「メリー、今年の年越しはあえて何もしないをしましょう」
宇佐見蓮子は今から一刻ほど前、こたつに丸まって蜜柑を食みながらそう言った。
年を越すというのは古来より特別なものであり、古来より何かしなくてはという焦燥に駆り立てられるものであった。
つい先ほど蓮子と私も何か特別なことをしようと話し、年越しの瞬間にジャンプをするという墓場的アイデアに行き当たってしまったほどだ。
流石に無理やり何かをやる必要はないのでは、という雰囲気になったところで蓮子はあえて一切何もしないのはどうだろうと提案した。正直眠くなっていた私は何でもよくなっており、緩やかに同意した。
しかし人間何もしないというのも難しい。蓮子も暇を持て余しており、食べ終えた蜜柑の皮をしきりに弄っている。
私は腕時計に目をやった。今日日腕時計なんてクラシカルなものを身につけているのは、大学じゃ私と蓮子くらいのものだろう。蓮子のアンティーク趣味に付き合って一緒にお揃いのものを買ったものだが、私自身この時計を気に入っていた。ちなみに買う時にその目があれば時計は必要ないのでは、と思ったが蓮子の目は曇りや昼ではその能力を発揮できないとのことだった。
時刻は23時44分。まだ年越しまで16分ある。年を越す瞬間に何もしないようにするといっても、1分前くらいまでは何かで暇を潰しても良いのではないだろうか。このままでは眠ってしまう。
そんなことを考え始めた頃、蓮子が顎をこたつのテーブルの上に乗せたまま口を開いた。
「今この時という瞬間って実在しないんじゃないかしら」
「……」
正直、面倒臭いなと思った。
蓮子は時折こうして突飛な持論を展開する時がある。
眠くなっている私としては彼女の説法を聞くのは危うい。しかし何もしないよりはマシだろうと大きく遅れて私は相槌を打った。
「どういう意味?」
「23時40分という時間ちょうど、っていう時は存在しないと思うのよ。突き詰めていけばコンマ0.00000……」
「そのくらいでいいわよ」
「……001秒くらいの違いが生じてしまうと思うの」
「んー……完璧な球体は現実には存在しない。なぜならその球体は地面と接している部分が存在しないから、みたいな話?」
「感覚的にはそんな感じ」
蓮子の言いたいことは何となくわかった。
瞬間、という状態は時間の単位では表現できない。瞬間というものは何秒ですか、と聞いても誰も答えられないだろう。
であれば今この瞬間が「何時何秒」かという問いに対する完全な答えも存在しない。どう答えてもほんの僅かにズレが出ることを避けられないからだ。
「で、話はそこから一歩進むんだけど、あえて今この時という瞬間を表現するなら、それは何時何秒にまたがっていると思うの」
「は?」
彼女の意図するところが全く分からず、ついそんな声が出てしまった。
「例えば23時40分という時間を表現するなら、それはやや23時39分59秒であり、だいたい23時40分0秒であり、やや23時40分1秒である時間であると表現すべきだと思うの。それなら誤謬がないわ」
「えーっと…」
わかるような、わからないような話だった。
「じゃあこの定規の目盛りの10cmのところが今この時だとするじゃない」
蓮子がコタツの中から唐突にプラスチック製の定規を取り出したように見えた。
どこから出したのその定規、と突っ込もうとしたが彼女は話を続ける。
彼女は10cmのところに爪を立てた。
「今この時、を正確に表現しようとすると、実際にはこの爪の厚みが存在しないので矛盾がでるじゃない」
「まあそこまでは何となくわかるわ」
瞬間を何秒であると表現できない。つまり瞬間に厚みはない。現実に人間が今が何時であると言おうとすると、厳密には爪の厚み分のズレが生じる。
蓮子は頷き、今度は10cmのところを指差した。
「じゃあいっそ開き直って逆に瞬間を厚みのあるものと捉えるのはどう、って話よ」
「あー、わかった気がする。定規で言えば、だいたい10cmのところを指差してるけどやや9cm9mmでもあり、やや10cm1mmくらいでもある状態ってことね」
「そうそう」
瞬間をあえて厚みのあるものとして捉える、というのは中々面白いかもしれない。
