日本には古来から若返りに対して異常なまでの執着がある。私もたまには本を読むからそれくらいは知っている。
知ってはいるけど理解不能。どうして若返ろうなんて考えるのか。若返った先に待ち受けている、問題というのを知っているのか。
私は当然知っている。知っているから理解出来ない。若返りなんてろくでもない。なんだったら、そう。糞食らえ。
私は地上をふらふらするのに飽きてきて、ちょっくらお姉ちゃんをからかってやろうと、あの引きこもりの大嫌いな甘い物を買って帰っていた。お姉ちゃんのことだから、引き攣ったように気味悪い、薄ら笑いを浮かべるのだろう。
その時私はこう言ってやるのだ。
「だーい好きなお姉ちゃんの為に奮発して買ってきたんだから、絶対に残さず食べてよね。まあ、可愛い妹からの贈り物だし、お姉ちゃんはこんなこと言わなくても食べてくれると思うけど、念の為にね」
そう言われてお姉ちゃんはどんな反応をするのだろうか。
怒るかな? 怒るだろうなぁ。怒ったらどう返して来るんだろう。楽しみだなぁ。
でも、もしかしたら悲しむかな。もし悲しんだりしたら嫌だなぁ。お姉ちゃんの悲しむ顔は何だか少し、見たくないなぁ。
寂しそうな笑いを浮かべてぼそりと小声で「ありがとう」と、そう呟くお姉ちゃんを思い浮かべてちょっとだけ胸がきゅうとなる。
そんな考えが頭を走ると右手にさげた洋菓子の箱が急に何だか重たく感じた。
「やっぱり止めといた方がいいのかな」
家路に向かう足を止め、ふっとぽつりそうごちる。
洋菓子の箱の膜越しの、「誕生日おめでとう」の文字だけが、じりりと両目に焼き付いた。
重い重い足取りで、旧都を越えたその先に我が家の影が見え始め、わくわくするような高鳴りと、ずきずきするような締付けが、私の胸をぐちゃぐちゃにしていた。
ここまで悩んでしまうのならば、いっそのことペットのみんなに振る舞ってしまうのがいいのかもしれない。そうだ、そうしよう。それがいいに違いない。
決めたらちょっと楽になった。楽になったらお腹がすいた。帰ったらさて、何を食べよう。料理をするのは面倒だから、残っている物をこっそり摘まもう。きっとお燐が慌てるだろうな。私はそれを影から覗こう。絶対楽しいに決まってる。そして限界まで待ってからケーキを持って登場するのだ。そうすれば摘まみ食いの犯人から、一転窮地を救った英雄だ。
楽しい楽しい想像に思わず口が綻んで、くすりと隙間から漏れ出した。
重かったはずの足取りは、気付けばとんと軽くなり、跳ねるような足取りで我が家の門をくぐり抜けた。
扉の先は慌ただしかった。
目の前を、オウムが左へぴゅうと飛んで、追いかけるように虎が走った。向かった先を見ていると、お次は兎が右手へ跳んで小さくなる。色んな動物が行ったり来たり、私の目の前を通り過ぎ、最後は正面から黒猫が来た。
「丁度いいところにこいし様! とにかく急いでさとり様のところへ!」
言うや早いかタタタタタッと、お燐はどこかへ走り去る。
何のことだかわからないけれど、お燐の慌てようが甚だしいから私はちょっと駆け足で、お姉ちゃんの部屋まで向かった。
向かっている最中で、ケーキを置いてくればよかったとちょっとばかし後悔しながら私はお姉ちゃんの書斎の扉の金の鷲の装飾をよくわからないほど冷静に、どこか遠くから見ているようなそんな気持ちで眺めていた。
私が意を決して扉を開くと小さな女の子がお空に跨がって羽をむんずと掴み取っていた。
「い、痛い痛い! 痛いですってさとり様!」
顔をしかめたお空がそう、悲痛な声を上げていた。
私は瞬時戸惑った。
これは全体、どういう状況だろう。
