ふと、眼が覚めた。
「ここは……」
見慣れたはずの高い天井。少し豪華なシャンデリア。身を預けているのは、ふわふわと弾力のある緑のソファー。
いつのも部屋に居る、いつもの私。
いつも通りぼんやりして居たのだろう。きっと。
だけれど私の目の前には、いつもと違うものがある。
大きなハートの形をした包み紙。鳥と猫のイラストがあしらわれた、長方形の包み紙。その他いろいろエトセトラ。
可愛かったり綺麗だったりしたけれど、その中身が何かは書いていない。
でも、私は覚えていた。これらが何で、どういう意味を持つのかを。
「……覚えて、おかなきゃ」
最初の二つは、誰からの物かすぐにわかった。でも他の物は、一体誰から渡されたのかまるでわからない。
ほとんどのものは、特別な意味を持たないのだろう。友達や、あるいは知り合いに渡すような、ささやかな幸いが詰まった贈り物。
だけど、きっと、おそらくは。このうちのどれかに混ざっているはずなのだ。
私の大切な人からの、贈り物が。
「私は――」
ああだから、どうにかしなくちゃ。
この眼が、また閉じてしまわないうちに。
§
私が神社に辿りつくと、そこは地獄だった。
昨今地獄が近くなったことは有名で、先の異変で霊夢らが地獄巡りに繰り出したことはすでに有名な出来事だ。
私も能の演目に地獄ネタを組み込もうとしたが、やめた。だって怖いし。
「こころじゃないか。どうしたんだ?」
呆れ顔で歩いていると――とはいえ表情には出ないのだけど――縁側から、魔理沙が話しかけてくる。
「どうしたんだ、は私が言いたいんだけど……バレンタインのお返し会、今日で良かったよね? どうして弾幕ごっこの会場になってるの?」
「あーそれがな。始まりは天子の奴が、貰ったチョコの数を自慢し始めたことに起因するんだが――」
「うんうん」
「それを受けて紫がこう言ったわけだ。どうせ天人の威光を振りかざして集めただけで、価値のないものでしょう、と」
「紫さん、なんか天人への当たり強いよね。それで?」
「天子は天子で、チョコをくれた紫苑やら誰やらを馬鹿にされたと感じたらしく、まあ後は流れで喧嘩が始まったという訳だ」
「他の皆も混ざってるのは?」
「騒ぎたいだけだろ」
つまりは、いつも通りの幻想郷ということらしい。
本来ならば、今日は神社でバレンタインのお返し会――という名の、宴会のはずであった。義理やら本命やらのチョコが多数飛び交ったひと月前、いっそのこと一か所に集まってやいのやいのしようという提案が魔理沙からもたらされたのだった。
もっとも目的の大半は、ただ騒ぎたいだけというものなんだろうけど。
「皆のんきよねー。霊夢さんって一応、妖怪の敵ってことになってるんでしょ? こんなに大騒ぎしたら退治されちゃうんじゃないかなー」
「一応とか本人の前で言うんじゃないぞ。針を刺されるからな」
それは困る。痛いのは嫌だし。
それにしても――。
「……うーん、居ないなあ。今日ぐらいはいると思ったのに」
「霊夢の奴なら居ないぞ。なんでも妖怪退治の依頼だとかで、夕方には戻るんだと」
「いや、霊夢さんはどうでもいんだけど」
「……お前、割りと口悪いよな」
そうだろうか。私としては皆と仲良くなりたいので、そう思われるのは少々心外である。
まだまだ人間の感情を学びきれていないということだろう。頑張ろう。
「ええとそれはともかく……こいしがどこに居るか知らない?」
「ん、ああそういうことか。そういえば今日は見てないな」
見てないな、という言葉だけでは来ていないかどうか判断できないのが困りものである。
とはいえ、最近のこいしは他人にちゃんと認識されることも多い。先の異変でこいしとペアになることが多かった魔理沙の言葉ならば、信じられるだろう。
「……こいしとあんまり組めなかったことを思い出したら、ちょっと怒りがわいてきた。これが嫉妬の表情?」
「よくわからんが、こいしなら地底じゃないのか?」
「うーんそうねえ、行ってみるしかないかなあ」
いつもどこかをふよふよ漂っているこいしなので、地底にいるとも限らないのだけど。居場所を探すとなれば、一番可能性があるところから探ってみるしかないだろう。
「それじゃあ私、地底まで行ってくるねー。夜までには戻るから」
「あー、わかったわかった。……それにしても、相変わらずころころと口調が変わるな、お前」
「やっぱり変かな?」
自分では意識していないのだけれど、他人に言われると少し気になる。
だけど、私は知っている。魔理沙も、そしてきっと皆も、こう言ってくれるだろうと。
「いや、良いんじゃないか。面白いと思うぞ、私は」
魔理沙は肩を竦めて言うけれど。
それが本心だという感情は、私にも感じ取れるのだった。
いろんな人の心を学ぶことで、他人の感情が解るようになったのは何時からだったか。
そんなことをぼんやり思いながら、私は地底へ向かう大穴へ身を投じていた。
深く深く、落ちるように飛ぶ。
「きっと、あいつのせいだ」
古明地こいし。あの子のことを思っていると、不思議と口調が固くなる。
きっと初めて出会って、決闘した時の記憶が濃いからだろう。
私のライバルで友達。きっと向こうはそうは思っていなくて、時によっては私の事なんて忘れているのだろうけれど。
「……バレンタインのことも、忘れてるのかな」
出会ってから暫くは、こいしの特性を知る由も無かった。
けれど何度も何度も会う度に、こいしの能力の本質を知ることになったのだ。
つまり、断続的な記憶の喪失。
無意識を操る程度の能力とは、コントローラブルな能力ではない。意識も思考も無く無意識に身体が動く結果として、こいしの動きは誰からも認識されなくなる。
こいし本人曰く、自分でも何をしているのかわからないし、どうしてここに居るのかわからなくなることは日常茶飯事らしい。
どうしてか、私の――秦こころについては、覚えていられることが多いらしいのだけど。
そして本当ならば、こいしの存在は他人の記憶からも消えてしまうらしい。これもどうしてか、私には影響がないのだけど。
「まあ、いつかどうにかなるよね」
地底から吹き付ける風によって、私の呟きは背後へと流された。
一抹の寂しさを覚えながらも、確実に身を地底へ近づけていく。
本当は、わざわざこいしの為に地底へ行く必要はないのだけど。
別に神社で待っていても良いのだけど。
いち早く会いたいと、何故か思ってしまうのだった。
――と。
「何? 弾幕?」
びゅうびゅうと吹き上げる風音に消されて気が付かなかったが、どうやら近くで弾幕戦に興じている人がいるらしい。
私が下へ下へと行くほどに、射撃と擦過の交差が耳に届いて残響する。
片方の音は、風切り音の後に響く固い音。
金属か何かが、壁面に弾かれた音だ。
もう片方の音は、どこか捉えどころのないふわふわとした音。
……きっと、私が生まれてから一番多く聞いたことのある音。
つまり、
「こいし? こいし、いるのか!」
私の叫びに、二つの音が停止した。
だが帰って来たのは、私が思い浮かべた声ではなく、
「あー? その声は、こころ?」
