エタニティラルバ 1
桜もとうに散り花見の季節が過ぎても、博麗神社の宴会には沢山の妖怪が集まる。
それぞれが勝手に持ち寄ったござを敷き、勝手に持ち寄ったお酒を飲んでいる。喧騒を聞きつけて後から参加した私は、最早誰が持ち込んだかも分からない日本酒を片手にその宴を楽しんでいた。
「ちょっと前にやったばかりなのに、またやってるだなんて思わなかったわ」
私がそう言うと、隣に座っていたルナチャイルドが答えてくれる。
「何でも異変解決のお祝いだそうよ」
「へぇ、異変なんてあったかな。どんな異変?」
「私も知らない」
「えっ……何それ?」
「どうにも皆よく分かってないみたいなのよね」
周りの妖精の妖精に話を振ってみたが、皆ルナチャイルドと同じだった。異変の解決祝いというのは知っていても、具体的な内容についてはあまりよく分かっていないようだ。
「騒げる口実があればみんな何でもいいんでしょ。花見だって実際に花を見てる人なんてほとんどいないじゃない」
桜の妖精が口をすぼめて非難がましく言う。
悔しいだろうけど確かにそうね、と私は苦笑いした。
「私は誰が解決した異変か聞いたよ」
他のござから戻ってきたサニーミルクが得意げに胸をそらす。ルナチャイルドは「はいはいすごいすごい」と言ったあとに先を促す。
「で、誰が異変を解決したの?」
「何の異変かは知らないんだけど、解決したのは……」
そこまで言いかけてサニーミルクは私の方を見て言い澱んだ。どうしたのだろう、と思うと私の袖が後ろから引っ張られる。
「そこな妖精。その手に持っている酒を注いでくれんか」
「もう、お酒くらい自分で注いでよね……」
偉そうな口調に、ついちょっと刺のある言い方をしてしまう。振り向いて私は赤い盃にお酒を注ぎ、面を上げてそして気づいた。
「げっ……」
「何だ、失礼なやつだな」
長い金髪、オレンジと緑の道士服。変な形の黒い帽子に偉そうな態度。私は彼女のことを知っていた。
私が条件反射でお酒を注いだ相手は、マタラ神という神様だった。話には聞いたことがあるし遠目で見たこともあるが、直接面と向かうのはこれが初めてだった。
チルノから聞いた。彼女は私を敵対する神かもしれないと言っていたと。
そうすると私は彼女に嫌われていたりするんだろうか。
私としてはお前は神様かもしれない、と言われても全くピンと来ない。そのせいで会う前から嫌われているのなら、とても理不尽な話だと思う。
「……」
マタラ神は何も言わずに、私が注いだお酒に口をつけた。
私の目を見ていた。
何と言っていいかわからずに、私は縮こまった。沈黙が重い。何か言って欲しい。
盃を乾かして一息つくと、彼女はゆっくりと口を開いた。
「楽しんでるか?」
摩多羅隠岐奈 1
今日の夕焼けの赤色は妙に不穏なものを感じる。
広大な水田の真ん中に通された道を、私は馬で駆けていく。馬もどこか不安そうだ。
「っとに朝廷は人遣いの荒い……」
唇から漏れ出た愚痴が風の中に消えていく。
私は朝廷から与えられた命に従い、東国のこの地に遣わされた。
昔はーー私が秦河勝になった頃ーーはこうではなかった。厩戸皇子(うまやどのみこ)が私の庇護者となっていた頃は、誰にも指図を受けず、たまに働いて気ままに暮らせていたのだが。
ぶるん、と馬が嘶いた。私は彼の首を撫でた。
「そう怯えるな……はぁ、お前が厩戸皇子の驪駒だったらなぁ」
かの恐れ知らずの名馬であれば、こうやって宥める苦労も無かっただろう。
驪駒も厩戸皇子も逝ってしまい、私だけが残された。
私は海を越え遥かなる西にいた頃から神だった。人を救いながら東へ東へと移ろい、この島国に錨を下ろした。
そしていつしか人を救うことに疲れてしまった。
この世はまこと救い難い。救いの手を必要としているものがあまりに多すぎる。救っても救っても終わりがない。私が救った分だけ、不幸な人間が増えていくような気さえする。
私は疲れた。だから神をやめ、秦河勝という一人の人間として生きてみようとした。
そこで出会ったのが厩戸皇子だった。奴は中々に豪胆な人間で、私の出自を知り人間でないと分かっても私を受け入れた。時折奴の仕事に力を貸すだけで、あとは好き勝手に暮らすことができた。
しかしそれも厩戸皇子が生きていたころの話だ。今は朝廷での暮らしを維持するべく、彼らの命令に従いそれなりに忙しい日々を送っていた。
そういえば厩戸皇子はその死の間際、随分と大陸の道士に入れ込んでいた。ひょっとしたら仙道になって今もどこかで生きているかもしれない。
いや、考えすぎだ。仙道への道は一朝一夕で開けるものではない。あの道士が来た時期を鑑みるに、私の知る知識では、仙道になる十分な時間があったとは思えない。
自分で思っているよりも私は奴の死を惜しんでいるのだろう。だからこんな妄想をしてしまう。
「うおっ」
馬が前足を高く上げ、大きな鳴き声で嘶く。私は振り下ろされそうになった。
これ以上は無理だな、と判断し馬を降りた。
「帰る足が無くなると困るからな。あとで呼ぶからそう遠くへ行くなよ」
首を撫でそう声をかけると、馬は身を翻し走っていった。随分と怯えている。
私は道の先を見つめる。
そこには集落があった。この国では珍しくない、水田に囲まれた何処にでもあるような村だ。
しかし確かにそこからは厭な気配を感じる。馬は元々臆病な生き物だ。あそこに何か恐ろしいものがいるのを敏感に嗅ぎつけてしまったのだろう。
「仕方あるまい」
私はやむなく歩き始めた。
朝廷から受けた命は、あの村で起きている異常を平らげることだった。
何でも大生部多(おおふべのおお)なる人物を中心に、村ではある神を信仰しているらしい。曰く、崇めれば富や若さが手に入るのだと。
しかし実際には何のご利益も得られず、民は飢えて苦しむ一方なのだという。
おかしな話だ、と私は思う。
何のご利益も得られない神が、何故信仰されているのだろうか。
タタリ神のように災いをおこすから鎮めるために崇められている、というわけでもないらしい。本当に何も起きていないそうだ。
それにも関わらず信者は増えていく一方で、周辺地域にも信仰が広がっており、この村に移り住む者も少なくないらしい。
よっぽど大生部多の口が上手いのだろうか。
奇跡が起きないのはまだ皆のお布施が足りていないだけだ、そう騙り民から財産を取り上げる男の姿を思い描いてみた。
もしそうならそいつを取り除けば良いだけだ。
しかし集落から感じる異様な気配は、明らかに何かがいることを告げていた。
何かしらの神に類するものがいると思われる。しかしそれならそれで、何故何も影響を及ぼさないのか。
「……ふむ」
思索にふけながら歩くうちに、随分とあたりは暗くなっていた。
日が落ちる。夜がやってきたのだ。
私は歩みを早めた。
丁礼田舞 1
里乃が眠っていた。
白襦袢に身を包み、布団の中で眠っている。その姿は僕に死者を想起させた。
不安になって顔を近づけると、微かに寝息が聞こえる。まだ生きている。僕は胸を撫で下ろした。
里乃は既に丸二日眠ったままだった。
食後に午睡しているのかと思ったが、いつになっても目を覚さない。疲れているのかと思って最初は起こさないように放って置いてあげたのだが、やがて異常なことに気づく。
声をかけても、肩を揺らしても、頬を引っ叩いても彼女が目覚めることはなかった。
お師匠様に相談しても、彼女は渋い顔で「そうか」と短く言い、やることがあると何処かへ出かけてしまった。
眠り続ける里乃をどうにかするために出かけたのだろう。そう思いたかった。
しかしお師匠様が僕らのことをどれだけ気にかけているかは正直わからない。全く気にせず関係のないことで出かけている可能性も十分考えられた。
いや、そんな薄情なお方じゃない。そう思おうとしても、脳に黒い霧が絡みついているように不安が治らない。
里乃がいないせいだ。心細くなって嫌な想像ばかりが膨らんでしまう。
「……蝶々?」
一匹のアゲハチョウが部屋の中をひらひらと飛んでいた。
この後戸の国に生き物が入り込むのは珍しいが、全くありえないわけでは無かった。流石に狸や猫などの動物が入り込むことはなかったが、戸に入るときに虫が一緒に入り込んでしまうことは今までもあった。
蝶々はしばらく舞っていたかと思うと、里乃の頬に止まった。
普通なら綺麗と思えるアゲハチョウだったが、僕にはそれが死体にたかる蝿のように感じられた。
「……っ!」
ゾッとした僕は蝶々を振り払った。蝶々はひらひらと何処かへ飛んでいく。
僕は彼女の頬に触れた。体温が低い。普通に眠っている人間の温かさではない。
もし里乃がずっと目覚めなかったらどうしよう。今までずっと傍には里乃がいた。彼女が欠けることなど考えられない。
もし万が一があったらと思うと、心細さで胸が締め付けられるようだった。
お師匠様はまだ戻ってこない。
彼女が帰ってくるのを待ちぼうけて何もせず、その間に手遅れになってしまったらどうしよう。もしこれが病なのであれば、早急に手を打つべきではないだろうか。例えば、八意永琳に診てもらうだとか。
僕は心を固めた。
里乃を背負い連れ出した。
その体が思ったよりも軽いことが、より一層僕を不安にさせるのだった。
摩多羅隠岐奈 2
集落からは人の気配がしなかった。
ひとまず適当にその辺の家屋に入ってみることにした。
誰か居るか、と声をかける気にはならなかった。人の気配がしないしどうせ無駄だ。
家屋の中には誰もいないと思っていた。しかしそうではなかった。
囲炉裏のそばに何人か人間が倒れ伏していた。夫婦とその子供たちが何人か、というところだろう。
その内の父親らしき成人男性の体をひっくり返す。わすがに吐息が聞こえてくるので、眠っているだけのようだ。体を揺さぶったり、頬を思い切り引っ叩いてみたりしたが起きる気配が全くなかった。
囲炉裏の灰に手をかざすが、全く温かみを感じない。ついさっき倒れたということはないだろう。
男性の顔をよく見れば、頬が痩せこけているようにも見える。元々貧しい暮らしだったのか、それとも眠ってから大分日数が経ち体が痩せ細っているのか。
これ以上この家から得られる情報はないと判断し、私は外に出た。そして通りを歩いていく。
集落の中心に遠目でわかるほど大きな屋敷が見えていたので、そこへ向かうつもりだった。
都であればともかく、農村にあのような豪邸は不釣り合いだ。
暗い村を私は厭な気分で歩き続ける。
「……随分とまあ、不格好というか」
私はその大きな屋敷の目の前までたどり着いた。
月明かりに照らされたその建物からは、かなり歪な印象を受けた。何というか、分不相応に膨れ上がっている。
個人的に左右非対称の建物はあまり好みではないのだが、この建物はそれどころではない。
瓦の種類も床の高さも場所によってまちまちだ。別の大工がそれぞれ設計したものを、つぎはぎにしているように見える。恐らくは増築に増築を重ねたのだろう。
大生部多はその教えを、急速な勢いで拡大させたと聞いている。この建物はその事情をそのまま反映しているようだ。
私は正面の入り口の戸を開いた。無用心なことに鍵はかかっていなかった。
中に入ると真っ直ぐ廊下が続いており、その先は真っ暗で何も見えなかった。まるで化け物の腹の中だな、と私は独りごちる。
玄関に置いてあった燭台を私は手に持った。私は蝋燭にふっと息をかけた。すると燭台に火が灯る。
この先何があるかわからない。反対側の空いている手で腰に差した剣を確認する。
廊下は意外とすぐに曲がり角に突き当たった。しかしそこからが長く、右に曲がり左に曲がりと殆ど迷路になっていた。
やがて迷路に終わりが見えた。やたらと大仰な扉が現れ、そこが行き止まりだった。装飾は大陸風のものや東国でよく見られるものなどが入り混じり合っている。
何かがあるとしたらこの先だろう。
私は慎重に扉を開いた。
「……何だいこの有り様は」
思わず声に出してしまう。
扉の先は板床の大広間になっていた。天井は高く、左右の壁には曼陀羅を真似したような文様が描かれている。
異常だったのは大量の眠っている人間が床に転がっていることだ。
その光景はまるで死体の散らばった戦場のようだ。
大体は農村の住民とわかる格好をしていたが、その中に一人だけ贅沢な着物を着ている者がいた。
私はうつ伏せになっているそいつをひっくり返した。
「コイツが大生部多かな……」
肥えた狸腹に歯の抜けた口。毛髪には白髪が混ざっている。歳は四十程度といったところだろうか。朝廷で受けた報告と一致する。
こいつが大生部多と見て間違いないだろう。
しかしこれは参った。
最早これは教祖を一人排除すれば良いといったような単純な話ではない。もっと別の何かがこれを起こしているということだ。
「だぁれ?」
この異常な場に似つかわしくない、幼い声が暗闇の先から聞こえてきた。
生き残りの子供とは考えづらい。しかし咄嗟に剣が抜けなかった。子供に刃物を向けることに抵抗を覚えてしまったせいか。
燭台の明かりをそちらに向けて目を凝らすと、御簾がかかった箱のような小部屋があった。声の主はその中にいるようだ。
「都の役人さ。お前がこれをやったのか?」
「うん、そうだよ」
嬉しそうな声が聞こえて来る。褒められるのを待っていたようにすら聞こえた。
そこでようやく違和感に気づく。
御簾から見える影がおかしい。明らかに子供の大きさではない。大きな岩のような形をしている。
