Coolier - 新生・東方創想話

雨にぬれても

2020/04/17 20:19:27
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 午前十一時。カーテンは閉まっているがかろうじて晴れの光量を、彼女は覚醒に伴うまどろみのなかに認めた。覚醒した途端、ピクサーの映画をレンタルしようと思えるような、不可思議に、ふわふわとした朝だった。彼女は枕元の携帯を手にとり、それらしい映画の数本を探す。そしてお誂えを発見したころ、ようやっと寝床から起き上がり机上の財布に手をかけた。つやつやとした革造りの折りたたみ式は最近新調した財布だったから、彼女は財布を手に取ること自体にも、なにか誇らしげな、はたまた妙に尊厳めいた感情を抱いていたかもわからない。しかしともかくとして、財布をあけて待っていたのは落胆だった。そもそも一介の大学生風情が財布を新調する理由などは明白であるからして、学生証含むあらゆるカード類などが新しい財布に収まっているはずもなかった。
 しかしアパートの外、真昼間を目前に控えた電線の上に雀が鳴いた。軽やかでどこか無責任なその鳴き声は、晴れた日ならばいつだって明確に呼び声の役割を担う。仕送りとアルバイトとでかろうじての紙切れ数枚はある。加えて彼女の過ごす科学世紀ならば、もっぱらそういった紙切れは時代遅れという語句そのものであり、主流といえばやはり、見えもしなければ触れられもしない金銭だった。彼女はまた携帯を手にとり、親しい友人にメッセージを送った。それは「今から向かう」の意を示すだけの簡素なメッセージであったが、数少ない友人の生活の拍子なぞは常に判然としているものだから、彼女は友人からの返信を待つこともなく携帯を置いて浴室に向かった。
 浴室には小窓があった。電気をつけることもなく、彼女はその身を清める。生きていると妙に不思議な感覚に触れることが多々ある。例を挙げるとすれば、幼少期、家にプールのないかわりに浴室に水を張っては無理やりに浮き輪を浮かべたときの感覚や、風邪をひいて学校を休んだ朝に見る、浴室の光量の仄暗さがその妙に不思議な感覚を指すだろう。だから彼女は身を清めるその間、身を清めるという一種神聖な語句よりも、ずっと稚拙な心持ちでいたかもしれない。シャワーノズルから噴出される忙しい水音に混じって、浴室には能天気な鼻歌が響いていた。晴れな日には似つかわしくない、頭上を離れぬ雨の唄だった。
 外に出ると暖かな日差しが彼女を包んだ。かつて拓かれた新地の名残、ふるめかしい屋根と屋根の隙間から覗く青空は鮮やかだった。歩くたびにポケットから音が鳴る。彼女は家を出るまえ、道中使う小銭をぴったり財布からポケットへと移していた。けれど、反対側のそこにはしっかりと財布も収まっている。要するに彼女は必要以上に財布を取り出すことを恐れているのだろう。しかしながら、一歩を踏むたびに高く鳴く小銭はどこかゆるやかで、ともすれば電線の雀のそれと類似していた。所詮住宅地の路地なら彼女を囲むは木やアスベストの塀、道の脇にはコンクリートの側溝蓋があった。コンクリートの側溝蓋はところどころ歯抜けになっていて、空いた部分には木製の蓋がまるで詰め物の如く敷かれていた。点々と続く木蓋の向こうの自動販売機にて、彼女は足を止め、数秒後、釣りの降る音を無視してまた歩き始める。小銭返却口から降ったのは奇しくも古い十円玉だった。彼女はそれを知ってか知らずか、また気分良さげに口遊む。誰かの拾う小さな幸福に浸るようにして、能天気に調子を取った。それはまたしても雨の唄だったが、今度のそれはシャワーのそれより愉快なものだった。一歩一歩、鼓膜に降ってくる小鳥と小銭に合わせて唄えば、音調は、少し外れていたかもしれない。
