退屈だった。
赤く染まる目に縦長の瞳孔。左手に持つねじくれた棒。そしてなにより背中の翼を指差して、そのものたちは私を吸血鬼と呼称した。
それらはある時は私を恐れ、ある時は私にひれ伏し、そしてある時は十字架を突きつけ私に何事かをまくしたてた。
どうでも良かった。それらに私はさしたる興味も持たなかった。興味を持つには、私の目はよく見え過ぎていた。
私の目には、世界は須らく透明に映った。瓦礫の陰で息を潜め、小さく何事か呟くもの。鎧の下に恐怖を滲ませ、なれど私に刃を向けるもの。屍に埋もれ、気を失ったもの。それら全ての貌どころか、その肉の収縮の一つ一つ、それを統べる糸に迸る電流の一つ一つに至るまで、私の視界は全てを克明に捉えていた。
初めて姿を見たときから既に、内部機構の詳らかに明かされていたものなどに、私が興味を抱けるわけもなかった。
そのそれらの脆さも興味の剥離に拍車をかけた。それらは私がただ軽く手を一振りすると、それだけで四肢を爆ぜさせ息絶えていった。私からすればそれらはまったく道に生い茂る雑草のようだった。囀るだけの雑草。
退屈だった。
食事の心配をする必要はなかった。雑草どもの破片を一握り呑み込めば、それだけで飢える心配はなくなった。私がそういう存在だということは、生まれたときから何となくだけど分かっていた。
太陽が空に浮かぶ間は瓦礫の下で時を過ごした。それの光が私を害するものであるということも、脳髄に焼き付いていた。瓦礫の下にいようとも私にはあらゆるものが見えていた。寝込みを襲おうと訪れたものたち。なにかを取りに戻ってきたものたち。それらが幾つ瓦礫を隔てていようとも、私が手を軽く振るだけでそれらは容易く四散した。転がる瓦礫を通り抜け、彼我の距離をも封殺して、私の手によって叩き潰されたかのようだった。理屈は分からなかった。興味もなかった。私が知っていることというのは、見えるものには手が届くという、単純な事実だけだった。
退屈だった。
雑草どもの集落を訪れる。滅ぼす。訪れたものどもを狩る。訪れるものがいなくなったので、別の集落を訪れる。片手の指で足りる程度には、私はそれを繰り返していた。それを繰り返すことが、そろそろ面倒だと思い始めていた。仮に私が太陽の光を浴びたなら全体なにが起こるのだろうか。そのような愚にもつかない考えがしばしば頭をよぎるようになっていた。
彼女と出会ったのは、その頃だった。
背の向こうから、足音がした。特に興味を抱くこともなく、背を向けたまま腕を振るった。避けられたのに気付いて、首を傾げた。
私の手を避けられたのは初めてだった。そもそも避けられるものだとは知らなかった。手が滑ったのかもしれないと思ってもう一度、今度は鋭く手を振った。胴体を狙ったはずのその手は、どうも足を引きちぎったらしかった。いよいよ妙だと振り返ると、その引き千切られた両足の、ずるりと再生したのが見えた。
そうして私は、それを「彼女」と認識した。
紅の目に縦長の瞳孔。夜空に溶ける大きな翼。見たこともない姿の彼女は、まず第一の奇妙なことに、どうやら透明ではないようだった。内部機構の覗かない彼女は、それだけであっても私の興味を惹きつけるのに十分だった。
その上、彼女は美しかった。観察するように細められた彼女の目には、目を離せなくなるような魅力があった。それは後に知るところの威厳の霊気であり、英知の光であり、そして慈愛の心象であった。けれどそれは当時の私には与り知らないことであったし、そして必要な知識でもなかった。私は彼女に惹かれていた。それ以外はなにも重要なことではなかった。
「フランドール・スカーレット」
彼女は口を開いた。意味が分からない、と私は首を傾げる。
「お前の名前だ。今、名付けた」