「なら私はお前におしおきをしなくちゃならないな」
「何でよ」
声の調子が一気に下がる。
もう普通の童女の声ではない。怪物の声だ。
何かを引きずるような音を出しながら、御簾を上げてそいつが出てきた。
「お前……!」
その姿を見て息が詰まった。
まるで発光しているかのような美しい水色の長い髪に、頭から生えた黄色い触覚。背中からはアゲハチョウの羽が生えていた。ただし向かって右の羽は羽化に失敗したかのようにしわくちゃだ。
しかし特筆すべきはその下半身だ。
異形。そう表現するべきだろう。
芋虫を何倍にも大きくしたような、白と緑の混ざった肉の塊が、うぞうぞと蠢きながらこちらに近づいて来る。
この屋敷と同じだ。分不相応に膨れ上がっている。皮膚の成長が肉の膨張に追いないようだ。
「お前は……何だ?」
「見てわからない? とても偉い神様よ」
これほどの異形でありながら、一応は意思の疎通が出来てしまうことが逆に気味が悪い。
だがこいつが諸悪の根源であることははっきりした。
剣を握る手に力が入る。
「この人間たちを目覚めさせてやってくれないか?」
一応言葉が通じるので交渉を試みる。
しかし相手は何を言っているのか分からないといった表情だった。
「何でそんな酷いことしなくちゃいけないの?」
さっぱり要領を得ない回答が返ってくる。
まあいい。彼女の言い分などこちらの知ったことではない。
「……質問を変えよう。お前を殺せば人間たちは目覚めるか?」
そいつは何がおかしいのかわからないが、クスクスと笑った。
「多分そうだと思うわ」
会話の間にも、そいつは下半身を引きずるようににじり寄って来る。
「ねぇねぇ、これだけ質問に答えてあげてるのに、名乗りすらしないってのは失礼じゃない?」
「名前ね。私は……」
私は一気に剣を鞘から引き抜いた。
「マタラ神だ」
「へえ、そう。私はトコヨ神って呼ばれてるの」
私は自分の台詞に違和感を抱いた。
どうして秦河勝と名乗らなかったのだろう。何故ここ最近使ってこなかった、マタラの名を名乗ったのだろうか。
丁礼田舞 2
八意永琳は額に手を当て、珍しく思い悩んでいるような表情をしていた。
布団に寝かされた里乃は、相変わらず目を覚ます気配を見せない。八意永琳は里乃の方をちらりと見た後、僕に向き直った。
それほどに重症なのか、と思うと胃が縮こまる気分だった。もっと早く来ればよかった。僕は手に持った竹を痛いほど握りしめた。
「どこから説明するべきか……まずこの子は病ではないわ」
「病気じゃないってこと……?」
「ええ。催眠術だとか呪いだとか、そういったものに近いわ」
その催眠術と呪いの二つの単語が並べられることがしっくりこなかったが、表情でそれを察したのか「似たようなものよ」と彼女は言った。
「じゃ、じゃあどうすれば里乃は……」
つい立ち上がってしまった僕を、彼女は右手の掌を向けて制した。
「それを説明するには、まず今人里に起きていることを説明する必要があるわ」
「人里……?」
人里で起きていることが里乃に関係するということか。
どういうことなのだろう。
「直接見てもらったほうが早いかしら。ついて来て」
彼女は立ち上がり部屋を出る。僕も後ろについて廊下に出る。
二つ隣の部屋の前に立ち、彼女は扉を開け放った。
「これは……」
そこの部屋には、四人の人間が寝かされていた。
小さい女の子と若い女性と、壮年の男性と老人だった。見る限り人里の人間ということ以外に共通点は見出せない。
しかし全員まるで納棺されている死体のように、ほとんど寝息を立てず静かに眠っている。
「里乃と同じ……?」
同じ病が流行っているのだろうか。いや、病気でないと今言われたばかりじゃないか。
思っているよりも僕は冷静ではないようだ。落ち着け。僕は息を深く吸った。
「ええ、その通りよ。彼女と同じく眠りから目覚めない者が、既に人里で四人出ていた。彼女は五人目というわけね」
一体何が起こっているのだろう。
駄目だ。動揺でほとんど頭が回らない。
とにかく今は話を聞こう。
「この人たちはいつから……」
「一人目は一週間ほど前ね。二人目が永遠亭に運び込まれた時点で、人里がパニックにならないよう、同じ症状の人間がいないか探し出してウチで保護したの」
二人目の時点でそこまで動いたのは流石と言ったところか。
「……まあ、そろそろ人里も異常に気がつき始めてるし、露見するのは時間の問題ね」
彼女は長いため息をついた後、「どの道点滴が必要だから帰すわけにはいかないけれど」とぶつぶつぼやいた。
「六人目、七人目が出てくればもっと早く気づかれてしまうでしょうし、そろそろ解決しなくちゃいけないんだけれどね……」
「解決する方法が無いと?」
かつて月の頭脳であった八意永琳ですら、彼らを目覚めさせることができないということは、相当に深刻な事態だ。
「無いわけじゃないんだけどね。まず前提からなんだけど、この異変は自然発生的なものでなく、誰かが起こしたものよ」
「どうして?」
「夢の中に行こうとしたんだけれどね」
眠りから目覚めないのであれば、夢の中で何か異常が起こっているのかもしれない。
確かに、と思うと同時にその程度のことも思いつかなかったのかと自分が情けなくもある。
「入れなかったのよ」
「入れなかった?」
どういう意味だろうか。
「ええ。人々の夢は繋がってるから、誰かの夢に行くには自分の夢を通って共通している部分、まあ夢のロビーのようなものね。そこを通るのだけど……」
彼女は眉間に皺を寄せ、渋い表情で続けた。
「塞がれてたのよ。結界が張られていたの」
「それは……なるほど、だから誰か黒幕がいると……」
覚めない眠りの謎を解くために夢に入ろうとすると、それを阻む結界がある。夢を調べられたら不都合な誰かが結界を張ったということだろう。
黒幕はその結界を敷いた人物か。結界が張られているのは、そいつが夢の中に潜んでいるからかもしれない。
「しかし月の頭脳すら阻む結界って……滅茶苦茶強力なんじゃ……」
「無理矢理だったら流石に突破できるわよ。でもそれで人々の夢にどんな影響が出るかわからないし……あとその呼び方はやめて頂戴」
さて、と八意永琳は僕の方に居直った。
「説明はこれまでね。何でわざわざ私が貴女に懇切丁寧に説明したと思う?」
「えっ」
言われてみると確かにそうだ。八意永琳は僕に恐らく現時点で知っている情報を全て教えてくれた。しかし別に教える義務はない。
場合によっては黒幕は摩多羅隠岐奈で、僕は探りを入れにきた斥候と捉えられてもおかしくはない。
「この異変は貴女のお師匠様とやらが深く関わってる。私は彼女が解決すべき異変と考えていたんだけれど……まあでも頼むまでもないみたいね」
彼女が僕の肩越しに廊下の先に目線を向ける。
カラカラと音が聞こえ、僕は振り返った。
永遠亭の廊下を、お師匠様が車椅子に乗って現れたのだ。
「全く、待っていろと言ったじゃないか」
呆れ顔のお師匠様に僕は抗議した。
「言ってないですよ」
「そうだっけ?」
お師匠様はいつもこれだ。自分では全部説明した気でいるのだ。
「で、お師匠様はお弟子さんたちをほったらかして何をしてたわけ?」
刺のある口調でそう言い放つ八意永琳は、呆れているようにも少し怒っているようにも見えた。
「まあそう急かすな。こいつを見つけてくるのに思ったより手間がかかってな」
お師匠様は何も無い空中を上に向かってさもそこに扉があるかのようにノックする。
すると本当に扉が現れた。そして扉が開き、誰かが落ちてきた。
「いてっ……乱暴なんですから、もう」
赤いナイトキャップに白と黒の妙な服装。扉から落ちてきたのは夢の支配者、ドレミー・スイートだった。
この異変は夢にまつわるものだ。とすれば、この獏が黒幕なのだろうか。
僕はいつでも飛びかかれるよう身構え、竹を握りしめた。するとドレミーは両手を上げてひらひらと振った。
「待った待った。私は何もしてないですよ。貴女のお弟子さん大分切羽詰ってますねぇ」
「落ち着きな、舞。こいつは案内人であって黒幕じゃないよ」
そう窘められて僕は警戒を解いた。
自分ではもしものときに備えただけだったので、そこまで言われるとは思っていなかった。よほど余裕のない表情をしていたのだろうか。
「さ、夢の中に行くよ。ああ、成り行きで悪いけどウチの子を頼むよ」
里乃のことを頼んだのだろう。八意永琳は「構わないわ」とだけ答えた。
お師匠様はおもむろに隣の部屋の扉を開いた。するとその中は永遠亭の一室ではなく、紺色の空間が続いていた。夢の中に繋がっているのだろう。
獏を先頭に、その扉の中の紺色の空間へと足を踏み入れる。
「それと、ある一匹の妖精を見かけなくなってるの」
八意永琳に呼び止められ、お師匠様は足を止めた。
何故彼女はこのタイミングで妖精について話なんかしたのだろう。
そもそも自然の具現化たる妖精の足取りを正確に掴むのは難しい。冬の妖精は冬になると気がつけば現れ、終われば何処にいるかよくわからない。見かけなくなってもわざわざ気にするようなものではない。
「そうか」
「私が思うに、今回の異変は……」
お師匠様が振り返った。その顔は今までに見たことがない表情だった。
基本的にお師匠様は楽しそうにふんぞりかえっているか不機嫌そうにしているかがほとんどだったが、今の彼女は悲しそうな、何かを哀れんでいるかのような表情だった。
「いえ、わかってるならいいわ」
「……ああ」
お師匠様が扉の中に入り、僕もその後に続いた。
ドレミーを先頭に、紺色の空間を歩いていく。
何故飛んでいかないのか、と急かすと「飛んでも走っても歩いても変わりませんよ」とのことだった。夢の中だし普通の物理法則は通じないのかもしれない。
そうは言っても里乃のことを思うと、走り出したくなる衝動に駆られる。
まだ目的地に到着する気配も無かったので、僕は今回の異変について聞いてみた。
「この異変って……」
「ああ、大方先の完全憑依の異変のときに夢の中で騒ぎすぎたせいだろう。それで目を覚ましてしまったんだ」
お師匠様がドレミーに目線をやってそう言うと、彼女は非難がましい口調で返した。
「どちらかといえば貴女が扉を開いたせいじゃありませんか?」
「まあそれもあるかな」
話の流れがわからない。
二人はこの異変についてほとんど真相が分かっているかのような口ぶりだ。
「あの……そもそも異変を起こしたのは誰なんですか?」
「何だ、まだ分かっていなかったのか?」
お師匠はそう言って取り合ってくれなかった。
推理する材料は揃ってるということだろうか。
人々を眠りに誘う異変というのは聞き覚えがなかった。ただお師匠様と関わりがある、妖精といったキーワードに着眼すると、思い当たる節がある。
僕が口を開こうとすると、ドレミーの声で遮られてしまった。
「着きましたよ」
気がつくと目の前には茨の壁が広がっていた。遮るものがない紺色の空間の中で、何故目の前に来るまで気がつかなかったのだろうか。
茨の壁は左右どちらも地平の果てまで続いていた。上も同じく永遠に続いているようだった。
「で、薄手になっている部分はあったのか?」
「ええ」
お師匠様の口ぶりから察するに、ドレミーに協力を仰いだのはこのためのようだった。
「この結界は幻想郷全土を覆うほど大きい代わりに、網目が非常に荒い。下手に隙間なくガチガチに固めずに、その分のリソースを範囲と強度に費やしているのでしょう。ほら、そこです」
ドレミーが指差した部分は、幾分か茨の密度が低いように見受けられた。よく見てみれば、人一人が通れそうなくらいの穴が空いている。
「良かった……じゃあ早く行きましょう」
僕がそう意気込むと、お師匠様はきっぱりとこう言った。
「いや、行くのはお前だけだよ、舞」
「ど、どうしてですか」
お師匠様は里乃を助けたくはないのだろうか。
「網目の荒い結界ではあるけれど、私が通れるような大きな穴はないんだよ」
「でも僕が通れるんだったらお師匠様だって……」
「体のサイズの話はしてない。力の大きさの話だ。多分この結界は、仕掛けた者が自分の敵わないような強大な存在を通さないように設えたものだ。まったく賢しいもんだ」
「そんな……」
ここから先は僕一人で行かなくてはならない。
そう思うと急に口の中が乾いた。呼吸が浅くなる。
幻想郷全土を覆うような結界をかけられる奴に、僕が敵うのだろうか。僕はどうなっても構わない。でももし失敗したら里乃はどうなるのだろうか。
プレッシャーに押しつぶされそうになっていると、お師匠様が僕の背中を思い切り引っ叩いた。
「痛ぁ!」
「なーに縮こまってるんだい」
お師匠様がくっくと笑った。
「背中に後戸を作った。まあ開ききるまでまだ少し時間がかかるだろうが」
僕ら二童子ではなく、後戸の神本家本元による潜在能力の解放なら、この異変の主でも何とかなるかもしれない。
「ほら行っといで」
「……はい」
僕は静かに、でも力強く肯いた。
茨の穴に這いつくばって入った。
今里乃を救えるのは僕だけなんだ。怯えていても仕方ない。やるしかないんだ。
穴の中は洞窟のように暗い。しばらく進んでいくと、光が見えた。僕はスピードを早め、一気に茨の洞窟を抜けた。
「ここは……」
穴の先は今までのような紺色の空間ではなかった。
そこは板敷の広間のようだった。
