鈴仙・優曇華院・イナバはいつもの時刻に目が覚めた。これは精密機械のように常に正確で長い年月をえて強制的に設定されたものであり、どのような夢の世界を彷徨い歩いていても強制的に意識が浮遊し覚醒した。部屋の中はひんやりとした空気で満たされており、僅かな温もりを求める余りどうにも蒲団から出難い季節である。眠気で頭に靄が充満している鈴仙は足を延ばして、霧散した夢の欠片を集めるように湯たんぽのありかを探り始める。そして踵が目的の固いものを捉える。しかしそれは当然のことながら既に機能しておらず、その効果は鈴仙に少しの侘しさを与えるのみであった。そして湯たんぽの固く冷たい感触が戦場に倒れたまま置き去りにしてきた友と重なりかけて……。そこで鈴仙の眠気は吹き飛び、頭の中が鋭い刃物のように冴えわたっていく。いつも通りの天井が見える。次は自身の体に纏わりつく眠気を追っ払ってやろうと両足を上にあげ、さながらばね仕掛けの蛇のごとく勢いよく体を起こした。微妙な浮遊感が体の中にまだ残っている。部屋の冷気が全身に突き刺さる。もう一度蒲団に戻りたいという欲望に抗いながらも鈴仙は顔を洗いに洗面台へと向かっていく。師走の早朝である。
鏡の前に立つ。鏡は姿を映してくれるが内面までは見通せない。しかし、鈴仙は鏡を怖がっていた。自分で自分を見ることを極度に恐れていたのだった。これは鈴仙が信仰している蓬莱山輝夜という宗教に起因している。そしてその根底には弾丸飛び交う戦場から帰ってきた際にオートマチックに発現した数ある鈴仙の自己防衛術の、一つの川が流れていた。元々軍のエリートで自尊心が強かった鈴仙は地上に逃亡した際に自身の心の檻に囚われていた。そしてその暗い檻が放つ冷たい反射光によって鈴仙は世界に対して憎しみを覚えたのだ。どうして私が死んでも世界は存在し続けている? どうして私が寝ていても世界は存在し続けている? そして長い年月をえて鈴仙は、輝夜が世界を認識しているからこそ世界が存在し続けているという一つの結論を作り出し、それが直接崇拝へと繋がった。永遠を生きる輝夜の存在がこの飛躍した仮説を鈴仙の中で強固なものとしたのだ。私が存在しているのは姫様が私を認識してくださるから! 世界が存在しているのは姫様のお陰!日に日にそれは確信そして狂信と変貌していった。今、鈴仙を辛うじてこの世に繋ぎとめていたのは輝夜という存在のみだったのである。そしてその宗教は自身が自身を認識することさえ許さなかったのだ。ただそれが、何の変哲もない光の反射であってさえ。
鈴仙は鏡に恐々と近づくと手ぬぐいをさっと掛けて一気に顔を洗った。霧が晴れてくようだ。しかしそこで何やらちぐはぐさを鈴仙は覚えた。入口が絶えず変化する迷路に迷い込んだような。そしてその違和感の正体は何故か鏡を見れば明らかになるような気がした。鈴仙は磁石に引き寄せられるように手ぬぐいに手を伸ばす。しかしそれを拒絶するように手が震えだす。足が震えだす。そこで鈴仙は諦め、今度は違和感を頭の中で無理やり追い出そうと試みる。
「別にいつもと変わらないじゃない、鈴仙・優曇華院・イナバ。何をそんなに怯えているの?」
言葉にして口に出してみることでその形容しがたい感覚が凡庸なものと成り、正体不明の違和感が無制限に生み出し続けていた不快の影は多少薄まった。髪の手入れは輝夜にいつもお願いしていたので鈴仙は朝食の用意の為にと、今度は台所へと向かう。今日の朝食担当は鈴仙だった。
「いただきます」
四人はいつものように食事を始める。いつもと変わらない風景の筈だった。しかし鈴仙は再び心をかき乱されていた。奇妙な違和感がぼうっと鈴仙の精神の表面に現れる。しかし一体何がいつもと違うのだろう。姫様はいつも通りに今日も美しく優雅に滑らかな手つきで食事をしている。お師匠様はいつも通り一切迷いがないような自信に溢れた食事の仕方。そしててゐはいつも通り幸せそうだ。鈴仙の心は得体のしれない恐怖の沼に沈みつつあった。何だろう。何か作り物を眺めているような……。私の心ともう一つ別の心が浮かび上がってこの風景を冷静に眺めているような……。でも姫様を上から見下ろすなんて私には……。恐ろしい、恐ろしい……。
「イナバ、大丈夫?」
思考の下降を輝夜の一閃が遮った。見ると輝夜が心配そうに鈴仙の顔をのぞき込んでいる。ああ、やはり姫様だ! 鈴仙は崇拝の念が自身の中で渦巻いているのを再び感じ取った。輝夜の方に鈴仙は急いで目を向けると輝夜は既に手元の味噌汁に目を落としている。永琳とてゐは不安そうに鈴仙を見つめているがその視線には気づかない。過度の崇拝は現実をひた隠しにし、盲目と同居する。
「それでね、ウドンゲ。昨日も話したと思うけど、私たちちょっと用事があってね、今日一日留守番を頼みたいのよ」
永琳は恍惚に打ちひしがれている鈴仙に向かって口を開いた。鈴仙は氷水を掛けられたような気分になる。
「え、そんなの初耳ですよ」
「しっかりしてよ。とにかく頼んだわ」
「え、ちょっと……」
行き先を訪ねようとしたその時である。突如として眠気が鈴仙を襲った。それは逆らうことのできない自然災害のようであった。そして景色が水彩画のようになり、その後どろどろと溶けだしていく。瞼が重い、開きたくない……。世界がぐるりんと回転し、そしてそのまま鈴仙は机に突っ伏した。味噌汁の器が傾き倒れ、鈴仙の顔を濡らしていく。暖かくて気持ちいい……。最後に見た景色は迫りくる机と輝夜の微笑。その二つが振り子のように揺れ動いていた。
再び目が覚める。頭が非常に重く、起き上がるにも億劫だ。鈴仙が体を起こしてみると、部屋の中はがらんとしており、真空のような無音が充満している。机の上もまるで何事も無かったように完全に片付いていた。一体、何が起きたのだろう……、取りあえず体の無事を確かめてみる。足に手をやる。異常なし。次に体。順番に上へ上へと確認していく。そして顔まで行ったところで、自分が味噌汁によって全く濡れていないことに気づく。まさかあれは全部夢? でもこんなところで寝ているのも絶対おかしい……。私は間違いなく蒲団で寝ていた筈……。
「誰もいないの?」
