Coolier - 新生・東方創想話

霊樹の海で踊って

2019/12/28 18:06:16
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 魔法の森の中で見慣れぬ巨木を目にしたのは、ある晩夏の昼下りのことだった。
 人間の里から森への帰路についていた成美は、道中で奇妙な魔力の流れる気配を感じた。自然に生じるにしてはどこか引っかかりのある、肌の表層を柔らかく刺激してくる感触。魔の香りには人一倍敏感な成美にとって、それは無視して通り過ぎるには少しばかり不可思議な鋭さを伴っていた。
 ——誘われている?
 考えすぎだろうか。しかしながら、気になるのも確かだった。
 年中高湿な魔法の森は、夏の終わりでも未だ蒸し暑い。その木々の奥から、唄うように冷ややかな心地よい風が緩やかに流れてくるのがわかった。見知った道を外れて、獣にすら踏み固められていない道無き道を進む。額に浮かぶ汗を拭いながら、背の高い植物の隙間をくぐり抜けていくと、やがて視界が開けた場所に出た。
 はじめに、透き通った水の匂いがした。
 ついで、水の音がした。
「わっ」
 一歩足を踏み出したところで、べちゃりと草履の底がぬかるみに沈む音が辺りに浸透する。柔らかな泥の波が足裏を襲ってくるのがわかった。
 よく観察してみると、背の低い有象無象の植物にまぎれて、この辺り一帯だけ桶の水を大量にひっくり返したかのように水浸しになっていた。およそ一反以上の広さはあるように思えた。時既に遅し、足袋の大半は既にその水分を吸い始めており、広がる浅瀬は彼女をさらに水底へ引き込まんと手招きしているようでもあった。でも、悪い心地はしなかった。浅瀬は程よく冷たくて、足裏に蟠った熱を静かに逃してくれた。
 しかし、どういうことだろう。元々この辺りに水源などなかったはずだし、くるぶし程度の水位とはいえ、これだけの水量を保有できるくらいの大雨が最近降ったという記憶もない。
 しゃがみ込んで、足元の水を両手のひらでひと掬いしてみる。透明でひんやりとした清水であるが、水自体には特別魔力の気配は感じられなかった。だとすると、この水を湧出させている何かが本命だろうか。
 成美は立ち上がってきょろきょろと周囲を見渡す。まるでここだけぽっかりとくり抜いたように開けた空間。一方で、周りを囲む背の高い木々の枝葉が空を覆うように伸びていて、陽の光はまばらにしか落ちてこない。そのため、昼間でもどこか薄暗い。この森はどこもそうだから、別に珍しいことでもないけれど。黒い水面の上に斑点模様を描く木漏れ日以外は、穏やかな風景だった。
 陰に染まった水面を波立たせて進むたび、足元からじゃぽじゃぽと清涼感溢れる音が鳴り響く。それがなんだか新鮮で、わざとらしく音を立てながら歩いていたら膝下までぐっしょりと濡れてしまった。含んだ水の重さの分だけ疲労が溜まっていく心地がする。動きに連動して、水面や水中で小さな苔や藻類が気ままに泳いでいる。魚などの水中生物が生息している様子はなかった。
 奥に進むにつれ、魔力の匂いが濃くなる。薄暗い視界に目を凝らすと、少し先、先客がいるのが見えた。
「——魔理沙」
「よう」黒白の魔法使いは軽く地団駄を踏むように足を動かす。「楽しそうだな」
「余計なお世話」
 見られていたらしい。何となくばつが悪くなって、自然と笠の縁に手が伸びる。
「よくここがわかったな」
「そりゃあ、あれだけ魔力が漏れてきていれば……」そこで気付いて、顔を上げる。「その言い方……これ、魔理沙がやったの?」
「そうかもしれないし違うかもしれない」
「なによそれ」
 成美が追及する前に、魔理沙は「見ろよ」と視線を上げた。誘われるがままに視線の先を見やる。
 それは、首が痛むくらいに上体をのけ反らせても先が見えないくらい、ひときわ背の高い大樹であった。広葉樹だろうか。太い幹からさらにねじ曲がるようにして分岐しており、豊富に茂らせた深緑を揺らしている。樹皮のところどころに刻まれている傷やひび割れが年季の長さを体現しているようだった。かといってそれに驕ることなく、荘厳な佇まいをしている。何より、間違いようもなく、ずっと肌で感じていた魔力はこの巨木から漏れ出ているということを、成美は確信できた。
