幼いころ、両親に連れられて旅行した、見知らぬ土地の小さな漁港。あの華やかなまま錆び付いた、造花のような記憶を探していた。
「奇麗ね」
「うん」
メリーは強い潮風に髪を抑えながらそう言った。乱れ波打つ金色に気を取られて、私は心にもなく相槌を打った。
「蓮子の思い出の場所は、ここだったの?」
「多分……そう」
波止場は春の強い日差しに輝いていた。誰も、いない。記憶の中で揺られていた漁船の数々は、十数年の時を経てすべて撤去されてしまったようだ。当然か。管理を放棄した者たちの、最後の始末だったのだ。人が減れば、街は捨てられる。最も鮮明だった防波堤際の真っ赤な灯台も、すっかりくすんでいた。
メリーは海の反対側、扇状に断崖を削った街の階層を見上げている。人の気配はない。ひとつ残らず廃墟だ。
「頂上から見下ろしたら絶景でしょうね」
「うん。すっごく綺麗だったはず」
さざなみに背を向けて、私たちは入り組んだ坂道を登ってゆく。あの日、何かお祭りをやっていたのだと思う。漁業組合の大きな建物には万国旗が提げられ、小ぢんまりとしながらも賑わっていた。汚れたブロック塀に、影法師を見出す。おもちゃを掲げて笑い合い、大人が決めた道を無視して縦横無尽に駆ける子供たち。そういえば、ちょうど彼らと私がすれ違うあたりで、近くの家から顔を出したおばあちゃんが子供みんなにアメを配っていた。地元の人間じゃない私にもくれたけど、あのおばあちゃんは子供とあらば誰でもアメを与えようとしたのではないか。
朽ちた漁師小屋を通り過ぎ、路地裏に張られたテープを乗り越え、埃だらけの民家を横切った。メリーはきょろきょろと周りを見渡している。
「ネコとか、いないのかしら」
「どうかな……」
人の消えた港にネコ。映える。写真撮ってネットに上げれば、それっぽいウケ狙い。しかし単純に似つかわしい光景で、見かけたらつい微笑んでしまいそうだ。
思いのほか急勾配が続き、うっすらと汗ばんできた。メリーも息を整えながら私の後に続く。風雨にさらされたコンクリートの斜面はデコボコで、スニーカーを通じて私たちの脚に確かな負担を掛ける。
ひときわ狭い脇道に、良い感じに腰を下ろせそうな段差があった。街に唯一の大きな食堂の軒先だった。親しみのある看板が色褪せたまま残っている。中はテーピングされて入れないようになっていたが、私はこの場所をよく覚えている。ここで両親と三人、オムライス定食を食べた。おかみのおばちゃんは気前が良くて、幼い私にハンバーグをサービスしてくれた。オムライスにハンバーグが載ったプレートはなんだか最強のごはんという気がして、私は嬉しくてたまらなかった。そんな私を見て、仲の悪い両親もいつもよりご機嫌で……幸せだった。
日陰でもあるし、メリーを手招きして休憩することにする。リュックサックからお茶とお菓子を取り出し、手渡す。穏やかな風だけが吹き抜ける中、ビスケットをかじる音がやけに大きく聞こえた。
「蓮子にしては珍しいわ。結構センチメンタルだったのね」
「急に、思い出の場所の美しさを確かめたくなって」
「現実に失望してでも?」
ヴァイオレットの瞳が、私を覗き込む。赤錆色の乾いた街に、唯一ある深味を湛えた紫。怪異を映すその眼にとって、ここはさして面白くもない廃墟だ。
私は首をそらした。もう喉は渇いていなかったけど、視線から逃れるためにボトルをあおる。
「あ、逃げた」
メリーは笑った。腕を小突かれる。メリーのほっぺたを小突き返す。立ち上がって来た道を振り返れば、街の中腹辺りまで来ていた。なんてことはない。果てしない高みに見えたのは、幼い私の背が低かったからだ。
「ほら、行くよ」
また歩き始めて目に留まったのは、神との和解を喚起するポスターが貼られた家。