数秒待ってみるが無反応。呼びかけは鈴仙の口から出た瞬間に煙へと変わり、全てを通り抜けて建物の外に飛び出したようであった。その後、鈴仙は一通り建物を見て回ったが中には誰もいない。世界が鈴仙のみ取り残して勝手に滅んだようであった。
鈴仙は自室に戻り、掃除を始めた。せめて日々の習慣という綱だけは手放してしまわないようになるべくいつも通りに行った。手を動かしながら想像を働かせる。それだったら今朝のお師匠様の話は現実のものであったに違いない。現にここには誰もいないじゃないか。だったらきちん留守番という任務を全うしなくては。任務という言葉は鈴仙を落ち着かせた。鈴仙は道を転ばずに歩くのは得意だったが、道を探すのは苦手だった。じゃあ、今朝の睡魔は……、あれは多分私が疲れていたからだ。味噌汁は……、そうだ! 姫様だ! きっとあの方が私の顔を拭いてくださったのだ! 鈴仙は急に快活な気分になる。新しい風が吹き込んでくるようだ。そしてその風を大きな帆で受け順調に鈴仙は進んでいく。ありとあらゆる不吉な疑念は姫様という二文字の風が吹き飛ばした。そして暫く幸福な気分で永遠亭全体の片づけを行っていたのだった。
一通り、片づけを終えてしまうと今度は風が退屈を運んできた。そうなると鈴仙の思考の川は今朝の出来事に流れていく。どうして私だけ置いてかれたのだろう……。何か失態をしてしまったのではないだろうか。精神は下り坂に設計され、水は下へ下へと流れていく。それに気づいて慌てて止めようとしても隙間から徐々に漏れていく。まさか、姫様に嫌われたのでは……、そういえば私が倒れかけた時姫様が笑っていたような……、でもそれでは味噌汁の件が……、川の氾濫により地盤が緩み、そして崩れていく。鈴仙は自室に戻り、片づけた布団を押し入れから引っ張り出すと、敷きもせずに丸まったまま中にもぐりこんだ。その小さな隙間の内では誰も鈴仙を傷つけない。初めは恐怖と寒気で震えていたが、気づいた時には既に眠りに落ち、精神も平坦に落ち着いた。
温もりの中で声がする。しかし、一体誰が私を……。鈴仙はぼうっとした若干の憂鬱と倦怠感を抱えた頭を上げて辺りを見渡す。その耳に入るのは扉を叩く音。鈴仙は部屋の襖を閉め玄関へと急ぐ。はやる気持ちを抑えつつ廊下を早歩きで進んでいく。いつもの何倍もの距離に感じた。皆が帰って来たんだ! 扉の前に立ち、勢いよくがらがらっと開ける。そして完全に扉が開くまでの須臾、鈴仙の直感がけたたましい警報を鳴らした。
「うどんちゃん、こんにちは」
扉の向こうに立っていた人物はそう一言。
刹那、がちゃりと扉を閉める。ついでに鍵も掛ける。警報に対する反応は数秒遅れて鈴仙の体を無意識的に動かした。しまった、純狐さんだ! 鈴仙は玄関から急いで離れようとするが、純狐が扉を開ける方が早かった。カステラでも扱うかのように純狐は扉の鍵ごと引きちぎりる。辺りを火花が踊り狂う。
「別にそんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃない、うどんちゃん」
「おはようございます……、純狐さん」
「うふふ、もうお昼よ」
月から帰還後、純狐はお気に入りの鈴仙との親睦を深めようとしばしば永遠亭に訪れた。特に害はなかったので永琳は鈴仙に相手をするようにいいつけた。しかし困ったのは鈴仙である。あの月に対して戦争をしかけるような存在だ。鈴仙は全く持ってどう接したらよいのかさっぱり分からなかった。そして純狐の一種の狂気を孕んだアプローチは燃え盛る火炎から壁に映し出された黒い影が常に張り付いており、鈴仙が万が一他の者に対する愚痴を言ってしまおうものならばその者諸共一族郎党滅ぼしそうな勢いだったのだ。純狐の顔を見る度に慎重という細い針が鈴仙の胃を刺し続けた。
「それで今日はどうしたんですか?」
「デート行きましょう。デート。それも甘々なものをしましょう。同じマフラーをつけてそれで……、そういえば今日は天気がいいわよ。そこで私が作った弁当を食べるの。きっと楽しいわ。ねえ、うどんちゃん。あなたもそう思うでしょ? ほら一緒に手を繋いで行きましょう。雪景色が見られるところがあるのよ。お日様の光が反射してとってもきれいなの。あなたのために見つけたのよ。でも日傘を用意しないと日焼けしてしまいそう。途中で人里に買いにいきましょう。ね、うどんちゃんいいわよね?」
「ええと。その……、今留守番を任されていまして、それでその……」
鈴仙は純狐の顔を見るのが怖くなる。鈴仙が恐る恐る、純狐の顔を覗いてみると、意外なことにいつもの笑顔だった。
「なるほど、おうちデートね、うどんちゃん。悪くないかもしれないわ。今から楽しみね。早速一緒にお昼にしましょう。別にお部屋が汚いとか気にしなくていいわ。むしろ汚れていた方がいいと思うの、私。だってあんまり綺麗だと生活感がないじゃない? それじゃあ、うどんちゃんがどうやって普段分からないじゃないの。ねえ、うどんちゃん? うふふ。今日は張り切って料理しちゃったから楽しみにしていて頂戴。今日はずっと一緒よ。」
「はい、うどんちゃん。あーん」
「あーん……」
純狐は卵焼きを箸で掴んで鈴仙の目の前に持っていく。鈴仙は口を開けてその放物線の動きを受け止めた。
「どう? ちょっと味付けを薄くしてみたのよ。前に作ったものはご飯にはとっても合うのだけれどやっぱり食べさせるとなると、それだけで満足してもらう方がいいのかなって思ったのよ。ねえ、うどんちゃん? 美味しいでしょ? それとも前の方がよかったかしら? うどんちゃんのこともっと知りたいわ。だって私はうどんちゃんじゃないものね。ねえ、うどんちゃんどっちが好き?」
「どっちも好きですよ、純狐さん」
「まあ!! それって私が作るものなら何でも好きってことかしら。嬉しいわ」
鈴仙の頭のフィルムには、先ほどのあり得ない方向にねじ切られた扉の鍵と火花の残像が焼き付いていた。この人の前では私は無力……、逆らっちゃダメだ。命がいくつあっても足りやしない。鈴仙は機械的に口を開け、事務的な気分で表情を浮かべる。鈴仙にとって純狐が差し出す箸は銃口に、食材は弾丸か何かに見えた。弾を口で受け止め咀嚼して飲み込むと不安という味が体全体に広がった。