先ほど、妖怪退治に出掛けたと聞いていた、博麗霊夢その人の声だった。
地下の暗がりの中、漸く二者の姿が確認できるまでの距離になった。
こいしと、霊夢。
思っていた通りの、二人だった。
「こころ、なんでこんなところに居るのよ。もしかして私を探しに来たとか?」
「いや、霊夢さんはどうでも良かったんだけど」
「言い方酷くない? 退治するわよ?」
いけないいけない。先ほど魔理沙にも言われたばかりなのに繰り返してしまった。
いや、そんなことよりも――。
「こいし、こいし? 大丈夫か?」
私が探し求めていた、こいしの姿を視界に捉える。
その姿は酷いものだった。服の所々がびりびりに破れていて、身体の幾箇所には深々と針が刺さっている。第三の眼にはお札が張り付けられていて、どうやら霊力もたっぷり籠っているようだ。
間違いなく、霊夢の仕業だった。
「こころ、ちゃん? どうして……」
「こいしのことを探しに来た。その傷、霊夢にやられたのか」
「うん。どうしてか、突然襲われて」
「なんて酷い……いやいつも通りな気はするけど……」
というか、私もここまでやられたことはある。
いくら妖怪が容易に再生可能な身体をしているとはいえ、少しは仏の心があっても良いのではないか。無理か。宗教が違うし。
「あーもう、やっぱりこうなっちゃうわよねえ」
やれやれ、と言いたそうに霊夢が頭を振る。
「でもまあ、報酬は先払いで貰ってることだし。ぐだぐだ言わずにちゃちゃっと退治しちゃいますか」
「……そうはさせない。こいしは私が守るもん」
狐の面を被りながら、こいしを背後に霊夢と対峙する。
霊夢の姿をよく見れば、こいし程ではないにせよ、多く傷を負っているのが解る。既に一度被弾をしていると見るべきだろう。
「……私が勝ったら、こいしのことは諦めて貰うから」
「はいはい。スペルカード三枚、それだけ避けたらそっちの勝ちでいいわよ。こっちの条件は――まあ、今回は決まってるからいいか」
霊夢の言っていることはわからなかったけれど。
こいしが後ろから手を握って来たので、私がやるべきことが何かは確信できたのだった。
こいしの手を取り腰を引いて、踊るように宙を滑る。
地底へと続く昏い闇へ、全力を持って加速した。
それでも身は重い。元々素早いとは言えない身の上、今は二人分の体重を支えている。当然ながら霊夢を引き離すことなどできはしない。
でもそれでいい。何故なら、
「まずは回避専念ってわけ? なら、いかせてもらうわよ!」
答えを霊夢が叫び、しかし追撃の手を緩めない。
袖を振って宙へと薙げば、そこから零れるものがあった。
札だ。
霊夢の最も得意とする弾幕。札による面の制圧だった。
針を刺されるよりはましであるが、あれも妖怪の自分にとってはとても痛い。つまり、避けなければならないということだ。
特に、怪我をしているこいしに被弾させるわけにはいかない。
「――大丈夫、こいしは私が守るから」
「こころちゃん……」
「あの極悪巫女は私が倒す」
「聞こえてるわよー」
何故か声色に怒りが見えたがこちらとしては気にする余裕がない。
いつの間にか正面に回り込んだ霊夢が弾幕を展開しようとして、
「――じゃあ、まずは一枚目ね」
射撃された。
札の列と、先端に陰陽玉を置く速射の群れだ。
見覚えのある、夢想封印のバリエーションだった。
自分が避けるのは初めてだが、避け方は知っている。速度任せで放たれる弾幕は、反射を持って避けるのが肝要だ。弾を見切って避けると言うよりも、弾道を予想して弾幕の隙間に身体を置くのが正当に近い。
故にそうする。今は身体二つ分の為当たり判定が膨らんでいるのが難点であるが、
「こいし、もっと抱きしめて!」
「えっ!?」
「身体を密着させないと躱しきれない!」
一瞬の戸惑いの後、こいしがこちらの身体を強く抱きしめた。
直後に弾幕が己の左右を通過する。
掠りの音が耳に木霊し後ろに抜けては去って消える。
一射を抜ければ次の一射が直ぐに迫るが、
「――――」
もはや壁か床かも解らない地底の足場を蹴って下へ下へと加速する。
隙間に入って射撃を躱し、次の瞬間には一射そのものを躱すように大きく迂回してして回避する。
弾幕が壁面を削り、岩が砕けて落ちてくる。だがそれが落ちる頃には、
「こころちゃん、すごい勢いだけど大丈夫?」
「だ、大丈夫! 多分!」
既に自分の身体は遥か下方に移動している。
重力任せに加速するのは正直怖い。それでも、回避を続けられているならばそれが正解だ。
「――中々正確に避けるじゃない。この弾幕、見せたことあったっけ?」
「前に魔理沙が避けるのを見た!」
「そ」
返事もそこそこに弾幕が再開されて、こちらも加速を追加することになる。
記憶によれば、幾ばくも無い時間で地下に到着するはず。
しかし私は背後に向き直ると、
「行って!」
面を霊夢に向かって射撃した。
数十の面が盾となって展開される。その多くが札と陰陽玉を食い、霊夢の射撃を疎らな弾幕へと変えていく。
「ちょっとちょっと、こっちまで届いてないわよ」
「これでいいの!」
霊夢が努めて冷静に声を投げるが、私は既に息も荒い。転ばぬように足を動かしながら、いくつもの感情を制御して面を飛ばすのは骨が折れる。
でもそれでいい。なぜならば、
「ね、ねえ。もう一番下に付くよ」
小声で囁くこいしに応えるように、右手を振って手元にあるものを出現させる。
……薙刀!
霊力で編まれた刃が右手に生まれ、握りこめば実体となる。
同時に足元に突き刺せば、
「げっ」
一瞬で霊夢との距離が詰まる。
そして霊夢と私の一直線を、面で塞いで弾幕を相殺すればいい。
そうした後にできるのは、何もない空白だ。だから私は、
「覚悟―!」
勢い任せの膝蹴りを、霊夢の鳩尾にぶち込んだ。
地底は暗く、しかし明るい場所がある。
長い長い洞窟を抜けて地下の底まで抜ければ、そこには旧都が待っている。
雪にも桜にも似た結晶が降り注ぎ、街から浮かび上がるぼんやりとした灯に照らされている。
何度か目にしたけれど、とてもではないけど地獄には思えない。
「このまま地獄観光できたら良いのに……」
霊夢に一撃を入れ、稼いだ時間でここまで来た。
途中橋の上でこいしに刺さった針を抜いたり患部を擦っていたら、橋姫から酷い形相で睨まれたがあれはなんだったのだろう。
ともあれ多少は回復したこいしと共に、一先ず街中へと走っている訳であるが、
「――こころ、あんたよくもやってくれたわね。つまりここからは、容赦は要らないってことよね?」
長屋の上を走りながら、背後から迫る霊夢をちらりと見やる。
「こころちゃん、こころちゃん。素朴な疑問なんだけど……どうして霊夢は生きてるのかな?」
「甘いぞこいし、巫女はあれくらいでは何ともないと相場が決まっている」
私も弾幕ごっこ初心者の頃、大いに悩んだ。博霊の巫女とは、どれほどの攻撃であれば耐えられるのかと。
万が一にでも殺してしまうことのないように気を遣っていたが、どうやらナイフで刺されても爆破されても閃光に飲まれても死なないようなので直ぐにやめた。
