ピリピリした空気が苦手だった。
家族構成は、お姉ちゃん、お母さん、お父さん、あと私の四人。ペットは、いない。でも野良の黒猫をよく見かける。
家族仲は良い方だと思う。ぜんぜん、悪くない。それは本当……。
お母さんは優しいし、お父さんも優しいし、お姉ちゃんはすごく優しい。自慢の家族。
でも、家には帰りたくなかった。
公園でボール遊びをしていた子供達が、親切な大人に叱られているのを見た。私はその光景を横目に、足早に立ち去るのだ。自分には関係の無いことなのに、胸が苦しくなった。最近、何処に行っても邪魔者扱いされる。
静かな細い路地で蹲っていたら、ちょうど、車が通り掛かった。電柱の裏に隠れて、少し、運転手さんに会釈した。光の加減で顔色は分からなかったけれど、車の速さはゆったりとしていた。たまに、お構いなしの人がいるから、車は怖い。
午後3時10分。帰るにはまだ早いのに、時間を潰す所が何処にも無い。
春休みだった。
学校へ行かなくて良いから、お休みは好き。でも少し長いお休みになると、そうも言っていられなかった。
なんとなくだけど、分かるよ。──邪魔にされてるって。
お母さんは毎日大変なんだって。子供の世話は大変なんだって。私は掃除機の音に追い立てられるように、家を出たのだった。
お母さんのことは、好き。若くて美人。お料理も上手。あと、お料理のブログ? をやっているみたい。
……それから、いつも、ズケズケとものを言う人。
私はいつも、ひとりになれる秘密基地を探している。でも、そんな素敵な場所は、この町には無いみたい。良さそうな場所には、大抵、先客がいる。例えば公園はコーキョーのバショであって誰のものでもないし、人の住む世界には、人のいない場所なんて無いのだと思う。住宅街を歩いていると、つくづく、そのことが分かる。立ち並ぶ家々、塀に区切られた箱庭の中に、一つも抜かすことなくそれぞれの家族が住んでいて、それぞれの小さな宇宙がある。私にはなんだかそのことが不思議に思えたのだけど、お父さんには、そんなの当たり前だろうと笑われちゃった。
お父さんのことは、好き。カッコイイ……かな? 俳優さんみたいな顔ではないけど、昔は野球をやっていたらしくて、体はたくましい。今でも全然お腹が出てないの。年齢の割に若々しく、背も高くて肩幅も広くて、すっごく強そう。えへへ。
気付けば私は、住宅街の中にある小さな公園だけではなくて、小高い丘の上にある方の公園にまで、やって来ていた。こちらは遊具のある普通の公園とはちょっと違っていて、貯水池があったりだとか、人の気配が少ない。それでも、散歩に訪れる人はいるから無人ではない。
ほら、おばさん達の話し声。名残惜しくフェンス越しに緑色の水面を見つめてから、私は逃げるように、その場を去った。
家の基部だけが出来上がっている四角い空き地。今日は、工事の人たちがお休みで、誰もいない。でも、そのうち誰かの家になる。
「猫さんは、どこへ行くのかな?」
車の下にすっと滑り込んで、そのまま何処かへ行ってしまうノラ猫が羨ましかった。
でも、あのミケ猫さんにしてみれば、私なんかに出くわして、びっくりしたのかも。そう思ったら、走って追い掛けるのは可哀そうだ。
とぼとぼと家の近くまで戻ってくると、隣の家の奥さんが庭に出ていた。少し立ち止まって、口の中で練習しておく。
「こんにちは」
ちゃんと言えた。挨拶もできないと、ロクな大人になれないそうだから。後で怒られないように、私はちゃんと挨拶するのだ。ご近所付き合いの情報網って凄くて、私がちょっと何かしたり何かおろそかにすると、それをお母さんが知っていることがある。うん、みんなの仲が良いのは良いことだ。最近は、隣の家に誰が住んでるかも知らないなんて寂しいこともあるみたいだからね。善きかな善きかな、なんちゃって。
「あらぁ、こんにちは。偉いわね」
「えへへ」
多分だけど、このくらいの可愛げで丁度良い。
「何をしてるんですか?」
世間話とか、したくないよ。するだけ無駄だよ。
「んー、猫がね」
「ネコさん?」
「うちの裏が通り道になってるらしくてねぇ、迷惑なんだよ。餌とかやっちゃダメだよ? 猫は簡単にツケアガるからね」
「……………………そう。うん、分かった」
どうしてか分からないけど、家のドアに手を掛けた瞬間、今すぐ背中を向けて走り出したい気持ちが、空気をめいっぱい吸い込んだ時みたいに、胸の中に広がった。
「ただいまー」
靴を脱いで、立ち止まった。
話し声がする。
えっと、リビング。お母さんの声しか聴こえないから、電話かな。すぅーっと様子をうかがいに行って、まだ話が長そうだったので、階段を昇った。
私の部屋は、本当はお姉ちゃんの部屋だ。ふたり一緒の部屋だけど、ピンク色のカーテンとかが、お姉ちゃんって感じがする。二段ベッドは私が上。お姉ちゃんがどっちにするか聞いてくれた。
お姉ちゃんのことは、好き。本当に自慢のお姉ちゃん。お姉ちゃんは、運動以外なら大体なんでもできる。テストの点数が良いことくらい当たり前で、おとなの人が相手でも、少しも緊張しないで話すことができる。良い学校に入ろうとすると、AO入試とか推薦入試とか言うのがあるみたいで、私はそれを聞いた時、テストしないで良いなんて楽チンだなぁと思ったものだけど、面接とか、小論文を書いたりとか、すっごく難しそうだった。でもお姉ちゃんはそういうのでも、こなせるようだった。でもでも、更に上の学校を目指して勉強中。受験はまだ先なのに、春休みはずっと塾で、授業の無い日も自習室だ。
最近、遊んでくれないような気がする。
この部屋にいても、階下の声は聴こえてくる。テレビが点いていればその音が聴こえるし、もちろん人の話し声も。
私は急いで、とたとたと階段を駆け下りる。
「──お母さん、ただい……ま」
「今、階段走ったでしょう?」
「ごめんなさい」
「それと、なんでただいまって言わないの?」
「……言ったよ?」
電話、あまり面白くなかったみたい。
顔は怒ってないけど、声が荒い。
「言ったけど、お母さん、お電話してたから」
「──そう。そうね、電話してる時に話し掛けないでって言ったものね」
「うん」
あー、良かった。お母さんが苛々している時に言い訳めいたことを言うのは分の悪い賭けなんだけど、今回は納得してくれた。
「えっと、じゃあ……」
逃げる口実を探す。いつもなら、宿題とか明日の準備とかあるけれど、今は楽しい春休み。
「待ちなさい。そこに、座りなさい」
「……うん」
「さっきね、おばあちゃんから電話があったのよ」
一回だけ、家のブレーカーが落ちたことがある。
給湯器にオーブントースターに電子レンジやら何やらをいっぺんに使っていたら、突然、それらの動作が止まってしまったのだ。最初は、あれ、停電かな、と首を傾げたりして、すると流石のお父さんが冷静になって、ブレーカーだ、と。それから間もなくお父さんが戻してくれた。ブレーカーが落ちるなんてその時が初めてのことだったから、ちょっとした笑い話にもなった。
……ブレーカー。
そういうもの、人間にもあるんだね。
ブロッコリーが嫌いだった。
でも、義務だから。子供の仕事は、明るい良い子でいることだから。ちょっと大盛りのごはんを、もぐもぐと喉の奥へと押し込んでいく。一刻も早くこの場を去りたかったけれど、一家団欒の時間は家族で過ごすことがルールになっている。うちの家族は仲が良いのが自慢なのだ。
「……母さんの言うこと、気にし過ぎだよ。お前はちゃんとやってるって、誰より俺が知ってるよ」