つまりは私のことを指す言葉である。そう理解した瞬間に、その一綴りの単語は私の脳髄に刻み付けられたようだった。恐らく私がそれを忘れることはないだろうと、何故だか確信を持って言えた。
何をされたのかは分からなかった。興味もそこまであるわけじゃなかった。ただ、そのようなことをできる彼女に一層私は興味を持った。
「貴方は」
「うん?」
「貴方は、なに」
私の問いに、少し顔を俯けてから彼女は再び口を開いた。
「私はレミリア・スカーレット。吸血鬼であり、運命を司るものであり、――そうだな、お前の姉になるものだ」
「姉?」
「ああ。これから先、お前とともに暮らすもの、という意味さ」
奇妙なことを言うなと思った。
まず、常に他者が近くにいる状況、というのが私には想像できなかった。まして彼女にとって私は、直前まで命を狙ってきた相手だ。そのような相手の傍にいようとするその思考は、私には理解できなかった。
「殺されるとかは、思わないわけ」
私が問うと、彼女は顔を歪めた。
「勘弁してくれ。死ぬことこそはなかったが、あれは結構痛かったんだ」
「そう言ったら止してもらえるとでも?」
「違うのか?」
彼女は、レミリア・スカーレットと名乗ったその存在は、真実自明であるかのように首を傾げてのたまった。
心底理解できなかった。例えば仮に、彼女が私に見通されない、ただそれだけの存在であったとするならば。きっとどこかの契機に於いて、彼女は私の気紛れにより、その身を滅ぼすことだろう。私にとって他者というのは、所詮その程度の存在だ。初めて見る存在だからといって、滅多に見ない存在だからといって、そこまで大事に接しようとは思わない。
けれど。
「まあ、それに」
彼女は軽く口角を上げて、それから薄く目を閉じた。それが笑顔と呼ぶものであると、私は決して知らなかった。知らなかったが、その一動作の美しさに、私は目を奪われていた。
「勿論今は勘弁してほしいが、最期の時にお前に殺されて死ぬというのも、」
――それはなかなか、悪くない。
彼女はそう言って私を見据えた。
「――ああ」
漸く理解した。彼女と私は別なのだ。私の知らない行動機構と、私の知らない行動原理と、私の知らない行動理念で彼女は行動しているのだ。そう考えると、益々彼女に興味が湧いた。
もう既に殺す気はない。私が言うと、それは良かった、と彼女は息を吐いた。嘘ではなかった。彼女の姿を見たときには既に、もうそれ以上は手を出さないと決めていた。それだけ彼女は興味深かったし、そして魅力的だった。
彼女は初めての他者だった。私が初めて興味を持った相手だった。
彼女は初めての芸術だった。私が初めて心動かされた対象だった。
彼女は初めての未知だった。私が初めて見通せなかった存在だった。
彼女とともにいる理由など。彼女を殺さぬ理由など。
これだけあれば、十分に過ぎるほどだった。
「レミリアスカーレット」
「お姉様、と呼ぶといい」
「なら、お姉様」
「うん。なんだ?」
彼女の要求してきた呼び方は、不思議と舌によく馴染んだ。
妙な感覚を舌で転がしながら言葉を続ける。
「ここは退屈なところだけど、それでもいいなら好きに住むといいわ」
言うと、まさか、と返された。
「お前が私の住処に来るんだよ、フランドール」
「レミリア……お姉様の、住処」
「良い場所だぞ? 英知と物語の集積所があり、陽の射さない快適な寝床があり、便利で優秀な妖精どもがいる」
お姉様は彼女の住処の素晴らしさを滔々と私に並べてみせて、なるほどそれは此処よりずっと、退屈しなさそうな場所だった。別段、彼女がいるならば、退屈な場所でも構わなかったけど。興味の惹かれるようなものなどなにもないような此処に比べれば、何処だってきっとましだろうし。
「構わないか?」
「ええ、素敵だと思うわ」
私の顔を覗き込んだ彼女は、私の返答に手を差し出すことでもって応じた。
そうして私は彼女の妹になった。