あれだけで撤退はしないと思ったが、まさか平気な顔をして追いつかれるとは。
「つまりだな、巫女は人間ではない。そういうことではないだろうか」
「んなわけないでしょうが!」
間近に霊夢の声が聞こえた。反射で身をひねれば真右に霊夢の蹴りが叩き込まれた。直上からのドロップキックだった。
後ろに居たと思ったら、突然瞬間移動するのは狡いのでやめて欲しい。
「うわ危ない。怪我でもしたらどうするんだ痛いのは嫌だぞ」
「こころあんた、基本的にはいい奴なのにどうしてそう……」
霊夢が複雑な表情を浮かべるが、何となく失礼なことを思われている気がする。
いくらこいしが妖怪とはいえ、理由もなく退治する霊夢の方が余程どうかと思う。
「大体、どうしてこいしを襲っているんだ。こいしが何かしたというのか」
「何かしたといえばしたし、してないといえばしてないし、説明が難しいのよねー」
「うう、私何もしてないと思う。多分。ほら、霊夢は怖いから無意識に避けると思うし……」
こいしが眉尻を下げて言うが、こればかりは仕方がない。
「自信を持てこいし。大丈夫だ、酷いことをしたのであれば今頃お前は死んでいる。霊夢は怖いし仕事が早いからな」
「確かに霊夢はそうだけど、冷静に言われると困ると言うかー」
「まあどっちでもいい。何にせよ、こいしは私が付いているから。だから、安心して」
「なんか私、酷いこと言われてない?」
事実だと思うんだけど、と思った次の瞬間に身を飛ばす。足元を針が通り過ぎるのを確認もせず、前に伸びる長屋の屋根に飛び移る。
一歩を踏み、前を向けば、
「――次、だね」
呟き、囲うように撒かれた札を見る。
霊夢の、二枚目のスペルカードだった。
「いくよ、こいし」
「う、うん」
身体に力を入れ直して、腕の中の暖かさを抱きしめて。
二歩目を大きく踏んで、弾幕の中に飛び込んだ。
たとえ被弾したとしても、こいしには当たらないようにと願いながら。
§
――ああ、熱を感じる。
射撃と回避の交差の音を感じる。
口中に血を感じて、私は怪我をしているんだなと思いもする。
地底の淀んだ空気を鼻で感じる。だけれど不快な匂いだけではなく、傍から柔らかな匂いが香って、安堵を得たのを自覚した。
目が覚めるように、眼を開くように、感覚が開いていく。
私が何かを喋っていて、誰かがそれに応えてくれる。
ただでさえ私は地に足が付いていないのに。その誰かは、怪我した私を抱きしめながら必死になって戦ってくれる。
違う。それは誰かじゃなくて、
「私の、――な人」
呟いて、私は目を覚ます。
今日がどんな日かを、思い出しながら。
§
「――これでっ!」
叫ぶと共に、私を囲む結界が霧散する。
札で出来たそれは力を失い、はらりはらりと旧都へ降り注いだ。
「うーん、手負いを仕留めるのにここまで時間がかかるなんて……私も焼きが回ったわね」
「いややっぱり霊夢さん、自覚あるよね色々と」
「知らないわねえ」
冷静に返すが通じない。霊夢に優しいところがあるのは事実で、私達と仲良くしたいと思ってくれるのも事実なのだけど。
それでも、妖怪退治が本分なのもまた事実なのだ。
「それじゃ、さっさと終わらせますか。ラストスペル、行くわよ」
言い、霊夢の姿が宙に浮く。
私はこの弾幕を知っている。魔理沙曰く、数ある反則スペルの中でも一番の反則であるこのスペルカードは、
……夢想天生!
今までの弾幕は、こちらから仕掛ければ早期に決着できるものだった。
しかしこれは違う。宙に浮き、当たり判定の無くなった霊夢に対しては、ただただ耐久するしかない。
つまり霊夢の狙いは、
「くっくっく、手負いの消耗した相手にはこれが一番よ……!」
「さ、最悪!」
「お荷物を抱えたままどこまで避けられるかしらね……!」
楽しそうだなあ、とは言わないでおく。
しかしこれは困った。ただでさえ避けるが難しい霊夢の奥の手なのに、今は状況が悪すぎる。
これはもう、わたしの身体を犠牲にして、こいしだけでも見逃してもらうしかないのではなかろうか。
でも、
「諦めちゃ、駄目だよね」
投げ出すには、まだ早い。
私の腕の中には確かにこいしの熱があって。
こいしも、私を抱き返してくれているのだから。
――と。
「……こころ、ちゃん」
「こいし、平気なのか」
こいしが、私を真っ直ぐ見つめて声をかけてくる。
「私なら平気。ここまで有難う、こころちゃん」
「ううん全然。でも、もう……」
駄目だ、とは言わなかった。それでも、どうしても弱音が零れてしまう。
だけどこいしは、
「最後は、私も一緒に戦うから」
「でも怪我は」
「うん、すっごく痛い。思わず泣いちゃいそう」
「なら」
「でも、こころちゃんと一緒なら、きっと平気」
こいしはそう言って、笑顔を投げかけてくる。
見慣れた、けれども見たことのない、希望に溢れた表情を。
「……わかった。でも、無理はしないで」
「うん!」
「というかこいし、痛いとか泣きそうとか感じられたんだな」
「ふふ、こころちゃんとならね」
「?」
疑問に思ったけれど、それを解消する時間は残っていなかった。
ふわふと宙に飛ぶ霊夢の周りに陰陽玉が展開されて、
「来るよ、こいし」
「うん。リードしてね、こころちゃん」
陰陽玉から札が幾枚も吐き出され、列となって散開する。
一本一本が意志を持つかのように殺到する。
時には真っ直ぐに。
時には曲がり歪んだ弾幕として。
それに合わせて私とこいしも空を舞う。
真っ直ぐな弾幕には、お互いを抱きしめて中に飛び込んで。
くの時に折れた弾幕には、二人の弾で相殺して。
それは僅かの時間。一分にも満たない一瞬の時間。
それでも私たちは一心同体で、全ての力で身を飛ばす。
そして、
「――ったく、仕方ないわねえ」
霊夢のそんな呟きが聴こえたような気がするけれど。
弾幕の終わりと同時に、力を使い果たした私は、気を失っていたのだった。
「――はっ、こいし!」
「なあに、こころちゃん?」
冷たい風が頬を撫でている。地底にも風は吹くのだな、とぼんやりと考えもした。
「ってあれ、地底じゃない?」
気が付けばそこは地上。博霊神社の縁側で、私は寝かされていたようだ。
それも、こいしの膝枕の上で。
「ど、どうしてこんなことに……い、今退くから」
「えー、大丈夫なのに」
「私が大丈夫じゃないの!」
表情が出なくて本当に良かったと思う。こればかりは私の特性に感謝するしかない。
「あ、目が覚めたのね。このまま日が変わるかと思った」
「あ、極悪巫女」
「誰がよ誰が」
どうやら自覚が無いらしい。いつの世も悪とは無自覚に行われるものなのだろう。
「私が勝ったんだから、こいしには手を出すな。わかったか?」
「はいはい。まあ、私の目的は半分達成してるんだけどね」
「え、それはどういう……」
言っているうちに、霊夢が近づいてこいしの前に座り込んだ。こいしも抵抗も無く、霊夢が何かをするのを待っている。
「で、どうなの? 思い出した?」
「うん。有り難う霊夢、私の依頼を覚えていてくれて」
「え? え?」
こいしは今何と言ったのか。
……私の、依頼?
