Coolier - 新生・東方創想話

―― Catch me ――

2019/12/29 01:43:41
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 明かりは灯り、街は眠らない。ここは昼夜の境界が曖昧だから。
 京都、三条の繁華街は夜風に吹かれ、秋を薫らせていた。人々の足取りはゆるやかで、何処を目指す様子もない。私もまた、そんな彷徨者の一人だ。
 人が楽園を失ってから五千九百年が経つ。この地を四角く区切り住処を構えた彼らは、かつて自分が天使の羽を持っていたことも忘れ、碁盤の上を彷徨っているのだ。

 木屋町にかかる橋を渡っていると、目の前に小さな影が現れる。白猫だった。野良にしては毛並みが整っているのは、きっと街の人々に愛されているのだろう。

「にゃーん」

 挨拶してみる。猫はぴくりとこちらを向くと、咄嗟に地面を蹴った。思い付きで追いかけてみるが、猫は路地裏を巧みに駆けていき、簡単に私を振り切ってしまった。

「……フられちゃったか」

 鼻から自嘲が漏れる。猫と戯れるほど、私は手持ち無沙汰なのか? あるいは話し相手を欲しているのだろうか。普段とは違う自分に戸惑いつつ、顔を上げる。視線の先には、木彫りのシックな看板が掲げられていた。

  〝バー・オールドアダム〟

 酒場。それは失楽園を嘆いた人々が造った偽りの楽園だ。少なくとも、私が持ち歩くこのトーラにはそう書いてある。その酒場に「アダム」を冠するとは、なかなか皮肉が効いているではないか。
 ちりん、とベルが鳴っていて、気づけば店の扉を押していた。ランプの橙色が視界を覆い、たちまち表の通りから隔絶される。妖しげなコントラバスの音色と共に、漂ってきたのは酸味を持った重い香り……。珍しいが、初めてではない。一度嗅げば忘れられない匂いだ。
 ……この店、旧型酒を出している。

「いらっしゃい」

 オーナーらしき者が裏から顔を出した。顎髭を綺麗に整えた、ダンディな男だった。

「あぁ……かんにんやで、お嬢さん。年を喰うと物忘れが酷くて……」
「あっ、いや」

 言葉を詰まらせたのは、あることを思い出したからだ。忘れていたのは、きっと普段は馴染みの店にしか行かないから。そう、京都の裏路地のこうした店は、基本的に「一見さんお断り」だ。オーナーは暗に「君の顔は初めて見た」と言っているのである。
 ここで何か気の利いた返しでもできたのなら、状況は変わったかもしれない。しかし生憎、私は直感で店に入ってしまった。ウィットを利かせるにも時間が足りない。
 秒針が刻まれる毎に羞恥心がせり上がっていく。今手を放しかけたドアノブをもう一度引いて走り去ってしまえば……などと弱腰なことを考えてしまう。自分が情けなく思えてきた、そのとき。

「彼女は私の友人よ」

 静かに透き通った声。振り向けば、カウンターの左端にブロンドの女性が佇んでいた。紫のドレスに、慎ましやかなネックレスをかけ、高いヒールを履いている。手に持つグラスには、彼女の唇のように紅いワインが注がれていた。

「これはこれは、失礼いたしました。どうぞお隣りへ」

 かしこまった様子で口調を正したオーナーは、手の平で私を促した。ブロンドの女性がこちらに笑みを向け、そうして初めて、私は助け船を出されたのだと自覚した。

「あの……ありがとうございます」

 椅子に腰かけ、直ぐに礼を述べたが、それを彼女はナンセンスとばかりに受け流した。友人と言ったからには、友人として振る舞ってもらわなくちゃ困る、ということなのだろうか。

「Never mind, my friend」

 返ってきたのは流暢な英語。未だ目を合わせられない自分を恥じながら、彼女の横顔をこっそりと見た。深い目元、堂々とした額、すらりと伸びる鼻。ブロンドの髪に加え、瞳まで青いときた。容貌だけから判断すれば、間違いなくゲルマン系の外国人だ。初めに聞こえた日本語が自然で、すぐには気づけなかった。
 女性が空のワイングラスを返し、オーナーがそれを直々に受け取る。

「What would you like?」

 接客されるのも英語のようだ。一度オーダーしてる以上、初めは英語話者として振る舞っていたと見える。

「Last one for me, and…」

 言って、女性は私と目を合わせた。「貴方はどうするの?」という意図だと思ったが、それは間違いだった。初めて面と向き合った私は、一瞬のうちに心の内まで覗かれた気がして……。

