明かりは灯り、街は眠らない。ここは昼夜の境界が曖昧だから。
京都、三条の繁華街は夜風に吹かれ、秋を薫らせていた。人々の足取りはゆるやかで、何処を目指す様子もない。私もまた、そんな彷徨者の一人だ。
人が楽園を失ってから五千九百年が経つ。この地を四角く区切り住処を構えた彼らは、かつて自分が天使の羽を持っていたことも忘れ、碁盤の上を彷徨っているのだ。
木屋町にかかる橋を渡っていると、目の前に小さな影が現れる。白猫だった。野良にしては毛並みが整っているのは、きっと街の人々に愛されているのだろう。
「にゃーん」
挨拶してみる。猫はぴくりとこちらを向くと、咄嗟に地面を蹴った。思い付きで追いかけてみるが、猫は路地裏を巧みに駆けていき、簡単に私を振り切ってしまった。
「……フられちゃったか」
鼻から自嘲が漏れる。猫と戯れるほど、私は手持ち無沙汰なのか? あるいは話し相手を欲しているのだろうか。普段とは違う自分に戸惑いつつ、顔を上げる。視線の先には、木彫りのシックな看板が掲げられていた。
〝バー・オールドアダム〟
酒場。それは失楽園を嘆いた人々が造った偽りの楽園だ。少なくとも、私が持ち歩くこのトーラにはそう書いてある。その酒場に「アダム」を冠するとは、なかなか皮肉が効いているではないか。
ちりん、とベルが鳴っていて、気づけば店の扉を押していた。ランプの橙色が視界を覆い、たちまち表の通りから隔絶される。妖しげなコントラバスの音色と共に、漂ってきたのは酸味を持った重い香り……。珍しいが、初めてではない。一度嗅げば忘れられない匂いだ。
……この店、旧型酒を出している。
「いらっしゃい」
オーナーらしき者が裏から顔を出した。顎髭を綺麗に整えた、ダンディな男だった。
「あぁ……かんにんやで、お嬢さん。年を喰うと物忘れが酷くて……」
「あっ、いや」
言葉を詰まらせたのは、あることを思い出したからだ。忘れていたのは、きっと普段は馴染みの店にしか行かないから。そう、京都の裏路地のこうした店は、基本的に「一見さんお断り」だ。オーナーは暗に「君の顔は初めて見た」と言っているのである。
ここで何か気の利いた返しでもできたのなら、状況は変わったかもしれない。しかし生憎、私は直感で店に入ってしまった。ウィットを利かせるにも時間が足りない。
秒針が刻まれる毎に羞恥心がせり上がっていく。今手を放しかけたドアノブをもう一度引いて走り去ってしまえば……などと弱腰なことを考えてしまう。自分が情けなく思えてきた、そのとき。
「彼女は私の友人よ」
静かに透き通った声。振り向けば、カウンターの左端にブロンドの女性が佇んでいた。紫のドレスに、慎ましやかなネックレスをかけ、高いヒールを履いている。手に持つグラスには、彼女の唇のように紅いワインが注がれていた。
「これはこれは、失礼いたしました。どうぞお隣りへ」
かしこまった様子で口調を正したオーナーは、手の平で私を促した。ブロンドの女性がこちらに笑みを向け、そうして初めて、私は助け船を出されたのだと自覚した。
「あの……ありがとうございます」
椅子に腰かけ、直ぐに礼を述べたが、それを彼女はナンセンスとばかりに受け流した。友人と言ったからには、友人として振る舞ってもらわなくちゃ困る、ということなのだろうか。
「Never mind, my friend」
返ってきたのは流暢な英語。未だ目を合わせられない自分を恥じながら、彼女の横顔をこっそりと見た。深い目元、堂々とした額、すらりと伸びる鼻。ブロンドの髪に加え、瞳まで青いときた。容貌だけから判断すれば、間違いなくゲルマン系の外国人だ。初めに聞こえた日本語が自然で、すぐには気づけなかった。
女性が空のワイングラスを返し、オーナーがそれを直々に受け取る。
「What would you like?」
接客されるのも英語のようだ。一度オーダーしてる以上、初めは英語話者として振る舞っていたと見える。
「Last one for me, and…」
言って、女性は私と目を合わせた。「貴方はどうするの?」という意図だと思ったが、それは間違いだった。初めて面と向き合った私は、一瞬のうちに心の内まで覗かれた気がして……。
「Outsider for her, please」
いつの間に、私のオーダーも済んでいた。
「……え」
驚いたのは、勝手に注文を決められたからでも、それに不満だったからでもない。〝アウトサイダー〟が、私の一番の好みのカクテルだったからだ。
オーナーは小さく頷くと、てきぱきと手を動かし始めた。
「どうして……」
どうして分かったのか。と問いかけようとした口が止まる。彼女が覗き込むように私を見ていたからだ。どうしてだと思う? と言わんばかりの瞳で。そうした表情、動作の一つ一つが妖艶で、気付けば私の顔は赤くなっていた。その頬を、彼女の指が触れる寸前で這っていく。
何故、の問いに対する彼女の答えは単純だった。
「Cuz I know you」
女性は「貴方のことを知っているから」と言ったのではない。「貴方とは付き合いがあるから」と言ったのだ。
私は一度脳内をサルベージした。この違和感、気付くべき決定的なことに気づけていないもどかしさ。何かのバイアスがかかって切り捨てられた可能性が、どこかにあるはずだ。
答えは直ぐ近くにある気がした。……今、こちらを覗き込んでいる青い目だ。羞恥心で直視できなかったその瞳を、勇気を出して、今度は私の方から覗き込み返してみた。
捨てられた可能性は、その瞳の中にあった。
「こんなところで何してるの……メリー」
どんなに姿を変えていたって、向き合って見たこの瞳の美しさは忘れない。
会ったときに気づけなかったのは、普段のイメージとあまりにもかけ離れていたからだろう。大学での彼女は天性の美貌に甘んじてメイクもしない幸せ者で、防御の厚いふわふわとした服を着る、男子共がいかにも好きそうな天然美少女だ。上品な女子高に通っていたのかは分からないが、常にお嬢様言葉を話す、今では指定文化遺産ともいうべき逸材でもあり、誰にでも笑顔で接し明るさと癒しを振り撒く、少女漫画もびっくりの聖女を振る舞っている。要するに、今目の前で女の私をたぶらかす、めかし込んだ悪女とはまるで正反対なのだ。
だが気付いてしまえば謎は解ける。彼女が私の酒の好みを知っていたのは、一度話題にしたことがあったからだ。
それだけではない。彼女はこの空間にも、そしてこの手の会話にも慣れていた様子だ。席の位置からしても常連客の可能性がある。となると、私が隣に呼ばれた、別の可能性に思い至る。あの時私が味わった「助け船を出された」という安心感がカギだ。大学近辺の飲み屋と違って、ここは繁華街のバーであり、人間同士の難しい駆け引きも当然行われる。彼女から溢れ出す誘惑の空気も、きっと気のせいではない。だから考えてしまう。もしメリーが「彼女は私の友人よ」という言葉一つで、迷い込んだ女を隣の席に誘い込んでいたとするなら?
彼女の紅い唇が、私の疑いを確信に変える。
メリーはここで、ナンパをしていたのだ。
驚きか? 呆れか? ……否。私は「面白い」と感じた。普段のメリーは、猫を被りに被った毛玉ということになる。けれど、どちらが「本物」であるのかという問いは重要ではないように思えた。対極的な二つの性格は、しかし、対極的だからこそ釣り合いが取れて、今の今まで共存し、周りにもバレずに続いてきたのだろう。
バー、オールドアダムに偶然現れた私へ、彼女はルーティン通りに声をかけてしまった。後になって、それが私、宇佐見蓮子だと気づいた。メリーとしても後には引けなくなって、バレない方に賭けて悪女を演じ続けようとした……。概ねそんなところだろう。そして。
「Mary? Who is Mary?」
彼女はその演技を、今夜中押し通すつもりだ。
「あら? 私の勘違いかしら」
精一杯にとぼけた私を見て、メリーは笑った。内心、彼女はこのシチュエーションでロールプレイを楽しんでいるのかもしれない。私にいつかバレる、否、既にバレているかもしれないとしても、だ。そこまで理解したとき、私は急に羞恥を覚えた。
ナンパをされている。その自覚ができていなかった自分が、恥ずかしかった。恥ずかしい以上に、悔しかった。酒場で男からの絡みを警戒するのは常だけれど、女だからといって油断していい理由にはならない。その僅かな隙を、よりにもよってメリーに突かれたのだと思うと、何だか……。
……負けた気がする!
