Coolier - 新生・東方創想話

タチムカウ

2020/02/26 23:43:25
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 俺は家畜だ。比喩でも何でもない、文字通りの意味だ。


 俺が住む里では、木造の家々が並び、田畑では中年が精を出し、老若男女が汗水たらしながら各自の生活を営んでいる。外観こそごくごく平凡な田舎といったところだ。
 時刻はわからないが、月が出ているから今は夜だ。酒場で呑みながら仕事の関係で付き合いがある四人の野郎どもと喋っている。若い奴らで集まって猥談に花を咲かせる、それそのものは全くもって健全だ。しかし、俺はもどかしい思いをし続けている。
「やっぱ付き合うならある程度成熟した女性の方が望ましいよ。うん、というわけで私は薬売りのお嬢ちゃんか薬師さんを推す。彼女たちの乳は素晴らしい」
 わざと怪我して竹林まで担ぎ込まれること十四回、診察を受けるとき舐めるように人外どもの乳を目に焼き付けて鼻の下を伸ばしているこいつは正真正銘の馬鹿だ。たいていどこかに包帯を巻いているからミイラと呼ばれていた。ミイラはいつも入院費用がかさむと嘆いてやがる。金もないくせに欲張るからだ逆子野郎め。
「何言ってやがる。でかい乳吸いたきゃ里の女でもいいだろが。妖精一択だろ、あいつらにはどす黒い邪気がねえからな、純粋だ」
 こいつは筋金入りの浪漫主義者だ。雌の美しさをはき違えて、清らかさをひたむきに追いかけ続けている。しかも己の理想郷を小説にしたためる、正真正銘の阿呆だ。登場人物はこいつの好きな女子のみで、矮小な男性どころか自分すら話には関わらない。俯瞰の視点で少女たちが乱れ、戯れている様子を可視化して眺め、ニヤつくのが趣味なのだ。でかい尻を追いかけるほうがまだ健全だ。
 さらに潔癖すぎる紳士的性格が災いしていまだに誰とも肉体関係を持てないでいる。拗らせた物書き、なんと哀れなことか。世の中にこんな哀れで間抜けな奴はいない。
「てめぇの幼児趣味にゃうんざりだ。いいか、男ってのはなぁ脂肪に惹かれるんだよ。母なる球形の脂肪は昔から美の象徴だったんだ。俺ぁそいつに包まれてぇ。寺の住職がいい」
 なら早く手を出してしまえ。その方が奴らも本性を見せやすいだろうよ。宗教には詳しくないが命蓮寺の面々は肉を喰わないそうだ、命まではとられるまい。いつまでも行動に移らないのは、嫁がいるからだ。人のカミさんを悪く言うつもりはないが、貧相な乳だった。つまりこいつは飢えているのだ。遊郭にでも行って妾でも作ればいいのだ。筋骨隆々のくせにとんだビビりめ。
「ぼかぁ、なんでもいいんだけど。ルーミアちゃんとかいいよね」
「だろ、わかるだろう」
「でも邪気がないってのには反対だなぁ。どうせなら黒い笑顔で脅されながら食われたいよ。そうなると幽香嬢とかも堪らないなぁ」
 非人道的で末恐ろしいことを口走ってはいるが、こいつはただの妄想野郎だ。思考実験で自慰をするくせに、痛みに弱い虚弱体質のチビだ。自分の癖をさらけ出せる潔さは認めるが、根本から同調しかねる。
「ちくしょう、変態どもめ! 理解者が居ねえ。お前はどうなんだよ」
「……まあ、そういう癖はあってもいいと思うがね。私は共感はしないが」
 どっちつかずの返答、これが俺だ。本音などさらけ出せるはずもない。俺は奇人ではないし最低限の社交性はある。この変態的本能を酔いに任せて口から弾丸のように発射するこいつらは底抜けの馬鹿にしか見えないが、酒の席の話を外に持ち出すのが野暮であることは俺でもわかる。内容も上っ面は好みのおなごへの愛とやらを語ってるだけのようだから、一見正常だ。