「Outsider for her, please」

 いつの間に、私のオーダーも済んでいた。

「……え」

 驚いたのは、勝手に注文を決められたからでも、それに不満だったからでもない。〝アウトサイダー〟が、私の一番の好みのカクテルだったからだ。
 オーナーは小さく頷くと、てきぱきと手を動かし始めた。

「どうして……」

 どうして分かったのか。と問いかけようとした口が止まる。彼女が覗き込むように私を見ていたからだ。どうしてだと思う? と言わんばかりの瞳で。そうした表情、動作の一つ一つが妖艶で、気付けば私の顔は赤くなっていた。その頬を、彼女の指が触れる寸前で這っていく。
 何故、の問いに対する彼女の答えは単純だった。

「Cuz I know you」

 女性は「貴方のことを知っているから」と言ったのではない。「貴方とは付き合いがあるから」と言ったのだ。
 私は一度脳内をサルベージした。この違和感、気付くべき決定的なことに気づけていないもどかしさ。何かのバイアスがかかって切り捨てられた可能性が、どこかにあるはずだ。
 答えは直ぐ近くにある気がした。……今、こちらを覗き込んでいる青い目だ。羞恥心で直視できなかったその瞳を、勇気を出して、今度は私の方から覗き込み返してみた。

 捨てられた可能性は、その瞳の中にあった。



「こんなところで何してるの……メリー」



 どんなに姿を変えていたって、向き合って見たこの瞳の美しさは忘れない。

 会ったときに気づけなかったのは、普段のイメージとあまりにもかけ離れていたからだろう。大学での彼女は天性の美貌に甘んじてメイクもしない幸せ者で、防御の厚いふわふわとした服を着る、男子共がいかにも好きそうな天然美少女だ。上品な女子高に通っていたのかは分からないが、常にお嬢様言葉を話す、今では指定文化遺産ともいうべき逸材でもあり、誰にでも笑顔で接し明るさと癒しを振り撒く、少女漫画もびっくりの聖女を振る舞っている。要するに、今目の前で女の私をたぶらかす、めかし込んだ悪女とはまるで正反対なのだ。
 だが気付いてしまえば謎は解ける。彼女が私の酒の好みを知っていたのは、一度話題にしたことがあったからだ。
 それだけではない。彼女はこの空間にも、そしてこの手の会話にも慣れていた様子だ。席の位置からしても常連客の可能性がある。となると、私が隣に呼ばれた、別の可能性に思い至る。あの時私が味わった「助け船を出された」という安心感がカギだ。大学近辺の飲み屋と違って、ここは繁華街のバーであり、人間同士の難しい駆け引きも当然行われる。彼女から溢れ出す誘惑の空気も、きっと気のせいではない。だから考えてしまう。もしメリーが「彼女は私の友人よ」という言葉一つで、迷い込んだ女を隣の席に誘い込んでいたとするなら? 
 彼女の紅い唇が、私の疑いを確信に変える。
 メリーはここで、ナンパをしていたのだ。
 驚きか? 呆れか? ……否。私は「面白い」と感じた。普段のメリーは、猫を被りに被った毛玉ということになる。けれど、どちらが「本物」であるのかという問いは重要ではないように思えた。対極的な二つの性格は、しかし、対極的だからこそ釣り合いが取れて、今の今まで共存し、周りにもバレずに続いてきたのだろう。
 バー、オールドアダムに偶然現れた私へ、彼女はルーティン通りに声をかけてしまった。後になって、それが私、宇佐見蓮子だと気づいた。メリーとしても後には引けなくなって、バレない方に賭けて悪女を演じ続けようとした……。概ねそんなところだろう。そして。

「Mary? Who is Mary?」

 彼女はその演技を、今夜中押し通すつもりだ。

「あら? 私の勘違いかしら」

 精一杯にとぼけた私を見て、メリーは笑った。内心、彼女はこのシチュエーションでロールプレイを楽しんでいるのかもしれない。私にいつかバレる、否、既にバレているかもしれないとしても、だ。そこまで理解したとき、私は急に羞恥を覚えた。
 ナンパをされている。その自覚ができていなかった自分が、恥ずかしかった。恥ずかしい以上に、悔しかった。酒場で男からの絡みを警戒するのは常だけれど、女だからといって油断していい理由にはならない。その僅かな隙を、よりにもよってメリーに突かれたのだと思うと、何だか……。

 ……負けた気がする!