ただし通常の建物ではあり得ないほどに部屋は広い。あたりは暗く、壁も天井も見えない。どこまで続いているのだろう。建物自体は何となくだいぶ古いように見受けられる。
そして少し先に、御簾のかかった小部屋のようなものがあった。そこは二つの篝火で照らされている。
御簾の先には人影が一つ見えた。僕はそいつに話しかけた。
「この異変を起こしたのは君?」
クスクスと笑う声が聞こえる。酷く勘に障る声だったが、どこか聞き覚えがある声だ。
御簾がゆっくりと上がり始めた。
「……もう一度言う。里乃を……みんなを覚めない眠りに誘ってるのは君か?」
「その通りよ」
御簾が上がりきった。
そこには一人の女性がいた。水色の長い髪で、仙人が来ているようなゆったりとした服を身に纏っている。
そして背中には大きく色鮮やかなアゲハチョウの羽が生えていた。
何となく予想はついていたが、こいつが異変の首謀者か。
「エタニティラルバ……」
八意永琳の言っていた行方不明の妖精とはエタニティラルバのことなのだろう。
しかし発せられる気配が妖精のそれではない。
「いや、常世神?」
常世神。富や若さが手に入ると崇められていたが実際にはそんなことはなく、世を乱し、最後にはお師匠に討伐された神だ。
「大体当たりよ。でも多分貴女の思ってるような神様じゃないわ」
彼女が立ち上がる。座っている時よりも羽が大きく見える。羽が自体が光を纏っていて、まるで後光が差しているかのようだった。
大体当たりだと、僕が思っているような神様ではないと彼女は言った。一体どういう意味だろうか。
「あなた、マタラ神の今の二童子の片割れでしょう?」
「……どうかな」
「それくらいわかってるって」
一応あまりこちらの情報を与えるのは良くないと思って言葉を濁したが、あまり意味がなかったようだ。
しかし古の神格が相手だとすると、僕では太刀打ちできない。いや、そんなことは初めからわかっていたじゃないか。
先ほどくぐり抜けた結界は、彼女が自分を倒せるような強者を確実に阻むために作ったものだ。結界の中に入れたということ自体が、僕が彼女を倒すには力不足の存在である証左だ。
やはりお師匠様が授けてくれた後戸を開くのを待たなければならない。
言葉が話せる相手だったのは行幸だ。会話で時間が稼げる。
「何でこんなことしたんだ」
「こんなことって……酷い言い方ね。私は皆を理想郷へ導きたいだけよ」
「理想郷?」
いきなり素っ頓狂な単語が出てきて、思わず面食らってしまう。
「そうよ。私はみんなをこの救い難い顕世から解放し、夢の果ての世界へ案内してるの」
彼女は目を細めて柔らかく微笑んだ。
それは大人が不理解な子供に向ける慈愛の目に似ていた。しかしその瞳の奥には人ならざるもの特有の昏い光をたたえている。
熱っぽく彼女は続けた。
「もう老いも病もない……永遠(エタニティ)はここにあるのよ」
段々と彼女の声に温かみを感じるようになり始めた。頭蓋からじんわりと脳へ染み込んでくるような甘い音だ。
「永遠に朝日が昇らず幸せな夢が続く世界。常に夜の国……そう、常夜国へ導くのが私の使命なの」
大体当たり、とはそういう意味か。本来の名前は常世神ではなく常夜神だから完全に正解ではなかったと。
「なるほどね……」
貴女の思っているような神様ではない、という台詞の意味するところもわかった。
富や若さを与えると嘯いて世を乱した神、と一般には思われているが、そうではないと。ちゃんと自分は富も若さも与えていたと言いたいのだろう。ただしそれは夢の中で、だが。
「もっとも歴史の波に揉まれる中で、常夜という本来の名前は失われちゃったんだけど。別の楽園信仰たちと習合したみたいね。常なる世と書いて常世神という名前に変わってしまった」
彼女はそう言ってため息をついた。
これが崇めてもご利益をもたらさず、世を乱し秦河勝に征伐されたとされる常世神の正体か。
「まあそれはどうでも良いわね。ほら、貴女も常夜へ連れて行ってあげる」
数間距離を空けて話していたはずなのに、気がつけば彼女は目の前にいて私に手を差し出していた。
「さあ、私の手を取って」
彼女の姿は神々しく、まさに救いをもたらす女神そのものだった。その微笑みは全ての悲しみを溶かすかのように温かい。
一瞬、何だか泣きだしそうな気分になった。歓びが胸の底からあふれてくる。
僕はその感情を握りつぶした。惑わされるな。こんなものはまやかしだ。
彼女の手を振り払う。
「そんなことより、里乃を返せ!」
手を払い除けられた彼女の顔を見た。背筋がぞくりとした。
先ほどまでの笑顔は消え失せ、鉱物を思わせるような冷たい顔になっていた。
「あっそ……なら力ずくでも救ってあげるわ」
彼女の右手には、スペルカードが握られていた。
「弾幕ごっこって言うんだっけ? 貴女たちのやり方に付き合ってあげるわ」
蝶符「バタフライドリーム-Fantasma-」
青い燐光を纏った蝶の群れが放たれる。
スペルカードと呼ぶにはあまりに数が多すぎる。蝶というより蝗害を思わせるような量だ。
弾幕ごっこ、と彼女は言ったがルールを理解しているようには思えない。この密度は明らかにルール違反だった。潜り込めるような隙間は一切無く、避けることを想定されていない。
ひとまず距離を取らなくては。
弾幕は距離を取れば拡散し、密度が下がるはずだ。
しかしその期待を裏切るかのように、蝶の群れの密度は一切下がらない。放たれた青い蝶は一体一体が増殖しながら広がっている。
「くそっ!」
力を込めて竹であたりをなぎ払う。放たれた光球が蝶を打ち消す。
本来であればスペルカードを宣言するべきだが、その義理はない。弾幕ごっこと呼ぶにはあまりに殺意に溢れていて、美しさが欠片も無い。
時間が経つほど蝶の群れは増えていくだろう。後戸はいつ開くかわからずアテにできないし、短期決戦を仕掛けるしかない。
蝶の群れをなぎ払いながら、距離を詰めていく。
ようやく蝶の群れの向こうに姿が見えるまで近づけた。しかし彼女は怖気のするような微笑みで僕のことを見つめるだけで、何もしない。
格下だと思って舐めているのか。もう間合いだぞ。
両手で竹を握りしめ、彼女の喉元目掛けて突き出した。
しかしその一撃が常世神を貫くことはなかった。
「なっ……里乃!?」
里乃は盾になるかのように僕の前に立ち塞がっている。
気づくのがギリギリ間に合い、竹の切っ先は里乃の喉元の寸前で止まっていた。
「里乃どいて!」
里乃は僕の呼びかけに全く反応を見せず、虚な目をして立ち尽くしていた。
「気分が良いわ。マタラ神ご自慢のお人形さんも今は私のものだなんて」
彼女はクスクスと笑いながら、里乃の肩に手をかけた。
里乃に触れるな。その叫ぼうとしたが、既に僕の喉元には剣が突きつけられていた。
「————っ」
冷や汗が額を伝う。少しでも動けば喉に剣が突き刺さるようで、唾も飲み込めない。
「これはね、かつてマタラ神が私の胸に突き立てた剣なの。良い意趣返しだと思わない?」
背中の扉はまだ開いていない。これ以上時間を稼ぐのは限界だ。
そもそも潜在能力を引き出せたところで、里乃が人質なら僕はもうどうしようもないんじゃないだろうか。
弱気になっているのを見透かしたのか、彼女は柔らかい声で僕を誘う。
「貴女たちはマタラ神にとって用無しなんでしょう?」
彼女は僕に剣を突きつけながらそう言った。
その甘い声は脳に心地よく響いた。
「二童子の後継が見つかれば打ち捨てられるだけ。二人で永遠に幸せな夢を見続けたいと思わないの?」
少しだけ考える。里乃と二人で同じ夢を見続ける未来を。確かに魅力的な誘いかも知れなかった。
お師匠様が僕たちをどうする気かはわからない。
彼女の言うとおり、使い潰す気なのかもしれない。
いや、今はあまりそう思っていない。
お師匠様は不遜で面倒臭くて人の気持ちに疎い。好人物じゃないのは確かだ。
でも言葉足らずなだけで、案外と僕らのことを見ているんじゃないだろうか。最近はそんな気がする。
「そうだなぁ……」
操り人形にされた里乃を見て思う。
そもそも里乃にこんなことをしたやつを許しておけるのか。そんな話はない。まずは一発お見舞いしてやらないと、腹の虫が収まらない。
「ほら、私が常夜に連れていってあげるわ」
邪神は剣をおさめ、手を差し出した。
腹はもう決まっている。僕はその手を、もう一度振り払った。
「ごめんだね。夢なら勝手に一人で見てろ」
一瞬彼女はひどく傷ついた表情をしたように見えた。しかし次の瞬間には感情の消えた、冷たい目をしていた。
「……もういいわ」
剣が振り上げられる。
僕は馬鹿だったかもしれない。格好つけて啖呵を切ってしまうなんて。身の安全より意地を優先してしまうだなんて、僕はそんなやつだっただろうか。
でも里乃に手を出されたことがどうしても許せなかった。きっとお師匠様の傲慢さがうつったんだろう。全部お師匠様のせいだ。
「私を崇めないからこうなるのよ」
剣が振り下ろされる。
僕を真っ二つにするはずのそれは————眼前で見えない壁にぶつかったように弾かれた。
「えっ……」
「よくやったな」
聞き慣れた声が背中から聞こえた。僕の肩に手が置かれる。
お師匠様だ。結界で夢の中に入れなかったはずのお師匠様が、突然現れたのだ。
目の前の常世神は顔を歪めて叫んだ。
「摩多羅隠岐奈ァっ!」
再び青い燐光を纏った蝶の群れが現れる。
お師匠様は僕と里乃を担いで、いつの間にかそこにあった扉の中に飛び込んだ。
扉から出ると遠くに常世神が見えた。一旦距離を取ったようだ。
「ああも情熱的に名前を呼ばれると、何だか照れてしまうな」
くっく、と喉を鳴らしてお師匠様が笑う。
脳味噌が展開についていけていなかった。どうしてお師匠様がここにいるのだろう。
「結界で入ってこれないんじゃ……」
「うん? だからお前の背中の扉を開いて、その扉から私が入ってくるという作戦だったじゃないか」
あっけらかんとお師匠様は言った。
「……言ってないです」
「そうだっけ? あだっ、スネを蹴ろうとするんじゃない!」
後戸を開いて僕の潜在能力を解放する、というのは思い違いで、最初から自分が後戸から夢へ侵入するという作戦のつもりだったようだ。しかし一言もそんな話は聞いていない。
またお師匠様は説明したつもりになっていたのだろう。何でもかんでも言葉にしなくても伝わると思わないでほしい。
「摩多羅隠岐奈、お前はまた私の邪魔を……!」
常世神が手を振ると、青い蝶々がこちらに殺到する。お師匠様は指を鳴らし先ほど通ってきた扉の向きを変え、その蝶の群れを吸い込ませた。
そして里乃を僕に預けた。里乃は相変わらずうつろな目で、はっきりとした意識は戻っていないようだ。
それからお師匠様は僕の目を見つめた。
こんな風にお師匠様と目を合わせることはあまりない。ひょっとしたら初めてかもしれなかった。
「……頼んだぞ」
お師匠様はそう言って身を翻した。
里乃を頼む、ということだとは思うのだが、妙にひっかかる言い方だ。
「ざっと一四〇〇年ぶりか? 随分と良い見てくれになったな」
常世神は憎悪にまみれた表情をしていたが、一度目を閉じて開くと、元の余裕ある顔に戻っていた。
「そうでしょう。夢の中なら私は望む姿になれる」
彼女が笑い、お師匠様は少しだけ顔を顰めた。
「貴女の木偶の記憶を通してみたわ……随分と多くの神格を持ってるみたいね。付与されてしまったというべきか」
確かにお師匠様は神として様々な面を持っている。実際に自ら「後戸の神であり、障碍の神であり、能楽の神であり、宿神であり、星神であ」ると名乗っている。
「本当、可哀想ね」
「何が言いたい?」
お師匠様が先を促すと、常世神は目を細めて嬉しそうに笑った。裂けたような口から嘲笑が溢れる。
「私と貴女は同類よ。私たちは数多の人々から救いを求められた。貴女の数ある神格と権能は求められるがままに付与されたものでしょう? これを助けてくれ、あれを守ってくれと際限なく求められ、貴女は様々な神にならざるを得なかった」
お師匠様は口を開かず、黙って彼女の言葉を聞いていた。何を思っているのだろうか。
反論しないということは、彼女の言うことは間違っていないということだろうか。
「そして最早、自分が元々何の神だったかもわからなくなった」
お師匠様が様々な神としての側面を持っている意味なんて考えたこともなかった。
その話が本当なら、酷い話だ。人々が望むから色んな姿の神になったというのに、何の神かわからなくなって、挙句に人々から忘れられて。正体不明の秘神と呼べば聞こえは良いが、本来の姿が人々から忘れ去られてしまっただけだ。
「もう疲れたでしょう。こんな救い難い現世に価値なんてないのよ。でも常夜であれば皆んなを救える。貴女自身もね」
常世神は慈愛に満ちた表情で微笑んだ。神々しさと暖かみが同居している笑みだ。
かつて彼女が一時的とはいえ多くの信仰を集めたのにも納得がいく。一瞬だけだが、僕ですら彼女がやっていることを忘れて、ひれ伏したくなるような気分になった。
「恥たりする必要はないわ。この国を造った一柱でさえ、自らの相棒でなく太陽の孫たちがのさばる未来が見えてしまい、失望し、常夜へと至った」
常世神はゆっくりと手を差し伸べた。
ひょっとしてお師匠様は常夜になびいてしまうのだろうか。不安がじわりと胸の内に広がる。
「さあ、私の手を取って」
「現世に価値なんて無い、ね……」
ようやくお師匠様が口を開いた。どこか呆れているような声色。言いたいことはそれだけか、と言わんばかりの態度だった。