「大きいけれど……こんな木、前からあった?」
「さあな」魔理沙はまたはぐらかした。「霊験あらたかそうだろ?」
「注連縄でも巻いてあげればそう見えるかもね」
 もっとも、魔法の森にある時点で参拝客など望めそうにもないから、考えるだけ無駄な話だ。この地に好んで根を下ろす変わり者は、人妖問わずそう多くない。
「どうなってるのかしら、これ……」成美はそっと巨木の樹皮を撫でる。「木から水が湧いているの?」
「一見する限りは、まあ、そうだな」
「何か知ってるんでしょう」
「わかったよ、白状するよ」詰め寄った成美に魔理沙は苦笑して両手を上げた。「——パチュリーに作ってもらったんだ。〈海の記憶を閉じ込めた珠〉を。海って知ってるか?」
「そりゃあ、知識だけなら……見たことはないけど」
 幻想郷に海はない。魔法の森で生命を宿した成美にとって、それはどこか遠い異国の話のように実感の伴わない用語だった。
「私もだ。月に行ったときにも見たが、どうやらあれは本当の海じゃないらしい。外の世界の海では、魚とか甲殻類とかの生き物がうじゃうじゃいるらしいぜ」
「それで——」成美は首を傾げる。「その、記憶の珠のせいで、この水が湧いているの?」
「平たく言えばな。菫子の話だと、外の世界では夏には海に行くやつが多いらしい。だから、パチュリーに海の製作を依頼したら、擬似的なものでいいならと試作してくれた。こういう分野は得意だからな、あいつ」
「へぇ……いつか会ってみたいわ」
「いつでも会えるよ。引きこもりだから」 
 湖の畔の館に住む魔女は、たしか、精霊魔法を自在に操るのだと聞いた。成美の得意分野は生命操作に関するものだから、同じ魔法使いとしては純粋に興味が湧く。
「なんでも、外の世界の海に関する資料書をもとに作ったらしい」
 魔理沙は記憶を辿るように額へ指先を当てる。
「なんだったかな……書物として形になった本にも意思が存在していて、そこに少しの自律を促すようにしてやると記憶の一部が取り出せる、みたいなことを言ってた気がする」
「そんなことができるのね」成美は素直に驚いた。「どうしてこの木を選んだの?」
「いろいろと条件があったんだ。自然物であるだとか、元々ある程度の魔力を保持しているとか、源として一定以上の水分を含んでいるだとか……」魔理沙は面倒くさそうに首を振った。「細かい経緯は忘れたが、それでこの大樹にしたんだ。——何より、森の中にあったが方が家から近いからな」
 魔理沙らしい理由だなと成美は思った。ふと目線を下げると、彼女は履物を脱いで白い素足を水中に浸していた。倣うようにして、溶けるくらいに水を蓄えた草履と足袋を脇に放ってゆっくりと足首の辺りまで沈める。ひんやりと素肌を包む感触が存外に心地よく、思わず小さく息を吐いた。
「じゃあ、その珠は今この木の中にあるんだ」
 成美は幹の表面に手のひらを当て、その奥に秘められた魔力の鼓動に意識を向けた。
「ああ。けど、期待外れだったかも」魔理沙は頭の後ろで手を組みながら大樹を見上げる。「これじゃあ、海ってより、ただの水溜りだ」
「いいじゃない、涼も取れるし気持ちよくて」成美は水面から顔を出して歪曲している大樹の根の一端に腰を下ろす。「森の中はまだ暑いわ」
「この森にこれ以上の加湿も必要ないけどな……水遊びくらいにしか使えん」
「きっとそういうものよ、海って」成美は少しだけ考えて言った。「外の世界の人間だって、きっと海で水遊び以上のことなんてしないわ。わざわざ夏にだけ行くんだから」
 でも、なぜ夏だけなのだろう。以前に香霖堂で菫子に聞いた話だと、外の世界の人間達は一つの機械で冷暖房を制御できるくらいの高度な技術を持っているらしい。確か《えあこん》とかいう代物だ。だったら冬でも楽しめる熱高き華やかな出し物くらい作れそうなものだけど、難しいのだろうか。
