影法師(Unreliable Story Teller)
場所 幻想郷
非人物 古明地こいし 主演
秦こころ I Love You!
敵 影法師
古明地さとり お姉ちゃん
黒谷ヤマメ 復讐者
村紗水蜜 舟幽霊
雲居一輪 尼
封獣ぬえ 鵺
幽谷響子 門弟
火焔猫燐 猫・下女
人物 三人の僧兵
高名な僧
〈プロローグ〉
すべての心の大劇場より
しかし無意を望むなら
ふたりの恋を見るなかれ
すべての心ある者たちよ
あまたの空席をたたえる、静まりかえった心の中の大劇場。その入り口の上に備えつけられた時計が五時十四分を示すとき、舞台を隠していた赤いカーテンが、ゆっくりと左右にひらいて、秦こころが現れる。
(同時にスポット・ライトが点る)
こころが客席に向かって、
「私は感情の摩天楼。
おまえの瞳がとじようと、
すれば必ずつなぎとめ、
秋夜の夢に終わらせぬ」
(口上が終わると、ライトが消える)
また劇場が暗闇と、しっとりとした沈黙に包まれる。
……。
自分の表情も見つけられないのに、わたしの心をつなぎとめられると言うの?
こころちゃんにわたしは見つけられない。
わたしの残酷の宿命が、
わたしたちを引きさくために。
……。
それでも、
あなたが、
私に恋をしているのなら。
大渓谷に阻まれても。
高すぎる山で挫いても。
深い湖へ飲みこまれても。
無限の砂漠の虜になっても。
まだわたしに恋をするなら。
そのときにわたしの心をひらきます。
そして見事に、わたしのまことの姿を捕まえてみせなさい。
「わたしは心の影法師。
無意の瞳がひらこうと、
すれば儚い空夢を、
見たと思っておわすれを」
第一幕 第一場 謡本作曲(A Mid-Fall Night's Dream)
命蓮寺より。
(ライトが点り) 幽谷響子が寺の門前に現れる。
「近ごろの朝は寒くなってきた。秋夜の日の入りはとても早く、真逆に日の出の遅いこと。でも今にこうして、目を細めなければまともに見られないような太陽が、赤い風木の葉に染まる、妖怪の山のいただきから昇ってきた」
光が門前を照らすとき、響子が視界の端に、何者かの影を捉える。
「誰?」 と振りかえる。
しかし誰も認められない。
そして響子が前に向きなおったとき、その正面へ古明地こいしが、急に亡霊のように現れる。
「おはようございます!」
「腰を抜かして)うアッ!」
「近ごろの私は、朝の冷えこみで、皮フが切れそうだと思う。でも昼は暖か。昼寝の陽気。そして夜はまた、冬の報せのさきぶれと眠る。おはようございます!」
「おどろきました。おはようございます! (立ちあがる)まだ務めも終えない、この早朝の寺にどうされました」
「こころちゃん」
「はい?」
「探してます!」
「こころさんは本堂前の広場にいますよ。誰も起きない、朝夜のはざまの時刻から、能の練習をしていたようです。熱心ですよね」
「ありがとうございます!」
こいし、広場へ向かう。
そして薄むらさき色の髪を、笹川ながれのように空気へ這わせ、華麗に能へ興じている、こころを見つける。
「ようやく見つけた。こころちゃんは私を神出鬼没と言うけれど、それは互いに言えることよ。
私が寺へくるまえに、足をはこんだ神霊廟に、あなたはどこにもいなかった」
こころ、舞を続けるままに言う。
「私とおまえは宿命のかたき、
おまえの望むところに、
なぜ私が現れねばならずや、
話しかけられること、煩わしく思い候」
と言いまわしつつも、こころの頭上で翁(喜)の面が漂う。
「嘘はよくないよ! 私が来て、本当はうれしいんじゃん?」
「うるさい」
こころ、面を般若に入れかえる。
そして舞を已める。
「こころちゃんは表情がないわりに、六十六の舞面が、どれも豊かで正直すぎるよ。あなたは嘘が似あえない。
古今東西より、仮面の役割は、顔のはたらきを隠すこと。なのにこころちゃんは自分を隠すどころか、あらわすために使ってる。その使いかた、変わってるね」
「そう言うおまえのほうは、仮面をつけていないのに、なんの感情も伝わってこないから、まるで仮面の化身だな」
そのとき寺の西側で鐘が鳴る。
「あの鐘を鳴らすのは誰?」
「あの鐘を鳴らすのは水蜜さん。幽霊は眠らない。病も知らない。だから鐘を任されている。時をいつでも、正しく伝えられるから。あれは朝の七時を告げる鐘」
「病を知らない?」
こいし、あざわらうように(見える)言う。
「水蜜は心の病気だと思うよ」
「ふん、おまえは心をとざした哀れな覚リ。何を根拠にそんなことを口ばしるのか」
「こころちゃん、言いたくないけど……周りに影響されて、順調に口がわるくなってるね」
「そうかな?」
「私が言うのは、自分のあやふやな記憶に根を張る、苦渋に満ち々ちた、沢山の想いたちに元づいて。
私は地底にいたころのみんなを知っているから、水蜜の病を知るんだってさ?」
「だってさってなんだよ!」
「よくおぼえていないから」
こいし、思いつめるように(見える)言いなおす。
「おぼえていることもあるよ、最近は。 (自分の瞳を持ちあげて)これをとじると、みんなは忘れてしまったけど、私はみんなの友達だったんだよ……多分ね」
「一輪さんも?」
「ぬえさんも、ヤマメも」
「最後の名前は知らない」
「地底のいびつな絆なの。それだけは絶対に、閉心しても切りさけない」
「急に西の空を見て)……おや?」
「聞いてよ!」
「見ろ。はるかに西、魔法の森の方角から、雨雲が出ているぞ」
「雨が降るのかな?」
「穏やかな日に水をさすのは、
宿敵と曇天に候。
これにえにしありしか、
いかに波乱ありしや」
しばらくすると雲が流れついて、こころの右頬に一粒の雨が落ちる。
「あっ……涙」
「何?」
「その頬をつたう雨が、涙に似てる」
「無表情で)悲しそうに見えるか?」
「別に……」
「いつか本当の悲しみを知りたいな。その悲しみが、私に表情を与えてくれることを願って」
「そんなの要らないよ、そんなの悲しみを知らないから言えるのよ。最初に見るこころちゃんの表情はひまわりが見たい、ひまわりのような笑顔ってことよ。満開ね」
雨が強まる。ふたりが寺の中に避難する。
第一幕 第二場
(朝よりも雨音が強まる)
夜の寺の一室より。
早々とだされた炬燵に、こいしとこころが潜りこんでいる。
炬燵の上にふたりの茶がだされている。
こいし、黙って茶をすすっている。
こころ、筆と巻物を相手に固まっている。
「昼ごろから、そのスクロールと向かいあっているわりに、何も書いていないね。何をしているの」
「ンー」
「ねえ」
「……」
「退屈!」
「うるさいなあ」
そのとき足音がして、室に酒気を帯びた雲居一輪と封獣ぬえがはいってくる。あとから村紗水蜜も、酒瓶をかかえてはいってくる。
「ぬえが)誰かいるのか」
「こころが)ぬえさん、破戒だ!」
「私は尼じゃないから」
一輪、水蜜、ぬえが炬燵に潜りこむ。
一輪が水蜜から瓶を引ったくる。杯を取りだして、酒を注ぐ。
「いつもこの時間になるまでは、聖さまにばれないように、飲まないように……でも鵺さんがどうしてもって言うから、私の室でひそひそとね……」
「こころが)一輪さん、酒くさ!」
「こころは泊まっていくの?」
「私とこいしに昼ごろ“雨だから泊まりなさい”と言ったのは一輪さんだけど」
「ん……忘れた」
「そう……」
「忘れましたあ」
「分かったから」
「忘れましたあ」
ぬえ、勝手にこいしの茶を口にする。
「緑茶かよ……苦いぞ、々いぞ」
「それ私の!」
「わアッ。なんだよ、いたのかよ」
「最初からいたよ!」
「と言うか、誰だっけ?」
「また忘れてる!」
「ええ? 何、うるさい……声が。眠たいなあ」
「私はこいし。こころちゃんが言うには心をとざした、哀れな覚リなんだってさ。今日はおぼえてね」
「覚リのくせに心をとざしたのか。ただの雑魚じゃん」
しばらくすると、一輪とぬえが酔いつぶれる。
水蜜、安心したように言う。
「眠ったか。ふたりは酒癖がわるいんだよ、ごめんね」
「こころが)水蜜さんは飲まないのか」
「飲めないの、死んでるから」
「私はあなたが食べたり、飲んだりしているところを見たことがあるぞ」
「気分しだいなのよ。正しく言うなら、私は酔わない。だから飲まない。それにこの口が食べた物者が、すべて虚空に消えてしまうと信じているから。それって勿体ないじゃない」
「信じている?」
「本当のところは分からないの。ただ私の胃が満たされず、また喰らった者物が外に出てこないと言う事実がある」
「私も同じだ、酔ったりしない」
「あんたはちがうよ」
「何が?」
「幽霊より面霊気のほうが……上等だ」
水蜜、思いついたようにこころを見る。
「酔わないと言うなら、あんたも阿片を吸ってみる?」
こいし、わずかに視神経をふるわせる。水蜜を見て、咎めるように(見える)言う。
「こころちゃんには、危ないんじゃない?」
「大丈夫だって、妖怪なんだから。取ってくるから、すこし待っていて(退室」
こいしがこころに教える。
「阿片は情緒を慰める薬なの。それは地底の特産なのよ。そう……大丈夫……妖怪は……多分ね」
「こいしは使ったことがあるのか」
「それは、あるよ。みんながある、地底のみんなが。でも……このとおり、元気よ。
そう、今でもおぼえてる。
蜘蛛だった。
蜘蛛がそれを地底に持ちこんだころ、私たちの情緒は、はちきれそうになっていた。
私たちは乱暴者で力がありあまっていたのに、矛さきを向ける人間は地底になく、心は萎えて衰えはてていた。阿片は心の暇つぶしに、まさにおあつらえだったのよ」
水蜜、小箱を持って戻ってくる。座ると箱を開けて、阿片まじりの煙草を取りだすと、口にくわえる。マッチで火を灯すと、一服して、煙を吐く。
「幽霊の情緒を救うのは阿片のみ。酒は平等じゃない。でも神さまは阿片をくれた。私もこれで酔うことができる。これだけは、そうなのよ。この体の内で、何が起こっているのだろうね? (また煙草を取りだして)ほら、こころも吸ってみなさい」
こころ、煙草をくわえる。マッチを貰い、火を灯して、深々と煙を吸いこむ。
こいし、心配そうに(見える)聞く。
「平気?」
「特に、何も。私には効かないのかもしれない」
「そう、よかった。こころは悩みがないんだね。そう言うのは、情緒が滅茶苦茶なやつほど効くから」
「水蜜さん、失礼な。私はまさに今、大きな悩みをかかえているところだ」
こいし、からかうように(見える)言う。
「こころちゃんが?」
「この悩ましそうな顔を見ても分からないのか!」
「無表情だけど……」
「そうだった、私は表情がないんだ」
「馬鹿?」
こころ、目のまえの巻物を持つ。
「これが私の悩みの種だ。この高尚な悩み、頭がすかすかのおまえに分かるまい。教えてやろうか」
「言いたいんでしょう」
「聞いておどろけ、見ておどろけ。私は能の台本を、作曲しようと試みているんだよ。私も能を続けてしばらくになる。そこで世間をおどろかせるような、すばらしい舞を創ろうと、近ごろ決心したところだ」
「それで昼ごろからスクロールとにらめっくらをしていたの」
「そうだとも」
「でも白紙なんだね」
「耳の痛いことだ。実際のところ、何を書けばよいのかも分からないんだ。物語を紡ぐと言うのは、思っていたよりもむずかしいな。
ああ! 古来の歌人は、どう言うふうにすばらしい物語を紡いでいたのだろう。どうしてあんなふうに、すばらしい物語の数々が、まるで泉のように湧きでたのだろう」
「水蜜が)好きなことを書きなさいな」
「私は何が好き?」
「自分の“好き”が分からないの」
「どうだろう……」
「こころは産まれたてなんだ。ゆっくりと鏡の中の自分と向きあいなさい。私たちのように、苦難の力で、育てられることはない」
こいし、いぶかるように(見える)言う。
「意外と甘やかすのね」
「昔のやりかたに従う必要はない。あれはあれでたのしかったけれど、力で奪うのは飽きた。今は冬の魚のように、静かに暮らしていたい」
話しているうちに、一輪が目をさまして、体を起こした。抜けきらない酒が、彼女の体をふらつかせる。
「う、う……」
「水蜜が)おはよう、大丈夫?」
一輪、たまらず水蜜のほうにしなだれかかる。そして偶然にも、ふたりの顔が、口づけられそうなほどに近づく。
第一幕 第三場
時が止まったように、みんなが黙りこむ。
こころは今にも触れあいそうな、その唇を通して、急にふたりのあいだに芽ばえた感情を、喰いいるように見つめる。
それはしっとりとして、熱っぽかった。
「阿……片の香り」
一輪、その香りの懐かしさにうっとりと呟く。
「ごめん!」
しかし一輪は、こいしとこころに、自分たちが見られていると気がつくと、はじかれたように、水蜜から離れようとした。
水蜜、その離れてゆく肩に手をかける。彼女の指が、一輪の肩にくいこむ。
「こころ、こいしさん。私たちはさきに寝る」
一輪、恥ずかしがるように顔を赤らめる。
「ちょっと……」
「おいで」
「こいしが)水蜜、幽霊は眠らないって聞いたけど」
「眠るよ」
水蜜が一輪の手を引いて室を去る。
「行っちゃったね」
「とまどうように)うん……」
「どうしたの」
「何が?」
「声が小さいと思ってさ」
「いや……じつはふたりの中に、見たこともない感情が芽ばえたので、おどろいてしまったんだ。あれの正体は?」
「ええ? あれって、あれよ……」
「あれ、とは」
「私の口から言うのは……」
そのとき、ぬえがむくりと起きあがる。
「言ってやれよ。性交だって」
「性交!、?」
こころが無表情で、顔を赤らめる。
「一輪もムラサも、互いの顔が急に近くに来たので、ときめいてしまったってことだろうが」
「でも女と々で……そもそも水蜜さんは幽霊じゃないか、そんなことできるものか」
「できるよ。しようよ思えば、なんとでもできるよ! 恋の道は、茨であればあるほどいい……日の光が地上を照らして幾千年。しかし私たちは地下にとじこめられた。それがどれだけみじめで、まともでいられないことか。痛みを癒せるなら、幽霊とでも夜を過ごすさ。
面霊気。地下にいるやつは、どいつもこいつも、頭がおかしくなってしまうんだよ」
「こいしが)酔ってる?」
「陶酔が私を助けるなら、酔いつづけるよ」
「いや、いや! あなたは酔いきれていないわ」
「酔いきれない! なんと言う、狂おしさ……地下の呪いだ」
「なんだか分からないが、今のふたりの感情が、私はとてもきらいだ。おまえたちは狂ってる」
「私たちだけだろうか? ……幽霊性愛癖が一、溺殺癖が一、閉心症が一、無表症が一……このようにかぞえてゆくと、いずれ百になって、すべての者が狂っていると証しされると思わないか」
「屁理屈だ!」
「理屈で狂いが計れるか。そんなことだから、能も書けないんじゃないの」
「聞いていたのか?」
「ばっちりとね……鏡の中の自分も育てないで、物語を紡げるのか。おまえは産まれたてだし、周りのやつらは善良すぎる。それではおまえのための物語は、まだ書けないよ」
こいし、よそよそしく(見える)ふたりをなだめる。
「まあ、まあ! ふたりとも落ちついて。こんな夜中に、そう騒ぎたてることもないよ。迷惑になる、いい時間だし、そろそろ解散しようよ」
(それぞれが室を出て、思い々いのところへ去る)
こころ、本堂に向かう。
祀られた毘沙門天像。威厳ある顔が正面を見ている。
こころ、舞を踊る。
「つくもの時に導かれ、
ついに有象無象の面を脱し、
小異変を起こして幾年月。
われ、まことの心と顔のあらわを求めるも。
その望みいまだ叶わず。
鵺が言う。
“なんじ鏡中にいまだあらず”
そして皆の心、
摩天楼のように立ちはだかり、
あとは嵐のように過ぎさるのみ。
舞を已めて)ああ、不愉快だ。ふたりのあいだに芽ばえた感情は、いったいなんだったのだろう。それにしても、あれはひどくどろどろとしていて、とても持ちあわせるべき感情とは思えない。その醜さ……その苦しさ……でも、どうしても惹かれてしまうものがある。
仏さま。感情があるために苦しむならば、それはなんのためにあるのか。感情がなければ、獣になるしかないとしても、なぜ体の中に、自分を苦しめるはらわたを、産まれながらに持っているのか、私にはよく分からない。教えてくれ!」
仏像は何も答えない。
「真実は自分で知れと言うわけか。まさに今! 私は神も仏も信じない者の感情を、わずかに解した気がするぞ。よろしい、では自分の足で感情の謎を探るとしよう」
こころ、本堂をあとにする。そして一輪の私室のまえに現れる。
さきほどよりもひどい雨の音。怪魔のいななきのような雷鳴まで、天にとどろきはじめる。その音にまぎれて、ゆっくりと戸に手をかける。
「小声で)見るべきか、見ないべきか、それが問題だ……すこし、すこし覗くだけでいい。中には穏やかに眠る一輪さんがいて、水蜜さんも私室で朝を待っている。それで終わりだ」
こころが音を殺して、わずかに戸を開ける。
「見るな」
そして戸の裏側で待ちかまえていた、緑の瞳に射すくめられて、固まった。
(ふたりが目を合わせたまま、十秒ほど動かずにいる)
「小声で)何か用? それにしても、こっそりと室を覗きみようなんて、どう言うつもり。あいにく私は、生きもの気配には、敏感なんだよ。死んでるから」
「……」
「おい」
「な……んで一輪さんの室に」
「ねえ、別に怒ってないんだよ。ただ私は思うんです。そう言うふうに、むっつりと黙っているのが、何よりも卑怯なやりかたなんだよ……とね」
「好奇心だ」
「ふん?」
「だから、好奇心……」
「それは満たされたの」
こころ、あわてて首を縦に振る。
「そう、なら……もう見ないで。一輪がいやがるから」
戸が閉められる。
こころは何か、怖ろしさとしか呼べない感情のとりこになって、壁にもたれると、ずるずるとへたりこんで、こう呟いた。
「なんてつめたい感情だろう……」
こころはやがて立ちあがると、門前まで足早に向かった。とにかく寺を出ようとした。それにしても、彼女は体を打つ雨が、これまでにないほど痛かった。雷の音は鞭のように、自分を責めたてているのだと思った。
しかし、あとすこしで門を潜ろうと言うときに、
「わアッ!」
何かにぶっつかって、同時にこいしが現れる。
ふたりが転ぶ。地面に叩きつけられる。
こいしが立ちあがりつつ、
「危ないじゃない!」
「すまない、見えなかった」
「うん? へへ……どうしたの。そこは“おまえが見えないのがわるい”でしょ」
「ここで何をしていた」
「さあ、分からない。気がつくとここにいた。気がついたのは今だけど」
「私は今、どんな顔をしている」
「いつもどおりの無表情だけど」
「……そうか」
「こころちゃんこそ、外でどうしたの」
「私は……自分の未熟さについて考えていた」
「どうして、どうして! ぬえさんに言われたことを、本気にしているの? あんなのはこころちゃんの青くささに、嫉妬しているに過ぎないんだ。緑の目をした魔物に煽られて、あなたをからかいたくなったんだよ」
「おまえの!」
こいしは顔に笑顔を張りつけている。まるで仮面のように。
「おまえの、その張りつけたような笑いが……本当に……きらいだ!」
「……」
「こうまで言っても、その心は動かないだろう。私はおまえが心をとざしたわけが、分かるような気がする。おまえのかつての読心の力と、この感情的な力が似ているために。
認めなければならないのは、感情は私の希望であっても、みんなにとっては、苦しみの根元であると言うことだ。感情を見るのはまことにつらく、得ようとするとなおもつらい。
私は何を見たんだろう? あんなにつめたい感情があるなんて!
(こいしに手を伸ばし)つらい、助けてほしい。ほかならぬおまえに。私の胸は張りさけそうだ」
こいし、その手をやさしく両手でつつみこむ。
「こころちゃんは宿敵と言うけれど、私はあなたを、友達だと思っているよ。
あなたには、私のように挫折してほしくない。心や感情を解そうとすれば、おぞましさからのがれられないとしても、あなたには前を向いて、生きてほしいんだ。
私にできることはある?」
「私は産まれたてだ。経験もなく、歴史もない。自分の物語を紡ぐことはできない。
だから誰かの手を借りなければならない……私の物語になってくれないだろうか?」
こいし、虚を突かれたような(見える)顔をする。
「それはつまり、私をあのスクロールに、書きとめると言うことかな?」
「そうだとも。感情を解するのはむずかしく、私はあまりに若すぎる。
おまえの鏡を借りるならば、私も物語を紡げるかもしれないだろう。
私の最初の友達よ。
私が感情を知るために、きみの心の深み、どうか一から十まで教えてくれるだろうか?
それにしても不思議な感情だ。おまえのことを知りたいなんて。
こいし……この感情はなんなのだろう?」
第二幕 第一場 四大感劇・怒(King Cruel)
ふたり、寺の中に戻る。
「着がえはすませた?」
「うん」
「こころちゃんに襦袢は似あわないね」
「寒くないか?」
「寒いよ、炬燵にはいりたい」
「雨の中で話すなんてどうかしていた。私は大丈夫としても、おまえは風邪をひかないのか」
「人間の定めた病なんて、患うものですか」
「よかった」
「こころちゃん。本当に私のことなんて知りたいの。きっと……つまらないよ」
「それは私が決めることだ」
「分かったよ。でもゆめゆめ忘れないでいて。私の瞳はとじられて、失われた想いも多い。過去はすべて、ぶつぎりであり、本当かどうかも分からない。
こころちゃんがもし、つまらないと感じたならば、夢と思って忘れてね」
(ライトが消え、また点ると、ふたりの姿は消えている。そして景色も一変して)
劇中劇の古明地さとりと、劇中劇のこいしが現れる。
山中の廃寺。こいしはその広場の倒木に、さとりは風化した石仏に腰を降ろしている。
「やつらがくるよ」
「どこにいる」
「山の麓」
「そんなに遠いのに。こいしの瞳は本当に敏感ね」
「已めてよ。誰のおかげで、僧兵に追いかけられているのよ。お姉ちゃんが近くの小村を、考えなしに襲うからじゃない」
「考えはあった。人間を誑かすと言う考えよ」
「考えって言うのは、あとさきのことよ。近ごろのお姉ちゃんはどうかしてる」
「じゃあ、私から離れる? その頭よりも大きい、邪魔くさい瞳をかかえてね」
「……」
「ねえ、何もかもあんたのためなのよ。あんたの瞳が、ふところに隠せないくらい大きくて、人間にまぎれこめないから、こうして方々をうろついて、生きながらえているんじゃなくって?」
「……嘘つき。お姉ちゃんがうろつくのは、自分の残酷趣味の生贄を、探しているからよ」
ふたりがそのうち、物陰に隠れると、劇中劇の第一の僧兵、劇中劇の第二の僧兵、劇中劇の第三の僧兵が現れる。
(狐の面をつけて、一輪と水蜜と響子が演じる)
第一の僧兵と、第二の僧兵が話しはじめる。
「第一の僧兵が)見ろ、足跡だ」
「第二の僧兵が)風水師の言うとおりでした。あるいは無駄足になるやもと、思っていましたが」
「まだ遠くに言っていないかもしれない」
「やつらは心を喰らうと言う。それをかどかわし、取りいるのです。くれぐれも独りにならないように。そして慎重に」
それぞれ完璧な武装。胸あてをして、手に短槍を持っている。
「こいしが小声で)比叡山の戦僧だ」
「心が強いわ」
「逃げよう。見て、あの鬼を踏みつける仏像のような鋼の意志。あの心をひらいて、屈服させられると言うの?」
「追いつめられたら、ときには無分別も役に立つ」
「逃げないと……」
「いや、憎悪を感じたい」
さとり、気がつかれないように第二の僧兵に手を向ける。
第三の僧兵が、第一の僧兵に話しかける。
「こころ喰らいを討ちとれば、延暦寺の武力も、さらに乱世に轟くことになろうぞ」
「ああ、近ごろひどい世の中になった。どこへ言っても、侍どもが戦、戦。どこへ言っても血の臭い。大切なのは力を知らしめることだ。ひとたび力が劣っていると侮られると、たちまち悪鬼どもの争いに巻きこまれる」
そのとき突然、第二の僧兵があとずさる
「なんだ、おまえは!」
「第一の僧兵が)どうした」
「二人はどこへ消えたのか!」
「第三の僧兵が)様子がおかしいぞ」
「仏の加護を! おまえがこころ喰らいか。はたまた別の悪鬼か。二人をどうしたか分からないが、その手際は認めよう。しかし私は、独りになろうとも諦めはせぬぞ!」
第三の僧兵、叫ぶ。
「幻を見せられているのか!」
槍を構える暇もなく、第一の僧兵が第二の僧兵に刺しころされる。
腹を貫かれて、地面に倒れこむ。
「なんと言うことを!」
「槍を振るい)おまえも閻魔の膝元へ向かうがよい!」
「已めないか! 私の顔を見ろ。ともに荒行を乗りこえた友だ。已めろと言うのが、分からないのか!」
槍がぶっつかりあい、死闘が演じられる。
それを物陰から眺めて、さとりがひかえめにくすくすと笑いだす。
「やった!」
「何をしたの?」
「あの人間は非才で、自分をほかの二人のくらべて劣っていると心の隅で信じていた。その劣等感が、幻の魔物をかたちづくる」
「……残酷」
「ほら、戦いが終わる」
やがて第二の僧兵が腹を突かれる。第三の僧兵も傷つき、疲弊して、息たえだえのありさまである。
「許せ」
「友よ、わたしは。おお……」
「目をさましたのか」
「そうです……しかし、さめずに逝きたかった。そうすればこの誤り、気がつかずに済んだものを」
「大丈夫だ。おまえは正気に戻った、名誉を取りもどしたのだ」
「傷の舐めあいは已めろ!」
さとり、どなりつけて二人のまえに飛びだしてくる。
唖然とするふたり。さとりが倒れこんだ、瀕死の第二の僧兵に近づいて、
「何を美談にしようとしているの! おまえは友達を殺したんだ。
と、も、だ、ち!