 問題は愛の対象だ。妖怪や妖精やら、魑魅魍魎ばかりだ。なんだ、こいつらは。確かに奴らは人型を、それもかなり魅力的な女型をとっているが、それはうまそうな香りを発する撒餌であり、近づけば火に飛び込む虫のようにその身に灼熱がはしるのだ。わかっていてなぜ、焦がれる。
 お前らは、俺らは餌に過ぎないのだぞ。
 俺は一度、この中ではそれなりにものを知っているミイラに言ってみたことがある。馬鹿とは言ったが、素面でも調子が変わらず全く裏表がない仙人みたいなやつなのだ。一か月も前だ。こんな会話だった。
「私たちが妖怪を好くことは健全ではないと思うのだ。彼らは私たちを喰うためにいるのだから、どうあがいても幸せにはなれない。いっそ諦めて里の娘と密な時を過ごせばよいのではないだろうか」
「ふむ、一理ある。しかしだね、美しいものに惹かれるのは本能だし、無理に押さえつけようとしても心は反発する。でも確かに死ぬのは嫌だ。ならどうしようもない本能を語り合って酒で流せばよいと私は思うのだ」
「そこだよ。本当に好きなら行動に移せばよい。喰われたって本望だと言う奴もいるではないか。煮え切らない態度が、私は何というか、潔くなくて嫌だ」
「君は純粋すぎるんだと思う。母乳をねだる赤子のように乳房を渇望しているだけ、行動はしない。健全だろう。割り切っている大人の考えだ」
 こんな具合に諭された。手を出さなければ問題はない、そこんとこはごもっともだ。しかし、対象が忌み嫌うべき妖怪であることがそもそもおかしいのだ。自身が異常であることに気づかず、健全だと言い切る図々しさに虫唾がはしる。これ以上続けても堂々巡りになることはわかりきっていたので、俺はその時は話をきり上げた。
 誰一人として賛同者が居ない。だから俺は今もどかしい苦痛の時を指折り数えながら耐えなければならんのだ。
「いいか、穢れきってしまった雌には母性が宿る、それはそれで尊いものだ。だが、そこには赤子を守るための強さが付随する。強いということはだ、上下関係がある、自分より弱い誰かから搾取しているってことだ。そんなもんは綺麗じゃねえ。一切の邪念もなく、ひたすらにか弱く、毎日お花畑に身を埋め続けることこそ幸福だと信じている妖精たちが最も美しいんだ」
 妖精に対して完全に歪んだ認知をしている危険思想物書き紳士がそう言った。顔を真っ赤にして反応したのはビビりだ。
「何を言いやがる。いけしゃあしゃあと紳士気取りやがって、いいか、男は皆けだものなんだ! 本能が生殖を求めているんだ、それに答えてくれるのが良い女ってもんよ。強い奴が勝つのは当たり前じゃねえか。むしろ強い方がいい。優れた遺伝子を残すのは義務だ。肉体は武器だ、より良い武器を持ったやつが神聖視される。それは古い彫刻や土偶を見ても明らかだ。あー、神聖なものとまぐわいてぇ。山のてっぺんの神様とかたまんねぇ」
「あーいいよね、諏訪子様。祟り殺されたい。こうぎゅーっと首を絞められてさ」
「そっちじゃねぇ! 神奈子様に決まってんだろうが」
 やいのやいのと言っているが、へべれけのこいつらは自分の理想を吐瀉物のようにぶちまけているだけで、どうせ、話の内容をきちんと聞いてる者などいない。聞こえた単語の表面を鰹節のように薄く削って読み取り、持論を展開するだけだ。
「僕は力が強いのには賛成だなぁ。ほらあの小鬼とか、なんだっけ、萃香ちゃんだ」
「あー良いよなぁ、可愛いよなぁ」