「あら、おかずが無くなってしまったわ。もっとたくさん作ってこればよかったわ。そうだ! ご飯も食べさせてあげる。はい、あーん」
鈴仙は口を開ける。純狐は白米に振りかけをかけ、鈴仙の口元を目指してそれを運ぶ。何故か、いつかてゐとやった餅つきを連想した。
「あーん……。あれ、純狐さんは食べないんですか?」
「私はもう食べてきたのよ、うどんちゃん。うどんちゃんと一緒に食べるのも楽しいのだけど今日は食べているうどんちゃんをずっと眺めていたかったのよ。
あら、もう無くなってしまったわ。やっぱり楽しい時間は過ぎるのが早いわね。あ、うどんちゃんご飯ついているわよ。うーん左よ、左。私がとってあげる……、ふふふ、おいしいわ。お弁当片づけるわね。次はデートよ、デート。この家の中案内して頂戴ね。
そうそう、うどんちゃん。昨晩マフラー徹夜して編んできたのよ。はい、プレゼント。ほら、首に巻いて、そうそう……。んー? うどんちゃん、マフラー巻いたことないの? ふふふ、かわいいわね。ほらここをこうして……、そうそう、それで余ったところをこの輪っかに入れるの。ほら出来た! かっこいいわ、うどんちゃん。王子様みたい。お姫様は誰かしら? ほら手を繋ぎましょう、そうそう、ぎゅーとして……。うどんちゃんの手冷えちゃっているわね。今度手袋も編んであげる。その素敵なお耳用にも四つ必要ね」
差し出される手に応じながら鈴仙は考える。どうして私は純粋に楽しめないのだろう、なんだか悪いことをしている気分になってきた……。心の中に微量の罪悪感が注ぎ込まれ混ぜ合わされる。今の鈴仙にとって純狐の表情は目のくらむような眩しさであり、精神的に受け入れがたいものであった。
昼食後、鈴仙は純狐を連れて、家の中を案内していく。見慣れたはずの部屋も純狐はあまりにも根ほり葉ほり聞くので観光地か何かに思えた。そして永遠亭観光ツアーはそろそろ終わりを迎えようとしている。
「ここが私の部屋です」
「入っていいかしら? うどんちゃんがどんな所で寝ているか私気になるのよ。将来的にも、こういうのってやっぱり早く知っておくべきことじゃない?」
「構いませんけど……、ってあ!」
鈴仙は自分の布団が出したままであることに気づく。あんなもの純狐さんに見せたらどんなことになるか分かったものじゃない。丸腰で戦場に突っ込むような行為じゃないか! しかし鈴仙が気づいた時にはもう純狐は隣には立っておらず。見ると襖を開いて中に入ろうとしていたところだった。
「ちょっと、純狐さん、ストップストップ!」
「え、何? ってきゃあ」
それは純狐らしかぬ悲鳴であった。そして純狐の姿が部屋の中に吸い込まれるようにして消えてしまう。それと同時に純狐の声は急速に鈴仙から遠ざかっていった。
「え? え? 純狐さん?」
「あーーーーーーーれーーーーーーー」
中で一体何が。とにかく尋常じゃないことが起こっていることは確かだ。鈴仙が襖からのぞき込んで中の様子を確認してみると、部屋の畳が全て無くなり、部屋の底が抜けている。そして代わりに巨大な大きな穴が張り巡らされた悪意の如く大きな口を開いて待ち構えていたのだった。その穴はまるで地獄にでも繋がっているようで、見たところ深さの加減は全く持って分からない。部屋にあったはずの畳や花瓶、本棚や机はこの穴が持つ無限の容量に全て飲み込まれてしまったようである。何これ。ここって私の部屋だよね……。誰でも想像を超えた不可解なことに遭遇すると脳が正常に動作しなくなる。これは鈴仙にとっても例外ではなく、気づいた時には既に鈴仙の足は独りでに玄関へ向かっていた。そして変わり果てた姿となった玄関の鍵が視界に入る。鈴仙の頭の中で火花が躍る。鈴仙は正気に戻る。
「うわああ、玄関が……って純狐さんが!!」
鈴仙は頭を再び働かせる。つまり純狐さんはあの穴の中へ……、どうしよう。純狐さんなら大丈夫そうだけど……、でも万が一何かあったら……、想像の中をあっちこっちと動き回りながら鈴仙は部屋の前に戻ってくる。
「純狐さん!!! 大丈夫ですか!!!!」
穴の中に向かって大声で叫んでみる。口から飛び出た声は穴の中を反響しながら進んでいく。数十秒待ってみる。何も反応がない。鈴仙は泣き出したいような気分になった。
なんて日常はこんなにも脆いのだろうか! 鈴仙は絶望のトンネルに一人取り残されていた。
しかしさんざん悩んだ挙句、鈴仙はついに決心を固める。この穴に飛び込んで純狐さんを助けに行こう! 鈴仙は永遠亭の倉庫から懐中電灯、救急箱、そして万が一のために食料と水が入ったリュックサックを持ち出す。その後居間に行き、戻ってきた永遠亭の住人の為に、簡単な書き置きを残すことにした。
今私は自分の部屋に突然現れた穴の中にいます。何を言っているか分からないと思いますが、その疑問は私の部屋の中を見ていただければ解決するはずです。お師匠様、留守番という簡単な仕事もできない私を許してください。
鈴仙・優曇華院・イナバ
鈴仙は穴の前に再び舞い戻る。整えた装備がもたらす重量が鈴仙の心の支えになっていた。恐怖と微妙な高揚感が渦巻いている自分に気づき、なるべく平常心でいようと鈴仙は深呼吸をする。新しい空気を取り入れることで別の自分に成れたような気がした。穴から下がり、助走をつける。飛び込む瞬間が一番怖い。これを勢いという力を借りて行おうという算段である。鈴仙は一気に走り出して手前で飛び跳ねると頭から飛び込んだ。好調な滑り出し。だが、そこで想定外のことが発生する。あれ、飛べない……。鈴仙はパニックを起こしてバランスを崩す。そういえば、空を飛べるはずの純狐さんもここから落ちていた……、何かの力が働いているのだろうか。浅はかだった……。鈴仙は落下しながらなんとか体制を立て直そうとする。どうして底は見えてこないの? この勢いのまま地面に叩きつけられたら……、 頭に死という文字が一瞬よぎる。
「嫌! 姫様助けて!!!」