「パチュリーの話だと、持ってひと月程度らしい。といっても結局はただの水だから大したこともできないが、自由に使っていいぜ」
 魔理沙は幹をたんたんと叩いて偉そうに笑う。敷地も水も巨木もどれ一つ魔理沙のものではないので、別に彼女の許可など最初から必要ない。
 まあ、道中の休憩がてら涼むくらいにはちょうどいいかな、と成美はぼんやり思った。




 その日は、既に空気もからりと澄み始め秋口へ片足を踏み入れた季節が、何かの気の迷いで回れ右をしたというくらいに不思議と暑い日だった。
 日が頂点へ昇り切る刻限までは我慢して家の中で過ごしていたが、それも辛抱ならなくなり、読書にすらまともに手がつかなくなった。そこで、ふと思い出した小さな海の大樹の記憶に惹かれて成美は再びあの浅瀬へ足を運んだ。
 先日と変わらず浅瀬は静かなものだった。時折通り抜ける風が水面を爽やかに揺らす程度で、よく晴れていることもあり葉と木漏れ日の描くコントラストがくっきりと景色に浮かんでいる。
 件の巨木はまるで誰かを忠実に待ち続けているように寡黙に佇んでいた。浅瀬の面積は以前と比較して少し縮まったようだったが、裸足になって熱を取るには十分すぎるくらいの広さがあった。目を凝らして水中に何かいないか観察してみたが、藻類だったり急な水溜りの出現に対応できなかった茸類だったりが身を任せて泳いでいるくらいだった。
 風に呼応して葉が穏やかに囁く声と浅瀬の冷涼な肌触りに、思わず目を瞑ってしまうくらいの心地よさを覚える。空気が澄んでいる、と感じる。水気が多いせいで草木や茸類の胞子が飛散していないからかもしれない。
 木の根に腰を下ろして大樹を見上げると、まるで幹が天高くどこまでも続いていくような錯覚に襲われた。この巨木のてっぺんまで昇り切って世界を見渡せば、それこそ本当の海というものが容易に見られるのではないかと思うくらいだった。
 片手で水を掬って一口含んでみる。特に変わったところも見られない真水だった。外界の海の水は塩辛いものだと聞いたが、どうもこの小さき浅海はそこまで再現できないらしい。無から有は生み出せないということだろうか。当事者から仕組みの説明を受けたわけでもないので、それ以上深くは考えないことにする。
 ふと、成美はこの大樹へ何か畏敬の念に近いものを示したいという衝動に駆られた。
 立ち上がり、小振りな巾着袋の中から数枚硬貨を取り出して、大樹の根元の水面に投げる。とぽんとぽんと小気味良い音が鳴ったのを確認して、成美は神前でそうするように目を閉じて手を合わせた。
 本来拝まれる側である地蔵が手を合わせるなんていうのも、考えてみると可笑しい話ではある。ただ、礼拝側に立ってみて、今まで成美の前で手を合わせてくれた彼らの気持ちを少し理解できたような気がした。
 去り際、振り返って改めて大樹を眺める。
 自分以外に手を合わせる者がもっと増えればもしかすれば何かしらの意思を持つようになるかもしれない、と成美は考える。ただ、それにひと月は短すぎる。
 少しでも長くこの幼き海が生き長らえることができればいい、と思った。




 中秋のある日、里での買い物を終えて空を見ると、鈍色の分厚い雲が低く広がっているのが目に入った。
 これは降られるかなと思い早足で通りを抜けたが、果たして森に入ってすぐにぽつりぽつりと雨粒が笠に零れ落ちてくる音が頭上から響いてきた。幸い視界の歪むような土砂降りというわけでもなかったので、件の大樹の下へ寄り道することにした。
 浅海は今では当初の半分以下にまで縮小していた。葉や梢から垂れ落ちてくる雫が薄黒い水面に幾度も細波を打って幾何模様を作り上げている風景を、成美はただぼんやりと眺めていた。その律動はしばらく眺めて続けていても不思議と飽きることがなかった。秋の肌寒い霖雨の中では浅瀬の水温は足先に少しばかり堪えたが、構わずに成美は大樹の根元まで歩み寄った。