そんなの、そんなの、ただの馬鹿だよねえ」
「うう……」
「馬鹿! 馬鹿、々々、々々、々々!」
「友よ、わたしは……おお!」
第二の僧兵が、涙を流して、息を引きとる。
「死んだ! 絶望して、死んだわ!」
残された第三の僧兵が、ふらふらと立ちあがり、槍を構える。
「何がおもしろい、何を笑っている。心を弄ぶのが、それほどまでにたのしいのか!」
「身もだえし、よろこびに打ちふるえ)ふウーー……ふウーー……殺戮!」
「狂っている!」
「この見事な手のひらがえし。人間精神が私たちを残酷に創ったくせに、いざ殺すと文句を言うしかけだ」
「いつもこのようなことを?」
「そうよ。これは乱世に学んだことだけど、平穏よりも殺戮のほうが、気が利いていると思う。昔から不当にきらわれるのも、私たちの瞳のしわざ。いかに善(ヨ)く生きたところで、これではすべてがだいなしだ。ならせめて、好きなように暴れて死ね。残酷なのは産まれつきとしても、それを気がつかせたのはおまえたちよ」
「……殺せ」
「どうして、どうして! 殺されたいと思っているやつを、わざわざ親切に殺さなければならないの。戻って延暦寺に伝えなさいな。くるならこい、誰であろうと、殺してみせるとね」
「……」
「戦意喪失。つまらないわ、槍を置いてしまったら?」
第三の僧兵、去る。
こいし、物陰から現れる。
「こいし、どうして泣いているの」
「お姉ちゃん、どうして泣いていないの」
「涙なら流したわ。産まれたとき、感情まみれの世の中に押しつぶされて。そして乱世が来たり、争いや飢餓や奸計や心中を見て分かったのよ。ただ妖怪らしく振るまうべきだとね。
哀れな妹。あんたの瞳は大きすぎた。だからこそ私よりも、心を知り、そのぶん残酷にできているでしょうに。心を喰らわないのなら、なんのために産まれたのか?」
ふたり、全国を歩きまわる。
現れては殺される、延暦寺の刺客たち。さとりに滅ぼされる村々。
そして乱世が終わるころ、ふたりのもとに、劇中劇の高名な僧が現れる。ぼろぼろの法衣をまとい、手に蓮のかたちをした托鉢碗を持っている。
(般若の面をつけて、ぬえが演じること)
「初見になる。出羽三山は月山の僧である」
「延暦寺の坊主ども、ついに面子も諦めて、北の修験道まで雇ったのか」
「わたしは自分の意思でここへ来た。しかし、その背景に延暦寺のえにしあり。三人の僧兵の物語を知っているか?」
「ああ、聞いたわ。残ったやつは、首を吊ったそうね」
「お姉ちゃん、逃げよう!」
「あんたは黙ってなさい!」
「あの物語に心を動かされて、私は立ちあがった。乱世を東へ西へ、心を喰らいにふたりの覚リが現れる。そして人々を狂わせるのだ。おまえはそのさまを見て、口を釣りあげ、魂の毛をよろこびでさかだてる。まさに人非人の模範よ」
「思ったよりも分かるやつね。そう、私は人非人の模範を守っているのよ。妖怪が人間を襲っても、それは別に罪悪ではない」
「そう、逆もしかり」
「私に勝てるとでも?」
「わたしのほうが強い」
さとり、額に青筋を浮かべる。
「やってみろ、その心を暴いてくれる!」
さとりが手をかざして、乱心をしむける。しかし高名な僧の心は、まるで一本の鉄芯が支えているかのように、動かしがたいのである。
それは清くて、貧しかった。
さとりが唖然として、こいしは叫ぶ。
「そいつは貧者だ!」
「邪念がない! 信じられない……」
「わたしには豪華な法衣もなく、絢爛な寺もない。つまりは清貧の道。この世にこれより動かしがたい心はない」
そのとき突然、ふたりの足下の地が裂ける。地獄につうじる鬼門である。
「鬼門をひらく、密教の秘術」
「ちくしょう! (地に沈みこみながら)この血流の音を聞け! おまえを呪うために、八股の蛇のように猛るこの血流を! 地獄に落とせば、私が落ちつくと思うなよ。亡者どもを奴隷にして、かならず復讐のために現れてやる!」
「おまえの中には魔物がいる、その連れにも。さらば、さらば! 奈落で心を改めるその日まで……ひらいた門は、とじられなければならない。言いのこすことはあろうか?」
地の亀裂から地獄の炎が漏れだして、さとりにまとわりつく。
「……ある」
「言ってみなさい、懺悔の言葉を」
「あの僧兵が首を吊るさま、その心! この目で見たかったぞ!」
「この世の良心を集めても、その心は楽園に至れまい」
(ライトが消える)
第二幕 第二場
(そして点ると)
こいしとこころが寺の一室に現れている。
劇中劇の終わり。
いつの間にか快晴の朝が来ている。
書きとめた巻物を何度も見かえしていたこころが、不意にこいしのほうを見る。
こいしは腕を枕にして眠っている。
「話させすぎたな」
緑がかった白髪が、秋の朝日を照りかえす。
「眠っていると、かわいらしいな」
「へえ、そうなの」
「わアッ! み、み、み、水蜜さん……」
こいしを夢中で眺めているうちに、水蜜が音もなく現れる。
「その、その。昨日……」
「昨日のこと、聖には内緒だよ」
「知らないのか?」
「どうかな、知らないフリをしてくれているのかも。どちらにせよ、甘んじているけどね。私たちの関係は愛憎ありきで、傷つくことも多い」
「わるいひと……」
「幽霊はわるいのよ。私の名は悪霊」
「指をさして)そうだ、こいしの姉を知っているか」
「うん? まあ、知りあいってくらい」
「そいつは……どうだった」
「どう、とは」
「残酷だった?」
「そう言うのじゃないね。いやなやつではあるけど。
こころ、昨日はごめんね。でも妖怪には、つつしみぶかさを、期待しないほうがいい。それが幽霊ならなおさらよ。
さあ、朝の鐘を鳴らしてきます。よい一日のために(去る」
それから欠伸とともにこいしが目をさます。
「眠っちゃった」
「おはよう」
「話しすぎて顎が痛い」
「おかげでうまくいっている。おまえのことを知れて、私はたのしいよ」
「うワーーッ! 気障、々々、々々、々々。浮く、歯が、浮く!」
「朝からうるさいぞ!」
「きっと、きっと」 こいしは悲しそうに(見える)言う 「アイ・ラブ・ユー! もし瞳が見えていたら、私の顔はこころちゃんのアイ・ラブ・ユーでまっかになるよ。それこそ林檎のように」
「アイ・ラブ。ユーとは?」
「秘密!」
「なあ、おまえの感情が分からないから……おまえの過去は陰惨なのに、にこにこと笑って話すから、私は不気味に思ったよ。おまえはつらくなかったのか」
「それがいやで瞳をとじた。おかげで元気よ、いつでもね」
「……」
「時代だよ」
「ふん?」
「時代がわるかった。お姉ちゃんは乱世に感化されて、その心は妖怪の中でも、特に残酷な部類だった。でも、それは私のためでもあったのよ。
こころちゃん、信じられる? 私の瞳は産まれながらに肥大していて、それは頭より大きかった。そしてお姉ちゃんよりも、はるかに多くを“受信”したんだ。
そんな私を守ろうとして、お姉ちゃんはおかしくなってしまったんだよ。昔は理解できなかったけど、今は感謝してる……多分ね」
「直接さ! ……言えよ、姉に。私じゃなくて!」
「どうしてかな、忘れるのよ、近くにいると」
「おまえはなあ……それが残酷だよ、それが魔物だよ。おまえは宿敵、それも反面教師だな。それが分かった」
「そうかな?」
「おまえ、いつ瞳をとじたんだ?」
「それも、忘れたねえ……」
「地底か」
「うん……」
「はっきりと!」
「もう、なんなの? ……それを思いだそうとすると、頭の中に霧が出る。何も分からない。影法師の闇より迷うのよ」
「ひとつも思いだせないのか。ただのひとつも」
「うん……いや、ひとつはある」
こいし、瞳を持ちあげる。手のひらに乗るような小さな瞳。それが昔は彼女の頭より大きかったとは、こころはどうにも信じられない。
「不思議な記憶よ。私が瞳をとざしたとき、近くに誰かがいたはずなの。
私はそれを“敵”って呼んでる。
それは影のようだった。それは今でも近くにいる。しかも“とても”近くにいる……多分ね」
「それは……地底の誰かなのか?」
「だからさ……霧よ」
……。
「なんだか奇妙になってきたぞ。おまえの物語は、どうやら私が思っているよりも、謎めいているのかもしれない。
(芝居がかって)智霊奇伝! とでも呼んでみよう」
「それは、それは。謎が多そうな……」
「さあ、地底に行こうか」
「えっ」
「地の底を見たければ、掘りかえすとも。謎の深きをくつがえしたければ、暴くとも。おまえの物語を心へ残るものにするために、さらに明かし、語ろうじゃないか」
「そう、行ってらっしゃい。私は眠いので」
「早く着がえろ、おまえも行くんだよ!」
「ああ、ああ。協力するの、已めておけばよかったかな」
第三幕 第一場
洞窟より。
妖怪の山から地底に通じる。
てらてらとしめり、ひかる岩壁。
こいしとこころ、その通路を降りてゆく。
「本当にこんなところがあるなんて」
「信じてなかった?」
「信じるしかない、こうして目にしたならば。それでも悪夢のようではある。あるいは幻想郷が、実は巨象の上にあり、地底はその腹の中なのかもしれない」
「なら地底の者は巨象の寄生虫ね」
「そんなつもりで言ったわけじゃない」
「冗談よ、多分ね」
洞窟の出口に差しかかるとき、黒谷ヤマメが糸で吊りさがってくる。
「珍しい顔、つまり知らない顔。おまえは?」
「……こいし」
「おまえのことはよく知っているとも」
「私の名前はこころ。面霊気、そして能楽師」
「それは、それは。在るは無く、無きはかずそふ、影の国へ。地上の高貴な妖怪がなんの用だろう」
「あなたはどうして、悪意にまつわる感情をにじませているのか?」
「もちろん喧嘩をふっかけるつもりでいたからだ」
「乱暴者だ!」
「そう。喧嘩もよろしい、火事もよろしい、ここではね。でも地霊殿のあるじ、その妹の友達となると別だ。今は権力に負けるとしよう」
「こころちゃん、こいつは……」 こいしが口ごもり 「こいつがどう見える? 阿片と蜘蛛、阿片と蜘蛛……」
「阿片の妖怪じゃない。私は毒物の使い」
「不気味な比喩だ。あなたは何者か?」
「この場合は、この私こそが、最初に阿片を持ちこみ、最初に阿片を育て、最初に阿片を売ったのだと、答えるのが正しいね。
古来より薬は毒に、毒は薬に転じる。私は毒にあかるく、ゆえに薬も知っている。それは表裏一体なんだ。毒にも薬にもならないのが、何よりつまらないこと。 (阿片まじりの煙草を取りだして)ひとつ、どうぞ。いずれ、贔屓に」
「いや、昨日も使ったよ。でも効かなかった」
「そう、それならーーー
「話しが長いよ! こころちゃん、行こう!」
こいし、痺れを切らして先へ進む。こころが追いかけようとする。
しかしヤマメに肩を捕まれる。
「うワッ。危ないじゃないか!」
「ごめんよ、聞きたいことがあったんだ」
「なんです?」
「おまえはこいしのなんなんだ。もしかすると……大切にされているとか」
「大切!、?」
「こころちゃん!」
こいしが先で呼びかける。その顔はヤマメから見ると、まるで寂しがっているように思われた。
「ふうん」
とヤマメが呟く。それからこころの耳元に顔を寄せる。
「なあ、今後を考えて公平にしようか。
ひとつ教えておくと、じつのところ私の生涯の目標と役割は復讐なんだよ。 (肩を押して)行け。忘れるな、復讐だ。おぼえておくと、何かを失うのも、避けられるかもしれないよ(去る」
こころ、こいしの傍へ向かう。
「何を話していたの」
「なんだかよく分からない。あの妖怪、変わってる」
「おかしなことは、吹きこまれなかった?」
「おかしなことって」
「いや……別に」
ふたり、洞窟を抜けて地底に至る。
「あの橋が橋姫の気にいるところ。その先が貧民区、昔は住んでいた。その奥の街の、さらに進んだところにある屋敷が私の家なの」
「あの街の明かりはすばらしいな!」
「鬼火だよ、あの光のみなもと。この世にあれよりもつめたい炎はない」
「あの動いているのは?」
「あれは骨だけで動く犬。骨犬」
「そのままだな!」
「あの犬でみんな、鍋の出汁を取るんだよ」
「この足元の花は?」
「吸霊花。触れると寄生されて、やがて死ぬ!」
「さきに言えよ!」
「アハハハ、ハハ……」
「笑うな」
「こころちゃん、たのしそう」
「そうだろうか?」
「なんだか私もたのしいよ!」
「それは嘘だ、おまえはたのしんだりはできない」
「そうだとしても、笑顔はできる。心だけじゃなく、顔まで動かなければ、道ばたの石ころと同じ。今の私は表情だけで、自分を確立しているの」
「そう言われると、耳が痛いな。私はそれと逆だから」
「見つかるよ、表情くらいさ! 手が届くところに」
「無根拠だな、でも信じてやる」
「根拠はあるよ! 私たちの手は短い、こんなにも。それでも何かが日に々に手にはいる。それって本当はなんでも近くにあるからなんだってさ」
「なら手ごろなところから、案内してもらうとしよう。さあ、どこへ行こうか」
こいし、悩むように(見える)うなる。
「うん、うん。そうね、私の家に行こう。お姉ちゃんに紹介するよ」
「や、や! それは、なあ……已めないか」
「ふん、怯えてます?」
「別に怯えてない! 勝手に決めつけるのはよくないな」
「大丈夫だよ、お姉ちゃんは丸くなった。それに気も合うと思うよ。
お姉ちゃんはこころちゃんのように、単純な子が好きだから……多分ね」
こいしがこころの手を引いて、地霊殿に向かう。
第三幕 第二場
ふたりが地霊殿の門をくぐると、猫が現れる。
闇に溶けこむような毛なみ。煉炎色の双眸が、ふしぎそうにこころを眺める。
「ただいま」
猫が返事をするように鳴いたあと、こいしの足もとに擦りよってくる。
「友達をお姉ちゃんに引きあわせたいの。執務室だよね? 珈琲をみっつ、いそいでね」
「猫に珈琲が入れられるのか」
「こころちゃんよりは上手だと思うわ」
猫が去ると、ふたりは廊下を歩きだす。
「落ちつかないな。この異邦の建築は」
「お姉ちゃんの趣味よ。生活にうるさいんだ。神経症なのよ。男の人のように、やたらと物を耽溺するんだ。衣服を除いて」
「これらに金を使わなければ、すこしは遠目に見えた貧民区もよくなるだろう。と聖は言うだろう」
「そこでお姉ちゃんが“どうして私がそんなことを? 分けあうのは趣味じゃない”と言うわけよ。フフフフ……搾取が好きだからね」
室のまえに辿りつくと、こいしがドアを叩く。
「中から)どうぞ」
「ドアを開けて)ただいま!」
ふたり、室にはいる。
「抱きついて)元気にしてた?」
「額に接吻して)それなりよ、その子は誰?」
「友達!」
さとりとこころが、こうして邂逅した。しかし、それはよい巡りあいとは言えなかった。
こころがもとより、さとりによい印象をいだいていなかったのは別として、何よりの原因は、その額への接吻を見たとき、彼女の心中で、火花が散ったからである。彼女はそれに混乱した。
「へえ……緑の目をした魔物」
「こころが)何?」
「なんでもありません。私のよくもわるい癖で、他者の心を見たついでに、その弱点を探しまわる。
さあ、ふたりとも座って。そのソファにでも」
やがて赤髪の下女(とこころは推測する。少なくとも、猫には見えない)が珈琲を持ってきたあとさとりが言う。
「残酷なこころ喰らい」
心中を見すかされて、こころがびくりと肩を震わせる。
「こいし、余計なことを教えてくれたわね」
「みんなが知っているでしょう?」
「そう、地底ならね」
「なるほど……心を読まれると言うのは、こう言うのか」
「得意そうに)どうです?」
「ふしぎな感じだな。でも別に怖れるほどのことでもない」
「それはあなたが善良だからです。普通は誰しも隠しごとがあり、それは別にわるいことではありません。ただ覗きはいやがるのです。体で言えば、恥部と同じ」
「分からないな」
「秦さんのことはこいしから聞いたことがありますよ。友達だとね」
「私もあなたのことを聞いている」
「心を読んで)アハハハ……高名な僧ね。そんなこともあった」
「震えあがるほどの逸話だ。残酷なる……乱世の妖怪伝説」
「あれはあれで愛嬌がある、そうでしょう。私の青春だったのです。
そう、秦さん。大丈夫です。私はきらわれなれている。好くもきらうも、心のままに。ただ分かってほしいのは、あなたの名前と、この“こころ喰らい”のあざなは、偶然の一致でしかないと言うことですよ」
「それはそうだよ。こころちゃんはお姉ちゃんの、怨敵でもないのだから」
「そう言うところに因果を感じてしまうのが心なのよ」
「どうやら私は、あなたに怯えすぎていたようだ。
あなたは私を安心させようと、よく話してくれている。そして親切の感情を発している。だからあなたは信用できる」
「そうですか? あまり信用しないほうがよろしいですよ」
「出ました、妖怪アマノジャク! こころちゃん、照れかくしなんだよ」
「さとりさん、こころでいいですよ」
「こころさん」
「うワッ。おどろいたなあ、急に呼ばないでくださいよ」
「アハハハ……あなたは本当に素直だ」
しばらくこころが地底に来た理由、巻物のことや、単なる談話が続く。
そして珈琲が尽きたころにこころが言う。
「こうして話していると、昔のあなたが残酷だとは信じられない」
「今でもそれなりにと言う意味で残酷ですとも。ただ地底に落とされて、身の振りかたを変えたのです。人間がいなければ、残酷さも意味がない。それは妖怪だらけの地底では、なんとも無駄なことですよ。それを知って、私の青春も終わった……あのころは随分と荒れましたよ」
「昔のほうがよかったと?」
「どうでしょう。そう言うのは往々にして、昔の自分が情熱的だったので、世の中が輝いて見えていただけです。歳をかさねると、目が曇りますから。地底に降りて、平穏を得ましたが……妖怪の退屈な心に失望したのも本当です」
「……」
「こころさんは、感情に失望したことはありますか」
「ある、じつは……昨日のことです。あなたのよくもわるい癖と同じで、他者の感情を覗こうとした。そして負けた。私は幽霊に慎みぶかさを期待してしまったんだ。でも今に思うと、勝手だったのかもしれない」
「悪霊と言うやつは、最良の者でも、ただ無害なだけに過ぎない。わるいことはしても、よいことはしない」
「水蜜さんは、自分たちの関係が、愛憎ありきと言っていた。恋が悲しみをいやますと言うのなら、どうして離れないのだろう?」
「分かりませんよ。でもあなたでさえ苦痛を承知で、感情の深きを求めているでしょう? あなたがスクロールにそう願うように、これまで心とか、感情とか呼ばれている、わけの分からない曖昧なことを解するために、飽きもしないで星の数ほどの物語が創られてきた……今でも。
そして、それこそ心と感情を解しきれない証しです。もし解しきれてしまったら、新しい物語を紡ぐ必要もないのですから……と、私は考えます。
でも天より高いところにある、暗黒の砂漠よりもさらに広い、心の謎がいつ分かりきるのか……誰よりも心を知っている私でさえ、それを重荷に感じて、ときには怖ろしくなる。
あなたは感情を怖れないのでしょうか?」
「つらくはあっても、怖れたりはしない!」
「なら怖れてしまったら、そのときは……」
こころ、こいしの肩を抱きよせる。
「友達が私を助けてくれる」
そのとき一瞬でこいしの顔に血潮が昇り、
「馬鹿!」
こいしが立ちあがって、室を飛びだす。
「こいし!」
「照れちゃったのよ」
「照れる? こいしには無理だ。感情もいつものように、分からなかった。追いかけないと! どこかに消えたら、見つけだすのも一苦労だ」
「まあ、待ちなさい。場所は分かる。地霊殿の屋上ですよ。こう言うときはいつもそう」
「あいつの心が読めるのか」
「いや、でも家族だから魂で分かる……多分ね」
「そう、じゃあ行ってきます」
「まあ、まあ! 待ってください、気が早いですよ。それより私と話しましょう、伝えたいことがある。こいしは……もし探さなくても、あなたのところに戻ってきますよ」
こころ、まごついて言う。
「しかし……今の私はこいしが近くにいてほしいんだ。とても、なぜか」
「それです! まさにそれの正体を伝えようとしていたのです」
そしてさとりは、心を込めて、それを伝えた。
「よろしいですか。こころさん……あなたはこいしが好きだ」
第三幕 第三場
その言葉はこころの内へ“気づき”として、一筋のいなびかりのように走りぬけた。
それを簡単に受けいれられるわけがなく、こころは理論で反駁しようと試みた。
“こいしは私の宿敵だ”
“感情を求めている私が、あの無感情なこいしに惚れるはずがない”
しかし、その理論は肺の中で空転した。
恋を否定するための言葉も、まるで出口を拒んでいるように、喉でつっかえる。
こころは魚のように、口をぱくぱくと開け閉めするよりほかになかった。そして彼女の心は、感情の中でも、特に大きな苦難を呼びこむとされる“それ”に囚われたのである。
「恋!」
「ごめんなさい。でも春の種子が芽ぶかずに、萎えてしまうよりさきに、教えるべきだと思いました。あなたは自力で気がつこうにも、あまりに幼すぎたので」
「なんてことを! あなたは怖ろしいことを教えてしまったぞ」
「感情を怖れたりはしないのでは?」
「それとこれとは話しが別だ! 私はなんと言う……まさかこいしに……よりによって……しかし感情を認めないわけには……うう……消えろ、々えろ! つかの間の炎! 心を這いまわる、影法師め!」
「私はうれしく思っていますよ」
さとり、諭すように言う。
「誰かがこいしに恋をするなどありえなかった。誰からもきらわれると言う、私たちの宿命のために。こころさん、気がついていますか? 近ごろのあの子は見えやすい。しかも“とても”見えやすい。
私は確信を込めて言う。あなたがこいしの心をひらく」
「……」
「でも困難もあります。こころさん、どうして私たちがきらわれるのか分かりますか」
「心を読むからだ」
「それは理由のひとつです。真の理由は、私たちが産まれながらに、過剰なまでに残酷だからです。
それが私たちを他者とへだて、心を自家中毒に陥らせる。あなたがこいしに恋を望むなら……あなたはあの子の残酷さと、向きあわなければならないわ。そして用心しなさい。あなたも心にまつわる妖怪です。その心にも、残酷の魔物が潜んでいるわ」
「何がなんだか……私はどうすればいい?」
「今はただ、あの子へ素直に想いを伝えてあげて」
「……やってみる!」
こころが去る。それからさとりはふところから、阿片まじりの煙草を取りだして吸いはじめる。天井に昇る煙を見つめながら、こう呟いた。
「なんの本に書いてあったっけ……“そして市民は彼等をけしかけ、いがみあわせることを罪悪とは思わない”か」
さとりが手を叩くと、猫が現れる。
「ヤマメを呼んできてほしいの。それもふたりに気がつかれないように。
そして“さとりが復讐を助けると言っていた”と伝えなさい。
くれぐれも、ひそひそとね」
……。
地霊殿の屋上より。
こころが街を眺めているこいしに、うしろから話しかける。
「こいし」
「遅いよ、待ってたのに」
「何から話すべきなのか……」
「どうしたの?」
「単刀直入に言うと、私はおまえが好きらしいんだ」
こいしが振りかえる。
その顔は、わずかに赤らんでいる。
こころはそのさまにときめいて、思わず目を逸らしかける。それを堪えて、彼女は一心に見つめかえした。
「私には分かってた。そんなことは、心が読めなくても分かること。恋は心じゃなくて、魂で感じることだから!」
「私の恋を感じるか」
「……どうかな」
「そう、なら教えてやる。回りくどいのは苦手だ」
「教える?」
「こんなふうに」
こころがこいしに駆けよって、肩を抱きよせると、熱烈に口づける。
制しきれない想いが、理性の垣根を乗りこえて、こころを“それ”に突きうごかしたのである。
ふたりの唇が離れる。
「こいし。育ててほしい、この感情をともに。
私は見てきた感情のすべてを、おぼえているわけじゃない。
感情は世の中に溢れすぎていて、かたちは消えて忘れられる。
それでも分かるんだ。
この感情は失われないと! 何があっても。それを魂で分かったんだ」
こころが巻物を取りだす。
「教えてほしい、おまえのことを」
「こころちゃん!」
こいしが満面の笑顔で言う。それは仮面の笑顔でしかないけれども、たしかに笑顔なのである。
こころに向けた、最高の笑顔。
「どうした?」
「好き。いつまでも一緒にいてね!」
……。
執務室より。
こころとこいしが逢いびきをしているさなかに、さとりのもとにヤマメが訪れる。
「……」
「あなたはこう考えていますね。こいつは何を考えているのだろう。これは罠なのかもしれない。あるいはついに、妹に仲のよい友達ができたので、これまで恩情で見のがしてきた私を始末するつもりなのかもしれない」
「復讐を手つだうってのは、どう言うわけだい。おまえは妹のことを、大切にしていると思っていたんだけどね」
「大切ですよ」
「まあ、いいさ。どんな心がわりかは知らないけど、おまえが復讐の手つだいをしてくれるなら、それ以上のことはない」
「こころさんを知っていますか?」
「ああ、さっき見たよ」
「ふたりは今から、恋仲になります。多分ね」
「へえ」
「でもこころさんは、こいしの本性を知らずにいる。こいしのほうでも、それを教えずに済ませようとするでしょう」
「それはそうだ! 誰が好きこのんで、恋人に醜い部分を見せるものか」
「でもそれが、あなたの復讐の好機を産む」
「いいんだな、本当に? 私が何をしても」
「好きにしてください」
(ライトが消えて)
第三幕 第四場 四大感劇・哀(Poison is Medicine.Medicine is Poison)
(ふたたび点ると)
街の外にある、地獄の荒野に墜落した星蓮船より。
劇中劇のこいしと、劇中劇の水蜜が現れる。
水蜜が火の灯った、阿片まじりの煙草を手のひらで弄びながら、呟くように歌っている。
「ラ。ララ。ララララララ。ラララララ、ラ、ラ、ラ。ラ」
「なんの歌?」
「無視して)こいしさん、この地獄の荒野を見てよ」
「ああ、荒野。広すぎる地獄の、使われず、忘れられている無駄な土地。それがどうしたの」
「この地の獄は。
人間とのつながりをなくした、
ぼろぼろの数珠。
糸はとぎれて、
あちらにこちらに飛びちって。
どこへ消えてしまった
ララララ、ララ」
「その煙草は何? まえは吸っていなかったよね。なんだか邪悪な臭いがする」
「近ごろ地獄に降りてきた、ヤマメと言う妖怪が売っている。まあ、まじないの一種だね。いつも一日でも……日月の光のない地獄に、一日があればだけど……暴れているやつが、これを使うと、途端に静かになるんだよ」
「どおりで深海のような深いところで、いつも何かに憤っているその心が静まっている」
「こいしさんには都合がよくって? あなたは心を読むために、みんなからきらわれている。そのみんなの心が落ちついてくれるなら、それ以上のことはない」
「水蜜さんは……どうして私がいても平気なの」
「今や体を失って、魂がむきだしにされているのに、読心を怖れるわけがない。これは持論だけど、心よりも魂を見られるほうが、恥ずかしいと思うよ」
「一輪さんのほうは、私が好きじゃないと思うわ」
「結局のところ、それは生きているやつに、心の余裕があるからよ。私のように死んでいると、自分がきらいできらいで、誰かを憎悪するための心の余分がないんだね……あいつは人間に近いから」
「知っている? 心の中には、影のような魔物が住んでいる。敵と々とが同じところにいなくたって、その影はつねに相手を殺そうとしているの
呪いのひとつに、藁人形があるけれど、なんてことはない。あれは覚リのやりくちの同じよ! 影を飛ばして、刺しころすんだ」
「へえ……」
「乱世はそれはもう、心に凶悪な影を飼っている人間も多くてさ! とてもそれは残酷で……でも……。
思いかえすと、恋をしている人間を見るのだけはたのしかったな。その想いだけは見ていても、夏夜の虫が眠りを妨げないように、私の心は落ちついてくれる。
そう言うときなら、私は心ってやつを……すこしだけ……好きになる」
「黙々と煙草を吸って)……」
「水蜜さん?」
「えっ。何よ」
「聞いてよ!」
「どうも阿片で、ぼうっとして」
「退屈なひと」
「退屈でけっこう……矛盾だね」
「何が……」
「あんたがどんな時代から降りてきたのかは知らないけど、それはあんたにとって、気苦労の多いところだったんでしょう? どうして退屈をよろこばないの」
「……」
「まあ、仕方がないね。結局のところ、妖怪にとって、平穏は争いの準備期間に過ぎないんだ。私たちは、そう言うふうに創られている」
「私は信じない」
「退屈だね。一輪も帰ってこないし。このまえ喧嘩しちゃってさ。むしゃくしゃして、殴ったのよ」
「最悪」
「でも一輪も私を殴るよ。おたがいさまってやつね。ほら、それが妖怪だ……フフフフ、一輪に殴られると、痛いのよね。好きだからだけど」
「私はそんなふうにはならない」
そのうちこいしは、ねじろの貧民区に戻ることにした。
こいしを見た妖怪たちの目が、無条件で彼女を怖れる。
それにしてもこいしにとって、性格は別として、水蜜ほど話していて気楽な相手はいない、と言ってよかった。
周りはこいしに、本性を暴かれることを怖れるけれども、それは彼女にとって日常の雑音が増えるだけであり、わざわざ興味のない相手の弱みを、おぼえているわけがなかった。
こいしは妖怪に興味がない。その心の多くが、人間よりも、ある理由で劣っていると、信じているために……。
「ワッ!」
歩いていると、不意に誰かと肩がぶっつかって、こいしが悲鳴をあげる。
「ごめんよ」
こいしが相手の臭いに、思わず鼻をつまむ。
「くさい! このできそこないの、砂糖のような臭い。いや、待って……これは水蜜さんが吸っていた“あれ”と同じだわ」
「私に染みついている香りが気にいらなかったかな? 誰よりも阿片と一緒にいるからね」
こうしてこいしと、劇中劇のヤマメが接触したのである。
第三幕 第五場 四大感劇・哀(Poison is Medicine.Medicine is Poison)
「その言いぐさ、その心。あなたがあの邪悪な薬を売っている妖怪」
「おどけて)邪悪! そんなふうに言われるなんて。あれを地獄に持ちこんでから、感謝はされても憎まれはしなかったのに」
「別に憎くなんてない。すこし気にいらないだけ。みんなに心の麻酔あそびを教えて、どう言うつもり?」
「その横に浮かんでいる、大きな瞳。聞いたことがあるよ。このあたりに住んでいる、覚リの噂。
やつらが来たら、
姿を隠せ、
でないと心を、
喰われるぞ」
「そんな噂に怯えるような心は、別に喰らう価値もない。ぶよぶよでまずいから」
「たしかに! まず自分の心の値を知るべきだ」
「それで、なぜ麻酔あそびを?」
「すさんだみんなの心のためでございます」
「睨んで)……」
「信用しなよ。心を読めるなら分かるだろう、私の言葉に嘘はないって」
「たしかに嘘は言っていない。なんの邪念もない。でもだからこそ不安になる。あなたが薬を善意だけで作っているとでも?」
「善意だけとは言わないけど……困るね」
そこでヤマメが思いついたように言う。
「おもしろいね。そこまで私の薬に興味を示すやつは珍しい。気になるのなら、物は試し……名前は……」
「こいし。私に阿片を吸ってみろって?」
「そのとおり! 私はヤマメと呼ばれている、よろしくね。それにしても、便利な力だ。
まあ、まじめ必ずしも身のためならずさ。公平にしようじゃないか。何ごとも試しもしないで非難することこそ、邪悪の親戚だとは思わないか。邪悪と言うより、邪推と言うべきか」
「……口がうまいね」
「そうこなくっちゃ!」
ふたりが歩きだす。
痩せた妖怪たちが闊歩する、貧民区の迷路を抜けて、やがて蜘蛛の巣まみれの一軒家に辿りつく。
「家の戸を開けて)家を買ったのさ。阿片を売った金で。いずれ店に改築する。そして畑も……まあ、睨むなよ。たしかに私は金も土地も欲しい。しかし、それもみんなのために過ぎない。さあ、座ってくれ。そのあたりの椅子にでも」
こいし、埃まみれの椅子に座る。
それからヤマメが戸棚から、阿片まじりの煙草を取ってくる。
「手わたして)どうぞ」
「受けとって)どうも……」
「さあ、くわえて。そう、火を灯すよ。ゆっくりと吸いなさい、むせるからね」
「ふウーー……」
「どうかな?」
「ふん、どう言うの」
「気分はよくならないのか」
「いや、特には」
ヤマメ、うなだれる。
「そうかい、自分なりに作ったんだけど。もとより私たちの器官は鈍い。効かないやつも多いんだよ。所詮は医家のまねごと、これが限界か」
「おどろいた。その心、本当に善意だけで薬を作ろうとしているのね。いったい何があなたを駆りたてるの」
「私は地獄が気にいってね」
ヤマメが自嘲ぎみに笑う。
「恥ずかしいことに、私は人間と争うのは、別にきらいじゃないけれど……まあ、面倒になってしまったんだな。
殺せば追われ、追われれば殺し、そのくりかえし。それで地獄に降りてきた。
そんな私にとって、地獄はまあ、思ったよりもわるくない場所さ
なのに地底の妖怪どもと来たら! 人間が恋しいのか、いつまでもうじうじと、眉間に皺を寄せている。辛気くさくてたまらないったら!
まあ……それをなんとか……私の力で変えてみたいのさ」
「あなたは、本当に……」
こいしが堪えきれずに笑いだす。
「変わってるわ! アハハハ、ハハ……」
「笑うことないだろう」
「だって……クククク、ググ……」
「でも、それだよ」
「ふん?」
「その笑顔があふれてほしいのさ」
「本当に阿片で地獄が豊かになると信じているの? あれはどう見ても、毒じゃないの」
「感覚が麻痺して、惚けきったやつらには、わるくない薬だ。
でも困ったことに、おまえのように、不感症なやつも多い。そこで、これだ」
ヤマメが青い薬液のはいった瓶を持ってくる。
「それは……」
「霊薬さ」
「でも未完成ね」
「おどろいた。詳しいのか?」
「いや……分かる」
こいし、魅了されたように霊薬を見つめる。
「私が心にまつわるからか……感じるわ。これは心に作用する、あらゆる薬が詰まってる」
「阿片のほかに、ダヅラの歯、彼岸花の毒、ほおずきに水銀。さまざまな物を、とろりとろりと煮つめてある」
「まるで私たちの力が、薬に押しこめられているよう」
「力?」
「心を溶かす、覚リのまじない。それは呪いの力なんだ」
「あとすこしで完成しそうなんだけど、うまくいかないのさ」
「ねえ」
「うん?」
「手つだおうか」
ヤマメ、目を丸くする。
「私は薬も毒も分からない。でも心のことを知っている。
あなたの薬が心に及ぼす作用、それを私が教えるよ」
「それはうれしいけど、また急な心の変化だな。おまえはこれらを、邪悪だと言っていたじゃないか」
「あなたの本気に、心を動かされたのよ。それに……」
こいしが言いよどむ。
「それに?」
「近ごろどうにも、退屈でねえ」
……。
「あざわらうように)退屈ねえ」
「何よ」
「本当は懐かしいんでしょう?」
「だから、何よ」
「あなたはあれほどきらいだった地上の残酷と人間の心が懐かしいんだ。それがあなたを退屈させる」
「見すかすようなことを言わないでよ!」
「あなたは知ってしまったんだ。妖怪ばかりの地底に降りてきて、私たちの心が、人間よりもすかすかにできていると。
人間たちは残酷さのほかに、心にさまざまな色を持っているのに、妖怪の中身と来たら、どいつもこいつもひどい! 私たちの中身は残酷さでいっぱいだ!」
「そんなことは、お姉ちゃんを見て、とうに知っている。でも妖怪が誰かをくるしめるためだけに産まれたなんて、私は信じない。
私は……おねえちゃんとはちがう」
「信じてしまうように、なってしまったら?」
「……とても瞳を開けていられない」
……。
「おい」
「……」
「おい!」
「えっ……どうしたの」
「おまえは急に何をぶつぶつと、独りごとを言っているんだい?」
(ライトが消えて)
第四幕 第一場
(また灯ると)
地霊殿の屋上に、こいしとこころが現れている。
饒舌に語っていたこいしが、急に黙りこむ。
「どうした、続きを話してくれ」
「こころちゃん、こうして話してみると、自分のことを一から十まで語るのは、意外と難しいね。
誰でも潔白ではいられなくなる。でもそれを避けようとするほどに、私たちは誰かをうらぎるような感覚に、苦しめられなければならない」
「私は周りくどい言いかたが好きじゃない。はっきりと言ってくれ」
「このさきを聞いたら、私に失望する」
「何を急に。そんなことはない、絶対に!」
「不安なのよ。口よりも雄弁な心の声が、今の私は聞こえないから。
こころちゃんは私が好きで……何があっても受けいれてくれる。それを信じたいのに」
「でも信じない?」
「別にこころちゃんはわるくない。私に勇気がないだけよ。臆病者だから」
「なら私のためだけに、心をひらいてくれないか」
こころが無表情で、けれども鋭くこいしを見つめる。
「おまえの感情を見せて、私の心を見てほしい。
そうすれば私のまことを証しできる。絶対に口さきだけじゃないと!」
「こころちゃん……ありがとう。本当にうれしい
。私のような厄介者が、あなたと恋仲になれたのは、本当に恵まれていると思う」
「なら……」
「でも無理よ、だってーーー
そのときふたりのうしろからヤマメが現れる。
「やあ、やあ。どうした? そんなに肩を寄せあって。なんだか洞窟で会ったときよりも、十倍も仲がよさそうだね」
ふたりが振りかえる。
「ヤマメ!」
「おどろいた! ヤマメさんは、どうして地霊殿に?」
「用があってね」
「じつは“十倍も仲がよさそうと”言うのはまことに正しい。私たちはさきほど、恋仲になったんだ」
「それは、それは! (拍手)よろこばしいね。おめでとう、若者たち」
「ありがとう!」
こいしは急に、むっつりと黙りこむ。
「どうした、こいし? そんなふうにしかめっつらで私を見て」
「別に」
「せっかく恋仲になったんだから、笑顔でいなよ。
それにしても丁度よかった。じつのところ、私は面霊気が、阿片に興味があると思って、ほかの薬を試さないか、聞こうと思っていたんだよ。いや、洞窟では気を利かせなくてわるかったね。
じつは私は、貧民区に店を構えているんだよ。しばらく開けていないから、埃まみれになっているかもしれないけど。
どうかな? 私の店で恋を祝ってみるのは」
「なるほど。昔とちがって、今は店ができているんだな」
「昔?」
「じつは今、ヤマメさんのことをーーー
「こころちゃん!」
こいし、こころの言葉を遮る。
「無闇に私の過去を話さないでほしいな。こころちゃんを信用しているから、こうして語っているのに」
「そうだな、迂闊だったよ」
「なんだか分からないけど、それで店にはくるのかい、こないのかい」
「私は言ってみたいな。阿片の店か。興味が湧いてきた。怪しい薬が並ぶ、魔女の家のような店。蜘蛛の巣が誰かをまじないでからめとる。なんだか身ぶるいしてきたぞ。自分の想像力の豊かさに。こいしはどうしたい?」
「こころちゃんが、そう言うなら……」
「からからと笑い)期待しすぎないでよ」
「それにしても、ヤマメさんはどうしたのか?」
「ふん?」
「あなたの中には、ふたつの感情がひしめいている。ひとつはいかり、そしてうしろめたさ」
「じつはさとりに頼まれごとをされてね。そのたのまれごとの難儀さが、私の心を乱すのさ。こいし、おまえの姉は本当に面倒なやつだよね」
「お姉ちゃんが、何をたのんだの?」
「それは内緒。知りたければ、心を読みなさい」
「できないのは知っているくせに!」
「ハハハハ、ハハ……そうだったかな」
貧民区へ移動する。
妖怪たちが闊歩している。
酒の匂い。阿片の香り。風呂屋から嬌声が聞こえてくる。
「面霊気は私から離れるなよ、新顔は何をされるか分からない」
「しかし、みんなにこにことしていて気がよさそうだ」
「顔だけだよ。どいつもこいつも笑っていても、悪党の場合があるから、用心しなさい。気がよさそうってのは、たしかだけどね」
「こいしが)そうね。あなたのような悪党には用心するべきよ」
「ふん、そのとおりだな。フフフフ、フフ……ほら、店が見えてきた (指をさして)あれが私の店……“黒後家蜘蛛の店”だよ」
店のまえに辿りつく。
小商館の風貌。窓からさまざまな薬品が並べられた、戸棚が見える。
戸に“気分でOpen。普段はClose。今はClosed”と書かれた看板が引っさげられている。
ヤマメがその看板をはずさずに、戸を開けると、ふたりを招く。
「その英語は知っているぞ、開け閉めってことだ。はずさないのか?」
「今や地底に阿片は満ちて、栽培しているのは私だけじゃない。この店の役割は、すでに終わっているんだよ」
ヤマメがふたりを手頃な椅子に座らせる。
それからウヰスキーと、透明な薬液のはいった瓶と、みっつのグラスを持ってくる。
ふたりに少々、自分に並々と注ぐ。
「さあ、恋する者たちよ。おめでとう、ふたりのこれからに乾杯だ!」
「こいしに!」
「こころちゃんに」
グラスが軽く、ぶっつかりあう音が響く。
「阿片は……」 ヤマメがひとおもいに、ウイスキーをひとおもいに飲みほすと 「ふウーー……天狗の中でも空を飛んで、毛唐の国に智恵を求めた、渡りの天狗が持ってきたのが、始まりだと聞いたことがある。一種の天狗伝説には天狗が南蛮人だと言う異説もある。渡りの天狗が舶来品をこのんで身につけていたらしいから、そんなふうに曲解されてしまったのだろうね」
ヤマメ、透明な薬液のはいった瓶を見る。
「これが何か分かるかい」
「……霊薬?」
「そのとおり! 賢いな。それともこいしから聞いていたのかな?」
「そうです。でも青い秘薬だと聞いていました」
「それは未完成のころの話しだね。これはすでに完成している。およそ失敗作はさまざまな色に変わったが、これは完成したときに、ふしぎと色は抜けて、純水のように透明になった。美しいだろう。私の最高傑作だ! これなら阿片の効かない不感症なやつも、存分に酔えると言うものさ」
ヤマメが霊薬をこころとこいしのグラスに垂らす。
「さあ、おまえもそれを飲んでみなさい。そして喜怒哀楽がごちゃごちゃに混じりあう、はちきれそうな情緒のしらべを歌うのだ」
「ヤマメ、あなたは忘れてしまったのか? その霊薬が、かつて何をもたらしたのか」
「おぼえているとも。この薬のために、みんなは単細胞の馬鹿になってしまったんだ。でもそれは、使いかたがわるかったと言うだけのこと。わずかばかりを使うなら、なんの問題になろうかね」
「ふたりとも、なんの話しをしているんだ」
「昔のことだよ。まだ鬼は地底に現れず、こいしの姉が、まさか地底のあるじになるなんて、考えもしなかった時代の話し。
この霊薬は、たしかに効いたが、同時にそれは強すぎたんだよ。ようするに、この薬はできがよすぎて、妖怪さえも中毒になるほどの魅力があったのさ。これは蔓延し、貧民区を滅茶苦茶にした。今は解毒薬を作って……過去の喜劇になったけど。
まあ、地上の妖怪にはなんの関係もないことだ。それにこいしも。これは私が作ったもので、おまえにはなんの関係もない。そうだろう? どうしてそんなふうに、悲しそうな顔をするんだい」
「別に……」
「おかしなやつだな!」
こころ、グラスに口をつける。
「お、お、お、お」
不意に頭の中がくらくらとして、陶酔の波に飲まれゆく。目の奥が刺激されて……体から神経が伸びて、周りのすべての物事とひとつになったように錯覚する。
その幸福感と言い、酔いの感覚そのものと言い、それはこころがこれまでに、味わったことのない部類の感情だった。
「不思議な感じだ……これが酔いなのか……この感覚は、味わったことがない」
急にこころの周りに、数々の面が現れる。それが闇雲に店内を飛びまわり、壁にぶっつかり、薬品類を薙ぎたおし、彼女の意思とは無関係に暴れまわる。
「なんだ、これは。面が言うことを聞かない!」
「ウヒヒヒ、ヒヒ。笑えるな、じつに!」
「こいしも飲もう! 頭の中で風鈴の音がする、秋なのに。最高の気分だぞ!」
「私は……飲まない」
「どうして、どうして!」
「今は飲まない。私は……その薬がきらい」
「飲んでやれよ」 ヤマメがこいしのグラスを持って、彼女に押しつける 「恋仲なら、一緒に」
「でも……」
そのときこころがグラスを奪いとる。
「まだるっこしい!」
そしてウヰスキーを口に含むと、こいしへ熱烈に口づける。
こいし、目を見ひらく。
「面霊気、やるねえ!」
ヤマメの囃しを聞きながら、ふたりがもつれあって、床に倒れる。
「馬鹿! こころちゃん……もう」
「たのしいなあ……」
「目が回る、泥の中をたゆたうように。これだから、この霊薬は。はしたないわ。こころちゃんは頭がおかしくなっているのよ。馬鹿、本当に馬鹿」
「馬鹿じゃない。私の頭は冴えている、これまでないほどに。もう冴え々え」
「ああ、酔っぱらいの常套句。ヤマメ、解毒薬を処方してよ!」
「どうしようかな……しばらくこのままでも、たのしいんじゃない?」
「もう!」
そのとき突然、こころの体から力が抜ける。
「あれ、おかしいな。立ちあがれないぞ。生まれたての馬じゃないんだから。あれ。あれ」
「効きすぎだよ。はしゃぐから、よく回ったんだ。まさにいい薬ね、反省しなさい。ああ、でも私も……力がはいらない……この薬は、こうも効くんだっけ……眠い。そう言えば、昨日はあまり、寝ていなかった。ああ、眠りの支配者の声がする。赤い帽子をかぶって、白いボンボンをつけているやつ」
「私も……眠いとはこう言うのか。
私は眠らない、いつも。水蜜さんと同じ。夜はただ、朝を待っていたりする。能の練習もする……これからは、おまえを待っていたりするのだろう」
「ヤマメ」
こいしが名を呼ぶ。
「介抱、たのんでいい? ごめんね」
「いいよ」
「ごめんね……ヤマメ、あなたは本当におぼえていないの?」
「何が?」
「いや。なら、いい」
そしてふたりの意識が、眠りに落ちる寸前のことである。
「こいし、それは」
「何?」
「それ……おまえの近くにいる」
……。
「ヤマメのこと?」
「いや、おまえの傍だ……その、それ……」
……。
「ああ! ……敵か? まさか“それ”が敵か? それが!、? 信じられない……こんなにも……近くに」
そこで意識は、とだえてしまう。
(ライトが消える)
完璧な暗闇。
やがて時間が経って、
(また点る)
耳元で声が聞こえてくる。
「起きろ」
なんの声?