「お空、その子は……えっと何子ちゃん?」
困惑しながら出てきた言葉はそんなありきたりな言葉だった。
「あっ、助けてくださいこいし様ぁ! さとり様が引っ張るんです」
私達のやりとりを意に介することもなく、確かに少女は今尚も、お空の羽根を毟らんと翼をぐいぐい引っ張っていた。とにかくこの女の子をお空から引っぺがさなければ、何にもわからずじまいだろう。
私はしかして部屋に入ると、跨がったままの女の子の後ろに回り、脇の間から手を差し込んでひょいとその子を持ち上げた。率爾少女はじたばたと、私の手から逃れようと、手足を振り回して抵抗をした。
このまま暴れられても仕様がないので、お空をちょっと遠ざけてから大理石の床の上、敷かれた赤い絨毯の上にそっと下ろしてあげた。
私の手から解放された少女はゆっくり振り返ると、「おねえちゃんだれ?」と問いかけてきた。
「私の名前は古明地こいし。お嬢ちゃんのお名前は?」
そう問い返してしばしの間、俯いて何かを数えた女の子は4本の指を立てた手をずいと私に突き出して大きな声でこう言った。
「こめいじさとり、3さい!」
一口、また一口と生クリームとスポンジの塊が少女――もといお姉ちゃんの口の中へと納まっていく。私はその様子を眺めながら、一杯のヌワラエリヤをあおっていた。ちょっとばかりの紅茶の渋みと柔らかな花の香りがこんがらがった私の頭をほんの少しほぐしてくれる。
「おいしい?」
「うん! おいしー!」
私はお姉ちゃんのほっぺたにこんもりと付いたクリームを人差し指でちょんと取り、そのままぱくりと口に運んだ。
甘い。
甘くておいしい。
甘くておいしいから嫌になった。
目の前でせっせとケーキを食べているこの小さな女の子はどうやら私のお姉ちゃんらしい。……どういうことだかわからない。しかし、現に起こっていることなのだから認めざるを得ない。
認めたくは、ない。
お姉ちゃんがこんな甘い物を嬉しそうに頬張るなんてあり得ない。
そう、叫びたかった。
私の知っているお姉ちゃんじゃないって世界中に説いて回りたい。
でも、一番長くお姉ちゃんと接していた私が見ても、その姿自体は幼い頃のお姉ちゃんそのものだった。
そんなことを考えていると、ふっといきなり目の前に白い塊が現れた。
「おねえちゃんも、はいどーぞ」
距離のことなど考えず、私の右目に突き刺すように腕を伸ばしたお姉ちゃんがニコニコとフォークにケーキを乗せたまま私に向かって差し出していた。
「私に?」
「うん!」
ちょっとばかし面を食らって、おずおずとケーキを口にくわえるとゆっくりゆっくり咀嚼した。本当に、一口一口味わうようにゆっくりゆっくり噛み締めた。
「おいしい?」
嬉しそうに微笑みながら元気な声でお姉ちゃんが問いかける。その姿にそこはかとない懐かしさを覚えながら「うん、とっても」と私は返した。
二人で食べきったケーキの皿をお燐が片付けようとしたところでお姉ちゃんから待ったがかかった。二人のやりとりから鑑みるに、どうやら片付けはお姉ちゃんがやりたいらしい。この年頃の女の子には珍しくもない申し出だ。
しばらくの間お姉ちゃんはお燐とうだうだ問答を続け平行線を描いていた。
お姉ちゃんがやりたい気持ちもわからないではない。だって子供だしね。
でも、お燐が心配する気持ちもわからないではない。だって子供だしね。
とはいえこのまま延々と終わらない押し問答を聞かされるのも困ってしまう。だって退屈だし。面白くないもの。