「神は、過疎から人をお救いにならなかった」
人が消え、街が消え、国が消える。科学世紀は管理された計画過疎によって、切り捨てられた辺境から無人の原野へと還される。いかにめざましい陽光に照らされても、夜が来れば真っ暗な疎性を顕わにする。時はうつろう。より虚ろな方へ。
「このポスター、落書きして神をネコにするの、流行ったよね」
そう言うと、メリーは不思議そうな顔をした。さすがに日本のネット文化には疎いか。しげしげと神の字を見つめて、うーんとうなって、私が文字の一部を手で隠してやるとようやく呆れ顔で納得してくれた。
「ばかみたいね」
「ばかだよ。でも、ネコと和解できたら人生素敵だよね」
「……確かに」
風の音が強まった。遠くで山々がざわめき、私たちの髪が、服が、大仰にはためく。
もう、この地に人がとどまるべき道理はない。目的を失った場所というのはどうにも居心地が悪いのだ。それでも私たちは徒労を押して、街の頂きを目指して歩を進める。きつい階段を黙々と登るとき、階段を登る機能以外に想いを馳せたりはしない。登り切って振り返るとメリーが息を切らしていたから、私は彼女のぬるく湿った手を取って最後の一段を引っ張り上げてやる。
「また休憩しようか」
「ううん。もうすぐでしょ」
前を向くと、もう見上げるほどの道のりではなかった。グネグネと地形に沿った道路が続いていて、あと数百メートルも歩けばおおよそ舗装された足場の範囲では最も高い標高になる。幼い私は大冒険の果てにお宝を手に入れようと、在りし日の街を迷宮に見立て駆け回っていた。冒険心は忘れていないつもりだった。だから私たちは秘封倶楽部をしている。でも、少しづつ、そのヴィジョンは変わっている。美しいものと美しくないものに世界を隔てた時、絶えず美しいものが失われてゆくことに気付く。同じままではいられない。
「蓮子、これ以上歩きたくないって顔してる」
またメリーの瞳が私を見透かしている。
「まさか」
消化試合だとしても、ここまで来たのだから最後まで。
ひび割れたコンクリートの車道には山の境界線に浸食されて歩き辛い。人の管理を離れればこんなものだ。営みを終えた社会は、神の御許へと還される運命にある。百年後か二百年後か、同じように人が消えた無数の都市が森へと呑み込まれるのだろう。潮の満ち引きは同じ時間軸にある。虚ろが満たされるように、うつろう。
同じような、高い春の空だった。私はいつも口論ばかりしている両親の機嫌が良いことが嬉しくて、二人の手を引っ張ってニマニマしていた。この道が、終わらなければいいのに。だいすきなひとと並んで歩いていられたら、それが世界のすべてだったのに。今この瞬間から、なんにも変わらないでいて……子供じみた願いだった。
大人に近づいた今の歩幅では、そんなことを思い返している間に終点にたどり着いてしまう。街を見下ろせる、ほんの小さな公園があった。腰までの高さの柵はすっかり老朽化していて、一帯ごとロープで封鎖してある。二人で、越える。
「……綺麗、ね?」
「なんで疑問形なのさ」
「だって、蓮子の顔、美しいものを見る顔じゃないんだもの」
ああ。そうだ。春めく空の青、沸き立つ雲の白、揺れる海の蒼、灯台の赤、もう動かない街の、色褪せた雑多の色。綺麗だ。綺麗だけど、ここには失われた美しさだけがある。
人はそれを幻想と呼ぶ。
私は瞠目した。記憶は飾られる。思い出すときはいつだって鑑賞と感傷に耐えうるよう、額縁に収まってしまうのだ。
日が落ち始めた。いつかのあの日、私は両親の手を握ったまま、日が海に落ちるまでずっと立ち尽くしていた。
「メリー、帰ろ――」
「蓮子」
