こいしがふらふらと地霊殿に帰ってきたのはちらちらと雪の降る2月14日のことだった。
右手に小さな箱を持ち、さとりの部屋の戸をノックするその顔はどことなく嬉しそうで、かつ楽しそうであった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、お入んなさい!」
そうこいしが歌うように呼び掛けると、扉の向こうからパタパタとスリッパの鳴る音が響き、直後扉が開く。
「あのねぇ、普通逆でしょう? ……ほら、入んなさい」
呆れたように溜息を吐きながらさとりはこいしを部屋に招き入れると、またパタパタと軽い足音を立てて書斎机の前に座る。こいしはあちこちを徒に歩き回るとついに落ち着く場所を見つけたといわんばかりにどっかと長椅子に飛び込んだ。
そんなこいしの様子をお構いなしに読んでいた本のページをめくり続けるさとり。そのことが気にくわなかったのかこいしは頬を少し膨らませると次のように問いかけた。
「お姉ちゃん、今日は何月何日だ?」
「2月14日」
「何の日だ?」
「五丁目商店街の特売日。卵が88円。牛乳が179円。あっ、ちり紙が一人3箱限定で298円だったわ。後でみんなを連れて買いに行かなきゃ、あんたも付いてきなさいよ」
「ちっがーう!!」
こいしは予想を遥かに越えた姉の回答に対し手足をバタつかせて抗議する。その度に長椅子からはボフボフという腑抜けた音が鳴り、小さな埃やダニの死骸が宙を舞った。
「ヴェッホゲェッホ!!」
「やめなさいこいし。埃が舞ってるでしょ」
「うっさい、毎度毎度ヤニ吸ってるお姉ちゃんが言っても説得力ないのよ。煙が篭もるでしょ」
「はぁ? 私の趣味嗜好に口出されたくないんだけれど。姉の偉大さを思い知らせてあげましょうか?」
「やれるもんならやってみてよ。ほら、どうぞ。お好きに心を読んで下さいませ?」
刹那こいしの額に万年筆が生えた。否、突き刺さった。
「痛ったぁぁぁああああああ!?」
ふふん、とさとりは鼻を鳴らすとこれ見よがしに煙草を咥えマッチを擦った。
一通り痛みに悶え苦しむこいしの姿を堪能したさとりは煙草を置くと、落ち着いたようにこいしに問いかける。
「それで、今日帰ってきたのは喧嘩を売るためなのかしら?」
こいしは額から万年筆を抜いて、どくどくと血を垂れ流しながら答えた。
「外来本で読んだんだけど、2月14日ってバレンタインデーって言うんだって。知ってた?」
「知らない。興味ないもの」
「その本ではね、好きな人にチョコをプレゼントするのがバレンタインだって書いてあったの」
そう言いながらこいしは隠し持っていたあの小さな箱を取り出すと、さとりに向かって差し出した。
「だからお姉ちゃんにチョコをあげようと思って」
さとりは差し出された右手を一瞥すると、再び本に視線を落とし尋ねる。
「私が甘い物が嫌いなのを知っててチョコを?」
「うん。甘い物の中でチョコが一番嫌いなんだよね」
「そこまで分かっててチョコを?」
「うん。口の中に残る甘さと、喉に張り付くような感じが絶望的に嫌いなんだよね」
「やっぱり喧嘩売ってんの?」
「うん。お姉ちゃんって喧嘩売りたくなる性格してるもん」
「いっぺん殺してあげましょうか?」
「うん。やれるもんならやってみなよ。返り討ちにしてあげるから」
ぎりり。とさとりの口から軋む音がした。表情は至って冷静そのものであったが、延々と続くその音だけがさとりの感情を如実に語っていた。
「お姉ちゃん、歯悪くなるよ? それでなくてもギザ歯なのにそんなことやってたらもっと噛み合わせ悪くなりそう」
「あんただって同じギザ歯じゃない! 知ってた? 私達って姉妹なのよ?」
「私の方がお姉ちゃんより数倍可愛いけどね」
「あら? 心が読めないって可哀想ね。あんたをもてはやしてる奴の8割は『あわよくば一発ヤれないかなぁ』って期待してる脳みそ下半身の猿よ」