「面霊気、起きるんだ」
蜘蛛の声。
こころ、目をさます。
「大丈夫かい。ちょっと、いたずらが過ぎたかな」
「はい、うう……私は何か……眠るまえに見たような気がする。ヤマメさんは、何も見ていませんか」
「幻じゃないの。それとも初めての眠りにまどわされたとか」
「おや。いつの間にか、椅子に座っているぞ。私は床に倒れていたはず」
周りを見ると、こいしも(何故か)少し遠くの椅子にもたれて、すうすうと眠っている。
「あいつに介抱を頼まれたからね」
「そうですか、迷惑をかけてしまった」
「いいんだ、私のやったことさ。それよりさ……じつはさとりから聞いたんだ。こいしの過去を、スクロールに書きとめているんだって?」
不意にこころは、巻物がふところから離れて、机に置かれていることに気がついた。
「じつはおまえが眠っているあいだに、これを読ませてもらっていた」
「興味があったんですか」
「ああ、あるさ」
「どうでした?」
「おまえがこいしの半分も知らず、あいつが自分の半分も、伝えていないことが分かった」
「それはまだ、未完成だからしかたがないです」
「そうじゃないんだよ。私が言っているのは、本性のことさ」
「何?」
「覚リ妖怪、反吐が出る」
ヤマメがこころに顔を寄せ、口を三日月のように釣りあげる。
「昔のことだ。
みんなが単細胞の馬鹿になった。
その騒動は、残酷さが原因だった。
ひとりの妖怪の残酷さが。
面霊気。真実を教えてやるよ」
蜘蛛の巣は用意に善良で純粋な心をからめとり、無垢な蝶が吸いよせられる。
ヤマメが頭の中で言う。
(ただし、おまえたちの恋と引きかえに)
第四幕 第二場 四大感劇・喜(To cruel not to cruel)
……。
「あなた。そこの、あなた」
「誰?」
「よかった。聞いているらしい」
「ふん」
「ヤマメと一緒にいて、薬はできそう?」
「教えない。ひけらかさずには、いられないでしょう」
「まさか、夢にも」
「なら、どう思う? 近ごろの私の変化について。
私は一度も自分の残酷さを、おもてにだしたりはしなかった。これまでもそうであり、これからもそうあるべきだと思ってる」
「瞳に誓って」
「それなら言わせてもらうけど。地獄に降りて、分かったよ。地獄にはもう、一流の妖怪なんて、どこにもいない。あるいはかつて、人間世界に名前を轟かせた、一流の妖怪がお姉ちゃんのほかにいるかもしれない。
でも人間がいなくなって、どいつもこいつもふぬけてしまった。お姉ちゃんもそのひとりよ。
不思議な感じ。
頭の中で思いだすのは。
残酷なお姉ちゃんの姿。
あんなにきらいだったのに。
今は懐かしい」
「それを言うために、心の中で」
「廻りくどい言いかたはしないでほしい。私はあなたがきらい。あなたは残酷の化身だから。
かまっている暇はないんだ。私はヤマメと薬を創らなければならないから」
「なんのために」
「地獄のために」
「本当にヤマメに共感しているの?」
「している、瞳に誓って!」
「なら、どうしてあなたの心は、そんなにも静かなの? これは本当に、あなたの望んだ道なのかな。そう、睨まないで。気にさわったのなら、謝ります。本当よ、反省してる」
「反省なんて。分かっているの、本当は。
あなたのねらいは、私をのっとることにある。
あなたは私の、半分の姿なのだから。
でも私は、残酷さには、絶対に心を開けわたさない」
……。
「おい」
劇中劇のこいしの眼前で、劇中劇のヤマメが腕をゆらゆらと振っている。
こいし、はっと目をさます。
「何?」
「霊薬を作ったんだ。新しいやつ」
「うん……そうなの」
「大丈夫かい? おまえ、独りごとを言うくせがひどいよ」
「つかれてるの……」
「そうかい。なら霊薬を飲んでもらうのは、今度にしようか」
「飲むまでもないわ。見れば、分かる。それはどう見ても失敗作よ、残念なことに」
ヤマメ、椅子に座りなおす。
手に瓢箪を持っている。中身の酒を、ぐいっと呷る。
「私たちは、どれくらいこうしていたのだっけ」
「知らない。地獄は時間が分かりづらいから」
「いずれにせよ、随分と一緒にいるな。でも、どうにもうまくいかない」
「ごめんなさい」
「いや、文句を言っているんじゃない。ただ私が無能なばかりに、おまえに負担をかけていると思った」
「そんなふうには考えない。あなたを助けるのも、霊薬を作るのも、私が好きでやっているの」
「何がたりないのだろう。本当にあと一歩。あと一歩で完成しそうな気がするのは、私の願望なのだろうか?
ここまで漕ぎつけるのに、さまざまな材料を使ってきた。今や私は阿片で儲けて、山ほどの材料を買えれば、土地もある。しかし金では、答えは買えないらしいんだな。
ああ、それにしても顔色がわるいぞ。家に帰ったらどうだい。おまえは私に会ってから、ここに入りびたっている気がするよ。でも、そう言うのはよくないな。おまえは姉がいるんだから」
「姉……」
「そう言えば、私はおまえの姉には会ったことがないな」
「会わなくいいよ、別に」
「どんなやつなんだ」
こいし、鼻を鳴らす。
「ふぬけ」
「ふん?」
「出かけてくる」
こいし、店を出る。
しかし、どこに言っても、彼女の落ちつけるところなど、あの店を覗いて、地獄の荒野しかないのである。
あいもかわらず、彼女を非難する妖怪たちの目が、彼女を突きさす。
こいしはため息をついて、貧民区の端にある、自分の家に寄ることにした。
家の扉を叩いて、
「お姉ちゃん?」
返事はなし。
「はいるからね」
こいし、戸を開ける。
酒の匂い。ころがる酒瓶と瓢箪。
劇中劇のさとりが手に瓢箪を持って、床に寝ころんでいる。
「ああ、おかえり」
「だらしない」
「だって、酒でも飲んでいないと、やってられないじゃない」
「そんなふうにしていると、体をこわすよ」
「妖怪が酒なんかで、体を壊すものですか」
「そんなことを言って」
こいし、さとりの体を起こす。
こいしは考える。
“思えば、お姉ちゃん。それも残酷だったころの。今でもその記憶はなまなましい。どんな凶悪な妖怪でも、ときには死を悲しみさえもするのが、情であろう。
誰にも負けはしない。そう信じたればこそ、お姉ちゃんはこんなふうに、あの高名な僧に敗れたあと、しばらくするとこんなふうに、心がふぬけてしまったのだ”
……。
「聞こえてるわよ」
「……」
「私をなさけないと思っているのね」
「そんなことーーー
「あるでしょう! ああ、どろどろになって、溶けてしまいたい。せめてここが、日の光のもとならば。この世の営みが、つくづくいやになる。わずらわしい、あじけない、すべてかいなしよ。荒れほうだいの地獄。むかつくような悪臭。こんなことになるなんて。
すこしまえまでは、私も立派な妖怪だったのに。
ちくしょう、地上はよかったなあ……まだまだ山ほど、殺してやりたかったのに」
「失ったものを嘆いたって、どうにもならないよ」
「こいし、近ごろ蜘蛛と、こそこそ何かやっているらしいわね。
ふん、霊薬なんてね。そんな物で、地獄をよりよくできると、本気で信じてもいないくせに。あんたはただの退屈しのぎに、蜘蛛に協力しているだけよ。あれだけ残酷なことがきらいだったのに、いざ平穏になると、せわしなくなる、その浅ましさ!」
「ひどいよ、あんまりじゃない!」
「だいたい、あんたに何ができると言うのよ。自分で何も成したことがないくせに。その命だって、地上では、私が守ってやっていたから、こうして生きながらえているのに」
「なんなの! 私に当たらないでよ。これなら残酷なお姉ちゃんのほうがまだよかった。今のお姉ちゃんは最低よ! 妹に当たりちらすなんて!」
「妹なら、酒を買ってこい。浴びるほどの酒を!」
さとり、こいしに金を押しつけて、外に叩きだす。
こいしの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれおちた。およそふたつの目から涙をこぼしたことがあっても、読心の瞳から涙をこぼすと言うのは、彼女もはじめての体験だった。
そのとき、こいしが直感する。
「これだ!」
そう叫ぶとヤマメの店へ、一目散に走ってゆく。
店にはいって、
「ヤマメ!」
「うワッ! おどろくね。出かけたり、帰ってきたり。いそがしいやつだな」
「そんなことを言ってる場合じゃない、最後の材料を見つけたのよ!」
「何?」
「これよ!」
こいし、肥大した瞳を持ちあげる。
「……おまえ、泣いているのか」
「そんなことはいい! 涙よ。な、み、だ! 見た瞬間に分かったんだ、この覚リの涙こそ、霊薬を完成させるんだって。さあ、いそいで霊薬を持ってきて、私の涙を垂らしてみよう」
ヤマメ、霊薬を持ってくる。こいしがそこに、涙を一粒、垂らしいれる。すると青い霊薬が、瞬く間に透明に変わってゆく。
ヤマメ、息を飲む。
「こいし、どう思う?」
「手ごたえあり」
「……やった!」
ヤマメ、こいしを抱きしめる。
「おまえに会えてよかった。おまえは最高だ!」
こいし、動揺する。
それもそのはず、こいしの生涯で、自分を肯定されることは、これまで一度もなかったのである。
彼女は肩を振るわせて、しゃくりあげはじめる。今度はふたつの目から涙を流す。
「おい、おい。どうしたんだ。どうして泣くんだ」
「なんでもない、なんでもないの。さあ、記念に乾杯しよう」
ヤマメ、盃を持ってくる。
ヤマメ、こいしの盃に霊薬を並々と注ぐ。
「さあ、ひと思いに飲んでくれ。そして、どうかその霊薬が、おまえに幸福をもたらすように、祈ってみるよ」
こいし、霊薬を飲みほす。
すると、急に視界が、ぐらつきはじめた。
目眩がして、盃を持つのもままならない。
盃を手放し、それが床に落ち、しかしその音も、まるでどこか、遠くのほうで聞こえてくるようだ。
目もとじられ、瞳もとじられ、そこに本当の暗闇が訪れる。
第四幕 第三場 四大感劇・喜(To cruel or not to cruel)
あなたを呼んでいる。
「分からない」
あなたに話しかけている。
「私には分からない」
あなたに言っている。
「誰かが見てる」
あなたの宿命を、押さえつけることはできない。
「誰にも……
私は乱世の地上に産まれおちた。
覚リの宿命は、すべての心を弄ぶこと。
それでも残酷さを押さえつけて、
私は探す、
心の光を、
光よ、傍に現れよ。
でも、光はどこにも現れてくれない。
私の光は今、どこにあるのだろう?
この道は本当に私の選んだ、
道なのだろうか?
だとしたら、
どうして私の心はこんなにも、
私の魂はこんなにも、
静かなのだろう……。
私に聞こえるのは、
私をきらう、人間たちと妖怪たちの心の声。
私はお姉ちゃんのように、残酷に生きるのではなくて、平穏の訪れを待っている。
恋の心が、私の気分をよくしてくれる。
……誰にも私の心が苦しむのは、見られたくない。
そら、拳を握って、歯をくいしばれば、我慢をする準備がととのっている。
もう諦めている。
私はずっと、
独りで生きていかなければ。
それがわるいか。
なんと言われようと、
残酷さを我慢するのが、
私のやりかた。
私はそう言うふうに生きる」
……。
「なら、あれはどう?」
さとりが現れて、こいしを抱きしめる。
離れたところで、菩提樹の木が成っている。その下で、劇中劇の第三の僧兵が、荒縄を編み、木につりさげて、今にも首を吊ろうとしている。
こいし、その光景に釘づけになる。
「あんたが残酷にならずに済んでいたのは、地上にいたころ、私が肩がわりしていたから。
でも、それはもう無理なこと。だって私は昔より残酷でなくなって、あんたばかりが以前よりも、残酷になってゆく。退屈さに当てられて、あんたは残酷になる」
「私にあの僧兵を見せないでよ!」
「なら見なければいい。ああ、その青ざめた顔。その悲しげな肩。そんなふうにしていると、固まりかけの決意が鈍ってしまう。瞳の中身がなくなって、影の中にでも、溶けだしてしまうようなことになりかねない」
「どうしてそんなふうに言うの、私を大切にしてよ!」
「ああ、本当にあんたはめくらのよう。でも、それも終わりつつある。ほら、耳を傾けて……」
あなたは退屈に腹を立てる。
あなたがそれを叩きのめすと、残酷さがやってくる。
いじらしい心。
わたしは見つけた。
その心に、育っていた、小さな“おねだり”を。
ひそかな苦痛と、ひそかな野望を。
小さな妖怪の企みを。
わたしがあなたの心の中に、
眠っているあいだに、
こっそりと現れる。
「すさまじい早さで、私の心に、残酷さが迫る足音がする。
騒音を鳴らして、もう誰にも止められない」
怖れなくてもいいの。もうどんな苦悩も、我慢する必要はない。
ただ自分を信じて、みんなの心を弄べばいい。
わたしの手を取って。
そして世に、混沌と破滅をもたらすのよ。
それがあなたの宿命。
「私は認めない。
私はお姉ちゃんのようにはならない。
……でも、でも……我慢するのは、もうつかれてしまったから。
だから、今だけは、残酷さに心を開けわたしてあげる。
そんなことも、今だけのことよ」
ああ! 眠るあなたの心に、
そっとしのびこむ企み。
あなたの心が目ざめるとき。
怪馬のいななきのような雷鳴が……閃く!
第四幕 第四場 四大感劇・喜(To cruel or not to cruel)
こいし、起きあがる。
店の一室。布団から出て、ヤマメに後ろから近づく。
「おはよう」
「うワッ!」
ふたりが見つめあう。
「起きたのか!」
「私はどれくらい、眠っていたの」
「正確には分からないけど……月が一周するくらいは、眠っていたと思う」
「そう」
「何があったかおぼえているか? おどろいたよ。霊薬を飲んだら、急にぶったおれたんだからな。使いかたがわるかったらしい、あれは随分と効くらしいけど、そのぶん効能も凄いんだ。一滴だけでも、効きすぎるくらいにはね」
「あの薬はどうするの。みんなには沢山、飲ませてあげないの?」
「冗談じゃない。あれはもともと、おまえのような不感症の妖怪のための霊薬だよ。どうやら私たちは、思ったよりも厄介なしろものを、作ってしまったらしいんだな。使いかたは、厳重に見きわめないと。あんな物を山ほど飲んでしまったら、みんな単細胞の馬鹿になってしまうぞ」
「そう……」
こいし、戸棚から霊薬を持ってくる。
そして瓶の口をあける。
「おい、飲むつもりか。已めておけよ。せめて飲むなら、一滴くらいにしておくんだ。口をつけて飲むような物じゃない。またぶったおれたいのかい。おまえ……中毒になってはいないだろうな」
「ヤマメ、私は飲まないよ」
「じゃあ、なんのために持ってきたんだ」
「おまえが飲むんだ!」
こいしがヤマメに飛びかかって、瓶をヤマメの口に押しつける。
あまりに突然のできごとだった。ヤマメはそれを振りはらえずに、無情にも霊薬が、彼女の喉を下っていった。
「う、う、う、う……!」
「おとなしく、しろ……しなさい!」
やがてヤマメが意識を手ばなす。
こいし、薬棚を眺める。そこには未完成の霊薬が並んでいる。
こいしはひとつ、それを手にして、瞳の涙を、垂らしはじめた。
(時が経ち)
ヤマメが目をさます。
覚醒しない頭。しばらくぼうっとそのままでいた。
しかし、やがてこいしに何をされたか思いだす。
当たりを見てもこいしはいない。いそいで店の外に飛びだした。
「……なんてことを」
獅子累々。霊薬に頭を侵された妖怪たちが、軒先や地面に転がっている。
遠くのほうで、歌が聞こえる。ヤマメがその方角に走りぬける。
「この地の獄は。
人間とのつながりをなくした、
ぼろぼろの数珠。
糸はとぎれて、
あちらにこちらに飛びちって。
どこへ消えてしまった
ララララ、ララ」
「こいし!」
「おはよう」
「どう言うつもりだ!」
「随分と眠っていたね。でも、私とちがって、月が一周するほどじゃない。それはあなたが、毒に強いからなのかな」
「どう言うつもりだと、聞いているんだ!」
「気がついたのよ。妖怪らしく、残酷にふるまうべきだとね……私は平穏なんて欲しくない、本当は、ずっとこんなふうに、残酷なことがしてみたかった。お姉ちゃんのように」
「ああ、こんなことのために! おまえは私を……助けていたのか……おまえのことを、信じていたのに!」
「私もよ。でも、ごめんなさい。我慢するのはつかれたの。これからは、好きなことをやる」
ヤマメがこいしのほうに、つかつかと歩きだす。
「何をするの?」
「責任を取る。おまえを殺してやる。そして解毒薬を作って、みんなを正気に戻す。私はそれを成さなければならない」
「ヤマメ……あなたは本当にやさしい」
そのとき、倒れていた妖怪たちが、まるで操り人形のように立ち上がる。そしてヤマメを、はがいじめにして、地面に拘束する。
「こいし、これはおまえがやっているのか!」
「これまでうっとうしいと思っていた力だけど、こうして使うとわるくないね。心を意のままに操れる」
こいし、ヤマメの頭を踏みつける。
「わるく思わないでね。妖怪の世は、暴力が支配しているんだから。あなたが無力なのがわるいのよ」
「殺してやる!」
「殺してやるね……フフフフ、フフ。殺してほしいの、まちがいじゃないの? あなたの心はそう願っているわ。
でも、私はあなたを殺さない。
あなたは霊薬を作れるからね。私のために……あなたにはこれからも、働いてもらわなければならないの」
こいし、妖怪たちに命令する。
「店に連れもどしなさい。そして霊薬を作らせつづけるのよ……いつまでも」
「殺してやるぞ! 呪ってやるぞ!
この恨みは、千年万年が経っても忘れない!
たとえみんなが忘れても、おまえがどこに消えようとも、私はおまえを忘れない!
この恨み、私は魂に刻みつけた! 忘れない……果たされるまで!」
ヤマメが叫ぶ。
「絶対に!」
第四幕 第五場
「××……」
なんの声?
「××××……」
蜘蛛の声。
曖昧な目ざめに揺りうごかされて、こいしが目をさます。
やがて意識がはっきりとしてくると、鮮明にヤマメの声を聞く。
「そう。こいしがかつて、みんなを霊薬のとりこにして、その心を弄んだのさ。ひとえに覚リが産まれもつ、残酷さが成せることだ」
一刹那!
こいしがばねのように飛びおきる。
獣の早さで立ちあがり、ヤマメに飛びついて、床に組みしく。
せばまる瞳孔。ぎらぎらとヤマメをにらみつけて、荒っぽい息を何度も吐きだし、やっとの思いで言葉を浴びせるのである。
「お、お、お、おまえ! ……は!、? 何を、話して、いた。こころちゃんに! どこまで、どこまで話したんだ!」
「へへ……全部」
「おまえは……ひとのことをなあ、勝手になあ! うう……おまえは、本当はおぼえていたんだなあ……あのときのことを……忘れたフリをしていたんだ!」
「一瞬たりとも忘れるかよ。私の霊薬で、みんなの心を壊されたんだぞ」
「信じられない! あれから私は瞳を閉じて、みんなの心から忘れられたはずだ完全に!
絶対にだれも、私のしでかしたことをおぼえられない。おぼえていてはならないんだ!
ちくしょう、ちくしょう! どうしてヤマメは忘れていない、どうして昔の私が心の中にいる!」
「たとえ心が忘れても、この復讐の炎。魂に刻みつけられて、傷は癒えず、忘れることなどできるものか。おまえは心にまつわるのみ。魂に刻みこまれた復讐の刃はどうしようとなまくらに変えられない」
「ふウーー……ふウーー……殺してやる!」
「すこしでも哀れだと思わないのか。友達じゃないか、一緒に薬を創ったろう。おまえと霊薬を作った時間。私は本当にたのしかったよ」
「当たりまえじゃない。おまえなんて、こころちゃんに比べたら、なんの価値もないんだ! おまえなんて、死んでしまえ! 害虫のくせにぺらぺらと話しくさりやがって!」
ヤマメ、目を伏せる。
「そうかい。フフフフ、フフ。おまえにとって、私はそれっぽっちだったのか」
「笑うな!」
「見ろ、面霊気。これがこいしの正体だ」
こいしがはっと、こころのほうに目を向ける。
心を読めなくても分かる。その目はこいしを怖れるのだ。
「こいし、おまえは……おまえが? 地底で昔……そんなことを」
「私を見るんじゃない!」
そのときヤマメが隙をついて、こいしを押しのけ、頭を掴み、彼女を床に頭から叩きつけて、取りおさえる。
「おまえは畜生だ、恥を知れ!
おまえはみんなの心を壊したあと、そのくせ自分のしでかしたことに怖れをなして、心を閉ざして逃げさったね。でもおまえが今、私にぶつけた怒りだって、本当はなんの中身もない! ただの仮面の表情だ。なんせ心がないんだからなあ!
私がどれだけ、あの騒動の後始末をつけるのに、苦しんで、傷つけられたかおまえに分かるか。死のうと思った。何度も何度も!
それを我慢して、私はみんなの心を取りもどづために、頭のおかしくなったみんなに囲まれたまま、時間をかけて、解毒薬を作ったんだ。その作業だって、おまえが逃げださずに、霊薬を作ったときのように、傍にいてくれたら、どれだけ捗ったことだろうか。
でも、自分の残酷さから逃げつづけていたおまえは、自分のしでかしたことの後始末をつけるのもいやだったんだよな。だからおまえは私にすべてを押しつけて、心を閉ざして逃げやがった!
そうしなければ、私もおまえの過ちを許すことができたのに! あまりに凶暴なくせに、愚かで……弱い!
そのうえ何が恋仲だ。何もかもを忘れたような顔をして、自分だけが幸福になろうとしやがって。しかし……フフフフ、フフ……おまえを憎んで々んで数百年。ついに復讐のときが訪れた。この日をどれだけ待ちのぞんでいたことか!
まさに今! 日陰に追いやられていた私は、どこかの舞台の中心で、光を浴びているようだ」
「おまえがそんなことを考えていたら、お姉ちゃんが気がつかないはずがない。お姉ちゃんのまえで、それを考えずにいられるわけがない!
今日だって、おまえはお姉ちゃんに会ったはずだ!
おまえはどうやって、これまでお姉ちゃんをごまかしていたんだ!」
「ああ、こいし……どうして私が、おまえたちが恋仲になった直後に、都合よく地霊殿に“いられた”と思う?」
こいしがはっとする。
「……嘘」
「本当さ。残酷なおまえの姉の好きそうなことさ。じつのところ、どうしてあいつが私に協力したのかは、さっぱり分からないんだけど。
きまぐれかな。律儀に妹にけじめをつけさせようとしたのかな。それとも案外、おまえに対する、独占欲だったりするのかな? まあ、復讐を果たせるのなら、どうでも言いことさ。信じられないか? それなら、そら。瞳をひらいて、心を読んでみればいい。まことを見るのが、おまえたちは得意だろう……ああ、そうだ。おまえにそれはできないんだった! 今のおまえは、ただの雑魚なんだ!」
「お姉ちゃんはそんなことをしない!
お姉ちゃんは私を大切にする!
お姉ちゃんは私をうらぎらない!」
「醜いねえ、々いねえ。おまえは本当に畜生だな。保身のことしか考えてない。あの騒動には、おまえの姉も巻きこまれたと言うのにさ。その面霊気にだって、いつ自分の過去を打ちあけたことか。おおかた語らずに済ませるつもりだったんじゃないのかな?
でもなあ、引きさいてやった。おまえたちの仲を、引きさいてやったぞ。おまえの恋びとの目を見るがいい。面霊気はおまえを怖れている。おまえの残酷さがそうさせるんだ!」
何を期待していたんだ! 恋をすれば、自分の残酷な本性が、変わってくれると思ったか!」
「いや……」
「復讐の神々よ、私に幸福を与えたまえ!」
「いや!」
そのとき硬直していたこころが、ヤマメを押しのけて、こいしを庇う。
「已めろ、もう已めてくれ! 充分だろう、こいしを苦しめないでくれ!」
こいしが店の外に飛びだす。
「待ってくれ!」
こころも店の外に飛びだす。
ヤマメが立ちあがり、椅子に座って、満足そうに、こう呟いた。
「復讐は果たされた」
第四幕 第六場
地底の荒野より。
足音がする。ふたりの追いかけっこ。
やがてふたりがつかれきり、地面にへたりこむ。
(ふたりのあいだに、十歩ほどの距離がある)
こころがぜえぜえと息を吐きながら、
「こいし……独りに……なるな!」
「私は本当になさけない。恋びとに怯えられてしまうなんて」
「蜘蛛の言うことを真に受けるな! 私から離れたら、それこそ蜘蛛の思いどおりだ!」
「何も分かってないのね」
「分かる!」
「残酷に産まれたくて、産まれたわけじゃなかったんだよ。
私は自分が、お姉ちゃんのようにならないと信じたかった。
でも、どうしても堪えきれない。私たちは産まれながらに、過剰に残酷で、それを押さえつけようとすれば、あとで必ず揺りもどしがくる。そんなことは分かっていたはずなのに」
「私はおまえの残酷さだって、受けいれてやる! 今は無理でも、いつかは必ず!」
「そんなことは分かってる!」
「じゃあどうして私から離れようとするんだ!」
「だから“何も分かってない”と言ったじゃない」
「何が! おまえの言いたいこと、ぜんぜん分からない! はっきりと言えよ!」
「さっき! ……ヤマメを組みしいて、殺してやろうと思ったとき……自分の残酷なところが、どうしようもなく、高ぶるのが、分かった……心もないのに……こころちゃん、本当にあなたのために、心をひらいてあげたいと思うよ。
でも心をひらいたら、私は以前のように、残酷になる。私は残酷になって、どうしようもなく、こころちゃんを苦しめる。あなたの心を引きさいて、何も残らなければいいと……多分ね。
それが私の宿命だったのに、そんなことも忘れていた」
「心をひらけ、私の心を見ろ! 思いあがるな、おまえの残酷さなんかで、私の心が砕けるもんか!
おまえに本気でいるの、おまえが心の底から好きなんだ! この想いは、おまえが痛めつけたって、痛めつけきれないくらいの沢山だ! だから、こいし……頼む、心をひらいてよ」
「無理よ、だって、瞳の中身がないんだもの」
こいし、瞳をひらく。
こころは唖然とする。瞼の中に、目玉がなかったからである。それは戻らない心の影。影はあとも残さずに消えるのみ。
「おまえ、それ……空洞」
「へへ……これが地霊殿の屋上で、ヤマメがくるまえに、言いそこねたこと。
瞼をひらいて、その心が聞こえるなら、私はとっくに開いていた。でも無理なのよ。だって、そう、この瞳をとざしたときに、中身がきっと、どろどろに溶けだして、消えてしまったんだよ。
私の“敵”がそれを持っていって。あとはもう、何も残らない。
ねえ、私は後悔したこともあるよ。
みんなが宴会で騒いでいるとき、誰かの恋を見かけるとき……こころちゃんと、恋仲になれたとき……そう言うときは、心をまた、ひらいてみたいと思いたくなる。
でも中身がどこに消えたのかも分からないのに、どうやって心を取りもどすの?」
こいしの姿が、蜃気楼のように薄れてゆく。
「一緒にはいられない。こころちゃんはやさしくて、心を見るまでもなく、沢山の中身が詰まっているのに、私はいつまでも空白のままで、あなたと釣りあうはずがなかったの。
私は夢を見てしまったんだと思うんだ。私の傍にいるあなたが、あまりに無邪気でかわいらしくて……叶いもしない、恋の夢を」
「待って……」
「さよなら、さよなら! 別れって、本当に唐突だね。沢山の感情を向けてくれて、うれしかった……心もないのに、別れがあまりにつらいから、いつまでもさよならの瞬間を、繰りかえしていたい。
今度は私のような、
乱暴者に惚れないように、
次の恋を探してね」
消滅。
地底の荒野に、
風は吹かないし、
影もかたちも残らない。
残されたこころの、
絶叫が地底を走りぬけても、
誰も聞こえはしなかった。
安寧のために、
心を閉ざせ、
すべての心ある者たちよ。
第五幕 第一場
(一ヶ月が経過)
「起きろ」
「ああ、うう。こいし、そこにいるのか」
「寝ぼけるのも大概にしろ」
「ああ、眠らせてくれ。私は死ぬまでこうしていたい」
「ふん、面霊気ってのは死ぬのか」
ヤマメがこころの頬を張って、目をさまさせる。
望んでもいない目ざめ。こころの手が霊薬を求めて、机の上を這いまわる。
「そんなふうに霊薬ばかり飲んでいると、おまえも単細胞の馬鹿になるよ。ウヰスキーはどう? 体にいいよ」
「そんなのたしにもならない」
「そうかい」
ヤマメ、ウヰスキーを持ってくる。
グラスに入れて、飲みほす。
「ふウーー……近ごろの私のほうと言えば、最高の気分でございます!」
「そうだろうな」
「やるね、おまえ。この一ヶ月、おまえは霊薬を飲んでいる。飲みまくっている。それは私が与えるからだけど、おまえは已然と正気のまま。
ああ、気にするな。おまえは私の復讐譚に、巻きこまれてしまっただけさ。それについては、罪悪感をおぼえている。だからこうして、霊薬を無償で与えるんだ」
「私が正気でいられるのは、失恋の痛みが、あまりに大きすぎるからだ。やるね、じゃない。心は強くない。この痛みは、どんな薬でも癒せない。失恋の痛みが、魂に刻みつけられているからだ。手の施しようがない。
さあ、薬を渡せ。私は眠る。
いつまでも」
ヤマメ、霊薬を持ってくる。
こころの手に近づける。
「どう言うつもりだ」
こころがそれを手にするまえに、自分の手を引っこめる。
「いつまでそうしているんだい」
「何を抜け々けと。私がこうなったのも、おまえの復讐が! ……ちくしょう。
私はこの一ヶ月で、痛いほどに分かったぞ。
薬なんかで絶対に本当の痛みを癒しきれはしない。本当に狂いきれるのなら、こうして薬を求めることもできやしないんだ。それを手にしようにも、頭が働くわけがないからな。いかに狂気でも、正気の苦しみに勝てはしない」
「その解釈も、ありと言えばありだ」
「薬を渡せ。私に罪悪感をおぼえているのなら」
「にやついて)どうしようかな」
「ちくしょう。おまえも所詮は、自分のきらいなこいしと同類だ! 穴の狢、同族嫌悪」
「あいつが今の私を創ったのさ。復讐だけが生きがいの、馬鹿な妖怪にな。争いは伝染病と同じだよ。空気に当てられて、自分も残酷になってしまう……おっと」
こころ、霊薬を引ったくる。浴びるように飲むと、机に上半身を倒れさせて、なおもヤマメを見つめる。
その目は憎悪をたぎらせている。
「習慣とは怖ろしいな。それだけ霊薬を飲んで、すぐに意識が絶たれないのか」
ヤマメ、縄を取りだす。そして自分の糸で、それをさらにつなぎあわせる。
「困ったね。私は裁縫でいそがしいんだ。それに薬もいずれなくなるぞ」
「作ってくれ」
「無理だね、それには覚リの涙が欲しいし、ここにあるぶんは、あの騒動の在庫でしかない。おまえが浴びるように飲むんだから、それもすっからかんさ。そもそも私も、そのうちそれを作れなくなる」
「どうして!」
「首を吊る。それで死ねるか分からないけど。生涯の目標を果たして、もうやるべきことがない。欲しければ、おまえのも作るけど」
「……勝手に死ね!」
……。
「ああ、こいし。おまえはどこに消えたんだ。これはたしかに死んだほうが気も効いている。すでに消えたおまえに焦がれて、いつまでも諦められない。私はつらい、つらすぎる。
私は飲んだくれてしまったよ。酒どころか、麻酔に! それでも心の痛みを、麻酔でもなければ、どうしてのがれられよう。
……なんて馬鹿な、私と来たら! 自分のことながら、見さげはてる。天も地も心も魂も、おまえを探せと言っているのに。
許してくれ。
私の心は折れてしまった。
もう立ちあがることもできないんだ」
「これでどうです?」
こころが顔をあげると、さとりが現れている。
手にこいしの帽子を持っている。
「どこで手にいれた!」
「妹のことは魂で分かると言ったでしょう。あなたは恋仲のくせに、こいしの場所も分からないのか」
「馬鹿にするな! ヤマメの復讐が成されたのも、おまえが私たちをうらぎったからだろう!