「ならお前が今受肉に使っている妖精は……エタニティラルバとは何だ?」
お師匠様のその一言で、常世神の眉がぴくりと動く。少し動揺したように見える。
常世神は吐き捨てるように言った。
「ただの残りカスよ。利用するには便利だったけど、それ以上の何者でも無い」
「ただの残りカスが一四〇〇年も残り続けたのか? 本当に? ……そうじゃないだろう」
一拍置いてから、ゆっくりとお師匠様は告げた。
「彼女はお前の未練だ」
「……」
常世神は何も言わなかった。
顔をうつむけていて、表情が見えない。
そんな様子の彼女を気にもとめず、お師匠様は話を続けた。
「お前が現世へ未練を抱えていたから、お前の一部が残ってしまったんだ」
「……黙れ」
常世神の唇から小さな声が漏れた。
「本当はどこか自分が間違っているのをわかっていた。望んでいない者まで常夜の世界に引き込もうとしてるのは、自分が正しいと思いたいからだろ。舞の言うとおりだよ。夢が見たいなら勝手に一人で見れば良い」
「……黙ってよ」
「可哀想そうなのはお前の方さ。自分でもわかってるはずだ! 本当は、夢の世界なんかじゃなくて現世で幸せになりたいとーーーー」
「黙れって言ってるじゃない! もうお前は何も喋るな!!」
常世神が絶叫する。
青色の蝶が舞い、木の葉が吹き荒れる。彼女は憎悪を剥き出しにした顔でお師匠様を睨みつけていた。先程手を差し伸べたときの、聖母のような雰囲気はどこにもない。
お師匠様は光球で蝶を打ち消し、取りこぼした分を躱しながら移動していく。そして常世神がそれを追いかける。
その様子はある種の舞のようにも見える。
最小限の動きでお師匠様は弾幕をいなしていく。
しかし反撃できるような隙がない。相手の攻撃が永遠に続くなら、何処かで対応しきれなくなってボロが出る。
「あっ……」
つい声が出てしまった。駄目だ、あの数と軌道はいなしきれない。
打ち消しきれなかった蝶が殺到する。
被弾するその直前、お師匠様は僕を見ていた。
土煙と光で視界が一瞬遮られる。
「ははは、随分と良い格好になったじゃない!」
「ふん……」
視界が晴れると、被弾したお師匠様の道士服はボロボロになっていた。お師匠様のこんな姿を見るのは初めてだった。
常世神は攻撃を再開し、お師匠様がまたそれを避け始める。
「……」
さっきお師匠様は何で僕の方を見たんだろう。あの瞳は何かの合図のようだった。
それに先程の「頼んだぞ」というお師匠様らしからぬ言葉。多分里乃のことじゃない。常世神に悟られぬよう、何かを僕に頼んだんじゃないだろうか。
そして気づいた。
逃げるお師匠様と追う常世神を見ながら、あれは逃げているのではなく誘導しているのではないか、そう思った。
お師匠様が着地に失敗し、足がもつれる。常世神は剣を振りかぶった。彼女は叫ぶ。それはもう言葉の体をなしていない。
「————っ?!」
ただしその剣が振り下ろされることは無かった。
僕の突き出した竹が常世神の背中に突き刺さっていたからだ。
僕は最初にお師匠様が距離を取った時に使った扉を通って、常世神の背後に移動したのだ。
お師匠様は「頼んだぞ」と言ってこの作戦を指示していたのだ。
ただ避けているように見えて、最初に使った扉の前に常世神を誘導していたのだ。
そして扉が常世神の背後に来た瞬間、あえて隙を見せたのだ。
今回は奇襲のためだから仕方ないが、お師匠様は直接言及せず行間に意味を込めることが多すぎる。
「あ……やだ……」
貫かれた彼女の体が糸になって解けていく。解けた糸は彼女の足元で山になる。
「私……救わないといけないのに……」
助けを求めるように突き出された彼女の手を、お師匠様は優しく握った。
「お前が頑張る必要はないよ。人間なんてたまに手を貸してやれば、あとは勝手に生きていくんだ」
顔も糸になって解け、やがてお師匠様が握っていた手も解けて無くなった。
常世神の最後の言葉は、見た目相応の少女のようなか弱い声だった。
解けた糸は床に積み上がって山のようになっていた。こんもりとした膨らみがあって、繭のようにも見える。
お師匠様はしゃがみ込んで、その糸の山をかき分け始めた。
「ん……う……」
「……エタニティラルバ!」
糸の山の中からエタニティラルバが現れた。常世神の依代から解放されたということだろう。
彼女はすうすうと寝息をたてていた。
お師匠様が指を鳴らすと、扉から車椅子が出てきた。その車椅子に眠っている彼女を乗せた。
「さあ帰るよ。ほら里乃を置いてくのか?」
僕は慌てて気絶している里乃を背負った。
そしてお師匠様とひとりでに動く車椅子に乗ったエタニティラルバと帰途に着く。
「里乃は……眠りについていた人たちはこれで起きるんでしょうか」
「奴の影響は無くなったからな。ほっときゃしばらくしたら起きるさ」
そうですか、と僕が返すとそこで会話は途切れた。歩くお師匠様の横顔を覗くと、なんだか遠いところを見るような目つきをしていた。
かつての仇敵と対峙し、言葉を交わしたことで思うところがあるのだろう。
「お師匠様は……どう思ってるんですか?」
「何がさ」
「色んな神格を勝手に付与されて、自分が何の神様かも分からなくなって……」
あれも助けてくれこれもどうにかしてくれと望まれた結果、摩多羅隠岐奈は芸能、障碍、被差別民など様々な神様になり、何の神か分からなくなってしまった。そのことについて、人間は勝手でごうつくばりだと恨んでいたりするのだろうか。
「私が何の神様か見失ったのは周りの方だけさ。私は自分が何なのかちゃんとわかってる」
「そうなんですか?」
「ああ。例えば……私は能楽の神でもあるわけだが、能役者は河原者と呼ばれる社会的弱者でもあった。そもそも芸能自体が弱者救済としての側面も持っているしな」
確かに芸能にはそういう側面がある。瞽女(ごぜ)や琵琶法師などは最たる例だろう。
芸能は障害のせいで通常の農作業などに従事できない人に食い扶持を与えてきた。
「他にも障碍の神、被差別民の神……私の神格は多数あれど、基本的に弱者救済という側面が多い。だからまあ、つまり、私は弱い人たちを守る神様だったんだよ」
お師匠様は多数の面を持っているが、その殆どは弱い人たちを守る、というところに端を発しているわけだ。
「お師匠様が弱い人たちの味方………………あんま似合わないですね」
「……お前も言うようになったね」
「いった、スネを蹴るのは勘弁してください!」
ずり落ちそうになった里乃を、もう一度背負い直した。
つい本音が漏れてしまった。
普段ふんぞりかえって偉そうにしているお師匠様が、弱者救済を謳っている神様というのはあまりにイメージにそぐわなかった。
しかし冷静に考えてみれば当然の話かもしれない。
そもそも幻想郷自体、元々は排斥された人々を保護するためにお師匠様が作った土地だったはずだ。後に他の賢者との協力により外の世界と切り離され、今は妖怪の楽園となっているが、排他された者たちにとっての居場所という本分は失われていない。
摩多羅隠岐奈という神様は、確かに少数派の人々にとっての守護神として行動し続けている。
「でも……だった、って過去形なのは今は違うってことですか?」
お師匠様はちらりと僕を見た。それから一息ついて、訥々と語り始めた。
「私も常世神のことをあまり悪く言えなくてな。実は神であることに嫌気がさして人間として生きようとした時期があったんだが……」
恐らくは秦河勝だったころの話だろう。
「そのとき思ったのは、人間はほっといても勝手に生きていくもんだなと。勝手に自分で救われる奴にしろ折り合いをつける奴にしろ……私が弱者だと思っていた人々は、思ったよりも力強く楽しそうに生きていた」
そう語るお師匠様の表情は柔らかい。常世神よりもよっぽど女神らしいな、と思った。
「厳密には弱い人なんて人種はいないんだ。だからまあ、人々と寄り添いながら、弱ってしまったやつを見かけたら手助けするくらいでいいかなって」
「……結構適当というか、なんというか」
「適当にやれないとあいつみたいになってしまうからな」
僕はひとりでに動く車椅子に乗せられたエタニティラルバの横顔を覗いた。まだ意識は回復していないようだった。
彼女はあまりに真面目すぎたのかもしれない。その結果、到底不可能な理想を実現するため、現世を見限り常夜に頼った。
しかしお師匠様がこれほど自分について話すのを聞くのは初めてかもしれない。
思えばあまりこうやって真剣な話をする機会はなかった。多分聞いたところで、今までであれば適当に生返事されるだけだっただろう。
一人前だと認められたようで、何だか少し嬉しかった。里乃が起きていないのが少し惜しいところだ。
「もうお前も弱くないし、やはり私の庇護は必要ないのだろうな」
お師匠様は両手を合わせて伸びをした。
「……僕らを二童子に迎え入れた理由って、それですか?」
覚えていないが、僕たちは元々ただの人間だったはずだ。何故二人が選ばれたのだろうと考えた時がある。
今の発言を聞くと、きっと僕たちがお師匠様のつきっきりの庇護を必要とするほど、弱い人間だったんじゃないだろうか。
「いや、一番の理由は小間使いが欲しかったからだぞ」
お師匠様は歩くペースを少し早めて、僕らの数歩先に出た。そのせいで表情が見えなくなってしまった。ひょっとして照れているのだろうか。
「後任を探してたのは、もう僕らにお師匠様の庇護が必要無いと考えたからですか?」
「まあ……大体そんなところだ」
声色が少し寂しそうに聞こえるのは、僕の思い上がりだろうか。
記憶がないので分からないが、僕と里乃は思い出さない方が良いほど酷い状況にあったのだろう。お師匠様はつきっきりで保護する必要があると判断し、僕らを二童子に迎えた。
ただ最早その庇護も必要もなくなったと思っているわけだ。
本当我が主人ながら常に説明不足が酷いと思う。説明不足ゆえに謎に包まれた秘神だなんて呼ばれてるんじゃないかと邪推したくもなる。
そして僕は言ってやった。
「でもそうそういませんよ。お師匠様みたいに捻くれた神様に仕えられる奴なんて」
「……本当言うようになったな」
一瞬怒られると思って身構えたが、振り向いたお師匠様は満更でもないような表情をしていた。
「さて! 異変が終わったら宴だ。私の威光を知らしめる必要もあるしな」
お師匠様は気を取り直すように手を叩いた。
「え、でもこの子のせいで起きた異変だと知れわたるのはちょっと可哀想じゃありません?」
伝聞の中で少し情報が歪めば、エタニティラルバが起こした異変と伝わってしまうかもしれない。
ひょっとしたら彼女を非難する心無い人もいるかもしれない。
「そうだな……じゃあ異変の内容は伏せておこうか」
「それで人が集まります?」
「まあどうせここの連中は何かにかこつけて飲みたいだけだ。内容を伏せたままでも集まるだろうよ」
お師匠様はからからと笑った。
大体は不敵な笑みだったり怪しい笑みではあるのだが、思えば普段から良く笑うお方なんだよな、と思った。
摩多羅隠岐奈 3
胸元には私が突き刺した剣が刺さっている。
彼女は壁にもたれかかり、こちらをうつろな目で見ていた。ぜひゅー、ぜひゅーという肺に穴が空いたかのような呼吸音が聞こえる。文字どおりの虫の息だった。
私は彼女を見下ろして問いかけた。
「何故こんなことをした? 元のお前はなんてことない小神であろうに」
彼女は信仰を注ぎ込まれ急速に成長してしまっただけの小さな神様だ。元々は村の守り神のような、大それた神様ではなかっただろう。
そんな彼女が何故このような凶行に及んだのか、私にはわからなかった。
「あなたも神様なら……わかるでしょ」
「何が」
「みんなが……助けて、助けてって縋る声……耳を塞いでも纏わりついてくる……」
「……お前は」
彼女の頬を、一筋の液体が伝う。暗くて色が見えない。それは涙だろうか、それとも血だろうか。
「でも常夜でならみんなを……」
その一言を最後に彼女は事切れた。先ほどまで聞こえていた呼吸音ももう聞こえなくなった。
この小さな神様は、分不相応にも全てを救おうとしたのだ。そして潰れた。彼女にとっては、もうこれしか選択肢がなかったのだろう。
本当に救いが必要だったのは、こいつの方だったのかもしれない。
ふと気づけば、一匹のアゲハチョウが飛んでいた。
どこからか入り込んだのだろうか。それとも彼女の一部が分かたれたのだろうか。
私はその蝶が窓から夜空へ飛び立っていくのを黙って眺めていた。
エタニティラルバ 2
「楽しんでるか?」
摩多羅隠岐奈は私に向かってそう言った。
その言葉を聞いた瞬間、周りの宴会の喧騒が一瞬遠くに聞こえた。
この宴を楽しんでいるかどうかを聞いているのだろうか。目的語がないので意味がはっきりしない。
私が視線を上げると、彼女は何も言わずただ黙って私の答えを待っていた。
その表情を見て、「楽しんでるって何を?」と聞く気はどういうわけか失せてしまった。
宴を楽しんでいるか、以外の意味は見出せない。まあそれで間違っていないだろう。
私は力強く頷いた。
「うん!」
「そうか。そいつは良かった」
彼女はそう言って微笑んだ。
それは愛しい我が子に向けるかのような笑顔だった。
桜もとうに散り花見の季節が過ぎても、博麗神社の宴会には沢山の妖怪が集まる。