 チビの言葉に対して紳士はそう言った。鬼だと、ふざけるな、忌み嫌う存在の代表格ではないか。奴らは里を襲いバリバリと人を食い散らかした挙句、金品や酒類を根こそぎ奪う最低最悪最凶の三拍子そろった物の怪だ。邪気がどうの言ってるがこいつも所詮似非浪漫主義者だ。幼児趣味が浪漫を塗り替えているのだ。
 俺がイライラを顔に出さないよう躍起になっていると、今度はミイラがうんうんと頷きながらこう言った。
「私も賛成だ。力は強い方が魅力的だと思う。新聞記者の文ちゃんなんか親しみやすくて素敵だ。なんと彼女は天狗だという。強者が実力を隠していると何とも心揺さぶられる」
「マジかよ。天狗かぁ、それ本当か」
「え、お前知らなかったの。新聞なんて天狗しか書かんぞ」
「じゃあ高嶺の花だったてぇわけだ。あの乳も結構よさげなんだがなぁ」
 俺は、間違いをしでかしまくる生徒を前にし、己の含蓄で正しい方向へと導きたくなる衝動に駆られる教師に近い心境だった。今度は、天狗だと。あいつらは風で草木をなぎ倒し、その隙にガキどもを攫って行く狡猾な奴らだ。
 こいつらは何もわかっちゃいない。否、気づこうともしていないから間抜けなのだ。確かに里にいる限り妖怪には襲われない。それは掟があるからだ。博麗もいる。だから平和ボケしてしまったのだ。
 俺は知っている。この世界は妖怪が管理しているのだ。奴らは俺たちを殺さず、じっと時を待っている。果実が熟するまで優しく守っているのだ。それでも風で飛ばされた出来損ないは、食って良い決まりになっている。
 空腹が絶頂まで達すれば、奴らはいともたやすく門をこじ開け、俺たちを喰らい尽くし、腹をこすりながら意気揚々とゲップをすることができる。なぜしないのかというと、農家が畑を失えば食い扶持を無くし、農家を継続できなくなるのと同じで、人間が居なければ妖怪が存在できないからだ。奴らは肉そのものだけでなく、胸に巣食う恐怖心を搾取する。
 だから俺たちは奴らにとって必要なのだ。俺たちは家畜だ。箱庭で飼いならされているみじめで薄汚い、誇りもへったくれもない人間以下の存在なのだ。里の連中は、おそらく養人場の管理者によって疑念すら抱かないように洗脳されているに違いない。
 牙を突き立てた奴ら、つまり里を抜けようとした人間ははまだ勇ましい。彼らは皆犬死にしたが、心は清らかであっただろう。
 先日、俺は自由を求めて粛清された易者の話を聞いた。奴は妖怪に魂を売り渡した屑だが、動機だけはまともだ。畜生のままで居られるか。
「なあ、お前ばっかり何も言わないの狡いぞ。こちとら腹の底から暴露してるってのに」
 俺はウイスキーを一気に流し込み、ジョッキをテーブルに叩きつけてこう言った。
「強いて言うなら、私は慧音先生がいい。あの乳にはそそられる。まき散らさんばかりの色香が素晴らしい。あとは山の巫女さんもいい、まだまだ発育するだろう」
「お前もそっち側かよぉ、この健常者どもめ」
 俺以外全員異常者だ。慧音先生や巫女さんは純粋な人間だからな。人間が人間を求める、それ以外は異常だと知れ。叫びたいが、行動に移せない自分が情けなくなる。間抜けどもめ、いくら論理的で隙の無い説明をして見せても「あーなるほどね、そう言う考えもあるよね」と理解したふりをしやがる。ミイラだけは理解を示すが、なおさら悪い。


 なぜ俺が自らが家畜であることを自覚したかと言うと、何年も前の話だが俺と数人の仲間で里を抜け出したことがあるからだ。その中にはミイラもいた。動機は、確か外の世界に行きたくて世界の端まで行ってみようと志を共にしたからだ。