「……どうぞ」

 二人の飲み物が同時に出された。お互い手に取り、グラスを重ね……オーナーの目がカウンターの下へ逸れた隙に、私はカクテルを一気に飲み干してしまった。はしたないと分かっていても、こうでもしないと気が済まなかったのだ。
 ――この勝負、受けて立とう。今夜の間だけ、彼女は初対面の「女性」だ。

「Excuse me?」

 女性の顰蹙も御構い無しに、私は問いを返した。

「What is your name?」
「ぶふっ」

 噴き出す女性。今までの分のお返しだ。慌てて口を覆う仕草が愛らしい。

「黙りに黙って、やっと放った英語がそれ?」
「何よ、やっぱり喋れるじゃない」
「どこかのお馬鹿さんのために合わせてあげてるのよ」
「Oh! Thank you very much!」
「アンタね……」

 言いかけた言葉を飲み込み、彼女はグラスに口を付けた。少しばかりの沈黙。騒がしかった二人の間の空気は、バーのシックな明かりに包まれ、再び落ち着きを取り戻していった。
 ――ここからはユーモア無しだ。

「改めまして。私は宇佐見蓮子。……貴方は?」

 聞いて、瞳だけでこちらを見る彼女の眼光は猫のようで。

「それはね……」

 彼女は紅い唇に人差し指を当て、しーっ、と音を立てた。

「秘密なの? いじわる」

 じらしたがるのは、まだ彼女が勝負を降りていない証だろう。

「代わりにいいこと教えてあげる」

 直後、陶器のように透き通った手が私の腰に伸びた。彼女の椅子が回り、そして私の椅子が回され、私たちは向かい合った。引き付けられる瞳と瞳、その深い青。……まるで何かを乞うように。

「耳、貸して」

 私の椅子に手を付き、彼女は身体を乗り出した。唇が迫り、吐息が肌を撫でる。近づくくせに、触れもしない距離感。思いがけず鼓動は高鳴り、身体が火照っていく。アルコールのせいだと思いたいけれど、くらくらとするその感覚は、口に残ったカクテルよりも甘く。

「私は貴方の秘密を知っている……」

 囁く言葉。惑わすためなら、嘘を言うことも厭わない。今夜の彼女はそういう女だ。

「人に知られていい秘密は、秘密じゃないわ」
「理屈っぽいのね」
「理論物理屋ですから」

 口は動いていたけれど、思考は止まっていた。彼女の肌は近くて。紡ぐ言葉は自分のことで精いっぱいで。耳にかかるこそばゆさを受け入れてしまいそうで……。

「――貴方は今、くらくらしてる」
「……なっ」

 少し顔を引いた彼女と目が合う。靡くブロンド、さらさらと流れるように。

「ね? 当たり。それが貴方の……秘密」

 悪戯っぽい笑顔。羞恥が私の目を背けさせた。瞼を落として、唇を噛む。

「ずるいわ」

 結局、また私の方が暴かれているじゃないか。

「貴方だけ……秘密ばっかり」
「貴方が喋りすぎなのよ」
「私はもっと貴方を知りたいだけなのに」

 椅子の上で、彼女の指が少しすくんだ。私が零した率直な言葉が、却って響いたのかもしれない。

「それだけ隠し事するなんて、何か訳があるんでしょう?」

 身体を引き、彼女はカウンターに向き直った。ブロンドの匂いが鼻腔を抜けていく。

「……そうね」

 はっきりとした横顔のシルエット、埋め込まれたような目が指す先は何処へでもなく。

「私は……怖いのかもしれない」

 身体をくねらすように、女性はドレスの肩を直した。

「何を恐れているの?」

 返答は遅かった。渋っているのか、迷っているのか。髪を耳にかけ、グラスを撫でる、その動作一つ一つから目が離せない。

「……現実……かな」

 ぺろり、と舌を出し、彼女は紅を濡らした。その艶やかさ、熟れた果実の如く。酒で火照った彼女の笑顔には、普段は見せない柔らかさがあった。

「なら……」

 一度離れた彼女の元へ、私の身体が引き寄せられていく。ブロンドの香りに再び包まれたとき、覚えたのは安心感。その距離感こそ相応しいのだと、身体が理性に訴えているようで。
 きっと彼女は、残した香りで私を縛っているんだ。