「でも……」
この頃は温かくなってきたから、私の好物……ということになっているシチューも、食べおさめだ。味がしない。ニンジンもブロッコリーもブロックベーコンも同じ固形物。
「母さんには、後で俺から言っておく。お前は気にしなくて良い。いくらなんでも、『母親失格』は言い過ぎだ」
お父さんの言う母さんは、つまり私のおばあちゃんで、お母さんのお義母さんに当たる人。それから、口うるさい人。
今日、電話で話してた。私が『神経質』なのは、お母さんが私を甘やかし過ぎるからなんだって。優しいお母さんのこと、そんな風に言われるのは寂しい。
「……お母さん。今日、ちょっと、お腹いっぱいなんだけど」
仲裁の意味半分、もう半分はもう本気でお腹いっぱいという気持ちで、私はそう言っていた。
「あら、まだ残ってるじゃない。ダメよ。ちゃんと食べないと。何かお菓子でも食べたの?」
「……そういうわけじゃないけど。ううん、やっぱり食べるね」
「そう。良い子ね」
お母さんは満足して微笑んだ。私も安心する。余計なこと、言うんじゃなかった。早く処理しよう。
「……お姉ちゃんは」
私も、お姉ちゃんみたいに、レンジでチンしたごはんをひとりで食べたい。そうしたらきっと、味がする。お母さんの料理は美味しいらしいから、一回でも良いからゆっくり味わって食べてみたい。
「お姉ちゃんは夜遅くまで、いっぱいお勉強してるのよ」
ふーん。お姉ちゃん、は、ね。悪気は無いと思うけど。
「■■■は家にいるんだから、みんなと食べるのよ」
うんうんと、うるわしい家族の図に、お父さんも頷く。
「■■■」
お父さんが、私の名前を呼ぶ。それは強固な支配力を持って、私を椅子に縛り付かせる。優しいお父さん。大好きなお父さん。たまに大きな声を出す、私のお父さん。だから私は、大きな声を出させないようにしないと。
「なぁに?」
素知らぬ顔と無垢。この程度と当たりを付けて、首を傾げる。なるべく話が穏便に進むように、事を荒立てないように、神経を逆撫でしないように。だいじょうぶ、私はできる。
「六年生になったら、学校を休まないようにしような。本当は、病気で学校を休むなんておかしいんだぞ」
上から目線で優しく言い聞かせるお父さんはニコニコと柔和な顔をしている。あはは、変なの。仁王像に菩薩の表情なんか彫っても、ねぇ?
「……私もそうしたいけど、具合とか、あるし」
「ん? 熱が出たわけでもないんだろう?」
頷け。ズル休みはおかしい。ズルはいけない。頷け。頷け。
すごい圧力。
「うん。だけど……」
「だけど、じゃない。どうしてお前は、そんなに屁理屈ばかり捏ねるんだ。■■■は、口先ばかりの困ったやつじゃないだろう?」
言ったことないよ、そんなの。言えたことないよ、そんなの。
「お前だけおかしいよ。みんな、ちゃんとしてるのに。お友達がズル休みしてたら、■■■ならどう思う? いけないなぁ、って思うだろ?」
「はい」
「よし」
お父さんは満足して頷いた。
良かった。穏便に済んだ。私も満足。
「お父さんはそんなことないって知ってるんだけどな。学校を休んだりすると、周りの人は色々心配をするんだ」
はい。私が悪いです。お母さんが『母親失格』なんて無責任なことを言われたのは私のせいです。
「六年生になったら、小さなことでクヨクヨしない。お父さんと約束だ」
新学期になっても私の要素は何一つ変わらないよ。
お父さんは勝手に私の手を取って、指切りげんまんをした。
「本当にな、そんなことだと世の中渡っていけないよ。泣き虫は、立派になれないぞ」
生きていけないのなら死ねと言われたような気がしました。
ベッドの上に全身を投げ出すように横たわった。
この部屋にいても、階下の声は聴こえてくる。お父さんとお母さんは、まだ話をしているようだった。大声を、出していた。
ピリピリした空気が苦手だった。
家族構成は、お姉ちゃん、お母さん、お父さん、あと私の四人。ペットは、いない。でも野良の黒猫をよく見かける。
家族仲は良い方だと思う。ぜんぜん、悪くない。それは本当……。
お母さんは優しいし、お父さんも優しいし、お姉ちゃんはすごく優しい。自慢の家族。
……この家から、いなくなってしまいたかった。
◇
もしかすると、人間関係は弾幕シューティングに似ている。
あのね、こう、ブワァーって、なるじゃん? 画面いっぱいに、ブワワワアーって。当たったら死んじゃうやつ、たくさん、ブワワワワアアーって。
……うん、私って説明へたっぴだ。私の気持ちを上手く説明できたらなんて考えてたけど、そのプランは取り止めにしよう。当たったら死んじゃうやつがたくさん飛び交っている、っていうのは、良い線いってるとは思うんだけどなぁ。
ボムもやり繰りして、色んなこと、ノーミスで乗り越えないといけない。
上手にスコアを稼ぐことができるのなら、楽しいゲームなのだと思う。下手でも試行錯誤を繰り返して初めてクリアできた時、達成感は自分だけの喜びなのだと思う。結局できなくたって、それはそれで笑い話かも。
ぴちゅん、ぴちゅん、ぴちゅん……あはは、楽しいね。本当にただのゲームなら、楽しいんだけど……。
その日は外には出掛けずに家にいた。お母さんが大変そうだから、ごきげんをとる日なの。
「おひるごはん、困ったわね。子供が家にいるとやらなきゃいけないことが増えるわ」
きっとそれは、何気ない一言。
「……ごめんなさい」
「そういうことじゃないでしょうッ!?」
ぴちゅん。
唐突に、お母さんは金切り声をあげた。
「えっと、お手伝い、するね。するから?」
「いっつもいっつも細かいことばっかり気にしてオドオドしてるくせに……そういう、人を小馬鹿にした目……」
「そんな目、してないよ」
「どうして下の子だけこうなのよ。お姉ちゃんは、しっかりしてるのに」
「……ごめんなさい」
私はしっかりしてないんだね。してないよね。
私がちゃんとしていれば良かった。もしくは、最初からいなければ良かった。
でも、そんな言葉は決して口に出さない。以前、どうしても無理、この世からいなくなっちゃいたいよ、という相談をして、状況が悪化したことがある。その時のお母さんの悲しそうな顔は生涯忘れない。
一頻り、お母さんは啜り泣いた。
「ダメなお母さんでごめんね。ほんと、母親失格よね……」
もう一頻り、お母さんの啜り泣きは続いた。
「ううん、だいじょうぶだから。ね?」
これはガス抜きだ。
今日は、お母さんが大変そうだから、ごきげんをとる日なの。もう少し上手にやりたかったけど、当初の予定通りになった。
……お散歩、行きたいな。
良い子であることは安全地帯。
良い子でいれば、ぴちゅらない。
ぴちゅーんってなると、心に1ダメージ。だから私は神経を擦り減らして、人の顔色をうかがって生きている。
気にし過ぎているだけなんだろうけど、私には、空気の悪くなる予兆、のようなものが感じ取れた。そういう時は、先回りして問題を消しておく。
例えば、スマホをいじっている私に、お母さんの視線が向く。それは、もうスマホをおしまいにする時間の意。
例えば、お父さんがブツブツ言いながら、部屋の中を歩いている。それは探し物。大体、ハサミかリモコンとか何かだから、大声で「おいアレは何処だ」と言う前に、これって差し出す。それができれば、乗り越えられる。
ぴちゅりたくない。
ぴちゅるのは、すごく疲れる。
「ほら、■■■。これを見てくれ」
正気なの? とか思っても、言わない。