「……どうぞ」
二人の飲み物が同時に出された。お互い手に取り、グラスを重ね……オーナーの目がカウンターの下へ逸れた隙に、私はカクテルを一気に飲み干してしまった。はしたないと分かっていても、こうでもしないと気が済まなかったのだ。
――この勝負、受けて立とう。今夜の間だけ、彼女は初対面の「女性」だ。
「Excuse me?」
女性の顰蹙も御構い無しに、私は問いを返した。
「What is your name?」
「ぶふっ」
噴き出す女性。今までの分のお返しだ。慌てて口を覆う仕草が愛らしい。
「黙りに黙って、やっと放った英語がそれ?」
「何よ、やっぱり喋れるじゃない」
「どこかのお馬鹿さんのために合わせてあげてるのよ」
「Oh! Thank you very much!」
「アンタね……」
言いかけた言葉を飲み込み、彼女はグラスに口を付けた。少しばかりの沈黙。騒がしかった二人の間の空気は、バーのシックな明かりに包まれ、再び落ち着きを取り戻していった。
――ここからはユーモア無しだ。
「改めまして。私は宇佐見蓮子。……貴方は?」
聞いて、瞳だけでこちらを見る彼女の眼光は猫のようで。
「それはね……」
彼女は紅い唇に人差し指を当て、しーっ、と音を立てた。
「秘密なの? いじわる」
じらしたがるのは、まだ彼女が勝負を降りていない証だろう。
「代わりにいいこと教えてあげる」
直後、陶器のように透き通った手が私の腰に伸びた。彼女の椅子が回り、そして私の椅子が回され、私たちは向かい合った。引き付けられる瞳と瞳、その深い青。……まるで何かを乞うように。
「耳、貸して」
私の椅子に手を付き、彼女は身体を乗り出した。唇が迫り、吐息が肌を撫でる。近づくくせに、触れもしない距離感。思いがけず鼓動は高鳴り、身体が火照っていく。アルコールのせいだと思いたいけれど、くらくらとするその感覚は、口に残ったカクテルよりも甘く。
「私は貴方の秘密を知っている……」
囁く言葉。惑わすためなら、嘘を言うことも厭わない。今夜の彼女はそういう女だ。
「人に知られていい秘密は、秘密じゃないわ」
「理屈っぽいのね」
「理論物理屋ですから」
口は動いていたけれど、思考は止まっていた。彼女の肌は近くて。紡ぐ言葉は自分のことで精いっぱいで。耳にかかるこそばゆさを受け入れてしまいそうで……。
「――貴方は今、くらくらしてる」
「……なっ」
少し顔を引いた彼女と目が合う。靡くブロンド、さらさらと流れるように。
「ね? 当たり。それが貴方の……秘密」
悪戯っぽい笑顔。羞恥が私の目を背けさせた。瞼を落として、唇を噛む。
「ずるいわ」
結局、また私の方が暴かれているじゃないか。
「貴方だけ……秘密ばっかり」
「貴方が喋りすぎなのよ」
「私はもっと貴方を知りたいだけなのに」
椅子の上で、彼女の指が少しすくんだ。私が零した率直な言葉が、却って響いたのかもしれない。
「それだけ隠し事するなんて、何か訳があるんでしょう?」
身体を引き、彼女はカウンターに向き直った。ブロンドの匂いが鼻腔を抜けていく。
「……そうね」
はっきりとした横顔のシルエット、埋め込まれたような目が指す先は何処へでもなく。
「私は……怖いのかもしれない」
身体をくねらすように、女性はドレスの肩を直した。
「何を恐れているの?」
返答は遅かった。渋っているのか、迷っているのか。髪を耳にかけ、グラスを撫でる、その動作一つ一つから目が離せない。
「……現実……かな」
ぺろり、と舌を出し、彼女は紅を濡らした。その艶やかさ、熟れた果実の如く。酒で火照った彼女の笑顔には、普段は見せない柔らかさがあった。
「なら……」
一度離れた彼女の元へ、私の身体が引き寄せられていく。ブロンドの香りに再び包まれたとき、覚えたのは安心感。その距離感こそ相応しいのだと、身体が理性に訴えているようで。
きっと彼女は、残した香りで私を縛っているんだ。
「現実なんか、逃げちゃおうよ」
切り出した言葉。色のあるセリフより、私はこっちの方が得意だ。
「貴方も……来てくれるの?」
迫られてなお、誘うように。重なる視線。交わす息。二人だけに聞こえる囁き。
「えぇ、もちろん」
引き合う二つの唇。
「……私と、二人で」
青く輝く、妖しい瞳。引き込まれ、酩酊、見つめる先で、彼女の瞳が、俯く。そして、私は。
艶やかな紅に触れた。
――がりっ。
聞こえるはずのない音がして。口に染み入る液体、甘い味覚。黒い視界に満ちる疑問符。
「……残念」
少し離れたところから声は聞こえた。閉じてしまっていた瞼を開けば、青い瞳が私を窘めている。
「ここが私の楽園だから。……外に踏み出すつもりは無いわ」
齧り取ってしまった断片。口に含んだものは、果実の甘みを持っていた。
……私のカクテルに添えられていた、チェリーの一粒だ。
「いけない果実を齧った貴方は……」
チェリーのへたを指に挟んだ手が、私の膝元のトーラに触れる。
「……分かるでしょう?」
――初めに――。罪を背負ったのは私だ。
「楽園追放、ってわけね」
やはり私のトーラは正しかった。酒場というのは楽園であり、彼女にとっては現実からの逃避の象徴なのだ。どうやら私はここで退場のようだ。
……けれど。
直後、二つの唇は重なっていた。
もう瞼を下ろさない。眼前には見開かれた目、妖しい瞳の微かな震え。齧ったチェリーの欠片が、彼女の口に含まれていく。柔らかく、熱く、心地良く。名残惜しさを残しながら、私は体を起こした。
「貴方も共犯者よ」
その手を握り、私は言った。
「楽園だって、逃げてしまえばいい」
時が止まる。
彼女の舌が唇を這っていく。
私を見定めるような視線に、思わず息を飲む。
長い時間が経ち、己の言葉が反芻されて止まなくなったとき。その口は開かれた。
「……唆したのは私よ」
今までとは違う、強い意思の感じられる言葉だった。
「蛇を唆し返すなんて、いい度胸だわ」
「それ……褒めているの?」
「どうかしら」
握っていた手が解かれる。その手を上げて、彼女は人を呼んだ。
「ただ、貴方は一つ勘違いをしている」
正面を向きながら、言葉は傍らの私に告げられていた。店の人間が顔を出したところを見て、空中にペンが走る。
「貴方は私の手を引くつもりのようだけど――」
勘定の紙を持ってやってきたオーナーに、女性は言った。
「It`s her turn today」
「……えっ」
振り返ったその目はまるで私を試すように。
「――今夜は私が貴方を振り回す」
コートを羽織り歩き出す女性。
「あっ、ちょっ待っ……」
だが、すぐ追いかけることは許されなかった。
「こちらになります」
カウンターの上に提示された料金、八千九百円。彼女の一言が、今日は私の奢りなのだと決めてしまったのだ。
「どんだけ飲んでたのよ……」
カードを出し、サインを印す。と、その紙の裏に何か文字が書かれていることに気づいた。ひっくり返してみれば、それは英語の二単語だった。
――Catch me――
「捕まえて……みろ……?」
初めは意味が分からなかった。だがその筆跡が彼女のものである可能性に思い至る。振り返れば、店の扉が閉まっていくのが見えた。ちりん、と鳴る鈴の音にはっとして、急ぎ荷物を纏め、席を立つ。
「無理やと思うで」
そう告げたのはオーナー。カードを返し、諦観を含んだ笑みを私に向けながら。
「あの娘、いつも独りやかんな」
「……それって」
――誰も彼女を捕まえられなかった、ということか。
「お気遣い、ありがとうございます」
小さく頭を下げる。
「けど……」
顔を上げると、立ち眩みに似たふらつきを覚えた。旧型酒の酔いが回っている。この恍惚の記憶は、きっと私を、またこの店に誘うのだろう。
「次に私が来るときは、必ず彼女と二人です」
扉を開け、私は店を飛び出した。
* * *
夜は更けていた。月明かりが高瀬川の水面を照らし、冷えた風が肌を撫でる。木屋町通を見通した先、白いコートの彼女の姿が北へ北へと離れていく。
「あんなに遠く……」
駆け出した、夜空の下。避けて、躱して、隙間を縫うように身体を細めながら。道行く人々の歩みは一層遅く、千鳥足の酔っ払いが私の足を惑わせた。帳が降りた彷徨の街、京都の通りで息を切らして走る者など、きっと私と彼女より他には居ないのだ。すれ違う者、一人一人が物珍しそうに私たちを目で追っていた。