赤く染まる目に縦長の瞳孔。左手に持つねじくれた棒。そしてなにより背中の翼を指差して、そのものたちは私を吸血鬼と呼称した。
それらはある時は私を恐れ、ある時は私にひれ伏し、そしてある時は十字架を突きつけ私に何事かをまくしたてた。
どうでも良かった。それらに私はさしたる興味も持たなかった。興味を持つには、私の目はよく見え過ぎていた。
私の目には、世界は須らく透明に映った。瓦礫の陰で息を潜め、小さく何事か呟くもの。鎧の下に恐怖を滲ませ、なれど私に刃を向けるもの。屍に埋もれ、気を失ったもの。それら全ての貌どころか、その肉の収縮の一つ一つ、それを統べる糸に迸る電流の一つ一つに至るまで、私の視界は全てを克明に捉えていた。
初めて姿を見たときから既に、内部機構の詳らかに明かされていたものなどに、私が興味を抱けるわけもなかった。
そのそれらの脆さも興味の剥離に拍車をかけた。それらは私がただ軽く手を一振りすると、それだけで四肢を爆ぜさせ息絶えていった。私からすればそれらはまったく道に生い茂る雑草のようだった。囀るだけの雑草。
退屈だった。
食事の心配をする必要はなかった。雑草どもの破片を一握り呑み込めば、それだけで飢える心配はなくなった。私がそういう存在だということは、生まれたときから何となくだけど分かっていた。
太陽が空に浮かぶ間は瓦礫の下で時を過ごした。それの光が私を害するものであるということも、脳髄に焼き付いていた。瓦礫の下にいようとも私にはあらゆるものが見えていた。寝込みを襲おうと訪れたものたち。なにかを取りに戻ってきたものたち。それらが幾つ瓦礫を隔てていようとも、私が手を軽く振るだけでそれらは容易く四散した。転がる瓦礫を通り抜け、彼我の距離をも封殺して、私の手によって叩き潰されたかのようだった。理屈は分からなかった。興味もなかった。私が知っていることというのは、見えるものには手が届くという、単純な事実だけだった。
退屈だった。
雑草どもの集落を訪れる。滅ぼす。訪れたものどもを狩る。訪れるものがいなくなったので、別の集落を訪れる。片手の指で足りる程度には、私はそれを繰り返していた。それを繰り返すことが、そろそろ面倒だと思い始めていた。仮に私が太陽の光を浴びたなら全体なにが起こるのだろうか。そのような愚にもつかない考えがしばしば頭をよぎるようになっていた。
彼女と出会ったのは、その頃だった。
背の向こうから、足音がした。特に興味を抱くこともなく、背を向けたまま腕を振るった。避けられたのに気付いて、首を傾げた。
私の手を避けられたのは初めてだった。そもそも避けられるものだとは知らなかった。手が滑ったのかもしれないと思ってもう一度、今度は鋭く手を振った。胴体を狙ったはずのその手は、どうも足を引きちぎったらしかった。いよいよ妙だと振り返ると、その引き千切られた両足の、ずるりと再生したのが見えた。
そうして私は、それを「彼女」と認識した。
紅の目に縦長の瞳孔。夜空に溶ける大きな翼。見たこともない姿の彼女は、まず第一の奇妙なことに、どうやら透明ではないようだった。内部機構の覗かない彼女は、それだけであっても私の興味を惹きつけるのに十分だった。
その上、彼女は美しかった。観察するように細められた彼女の目には、目を離せなくなるような魅力があった。それは後に知るところの威厳の霊気であり、英知の光であり、そして慈愛の心象であった。けれどそれは当時の私には与り知らないことであったし、そして必要な知識でもなかった。私は彼女に惹かれていた。それ以外はなにも重要なことではなかった。
「フランドール・スカーレット」
彼女は口を開いた。意味が分からない、と私は首を傾げる。
「お前の名前だ。今、名付けた」
つまりは私のことを指す言葉である。そう理解した瞬間に、その一綴りの単語は私の脳髄に刻み付けられたようだった。恐らく私がそれを忘れることはないだろうと、何故だか確信を持って言えた。