「現実なんか、逃げちゃおうよ」

 切り出した言葉。色のあるセリフより、私はこっちの方が得意だ。

「貴方も……来てくれるの?」

 迫られてなお、誘うように。重なる視線。交わす息。二人だけに聞こえる囁き。

「えぇ、もちろん」

 引き合う二つの唇。

「……私と、二人で」

 青く輝く、妖しい瞳。引き込まれ、酩酊、見つめる先で、彼女の瞳が、俯く。そして、私は。



 艶やかな紅に触れた。





 ――がりっ。





 聞こえるはずのない音がして。口に染み入る液体、甘い味覚。黒い視界に満ちる疑問符。

「……残念」

 少し離れたところから声は聞こえた。閉じてしまっていた瞼を開けば、青い瞳が私を窘めている。

「ここが私の楽園だから。……外に踏み出すつもりは無いわ」

 齧り取ってしまった断片。口に含んだものは、果実の甘みを持っていた。
 ……私のカクテルに添えられていた、チェリーの一粒だ。

「いけない果実を齧った貴方は……」

 チェリーのへたを指に挟んだ手が、私の膝元のトーラに触れる。

「……分かるでしょう?」

 ――初めに――。罪を背負ったのは私だ。

「楽園追放、ってわけね」

 やはり私のトーラは正しかった。酒場というのは楽園であり、彼女にとっては現実からの逃避の象徴なのだ。どうやら私はここで退場のようだ。
 ……けれど。
 直後、二つの唇は重なっていた。
 もう瞼を下ろさない。眼前には見開かれた目、妖しい瞳の微かな震え。齧ったチェリーの欠片が、彼女の口に含まれていく。柔らかく、熱く、心地良く。名残惜しさを残しながら、私は体を起こした。

「貴方も共犯者よ」

 その手を握り、私は言った。



「楽園だって、逃げてしまえばいい」



 時が止まる。
 彼女の舌が唇を這っていく。
 私を見定めるような視線に、思わず息を飲む。
 長い時間が経ち、己の言葉が反芻されて止まなくなったとき。その口は開かれた。

「……唆したのは私よ」

 今までとは違う、強い意思の感じられる言葉だった。

「蛇を唆し返すなんて、いい度胸だわ」
「それ……褒めているの?」
「どうかしら」

 握っていた手が解かれる。その手を上げて、彼女は人を呼んだ。

「ただ、貴方は一つ勘違いをしている」

 正面を向きながら、言葉は傍らの私に告げられていた。店の人間が顔を出したところを見て、空中にペンが走る。

「貴方は私の手を引くつもりのようだけど――」

 勘定の紙を持ってやってきたオーナーに、女性は言った。

「It`s her turn today」
「……えっ」

 振り返ったその目はまるで私を試すように。

「――今夜は私が貴方を振り回す」

 コートを羽織り歩き出す女性。

「あっ、ちょっ待っ……」

 だが、すぐ追いかけることは許されなかった。

「こちらになります」

 カウンターの上に提示された料金、八千九百円。彼女の一言が、今日は私の奢りなのだと決めてしまったのだ。

「どんだけ飲んでたのよ……」

 カードを出し、サインを印す。と、その紙の裏に何か文字が書かれていることに気づいた。ひっくり返してみれば、それは英語の二単語だった。



   ――Catch me――



「捕まえて……みろ……?」

 初めは意味が分からなかった。だがその筆跡が彼女のものである可能性に思い至る。振り返れば、店の扉が閉まっていくのが見えた。ちりん、と鳴る鈴の音にはっとして、急ぎ荷物を纏め、席を立つ。

「無理やと思うで」

 そう告げたのはオーナー。カードを返し、諦観を含んだ笑みを私に向けながら。

「あの娘、いつも独りやかんな」
「……それって」

 ――誰も彼女を捕まえられなかった、ということか。

「お気遣い、ありがとうございます」

 小さく頭を下げる。

「けど……」

 顔を上げると、立ち眩みに似たふらつきを覚えた。旧型酒の酔いが回っている。この恍惚の記憶は、きっと私を、またこの店に誘うのだろう。



「次に私が来るときは、必ず彼女と二人です」



 扉を開け、私は店を飛び出した。













 * * *















 夜は更けていた。月明かりが高瀬川の水面を照らし、冷えた風が肌を撫でる。木屋町通を見通した先、白いコートの彼女の姿が北へ北へと離れていく。

「あんなに遠く……」

 駆け出した、夜空の下。避けて、躱して、隙間を縫うように身体を細めながら。道行く人々の歩みは一層遅く、千鳥足の酔っ払いが私の足を惑わせた。帳が降りた彷徨の街、京都の通りで息を切らして走る者など、きっと私と彼女より他には居ないのだ。すれ違う者、一人一人が物珍しそうに私たちを目で追っていた。
 女性の姿は遠かった。足に自信はあったのに、二人の距離が縮まる気配はなかった。あんなに高いヒールを履いておきながら、どうしてこうも軽々と走れるのだろう。人や街路樹、時に車など、障害物を自然な流れで躱していく様子には、どこか「野生の勘」じみたものを感じた。
 御池通に差し掛かる。先に信号を渡り切った彼女が、コートをはためかせ振り返る。にこりと笑った瞬間、信号が点滅し始めた。

「待っ……」

 スパートをかけ、一つ目の横断歩道を渡る。だが二つ目を渡り損ねてしまった。赤信号を前に、踏み出した一歩を引っ込める。せっかちなタクシーが走り出し、数々の乗用車が過ぎていった。
 それでも目を離すまいと、車道の向こうを注視する。一台、二台、三台と車が過ぎても彼女は立ち止まったまま。その焦らし方に、また溺れそうになる自分の頬をつねった。けれど大型のトラックが横切り、視界が完全に途切れた一瞬。再び対岸が見えるようになった頃には……彼女の姿は無かった。