ただ彼女の話は穴ぼこだらけだった。
「でも考え方は面白いと思うけど、私たちが知覚できないだけで瞬間というものは存在することに変わりないわ。その定規で例えれば、瞬間は端から端まで動くもので、10cmと重なっている状態は確実に存在するわけだし」
反論としては少し弱いな、と思って私はさらに付け足す。
「算数の得意な蓮子ならわかると思うけど、10をちょうど切り出すことはできなくても、限りなく10に近いという数字は存在するわ。わざわざ瞬間に厚みがあるだなんて話をしなくともね」
極限を習うのは中学校だっただろうか、高校生だっただろうか。
私がそう言うと蓮子はあっけらかんとした顔で言った。
「まあそうね」
「……あっさり引き下がるのね」
ここから更に詭弁を重ねてくると身構えていたのだが、彼女は私の主張をあっさり認めた。
「そりゃまあ今思いついただけのぽっと出のアイデアだし、正しいとは思ってないわよ」
蓮子は自分の負けを認めるように両手を上げて笑った。その際、蓮子のしているお揃いの腕時計が目に入った。
私はふと腕時計を見た。
「あっ、もう年越ししてるじゃない!」
腕時計は0時2分を指していた。
結局蓮子と謎の議論をしてしまい、何もしないをすることで年を越すというのは達成できなかった。
あまりのしょうもなさに力が抜けてしまい、ため息が出てしまった。
しかし蓮子は自分の腕時計を見て言った。
「え、私の時計だと23時58分なんだけど」
「あれ。どっちかの時計がずれてるのかしら」
そういえば先ほど蓮子は話の例えに23時40分を持ち出したが、その時の私の時計での時刻は23時44分だった。どうやら私たちの腕時計は4分ほどずれているらしい。
「ちょっと外出てきてその目で時刻見てきてよ。予報じゃ今日の夜空は晴れよ」
「いやよ。こんなクソ寒い中外出るとか」
それに、と蓮子は付け足した。
「確認しなければこの部屋はやや今年でもあり、やや来年でもある状態じゃない」
とても良い顔で蓮子が笑うものだから、私もつられて笑ってしまった。
「何それ」
「つまりこれは年越しならぬ----」
宇佐見蓮子は今から一刻ほど前、こたつに丸まって蜜柑を食みながらそう言った。
年を越すというのは古来より特別なものであり、古来より何かしなくてはという焦燥に駆り立てられるものであった。
つい先ほど蓮子と私も何か特別なことをしようと話し、年越しの瞬間にジャンプをするという墓場的アイデアに行き当たってしまったほどだ。
流石に無理やり何かをやる必要はないのでは、という雰囲気になったところで蓮子はあえて一切何もしないのはどうだろうと提案した。正直眠くなっていた私は何でもよくなっており、緩やかに同意した。
しかし人間何もしないというのも難しい。蓮子も暇を持て余しており、食べ終えた蜜柑の皮をしきりに弄っている。
私は腕時計に目をやった。今日日腕時計なんてクラシカルなものを身につけているのは、大学じゃ私と蓮子くらいのものだろう。蓮子のアンティーク趣味に付き合って一緒にお揃いのものを買ったものだが、私自身この時計を気に入っていた。ちなみに買う時にその目があれば時計は必要ないのでは、と思ったが蓮子の目は曇りや昼ではその能力を発揮できないとのことだった。
時刻は23時44分。まだ年越しまで16分ある。年を越す瞬間に何もしないようにするといっても、1分前くらいまでは何かで暇を潰しても良いのではないだろうか。このままでは眠ってしまう。
そんなことを考え始めた頃、蓮子が顎をこたつのテーブルの上に乗せたまま口を開いた。
「今この時という瞬間って実在しないんじゃないかしら」
「……」
正直、面倒臭いなと思った。
蓮子は時折こうして突飛な持論を展開する時がある。
眠くなっている私としては彼女の説法を聞くのは危うい。しかし何もしないよりはマシだろうと大きく遅れて私は相槌を打った。
「どういう意味?」
「23時40分という時間ちょうど、っていう時は存在しないと思うのよ。突き詰めていけばコンマ0.00000……」
「そのくらいでいいわよ」
「……001秒くらいの違いが生じてしまうと思うの」
「んー……完璧な球体は現実には存在しない。なぜならその球体は地面と接している部分が存在しないから、みたいな話?」