焦れば焦るほど、どんどん状況は悪くなる。まるで体に絡みつく底なし沼のようである。地上から差し込んでいた僅かな光も下へ行けば行くほど届かなくなり、辺りにはどんどん闇が押し寄せる。急いで懐中電灯をつけて辺りを調べてみようと考えても、凄まじい落下速度のせいでそれどころではない。そして挙句の果てに救急箱を放してしまい、そのまま救急箱は穴に充満している暗黒に飲み込まれてその姿を隠してしまう。覆いつくすような勢いが体を引っ張り続ける。鈴仙の心は恐怖心から急速に現実感を失い初め、浮遊感から湧き上がる一種の心地よさを感じ始めていた。そして、それに吸いだされるような形で鈴仙の僅かに保っていた意識も飲み込まれ、その体と共に落下の波に巻き込まれ落ちていく。穴の中の黒は完全なものと成り、既に地上の光は一切届いていなかった。
何かのもの音がする。頭の隅を叩くような……。鈴仙は目を覚ます。そこは完璧なまでの闇だった。鈴仙はそこでそばらくぼうっとしていた。記憶は前後左右滅茶苦茶になっており感覚も何やら曖昧である。ここはどこだろう……、私はどうしてこんなところに……。鈴仙は本棚の本を年代別に並び替えるように少しずつだが頭を働かせ始めた。そして最後の棚が全て本で埋まり、鈴仙は大急ぎで上を見上げる。しかし目に入るのはただの闇。なんでこの高さで落ちて生きているの私……、まさか既にここが死後の世界じゃ……。鈴仙は自分の足がきちんと地面を踏み締めていることを確認しひとまず安心する。しかし、今日はどうにもおかしい事ばかりだ……。起きた出来事を深く考えると気が狂いそうだったので鈴仙は何もかもを運のせいにして、思考の掃除を行った。いちいち理由を考えていては前に進めない。
「純狐さーん!!! 返事してください!!」
返事を期待して闇の中に向かって呼びかける。しかし何も返ってこない。どういうことなんだろう……、一体純狐さんはどこへ。まずはできることから始めようと、鈴仙は自分に降りかかっている状況を理解することから始めることにした。まずは体の状況を確認……、鈴仙は朝からこんなことばかりやっていると、何とも情けない気分になりながら体を触り確認する。強く押してみてもどこも傷まない。全く不思議だ……。踏み締めている地面は石でも敷き詰められているのかとても固く、どうして助かったのか鈴仙には見当もつかなかった。次に荷物を確認する。リュックはいつの間にか鈴仙の肩から外れてしまったらしく、無くなっていた。救急箱も見つからない。鈴仙は辺りに落ちていないか穴の中を歩き始めた。
「純狐さーん!!」
鈴仙は歩きながらも声を出す。勿論、純狐を見つけ出す目的もあったが、そうしていないと取り巻く不可思議に自分という存在が混ざってしまいそうだったのだ。
迷路を抜けるための方法の一つに右手法というものがある。これは壁に右手を当てて歩き続けて出口を見つけるという方法で、鈴仙はこれを利用して荷物や純狐を見つけ出そうと考えた。これなら何も見えなくても大丈夫だ。しかし真っ直ぐ歩いているはずなのに一向に壁にぶつからない。鈴仙はとにかく明かりが欲しかった。暗闇が孤独感をより鋭いものにした。ひたすら歩き続ける。段々自分の行為に確信が持てなくなってくる。果たして私は本当に真っ直ぐ歩けているのだろうか。同じところを行ったり来たりしているだけではないだろうか。大分歩いたつもりだが、実は一分も経ってないのでは……。鈴仙は叫び出したいのをこらえて必死で進んだ。純狐に呼びかける声には段々恐怖と懇願の色が混じり始めた。
鈴仙はとうとう歩けなくなる。しかし体の疲れからではない。自分が全く無意味なことをしているような気分になったのだ。何故か全く体の疲労は無かった。これが現実とのつながりを遠ざけ、虚無感を増大させた。鈴仙はその場にしゃがみ込む。全てを投げ出してしまいたい。実はこれは全部夢で目が覚めたら暖かい布団の中にいたりしないかな……。鈴仙は誰でもいいからとにかく人が恋しかった。鈴仙は目をつぶる。情報をできるだけ遮断する。そして想像の中に逃避する。
「姫様、姫様、姫様、姫様……」
輝夜の声を想像する。顔、そして表情。体を想像する。儚げでそれでいて力強い。服装、そこから僅かに見える手、そして足。想像の中の輝夜は鈴仙だけのものである。そのうっすらとした輝夜の存在は鈴仙を勇気づけた。必要性の糸と空しさの糸は絶対に交差しない。そして今鈴仙に必要なのは話し相手であり、神の存在であり、輝夜だった。
「姫様、私はどうしたら……」
「いいのよ、イナバ。辛かったら休めばいいの。頑張れるときに頑張ればいいの。直接じゃなくても、きっと時間が解決してくれるわ」
「姫様……」
鈴仙はある種の酩酊状態に陥りそうだったが不完全がその邪魔をした。声や服装は完璧。だけど上手く顔が再現できない……、毎日見ているはずなのに……。輝夜の幻影は薄い一枚の布が顔にかかっており、うまく確認することが出来なかった。これでは妄想の快楽に没頭することができない。鈴仙はそっと近づき、優しく布を捲ろうとする。だが、輝夜がすかさず手で押さえてしまい、顔をきちんと確認できない。何度も繰り返すがどうしても上手くはいかない。そこで鈴仙は素早く輝夜の後ろに回ると強引に布を取り上げた。輝夜は振り返り鈴仙に顔を向ける。
「助けてうどんちゃん!」
純狐の顔だった。鈴仙は慌てて眼をあける。只そこに広がるのは無限の暗闇。鈴仙は途方にくれた。
どれくらい時間がたったのだろうか。太陽の無い世界では時間というものは無意味なのかもしれない。鈴仙は固い地面の上で横になっていた。神経衰弱の波はとうに過ぎ去り、感覚がひたすら研ぎ澄まされ、闇と体が同化しつつあることを感じていた。暗闇はやがて鈴仙の体の一部となる。暗闇の中では鈴仙は何にでもなれた。その場を動かなくてもどこへでも行けた。これまで苦しめられていた絶望感と孤独に対して鈴仙は愛着すら覚え始めていた。心の中には墨で濁った水のような、黒く煙がかった快活さが鈴仙を満たしていた。
無制限に流失していく時間の中で、何の前触れもなく闇の中でコトリ、と小さな音がする。蚊の鳴くような音だったが鈴仙の意識はこれを捉えて離さなかった。もう一度、音が鳴る。今度は先ほどよりは幾分か大きな音だった。
「純狐さん……?」