手を握られた。海風でいつの間にか冷めきっていた私の手先を、暖かくて柔らかいメリーの指がしっかりと掴む。驚き見開いた眼がメリーを捉えると、彼女は薄く笑って前を指し示す。
「貴女が見たかったのは、こんな光景かしら」
それは、絵に描いたような。
懐かしさだ。嬉しさと悲しみが綯い交ぜになった、複雑な感情が私の五感を支配する。
潮騒に乗って運ばれてくる、子供たちの歓声。屋台の美味しそうな匂い。灯台の鮮明な赤と万国旗の色彩。あと、あと、あとは……幼い私と手を繋いだ両親。私は過去に居て、身長分高い空を流れる時間に釘付けになっていた。私の見たかった光景が、まさにこれだった。
メリーは私の前に立っていて、傾いた陽が後光となって彼女に降り注ぐ。まるで神様のように、手すりに腰掛けながら両手を挙げて言う。
「変わらないものって、美しいのよね」
逆光の中の少女は、私の望みを何でも叶えてくれるワンハンドエデンの女神。切り取られた額縁の中、慈愛の笑みで私が最も幸せだった時間を見つめている。
「お望みなら、ずっと眺めていてもいいわ」
魅力的な提案が私の前に吊り下げられた。懐かしい音、懐かしい匂い、懐かしい感触、懐かしい世界。どれだけ今を謳歌しても、この価値だけは失われてからしか気付けないし、失われたのなら取り戻すことはできない。人生においてふとした瞬間に痛む古傷となって、喪失を悼みながら延々引きずってゆく。
『蓮子、もっと近くで見よう』【一歩前へ】
父の影法師が優しく呼びかける。私たち親子は一歩、手すりへ近づいた。
『本当に綺麗だわ。蓮子もいらっしゃいな』【もう一歩前へ】
母の影法師が私の手を引く。私たち親子は、また進み出た。
「これもまた、貴女が追い求める幻想のひとつでしょう? ねぇ、蓮子」【更に、前へ】
二つの影法師が私を断崖に引き寄せる。片手間に楽園を創造する女神は、ちっぽけな郷愁に囚われた私に道を開け、ただ微笑んでいる。
「この光景を永遠のものにしたいなら……前へ」
影法師はひたすらに私を引っ張る。
両親の不仲なんて、ありふれている。けれどいざ幼いわが身に降りかかると、これは最悪。なまじ仲の良かった時期を知っているから始末が悪い。満ち足りた生活が虚ろな方へと変化していくのは絶望的だ。この小さな漁港へ旅行に訪れたのは、すっかり険悪になった両親がなにかの気まぐれで一時的に関係修復した時期のことだった。私はお願い、そのまま変わらないで、と神様に祈った。今この瞬間の私たちの幸せな時間だけを永遠に、と。
まぁ現実とは残酷なもので、円満な家庭は所詮気まぐれだ。結局父は家を出てゆき、私も重苦しい東京の実家を出て上洛することになった。それが秘封倶楽部の代表たる特別な人間、宇佐見蓮子のありふれた傷。
傷を庇いながら生きていくのは、辛い。私は大学に入ってメリーと出会ってこの方、自分の触れられたくない部分について彼女に語ったことは一切なかった。彼女も過去を語らなかったから、そこはお互い様なのだが。
「こういうやり方はズルいんじゃないの、マエリベリー?」
あと一歩で柵に躓き絶壁から身投げという位置で、私は影法師の手を離した。それらは逆光に霞み、ボロボロの柵をすり抜けたところでどこかへ霧散した。懐かしい音が、匂いが、色が、消えた。全ては色褪せて、届かなくなった。メリーは意外そうな、もっと言えば素っ頓狂な表情をした。お気に入りのお人形がひとりでに踊りだしたような。
「危うく身投げするとこだったじゃんか」
メリーは悪びれもせず、妖しげな微笑みを作り直して答える。
「篤い友情からよ。私は貴女の笑顔のためなら、清水の舞台から飛び降りたって構わない」
「いや落ちかけたの私」
「……」