つまり、霊夢がこいしを襲っていたのは、こいし本人に依頼されたからということなのか。
目を丸くする私に、霊夢がため息と共に話し出す。
「一か月前ね、こいしからお願いされたのよ。――今すぐ私の第三の眼を封印してほしい。そしてまた一か月後に開放してくれないかってね」
「第三の眼を、って……」
先ほどの戦いの時から、こいしの第三の眼に張り付けられていたお札。込められた霊力にばかり気を取られていたが、これは良く見れば、
「眼が、開いてる?」
何枚もの札で封をされているものの、瞼自体は開かれている状態だ。こいしの姉のように、悟りとしての正しい姿だった。
「……一か月前ね、突然開いたの。意識がはっきりして、それでも思い出せない記憶もあって、だけどどうしても忘れたくないことがあったの」
「それで、こう思いついたのよね。眼が閉じてしまう前に先んじて封印してしまえば、好きな時に眼を開いたまま目を覚ますことができるんじゃないか、ってね」
「霊夢がこういうことが得意なのは、なんとなく覚えてたから」
「なるほど」
封印と言えば霊夢。そういうことか。
相当無理のある方法な気はするが、霊夢がインチキなのは今に始まったことではない。通るのならば通るのだろう。
しかし、
「うーん、それでも二つわからないことがある」
「何がよ」
「一つは、どうして霊夢がこいしを襲っていたのか」
「あ、それも私が依頼したの。もし私がこのことを忘れていたら、容赦なくやっちゃってって」
「そういうこと。私が優しい巫女ってことはわかったわよね?」
「なるほど」
霊夢への回答は避けておくとして、腑に落ちた。私が頑張るまでも無かった気はするが、こいしと良い時間を過ごせたと思えば損ではあるまい。
「でも、もう一つ疑問がある。一か月前の出来事って、なに?」
こいしの眼が開くなど、大事件と言っても過言ではない。少なくとも、私とこいし本人にとっては。
それがこんなにもあっさりと開いてしまうなんて、余程のことがあったとしか思えない。
しかし私の疑問は、それこそあっさりと解消されたのだった。
「こころちゃん、こころちゃん、後ろ後ろ」
「え?」
言われるまま私が後ろを向くと、そこには賢者と天人がいて、
「ほら、アンタから貰ったチョコのお返しよ。わざわざ手作りで用意したんだから感謝しなさいよね」
「ふうん。数を自慢していた割に、私があげたことを覚えていたのね」
「と、当然でしょ」
「なんでそこで赤くなるのよ……うわこっちまで火照って来たわもうこの子は……」
……あー。
「そうか、バレンタインデーか」
視線を元に戻すと、こいしは頬を両手に当てつつ顔を赤らめていて、
「こころちゃん、おっきいチョコレート渡しながらあんなことやそんなことまで囁いてくれたんだもん」
「ちょっとこいし」
「家に帰って暫くしたら突然心臓の音が大きくなって、体温上がりまくって仕方が無くて、気が付くと第三の眼が開いてたの」
「いやあれはあそこまで言わないと印象薄くてまたこいしが忘れるかと思って」
「でもそれでも記憶が混乱してどれがこころちゃんのチョコかわからなかったから片っ端から食べてみたらお面の形がしたものが混ざっててああこれなんだあって思ったら涙が出てきちゃって。慌てて地上へダッシュしたけどこころちゃんのところに行くのは間に合いそうになかったから仕方がなく神社に行ってね」
「仕方がないような場所で悪かったわね」
霊夢が嫌味なく言うが私としては気が気ではない。
何せ、どうせこいしは忘れてしまうと思い、心の中全てを隠すことなく話した記憶はあるのだ。
三割くらい覚えていてくれればいいかなーくらいの気持ちだったのにこれら全ての記憶が蘇るとなれば、
「んじゃ封印剥がすわよー」
「はーい」
「待って待って待って」
私の静止も聞かず、霊夢が眼からお札を剥がす。
派手な音も光も無く、しかし確実に眼の封印が解かれていく。
そして、
「――うん。ちゃんと視えるよ、こころちゃんの心の中」
「うあ……」
「一番最初に視るの、こころちゃんにしたかったから。私、嬉しい」
「うお……」
こいしに心を覗かれるのは、全く嫌ではない。それどころか、嬉しささえ感じる。
心を見るのが嫌になって何もかもを閉じたこいしが、私ならば良いと言ってくれるのだから。
それでも私がこいしのことを大好きなこととか、ライバルと思っているのは本当だが半分照れ隠しなこととか、眼を閉じているのをいいことにいつも可愛い可愛いと思っていることとかがばれてしまうのはとてもはずかしいのだ。
「えっ」
ばれた。
つまりこれはもう死ぬしかないということだ。
「駄目―! こころちゃんは今からずっと私といちゃいちゃするの!」
「離せこいし! このままで悶死する!」
「あーはいはい、後は二人でごゆっくりね」
呆れ顔で霊夢が立ち去る。結局のところ、ここまで付き合ってくれた霊夢は優しいということなのだろう。
「うんうん。霊夢に感謝だね」
「うわあさっそくやりにくい」
好きな人にイニシアチブを取られっぱなしというのは何かとやりにくいのだけど。
これはこれで良いかなと、早くも思い始めているのだった。
「結局こうなるんだな」
「酔いつぶれる前にやめればいいのにねー」
すっかりと夜が更けて、騒がしかった宴会も今は静けさを取り戻している。
縁側で私とこいしの二人きり。右手と左手を繋いで、肩を寄せあって春風にあたっている。
「このシチュエーション、冷静に考えて恥ずかし過ぎない……?」
「もう、こころちゃんったらまだ慣れないんだー」
こいしの眼が開いてから始まった宴会は、意外にも大事にはならなかった。
悟りの眼が開いた、ということで少しばかりざわつきはした。とはいえこいしの人徳か、特に騒ぎも無く進行した。
もっとも、渦中の私は人妖問わず弄られまくったわけなんだけど。
「今度、さとりさんのところに挨拶に行くべきかなあ」
「是非是非ー」
何を言っても楽しそうなこいしを見ると、もう何でもいいかなあと思えてきてしまうので危ない。
だが相手はあの古明地さとりその人である。明日になったらどう挨拶に行くかをよく考える必要があるというものだ。
「って、もう日付変わっちゃったよね」
「日付……あー!」
「わっ」
耳元で大きな声を出すこいしに、思わず驚きの声を上げる。
しかしそんな私に構うことなくこいしは言う。
「ホワイトデーにあげるつもりだったのに!」
「何を?」
「何ってお返し!」
「あー」
そういえばそんな話であった。
てっきりお返しを用意する時間が無かったんだと思っていたんだけど、どうやらそうではないらしい。
「でもまあ、いっか。これからいつでもあげられるわけだから」
「? むむ、こういう時私だけこいしの中を覗けないのはずるいぞ」
「ふふ、ごめんごめん」
笑顔でこいしは言う。
「それじゃあこころちゃん。今からお返しを用意するから、覚悟してね」
「う、うん」
言われて一応心の準備をする。何を渡されてもいいように……とは思えど、何が飛び出してくるかわからない以上は構えようがない。
そんな私の気も知っているこいしは、一つ深呼吸をすると、
「ごほん。えーっと、それじゃあ改めて。私、古明地こいしは、こころちゃんのことが大好きです」
三つの眼で見つめられながら、言われた。