「……嘘」

 車道の中州に取り残されたまま、茫然とする。再び彼女の手を取る、そのはずの右手が空を掴む。唇を噛み振り向いた東、鴨川にかかる橋の向こう、東山から右肩を失ったオリオンが昇ろうとしている。

「二十二時……三十五分」

 ――今は一分一秒が惜しかった。
 青に変わった。横断歩道を渡り切り、辺りを見回す。どちらに彼女は消えたのか、知る術はどこにも無いが、立ち止まっていてはもどかしさが勝る。私は主にサイコロを振らせ、そのまま木屋町通を上がっていった。
 探すのは白い影。しかし目につくものはハズレばかり。交通標識、店の看板、はためくのぼり。観光案内、大きな石碑、勝手口の扉……。あれでもない、これでもないと首を振り走るうちに、気付けば繁華街を抜けていた。電灯の数は減り、色が分からなくなってくる。明暗のギャップに耐えかねて、視界に無意味なノイズが混じり始める。視神経の鈍りに苛立ち、目をこすりかけた、そのとき。
 ひときわ白く輝く影が、視線の端で右に消えた。
 気のせいかと思うほどの一瞬だったけれど、もう迷っている暇は無い。……二条通だ。木屋町通の突き当りを右に曲がって見えなくなったに違いない。そう断定し、私は通りを上がり切り、そして右へ振り向いた――



「にゃーん」



 聞こえてきたのは、しかし、猫の鳴き声。何も知らないその子は、白い毛並みをなびかせながら、首を傾げている。

「見間違い、か……」

 掴みかけたものが、掴めなくて。私は膝に手を付いた。肩が上下し、息が切れている。冷たい空気を何度も吸って、喉がピリピリと痺れている。そのくせ服の中は生ぬるく蒸していて、額には汗が浮かんでいた。アスファルトの凹凸に、汗の一滴が染み込んでいく。 

「……にゃー」

 こちらに向かって鳴き続ける猫。きっと私を警戒しているのだろう。こんなに焦っている人間を京都で見かけることは稀だ。汗を拭い、顔を上げ、私はその子に問いかけた。

「ねぇ、白いコートのお姉さん、見なかった?」

 猫の手も借りたい、とはこのことか。

「にゃーん?」

 じっとこちらを見つめる白猫。夜の暗さと電灯が、揺れる尻尾に残像を与えていた。目が離せなくなるような、幻惑の動き。青い瞳に、焦点が吸い取られる錯覚。妙な倦怠感とともに、身体を減速感が包み始めて――

 ――視界が一度途切れた。何のことは無い、立ち眩みだ。きっと、旧型酒を飲んだ上に急に走るなんて無茶をしたからだろう。いつの間に降ろしてしまった瞼を上げ、ふらつかないよう身体に鞭打ち、ぐいと膝を立てた。
 そこにはもう、白猫の姿は無かった。
 視界には、相変わらず二条通。二条大橋が鴨川にかかり、疎らな街灯が川面を照らしている。辺りは静寂、私の呼吸ばかりが聞こえ、車道に走る車は無く、歩道に歩く人は居ない。
 それなのに。

 ――こつ、こつ、こつ。

 何故、足音がするのだろう。

 ――かん、かん、かん。

 乾いた音。金属が固いものを叩くように。

 ――かっ、かっ、かっ。

 それはまるで、私を試す笑い声。
 負けず嫌いの自分に泣かれて、私は耳を研ぎ澄ませた。気づいたのは一つの異常。足音にしては、聞こえてくる位置が高すぎたのだ。誰も見当たらないのは当然だった。目線の高さでしか探していなかったから。
 顔を上げた。月が見下ろす視界に、私は確かに人影を見た。月光を反射し靡くブロンド、鴨川を吹き抜ける風にコートをはためかせ、彼女は靴を鳴らしていた。その高いヒールが叩いていたのは……何と橋の欄干。

「ちょっ、何して……!」

 ――こつ、こつこつ。

 私の声に反応し、女性は足を速めた。一歩踏み外せば川に落ちてしまう。その危険をまるで認識していないように、その足取りは軽かった。

「あの馬鹿っ!」

 細い細い、欄干の上を舞台とするように。彼女は月夜を舞っていた。
 
 ――何故だろう。彼女を止めなきゃいけないはずなのに。もう少しだけ見ていたいと思ってしまうのは――

「ねぇ降りてよ! 危ないって!」

 自分に理性で訴えかけ、綱渡りしていく彼女の後を追う。地を踏みしめ走る私は彼女よりも少しだけ速く、一歩、また一歩と距離は縮まっていった。
 しかし。あと少しで手が届くという寸前……その足は止まって。