 雨粒が笠や水面で跳ねる音が耳の奥を弾く中、成美は、あと半月もすれば目の前の光景が失われることについて行き場のない寂寞感を覚えている自分がいることに気付いた。それは奇妙な感覚だった。人工的に顕現したこの幼き海が、また普段の森の風景に戻るだけだ。自然発生したものではない。だというのに、単なるその事象に対して喪失感を覚えるというのは、何だか過度に感傷的になりすぎているようにも感じられた。
 成美は里で購入した饅頭の一つを木の幹の窪みにそっと置いた。彼女はこれまで特に強い理由がなくともこの場に足繁く通い、そのたびに手を合わせ、気分によっては賽銭のつもりで数枚硬貨を投げ沈めた。食べ物のお供えをしたのは今回が初めてだった。きっと虫か、はたまた匂いを嗅ぎつけた妖精にでも盗み食いされるのがせいぜいだろうというのは、自身の地蔵としての経験から火を見るより明らかなことではあった。
 これだけ頻繁に足を運んだ上に手を合わせる小事を理由なくこなしているのは間違いなく自分だけだろう、と成美は思う。魔理沙は早々に飽きたのか姿を見なくなったし、たまに妖精や力の弱い妖怪が迷い込んで遊んでいる程度だった。
 一度だけアリスと鉢合わせたが、そのときにも手を合わせていたら「天狗に撮られたら滑稽味たっぷりに誇張された記事を書かれそうね」と揶揄された。もしそうなれば地蔵さえも手を合わせる霊樹として幻想郷の名所になりそうだと返したら、「あなたって変なところで楽天的よね」と指摘されたので、むしろそっちに傷ついた。
 半ば習慣のように手を合わせて目を閉じる。そういえば、これだけ赴いて拝んでいながら自分が何一つ信心深い祈りを捧げていなかったことに成美は気付いた。しかし、この巨木に何か大層な由来があるわけでもない。成美が勝手に始めたことだからだ。
 過去を思い返すと、道すがら立ち止まって手を合わせる人々の多くは、意外とただ無心で拝んでくれていたような気もする。もしくは日頃の感謝くらいだろうか。即物的で無理難題な願い事する者も少なからずいたけれど。
 魔理沙からの伝聞ではありつつも、紅の館の魔女曰く、珠には海の記憶なるものが込められているという。その記憶は誰のものだろうか。人間か、魚か、もしくは海自身か。
 悠久を流れ往く広大な海の夢。それはきっと心地よい微睡みのようだと成美は想像する。
 ——あなたがそんな素敵な夢を泳いでいたらいいな。
 しばらくの間、止む気配のない秋雨の中で、成美は目を瞑っていた。




 寒い日が続いていた。薪で火を熾さなければ厳しい季節が遠からず迫っているのを肌で感じていた。いつの間にか、厚手のコートを羽織らなければいけないくらいに、森を抜ける風は冷たくなっていた。
 成美は魔理沙に声を掛けて、半ば強制的に大樹の下へと連れ出した。何かの魔法の実験中だったのか、こんな肌寒い日に大層な用もなく外出すれば風邪を引いてしまうだとかの言い訳めいた文句を垂れつつも、彼女はマフラーを首に引っ掛けて大人しくついてきた。
 成美は、魔理沙が大樹の様態について既に意識を向けていないことに内心ため息をついたが、一方でそれは独りよがりな感情だということも理解していた。でもせめて、最後くらい、事を始めた者に立ち会ってほしいと思った。だから無理にでも引っ張ってきた。
 大樹の水はもう疑いようもなく干上がっていた。昨日までは根元の表土をほんの僅かに湿らせていた水分も気化し、森林の景色はひと月前までの姿を取り戻そうとしていた。彼らは幾日前までこの場に存在した浅海を忘れ、来たる極寒に備えんと慌てて冬支度に取り掛かり始めていた。
「そうか。もうそんなに経ったんだな」
「あなたが与えたんでしょう」
 魔理沙の思い出したような言い様に、成美はぶっきらぼうに返した。
「いや、悪かったよ」魔理沙はきまり悪そうに後ろ髪を撫でた。「お前がさ、随分面倒見が良かったから」
「言い訳しないでよ」
「ほんとさ。最初は研究材料に使おうと思ってたんだ。ああいう場は意図的に作らないとなかなかできないからな」
 足元に散らばった硬貨に気付いた魔理沙がそのうちの一枚を拾い上げて「お前のか?」と聞いてくる。食べ物はやはり妖精にでも盗られているのかすぐになくなるが、沈めた硬貨は土を被りながらも残っていた。
