吹く風が肌を刺す。思わずコートの襟を立ててしまう。ビル風というやつだろうか。
隣で歩いているメリーは特に寒さを気にしている様子は無かった。
「寒くないの?」
「蓮子が寒がりすぎるだけよ。今からそんなんじゃ冬が思いやられるわ」
返事の代わりに私は大袈裟にため息をついた。これよりまだ上の寒さがあると思うとうんざりした。
目線が足元のタイルを模様をなぞる。寒いと首元から空気が入らないように俯きがちになってしまう。
ふと私はその目を足元から空へと向けた。
「……」
足元を見て歩いているときに空を仰ぐと、空の広さにハッとさせられる。
もちろん空が広いのは当たり前なのだが、足元ばかり見て歩いているとそんなことは意識に入ってこない。空が広いことに気づくと進路だとか人間関係だとかのしがらみが小さいことに思えてきて、何だか清々しい気分になるのだ。これは私がよくやる気分転換の方法でもあった。
今日はこれまた気分の良くなる、雲ひとつない青い秋空だった。
「秋空って何か良いわよね。空が高く感じるっていうかさ……」
「蓮子は詩人ねぇ」
「知らなかったの?」
私ことマエリベリー・ハーンは非常に暗い気分になっていた。
ことの発端は一緒に講義を取っている知り合いの一言に遡る。どういう話の流れかは忘れたが、彼女はこう口にした。
『宇佐見さんってちょっと変わってるよね』
口汚い侮辱の言葉というわけではない。ひょっとしたらだが個性的で魅力的だよね、という好意的な解釈もできるかもしれない。
実際には彼女の意地悪く目を細める表情からも、明確に侮蔑のニュアンスを含んでいたことがわかった。
マエリベリーさんはよくあんな変人と一緒にいられるよね、と明らかに面白がっている様子だった。
自分は決して情に厚いタイプではないと思う。ただ友達を馬鹿にされるというのは想像以上に腹が立つもので、一瞬で頭に血が上った。
しかし私も生まれて十余年人間社会に生きてきただけあってその場でつかみかかるようなことはしなかった。
むしろ私は次のように言った。
『そうかもね』
私は苦笑いしながらそう答えたのだ。
彼女の発言を肯定することは無かったが、否定することもしなかった。別に彼女のことを元々嫌ってたということもなかったので、今の友人関係(講義以外で顔を合わせるほどの仲では無いが)を保とうとしたのだ。
否定するべきだったと思う。
私の親友を馬鹿にしたな、と胸ぐらに掴みかかるべきだったと言うわけではない。実際蓮子は側から見たら変わり者と言えば変わり者だと思うし。
ただ「話してみれば案外普通だよ」とやんわり否定するくらいしても良かった思う。
要約すると私は友達を馬鹿にされたにも関わらず、咄嗟に自らの保身に走った自分に苛立っている。
最低だ。私はこんなしょうもない人間だったのかと自己嫌悪でむしゃくしゃする。
気に病むほどのことでは無いかもしれない。
誰しもこのくらいの体験はいくらでもあるだろう。
蓮子に話したら「何くだらないことで落ち込んでんのよ」と呆れられるだろう。もっとも当の本人に話して赦されて楽になろうだなんてみっともない真似はできないが。
気にしなければ良いのかもしれないが、私の思考は講義が終わってからぐるぐると同じところを回っていた。
「寒くないの?」
隣を歩く蓮子の声で、私の意識は思考の沼から引き上げられた。
「蓮子が寒がりすぎるだけよ。今からそんなんじゃ冬が思いやられるわ」
私の発言に対する抗議のつもりなのか、蓮子が大袈裟にため息をつく。
とっさに蓮子を寒がり呼ばわりしてしまったが、この時期にしては寒すぎるのは確かだった。
「秋空って何か良いわよね。空が高く感じるっていうかさ……」