何をされたのかは分からなかった。興味もそこまであるわけじゃなかった。ただ、そのようなことをできる彼女に一層私は興味を持った。
「貴方は」
「うん?」
「貴方は、なに」
私の問いに、少し顔を俯けてから彼女は再び口を開いた。
「私はレミリア・スカーレット。吸血鬼であり、運命を司るものであり、――そうだな、お前の姉になるものだ」
「姉?」
「ああ。これから先、お前とともに暮らすもの、という意味さ」
奇妙なことを言うなと思った。
まず、常に他者が近くにいる状況、というのが私には想像できなかった。まして彼女にとって私は、直前まで命を狙ってきた相手だ。そのような相手の傍にいようとするその思考は、私には理解できなかった。
「殺されるとかは、思わないわけ」
私が問うと、彼女は顔を歪めた。
「勘弁してくれ。死ぬことこそはなかったが、あれは結構痛かったんだ」
「そう言ったら止してもらえるとでも?」
「違うのか?」
彼女は、レミリア・スカーレットと名乗ったその存在は、真実自明であるかのように首を傾げてのたまった。
心底理解できなかった。例えば仮に、彼女が私に見通されない、ただそれだけの存在であったとするならば。きっとどこかの契機に於いて、彼女は私の気紛れにより、その身を滅ぼすことだろう。私にとって他者というのは、所詮その程度の存在だ。初めて見る存在だからといって、滅多に見ない存在だからといって、そこまで大事に接しようとは思わない。
けれど。
「まあ、それに」
彼女は軽く口角を上げて、それから薄く目を閉じた。それが笑顔と呼ぶものであると、私は決して知らなかった。知らなかったが、その一動作の美しさに、私は目を奪われていた。
「勿論今は勘弁してほしいが、最期の時にお前に殺されて死ぬというのも、」
――それはなかなか、悪くない。
彼女はそう言って私を見据えた。
「――ああ」
漸く理解した。彼女と私は別なのだ。私の知らない行動機構と、私の知らない行動原理と、私の知らない行動理念で彼女は行動しているのだ。そう考えると、益々彼女に興味が湧いた。
もう既に殺す気はない。私が言うと、それは良かった、と彼女は息を吐いた。嘘ではなかった。彼女の姿を見たときには既に、もうそれ以上は手を出さないと決めていた。それだけ彼女は興味深かったし、そして魅力的だった。
彼女は初めての他者だった。私が初めて興味を持った相手だった。
彼女は初めての芸術だった。私が初めて心動かされた対象だった。
彼女は初めての未知だった。私が初めて見通せなかった存在だった。
彼女とともにいる理由など。彼女を殺さぬ理由など。
これだけあれば、十分に過ぎるほどだった。
「レミリアスカーレット」
「お姉様、と呼ぶといい」
「なら、お姉様」
「うん。なんだ?」
彼女の要求してきた呼び方は、不思議と舌によく馴染んだ。
妙な感覚を舌で転がしながら言葉を続ける。
「ここは退屈なところだけど、それでもいいなら好きに住むといいわ」
言うと、まさか、と返された。
「お前が私の住処に来るんだよ、フランドール」
「レミリア……お姉様の、住処」
「良い場所だぞ? 英知と物語の集積所があり、陽の射さない快適な寝床があり、便利で優秀な妖精どもがいる」
お姉様は彼女の住処の素晴らしさを滔々と私に並べてみせて、なるほどそれは此処よりずっと、退屈しなさそうな場所だった。別段、彼女がいるならば、退屈な場所でも構わなかったけど。興味の惹かれるようなものなどなにもないような此処に比べれば、何処だってきっとましだろうし。
「構わないか?」
「ええ、素敵だと思うわ」
私の顔を覗き込んだ彼女は、私の返答に手を差し出すことでもって応じた。
そうして私は彼女の妹になった。
とても良かったです。