 俺はもやもやを抱えていたのだ。なぜ里の中では喰われないのか、別に巫女が常時守ってくれるわけでもないし結界もない。だが不思議な力で自分たちは守られており、慎ましく生きていれば安全である。その理由がわからないのが不気味であり、今回の馬鹿げた行動はその答えにたどり着けるかもしれないという期待があった。この世界の秘密に触れられると思ったのだ。
 俺たちは走った。妖怪除けの札も用意していたからしばらくは大丈夫だった。しかし、永遠に続く森にぶち当たってからはいくら走っても同じ景色がグルグルと移り変わるだけで、端っこなど存在しなかった。これが、結界の影響であることはわかったが、普通以下の人間にはどうしようもない。俺たちは諦めて帰ろうとした。
 その帰り道、丁度里の門が見えた頃だ。俺たちは完全に油断していた。札の効力がきれていた。運悪く妖怪に出くわしてしまい、里の一歩手前で仲間は食われた。頭を齧られているとこを見た瞬間、俺の洗脳が解け、すべて腑に落ちた。
 そのことに気づき、いまだに生きているのは俺とミイラだけだ。あの時喰われなかったのは妖怪が満腹になったからだ。奴らは目の前の食物を喰らっただけで、満足すれば帰るに決まっている。


 呑み終えた後、家に戻り壁を殴りつけてしまった。あいつらの変態談話も苛つくが、思ったままに行動できてない自分に無性に腹が立った。鏡を見るとクソみたいな面をした俺がいた。
 偶像崇拝などくそくらえだ。俺たちは現実と向き合わなければならない。目をそらすこと、それすなわち敗北だ。ミイラは敗北者だ。間抜けな家畜のままで居られるか。
 俺は人間の誇りを取り戻すため立ち向かうことにした。真相を頭の中に押し止め、悶々としながら生活している自分に嫌気がさしたのだ。
 自由をこの手に掴むのだ。明日行動に移す。意地でもだ。今日は俺にとっての転機である。


 妖怪の支配から逃れるため、外界へ行くという考えに至った。
 ありったけの妖怪除けの札や、おとりに使うための食料をかき集めた。そして、この世界の成り立ちや、妖怪退治の歴史書などの資料を読み漁った。求聞史紀に慧音先生が実は妖怪であるという記載があったので俺は腰を抜かした。彼女は優秀な飼育者だったのだ。教師になりすまし子供たちを洗脳しているのだ。失望と憎悪が沸き上がるが、今問題を起こすわけにはいかない。何、里とおさらばしてしまえばあとは知ったことではない。
 だが、こうなると誰が真の人間だかわからない。俺は疑心暗鬼に陥りそうになりながらも、着々と準備を進めた。
 計画が現実味を帯びてきた。なんでも里には時たま、外来人が紛れ込んでくることがあるが、そいつらは博麗神社から外の世界に戻れるらしい。巫女の助力により外と郷を隔てている結界を潜り抜けられるそうだ。問題が一つあって、里の住民が外に出たという記述はどの歴史書にもない。しかし、それは当たり前だ。里からの脱出は妖怪達にとって汚名に等しい、歴史を隠ぺいしているはずだ。
 必ず成功者はいる。神社にさえ辿り着けば、どうとでもできる。いざとなれば巫女はか弱い少女なのだから力づくで言うことをきかせてみせる。巫女の力は妖怪特効で、人間には手出ししないはずだ。
 転機から半年後、俺は万全の準備をして神社を目指した。大量の札を懐に忍ばせ、背中の籠には食料を詰め込み、腹にはさらしを巻き、ダイナマイトを仕込んだ。この爆発物は素晴らしい。考えた奴には賞をくれてやらなくてはならない。力の強い妖怪に出くわしてしまった場合、ちんけな札ではどうしようもない。だからこいつだ。強い妖怪は話ができる奴が多いから、こいつを見せつければすぐに噛みついてくることはない筈だ。弱々しい虫けらがその肝に毒素を秘めて身を守るように、妖怪どもへのけん制になる。もし、そいつが底抜けの馬鹿だった場合死もありうるが、覚悟の上だ。潔く、粉みじんに吹き飛ばしてやる腹積もりである。