私も……こいしも……あなたをしたっていたのに!」
「だから“信用しないほうがよろしいですよ”と言ったじゃありませんか。それにヤマメも言っていたはずです」
「……何が!」
「にこにこと笑っていても、悪党の場合があるから、用心しなさい」
「ちくしょう! (薙刀を取りだす)すれっからしの畜生め。おまえが殺しあわせた、僧兵たちのように、刺しころしてやる!」
「よろしい! 妖怪らしくなってきた」
さとり、店の外に出る。
こころがそれを追いかける。
外は寺の本堂に繋がっている。
その風景の一変に、こころが目を白黒とさせているうちに、一輪と水蜜とぬえがどこからともなく、彼女の周りに現れる。
さとりが毘沙門天像のまえで、こいしの帽子をかぶって、像に祈りを捧げている。
「祈りの言葉)乱世なら、心の冬からも逃げきって、方々を歩きまわる、私と妹は、日の光のもとで戯れていた。
しかし、地の獄に落とされては、
もう、いとおしい、人間たちの声も聞こえない。
そして妹は、解きはなたれたばかりの、未熟な残酷さと、邂逅するのでした。
日の光のささないところで、
妹が残酷さと戯れる。
もう誰も、妹をきらうことはない。
やがて妹は恋びとを得た。
ふたりは接吻に倦んで、契りを交わした。
声をまねて)……“好き。いつまでも一緒にいてね!”
しかし、魔性の蜘蛛が、ふたりのもとへやってきて、
妹の恋びとの、その未熟さに付けいると、
瞬く間にふたりの絆を引きさくのだ。
青ざめて、震える、愚かな、恋びと!
私に語り、明かしてみなさい。
おお、心をかきみだす、恐怖よ!
乗りこえるために、残酷への目ざめを!
それが、恋びとに妹を、ふたたび取りもどさせる」
「ぬえが)こころ。産まれたてから抜けだして、ついに妖怪らしくなった。突っこんで、祈りの言葉を捧げている、あの妖怪を刺しころしてやれ!」
「私に近づくな!」
「水蜜が)知らなかったの? 昔の妖怪は、みんながこんなふうだった。他者の物を奪いとって、それを省みたりはしない。
力だ! 私たちは、力を持って、産まれてきた。でも、それ以外のものは何も持っては産まれてこない。
おまえは異変を起こしたけれど、あんなことは、残酷でもなんでもない。おまえは徹底的にやるべきだ。何ごとも徹底的に。
昔のこいしは正しいことをしたんだよ。
覚リらしく、妖怪らしく!
さあ、おまえも妖怪の輪にくわえてやる。善良な面霊気」
「ふしだらな悪霊の分際で!」
こころ、薙刀を構える。
「一輪が)まっすぐよ。ただ、まっすぐに突っぱしりなさい。心の願うままに」
「ふウーー……ふウーー……復讐!」
「殺せ!」
「果たせ!」
「誓え!」
毘沙門天像に祈っていたさとりが振りかえり、
「殺してみろ!」
こころがさとりに突っぱしる。
しかし、あと一歩のところでさとりの姿がかききえて、勢いのままに倒れこむ。
そのとき、薙刀が勢いあまって手ばなした薙刀が、こころと彼女の影を切りさき、ふたりに分かつ。
倒れこんだこころが顔をあげると、景色が門前に変わっている。
雨が降りだし、雷鳴がとどろくと、切りわけられたこころの影が、舞を踊りはじめる。
「ああ……自分のことながら、他者のように感じる。
私はあんなふうに舞をしていたのか。
でも今の私にはできないこと」
そのとき、こいしが現れて、こころの影と話しはじめる。
こころはそれを、ぼんやりと眺めることしかできなかった。
こいしの言葉は聞こえても、こころの影のほうは、ただの影にすぎない。おおよそ言葉を発することはできない。
それでもこころは、自分の影の言葉が、手にとるように分かっていた。
おまえの!
おまえの、その張りつけたような笑いが……本当に……きらいだ!
「……」
こうまで言っても、その心は動かないだろう。私はおまえが心をとざしたわけが、分かるような気がする。おまえのかつての読心の力と、この感情的な力が似ているために
認めなければならないのは、感情は私の希望であっても、みんなにとっては、苦しみの根元であると言うことだ
感情を見るのはまことにつらく、得ようとするとなおもつらい
私は何を見たんだろう? あんなにつめたい感情があるなんて!
つらい! 助けてほしい。ほかならぬおまえに! 私の胸は張りさけそうだ
「こころちゃんは宿敵と言うけれど、私はあなたを、友達だと思っているよ。
あなたには、私のように挫折してほしくない。心や感情を解そうとすれば、おぞましさからのがれられないとしても、あなたには前を向いて、生きてほしいんだ。
私にできることはある?」
……。
「スクロール」
こころ、不意にふところを探る。
スクロールの重みを感じる。
「まだ途中だったんだ。
でも、どうしてこれの続きを書けるだろう。
もはや物語を語ってくれるおまえはいない。
ああ、眠い。
私はどうすればよかったんだろう」
最初に言ったはずでしょう。
「何を」
それでも。
もしあなたが。
「ああ、思いだしてきた。
そんなこともあったっけ。
もうずいぶんと、昔のように感じるよ。
……。
それでも。
もしあなたが。
私に恋をしているなら。
大渓谷に阻まれても。
高すぎる山で挫いても。
深い湖へ飲みこまれても。
無限の砂漠の虜になっても。
まだわたしに恋をするなら。
そのときにわたしの心をひらきます。
そして見事に、わたしのまことの姿を捕まえてみせなさい。
そう言っていた。
でも、どうしてもおまえを見つけられない。
こいし、おまえのまことは今、どこにある」
あなたはわたしに恋をして、沢山の感情を与えてくれた。
だからヤマメの言うとおり、公平にしましょう。
影法師よ。私は影法師の中に隠れている。
それ以上は言わない。
それを見つけたときに、わたしの心をひらきます。
約束よ。
そして見事に、わたしのまことを、どうかどうか、捕まえてみせて。
今度は失敗しないでね。
いつまでも待っていますから。
第五幕 第二場
店の戸が叩かれて、一輪と水蜜がはいってくる。
「こころ! ようやく見つけたわ」
光を失った目で、虚空を見つめるこころにふたりが駆けよる。
ヤマメ、気楽そうに縄を編みつづける。
「いらっしゃい」
「いらっしゃいじゃない、これはどう言うことなの」
「どうも、こうも。ようするにそいつは、霊薬を飲みすぎて、頭がおかしくなっているんだよ。そう、睨むなよ。治してやってもいい。でも今の状態は、そいつが望んでいることだ。治すといやがると思うけど」
「ヤマメ。さっさと治さないと、あんたをやつざきにする」
「分かったよ」
ヤマメ、解毒薬をこころに一輪に投げわたす。
それを飲ませると、すぐにこころが目をさます。
「一輪さん、水蜜さん? 本堂にいたんじゃなかったのか。いや、ここは寺じゃないのか? どこから夢で、どこから現実なんだろう。ああ、影がある。私の影、よかった……」
「あんたが地上からいなくなって一ヶ月。もとから神出鬼没ではあったけど、さすがにおかしいと思ってね。
ここを見つけるのも苦労したわ。山の天狗が、あんたが独りで地底に降りていくところを見ていなかったら、もうしばらく見つからなかったかもしれない。さあ、帰りましょう」
「それはできない。私はここにいるのが幸せなんだ」
「そんなことを言って……わがまま言うんじゃないよ。聖さまも心配しているんだから」
一輪、こころの肩に触れる。
「振りはらい)私にさわるな! もういいんだ。何もかもどうでもよくなってしまったんだ。能のことも、感情のことも、スクロールのことも。あいつがいないと意味がない!」
困惑する一輪に、ヤマメが教える。
「そいつは失恋の痛みがあまりにひどいので、霊薬で心を慰めて、ここでだらだらとしていたいのだ。心が過敏になっているときに、いったいどうして地上の光に当たりたいと思われよう。心のどこもかしこも傷ついているのにさ。ところで一輪、こいしっておぼえてるか」
「こんなときに、なんで石ころの話しをするの」
それを聞いて、ヤマメが大声で笑いだす。
会心の笑い。
“なんで石ころの話しをするの”
この言葉よりも、ヤマメを愉快にできることなどない。
ふたたびこいしは見えづらくなり、大勢の心から忘れられているのである。おぼえているのは、ヤマメやこころのように、より彼女に近しい者だけだ。
「何がおかしいの!」
「ケッサクだよ……ウケるね。さあ、帰った々った。そいつが望んでもいないのに、無理に帰らせるつもりか」
こころ、ぽろぽろと涙をこぼす。
「一輪さん。もういいんです、本当に。
私を連れかえるくらいなら、どうか子守歌でも歌ってほしい。
ねむれ、ねむれ。愚者よ。
よろこびを夢に求めるために。
ねむれ、ねむれ。眠りの中に、
今はいない、恋びとの姿を求めるために。
と……どうかどうか、歌ってほしい」
「ああ、こころ」
水蜜、こころを抱きしめて。
「おまえの心がぐしゃぐしゃになっているのが分かるよ。
泣きたければ、泣きなさい。
無表情のおまえが、そんなふうに悲しみに顔を歪めるなんて、よほどのことがあったんだね」
「表情……そう、私は」
そのときこころが、顔を驚愕でゆがめる。ゆがめられたのである。彼女もようやく、その変化に気がついた。
「表情!、?」
「気がついてなかったの?」
こころ、霊薬のはいった瓶を眺める。
その表面に、悲しみや驚愕や喜びで歪んだ、複雑な顔が映りこむ。
「う、う、う、うオーー! 表情だ、私の表情だ。信じられない、私はまぎれもなく、悲しみを顔にたたえている!」
「おまえ、大丈夫なの?」
「大丈夫も何も、つまりはこうだ!
私はこいしを失った。
それを悲しむと、さらに悲しみが募っていった。
私が黙っていると、悲しみはさらに育っていった。
そして私は、その悲しみに怖れを成して、そこに霊薬をそそいでやった。
すると日ごとに悲しみは大きくなって、
やがて表情を創るほどの、本当の悲しみになったってわけだ!
悲しみも、ときには役に立つものだ。そのおかげで私は……ついに表情を成したんだ!」
こころ、店を飛びだす。
「一輪が)びっくりした。悲しいのか、うれしいのか。嵐のよう。なんだったのかしら」
「まあ、元気になったのならいいんじゃないの」
「余計なことをしてくれた」
「ヤマメ?」
「終わっちまえ、地上の妖怪ども」
「なんだかよく分からないけど、あんたの企ても、無駄に終わってしまったね」
「つまらん」
ヤマメ、ウヰスキーを瓶ごと煽る。
「終わっちまえか。ヤマメ、幽霊のごときは、すでに終わっているんだよ。あんたもね。私たちは老いている、若者の心を弄ぼうなんて、おこがましいとは思わないの」
「説教はけっこう。帰れ、帰れ! 本当に、地上に出ようと、地下に落とされるような妖怪は、地上に出ても畜生なんだな。日照不足で、心が歪んでしまったんだ」
「ところでヤマメ、あんた死臭がする。寿命でも来たの」
「帰れ!」
ヤマメ、ふたりを叩きだす。
しばらく浴びるようにウヰスキーを飲む。それから不意に、霊薬に手を伸ばして……手を止める。
拳を握りしめ、肩をふるわせて、さめざめと泣く。
……?
誰かが店にはいってくる。
足音がして、ヤマメの傍にくる。
……お姉ちゃん?
「どうして泣いているのです。あなたはよろこぶべきですよ。復讐を果たしたのだから」
「面霊気は立ちなおったらしい」
「見かけましたよ。地霊殿のほうに走っていきました。これから何をしてくれるのか、たのしみですね」
「おまえのたくらんでいたことが、私は分かってきたよ」
「……」
「おまえは私にふたりを焚きつけさせて、絆を深めようとしたんだな! 恋の道は茨であればあるほどに、その絆も強くなる。面霊気は善良だけど、あまりに幼いし、それに優柔不断だった。
こいしはもとから破綻者だ。私が炊きつけなくても、どうせふたりは破局したにきまってる。おまえはそれが分かっていた……残酷な手口、反吐が出る」
「あなたは本当に賢い」
「それにしても無茶苦茶だ。面霊気が立ちなおれなかったら、ふたりの恋は終わりだった」
「そうなったら、こいしは以前と同じに戻るだけです。何も考えられない、ただの見えづらい」
「面霊気はーーー
「こころさんが折れてしまっても、私の知ったことじゃありません」
「……反吐が出る」
「ヤマメさん。病気も絶望と分かったら、荒療治しかない。こころさんと恋仲になれば、こいしは以前よりも、たのしく生きられるかもしれない。
でも心をひらいたら、さらにたのしく生きられる。
私はさきが見たかった。
そのためにはこころさんが、善良なだけではなく、なおかつ妖怪らしく成長するしかなかったのです。
こいしの心を、ひらくほどの成長を。
私はかつて、人間の心にやぶれたことがある。だから私は……心の力を信じる。それは古来より、不可能を可能にする唯一の力なのです……そう信じてる」
「ふん。でも面霊気が立ちなおったからって、こいしが立ちなおれるかは別だろう」
「……」
「こいしは分裂病者だ、そうだろう! あいつは私と薬を作っているときも、独りで何か、ぶつぶつと言うことが多かった。誰かと話しているように。
ようするに! こいしは過剰に残酷な部分と、それを押さえようとする、善良な部分があったんだ。しかし、おまえたちは残酷さと不可分だ。
それを両立なんて、できはしない。だから最初に、霊薬を口にしたときに……それが破裂して、残酷な部分に支配された。
こいしが心を取りもどしたら、また残酷な部分と戦わなければならない。あいつの弱い心は、はたしてそれに耐えられるかな?」
「大丈夫。こころさんがいる。
きっと、今度はうまくいく」
さとり、店の出口に近づく。
「帰るのか?」
「はい」
「酒でも飲んでいかないか。私の慰めにつきあってくれよ。一流の妖怪に復讐さえも利用された、二流の妖怪の慰めに」
「仕事がありますから」
「そうかい」
「ヤマメさん、首を吊るのは已めておきなさい。あなたは私たちとちがって、友達が多いのですからね」
さとり、店を出る。
「何もかも、さとりの手のひらの上のようだ。
あっぱれだ、ここまでくると。
おまえは残酷な妖怪だよ。こいしなんて、比べられない。この世の誰よりも、残酷な妖怪だよ。それだけの残酷さを持ちあわせて、平気な顔をするんだからな。
もう……ぐちぐちと文句を言ってもしょうがない。結局のところ、復讐もひとりで成すことができない、二流の妖怪だったってわけだ。かまわないさ。死の代わりに、飲んだくれることにしよう。友達でも誘って、数百年も酔いきれなかったぶんの飲んだくれを。
そして隅の席に座って、いやしくも若者たちの物語を、さめざめと泣きながら、眺めてやるとしようじゃないか……できることなら、陰惨な終幕を期待して。
こいし……それに、こころ。私は……見ている」
第五幕 第三場
地霊殿の屋上より。
こころが現れる。
「聞け! こいし……聞け!
おまえのことだ。どうせどこかで聞いているんだろう!
よしんば近くにいないとしての、今の私の声は、地底の隅の隅までも。
いや、地の底を貫いて、はるかな天界にまで届くだろう!
魂のふるえの声だ!
私はおまえが好きだから、
おまえを見つけることができる。
おまえが空気に溶けこんで、
蜃気楼のように姿をけしても。
私には分かるんだ。
おまえが大渓谷にいようとも、
おまえが高すぎる山にいようとも、
おまえが深い湖にいようとも、
おまえが無限の砂漠にいようとも、
ひとつだけの私の心を、
おまえに与えてやる。
だから、おまえも私に感情を差しだせ。
横暴と思うか。
でも、すでに遅い。
おまえが望もうと望むまいと、その鋼の瞼をこじあけて、私はおまえの感情を手にいれる、
乱暴に。
私の感情を見ろ、おまえの心をひらけ!
ああ、感情があふれてくる。
無限の感情が。
分かるぞ。
こう言うときに、
どう言うべきか、
それが魂で分かる。
こいし……聞け」
(沢山の空気を吸いこんで)
「アイ!」
……。
「ラブ!」
……。
「ユー!」
こころちゃん……わたしは……。
第五幕 第四場
すべての心の大劇場より。
こころが現れる。能の衣装。手に薙刀を持っている。
こころを拒むように、劇場に霧が立ちこめている。それが舞台と観客席を分かっている。
「われ、能楽師なり。
しかして能楽師、ただ物語の影法師に過ぎん。
そのまなこが、
気にいらずば、
ただの夢を、
見たと思えば、
それでも忘れずと願う。
およそ舞、最良の出来でも、影に過ぎず。
しかして、最低の出来でも、見どころあり。
われ、まことを語る。
さいわいにして、叱りなければ、
それ、われわれの希望なり。
どうか、見よ!」
(第一幕の舞を踊る)
「四大感能・怒。
かつて乱世に、覚リの姉妹あり。
その姉妹、三人の僧兵に追いつめられしも、
姉、僧兵たちを狂わせ、それを打ちたおす。
やがて芦原国をさまよい。村々や追ってを打ちたおすも。
高名な僧に会いしは、
その身、地の獄に封じられる」
(第二幕の舞を踊る)
「四大感能・哀
その妹、まじない薬を知り、蜘蛛と会う。
蜘蛛とともに霊薬を作るも、その心、しだいに残酷さに囚われる」
(第三幕の舞を踊る)
「四大感劇・喜
やがて霊薬が作られれば。
その妹、残酷に目ざめ、地の獄に争乱をもたらす。
そして蜘蛛と袂を分かつ。その蜘蛛、復讐を誓い、それを魂に刻みこむ」
こころ、そこで舞を已める。
「残念ながら、ここからさきの物語はない。
なぜなら私は、それを聞きそびれてしまったから。
だから、このさきは私の空想。だから、このさきは私の望み。
私は好きなようにやる。
こいし、私は思うんだ。
おまえが心を失ったとき、
それはこんなふうだったって」
(第四幕の舞を踊りはじめる)
「即興能楽!」
第五幕 第五場 四大感劇・楽(Let me see your emotion.Look my mind)
(地底に霊薬が蔓延して、しばらくが経つ)
「歌)もし私が、誰かを狂わせないのなら。
哀れむことも、できなくなってしまうだろう。
もしみんながわたしのように、残酷でなければ。
慈悲もこの世にありえない。
ああ、なんてたのしいのだろう。
これが残酷に生きることなのだ!
今や霊薬が地に満ちて、貧民区のすべての妖怪たちが、単細胞の馬鹿になろうとしている。やがて貧民区を越えて、地獄の全土に、霊薬を蔓延させてやる。地獄の住民、そのすべてが狂乱し、怨霊が逃げだし、混乱が訪れる。その日は近い。その日はもう、そこまで来ている。乱痴気さわぎ、狂乱さわぎ……痛い!」
こいし、道ばたに転がっている、何者かにつまづく。
ぼさぼさで、くすんだ髪。みすぼらしい服。こいしはすぐに、その何者かを、きたならしいと思った。
しかし、どこかでその何者かを、見たような気がする。
しかし、誰かも分からない。
すぐにその場を離れようとする。
「えっ」
その何者かに、足を捕まれる。しかし相手は、何も考えてはいないらしかった。ただ無意に、こいしの足を掴んでいる。
そしてこいしは、その顔を見て、驚愕する。
「……お姉ちゃん?」
「……」
「お姉ちゃんなの!」
こいし、さとりの肩を揺さぶる。
「ああ、歌を、誰か、私に、教えて、くれ」
悲しい歌を。
昔の不幸を。遠くの異国のできごとを。
懐かしい、乱世と、人間たちを、しのぶる歌を。
かつてあり、これからも、ままある、世の残酷の悲しみ。
世の悲しみ、別れと、苦しみ」
「しっかりしてよ!」
「……殺戮!」
「し、し、し、信じられない……あの残酷で狡猾なお姉ちゃんが、たかだか霊薬なんかで、頭をやられるわけがない。お姉ちゃんはそこいらの雑魚とちがうんだから!
さあ、目をさまして! まもなく地底も、お姉ちゃんの好きな、残酷な世になる。そして今度は、ふたりで残酷さをたのしむんだ。
ねえ、起きてよ。しっかりしてよ、私を見てよ。
私のことを、考えてよう……」
こいし、瞳でさとりに語りかける。
「何も、ない……」
しかしその心には、何もないのだ。
さとりの心は霊薬で溶けて。
もう妹の声も聞こえない。
こいしがさとりを担ぎあげる。そして一目散に、ヤマメの店へ駆けていった。
「ヤマメ、ヤマメ!」
「……なんだよ、私を笑いにきたのか」
「お姉ちゃんが、おかしくなってしまったんだ!」
「一別して)ああ、それがおまえの姉か。当然じゃないか。おまえは姉を“ふぬけ”と言った。そう言うやつほど、心に穴があり、霊薬にはまりこむってものじゃないのかね」
「お姉ちゃんが薬なんかに頼るなんて、考えもしなかった!」
「おまえが望んでやったことだ!」
「解毒しろ、今すぐに!」
「ふざけるのも大概にしろ! 自分で霊薬を蔓延させておいて、今度は解毒だと? そんなことが簡単にできるか。よしんばできたとしても、何十年もかかるだろう。狂ったやつらに囲まれたまま、ふたりっきりで、何十年もな……おまえにそれが、耐えられると言うのか? 自分の残酷さも飼いならせない、おまえなんかに! だが、おまえが罪ほろぼしをすると言うのなら、手つだわせてやる。みんなを正気に戻すために」
「でも、みんなが正気に戻ったら、私はきらわれてしまう、まえよりも。私のしでかしたことをみんなが知って、私はどこにもいられなくなる……お姉ちゃんにも、きらわれてしまうかもしれない……それだけは」
「この期におよんで、まだ保身を考えているのか!」
「そんな、ああ……どうして!」
こいし、店を出る。
「おい、待て。どこへ行く! どこにも逃げられないぞ、ちくしょう……待てったら。まさか後始末を、私ひとりにやらせるのか!
そんなことは許されない。許されてなるものか。これは私の責任でもあるが、もう半分はおまえの責任だ!
ああ! この騒動の何倍もの災いが、おまえに振りかかるがいい。おまえのおかげで、私も頭がおかしくなってしまいそうだ。
でも、きちがいになるわけにはいかない。
あいつがどこかに消えるなら、
せいせいするさ……そうとも。
だけど、おまえがどこに消えたって、私は復讐を忘れない。
ひとまずは、みんなを助けることに、尽力するとしよう。解毒薬を作って、みんなを救おう。それが私にできること。独りになったって、成してやるさ。
私が酔っぱらいになるわけにはいかないんだ。
哀れみと慈悲で、心を支えて。
復讐の刃も研ぎすます」
……。
こいしは走る。しかし、どこにも逃げられない。あたりには、妖怪たちが転がっている。それは自分のしでかした光景だ。
残酷さに酔っていたこいしは、急に目がさめたように、そのしでかしに、後悔しはじめる。
「どうして何もかも、うまくいってくれないんだろう……」
あなたが産まれながらに残酷だからよ。
「こんなことになるなんて、思いもしなかった!
ちくしょう! あなたがわるい……あなたが! 産まれたときから、私の心に語りかける、残酷の化身の悪霊め!」
これがあなたの宿命なんだ。
「うう……」
こいし、うずくまる。すると瞳から、黒いどろどろとしたものが、にじみだしてきた。それが地面にしたたるごとに、こいしの肥大した瞳も縮んでゆく。
「ああ、こんなものがあるからいけないんだ! 毒を吐きだす、心のはらわた。どうして私たちは、産まれながらに、こんな面倒なものを、一生懸命に死ぬまで大切にしているんだろう? こんなにも苦しまなければならないのに、こんなにも誰かを傷つけてしまうのに!
こんなことになるのなら、心なんていらない! 消えろ、消えてしまえ。私の心に住みついた、残酷さの影法師!」
まもなく、瞳の中身が、すべて溶けだす。そしてみんなが、こいしのことを忘れるだろう。
誰もこいしを見つけられず、誰もこいしをきらわなくなる。
そして瞳は、小さく縮んだ。その中身は、地面を這って、どこかに消えて。
もう見つかることはない。
第五幕 第六場
(第四幕の舞が終わる)
「完成!
恋情能楽・喜怒哀楽。素面送心舞・感情摩天楼!
……見つけた!」
こころ、薙刀を振りまわす。
すると観客席の霧が晴れて、こいしがそこに現れた。
茫然自失。祈るように、自分の瞳をかかえている。
「どうした、拍手はないのか」
「拍手ですって!」
こいし、くすくすと笑う。
「観客に拍手を求めるなんて、はしたないよ。それに、最後の舞。あれは誰からも聞いていない、あなたの空想に過ぎないわ。拍手なんて、とてもできない」
「それはほかの舞でも同じだよ。おまえは“過去はぶつぎり”と言っていたし、蜘蛛の言葉は信用ならない。どの舞でも、同じことだ。
でも、それでかまわない。おどろくべきことは、古今東西の物語は……それが現実のできごとではなくて、ただの空想でしかないと言うこと。
この事実は現実よりも、空想のほうが、より心を動かすと言うことを示しているんだよ。
おまえもそうだったのだろう。
だから私のまえに、また現れてくれたのだろう」
「……見つかっちゃったよ。本気で隠れていたのにさ」
こころ、こいしに手を差しだす。
「こちらに。もう逃げられないぞ」
こいし、舞台にあがる。
こころの顔を近くで見て、
「……信じられない」
「最初の表情は、これがよかったんだろう」
恋がふたりを結めあわせて、
しらべを奏ではじめた。
すると拍手が聞こえてきて、
舞台のカーテンがとじられゆく。
こころが満開のひまわりのような、
最高の笑顔を見せて。
舞台が終われば、ふさわしいところへと。
ふたりは消えてゆくだろう、
恋をいだいて。
ふたりはこのさきも生きてゆく。
……。
大団円。
ふたりが幸福を手にした。
フィナーレ。
……。
「否!」
第六幕 第一場 開心劇(Little stone and shadiet)
……。
こころ、とじられゆく舞台のカーテンを薙刀でずたずたに切りさく。
こいしが顔に驚愕を浮かべる。
こころは、不敵に笑っている。
心の強い、何事をも成す、自信のあふれる表情で。
「こころちゃん?」
「こいし、まだやりのこしがある」
こころ、こいしに薙刀を向ける。
「おまえが心をひらいていない。それでは終われない」
「でも、言ったじゃない。瞳の中身がないんだって」
「いや……それは、すぐ近くにある。それは“とても”近くにある。
よく見ておけ。これから起こることを。
私が心を、炙りだしてやる」
こころ、薙刀をかまえる。
「でも、私ができるのはそこまでだ。
だって私は能楽師だ。
私はおまえの悲劇をこうして演じてみせたけど、あくまで演じただけでしかない。
この舞台の主演、それはおまえなんだ。だからあとは、おまえが成せ、自分の手で!」
……。
「そう叫ぶと私は飛びあがった!
そして縦横無尽に劇場を駆けめぐり、あちらこちらを壊しはじめる!
まるで劇場のすべてが、まやかしでしかないと言いたげに。
舞台が壊れ、観客席が壊れ、ライトが上部から落ちてくる!」
しかし、こころは思った。
“本当にこれでよいのだろうか? こんなことをしなくても、私たちの関係は、うまくいくかもしれないのだ。こんなことをしでかすために、また関係がごちゃごちゃになって、これまでのすべてが無駄になってしまうかもしれないのだ”
そして、こころは思いとどまる。
急に立ちどまると、薙刀をおさめてーーー
「おさめない!
私は大劇場のすべてを、滅茶苦茶に壊しつくした!
そして最後に、こいしに向かって、薙刀を構えて、突きすすむ!」
止まれ!
「しかし私は、こいしを切りさくために、彼女へ飛びかかったわけではなかった。
私は薙刀を、こいしの足元に振りかざし……彼女の影を、切りはなす!」
「こころちゃん!」
「終わらせる」
第六場 第二幕 開心劇(Little stone and shadiet)
……。
「誰かが近くにいる気がする」
……。
「それは私に、いつも語りかけている」
……。
「それはとても近くにいる。私の敵は、すぐ近くにいる」
……
「そうだ、思いだした。敵のことを。いや、私の残酷の化身のことを」
……。
「私の瞳はどろどろと黒く溶けだして、私は心を失った。
でも、それでは終わらなかったんだ。
見つからないわけだ。黒いものに、黒いものがまじりあったら……それが見えるわけがない。
こころちゃんに切りわけられて、ようやく思いだしたんだ。
私の瞳は、溶けだしたあと、ずっと影に潜んでいた! 信じられない……見つからずに、何百年も!」
わたしはあなたの心。こんなふうに、あなたが心を望むとき、わたしはあなたに語りかけ、それを妨げた。
「どうしてそんなことを」
わたしが心なんて要らないと思ったからよ!
ヤマメの言うとおりよ。私は保身のことを考えている、最低最悪の畜生よ!
心をなくせば、もう私は苦しまないし、誰も私をおぼえられない。そうすれば、もう私は誰にもきらわれないと思ったから! ……だから……心をとざして……無意に頼ったのよ。なのに、あなたは心もないくせに、こころちゃんに惚れてしまって……隙ができた。
こころちゃんになら、心を見せたいと思ってしまったから。
わたしは引きずりだされてしまう。こんなふうに表の舞台に。
「……」
おかげですべてがだいなしよ。何百年も、こうして隠れていてのにさ……“影法師”だなんて、こころちゃんに夢の中で、答えまで教えちゃった。
「……」
それで、どうするの。
「何が?」
とにもかくにも、あなたは心を見つけてしまったんだ。でも、だからって心が戻るわけじゃない。
あなたには選択肢がある。心を取りもどすのか。それとも心のありかを知ったうえで、今度は二度と戻らないように、封じてしまうのか。
「……悩ましいところよ。心を取りもどしたら、みんなが私をおもいだす。私のおこないは露見して、私は以前よりも、はるかにきらわれてしまうだろう、でも……」
……。
「今はみんなにきらわれてでも、心を見せてあげたいひとが、できてしまったから。私は心が欲しいと思う」
いいのね。無意でなくても。あなたは残酷になる、また苦しむことになる。それでかまわないと言うのね。
「ほかのどんな感情が私を苦しめても」
……。
「これからは恋が、私を救ってくれるんだってさ」
……こころちゃんを見ていて、分かったことがある。
「何?」
どれほどの大渓谷でも。
どれほどの高すぎる山でも。
どれほどの深い湖でも。
どれほどの無限の砂漠でも。
……その感情には、勝てるはずがないってわけだ!
〈エピローグ〉
(場所の指定はなし。
物語を語る、影法師もいなくなる。
それはこいしの瞳に戻った。彼女の瞳は、以前のように肥大している。
ふたりが見つめあう)
「いいんだね、これで本当に。
私は心を取りもどした。
まもなくみんなが、私のしでかしたことを思いだす。
私の傍にいたら、あなたもみんなにきらわれるでしょう。
それでもかまわないと言うの?」
「大丈夫。私には分かる。
私たちは、ふたりならうまくいく。
これからは、すべてがうまくいく。
摩天楼のような、ひとつの感情が、
私たちの背骨にはいりこみ、
私たちを支えてくれるから」
「その感情の名前は?」
(こころが満開のひまわりのような、最高の笑顔で言いはなつ)
「恋!」
影法師(Unreliable Story Teller) 終わり
場所 幻想郷
非人物 古明地こいし 主演
秦こころ I Love You!
敵 影法師
古明地さとり お姉ちゃん
黒谷ヤマメ 復讐者
村紗水蜜 舟幽霊
雲居一輪 尼
封獣ぬえ 鵺
幽谷響子 門弟
火焔猫燐 猫・下女
人物 三人の僧兵
高名な僧
〈プロローグ〉
すべての心の大劇場より
しかし無意を望むなら
ふたりの恋を見るなかれ
すべての心ある者たちよ
あまたの空席をたたえる、静まりかえった心の中の大劇場。その入り口の上に備えつけられた時計が五時十四分を示すとき、舞台を隠していた赤いカーテンが、ゆっくりと左右にひらいて、秦こころが現れる。
(同時にスポット・ライトが点る)
こころが客席に向かって、
「私は感情の摩天楼。
おまえの瞳がとじようと、
すれば必ずつなぎとめ、
秋夜の夢に終わらせぬ」
(口上が終わると、ライトが消える)
また劇場が暗闇と、しっとりとした沈黙に包まれる。
……。
自分の表情も見つけられないのに、わたしの心をつなぎとめられると言うの?