彼女は空を仰いでそう言った。私もつられて空を見上げるがそうは思えなかった。
むしろ雲が一つもないせいで奥行きが感じられずのっぺりとして見える。今見ている空は偽物で、あれは青く塗りたくられた天蓋なんだ、と説明されたら附に落ちてしうような空だ。
蓮子は何だか随分機嫌が良いようだ。いや、彼女は普段からこんな感じだったかもしれない。思ったことがそのまま口に出るタイプだ。
一方の私とはいうと、思ったことをそのまま言えないタイプだった。
私の見た目と名前はことこの日本においては浮きやすく、だからこそ私は周囲に迎合する処世術を身につけていた。
感情も顔に出づらい。子供の頃、38度強の熱を出したにも関わらず、普通に登校して帰ってきてからようやく気づかれたということがあったほどだ。
多分私は嘘をつくのがまあまあ上手い方なのだろう。そう、私は建前ばかりだ。
また思考が先ほど蓮子の陰口に迎合したことに戻って来てイライラしてきた。
「蓮子は詩人ねぇ」
苛立ちは声色に出さないよう、努めて明るく私はそう言った。
我ながらひどいと思うが、私はしまいには蓮子にすら苛立ちを覚え始めていた。私が蓮子のことで思い悩んでいるのに、当の本人がこうも明るいと何か理不尽な気分になってくる。
こっちの気も知らないで。そんなとんでもなく身勝手なことを考えてしまった。
「知らなかったの?」
蓮子はからからと笑ってそう言う。
私は「まったくもう」と平静の自分であれば返すであろうリアクションを口にした。
勝手に私が気分を悪くしてるだけだ。いくら気分の切り替えが下手糞な私でも一晩寝れ流石に忘れるだろう。
それよりも蓮子にあたって喧嘩するようなことがあれば本末転倒だ。
私がそんなことを考えていたら、いつの間にか蓮子は自動販売機の前で立ち止まっていた。
珍しいな、と思う。蓮子は吝嗇家というか貧乏苦学生でもあるので、あまり自販機で飲み物を買ったり買い食いをしない。
ガコン、と音がして飲み物が落ちてくる。
「ほい」
自販機から取り出したそれを、蓮子が私に向かって放り投げた。
「あつっ」
何とか両手でそれをキャッチした。
おしるこだった。熱かったので袖を伸ばして私はおしるこの缶を抱えた。
蓮子はもう一つ自分の分も買ったらしく、カシュ、とお汁粉の缶を開けて飲み始めた。
「珍しいわね。どういう風の吹き回しかしら」
蓮子が何かを奢るというのは珍しかった。
お勘定のときも末尾1円単位までこだわるような彼女が奢ってくれるなど、槍でも降るんじゃないだろうか。
「いや、さっきから疲れてるっていうか、元気無さそうだったし。こういうときは糖分摂るのが一番かなって」
「えっ……」
驚きだった。
彼女に悟られているとは思いもよらなかった。いつも通りの自分と何か違うことを言ったりしたりしただろうか。
「……そんな風に見えたかしら。ひょっとして私顔色悪い?」
「いや別に。何でとか言われると困るけど……こんだけ毎日顔つき合わせてたら何となくわかるでしょ」
蓮子はそう言って屈託無く微笑んだ。
その笑顔を見ていたら、さっきまでの厭な気分はどこかに言ってしまった。私は調子を良くして、揶揄うように言った。
「蓮子はもっと察しが悪いと思ってたんだけどなぁ」
「失敬な……まあメリーに会う前の私だったらそうかもね」
蓮子はおしるこを一気に飲み干した。
「日々私も変わってるってことよ」
彼女は空になったおしるこの缶をゴミ箱へと放った。缶は惜しくもゴミ箱の縁に弾かれ地面へ落ちてコロコロ転がる
私はそれを拾ってやってゴミ箱に入れてあげた。
隣で歩いているメリーは特に寒さを気にしている様子は無かった。
「寒くないの?」