だから私はお燐に対してお姉ちゃんの監督役を買って出た。危ないことはさせないからと人差し指を立ててみせると、遂にお燐は頭を掻いて「まあこいし様が見てくださるなら」とお姉ちゃんのままごとを渋々ながら認めてくれた。
そんなこんなで私とお姉ちゃんは数枚の皿を乗せた食台を二人で――お姉ちゃんには重くて動かせなかったため、こういう所はお姉ちゃんらしいなと思う――押しながら厨房へ向かう廊下を進んでいた。
道すがら、私はふと思い出し、どうしてケーキを分けてくれたのかお姉ちゃんに訊いてみた。するとさも当然というような面持ちで「おいしいものってわけあうともっとおいしくなるんだよ?」と、そう返してきた。……どうしてその性格は成長する時に引き継がなかったのだろうか。甚だ不思議だ。
不思議だけれど、でも、何だかお姉ちゃんらしいな。
それが少しばかりおかしくてふふっという吐息が口から躍り出た。
私はそれを誤魔化すように「それじゃあ今度はお仕事を分け合おっか」と語りかける。その瞬間にぱぁと表情を晴れさせて「うん!」と明るい声が地霊殿のほの暗い廊下全体に木霊した。
片付けを終えてからというものの、お姉ちゃんの体力は衰えるということを知らなかった。
ペットの鳩に餌をやろうとパン屑を持っていくはいいものの、ぽろぽろと道中で溢していくためにお姉ちゃんの歩く後ろに鳩だかりができてしまい、いざパン屑を放り投げても何にも来なくてお姉ちゃんが泣きそうになったり――私が後ろから全力で鳩を追い回すことによって何とか一事は免れた――、読み聞かせをせがまれて結局3桁近い本を読まされたり――途中休憩もなくぶっ続けだったため喉が嗄れそうになった――、しまいには読み聞かせをした本のせいで羊になりたいと宣言し、羊小屋に飛び込んで埋もれてしまったり、それを救出するために私も羊小屋に入り込んで二人して油でベタベタになって一緒にお風呂に入ったり、一緒に入った湯船の中でお湯かけ合戦をしたり――1勝2敗でお姉ちゃんの勝ちだった。いや、あくまで子供相手に手加減したからだ。本気でやったら私が勝ってた……と思う――。
それでもお姉ちゃんは元気だった。
どうしてそんなに元気なのか疑問に思うほど元気だった。
……でも、久しぶりにお姉ちゃんと遊んで楽しかったな。いつものお姉ちゃんだったら絶対つき合ってくれないもんな。
お風呂から上がってパジャマに着替えた私はお姉ちゃんを寝かしつけるために一緒にお姉ちゃんのベッドで横になる。
それでも元気の有り余るお姉ちゃんは明かりの消えた寝室の中でぽつりと私に話し掛けてきた。
「わたしね、もうそろそろおねえちゃんになるんだって。おかあさんのね、おなかのなかにあかちゃんがいるの」
その言葉にハッとした。
そうか、丁度お姉ちゃんがこのくらいの時だったな。私が生まれたのって。
「わたしね、いいおねえちゃんになりたいな。いもうとがこまってるときにたすけてあげられるおねえちゃん」
それはお姉ちゃんから一度も聞いたことのない、お姉ちゃんの言葉だった。
私はちょっと気になって「例えばどんな時?」と深掘りしてみる。するとお姉ちゃんはしばらくの間うーんとうなり声を上げた後、あっと声を上げてこう続けた。
「おかしがたりなくてかなしいときにわけてあげる!」
私は予想外の答えに対してがくんと脱力してしまった。
いや、そうだよね。子供だもんね。子供が思いつくことったらそれくらいのものだよね。
と、そう納得しかけた時に、お姉ちゃんは「あと、」と口を開いた。
「みんながいもうとのことをいじめても、ぜったいにわたしがまもってあげる。みーんながいもうとのことをきらいになっても、わたしだけはだいすきでいてあげるの」
チクリとした。
守ってあげる?