こころちゃんにわたしは見つけられない。
わたしの残酷の宿命が、
わたしたちを引きさくために。
……。
それでも、
あなたが、
私に恋をしているのなら。
大渓谷に阻まれても。
高すぎる山で挫いても。
深い湖へ飲みこまれても。
無限の砂漠の虜になっても。
まだわたしに恋をするなら。
そのときにわたしの心をひらきます。
そして見事に、わたしのまことの姿を捕まえてみせなさい。
「わたしは心の影法師。
無意の瞳がひらこうと、
すれば儚い空夢を、
見たと思っておわすれを」
第一幕 第一場 謡本作曲(A Mid-Fall Night's Dream)
命蓮寺より。
(ライトが点り) 幽谷響子が寺の門前に現れる。
「近ごろの朝は寒くなってきた。秋夜の日の入りはとても早く、真逆に日の出の遅いこと。でも今にこうして、目を細めなければまともに見られないような太陽が、赤い風木の葉に染まる、妖怪の山のいただきから昇ってきた」
光が門前を照らすとき、響子が視界の端に、何者かの影を捉える。
「誰?」 と振りかえる。
しかし誰も認められない。
そして響子が前に向きなおったとき、その正面へ古明地こいしが、急に亡霊のように現れる。
「おはようございます!」
「腰を抜かして)うアッ!」
「近ごろの私は、朝の冷えこみで、皮フが切れそうだと思う。でも昼は暖か。昼寝の陽気。そして夜はまた、冬の報せのさきぶれと眠る。おはようございます!」
「おどろきました。おはようございます! (立ちあがる)まだ務めも終えない、この早朝の寺にどうされました」
「こころちゃん」
「はい?」
「探してます!」
「こころさんは本堂前の広場にいますよ。誰も起きない、朝夜のはざまの時刻から、能の練習をしていたようです。熱心ですよね」
「ありがとうございます!」
こいし、広場へ向かう。
そして薄むらさき色の髪を、笹川ながれのように空気へ這わせ、華麗に能へ興じている、こころを見つける。
「ようやく見つけた。こころちゃんは私を神出鬼没と言うけれど、それは互いに言えることよ。
私が寺へくるまえに、足をはこんだ神霊廟に、あなたはどこにもいなかった」
こころ、舞を続けるままに言う。
「私とおまえは宿命のかたき、
おまえの望むところに、
なぜ私が現れねばならずや、
話しかけられること、煩わしく思い候」
と言いまわしつつも、こころの頭上で翁(喜)の面が漂う。
「嘘はよくないよ! 私が来て、本当はうれしいんじゃん?」
「うるさい」
こころ、面を般若に入れかえる。
そして舞を已める。
「こころちゃんは表情がないわりに、六十六の舞面が、どれも豊かで正直すぎるよ。あなたは嘘が似あえない。
古今東西より、仮面の役割は、顔のはたらきを隠すこと。なのにこころちゃんは自分を隠すどころか、あらわすために使ってる。その使いかた、変わってるね」
「そう言うおまえのほうは、仮面をつけていないのに、なんの感情も伝わってこないから、まるで仮面の化身だな」
そのとき寺の西側で鐘が鳴る。
「あの鐘を鳴らすのは誰?」
「あの鐘を鳴らすのは水蜜さん。幽霊は眠らない。病も知らない。だから鐘を任されている。時をいつでも、正しく伝えられるから。あれは朝の七時を告げる鐘」
「病を知らない?」
こいし、あざわらうように(見える)言う。
「水蜜は心の病気だと思うよ」
「ふん、おまえは心をとざした哀れな覚リ。何を根拠にそんなことを口ばしるのか」
「こころちゃん、言いたくないけど……周りに影響されて、順調に口がわるくなってるね」
「そうかな?」
「私が言うのは、自分のあやふやな記憶に根を張る、苦渋に満ち々ちた、沢山の想いたちに元づいて。
私は地底にいたころのみんなを知っているから、水蜜の病を知るんだってさ?」
「だってさってなんだよ!」
「よくおぼえていないから」
こいし、思いつめるように(見える)言いなおす。
「おぼえていることもあるよ、最近は。 (自分の瞳を持ちあげて)これをとじると、みんなは忘れてしまったけど、私はみんなの友達だったんだよ……多分ね」
「一輪さんも?」
「ぬえさんも、ヤマメも」
「最後の名前は知らない」
「地底のいびつな絆なの。それだけは絶対に、閉心しても切りさけない」
「急に西の空を見て)……おや?」
「聞いてよ!」
「見ろ。はるかに西、魔法の森の方角から、雨雲が出ているぞ」
「雨が降るのかな?」
「穏やかな日に水をさすのは、
宿敵と曇天に候。
これにえにしありしか、
いかに波乱ありしや」
しばらくすると雲が流れついて、こころの右頬に一粒の雨が落ちる。
「あっ……涙」
「何?」
「その頬をつたう雨が、涙に似てる」
「無表情で)悲しそうに見えるか?」
「別に……」
「いつか本当の悲しみを知りたいな。その悲しみが、私に表情を与えてくれることを願って」
「そんなの要らないよ、そんなの悲しみを知らないから言えるのよ。最初に見るこころちゃんの表情はひまわりが見たい、ひまわりのような笑顔ってことよ。満開ね」
雨が強まる。ふたりが寺の中に避難する。
第一幕 第二場
(朝よりも雨音が強まる)
夜の寺の一室より。
早々とだされた炬燵に、こいしとこころが潜りこんでいる。
炬燵の上にふたりの茶がだされている。
こいし、黙って茶をすすっている。
こころ、筆と巻物を相手に固まっている。
「昼ごろから、そのスクロールと向かいあっているわりに、何も書いていないね。何をしているの」
「ンー」
「ねえ」
「……」
「退屈!」
「うるさいなあ」
そのとき足音がして、室に酒気を帯びた雲居一輪と封獣ぬえがはいってくる。あとから村紗水蜜も、酒瓶をかかえてはいってくる。
「ぬえが)誰かいるのか」
「こころが)ぬえさん、破戒だ!」
「私は尼じゃないから」
一輪、水蜜、ぬえが炬燵に潜りこむ。
一輪が水蜜から瓶を引ったくる。杯を取りだして、酒を注ぐ。
「いつもこの時間になるまでは、聖さまにばれないように、飲まないように……でも鵺さんがどうしてもって言うから、私の室でひそひそとね……」
「こころが)一輪さん、酒くさ!」
「こころは泊まっていくの?」
「私とこいしに昼ごろ“雨だから泊まりなさい”と言ったのは一輪さんだけど」
「ん……忘れた」
「そう……」
「忘れましたあ」
「分かったから」
「忘れましたあ」
ぬえ、勝手にこいしの茶を口にする。
「緑茶かよ……苦いぞ、々いぞ」
「それ私の!」
「わアッ。なんだよ、いたのかよ」
「最初からいたよ!」
「と言うか、誰だっけ?」
「また忘れてる!」
「ええ? 何、うるさい……声が。眠たいなあ」
「私はこいし。こころちゃんが言うには心をとざした、哀れな覚リなんだってさ。今日はおぼえてね」
「覚リのくせに心をとざしたのか。ただの雑魚じゃん」
しばらくすると、一輪とぬえが酔いつぶれる。
水蜜、安心したように言う。
「眠ったか。ふたりは酒癖がわるいんだよ、ごめんね」
「こころが)水蜜さんは飲まないのか」
「飲めないの、死んでるから」
「私はあなたが食べたり、飲んだりしているところを見たことがあるぞ」
「気分しだいなのよ。正しく言うなら、私は酔わない。だから飲まない。それにこの口が食べた物者が、すべて虚空に消えてしまうと信じているから。それって勿体ないじゃない」
「信じている?」
「本当のところは分からないの。ただ私の胃が満たされず、また喰らった者物が外に出てこないと言う事実がある」
「私も同じだ、酔ったりしない」
「あんたはちがうよ」
「何が?」
「幽霊より面霊気のほうが……上等だ」
水蜜、思いついたようにこころを見る。
「酔わないと言うなら、あんたも阿片を吸ってみる?」
こいし、わずかに視神経をふるわせる。水蜜を見て、咎めるように(見える)言う。
「こころちゃんには、危ないんじゃない?」
「大丈夫だって、妖怪なんだから。取ってくるから、すこし待っていて(退室」
こいしがこころに教える。
「阿片は情緒を慰める薬なの。それは地底の特産なのよ。そう……大丈夫……妖怪は……多分ね」
「こいしは使ったことがあるのか」
「それは、あるよ。みんながある、地底のみんなが。でも……このとおり、元気よ。
そう、今でもおぼえてる。
蜘蛛だった。
蜘蛛がそれを地底に持ちこんだころ、私たちの情緒は、はちきれそうになっていた。
私たちは乱暴者で力がありあまっていたのに、矛さきを向ける人間は地底になく、心は萎えて衰えはてていた。阿片は心の暇つぶしに、まさにおあつらえだったのよ」
水蜜、小箱を持って戻ってくる。座ると箱を開けて、阿片まじりの煙草を取りだすと、口にくわえる。マッチで火を灯すと、一服して、煙を吐く。
「幽霊の情緒を救うのは阿片のみ。酒は平等じゃない。でも神さまは阿片をくれた。私もこれで酔うことができる。これだけは、そうなのよ。この体の内で、何が起こっているのだろうね? (また煙草を取りだして)ほら、こころも吸ってみなさい」
こころ、煙草をくわえる。マッチを貰い、火を灯して、深々と煙を吸いこむ。
こいし、心配そうに(見える)聞く。
「平気?」
「特に、何も。私には効かないのかもしれない」
「そう、よかった。こころは悩みがないんだね。そう言うのは、情緒が滅茶苦茶なやつほど効くから」
「水蜜さん、失礼な。私はまさに今、大きな悩みをかかえているところだ」
こいし、からかうように(見える)言う。
「こころちゃんが?」
「この悩ましそうな顔を見ても分からないのか!」
「無表情だけど……」
「そうだった、私は表情がないんだ」
「馬鹿?」
こころ、目のまえの巻物を持つ。
「これが私の悩みの種だ。この高尚な悩み、頭がすかすかのおまえに分かるまい。教えてやろうか」
「言いたいんでしょう」
「聞いておどろけ、見ておどろけ。私は能の台本を、作曲しようと試みているんだよ。私も能を続けてしばらくになる。そこで世間をおどろかせるような、すばらしい舞を創ろうと、近ごろ決心したところだ」
「それで昼ごろからスクロールとにらめっくらをしていたの」
「そうだとも」
「でも白紙なんだね」
「耳の痛いことだ。実際のところ、何を書けばよいのかも分からないんだ。物語を紡ぐと言うのは、思っていたよりもむずかしいな。
ああ! 古来の歌人は、どう言うふうにすばらしい物語を紡いでいたのだろう。どうしてあんなふうに、すばらしい物語の数々が、まるで泉のように湧きでたのだろう」
「水蜜が)好きなことを書きなさいな」
「私は何が好き?」
「自分の“好き”が分からないの」
「どうだろう……」
「こころは産まれたてなんだ。ゆっくりと鏡の中の自分と向きあいなさい。私たちのように、苦難の力で、育てられることはない」
こいし、いぶかるように(見える)言う。
「意外と甘やかすのね」
「昔のやりかたに従う必要はない。あれはあれでたのしかったけれど、力で奪うのは飽きた。今は冬の魚のように、静かに暮らしていたい」
話しているうちに、一輪が目をさまして、体を起こした。抜けきらない酒が、彼女の体をふらつかせる。
「う、う……」
「水蜜が)おはよう、大丈夫?」
一輪、たまらず水蜜のほうにしなだれかかる。そして偶然にも、ふたりの顔が、口づけられそうなほどに近づく。
第一幕 第三場
時が止まったように、みんなが黙りこむ。
こころは今にも触れあいそうな、その唇を通して、急にふたりのあいだに芽ばえた感情を、喰いいるように見つめる。
それはしっとりとして、熱っぽかった。
「阿……片の香り」
一輪、その香りの懐かしさにうっとりと呟く。
「ごめん!」
しかし一輪は、こいしとこころに、自分たちが見られていると気がつくと、はじかれたように、水蜜から離れようとした。
水蜜、その離れてゆく肩に手をかける。彼女の指が、一輪の肩にくいこむ。
「こころ、こいしさん。私たちはさきに寝る」
一輪、恥ずかしがるように顔を赤らめる。
「ちょっと……」
「おいで」
「こいしが)水蜜、幽霊は眠らないって聞いたけど」
「眠るよ」
水蜜が一輪の手を引いて室を去る。
「行っちゃったね」
「とまどうように)うん……」
「どうしたの」
「何が?」
「声が小さいと思ってさ」
「いや……じつはふたりの中に、見たこともない感情が芽ばえたので、おどろいてしまったんだ。あれの正体は?」
「ええ? あれって、あれよ……」
「あれ、とは」
「私の口から言うのは……」
そのとき、ぬえがむくりと起きあがる。
「言ってやれよ。性交だって」
「性交!、?」
こころが無表情で、顔を赤らめる。
「一輪もムラサも、互いの顔が急に近くに来たので、ときめいてしまったってことだろうが」
「でも女と々で……そもそも水蜜さんは幽霊じゃないか、そんなことできるものか」
「できるよ。しようよ思えば、なんとでもできるよ! 恋の道は、茨であればあるほどいい……日の光が地上を照らして幾千年。しかし私たちは地下にとじこめられた。それがどれだけみじめで、まともでいられないことか。痛みを癒せるなら、幽霊とでも夜を過ごすさ。
面霊気。地下にいるやつは、どいつもこいつも、頭がおかしくなってしまうんだよ」
「こいしが)酔ってる?」
「陶酔が私を助けるなら、酔いつづけるよ」
「いや、いや! あなたは酔いきれていないわ」
「酔いきれない! なんと言う、狂おしさ……地下の呪いだ」
「なんだか分からないが、今のふたりの感情が、私はとてもきらいだ。おまえたちは狂ってる」
「私たちだけだろうか? ……幽霊性愛癖が一、溺殺癖が一、閉心症が一、無表症が一……このようにかぞえてゆくと、いずれ百になって、すべての者が狂っていると証しされると思わないか」
「屁理屈だ!」
「理屈で狂いが計れるか。そんなことだから、能も書けないんじゃないの」
「聞いていたのか?」
「ばっちりとね……鏡の中の自分も育てないで、物語を紡げるのか。おまえは産まれたてだし、周りのやつらは善良すぎる。それではおまえのための物語は、まだ書けないよ」
こいし、よそよそしく(見える)ふたりをなだめる。
「まあ、まあ! ふたりとも落ちついて。こんな夜中に、そう騒ぎたてることもないよ。迷惑になる、いい時間だし、そろそろ解散しようよ」
(それぞれが室を出て、思い々いのところへ去る)
こころ、本堂に向かう。
祀られた毘沙門天像。威厳ある顔が正面を見ている。
こころ、舞を踊る。
「つくもの時に導かれ、
ついに有象無象の面を脱し、
小異変を起こして幾年月。
われ、まことの心と顔のあらわを求めるも。
その望みいまだ叶わず。
鵺が言う。
“なんじ鏡中にいまだあらず”
そして皆の心、
摩天楼のように立ちはだかり、
あとは嵐のように過ぎさるのみ。
舞を已めて)ああ、不愉快だ。ふたりのあいだに芽ばえた感情は、いったいなんだったのだろう。それにしても、あれはひどくどろどろとしていて、とても持ちあわせるべき感情とは思えない。その醜さ……その苦しさ……でも、どうしても惹かれてしまうものがある。
仏さま。感情があるために苦しむならば、それはなんのためにあるのか。感情がなければ、獣になるしかないとしても、なぜ体の中に、自分を苦しめるはらわたを、産まれながらに持っているのか、私にはよく分からない。教えてくれ!」
仏像は何も答えない。
「真実は自分で知れと言うわけか。まさに今! 私は神も仏も信じない者の感情を、わずかに解した気がするぞ。よろしい、では自分の足で感情の謎を探るとしよう」
こころ、本堂をあとにする。そして一輪の私室のまえに現れる。
さきほどよりもひどい雨の音。怪魔のいななきのような雷鳴まで、天にとどろきはじめる。その音にまぎれて、ゆっくりと戸に手をかける。
「小声で)見るべきか、見ないべきか、それが問題だ……すこし、すこし覗くだけでいい。中には穏やかに眠る一輪さんがいて、水蜜さんも私室で朝を待っている。それで終わりだ」
こころが音を殺して、わずかに戸を開ける。
「見るな」
そして戸の裏側で待ちかまえていた、緑の瞳に射すくめられて、固まった。
(ふたりが目を合わせたまま、十秒ほど動かずにいる)
「小声で)何か用? それにしても、こっそりと室を覗きみようなんて、どう言うつもり。あいにく私は、生きもの気配には、敏感なんだよ。死んでるから」
「……」
「おい」
「な……んで一輪さんの室に」
「ねえ、別に怒ってないんだよ。ただ私は思うんです。そう言うふうに、むっつりと黙っているのが、何よりも卑怯なやりかたなんだよ……とね」
「好奇心だ」
「ふん?」
「だから、好奇心……」
「それは満たされたの」
こころ、あわてて首を縦に振る。
「そう、なら……もう見ないで。一輪がいやがるから」
戸が閉められる。
こころは何か、怖ろしさとしか呼べない感情のとりこになって、壁にもたれると、ずるずるとへたりこんで、こう呟いた。
「なんてつめたい感情だろう……」
こころはやがて立ちあがると、門前まで足早に向かった。とにかく寺を出ようとした。それにしても、彼女は体を打つ雨が、これまでにないほど痛かった。雷の音は鞭のように、自分を責めたてているのだと思った。
しかし、あとすこしで門を潜ろうと言うときに、
「わアッ!」
何かにぶっつかって、同時にこいしが現れる。
ふたりが転ぶ。地面に叩きつけられる。
こいしが立ちあがりつつ、
「危ないじゃない!」
「すまない、見えなかった」
「うん? へへ……どうしたの。そこは“おまえが見えないのがわるい”でしょ」
「ここで何をしていた」
「さあ、分からない。気がつくとここにいた。気がついたのは今だけど」
「私は今、どんな顔をしている」
「いつもどおりの無表情だけど」
「……そうか」
「こころちゃんこそ、外でどうしたの」
「私は……自分の未熟さについて考えていた」
「どうして、どうして! ぬえさんに言われたことを、本気にしているの? あんなのはこころちゃんの青くささに、嫉妬しているに過ぎないんだ。緑の目をした魔物に煽られて、あなたをからかいたくなったんだよ」
「おまえの!」
こいしは顔に笑顔を張りつけている。まるで仮面のように。
「おまえの、その張りつけたような笑いが……本当に……きらいだ!」
「……」
「こうまで言っても、その心は動かないだろう。私はおまえが心をとざしたわけが、分かるような気がする。おまえのかつての読心の力と、この感情的な力が似ているために。
認めなければならないのは、感情は私の希望であっても、みんなにとっては、苦しみの根元であると言うことだ。感情を見るのはまことにつらく、得ようとするとなおもつらい。
私は何を見たんだろう? あんなにつめたい感情があるなんて!
(こいしに手を伸ばし)つらい、助けてほしい。ほかならぬおまえに。私の胸は張りさけそうだ」
こいし、その手をやさしく両手でつつみこむ。
「こころちゃんは宿敵と言うけれど、私はあなたを、友達だと思っているよ。
あなたには、私のように挫折してほしくない。心や感情を解そうとすれば、おぞましさからのがれられないとしても、あなたには前を向いて、生きてほしいんだ。
私にできることはある?」
「私は産まれたてだ。経験もなく、歴史もない。自分の物語を紡ぐことはできない。
だから誰かの手を借りなければならない……私の物語になってくれないだろうか?」
こいし、虚を突かれたような(見える)顔をする。
「それはつまり、私をあのスクロールに、書きとめると言うことかな?」
「そうだとも。感情を解するのはむずかしく、私はあまりに若すぎる。
おまえの鏡を借りるならば、私も物語を紡げるかもしれないだろう。
私の最初の友達よ。
私が感情を知るために、きみの心の深み、どうか一から十まで教えてくれるだろうか?
それにしても不思議な感情だ。おまえのことを知りたいなんて。
こいし……この感情はなんなのだろう?」
第二幕 第一場 四大感劇・怒(King Cruel)
ふたり、寺の中に戻る。
「着がえはすませた?」
「うん」
「こころちゃんに襦袢は似あわないね」
「寒くないか?」
「寒いよ、炬燵にはいりたい」
「雨の中で話すなんてどうかしていた。私は大丈夫としても、おまえは風邪をひかないのか」
「人間の定めた病なんて、患うものですか」
「よかった」
「こころちゃん。本当に私のことなんて知りたいの。きっと……つまらないよ」
「それは私が決めることだ」
「分かったよ。でもゆめゆめ忘れないでいて。私の瞳はとじられて、失われた想いも多い。過去はすべて、ぶつぎりであり、本当かどうかも分からない。
こころちゃんがもし、つまらないと感じたならば、夢と思って忘れてね」
(ライトが消え、また点ると、ふたりの姿は消えている。そして景色も一変して)
劇中劇の古明地さとりと、劇中劇のこいしが現れる。
山中の廃寺。こいしはその広場の倒木に、さとりは風化した石仏に腰を降ろしている。
「やつらがくるよ」
「どこにいる」
「山の麓」
「そんなに遠いのに。こいしの瞳は本当に敏感ね」
「已めてよ。誰のおかげで、僧兵に追いかけられているのよ。お姉ちゃんが近くの小村を、考えなしに襲うからじゃない」
「考えはあった。人間を誑かすと言う考えよ」
「考えって言うのは、あとさきのことよ。近ごろのお姉ちゃんはどうかしてる」
「じゃあ、私から離れる? その頭よりも大きい、邪魔くさい瞳をかかえてね」
「……」
「ねえ、何もかもあんたのためなのよ。あんたの瞳が、ふところに隠せないくらい大きくて、人間にまぎれこめないから、こうして方々をうろついて、生きながらえているんじゃなくって?」
「……嘘つき。お姉ちゃんがうろつくのは、自分の残酷趣味の生贄を、探しているからよ」
ふたりがそのうち、物陰に隠れると、劇中劇の第一の僧兵、劇中劇の第二の僧兵、劇中劇の第三の僧兵が現れる。
(狐の面をつけて、一輪と水蜜と響子が演じる)
第一の僧兵と、第二の僧兵が話しはじめる。
「第一の僧兵が)見ろ、足跡だ」
「第二の僧兵が)風水師の言うとおりでした。あるいは無駄足になるやもと、思っていましたが」
「まだ遠くに言っていないかもしれない」
「やつらは心を喰らうと言う。それをかどかわし、取りいるのです。くれぐれも独りにならないように。そして慎重に」
それぞれ完璧な武装。胸あてをして、手に短槍を持っている。
「こいしが小声で)比叡山の戦僧だ」
「心が強いわ」
「逃げよう。見て、あの鬼を踏みつける仏像のような鋼の意志。あの心をひらいて、屈服させられると言うの?」
「追いつめられたら、ときには無分別も役に立つ」
「逃げないと……」
「いや、憎悪を感じたい」
さとり、気がつかれないように第二の僧兵に手を向ける。
第三の僧兵が、第一の僧兵に話しかける。
「こころ喰らいを討ちとれば、延暦寺の武力も、さらに乱世に轟くことになろうぞ」
「ああ、近ごろひどい世の中になった。どこへ言っても、侍どもが戦、戦。どこへ言っても血の臭い。大切なのは力を知らしめることだ。ひとたび力が劣っていると侮られると、たちまち悪鬼どもの争いに巻きこまれる」
そのとき突然、第二の僧兵があとずさる
「なんだ、おまえは!」
「第一の僧兵が)どうした」
「二人はどこへ消えたのか!」
「第三の僧兵が)様子がおかしいぞ」
「仏の加護を! おまえがこころ喰らいか。はたまた別の悪鬼か。二人をどうしたか分からないが、その手際は認めよう。しかし私は、独りになろうとも諦めはせぬぞ!」
第三の僧兵、叫ぶ。
「幻を見せられているのか!」
槍を構える暇もなく、第一の僧兵が第二の僧兵に刺しころされる。
腹を貫かれて、地面に倒れこむ。
「なんと言うことを!」
「槍を振るい)おまえも閻魔の膝元へ向かうがよい!」
「已めないか! 私の顔を見ろ。ともに荒行を乗りこえた友だ。已めろと言うのが、分からないのか!」
槍がぶっつかりあい、死闘が演じられる。
それを物陰から眺めて、さとりがひかえめにくすくすと笑いだす。
「やった!」
「何をしたの?」
「あの人間は非才で、自分をほかの二人のくらべて劣っていると心の隅で信じていた。その劣等感が、幻の魔物をかたちづくる」
「……残酷」
「ほら、戦いが終わる」
やがて第二の僧兵が腹を突かれる。第三の僧兵も傷つき、疲弊して、息たえだえのありさまである。
「許せ」
「友よ、わたしは。おお……」
「目をさましたのか」
「そうです……しかし、さめずに逝きたかった。そうすればこの誤り、気がつかずに済んだものを」
「大丈夫だ。おまえは正気に戻った、名誉を取りもどしたのだ」
「傷の舐めあいは已めろ!」
さとり、どなりつけて二人のまえに飛びだしてくる。
唖然とするふたり。さとりが倒れこんだ、瀕死の第二の僧兵に近づいて、
「何を美談にしようとしているの! おまえは友達を殺したんだ。
と、も、だ、ち!