「いいわ。〝降りて〟あげる」

 彼女は……



 ……身体を川へ投げ出した。

 その一瞬が加速される。時計の針が巡るように、女性の身体は傾いていく。欄干に乗っていたヒールが宙に浮く。支えるものがなくなり、自由落下が始まろうとする。最後の一歩を踏み込んだ私は、目一杯に腕を伸ばし、そして精一杯に叫んだ。



   ―― メリー! ――



 そう、私はその名を呼んでしまった。知らないはずのその名を。初めは確かに遊びだったのに、ロールプレイにすぎなかったはずなのに。その境界は気づけば消えていた。
 普段は傍にいるくせに、いつの間にどこかへいってしまう。こんなに近くにいるはずなのに、すぐにでも消えてしまう気がする。その存在の希薄さを、儚さを、危うさを、私は……。

 空振る腕。
 止まる呼吸。
 がむしゃらに握った手に、爪が深く喰い込んだ。

 「っ……!」

 欄干から乗り出し、見下ろした川面。さざ波に揺れる月。そこへ落ちて行ったのは……勢いのままに脱げてしまった、私の山高帽だけで。
 私は肩を、軽く叩かれた気がした。



「私は名前を教えた覚えはないのだけれど」



 直感に反し、声が聞こえたのは背後から。体を起こし、振り返れば、ドレスを膨らませて軽々と降り立つ女性の姿があった。

「……冗談、でしょ?」
「貴方は本気なの?」

 そうして靴音はまた響き出す。

「冗談じゃないわ……」
 
 ――いつもと違う彼女。もう一つの彼女の姿。その腕を掴むことができれば、私はもっと強く、もっと確かに、彼女の存在を実感することができるかもしれない。そう、思ったから――
 
 二条大橋を渡り切り、川端通を下る。車道から琵琶湖疎水を隔てた歩道、人二人が通れるかどうかの細い道に、彼女のコートが目一杯に広がっていた。あれだけ動きにくそうで、すぐにでも追いつけそうなのに、何故か届かないこの距離。ちらりと後ろを振り返った彼女は、また何かを企むように笑った。
 立ち止まり、左手の柵を見定める女性。その高さは人の身長ほどもあるだろう。だというのに……彼女は柵の上へひょいと飛び上がってしまった。柵は歩道と疎水を隔てる安全柵で、その先は疎水の激流である。だが……私が本当に驚いたのはその後のことだ。

「……嘘でしょ?」

 柵の上で、彼女はバネを蓄えるように屈んでいて。次の瞬間――

「……嘘じゃないわ」



 ――跳んだ。



 全身を目一杯伸ばし、美しく撓んだ身体を月の光が撫でていく。音を立て、吹き上がる水飛沫が宙の彼女を包んでいく。川底の暗闇は深く、彼女の身体を飲み込んでしまう気がする。けれど私は柵を握り、その姿を息を飲んで見守ることしかできなくて……。
 否、違う。私は見惚れていた。その美しさに息を飲んだんだ。恐怖に人が惹かれるように。危うさが美しさに化けるように。私は彼女に倒錯の嗜好を弄ばれていた。怖くて見ていられないのに、その姿を見ていたいと思う、この倒錯が罪でなくて何なのだろう。
 疎水の幅は約三メートル、普通に考えて届く訳がない。だがそれにも勝るくらい、彼女は普通ではなかった。怖くなって目を瞑った一瞬のうちに、事は全て済んでいて。引き延ばされた感覚が元に戻ったとき、彼女は対岸の柵にしがみついていた。

「ふふっ」

 腋を閉め、振り返って笑う彼女。足が水に浸かりかけ、手を滑らせれば急流に飲み込まれてしまう。そんな中、なおも無邪気に笑う彼女を見て。その瞳に映されて。
 私は胸が破けそうだった。
 彼女は再び柵を乗り越えた。その先は車道、行き交う車の間をすり抜け、クラクションを鳴らされながら、女性は仁王門通りに消えていった。小さくなっていく背中を眺めながら、見失ってしまうと分かっていながら、それでも私は諦められなかった。
 私は未だ、彼女のことを知らない。
 知っているつもりでいて、何も知らなかった。
 誰にも打ち明けていない秘密を、彼女は抱えている。
 私はそれを、未だ暴けずにいる。
 秘密を前にして、私の足が止まるはずがなかった。
 もっと、君を知りたい。
 君を、教えてほしい。
 だから――