メリーは背を向けて歩き出した。逃げたなこいつ。追ってその背中を小突き、仕返しに私もほっぺたを小突かれた。慈母と悪魔の貌を併せ持った、ワンハンドエデンの創造主は鳴りを潜めた。もう、夕日が沈むまで眺める気はなかった。
浜に降りて帰路に就く前、月並みな水遊びをした。寄せては返す波を避けたり、水を掛け合ったりして。まだ春だから少し冷たいけれど、坂の登り降りで疲れた筋肉の火照りには丁度良い。街の骸が闇に呑まれても、快晴の夜空は無数の小さな明かりを海に投げ落としてくれた。メリーの金髪が星灯りにつやめいている。
「ねぇメリー」
「なぁに蓮子」
「変わらないで、そのままの貴女でいて……て言われたらどう思う?」
「愛の告白かしら」
「真面目に答えて」
「幻想的だと思う。可哀想なくらいおめでたくって、私は好きかも」
その答えはいかにも秘封倶楽部らしい。彼女はいかなる幻想をも肯定する。あの断崖から私が落ちたとしても、マエリベリー・ハーンはそれを善しとしただろう。
「でもね、マエリベリーって呼ばれて、ちょっとドキッとしちゃった。蓮子が生きてて良かったわ」
彼女があんまり艶やかに笑うから、しばらく彼女の狂いように呆気にとられた。
「……メリー、やっぱり人としてどうかと思うよ。良心が欠けてる」
「ふふ。秘封倶楽部に毒されちゃったのかしらね? でも、何かが欠けてるだなんてとんでもないわ。貴女のお陰で、今の私は満ち足りているもの」
ああ。私も彼女も、うつろうもの。虚ろな方から、満ち足りた方へ、絶えず変わり続けるもの。うつろわぬ楽園があったとしても、人はその虜になってはならない。額縁の中でなお生きるものなど、ありはしないのだから。
「やっぱり、幻想を求めるのは人間だもの。人間は変わってゆく方が面白くて、自然で、素敵だわ」
「奇麗ね」
「うん」
メリーは強い潮風に髪を抑えながらそう言った。乱れ波打つ金色に気を取られて、私は心にもなく相槌を打った。
「蓮子の思い出の場所は、ここだったの?」
「多分……そう」
波止場は春の強い日差しに輝いていた。誰も、いない。記憶の中で揺られていた漁船の数々は、十数年の時を経てすべて撤去されてしまったようだ。当然か。管理を放棄した者たちの、最後の始末だったのだ。人が減れば、街は捨てられる。最も鮮明だった防波堤際の真っ赤な灯台も、すっかりくすんでいた。
メリーは海の反対側、扇状に断崖を削った街の階層を見上げている。人の気配はない。ひとつ残らず廃墟だ。
「頂上から見下ろしたら絶景でしょうね」
「うん。すっごく綺麗だったはず」
さざなみに背を向けて、私たちは入り組んだ坂道を登ってゆく。あの日、何かお祭りをやっていたのだと思う。漁業組合の大きな建物には万国旗が提げられ、小ぢんまりとしながらも賑わっていた。汚れたブロック塀に、影法師を見出す。おもちゃを掲げて笑い合い、大人が決めた道を無視して縦横無尽に駆ける子供たち。そういえば、ちょうど彼らと私がすれ違うあたりで、近くの家から顔を出したおばあちゃんが子供みんなにアメを配っていた。地元の人間じゃない私にもくれたけど、あのおばあちゃんは子供とあらば誰でもアメを与えようとしたのではないか。
朽ちた漁師小屋を通り過ぎ、路地裏に張られたテープを乗り越え、埃だらけの民家を横切った。メリーはきょろきょろと周りを見渡している。
「ネコとか、いないのかしら」
「どうかな……」
人の消えた港にネコ。映える。写真撮ってネットに上げれば、それっぽいウケ狙い。しかし単純に似つかわしい光景で、見かけたらつい微笑んでしまいそうだ。
思いのほか急勾配が続き、うっすらと汗ばんできた。メリーも息を整えながら私の後に続く。風雨にさらされたコンクリートの斜面はデコボコで、スニーカーを通じて私たちの脚に確かな負担を掛ける。
