Coolier - 新生・東方創想話

河童は喝破した

2020/01/05 22:22:02
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 河城にとりは喝破した。必ず、かの邪知暴虐の巫女を除かなければならぬと決意した。
 にとりには、信仰が分からぬ。にとりは妖怪の山のエンジニアである。機械を弄り、同僚と遊んで暮らして来た。けれども盟友に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明にとりは山を出発し、野を越え河越え、遠くはなれたこの博麗神社の縁日にやって来た。にとりには父も、母も無い。夫も無い。長寿の、活発な河童たちと山暮らしだ。この河童たちは、香霖堂のある今風なPCを、近々、筐体として購入することになっていた。仕事始めも間近なのである。にとりは、それゆえ、PCの周辺機器やら増設メモリやらを買いに、はるばる縁日にやって来たのだ。先ず、それらの品々を買い集め、それから神社の境内をぶらぶら歩いた。
 にとりには竹馬の友があった。犬走椛である。今はこの神社の縁日で、売り子をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちににとりは、縁日の様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、縁日の暗いのは当たり前だが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、縁日全体が、やけに寂しい。のんきなにとりも、だんだん不安になって来た。境内で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の縁日に来たときは、夜でも皆が酒を呑んで、縁日は賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。にとりは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺はあたりをはばかる低声で、わずか答えた。

「巫女は、妖怪を退治します」
「なぜ退治するのだ」
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ」
「たくさんの妖怪を退治したのか」
「はい、初めは紅魔館のお嬢様を。それから、白玉楼のお嬢様を。それから、永遠亭のお嬢様を。それから、彼岸の閻魔様を。それから、守矢神社の神様を。それから、賢者の紫様を」
「驚いた。巫女は乱心か」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人外を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、人間の心をも、お疑いになり、少しく怪しい暮らしをしている者には、賽銭ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御参拝を拒めばお祓い棒にかけられて、退治されてしまいます。きょうは、六人退治されました」

 聞いて、にとりは激怒した。

「呆れた巫女だ。生かして置けぬ」

 にとりは、愚直な河童であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ本殿にはいって行った。たちまち彼女は、巡邏の自警団に捕縛された。調べられて、にとりの懐中からはのびーるアームが出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。にとりは、巫女の前に引き出された。

「こののびーるアームで何をするつもりだったの? 言いなさい!」

 鬼巫女霊夢は静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その巫女の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。

「縁日を鬼巫女の手から救うのだ」

 とにとりは悪びれずに答えた。

「あんたが?」

 巫女は、憫笑した。

「仕方の無いやつね。あんたには、私の孤独が分からないのよ」
「言うな!」

 とにとりは、いきり立って反駁した。

「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。巫女は、人の信心をさえ疑って居られる」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、私に教えてくれたのは、あんたたちよ。人の心は、あてにならない。人間はもともと私慾のかたまり。信じては、いけない」

 鬼巫女は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。

「私だって、平和を望んでいるのよ」
「なんの為の平和だ。自分の賽銭を守る為か」

 こんどはにとりが嘲笑した。

「罪のない人間を退治して、何が平和だ」
「黙れ、妖怪」

 巫女は、さっと顔を挙げて報いた。

「口では、どんな清らかな事でも言える。私には、人の腹綿の奥底が見え透いてならないわ。あんただって、いまに、退治されてから、泣いて詫びたって聞かないわよ」
「ああ、巫女は悧巧だ。自惚れているがよい。私は、ちゃんと退治される覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」

 と言いかけて、にとりは足もとに視線を落し瞬時ためらい

「ただ、私に情をかけたいつもりなら、退治までに三日間の日限を与えて下さい。職場のPCに、環境を用意してやりたいのです。三日のうちに、私は山でPCをセッティングし、必ず、ここへ帰ってきます」

「ばかな」

 と鬼巫女は、嗄れた声で低く笑った。

「とんでもない嘘を言うのね。逃がした妖怪が帰って来るというのかしら」
「そうです。帰って来るのです」

 にとりは必死で言い張った。

「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許してください。同僚が、私の帰りを待っているのだ。そんなに信じられないならば、よろしい、この縁日に犬走椛という白狼天狗がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の夕暮れまで、ここに帰ってこなかったら、あの友人を退治して下さい。たのむ、そうして下さい」