「――これからも、ずっと一緒に居ようね」
「こい――」
返事をしようとしたけれど、できなかった。
こいしのお返しが、私の唇を塞いでいたからだ。
両手を背中に回されて、ぎゅっと抱きしめられる。
「――――」
ずるい。
こんな不意打ち、避けようがない。
……ああ。
やっと、さっきのこいしの言葉が腑に落ちた。
これからは、いつでもあげられる、と。
(……まあ、いいか)
やっぱりずるいと思うし、今も痛いくらいに胸が高鳴っているのだけれど。
こいしの感情だって、恥ずかしさと幸いさでいっぱいだということが、私にも視ることができたのだから。
「ここは……」
見慣れたはずの高い天井。少し豪華なシャンデリア。身を預けているのは、ふわふわと弾力のある緑のソファー。
いつのも部屋に居る、いつもの私。
いつも通りぼんやりして居たのだろう。きっと。
だけれど私の目の前には、いつもと違うものがある。
大きなハートの形をした包み紙。鳥と猫のイラストがあしらわれた、長方形の包み紙。その他いろいろエトセトラ。
可愛かったり綺麗だったりしたけれど、その中身が何かは書いていない。
でも、私は覚えていた。これらが何で、どういう意味を持つのかを。
「……覚えて、おかなきゃ」
最初の二つは、誰からの物かすぐにわかった。でも他の物は、一体誰から渡されたのかまるでわからない。
ほとんどのものは、特別な意味を持たないのだろう。友達や、あるいは知り合いに渡すような、ささやかな幸いが詰まった贈り物。
だけど、きっと、おそらくは。このうちのどれかに混ざっているはずなのだ。
私の大切な人からの、贈り物が。
「私は――」
ああだから、どうにかしなくちゃ。
この眼が、また閉じてしまわないうちに。
§
私が神社に辿りつくと、そこは地獄だった。
昨今地獄が近くなったことは有名で、先の異変で霊夢らが地獄巡りに繰り出したことはすでに有名な出来事だ。
私も能の演目に地獄ネタを組み込もうとしたが、やめた。だって怖いし。
「こころじゃないか。どうしたんだ?」
呆れ顔で歩いていると――とはいえ表情には出ないのだけど――縁側から、魔理沙が話しかけてくる。
「どうしたんだ、は私が言いたいんだけど……バレンタインのお返し会、今日で良かったよね? どうして弾幕ごっこの会場になってるの?」
「あーそれがな。始まりは天子の奴が、貰ったチョコの数を自慢し始めたことに起因するんだが――」
「うんうん」
「それを受けて紫がこう言ったわけだ。どうせ天人の威光を振りかざして集めただけで、価値のないものでしょう、と」
「紫さん、なんか天人への当たり強いよね。それで?」
「天子は天子で、チョコをくれた紫苑やら誰やらを馬鹿にされたと感じたらしく、まあ後は流れで喧嘩が始まったという訳だ」
「他の皆も混ざってるのは?」
「騒ぎたいだけだろ」
つまりは、いつも通りの幻想郷ということらしい。
本来ならば、今日は神社でバレンタインのお返し会――という名の、宴会のはずであった。義理やら本命やらのチョコが多数飛び交ったひと月前、いっそのこと一か所に集まってやいのやいのしようという提案が魔理沙からもたらされたのだった。
もっとも目的の大半は、ただ騒ぎたいだけというものなんだろうけど。
「皆のんきよねー。霊夢さんって一応、妖怪の敵ってことになってるんでしょ? こんなに大騒ぎしたら退治されちゃうんじゃないかなー」
「一応とか本人の前で言うんじゃないぞ。針を刺されるからな」
それは困る。痛いのは嫌だし。
それにしても――。
「……うーん、居ないなあ。今日ぐらいはいると思ったのに」
「霊夢の奴なら居ないぞ。なんでも妖怪退治の依頼だとかで、夕方には戻るんだと」
「いや、霊夢さんはどうでもいんだけど」
「……お前、割りと口悪いよな」
そうだろうか。私としては皆と仲良くなりたいので、そう思われるのは少々心外である。
まだまだ人間の感情を学びきれていないということだろう。頑張ろう。
「ええとそれはともかく……こいしがどこに居るか知らない?」
「ん、ああそういうことか。そういえば今日は見てないな」
見てないな、という言葉だけでは来ていないかどうか判断できないのが困りものである。
とはいえ、最近のこいしは他人にちゃんと認識されることも多い。先の異変でこいしとペアになることが多かった魔理沙の言葉ならば、信じられるだろう。
「……こいしとあんまり組めなかったことを思い出したら、ちょっと怒りがわいてきた。これが嫉妬の表情?」
「よくわからんが、こいしなら地底じゃないのか?」
「うーんそうねえ、行ってみるしかないかなあ」
いつもどこかをふよふよ漂っているこいしなので、地底にいるとも限らないのだけど。居場所を探すとなれば、一番可能性があるところから探ってみるしかないだろう。
「それじゃあ私、地底まで行ってくるねー。夜までには戻るから」
「あー、わかったわかった。……それにしても、相変わらずころころと口調が変わるな、お前」
「やっぱり変かな?」
自分では意識していないのだけれど、他人に言われると少し気になる。
だけど、私は知っている。魔理沙も、そしてきっと皆も、こう言ってくれるだろうと。
「いや、良いんじゃないか。面白いと思うぞ、私は」
魔理沙は肩を竦めて言うけれど。
それが本心だという感情は、私にも感じ取れるのだった。
いろんな人の心を学ぶことで、他人の感情が解るようになったのは何時からだったか。
そんなことをぼんやり思いながら、私は地底へ向かう大穴へ身を投じていた。
深く深く、落ちるように飛ぶ。
「きっと、あいつのせいだ」
古明地こいし。あの子のことを思っていると、不思議と口調が固くなる。
きっと初めて出会って、決闘した時の記憶が濃いからだろう。
私のライバルで友達。きっと向こうはそうは思っていなくて、時によっては私の事なんて忘れているのだろうけれど。
「……バレンタインのことも、忘れてるのかな」
出会ってから暫くは、こいしの特性を知る由も無かった。
けれど何度も何度も会う度に、こいしの能力の本質を知ることになったのだ。
つまり、断続的な記憶の喪失。
無意識を操る程度の能力とは、コントローラブルな能力ではない。意識も思考も無く無意識に身体が動く結果として、こいしの動きは誰からも認識されなくなる。
こいし本人曰く、自分でも何をしているのかわからないし、どうしてここに居るのかわからなくなることは日常茶飯事らしい。
どうしてか、私の――秦こころについては、覚えていられることが多いらしいのだけど。
そして本当ならば、こいしの存在は他人の記憶からも消えてしまうらしい。これもどうしてか、私には影響がないのだけど。
「まあ、いつかどうにかなるよね」
地底から吹き付ける風によって、私の呟きは背後へと流された。
一抹の寂しさを覚えながらも、確実に身を地底へ近づけていく。
本当は、わざわざこいしの為に地底へ行く必要はないのだけど。
別に神社で待っていても良いのだけど。
いち早く会いたいと、何故か思ってしまうのだった。
――と。
「何? 弾幕?」
びゅうびゅうと吹き上げる風音に消されて気が付かなかったが、どうやら近くで弾幕戦に興じている人がいるらしい。
私が下へ下へと行くほどに、射撃と擦過の交差が耳に届いて残響する。