ひときわ狭い脇道に、良い感じに腰を下ろせそうな段差があった。街に唯一の大きな食堂の軒先だった。親しみのある看板が色褪せたまま残っている。中はテーピングされて入れないようになっていたが、私はこの場所をよく覚えている。ここで両親と三人、オムライス定食を食べた。おかみのおばちゃんは気前が良くて、幼い私にハンバーグをサービスしてくれた。オムライスにハンバーグが載ったプレートはなんだか最強のごはんという気がして、私は嬉しくてたまらなかった。そんな私を見て、仲の悪い両親もいつもよりご機嫌で……幸せだった。
日陰でもあるし、メリーを手招きして休憩することにする。リュックサックからお茶とお菓子を取り出し、手渡す。穏やかな風だけが吹き抜ける中、ビスケットをかじる音がやけに大きく聞こえた。
「蓮子にしては珍しいわ。結構センチメンタルだったのね」
「急に、思い出の場所の美しさを確かめたくなって」
「現実に失望してでも?」
ヴァイオレットの瞳が、私を覗き込む。赤錆色の乾いた街に、唯一ある深味を湛えた紫。怪異を映すその眼にとって、ここはさして面白くもない廃墟だ。
私は首をそらした。もう喉は渇いていなかったけど、視線から逃れるためにボトルをあおる。
「あ、逃げた」
メリーは笑った。腕を小突かれる。メリーのほっぺたを小突き返す。立ち上がって来た道を振り返れば、街の中腹辺りまで来ていた。なんてことはない。果てしない高みに見えたのは、幼い私の背が低かったからだ。
「ほら、行くよ」
また歩き始めて目に留まったのは、神との和解を喚起するポスターが貼られた家。
「神は、過疎から人をお救いにならなかった」
人が消え、街が消え、国が消える。科学世紀は管理された計画過疎によって、切り捨てられた辺境から無人の原野へと還される。いかにめざましい陽光に照らされても、夜が来れば真っ暗な疎性を顕わにする。時はうつろう。より虚ろな方へ。
「このポスター、落書きして神をネコにするの、流行ったよね」
そう言うと、メリーは不思議そうな顔をした。さすがに日本のネット文化には疎いか。しげしげと神の字を見つめて、うーんとうなって、私が文字の一部を手で隠してやるとようやく呆れ顔で納得してくれた。
「ばかみたいね」
「ばかだよ。でも、ネコと和解できたら人生素敵だよね」
「……確かに」
風の音が強まった。遠くで山々がざわめき、私たちの髪が、服が、大仰にはためく。
もう、この地に人がとどまるべき道理はない。目的を失った場所というのはどうにも居心地が悪いのだ。それでも私たちは徒労を押して、街の頂きを目指して歩を進める。きつい階段を黙々と登るとき、階段を登る機能以外に想いを馳せたりはしない。登り切って振り返るとメリーが息を切らしていたから、私は彼女のぬるく湿った手を取って最後の一段を引っ張り上げてやる。
「また休憩しようか」
「ううん。もうすぐでしょ」
前を向くと、もう見上げるほどの道のりではなかった。グネグネと地形に沿った道路が続いていて、あと数百メートルも歩けばおおよそ舗装された足場の範囲では最も高い標高になる。幼い私は大冒険の果てにお宝を手に入れようと、在りし日の街を迷宮に見立て駆け回っていた。冒険心は忘れていないつもりだった。だから私たちは秘封倶楽部をしている。でも、少しづつ、そのヴィジョンは変わっている。美しいものと美しくないものに世界を隔てた時、絶えず美しいものが失われてゆくことに気付く。同じままではいられない。
「蓮子、これ以上歩きたくないって顔してる」
またメリーの瞳が私を見透かしている。
「まさか」
消化試合だとしても、ここまで来たのだから最後まで。