 俺は夜中に里を抜け出した。
 ひたすら東へと進むと深い森に入った。右も左もわからなくなったが、星で方角を確認しつつ歩いた。方位磁針が使えればよいのだが、この森には磁力を発する植物なども存在するのであてにならない。だからわざわざ夜に出たのだ。準備万端な今の状態では妖怪に出くわすより、迷子のほうが恐ろしい。
 森を抜けるとあとは一直線だ。参道を通ろうとしたが、ふと俺の右側二丈ほどのところににある巨大な岩に腰かけている者がいることに気づいてしまった。
 美しい女性だった。直感で恐ろしく強い妖怪であることもわかった。俺は霊感というものがそこまで強くはないが、奴から並々ならぬ、形容しがたい妖気が溢れ出ていることは感じ取れた。万事休すか。いや、敵意は無いようにも見える。
 奴はこちらを見た。何が可笑しい。ふざけた薄ら笑いを浮かべやがって。おびき寄せようたってその手には乗るものか。
「こんな夜更けにふらふら歩くなんて、冥界の桜にでも興味がおありなのかしら」
 そいつは妙に艶かしい仕草で、まるで人間のように話しかけてきやがった。
「神社に用があるのです」
「なぜ?」
「なぜそれをあなたに言う必要があるのです?」
「強いて言うならば、私が興味を持ったからかしら。あ、私こう見えても結構強いのですよ、普通の人間なんて虫けらのように思えるほど。まあ、そんな野蛮ではないと自負してるけどねー」
 わかりやすい莫大な殺気を向けられ、言わんとする意図がわかってしまった。こいつは、管理者側の妖怪なのだ。俺という例外を排除するために此処で待っていたのだ。なぜ俺の考えが悟られたのか、それはわからない。問答無用で喰らわないのは俺が行動を起こす確証がないからだろう。逃げた豚を捕獲するか処分するか決めあぐねているのだ。
 危なかった、無視して神社に押し入ったら殺されていたかもしれない。
 おめおめと里に逃げ帰るなら、こいつは見逃してくれるだろう。だが、それだけは嫌だ。俺は着物の帯を解き、腹に巻いたダイナマイトを見せつけてこう言った。
「私は覚悟のうえで参りました。私の望みをあなたは知っておるようですが邪魔立て無用、どうかそこを退いていただきたい」
「あらまぁ物騒、どこで手に入れたのかは聞かないわ。何もそんな威嚇をしなくても、とって食べたりはしません」
 あれだけの殺気を放っておいて何を言う。妖怪のくせによく喋るやつだ。願いが叶わぬというなら、この妖怪を道ずれに派手に散ってやろうではないか。そうすれば三途の川であった時にざまぁみろと言ってやれる。
「巫女に危害が及ぶのはいただけません。そこで、一つ提案をします。私の駒になりませんか? 確かな地位と身の保証を約束しましょう。しかも三食昼寝付き、ペットも可、なんてね。優秀な式が欲しいの、猫の手より人間のほうが良いですし、あ、橙が怒りそうね、ああいやこっちの話よ」
「ふざけないでいただきたい。正直に言ってしまいますが、あなたが優秀な僕を欲するように私は自由が欲しいのです」
 本心を言ってのけた。尊厳こそ、最も重要なものだ。それを得るには自由がいる。こいつに飼われたら、俺はとうとう人間でなくなってしまう。
「まあ、誇り高いのね。それもまたよし、立ち向かい、無残に散るのも一興よ。人間らしくて好ましいわ。でもあなたは賢いようだから、もったいないと思いませんこと?」