今晩のお父さんは、世紀の大発明を成し遂げた天才発明家なのですっ。
「これは……?」
「フフン」
結構立派な画用紙だった。お父さんがゴツい手でカラーマーカーを使って工作していたのかと思うと、感動も一塩ではなかろうか。
その名も──
『ちゃんとした子になれる10の項目』
何の啓発本だ、おい。ちなみに、そのタイトルは一文字ごとに順番に色を変えながら手書きしていく、という仕様。出来映えの程は、あ~、とりあえず蛍光ペンなら筆箱に入ってますっていう、男の子の雑なノートだぁーって感じ。そのわりに、下記に続く分かり易い箇条書きのスッキリ感がアンバランスだった。もし次の機会があるのなら、最初からパソコンで編集してプリントアウトすることをお勧めする。お父さん、仕事してるし文書作成とか得意でしょ。
「おー」
お父さんが、どうだ、という顔をしてるので、ノってみた。横目でお母さんの顔色をうかがうと……微妙そうな顔じゃんっ。やっぱこれ、微妙なやつじゃんっ。
「考えは、良いんだけどねぇ」
「そうか……? まあ、折角作ったんだ」
「お父さん、それで、これは……?」
聞きたくないなぁ。
「ん」
と、顎でしゃくる。
無言のジェスチャーは、見なさい、とよりも、御覧じろ、と翻訳したい。自信満々である。
内容自体は大したものではなかった。挨拶する。クヨクヨしない。学校を休まない。この手の文章が、10の項目の名の通り、10項目。要するに、聞き覚えのある言葉たちの陳列だ。
「部屋のよく見える所に、張っておきなさい」
「え」
言ったのは、お母さんだ。
「これはトイレとかで良いわよ。これ、私が書き直してあげるから。そっちをお部屋に張りなさい」
「……おい、トイレとはなんだ」
あ、お父さん、ちょっと苛々してきた。
まあ、今のは完全に、五十音表とか日本地図の扱いだよね。
「ううん、私、これ好き。お父さんが書いてくれたから」
褒めて欲しいよ。
この局面で、『これでも良い』などと言い放ち、『でもとはなんだ、でも、とは』と反論される可能性を残さなかったのは、我ながら大したファインプレーだと思うのだ。ねぇ、褒めてよ。誰か私を褒めて。ひゅーひゅーっ、神回避だぜーいっ。
セロハンテープってどこだっけ。お父さんが探すのに手間取る前に、用意しておかないと。……ああ、いや、私の部屋にあるっけ。
ところで、こんなものを張っちゃうんだね。じゃあ、ますます私の部屋が私の居場所じゃなくなっちゃうね?
挨拶する。クヨクヨしない。学校を休まない。
私の嫌いな言葉の陳列。部屋にいる時もトイレにいる時も視界に入れておけって言うんだね?
「お父さん、さ」
「どうした?」
「あんまり、大きな声、出さないで」
「ん? 出してないだろ?」
お父さんは、心底不思議そうに言った。
「お母さんも、お父さんと喧嘩しないで」
「なんで? 喧嘩なんか、したことないじゃない」
お母さんは、心底不思議そうに言った。
この前のアレも、今のコレも、娘のための話し合いで、いわゆる夫婦喧嘩には当て嵌まらない。そういう解釈のようだ。
「……早速だけど、これ、お部屋に張ってくるね」
逃げ出す口実が、今だけは頼もしかった。
◇
私は次の日も散歩をする。いつでも散歩をする。ひとりだけの秘密基地を探している。でも、この小さな町は、人の気配に満たされているから、私が誰にも見付からない場所を、私は見付けることができない。透明人間になりたいよ。誰にも見付かりたくないよ。
この前とは別の公園では、高校生くらいのお兄さんがキャッチボールをしていた。球児かな。結構、本格的だ。
誰も待っていないバス停。錆びたベンチに座っていたら、おばあさんがやって来た。
アパートのゴミ捨て場。カップラーメンの容器が、アスファルトに転がっていた。看板で、正しい捨て方が指示されている。
「……良いよ。ゆっくりお食べ」
カラスに小声でそう言って、邪魔しないように立ち去った。
あまり遠くに行く勇気も無いから、決まった道を歩けば、散歩道はすぐに尽きる。
そう言えば、あの野良の黒猫さん。見掛けなくなっちゃったな。別にウチの猫じゃないし、良いんだけど。
「あらぁ、こんにちは」
その声に、私は飛び跳ねそうになった。
びっくりした。そんな次元ではない。誰かに話し掛けられるという──その恐怖。おぞましさ。
そして私は失敗した。近所の人を無視して、私はその場から全力で走って逃げた。この後、話がどう伝わるかは、今は考えたくない。
その日の夜のことです。
「……へぇ?」
お姉ちゃんは、例の画用紙を見るなり、鼻でせせら笑った。
「面白いじゃない。こんなに笑ったのは、三時間振りよ」
「わりと笑ってるね、お姉ちゃんは」
お姉ちゃんはベッドの上に足を組んで座っていた。私とちょっと年が離れているだけなのに、偉そうな風格を纏っている。
お姉ちゃんのことは、好き。大好き。
「……お姉ちゃんはさ、これ、どう思う?」
「どうって? さあ、子供の人格を無視した無神経な親の所業かしら。悪意が無い分、タチが悪いわね。無自覚だから、これでどれだけ深く傷付いているか気付きもしない。気に入らないなら剥がして破って丸めて捨てれば?」
「……お姉ちゃんは、私の味方だよね」
「もちろんよ、■■■。お姉ちゃんは、貴方のことだけは愛してあげるからね」
「……お姉ちゃんは、私のことを守ってくれるよね」
「そうね。何かあったら、私に言いなさい。学校? 家? どこでも、私が良いようにしてあげるわ」
少しだけ、ためらって。さらにもう一つ、続ける。
「……お姉ちゃんは…………私のこと、分かって、くれるよね」
「もちろん」
お姉ちゃんは、まだ年頃の少女とは思えないほど──あるいは、少女たる者として何者よりも少女らしく、嫣然として微笑んだ。
それは、ちゃんとしたオトナの女性なら、決して浮かべない質の笑みだ。世の中を舐め腐った、少女ならではの嘲笑。どんな王様よりも偉い傲岸不遜な少女様の、心の底から人間のことを馬鹿にした笑顔だった。
「──お母さんとお父さんのこと、大っ嫌いなんでしょ?」
その笑顔で、迷いもせずに、そう言ったのだ。
「違う、よ」
答える私には、迷いがある。
「どうして?」
床に直接座った私を、お姉ちゃんは玉座の上からそうするように見下ろしていた。
人間を見下して醒め切った目線は、心でも読んでいるかのようだ。お姉ちゃんは、常にそういう目で人間という生き物を蔑んでいる。
「誰かに話し掛けられるという──その恐怖。おぞましさ。■■■の感じている日々のストレス。全てを見知っているわけではないけれど、おおよその所、察しは付くのよ? 周囲に迎合できない個人として、当然の反応よ」
「…………」
「■■■は何もおかしくないのよ。人間は人間を殺す生き物だもの。例えば、お母さんとお父さんが私達のことを殺すように。■■■も人間を殺して当然なのよ。命を奪うことだけが、殺すということではない。心を殺すのだって、立派な殺人。この世界はそういう殺人で溢れ返っている。私達姉妹は、その事実を知っている」
そう。知っているとも。
お姉ちゃんがこうだって、知っている。お母さんもお父さんも学校の先生も誰も気付いていないけど、お姉ちゃんは、こうなのだ。こう、というのがどういうことかは上手く説明できないけれど、『心の怪物』とでも呼んだら良いのかも知れない。
畸形児だ。
私は心の劣等生。お姉ちゃんは、優等生。