「ぷっ。それって生物として当然の感情じゃない? まあ? そんなことも思われないようなお姉ちゃんに言っても分からないかぁ」
「言い訳ね。そういうのを売女っていうのよ」
「じゃあお姉ちゃんは売る物すら喪った、さしずめ喪女ってとこかしら」
「殺す」
「はい、お姉ちゃんの負け-。自分の心を冷静に保ちましょう。評価は不可です! お困りなら心を閉ざす方法を教えて差し上げてもよろしくてよ?」
「あら? そもそも冷静さを保てなくて心を閉ざしたのはどこの誰だったかしら? お姉ちゃん、不可だから忘れちゃったわ」
「お前はアレを経験してねぇからそんなことが言えんだよ!! あ? 何だったら同じような状況にぶち込んでやろうか? 私にぶち殺される方が幸せだって思えるだろうよ。いいや寧ろぶち殺してやるよ、私って優しいからねぇ! ――あっ」
「はい、こいしの負けー。覚妖怪たるものトラウマを抉る、または抉られることに対して抵抗感を持たないようにしましょう。評価は不可です! お困りなら覚妖怪としての自覚を説いて差し上げてもよろしくてよ?」
「あーあ、負けちゃった。これで何戦何勝だっけ」
「あんたは167357戦83677勝83678敗2引分。わたしが今回で勝ち越しね」
二人とも軽く息を荒げて各々の占有していた椅子に座る。
そういえば、とさとりは長椅子で仰向けに寝転がるこいしに向かって問いかけた。
「そのチョコレートどうするの? 私食べられないわよ」
「んー。お燐にでもあげるわ」
「そう、お燐って猫よ」
「そうね」
「猫にチョコってダメじゃなかった?」
「そうだっけ? まあダメだったとしてもちょっと死ぬだけでしょ? 大丈夫だって」
「次のお燐探すの大変なんだからあんまりポンポン殺さないでよ」
「分かってる分かってる。それじゃ私行くね」
こいしが去った後、少し甘い香りがするなとさとりは考えながらその香りを塗りつぶすようにマッチを擦った。
それはいつものように煙がゆらゆらと立ちのぼる2月14日のことだった。
右手に小さな箱を持ち、さとりの部屋の戸をノックするその顔はどことなく嬉しそうで、かつ楽しそうであった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、お入んなさい!」
そうこいしが歌うように呼び掛けると、扉の向こうからパタパタとスリッパの鳴る音が響き、直後扉が開く。
「あのねぇ、普通逆でしょう? ……ほら、入んなさい」
呆れたように溜息を吐きながらさとりはこいしを部屋に招き入れると、またパタパタと軽い足音を立てて書斎机の前に座る。こいしはあちこちを徒に歩き回るとついに落ち着く場所を見つけたといわんばかりにどっかと長椅子に飛び込んだ。
そんなこいしの様子をお構いなしに読んでいた本のページをめくり続けるさとり。そのことが気にくわなかったのかこいしは頬を少し膨らませると次のように問いかけた。
「お姉ちゃん、今日は何月何日だ?」
「2月14日」
「何の日だ?」
「五丁目商店街の特売日。卵が88円。牛乳が179円。あっ、ちり紙が一人3箱限定で298円だったわ。後でみんなを連れて買いに行かなきゃ、あんたも付いてきなさいよ」
「ちっがーう!!」
こいしは予想を遥かに越えた姉の回答に対し手足をバタつかせて抗議する。その度に長椅子からはボフボフという腑抜けた音が鳴り、小さな埃やダニの死骸が宙を舞った。
「ヴェッホゲェッホ!!」
「やめなさいこいし。埃が舞ってるでしょ」
「うっさい、毎度毎度ヤニ吸ってるお姉ちゃんが言っても説得力ないのよ。煙が篭もるでしょ」
「はぁ? 私の趣味嗜好に口出されたくないんだけれど。姉の偉大さを思い知らせてあげましょうか?」
「やれるもんならやってみてよ。ほら、どうぞ。お好きに心を読んで下さいませ?」
刹那こいしの額に万年筆が生えた。否、突き刺さった。
「痛ったぁぁぁああああああ!?」
ふふん、とさとりは鼻を鳴らすとこれ見よがしに煙草を咥えマッチを擦った。