ひび割れたコンクリートの車道には山の境界線に浸食されて歩き辛い。人の管理を離れればこんなものだ。営みを終えた社会は、神の御許へと還される運命にある。百年後か二百年後か、同じように人が消えた無数の都市が森へと呑み込まれるのだろう。潮の満ち引きは同じ時間軸にある。虚ろが満たされるように、うつろう。
同じような、高い春の空だった。私はいつも口論ばかりしている両親の機嫌が良いことが嬉しくて、二人の手を引っ張ってニマニマしていた。この道が、終わらなければいいのに。だいすきなひとと並んで歩いていられたら、それが世界のすべてだったのに。今この瞬間から、なんにも変わらないでいて……子供じみた願いだった。
大人に近づいた今の歩幅では、そんなことを思い返している間に終点にたどり着いてしまう。街を見下ろせる、ほんの小さな公園があった。腰までの高さの柵はすっかり老朽化していて、一帯ごとロープで封鎖してある。二人で、越える。
「……綺麗、ね?」
「なんで疑問形なのさ」
「だって、蓮子の顔、美しいものを見る顔じゃないんだもの」
ああ。そうだ。春めく空の青、沸き立つ雲の白、揺れる海の蒼、灯台の赤、もう動かない街の、色褪せた雑多の色。綺麗だ。綺麗だけど、ここには失われた美しさだけがある。
人はそれを幻想と呼ぶ。
私は瞠目した。記憶は飾られる。思い出すときはいつだって鑑賞と感傷に耐えうるよう、額縁に収まってしまうのだ。
日が落ち始めた。いつかのあの日、私は両親の手を握ったまま、日が海に落ちるまでずっと立ち尽くしていた。
「メリー、帰ろ――」
「蓮子」
手を握られた。海風でいつの間にか冷めきっていた私の手先を、暖かくて柔らかいメリーの指がしっかりと掴む。驚き見開いた眼がメリーを捉えると、彼女は薄く笑って前を指し示す。
「貴女が見たかったのは、こんな光景かしら」
それは、絵に描いたような。
懐かしさだ。嬉しさと悲しみが綯い交ぜになった、複雑な感情が私の五感を支配する。
潮騒に乗って運ばれてくる、子供たちの歓声。屋台の美味しそうな匂い。灯台の鮮明な赤と万国旗の色彩。あと、あと、あとは……幼い私と手を繋いだ両親。私は過去に居て、身長分高い空を流れる時間に釘付けになっていた。私の見たかった光景が、まさにこれだった。
メリーは私の前に立っていて、傾いた陽が後光となって彼女に降り注ぐ。まるで神様のように、手すりに腰掛けながら両手を挙げて言う。
「変わらないものって、美しいのよね」
逆光の中の少女は、私の望みを何でも叶えてくれるワンハンドエデンの女神。切り取られた額縁の中、慈愛の笑みで私が最も幸せだった時間を見つめている。
「お望みなら、ずっと眺めていてもいいわ」
魅力的な提案が私の前に吊り下げられた。懐かしい音、懐かしい匂い、懐かしい感触、懐かしい世界。どれだけ今を謳歌しても、この価値だけは失われてからしか気付けないし、失われたのなら取り戻すことはできない。人生においてふとした瞬間に痛む古傷となって、喪失を悼みながら延々引きずってゆく。
『蓮子、もっと近くで見よう』【一歩前へ】
父の影法師が優しく呼びかける。私たち親子は一歩、手すりへ近づいた。
『本当に綺麗だわ。蓮子もいらっしゃいな』【もう一歩前へ】
母の影法師が私の手を引く。私たち親子は、また進み出た。
「これもまた、貴女が追い求める幻想のひとつでしょう? ねぇ、蓮子」【更に、前へ】
二つの影法師が私を断崖に引き寄せる。片手間に楽園を創造する女神は、ちっぽけな郷愁に囚われた私に道を開け、ただ微笑んでいる。
「この光景を永遠のものにしたいなら……前へ」
影法師はひたすらに私を引っ張る。