「蓮子が寒がりすぎるだけよ。今からそんなんじゃ冬が思いやられるわ」
返事の代わりに私は大袈裟にため息をついた。これよりまだ上の寒さがあると思うとうんざりした。
目線が足元のタイルを模様をなぞる。寒いと首元から空気が入らないように俯きがちになってしまう。
ふと私はその目を足元から空へと向けた。
「……」
足元を見て歩いているときに空を仰ぐと、空の広さにハッとさせられる。
もちろん空が広いのは当たり前なのだが、足元ばかり見て歩いているとそんなことは意識に入ってこない。空が広いことに気づくと進路だとか人間関係だとかのしがらみが小さいことに思えてきて、何だか清々しい気分になるのだ。これは私がよくやる気分転換の方法でもあった。
今日はこれまた気分の良くなる、雲ひとつない青い秋空だった。
「秋空って何か良いわよね。空が高く感じるっていうかさ……」
「蓮子は詩人ねぇ」
「知らなかったの?」
私ことマエリベリー・ハーンは非常に暗い気分になっていた。
ことの発端は一緒に講義を取っている知り合いの一言に遡る。どういう話の流れかは忘れたが、彼女はこう口にした。
『宇佐見さんってちょっと変わってるよね』
口汚い侮辱の言葉というわけではない。ひょっとしたらだが個性的で魅力的だよね、という好意的な解釈もできるかもしれない。
実際には彼女の意地悪く目を細める表情からも、明確に侮蔑のニュアンスを含んでいたことがわかった。
マエリベリーさんはよくあんな変人と一緒にいられるよね、と明らかに面白がっている様子だった。
自分は決して情に厚いタイプではないと思う。ただ友達を馬鹿にされるというのは想像以上に腹が立つもので、一瞬で頭に血が上った。
しかし私も生まれて十余年人間社会に生きてきただけあってその場でつかみかかるようなことはしなかった。
むしろ私は次のように言った。
『そうかもね』
私は苦笑いしながらそう答えたのだ。
彼女の発言を肯定することは無かったが、否定することもしなかった。別に彼女のことを元々嫌ってたということもなかったので、今の友人関係(講義以外で顔を合わせるほどの仲では無いが)を保とうとしたのだ。
否定するべきだったと思う。
私の親友を馬鹿にしたな、と胸ぐらに掴みかかるべきだったと言うわけではない。実際蓮子は側から見たら変わり者と言えば変わり者だと思うし。
ただ「話してみれば案外普通だよ」とやんわり否定するくらいしても良かった思う。
要約すると私は友達を馬鹿にされたにも関わらず、咄嗟に自らの保身に走った自分に苛立っている。
最低だ。私はこんなしょうもない人間だったのかと自己嫌悪でむしゃくしゃする。
気に病むほどのことでは無いかもしれない。
誰しもこのくらいの体験はいくらでもあるだろう。
蓮子に話したら「何くだらないことで落ち込んでんのよ」と呆れられるだろう。もっとも当の本人に話して赦されて楽になろうだなんてみっともない真似はできないが。
気にしなければ良いのかもしれないが、私の思考は講義が終わってからぐるぐると同じところを回っていた。
「寒くないの?」
隣を歩く蓮子の声で、私の意識は思考の沼から引き上げられた。
「蓮子が寒がりすぎるだけよ。今からそんなんじゃ冬が思いやられるわ」
私の発言に対する抗議のつもりなのか、蓮子が大袈裟にため息をつく。
とっさに蓮子を寒がり呼ばわりしてしまったが、この時期にしては寒すぎるのは確かだった。
「秋空って何か良いわよね。空が高く感じるっていうかさ……」
彼女は空を仰いでそう言った。私もつられて空を見上げるがそうは思えなかった。
