わたしは綺麗な丘がみたい。
人と河童のかなしい類似性とか、剣呑な話は考えたくもない。
人はいつだって世界を汚く罵ったりもするけれど、やっぱり綺麗だなんて言ってみたりもする。
それはつまり、みたことのない景色に対する憧れなんだと思う。
わたしは綺麗な丘がみたい。
思い浮かぶのは愚者の立つにはちょうどいい広々とした草原で、だけど、そこには愚者なんていなくて。
もっと言えば、人も、虫も、動物も。植物以外の生命のない緑々とした高原だ。
そして、もちろんなんて言ったら傲慢だと思われるかもしれないけど、わたしは愚者じゃないから立ちっぱなしでいたりはせずに、できるかぎり楽な姿勢で座り込んで、青空の雲をゆっくりと眺めるのだ。
叶うかな、なんて。いつもそんなふうに考えてばっかりいるけれど、叶わない理由がないことは誰だって知っている。
いつか行きたい場所にはいつでも行けるけど、がんばって集めてきたものを捨てるのは誰だってこわいから。
だけどやっぱり、わたしは綺麗な丘がみたい。
ねえ、綺麗な丘がみたいんだ。どっか、いいところ知らない? なんて。
そんなふうに聞ける友達はいるけれど、ありがとね、じゃあわたし一人で行くから。ついて来ないでね。なんてことは言えるはずがない。
わたしはきっと疲れてて、なんというか、きっとすこし疲れてて。
いまは椛の優しい声すら聞けないと思うし、文の元気すぎちゃう声ならそれ以上だ。
ほんとを言えば、ほんの少し、いつもみたいに集まって馬鹿騒ぎをしたいけど。
でも、それはほんとにほんの少しのことだから。
ああ、だけど。
文はやっぱりえらいんだ。
いつでも元気で、人とか上司とか、会社の悪口は言うけれど、本当にどうしようもないことは絶対に言わないから。
わたしはいますっごく言いたい。
小さいころ見つけた宝物みたいな場所なんてどこにもないんだって叫んじゃいたい。
きっと、椛なら真剣に聞いてくれるんだろうな。
椛は優しすぎるから。
いっつもニコニコしてるし、ひとの悪口なんて冗談でも言わないし。
だけど時々、急に泣き出しちゃうことがあるって、文が言ってたっけ。
私なんてまだまだです、とか。
いえ、私の責任です、とか。
叱ってくれてありがとうございます、とか。
自分を下げて笑いをとったり、そんなの誰も求めてないのに、椛はやっぱりいつもニコニコしてる。
それで泣き出しちゃうくらいなら、そんなのやめちゃえって言ってあげたいけど、そんなのむり。
綺麗な丘にはわたしが立ちたい。
わたしだけの場所で、わたしだけが座って。
いつまでも、きっと日が暮れちゃうまでぼんやりとしていたいから。
ごめんね椛。
泣いちゃうほどだから、椛もわかると思うけど。
人に何かを届けるって、すごい大変なことなんだもん。
わたし、綺麗な丘がみたい。
人間河童、天狗神様。
この世界にはいろんな信仰があって、中にはちょっと変なのもある。
それは慈悲とか愛とか雷とか。
よくわからないへんてこりんなものだけど、そんなのも結局、届かなければないのと一緒だから。
現実、この世界に本当の神様はいない。
だから当然、慈悲も、愛も、雷だってないのと一緒だ。
わたしは河童に生まれて、いろんなものをいろんなひとに届けてきた。
でも、それはわたしが河童に生まれたからじゃなくて、いや、ほんとはそれもあるんだけれど。
とにかく。
わたしはものを作って、喜ばせてあげたかった。
誰を喜ばせたかったんだろうって考えるけど、どうしたってわからなくなっちゃって。
最近、ずっと困ってる。
疲れてて、友達と騒いで共感したくても、いまはそれができない気がする。
文は頑張ってる。
あんなに頭がいいのに、かなしい世界に意を唱えたりしない。
椛だって同じくらい、泣いちゃうくらいに頑張ってる。
でも、それを考える最中に気がついたことがあって。
つまるところ、なにもやりたくないほど疲れていたとしても、なにかをやらなきゃ誰にも会えないということだ。
だからといってはなんだけど、いまはおもちゃの銃を作ってる。
引き金を引くと泡のでる、本当のおもちゃの銃だ。
わたしはものを作って、誰かを喜ばせたかった。
なのに、こんなものを作って誰が喜ぶというのだろう。
だけど例えば丘の上。
みたことのない綺麗な丘に座って、この銃をぶっぱなしたらどうだろう。
無数の泡は飛んで弾けて、誰にも届かずに消えていく。
誰のためでもなく、綺麗な丘に消えていく泡たちはかわいそうだけど。
でもいまは、それがなんだかすごく素敵なことに思えてならないのだ。
だから。
この簡単で、役立たずで、誰にも喜ばれない無意味なおもちゃが完成したなら。
緑の丘で、青空に半透明の銃を透かせて。
なんにも考えずに、あたりかまわずぶっぱなすのだ。
なんとなくだけど、そう決めた。