反射的に鈴仙はそう口に出していた。また音がする。ずるずると何かを引きずるような音だった。鈴仙は起き上がる。そして音のなる方へ歩き出す。足が痺れていたが、それをかき消すように出来るだけ大股で進んでいく。音は少しずつ大きくなる。鈴仙の鼓動はそれに比例するかのように早鐘を打ち始める。もしこの音が消えてしまったら……。これが最後のチャンスかもしれない。冷たく固い地面を蹴り走り出した。鈴仙にできることはただ祈ることだけだった。
そしてついに発生源と思わしき所に到着する。この下からだ……。地面からは錆びついたようなノイズ音が定期的に流れていた。鈴仙が床を軽く蹴ってみるとそこだけ妙にしなるような弾力があり、力いっぱい踏みつけると軽く割れるような音が辺りに響く。そこから夕焼け色の光が辺りにあふれ出した。突然の光に目が暗み、鈴仙は思わず手で目を覆った。光が暗闇を照らしだす。目が慣れてくると鈴仙は辺りを見渡す。地面には光の届く先まで赤色のレンガが敷き詰められている。不自然なまでに完璧に並べられたそれを見ていると鈴仙は狂気を生のまま食べているような気分になる。誰かが作ったんだろう……。そして一体どういう目的で。今度はオレンジ色の光の穴へ向かっていく。進むにつれて警戒の色が心の中で濃くなっていった。先ほど壊したところはそこだけ木製だったらしく、指をかけて慎重に中を覗いてみると小部屋ほどの空間がそこには存在した。人の気配はなく、危険は見たところ無さそうである。鈴仙は一息つくと、よく確認するため恐る恐る中に潜っていく。もしかしたら脱出の手がかりがあるかもしれない。
鈴仙は器用に着地すると注意深く辺りを見渡した。蝋燭が放つ病的なオレンジ色、それに照らされる古ぼけた椅子と机、そしてそこに座る黒い影。あなたはあの時の……。しかし認識の薄い板が記憶の海に落ちる寸前に鈴仙の目の前の景色はコーヒーに入れた砂糖のように崩壊しあっという間に溶けてしまった。
鈴仙の夢:純狐さんこわい
ある日の夜。鈴仙とてゐそして輝夜は、三人で楽しく机を囲んでお喋りしていました。すると、何やら黒いものがスッと横切ります。
「きゃあ、ゴキブリ!!」
「え? どこです?」
「下! 下! てゐの右のほう!」
「うわ! 鈴仙が手で潰した!」
「早く洗ってきなさい!」
「分かりました……」
手を洗った鈴仙が戻ってきます。
「しかし、珍しいわね。ゴキブリなんて……。ほんとあいつらどこにでも湧くんだから」
「ん? どうしたのさ、鈴仙。ぼーっとしちゃって」
「その、姫様にも怖いものがあるんだなって……」
「当り前でしょう。 私をなんだと思っているのよ。大体あいつらは最悪よ。まず、形が悪いわね。足が沢山あって気持ち悪い」
「虫ならどれも沢山あるじゃないですか」
「後、色も気持ち悪い。黒色で高速で動くなんて。何考えているのかしら」
「別に好きでやっているわけじゃないと思うんですけど……」
「やけにゴキブリの肩を持つじゃない。イナバ」
「ゴキブリって肩あるのかな」
「そうゆうわけじゃないですけど……」
「鈴仙はさ、怖いものなさそうだよね」
「うーん、そうかな……。そういうてゐはどうなのよ」
「私? 私はねぇ……、クモが怖いな」
「くも? 空に浮いていて……」
「そっちのわけないでしょ。わざとやってない? ほらあいつら、ああやって巣をつくってかかる獲物を待っているわけでしょ。あれが嫌。落とし穴作って落ちる人をじっと待っている私の真似されているみたいで」
「同族嫌悪……」
「イナバは何かあるの?」
「私は……そうですね……、あっ」
「鈴仙の顔真っ青だ!」
「大丈夫? そんなに怖いなら別に無理に話さなくてもいいのよ?」
「いえ、大丈夫です。その……、純狐さんが……」
「純狐? ああ、鈴仙に懐いている……」
「確かに怖いわね」
「うう、思い出したら急に寒気が。今日はもうお蒲団敷いて寝てしまいます。お休みなさい!」
「鈴仙、震えていたよ」
「よっぽど怖かったのね……」
「ねえ、姫様。私ひとつ面白い事思いつきましたよ」
「何かしら?」
「今から、その純狐って人連れて来て鈴仙の部屋に投げ込むんです。そしてらきっと楽しいですよ。キャーバタバタ、キャーバタバタって」
「その様子を私たちがゆっくり眺めるってわけね。面白そうじゃない。ちょっとてゐ、探しに行ってきて」
「分かりましたー」
暫く輝夜が待っていますと、玄関の扉を開く音がしまして、てゐが純狐を連れて戻ってきます。
「ただいま帰りました」
「うどんちゃんはどこかしら?」
「ようこそ、永遠亭へ。イナバの部屋はあちらですよ」
「うどんちゃーん」
「ふふふ、楽しみね」
二人は今か今かと待っていますが中々始まりません。
「鈴仙の部屋やけに静かですね……」
「そうね……」
「ま、まさか、驚きのあまり死んじゃったんじゃ……」
「そ、そんなわけ……。ちょっと覗いてみましょう」
「あ、鈴仙が純狐とイチャついてる!」
「ちょっとイナバ! 純狐が怖いって嘘だったのね! 結局あなたは何が怖いのよ」
「えーっとですね、今度は姫様が怖いです」
「ひぅぃ!」
声にならないような叫びをあげて。鈴仙は恐怖のあまり飛び上がった。額からは汗が流れ落ち、心臓はいまだにはち切れんばかりに動いている。何か恐ろしい夢を見ていたような……。何か無理やり注ぎ込まれたような……。しかし、夢の記憶は時間と共に急速に形を失っていきそして消えてしまう。そこで鈴仙は今自分が暗闇の中にいることに気づく。あれ、私は確か……、何でここに戻って来たの? そもそもあれが夢だったの……、鈴仙の体を得体のしれない何か悍ましいどす黒いものが包み込んだ。もはや鈴仙には自分すら信じることすらままならなかった。
「助けて! 姫様!!!!!!!!!!!!!」
鈴仙は喉が張り裂けんばかりの、ありったけの声量を振り絞って精いっぱい叫んだ。そして無我夢中で走りだした。ダムが崩壊したのだ。声は無間の空間に無慈悲に吸い込まれるが鈴仙は止めようとしない。喉にじんわりとした小さな痛みが花を咲かせるが必死さのあまり鈴仙は気づかない。
「助けて、助けて!!!! 姫様助けて!!!!! 助けて!!! 姫様!!!!!助けて姫様!!!! 帰りたいです!!! ごめんなさい!!! ごめんなさい!!! 許してください!! 怖い、怖い!!! 嫌だ!! 嫌だああああ!! 誰でもいいから助けてよ!! 姫様、助けて!!! 助けて!!! 帰りたい!! 帰りたい!!! 帰りたいよ…… 皆に会いたいよお…… どうしてこんな目に…… もう無理だよ…… 頑張れないよ…… 私何か悪いことしましたか……」