守って、くれなかったじゃないか。
一番守って欲しい時に、お前は守ってくれなかったじゃないか。
お前は、お前は私のことを見捨てたんじゃないか。
そんな思いがふつふつと、お腹の奥の方から湧いてきて布団の下で握りこぶしをぎゅっと固く握り締め、お姉ちゃんと同じギザギザの歯を、ギリギリギリギリ噛み締めた時、はたと脳裏に思い浮かんだ。
そういえば、昔のお姉ちゃんと今のお姉ちゃんの性格がまるっきり変わってしまったのは、一体いつの頃からだった?
この天真爛漫な可愛らしい目で世界を呪うようになったのは、一体いつの頃からだった?
ころころと色んな面を見せる感情が氷のように冷たくなってしまったのは、一体いつの頃からだった?
疑問を挙げればキリがない。
そしてその答えを私は知っている。
アレが起こった時からだ。
私が眼を閉ざしてからだ。
私のせいで、お姉ちゃんは変わってしまった。
私が、お姉ちゃんを歪めてしまった。
気付いてしまってからは、もうどうしようもなかった。
ぼろぼろと溢れ出る涙を止めることができなかった。
「ごめんね……ごめんね、お姉ちゃん」
「ど、どうしたの? おねえちゃん?」
こんな状態のお姉ちゃんに言っても仕方がないのに、決壊した私の唇はごめんという言葉を溢れ出させた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「……いいよ」
不意に頭を撫でられる感触がした。小さな掌だった。すべすべとして柔らかく、とても暖かい小さな手。
「おねえちゃんがだれにあやまってるのかわからないけれど、かわりにゆるしてあげる」
その言葉だけで、全てを赦されたような気がした。
その言葉だけで、全てが救われたような気がした。
ああ、そうか。やっぱりお姉ちゃんは私のお姉ちゃんなんだなぁ。
いつになっても。何歳になっても。それが例え私より年下であったとしても。
私のお姉ちゃんは私のお姉ちゃんなんだ。
すごいなぁ。
私は、私はやっぱりお姉ちゃんの妹で居たいよ。
衝撃があった。
固い地面に叩きつけられる衝撃があった。
直後に聞き慣れた、だけど懐かしいような声があった。
「あんた……何私のベッドに潜り込んでるのよ!」
「お、お姉……ちゃん?」
ベッドの上に仁王立ちする私を蹴落とした犯人を上から下まで隅々と見渡して尚この目を疑った。
薄紫がかったボサボサ髪に、淀んだような黒紫の瞳。苛立ちを見せるギザギザの歯と、私と同じ身長と。
どこを取っても私のよく知るいつも通りのお姉ちゃん。「まさか妹に夜這いされるなんて思わなかったわ」なんて悪態を吐くところなんか紛れもない。
放たれた弓矢のように私はお姉ちゃんに飛びついた。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
「離れなさいよ。鬱陶しいわね」
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!!」
「な、何よ」
本当にいつも通りのお姉ちゃんだ。私の自慢のお姉ちゃんだ。
「えへへ。お姉ちゃん、大好きだよ」
「……心が読めなくったって知ってるわよ」
昨日よりもちょっと大きな掌が、私の頭を撫でている。柔らかくもないし、暖かくもないけど、安心する優しい手。
私のせいで歪みきってしまっても、変わることのなかった手。
ずっとずっとずぅっと昔、この世に私が生まれる前から私のことを愛してくれた、私の、私だけのお姉ちゃん。
それを知ってこんなに、こんなにどくどく脈打って、体がカァーっと熱くなって、目からは涙がぽろぽろぽろぽろこぼれ落ちてくるなんて。
知らなかったなぁ。
知らなかったよ。
あーあ、やっぱり若返りなんて糞食らえだ。