両親の不仲なんて、ありふれている。けれどいざ幼いわが身に降りかかると、これは最悪。なまじ仲の良かった時期を知っているから始末が悪い。満ち足りた生活が虚ろな方へと変化していくのは絶望的だ。この小さな漁港へ旅行に訪れたのは、すっかり険悪になった両親がなにかの気まぐれで一時的に関係修復した時期のことだった。私はお願い、そのまま変わらないで、と神様に祈った。今この瞬間の私たちの幸せな時間だけを永遠に、と。
まぁ現実とは残酷なもので、円満な家庭は所詮気まぐれだ。結局父は家を出てゆき、私も重苦しい東京の実家を出て上洛することになった。それが秘封倶楽部の代表たる特別な人間、宇佐見蓮子のありふれた傷。
傷を庇いながら生きていくのは、辛い。私は大学に入ってメリーと出会ってこの方、自分の触れられたくない部分について彼女に語ったことは一切なかった。彼女も過去を語らなかったから、そこはお互い様なのだが。
「こういうやり方はズルいんじゃないの、マエリベリー?」
あと一歩で柵に躓き絶壁から身投げという位置で、私は影法師の手を離した。それらは逆光に霞み、ボロボロの柵をすり抜けたところでどこかへ霧散した。懐かしい音が、匂いが、色が、消えた。全ては色褪せて、届かなくなった。メリーは意外そうな、もっと言えば素っ頓狂な表情をした。お気に入りのお人形がひとりでに踊りだしたような。
「危うく身投げするとこだったじゃんか」
メリーは悪びれもせず、妖しげな微笑みを作り直して答える。
「篤い友情からよ。私は貴女の笑顔のためなら、清水の舞台から飛び降りたって構わない」
「いや落ちかけたの私」
「……」
メリーは背を向けて歩き出した。逃げたなこいつ。追ってその背中を小突き、仕返しに私もほっぺたを小突かれた。慈母と悪魔の貌を併せ持った、ワンハンドエデンの創造主は鳴りを潜めた。もう、夕日が沈むまで眺める気はなかった。
浜に降りて帰路に就く前、月並みな水遊びをした。寄せては返す波を避けたり、水を掛け合ったりして。まだ春だから少し冷たいけれど、坂の登り降りで疲れた筋肉の火照りには丁度良い。街の骸が闇に呑まれても、快晴の夜空は無数の小さな明かりを海に投げ落としてくれた。メリーの金髪が星灯りにつやめいている。
「ねぇメリー」
「なぁに蓮子」
「変わらないで、そのままの貴女でいて……て言われたらどう思う?」
「愛の告白かしら」
「真面目に答えて」
「幻想的だと思う。可哀想なくらいおめでたくって、私は好きかも」
その答えはいかにも秘封倶楽部らしい。彼女はいかなる幻想をも肯定する。あの断崖から私が落ちたとしても、マエリベリー・ハーンはそれを善しとしただろう。
「でもね、マエリベリーって呼ばれて、ちょっとドキッとしちゃった。蓮子が生きてて良かったわ」
彼女があんまり艶やかに笑うから、しばらく彼女の狂いように呆気にとられた。
「……メリー、やっぱり人としてどうかと思うよ。良心が欠けてる」
「ふふ。秘封倶楽部に毒されちゃったのかしらね? でも、何かが欠けてるだなんてとんでもないわ。貴女のお陰で、今の私は満ち足りているもの」
ああ。私も彼女も、うつろうもの。虚ろな方から、満ち足りた方へ、絶えず変わり続けるもの。うつろわぬ楽園があったとしても、人はその虜になってはならない。額縁の中でなお生きるものなど、ありはしないのだから。
「やっぱり、幻想を求めるのは人間だもの。人間は変わってゆく方が面白くて、自然で、素敵だわ」
メリーなりの相方の思い出の触れ方から前に向き直す所が秘封倶楽部っぽい答えの出し方まで綺麗にまとまっていたと思います
でも読み終わった後、何も残らないな、って感じました。
空気感が素晴らしかったです
センチメンタルでした
ネコと和解せよ