「ねぇ、■■■。お姉ちゃんは、いつも■■■に教えているわよね。やられたらやり返せ。邪魔する奴は全て潰せ、って。他人なんて心底どうでもいいものに、むざむざ殺されてやる義理なんか無いのよ。やられたらやり返すのは脊髄反射、でもそうなる前に、やられる前にやれ。先手を打って全滅させろ。皆殺しは大前提。泣いて命乞いをしても許すな。必ず殺せ」
「……別に、そんなこと」
「思ってない? そうね、今は、思ってないわ」
お姉ちゃんは私の言葉の先を継ぐ。他の人にされると違って、遮られた、という印象は無い。ただ、痛みもなく内臓を引き摺り出されたような生理的嫌悪感がある。
「■■■もいつか、お姉ちゃんみたいになるのよ。だって、ふたりきりの姉妹だもの」
私は、お姉ちゃんのことが好き。大好き。
お姉ちゃんも、私のことが好き。大好き。
誰もが羨む、仲良しな姉妹だ。お姉ちゃんは楽しそうにクスクスと笑っている。
「お母さんとお父さん? 私はあいつらのこと、死ねば良いって思ってるわよ? いるわよねぇ、ああいう非人間的な人間。ボケても介護とかしてあげない。適当に家を出たら、二度と帰って来ないから。でも死に目にくらいは帰って来てやっても良いわね。耳元で、どんな絶望を誘う言葉を囁いてやろうかしら」
「お姉ちゃん……」
「でもね、■■■。私、貴方のことは大好きよ。ちょっと稼いだら、静かな場所に家を探そうと思ってるの。そうしたらふたりで暮らしましょうね。あっ、そうだわ。猫を飼いましょう。私、実はめっちゃ猫とか好きなのよ」
うふふふふっ、とお姉ちゃんは笑う。笑いが溢れて止まらないといった様子。
「猫さん猫さん。あははっ、にゃー、なんちゃって」
はちゃめちゃにカワイイ。
一方で、壮絶な違和感も付き纏っていた。お姉ちゃんは、そんなカワイイ生き物ではないのに。
「■■■?」
お姉ちゃんは、少しおかしい私の様子に気付いたようだった。窒息しそうだよ。
「……お姉ちゃん、お願いだから、もうやめて」
「そうね。今日はこのくらいにしましょう。いつかきっと、■■■にも私の言っていることが分かる日が来るから、また、その時にね。……あ、もうこんな時間。今日はもう寝なさいな」
はい、おやすみなさい。
私は、そう言ったか言わないかくらいの元気の無さで、のろのろと二段ベッドの梯子を登った。
「おやすみなさい。お姉ちゃん」
「ええ、おやすみ。私の大切な■■■」
それからお姉ちゃんは、ふと思い出したみたいに、例の画用紙を剥がして破って丸めて、ゴミ箱に捨てた。
◇
お姉ちゃんは、私のことを理解してくれる。
つらくて、くるしくて、もうどうにもならない気持ちがあることを、知ってくれている。
でも、お姉ちゃんには分からない。
仮に同じ風景を見て、同じように感じているのだとしても、お姉ちゃんと私では反射的に取る行動が真逆だった。他人から傷付けられた時、お姉ちゃんはいとも簡単にやり返す。私が怯えて縮こまる時も、お姉ちゃんは、どうやって相手を完膚なきまでに叩き潰すか考えている。それが当然だと思っている。そして、私も同じなのだと思っている。でも、違うんだよ……。私は、お姉ちゃんのようには、できない。
だから、本当の意味でお姉ちゃんが私を分かってくれることも無いのだ。
もう、耐えられない。
人から話し掛けられたくない。人の姿なんて見たくない。ピリピリした空気は、嫌い。じゃあ、どうしたら良いんだろう?
真夜中。
私はキッチンの明かりを、パチリと点ける。
この場所には、刃渡り17センチ、ステンレスの解答があった。
削げば良い。抉れば良い。
何も聴こえなくなって、何も見えなくなれば良い。
片目をつむって手にした包丁の先端を見つめ、開いている方の瞳に狙いを澄まして近付けていく。だんだんと焦点がボヤけて、瞳の数ミリ前まで迫ってくると、もうその鈍色が何なのか分からなくなる。普段、こんなに至近距離で物を見ることは無い。
ぷつっ……。
あ、痒い。
痛い、と感じるよりも先に、掻痒感があった。思考は驚くほど冴えている。自分の体を傷付けることを怖いとも思ってない。包丁の柄を握る手の微細な震えは、カメラの手ブレを引き起こす程度のもので、その振動が、カリ、カリ、と角膜を引っ掻いている。目の端から、生ぬるい涙の雫が滴り落ちた。
すーっと埋もれていく、尖った先端。ゼリーを想像していたのだけど、思ったよりも固い、熟していない果実をもっと固くしたような手応え。痛くはない。熱い。嘘。すごく痛い。
でも、私には分かるのだ。異物感は凄まじいのに、先端はまだ数ミリしか瞳を侵していない。カチカチと鳴り始めた奥歯を噛み締める。つむりそうになった目蓋を空いた手で抉じ開ける。
呼吸を止めて、手に力を込める。少しも、ためらわなかった。
…………
……………………
『どうしてこんなことをしたの?』
絶対に聞きたくないと思っていた言葉を、病院のベッドで目覚めた私は早々に聴かされた。両目を抉って鼓膜を突き破り耳を削ぎ落とすつもりが、どうやら私は、片目に包丁を刺したところで気を失っていたらしいのだ。
私のことを大好きなお母さんとお父さんが、泣きながら私の体を抱き締めて、『なんで?』『どうして?』と繰り返す。
お姉ちゃんも、私のことを心配してくれていたみたいだ。それと、両親の死角になる位置で、不思議そうな表情で頻りに首を傾げてもいた。陰惨な事件に理解と共感を示すお姉ちゃんは、どうして妹が手に取った刃物で両親を刺し殺さなかったのか、それが分からないようだった。一生、分かることは無いだろう。
目が覚めてから、私は初めて絶望した。たかが自傷行為なんて、絶望の一歩手前に過ぎなかった。
どうして? その問い掛けは、一生、私に付き纏ってくるのだ。包丁を目に突き立てたことくらい、私には自明の理としか思えない自然な流れなのに。どうして、誰も分かってくれないのだろう。
両親が何を言っているか、どれだけ貴方を愛していると言っていたか、私はほとんど覚えていなかった。ああ、心を閉ざすとは、こういうことだ。徹底的な無関心。両親さえも、他人以下。道路に転がっている小石と同じ程度には、簡単に見落としていく。もう、あんな人たちに興味なんか無いよ。何も期待しないよ。
悲観でもなく、大それた決意でもなく、遠からず、私は必ず自殺することを悟った。この世界に生きていたことが、最初からの間違いだった。他人の目を気にし過ぎるせいでボロボロになって死ぬのは嫌だから、死ぬまで心を閉ざしていよう。自分でも分からないうちに、ふわっと死んでしまえれば良い。私は楽しげに、青い空からの墜落死を夢見る。
ジクジクと熱を持つ眼球の痛みが心地良い。心が痛くなったら、体の痛みに逃げよう。ガーゼの上からそっと抑えているだけでも、安心できた。
途中で気を失ったことはともかく、この行為を、私は少しも後悔していなかった。やっと、本当の自分になれたような気がする。痛みが引けば、また同じことをするだろう。
そして、夜が更ける。静かな夜だった。
いつの間にか寝入っていた私は、誰かの気配で目を覚ます。
窓が、開いている。夜風にカーテンが揺れている。枕元に、まだ生臭い土の臭いを纏った、青い薔薇の花が一輪、無造作に置かれていた。
薔薇を手に取って……ふと、左右の手で温度が違うことに気付いた。それに、ベッドの片隅が温かい。
そのちょっとした不思議が、ついさっきまで誰かがそこに座っていて、何も言わずに私の手を握っていてくれていたみたいだと感じられた。
──ひとりじゃないよ。
誰かが呟いた。
──うん、貴方も。貴方も、ひとりじゃないからね。
私も、そう呟いた。