知ってはいるけど理解不能。どうして若返ろうなんて考えるのか。若返った先に待ち受けている、問題というのを知っているのか。
私は当然知っている。知っているから理解出来ない。若返りなんてろくでもない。なんだったら、そう。糞食らえ。
私は地上をふらふらするのに飽きてきて、ちょっくらお姉ちゃんをからかってやろうと、あの引きこもりの大嫌いな甘い物を買って帰っていた。お姉ちゃんのことだから、引き攣ったように気味悪い、薄ら笑いを浮かべるのだろう。
その時私はこう言ってやるのだ。
「だーい好きなお姉ちゃんの為に奮発して買ってきたんだから、絶対に残さず食べてよね。まあ、可愛い妹からの贈り物だし、お姉ちゃんはこんなこと言わなくても食べてくれると思うけど、念の為にね」
そう言われてお姉ちゃんはどんな反応をするのだろうか。
怒るかな? 怒るだろうなぁ。怒ったらどう返して来るんだろう。楽しみだなぁ。
でも、もしかしたら悲しむかな。もし悲しんだりしたら嫌だなぁ。お姉ちゃんの悲しむ顔は何だか少し、見たくないなぁ。
寂しそうな笑いを浮かべてぼそりと小声で「ありがとう」と、そう呟くお姉ちゃんを思い浮かべてちょっとだけ胸がきゅうとなる。
そんな考えが頭を走ると右手にさげた洋菓子の箱が急に何だか重たく感じた。
「やっぱり止めといた方がいいのかな」
家路に向かう足を止め、ふっとぽつりそうごちる。
洋菓子の箱の膜越しの、「誕生日おめでとう」の文字だけが、じりりと両目に焼き付いた。
重い重い足取りで、旧都を越えたその先に我が家の影が見え始め、わくわくするような高鳴りと、ずきずきするような締付けが、私の胸をぐちゃぐちゃにしていた。
ここまで悩んでしまうのならば、いっそのことペットのみんなに振る舞ってしまうのがいいのかもしれない。そうだ、そうしよう。それがいいに違いない。
決めたらちょっと楽になった。楽になったらお腹がすいた。帰ったらさて、何を食べよう。料理をするのは面倒だから、残っている物をこっそり摘まもう。きっとお燐が慌てるだろうな。私はそれを影から覗こう。絶対楽しいに決まってる。そして限界まで待ってからケーキを持って登場するのだ。そうすれば摘まみ食いの犯人から、一転窮地を救った英雄だ。
楽しい楽しい想像に思わず口が綻んで、くすりと隙間から漏れ出した。
重かったはずの足取りは、気付けばとんと軽くなり、跳ねるような足取りで我が家の門をくぐり抜けた。
扉の先は慌ただしかった。
目の前を、オウムが左へぴゅうと飛んで、追いかけるように虎が走った。向かった先を見ていると、お次は兎が右手へ跳んで小さくなる。色んな動物が行ったり来たり、私の目の前を通り過ぎ、最後は正面から黒猫が来た。
「丁度いいところにこいし様! とにかく急いでさとり様のところへ!」
言うや早いかタタタタタッと、お燐はどこかへ走り去る。
何のことだかわからないけれど、お燐の慌てようが甚だしいから私はちょっと駆け足で、お姉ちゃんの部屋まで向かった。
向かっている最中で、ケーキを置いてくればよかったとちょっとばかし後悔しながら私はお姉ちゃんの書斎の扉の金の鷲の装飾をよくわからないほど冷静に、どこか遠くから見ているようなそんな気持ちで眺めていた。
私が意を決して扉を開くと小さな女の子がお空に跨がって羽をむんずと掴み取っていた。
「い、痛い痛い! 痛いですってさとり様!」
顔をしかめたお空がそう、悲痛な声を上げていた。
私は瞬時戸惑った。
これは全体、どういう状況だろう。
「お空、その子は……えっと何子ちゃん?」
困惑しながら出てきた言葉はそんなありきたりな言葉だった。
「あっ、助けてくださいこいし様ぁ! さとり様が引っ張るんです」