そんなの、そんなの、ただの馬鹿だよねえ」
「うう……」
「馬鹿! 馬鹿、々々、々々、々々!」
「友よ、わたしは……おお!」
第二の僧兵が、涙を流して、息を引きとる。
「死んだ! 絶望して、死んだわ!」
残された第三の僧兵が、ふらふらと立ちあがり、槍を構える。
「何がおもしろい、何を笑っている。心を弄ぶのが、それほどまでにたのしいのか!」
「身もだえし、よろこびに打ちふるえ)ふウーー……ふウーー……殺戮!」
「狂っている!」
「この見事な手のひらがえし。人間精神が私たちを残酷に創ったくせに、いざ殺すと文句を言うしかけだ」
「いつもこのようなことを?」
「そうよ。これは乱世に学んだことだけど、平穏よりも殺戮のほうが、気が利いていると思う。昔から不当にきらわれるのも、私たちの瞳のしわざ。いかに善(ヨ)く生きたところで、これではすべてがだいなしだ。ならせめて、好きなように暴れて死ね。残酷なのは産まれつきとしても、それを気がつかせたのはおまえたちよ」
「……殺せ」
「どうして、どうして! 殺されたいと思っているやつを、わざわざ親切に殺さなければならないの。戻って延暦寺に伝えなさいな。くるならこい、誰であろうと、殺してみせるとね」
「……」
「戦意喪失。つまらないわ、槍を置いてしまったら?」
第三の僧兵、去る。
こいし、物陰から現れる。
「こいし、どうして泣いているの」
「お姉ちゃん、どうして泣いていないの」
「涙なら流したわ。産まれたとき、感情まみれの世の中に押しつぶされて。そして乱世が来たり、争いや飢餓や奸計や心中を見て分かったのよ。ただ妖怪らしく振るまうべきだとね。
哀れな妹。あんたの瞳は大きすぎた。だからこそ私よりも、心を知り、そのぶん残酷にできているでしょうに。心を喰らわないのなら、なんのために産まれたのか?」
ふたり、全国を歩きまわる。
現れては殺される、延暦寺の刺客たち。さとりに滅ぼされる村々。
そして乱世が終わるころ、ふたりのもとに、劇中劇の高名な僧が現れる。ぼろぼろの法衣をまとい、手に蓮のかたちをした托鉢碗を持っている。
(般若の面をつけて、ぬえが演じること)
「初見になる。出羽三山は月山の僧である」
「延暦寺の坊主ども、ついに面子も諦めて、北の修験道まで雇ったのか」
「わたしは自分の意思でここへ来た。しかし、その背景に延暦寺のえにしあり。三人の僧兵の物語を知っているか?」
「ああ、聞いたわ。残ったやつは、首を吊ったそうね」
「お姉ちゃん、逃げよう!」
「あんたは黙ってなさい!」
「あの物語に心を動かされて、私は立ちあがった。乱世を東へ西へ、心を喰らいにふたりの覚リが現れる。そして人々を狂わせるのだ。おまえはそのさまを見て、口を釣りあげ、魂の毛をよろこびでさかだてる。まさに人非人の模範よ」
「思ったよりも分かるやつね。そう、私は人非人の模範を守っているのよ。妖怪が人間を襲っても、それは別に罪悪ではない」
「そう、逆もしかり」
「私に勝てるとでも?」
「わたしのほうが強い」
さとり、額に青筋を浮かべる。
「やってみろ、その心を暴いてくれる!」
さとりが手をかざして、乱心をしむける。しかし高名な僧の心は、まるで一本の鉄芯が支えているかのように、動かしがたいのである。
それは清くて、貧しかった。
さとりが唖然として、こいしは叫ぶ。
「そいつは貧者だ!」
「邪念がない! 信じられない……」
「わたしには豪華な法衣もなく、絢爛な寺もない。つまりは清貧の道。この世にこれより動かしがたい心はない」
そのとき突然、ふたりの足下の地が裂ける。地獄につうじる鬼門である。
「鬼門をひらく、密教の秘術」
「ちくしょう! (地に沈みこみながら)この血流の音を聞け! おまえを呪うために、八股の蛇のように猛るこの血流を! 地獄に落とせば、私が落ちつくと思うなよ。亡者どもを奴隷にして、かならず復讐のために現れてやる!」
「おまえの中には魔物がいる、その連れにも。さらば、さらば! 奈落で心を改めるその日まで……ひらいた門は、とじられなければならない。言いのこすことはあろうか?」
地の亀裂から地獄の炎が漏れだして、さとりにまとわりつく。
「……ある」
「言ってみなさい、懺悔の言葉を」
「あの僧兵が首を吊るさま、その心! この目で見たかったぞ!」
「この世の良心を集めても、その心は楽園に至れまい」
(ライトが消える)
第二幕 第二場
(そして点ると)
こいしとこころが寺の一室に現れている。
劇中劇の終わり。
いつの間にか快晴の朝が来ている。
書きとめた巻物を何度も見かえしていたこころが、不意にこいしのほうを見る。
こいしは腕を枕にして眠っている。
「話させすぎたな」
緑がかった白髪が、秋の朝日を照りかえす。
「眠っていると、かわいらしいな」
「へえ、そうなの」
「わアッ! み、み、み、水蜜さん……」
こいしを夢中で眺めているうちに、水蜜が音もなく現れる。
「その、その。昨日……」
「昨日のこと、聖には内緒だよ」
「知らないのか?」
「どうかな、知らないフリをしてくれているのかも。どちらにせよ、甘んじているけどね。私たちの関係は愛憎ありきで、傷つくことも多い」
「わるいひと……」
「幽霊はわるいのよ。私の名は悪霊」
「指をさして)そうだ、こいしの姉を知っているか」
「うん? まあ、知りあいってくらい」
「そいつは……どうだった」
「どう、とは」
「残酷だった?」
「そう言うのじゃないね。いやなやつではあるけど。
こころ、昨日はごめんね。でも妖怪には、つつしみぶかさを、期待しないほうがいい。それが幽霊ならなおさらよ。
さあ、朝の鐘を鳴らしてきます。よい一日のために(去る」
それから欠伸とともにこいしが目をさます。
「眠っちゃった」
「おはよう」
「話しすぎて顎が痛い」
「おかげでうまくいっている。おまえのことを知れて、私はたのしいよ」
「うワーーッ! 気障、々々、々々、々々。浮く、歯が、浮く!」
「朝からうるさいぞ!」
「きっと、きっと」 こいしは悲しそうに(見える)言う 「アイ・ラブ・ユー! もし瞳が見えていたら、私の顔はこころちゃんのアイ・ラブ・ユーでまっかになるよ。それこそ林檎のように」
「アイ・ラブ。ユーとは?」
「秘密!」
「なあ、おまえの感情が分からないから……おまえの過去は陰惨なのに、にこにこと笑って話すから、私は不気味に思ったよ。おまえはつらくなかったのか」
「それがいやで瞳をとじた。おかげで元気よ、いつでもね」
「……」
「時代だよ」
「ふん?」
「時代がわるかった。お姉ちゃんは乱世に感化されて、その心は妖怪の中でも、特に残酷な部類だった。でも、それは私のためでもあったのよ。
こころちゃん、信じられる? 私の瞳は産まれながらに肥大していて、それは頭より大きかった。そしてお姉ちゃんよりも、はるかに多くを“受信”したんだ。
そんな私を守ろうとして、お姉ちゃんはおかしくなってしまったんだよ。昔は理解できなかったけど、今は感謝してる……多分ね」
「直接さ! ……言えよ、姉に。私じゃなくて!」
「どうしてかな、忘れるのよ、近くにいると」
「おまえはなあ……それが残酷だよ、それが魔物だよ。おまえは宿敵、それも反面教師だな。それが分かった」
「そうかな?」
「おまえ、いつ瞳をとじたんだ?」
「それも、忘れたねえ……」
「地底か」
「うん……」
「はっきりと!」
「もう、なんなの? ……それを思いだそうとすると、頭の中に霧が出る。何も分からない。影法師の闇より迷うのよ」
「ひとつも思いだせないのか。ただのひとつも」
「うん……いや、ひとつはある」
こいし、瞳を持ちあげる。手のひらに乗るような小さな瞳。それが昔は彼女の頭より大きかったとは、こころはどうにも信じられない。
「不思議な記憶よ。私が瞳をとざしたとき、近くに誰かがいたはずなの。
私はそれを“敵”って呼んでる。
それは影のようだった。それは今でも近くにいる。しかも“とても”近くにいる……多分ね」
「それは……地底の誰かなのか?」
「だからさ……霧よ」
……。
「なんだか奇妙になってきたぞ。おまえの物語は、どうやら私が思っているよりも、謎めいているのかもしれない。
(芝居がかって)智霊奇伝! とでも呼んでみよう」
「それは、それは。謎が多そうな……」
「さあ、地底に行こうか」
「えっ」
「地の底を見たければ、掘りかえすとも。謎の深きをくつがえしたければ、暴くとも。おまえの物語を心へ残るものにするために、さらに明かし、語ろうじゃないか」
「そう、行ってらっしゃい。私は眠いので」
「早く着がえろ、おまえも行くんだよ!」
「ああ、ああ。協力するの、已めておけばよかったかな」
第三幕 第一場
洞窟より。
妖怪の山から地底に通じる。
てらてらとしめり、ひかる岩壁。
こいしとこころ、その通路を降りてゆく。
「本当にこんなところがあるなんて」
「信じてなかった?」
「信じるしかない、こうして目にしたならば。それでも悪夢のようではある。あるいは幻想郷が、実は巨象の上にあり、地底はその腹の中なのかもしれない」
「なら地底の者は巨象の寄生虫ね」
「そんなつもりで言ったわけじゃない」
「冗談よ、多分ね」
洞窟の出口に差しかかるとき、黒谷ヤマメが糸で吊りさがってくる。
「珍しい顔、つまり知らない顔。おまえは?」
「……こいし」
「おまえのことはよく知っているとも」
「私の名前はこころ。面霊気、そして能楽師」
「それは、それは。在るは無く、無きはかずそふ、影の国へ。地上の高貴な妖怪がなんの用だろう」
「あなたはどうして、悪意にまつわる感情をにじませているのか?」
「もちろん喧嘩をふっかけるつもりでいたからだ」
「乱暴者だ!」
「そう。喧嘩もよろしい、火事もよろしい、ここではね。でも地霊殿のあるじ、その妹の友達となると別だ。今は権力に負けるとしよう」
「こころちゃん、こいつは……」 こいしが口ごもり 「こいつがどう見える? 阿片と蜘蛛、阿片と蜘蛛……」
「阿片の妖怪じゃない。私は毒物の使い」
「不気味な比喩だ。あなたは何者か?」
「この場合は、この私こそが、最初に阿片を持ちこみ、最初に阿片を育て、最初に阿片を売ったのだと、答えるのが正しいね。
古来より薬は毒に、毒は薬に転じる。私は毒にあかるく、ゆえに薬も知っている。それは表裏一体なんだ。毒にも薬にもならないのが、何よりつまらないこと。 (阿片まじりの煙草を取りだして)ひとつ、どうぞ。いずれ、贔屓に」
「いや、昨日も使ったよ。でも効かなかった」
「そう、それならーーー
「話しが長いよ! こころちゃん、行こう!」
こいし、痺れを切らして先へ進む。こころが追いかけようとする。
しかしヤマメに肩を捕まれる。
「うワッ。危ないじゃないか!」
「ごめんよ、聞きたいことがあったんだ」
「なんです?」
「おまえはこいしのなんなんだ。もしかすると……大切にされているとか」
「大切!、?」
「こころちゃん!」
こいしが先で呼びかける。その顔はヤマメから見ると、まるで寂しがっているように思われた。
「ふうん」
とヤマメが呟く。それからこころの耳元に顔を寄せる。
「なあ、今後を考えて公平にしようか。
ひとつ教えておくと、じつのところ私の生涯の目標と役割は復讐なんだよ。 (肩を押して)行け。忘れるな、復讐だ。おぼえておくと、何かを失うのも、避けられるかもしれないよ(去る」
こころ、こいしの傍へ向かう。
「何を話していたの」
「なんだかよく分からない。あの妖怪、変わってる」
「おかしなことは、吹きこまれなかった?」
「おかしなことって」
「いや……別に」
ふたり、洞窟を抜けて地底に至る。
「あの橋が橋姫の気にいるところ。その先が貧民区、昔は住んでいた。その奥の街の、さらに進んだところにある屋敷が私の家なの」
「あの街の明かりはすばらしいな!」
「鬼火だよ、あの光のみなもと。この世にあれよりもつめたい炎はない」
「あの動いているのは?」
「あれは骨だけで動く犬。骨犬」
「そのままだな!」
「あの犬でみんな、鍋の出汁を取るんだよ」
「この足元の花は?」
「吸霊花。触れると寄生されて、やがて死ぬ!」
「さきに言えよ!」
「アハハハ、ハハ……」
「笑うな」
「こころちゃん、たのしそう」
「そうだろうか?」
「なんだか私もたのしいよ!」
「それは嘘だ、おまえはたのしんだりはできない」
「そうだとしても、笑顔はできる。心だけじゃなく、顔まで動かなければ、道ばたの石ころと同じ。今の私は表情だけで、自分を確立しているの」
「そう言われると、耳が痛いな。私はそれと逆だから」
「見つかるよ、表情くらいさ! 手が届くところに」
「無根拠だな、でも信じてやる」
「根拠はあるよ! 私たちの手は短い、こんなにも。それでも何かが日に々に手にはいる。それって本当はなんでも近くにあるからなんだってさ」
「なら手ごろなところから、案内してもらうとしよう。さあ、どこへ行こうか」
こいし、悩むように(見える)うなる。
「うん、うん。そうね、私の家に行こう。お姉ちゃんに紹介するよ」
「や、や! それは、なあ……已めないか」
「ふん、怯えてます?」
「別に怯えてない! 勝手に決めつけるのはよくないな」
「大丈夫だよ、お姉ちゃんは丸くなった。それに気も合うと思うよ。
お姉ちゃんはこころちゃんのように、単純な子が好きだから……多分ね」
こいしがこころの手を引いて、地霊殿に向かう。
第三幕 第二場
ふたりが地霊殿の門をくぐると、猫が現れる。
闇に溶けこむような毛なみ。煉炎色の双眸が、ふしぎそうにこころを眺める。
「ただいま」
猫が返事をするように鳴いたあと、こいしの足もとに擦りよってくる。
「友達をお姉ちゃんに引きあわせたいの。執務室だよね? 珈琲をみっつ、いそいでね」
「猫に珈琲が入れられるのか」
「こころちゃんよりは上手だと思うわ」
猫が去ると、ふたりは廊下を歩きだす。
「落ちつかないな。この異邦の建築は」
「お姉ちゃんの趣味よ。生活にうるさいんだ。神経症なのよ。男の人のように、やたらと物を耽溺するんだ。衣服を除いて」
「これらに金を使わなければ、すこしは遠目に見えた貧民区もよくなるだろう。と聖は言うだろう」
「そこでお姉ちゃんが“どうして私がそんなことを? 分けあうのは趣味じゃない”と言うわけよ。フフフフ……搾取が好きだからね」
室のまえに辿りつくと、こいしがドアを叩く。
「中から)どうぞ」
「ドアを開けて)ただいま!」
ふたり、室にはいる。
「抱きついて)元気にしてた?」
「額に接吻して)それなりよ、その子は誰?」
「友達!」
さとりとこころが、こうして邂逅した。しかし、それはよい巡りあいとは言えなかった。
こころがもとより、さとりによい印象をいだいていなかったのは別として、何よりの原因は、その額への接吻を見たとき、彼女の心中で、火花が散ったからである。彼女はそれに混乱した。
「へえ……緑の目をした魔物」
「こころが)何?」
「なんでもありません。私のよくもわるい癖で、他者の心を見たついでに、その弱点を探しまわる。
さあ、ふたりとも座って。そのソファにでも」
やがて赤髪の下女(とこころは推測する。少なくとも、猫には見えない)が珈琲を持ってきたあとさとりが言う。
「残酷なこころ喰らい」
心中を見すかされて、こころがびくりと肩を震わせる。
「こいし、余計なことを教えてくれたわね」
「みんなが知っているでしょう?」
「そう、地底ならね」
「なるほど……心を読まれると言うのは、こう言うのか」
「得意そうに)どうです?」
「ふしぎな感じだな。でも別に怖れるほどのことでもない」
「それはあなたが善良だからです。普通は誰しも隠しごとがあり、それは別にわるいことではありません。ただ覗きはいやがるのです。体で言えば、恥部と同じ」
「分からないな」
「秦さんのことはこいしから聞いたことがありますよ。友達だとね」
「私もあなたのことを聞いている」
「心を読んで)アハハハ……高名な僧ね。そんなこともあった」
「震えあがるほどの逸話だ。残酷なる……乱世の妖怪伝説」
「あれはあれで愛嬌がある、そうでしょう。私の青春だったのです。
そう、秦さん。大丈夫です。私はきらわれなれている。好くもきらうも、心のままに。ただ分かってほしいのは、あなたの名前と、この“こころ喰らい”のあざなは、偶然の一致でしかないと言うことですよ」
「それはそうだよ。こころちゃんはお姉ちゃんの、怨敵でもないのだから」
「そう言うところに因果を感じてしまうのが心なのよ」
「どうやら私は、あなたに怯えすぎていたようだ。
あなたは私を安心させようと、よく話してくれている。そして親切の感情を発している。だからあなたは信用できる」
「そうですか? あまり信用しないほうがよろしいですよ」
「出ました、妖怪アマノジャク! こころちゃん、照れかくしなんだよ」
「さとりさん、こころでいいですよ」
「こころさん」
「うワッ。おどろいたなあ、急に呼ばないでくださいよ」
「アハハハ……あなたは本当に素直だ」
しばらくこころが地底に来た理由、巻物のことや、単なる談話が続く。
そして珈琲が尽きたころにこころが言う。
「こうして話していると、昔のあなたが残酷だとは信じられない」
「今でもそれなりにと言う意味で残酷ですとも。ただ地底に落とされて、身の振りかたを変えたのです。人間がいなければ、残酷さも意味がない。それは妖怪だらけの地底では、なんとも無駄なことですよ。それを知って、私の青春も終わった……あのころは随分と荒れましたよ」
「昔のほうがよかったと?」
「どうでしょう。そう言うのは往々にして、昔の自分が情熱的だったので、世の中が輝いて見えていただけです。歳をかさねると、目が曇りますから。地底に降りて、平穏を得ましたが……妖怪の退屈な心に失望したのも本当です」
「……」
「こころさんは、感情に失望したことはありますか」
「ある、じつは……昨日のことです。あなたのよくもわるい癖と同じで、他者の感情を覗こうとした。そして負けた。私は幽霊に慎みぶかさを期待してしまったんだ。でも今に思うと、勝手だったのかもしれない」
「悪霊と言うやつは、最良の者でも、ただ無害なだけに過ぎない。わるいことはしても、よいことはしない」
「水蜜さんは、自分たちの関係が、愛憎ありきと言っていた。恋が悲しみをいやますと言うのなら、どうして離れないのだろう?」
「分かりませんよ。でもあなたでさえ苦痛を承知で、感情の深きを求めているでしょう? あなたがスクロールにそう願うように、これまで心とか、感情とか呼ばれている、わけの分からない曖昧なことを解するために、飽きもしないで星の数ほどの物語が創られてきた……今でも。
そして、それこそ心と感情を解しきれない証しです。もし解しきれてしまったら、新しい物語を紡ぐ必要もないのですから……と、私は考えます。
でも天より高いところにある、暗黒の砂漠よりもさらに広い、心の謎がいつ分かりきるのか……誰よりも心を知っている私でさえ、それを重荷に感じて、ときには怖ろしくなる。
あなたは感情を怖れないのでしょうか?」
「つらくはあっても、怖れたりはしない!」
「なら怖れてしまったら、そのときは……」
こころ、こいしの肩を抱きよせる。
「友達が私を助けてくれる」
そのとき一瞬でこいしの顔に血潮が昇り、
「馬鹿!」
こいしが立ちあがって、室を飛びだす。
「こいし!」
「照れちゃったのよ」
「照れる? こいしには無理だ。感情もいつものように、分からなかった。追いかけないと! どこかに消えたら、見つけだすのも一苦労だ」
「まあ、待ちなさい。場所は分かる。地霊殿の屋上ですよ。こう言うときはいつもそう」
「あいつの心が読めるのか」
「いや、でも家族だから魂で分かる……多分ね」
「そう、じゃあ行ってきます」
「まあ、まあ! 待ってください、気が早いですよ。それより私と話しましょう、伝えたいことがある。こいしは……もし探さなくても、あなたのところに戻ってきますよ」
こころ、まごついて言う。
「しかし……今の私はこいしが近くにいてほしいんだ。とても、なぜか」
「それです! まさにそれの正体を伝えようとしていたのです」
そしてさとりは、心を込めて、それを伝えた。
「よろしいですか。こころさん……あなたはこいしが好きだ」
第三幕 第三場
その言葉はこころの内へ“気づき”として、一筋のいなびかりのように走りぬけた。
それを簡単に受けいれられるわけがなく、こころは理論で反駁しようと試みた。
“こいしは私の宿敵だ”
“感情を求めている私が、あの無感情なこいしに惚れるはずがない”
しかし、その理論は肺の中で空転した。
恋を否定するための言葉も、まるで出口を拒んでいるように、喉でつっかえる。
こころは魚のように、口をぱくぱくと開け閉めするよりほかになかった。そして彼女の心は、感情の中でも、特に大きな苦難を呼びこむとされる“それ”に囚われたのである。
「恋!」
「ごめんなさい。でも春の種子が芽ぶかずに、萎えてしまうよりさきに、教えるべきだと思いました。あなたは自力で気がつこうにも、あまりに幼すぎたので」
「なんてことを! あなたは怖ろしいことを教えてしまったぞ」
「感情を怖れたりはしないのでは?」
「それとこれとは話しが別だ! 私はなんと言う……まさかこいしに……よりによって……しかし感情を認めないわけには……うう……消えろ、々えろ! つかの間の炎! 心を這いまわる、影法師め!」
「私はうれしく思っていますよ」
さとり、諭すように言う。
「誰かがこいしに恋をするなどありえなかった。誰からもきらわれると言う、私たちの宿命のために。こころさん、気がついていますか? 近ごろのあの子は見えやすい。しかも“とても”見えやすい。
私は確信を込めて言う。あなたがこいしの心をひらく」
「……」
「でも困難もあります。こころさん、どうして私たちがきらわれるのか分かりますか」
「心を読むからだ」
「それは理由のひとつです。真の理由は、私たちが産まれながらに、過剰なまでに残酷だからです。
それが私たちを他者とへだて、心を自家中毒に陥らせる。あなたがこいしに恋を望むなら……あなたはあの子の残酷さと、向きあわなければならないわ。そして用心しなさい。あなたも心にまつわる妖怪です。その心にも、残酷の魔物が潜んでいるわ」
「何がなんだか……私はどうすればいい?」
「今はただ、あの子へ素直に想いを伝えてあげて」
「……やってみる!」
こころが去る。それからさとりはふところから、阿片まじりの煙草を取りだして吸いはじめる。天井に昇る煙を見つめながら、こう呟いた。
「なんの本に書いてあったっけ……“そして市民は彼等をけしかけ、いがみあわせることを罪悪とは思わない”か」
さとりが手を叩くと、猫が現れる。
「ヤマメを呼んできてほしいの。それもふたりに気がつかれないように。
そして“さとりが復讐を助けると言っていた”と伝えなさい。
くれぐれも、ひそひそとね」
……。
地霊殿の屋上より。
こころが街を眺めているこいしに、うしろから話しかける。
「こいし」
「遅いよ、待ってたのに」
「何から話すべきなのか……」
「どうしたの?」
「単刀直入に言うと、私はおまえが好きらしいんだ」
こいしが振りかえる。
その顔は、わずかに赤らんでいる。
こころはそのさまにときめいて、思わず目を逸らしかける。それを堪えて、彼女は一心に見つめかえした。
「私には分かってた。そんなことは、心が読めなくても分かること。恋は心じゃなくて、魂で感じることだから!」
「私の恋を感じるか」
「……どうかな」
「そう、なら教えてやる。回りくどいのは苦手だ」
「教える?」
「こんなふうに」
こころがこいしに駆けよって、肩を抱きよせると、熱烈に口づける。
制しきれない想いが、理性の垣根を乗りこえて、こころを“それ”に突きうごかしたのである。
ふたりの唇が離れる。
「こいし。育ててほしい、この感情をともに。
私は見てきた感情のすべてを、おぼえているわけじゃない。
感情は世の中に溢れすぎていて、かたちは消えて忘れられる。
それでも分かるんだ。
この感情は失われないと! 何があっても。それを魂で分かったんだ」
こころが巻物を取りだす。
「教えてほしい、おまえのことを」
「こころちゃん!」
こいしが満面の笑顔で言う。それは仮面の笑顔でしかないけれども、たしかに笑顔なのである。
こころに向けた、最高の笑顔。
「どうした?」
「好き。いつまでも一緒にいてね!」
……。
執務室より。
こころとこいしが逢いびきをしているさなかに、さとりのもとにヤマメが訪れる。
「……」
「あなたはこう考えていますね。こいつは何を考えているのだろう。これは罠なのかもしれない。あるいはついに、妹に仲のよい友達ができたので、これまで恩情で見のがしてきた私を始末するつもりなのかもしれない」
「復讐を手つだうってのは、どう言うわけだい。おまえは妹のことを、大切にしていると思っていたんだけどね」
「大切ですよ」
「まあ、いいさ。どんな心がわりかは知らないけど、おまえが復讐の手つだいをしてくれるなら、それ以上のことはない」
「こころさんを知っていますか?」
「ああ、さっき見たよ」
「ふたりは今から、恋仲になります。多分ね」
「へえ」
「でもこころさんは、こいしの本性を知らずにいる。こいしのほうでも、それを教えずに済ませようとするでしょう」
「それはそうだ! 誰が好きこのんで、恋人に醜い部分を見せるものか」
「でもそれが、あなたの復讐の好機を産む」
「いいんだな、本当に? 私が何をしても」
「好きにしてください」
(ライトが消えて)
第三幕 第四場 四大感劇・哀(Poison is Medicine.Medicine is Poison)
(ふたたび点ると)
街の外にある、地獄の荒野に墜落した星蓮船より。
劇中劇のこいしと、劇中劇の水蜜が現れる。
水蜜が火の灯った、阿片まじりの煙草を手のひらで弄びながら、呟くように歌っている。
「ラ。ララ。ララララララ。ラララララ、ラ、ラ、ラ。ラ」
「なんの歌?」
「無視して)こいしさん、この地獄の荒野を見てよ」
「ああ、荒野。広すぎる地獄の、使われず、忘れられている無駄な土地。それがどうしたの」
「この地の獄は。
人間とのつながりをなくした、
ぼろぼろの数珠。
糸はとぎれて、
あちらにこちらに飛びちって。
どこへ消えてしまった
ララララ、ララ」
「その煙草は何? まえは吸っていなかったよね。なんだか邪悪な臭いがする」
「近ごろ地獄に降りてきた、ヤマメと言う妖怪が売っている。まあ、まじないの一種だね。いつも一日でも……日月の光のない地獄に、一日があればだけど……暴れているやつが、これを使うと、途端に静かになるんだよ」
「どおりで深海のような深いところで、いつも何かに憤っているその心が静まっている」
「こいしさんには都合がよくって? あなたは心を読むために、みんなからきらわれている。そのみんなの心が落ちついてくれるなら、それ以上のことはない」
「水蜜さんは……どうして私がいても平気なの」
「今や体を失って、魂がむきだしにされているのに、読心を怖れるわけがない。これは持論だけど、心よりも魂を見られるほうが、恥ずかしいと思うよ」
「一輪さんのほうは、私が好きじゃないと思うわ」
「結局のところ、それは生きているやつに、心の余裕があるからよ。私のように死んでいると、自分がきらいできらいで、誰かを憎悪するための心の余分がないんだね……あいつは人間に近いから」
「知っている? 心の中には、影のような魔物が住んでいる。敵と々とが同じところにいなくたって、その影はつねに相手を殺そうとしているの
呪いのひとつに、藁人形があるけれど、なんてことはない。あれは覚リのやりくちの同じよ! 影を飛ばして、刺しころすんだ」
「へえ……」
「乱世はそれはもう、心に凶悪な影を飼っている人間も多くてさ! とてもそれは残酷で……でも……。
思いかえすと、恋をしている人間を見るのだけはたのしかったな。その想いだけは見ていても、夏夜の虫が眠りを妨げないように、私の心は落ちついてくれる。
そう言うときなら、私は心ってやつを……すこしだけ……好きになる」
「黙々と煙草を吸って)……」
「水蜜さん?」
「えっ。何よ」
「聞いてよ!」
「どうも阿片で、ぼうっとして」
「退屈なひと」
「退屈でけっこう……矛盾だね」
「何が……」
「あんたがどんな時代から降りてきたのかは知らないけど、それはあんたにとって、気苦労の多いところだったんでしょう? どうして退屈をよろこばないの」
「……」
「まあ、仕方がないね。結局のところ、妖怪にとって、平穏は争いの準備期間に過ぎないんだ。私たちは、そう言うふうに創られている」
「私は信じない」
「退屈だね。一輪も帰ってこないし。このまえ喧嘩しちゃってさ。むしゃくしゃして、殴ったのよ」
「最悪」
「でも一輪も私を殴るよ。おたがいさまってやつね。ほら、それが妖怪だ……フフフフ、一輪に殴られると、痛いのよね。好きだからだけど」
「私はそんなふうにはならない」
そのうちこいしは、ねじろの貧民区に戻ることにした。
こいしを見た妖怪たちの目が、無条件で彼女を怖れる。
それにしてもこいしにとって、性格は別として、水蜜ほど話していて気楽な相手はいない、と言ってよかった。
周りはこいしに、本性を暴かれることを怖れるけれども、それは彼女にとって日常の雑音が増えるだけであり、わざわざ興味のない相手の弱みを、おぼえているわけがなかった。
こいしは妖怪に興味がない。その心の多くが、人間よりも、ある理由で劣っていると、信じているために……。
「ワッ!」
歩いていると、不意に誰かと肩がぶっつかって、こいしが悲鳴をあげる。
「ごめんよ」
こいしが相手の臭いに、思わず鼻をつまむ。
「くさい! このできそこないの、砂糖のような臭い。いや、待って……これは水蜜さんが吸っていた“あれ”と同じだわ」
「私に染みついている香りが気にいらなかったかな? 誰よりも阿片と一緒にいるからね」
こうしてこいしと、劇中劇のヤマメが接触したのである。
第三幕 第五場 四大感劇・哀(Poison is Medicine.Medicine is Poison)
「その言いぐさ、その心。あなたがあの邪悪な薬を売っている妖怪」
「おどけて)邪悪! そんなふうに言われるなんて。あれを地獄に持ちこんでから、感謝はされても憎まれはしなかったのに」
「別に憎くなんてない。すこし気にいらないだけ。みんなに心の麻酔あそびを教えて、どう言うつもり?」
「その横に浮かんでいる、大きな瞳。聞いたことがあるよ。このあたりに住んでいる、覚リの噂。
やつらが来たら、
姿を隠せ、
でないと心を、
喰われるぞ」
「そんな噂に怯えるような心は、別に喰らう価値もない。ぶよぶよでまずいから」
「たしかに! まず自分の心の値を知るべきだ」
「それで、なぜ麻酔あそびを?」
「すさんだみんなの心のためでございます」
「睨んで)……」
「信用しなよ。心を読めるなら分かるだろう、私の言葉に嘘はないって」
「たしかに嘘は言っていない。なんの邪念もない。でもだからこそ不安になる。あなたが薬を善意だけで作っているとでも?」
「善意だけとは言わないけど……困るね」
そこでヤマメが思いついたように言う。
「おもしろいね。そこまで私の薬に興味を示すやつは珍しい。気になるのなら、物は試し……名前は……」
「こいし。私に阿片を吸ってみろって?」
「そのとおり! 私はヤマメと呼ばれている、よろしくね。それにしても、便利な力だ。
まあ、まじめ必ずしも身のためならずさ。公平にしようじゃないか。何ごとも試しもしないで非難することこそ、邪悪の親戚だとは思わないか。邪悪と言うより、邪推と言うべきか」
「……口がうまいね」
「そうこなくっちゃ!」
ふたりが歩きだす。
痩せた妖怪たちが闊歩する、貧民区の迷路を抜けて、やがて蜘蛛の巣まみれの一軒家に辿りつく。
「家の戸を開けて)家を買ったのさ。阿片を売った金で。いずれ店に改築する。そして畑も……まあ、睨むなよ。たしかに私は金も土地も欲しい。しかし、それもみんなのために過ぎない。さあ、座ってくれ。そのあたりの椅子にでも」
こいし、埃まみれの椅子に座る。
それからヤマメが戸棚から、阿片まじりの煙草を取ってくる。
「手わたして)どうぞ」
「受けとって)どうも……」
「さあ、くわえて。そう、火を灯すよ。ゆっくりと吸いなさい、むせるからね」
「ふウーー……」
「どうかな?」
「ふん、どう言うの」
「気分はよくならないのか」
「いや、特には」
ヤマメ、うなだれる。
「そうかい、自分なりに作ったんだけど。もとより私たちの器官は鈍い。効かないやつも多いんだよ。所詮は医家のまねごと、これが限界か」
「おどろいた。その心、本当に善意だけで薬を作ろうとしているのね。いったい何があなたを駆りたてるの」
「私は地獄が気にいってね」
ヤマメが自嘲ぎみに笑う。
「恥ずかしいことに、私は人間と争うのは、別にきらいじゃないけれど……まあ、面倒になってしまったんだな。
殺せば追われ、追われれば殺し、そのくりかえし。それで地獄に降りてきた。
そんな私にとって、地獄はまあ、思ったよりもわるくない場所さ
なのに地底の妖怪どもと来たら! 人間が恋しいのか、いつまでもうじうじと、眉間に皺を寄せている。辛気くさくてたまらないったら!
まあ……それをなんとか……私の力で変えてみたいのさ」
「あなたは、本当に……」
こいしが堪えきれずに笑いだす。
「変わってるわ! アハハハ、ハハ……」
「笑うことないだろう」
「だって……クククク、ググ……」
「でも、それだよ」
「ふん?」
「その笑顔があふれてほしいのさ」
「本当に阿片で地獄が豊かになると信じているの? あれはどう見ても、毒じゃないの」
「感覚が麻痺して、惚けきったやつらには、わるくない薬だ。
でも困ったことに、おまえのように、不感症なやつも多い。そこで、これだ」
ヤマメが青い薬液のはいった瓶を持ってくる。
「それは……」
「霊薬さ」
「でも未完成ね」
「おどろいた。詳しいのか?」
「いや……分かる」
こいし、魅了されたように霊薬を見つめる。
「私が心にまつわるからか……感じるわ。これは心に作用する、あらゆる薬が詰まってる」
「阿片のほかに、ダヅラの歯、彼岸花の毒、ほおずきに水銀。さまざまな物を、とろりとろりと煮つめてある」
「まるで私たちの力が、薬に押しこめられているよう」
「力?」
「心を溶かす、覚リのまじない。それは呪いの力なんだ」
「あとすこしで完成しそうなんだけど、うまくいかないのさ」
「ねえ」
「うん?」
「手つだおうか」
ヤマメ、目を丸くする。
「私は薬も毒も分からない。でも心のことを知っている。
あなたの薬が心に及ぼす作用、それを私が教えるよ」
「それはうれしいけど、また急な心の変化だな。おまえはこれらを、邪悪だと言っていたじゃないか」
「あなたの本気に、心を動かされたのよ。それに……」
こいしが言いよどむ。
「それに?」
「近ごろどうにも、退屈でねえ」
……。
「あざわらうように)退屈ねえ」
「何よ」
「本当は懐かしいんでしょう?」
「だから、何よ」
「あなたはあれほどきらいだった地上の残酷と人間の心が懐かしいんだ。それがあなたを退屈させる」
「見すかすようなことを言わないでよ!」
「あなたは知ってしまったんだ。妖怪ばかりの地底に降りてきて、私たちの心が、人間よりもすかすかにできていると。
人間たちは残酷さのほかに、心にさまざまな色を持っているのに、妖怪の中身と来たら、どいつもこいつもひどい! 私たちの中身は残酷さでいっぱいだ!」
「そんなことは、お姉ちゃんを見て、とうに知っている。でも妖怪が誰かをくるしめるためだけに産まれたなんて、私は信じない。
私は……おねえちゃんとはちがう」
「信じてしまうように、なってしまったら?」
「……とても瞳を開けていられない」
……。
「おい」
「……」
「おい!」
「えっ……どうしたの」
「おまえは急に何をぶつぶつと、独りごとを言っているんだい?」
(ライトが消えて)
第四幕 第一場
(また灯ると)
地霊殿の屋上に、こいしとこころが現れている。
饒舌に語っていたこいしが、急に黙りこむ。
「どうした、続きを話してくれ」
「こころちゃん、こうして話してみると、自分のことを一から十まで語るのは、意外と難しいね。
誰でも潔白ではいられなくなる。でもそれを避けようとするほどに、私たちは誰かをうらぎるような感覚に、苦しめられなければならない」
「私は周りくどい言いかたが好きじゃない。はっきりと言ってくれ」
「このさきを聞いたら、私に失望する」
「何を急に。そんなことはない、絶対に!」
「不安なのよ。口よりも雄弁な心の声が、今の私は聞こえないから。
こころちゃんは私が好きで……何があっても受けいれてくれる。それを信じたいのに」
「でも信じない?」
「別にこころちゃんはわるくない。私に勇気がないだけよ。臆病者だから」
「なら私のためだけに、心をひらいてくれないか」
こころが無表情で、けれども鋭くこいしを見つめる。
「おまえの感情を見せて、私の心を見てほしい。
そうすれば私のまことを証しできる。絶対に口さきだけじゃないと!」
「こころちゃん……ありがとう。本当にうれしい
。私のような厄介者が、あなたと恋仲になれたのは、本当に恵まれていると思う」
「なら……」
「でも無理よ、だってーーー
そのときふたりのうしろからヤマメが現れる。
「やあ、やあ。どうした? そんなに肩を寄せあって。なんだか洞窟で会ったときよりも、十倍も仲がよさそうだね」
ふたりが振りかえる。
「ヤマメ!」
「おどろいた! ヤマメさんは、どうして地霊殿に?」
「用があってね」
「じつは“十倍も仲がよさそうと”言うのはまことに正しい。私たちはさきほど、恋仲になったんだ」
「それは、それは! (拍手)よろこばしいね。おめでとう、若者たち」
「ありがとう!」
こいしは急に、むっつりと黙りこむ。
「どうした、こいし? そんなふうにしかめっつらで私を見て」
「別に」
「せっかく恋仲になったんだから、笑顔でいなよ。
それにしても丁度よかった。じつのところ、私は面霊気が、阿片に興味があると思って、ほかの薬を試さないか、聞こうと思っていたんだよ。いや、洞窟では気を利かせなくてわるかったね。
じつは私は、貧民区に店を構えているんだよ。しばらく開けていないから、埃まみれになっているかもしれないけど。
どうかな? 私の店で恋を祝ってみるのは」
「なるほど。昔とちがって、今は店ができているんだな」
「昔?」
「じつは今、ヤマメさんのことをーーー
「こころちゃん!」
こいし、こころの言葉を遮る。
「無闇に私の過去を話さないでほしいな。こころちゃんを信用しているから、こうして語っているのに」
「そうだな、迂闊だったよ」
「なんだか分からないけど、それで店にはくるのかい、こないのかい」
「私は言ってみたいな。阿片の店か。興味が湧いてきた。怪しい薬が並ぶ、魔女の家のような店。蜘蛛の巣が誰かをまじないでからめとる。なんだか身ぶるいしてきたぞ。自分の想像力の豊かさに。こいしはどうしたい?」
「こころちゃんが、そう言うなら……」
「からからと笑い)期待しすぎないでよ」
「それにしても、ヤマメさんはどうしたのか?」
「ふん?」
「あなたの中には、ふたつの感情がひしめいている。ひとつはいかり、そしてうしろめたさ」
「じつはさとりに頼まれごとをされてね。そのたのまれごとの難儀さが、私の心を乱すのさ。こいし、おまえの姉は本当に面倒なやつだよね」
「お姉ちゃんが、何をたのんだの?」
「それは内緒。知りたければ、心を読みなさい」
「できないのは知っているくせに!」
「ハハハハ、ハハ……そうだったかな」
貧民区へ移動する。
妖怪たちが闊歩している。
酒の匂い。阿片の香り。風呂屋から嬌声が聞こえてくる。
「面霊気は私から離れるなよ、新顔は何をされるか分からない」
「しかし、みんなにこにことしていて気がよさそうだ」
「顔だけだよ。どいつもこいつも笑っていても、悪党の場合があるから、用心しなさい。気がよさそうってのは、たしかだけどね」
「こいしが)そうね。あなたのような悪党には用心するべきよ」
「ふん、そのとおりだな。フフフフ、フフ……ほら、店が見えてきた (指をさして)あれが私の店……“黒後家蜘蛛の店”だよ」
店のまえに辿りつく。
小商館の風貌。窓からさまざまな薬品が並べられた、戸棚が見える。
戸に“気分でOpen。普段はClose。今はClosed”と書かれた看板が引っさげられている。
ヤマメがその看板をはずさずに、戸を開けると、ふたりを招く。
「その英語は知っているぞ、開け閉めってことだ。はずさないのか?」
「今や地底に阿片は満ちて、栽培しているのは私だけじゃない。この店の役割は、すでに終わっているんだよ」
ヤマメがふたりを手頃な椅子に座らせる。
それからウヰスキーと、透明な薬液のはいった瓶と、みっつのグラスを持ってくる。
ふたりに少々、自分に並々と注ぐ。
「さあ、恋する者たちよ。おめでとう、ふたりのこれからに乾杯だ!」
「こいしに!」
「こころちゃんに」
グラスが軽く、ぶっつかりあう音が響く。
「阿片は……」 ヤマメがひとおもいに、ウイスキーをひとおもいに飲みほすと 「ふウーー……天狗の中でも空を飛んで、毛唐の国に智恵を求めた、渡りの天狗が持ってきたのが、始まりだと聞いたことがある。一種の天狗伝説には天狗が南蛮人だと言う異説もある。渡りの天狗が舶来品をこのんで身につけていたらしいから、そんなふうに曲解されてしまったのだろうね」
ヤマメ、透明な薬液のはいった瓶を見る。
「これが何か分かるかい」
「……霊薬?」
「そのとおり! 賢いな。それともこいしから聞いていたのかな?」
「そうです。でも青い秘薬だと聞いていました」
「それは未完成のころの話しだね。これはすでに完成している。およそ失敗作はさまざまな色に変わったが、これは完成したときに、ふしぎと色は抜けて、純水のように透明になった。美しいだろう。私の最高傑作だ! これなら阿片の効かない不感症なやつも、存分に酔えると言うものさ」
ヤマメが霊薬をこころとこいしのグラスに垂らす。
「さあ、おまえもそれを飲んでみなさい。そして喜怒哀楽がごちゃごちゃに混じりあう、はちきれそうな情緒のしらべを歌うのだ」
「ヤマメ、あなたは忘れてしまったのか? その霊薬が、かつて何をもたらしたのか」
「おぼえているとも。この薬のために、みんなは単細胞の馬鹿になってしまったんだ。でもそれは、使いかたがわるかったと言うだけのこと。わずかばかりを使うなら、なんの問題になろうかね」
「ふたりとも、なんの話しをしているんだ」
「昔のことだよ。まだ鬼は地底に現れず、こいしの姉が、まさか地底のあるじになるなんて、考えもしなかった時代の話し。
この霊薬は、たしかに効いたが、同時にそれは強すぎたんだよ。ようするに、この薬はできがよすぎて、妖怪さえも中毒になるほどの魅力があったのさ。これは蔓延し、貧民区を滅茶苦茶にした。今は解毒薬を作って……過去の喜劇になったけど。
まあ、地上の妖怪にはなんの関係もないことだ。それにこいしも。これは私が作ったもので、おまえにはなんの関係もない。そうだろう? どうしてそんなふうに、悲しそうな顔をするんだい」
「別に……」
「おかしなやつだな!」
こころ、グラスに口をつける。
「お、お、お、お」
不意に頭の中がくらくらとして、陶酔の波に飲まれゆく。目の奥が刺激されて……体から神経が伸びて、周りのすべての物事とひとつになったように錯覚する。
その幸福感と言い、酔いの感覚そのものと言い、それはこころがこれまでに、味わったことのない部類の感情だった。
「不思議な感じだ……これが酔いなのか……この感覚は、味わったことがない」
急にこころの周りに、数々の面が現れる。それが闇雲に店内を飛びまわり、壁にぶっつかり、薬品類を薙ぎたおし、彼女の意思とは無関係に暴れまわる。
「なんだ、これは。面が言うことを聞かない!」
「ウヒヒヒ、ヒヒ。笑えるな、じつに!」
「こいしも飲もう! 頭の中で風鈴の音がする、秋なのに。最高の気分だぞ!」
「私は……飲まない」
「どうして、どうして!」
「今は飲まない。私は……その薬がきらい」
「飲んでやれよ」 ヤマメがこいしのグラスを持って、彼女に押しつける 「恋仲なら、一緒に」
「でも……」
そのときこころがグラスを奪いとる。
「まだるっこしい!」
そしてウヰスキーを口に含むと、こいしへ熱烈に口づける。
こいし、目を見ひらく。
「面霊気、やるねえ!」
ヤマメの囃しを聞きながら、ふたりがもつれあって、床に倒れる。
「馬鹿! こころちゃん……もう」
「たのしいなあ……」
「目が回る、泥の中をたゆたうように。これだから、この霊薬は。はしたないわ。こころちゃんは頭がおかしくなっているのよ。馬鹿、本当に馬鹿」
「馬鹿じゃない。私の頭は冴えている、これまでないほどに。もう冴え々え」
「ああ、酔っぱらいの常套句。ヤマメ、解毒薬を処方してよ!」
「どうしようかな……しばらくこのままでも、たのしいんじゃない?」
「もう!」
そのとき突然、こころの体から力が抜ける。
「あれ、おかしいな。立ちあがれないぞ。生まれたての馬じゃないんだから。あれ。あれ」
「効きすぎだよ。はしゃぐから、よく回ったんだ。まさにいい薬ね、反省しなさい。ああ、でも私も……力がはいらない……この薬は、こうも効くんだっけ……眠い。そう言えば、昨日はあまり、寝ていなかった。ああ、眠りの支配者の声がする。赤い帽子をかぶって、白いボンボンをつけているやつ」
「私も……眠いとはこう言うのか。
私は眠らない、いつも。水蜜さんと同じ。夜はただ、朝を待っていたりする。能の練習もする……これからは、おまえを待っていたりするのだろう」
「ヤマメ」
こいしが名を呼ぶ。
「介抱、たのんでいい? ごめんね」
「いいよ」
「ごめんね……ヤマメ、あなたは本当におぼえていないの?」
「何が?」
「いや。なら、いい」
そしてふたりの意識が、眠りに落ちる寸前のことである。
「こいし、それは」
「何?」
「それ……おまえの近くにいる」
……。
「ヤマメのこと?」
「いや、おまえの傍だ……その、それ……」
……。
「ああ! ……敵か? まさか“それ”が敵か? それが!、? 信じられない……こんなにも……近くに」
そこで意識は、とだえてしまう。
(ライトが消える)
完璧な暗闇。
やがて時間が経って、
(また点る)
耳元で声が聞こえてくる。
「起きろ」
なんの声?