「いいのよ、それは。そのままで」
「そのうち誰かに盗られるぞ」
「地蔵の前で賽銭泥棒なんていい度胸ね」
「どっかの貧乏巫女は気にせず持っていきそうだけどな」魔理沙は愉快そうに微笑んだ。「お地蔵さんなら、ご進物として海を捧げたんだから小銭数枚の拝借くらい許してほしいもんだ」
「魔理沙……笠地蔵のこと何もわかってないよ、それ」
 成美の呆れたため息を気に留めた様子もなく、魔理沙は硬貨を親指で弾き、巨木の根元の辺りに戻した。見上げると、幹から伸びる枝に茂る葉には秋の色が見え隠れし始めていた。落葉することがあれば、足元に広がる硬貨はきっと次の春まで、いやもしかしたら半永久的に地表から姿を消すことになるだろう。
 成美は、ここひと月の間の海の記憶を思い返していた。
 地蔵として道端に佇みながら、数多の風景と、季節と、始まりと、終わりをその目で見てきた。
 形あるモノはいつか必ず喪われる。違いといえばその存在の長さくらいのもので、この海はそれが少し自分達の生にとっては短かったという比較に過ぎないのだ、と彼女は思う。
 それでも、以前までそこに在ったはずの何かが気づけば消失している事実に自覚的になるとき、逃れ難い無常さに少なからず胸を突かれる自分がいることも、成美自身、理解はしていた。不思議な話だと思う。魔法使いとして生命を得た今でも、その条理には為されるがままであった。
 指先で、朽葉色のざらついた幹の表面に触れる。そのまま根元まで静かになぞっていく。根の方に近づくにつれ、幹は分岐し、歪曲し、地中へと姿を消す。ここに小さき海があった。たとえ何もなくとも、それだけは間違いのないことだった。
 成美は空いている方の手で笠の縁を下げる。
 ゆっくりと目を瞑った。
 かつてここに広がっていた凪の海の景色を想像した。
 秋風が枝葉を揺らす音が遠のいていく。魔理沙の通りの良い声もぼやけていく。
 すべての音が消えていくように錯覚した。
 ——いや、錯覚ではなかった。
 はじめに、水の匂いがした。ついで、水の音。
 こぽこぽと、まるで水中へ深く沈みゆく音。
 成美は、静かに目を見開いた。 
「——」
 驚いて、声も出なかった。
 辺り一面の、水。仄暗い水の中を、成美は仰向けの状態で漂っていた。
 まるで夜の闇のようにどこまでも延伸する広大な水の中で、視線の先、はるか遠くに映る水面と思しき辺りにはインクを零したような白い光がゆらゆらと滲んでいた。
 息苦しくもない。冷たくもない。現実感のない浮遊の感覚の中で、成美は不思議と冷静だった。
 川に落ちたのだろうか、と深い理由なく推測する。いや、川しては深すぎるし、流れも全く感じられない。過去に全く経験したことのない空間だった。
 ふと、何か黒いものが目の前を一瞬横切った。
 そこでようやく、成美は周囲の景色に意識を向けた。虚ろな視界の中でようやく好奇心のようなものが胸の内に宿るのを自覚した。
 振り返って、息を呑んだ。
 数多の名も知らぬ膨大な魚の大群が、成美のいるこの広大な水中を優雅に泳いでいる。見たこともないヒレや尾、色合いを持った魚、魚。
 群れを成して美しく整列して泳ぐ者、一方で一人気ままに駆け回る大きな者。
 大小様々な生き物が、何にも囚われず、この光源の少ない滑らかな揺り籠の中で、自由に存在し、生きている。
 彼らは何か見えざる意思に従うようにある一箇所へ集まり、その周りを気ままに泳いでいた。
 それはあの大樹だった。暗き闇に包まれて見えない水底から、成美の漂っている水深すら越えて、白く眩しい水面の先まで果てしなく大樹が伸びていた。そこでようやく、成美は理解した。
 これは記憶だ。大樹の見る、どこか遠い海の記憶の夢。
(そうか……これが、海なんだ……)
 魚の群れは、大樹に寄り添うようにして泳いでいる。繁茂する枝葉の中に身を潜めてみたり、太い幹の周囲をくるくると回ってみたり。それが夢幻に想起する愛しき待ち合わせ場所でもあるかのように、彼らは大樹を中心として、青い海を謳歌する。