それぞれが勝手に持ち寄ったござを敷き、勝手に持ち寄ったお酒を飲んでいる。喧騒を聞きつけて後から参加した私は、最早誰が持ち込んだかも分からない日本酒を片手にその宴を楽しんでいた。
「ちょっと前にやったばかりなのに、またやってるだなんて思わなかったわ」
私がそう言うと、隣に座っていたルナチャイルドが答えてくれる。
「何でも異変解決のお祝いだそうよ」
「へぇ、異変なんてあったかな。どんな異変?」
「私も知らない」
「えっ……何それ?」
「どうにも皆よく分かってないみたいなのよね」
周りの妖精の妖精に話を振ってみたが、皆ルナチャイルドと同じだった。異変の解決祝いというのは知っていても、具体的な内容についてはあまりよく分かっていないようだ。
「騒げる口実があればみんな何でもいいんでしょ。花見だって実際に花を見てる人なんてほとんどいないじゃない」
桜の妖精が口をすぼめて非難がましく言う。
悔しいだろうけど確かにそうね、と私は苦笑いした。
「私は誰が解決した異変か聞いたよ」
他のござから戻ってきたサニーミルクが得意げに胸をそらす。ルナチャイルドは「はいはいすごいすごい」と言ったあとに先を促す。
「で、誰が異変を解決したの?」
「何の異変かは知らないんだけど、解決したのは……」
そこまで言いかけてサニーミルクは私の方を見て言い澱んだ。どうしたのだろう、と思うと私の袖が後ろから引っ張られる。
「そこな妖精。その手に持っている酒を注いでくれんか」
「もう、お酒くらい自分で注いでよね……」
偉そうな口調に、ついちょっと刺のある言い方をしてしまう。振り向いて私は赤い盃にお酒を注ぎ、面を上げてそして気づいた。
「げっ……」
「何だ、失礼なやつだな」
長い金髪、オレンジと緑の道士服。変な形の黒い帽子に偉そうな態度。私は彼女のことを知っていた。
私が条件反射でお酒を注いだ相手は、マタラ神という神様だった。話には聞いたことがあるし遠目で見たこともあるが、直接面と向かうのはこれが初めてだった。
チルノから聞いた。彼女は私を敵対する神かもしれないと言っていたと。
そうすると私は彼女に嫌われていたりするんだろうか。
私としてはお前は神様かもしれない、と言われても全くピンと来ない。そのせいで会う前から嫌われているのなら、とても理不尽な話だと思う。
「……」
マタラ神は何も言わずに、私が注いだお酒に口をつけた。
私の目を見ていた。
何と言っていいかわからずに、私は縮こまった。沈黙が重い。何か言って欲しい。
盃を乾かして一息つくと、彼女はゆっくりと口を開いた。
「楽しんでるか?」
摩多羅隠岐奈 1
今日の夕焼けの赤色は妙に不穏なものを感じる。
広大な水田の真ん中に通された道を、私は馬で駆けていく。馬もどこか不安そうだ。
「っとに朝廷は人遣いの荒い……」
唇から漏れ出た愚痴が風の中に消えていく。
私は朝廷から与えられた命に従い、東国のこの地に遣わされた。
昔はーー私が秦河勝になった頃ーーはこうではなかった。厩戸皇子(うまやどのみこ)が私の庇護者となっていた頃は、誰にも指図を受けず、たまに働いて気ままに暮らせていたのだが。
ぶるん、と馬が嘶いた。私は彼の首を撫でた。
「そう怯えるな……はぁ、お前が厩戸皇子の驪駒だったらなぁ」
かの恐れ知らずの名馬であれば、こうやって宥める苦労も無かっただろう。
驪駒も厩戸皇子も逝ってしまい、私だけが残された。
私は海を越え遥かなる西にいた頃から神だった。人を救いながら東へ東へと移ろい、この島国に錨を下ろした。
そしていつしか人を救うことに疲れてしまった。
この世はまこと救い難い。救いの手を必要としているものがあまりに多すぎる。救っても救っても終わりがない。私が救った分だけ、不幸な人間が増えていくような気さえする。
私は疲れた。だから神をやめ、秦河勝という一人の人間として生きてみようとした。
そこで出会ったのが厩戸皇子だった。奴は中々に豪胆な人間で、私の出自を知り人間でないと分かっても私を受け入れた。時折奴の仕事に力を貸すだけで、あとは好き勝手に暮らすことができた。
しかしそれも厩戸皇子が生きていたころの話だ。今は朝廷での暮らしを維持するべく、彼らの命令に従いそれなりに忙しい日々を送っていた。
そういえば厩戸皇子はその死の間際、随分と大陸の道士に入れ込んでいた。ひょっとしたら仙道になって今もどこかで生きているかもしれない。
いや、考えすぎだ。仙道への道は一朝一夕で開けるものではない。あの道士が来た時期を鑑みるに、私の知る知識では、仙道になる十分な時間があったとは思えない。
自分で思っているよりも私は奴の死を惜しんでいるのだろう。だからこんな妄想をしてしまう。
「うおっ」
馬が前足を高く上げ、大きな鳴き声で嘶く。私は振り下ろされそうになった。
これ以上は無理だな、と判断し馬を降りた。
「帰る足が無くなると困るからな。あとで呼ぶからそう遠くへ行くなよ」
首を撫でそう声をかけると、馬は身を翻し走っていった。随分と怯えている。
私は道の先を見つめる。
そこには集落があった。この国では珍しくない、水田に囲まれた何処にでもあるような村だ。
しかし確かにそこからは厭な気配を感じる。馬は元々臆病な生き物だ。あそこに何か恐ろしいものがいるのを敏感に嗅ぎつけてしまったのだろう。
「仕方あるまい」
私はやむなく歩き始めた。
朝廷から受けた命は、あの村で起きている異常を平らげることだった。
何でも大生部多(おおふべのおお)なる人物を中心に、村ではある神を信仰しているらしい。曰く、崇めれば富や若さが手に入るのだと。
しかし実際には何のご利益も得られず、民は飢えて苦しむ一方なのだという。
おかしな話だ、と私は思う。
何のご利益も得られない神が、何故信仰されているのだろうか。
タタリ神のように災いをおこすから鎮めるために崇められている、というわけでもないらしい。本当に何も起きていないそうだ。
それにも関わらず信者は増えていく一方で、周辺地域にも信仰が広がっており、この村に移り住む者も少なくないらしい。
よっぽど大生部多の口が上手いのだろうか。
奇跡が起きないのはまだ皆のお布施が足りていないだけだ、そう騙り民から財産を取り上げる男の姿を思い描いてみた。
もしそうならそいつを取り除けば良いだけだ。
しかし集落から感じる異様な気配は、明らかに何かがいることを告げていた。
何かしらの神に類するものがいると思われる。しかしそれならそれで、何故何も影響を及ぼさないのか。
「……ふむ」
思索にふけながら歩くうちに、随分とあたりは暗くなっていた。
日が落ちる。夜がやってきたのだ。
私は歩みを早めた。
丁礼田舞 1
里乃が眠っていた。
白襦袢に身を包み、布団の中で眠っている。その姿は僕に死者を想起させた。
不安になって顔を近づけると、微かに寝息が聞こえる。まだ生きている。僕は胸を撫で下ろした。
里乃は既に丸二日眠ったままだった。
食後に午睡しているのかと思ったが、いつになっても目を覚さない。疲れているのかと思って最初は起こさないように放って置いてあげたのだが、やがて異常なことに気づく。
声をかけても、肩を揺らしても、頬を引っ叩いても彼女が目覚めることはなかった。
お師匠様に相談しても、彼女は渋い顔で「そうか」と短く言い、やることがあると何処かへ出かけてしまった。
眠り続ける里乃をどうにかするために出かけたのだろう。そう思いたかった。
しかしお師匠様が僕らのことをどれだけ気にかけているかは正直わからない。全く気にせず関係のないことで出かけている可能性も十分考えられた。
いや、そんな薄情なお方じゃない。そう思おうとしても、脳に黒い霧が絡みついているように不安が治らない。
里乃がいないせいだ。心細くなって嫌な想像ばかりが膨らんでしまう。
「……蝶々?」
一匹のアゲハチョウが部屋の中をひらひらと飛んでいた。
この後戸の国に生き物が入り込むのは珍しいが、全くありえないわけでは無かった。流石に狸や猫などの動物が入り込むことはなかったが、戸に入るときに虫が一緒に入り込んでしまうことは今までもあった。
蝶々はしばらく舞っていたかと思うと、里乃の頬に止まった。
普通なら綺麗と思えるアゲハチョウだったが、僕にはそれが死体にたかる蝿のように感じられた。
「……っ!」
ゾッとした僕は蝶々を振り払った。蝶々はひらひらと何処かへ飛んでいく。
僕は彼女の頬に触れた。体温が低い。普通に眠っている人間の温かさではない。
もし里乃がずっと目覚めなかったらどうしよう。今までずっと傍には里乃がいた。彼女が欠けることなど考えられない。
もし万が一があったらと思うと、心細さで胸が締め付けられるようだった。
お師匠様はまだ戻ってこない。
彼女が帰ってくるのを待ちぼうけて何もせず、その間に手遅れになってしまったらどうしよう。もしこれが病なのであれば、早急に手を打つべきではないだろうか。例えば、八意永琳に診てもらうだとか。
僕は心を固めた。
里乃を背負い連れ出した。
その体が思ったよりも軽いことが、より一層僕を不安にさせるのだった。
摩多羅隠岐奈 2
集落からは人の気配がしなかった。
ひとまず適当にその辺の家屋に入ってみることにした。
誰か居るか、と声をかける気にはならなかった。人の気配がしないしどうせ無駄だ。
家屋の中には誰もいないと思っていた。しかしそうではなかった。
囲炉裏のそばに何人か人間が倒れ伏していた。夫婦とその子供たちが何人か、というところだろう。
その内の父親らしき成人男性の体をひっくり返す。わすがに吐息が聞こえてくるので、眠っているだけのようだ。体を揺さぶったり、頬を思い切り引っ叩いてみたりしたが起きる気配が全くなかった。
囲炉裏の灰に手をかざすが、全く温かみを感じない。ついさっき倒れたということはないだろう。
男性の顔をよく見れば、頬が痩せこけているようにも見える。元々貧しい暮らしだったのか、それとも眠ってから大分日数が経ち体が痩せ細っているのか。
これ以上この家から得られる情報はないと判断し、私は外に出た。そして通りを歩いていく。
集落の中心に遠目でわかるほど大きな屋敷が見えていたので、そこへ向かうつもりだった。
都であればともかく、農村にあのような豪邸は不釣り合いだ。
暗い村を私は厭な気分で歩き続ける。
「……随分とまあ、不格好というか」
私はその大きな屋敷の目の前までたどり着いた。
月明かりに照らされたその建物からは、かなり歪な印象を受けた。何というか、分不相応に膨れ上がっている。
個人的に左右非対称の建物はあまり好みではないのだが、この建物はそれどころではない。
瓦の種類も床の高さも場所によってまちまちだ。別の大工がそれぞれ設計したものを、つぎはぎにしているように見える。恐らくは増築に増築を重ねたのだろう。
大生部多はその教えを、急速な勢いで拡大させたと聞いている。この建物はその事情をそのまま反映しているようだ。
私は正面の入り口の戸を開いた。無用心なことに鍵はかかっていなかった。
中に入ると真っ直ぐ廊下が続いており、その先は真っ暗で何も見えなかった。まるで化け物の腹の中だな、と私は独りごちる。
玄関に置いてあった燭台を私は手に持った。私は蝋燭にふっと息をかけた。すると燭台に火が灯る。
この先何があるかわからない。反対側の空いている手で腰に差した剣を確認する。
廊下は意外とすぐに曲がり角に突き当たった。しかしそこからが長く、右に曲がり左に曲がりと殆ど迷路になっていた。
やがて迷路に終わりが見えた。やたらと大仰な扉が現れ、そこが行き止まりだった。装飾は大陸風のものや東国でよく見られるものなどが入り混じり合っている。
何かがあるとしたらこの先だろう。
私は慎重に扉を開いた。
「……何だいこの有り様は」
思わず声に出してしまう。
扉の先は板床の大広間になっていた。天井は高く、左右の壁には曼陀羅を真似したような文様が描かれている。
異常だったのは大量の眠っている人間が床に転がっていることだ。
その光景はまるで死体の散らばった戦場のようだ。
大体は農村の住民とわかる格好をしていたが、その中に一人だけ贅沢な着物を着ている者がいた。
私はうつ伏せになっているそいつをひっくり返した。
「コイツが大生部多かな……」
肥えた狸腹に歯の抜けた口。毛髪には白髪が混ざっている。歳は四十程度といったところだろうか。朝廷で受けた報告と一致する。
こいつが大生部多と見て間違いないだろう。
しかしこれは参った。
最早これは教祖を一人排除すれば良いといったような単純な話ではない。もっと別の何かがこれを起こしているということだ。
「だぁれ?」
この異常な場に似つかわしくない、幼い声が暗闇の先から聞こえてきた。
生き残りの子供とは考えづらい。しかし咄嗟に剣が抜けなかった。子供に刃物を向けることに抵抗を覚えてしまったせいか。
燭台の明かりをそちらに向けて目を凝らすと、御簾がかかった箱のような小部屋があった。声の主はその中にいるようだ。
「都の役人さ。お前がこれをやったのか?」
「うん、そうだよ」
嬉しそうな声が聞こえて来る。褒められるのを待っていたようにすら聞こえた。
そこでようやく違和感に気づく。
御簾から見える影がおかしい。明らかに子供の大きさではない。大きな岩のような形をしている。
「なら私はお前におしおきをしなくちゃならないな」
「何でよ」
声の調子が一気に下がる。
もう普通の童女の声ではない。怪物の声だ。