 それを聞いて巫女は、残虐な気持ちで、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うのね。どうせ帰って来ないにきまっているわ。この妖怪に騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代わりの白狼天狗を、三日目に退治してやるのも気味がいい。妖怪は、これだから信じられないわって、私は悲しい顔して、その白狼天狗を退治してやるのよ。世の中の正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいわね。

「願いを、聞いてやるわ。その身代わりを呼びなさい。三日目には日没までに帰って来なさい。おくれたら、その身代わりを、きっと退治するわ。ちょっとおくれて来るといいわ。あんたの罪は、永遠に許してあげる」
「なに、何をおっしゃる」
「ふふ。いのちが大事だったら、おくれて来なさい。あんたの考えは、分かっているわ」
 にとりは口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなった。

 竹馬の友、犬走椛は、深夜、本殿に呼ばれた。鬼巫女霊夢の面前で、佳き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。にとりは、友に一切の事情を語った。犬走椛は無言で首肯き、にとりをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。犬走椛は、縄打たれた。にとりは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。





 にとりはその夜、一睡もせず十里もの空路を急ぎに急いで、河童の里へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、河童たちは職場へ出て仕事をはじめていた。にとりのセッティングするPCも、きょうは普段のPCの代わりにデスクに山積みされていた。よろめいて墜落して来るにとりの、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさくにとりに質問を浴びせかけた。

「なんでも無い」

 にとりは無理に笑おうと努めた。

「博麗神社に用事を残して来た。またすぐ神社に行かなければならぬ。あす、PCをセッティングする。早いほうがよかろう」

 河童は、喜んだ。

「嬉しいか。周辺機器も買って来た。さあ、これから行って、職場の上長に知らせて来い。セッティングは、あすだと」

 にとりは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰ってPCの筐体を弄り、OSのインストールを調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
 眼が覚めたのは夜だった。にとりは起きてすぐ、職場のデスクを訪れた。そうして、少し事情があるから、PCのセッティングを明日にしてくれ、と頼んだ。職場の上長は驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度もできていない。仕度ができるまで待ってくれ、と答えた。にとりは、待つことは出来ぬ。どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。職場の上長も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか上長をなだめ、すかして、説き伏せた。

 セッティングは真昼に行われた。新規PCの、使用書の提出が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。セッティングに参加していた同僚たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持ちを引きたて、狭い職場の中で、むんむん蒸し暑いのも怺え、必死に伝票を処理し、PCをセッティングした。にとりも、満面に疲労を湛え、暫くは巫女とのあの約束をさえ忘れていた。セッティングは、夜に入っていよいよ修羅場となり、同僚たちは、職場のマニュアルを全く気にしなくなった。にとりは、一生このままここにいたい、とおもった。この佳い同僚たちと生涯仕事をして行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬことである。
 にとりは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの職場に愚図愚図とどまっていたかった。にとりほどの妖怪にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい同僚に近寄り

「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに神社に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには新しいマニュアルがあるのだから、決して困ることは無い。私の、一番きらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは知っているね。新しいマニュアルに、どんな遠慮もしてはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。私たちは、たぶん凄い仕事をしたのだから、おまえもその誇りを持っていろ」

 同僚は、夢見心地で首肯いた。にとりは、それから上長の肩をたたいて

「仕度の無いのはお互いさまさ。私の職場にも、宝と言っては、PCと人だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、私の上長になったことを誇ってくれ」

 上長は肩を竦めて、笑っていた。にとりは笑って同僚たちにも会釈して、職場から立ち去り、仮眠室にもぐり込んで、死んだように深く眠った。





 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。にとりは跳ね起き、南無三、寝過ごしたか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までは十分間に合う。きょうは是非とも、あの巫女に、人の信心の存するところを見せてやろう。そうして笑って弾幕ごっこの舞台に上がってやる。にとりは、悠々と身支度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身支度は出来た。さて、にとりは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、家の如く飛び出た。