人と河童のかなしい類似性とか、剣呑な話は考えたくもない。
人はいつだって世界を汚く罵ったりもするけれど、やっぱり綺麗だなんて言ってみたりもする。
それはつまり、みたことのない景色に対する憧れなんだと思う。
わたしは綺麗な丘がみたい。
思い浮かぶのは愚者の立つにはちょうどいい広々とした草原で、だけど、そこには愚者なんていなくて。
もっと言えば、人も、虫も、動物も。植物以外の生命のない緑々とした高原だ。
そして、もちろんなんて言ったら傲慢だと思われるかもしれないけど、わたしは愚者じゃないから立ちっぱなしでいたりはせずに、できるかぎり楽な姿勢で座り込んで、青空の雲をゆっくりと眺めるのだ。
叶うかな、なんて。いつもそんなふうに考えてばっかりいるけれど、叶わない理由がないことは誰だって知っている。
いつか行きたい場所にはいつでも行けるけど、がんばって集めてきたものを捨てるのは誰だってこわいから。
だけどやっぱり、わたしは綺麗な丘がみたい。
ねえ、綺麗な丘がみたいんだ。どっか、いいところ知らない? なんて。
そんなふうに聞ける友達はいるけれど、ありがとね、じゃあわたし一人で行くから。ついて来ないでね。なんてことは言えるはずがない。
わたしはきっと疲れてて、なんというか、きっとすこし疲れてて。
いまは椛の優しい声すら聞けないと思うし、文の元気すぎちゃう声ならそれ以上だ。
ほんとを言えば、ほんの少し、いつもみたいに集まって馬鹿騒ぎをしたいけど。
でも、それはほんとにほんの少しのことだから。
ああ、だけど。
文はやっぱりえらいんだ。
いつでも元気で、人とか上司とか、会社の悪口は言うけれど、本当にどうしようもないことは絶対に言わないから。
わたしはいますっごく言いたい。
小さいころ見つけた宝物みたいな場所なんてどこにもないんだって叫んじゃいたい。
きっと、椛なら真剣に聞いてくれるんだろうな。
椛は優しすぎるから。
いっつもニコニコしてるし、ひとの悪口なんて冗談でも言わないし。
だけど時々、急に泣き出しちゃうことがあるって、文が言ってたっけ。
私なんてまだまだです、とか。
いえ、私の責任です、とか。
叱ってくれてありがとうございます、とか。
自分を下げて笑いをとったり、そんなの誰も求めてないのに、椛はやっぱりいつもニコニコしてる。
それで泣き出しちゃうくらいなら、そんなのやめちゃえって言ってあげたいけど、そんなのむり。
綺麗な丘にはわたしが立ちたい。
わたしだけの場所で、わたしだけが座って。
いつまでも、きっと日が暮れちゃうまでぼんやりとしていたいから。
ごめんね椛。
泣いちゃうほどだから、椛もわかると思うけど。
人に何かを届けるって、すごい大変なことなんだもん。
わたし、綺麗な丘がみたい。
人間河童、天狗神様。
この世界にはいろんな信仰があって、中にはちょっと変なのもある。
それは慈悲とか愛とか雷とか。
よくわからないへんてこりんなものだけど、そんなのも結局、届かなければないのと一緒だから。
現実、この世界に本当の神様はいない。
だから当然、慈悲も、愛も、雷だってないのと一緒だ。
わたしは河童に生まれて、いろんなものをいろんなひとに届けてきた。
でも、それはわたしが河童に生まれたからじゃなくて、いや、ほんとはそれもあるんだけれど。
とにかく。
わたしはものを作って、喜ばせてあげたかった。
誰を喜ばせたかったんだろうって考えるけど、どうしたってわからなくなっちゃって。
最近、ずっと困ってる。
疲れてて、友達と騒いで共感したくても、いまはそれができない気がする。
文は頑張ってる。
あんなに頭がいいのに、かなしい世界に意を唱えたりしない。
椛だって同じくらい、泣いちゃうくらいに頑張ってる。
でも、それを考える最中に気がついたことがあって。
つまるところ、なにもやりたくないほど疲れていたとしても、なにかをやらなきゃ誰にも会えないということだ。
だからといってはなんだけど、いまはおもちゃの銃を作ってる。
引き金を引くと泡のでる、本当のおもちゃの銃だ。
わたしはものを作って、誰かを喜ばせたかった。
なのに、こんなものを作って誰が喜ぶというのだろう。
だけど例えば丘の上。
みたことのない綺麗な丘に座って、この銃をぶっぱなしたらどうだろう。
無数の泡は飛んで弾けて、誰にも届かずに消えていく。
誰のためでもなく、綺麗な丘に消えていく泡たちはかわいそうだけど。
でもいまは、それがなんだかすごく素敵なことに思えてならないのだ。
だから。
この簡単で、役立たずで、誰にも喜ばれない無意味なおもちゃが完成したなら。
緑の丘で、青空に半透明の銃を透かせて。
なんにも考えずに、あたりかまわずぶっぱなすのだ。
なんとなくだけど、そう決めた。
素敵なお話でした。
空気感が綺麗で、詩的でした。
最後の投げやりな感じが、素敵です。