 透明な静謐に満たされた大海で、成美は自然と頬が緩むのを理解する。よかった、と思う。よかったね。
(ありがとう……私に海を見せてくれて)
 呼応するように、成美の身体が大樹へと引き寄せられた。受け入れてくれたのだと理解して、微笑んで手を差し出すと、大樹は承知したとばかりに彼女の手を引いて誘ってくる。
 霊樹の海の中で、成美は踊った。霊樹と、魚たちと、海とともに。
 海をかいても抵抗はなく、その無限の自由度を抱いて成美は海を跳ねる。弾けた泡沫が白色の雲となり、群青の空に溶けて寝転ぶように、海の記憶の夢を堪能する。
 成美は霊樹と一体だった。網膜に映る景色と肌の表面に触れた海の息を二人は共有していた。内側から外側まで、全身で、この青に潜む生命の息吹を知覚していた。一切に縛られず幻想の空を舞う楽園の巫女を真似るように、境界が曖昧に溶け合う中で、彼女は識別された具象物のすべてと一つになっていた。
 その無限の海の中を、思考を閉じて漂流する。
 もはや、自意識が自身の意思の所在すら認識できなくなるくらい揺らぐまで、いつまでも、彼女は踊った。




 その後、成美があの大樹のもとへ通うことはなくなった。大樹は森の一部へ還り、以前と変わらぬ原風景を取り戻した。
 成美が海を泳いだあの日、魔理沙は何も見なかったと言っていた。つまりあれは、霊樹が成美だけに見せてくれたひと時の夢だった。
 成美は、その夢のことを誰にも話さないでおこうと思った。宝物を胸の内だけに留めておきたいという俗っぽい理由もあったが、単に、話してもうまく伝わらないだろうと考えたからだ。あの大海で霊樹とともに踊ったあの夢の出来事を言葉だけで説明できる自信はないし、意味もないと彼女は結論づけた。それに、夢というものは、元来そういうものだろう、とも思う。
 桑田変じて滄海と成るという。あの霊樹は今でも海の記憶の中で泳いでいるのかもしれないけれど、いつの日か、この幻想郷が幻想郷ですらなくなるくらいの月日が流れた後、本当にここが海となる日が来るかもしれない。そのときにもう成美はいないだろうけれど、そこで、夢と同じように踊る自分の姿を想像してみる。それこそ夢の話だ、と可笑しい気持ちになる。
 でも、なんだかそれは、これ以上ないくらいに楽しい夢想だった。
拝まれる側のお地蔵様がなにかに手を合わせているという絵面はどことなく面白そうだなと思った次第です。
香霖堂での成美がとても好みだったのもあって好きなキャラなので、折を見ていつかまた別の話も書いてみたいものです。
依志田
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コメント



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1.90奇声を発する程度の能力削除
良い雰囲気でした
2.100ヘンプ削除
成美が霊樹に寄り添うこと、霊樹と魚と踊るところ……とても素敵でした。
最後に感じたおかしいような楽しい夢想はいつか叶うのでしょうか。
3.100サク_ウマ削除
神秘的で素敵だなあと感じます。良かったです。
4.90名前が無い程度の能力削除
森の一画に秘密の場所、っていう雰囲気がいいですね
最後に一瞬だけでも霊樹は信仰を得て、神様になったのかな
地蔵なのに世界観が成美とよく合っていてとても面白かったです
6.100名前が無い程度の能力削除
とても映像的でキャラクターの一動作が頭に浮かぶ スラスラと読める文章でした
物語も神秘的で美しい
7.100名前が無い程度の能力削除
綺麗な情景が目に浮かぶようでした
8.100南条削除
面白かったです
神秘的な情景が目に浮かびました
9.100終身削除
景色そのものも神秘的で魅力がいっぱいだったと思うんですけそれが文章を通して成美の感動と一緒によく伝わってきて素敵だと思いました 成美の見た光景も消えないでどこかに残っていると思うと傘子地蔵みたいな恩返しにロマンがあって良いなと思いました