
私は私の意識が途切れるまで、歓喜の中で砕けていった。
母国語吉弔姉貴イイ…実にイイ…
あとまゆけーきが幸せそうで何よりです
はたから見りゃ狂気でしかない光景も、二人の世界に愛さえあればあら不思議。極甘ハッピーエンドに早変わりよ
愛しかない。それが世界を動かしている。僕らはそれなしでは何も出来ない。
二人にはこれが一番幸せな形なんだと思います
忘れてましたよ
畜生界が地獄だったってことを
クソデカ感情美味しい……クソ最高かよ……
磨弓が愛を知り、良くも悪くも愛を知り成長しようとしていて、しかし根本的な何かがズレていく過程と、それを真正面から受け止め壊した袿姫。あらゆる面で対比的で、美しくも悲しい作品でした。
悪意なんだかわからない二人にそそのかされた磨弓がおかしくなるかと思いきや、劇場型で語る袿姫に塗りつぶされてしまったのがうわ最悪―という感じで良かったです。
真面目に悩んでなんかいい感じの答えを出す方向に行くのかと思いきや、主のごり押しで突破となったのが、惜しいと感じながらもこれはこれで面白かったです。