家族構成は、お姉ちゃん、お母さん、お父さん、あと私の四人。ペットは、いない。でも野良の黒猫をよく見かける。
家族仲は良い方だと思う。ぜんぜん、悪くない。それは本当……。
お母さんは優しいし、お父さんも優しいし、お姉ちゃんはすごく優しい。自慢の家族。
でも、家には帰りたくなかった。
公園でボール遊びをしていた子供達が、親切な大人に叱られているのを見た。私はその光景を横目に、足早に立ち去るのだ。自分には関係の無いことなのに、胸が苦しくなった。最近、何処に行っても邪魔者扱いされる。
静かな細い路地で蹲っていたら、ちょうど、車が通り掛かった。電柱の裏に隠れて、少し、運転手さんに会釈した。光の加減で顔色は分からなかったけれど、車の速さはゆったりとしていた。たまに、お構いなしの人がいるから、車は怖い。
午後3時10分。帰るにはまだ早いのに、時間を潰す所が何処にも無い。
春休みだった。
学校へ行かなくて良いから、お休みは好き。でも少し長いお休みになると、そうも言っていられなかった。
なんとなくだけど、分かるよ。──邪魔にされてるって。
お母さんは毎日大変なんだって。子供の世話は大変なんだって。私は掃除機の音に追い立てられるように、家を出たのだった。
お母さんのことは、好き。若くて美人。お料理も上手。あと、お料理のブログ? をやっているみたい。
……それから、いつも、ズケズケとものを言う人。
私はいつも、ひとりになれる秘密基地を探している。でも、そんな素敵な場所は、この町には無いみたい。良さそうな場所には、大抵、先客がいる。例えば公園はコーキョーのバショであって誰のものでもないし、人の住む世界には、人のいない場所なんて無いのだと思う。住宅街を歩いていると、つくづく、そのことが分かる。立ち並ぶ家々、塀に区切られた箱庭の中に、一つも抜かすことなくそれぞれの家族が住んでいて、それぞれの小さな宇宙がある。私にはなんだかそのことが不思議に思えたのだけど、お父さんには、そんなの当たり前だろうと笑われちゃった。
お父さんのことは、好き。カッコイイ……かな? 俳優さんみたいな顔ではないけど、昔は野球をやっていたらしくて、体はたくましい。今でも全然お腹が出てないの。年齢の割に若々しく、背も高くて肩幅も広くて、すっごく強そう。えへへ。
気付けば私は、住宅街の中にある小さな公園だけではなくて、小高い丘の上にある方の公園にまで、やって来ていた。こちらは遊具のある普通の公園とはちょっと違っていて、貯水池があったりだとか、人の気配が少ない。それでも、散歩に訪れる人はいるから無人ではない。
ほら、おばさん達の話し声。名残惜しくフェンス越しに緑色の水面を見つめてから、私は逃げるように、その場を去った。
家の基部だけが出来上がっている四角い空き地。今日は、工事の人たちがお休みで、誰もいない。でも、そのうち誰かの家になる。
「猫さんは、どこへ行くのかな?」
車の下にすっと滑り込んで、そのまま何処かへ行ってしまうノラ猫が羨ましかった。
でも、あのミケ猫さんにしてみれば、私なんかに出くわして、びっくりしたのかも。そう思ったら、走って追い掛けるのは可哀そうだ。
とぼとぼと家の近くまで戻ってくると、隣の家の奥さんが庭に出ていた。少し立ち止まって、口の中で練習しておく。
「こんにちは」
ちゃんと言えた。挨拶もできないと、ロクな大人になれないそうだから。後で怒られないように、私はちゃんと挨拶するのだ。ご近所付き合いの情報網って凄くて、私がちょっと何かしたり何かおろそかにすると、それをお母さんが知っていることがある。うん、みんなの仲が良いのは良いことだ。最近は、隣の家に誰が住んでるかも知らないなんて寂しいこともあるみたいだからね。善きかな善きかな、なんちゃって。
「あらぁ、こんにちは。偉いわね」
「えへへ」
多分だけど、このくらいの可愛げで丁度良い。
「何をしてるんですか?」
世間話とか、したくないよ。するだけ無駄だよ。
「んー、猫がね」
「ネコさん?」
「うちの裏が通り道になってるらしくてねぇ、迷惑なんだよ。餌とかやっちゃダメだよ? 猫は簡単にツケアガるからね」
「……………………そう。うん、分かった」
どうしてか分からないけど、家のドアに手を掛けた瞬間、今すぐ背中を向けて走り出したい気持ちが、空気をめいっぱい吸い込んだ時みたいに、胸の中に広がった。
「ただいまー」
靴を脱いで、立ち止まった。
話し声がする。
えっと、リビング。お母さんの声しか聴こえないから、電話かな。すぅーっと様子をうかがいに行って、まだ話が長そうだったので、階段を昇った。
私の部屋は、本当はお姉ちゃんの部屋だ。ふたり一緒の部屋だけど、ピンク色のカーテンとかが、お姉ちゃんって感じがする。二段ベッドは私が上。お姉ちゃんがどっちにするか聞いてくれた。
お姉ちゃんのことは、好き。本当に自慢のお姉ちゃん。お姉ちゃんは、運動以外なら大体なんでもできる。テストの点数が良いことくらい当たり前で、おとなの人が相手でも、少しも緊張しないで話すことができる。良い学校に入ろうとすると、AO入試とか推薦入試とか言うのがあるみたいで、私はそれを聞いた時、テストしないで良いなんて楽チンだなぁと思ったものだけど、面接とか、小論文を書いたりとか、すっごく難しそうだった。でもお姉ちゃんはそういうのでも、こなせるようだった。でもでも、更に上の学校を目指して勉強中。受験はまだ先なのに、春休みはずっと塾で、授業の無い日も自習室だ。
最近、遊んでくれないような気がする。
この部屋にいても、階下の声は聴こえてくる。テレビが点いていればその音が聴こえるし、もちろん人の話し声も。
私は急いで、とたとたと階段を駆け下りる。
「──お母さん、ただい……ま」
「今、階段走ったでしょう?」
「ごめんなさい」
「それと、なんでただいまって言わないの?」
「……言ったよ?」
電話、あまり面白くなかったみたい。
顔は怒ってないけど、声が荒い。
「言ったけど、お母さん、お電話してたから」
「──そう。そうね、電話してる時に話し掛けないでって言ったものね」
「うん」
あー、良かった。お母さんが苛々している時に言い訳めいたことを言うのは分の悪い賭けなんだけど、今回は納得してくれた。
「えっと、じゃあ……」
逃げる口実を探す。いつもなら、宿題とか明日の準備とかあるけれど、今は楽しい春休み。
「待ちなさい。そこに、座りなさい」
「……うん」
「さっきね、おばあちゃんから電話があったのよ」
一回だけ、家のブレーカーが落ちたことがある。
給湯器にオーブントースターに電子レンジやら何やらをいっぺんに使っていたら、突然、それらの動作が止まってしまったのだ。最初は、あれ、停電かな、と首を傾げたりして、すると流石のお父さんが冷静になって、ブレーカーだ、と。それから間もなくお父さんが戻してくれた。ブレーカーが落ちるなんてその時が初めてのことだったから、ちょっとした笑い話にもなった。
……ブレーカー。
そういうもの、人間にもあるんだね。
ブロッコリーが嫌いだった。
でも、義務だから。子供の仕事は、明るい良い子でいることだから。ちょっと大盛りのごはんを、もぐもぐと喉の奥へと押し込んでいく。一刻も早くこの場を去りたかったけれど、一家団欒の時間は家族で過ごすことがルールになっている。うちの家族は仲が良いのが自慢なのだ。
「……母さんの言うこと、気にし過ぎだよ。お前はちゃんとやってるって、誰より俺が知ってるよ」
「でも……」