「面霊気、起きるんだ」
蜘蛛の声。
こころ、目をさます。
「大丈夫かい。ちょっと、いたずらが過ぎたかな」
「はい、うう……私は何か……眠るまえに見たような気がする。ヤマメさんは、何も見ていませんか」
「幻じゃないの。それとも初めての眠りにまどわされたとか」
「おや。いつの間にか、椅子に座っているぞ。私は床に倒れていたはず」
周りを見ると、こいしも(何故か)少し遠くの椅子にもたれて、すうすうと眠っている。
「あいつに介抱を頼まれたからね」
「そうですか、迷惑をかけてしまった」
「いいんだ、私のやったことさ。それよりさ……じつはさとりから聞いたんだ。こいしの過去を、スクロールに書きとめているんだって?」
不意にこころは、巻物がふところから離れて、机に置かれていることに気がついた。
「じつはおまえが眠っているあいだに、これを読ませてもらっていた」
「興味があったんですか」
「ああ、あるさ」
「どうでした?」
「おまえがこいしの半分も知らず、あいつが自分の半分も、伝えていないことが分かった」
「それはまだ、未完成だからしかたがないです」
「そうじゃないんだよ。私が言っているのは、本性のことさ」
「何?」
「覚リ妖怪、反吐が出る」
ヤマメがこころに顔を寄せ、口を三日月のように釣りあげる。
「昔のことだ。
みんなが単細胞の馬鹿になった。
その騒動は、残酷さが原因だった。
ひとりの妖怪の残酷さが。
面霊気。真実を教えてやるよ」
蜘蛛の巣は用意に善良で純粋な心をからめとり、無垢な蝶が吸いよせられる。
ヤマメが頭の中で言う。
(ただし、おまえたちの恋と引きかえに)
第四幕 第二場 四大感劇・喜(To cruel not to cruel)
……。
「あなた。そこの、あなた」
「誰?」
「よかった。聞いているらしい」
「ふん」
「ヤマメと一緒にいて、薬はできそう?」
「教えない。ひけらかさずには、いられないでしょう」
「まさか、夢にも」
「なら、どう思う? 近ごろの私の変化について。
私は一度も自分の残酷さを、おもてにだしたりはしなかった。これまでもそうであり、これからもそうあるべきだと思ってる」
「瞳に誓って」
「それなら言わせてもらうけど。地獄に降りて、分かったよ。地獄にはもう、一流の妖怪なんて、どこにもいない。あるいはかつて、人間世界に名前を轟かせた、一流の妖怪がお姉ちゃんのほかにいるかもしれない。
でも人間がいなくなって、どいつもこいつもふぬけてしまった。お姉ちゃんもそのひとりよ。
不思議な感じ。
頭の中で思いだすのは。
残酷なお姉ちゃんの姿。
あんなにきらいだったのに。
今は懐かしい」
「それを言うために、心の中で」
「廻りくどい言いかたはしないでほしい。私はあなたがきらい。あなたは残酷の化身だから。
かまっている暇はないんだ。私はヤマメと薬を創らなければならないから」
「なんのために」
「地獄のために」
「本当にヤマメに共感しているの?」
「している、瞳に誓って!」
「なら、どうしてあなたの心は、そんなにも静かなの? これは本当に、あなたの望んだ道なのかな。そう、睨まないで。気にさわったのなら、謝ります。本当よ、反省してる」
「反省なんて。分かっているの、本当は。
あなたのねらいは、私をのっとることにある。
あなたは私の、半分の姿なのだから。
でも私は、残酷さには、絶対に心を開けわたさない」
……。
「おい」
劇中劇のこいしの眼前で、劇中劇のヤマメが腕をゆらゆらと振っている。
こいし、はっと目をさます。
「何?」
「霊薬を作ったんだ。新しいやつ」
「うん……そうなの」
「大丈夫かい? おまえ、独りごとを言うくせがひどいよ」
「つかれてるの……」
「そうかい。なら霊薬を飲んでもらうのは、今度にしようか」
「飲むまでもないわ。見れば、分かる。それはどう見ても失敗作よ、残念なことに」
ヤマメ、椅子に座りなおす。
手に瓢箪を持っている。中身の酒を、ぐいっと呷る。
「私たちは、どれくらいこうしていたのだっけ」
「知らない。地獄は時間が分かりづらいから」
「いずれにせよ、随分と一緒にいるな。でも、どうにもうまくいかない」
「ごめんなさい」
「いや、文句を言っているんじゃない。ただ私が無能なばかりに、おまえに負担をかけていると思った」
「そんなふうには考えない。あなたを助けるのも、霊薬を作るのも、私が好きでやっているの」
「何がたりないのだろう。本当にあと一歩。あと一歩で完成しそうな気がするのは、私の願望なのだろうか?
ここまで漕ぎつけるのに、さまざまな材料を使ってきた。今や私は阿片で儲けて、山ほどの材料を買えれば、土地もある。しかし金では、答えは買えないらしいんだな。
ああ、それにしても顔色がわるいぞ。家に帰ったらどうだい。おまえは私に会ってから、ここに入りびたっている気がするよ。でも、そう言うのはよくないな。おまえは姉がいるんだから」
「姉……」
「そう言えば、私はおまえの姉には会ったことがないな」
「会わなくいいよ、別に」
「どんなやつなんだ」
こいし、鼻を鳴らす。
「ふぬけ」
「ふん?」
「出かけてくる」
こいし、店を出る。
しかし、どこに言っても、彼女の落ちつけるところなど、あの店を覗いて、地獄の荒野しかないのである。
あいもかわらず、彼女を非難する妖怪たちの目が、彼女を突きさす。
こいしはため息をついて、貧民区の端にある、自分の家に寄ることにした。
家の扉を叩いて、
「お姉ちゃん?」
返事はなし。
「はいるからね」
こいし、戸を開ける。
酒の匂い。ころがる酒瓶と瓢箪。
劇中劇のさとりが手に瓢箪を持って、床に寝ころんでいる。
「ああ、おかえり」
「だらしない」
「だって、酒でも飲んでいないと、やってられないじゃない」
「そんなふうにしていると、体をこわすよ」
「妖怪が酒なんかで、体を壊すものですか」
「そんなことを言って」
こいし、さとりの体を起こす。
こいしは考える。
“思えば、お姉ちゃん。それも残酷だったころの。今でもその記憶はなまなましい。どんな凶悪な妖怪でも、ときには死を悲しみさえもするのが、情であろう。
誰にも負けはしない。そう信じたればこそ、お姉ちゃんはこんなふうに、あの高名な僧に敗れたあと、しばらくするとこんなふうに、心がふぬけてしまったのだ”
……。
「聞こえてるわよ」
「……」
「私をなさけないと思っているのね」
「そんなことーーー
「あるでしょう! ああ、どろどろになって、溶けてしまいたい。せめてここが、日の光のもとならば。この世の営みが、つくづくいやになる。わずらわしい、あじけない、すべてかいなしよ。荒れほうだいの地獄。むかつくような悪臭。こんなことになるなんて。
すこしまえまでは、私も立派な妖怪だったのに。
ちくしょう、地上はよかったなあ……まだまだ山ほど、殺してやりたかったのに」
「失ったものを嘆いたって、どうにもならないよ」
「こいし、近ごろ蜘蛛と、こそこそ何かやっているらしいわね。
ふん、霊薬なんてね。そんな物で、地獄をよりよくできると、本気で信じてもいないくせに。あんたはただの退屈しのぎに、蜘蛛に協力しているだけよ。あれだけ残酷なことがきらいだったのに、いざ平穏になると、せわしなくなる、その浅ましさ!」
「ひどいよ、あんまりじゃない!」
「だいたい、あんたに何ができると言うのよ。自分で何も成したことがないくせに。その命だって、地上では、私が守ってやっていたから、こうして生きながらえているのに」
「なんなの! 私に当たらないでよ。これなら残酷なお姉ちゃんのほうがまだよかった。今のお姉ちゃんは最低よ! 妹に当たりちらすなんて!」
「妹なら、酒を買ってこい。浴びるほどの酒を!」
さとり、こいしに金を押しつけて、外に叩きだす。
こいしの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれおちた。およそふたつの目から涙をこぼしたことがあっても、読心の瞳から涙をこぼすと言うのは、彼女もはじめての体験だった。
そのとき、こいしが直感する。
「これだ!」
そう叫ぶとヤマメの店へ、一目散に走ってゆく。
店にはいって、
「ヤマメ!」
「うワッ! おどろくね。出かけたり、帰ってきたり。いそがしいやつだな」
「そんなことを言ってる場合じゃない、最後の材料を見つけたのよ!」
「何?」
「これよ!」
こいし、肥大した瞳を持ちあげる。
「……おまえ、泣いているのか」
「そんなことはいい! 涙よ。な、み、だ! 見た瞬間に分かったんだ、この覚リの涙こそ、霊薬を完成させるんだって。さあ、いそいで霊薬を持ってきて、私の涙を垂らしてみよう」
ヤマメ、霊薬を持ってくる。こいしがそこに、涙を一粒、垂らしいれる。すると青い霊薬が、瞬く間に透明に変わってゆく。
ヤマメ、息を飲む。
「こいし、どう思う?」
「手ごたえあり」
「……やった!」
ヤマメ、こいしを抱きしめる。
「おまえに会えてよかった。おまえは最高だ!」
こいし、動揺する。
それもそのはず、こいしの生涯で、自分を肯定されることは、これまで一度もなかったのである。
彼女は肩を振るわせて、しゃくりあげはじめる。今度はふたつの目から涙を流す。
「おい、おい。どうしたんだ。どうして泣くんだ」
「なんでもない、なんでもないの。さあ、記念に乾杯しよう」
ヤマメ、盃を持ってくる。
ヤマメ、こいしの盃に霊薬を並々と注ぐ。
「さあ、ひと思いに飲んでくれ。そして、どうかその霊薬が、おまえに幸福をもたらすように、祈ってみるよ」
こいし、霊薬を飲みほす。
すると、急に視界が、ぐらつきはじめた。
目眩がして、盃を持つのもままならない。
盃を手放し、それが床に落ち、しかしその音も、まるでどこか、遠くのほうで聞こえてくるようだ。
目もとじられ、瞳もとじられ、そこに本当の暗闇が訪れる。
第四幕 第三場 四大感劇・喜(To cruel or not to cruel)
あなたを呼んでいる。
「分からない」
あなたに話しかけている。
「私には分からない」
あなたに言っている。
「誰かが見てる」
あなたの宿命を、押さえつけることはできない。
「誰にも……
私は乱世の地上に産まれおちた。
覚リの宿命は、すべての心を弄ぶこと。
それでも残酷さを押さえつけて、
私は探す、
心の光を、
光よ、傍に現れよ。
でも、光はどこにも現れてくれない。
私の光は今、どこにあるのだろう?
この道は本当に私の選んだ、
道なのだろうか?
だとしたら、
どうして私の心はこんなにも、
私の魂はこんなにも、
静かなのだろう……。
私に聞こえるのは、
私をきらう、人間たちと妖怪たちの心の声。
私はお姉ちゃんのように、残酷に生きるのではなくて、平穏の訪れを待っている。
恋の心が、私の気分をよくしてくれる。
……誰にも私の心が苦しむのは、見られたくない。
そら、拳を握って、歯をくいしばれば、我慢をする準備がととのっている。
もう諦めている。
私はずっと、
独りで生きていかなければ。
それがわるいか。
なんと言われようと、
残酷さを我慢するのが、
私のやりかた。
私はそう言うふうに生きる」
……。
「なら、あれはどう?」
さとりが現れて、こいしを抱きしめる。
離れたところで、菩提樹の木が成っている。その下で、劇中劇の第三の僧兵が、荒縄を編み、木につりさげて、今にも首を吊ろうとしている。
こいし、その光景に釘づけになる。
「あんたが残酷にならずに済んでいたのは、地上にいたころ、私が肩がわりしていたから。
でも、それはもう無理なこと。だって私は昔より残酷でなくなって、あんたばかりが以前よりも、残酷になってゆく。退屈さに当てられて、あんたは残酷になる」
「私にあの僧兵を見せないでよ!」
「なら見なければいい。ああ、その青ざめた顔。その悲しげな肩。そんなふうにしていると、固まりかけの決意が鈍ってしまう。瞳の中身がなくなって、影の中にでも、溶けだしてしまうようなことになりかねない」
「どうしてそんなふうに言うの、私を大切にしてよ!」
「ああ、本当にあんたはめくらのよう。でも、それも終わりつつある。ほら、耳を傾けて……」
あなたは退屈に腹を立てる。
あなたがそれを叩きのめすと、残酷さがやってくる。
いじらしい心。
わたしは見つけた。
その心に、育っていた、小さな“おねだり”を。
ひそかな苦痛と、ひそかな野望を。
小さな妖怪の企みを。
わたしがあなたの心の中に、
眠っているあいだに、
こっそりと現れる。
「すさまじい早さで、私の心に、残酷さが迫る足音がする。
騒音を鳴らして、もう誰にも止められない」
怖れなくてもいいの。もうどんな苦悩も、我慢する必要はない。
ただ自分を信じて、みんなの心を弄べばいい。
わたしの手を取って。
そして世に、混沌と破滅をもたらすのよ。
それがあなたの宿命。
「私は認めない。
私はお姉ちゃんのようにはならない。
……でも、でも……我慢するのは、もうつかれてしまったから。
だから、今だけは、残酷さに心を開けわたしてあげる。
そんなことも、今だけのことよ」
ああ! 眠るあなたの心に、
そっとしのびこむ企み。
あなたの心が目ざめるとき。
怪馬のいななきのような雷鳴が……閃く!
第四幕 第四場 四大感劇・喜(To cruel or not to cruel)
こいし、起きあがる。
店の一室。布団から出て、ヤマメに後ろから近づく。
「おはよう」
「うワッ!」
ふたりが見つめあう。
「起きたのか!」
「私はどれくらい、眠っていたの」
「正確には分からないけど……月が一周するくらいは、眠っていたと思う」
「そう」
「何があったかおぼえているか? おどろいたよ。霊薬を飲んだら、急にぶったおれたんだからな。使いかたがわるかったらしい、あれは随分と効くらしいけど、そのぶん効能も凄いんだ。一滴だけでも、効きすぎるくらいにはね」
「あの薬はどうするの。みんなには沢山、飲ませてあげないの?」
「冗談じゃない。あれはもともと、おまえのような不感症の妖怪のための霊薬だよ。どうやら私たちは、思ったよりも厄介なしろものを、作ってしまったらしいんだな。使いかたは、厳重に見きわめないと。あんな物を山ほど飲んでしまったら、みんな単細胞の馬鹿になってしまうぞ」
「そう……」
こいし、戸棚から霊薬を持ってくる。
そして瓶の口をあける。
「おい、飲むつもりか。已めておけよ。せめて飲むなら、一滴くらいにしておくんだ。口をつけて飲むような物じゃない。またぶったおれたいのかい。おまえ……中毒になってはいないだろうな」
「ヤマメ、私は飲まないよ」
「じゃあ、なんのために持ってきたんだ」
「おまえが飲むんだ!」
こいしがヤマメに飛びかかって、瓶をヤマメの口に押しつける。
あまりに突然のできごとだった。ヤマメはそれを振りはらえずに、無情にも霊薬が、彼女の喉を下っていった。
「う、う、う、う……!」
「おとなしく、しろ……しなさい!」
やがてヤマメが意識を手ばなす。
こいし、薬棚を眺める。そこには未完成の霊薬が並んでいる。
こいしはひとつ、それを手にして、瞳の涙を、垂らしはじめた。
(時が経ち)
ヤマメが目をさます。
覚醒しない頭。しばらくぼうっとそのままでいた。
しかし、やがてこいしに何をされたか思いだす。
当たりを見てもこいしはいない。いそいで店の外に飛びだした。
「……なんてことを」
獅子累々。霊薬に頭を侵された妖怪たちが、軒先や地面に転がっている。
遠くのほうで、歌が聞こえる。ヤマメがその方角に走りぬける。
「この地の獄は。
人間とのつながりをなくした、
ぼろぼろの数珠。
糸はとぎれて、
あちらにこちらに飛びちって。
どこへ消えてしまった
ララララ、ララ」
「こいし!」
「おはよう」
「どう言うつもりだ!」
「随分と眠っていたね。でも、私とちがって、月が一周するほどじゃない。それはあなたが、毒に強いからなのかな」
「どう言うつもりだと、聞いているんだ!」
「気がついたのよ。妖怪らしく、残酷にふるまうべきだとね……私は平穏なんて欲しくない、本当は、ずっとこんなふうに、残酷なことがしてみたかった。お姉ちゃんのように」
「ああ、こんなことのために! おまえは私を……助けていたのか……おまえのことを、信じていたのに!」
「私もよ。でも、ごめんなさい。我慢するのはつかれたの。これからは、好きなことをやる」
ヤマメがこいしのほうに、つかつかと歩きだす。
「何をするの?」
「責任を取る。おまえを殺してやる。そして解毒薬を作って、みんなを正気に戻す。私はそれを成さなければならない」
「ヤマメ……あなたは本当にやさしい」
そのとき、倒れていた妖怪たちが、まるで操り人形のように立ち上がる。そしてヤマメを、はがいじめにして、地面に拘束する。
「こいし、これはおまえがやっているのか!」
「これまでうっとうしいと思っていた力だけど、こうして使うとわるくないね。心を意のままに操れる」
こいし、ヤマメの頭を踏みつける。
「わるく思わないでね。妖怪の世は、暴力が支配しているんだから。あなたが無力なのがわるいのよ」
「殺してやる!」
「殺してやるね……フフフフ、フフ。殺してほしいの、まちがいじゃないの? あなたの心はそう願っているわ。
でも、私はあなたを殺さない。
あなたは霊薬を作れるからね。私のために……あなたにはこれからも、働いてもらわなければならないの」
こいし、妖怪たちに命令する。
「店に連れもどしなさい。そして霊薬を作らせつづけるのよ……いつまでも」
「殺してやるぞ! 呪ってやるぞ!
この恨みは、千年万年が経っても忘れない!
たとえみんなが忘れても、おまえがどこに消えようとも、私はおまえを忘れない!
この恨み、私は魂に刻みつけた! 忘れない……果たされるまで!」
ヤマメが叫ぶ。
「絶対に!」
第四幕 第五場
「××……」
なんの声?
「××××……」
蜘蛛の声。
曖昧な目ざめに揺りうごかされて、こいしが目をさます。
やがて意識がはっきりとしてくると、鮮明にヤマメの声を聞く。
「そう。こいしがかつて、みんなを霊薬のとりこにして、その心を弄んだのさ。ひとえに覚リが産まれもつ、残酷さが成せることだ」
一刹那!
こいしがばねのように飛びおきる。
獣の早さで立ちあがり、ヤマメに飛びついて、床に組みしく。
せばまる瞳孔。ぎらぎらとヤマメをにらみつけて、荒っぽい息を何度も吐きだし、やっとの思いで言葉を浴びせるのである。
「お、お、お、おまえ! ……は!、? 何を、話して、いた。こころちゃんに! どこまで、どこまで話したんだ!」
「へへ……全部」
「おまえは……ひとのことをなあ、勝手になあ! うう……おまえは、本当はおぼえていたんだなあ……あのときのことを……忘れたフリをしていたんだ!」
「一瞬たりとも忘れるかよ。私の霊薬で、みんなの心を壊されたんだぞ」
「信じられない! あれから私は瞳を閉じて、みんなの心から忘れられたはずだ完全に!
絶対にだれも、私のしでかしたことをおぼえられない。おぼえていてはならないんだ!
ちくしょう、ちくしょう! どうしてヤマメは忘れていない、どうして昔の私が心の中にいる!」
「たとえ心が忘れても、この復讐の炎。魂に刻みつけられて、傷は癒えず、忘れることなどできるものか。おまえは心にまつわるのみ。魂に刻みこまれた復讐の刃はどうしようとなまくらに変えられない」
「ふウーー……ふウーー……殺してやる!」
「すこしでも哀れだと思わないのか。友達じゃないか、一緒に薬を創ったろう。おまえと霊薬を作った時間。私は本当にたのしかったよ」
「当たりまえじゃない。おまえなんて、こころちゃんに比べたら、なんの価値もないんだ! おまえなんて、死んでしまえ! 害虫のくせにぺらぺらと話しくさりやがって!」
ヤマメ、目を伏せる。
「そうかい。フフフフ、フフ。おまえにとって、私はそれっぽっちだったのか」
「笑うな!」
「見ろ、面霊気。これがこいしの正体だ」
こいしがはっと、こころのほうに目を向ける。
心を読めなくても分かる。その目はこいしを怖れるのだ。
「こいし、おまえは……おまえが? 地底で昔……そんなことを」
「私を見るんじゃない!」
そのときヤマメが隙をついて、こいしを押しのけ、頭を掴み、彼女を床に頭から叩きつけて、取りおさえる。
「おまえは畜生だ、恥を知れ!
おまえはみんなの心を壊したあと、そのくせ自分のしでかしたことに怖れをなして、心を閉ざして逃げさったね。でもおまえが今、私にぶつけた怒りだって、本当はなんの中身もない! ただの仮面の表情だ。なんせ心がないんだからなあ!
私がどれだけ、あの騒動の後始末をつけるのに、苦しんで、傷つけられたかおまえに分かるか。死のうと思った。何度も何度も!
それを我慢して、私はみんなの心を取りもどづために、頭のおかしくなったみんなに囲まれたまま、時間をかけて、解毒薬を作ったんだ。その作業だって、おまえが逃げださずに、霊薬を作ったときのように、傍にいてくれたら、どれだけ捗ったことだろうか。
でも、自分の残酷さから逃げつづけていたおまえは、自分のしでかしたことの後始末をつけるのもいやだったんだよな。だからおまえは私にすべてを押しつけて、心を閉ざして逃げやがった!
そうしなければ、私もおまえの過ちを許すことができたのに! あまりに凶暴なくせに、愚かで……弱い!
そのうえ何が恋仲だ。何もかもを忘れたような顔をして、自分だけが幸福になろうとしやがって。しかし……フフフフ、フフ……おまえを憎んで々んで数百年。ついに復讐のときが訪れた。この日をどれだけ待ちのぞんでいたことか!
まさに今! 日陰に追いやられていた私は、どこかの舞台の中心で、光を浴びているようだ」
「おまえがそんなことを考えていたら、お姉ちゃんが気がつかないはずがない。お姉ちゃんのまえで、それを考えずにいられるわけがない!
今日だって、おまえはお姉ちゃんに会ったはずだ!
おまえはどうやって、これまでお姉ちゃんをごまかしていたんだ!」
「ああ、こいし……どうして私が、おまえたちが恋仲になった直後に、都合よく地霊殿に“いられた”と思う?」
こいしがはっとする。
「……嘘」
「本当さ。残酷なおまえの姉の好きそうなことさ。じつのところ、どうしてあいつが私に協力したのかは、さっぱり分からないんだけど。
きまぐれかな。律儀に妹にけじめをつけさせようとしたのかな。それとも案外、おまえに対する、独占欲だったりするのかな? まあ、復讐を果たせるのなら、どうでも言いことさ。信じられないか? それなら、そら。瞳をひらいて、心を読んでみればいい。まことを見るのが、おまえたちは得意だろう……ああ、そうだ。おまえにそれはできないんだった! 今のおまえは、ただの雑魚なんだ!」
「お姉ちゃんはそんなことをしない!
お姉ちゃんは私を大切にする!
お姉ちゃんは私をうらぎらない!」
「醜いねえ、々いねえ。おまえは本当に畜生だな。保身のことしか考えてない。あの騒動には、おまえの姉も巻きこまれたと言うのにさ。その面霊気にだって、いつ自分の過去を打ちあけたことか。おおかた語らずに済ませるつもりだったんじゃないのかな?
でもなあ、引きさいてやった。おまえたちの仲を、引きさいてやったぞ。おまえの恋びとの目を見るがいい。面霊気はおまえを怖れている。おまえの残酷さがそうさせるんだ!」
何を期待していたんだ! 恋をすれば、自分の残酷な本性が、変わってくれると思ったか!」
「いや……」
「復讐の神々よ、私に幸福を与えたまえ!」
「いや!」
そのとき硬直していたこころが、ヤマメを押しのけて、こいしを庇う。
「已めろ、もう已めてくれ! 充分だろう、こいしを苦しめないでくれ!」
こいしが店の外に飛びだす。
「待ってくれ!」
こころも店の外に飛びだす。
ヤマメが立ちあがり、椅子に座って、満足そうに、こう呟いた。
「復讐は果たされた」
第四幕 第六場
地底の荒野より。
足音がする。ふたりの追いかけっこ。
やがてふたりがつかれきり、地面にへたりこむ。
(ふたりのあいだに、十歩ほどの距離がある)
こころがぜえぜえと息を吐きながら、
「こいし……独りに……なるな!」
「私は本当になさけない。恋びとに怯えられてしまうなんて」
「蜘蛛の言うことを真に受けるな! 私から離れたら、それこそ蜘蛛の思いどおりだ!」
「何も分かってないのね」
「分かる!」
「残酷に産まれたくて、産まれたわけじゃなかったんだよ。
私は自分が、お姉ちゃんのようにならないと信じたかった。
でも、どうしても堪えきれない。私たちは産まれながらに、過剰に残酷で、それを押さえつけようとすれば、あとで必ず揺りもどしがくる。そんなことは分かっていたはずなのに」
「私はおまえの残酷さだって、受けいれてやる! 今は無理でも、いつかは必ず!」
「そんなことは分かってる!」
「じゃあどうして私から離れようとするんだ!」
「だから“何も分かってない”と言ったじゃない」
「何が! おまえの言いたいこと、ぜんぜん分からない! はっきりと言えよ!」
「さっき! ……ヤマメを組みしいて、殺してやろうと思ったとき……自分の残酷なところが、どうしようもなく、高ぶるのが、分かった……心もないのに……こころちゃん、本当にあなたのために、心をひらいてあげたいと思うよ。
でも心をひらいたら、私は以前のように、残酷になる。私は残酷になって、どうしようもなく、こころちゃんを苦しめる。あなたの心を引きさいて、何も残らなければいいと……多分ね。
それが私の宿命だったのに、そんなことも忘れていた」
「心をひらけ、私の心を見ろ! 思いあがるな、おまえの残酷さなんかで、私の心が砕けるもんか!
おまえに本気でいるの、おまえが心の底から好きなんだ! この想いは、おまえが痛めつけたって、痛めつけきれないくらいの沢山だ! だから、こいし……頼む、心をひらいてよ」
「無理よ、だって、瞳の中身がないんだもの」
こいし、瞳をひらく。
こころは唖然とする。瞼の中に、目玉がなかったからである。それは戻らない心の影。影はあとも残さずに消えるのみ。
「おまえ、それ……空洞」
「へへ……これが地霊殿の屋上で、ヤマメがくるまえに、言いそこねたこと。
瞼をひらいて、その心が聞こえるなら、私はとっくに開いていた。でも無理なのよ。だって、そう、この瞳をとざしたときに、中身がきっと、どろどろに溶けだして、消えてしまったんだよ。
私の“敵”がそれを持っていって。あとはもう、何も残らない。
ねえ、私は後悔したこともあるよ。
みんなが宴会で騒いでいるとき、誰かの恋を見かけるとき……こころちゃんと、恋仲になれたとき……そう言うときは、心をまた、ひらいてみたいと思いたくなる。
でも中身がどこに消えたのかも分からないのに、どうやって心を取りもどすの?」
こいしの姿が、蜃気楼のように薄れてゆく。
「一緒にはいられない。こころちゃんはやさしくて、心を見るまでもなく、沢山の中身が詰まっているのに、私はいつまでも空白のままで、あなたと釣りあうはずがなかったの。
私は夢を見てしまったんだと思うんだ。私の傍にいるあなたが、あまりに無邪気でかわいらしくて……叶いもしない、恋の夢を」
「待って……」
「さよなら、さよなら! 別れって、本当に唐突だね。沢山の感情を向けてくれて、うれしかった……心もないのに、別れがあまりにつらいから、いつまでもさよならの瞬間を、繰りかえしていたい。
今度は私のような、
乱暴者に惚れないように、
次の恋を探してね」
消滅。
地底の荒野に、
風は吹かないし、
影もかたちも残らない。
残されたこころの、
絶叫が地底を走りぬけても、
誰も聞こえはしなかった。
安寧のために、
心を閉ざせ、
すべての心ある者たちよ。
第五幕 第一場
(一ヶ月が経過)
「起きろ」
「ああ、うう。こいし、そこにいるのか」
「寝ぼけるのも大概にしろ」
「ああ、眠らせてくれ。私は死ぬまでこうしていたい」
「ふん、面霊気ってのは死ぬのか」
ヤマメがこころの頬を張って、目をさまさせる。
望んでもいない目ざめ。こころの手が霊薬を求めて、机の上を這いまわる。
「そんなふうに霊薬ばかり飲んでいると、おまえも単細胞の馬鹿になるよ。ウヰスキーはどう? 体にいいよ」
「そんなのたしにもならない」
「そうかい」
ヤマメ、ウヰスキーを持ってくる。
グラスに入れて、飲みほす。
「ふウーー……近ごろの私のほうと言えば、最高の気分でございます!」
「そうだろうな」
「やるね、おまえ。この一ヶ月、おまえは霊薬を飲んでいる。飲みまくっている。それは私が与えるからだけど、おまえは已然と正気のまま。
ああ、気にするな。おまえは私の復讐譚に、巻きこまれてしまっただけさ。それについては、罪悪感をおぼえている。だからこうして、霊薬を無償で与えるんだ」
「私が正気でいられるのは、失恋の痛みが、あまりに大きすぎるからだ。やるね、じゃない。心は強くない。この痛みは、どんな薬でも癒せない。失恋の痛みが、魂に刻みつけられているからだ。手の施しようがない。
さあ、薬を渡せ。私は眠る。
いつまでも」
ヤマメ、霊薬を持ってくる。
こころの手に近づける。
「どう言うつもりだ」
こころがそれを手にするまえに、自分の手を引っこめる。
「いつまでそうしているんだい」
「何を抜け々けと。私がこうなったのも、おまえの復讐が! ……ちくしょう。
私はこの一ヶ月で、痛いほどに分かったぞ。
薬なんかで絶対に本当の痛みを癒しきれはしない。本当に狂いきれるのなら、こうして薬を求めることもできやしないんだ。それを手にしようにも、頭が働くわけがないからな。いかに狂気でも、正気の苦しみに勝てはしない」
「その解釈も、ありと言えばありだ」
「薬を渡せ。私に罪悪感をおぼえているのなら」
「にやついて)どうしようかな」
「ちくしょう。おまえも所詮は、自分のきらいなこいしと同類だ! 穴の狢、同族嫌悪」
「あいつが今の私を創ったのさ。復讐だけが生きがいの、馬鹿な妖怪にな。争いは伝染病と同じだよ。空気に当てられて、自分も残酷になってしまう……おっと」
こころ、霊薬を引ったくる。浴びるように飲むと、机に上半身を倒れさせて、なおもヤマメを見つめる。
その目は憎悪をたぎらせている。
「習慣とは怖ろしいな。それだけ霊薬を飲んで、すぐに意識が絶たれないのか」
ヤマメ、縄を取りだす。そして自分の糸で、それをさらにつなぎあわせる。
「困ったね。私は裁縫でいそがしいんだ。それに薬もいずれなくなるぞ」
「作ってくれ」
「無理だね、それには覚リの涙が欲しいし、ここにあるぶんは、あの騒動の在庫でしかない。おまえが浴びるように飲むんだから、それもすっからかんさ。そもそも私も、そのうちそれを作れなくなる」
「どうして!」
「首を吊る。それで死ねるか分からないけど。生涯の目標を果たして、もうやるべきことがない。欲しければ、おまえのも作るけど」
「……勝手に死ね!」
……。
「ああ、こいし。おまえはどこに消えたんだ。これはたしかに死んだほうが気も効いている。すでに消えたおまえに焦がれて、いつまでも諦められない。私はつらい、つらすぎる。
私は飲んだくれてしまったよ。酒どころか、麻酔に! それでも心の痛みを、麻酔でもなければ、どうしてのがれられよう。
……なんて馬鹿な、私と来たら! 自分のことながら、見さげはてる。天も地も心も魂も、おまえを探せと言っているのに。
許してくれ。
私の心は折れてしまった。
もう立ちあがることもできないんだ」
「これでどうです?」
こころが顔をあげると、さとりが現れている。
手にこいしの帽子を持っている。
「どこで手にいれた!」
「妹のことは魂で分かると言ったでしょう。あなたは恋仲のくせに、こいしの場所も分からないのか」
「馬鹿にするな! ヤマメの復讐が成されたのも、おまえが私たちをうらぎったからだろう!