ぜんまいが切れたように鈴仙の歩調が徐々に緩む。言葉で溢れていた壺はほとんど空になっていた。
「助けて、純狐さん……」
鈴仙が最後にそう呟く。途端、鈴仙の頭の中で何か物が弾けるような音がし、そのまま鈴仙は意識を失った。何かスイッチを切られたような感覚が体の中で漂っていた。
鈴仙は目を覚ますとそこは穴の底だった。どうやら落ちた穴はそこまで深くなかったようであり、上を見上げてみるといつも睡眠を共にしている天井が顔を出していた。落ちた時に体を少し打ってしまったらしく、体が僅かに痺れている。辺りを見渡してみると、リュックサック、救急箱が見つかった。どうやら中身は全て無事のようだ。鈴仙は持ってきた懐中電灯を片手に周囲を照らす。穴に光が差し込み、闇の中に隠していたもの差し出していく。そして鈴仙は純狐が穴の隅で倒れているのを発見する。
「純狐さん!」
呼びかけても純狐は呼びかけには答えない。鈴仙は嫌な予感がし、純狐に駆け寄って優しく体を揺する。純狐は体を少し揺らしたと思うと眠たそうに眼をこすりゆっくりと起き上がった。鈴仙はこの一連の動作を見て、何か美しい花が朝日を浴びて開花する情景が連想された。
「大丈夫ですか?」
「うどんちゃん……、あれもう朝かしら」
「もうお昼ですよ」
純狐の腕はゆっくりと鈴仙の方へ近づいていく。そして肩を掴むと腕をなぞるようにして下へ降りていく。
「うどんちゃん……」
純孤は鈴仙の手をその存在を確かめるように強く握った。鈴仙は純孤の手が小刻みに震えていることに気づいたが。何も言わなかった。いや、何も言えなかったのだ。不思議なことに鈴仙は純孤と目を合わせた瞬間、とてつもない疲労が鈴仙を襲って来たのであった。それは有無を言わせず、全てを破壊する旋風のようであった。鈴仙の脳髄は霞がかり、目に映るもの全てが蜃気楼のように曖昧である。果たして自分が今生きているのか、死んでいるのか、呼吸しているのさえ判別することが出来ない。その時、突如としてスポットライトが鈴仙の頭上を照らした。何やら拍手が聞こえる。既に鈴仙は全てがどうでも良くなっていた。
「うどんちゃん……」
純孤が再び鈴仙に呼びかける。鈴仙の浮遊しかけた精神が、名前という記号を通じて再び足を掴まれ天から地に戻された。世界が正常に戻って行くように鈴仙は感じた。そして同時に純孤の姿を見て鈴仙は歓喜した。なんという神々しさ! 私の目の前にいる女性は私の神様、いやそれ以上のもはや言葉で形容することすら憚られる何やら究極めいた存在! 世界が存在しているのはこの人のお陰! 鈴仙の頭の中は再び回転を始める。ぐるぐるぐるぐる……。その回転は竜巻のような自然発生的なものとは異なり、換気扇の羽のような一種の人為的な様相を孕んでいた。純狐は指を絡めてきた。鈴仙は抵抗しない。そこにあるものを受け入れるだけ。人形劇という言葉が鈴仙の脳内に海に沈めた浮き輪のようにゆらりゆらりと浮かんできたがその想像はすぐさま霧散した。そしてそこに残ったのは何やらすこぶる気持ちがいいという快楽とそれと合わせ鏡のようにぴたりと張り付く不安である。
「おめでとう、ウドンゲ」
いつの間にか鈴仙と純狐は舞台の上にいた。段差。照明。赤い幕。観客席。そしてその様子を八意永琳が静かな笑みを浮かべて楽しそうに舞台下から眺めていた。お師匠様! 鈴仙は声を上げようとしたが純孤が鈴仙の唇を奪う方が早かった。
「うむっ」
鈴仙は何か甘い毒のようなものを流し込まれたような気がした。一体どんな種類の毒なんだろう……。後でお師匠様に聞いてみよう……。思考の翼は感情の海へと向かって羽ばたこうとした瞬間、何者かに撃ち落され、滑落した。脳は既にその機能を失いつつあった。思考は線で繋ぐことはもはや不可能でそれは夜空を照らす星のようにただその場で瞬いている独立した存在となりつつあった。頭がどんどんこんがらがる。体の力が抜けていく。全身の感覚という感覚が消失していく……。純孤が舌を口の中にねじ込む。鈴仙は店頭にならぶ人形のように何もすることができず只々身を任せるのみ。頭が重い……、何が起きているの。鈴仙は舞台から観客を見下ろす。いつの間にか沢山の知り合いたちが自分たちを見つめており、そして楽しそうに眺めている。しかし、その立ち並ぶ視線は嘲笑するような類のものではなく、むしろ神聖なそして秘匿されるべきものを見つめるような祝福の眼差しであった。そして周りの景色は高速回転を始める。鈴仙の思考は停止する。そして全ての感情は純狐への尊敬と情愛の念へと変化した。狂気にも似た感情が全身を支配した。鈴仙の体は喜びによって震えだす。私はこの人と同じにならなくてはいけない! 私は純孤さんだ! 鈴仙は全体重を純狐の体に預けた。そして、二人の体は徐々に溶けていき、そして混ざりあっていく。いつの間にか景色は全て作り物へと変貌し、全てが一つの劇場となった。四角く切り取られた箱庭空間。会場から大きな拍手が鳴り響く。箱庭全体が拍手によって振動する。
途切れかかった意識の中、鈴仙はもはや何が起きているのか全く分かっていなかったが既に思考を放棄し、只々自然の成り行きに身を任せる心地よさ、そしてそこから生じた甘い快楽の蜜をひたすら収集する作業に没頭していたため、それどころではなかった。現実と想像が混ぜ合わされ、時間感覚というものが完全に破壊されていた。鈴仙は自分が全知全能の神になったような、一種の万能感に酔いしれていた。
「へへぇ」
安心感から自然と声にも成らないような小さな笑いが湧いてくる。ああ、なんて素晴らしい。きっとこの為に月から逃げたのだ。きっとこの為に幻想郷に到達したのだ。きっとこの為に無様に生にしがみついていたのだ。そしてきっとこの為に……。
「ふふふふふふふ」
混濁した意識の端で別の笑い声を捉えた。きっと純狐さんの笑い声だな。純狐さんも喜んでいるんだ。鈴仙はそう考える。なんという幸せ! なんという甘美! 私の長年の孤独は完全に満たされた!