 ともかくとして、彼女は駅までの道のりを軽い遠足のような気持ちでやり遂げた。残った小銭のすべてを使い改札を潜りホームに出る。同時に、先ほどまで小銭のあった箇所に切符を潜らせる。それなりに集るひとびとはみな切符を持たないらしかった。いまどきならば切符など買わなくたって携帯ひとつあれば改札を潜り抜けることが可能だったが、彼女は敢えてそうすることをしなかった。彼女の部屋には時世にそぐわぬものばかりが置いてあり、それは、もはや映らないブラウン管やら、どこから拾ったか古いカルト雑誌やら、褪せている割には派手な模様のカーテンだったりする。彼女には懐古主義とでも云えるような性癖があるように思えた。しかし彼女は現在、ひとびとがみな一様に電車を待つホームにて苦い顔をしている。原因は様々あるように思える。ひとつは、電光掲示板に光る延着の文字だ。間もなく、という嘘っぱちのアナウンスには、ひとをやりきれない気持ちにさせるなにかがあった。もうひとつは、ホームから覗く向こうの空だ。厚く薄暗い雲が街を覆っていた。風が強く吹いている気もした。彼女のテレビは映らないし、ニュースにもあまり目を向けない。ともすれば、いやな予感は道理である。しかし、遅れてやってきた電車に彼女は泣く泣く乗り込む。席につき、辺りを見渡し彼女は確信を持って腕を組み、顔をしかめた。彼女以外の全乗客、傘を持っていた。
 電車は揺れる。乗客のなかに、なにがあったか、今にも泣き出しそうな子供がいた。顔は赤らみ、鼻をぐずらせ、今にも泣いてしまいそうでいた。彼女は居た堪れなくなる。彼女に出来るのは、片側のポケットに納めた覚束ない切符を守るように握りしめることのみだった。いつの間にやら、外は薄暗さを増している。どうやら彼女を運ぶこの電車も、例の雲に覆われてしまっていた。瞬間、眩い光が車窓にへばりついた。それは一瞬の光で、子供はたちまち不安そうに顔を歪める。それから一寸ののちに大きな音が鳴った。それはまるで地球が腹を空かせたような音だった。紛れもない雷鳴である。また強い光が車窓を包み、今度は一寸も置かずにぴしゃりと鳴く。子供はいよいよ泣き出した。そして車窓には容赦なき雨粒が点々と打ち付け、次第に窓は雨のベールに包まれる。車内には盛大なひとつの泣き声と静寂があった。泣く子を鎮めんとする親と、それを諫めるように舐める無数の視線、無頓着に携帯を弄る学生たちのなかで、彼女はいよいよ頭を抱えた。土砂降りの雨音を基準に、にべもなく電車は揺れ続けた。
 守り抜いた切符を使い改札を抜け、駅構内を歩けど目に着くのは濡れそぼった傘ばかりだった。悪意なき傘の群れに彼女の心は泣きそうになる。悪意のない傘に善意が含有されているかといえばそんなこともない。率先して雨に打たれようという頓狂なものは構内には誰一人として存在せず、彼女はただただ足早に急ぐひとびとに緩い羨望の眼差しを向けるのみでいた。誰からの善意も得られないまま、南の出口までたどり着いてしまった頃、彼女はなにを思ったか踵を返した。すこし早まった歩調からは淡い期待が感ぜられる。そうして彼女は改札まで戻った。改札の中でもいちばん端の改札機、さらにその脇にあったのはおおきめなガラスの窓で、窓の向こうには駅員の二名が存在した。彼女が視線で窓を叩くと、駅員の一人が窓越しに応対をする。駅員らしく毅然とした応対にしどろもどろになりつつも、彼女はなんとか忘れ傘を要求せしめた。駅員ふたりがごにょごにょと相談している時点で、彼女の顔は紅潮していた。耳まで赤く染まったあたりできっぱりと断られた要求に、彼女は負け惜しみのわかっちゃいましたを吐き撤退した。
 屋根伝いにコンビニエンスストアを目指すことを余儀なくされ、彼女は観念したかのように小走りを始める。途切れ途切れ、雨樋や空からの攻撃を受ける。濡れる肩や腕を気にも留めず頭を守ってしまうのはひとの習性だろうか。しかし、あろうことかコンビニエンスストアを目前にしたその瞬間、平和、平和、平和をと幾度ともなく叫ぶ街宣車に飛沫を浴びせられ、彼女の衣服は決定的にびしょ濡れになってしまう。すっと彼女の表情が冷める。頭部を後生大事に庇ってきた両腕を降ろし、脱力した。諦めの境地といったところだろうか、必要以上にふてぶてしくコンビニエンスストアに入店した。ビニール傘を手に取る所作にしても、どことなくふてぶてしさがついて回る。わかりやすく不機嫌な客を前に、アルバイト店員は多少強張りつつも傘の値段を告げる。彼女は財布を取り出すべくポケットに片手を突っ込んだ。そのまま硬直する彼女に店員は眉を潜める。彼女は目を丸くしてあらゆる衣服のポケットを叩き始める。店員は下を向いては片手で自身の表情を隠した。後ろに並んでいた客も同じようにした。この状況が示す意味はひとつだけだった。