片方の音は、風切り音の後に響く固い音。
金属か何かが、壁面に弾かれた音だ。
もう片方の音は、どこか捉えどころのないふわふわとした音。
……きっと、私が生まれてから一番多く聞いたことのある音。
つまり、
「こいし? こいし、いるのか!」
私の叫びに、二つの音が停止した。
だが帰って来たのは、私が思い浮かべた声ではなく、
「あー? その声は、こころ?」
先ほど、妖怪退治に出掛けたと聞いていた、博麗霊夢その人の声だった。
地下の暗がりの中、漸く二者の姿が確認できるまでの距離になった。
こいしと、霊夢。
思っていた通りの、二人だった。
「こころ、なんでこんなところに居るのよ。もしかして私を探しに来たとか?」
「いや、霊夢さんはどうでも良かったんだけど」
「言い方酷くない? 退治するわよ?」
いけないいけない。先ほど魔理沙にも言われたばかりなのに繰り返してしまった。
いや、そんなことよりも――。
「こいし、こいし? 大丈夫か?」
私が探し求めていた、こいしの姿を視界に捉える。
その姿は酷いものだった。服の所々がびりびりに破れていて、身体の幾箇所には深々と針が刺さっている。第三の眼にはお札が張り付けられていて、どうやら霊力もたっぷり籠っているようだ。
間違いなく、霊夢の仕業だった。
「こころ、ちゃん? どうして……」
「こいしのことを探しに来た。その傷、霊夢にやられたのか」
「うん。どうしてか、突然襲われて」
「なんて酷い……いやいつも通りな気はするけど……」
というか、私もここまでやられたことはある。
いくら妖怪が容易に再生可能な身体をしているとはいえ、少しは仏の心があっても良いのではないか。無理か。宗教が違うし。
「あーもう、やっぱりこうなっちゃうわよねえ」
やれやれ、と言いたそうに霊夢が頭を振る。
「でもまあ、報酬は先払いで貰ってることだし。ぐだぐだ言わずにちゃちゃっと退治しちゃいますか」
「……そうはさせない。こいしは私が守るもん」
狐の面を被りながら、こいしを背後に霊夢と対峙する。
霊夢の姿をよく見れば、こいし程ではないにせよ、多く傷を負っているのが解る。既に一度被弾をしていると見るべきだろう。
「……私が勝ったら、こいしのことは諦めて貰うから」
「はいはい。スペルカード三枚、それだけ避けたらそっちの勝ちでいいわよ。こっちの条件は――まあ、今回は決まってるからいいか」
霊夢の言っていることはわからなかったけれど。
こいしが後ろから手を握って来たので、私がやるべきことが何かは確信できたのだった。
こいしの手を取り腰を引いて、踊るように宙を滑る。
地底へと続く昏い闇へ、全力を持って加速した。
それでも身は重い。元々素早いとは言えない身の上、今は二人分の体重を支えている。当然ながら霊夢を引き離すことなどできはしない。
でもそれでいい。何故なら、
「まずは回避専念ってわけ? なら、いかせてもらうわよ!」
答えを霊夢が叫び、しかし追撃の手を緩めない。
袖を振って宙へと薙げば、そこから零れるものがあった。
札だ。
霊夢の最も得意とする弾幕。札による面の制圧だった。
針を刺されるよりはましであるが、あれも妖怪の自分にとってはとても痛い。つまり、避けなければならないということだ。
特に、怪我をしているこいしに被弾させるわけにはいかない。
「――大丈夫、こいしは私が守るから」
「こころちゃん……」
「あの極悪巫女は私が倒す」
「聞こえてるわよー」
何故か声色に怒りが見えたがこちらとしては気にする余裕がない。
いつの間にか正面に回り込んだ霊夢が弾幕を展開しようとして、
「――じゃあ、まずは一枚目ね」
射撃された。
札の列と、先端に陰陽玉を置く速射の群れだ。
見覚えのある、夢想封印のバリエーションだった。
自分が避けるのは初めてだが、避け方は知っている。速度任せで放たれる弾幕は、反射を持って避けるのが肝要だ。弾を見切って避けると言うよりも、弾道を予想して弾幕の隙間に身体を置くのが正当に近い。
故にそうする。今は身体二つ分の為当たり判定が膨らんでいるのが難点であるが、
「こいし、もっと抱きしめて!」
「えっ!?」
「身体を密着させないと躱しきれない!」
一瞬の戸惑いの後、こいしがこちらの身体を強く抱きしめた。
直後に弾幕が己の左右を通過する。
掠りの音が耳に木霊し後ろに抜けては去って消える。
一射を抜ければ次の一射が直ぐに迫るが、
「――――」
もはや壁か床かも解らない地底の足場を蹴って下へ下へと加速する。
隙間に入って射撃を躱し、次の瞬間には一射そのものを躱すように大きく迂回してして回避する。
弾幕が壁面を削り、岩が砕けて落ちてくる。だがそれが落ちる頃には、
「こころちゃん、すごい勢いだけど大丈夫?」
「だ、大丈夫! 多分!」
既に自分の身体は遥か下方に移動している。
重力任せに加速するのは正直怖い。それでも、回避を続けられているならばそれが正解だ。
「――中々正確に避けるじゃない。この弾幕、見せたことあったっけ?」
「前に魔理沙が避けるのを見た!」
「そ」
返事もそこそこに弾幕が再開されて、こちらも加速を追加することになる。
記憶によれば、幾ばくも無い時間で地下に到着するはず。
しかし私は背後に向き直ると、
「行って!」
面を霊夢に向かって射撃した。
数十の面が盾となって展開される。その多くが札と陰陽玉を食い、霊夢の射撃を疎らな弾幕へと変えていく。
「ちょっとちょっと、こっちまで届いてないわよ」
「これでいいの!」
霊夢が努めて冷静に声を投げるが、私は既に息も荒い。転ばぬように足を動かしながら、いくつもの感情を制御して面を飛ばすのは骨が折れる。
でもそれでいい。なぜならば、
「ね、ねえ。もう一番下に付くよ」
小声で囁くこいしに応えるように、右手を振って手元にあるものを出現させる。
……薙刀!
霊力で編まれた刃が右手に生まれ、握りこめば実体となる。
同時に足元に突き刺せば、
「げっ」
一瞬で霊夢との距離が詰まる。
そして霊夢と私の一直線を、面で塞いで弾幕を相殺すればいい。
そうした後にできるのは、何もない空白だ。だから私は、
「覚悟―!」
勢い任せの膝蹴りを、霊夢の鳩尾にぶち込んだ。
地底は暗く、しかし明るい場所がある。
長い長い洞窟を抜けて地下の底まで抜ければ、そこには旧都が待っている。
雪にも桜にも似た結晶が降り注ぎ、街から浮かび上がるぼんやりとした灯に照らされている。
何度か目にしたけれど、とてもではないけど地獄には思えない。
「このまま地獄観光できたら良いのに……」
霊夢に一撃を入れ、稼いだ時間でここまで来た。
途中橋の上でこいしに刺さった針を抜いたり患部を擦っていたら、橋姫から酷い形相で睨まれたがあれはなんだったのだろう。
ともあれ多少は回復したこいしと共に、一先ず街中へと走っている訳であるが、
「――こころ、あんたよくもやってくれたわね。つまりここからは、容赦は要らないってことよね?」
長屋の上を走りながら、背後から迫る霊夢をちらりと見やる。
「こころちゃん、こころちゃん。素朴な疑問なんだけど……どうして霊夢は生きてるのかな?」
「甘いぞこいし、巫女はあれくらいでは何ともないと相場が決まっている」
私も弾幕ごっこ初心者の頃、大いに悩んだ。博霊の巫女とは、どれほどの攻撃であれば耐えられるのかと。