私達のやりとりを意に介することもなく、確かに少女は今尚も、お空の羽根を毟らんと翼をぐいぐい引っ張っていた。とにかくこの女の子をお空から引っぺがさなければ、何にもわからずじまいだろう。
私はしかして部屋に入ると、跨がったままの女の子の後ろに回り、脇の間から手を差し込んでひょいとその子を持ち上げた。率爾少女はじたばたと、私の手から逃れようと、手足を振り回して抵抗をした。
このまま暴れられても仕様がないので、お空をちょっと遠ざけてから大理石の床の上、敷かれた赤い絨毯の上にそっと下ろしてあげた。
私の手から解放された少女はゆっくり振り返ると、「おねえちゃんだれ?」と問いかけてきた。
「私の名前は古明地こいし。お嬢ちゃんのお名前は?」
そう問い返してしばしの間、俯いて何かを数えた女の子は4本の指を立てた手をずいと私に突き出して大きな声でこう言った。
「こめいじさとり、3さい!」
一口、また一口と生クリームとスポンジの塊が少女――もといお姉ちゃんの口の中へと納まっていく。私はその様子を眺めながら、一杯のヌワラエリヤをあおっていた。ちょっとばかりの紅茶の渋みと柔らかな花の香りがこんがらがった私の頭をほんの少しほぐしてくれる。
「おいしい?」
「うん! おいしー!」
私はお姉ちゃんのほっぺたにこんもりと付いたクリームを人差し指でちょんと取り、そのままぱくりと口に運んだ。
甘い。
甘くておいしい。
甘くておいしいから嫌になった。
目の前でせっせとケーキを食べているこの小さな女の子はどうやら私のお姉ちゃんらしい。……どういうことだかわからない。しかし、現に起こっていることなのだから認めざるを得ない。
認めたくは、ない。
お姉ちゃんがこんな甘い物を嬉しそうに頬張るなんてあり得ない。
そう、叫びたかった。
私の知っているお姉ちゃんじゃないって世界中に説いて回りたい。
でも、一番長くお姉ちゃんと接していた私が見ても、その姿自体は幼い頃のお姉ちゃんそのものだった。
そんなことを考えていると、ふっといきなり目の前に白い塊が現れた。
「おねえちゃんも、はいどーぞ」
距離のことなど考えず、私の右目に突き刺すように腕を伸ばしたお姉ちゃんがニコニコとフォークにケーキを乗せたまま私に向かって差し出していた。
「私に?」
「うん!」
ちょっとばかし面を食らって、おずおずとケーキを口にくわえるとゆっくりゆっくり咀嚼した。本当に、一口一口味わうようにゆっくりゆっくり噛み締めた。
「おいしい?」
嬉しそうに微笑みながら元気な声でお姉ちゃんが問いかける。その姿にそこはかとない懐かしさを覚えながら「うん、とっても」と私は返した。
二人で食べきったケーキの皿をお燐が片付けようとしたところでお姉ちゃんから待ったがかかった。二人のやりとりから鑑みるに、どうやら片付けはお姉ちゃんがやりたいらしい。この年頃の女の子には珍しくもない申し出だ。
しばらくの間お姉ちゃんはお燐とうだうだ問答を続け平行線を描いていた。
お姉ちゃんがやりたい気持ちもわからないではない。だって子供だしね。
でも、お燐が心配する気持ちもわからないではない。だって子供だしね。
とはいえこのまま延々と終わらない押し問答を聞かされるのも困ってしまう。だって退屈だし。面白くないもの。
だから私はお燐に対してお姉ちゃんの監督役を買って出た。危ないことはさせないからと人差し指を立ててみせると、遂にお燐は頭を掻いて「まあこいし様が見てくださるなら」とお姉ちゃんのままごとを渋々ながら認めてくれた。
そんなこんなで私とお姉ちゃんは数枚の皿を乗せた食台を二人で――お姉ちゃんには重くて動かせなかったため、こういう所はお姉ちゃんらしいなと思う――押しながら厨房へ向かう廊下を進んでいた。