 私は、今宵、退治される。退治される為に飛ぶのだ。身代わりの友を救う為に飛ぶのだ。巫女の奸佞邪知を打ち破る為に飛ぶのだ。飛ばなければならぬ。そうして、私は退治される。いつだって友情を守れ。さらば、妖怪の山。一人のにとりは、つらかった。幾度か、立ちとまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら飛んだ。山を出て、霧の湖を横切り、魔法の森をくぐり抜け、香霖堂に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。にとりは額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや職場への未練は無い。同僚たちは、きっと佳いエンジニアになるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐに神社に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達したころ、降って湧いた災難、にとりの足は、はたと、虚空を踏んだ。
 見よ。前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木端微塵に橋桁を跳ね飛ばし、にとりを巻き込んだ。にとりは成されるがままに、流されていった。必死にあたりを眺めまわし、また声を限りに呼び立ててみたが、繋舟は残らず浪に浚われて影なく、人の姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上がり、海のようになっている。にとりは濁流に流されながら、泣きに泣きながら守矢の祭神に哀願した。

「ああ、沈めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、神社に行き着く事が出来なかったら、あの佳い友達が、私のために退治されるのです」

 濁流は、にとりの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えていく。今やにとりは覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ友情と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。にとりは、ざんぶと流れに逆らい、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ、掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の河童の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに憐憫を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹にすがりつく事が出来たのである。ありがたい。にとりは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先を急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい呼吸をしながら峠を飛び、飛び越えてほっとした時、突然、目の前に三妖精と妖精の一隊が躍り出た。

「待ちなさい」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに神社に行かなければならぬ。放せ」
「どっこい放さないわ。持ちものを全部置いて行きなさい」
「私にはこのいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから巫女にくれてやるのだ」
「その、いのちが欲しいのよ」
「さては、巫女の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな」

 三妖精たちは、ものも言わず一斉に弾幕を撃ち放った。にとりはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近の妖精に襲い掛かり、その弾幕をかわしきって

「気の毒だが友のためだ!」

 と、猛然一撃、たちまち、三人をピチュらせ、残る者のひるむ隙に、さっさと飛んで峠を下った。一気に峠を飛び降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと河童の皿に照って来て、にとりは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろと僅かばかり飛んで、ついに、真っ逆さまに墜落した。立ち上がる事も出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。





 ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、妖精を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破してきたにとりよ。真の河童、にとりよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。敬愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて退治されなければならぬ。おまえは、稀代の不信の河童、まさしく巫女の思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝転がった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、河童に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣食った。

 私は、これほど努力したのだ。約束を破る心はみじんも無かった。鬼も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで飛んで来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の皿を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。敬愛と信実の胡瓜だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。私は、よくよく不幸な河童だ。私は、きっと笑われる。私の仲間も笑われる。私は友を欺いた。中途で倒れるのは、初めから何もしないのと同じ事だ。

 ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定まった運命なのかもしれない。犬走椛よ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、犬走椛。よくも私を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。犬走椛、私は飛んだのだ。君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。妖精の弾幕からも、するりと抜けて一気に峠を飛び降りて来たのだ。私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。

 巫女は私に、ちょっと遅れて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代わりを退治して、私を助けてくれると約束した。私は巫女の卑劣を憎んだ。けれど、今になってみると、私は巫女の言うままになっている。私はおくれて行くだろう。巫女はひとり合点して私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、退治されるよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の河童だ。犬走椛よ、私も退治されるぞ。君と一緒に退治されるぞ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。職場には私のデスクが在る。PCも在る。同僚たちは、まさか私を職場から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して妖怪が生きる。それが幻想郷の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。

 ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようににとりは身をかがめた。水を両手で掬って、皿に掛けた。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を犠牲に、友情を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている友があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている友があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。退治されてお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。飛べ! にとり。

私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。にとり、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の河童だ。再び立って飛べるようになったではないか。ありがたい! 私は、友情の士として退治される事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、鬼よ。私は生れた時から正直な河童であった。正直な河童のままにして退治させてやって下さい。

 路行く人を押しのけ、跳ねとばし、にとりは青い風のように飛んだ。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の狸たちを仰天させ、犬を蹴けとばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く飛んだ。一団の妖精と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。