万が一にでも殺してしまうことのないように気を遣っていたが、どうやらナイフで刺されても爆破されても閃光に飲まれても死なないようなので直ぐにやめた。
あれだけで撤退はしないと思ったが、まさか平気な顔をして追いつかれるとは。
「つまりだな、巫女は人間ではない。そういうことではないだろうか」
「んなわけないでしょうが!」
間近に霊夢の声が聞こえた。反射で身をひねれば真右に霊夢の蹴りが叩き込まれた。直上からのドロップキックだった。
後ろに居たと思ったら、突然瞬間移動するのは狡いのでやめて欲しい。
「うわ危ない。怪我でもしたらどうするんだ痛いのは嫌だぞ」
「こころあんた、基本的にはいい奴なのにどうしてそう……」
霊夢が複雑な表情を浮かべるが、何となく失礼なことを思われている気がする。
いくらこいしが妖怪とはいえ、理由もなく退治する霊夢の方が余程どうかと思う。
「大体、どうしてこいしを襲っているんだ。こいしが何かしたというのか」
「何かしたといえばしたし、してないといえばしてないし、説明が難しいのよねー」
「うう、私何もしてないと思う。多分。ほら、霊夢は怖いから無意識に避けると思うし……」
こいしが眉尻を下げて言うが、こればかりは仕方がない。
「自信を持てこいし。大丈夫だ、酷いことをしたのであれば今頃お前は死んでいる。霊夢は怖いし仕事が早いからな」
「確かに霊夢はそうだけど、冷静に言われると困ると言うかー」
「まあどっちでもいい。何にせよ、こいしは私が付いているから。だから、安心して」
「なんか私、酷いこと言われてない?」
事実だと思うんだけど、と思った次の瞬間に身を飛ばす。足元を針が通り過ぎるのを確認もせず、前に伸びる長屋の屋根に飛び移る。
一歩を踏み、前を向けば、
「――次、だね」
呟き、囲うように撒かれた札を見る。
霊夢の、二枚目のスペルカードだった。
「いくよ、こいし」
「う、うん」
身体に力を入れ直して、腕の中の暖かさを抱きしめて。
二歩目を大きく踏んで、弾幕の中に飛び込んだ。
たとえ被弾したとしても、こいしには当たらないようにと願いながら。
§
――ああ、熱を感じる。
射撃と回避の交差の音を感じる。
口中に血を感じて、私は怪我をしているんだなと思いもする。
地底の淀んだ空気を鼻で感じる。だけれど不快な匂いだけではなく、傍から柔らかな匂いが香って、安堵を得たのを自覚した。
目が覚めるように、眼を開くように、感覚が開いていく。
私が何かを喋っていて、誰かがそれに応えてくれる。
ただでさえ私は地に足が付いていないのに。その誰かは、怪我した私を抱きしめながら必死になって戦ってくれる。
違う。それは誰かじゃなくて、
「私の、――な人」
呟いて、私は目を覚ます。
今日がどんな日かを、思い出しながら。
§
「――これでっ!」
叫ぶと共に、私を囲む結界が霧散する。
札で出来たそれは力を失い、はらりはらりと旧都へ降り注いだ。
「うーん、手負いを仕留めるのにここまで時間がかかるなんて……私も焼きが回ったわね」
「いややっぱり霊夢さん、自覚あるよね色々と」
「知らないわねえ」
冷静に返すが通じない。霊夢に優しいところがあるのは事実で、私達と仲良くしたいと思ってくれるのも事実なのだけど。
それでも、妖怪退治が本分なのもまた事実なのだ。
「それじゃ、さっさと終わらせますか。ラストスペル、行くわよ」
言い、霊夢の姿が宙に浮く。
私はこの弾幕を知っている。魔理沙曰く、数ある反則スペルの中でも一番の反則であるこのスペルカードは、
……夢想天生!
今までの弾幕は、こちらから仕掛ければ早期に決着できるものだった。
しかしこれは違う。宙に浮き、当たり判定の無くなった霊夢に対しては、ただただ耐久するしかない。
つまり霊夢の狙いは、
「くっくっく、手負いの消耗した相手にはこれが一番よ……!」
「さ、最悪!」
「お荷物を抱えたままどこまで避けられるかしらね……!」
楽しそうだなあ、とは言わないでおく。
しかしこれは困った。ただでさえ避けるが難しい霊夢の奥の手なのに、今は状況が悪すぎる。
これはもう、わたしの身体を犠牲にして、こいしだけでも見逃してもらうしかないのではなかろうか。
でも、
「諦めちゃ、駄目だよね」
投げ出すには、まだ早い。
私の腕の中には確かにこいしの熱があって。
こいしも、私を抱き返してくれているのだから。
――と。
「……こころ、ちゃん」
「こいし、平気なのか」
こいしが、私を真っ直ぐ見つめて声をかけてくる。
「私なら平気。ここまで有難う、こころちゃん」
「ううん全然。でも、もう……」
駄目だ、とは言わなかった。それでも、どうしても弱音が零れてしまう。
だけどこいしは、
「最後は、私も一緒に戦うから」
「でも怪我は」
「うん、すっごく痛い。思わず泣いちゃいそう」
「なら」
「でも、こころちゃんと一緒なら、きっと平気」
こいしはそう言って、笑顔を投げかけてくる。
見慣れた、けれども見たことのない、希望に溢れた表情を。
「……わかった。でも、無理はしないで」
「うん!」
「というかこいし、痛いとか泣きそうとか感じられたんだな」
「ふふ、こころちゃんとならね」
「?」
疑問に思ったけれど、それを解消する時間は残っていなかった。
ふわふと宙に飛ぶ霊夢の周りに陰陽玉が展開されて、
「来るよ、こいし」
「うん。リードしてね、こころちゃん」
陰陽玉から札が幾枚も吐き出され、列となって散開する。
一本一本が意志を持つかのように殺到する。
時には真っ直ぐに。
時には曲がり歪んだ弾幕として。
それに合わせて私とこいしも空を舞う。
真っ直ぐな弾幕には、お互いを抱きしめて中に飛び込んで。
くの時に折れた弾幕には、二人の弾で相殺して。
それは僅かの時間。一分にも満たない一瞬の時間。
それでも私たちは一心同体で、全ての力で身を飛ばす。
そして、
「――ったく、仕方ないわねえ」
霊夢のそんな呟きが聴こえたような気がするけれど。
弾幕の終わりと同時に、力を使い果たした私は、気を失っていたのだった。
「――はっ、こいし!」
「なあに、こころちゃん?」
冷たい風が頬を撫でている。地底にも風は吹くのだな、とぼんやりと考えもした。
「ってあれ、地底じゃない?」
気が付けばそこは地上。博霊神社の縁側で、私は寝かされていたようだ。
それも、こいしの膝枕の上で。
「ど、どうしてこんなことに……い、今退くから」
「えー、大丈夫なのに」
「私が大丈夫じゃないの!」
表情が出なくて本当に良かったと思う。こればかりは私の特性に感謝するしかない。
「あ、目が覚めたのね。このまま日が変わるかと思った」
「あ、極悪巫女」
「誰がよ誰が」
どうやら自覚が無いらしい。いつの世も悪とは無自覚に行われるものなのだろう。
「私が勝ったんだから、こいしには手を出すな。わかったか?」
「はいはい。まあ、私の目的は半分達成してるんだけどね」
「え、それはどういう……」
言っているうちに、霊夢が近づいてこいしの前に座り込んだ。こいしも抵抗も無く、霊夢が何かをするのを待っている。
「で、どうなの? 思い出した?」
「うん。有り難う霊夢、私の依頼を覚えていてくれて」
「え? え?」
こいしは今何と言ったのか。
……私の、依頼?