女性の姿は遠かった。足に自信はあったのに、二人の距離が縮まる気配はなかった。あんなに高いヒールを履いておきながら、どうしてこうも軽々と走れるのだろう。人や街路樹、時に車など、障害物を自然な流れで躱していく様子には、どこか「野生の勘」じみたものを感じた。
御池通に差し掛かる。先に信号を渡り切った彼女が、コートをはためかせ振り返る。にこりと笑った瞬間、信号が点滅し始めた。
「待っ……」
スパートをかけ、一つ目の横断歩道を渡る。だが二つ目を渡り損ねてしまった。赤信号を前に、踏み出した一歩を引っ込める。せっかちなタクシーが走り出し、数々の乗用車が過ぎていった。
それでも目を離すまいと、車道の向こうを注視する。一台、二台、三台と車が過ぎても彼女は立ち止まったまま。その焦らし方に、また溺れそうになる自分の頬をつねった。けれど大型のトラックが横切り、視界が完全に途切れた一瞬。再び対岸が見えるようになった頃には……彼女の姿は無かった。
「……嘘」
車道の中州に取り残されたまま、茫然とする。再び彼女の手を取る、そのはずの右手が空を掴む。唇を噛み振り向いた東、鴨川にかかる橋の向こう、東山から右肩を失ったオリオンが昇ろうとしている。
「二十二時……三十五分」
――今は一分一秒が惜しかった。
青に変わった。横断歩道を渡り切り、辺りを見回す。どちらに彼女は消えたのか、知る術はどこにも無いが、立ち止まっていてはもどかしさが勝る。私は主にサイコロを振らせ、そのまま木屋町通を上がっていった。
探すのは白い影。しかし目につくものはハズレばかり。交通標識、店の看板、はためくのぼり。観光案内、大きな石碑、勝手口の扉……。あれでもない、これでもないと首を振り走るうちに、気付けば繁華街を抜けていた。電灯の数は減り、色が分からなくなってくる。明暗のギャップに耐えかねて、視界に無意味なノイズが混じり始める。視神経の鈍りに苛立ち、目をこすりかけた、そのとき。
ひときわ白く輝く影が、視線の端で右に消えた。
気のせいかと思うほどの一瞬だったけれど、もう迷っている暇は無い。……二条通だ。木屋町通の突き当りを右に曲がって見えなくなったに違いない。そう断定し、私は通りを上がり切り、そして右へ振り向いた――
「にゃーん」
聞こえてきたのは、しかし、猫の鳴き声。何も知らないその子は、白い毛並みをなびかせながら、首を傾げている。
「見間違い、か……」
掴みかけたものが、掴めなくて。私は膝に手を付いた。肩が上下し、息が切れている。冷たい空気を何度も吸って、喉がピリピリと痺れている。そのくせ服の中は生ぬるく蒸していて、額には汗が浮かんでいた。アスファルトの凹凸に、汗の一滴が染み込んでいく。
「……にゃー」
こちらに向かって鳴き続ける猫。きっと私を警戒しているのだろう。こんなに焦っている人間を京都で見かけることは稀だ。汗を拭い、顔を上げ、私はその子に問いかけた。
「ねぇ、白いコートのお姉さん、見なかった?」
猫の手も借りたい、とはこのことか。
「にゃーん?」
じっとこちらを見つめる白猫。夜の暗さと電灯が、揺れる尻尾に残像を与えていた。目が離せなくなるような、幻惑の動き。青い瞳に、焦点が吸い取られる錯覚。妙な倦怠感とともに、身体を減速感が包み始めて――
――視界が一度途切れた。何のことは無い、立ち眩みだ。きっと、旧型酒を飲んだ上に急に走るなんて無茶をしたからだろう。いつの間に降ろしてしまった瞼を上げ、ふらつかないよう身体に鞭打ち、ぐいと膝を立てた。
そこにはもう、白猫の姿は無かった。
視界には、相変わらず二条通。二条大橋が鴨川にかかり、疎らな街灯が川面を照らしている。辺りは静寂、私の呼吸ばかりが聞こえ、車道に走る車は無く、歩道に歩く人は居ない。
それなのに。
――こつ、こつ、こつ。
何故、足音がするのだろう。
――かん、かん、かん。
乾いた音。金属が固いものを叩くように。
――かっ、かっ、かっ。
それはまるで、私を試す笑い声。
負けず嫌いの自分に泣かれて、私は耳を研ぎ澄ませた。気づいたのは一つの異常。足音にしては、聞こえてくる位置が高すぎたのだ。誰も見当たらないのは当然だった。目線の高さでしか探していなかったから。
顔を上げた。月が見下ろす視界に、私は確かに人影を見た。月光を反射し靡くブロンド、鴨川を吹き抜ける風にコートをはためかせ、彼女は靴を鳴らしていた。その高いヒールが叩いていたのは……何と橋の欄干。
「ちょっ、何して……!」
――こつ、こつこつ。
私の声に反応し、女性は足を速めた。一歩踏み外せば川に落ちてしまう。その危険をまるで認識していないように、その足取りは軽かった。
「あの馬鹿っ!」
細い細い、欄干の上を舞台とするように。彼女は月夜を舞っていた。
――何故だろう。彼女を止めなきゃいけないはずなのに。もう少しだけ見ていたいと思ってしまうのは――
「ねぇ降りてよ! 危ないって!」
自分に理性で訴えかけ、綱渡りしていく彼女の後を追う。地を踏みしめ走る私は彼女よりも少しだけ速く、一歩、また一歩と距離は縮まっていった。
しかし。あと少しで手が届くという寸前……その足は止まって。
「いいわ。〝降りて〟あげる」
彼女は……
……身体を川へ投げ出した。
その一瞬が加速される。時計の針が巡るように、女性の身体は傾いていく。欄干に乗っていたヒールが宙に浮く。支えるものがなくなり、自由落下が始まろうとする。最後の一歩を踏み込んだ私は、目一杯に腕を伸ばし、そして精一杯に叫んだ。
―― メリー! ――
そう、私はその名を呼んでしまった。知らないはずのその名を。初めは確かに遊びだったのに、ロールプレイにすぎなかったはずなのに。その境界は気づけば消えていた。
普段は傍にいるくせに、いつの間にどこかへいってしまう。こんなに近くにいるはずなのに、すぐにでも消えてしまう気がする。その存在の希薄さを、儚さを、危うさを、私は……。
空振る腕。
止まる呼吸。
がむしゃらに握った手に、爪が深く喰い込んだ。
「っ……!」
欄干から乗り出し、見下ろした川面。さざ波に揺れる月。そこへ落ちて行ったのは……勢いのままに脱げてしまった、私の山高帽だけで。
私は肩を、軽く叩かれた気がした。
「私は名前を教えた覚えはないのだけれど」
直感に反し、声が聞こえたのは背後から。体を起こし、振り返れば、ドレスを膨らませて軽々と降り立つ女性の姿があった。
「……冗談、でしょ?」
「貴方は本気なの?」
そうして靴音はまた響き出す。
「冗談じゃないわ……」
――いつもと違う彼女。もう一つの彼女の姿。その腕を掴むことができれば、私はもっと強く、もっと確かに、彼女の存在を実感することができるかもしれない。そう、思ったから――
二条大橋を渡り切り、川端通を下る。車道から琵琶湖疎水を隔てた歩道、人二人が通れるかどうかの細い道に、彼女のコートが目一杯に広がっていた。あれだけ動きにくそうで、すぐにでも追いつけそうなのに、何故か届かないこの距離。ちらりと後ろを振り返った彼女は、また何かを企むように笑った。
立ち止まり、左手の柵を見定める女性。その高さは人の身長ほどもあるだろう。だというのに……彼女は柵の上へひょいと飛び上がってしまった。柵は歩道と疎水を隔てる安全柵で、その先は疎水の激流である。だが……私が本当に驚いたのはその後のことだ。
「……嘘でしょ?」
柵の上で、彼女はバネを蓄えるように屈んでいて。次の瞬間――
「……嘘じゃないわ」
――跳んだ。
全身を目一杯伸ばし、美しく撓んだ身体を月の光が撫でていく。音を立て、吹き上がる水飛沫が宙の彼女を包んでいく。川底の暗闇は深く、彼女の身体を飲み込んでしまう気がする。けれど私は柵を握り、その姿を息を飲んで見守ることしかできなくて……。
否、違う。私は見惚れていた。その美しさに息を飲んだんだ。恐怖に人が惹かれるように。危うさが美しさに化けるように。私は彼女に倒錯の嗜好を弄ばれていた。怖くて見ていられないのに、その姿を見ていたいと思う、この倒錯が罪でなくて何なのだろう。
疎水の幅は約三メートル、普通に考えて届く訳がない。だがそれにも勝るくらい、彼女は普通ではなかった。怖くなって目を瞑った一瞬のうちに、事は全て済んでいて。引き延ばされた感覚が元に戻ったとき、彼女は対岸の柵にしがみついていた。
「ふふっ」
腋を閉め、振り返って笑う彼女。足が水に浸かりかけ、手を滑らせれば急流に飲み込まれてしまう。そんな中、なおも無邪気に笑う彼女を見て。その瞳に映されて。
私は胸が破けそうだった。