道すがら、私はふと思い出し、どうしてケーキを分けてくれたのかお姉ちゃんに訊いてみた。するとさも当然というような面持ちで「おいしいものってわけあうともっとおいしくなるんだよ?」と、そう返してきた。……どうしてその性格は成長する時に引き継がなかったのだろうか。甚だ不思議だ。
不思議だけれど、でも、何だかお姉ちゃんらしいな。
それが少しばかりおかしくてふふっという吐息が口から躍り出た。
私はそれを誤魔化すように「それじゃあ今度はお仕事を分け合おっか」と語りかける。その瞬間にぱぁと表情を晴れさせて「うん!」と明るい声が地霊殿のほの暗い廊下全体に木霊した。
片付けを終えてからというものの、お姉ちゃんの体力は衰えるということを知らなかった。
ペットの鳩に餌をやろうとパン屑を持っていくはいいものの、ぽろぽろと道中で溢していくためにお姉ちゃんの歩く後ろに鳩だかりができてしまい、いざパン屑を放り投げても何にも来なくてお姉ちゃんが泣きそうになったり――私が後ろから全力で鳩を追い回すことによって何とか一事は免れた――、読み聞かせをせがまれて結局3桁近い本を読まされたり――途中休憩もなくぶっ続けだったため喉が嗄れそうになった――、しまいには読み聞かせをした本のせいで羊になりたいと宣言し、羊小屋に飛び込んで埋もれてしまったり、それを救出するために私も羊小屋に入り込んで二人して油でベタベタになって一緒にお風呂に入ったり、一緒に入った湯船の中でお湯かけ合戦をしたり――1勝2敗でお姉ちゃんの勝ちだった。いや、あくまで子供相手に手加減したからだ。本気でやったら私が勝ってた……と思う――。
それでもお姉ちゃんは元気だった。
どうしてそんなに元気なのか疑問に思うほど元気だった。
……でも、久しぶりにお姉ちゃんと遊んで楽しかったな。いつものお姉ちゃんだったら絶対つき合ってくれないもんな。
お風呂から上がってパジャマに着替えた私はお姉ちゃんを寝かしつけるために一緒にお姉ちゃんのベッドで横になる。
それでも元気の有り余るお姉ちゃんは明かりの消えた寝室の中でぽつりと私に話し掛けてきた。
「わたしね、もうそろそろおねえちゃんになるんだって。おかあさんのね、おなかのなかにあかちゃんがいるの」
その言葉にハッとした。
そうか、丁度お姉ちゃんがこのくらいの時だったな。私が生まれたのって。
「わたしね、いいおねえちゃんになりたいな。いもうとがこまってるときにたすけてあげられるおねえちゃん」
それはお姉ちゃんから一度も聞いたことのない、お姉ちゃんの言葉だった。
私はちょっと気になって「例えばどんな時?」と深掘りしてみる。するとお姉ちゃんはしばらくの間うーんとうなり声を上げた後、あっと声を上げてこう続けた。
「おかしがたりなくてかなしいときにわけてあげる!」
私は予想外の答えに対してがくんと脱力してしまった。
いや、そうだよね。子供だもんね。子供が思いつくことったらそれくらいのものだよね。
と、そう納得しかけた時に、お姉ちゃんは「あと、」と口を開いた。
「みんながいもうとのことをいじめても、ぜったいにわたしがまもってあげる。みーんながいもうとのことをきらいになっても、わたしだけはだいすきでいてあげるの」
チクリとした。
守ってあげる?
守って、くれなかったじゃないか。
一番守って欲しい時に、お前は守ってくれなかったじゃないか。
お前は、お前は私のことを見捨てたんじゃないか。
そんな思いがふつふつと、お腹の奥の方から湧いてきて布団の下で握りこぶしをぎゅっと固く握り締め、お姉ちゃんと同じギザギザの歯を、ギリギリギリギリ噛み締めた時、はたと脳裏に思い浮かんだ。
そういえば、昔のお姉ちゃんと今のお姉ちゃんの性格がまるっきり変わってしまったのは、一体いつの頃からだった?