拍手喝采。感動のフィナーレ。鈴仙と純狐は二人で手を繋いで観客を舞台から眺めていた。二人は幸福という糸で繋がっている。そこには不安や恐怖といったものはもはや入る余地が無かった。鈴仙は左から、純狐は右から、初めから示し合わせていたように順に観客に向けて手を振った。
「おめでとう! イナバ!」
「万歳!!!」
二人が手を振るとそれに応えるかのように皆は手を振る。口笛で賛美するもの、涙を流すものもいた。現実と虚構を区別する舞台幕が別れを惜しむように徐々に降りていく。拍手は最後まで鳴りやまない。とてつもない盛り上がりである。観客の心に焼き付いていたのは大団円の三文字。そして舞台の照明は落とされ、全ては完全に暗闇に包まれた。
そこで鈴仙は目が覚めた。枕元の時計に目をやるといつもの起床時間をとうに過ぎていた。何やら大掛かりな夢を見ていた気がする。寝坊するなんていつ以来だろう……。ひとまず顔を洗ってすっきりしよう。頭に残る困惑と寒さに抗いながら、温もりの籠った蒲団から無理やり這い出る。震える体を摩りながらゆっくり立ち上がる。
鈴仙は鏡を覗き込む。向こうに映る鈴仙も鏡を覗き込む。
鏡の前に立つ。鏡は姿を映してくれるが内面までは見通せない。しかし、鈴仙は鏡を怖がっていた。自分で自分を見ることを極度に恐れていたのだった。これは鈴仙が信仰している蓬莱山輝夜という宗教に起因している。そしてその根底には弾丸飛び交う戦場から帰ってきた際にオートマチックに発現した数ある鈴仙の自己防衛術の、一つの川が流れていた。元々軍のエリートで自尊心が強かった鈴仙は地上に逃亡した際に自身の心の檻に囚われていた。そしてその暗い檻が放つ冷たい反射光によって鈴仙は世界に対して憎しみを覚えたのだ。どうして私が死んでも世界は存在し続けている? どうして私が寝ていても世界は存在し続けている? そして長い年月をえて鈴仙は、輝夜が世界を認識しているからこそ世界が存在し続けているという一つの結論を作り出し、それが直接崇拝へと繋がった。永遠を生きる輝夜の存在がこの飛躍した仮説を鈴仙の中で強固なものとしたのだ。私が存在しているのは姫様が私を認識してくださるから! 世界が存在しているのは姫様のお陰!日に日にそれは確信そして狂信と変貌していった。今、鈴仙を辛うじてこの世に繋ぎとめていたのは輝夜という存在のみだったのである。そしてその宗教は自身が自身を認識することさえ許さなかったのだ。ただそれが、何の変哲もない光の反射であってさえ。
鈴仙は鏡に恐々と近づくと手ぬぐいをさっと掛けて一気に顔を洗った。霧が晴れてくようだ。しかしそこで何やらちぐはぐさを鈴仙は覚えた。入口が絶えず変化する迷路に迷い込んだような。そしてその違和感の正体は何故か鏡を見れば明らかになるような気がした。鈴仙は磁石に引き寄せられるように手ぬぐいに手を伸ばす。しかしそれを拒絶するように手が震えだす。足が震えだす。そこで鈴仙は諦め、今度は違和感を頭の中で無理やり追い出そうと試みる。
「別にいつもと変わらないじゃない、鈴仙・優曇華院・イナバ。何をそんなに怯えているの?」
言葉にして口に出してみることでその形容しがたい感覚が凡庸なものと成り、正体不明の違和感が無制限に生み出し続けていた不快の影は多少薄まった。髪の手入れは輝夜にいつもお願いしていたので鈴仙は朝食の用意の為にと、今度は台所へと向かう。今日の朝食担当は鈴仙だった。
「いただきます」
四人はいつものように食事を始める。いつもと変わらない風景の筈だった。しかし鈴仙は再び心をかき乱されていた。奇妙な違和感がぼうっと鈴仙の精神の表面に現れる。しかし一体何がいつもと違うのだろう。姫様はいつも通りに今日も美しく優雅に滑らかな手つきで食事をしている。お師匠様はいつも通り一切迷いがないような自信に溢れた食事の仕方。そしててゐはいつも通り幸せそうだ。鈴仙の心は得体のしれない恐怖の沼に沈みつつあった。何だろう。何か作り物を眺めているような……。私の心ともう一つ別の心が浮かび上がってこの風景を冷静に眺めているような……。でも姫様を上から見下ろすなんて私には……。恐ろしい、恐ろしい……。
「イナバ、大丈夫?」
思考の下降を輝夜の一閃が遮った。見ると輝夜が心配そうに鈴仙の顔をのぞき込んでいる。ああ、やはり姫様だ! 鈴仙は崇拝の念が自身の中で渦巻いているのを再び感じ取った。輝夜の方に鈴仙は急いで目を向けると輝夜は既に手元の味噌汁に目を落としている。永琳とてゐは不安そうに鈴仙を見つめているがその視線には気づかない。過度の崇拝は現実をひた隠しにし、盲目と同居する。
「それでね、ウドンゲ。昨日も話したと思うけど、私たちちょっと用事があってね、今日一日留守番を頼みたいのよ」
永琳は恍惚に打ちひしがれている鈴仙に向かって口を開いた。鈴仙は氷水を掛けられたような気分になる。
「え、そんなの初耳ですよ」
「しっかりしてよ。とにかく頼んだわ」
「え、ちょっと……」
行き先を訪ねようとしたその時である。突如として眠気が鈴仙を襲った。それは逆らうことのできない自然災害のようであった。そして景色が水彩画のようになり、その後どろどろと溶けだしていく。瞼が重い、開きたくない……。世界がぐるりんと回転し、そしてそのまま鈴仙は机に突っ伏した。味噌汁の器が傾き倒れ、鈴仙の顔を濡らしていく。暖かくて気持ちいい……。最後に見た景色は迫りくる机と輝夜の微笑。その二つが振り子のように揺れ動いていた。