何かを引きずるような音を出しながら、御簾を上げてそいつが出てきた。
「お前……!」
その姿を見て息が詰まった。
まるで発光しているかのような美しい水色の長い髪に、頭から生えた黄色い触覚。背中からはアゲハチョウの羽が生えていた。ただし向かって右の羽は羽化に失敗したかのようにしわくちゃだ。
しかし特筆すべきはその下半身だ。
異形。そう表現するべきだろう。
芋虫を何倍にも大きくしたような、白と緑の混ざった肉の塊が、うぞうぞと蠢きながらこちらに近づいて来る。
この屋敷と同じだ。分不相応に膨れ上がっている。皮膚の成長が肉の膨張に追いないようだ。
「お前は……何だ?」
「見てわからない? とても偉い神様よ」
これほどの異形でありながら、一応は意思の疎通が出来てしまうことが逆に気味が悪い。
だがこいつが諸悪の根源であることははっきりした。
剣を握る手に力が入る。
「この人間たちを目覚めさせてやってくれないか?」
一応言葉が通じるので交渉を試みる。
しかし相手は何を言っているのか分からないといった表情だった。
「何でそんな酷いことしなくちゃいけないの?」
さっぱり要領を得ない回答が返ってくる。
まあいい。彼女の言い分などこちらの知ったことではない。
「……質問を変えよう。お前を殺せば人間たちは目覚めるか?」
そいつは何がおかしいのかわからないが、クスクスと笑った。
「多分そうだと思うわ」
会話の間にも、そいつは下半身を引きずるようににじり寄って来る。
「ねぇねぇ、これだけ質問に答えてあげてるのに、名乗りすらしないってのは失礼じゃない?」
「名前ね。私は……」
私は一気に剣を鞘から引き抜いた。
「マタラ神だ」
「へえ、そう。私はトコヨ神って呼ばれてるの」
私は自分の台詞に違和感を抱いた。
どうして秦河勝と名乗らなかったのだろう。何故ここ最近使ってこなかった、マタラの名を名乗ったのだろうか。
丁礼田舞 2
八意永琳は額に手を当て、珍しく思い悩んでいるような表情をしていた。
布団に寝かされた里乃は、相変わらず目を覚ます気配を見せない。八意永琳は里乃の方をちらりと見た後、僕に向き直った。
それほどに重症なのか、と思うと胃が縮こまる気分だった。もっと早く来ればよかった。僕は手に持った竹を痛いほど握りしめた。
「どこから説明するべきか……まずこの子は病ではないわ」
「病気じゃないってこと……?」
「ええ。催眠術だとか呪いだとか、そういったものに近いわ」
その催眠術と呪いの二つの単語が並べられることがしっくりこなかったが、表情でそれを察したのか「似たようなものよ」と彼女は言った。
「じゃ、じゃあどうすれば里乃は……」
つい立ち上がってしまった僕を、彼女は右手の掌を向けて制した。
「それを説明するには、まず今人里に起きていることを説明する必要があるわ」
「人里……?」
人里で起きていることが里乃に関係するということか。
どういうことなのだろう。
「直接見てもらったほうが早いかしら。ついて来て」
彼女は立ち上がり部屋を出る。僕も後ろについて廊下に出る。
二つ隣の部屋の前に立ち、彼女は扉を開け放った。
「これは……」
そこの部屋には、四人の人間が寝かされていた。
小さい女の子と若い女性と、壮年の男性と老人だった。見る限り人里の人間ということ以外に共通点は見出せない。
しかし全員まるで納棺されている死体のように、ほとんど寝息を立てず静かに眠っている。
「里乃と同じ……?」
同じ病が流行っているのだろうか。いや、病気でないと今言われたばかりじゃないか。
思っているよりも僕は冷静ではないようだ。落ち着け。僕は息を深く吸った。
「ええ、その通りよ。彼女と同じく眠りから目覚めない者が、既に人里で四人出ていた。彼女は五人目というわけね」
一体何が起こっているのだろう。
駄目だ。動揺でほとんど頭が回らない。
とにかく今は話を聞こう。
「この人たちはいつから……」
「一人目は一週間ほど前ね。二人目が永遠亭に運び込まれた時点で、人里がパニックにならないよう、同じ症状の人間がいないか探し出してウチで保護したの」
二人目の時点でそこまで動いたのは流石と言ったところか。
「……まあ、そろそろ人里も異常に気がつき始めてるし、露見するのは時間の問題ね」
彼女は長いため息をついた後、「どの道点滴が必要だから帰すわけにはいかないけれど」とぶつぶつぼやいた。
「六人目、七人目が出てくればもっと早く気づかれてしまうでしょうし、そろそろ解決しなくちゃいけないんだけれどね……」
「解決する方法が無いと?」
かつて月の頭脳であった八意永琳ですら、彼らを目覚めさせることができないということは、相当に深刻な事態だ。
「無いわけじゃないんだけどね。まず前提からなんだけど、この異変は自然発生的なものでなく、誰かが起こしたものよ」
「どうして?」
「夢の中に行こうとしたんだけれどね」
眠りから目覚めないのであれば、夢の中で何か異常が起こっているのかもしれない。
確かに、と思うと同時にその程度のことも思いつかなかったのかと自分が情けなくもある。
「入れなかったのよ」
「入れなかった?」
どういう意味だろうか。
「ええ。人々の夢は繋がってるから、誰かの夢に行くには自分の夢を通って共通している部分、まあ夢のロビーのようなものね。そこを通るのだけど……」
彼女は眉間に皺を寄せ、渋い表情で続けた。
「塞がれてたのよ。結界が張られていたの」
「それは……なるほど、だから誰か黒幕がいると……」
覚めない眠りの謎を解くために夢に入ろうとすると、それを阻む結界がある。夢を調べられたら不都合な誰かが結界を張ったということだろう。
黒幕はその結界を敷いた人物か。結界が張られているのは、そいつが夢の中に潜んでいるからかもしれない。
「しかし月の頭脳すら阻む結界って……滅茶苦茶強力なんじゃ……」
「無理矢理だったら流石に突破できるわよ。でもそれで人々の夢にどんな影響が出るかわからないし……あとその呼び方はやめて頂戴」
さて、と八意永琳は僕の方に居直った。
「説明はこれまでね。何でわざわざ私が貴女に懇切丁寧に説明したと思う?」
「えっ」
言われてみると確かにそうだ。八意永琳は僕に恐らく現時点で知っている情報を全て教えてくれた。しかし別に教える義務はない。
場合によっては黒幕は摩多羅隠岐奈で、僕は探りを入れにきた斥候と捉えられてもおかしくはない。
「この異変は貴女のお師匠様とやらが深く関わってる。私は彼女が解決すべき異変と考えていたんだけれど……まあでも頼むまでもないみたいね」
彼女が僕の肩越しに廊下の先に目線を向ける。
カラカラと音が聞こえ、僕は振り返った。
永遠亭の廊下を、お師匠様が車椅子に乗って現れたのだ。
「全く、待っていろと言ったじゃないか」
呆れ顔のお師匠様に僕は抗議した。
「言ってないですよ」
「そうだっけ?」
お師匠様はいつもこれだ。自分では全部説明した気でいるのだ。
「で、お師匠様はお弟子さんたちをほったらかして何をしてたわけ?」
刺のある口調でそう言い放つ八意永琳は、呆れているようにも少し怒っているようにも見えた。
「まあそう急かすな。こいつを見つけてくるのに思ったより手間がかかってな」
お師匠様は何も無い空中を上に向かってさもそこに扉があるかのようにノックする。
すると本当に扉が現れた。そして扉が開き、誰かが落ちてきた。
「いてっ……乱暴なんですから、もう」
赤いナイトキャップに白と黒の妙な服装。扉から落ちてきたのは夢の支配者、ドレミー・スイートだった。
この異変は夢にまつわるものだ。とすれば、この獏が黒幕なのだろうか。
僕はいつでも飛びかかれるよう身構え、竹を握りしめた。するとドレミーは両手を上げてひらひらと振った。
「待った待った。私は何もしてないですよ。貴女のお弟子さん大分切羽詰ってますねぇ」
「落ち着きな、舞。こいつは案内人であって黒幕じゃないよ」
そう窘められて僕は警戒を解いた。
自分ではもしものときに備えただけだったので、そこまで言われるとは思っていなかった。よほど余裕のない表情をしていたのだろうか。
「さ、夢の中に行くよ。ああ、成り行きで悪いけどウチの子を頼むよ」
里乃のことを頼んだのだろう。八意永琳は「構わないわ」とだけ答えた。
お師匠様はおもむろに隣の部屋の扉を開いた。するとその中は永遠亭の一室ではなく、紺色の空間が続いていた。夢の中に繋がっているのだろう。
獏を先頭に、その扉の中の紺色の空間へと足を踏み入れる。
「それと、ある一匹の妖精を見かけなくなってるの」
八意永琳に呼び止められ、お師匠様は足を止めた。
何故彼女はこのタイミングで妖精について話なんかしたのだろう。
そもそも自然の具現化たる妖精の足取りを正確に掴むのは難しい。冬の妖精は冬になると気がつけば現れ、終われば何処にいるかよくわからない。見かけなくなってもわざわざ気にするようなものではない。
「そうか」
「私が思うに、今回の異変は……」
お師匠様が振り返った。その顔は今までに見たことがない表情だった。
基本的にお師匠様は楽しそうにふんぞりかえっているか不機嫌そうにしているかがほとんどだったが、今の彼女は悲しそうな、何かを哀れんでいるかのような表情だった。
「いえ、わかってるならいいわ」
「……ああ」
お師匠様が扉の中に入り、僕もその後に続いた。
ドレミーを先頭に、紺色の空間を歩いていく。
何故飛んでいかないのか、と急かすと「飛んでも走っても歩いても変わりませんよ」とのことだった。夢の中だし普通の物理法則は通じないのかもしれない。
そうは言っても里乃のことを思うと、走り出したくなる衝動に駆られる。
まだ目的地に到着する気配も無かったので、僕は今回の異変について聞いてみた。
「この異変って……」
「ああ、大方先の完全憑依の異変のときに夢の中で騒ぎすぎたせいだろう。それで目を覚ましてしまったんだ」
お師匠様がドレミーに目線をやってそう言うと、彼女は非難がましい口調で返した。
「どちらかといえば貴女が扉を開いたせいじゃありませんか?」
「まあそれもあるかな」
話の流れがわからない。
二人はこの異変についてほとんど真相が分かっているかのような口ぶりだ。
「あの……そもそも異変を起こしたのは誰なんですか?」
「何だ、まだ分かっていなかったのか?」
お師匠はそう言って取り合ってくれなかった。
推理する材料は揃ってるということだろうか。
人々を眠りに誘う異変というのは聞き覚えがなかった。ただお師匠様と関わりがある、妖精といったキーワードに着眼すると、思い当たる節がある。
僕が口を開こうとすると、ドレミーの声で遮られてしまった。
「着きましたよ」
気がつくと目の前には茨の壁が広がっていた。遮るものがない紺色の空間の中で、何故目の前に来るまで気がつかなかったのだろうか。
茨の壁は左右どちらも地平の果てまで続いていた。上も同じく永遠に続いているようだった。
「で、薄手になっている部分はあったのか?」
「ええ」
お師匠様の口ぶりから察するに、ドレミーに協力を仰いだのはこのためのようだった。
「この結界は幻想郷全土を覆うほど大きい代わりに、網目が非常に荒い。下手に隙間なくガチガチに固めずに、その分のリソースを範囲と強度に費やしているのでしょう。ほら、そこです」
ドレミーが指差した部分は、幾分か茨の密度が低いように見受けられた。よく見てみれば、人一人が通れそうなくらいの穴が空いている。
「良かった……じゃあ早く行きましょう」
僕がそう意気込むと、お師匠様はきっぱりとこう言った。
「いや、行くのはお前だけだよ、舞」
「ど、どうしてですか」
お師匠様は里乃を助けたくはないのだろうか。
「網目の荒い結界ではあるけれど、私が通れるような大きな穴はないんだよ」
「でも僕が通れるんだったらお師匠様だって……」
「体のサイズの話はしてない。力の大きさの話だ。多分この結界は、仕掛けた者が自分の敵わないような強大な存在を通さないように設えたものだ。まったく賢しいもんだ」
「そんな……」
ここから先は僕一人で行かなくてはならない。
そう思うと急に口の中が乾いた。呼吸が浅くなる。
幻想郷全土を覆うような結界をかけられる奴に、僕が敵うのだろうか。僕はどうなっても構わない。でももし失敗したら里乃はどうなるのだろうか。
プレッシャーに押しつぶされそうになっていると、お師匠様が僕の背中を思い切り引っ叩いた。
「痛ぁ!」
「なーに縮こまってるんだい」
お師匠様がくっくと笑った。
「背中に後戸を作った。まあ開ききるまでまだ少し時間がかかるだろうが」
僕ら二童子ではなく、後戸の神本家本元による潜在能力の解放なら、この異変の主でも何とかなるかもしれない。
「ほら行っといで」
「……はい」
僕は静かに、でも力強く肯いた。
茨の穴に這いつくばって入った。
今里乃を救えるのは僕だけなんだ。怯えていても仕方ない。やるしかないんだ。
穴の中は洞窟のように暗い。しばらく進んでいくと、光が見えた。僕はスピードを早め、一気に茨の洞窟を抜けた。
「ここは……」
穴の先は今までのような紺色の空間ではなかった。
そこは板敷の広間のようだった。
ただし通常の建物ではあり得ないほどに部屋は広い。あたりは暗く、壁も天井も見えない。どこまで続いているのだろう。建物自体は何となくだいぶ古いように見受けられる。
そして少し先に、御簾のかかった小部屋のようなものがあった。そこは二つの篝火で照らされている。