この頃は温かくなってきたから、私の好物……ということになっているシチューも、食べおさめだ。味がしない。ニンジンもブロッコリーもブロックベーコンも同じ固形物。
「母さんには、後で俺から言っておく。お前は気にしなくて良い。いくらなんでも、『母親失格』は言い過ぎだ」
お父さんの言う母さんは、つまり私のおばあちゃんで、お母さんのお義母さんに当たる人。それから、口うるさい人。
今日、電話で話してた。私が『神経質』なのは、お母さんが私を甘やかし過ぎるからなんだって。優しいお母さんのこと、そんな風に言われるのは寂しい。
「……お母さん。今日、ちょっと、お腹いっぱいなんだけど」
仲裁の意味半分、もう半分はもう本気でお腹いっぱいという気持ちで、私はそう言っていた。
「あら、まだ残ってるじゃない。ダメよ。ちゃんと食べないと。何かお菓子でも食べたの?」
「……そういうわけじゃないけど。ううん、やっぱり食べるね」
「そう。良い子ね」
お母さんは満足して微笑んだ。私も安心する。余計なこと、言うんじゃなかった。早く処理しよう。
「……お姉ちゃんは」
私も、お姉ちゃんみたいに、レンジでチンしたごはんをひとりで食べたい。そうしたらきっと、味がする。お母さんの料理は美味しいらしいから、一回でも良いからゆっくり味わって食べてみたい。
「お姉ちゃんは夜遅くまで、いっぱいお勉強してるのよ」
ふーん。お姉ちゃん、は、ね。悪気は無いと思うけど。
「■■■は家にいるんだから、みんなと食べるのよ」
うんうんと、うるわしい家族の図に、お父さんも頷く。
「■■■」
お父さんが、私の名前を呼ぶ。それは強固な支配力を持って、私を椅子に縛り付かせる。優しいお父さん。大好きなお父さん。たまに大きな声を出す、私のお父さん。だから私は、大きな声を出させないようにしないと。
「なぁに?」
素知らぬ顔と無垢。この程度と当たりを付けて、首を傾げる。なるべく話が穏便に進むように、事を荒立てないように、神経を逆撫でしないように。だいじょうぶ、私はできる。
「六年生になったら、学校を休まないようにしような。本当は、病気で学校を休むなんておかしいんだぞ」
上から目線で優しく言い聞かせるお父さんはニコニコと柔和な顔をしている。あはは、変なの。仁王像に菩薩の表情なんか彫っても、ねぇ?
「……私もそうしたいけど、具合とか、あるし」
「ん? 熱が出たわけでもないんだろう?」
頷け。ズル休みはおかしい。ズルはいけない。頷け。頷け。
すごい圧力。
「うん。だけど……」
「だけど、じゃない。どうしてお前は、そんなに屁理屈ばかり捏ねるんだ。■■■は、口先ばかりの困ったやつじゃないだろう?」
言ったことないよ、そんなの。言えたことないよ、そんなの。
「お前だけおかしいよ。みんな、ちゃんとしてるのに。お友達がズル休みしてたら、■■■ならどう思う? いけないなぁ、って思うだろ?」
「はい」
「よし」
お父さんは満足して頷いた。
良かった。穏便に済んだ。私も満足。
「お父さんはそんなことないって知ってるんだけどな。学校を休んだりすると、周りの人は色々心配をするんだ」
はい。私が悪いです。お母さんが『母親失格』なんて無責任なことを言われたのは私のせいです。
「六年生になったら、小さなことでクヨクヨしない。お父さんと約束だ」
新学期になっても私の要素は何一つ変わらないよ。
お父さんは勝手に私の手を取って、指切りげんまんをした。
「本当にな、そんなことだと世の中渡っていけないよ。泣き虫は、立派になれないぞ」
生きていけないのなら死ねと言われたような気がしました。
ベッドの上に全身を投げ出すように横たわった。
この部屋にいても、階下の声は聴こえてくる。お父さんとお母さんは、まだ話をしているようだった。大声を、出していた。
ピリピリした空気が苦手だった。
家族構成は、お姉ちゃん、お母さん、お父さん、あと私の四人。ペットは、いない。でも野良の黒猫をよく見かける。
家族仲は良い方だと思う。ぜんぜん、悪くない。それは本当……。
お母さんは優しいし、お父さんも優しいし、お姉ちゃんはすごく優しい。自慢の家族。
……この家から、いなくなってしまいたかった。
◇
もしかすると、人間関係は弾幕シューティングに似ている。
あのね、こう、ブワァーって、なるじゃん? 画面いっぱいに、ブワワワアーって。当たったら死んじゃうやつ、たくさん、ブワワワワアアーって。
……うん、私って説明へたっぴだ。私の気持ちを上手く説明できたらなんて考えてたけど、そのプランは取り止めにしよう。当たったら死んじゃうやつがたくさん飛び交っている、っていうのは、良い線いってるとは思うんだけどなぁ。
ボムもやり繰りして、色んなこと、ノーミスで乗り越えないといけない。
上手にスコアを稼ぐことができるのなら、楽しいゲームなのだと思う。下手でも試行錯誤を繰り返して初めてクリアできた時、達成感は自分だけの喜びなのだと思う。結局できなくたって、それはそれで笑い話かも。
ぴちゅん、ぴちゅん、ぴちゅん……あはは、楽しいね。本当にただのゲームなら、楽しいんだけど……。
その日は外には出掛けずに家にいた。お母さんが大変そうだから、ごきげんをとる日なの。
「おひるごはん、困ったわね。子供が家にいるとやらなきゃいけないことが増えるわ」
きっとそれは、何気ない一言。
「……ごめんなさい」
「そういうことじゃないでしょうッ!?」
ぴちゅん。
唐突に、お母さんは金切り声をあげた。
「えっと、お手伝い、するね。するから?」
「いっつもいっつも細かいことばっかり気にしてオドオドしてるくせに……そういう、人を小馬鹿にした目……」
「そんな目、してないよ」
「どうして下の子だけこうなのよ。お姉ちゃんは、しっかりしてるのに」
「……ごめんなさい」
私はしっかりしてないんだね。してないよね。
私がちゃんとしていれば良かった。もしくは、最初からいなければ良かった。
でも、そんな言葉は決して口に出さない。以前、どうしても無理、この世からいなくなっちゃいたいよ、という相談をして、状況が悪化したことがある。その時のお母さんの悲しそうな顔は生涯忘れない。
一頻り、お母さんは啜り泣いた。
「ダメなお母さんでごめんね。ほんと、母親失格よね……」
もう一頻り、お母さんの啜り泣きは続いた。
「ううん、だいじょうぶだから。ね?」
これはガス抜きだ。
今日は、お母さんが大変そうだから、ごきげんをとる日なの。もう少し上手にやりたかったけど、当初の予定通りになった。
……お散歩、行きたいな。
良い子であることは安全地帯。
良い子でいれば、ぴちゅらない。
ぴちゅーんってなると、心に1ダメージ。だから私は神経を擦り減らして、人の顔色をうかがって生きている。
気にし過ぎているだけなんだろうけど、私には、空気の悪くなる予兆、のようなものが感じ取れた。そういう時は、先回りして問題を消しておく。
例えば、スマホをいじっている私に、お母さんの視線が向く。それは、もうスマホをおしまいにする時間の意。
例えば、お父さんがブツブツ言いながら、部屋の中を歩いている。それは探し物。大体、ハサミかリモコンとか何かだから、大声で「おいアレは何処だ」と言う前に、これって差し出す。それができれば、乗り越えられる。
ぴちゅりたくない。
ぴちゅるのは、すごく疲れる。
「ほら、■■■。これを見てくれ」
正気なの? とか思っても、言わない。
今晩のお父さんは、世紀の大発明を成し遂げた天才発明家なのですっ。