「感覚的にはそんな感じ」
蓮子の言いたいことは何となくわかった。
瞬間、という状態は時間の単位では表現できない。瞬間というものは何秒ですか、と聞いても誰も答えられないだろう。
であれば今この瞬間が「何時何秒」かという問いに対する完全な答えも存在しない。どう答えてもほんの僅かにズレが出ることを避けられないからだ。
「で、話はそこから一歩進むんだけど、あえて今この時という瞬間を表現するなら、それは何時何秒にまたがっていると思うの」
「は?」
彼女の意図するところが全く分からず、ついそんな声が出てしまった。
「例えば23時40分という時間を表現するなら、それはやや23時39分59秒であり、だいたい23時40分0秒であり、やや23時40分1秒である時間であると表現すべきだと思うの。それなら誤謬がないわ」
「えーっと…」
わかるような、わからないような話だった。
「じゃあこの定規の目盛りの10cmのところが今この時だとするじゃない」
蓮子がコタツの中から唐突にプラスチック製の定規を取り出したように見えた。
どこから出したのその定規、と突っ込もうとしたが彼女は話を続ける。
彼女は10cmのところに爪を立てた。
「今この時、を正確に表現しようとすると、実際にはこの爪の厚みが存在しないので矛盾がでるじゃない」
「まあそこまでは何となくわかるわ」
瞬間を何秒であると表現できない。つまり瞬間に厚みはない。現実に人間が今が何時であると言おうとすると、厳密には爪の厚み分のズレが生じる。
蓮子は頷き、今度は10cmのところを指差した。
「じゃあいっそ開き直って逆に瞬間を厚みのあるものと捉えるのはどう、って話よ」
「あー、わかった気がする。定規で言えば、だいたい10cmのところを指差してるけどやや9cm9mmでもあり、やや10cm1mmくらいでもある状態ってことね」
「そうそう」
瞬間をあえて厚みのあるものとして捉える、というのは中々面白いかもしれない。
ただ彼女の話は穴ぼこだらけだった。
「でも考え方は面白いと思うけど、私たちが知覚できないだけで瞬間というものは存在することに変わりないわ。その定規で例えれば、瞬間は端から端まで動くもので、10cmと重なっている状態は確実に存在するわけだし」
反論としては少し弱いな、と思って私はさらに付け足す。
「算数の得意な蓮子ならわかると思うけど、10をちょうど切り出すことはできなくても、限りなく10に近いという数字は存在するわ。わざわざ瞬間に厚みがあるだなんて話をしなくともね」
極限を習うのは中学校だっただろうか、高校生だっただろうか。
私がそう言うと蓮子はあっけらかんとした顔で言った。
「まあそうね」
「……あっさり引き下がるのね」
ここから更に詭弁を重ねてくると身構えていたのだが、彼女は私の主張をあっさり認めた。
「そりゃまあ今思いついただけのぽっと出のアイデアだし、正しいとは思ってないわよ」
蓮子は自分の負けを認めるように両手を上げて笑った。その際、蓮子のしているお揃いの腕時計が目に入った。
私はふと腕時計を見た。
「あっ、もう年越ししてるじゃない!」
腕時計は0時2分を指していた。
結局蓮子と謎の議論をしてしまい、何もしないをすることで年を越すというのは達成できなかった。
あまりのしょうもなさに力が抜けてしまい、ため息が出てしまった。
しかし蓮子は自分の腕時計を見て言った。
「え、私の時計だと23時58分なんだけど」
「あれ。どっちかの時計がずれてるのかしら」
そういえば先ほど蓮子は話の例えに23時40分を持ち出したが、その時の私の時計での時刻は23時44分だった。どうやら私たちの腕時計は4分ほどずれているらしい。
「ちょっと外出てきてその目で時刻見てきてよ。予報じゃ今日の夜空は晴れよ」
「いやよ。こんなクソ寒い中外出るとか」
それに、と蓮子は付け足した。
「確認しなければこの部屋はやや今年でもあり、やや来年でもある状態じゃない」
とても良い顔で蓮子が笑うものだから、私もつられて笑ってしまった。
「何それ」
「つまりこれは年越しならぬ----」
良い蓮メリでした
仲良しな秘封に癒されました