一通り痛みに悶え苦しむこいしの姿を堪能したさとりは煙草を置くと、落ち着いたようにこいしに問いかける。
「それで、今日帰ってきたのは喧嘩を売るためなのかしら?」
こいしは額から万年筆を抜いて、どくどくと血を垂れ流しながら答えた。
「外来本で読んだんだけど、2月14日ってバレンタインデーって言うんだって。知ってた?」
「知らない。興味ないもの」
「その本ではね、好きな人にチョコをプレゼントするのがバレンタインだって書いてあったの」
そう言いながらこいしは隠し持っていたあの小さな箱を取り出すと、さとりに向かって差し出した。
「だからお姉ちゃんにチョコをあげようと思って」
さとりは差し出された右手を一瞥すると、再び本に視線を落とし尋ねる。
「私が甘い物が嫌いなのを知っててチョコを?」
「うん。甘い物の中でチョコが一番嫌いなんだよね」
「そこまで分かっててチョコを?」
「うん。口の中に残る甘さと、喉に張り付くような感じが絶望的に嫌いなんだよね」
「やっぱり喧嘩売ってんの?」
「うん。お姉ちゃんって喧嘩売りたくなる性格してるもん」
「いっぺん殺してあげましょうか?」
「うん。やれるもんならやってみなよ。返り討ちにしてあげるから」
ぎりり。とさとりの口から軋む音がした。表情は至って冷静そのものであったが、延々と続くその音だけがさとりの感情を如実に語っていた。
「お姉ちゃん、歯悪くなるよ? それでなくてもギザ歯なのにそんなことやってたらもっと噛み合わせ悪くなりそう」
「あんただって同じギザ歯じゃない! 知ってた? 私達って姉妹なのよ?」
「私の方がお姉ちゃんより数倍可愛いけどね」
「あら? 心が読めないって可哀想ね。あんたをもてはやしてる奴の8割は『あわよくば一発ヤれないかなぁ』って期待してる脳みそ下半身の猿よ」
「ぷっ。それって生物として当然の感情じゃない? まあ? そんなことも思われないようなお姉ちゃんに言っても分からないかぁ」
「言い訳ね。そういうのを売女っていうのよ」
「じゃあお姉ちゃんは売る物すら喪った、さしずめ喪女ってとこかしら」
「殺す」
「はい、お姉ちゃんの負け-。自分の心を冷静に保ちましょう。評価は不可です! お困りなら心を閉ざす方法を教えて差し上げてもよろしくてよ?」
「あら? そもそも冷静さを保てなくて心を閉ざしたのはどこの誰だったかしら? お姉ちゃん、不可だから忘れちゃったわ」
「お前はアレを経験してねぇからそんなことが言えんだよ!! あ? 何だったら同じような状況にぶち込んでやろうか? 私にぶち殺される方が幸せだって思えるだろうよ。いいや寧ろぶち殺してやるよ、私って優しいからねぇ! ――あっ」
「はい、こいしの負けー。覚妖怪たるものトラウマを抉る、または抉られることに対して抵抗感を持たないようにしましょう。評価は不可です! お困りなら覚妖怪としての自覚を説いて差し上げてもよろしくてよ?」
「あーあ、負けちゃった。これで何戦何勝だっけ」
「あんたは167357戦83677勝83678敗2引分。わたしが今回で勝ち越しね」
二人とも軽く息を荒げて各々の占有していた椅子に座る。
そういえば、とさとりは長椅子で仰向けに寝転がるこいしに向かって問いかけた。
「そのチョコレートどうするの? 私食べられないわよ」
「んー。お燐にでもあげるわ」
「そう、お燐って猫よ」
「そうね」
「猫にチョコってダメじゃなかった?」
「そうだっけ? まあダメだったとしてもちょっと死ぬだけでしょ? 大丈夫だって」
「次のお燐探すの大変なんだからあんまりポンポン殺さないでよ」
「分かってる分かってる。それじゃ私行くね」
こいしが去った後、少し甘い香りがするなとさとりは考えながらその香りを塗りつぶすようにマッチを擦った。
それはいつものように煙がゆらゆらと立ちのぼる2月14日のことだった。
> 「次のお燐探すの大変なんだからあんまりポンポン殺さないでよ」
さらっと怖いこと言うなよぅ