御簾の先には人影が一つ見えた。僕はそいつに話しかけた。
「この異変を起こしたのは君?」
クスクスと笑う声が聞こえる。酷く勘に障る声だったが、どこか聞き覚えがある声だ。
御簾がゆっくりと上がり始めた。
「……もう一度言う。里乃を……みんなを覚めない眠りに誘ってるのは君か?」
「その通りよ」
御簾が上がりきった。
そこには一人の女性がいた。水色の長い髪で、仙人が来ているようなゆったりとした服を身に纏っている。
そして背中には大きく色鮮やかなアゲハチョウの羽が生えていた。
何となく予想はついていたが、こいつが異変の首謀者か。
「エタニティラルバ……」
八意永琳の言っていた行方不明の妖精とはエタニティラルバのことなのだろう。
しかし発せられる気配が妖精のそれではない。
「いや、常世神?」
常世神。富や若さが手に入ると崇められていたが実際にはそんなことはなく、世を乱し、最後にはお師匠に討伐された神だ。
「大体当たりよ。でも多分貴女の思ってるような神様じゃないわ」
彼女が立ち上がる。座っている時よりも羽が大きく見える。羽が自体が光を纏っていて、まるで後光が差しているかのようだった。
大体当たりだと、僕が思っているような神様ではないと彼女は言った。一体どういう意味だろうか。
「あなた、マタラ神の今の二童子の片割れでしょう?」
「……どうかな」
「それくらいわかってるって」
一応あまりこちらの情報を与えるのは良くないと思って言葉を濁したが、あまり意味がなかったようだ。
しかし古の神格が相手だとすると、僕では太刀打ちできない。いや、そんなことは初めからわかっていたじゃないか。
先ほどくぐり抜けた結界は、彼女が自分を倒せるような強者を確実に阻むために作ったものだ。結界の中に入れたということ自体が、僕が彼女を倒すには力不足の存在である証左だ。
やはりお師匠様が授けてくれた後戸を開くのを待たなければならない。
言葉が話せる相手だったのは行幸だ。会話で時間が稼げる。
「何でこんなことしたんだ」
「こんなことって……酷い言い方ね。私は皆を理想郷へ導きたいだけよ」
「理想郷?」
いきなり素っ頓狂な単語が出てきて、思わず面食らってしまう。
「そうよ。私はみんなをこの救い難い顕世から解放し、夢の果ての世界へ案内してるの」
彼女は目を細めて柔らかく微笑んだ。
それは大人が不理解な子供に向ける慈愛の目に似ていた。しかしその瞳の奥には人ならざるもの特有の昏い光をたたえている。
熱っぽく彼女は続けた。
「もう老いも病もない……永遠(エタニティ)はここにあるのよ」
段々と彼女の声に温かみを感じるようになり始めた。頭蓋からじんわりと脳へ染み込んでくるような甘い音だ。
「永遠に朝日が昇らず幸せな夢が続く世界。常に夜の国……そう、常夜国へ導くのが私の使命なの」
大体当たり、とはそういう意味か。本来の名前は常世神ではなく常夜神だから完全に正解ではなかったと。
「なるほどね……」
貴女の思っているような神様ではない、という台詞の意味するところもわかった。
富や若さを与えると嘯いて世を乱した神、と一般には思われているが、そうではないと。ちゃんと自分は富も若さも与えていたと言いたいのだろう。ただしそれは夢の中で、だが。
「もっとも歴史の波に揉まれる中で、常夜という本来の名前は失われちゃったんだけど。別の楽園信仰たちと習合したみたいね。常なる世と書いて常世神という名前に変わってしまった」
彼女はそう言ってため息をついた。
これが崇めてもご利益をもたらさず、世を乱し秦河勝に征伐されたとされる常世神の正体か。
「まあそれはどうでも良いわね。ほら、貴女も常夜へ連れて行ってあげる」
数間距離を空けて話していたはずなのに、気がつけば彼女は目の前にいて私に手を差し出していた。
「さあ、私の手を取って」
彼女の姿は神々しく、まさに救いをもたらす女神そのものだった。その微笑みは全ての悲しみを溶かすかのように温かい。
一瞬、何だか泣きだしそうな気分になった。歓びが胸の底からあふれてくる。
僕はその感情を握りつぶした。惑わされるな。こんなものはまやかしだ。
彼女の手を振り払う。
「そんなことより、里乃を返せ!」
手を払い除けられた彼女の顔を見た。背筋がぞくりとした。
先ほどまでの笑顔は消え失せ、鉱物を思わせるような冷たい顔になっていた。
「あっそ……なら力ずくでも救ってあげるわ」
彼女の右手には、スペルカードが握られていた。
「弾幕ごっこって言うんだっけ? 貴女たちのやり方に付き合ってあげるわ」
蝶符「バタフライドリーム-Fantasma-」
青い燐光を纏った蝶の群れが放たれる。
スペルカードと呼ぶにはあまりに数が多すぎる。蝶というより蝗害を思わせるような量だ。
弾幕ごっこ、と彼女は言ったがルールを理解しているようには思えない。この密度は明らかにルール違反だった。潜り込めるような隙間は一切無く、避けることを想定されていない。
ひとまず距離を取らなくては。
弾幕は距離を取れば拡散し、密度が下がるはずだ。
しかしその期待を裏切るかのように、蝶の群れの密度は一切下がらない。放たれた青い蝶は一体一体が増殖しながら広がっている。
「くそっ!」
力を込めて竹であたりをなぎ払う。放たれた光球が蝶を打ち消す。
本来であればスペルカードを宣言するべきだが、その義理はない。弾幕ごっこと呼ぶにはあまりに殺意に溢れていて、美しさが欠片も無い。
時間が経つほど蝶の群れは増えていくだろう。後戸はいつ開くかわからずアテにできないし、短期決戦を仕掛けるしかない。
蝶の群れをなぎ払いながら、距離を詰めていく。
ようやく蝶の群れの向こうに姿が見えるまで近づけた。しかし彼女は怖気のするような微笑みで僕のことを見つめるだけで、何もしない。
格下だと思って舐めているのか。もう間合いだぞ。
両手で竹を握りしめ、彼女の喉元目掛けて突き出した。
しかしその一撃が常世神を貫くことはなかった。
「なっ……里乃!?」
里乃は盾になるかのように僕の前に立ち塞がっている。
気づくのがギリギリ間に合い、竹の切っ先は里乃の喉元の寸前で止まっていた。
「里乃どいて!」
里乃は僕の呼びかけに全く反応を見せず、虚な目をして立ち尽くしていた。
「気分が良いわ。マタラ神ご自慢のお人形さんも今は私のものだなんて」
彼女はクスクスと笑いながら、里乃の肩に手をかけた。
里乃に触れるな。その叫ぼうとしたが、既に僕の喉元には剣が突きつけられていた。
「————っ」
冷や汗が額を伝う。少しでも動けば喉に剣が突き刺さるようで、唾も飲み込めない。
「これはね、かつてマタラ神が私の胸に突き立てた剣なの。良い意趣返しだと思わない?」
背中の扉はまだ開いていない。これ以上時間を稼ぐのは限界だ。
そもそも潜在能力を引き出せたところで、里乃が人質なら僕はもうどうしようもないんじゃないだろうか。
弱気になっているのを見透かしたのか、彼女は柔らかい声で僕を誘う。
「貴女たちはマタラ神にとって用無しなんでしょう?」
彼女は僕に剣を突きつけながらそう言った。
その甘い声は脳に心地よく響いた。
「二童子の後継が見つかれば打ち捨てられるだけ。二人で永遠に幸せな夢を見続けたいと思わないの?」
少しだけ考える。里乃と二人で同じ夢を見続ける未来を。確かに魅力的な誘いかも知れなかった。
お師匠様が僕たちをどうする気かはわからない。
彼女の言うとおり、使い潰す気なのかもしれない。
いや、今はあまりそう思っていない。
お師匠様は不遜で面倒臭くて人の気持ちに疎い。好人物じゃないのは確かだ。
でも言葉足らずなだけで、案外と僕らのことを見ているんじゃないだろうか。最近はそんな気がする。
「そうだなぁ……」
操り人形にされた里乃を見て思う。
そもそも里乃にこんなことをしたやつを許しておけるのか。そんな話はない。まずは一発お見舞いしてやらないと、腹の虫が収まらない。
「ほら、私が常夜に連れていってあげるわ」
邪神は剣をおさめ、手を差し出した。
腹はもう決まっている。僕はその手を、もう一度振り払った。
「ごめんだね。夢なら勝手に一人で見てろ」
一瞬彼女はひどく傷ついた表情をしたように見えた。しかし次の瞬間には感情の消えた、冷たい目をしていた。
「……もういいわ」
剣が振り上げられる。
僕は馬鹿だったかもしれない。格好つけて啖呵を切ってしまうなんて。身の安全より意地を優先してしまうだなんて、僕はそんなやつだっただろうか。
でも里乃に手を出されたことがどうしても許せなかった。きっとお師匠様の傲慢さがうつったんだろう。全部お師匠様のせいだ。
「私を崇めないからこうなるのよ」
剣が振り下ろされる。
僕を真っ二つにするはずのそれは————眼前で見えない壁にぶつかったように弾かれた。
「えっ……」
「よくやったな」
聞き慣れた声が背中から聞こえた。僕の肩に手が置かれる。
お師匠様だ。結界で夢の中に入れなかったはずのお師匠様が、突然現れたのだ。
目の前の常世神は顔を歪めて叫んだ。
「摩多羅隠岐奈ァっ!」
再び青い燐光を纏った蝶の群れが現れる。
お師匠様は僕と里乃を担いで、いつの間にかそこにあった扉の中に飛び込んだ。
扉から出ると遠くに常世神が見えた。一旦距離を取ったようだ。
「ああも情熱的に名前を呼ばれると、何だか照れてしまうな」
くっく、と喉を鳴らしてお師匠様が笑う。
脳味噌が展開についていけていなかった。どうしてお師匠様がここにいるのだろう。
「結界で入ってこれないんじゃ……」
「うん? だからお前の背中の扉を開いて、その扉から私が入ってくるという作戦だったじゃないか」
あっけらかんとお師匠様は言った。
「……言ってないです」
「そうだっけ? あだっ、スネを蹴ろうとするんじゃない!」
後戸を開いて僕の潜在能力を解放する、というのは思い違いで、最初から自分が後戸から夢へ侵入するという作戦のつもりだったようだ。しかし一言もそんな話は聞いていない。
またお師匠様は説明したつもりになっていたのだろう。何でもかんでも言葉にしなくても伝わると思わないでほしい。
「摩多羅隠岐奈、お前はまた私の邪魔を……!」
常世神が手を振ると、青い蝶々がこちらに殺到する。お師匠様は指を鳴らし先ほど通ってきた扉の向きを変え、その蝶の群れを吸い込ませた。
そして里乃を僕に預けた。里乃は相変わらずうつろな目で、はっきりとした意識は戻っていないようだ。
それからお師匠様は僕の目を見つめた。
こんな風にお師匠様と目を合わせることはあまりない。ひょっとしたら初めてかもしれなかった。
「……頼んだぞ」
お師匠様はそう言って身を翻した。
里乃を頼む、ということだとは思うのだが、妙にひっかかる言い方だ。
「ざっと一四〇〇年ぶりか? 随分と良い見てくれになったな」
常世神は憎悪にまみれた表情をしていたが、一度目を閉じて開くと、元の余裕ある顔に戻っていた。
「そうでしょう。夢の中なら私は望む姿になれる」
彼女が笑い、お師匠様は少しだけ顔を顰めた。
「貴女の木偶の記憶を通してみたわ……随分と多くの神格を持ってるみたいね。付与されてしまったというべきか」
確かにお師匠様は神として様々な面を持っている。実際に自ら「後戸の神であり、障碍の神であり、能楽の神であり、宿神であり、星神であ」ると名乗っている。
「本当、可哀想ね」
「何が言いたい?」
お師匠様が先を促すと、常世神は目を細めて嬉しそうに笑った。裂けたような口から嘲笑が溢れる。
「私と貴女は同類よ。私たちは数多の人々から救いを求められた。貴女の数ある神格と権能は求められるがままに付与されたものでしょう? これを助けてくれ、あれを守ってくれと際限なく求められ、貴女は様々な神にならざるを得なかった」
お師匠様は口を開かず、黙って彼女の言葉を聞いていた。何を思っているのだろうか。
反論しないということは、彼女の言うことは間違っていないということだろうか。
「そして最早、自分が元々何の神だったかもわからなくなった」
お師匠様が様々な神としての側面を持っている意味なんて考えたこともなかった。
その話が本当なら、酷い話だ。人々が望むから色んな姿の神になったというのに、何の神かわからなくなって、挙句に人々から忘れられて。正体不明の秘神と呼べば聞こえは良いが、本来の姿が人々から忘れ去られてしまっただけだ。
「もう疲れたでしょう。こんな救い難い現世に価値なんてないのよ。でも常夜であれば皆んなを救える。貴女自身もね」
常世神は慈愛に満ちた表情で微笑んだ。神々しさと暖かみが同居している笑みだ。
かつて彼女が一時的とはいえ多くの信仰を集めたのにも納得がいく。一瞬だけだが、僕ですら彼女がやっていることを忘れて、ひれ伏したくなるような気分になった。
「恥たりする必要はないわ。この国を造った一柱でさえ、自らの相棒でなく太陽の孫たちがのさばる未来が見えてしまい、失望し、常夜へと至った」
常世神はゆっくりと手を差し伸べた。
ひょっとしてお師匠様は常夜になびいてしまうのだろうか。不安がじわりと胸の内に広がる。
「さあ、私の手を取って」
「現世に価値なんて無い、ね……」
ようやくお師匠様が口を開いた。どこか呆れているような声色。言いたいことはそれだけか、と言わんばかりの態度だった。
「ならお前が今受肉に使っている妖精は……エタニティラルバとは何だ?」