この天真爛漫な可愛らしい目で世界を呪うようになったのは、一体いつの頃からだった?
ころころと色んな面を見せる感情が氷のように冷たくなってしまったのは、一体いつの頃からだった?
疑問を挙げればキリがない。
そしてその答えを私は知っている。
アレが起こった時からだ。
私が眼を閉ざしてからだ。
私のせいで、お姉ちゃんは変わってしまった。
私が、お姉ちゃんを歪めてしまった。
気付いてしまってからは、もうどうしようもなかった。
ぼろぼろと溢れ出る涙を止めることができなかった。
「ごめんね……ごめんね、お姉ちゃん」
「ど、どうしたの? おねえちゃん?」
こんな状態のお姉ちゃんに言っても仕方がないのに、決壊した私の唇はごめんという言葉を溢れ出させた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「……いいよ」
不意に頭を撫でられる感触がした。小さな掌だった。すべすべとして柔らかく、とても暖かい小さな手。
「おねえちゃんがだれにあやまってるのかわからないけれど、かわりにゆるしてあげる」
その言葉だけで、全てを赦されたような気がした。
その言葉だけで、全てが救われたような気がした。
ああ、そうか。やっぱりお姉ちゃんは私のお姉ちゃんなんだなぁ。
いつになっても。何歳になっても。それが例え私より年下であったとしても。
私のお姉ちゃんは私のお姉ちゃんなんだ。
すごいなぁ。
私は、私はやっぱりお姉ちゃんの妹で居たいよ。
衝撃があった。
固い地面に叩きつけられる衝撃があった。
直後に聞き慣れた、だけど懐かしいような声があった。
「あんた……何私のベッドに潜り込んでるのよ!」
「お、お姉……ちゃん?」
ベッドの上に仁王立ちする私を蹴落とした犯人を上から下まで隅々と見渡して尚この目を疑った。
薄紫がかったボサボサ髪に、淀んだような黒紫の瞳。苛立ちを見せるギザギザの歯と、私と同じ身長と。
どこを取っても私のよく知るいつも通りのお姉ちゃん。「まさか妹に夜這いされるなんて思わなかったわ」なんて悪態を吐くところなんか紛れもない。
放たれた弓矢のように私はお姉ちゃんに飛びついた。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」
「離れなさいよ。鬱陶しいわね」
「お姉ちゃん! お姉ちゃん!!」
「な、何よ」
本当にいつも通りのお姉ちゃんだ。私の自慢のお姉ちゃんだ。
「えへへ。お姉ちゃん、大好きだよ」
「……心が読めなくったって知ってるわよ」
昨日よりもちょっと大きな掌が、私の頭を撫でている。柔らかくもないし、暖かくもないけど、安心する優しい手。
私のせいで歪みきってしまっても、変わることのなかった手。
ずっとずっとずぅっと昔、この世に私が生まれる前から私のことを愛してくれた、私の、私だけのお姉ちゃん。
それを知ってこんなに、こんなにどくどく脈打って、体がカァーっと熱くなって、目からは涙がぽろぽろぽろぽろこぼれ落ちてくるなんて。
知らなかったなぁ。
知らなかったよ。
あーあ、やっぱり若返りなんて糞食らえだ。
お見事でした。さとりの日にふさわしい作品かと思います。
姉妹の絆を感じました
強烈な言葉ですが的確でした
ほのぼのとしていてとても読みやすかったです。小さいお姉ちゃん可愛いですな!
こいしにとっては一時的とはいえ姉という頼れる存在を失ったように感じたんだと思います
姉が幼くなっている間のこいしの不安定さが、そのままふだんの姉への信頼の高さを表しているように思えました
こいしも若返ったらよかったのに
でも元に戻ってよかったです