彼女は再び柵を乗り越えた。その先は車道、行き交う車の間をすり抜け、クラクションを鳴らされながら、女性は仁王門通りに消えていった。小さくなっていく背中を眺めながら、見失ってしまうと分かっていながら、それでも私は諦められなかった。
私は未だ、彼女のことを知らない。
知っているつもりでいて、何も知らなかった。
誰にも打ち明けていない秘密を、彼女は抱えている。
私はそれを、未だ暴けずにいる。
秘密を前にして、私の足が止まるはずがなかった。
もっと、君を知りたい。
君を、教えてほしい。
だから――
* * *
月が西に傾きかけた頃。
私は彼女の手を取った。
「……ガッチャ」
閉じかけていた、彼女の目が少しだけ開く。
「どうして……」
少しだけ、驚くように。
「どうして、ここが分かったの?」
「……観察と推論、かな」
彼女の逃げ方には規則があった。角を曲がるのは私に見られているときだけで、見られていない間はずっと真っすぐに進む。単純だけれど、最も効率よく逃げられる方法だ。……その規則に気づかれさえしなければ。
仁王門通と神宮道の交差点、平安神宮の大鳥居の近くに彼女は居た。慶流橋の欄干に腰かけ、一人俯く彼女に、私は肩を並べた。細い脚が、疎水の堀へ下ろされている。水面で鯉が尾を返し、波紋が静かに広がっていった。
「貴方が……初めてよ」
その声は喜んでいるようでいて、寂しがるようでもあった。
「捕まえられたら、どうするつもりだったの?」
少しの間、考え込むように。静寂の中、長い睫毛をたたえた瞼が閉じられた。
「それは、貴方が決めることだわ」
言葉はきっぱりとしていて。突き放すように乾いていて。
でも私には……彼女は「分からない」と言っているように見えた。
バーで隣り合ったときと違って、彼女の目には迷いがあった。あの時感じた、積極的な自信というものが、今はもう感じられなかった。私が言葉を紡がなければ、彼女はいつまでもそうしている気がした。
「ねぇ、メリー。……覚えてる?」
だから私は、自分から口を開いた。堀に沿って植わった、桜の枝を眺めながら。
「入学式の日に、貴方はこの場所に立っていた。もうすぐ式が始まるっていうのに、会場のみやこめっせに向かおうともしないで、ただじっと桜を眺めて」
その年の桜は早くて、散った花弁が水面を揺蕩っていたのを覚えている。
「遅刻しそうで焦っていた私は、けれど、貴方の姿を目にしてふと立ち止まったの。途端に分からなくなったわ。自分は何を焦っているんだろう、そんなに急いで何処へ行くっていうんだろう、桜はこんなにも美しいのに――」
隣を振り向き、過去の情景が重なる。
「――貴方はこんなに美しいのに、って」
片手では足りなかった。両手で包むように、私は彼女の手を取った。透き通った見た目とは裏腹に、その手はとても暖かく。寒空の下、その温もりを、私だけが知っていた。
……けれど。
「ごめんなさい」
下ろしていた膝を、抱えるように蹲り。
「覚えて、ないの」
振り返った彼女は、涙を流していて。
「私は……メリーじゃないから」
頬を伝う涙の筋と、彼女の笑みが、矛盾するように交錯していた。
「……あのさ」
肩を掴み、彼女の身体を押し倒す。もう、我慢の限界だった。
「何が貴方を、そこまでさせているの」
彼女が見つめる先、私の背後、大鳥居すら超えて遥か。
「その涙で、何を隠すの?」
ばさりと広がったブロンドへ、次々と涙は落ちていく。
「そうまでして、自分を演じることに、どんな意味があるって言うのよ!」
聞いた彼女の焦点が戻る。視線が重なり、互いが互いを映し合う。無気力だった手が持ち上がり、彼女は私の頬に触れた。
「貴方は私に、恋するべきではなかった」
きゅう、と。胸が締め付けられる。
「どうして!」
「私は……鏡だから」
青い瞳には、琥珀色の月が輝いている。
「本当の彼女は、貴方の中には見つからない」
「何よ、それ……」
「これは、幻だから」
「……違う」
「貴方が見ている幻」
「違う」
「ここに居る私は……幻」
「違う!!」
叫ぶ勢いのままに、私は彼女のドレスを握っていた。
「幻なんて言わせない! 貴方はここに居る。私と共にここに居る……!」
項垂れ、その胸にうずまり、暗く柔らかい視界の中で。聞こえてきたのは短い呼吸と、早鐘のような心臓の音。それは走ってきたばかりの、私のよりも速くて。
「ねぇ、メリー」
どきりとする、彼女の反応も、これだけ近いのなら分かってしまう。
「私はもっと貴方を知りたい。貴方のこと、教えてよ。秘密ばかりなんて……ずるいよ……」
訴えた、これが私の、精一杯だった。
「貴方はここに居るって、私が、確かめてあげる。だから……」
その言葉は……しかし。今の彼女には届かない。
「言ったでしょう。どうするかは、貴方が決めればいい」
「そう、じゃないの。貴方と、向き合わなくちゃいけないの! 面と向かって……心と、心で……!」
伝えたい想いはすり抜けていく。掴みたい心は零れていく。彼女は冷たく、横顔を見せ、視線を逸らしてしまった。
「好きな夢を、見ればいい」
「っ……」
夜風が疎水を吹き抜ける。視界の中で、私のおさげが、彼女のブロンドが、別々に揺れていた。
「私はしたいようにしただけ。だから貴方も……好きなようにすればいいわ」
そう告げる彼女の瞳に、もう生気はなく。
腕を掴んだ私は、彼女を岡崎の街へ連れ出した。
* * *
月の沈みかけた夜更け。シーツを纏い、眠る宇佐見蓮子。その傍らに、一つの影が座っていた。
宇佐見蓮子の耳元に、影がゆっくりと手を伸ばす。結ばれたおさげに指がかかり、リボンがするりと解かれてしまう。はだけたドレスをかたにかけ、立ち上がった影は、まるでそれが自然のことであるかのように、窓を開けて足をかけた。
窓枠に立つのは女性。愛宕山にかかりはじめた月の光が、彼女の姿を部屋の壁に映し出している。その影、人間の女性を象った影には、しかし。
二本の長い尾が、揺れていた。
「私は貴方に、恋するべきではなかった」
さやと風が吹き、ばさりと布がはためいて。
そこに女性の姿は、もう、無かった。
* * *
満月の夜に。鴨川の土手を駆ける、少女の影が二つ。
「メリーが言っていることが、本当かどうか。確かめるなら、貴方を連れて行くのが一番だわ」
「もう! どうして信じてくれませんの? わたくしはバーでナンパなんて……絶対にしませんことよ?! ひぁっ!」
彼女らの名は、秘封倶楽部。この街には、人々の未だ知らぬ神秘があるとだと知り、己の僅かな霊能を以ってそれらを暴こうと、駆け出したばかりのオカルトサークルだ。
宇佐見蓮子は、あの晩から変わっていた。
彼女の頭には、前とは違う帽子が被さっていた。失くしてしまったものの代わりに、相方に見繕ってもらったものだ。無理やり勧められて巻かれてしまった白いリボンも、今ではすっかり気に入っている。
また蓮子は、相方の本当の名が「マエリベリー・ハーン」であることを知った。あの晩のことを問いただすうち、自分が彼女の本名を知らないことに気づいたのだ。そのとき蓮子は、相方のことをよく知ろうとしていなかった自分を、ひどく恥じたようだった。
そして蓮子は、相方の瞳が琥珀色であることを知った。それが謎を解く手がかりだった。あの晩彼女が目にした女の瞳は、透き通る程に青かったのだから。
不思議を前にして、少女は最も輝く。直面し、提示された謎を暴き出そうと、少女は今日も駆けるのだ。
二条大橋をくぐり、南へ向かう二人。その背中を橋の欄干から見送る影が、一つ静かに佇んでいる。
「にゃーん」
それは一匹の白猫。
揺らす尻尾は二股。
片方に、白いリボンを結わえて。
二本の尻尾が象った、ハートマークの内側に、二人の少女の姿があって。
白猫の、青い瞳は濡れていた。
月光に照らされ、少女の影が川面を撫でる。
二つの足音が、夜空の下に響いている。
四つの瞳が見つめる先は、どこまでも、どこまでも、遠く。
――Moonlight walker――
月夜の光がある限り。
何者も、二人の歩みを妨げることはない。
※『二条の猫又』
→現代に伝わる妖怪、猫又の一種。京都の二条大橋に潜み、人に化けては人間の女を誑かすと言われている。派生して様々な性質が付加されているが、メスの猫である点が共通している。読心術に長けており、獲物が最も想いを寄せる者に化けるという言い伝えもある。
(酉京都新聞出版社「科学世紀 オカルト大辞典」より引用)