 俺は制止してしまった。死ぬ覚悟は済ませたつもりだったのに、どうしても火を焚けない。こいつの言う提案が魅力的に思えて仕方がないのだ。
「申し遅れました、私は八雲紫。ムラサキって素敵よね。色よい返事をお持ちしてますわ」
 そう言うと妖怪は空間の裂け目に消えていった。俺は茫然と立ちすくみ、気が付くと家に戻ってきてしまっていた。


 おそらく、この里にはあの紫という妖怪の式が何体も人間の皮を被って潜んでいる。庄屋とか、金持ち連中は十中八九つながりがあると見てよい。そいつらが里を牛耳っているのだ。奴らは元々は俺のように異常に気付き、喰われるか、手駒になるかを選ばされたに違いない。
 なら俺はどうするか。答えは決まっているはずだった。人間らしく在る、そのつもりだった。なのに、俺の足は竦んでいた。
 あの女の、八雲紫の表情が瞼に焼き付いて離れないのだ。出会いの記憶は飲めば飲むほど渇く麻薬だった。恐ろしい幻覚を見せる。鏡をのぞき込むと彼女の手招きが映っている気がするのだ。白い手袋をはめた彼女の指が、俺の肩に妙に艶かしく触れている。その度に胸が締め付けられる。
 家じゅうの鏡を叩き割った。じっと見ていると俺の心臓が張り裂けそうになるのだ。
 それでも水面には俺の姿が映る。目を潰す勇気もなく、俺は近くに落ちていた麻袋を被り視界を遮った。ぼんやりとしか見えないが、ようやくまともに息が吸えるようになった。
 夢には必ず彼女が出てきて「返事を待つ」と言う。夢の中でも、彼女は美しかった。怪しく笑う様が、得体のしれない深すぎる闇への好奇心が、俺をどうしようもなく興奮させた。
 誘いに乗りたくなる。触れられるとみっともなく声をあげてしまう。その声で俺は毎回覚醒し、寝間着にしみついた白い種をこすり落としていた。


 紫と出会って一週間が過ぎた。
 あの尋常じゃない妖気に比べれば、里の連中が皆同じに見える。狸も狐もハクタクも一緒くた。ああ、くだらない。みじめに生きさらばえて、家畜だと自覚もせずにのうのうとしている間抜けどもの縮図になぜ俺が組み込まれなければならないのだ。なぜ、俺が人間でなければならないのだ。やめてもいいじゃないか。大事なのは愛だ。人の尊厳とか、どうでもいいじゃないか。愛がすべてだ。


 そしてとうとう俺は狂った。
「ははは、はーはっはっ!」
 俺は人目をはばからず、大声で笑ってみた。なんとも気持ちがいい。最高だ。俺の前頭葉は蛆虫に食い荒らされていた。
「人間なんてくだらないぜ」
 着ていた服をすべて脱ぎ捨てた。人間は顔だけは出すものだから、逆に麻袋だけは外さなかった。俺は裸で里内をぐるりと一周駆け巡り、ぎゃあぎゃあと泣き叫ぶ女みたいな鳥の声を堪能した。酒場に入って樽を蹴飛ばし、飯屋裏のごみ捨て場にある残飯を喰らい尽くし、貸本屋で歌を熱唱した。騒ぎ立てる子犬どもの声が清々しい。まるで音楽隊が俺を歓迎してくれているかのようだ。
 夜になって俺は里を飛び出し、東へまっすぐ駆けた。そして、同じように参道の近くに佇んでいる紫に会った。相も変わらず美しい。
「……え?」
 彼女はキョトンとしていたので、俺は飛び掛かり、服を剥ごうとした。荒々しく雄牛のように呼吸して、いやんいやんと抵抗する彼女を押さえつけた。
「それが答えなのね」
 そうだ、その通りだ。お前と同じけだものだ、これで対等だ、さあ交わろう。乱れよう、犯してやる。俺の死に場所は手前の腹の上だ、そう決めたのだ。
「欲に正直になったとでも言いたいのかしら。何か喋ったらどう?」