 * * *















 月が西に傾きかけた頃。

 私は彼女の手を取った。

「……ガッチャ」

 閉じかけていた、彼女の目が少しだけ開く。

「どうして……」

 少しだけ、驚くように。

「どうして、ここが分かったの?」

「……観察と推論、かな」

 彼女の逃げ方には規則があった。角を曲がるのは私に見られているときだけで、見られていない間はずっと真っすぐに進む。単純だけれど、最も効率よく逃げられる方法だ。……その規則に気づかれさえしなければ。
 仁王門通と神宮道の交差点、平安神宮の大鳥居の近くに彼女は居た。慶流橋の欄干に腰かけ、一人俯く彼女に、私は肩を並べた。細い脚が、疎水の堀へ下ろされている。水面で鯉が尾を返し、波紋が静かに広がっていった。

「貴方が……初めてよ」

 その声は喜んでいるようでいて、寂しがるようでもあった。

「捕まえられたら、どうするつもりだったの?」

 少しの間、考え込むように。静寂の中、長い睫毛をたたえた瞼が閉じられた。

「それは、貴方が決めることだわ」

 言葉はきっぱりとしていて。突き放すように乾いていて。
 でも私には……彼女は「分からない」と言っているように見えた。
 バーで隣り合ったときと違って、彼女の目には迷いがあった。あの時感じた、積極的な自信というものが、今はもう感じられなかった。私が言葉を紡がなければ、彼女はいつまでもそうしている気がした。

「ねぇ、メリー。……覚えてる?」

 だから私は、自分から口を開いた。堀に沿って植わった、桜の枝を眺めながら。

「入学式の日に、貴方はこの場所に立っていた。もうすぐ式が始まるっていうのに、会場のみやこめっせに向かおうともしないで、ただじっと桜を眺めて」

 その年の桜は早くて、散った花弁が水面を揺蕩っていたのを覚えている。

「遅刻しそうで焦っていた私は、けれど、貴方の姿を目にしてふと立ち止まったの。途端に分からなくなったわ。自分は何を焦っているんだろう、そんなに急いで何処へ行くっていうんだろう、桜はこんなにも美しいのに――」

 隣を振り向き、過去の情景が重なる。

「――貴方はこんなに美しいのに、って」

 片手では足りなかった。両手で包むように、私は彼女の手を取った。透き通った見た目とは裏腹に、その手はとても暖かく。寒空の下、その温もりを、私だけが知っていた。
 ……けれど。

「ごめんなさい」

 下ろしていた膝を、抱えるように蹲り。

「覚えて、ないの」

 振り返った彼女は、涙を流していて。

「私は……メリーじゃないから」

 頬を伝う涙の筋と、彼女の笑みが、矛盾するように交錯していた。



「……あのさ」



 肩を掴み、彼女の身体を押し倒す。もう、我慢の限界だった。

「何が貴方を、そこまでさせているの」

 彼女が見つめる先、私の背後、大鳥居すら超えて遥か。

「その涙で、何を隠すの?」

 ばさりと広がったブロンドへ、次々と涙は落ちていく。

「そうまでして、自分を演じることに、どんな意味があるって言うのよ!」

 聞いた彼女の焦点が戻る。視線が重なり、互いが互いを映し合う。無気力だった手が持ち上がり、彼女は私の頬に触れた。



「貴方は私に、恋するべきではなかった」



 きゅう、と。胸が締め付けられる。

「どうして!」
「私は……鏡だから」

 青い瞳には、琥珀色の月が輝いている。

「本当の彼女は、貴方の中には見つからない」
「何よ、それ……」
「これは、幻だから」
「……違う」
「貴方が見ている幻」
「違う」
「ここに居る私は……幻」
「違う!!」