「これは……?」
「フフン」
結構立派な画用紙だった。お父さんがゴツい手でカラーマーカーを使って工作していたのかと思うと、感動も一塩ではなかろうか。
その名も──
『ちゃんとした子になれる10の項目』
何の啓発本だ、おい。ちなみに、そのタイトルは一文字ごとに順番に色を変えながら手書きしていく、という仕様。出来映えの程は、あ~、とりあえず蛍光ペンなら筆箱に入ってますっていう、男の子の雑なノートだぁーって感じ。そのわりに、下記に続く分かり易い箇条書きのスッキリ感がアンバランスだった。もし次の機会があるのなら、最初からパソコンで編集してプリントアウトすることをお勧めする。お父さん、仕事してるし文書作成とか得意でしょ。
「おー」
お父さんが、どうだ、という顔をしてるので、ノってみた。横目でお母さんの顔色をうかがうと……微妙そうな顔じゃんっ。やっぱこれ、微妙なやつじゃんっ。
「考えは、良いんだけどねぇ」
「そうか……? まあ、折角作ったんだ」
「お父さん、それで、これは……?」
聞きたくないなぁ。
「ん」
と、顎でしゃくる。
無言のジェスチャーは、見なさい、とよりも、御覧じろ、と翻訳したい。自信満々である。
内容自体は大したものではなかった。挨拶する。クヨクヨしない。学校を休まない。この手の文章が、10の項目の名の通り、10項目。要するに、聞き覚えのある言葉たちの陳列だ。
「部屋のよく見える所に、張っておきなさい」
「え」
言ったのは、お母さんだ。
「これはトイレとかで良いわよ。これ、私が書き直してあげるから。そっちをお部屋に張りなさい」
「……おい、トイレとはなんだ」
あ、お父さん、ちょっと苛々してきた。
まあ、今のは完全に、五十音表とか日本地図の扱いだよね。
「ううん、私、これ好き。お父さんが書いてくれたから」
褒めて欲しいよ。
この局面で、『これでも良い』などと言い放ち、『でもとはなんだ、でも、とは』と反論される可能性を残さなかったのは、我ながら大したファインプレーだと思うのだ。ねぇ、褒めてよ。誰か私を褒めて。ひゅーひゅーっ、神回避だぜーいっ。
セロハンテープってどこだっけ。お父さんが探すのに手間取る前に、用意しておかないと。……ああ、いや、私の部屋にあるっけ。
ところで、こんなものを張っちゃうんだね。じゃあ、ますます私の部屋が私の居場所じゃなくなっちゃうね?
挨拶する。クヨクヨしない。学校を休まない。
私の嫌いな言葉の陳列。部屋にいる時もトイレにいる時も視界に入れておけって言うんだね?
「お父さん、さ」
「どうした?」
「あんまり、大きな声、出さないで」
「ん? 出してないだろ?」
お父さんは、心底不思議そうに言った。
「お母さんも、お父さんと喧嘩しないで」
「なんで? 喧嘩なんか、したことないじゃない」
お母さんは、心底不思議そうに言った。
この前のアレも、今のコレも、娘のための話し合いで、いわゆる夫婦喧嘩には当て嵌まらない。そういう解釈のようだ。
「……早速だけど、これ、お部屋に張ってくるね」
逃げ出す口実が、今だけは頼もしかった。
◇
私は次の日も散歩をする。いつでも散歩をする。ひとりだけの秘密基地を探している。でも、この小さな町は、人の気配に満たされているから、私が誰にも見付からない場所を、私は見付けることができない。透明人間になりたいよ。誰にも見付かりたくないよ。
この前とは別の公園では、高校生くらいのお兄さんがキャッチボールをしていた。球児かな。結構、本格的だ。
誰も待っていないバス停。錆びたベンチに座っていたら、おばあさんがやって来た。
アパートのゴミ捨て場。カップラーメンの容器が、アスファルトに転がっていた。看板で、正しい捨て方が指示されている。
「……良いよ。ゆっくりお食べ」
カラスに小声でそう言って、邪魔しないように立ち去った。
あまり遠くに行く勇気も無いから、決まった道を歩けば、散歩道はすぐに尽きる。
そう言えば、あの野良の黒猫さん。見掛けなくなっちゃったな。別にウチの猫じゃないし、良いんだけど。
「あらぁ、こんにちは」
その声に、私は飛び跳ねそうになった。
びっくりした。そんな次元ではない。誰かに話し掛けられるという──その恐怖。おぞましさ。
そして私は失敗した。近所の人を無視して、私はその場から全力で走って逃げた。この後、話がどう伝わるかは、今は考えたくない。
その日の夜のことです。
「……へぇ?」
お姉ちゃんは、例の画用紙を見るなり、鼻でせせら笑った。
「面白いじゃない。こんなに笑ったのは、三時間振りよ」
「わりと笑ってるね、お姉ちゃんは」
お姉ちゃんはベッドの上に足を組んで座っていた。私とちょっと年が離れているだけなのに、偉そうな風格を纏っている。
お姉ちゃんのことは、好き。大好き。
「……お姉ちゃんはさ、これ、どう思う?」
「どうって? さあ、子供の人格を無視した無神経な親の所業かしら。悪意が無い分、タチが悪いわね。無自覚だから、これでどれだけ深く傷付いているか気付きもしない。気に入らないなら剥がして破って丸めて捨てれば?」
「……お姉ちゃんは、私の味方だよね」
「もちろんよ、■■■。お姉ちゃんは、貴方のことだけは愛してあげるからね」
「……お姉ちゃんは、私のことを守ってくれるよね」
「そうね。何かあったら、私に言いなさい。学校? 家? どこでも、私が良いようにしてあげるわ」
少しだけ、ためらって。さらにもう一つ、続ける。
「……お姉ちゃんは…………私のこと、分かって、くれるよね」
「もちろん」
お姉ちゃんは、まだ年頃の少女とは思えないほど──あるいは、少女たる者として何者よりも少女らしく、嫣然として微笑んだ。
それは、ちゃんとしたオトナの女性なら、決して浮かべない質の笑みだ。世の中を舐め腐った、少女ならではの嘲笑。どんな王様よりも偉い傲岸不遜な少女様の、心の底から人間のことを馬鹿にした笑顔だった。
「──お母さんとお父さんのこと、大っ嫌いなんでしょ?」
その笑顔で、迷いもせずに、そう言ったのだ。
「違う、よ」
答える私には、迷いがある。
「どうして?」
床に直接座った私を、お姉ちゃんは玉座の上からそうするように見下ろしていた。
人間を見下して醒め切った目線は、心でも読んでいるかのようだ。お姉ちゃんは、常にそういう目で人間という生き物を蔑んでいる。
「誰かに話し掛けられるという──その恐怖。おぞましさ。■■■の感じている日々のストレス。全てを見知っているわけではないけれど、おおよその所、察しは付くのよ? 周囲に迎合できない個人として、当然の反応よ」
「…………」
「■■■は何もおかしくないのよ。人間は人間を殺す生き物だもの。例えば、お母さんとお父さんが私達のことを殺すように。■■■も人間を殺して当然なのよ。命を奪うことだけが、殺すということではない。心を殺すのだって、立派な殺人。この世界はそういう殺人で溢れ返っている。私達姉妹は、その事実を知っている」
そう。知っているとも。
お姉ちゃんがこうだって、知っている。お母さんもお父さんも学校の先生も誰も気付いていないけど、お姉ちゃんは、こうなのだ。こう、というのがどういうことかは上手く説明できないけれど、『心の怪物』とでも呼んだら良いのかも知れない。
畸形児だ。
私は心の劣等生。お姉ちゃんは、優等生。