むしろ雲が一つもないせいで奥行きが感じられずのっぺりとして見える。今見ている空は偽物で、あれは青く塗りたくられた天蓋なんだ、と説明されたら附に落ちてしうような空だ。
蓮子は何だか随分機嫌が良いようだ。いや、彼女は普段からこんな感じだったかもしれない。思ったことがそのまま口に出るタイプだ。
一方の私とはいうと、思ったことをそのまま言えないタイプだった。
私の見た目と名前はことこの日本においては浮きやすく、だからこそ私は周囲に迎合する処世術を身につけていた。
感情も顔に出づらい。子供の頃、38度強の熱を出したにも関わらず、普通に登校して帰ってきてからようやく気づかれたということがあったほどだ。
多分私は嘘をつくのがまあまあ上手い方なのだろう。そう、私は建前ばかりだ。
また思考が先ほど蓮子の陰口に迎合したことに戻って来てイライラしてきた。
「蓮子は詩人ねぇ」
苛立ちは声色に出さないよう、努めて明るく私はそう言った。
我ながらひどいと思うが、私はしまいには蓮子にすら苛立ちを覚え始めていた。私が蓮子のことで思い悩んでいるのに、当の本人がこうも明るいと何か理不尽な気分になってくる。
こっちの気も知らないで。そんなとんでもなく身勝手なことを考えてしまった。
「知らなかったの?」
蓮子はからからと笑ってそう言う。
私は「まったくもう」と平静の自分であれば返すであろうリアクションを口にした。
勝手に私が気分を悪くしてるだけだ。いくら気分の切り替えが下手糞な私でも一晩寝れ流石に忘れるだろう。
それよりも蓮子にあたって喧嘩するようなことがあれば本末転倒だ。
私がそんなことを考えていたら、いつの間にか蓮子は自動販売機の前で立ち止まっていた。
珍しいな、と思う。蓮子は吝嗇家というか貧乏苦学生でもあるので、あまり自販機で飲み物を買ったり買い食いをしない。
ガコン、と音がして飲み物が落ちてくる。
「ほい」
自販機から取り出したそれを、蓮子が私に向かって放り投げた。
「あつっ」
何とか両手でそれをキャッチした。
おしるこだった。熱かったので袖を伸ばして私はおしるこの缶を抱えた。
蓮子はもう一つ自分の分も買ったらしく、カシュ、とお汁粉の缶を開けて飲み始めた。
「珍しいわね。どういう風の吹き回しかしら」
蓮子が何かを奢るというのは珍しかった。
お勘定のときも末尾1円単位までこだわるような彼女が奢ってくれるなど、槍でも降るんじゃないだろうか。
「いや、さっきから疲れてるっていうか、元気無さそうだったし。こういうときは糖分摂るのが一番かなって」
「えっ……」
驚きだった。
彼女に悟られているとは思いもよらなかった。いつも通りの自分と何か違うことを言ったりしたりしただろうか。
「……そんな風に見えたかしら。ひょっとして私顔色悪い?」
「いや別に。何でとか言われると困るけど……こんだけ毎日顔つき合わせてたら何となくわかるでしょ」
蓮子はそう言って屈託無く微笑んだ。
その笑顔を見ていたら、さっきまでの厭な気分はどこかに言ってしまった。私は調子を良くして、揶揄うように言った。
「蓮子はもっと察しが悪いと思ってたんだけどなぁ」
「失敬な……まあメリーに会う前の私だったらそうかもね」
蓮子はおしるこを一気に飲み干した。
「日々私も変わってるってことよ」
彼女は空になったおしるこの缶をゴミ箱へと放った。缶は惜しくもゴミ箱の縁に弾かれ地面へ落ちてコロコロ転がる
私はそれを拾ってやってゴミ箱に入れてあげた。
からっと晴れた秋の日の空気が感じられてよかったです
メリーの取りつくろいがなまなましい
爽やかというか、とても共感できるところがいいですね。
良かったです
やっぱりこの二人はいいコンビなのだと思いました
オチがすごくよかったです