* * *
京都、三条の繁華街は夜風に吹かれ、秋を薫らせていた。人々の足取りはゆるやかで、何処を目指す様子もない。私もまた、そんな彷徨者の一人だ。
人が楽園を失ってから五千九百年が経つ。この地を四角く区切り住処を構えた彼らは、かつて自分が天使の羽を持っていたことも忘れ、碁盤の上を彷徨っているのだ。
木屋町にかかる橋を渡っていると、目の前に小さな影が現れる。白猫だった。野良にしては毛並みが整っているのは、きっと街の人々に愛されているのだろう。
「にゃーん」
挨拶してみる。猫はぴくりとこちらを向くと、咄嗟に地面を蹴った。思い付きで追いかけてみるが、猫は路地裏を巧みに駆けていき、簡単に私を振り切ってしまった。
「……フられちゃったか」
鼻から自嘲が漏れる。猫と戯れるほど、私は手持ち無沙汰なのか? あるいは話し相手を欲しているのだろうか。普段とは違う自分に戸惑いつつ、顔を上げる。視線の先には、木彫りのシックな看板が掲げられていた。
〝バー・オールドアダム〟
酒場。それは失楽園を嘆いた人々が造った偽りの楽園だ。少なくとも、私が持ち歩くこのトーラにはそう書いてある。その酒場に「アダム」を冠するとは、なかなか皮肉が効いているではないか。
ちりん、とベルが鳴っていて、気づけば店の扉を押していた。ランプの橙色が視界を覆い、たちまち表の通りから隔絶される。妖しげなコントラバスの音色と共に、漂ってきたのは酸味を持った重い香り……。珍しいが、初めてではない。一度嗅げば忘れられない匂いだ。
……この店、旧型酒を出している。
「いらっしゃい」
オーナーらしき者が裏から顔を出した。顎髭を綺麗に整えた、ダンディな男だった。
「あぁ……かんにんやで、お嬢さん。年を喰うと物忘れが酷くて……」
「あっ、いや」
言葉を詰まらせたのは、あることを思い出したからだ。忘れていたのは、きっと普段は馴染みの店にしか行かないから。そう、京都の裏路地のこうした店は、基本的に「一見さんお断り」だ。オーナーは暗に「君の顔は初めて見た」と言っているのである。
ここで何か気の利いた返しでもできたのなら、状況は変わったかもしれない。しかし生憎、私は直感で店に入ってしまった。ウィットを利かせるにも時間が足りない。
秒針が刻まれる毎に羞恥心がせり上がっていく。今手を放しかけたドアノブをもう一度引いて走り去ってしまえば……などと弱腰なことを考えてしまう。自分が情けなく思えてきた、そのとき。
「彼女は私の友人よ」
静かに透き通った声。振り向けば、カウンターの左端にブロンドの女性が佇んでいた。紫のドレスに、慎ましやかなネックレスをかけ、高いヒールを履いている。手に持つグラスには、彼女の唇のように紅いワインが注がれていた。
「これはこれは、失礼いたしました。どうぞお隣りへ」
かしこまった様子で口調を正したオーナーは、手の平で私を促した。ブロンドの女性がこちらに笑みを向け、そうして初めて、私は助け船を出されたのだと自覚した。
「あの……ありがとうございます」
椅子に腰かけ、直ぐに礼を述べたが、それを彼女はナンセンスとばかりに受け流した。友人と言ったからには、友人として振る舞ってもらわなくちゃ困る、ということなのだろうか。
「Never mind, my friend」
返ってきたのは流暢な英語。未だ目を合わせられない自分を恥じながら、彼女の横顔をこっそりと見た。深い目元、堂々とした額、すらりと伸びる鼻。ブロンドの髪に加え、瞳まで青いときた。容貌だけから判断すれば、間違いなくゲルマン系の外国人だ。初めに聞こえた日本語が自然で、すぐには気づけなかった。
女性が空のワイングラスを返し、オーナーがそれを直々に受け取る。
「What would you like?」
接客されるのも英語のようだ。一度オーダーしてる以上、初めは英語話者として振る舞っていたと見える。
「Last one for me, and…」
言って、女性は私と目を合わせた。「貴方はどうするの?」という意図だと思ったが、それは間違いだった。初めて面と向き合った私は、一瞬のうちに心の内まで覗かれた気がして……。
「Outsider for her, please」
いつの間に、私のオーダーも済んでいた。
「……え」
驚いたのは、勝手に注文を決められたからでも、それに不満だったからでもない。〝アウトサイダー〟が、私の一番の好みのカクテルだったからだ。
オーナーは小さく頷くと、てきぱきと手を動かし始めた。
「どうして……」
どうして分かったのか。と問いかけようとした口が止まる。彼女が覗き込むように私を見ていたからだ。どうしてだと思う? と言わんばかりの瞳で。そうした表情、動作の一つ一つが妖艶で、気付けば私の顔は赤くなっていた。その頬を、彼女の指が触れる寸前で這っていく。
何故、の問いに対する彼女の答えは単純だった。
「Cuz I know you」
女性は「貴方のことを知っているから」と言ったのではない。「貴方とは付き合いがあるから」と言ったのだ。
私は一度脳内をサルベージした。この違和感、気付くべき決定的なことに気づけていないもどかしさ。何かのバイアスがかかって切り捨てられた可能性が、どこかにあるはずだ。
答えは直ぐ近くにある気がした。……今、こちらを覗き込んでいる青い目だ。羞恥心で直視できなかったその瞳を、勇気を出して、今度は私の方から覗き込み返してみた。
捨てられた可能性は、その瞳の中にあった。
「こんなところで何してるの……メリー」
どんなに姿を変えていたって、向き合って見たこの瞳の美しさは忘れない。
会ったときに気づけなかったのは、普段のイメージとあまりにもかけ離れていたからだろう。大学での彼女は天性の美貌に甘んじてメイクもしない幸せ者で、防御の厚いふわふわとした服を着る、男子共がいかにも好きそうな天然美少女だ。上品な女子高に通っていたのかは分からないが、常にお嬢様言葉を話す、今では指定文化遺産ともいうべき逸材でもあり、誰にでも笑顔で接し明るさと癒しを振り撒く、少女漫画もびっくりの聖女を振る舞っている。要するに、今目の前で女の私をたぶらかす、めかし込んだ悪女とはまるで正反対なのだ。
だが気付いてしまえば謎は解ける。彼女が私の酒の好みを知っていたのは、一度話題にしたことがあったからだ。
それだけではない。彼女はこの空間にも、そしてこの手の会話にも慣れていた様子だ。席の位置からしても常連客の可能性がある。となると、私が隣に呼ばれた、別の可能性に思い至る。あの時私が味わった「助け船を出された」という安心感がカギだ。大学近辺の飲み屋と違って、ここは繁華街のバーであり、人間同士の難しい駆け引きも当然行われる。彼女から溢れ出す誘惑の空気も、きっと気のせいではない。だから考えてしまう。もしメリーが「彼女は私の友人よ」という言葉一つで、迷い込んだ女を隣の席に誘い込んでいたとするなら?
彼女の紅い唇が、私の疑いを確信に変える。
メリーはここで、ナンパをしていたのだ。
驚きか? 呆れか? ……否。私は「面白い」と感じた。普段のメリーは、猫を被りに被った毛玉ということになる。けれど、どちらが「本物」であるのかという問いは重要ではないように思えた。対極的な二つの性格は、しかし、対極的だからこそ釣り合いが取れて、今の今まで共存し、周りにもバレずに続いてきたのだろう。
バー、オールドアダムに偶然現れた私へ、彼女はルーティン通りに声をかけてしまった。後になって、それが私、宇佐見蓮子だと気づいた。メリーとしても後には引けなくなって、バレない方に賭けて悪女を演じ続けようとした……。概ねそんなところだろう。そして。
「Mary? Who is Mary?」
彼女はその演技を、今夜中押し通すつもりだ。
「あら? 私の勘違いかしら」
精一杯にとぼけた私を見て、メリーは笑った。内心、彼女はこのシチュエーションでロールプレイを楽しんでいるのかもしれない。私にいつかバレる、否、既にバレているかもしれないとしても、だ。そこまで理解したとき、私は急に羞恥を覚えた。
ナンパをされている。その自覚ができていなかった自分が、恥ずかしかった。恥ずかしい以上に、悔しかった。酒場で男からの絡みを警戒するのは常だけれど、女だからといって油断していい理由にはならない。その僅かな隙を、よりにもよってメリーに突かれたのだと思うと、何だか……。
……負けた気がする!