お師匠様のその一言で、常世神の眉がぴくりと動く。少し動揺したように見える。
常世神は吐き捨てるように言った。
「ただの残りカスよ。利用するには便利だったけど、それ以上の何者でも無い」
「ただの残りカスが一四〇〇年も残り続けたのか? 本当に? ……そうじゃないだろう」
一拍置いてから、ゆっくりとお師匠様は告げた。
「彼女はお前の未練だ」
「……」
常世神は何も言わなかった。
顔をうつむけていて、表情が見えない。
そんな様子の彼女を気にもとめず、お師匠様は話を続けた。
「お前が現世へ未練を抱えていたから、お前の一部が残ってしまったんだ」
「……黙れ」
常世神の唇から小さな声が漏れた。
「本当はどこか自分が間違っているのをわかっていた。望んでいない者まで常夜の世界に引き込もうとしてるのは、自分が正しいと思いたいからだろ。舞の言うとおりだよ。夢が見たいなら勝手に一人で見れば良い」
「……黙ってよ」
「可哀想そうなのはお前の方さ。自分でもわかってるはずだ! 本当は、夢の世界なんかじゃなくて現世で幸せになりたいとーーーー」
「黙れって言ってるじゃない! もうお前は何も喋るな!!」
常世神が絶叫する。
青色の蝶が舞い、木の葉が吹き荒れる。彼女は憎悪を剥き出しにした顔でお師匠様を睨みつけていた。先程手を差し伸べたときの、聖母のような雰囲気はどこにもない。
お師匠様は光球で蝶を打ち消し、取りこぼした分を躱しながら移動していく。そして常世神がそれを追いかける。
その様子はある種の舞のようにも見える。
最小限の動きでお師匠様は弾幕をいなしていく。
しかし反撃できるような隙がない。相手の攻撃が永遠に続くなら、何処かで対応しきれなくなってボロが出る。
「あっ……」
つい声が出てしまった。駄目だ、あの数と軌道はいなしきれない。
打ち消しきれなかった蝶が殺到する。
被弾するその直前、お師匠様は僕を見ていた。
土煙と光で視界が一瞬遮られる。
「ははは、随分と良い格好になったじゃない!」
「ふん……」
視界が晴れると、被弾したお師匠様の道士服はボロボロになっていた。お師匠様のこんな姿を見るのは初めてだった。
常世神は攻撃を再開し、お師匠様がまたそれを避け始める。
「……」
さっきお師匠様は何で僕の方を見たんだろう。あの瞳は何かの合図のようだった。
それに先程の「頼んだぞ」というお師匠様らしからぬ言葉。多分里乃のことじゃない。常世神に悟られぬよう、何かを僕に頼んだんじゃないだろうか。
そして気づいた。
逃げるお師匠様と追う常世神を見ながら、あれは逃げているのではなく誘導しているのではないか、そう思った。
お師匠様が着地に失敗し、足がもつれる。常世神は剣を振りかぶった。彼女は叫ぶ。それはもう言葉の体をなしていない。
「————っ?!」
ただしその剣が振り下ろされることは無かった。
僕の突き出した竹が常世神の背中に突き刺さっていたからだ。
僕は最初にお師匠様が距離を取った時に使った扉を通って、常世神の背後に移動したのだ。
お師匠様は「頼んだぞ」と言ってこの作戦を指示していたのだ。
ただ避けているように見えて、最初に使った扉の前に常世神を誘導していたのだ。
そして扉が常世神の背後に来た瞬間、あえて隙を見せたのだ。
今回は奇襲のためだから仕方ないが、お師匠様は直接言及せず行間に意味を込めることが多すぎる。
「あ……やだ……」
貫かれた彼女の体が糸になって解けていく。解けた糸は彼女の足元で山になる。
「私……救わないといけないのに……」
助けを求めるように突き出された彼女の手を、お師匠様は優しく握った。
「お前が頑張る必要はないよ。人間なんてたまに手を貸してやれば、あとは勝手に生きていくんだ」
顔も糸になって解け、やがてお師匠様が握っていた手も解けて無くなった。
常世神の最後の言葉は、見た目相応の少女のようなか弱い声だった。
解けた糸は床に積み上がって山のようになっていた。こんもりとした膨らみがあって、繭のようにも見える。
お師匠様はしゃがみ込んで、その糸の山をかき分け始めた。
「ん……う……」
「……エタニティラルバ!」
糸の山の中からエタニティラルバが現れた。常世神の依代から解放されたということだろう。
彼女はすうすうと寝息をたてていた。
お師匠様が指を鳴らすと、扉から車椅子が出てきた。その車椅子に眠っている彼女を乗せた。
「さあ帰るよ。ほら里乃を置いてくのか?」
僕は慌てて気絶している里乃を背負った。
そしてお師匠様とひとりでに動く車椅子に乗ったエタニティラルバと帰途に着く。
「里乃は……眠りについていた人たちはこれで起きるんでしょうか」
「奴の影響は無くなったからな。ほっときゃしばらくしたら起きるさ」
そうですか、と僕が返すとそこで会話は途切れた。歩くお師匠様の横顔を覗くと、なんだか遠いところを見るような目つきをしていた。
かつての仇敵と対峙し、言葉を交わしたことで思うところがあるのだろう。
「お師匠様は……どう思ってるんですか?」
「何がさ」
「色んな神格を勝手に付与されて、自分が何の神様かも分からなくなって……」
あれも助けてくれこれもどうにかしてくれと望まれた結果、摩多羅隠岐奈は芸能、障碍、被差別民など様々な神様になり、何の神か分からなくなってしまった。そのことについて、人間は勝手でごうつくばりだと恨んでいたりするのだろうか。
「私が何の神様か見失ったのは周りの方だけさ。私は自分が何なのかちゃんとわかってる」
「そうなんですか?」
「ああ。例えば……私は能楽の神でもあるわけだが、能役者は河原者と呼ばれる社会的弱者でもあった。そもそも芸能自体が弱者救済としての側面も持っているしな」
確かに芸能にはそういう側面がある。瞽女(ごぜ)や琵琶法師などは最たる例だろう。
芸能は障害のせいで通常の農作業などに従事できない人に食い扶持を与えてきた。
「他にも障碍の神、被差別民の神……私の神格は多数あれど、基本的に弱者救済という側面が多い。だからまあ、つまり、私は弱い人たちを守る神様だったんだよ」
お師匠様は多数の面を持っているが、その殆どは弱い人たちを守る、というところに端を発しているわけだ。
「お師匠様が弱い人たちの味方………………あんま似合わないですね」
「……お前も言うようになったね」
「いった、スネを蹴るのは勘弁してください!」
ずり落ちそうになった里乃を、もう一度背負い直した。
つい本音が漏れてしまった。
普段ふんぞりかえって偉そうにしているお師匠様が、弱者救済を謳っている神様というのはあまりにイメージにそぐわなかった。
しかし冷静に考えてみれば当然の話かもしれない。
そもそも幻想郷自体、元々は排斥された人々を保護するためにお師匠様が作った土地だったはずだ。後に他の賢者との協力により外の世界と切り離され、今は妖怪の楽園となっているが、排他された者たちにとっての居場所という本分は失われていない。
摩多羅隠岐奈という神様は、確かに少数派の人々にとっての守護神として行動し続けている。
「でも……だった、って過去形なのは今は違うってことですか?」
お師匠様はちらりと僕を見た。それから一息ついて、訥々と語り始めた。
「私も常世神のことをあまり悪く言えなくてな。実は神であることに嫌気がさして人間として生きようとした時期があったんだが……」
恐らくは秦河勝だったころの話だろう。
「そのとき思ったのは、人間はほっといても勝手に生きていくもんだなと。勝手に自分で救われる奴にしろ折り合いをつける奴にしろ……私が弱者だと思っていた人々は、思ったよりも力強く楽しそうに生きていた」
そう語るお師匠様の表情は柔らかい。常世神よりもよっぽど女神らしいな、と思った。
「厳密には弱い人なんて人種はいないんだ。だからまあ、人々と寄り添いながら、弱ってしまったやつを見かけたら手助けするくらいでいいかなって」
「……結構適当というか、なんというか」
「適当にやれないとあいつみたいになってしまうからな」
僕はひとりでに動く車椅子に乗せられたエタニティラルバの横顔を覗いた。まだ意識は回復していないようだった。
彼女はあまりに真面目すぎたのかもしれない。その結果、到底不可能な理想を実現するため、現世を見限り常夜に頼った。
しかしお師匠様がこれほど自分について話すのを聞くのは初めてかもしれない。
思えばあまりこうやって真剣な話をする機会はなかった。多分聞いたところで、今までであれば適当に生返事されるだけだっただろう。
一人前だと認められたようで、何だか少し嬉しかった。里乃が起きていないのが少し惜しいところだ。
「もうお前も弱くないし、やはり私の庇護は必要ないのだろうな」
お師匠様は両手を合わせて伸びをした。
「……僕らを二童子に迎え入れた理由って、それですか?」
覚えていないが、僕たちは元々ただの人間だったはずだ。何故二人が選ばれたのだろうと考えた時がある。
今の発言を聞くと、きっと僕たちがお師匠様のつきっきりの庇護を必要とするほど、弱い人間だったんじゃないだろうか。
「いや、一番の理由は小間使いが欲しかったからだぞ」
お師匠様は歩くペースを少し早めて、僕らの数歩先に出た。そのせいで表情が見えなくなってしまった。ひょっとして照れているのだろうか。
「後任を探してたのは、もう僕らにお師匠様の庇護が必要無いと考えたからですか?」
「まあ……大体そんなところだ」
声色が少し寂しそうに聞こえるのは、僕の思い上がりだろうか。
記憶がないので分からないが、僕と里乃は思い出さない方が良いほど酷い状況にあったのだろう。お師匠様はつきっきりで保護する必要があると判断し、僕らを二童子に迎えた。
ただ最早その庇護も必要もなくなったと思っているわけだ。
本当我が主人ながら常に説明不足が酷いと思う。説明不足ゆえに謎に包まれた秘神だなんて呼ばれてるんじゃないかと邪推したくもなる。
そして僕は言ってやった。
「でもそうそういませんよ。お師匠様みたいに捻くれた神様に仕えられる奴なんて」
「……本当言うようになったな」
一瞬怒られると思って身構えたが、振り向いたお師匠様は満更でもないような表情をしていた。
「さて! 異変が終わったら宴だ。私の威光を知らしめる必要もあるしな」
お師匠様は気を取り直すように手を叩いた。
「え、でもこの子のせいで起きた異変だと知れわたるのはちょっと可哀想じゃありません?」
伝聞の中で少し情報が歪めば、エタニティラルバが起こした異変と伝わってしまうかもしれない。
ひょっとしたら彼女を非難する心無い人もいるかもしれない。
「そうだな……じゃあ異変の内容は伏せておこうか」
「それで人が集まります?」
「まあどうせここの連中は何かにかこつけて飲みたいだけだ。内容を伏せたままでも集まるだろうよ」
お師匠様はからからと笑った。
大体は不敵な笑みだったり怪しい笑みではあるのだが、思えば普段から良く笑うお方なんだよな、と思った。
摩多羅隠岐奈 3
胸元には私が突き刺した剣が刺さっている。
彼女は壁にもたれかかり、こちらをうつろな目で見ていた。ぜひゅー、ぜひゅーという肺に穴が空いたかのような呼吸音が聞こえる。文字どおりの虫の息だった。
私は彼女を見下ろして問いかけた。
「何故こんなことをした? 元のお前はなんてことない小神であろうに」
彼女は信仰を注ぎ込まれ急速に成長してしまっただけの小さな神様だ。元々は村の守り神のような、大それた神様ではなかっただろう。
そんな彼女が何故このような凶行に及んだのか、私にはわからなかった。
「あなたも神様なら……わかるでしょ」
「何が」
「みんなが……助けて、助けてって縋る声……耳を塞いでも纏わりついてくる……」
「……お前は」
彼女の頬を、一筋の液体が伝う。暗くて色が見えない。それは涙だろうか、それとも血だろうか。
「でも常夜でならみんなを……」
その一言を最後に彼女は事切れた。先ほどまで聞こえていた呼吸音ももう聞こえなくなった。
この小さな神様は、分不相応にも全てを救おうとしたのだ。そして潰れた。彼女にとっては、もうこれしか選択肢がなかったのだろう。
本当に救いが必要だったのは、こいつの方だったのかもしれない。
ふと気づけば、一匹のアゲハチョウが飛んでいた。
どこからか入り込んだのだろうか。それとも彼女の一部が分かたれたのだろうか。
私はその蝶が窓から夜空へ飛び立っていくのを黙って眺めていた。
エタニティラルバ 2
「楽しんでるか?」
摩多羅隠岐奈は私に向かってそう言った。
その言葉を聞いた瞬間、周りの宴会の喧騒が一瞬遠くに聞こえた。
この宴を楽しんでいるかどうかを聞いているのだろうか。目的語がないので意味がはっきりしない。
私が視線を上げると、彼女は何も言わずただ黙って私の答えを待っていた。
その表情を見て、「楽しんでるって何を?」と聞く気はどういうわけか失せてしまった。
宴を楽しんでいるか、以外の意味は見出せない。まあそれで間違っていないだろう。
私は力強く頷いた。
「うん!」
「そうか。そいつは良かった」
彼女はそう言って微笑んだ。
それは愛しい我が子に向けるかのような笑顔だった。
舞も隠岐奈様を励ましてるんだかよく分からない言い回しを最後にぼそっと言うのなんだかんだで師匠と弟子だなぁって感じがします
舞に対してもラルバに対しても隠岐奈様の母性が強すぎる もうこれ親子でしょ
あとおっきーなめっちゃかっこいい……。
優しい隠岐奈様、強くてカッコいいです。