 路地を進む。雨が彼女の髪を湿らす。なに一つ上手くゆかない日であった。遠く、電車が彼女の財産を運んで行く。雨は彼女のおざなりな注意力を詰るように降り頻る。彼女がいくら天を仰げども、太陽は職務を放棄したままでいるが、それにしたっていまさらである。彼女はすでにびしょ濡れだった。マンホールの上で派手に転んだりもした。童謡の中から飛び出してきたような親子とすれ違った。子供の黄色いレインコートから目を逸らすと、自動販売機が目についた。捨て置いた幸福にいまさら手を伸ばして報われようというのはなんとも傲慢な話ではあるが、彼女は幸運にも十円玉の一枚に恵まれた。これが古い十円玉であれば化学世紀のいまならその希少性から高値で売買されていたが、彼女はそれを知ることもない。路地を進めば近付いた友人宅のさらに近く、駄菓子屋の一軒を彼女は覚えていた。友人宅で振る舞われるそれらの駄菓子の出所が気になり、尋ねたことがあったのだ。あわよくば、などという、浅ましい期待感もあったかもしれないが、とにかく彼女は駄菓子屋に入った。
 店主との短い会話を経て出てきた彼女の片手には五円チョコが握られている。もう片方には傘があった。しかし、店主との短い会話のうちに雨はどうやら降り止んだようで、空には嘘みたいな虹が架かっていた。それでも、彼女は傘をさして歩いた。友人宅までの短い距離だが、なんだかようやく報われたような思いをしているに違いない。証拠に、開かれた安傘はくるくると回転し、五円チョコは手の上をぽんぽんと跳ねていた。加えて、今度は虹の歌だった。チャイムを押すと小気味の良いメロディが響き、彼女の歌はかき消される。中からでてきた友人はびしょ濡れで傘をさした彼女を見て、今日彼女を襲ったいくつかの受難を悟り笑った。
「災難だったわね」
 彼女は晴れた空のもと「そうでもないよ」と、笑ってみせた。
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コメント



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1.90名前が無い程度の能力削除
蓮子はたいしたことをしてないのに よく感傷だけをここまで膨らませられるなとおどろかされる
2.100ヘンプ削除
色々なことに巻き込まれているのに、最後に笑うことがとても良かったです。
3.100電柱.削除
丁寧で、とても綺麗な話だと思いました。
4.100モブ削除
文章の厚みがすごいなあと、毎回思うのです。このお話を読んだ時に、とても退廃的な何かを想像できて、多分それは間違っていないと信じたいのです。とても迂遠な絶望を感じることが出来て、それと一緒に小さな幸せを感じることが出来ました。面白かったです。ご馳走様でした。
5.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。なんやかんやで蓮子には晴れやかな笑顔が似合いますね
6.100終身削除
細かいところまでとにかく生活感の書き込みが凄くて良かったと思います 日常の些細なところから蓮子の考えや所作が無造作に広がっていく感じがなんとなくイメージにぴったりでとても人間らしい所があってよかったと思います
7.100南条削除
おもしろかったです
こんな目に遭ってそうでもないよと笑うところがニヒルでよかったです
8.100こしょ削除
場面の描き出しが鮮やかでよかったというように感じました
9.100名前が無い程度の能力削除
情景や 行動それに対する丁寧な表現一つ一つが 他愛もない蓮子の日常や感情の豊かさを磨き出していてとても楽しめました