「……どうぞ」
二人の飲み物が同時に出された。お互い手に取り、グラスを重ね……オーナーの目がカウンターの下へ逸れた隙に、私はカクテルを一気に飲み干してしまった。はしたないと分かっていても、こうでもしないと気が済まなかったのだ。
――この勝負、受けて立とう。今夜の間だけ、彼女は初対面の「女性」だ。
「Excuse me?」
女性の顰蹙も御構い無しに、私は問いを返した。
「What is your name?」
「ぶふっ」
噴き出す女性。今までの分のお返しだ。慌てて口を覆う仕草が愛らしい。
「黙りに黙って、やっと放った英語がそれ?」
「何よ、やっぱり喋れるじゃない」
「どこかのお馬鹿さんのために合わせてあげてるのよ」
「Oh! Thank you very much!」
「アンタね……」
言いかけた言葉を飲み込み、彼女はグラスに口を付けた。少しばかりの沈黙。騒がしかった二人の間の空気は、バーのシックな明かりに包まれ、再び落ち着きを取り戻していった。
――ここからはユーモア無しだ。
「改めまして。私は宇佐見蓮子。……貴方は?」
聞いて、瞳だけでこちらを見る彼女の眼光は猫のようで。
「それはね……」
彼女は紅い唇に人差し指を当て、しーっ、と音を立てた。
「秘密なの? いじわる」
じらしたがるのは、まだ彼女が勝負を降りていない証だろう。
「代わりにいいこと教えてあげる」
直後、陶器のように透き通った手が私の腰に伸びた。彼女の椅子が回り、そして私の椅子が回され、私たちは向かい合った。引き付けられる瞳と瞳、その深い青。……まるで何かを乞うように。
「耳、貸して」
私の椅子に手を付き、彼女は身体を乗り出した。唇が迫り、吐息が肌を撫でる。近づくくせに、触れもしない距離感。思いがけず鼓動は高鳴り、身体が火照っていく。アルコールのせいだと思いたいけれど、くらくらとするその感覚は、口に残ったカクテルよりも甘く。
「私は貴方の秘密を知っている……」
囁く言葉。惑わすためなら、嘘を言うことも厭わない。今夜の彼女はそういう女だ。
「人に知られていい秘密は、秘密じゃないわ」
「理屈っぽいのね」
「理論物理屋ですから」
口は動いていたけれど、思考は止まっていた。彼女の肌は近くて。紡ぐ言葉は自分のことで精いっぱいで。耳にかかるこそばゆさを受け入れてしまいそうで……。
「――貴方は今、くらくらしてる」
「……なっ」
少し顔を引いた彼女と目が合う。靡くブロンド、さらさらと流れるように。
「ね? 当たり。それが貴方の……秘密」
悪戯っぽい笑顔。羞恥が私の目を背けさせた。瞼を落として、唇を噛む。
「ずるいわ」
結局、また私の方が暴かれているじゃないか。
「貴方だけ……秘密ばっかり」
「貴方が喋りすぎなのよ」
「私はもっと貴方を知りたいだけなのに」
椅子の上で、彼女の指が少しすくんだ。私が零した率直な言葉が、却って響いたのかもしれない。
「それだけ隠し事するなんて、何か訳があるんでしょう?」
身体を引き、彼女はカウンターに向き直った。ブロンドの匂いが鼻腔を抜けていく。
「……そうね」
はっきりとした横顔のシルエット、埋め込まれたような目が指す先は何処へでもなく。
「私は……怖いのかもしれない」
身体をくねらすように、女性はドレスの肩を直した。
「何を恐れているの?」
返答は遅かった。渋っているのか、迷っているのか。髪を耳にかけ、グラスを撫でる、その動作一つ一つから目が離せない。
「……現実……かな」
ぺろり、と舌を出し、彼女は紅を濡らした。その艶やかさ、熟れた果実の如く。酒で火照った彼女の笑顔には、普段は見せない柔らかさがあった。
「なら……」
一度離れた彼女の元へ、私の身体が引き寄せられていく。ブロンドの香りに再び包まれたとき、覚えたのは安心感。その距離感こそ相応しいのだと、身体が理性に訴えているようで。
きっと彼女は、残した香りで私を縛っているんだ。
「現実なんか、逃げちゃおうよ」
切り出した言葉。色のあるセリフより、私はこっちの方が得意だ。
「貴方も……来てくれるの?」
迫られてなお、誘うように。重なる視線。交わす息。二人だけに聞こえる囁き。
「えぇ、もちろん」
引き合う二つの唇。
「……私と、二人で」
青く輝く、妖しい瞳。引き込まれ、酩酊、見つめる先で、彼女の瞳が、俯く。そして、私は。
艶やかな紅に触れた。
――がりっ。
聞こえるはずのない音がして。口に染み入る液体、甘い味覚。黒い視界に満ちる疑問符。
「……残念」
少し離れたところから声は聞こえた。閉じてしまっていた瞼を開けば、青い瞳が私を窘めている。
「ここが私の楽園だから。……外に踏み出すつもりは無いわ」
齧り取ってしまった断片。口に含んだものは、果実の甘みを持っていた。
……私のカクテルに添えられていた、チェリーの一粒だ。
「いけない果実を齧った貴方は……」
チェリーのへたを指に挟んだ手が、私の膝元のトーラに触れる。
「……分かるでしょう?」
――初めに――。罪を背負ったのは私だ。
「楽園追放、ってわけね」
やはり私のトーラは正しかった。酒場というのは楽園であり、彼女にとっては現実からの逃避の象徴なのだ。どうやら私はここで退場のようだ。
……けれど。
直後、二つの唇は重なっていた。
もう瞼を下ろさない。眼前には見開かれた目、妖しい瞳の微かな震え。齧ったチェリーの欠片が、彼女の口に含まれていく。柔らかく、熱く、心地良く。名残惜しさを残しながら、私は体を起こした。
「貴方も共犯者よ」
その手を握り、私は言った。
「楽園だって、逃げてしまえばいい」
時が止まる。
彼女の舌が唇を這っていく。
私を見定めるような視線に、思わず息を飲む。
長い時間が経ち、己の言葉が反芻されて止まなくなったとき。その口は開かれた。
「……唆したのは私よ」
今までとは違う、強い意思の感じられる言葉だった。
「蛇を唆し返すなんて、いい度胸だわ」
「それ……褒めているの?」
「どうかしら」
握っていた手が解かれる。その手を上げて、彼女は人を呼んだ。
「ただ、貴方は一つ勘違いをしている」
正面を向きながら、言葉は傍らの私に告げられていた。店の人間が顔を出したところを見て、空中にペンが走る。
「貴方は私の手を引くつもりのようだけど――」
勘定の紙を持ってやってきたオーナーに、女性は言った。
「It`s her turn today」
「……えっ」
振り返ったその目はまるで私を試すように。
「――今夜は私が貴方を振り回す」
コートを羽織り歩き出す女性。
「あっ、ちょっ待っ……」
だが、すぐ追いかけることは許されなかった。
「こちらになります」
カウンターの上に提示された料金、八千九百円。彼女の一言が、今日は私の奢りなのだと決めてしまったのだ。
「どんだけ飲んでたのよ……」
カードを出し、サインを印す。と、その紙の裏に何か文字が書かれていることに気づいた。ひっくり返してみれば、それは英語の二単語だった。
――Catch me――
「捕まえて……みろ……?」
初めは意味が分からなかった。だがその筆跡が彼女のものである可能性に思い至る。振り返れば、店の扉が閉まっていくのが見えた。ちりん、と鳴る鈴の音にはっとして、急ぎ荷物を纏め、席を立つ。
「無理やと思うで」
そう告げたのはオーナー。カードを返し、諦観を含んだ笑みを私に向けながら。
「あの娘、いつも独りやかんな」
「……それって」
――誰も彼女を捕まえられなかった、ということか。
「お気遣い、ありがとうございます」
小さく頭を下げる。
「けど……」
顔を上げると、立ち眩みに似たふらつきを覚えた。旧型酒の酔いが回っている。この恍惚の記憶は、きっと私を、またこの店に誘うのだろう。
「次に私が来るときは、必ず彼女と二人です」
扉を開け、私は店を飛び出した。
* * *
夜は更けていた。月明かりが高瀬川の水面を照らし、冷えた風が肌を撫でる。木屋町通を見通した先、白いコートの彼女の姿が北へ北へと離れていく。
「あんなに遠く……」
駆け出した、夜空の下。避けて、躱して、隙間を縫うように身体を細めながら。道行く人々の歩みは一層遅く、千鳥足の酔っ払いが私の足を惑わせた。帳が降りた彷徨の街、京都の通りで息を切らして走る者など、きっと私と彼女より他には居ないのだ。すれ違う者、一人一人が物珍しそうに私たちを目で追っていた。
女性の姿は遠かった。足に自信はあったのに、二人の距離が縮まる気配はなかった。あんなに高いヒールを履いておきながら、どうしてこうも軽々と走れるのだろう。人や街路樹、時に車など、障害物を自然な流れで躱していく様子には、どこか「野生の勘」じみたものを感じた。