つまり、霊夢がこいしを襲っていたのは、こいし本人に依頼されたからということなのか。
目を丸くする私に、霊夢がため息と共に話し出す。
「一か月前ね、こいしからお願いされたのよ。――今すぐ私の第三の眼を封印してほしい。そしてまた一か月後に開放してくれないかってね」
「第三の眼を、って……」
先ほどの戦いの時から、こいしの第三の眼に張り付けられていたお札。込められた霊力にばかり気を取られていたが、これは良く見れば、
「眼が、開いてる?」
何枚もの札で封をされているものの、瞼自体は開かれている状態だ。こいしの姉のように、悟りとしての正しい姿だった。
「……一か月前ね、突然開いたの。意識がはっきりして、それでも思い出せない記憶もあって、だけどどうしても忘れたくないことがあったの」
「それで、こう思いついたのよね。眼が閉じてしまう前に先んじて封印してしまえば、好きな時に眼を開いたまま目を覚ますことができるんじゃないか、ってね」
「霊夢がこういうことが得意なのは、なんとなく覚えてたから」
「なるほど」
封印と言えば霊夢。そういうことか。
相当無理のある方法な気はするが、霊夢がインチキなのは今に始まったことではない。通るのならば通るのだろう。
しかし、
「うーん、それでも二つわからないことがある」
「何がよ」
「一つは、どうして霊夢がこいしを襲っていたのか」
「あ、それも私が依頼したの。もし私がこのことを忘れていたら、容赦なくやっちゃってって」
「そういうこと。私が優しい巫女ってことはわかったわよね?」
「なるほど」
霊夢への回答は避けておくとして、腑に落ちた。私が頑張るまでも無かった気はするが、こいしと良い時間を過ごせたと思えば損ではあるまい。
「でも、もう一つ疑問がある。一か月前の出来事って、なに?」
こいしの眼が開くなど、大事件と言っても過言ではない。少なくとも、私とこいし本人にとっては。
それがこんなにもあっさりと開いてしまうなんて、余程のことがあったとしか思えない。
しかし私の疑問は、それこそあっさりと解消されたのだった。
「こころちゃん、こころちゃん、後ろ後ろ」
「え?」
言われるまま私が後ろを向くと、そこには賢者と天人がいて、
「ほら、アンタから貰ったチョコのお返しよ。わざわざ手作りで用意したんだから感謝しなさいよね」
「ふうん。数を自慢していた割に、私があげたことを覚えていたのね」
「と、当然でしょ」
「なんでそこで赤くなるのよ……うわこっちまで火照って来たわもうこの子は……」
……あー。
「そうか、バレンタインデーか」
視線を元に戻すと、こいしは頬を両手に当てつつ顔を赤らめていて、
「こころちゃん、おっきいチョコレート渡しながらあんなことやそんなことまで囁いてくれたんだもん」
「ちょっとこいし」
「家に帰って暫くしたら突然心臓の音が大きくなって、体温上がりまくって仕方が無くて、気が付くと第三の眼が開いてたの」
「いやあれはあそこまで言わないと印象薄くてまたこいしが忘れるかと思って」
「でもそれでも記憶が混乱してどれがこころちゃんのチョコかわからなかったから片っ端から食べてみたらお面の形がしたものが混ざっててああこれなんだあって思ったら涙が出てきちゃって。慌てて地上へダッシュしたけどこころちゃんのところに行くのは間に合いそうになかったから仕方がなく神社に行ってね」
「仕方がないような場所で悪かったわね」
霊夢が嫌味なく言うが私としては気が気ではない。
何せ、どうせこいしは忘れてしまうと思い、心の中全てを隠すことなく話した記憶はあるのだ。
三割くらい覚えていてくれればいいかなーくらいの気持ちだったのにこれら全ての記憶が蘇るとなれば、
「んじゃ封印剥がすわよー」
「はーい」
「待って待って待って」
私の静止も聞かず、霊夢が眼からお札を剥がす。
派手な音も光も無く、しかし確実に眼の封印が解かれていく。
そして、
「――うん。ちゃんと視えるよ、こころちゃんの心の中」
「うあ……」
「一番最初に視るの、こころちゃんにしたかったから。私、嬉しい」
「うお……」
こいしに心を覗かれるのは、全く嫌ではない。それどころか、嬉しささえ感じる。
心を見るのが嫌になって何もかもを閉じたこいしが、私ならば良いと言ってくれるのだから。
それでも私がこいしのことを大好きなこととか、ライバルと思っているのは本当だが半分照れ隠しなこととか、眼を閉じているのをいいことにいつも可愛い可愛いと思っていることとかがばれてしまうのはとてもはずかしいのだ。
「えっ」
ばれた。
つまりこれはもう死ぬしかないということだ。
「駄目―! こころちゃんは今からずっと私といちゃいちゃするの!」
「離せこいし! このままで悶死する!」
「あーはいはい、後は二人でごゆっくりね」
呆れ顔で霊夢が立ち去る。結局のところ、ここまで付き合ってくれた霊夢は優しいということなのだろう。
「うんうん。霊夢に感謝だね」
「うわあさっそくやりにくい」
好きな人にイニシアチブを取られっぱなしというのは何かとやりにくいのだけど。
これはこれで良いかなと、早くも思い始めているのだった。
「結局こうなるんだな」
「酔いつぶれる前にやめればいいのにねー」
すっかりと夜が更けて、騒がしかった宴会も今は静けさを取り戻している。
縁側で私とこいしの二人きり。右手と左手を繋いで、肩を寄せあって春風にあたっている。
「このシチュエーション、冷静に考えて恥ずかし過ぎない……?」
「もう、こころちゃんったらまだ慣れないんだー」
こいしの眼が開いてから始まった宴会は、意外にも大事にはならなかった。
悟りの眼が開いた、ということで少しばかりざわつきはした。とはいえこいしの人徳か、特に騒ぎも無く進行した。
もっとも、渦中の私は人妖問わず弄られまくったわけなんだけど。
「今度、さとりさんのところに挨拶に行くべきかなあ」
「是非是非ー」
何を言っても楽しそうなこいしを見ると、もう何でもいいかなあと思えてきてしまうので危ない。
だが相手はあの古明地さとりその人である。明日になったらどう挨拶に行くかをよく考える必要があるというものだ。
「って、もう日付変わっちゃったよね」
「日付……あー!」
「わっ」
耳元で大きな声を出すこいしに、思わず驚きの声を上げる。
しかしそんな私に構うことなくこいしは言う。
「ホワイトデーにあげるつもりだったのに!」
「何を?」
「何ってお返し!」
「あー」
そういえばそんな話であった。
てっきりお返しを用意する時間が無かったんだと思っていたんだけど、どうやらそうではないらしい。
「でもまあ、いっか。これからいつでもあげられるわけだから」
「? むむ、こういう時私だけこいしの中を覗けないのはずるいぞ」
「ふふ、ごめんごめん」
笑顔でこいしは言う。
「それじゃあこころちゃん。今からお返しを用意するから、覚悟してね」
「う、うん」
言われて一応心の準備をする。何を渡されてもいいように……とは思えど、何が飛び出してくるかわからない以上は構えようがない。
そんな私の気も知っているこいしは、一つ深呼吸をすると、
「ごほん。えーっと、それじゃあ改めて。私、古明地こいしは、こころちゃんのことが大好きです」
三つの眼で見つめられながら、言われた。
「――これからも、ずっと一緒に居ようね」
「こい――」
返事をしようとしたけれど、できなかった。
こいしのお返しが、私の唇を塞いでいたからだ。
両手を背中に回されて、ぎゅっと抱きしめられる。
「――――」
ずるい。
こんな不意打ち、避けようがない。
……ああ。
やっと、さっきのこいしの言葉が腑に落ちた。
これからは、いつでもあげられる、と。
(……まあ、いいか)
やっぱりずるいと思うし、今も痛いくらいに胸が高鳴っているのだけれど。
こいしの感情だって、恥ずかしさと幸いさでいっぱいだということが、私にも視ることができたのだから。
面白かったです
こいここには末永くアレして貰いたいですね
ホワイトデーにお返しをするためにわざわざここまでするこいしに強い気持ちを感じました
とてもよかったです
こいここを称えよ