私も……こいしも……あなたをしたっていたのに!」
「だから“信用しないほうがよろしいですよ”と言ったじゃありませんか。それにヤマメも言っていたはずです」
「……何が!」
「にこにこと笑っていても、悪党の場合があるから、用心しなさい」
「ちくしょう! (薙刀を取りだす)すれっからしの畜生め。おまえが殺しあわせた、僧兵たちのように、刺しころしてやる!」
「よろしい! 妖怪らしくなってきた」
さとり、店の外に出る。
こころがそれを追いかける。
外は寺の本堂に繋がっている。
その風景の一変に、こころが目を白黒とさせているうちに、一輪と水蜜とぬえがどこからともなく、彼女の周りに現れる。
さとりが毘沙門天像のまえで、こいしの帽子をかぶって、像に祈りを捧げている。
「祈りの言葉)乱世なら、心の冬からも逃げきって、方々を歩きまわる、私と妹は、日の光のもとで戯れていた。
しかし、地の獄に落とされては、
もう、いとおしい、人間たちの声も聞こえない。
そして妹は、解きはなたれたばかりの、未熟な残酷さと、邂逅するのでした。
日の光のささないところで、
妹が残酷さと戯れる。
もう誰も、妹をきらうことはない。
やがて妹は恋びとを得た。
ふたりは接吻に倦んで、契りを交わした。
声をまねて)……“好き。いつまでも一緒にいてね!”
しかし、魔性の蜘蛛が、ふたりのもとへやってきて、
妹の恋びとの、その未熟さに付けいると、
瞬く間にふたりの絆を引きさくのだ。
青ざめて、震える、愚かな、恋びと!
私に語り、明かしてみなさい。
おお、心をかきみだす、恐怖よ!
乗りこえるために、残酷への目ざめを!
それが、恋びとに妹を、ふたたび取りもどさせる」
「ぬえが)こころ。産まれたてから抜けだして、ついに妖怪らしくなった。突っこんで、祈りの言葉を捧げている、あの妖怪を刺しころしてやれ!」
「私に近づくな!」
「水蜜が)知らなかったの? 昔の妖怪は、みんながこんなふうだった。他者の物を奪いとって、それを省みたりはしない。
力だ! 私たちは、力を持って、産まれてきた。でも、それ以外のものは何も持っては産まれてこない。
おまえは異変を起こしたけれど、あんなことは、残酷でもなんでもない。おまえは徹底的にやるべきだ。何ごとも徹底的に。
昔のこいしは正しいことをしたんだよ。
覚リらしく、妖怪らしく!
さあ、おまえも妖怪の輪にくわえてやる。善良な面霊気」
「ふしだらな悪霊の分際で!」
こころ、薙刀を構える。
「一輪が)まっすぐよ。ただ、まっすぐに突っぱしりなさい。心の願うままに」
「ふウーー……ふウーー……復讐!」
「殺せ!」
「果たせ!」
「誓え!」
毘沙門天像に祈っていたさとりが振りかえり、
「殺してみろ!」
こころがさとりに突っぱしる。
しかし、あと一歩のところでさとりの姿がかききえて、勢いのままに倒れこむ。
そのとき、薙刀が勢いあまって手ばなした薙刀が、こころと彼女の影を切りさき、ふたりに分かつ。
倒れこんだこころが顔をあげると、景色が門前に変わっている。
雨が降りだし、雷鳴がとどろくと、切りわけられたこころの影が、舞を踊りはじめる。
「ああ……自分のことながら、他者のように感じる。
私はあんなふうに舞をしていたのか。
でも今の私にはできないこと」
そのとき、こいしが現れて、こころの影と話しはじめる。
こころはそれを、ぼんやりと眺めることしかできなかった。
こいしの言葉は聞こえても、こころの影のほうは、ただの影にすぎない。おおよそ言葉を発することはできない。
それでもこころは、自分の影の言葉が、手にとるように分かっていた。
おまえの!
おまえの、その張りつけたような笑いが……本当に……きらいだ!
「……」
こうまで言っても、その心は動かないだろう。私はおまえが心をとざしたわけが、分かるような気がする。おまえのかつての読心の力と、この感情的な力が似ているために
認めなければならないのは、感情は私の希望であっても、みんなにとっては、苦しみの根元であると言うことだ
感情を見るのはまことにつらく、得ようとするとなおもつらい
私は何を見たんだろう? あんなにつめたい感情があるなんて!
つらい! 助けてほしい。ほかならぬおまえに! 私の胸は張りさけそうだ
「こころちゃんは宿敵と言うけれど、私はあなたを、友達だと思っているよ。
あなたには、私のように挫折してほしくない。心や感情を解そうとすれば、おぞましさからのがれられないとしても、あなたには前を向いて、生きてほしいんだ。
私にできることはある?」
……。
「スクロール」
こころ、不意にふところを探る。
スクロールの重みを感じる。
「まだ途中だったんだ。
でも、どうしてこれの続きを書けるだろう。
もはや物語を語ってくれるおまえはいない。
ああ、眠い。
私はどうすればよかったんだろう」
最初に言ったはずでしょう。
「何を」
それでも。
もしあなたが。
「ああ、思いだしてきた。
そんなこともあったっけ。
もうずいぶんと、昔のように感じるよ。
……。
それでも。
もしあなたが。
私に恋をしているなら。
大渓谷に阻まれても。
高すぎる山で挫いても。
深い湖へ飲みこまれても。
無限の砂漠の虜になっても。
まだわたしに恋をするなら。
そのときにわたしの心をひらきます。
そして見事に、わたしのまことの姿を捕まえてみせなさい。
そう言っていた。
でも、どうしてもおまえを見つけられない。
こいし、おまえのまことは今、どこにある」
あなたはわたしに恋をして、沢山の感情を与えてくれた。
だからヤマメの言うとおり、公平にしましょう。
影法師よ。私は影法師の中に隠れている。
それ以上は言わない。
それを見つけたときに、わたしの心をひらきます。
約束よ。
そして見事に、わたしのまことを、どうかどうか、捕まえてみせて。
今度は失敗しないでね。
いつまでも待っていますから。
第五幕 第二場
店の戸が叩かれて、一輪と水蜜がはいってくる。
「こころ! ようやく見つけたわ」
光を失った目で、虚空を見つめるこころにふたりが駆けよる。
ヤマメ、気楽そうに縄を編みつづける。
「いらっしゃい」
「いらっしゃいじゃない、これはどう言うことなの」
「どうも、こうも。ようするにそいつは、霊薬を飲みすぎて、頭がおかしくなっているんだよ。そう、睨むなよ。治してやってもいい。でも今の状態は、そいつが望んでいることだ。治すといやがると思うけど」
「ヤマメ。さっさと治さないと、あんたをやつざきにする」
「分かったよ」
ヤマメ、解毒薬をこころに一輪に投げわたす。
それを飲ませると、すぐにこころが目をさます。
「一輪さん、水蜜さん? 本堂にいたんじゃなかったのか。いや、ここは寺じゃないのか? どこから夢で、どこから現実なんだろう。ああ、影がある。私の影、よかった……」
「あんたが地上からいなくなって一ヶ月。もとから神出鬼没ではあったけど、さすがにおかしいと思ってね。
ここを見つけるのも苦労したわ。山の天狗が、あんたが独りで地底に降りていくところを見ていなかったら、もうしばらく見つからなかったかもしれない。さあ、帰りましょう」
「それはできない。私はここにいるのが幸せなんだ」
「そんなことを言って……わがまま言うんじゃないよ。聖さまも心配しているんだから」
一輪、こころの肩に触れる。
「振りはらい)私にさわるな! もういいんだ。何もかもどうでもよくなってしまったんだ。能のことも、感情のことも、スクロールのことも。あいつがいないと意味がない!」
困惑する一輪に、ヤマメが教える。
「そいつは失恋の痛みがあまりにひどいので、霊薬で心を慰めて、ここでだらだらとしていたいのだ。心が過敏になっているときに、いったいどうして地上の光に当たりたいと思われよう。心のどこもかしこも傷ついているのにさ。ところで一輪、こいしっておぼえてるか」
「こんなときに、なんで石ころの話しをするの」
それを聞いて、ヤマメが大声で笑いだす。
会心の笑い。
“なんで石ころの話しをするの”
この言葉よりも、ヤマメを愉快にできることなどない。
ふたたびこいしは見えづらくなり、大勢の心から忘れられているのである。おぼえているのは、ヤマメやこころのように、より彼女に近しい者だけだ。
「何がおかしいの!」
「ケッサクだよ……ウケるね。さあ、帰った々った。そいつが望んでもいないのに、無理に帰らせるつもりか」
こころ、ぽろぽろと涙をこぼす。
「一輪さん。もういいんです、本当に。
私を連れかえるくらいなら、どうか子守歌でも歌ってほしい。
ねむれ、ねむれ。愚者よ。
よろこびを夢に求めるために。
ねむれ、ねむれ。眠りの中に、
今はいない、恋びとの姿を求めるために。
と……どうかどうか、歌ってほしい」
「ああ、こころ」
水蜜、こころを抱きしめて。
「おまえの心がぐしゃぐしゃになっているのが分かるよ。
泣きたければ、泣きなさい。
無表情のおまえが、そんなふうに悲しみに顔を歪めるなんて、よほどのことがあったんだね」
「表情……そう、私は」
そのときこころが、顔を驚愕でゆがめる。ゆがめられたのである。彼女もようやく、その変化に気がついた。
「表情!、?」
「気がついてなかったの?」
こころ、霊薬のはいった瓶を眺める。
その表面に、悲しみや驚愕や喜びで歪んだ、複雑な顔が映りこむ。
「う、う、う、うオーー! 表情だ、私の表情だ。信じられない、私はまぎれもなく、悲しみを顔にたたえている!」
「おまえ、大丈夫なの?」
「大丈夫も何も、つまりはこうだ!
私はこいしを失った。
それを悲しむと、さらに悲しみが募っていった。
私が黙っていると、悲しみはさらに育っていった。
そして私は、その悲しみに怖れを成して、そこに霊薬をそそいでやった。
すると日ごとに悲しみは大きくなって、
やがて表情を創るほどの、本当の悲しみになったってわけだ!
悲しみも、ときには役に立つものだ。そのおかげで私は……ついに表情を成したんだ!」
こころ、店を飛びだす。
「一輪が)びっくりした。悲しいのか、うれしいのか。嵐のよう。なんだったのかしら」
「まあ、元気になったのならいいんじゃないの」
「余計なことをしてくれた」
「ヤマメ?」
「終わっちまえ、地上の妖怪ども」
「なんだかよく分からないけど、あんたの企ても、無駄に終わってしまったね」
「つまらん」
ヤマメ、ウヰスキーを瓶ごと煽る。
「終わっちまえか。ヤマメ、幽霊のごときは、すでに終わっているんだよ。あんたもね。私たちは老いている、若者の心を弄ぼうなんて、おこがましいとは思わないの」
「説教はけっこう。帰れ、帰れ! 本当に、地上に出ようと、地下に落とされるような妖怪は、地上に出ても畜生なんだな。日照不足で、心が歪んでしまったんだ」
「ところでヤマメ、あんた死臭がする。寿命でも来たの」
「帰れ!」
ヤマメ、ふたりを叩きだす。
しばらく浴びるようにウヰスキーを飲む。それから不意に、霊薬に手を伸ばして……手を止める。
拳を握りしめ、肩をふるわせて、さめざめと泣く。
……?
誰かが店にはいってくる。
足音がして、ヤマメの傍にくる。
……お姉ちゃん?
「どうして泣いているのです。あなたはよろこぶべきですよ。復讐を果たしたのだから」
「面霊気は立ちなおったらしい」
「見かけましたよ。地霊殿のほうに走っていきました。これから何をしてくれるのか、たのしみですね」
「おまえのたくらんでいたことが、私は分かってきたよ」
「……」
「おまえは私にふたりを焚きつけさせて、絆を深めようとしたんだな! 恋の道は茨であればあるほどに、その絆も強くなる。面霊気は善良だけど、あまりに幼いし、それに優柔不断だった。
こいしはもとから破綻者だ。私が炊きつけなくても、どうせふたりは破局したにきまってる。おまえはそれが分かっていた……残酷な手口、反吐が出る」
「あなたは本当に賢い」
「それにしても無茶苦茶だ。面霊気が立ちなおれなかったら、ふたりの恋は終わりだった」
「そうなったら、こいしは以前と同じに戻るだけです。何も考えられない、ただの見えづらい」
「面霊気はーーー
「こころさんが折れてしまっても、私の知ったことじゃありません」
「……反吐が出る」
「ヤマメさん。病気も絶望と分かったら、荒療治しかない。こころさんと恋仲になれば、こいしは以前よりも、たのしく生きられるかもしれない。
でも心をひらいたら、さらにたのしく生きられる。
私はさきが見たかった。
そのためにはこころさんが、善良なだけではなく、なおかつ妖怪らしく成長するしかなかったのです。
こいしの心を、ひらくほどの成長を。
私はかつて、人間の心にやぶれたことがある。だから私は……心の力を信じる。それは古来より、不可能を可能にする唯一の力なのです……そう信じてる」
「ふん。でも面霊気が立ちなおったからって、こいしが立ちなおれるかは別だろう」
「……」
「こいしは分裂病者だ、そうだろう! あいつは私と薬を作っているときも、独りで何か、ぶつぶつと言うことが多かった。誰かと話しているように。
ようするに! こいしは過剰に残酷な部分と、それを押さえようとする、善良な部分があったんだ。しかし、おまえたちは残酷さと不可分だ。
それを両立なんて、できはしない。だから最初に、霊薬を口にしたときに……それが破裂して、残酷な部分に支配された。
こいしが心を取りもどしたら、また残酷な部分と戦わなければならない。あいつの弱い心は、はたしてそれに耐えられるかな?」
「大丈夫。こころさんがいる。
きっと、今度はうまくいく」
さとり、店の出口に近づく。
「帰るのか?」
「はい」
「酒でも飲んでいかないか。私の慰めにつきあってくれよ。一流の妖怪に復讐さえも利用された、二流の妖怪の慰めに」
「仕事がありますから」
「そうかい」
「ヤマメさん、首を吊るのは已めておきなさい。あなたは私たちとちがって、友達が多いのですからね」
さとり、店を出る。
「何もかも、さとりの手のひらの上のようだ。
あっぱれだ、ここまでくると。
おまえは残酷な妖怪だよ。こいしなんて、比べられない。この世の誰よりも、残酷な妖怪だよ。それだけの残酷さを持ちあわせて、平気な顔をするんだからな。
もう……ぐちぐちと文句を言ってもしょうがない。結局のところ、復讐もひとりで成すことができない、二流の妖怪だったってわけだ。かまわないさ。死の代わりに、飲んだくれることにしよう。友達でも誘って、数百年も酔いきれなかったぶんの飲んだくれを。
そして隅の席に座って、いやしくも若者たちの物語を、さめざめと泣きながら、眺めてやるとしようじゃないか……できることなら、陰惨な終幕を期待して。
こいし……それに、こころ。私は……見ている」
第五幕 第三場
地霊殿の屋上より。
こころが現れる。
「聞け! こいし……聞け!
おまえのことだ。どうせどこかで聞いているんだろう!
よしんば近くにいないとしての、今の私の声は、地底の隅の隅までも。
いや、地の底を貫いて、はるかな天界にまで届くだろう!
魂のふるえの声だ!
私はおまえが好きだから、
おまえを見つけることができる。
おまえが空気に溶けこんで、
蜃気楼のように姿をけしても。
私には分かるんだ。
おまえが大渓谷にいようとも、
おまえが高すぎる山にいようとも、
おまえが深い湖にいようとも、
おまえが無限の砂漠にいようとも、
ひとつだけの私の心を、
おまえに与えてやる。
だから、おまえも私に感情を差しだせ。
横暴と思うか。
でも、すでに遅い。
おまえが望もうと望むまいと、その鋼の瞼をこじあけて、私はおまえの感情を手にいれる、
乱暴に。
私の感情を見ろ、おまえの心をひらけ!
ああ、感情があふれてくる。
無限の感情が。
分かるぞ。
こう言うときに、
どう言うべきか、
それが魂で分かる。
こいし……聞け」
(沢山の空気を吸いこんで)
「アイ!」
……。
「ラブ!」
……。
「ユー!」
こころちゃん……わたしは……。
第五幕 第四場
すべての心の大劇場より。
こころが現れる。能の衣装。手に薙刀を持っている。
こころを拒むように、劇場に霧が立ちこめている。それが舞台と観客席を分かっている。
「われ、能楽師なり。
しかして能楽師、ただ物語の影法師に過ぎん。
そのまなこが、
気にいらずば、
ただの夢を、
見たと思えば、
それでも忘れずと願う。
およそ舞、最良の出来でも、影に過ぎず。
しかして、最低の出来でも、見どころあり。
われ、まことを語る。
さいわいにして、叱りなければ、
それ、われわれの希望なり。
どうか、見よ!」
(第一幕の舞を踊る)
「四大感能・怒。
かつて乱世に、覚リの姉妹あり。
その姉妹、三人の僧兵に追いつめられしも、
姉、僧兵たちを狂わせ、それを打ちたおす。
やがて芦原国をさまよい。村々や追ってを打ちたおすも。
高名な僧に会いしは、
その身、地の獄に封じられる」
(第二幕の舞を踊る)
「四大感能・哀
その妹、まじない薬を知り、蜘蛛と会う。
蜘蛛とともに霊薬を作るも、その心、しだいに残酷さに囚われる」
(第三幕の舞を踊る)
「四大感劇・喜
やがて霊薬が作られれば。
その妹、残酷に目ざめ、地の獄に争乱をもたらす。
そして蜘蛛と袂を分かつ。その蜘蛛、復讐を誓い、それを魂に刻みこむ」
こころ、そこで舞を已める。
「残念ながら、ここからさきの物語はない。
なぜなら私は、それを聞きそびれてしまったから。
だから、このさきは私の空想。だから、このさきは私の望み。
私は好きなようにやる。
こいし、私は思うんだ。
おまえが心を失ったとき、
それはこんなふうだったって」
(第四幕の舞を踊りはじめる)
「即興能楽!」
第五幕 第五場 四大感劇・楽(Let me see your emotion.Look my mind)
(地底に霊薬が蔓延して、しばらくが経つ)
「歌)もし私が、誰かを狂わせないのなら。
哀れむことも、できなくなってしまうだろう。
もしみんながわたしのように、残酷でなければ。
慈悲もこの世にありえない。
ああ、なんてたのしいのだろう。
これが残酷に生きることなのだ!
今や霊薬が地に満ちて、貧民区のすべての妖怪たちが、単細胞の馬鹿になろうとしている。やがて貧民区を越えて、地獄の全土に、霊薬を蔓延させてやる。地獄の住民、そのすべてが狂乱し、怨霊が逃げだし、混乱が訪れる。その日は近い。その日はもう、そこまで来ている。乱痴気さわぎ、狂乱さわぎ……痛い!」
こいし、道ばたに転がっている、何者かにつまづく。
ぼさぼさで、くすんだ髪。みすぼらしい服。こいしはすぐに、その何者かを、きたならしいと思った。
しかし、どこかでその何者かを、見たような気がする。
しかし、誰かも分からない。
すぐにその場を離れようとする。
「えっ」
その何者かに、足を捕まれる。しかし相手は、何も考えてはいないらしかった。ただ無意に、こいしの足を掴んでいる。
そしてこいしは、その顔を見て、驚愕する。
「……お姉ちゃん?」
「……」
「お姉ちゃんなの!」
こいし、さとりの肩を揺さぶる。
「ああ、歌を、誰か、私に、教えて、くれ」
悲しい歌を。
昔の不幸を。遠くの異国のできごとを。
懐かしい、乱世と、人間たちを、しのぶる歌を。
かつてあり、これからも、ままある、世の残酷の悲しみ。
世の悲しみ、別れと、苦しみ」
「しっかりしてよ!」
「……殺戮!」
「し、し、し、信じられない……あの残酷で狡猾なお姉ちゃんが、たかだか霊薬なんかで、頭をやられるわけがない。お姉ちゃんはそこいらの雑魚とちがうんだから!
さあ、目をさまして! まもなく地底も、お姉ちゃんの好きな、残酷な世になる。そして今度は、ふたりで残酷さをたのしむんだ。
ねえ、起きてよ。しっかりしてよ、私を見てよ。
私のことを、考えてよう……」
こいし、瞳でさとりに語りかける。
「何も、ない……」
しかしその心には、何もないのだ。
さとりの心は霊薬で溶けて。
もう妹の声も聞こえない。
こいしがさとりを担ぎあげる。そして一目散に、ヤマメの店へ駆けていった。
「ヤマメ、ヤマメ!」
「……なんだよ、私を笑いにきたのか」
「お姉ちゃんが、おかしくなってしまったんだ!」
「一別して)ああ、それがおまえの姉か。当然じゃないか。おまえは姉を“ふぬけ”と言った。そう言うやつほど、心に穴があり、霊薬にはまりこむってものじゃないのかね」
「お姉ちゃんが薬なんかに頼るなんて、考えもしなかった!」
「おまえが望んでやったことだ!」
「解毒しろ、今すぐに!」
「ふざけるのも大概にしろ! 自分で霊薬を蔓延させておいて、今度は解毒だと? そんなことが簡単にできるか。よしんばできたとしても、何十年もかかるだろう。狂ったやつらに囲まれたまま、ふたりっきりで、何十年もな……おまえにそれが、耐えられると言うのか? 自分の残酷さも飼いならせない、おまえなんかに! だが、おまえが罪ほろぼしをすると言うのなら、手つだわせてやる。みんなを正気に戻すために」
「でも、みんなが正気に戻ったら、私はきらわれてしまう、まえよりも。私のしでかしたことをみんなが知って、私はどこにもいられなくなる……お姉ちゃんにも、きらわれてしまうかもしれない……それだけは」
「この期におよんで、まだ保身を考えているのか!」
「そんな、ああ……どうして!」
こいし、店を出る。
「おい、待て。どこへ行く! どこにも逃げられないぞ、ちくしょう……待てったら。まさか後始末を、私ひとりにやらせるのか!
そんなことは許されない。許されてなるものか。これは私の責任でもあるが、もう半分はおまえの責任だ!
ああ! この騒動の何倍もの災いが、おまえに振りかかるがいい。おまえのおかげで、私も頭がおかしくなってしまいそうだ。
でも、きちがいになるわけにはいかない。
あいつがどこかに消えるなら、
せいせいするさ……そうとも。
だけど、おまえがどこに消えたって、私は復讐を忘れない。
ひとまずは、みんなを助けることに、尽力するとしよう。解毒薬を作って、みんなを救おう。それが私にできること。独りになったって、成してやるさ。
私が酔っぱらいになるわけにはいかないんだ。
哀れみと慈悲で、心を支えて。
復讐の刃も研ぎすます」
……。
こいしは走る。しかし、どこにも逃げられない。あたりには、妖怪たちが転がっている。それは自分のしでかした光景だ。
残酷さに酔っていたこいしは、急に目がさめたように、そのしでかしに、後悔しはじめる。
「どうして何もかも、うまくいってくれないんだろう……」
あなたが産まれながらに残酷だからよ。
「こんなことになるなんて、思いもしなかった!
ちくしょう! あなたがわるい……あなたが! 産まれたときから、私の心に語りかける、残酷の化身の悪霊め!」
これがあなたの宿命なんだ。
「うう……」
こいし、うずくまる。すると瞳から、黒いどろどろとしたものが、にじみだしてきた。それが地面にしたたるごとに、こいしの肥大した瞳も縮んでゆく。
「ああ、こんなものがあるからいけないんだ! 毒を吐きだす、心のはらわた。どうして私たちは、産まれながらに、こんな面倒なものを、一生懸命に死ぬまで大切にしているんだろう? こんなにも苦しまなければならないのに、こんなにも誰かを傷つけてしまうのに!
こんなことになるのなら、心なんていらない! 消えろ、消えてしまえ。私の心に住みついた、残酷さの影法師!」
まもなく、瞳の中身が、すべて溶けだす。そしてみんなが、こいしのことを忘れるだろう。
誰もこいしを見つけられず、誰もこいしをきらわなくなる。
そして瞳は、小さく縮んだ。その中身は、地面を這って、どこかに消えて。
もう見つかることはない。
第五幕 第六場
(第四幕の舞が終わる)
「完成!
恋情能楽・喜怒哀楽。素面送心舞・感情摩天楼!
……見つけた!」
こころ、薙刀を振りまわす。
すると観客席の霧が晴れて、こいしがそこに現れた。
茫然自失。祈るように、自分の瞳をかかえている。
「どうした、拍手はないのか」
「拍手ですって!」
こいし、くすくすと笑う。
「観客に拍手を求めるなんて、はしたないよ。それに、最後の舞。あれは誰からも聞いていない、あなたの空想に過ぎないわ。拍手なんて、とてもできない」
「それはほかの舞でも同じだよ。おまえは“過去はぶつぎり”と言っていたし、蜘蛛の言葉は信用ならない。どの舞でも、同じことだ。
でも、それでかまわない。おどろくべきことは、古今東西の物語は……それが現実のできごとではなくて、ただの空想でしかないと言うこと。
この事実は現実よりも、空想のほうが、より心を動かすと言うことを示しているんだよ。
おまえもそうだったのだろう。
だから私のまえに、また現れてくれたのだろう」
「……見つかっちゃったよ。本気で隠れていたのにさ」
こころ、こいしに手を差しだす。
「こちらに。もう逃げられないぞ」
こいし、舞台にあがる。
こころの顔を近くで見て、
「……信じられない」
「最初の表情は、これがよかったんだろう」
恋がふたりを結めあわせて、
しらべを奏ではじめた。
すると拍手が聞こえてきて、
舞台のカーテンがとじられゆく。
こころが満開のひまわりのような、
最高の笑顔を見せて。
舞台が終われば、ふさわしいところへと。
ふたりは消えてゆくだろう、
恋をいだいて。
ふたりはこのさきも生きてゆく。
……。
大団円。
ふたりが幸福を手にした。
フィナーレ。
……。
「否!」
第六幕 第一場 開心劇(Little stone and shadiet)
……。
こころ、とじられゆく舞台のカーテンを薙刀でずたずたに切りさく。
こいしが顔に驚愕を浮かべる。
こころは、不敵に笑っている。
心の強い、何事をも成す、自信のあふれる表情で。
「こころちゃん?」
「こいし、まだやりのこしがある」
こころ、こいしに薙刀を向ける。
「おまえが心をひらいていない。それでは終われない」
「でも、言ったじゃない。瞳の中身がないんだって」
「いや……それは、すぐ近くにある。それは“とても”近くにある。
よく見ておけ。これから起こることを。
私が心を、炙りだしてやる」
こころ、薙刀をかまえる。
「でも、私ができるのはそこまでだ。
だって私は能楽師だ。
私はおまえの悲劇をこうして演じてみせたけど、あくまで演じただけでしかない。
この舞台の主演、それはおまえなんだ。だからあとは、おまえが成せ、自分の手で!」
……。
「そう叫ぶと私は飛びあがった!
そして縦横無尽に劇場を駆けめぐり、あちらこちらを壊しはじめる!
まるで劇場のすべてが、まやかしでしかないと言いたげに。
舞台が壊れ、観客席が壊れ、ライトが上部から落ちてくる!」
しかし、こころは思った。
“本当にこれでよいのだろうか? こんなことをしなくても、私たちの関係は、うまくいくかもしれないのだ。こんなことをしでかすために、また関係がごちゃごちゃになって、これまでのすべてが無駄になってしまうかもしれないのだ”
そして、こころは思いとどまる。
急に立ちどまると、薙刀をおさめてーーー
「おさめない!
私は大劇場のすべてを、滅茶苦茶に壊しつくした!
そして最後に、こいしに向かって、薙刀を構えて、突きすすむ!」
止まれ!
「しかし私は、こいしを切りさくために、彼女へ飛びかかったわけではなかった。
私は薙刀を、こいしの足元に振りかざし……彼女の影を、切りはなす!」
「こころちゃん!」
「終わらせる」
第六場 第二幕 開心劇(Little stone and shadiet)
……。
「誰かが近くにいる気がする」
……。
「それは私に、いつも語りかけている」
……。
「それはとても近くにいる。私の敵は、すぐ近くにいる」
……
「そうだ、思いだした。敵のことを。いや、私の残酷の化身のことを」
……。
「私の瞳はどろどろと黒く溶けだして、私は心を失った。
でも、それでは終わらなかったんだ。
見つからないわけだ。黒いものに、黒いものがまじりあったら……それが見えるわけがない。
こころちゃんに切りわけられて、ようやく思いだしたんだ。
私の瞳は、溶けだしたあと、ずっと影に潜んでいた! 信じられない……見つからずに、何百年も!」
わたしはあなたの心。こんなふうに、あなたが心を望むとき、わたしはあなたに語りかけ、それを妨げた。
「どうしてそんなことを」
わたしが心なんて要らないと思ったからよ!
ヤマメの言うとおりよ。私は保身のことを考えている、最低最悪の畜生よ!
心をなくせば、もう私は苦しまないし、誰も私をおぼえられない。そうすれば、もう私は誰にもきらわれないと思ったから! ……だから……心をとざして……無意に頼ったのよ。なのに、あなたは心もないくせに、こころちゃんに惚れてしまって……隙ができた。
こころちゃんになら、心を見せたいと思ってしまったから。
わたしは引きずりだされてしまう。こんなふうに表の舞台に。
「……」
おかげですべてがだいなしよ。何百年も、こうして隠れていてのにさ……“影法師”だなんて、こころちゃんに夢の中で、答えまで教えちゃった。
「……」
それで、どうするの。
「何が?」
とにもかくにも、あなたは心を見つけてしまったんだ。でも、だからって心が戻るわけじゃない。
あなたには選択肢がある。心を取りもどすのか。それとも心のありかを知ったうえで、今度は二度と戻らないように、封じてしまうのか。
「……悩ましいところよ。心を取りもどしたら、みんなが私をおもいだす。私のおこないは露見して、私は以前よりも、はるかにきらわれてしまうだろう、でも……」
……。
「今はみんなにきらわれてでも、心を見せてあげたいひとが、できてしまったから。私は心が欲しいと思う」
いいのね。無意でなくても。あなたは残酷になる、また苦しむことになる。それでかまわないと言うのね。
「ほかのどんな感情が私を苦しめても」
……。
「これからは恋が、私を救ってくれるんだってさ」
……こころちゃんを見ていて、分かったことがある。
「何?」
どれほどの大渓谷でも。
どれほどの高すぎる山でも。
どれほどの深い湖でも。
どれほどの無限の砂漠でも。
……その感情には、勝てるはずがないってわけだ!
〈エピローグ〉
(場所の指定はなし。
物語を語る、影法師もいなくなる。
それはこいしの瞳に戻った。彼女の瞳は、以前のように肥大している。
ふたりが見つめあう)
「いいんだね、これで本当に。
私は心を取りもどした。
まもなくみんなが、私のしでかしたことを思いだす。
私の傍にいたら、あなたもみんなにきらわれるでしょう。
それでもかまわないと言うの?」
「大丈夫。私には分かる。
私たちは、ふたりならうまくいく。
これからは、すべてがうまくいく。
摩天楼のような、ひとつの感情が、
私たちの背骨にはいりこみ、
私たちを支えてくれるから」
「その感情の名前は?」
(こころが満開のひまわりのような、最高の笑顔で言いはなつ)
「恋!」
影法師(Unreliable Story Teller) 終わり
最後はこころが語り部に逆らって影法師を脱却できた? ともあれ感情渦巻く恋物語、堪能させていただきました。
映像風に楽しむことができていました。
こう言った作風は作者の独りよがりになりがちですし、ともすれば読者を突き放す形にもなりかねませんが、それを圧倒的な熱量と愛によって、よくもここまで見事に描ききったものだと思わされます。
個人的には、こころが観客席の霧を切り払い、そこにこいしのシルエットがスカートをはためかせながら浮かび上がるところが、素晴らしく好みな映像表現でした。
ラストの、劇場シーン、舞台の上からこころがこいしに手を差し出す部分などは、このメタ表現を巧みに取り込んだ演出だと感じました。
アイラブユー
一つのお話として、恋に気が付かされて、二人は困難を乗り越えた。
その軌跡を私は目の当たりにしたのです。たった一つの感情を、心を、貫き通した秦こころに拍手を。とても面白かったです。ありがとうございます。
今まで触れたことのないような感触なのだけど、それでいて変わらないものをしかと剥き出しの心に突きつけられるようなしっかりとした読み応えがありました
自分に欠けているものを満たすものを探して、自分の中の醜悪さと向き合い、その向こうにあるものに手を伸ばす0を1にする為のこころの捜索の旅の結末は1が10になったわけでは無いのだけれど、かけたものが大きい分、途方もなく素晴らしいものになっていくような そんな気がします
アイラブユー!