「ねぇ、■■■。お姉ちゃんは、いつも■■■に教えているわよね。やられたらやり返せ。邪魔する奴は全て潰せ、って。他人なんて心底どうでもいいものに、むざむざ殺されてやる義理なんか無いのよ。やられたらやり返すのは脊髄反射、でもそうなる前に、やられる前にやれ。先手を打って全滅させろ。皆殺しは大前提。泣いて命乞いをしても許すな。必ず殺せ」
「……別に、そんなこと」
「思ってない? そうね、今は、思ってないわ」
お姉ちゃんは私の言葉の先を継ぐ。他の人にされると違って、遮られた、という印象は無い。ただ、痛みもなく内臓を引き摺り出されたような生理的嫌悪感がある。
「■■■もいつか、お姉ちゃんみたいになるのよ。だって、ふたりきりの姉妹だもの」
私は、お姉ちゃんのことが好き。大好き。
お姉ちゃんも、私のことが好き。大好き。
誰もが羨む、仲良しな姉妹だ。お姉ちゃんは楽しそうにクスクスと笑っている。
「お母さんとお父さん? 私はあいつらのこと、死ねば良いって思ってるわよ? いるわよねぇ、ああいう非人間的な人間。ボケても介護とかしてあげない。適当に家を出たら、二度と帰って来ないから。でも死に目にくらいは帰って来てやっても良いわね。耳元で、どんな絶望を誘う言葉を囁いてやろうかしら」
「お姉ちゃん……」
「でもね、■■■。私、貴方のことは大好きよ。ちょっと稼いだら、静かな場所に家を探そうと思ってるの。そうしたらふたりで暮らしましょうね。あっ、そうだわ。猫を飼いましょう。私、実はめっちゃ猫とか好きなのよ」
うふふふふっ、とお姉ちゃんは笑う。笑いが溢れて止まらないといった様子。
「猫さん猫さん。あははっ、にゃー、なんちゃって」
はちゃめちゃにカワイイ。
一方で、壮絶な違和感も付き纏っていた。お姉ちゃんは、そんなカワイイ生き物ではないのに。
「■■■?」
お姉ちゃんは、少しおかしい私の様子に気付いたようだった。窒息しそうだよ。
「……お姉ちゃん、お願いだから、もうやめて」
「そうね。今日はこのくらいにしましょう。いつかきっと、■■■にも私の言っていることが分かる日が来るから、また、その時にね。……あ、もうこんな時間。今日はもう寝なさいな」
はい、おやすみなさい。
私は、そう言ったか言わないかくらいの元気の無さで、のろのろと二段ベッドの梯子を登った。
「おやすみなさい。お姉ちゃん」
「ええ、おやすみ。私の大切な■■■」
それからお姉ちゃんは、ふと思い出したみたいに、例の画用紙を剥がして破って丸めて、ゴミ箱に捨てた。
◇
お姉ちゃんは、私のことを理解してくれる。
つらくて、くるしくて、もうどうにもならない気持ちがあることを、知ってくれている。
でも、お姉ちゃんには分からない。
仮に同じ風景を見て、同じように感じているのだとしても、お姉ちゃんと私では反射的に取る行動が真逆だった。他人から傷付けられた時、お姉ちゃんはいとも簡単にやり返す。私が怯えて縮こまる時も、お姉ちゃんは、どうやって相手を完膚なきまでに叩き潰すか考えている。それが当然だと思っている。そして、私も同じなのだと思っている。でも、違うんだよ……。私は、お姉ちゃんのようには、できない。
だから、本当の意味でお姉ちゃんが私を分かってくれることも無いのだ。
もう、耐えられない。
人から話し掛けられたくない。人の姿なんて見たくない。ピリピリした空気は、嫌い。じゃあ、どうしたら良いんだろう?
真夜中。
私はキッチンの明かりを、パチリと点ける。
この場所には、刃渡り17センチ、ステンレスの解答があった。
削げば良い。抉れば良い。
何も聴こえなくなって、何も見えなくなれば良い。
片目をつむって手にした包丁の先端を見つめ、開いている方の瞳に狙いを澄まして近付けていく。だんだんと焦点がボヤけて、瞳の数ミリ前まで迫ってくると、もうその鈍色が何なのか分からなくなる。普段、こんなに至近距離で物を見ることは無い。
ぷつっ……。
あ、痒い。
痛い、と感じるよりも先に、掻痒感があった。思考は驚くほど冴えている。自分の体を傷付けることを怖いとも思ってない。包丁の柄を握る手の微細な震えは、カメラの手ブレを引き起こす程度のもので、その振動が、カリ、カリ、と角膜を引っ掻いている。目の端から、生ぬるい涙の雫が滴り落ちた。
すーっと埋もれていく、尖った先端。ゼリーを想像していたのだけど、思ったよりも固い、熟していない果実をもっと固くしたような手応え。痛くはない。熱い。嘘。すごく痛い。
でも、私には分かるのだ。異物感は凄まじいのに、先端はまだ数ミリしか瞳を侵していない。カチカチと鳴り始めた奥歯を噛み締める。つむりそうになった目蓋を空いた手で抉じ開ける。
呼吸を止めて、手に力を込める。少しも、ためらわなかった。
…………
……………………
『どうしてこんなことをしたの?』
絶対に聞きたくないと思っていた言葉を、病院のベッドで目覚めた私は早々に聴かされた。両目を抉って鼓膜を突き破り耳を削ぎ落とすつもりが、どうやら私は、片目に包丁を刺したところで気を失っていたらしいのだ。
私のことを大好きなお母さんとお父さんが、泣きながら私の体を抱き締めて、『なんで?』『どうして?』と繰り返す。
お姉ちゃんも、私のことを心配してくれていたみたいだ。それと、両親の死角になる位置で、不思議そうな表情で頻りに首を傾げてもいた。陰惨な事件に理解と共感を示すお姉ちゃんは、どうして妹が手に取った刃物で両親を刺し殺さなかったのか、それが分からないようだった。一生、分かることは無いだろう。
目が覚めてから、私は初めて絶望した。たかが自傷行為なんて、絶望の一歩手前に過ぎなかった。
どうして? その問い掛けは、一生、私に付き纏ってくるのだ。包丁を目に突き立てたことくらい、私には自明の理としか思えない自然な流れなのに。どうして、誰も分かってくれないのだろう。
両親が何を言っているか、どれだけ貴方を愛していると言っていたか、私はほとんど覚えていなかった。ああ、心を閉ざすとは、こういうことだ。徹底的な無関心。両親さえも、他人以下。道路に転がっている小石と同じ程度には、簡単に見落としていく。もう、あんな人たちに興味なんか無いよ。何も期待しないよ。
悲観でもなく、大それた決意でもなく、遠からず、私は必ず自殺することを悟った。この世界に生きていたことが、最初からの間違いだった。他人の目を気にし過ぎるせいでボロボロになって死ぬのは嫌だから、死ぬまで心を閉ざしていよう。自分でも分からないうちに、ふわっと死んでしまえれば良い。私は楽しげに、青い空からの墜落死を夢見る。
ジクジクと熱を持つ眼球の痛みが心地良い。心が痛くなったら、体の痛みに逃げよう。ガーゼの上からそっと抑えているだけでも、安心できた。
途中で気を失ったことはともかく、この行為を、私は少しも後悔していなかった。やっと、本当の自分になれたような気がする。痛みが引けば、また同じことをするだろう。
そして、夜が更ける。静かな夜だった。
いつの間にか寝入っていた私は、誰かの気配で目を覚ます。
窓が、開いている。夜風にカーテンが揺れている。枕元に、まだ生臭い土の臭いを纏った、青い薔薇の花が一輪、無造作に置かれていた。
薔薇を手に取って……ふと、左右の手で温度が違うことに気付いた。それに、ベッドの片隅が温かい。
そのちょっとした不思議が、ついさっきまで誰かがそこに座っていて、何も言わずに私の手を握っていてくれていたみたいだと感じられた。
──ひとりじゃないよ。
誰かが呟いた。
──うん、貴方も。貴方も、ひとりじゃないからね。
私も、そう呟いた。
こちらも悲しくなってくるような感じがしました