 会話ってやつは人間がするもんだ。お前は妖怪だろう。俺も、もう人間じゃない。その手を退けろ、服が邪魔だ。手袋も捨てろ、直に触れねぇ。
「嘘を捨ててまで、残念ね。知性こそ人間の証なのに」
 うるせぇ、己が賢いとでも、理知的だとでも思っているのか、なんだその眼は。妖怪どもは愛欲に満ちた本能の生き物だろう。最高じゃないか。賢いのだから自覚はあるだろ。
 俺がようやく紫の胸に触れようという瞬間、彼女はするりと地面に消えてしまった。また、空間の裂け目に滑り込んだようだ。
 焦らしか、そんなもんは人間がすることだ、嫌がるそぶりなど似合わない。もっと直情的であるべきだ。
「あなたはとても優秀でした。自らの頭脳で人妖の関係の根底に気づき、システムに異を唱えられる。激しい葛藤があったでしょう、そのうえで自棄にならず、理性的な行動をとれていた。武器を安易に振り回さず私と対話した。優秀です。だからこそこちら側に来てほしかった。失望しています。本当に……」
 空中からふわりと姿を見せたので俺はもう一度飛び掛かった。だが、俺の手は空を切った。
 起き上がり直後、俺は地面の裂け目に落ちた。ずぶずぶと泥の中に引きずり込まれる感覚だ。
「あなたは禁に触れた。里の住民が、人を止めてはいけないの」
 俺はそのまま、空間の裂け目に呑み込まれた。
 底の見えない亜空間をひたすらに落ちていく。
 なんだ、彼女は俺を受け入れてくれたらしい。その証拠に此処はきっと彼女の中だ。なんて静かでいい場所なんだ。寂莫を極めている。この場所には何もない。
 こんな素晴らしいことがあるだろうか。思う存分彼女を想える。最後の最後に俺を自由にしてくれた。こんなに嬉しいことはない。



 狂気の咎人である彼の名前が歴史に刻まれることはない。賢者は無限に続く亜空間へ憐憫のまなざしを向けた。
罪袋誕生秘話です。嘘です。
灯眼
http://twitter.com/tougan833
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
新しい感じで面白かったです
3.100名無し削除
幸せな大人にしか書けない感じが出てて良かったです。上を見るとキリがないですね
4.100サク_ウマ削除
人外ゆかりんは人間の脆さが分からないから、きっとこれからも人間の部下を手に入れることはないんだろうなあ、なんて。そんなことを思うのは、ちょっと穿ちすぎでしょうか。
幻想郷の歪さがよく感じられる作品でした。お見事です。
5.100Actadust削除
「人らしさ」を欲するのにどの人よりも人が分かっていない人外。人らしく人を辞めた人間。人らしさとは何か、それを考えさせられる素敵な作品でした。
6.100ヘンプ削除
最後に自由になれたことが幸せだったのかと思いました。
紫がまさにシステムだったな、と。妖怪の統治は変わることはないんでしょうね。
7.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
遣り切れない話。気づかなかった方が間違いなく幸せ
8.100南条削除
面白かったです
単身で里の外へ繰り出す主人公がカッコよかったです
狂ってしまったのは残念でした
馬鹿みたいな悪友たちも愉快でした
9.100終身削除
主人公と愉快な仲間たちの誰もかもクセが強くてなんだか妙に頭に残りますね 理性を保ち一歩引いて考えてるつもりの男が先生への信頼が崩れ拠り所を失ったことで、短絡的な計画をまた繰り返し遂には理性を失う様が滑稽でオチのキレがよかったと思います