「いまごろは、あの白狼天狗も、退治されているよ」

 ああ、その天狗、その天狗のために私は、いまこんなに飛んでいるのだ。その天狗を退治させてはならない。急げ、にとり。おくれてはならぬ。敬愛と友情の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。にとりは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、博麗神社の鳥居が見える。鳥居は、夕陽を受けてきらきら光っている。

「ああ、にとり」

 うめくような声が、風と共に聞こえた。

「誰だ」

 にとりは飛びながら尋ねた。

「文よ、射命丸文よ。貴女の友人の犬走椛の友よ」

 その若い烏天狗も、にとりの後について飛びながら叫んだ。

「もう、無理よ。無駄よ。飛ぶのはやめなさい。もう彼女は助けられないわ」
「いや、まだ陽は沈まぬ」
「ちょうど今、彼女が退治されるところよ。ああ、貴女は遅かった。貴女の事が憎いわ。ほんの少し、もう少しでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ」

 にとりは、胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。飛ぶより他は無い。

「もうやめなさい! 飛ぶのはやめなさい! 今は貴女の命の方が大事よ、貴女まで退治されるつもりですか!? 彼女は最後まで、貴女を信じていたわ。境内に引き出されても、平気でいたわ。巫女が散々からかっても、にとりは来ますとだけ答えて、ずっと千里眼で貴女を見ていたのよ」
「それだから、飛ぶのだ。信じられているから飛ぶのだ。間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。友の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に飛んでいるのだ。そう、きっと幻想郷の為に! ついて来い! 射命丸文」
「気でも狂ったの!? それなら好きなだけうんと飛べばいい。ひょっとしたら、間に合うかもしれないわ。飛びなさい、河城にとり!」

 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽くして、にとりは飛んだ。にとりの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて飛んだ。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、にとりは疾風の如く境内に突入した。間に合った。

「待て。その天狗を退治してはならぬ。にとりが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た」

 と大声で境内の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は一人として彼女の到着に気がつかない。すでにお祓い棒が高々と振り上げられ、縄を打たれた犬走椛に、一気に振り下ろされていく。にとりはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、描きわけ

「私だ、巫女! 退治されるのは、私だ。にとりだ。彼女を人質にした私は、ここにいる!」

 と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついにお祓い棒を払いのけ、友に抱き着いた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。犬走椛の縄は、ほどかれたのである。

「椛」

 にとりは眼に涙を浮かべて言った。

「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。君も見ていただろう。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君を友と呼ぶ資格さえ無いのだ。殴れ」

 犬走椛は、全てを見てきた様子で首肯き、境内一ぱいに鳴り響くほど音高くにとりの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み

「にとり、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと貴女を疑った。生れて、はじめて貴女を疑った。貴女が私を殴ってくれなければ、私は貴女を友と呼べない」

 にとりは腕に唸りをつけて犬走椛の頬を殴った。

「ありがとう、友よ」

 二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。鬼巫女霊夢は、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。

「あんたらの望みは叶ったわよ。あんたらは、私の心に勝った。信心とは、決して空虚な幻想ではなかったと。どうか、私もあんたらの仲間に入れてくれないかしら。どうか、私の願いを聞いて、私をあんたらみたいな人間にして欲しいの」

 どっと群衆の間に、歓声が起った。

「万歳、巫女様万歳」

一人の少女が、群青の長着をにとりに捧げた。にとりは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。

「にとり、君は、まっぱだかじゃないか。早くその長着を着るといい。この少女は、にとりの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく恥ずかしいのだ」

 河童は、ひどく赤面した。
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コメント



0.70簡易評価
2.無評価名前が無い程度の能力削除
パロディとしては面白いけど、あまりにもまんますぎるw
これに得点を入れても80年越しに太宰治を褒めてるだけになっちゃう
のびーるアームが出てきて騒ぎが大きくなってしまったはすき
3.100終身削除
妹の結婚式に行こうとする家族想いでも無くて職場のpcをセッティングするために行く技術者気質なところとか水だけでパッと生き返って走り出すところとかなんだか違った印象を感じました 巫女が人間を信じられないと言っているの初めから妖怪は論外って感じで面白かったです