御池通に差し掛かる。先に信号を渡り切った彼女が、コートをはためかせ振り返る。にこりと笑った瞬間、信号が点滅し始めた。
「待っ……」
スパートをかけ、一つ目の横断歩道を渡る。だが二つ目を渡り損ねてしまった。赤信号を前に、踏み出した一歩を引っ込める。せっかちなタクシーが走り出し、数々の乗用車が過ぎていった。
それでも目を離すまいと、車道の向こうを注視する。一台、二台、三台と車が過ぎても彼女は立ち止まったまま。その焦らし方に、また溺れそうになる自分の頬をつねった。けれど大型のトラックが横切り、視界が完全に途切れた一瞬。再び対岸が見えるようになった頃には……彼女の姿は無かった。
「……嘘」
車道の中州に取り残されたまま、茫然とする。再び彼女の手を取る、そのはずの右手が空を掴む。唇を噛み振り向いた東、鴨川にかかる橋の向こう、東山から右肩を失ったオリオンが昇ろうとしている。
「二十二時……三十五分」
――今は一分一秒が惜しかった。
青に変わった。横断歩道を渡り切り、辺りを見回す。どちらに彼女は消えたのか、知る術はどこにも無いが、立ち止まっていてはもどかしさが勝る。私は主にサイコロを振らせ、そのまま木屋町通を上がっていった。
探すのは白い影。しかし目につくものはハズレばかり。交通標識、店の看板、はためくのぼり。観光案内、大きな石碑、勝手口の扉……。あれでもない、これでもないと首を振り走るうちに、気付けば繁華街を抜けていた。電灯の数は減り、色が分からなくなってくる。明暗のギャップに耐えかねて、視界に無意味なノイズが混じり始める。視神経の鈍りに苛立ち、目をこすりかけた、そのとき。
ひときわ白く輝く影が、視線の端で右に消えた。
気のせいかと思うほどの一瞬だったけれど、もう迷っている暇は無い。……二条通だ。木屋町通の突き当りを右に曲がって見えなくなったに違いない。そう断定し、私は通りを上がり切り、そして右へ振り向いた――
「にゃーん」
聞こえてきたのは、しかし、猫の鳴き声。何も知らないその子は、白い毛並みをなびかせながら、首を傾げている。
「見間違い、か……」
掴みかけたものが、掴めなくて。私は膝に手を付いた。肩が上下し、息が切れている。冷たい空気を何度も吸って、喉がピリピリと痺れている。そのくせ服の中は生ぬるく蒸していて、額には汗が浮かんでいた。アスファルトの凹凸に、汗の一滴が染み込んでいく。
「……にゃー」
こちらに向かって鳴き続ける猫。きっと私を警戒しているのだろう。こんなに焦っている人間を京都で見かけることは稀だ。汗を拭い、顔を上げ、私はその子に問いかけた。
「ねぇ、白いコートのお姉さん、見なかった?」
猫の手も借りたい、とはこのことか。
「にゃーん?」
じっとこちらを見つめる白猫。夜の暗さと電灯が、揺れる尻尾に残像を与えていた。目が離せなくなるような、幻惑の動き。青い瞳に、焦点が吸い取られる錯覚。妙な倦怠感とともに、身体を減速感が包み始めて――
――視界が一度途切れた。何のことは無い、立ち眩みだ。きっと、旧型酒を飲んだ上に急に走るなんて無茶をしたからだろう。いつの間に降ろしてしまった瞼を上げ、ふらつかないよう身体に鞭打ち、ぐいと膝を立てた。
そこにはもう、白猫の姿は無かった。
視界には、相変わらず二条通。二条大橋が鴨川にかかり、疎らな街灯が川面を照らしている。辺りは静寂、私の呼吸ばかりが聞こえ、車道に走る車は無く、歩道に歩く人は居ない。
それなのに。
――こつ、こつ、こつ。
何故、足音がするのだろう。
――かん、かん、かん。
乾いた音。金属が固いものを叩くように。
――かっ、かっ、かっ。
それはまるで、私を試す笑い声。
負けず嫌いの自分に泣かれて、私は耳を研ぎ澄ませた。気づいたのは一つの異常。足音にしては、聞こえてくる位置が高すぎたのだ。誰も見当たらないのは当然だった。目線の高さでしか探していなかったから。
顔を上げた。月が見下ろす視界に、私は確かに人影を見た。月光を反射し靡くブロンド、鴨川を吹き抜ける風にコートをはためかせ、彼女は靴を鳴らしていた。その高いヒールが叩いていたのは……何と橋の欄干。
「ちょっ、何して……!」
――こつ、こつこつ。
私の声に反応し、女性は足を速めた。一歩踏み外せば川に落ちてしまう。その危険をまるで認識していないように、その足取りは軽かった。
「あの馬鹿っ!」
細い細い、欄干の上を舞台とするように。彼女は月夜を舞っていた。
――何故だろう。彼女を止めなきゃいけないはずなのに。もう少しだけ見ていたいと思ってしまうのは――
「ねぇ降りてよ! 危ないって!」
自分に理性で訴えかけ、綱渡りしていく彼女の後を追う。地を踏みしめ走る私は彼女よりも少しだけ速く、一歩、また一歩と距離は縮まっていった。
しかし。あと少しで手が届くという寸前……その足は止まって。
「いいわ。〝降りて〟あげる」
彼女は……
……身体を川へ投げ出した。
その一瞬が加速される。時計の針が巡るように、女性の身体は傾いていく。欄干に乗っていたヒールが宙に浮く。支えるものがなくなり、自由落下が始まろうとする。最後の一歩を踏み込んだ私は、目一杯に腕を伸ばし、そして精一杯に叫んだ。
―― メリー! ――
そう、私はその名を呼んでしまった。知らないはずのその名を。初めは確かに遊びだったのに、ロールプレイにすぎなかったはずなのに。その境界は気づけば消えていた。
普段は傍にいるくせに、いつの間にどこかへいってしまう。こんなに近くにいるはずなのに、すぐにでも消えてしまう気がする。その存在の希薄さを、儚さを、危うさを、私は……。
空振る腕。
止まる呼吸。
がむしゃらに握った手に、爪が深く喰い込んだ。
「っ……!」
欄干から乗り出し、見下ろした川面。さざ波に揺れる月。そこへ落ちて行ったのは……勢いのままに脱げてしまった、私の山高帽だけで。
私は肩を、軽く叩かれた気がした。
「私は名前を教えた覚えはないのだけれど」
直感に反し、声が聞こえたのは背後から。体を起こし、振り返れば、ドレスを膨らませて軽々と降り立つ女性の姿があった。
「……冗談、でしょ?」
「貴方は本気なの?」
そうして靴音はまた響き出す。
「冗談じゃないわ……」
――いつもと違う彼女。もう一つの彼女の姿。その腕を掴むことができれば、私はもっと強く、もっと確かに、彼女の存在を実感することができるかもしれない。そう、思ったから――
二条大橋を渡り切り、川端通を下る。車道から琵琶湖疎水を隔てた歩道、人二人が通れるかどうかの細い道に、彼女のコートが目一杯に広がっていた。あれだけ動きにくそうで、すぐにでも追いつけそうなのに、何故か届かないこの距離。ちらりと後ろを振り返った彼女は、また何かを企むように笑った。
立ち止まり、左手の柵を見定める女性。その高さは人の身長ほどもあるだろう。だというのに……彼女は柵の上へひょいと飛び上がってしまった。柵は歩道と疎水を隔てる安全柵で、その先は疎水の激流である。だが……私が本当に驚いたのはその後のことだ。
「……嘘でしょ?」
柵の上で、彼女はバネを蓄えるように屈んでいて。次の瞬間――
「……嘘じゃないわ」
――跳んだ。
全身を目一杯伸ばし、美しく撓んだ身体を月の光が撫でていく。音を立て、吹き上がる水飛沫が宙の彼女を包んでいく。川底の暗闇は深く、彼女の身体を飲み込んでしまう気がする。けれど私は柵を握り、その姿を息を飲んで見守ることしかできなくて……。
否、違う。私は見惚れていた。その美しさに息を飲んだんだ。恐怖に人が惹かれるように。危うさが美しさに化けるように。私は彼女に倒錯の嗜好を弄ばれていた。怖くて見ていられないのに、その姿を見ていたいと思う、この倒錯が罪でなくて何なのだろう。
疎水の幅は約三メートル、普通に考えて届く訳がない。だがそれにも勝るくらい、彼女は普通ではなかった。怖くなって目を瞑った一瞬のうちに、事は全て済んでいて。引き延ばされた感覚が元に戻ったとき、彼女は対岸の柵にしがみついていた。
「ふふっ」
腋を閉め、振り返って笑う彼女。足が水に浸かりかけ、手を滑らせれば急流に飲み込まれてしまう。そんな中、なおも無邪気に笑う彼女を見て。その瞳に映されて。
私は胸が破けそうだった。
彼女は再び柵を乗り越えた。その先は車道、行き交う車の間をすり抜け、クラクションを鳴らされながら、女性は仁王門通りに消えていった。小さくなっていく背中を眺めながら、見失ってしまうと分かっていながら、それでも私は諦められなかった。