 叫ぶ勢いのままに、私は彼女のドレスを握っていた。



「幻なんて言わせない! 貴方はここに居る。私と共にここに居る……!」



 項垂れ、その胸にうずまり、暗く柔らかい視界の中で。聞こえてきたのは短い呼吸と、早鐘のような心臓の音。それは走ってきたばかりの、私のよりも速くて。

「ねぇ、メリー」

 どきりとする、彼女の反応も、これだけ近いのなら分かってしまう。

「私はもっと貴方を知りたい。貴方のこと、教えてよ。秘密ばかりなんて……ずるいよ……」

 訴えた、これが私の、精一杯だった。

「貴方はここに居るって、私が、確かめてあげる。だから……」

 その言葉は……しかし。今の彼女には届かない。

「言ったでしょう。どうするかは、貴方が決めればいい」
「そう、じゃないの。貴方と、向き合わなくちゃいけないの! 面と向かって……心と、心で……!」

 伝えたい想いはすり抜けていく。掴みたい心は零れていく。彼女は冷たく、横顔を見せ、視線を逸らしてしまった。

「好きな夢を、見ればいい」
「っ……」

 夜風が疎水を吹き抜ける。視界の中で、私のおさげが、彼女のブロンドが、別々に揺れていた。

「私はしたいようにしただけ。だから貴方も……好きなようにすればいいわ」

 そう告げる彼女の瞳に、もう生気はなく。
 








 腕を掴んだ私は、彼女を岡崎の街へ連れ出した。

























 * * *

























 月の沈みかけた夜更け。シーツを纏い、眠る宇佐見蓮子。その傍らに、一つの影が座っていた。
 宇佐見蓮子の耳元に、影がゆっくりと手を伸ばす。結ばれたおさげに指がかかり、リボンがするりと解かれてしまう。はだけたドレスをかたにかけ、立ち上がった影は、まるでそれが自然のことであるかのように、窓を開けて足をかけた。
 窓枠に立つのは女性。愛宕山にかかりはじめた月の光が、彼女の姿を部屋の壁に映し出している。その影、人間の女性を象った影には、しかし。
 
 二本の長い尾が、揺れていた。

「私は貴方に、恋するべきではなかった」

 さやと風が吹き、ばさりと布がはためいて。
 そこに女性の姿は、もう、無かった。






















 * * *




























 満月の夜に。鴨川の土手を駆ける、少女の影が二つ。

「メリーが言っていることが、本当かどうか。確かめるなら、貴方を連れて行くのが一番だわ」
「もう! どうして信じてくれませんの? わたくしはバーでナンパなんて……絶対にしませんことよ?! ひぁっ!」

 彼女らの名は、秘封倶楽部。この街には、人々の未だ知らぬ神秘があるとだと知り、己の僅かな霊能を以ってそれらを暴こうと、駆け出したばかりのオカルトサークルだ。

 宇佐見蓮子は、あの晩から変わっていた。
 彼女の頭には、前とは違う帽子が被さっていた。失くしてしまったものの代わりに、相方に見繕ってもらったものだ。無理やり勧められて巻かれてしまった白いリボンも、今ではすっかり気に入っている。
 また蓮子は、相方の本当の名が「マエリベリー・ハーン」であることを知った。あの晩のことを問いただすうち、自分が彼女の本名を知らないことに気づいたのだ。そのとき蓮子は、相方のことをよく知ろうとしていなかった自分を、ひどく恥じたようだった。
 そして蓮子は、相方の瞳が琥珀色であることを知った。それが謎を解く手がかりだった。あの晩彼女が目にした女の瞳は、透き通る程に青かったのだから。

 不思議を前にして、少女は最も輝く。直面し、提示された謎を暴き出そうと、少女は今日も駆けるのだ。
  










 二条大橋をくぐり、南へ向かう二人。その背中を橋の欄干から見送る影が、一つ静かに佇んでいる。

「にゃーん」

 それは一匹の白猫。
 揺らす尻尾は二股。
 片方に、白いリボンを結わえて。
 二本の尻尾が象った、ハートマークの内側に、二人の少女の姿があって。
 白猫の、青い瞳は濡れていた。














 月光に照らされ、少女の影が川面を撫でる。
 二つの足音が、夜空の下に響いている。
 四つの瞳が見つめる先は、どこまでも、どこまでも、遠く。

 ――Moonlight walker――

 月夜の光がある限り。
 何者も、二人の歩みを妨げることはない。

















































































※『二条の猫又』
→現代に伝わる妖怪、猫又の一種。京都の二条大橋に潜み、人に化けては人間の女を誑かすと言われている。派生して様々な性質が付加されているが、メスの猫である点が共通している。読心術に長けており、獲物が最も想いを寄せる者に化けるという言い伝えもある。 
          (酉京都新聞出版社「科学世紀 オカルト大辞典」より引用)





























































 * * *
―― A.B.C-Z  ”Moonlight walker” に敬意を込めて――
作詞: 松井五郎
作曲: 馬飼野康二
そひか
[email protected]
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
雰囲気が好みでした
3.100ヘンプ削除
追いかけていく蓮子と、逃げていく女のシーンが印象的でした。
素敵だった……とても面白かったです。
7.80名前が無い程度の能力削除
妖艶な雰囲気がまさに妖という感じでよかったです
蓮子がメリーと今後もっと親しくなっていくんだろうな、という示唆もあってすき
8.100終身削除
夜の街の綺麗な感じとかもそうだったんですけど酒場のおじさんの対応の蓮子への接し方だったり色々なスポットだったり京都情緒いっぱいで雰囲気が完成されていて凄いなと思いました 夜の街を右に左にと翻弄されている蓮子と謎の女との駆け引きに最後まで引き込まれました