私は未だ、彼女のことを知らない。
知っているつもりでいて、何も知らなかった。
誰にも打ち明けていない秘密を、彼女は抱えている。
私はそれを、未だ暴けずにいる。
秘密を前にして、私の足が止まるはずがなかった。
もっと、君を知りたい。
君を、教えてほしい。
だから――
* * *
月が西に傾きかけた頃。
私は彼女の手を取った。
「……ガッチャ」
閉じかけていた、彼女の目が少しだけ開く。
「どうして……」
少しだけ、驚くように。
「どうして、ここが分かったの?」
「……観察と推論、かな」
彼女の逃げ方には規則があった。角を曲がるのは私に見られているときだけで、見られていない間はずっと真っすぐに進む。単純だけれど、最も効率よく逃げられる方法だ。……その規則に気づかれさえしなければ。
仁王門通と神宮道の交差点、平安神宮の大鳥居の近くに彼女は居た。慶流橋の欄干に腰かけ、一人俯く彼女に、私は肩を並べた。細い脚が、疎水の堀へ下ろされている。水面で鯉が尾を返し、波紋が静かに広がっていった。
「貴方が……初めてよ」
その声は喜んでいるようでいて、寂しがるようでもあった。
「捕まえられたら、どうするつもりだったの?」
少しの間、考え込むように。静寂の中、長い睫毛をたたえた瞼が閉じられた。
「それは、貴方が決めることだわ」
言葉はきっぱりとしていて。突き放すように乾いていて。
でも私には……彼女は「分からない」と言っているように見えた。
バーで隣り合ったときと違って、彼女の目には迷いがあった。あの時感じた、積極的な自信というものが、今はもう感じられなかった。私が言葉を紡がなければ、彼女はいつまでもそうしている気がした。
「ねぇ、メリー。……覚えてる?」
だから私は、自分から口を開いた。堀に沿って植わった、桜の枝を眺めながら。
「入学式の日に、貴方はこの場所に立っていた。もうすぐ式が始まるっていうのに、会場のみやこめっせに向かおうともしないで、ただじっと桜を眺めて」
その年の桜は早くて、散った花弁が水面を揺蕩っていたのを覚えている。
「遅刻しそうで焦っていた私は、けれど、貴方の姿を目にしてふと立ち止まったの。途端に分からなくなったわ。自分は何を焦っているんだろう、そんなに急いで何処へ行くっていうんだろう、桜はこんなにも美しいのに――」
隣を振り向き、過去の情景が重なる。
「――貴方はこんなに美しいのに、って」
片手では足りなかった。両手で包むように、私は彼女の手を取った。透き通った見た目とは裏腹に、その手はとても暖かく。寒空の下、その温もりを、私だけが知っていた。
……けれど。
「ごめんなさい」
下ろしていた膝を、抱えるように蹲り。
「覚えて、ないの」
振り返った彼女は、涙を流していて。
「私は……メリーじゃないから」
頬を伝う涙の筋と、彼女の笑みが、矛盾するように交錯していた。
「……あのさ」
肩を掴み、彼女の身体を押し倒す。もう、我慢の限界だった。
「何が貴方を、そこまでさせているの」
彼女が見つめる先、私の背後、大鳥居すら超えて遥か。
「その涙で、何を隠すの?」
ばさりと広がったブロンドへ、次々と涙は落ちていく。
「そうまでして、自分を演じることに、どんな意味があるって言うのよ!」
聞いた彼女の焦点が戻る。視線が重なり、互いが互いを映し合う。無気力だった手が持ち上がり、彼女は私の頬に触れた。
「貴方は私に、恋するべきではなかった」
きゅう、と。胸が締め付けられる。
「どうして!」
「私は……鏡だから」
青い瞳には、琥珀色の月が輝いている。
「本当の彼女は、貴方の中には見つからない」
「何よ、それ……」
「これは、幻だから」
「……違う」
「貴方が見ている幻」
「違う」
「ここに居る私は……幻」
「違う!!」
叫ぶ勢いのままに、私は彼女のドレスを握っていた。
「幻なんて言わせない! 貴方はここに居る。私と共にここに居る……!」
項垂れ、その胸にうずまり、暗く柔らかい視界の中で。聞こえてきたのは短い呼吸と、早鐘のような心臓の音。それは走ってきたばかりの、私のよりも速くて。
「ねぇ、メリー」
どきりとする、彼女の反応も、これだけ近いのなら分かってしまう。
「私はもっと貴方を知りたい。貴方のこと、教えてよ。秘密ばかりなんて……ずるいよ……」
訴えた、これが私の、精一杯だった。
「貴方はここに居るって、私が、確かめてあげる。だから……」
その言葉は……しかし。今の彼女には届かない。
「言ったでしょう。どうするかは、貴方が決めればいい」
「そう、じゃないの。貴方と、向き合わなくちゃいけないの! 面と向かって……心と、心で……!」
伝えたい想いはすり抜けていく。掴みたい心は零れていく。彼女は冷たく、横顔を見せ、視線を逸らしてしまった。
「好きな夢を、見ればいい」
「っ……」
夜風が疎水を吹き抜ける。視界の中で、私のおさげが、彼女のブロンドが、別々に揺れていた。
「私はしたいようにしただけ。だから貴方も……好きなようにすればいいわ」
そう告げる彼女の瞳に、もう生気はなく。
腕を掴んだ私は、彼女を岡崎の街へ連れ出した。
* * *
月の沈みかけた夜更け。シーツを纏い、眠る宇佐見蓮子。その傍らに、一つの影が座っていた。
宇佐見蓮子の耳元に、影がゆっくりと手を伸ばす。結ばれたおさげに指がかかり、リボンがするりと解かれてしまう。はだけたドレスをかたにかけ、立ち上がった影は、まるでそれが自然のことであるかのように、窓を開けて足をかけた。
窓枠に立つのは女性。愛宕山にかかりはじめた月の光が、彼女の姿を部屋の壁に映し出している。その影、人間の女性を象った影には、しかし。
二本の長い尾が、揺れていた。
「私は貴方に、恋するべきではなかった」
さやと風が吹き、ばさりと布がはためいて。
そこに女性の姿は、もう、無かった。
* * *
満月の夜に。鴨川の土手を駆ける、少女の影が二つ。
「メリーが言っていることが、本当かどうか。確かめるなら、貴方を連れて行くのが一番だわ」
「もう! どうして信じてくれませんの? わたくしはバーでナンパなんて……絶対にしませんことよ?! ひぁっ!」
彼女らの名は、秘封倶楽部。この街には、人々の未だ知らぬ神秘があるとだと知り、己の僅かな霊能を以ってそれらを暴こうと、駆け出したばかりのオカルトサークルだ。
宇佐見蓮子は、あの晩から変わっていた。
彼女の頭には、前とは違う帽子が被さっていた。失くしてしまったものの代わりに、相方に見繕ってもらったものだ。無理やり勧められて巻かれてしまった白いリボンも、今ではすっかり気に入っている。
また蓮子は、相方の本当の名が「マエリベリー・ハーン」であることを知った。あの晩のことを問いただすうち、自分が彼女の本名を知らないことに気づいたのだ。そのとき蓮子は、相方のことをよく知ろうとしていなかった自分を、ひどく恥じたようだった。
そして蓮子は、相方の瞳が琥珀色であることを知った。それが謎を解く手がかりだった。あの晩彼女が目にした女の瞳は、透き通る程に青かったのだから。
不思議を前にして、少女は最も輝く。直面し、提示された謎を暴き出そうと、少女は今日も駆けるのだ。
二条大橋をくぐり、南へ向かう二人。その背中を橋の欄干から見送る影が、一つ静かに佇んでいる。
「にゃーん」
それは一匹の白猫。
揺らす尻尾は二股。
片方に、白いリボンを結わえて。
二本の尻尾が象った、ハートマークの内側に、二人の少女の姿があって。
白猫の、青い瞳は濡れていた。
月光に照らされ、少女の影が川面を撫でる。
二つの足音が、夜空の下に響いている。
四つの瞳が見つめる先は、どこまでも、どこまでも、遠く。
――Moonlight walker――
月夜の光がある限り。
何者も、二人の歩みを妨げることはない。
※『二条の猫又』
→現代に伝わる妖怪、猫又の一種。京都の二条大橋に潜み、人に化けては人間の女を誑かすと言われている。派生して様々な性質が付加されているが、メスの猫である点が共通している。読心術に長けており、獲物が最も想いを寄せる者に化けるという言い伝えもある。
(酉京都新聞出版社「科学世紀 オカルト大辞典」より引用)
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素敵だった……とても面白かったです。
蓮子がメリーと今後もっと親しくなっていくんだろうな、という示唆もあってすき