再び目が覚める。頭が非常に重く、起き上がるにも億劫だ。鈴仙が体を起こしてみると、部屋の中はがらんとしており、真空のような無音が充満している。机の上もまるで何事も無かったように完全に片付いていた。一体、何が起きたのだろう……、取りあえず体の無事を確かめてみる。足に手をやる。異常なし。次に体。順番に上へ上へと確認していく。そして顔まで行ったところで、自分が味噌汁によって全く濡れていないことに気づく。まさかあれは全部夢? でもこんなところで寝ているのも絶対おかしい……。私は間違いなく蒲団で寝ていた筈……。
「誰もいないの?」
数秒待ってみるが無反応。呼びかけは鈴仙の口から出た瞬間に煙へと変わり、全てを通り抜けて建物の外に飛び出したようであった。その後、鈴仙は一通り建物を見て回ったが中には誰もいない。世界が鈴仙のみ取り残して勝手に滅んだようであった。
鈴仙は自室に戻り、掃除を始めた。せめて日々の習慣という綱だけは手放してしまわないようになるべくいつも通りに行った。手を動かしながら想像を働かせる。それだったら今朝のお師匠様の話は現実のものであったに違いない。現にここには誰もいないじゃないか。だったらきちん留守番という任務を全うしなくては。任務という言葉は鈴仙を落ち着かせた。鈴仙は道を転ばずに歩くのは得意だったが、道を探すのは苦手だった。じゃあ、今朝の睡魔は……、あれは多分私が疲れていたからだ。味噌汁は……、そうだ! 姫様だ! きっとあの方が私の顔を拭いてくださったのだ! 鈴仙は急に快活な気分になる。新しい風が吹き込んでくるようだ。そしてその風を大きな帆で受け順調に鈴仙は進んでいく。ありとあらゆる不吉な疑念は姫様という二文字の風が吹き飛ばした。そして暫く幸福な気分で永遠亭全体の片づけを行っていたのだった。
一通り、片づけを終えてしまうと今度は風が退屈を運んできた。そうなると鈴仙の思考の川は今朝の出来事に流れていく。どうして私だけ置いてかれたのだろう……。何か失態をしてしまったのではないだろうか。精神は下り坂に設計され、水は下へ下へと流れていく。それに気づいて慌てて止めようとしても隙間から徐々に漏れていく。まさか、姫様に嫌われたのでは……、そういえば私が倒れかけた時姫様が笑っていたような……、でもそれでは味噌汁の件が……、川の氾濫により地盤が緩み、そして崩れていく。鈴仙は自室に戻り、片づけた布団を押し入れから引っ張り出すと、敷きもせずに丸まったまま中にもぐりこんだ。その小さな隙間の内では誰も鈴仙を傷つけない。初めは恐怖と寒気で震えていたが、気づいた時には既に眠りに落ち、精神も平坦に落ち着いた。
温もりの中で声がする。しかし、一体誰が私を……。鈴仙はぼうっとした若干の憂鬱と倦怠感を抱えた頭を上げて辺りを見渡す。その耳に入るのは扉を叩く音。鈴仙は部屋の襖を閉め玄関へと急ぐ。はやる気持ちを抑えつつ廊下を早歩きで進んでいく。いつもの何倍もの距離に感じた。皆が帰って来たんだ! 扉の前に立ち、勢いよくがらがらっと開ける。そして完全に扉が開くまでの須臾、鈴仙の直感がけたたましい警報を鳴らした。
「うどんちゃん、こんにちは」
扉の向こうに立っていた人物はそう一言。
刹那、がちゃりと扉を閉める。ついでに鍵も掛ける。警報に対する反応は数秒遅れて鈴仙の体を無意識的に動かした。しまった、純狐さんだ! 鈴仙は玄関から急いで離れようとするが、純狐が扉を開ける方が早かった。カステラでも扱うかのように純狐は扉の鍵ごと引きちぎりる。辺りを火花が踊り狂う。
「別にそんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃない、うどんちゃん」
「おはようございます……、純狐さん」
「うふふ、もうお昼よ」
月から帰還後、純狐はお気に入りの鈴仙との親睦を深めようとしばしば永遠亭に訪れた。特に害はなかったので永琳は鈴仙に相手をするようにいいつけた。しかし困ったのは鈴仙である。あの月に対して戦争をしかけるような存在だ。鈴仙は全く持ってどう接したらよいのかさっぱり分からなかった。そして純狐の一種の狂気を孕んだアプローチは燃え盛る火炎から壁に映し出された黒い影が常に張り付いており、鈴仙が万が一他の者に対する愚痴を言ってしまおうものならばその者諸共一族郎党滅ぼしそうな勢いだったのだ。純狐の顔を見る度に慎重という細い針が鈴仙の胃を刺し続けた。
「それで今日はどうしたんですか?」
「デート行きましょう。デート。それも甘々なものをしましょう。同じマフラーをつけてそれで……、そういえば今日は天気がいいわよ。そこで私が作った弁当を食べるの。きっと楽しいわ。ねえ、うどんちゃん。あなたもそう思うでしょ? ほら一緒に手を繋いで行きましょう。雪景色が見られるところがあるのよ。お日様の光が反射してとってもきれいなの。あなたのために見つけたのよ。でも日傘を用意しないと日焼けしてしまいそう。途中で人里に買いにいきましょう。ね、うどんちゃんいいわよね?」
「ええと。その……、今留守番を任されていまして、それでその……」
鈴仙は純狐の顔を見るのが怖くなる。鈴仙が恐る恐る、純狐の顔を覗いてみると、意外なことにいつもの笑顔だった。
「なるほど、おうちデートね、うどんちゃん。悪くないかもしれないわ。今から楽しみね。早速一緒にお昼にしましょう。別にお部屋が汚いとか気にしなくていいわ。むしろ汚れていた方がいいと思うの、私。だってあんまり綺麗だと生活感がないじゃない? それじゃあ、うどんちゃんがどうやって普段分からないじゃないの。ねえ、うどんちゃん? うふふ。今日は張り切って料理しちゃったから楽しみにしていて頂戴。今日はずっと一緒よ。」
「はい、うどんちゃん。あーん」
「あーん……」
純狐は卵焼きを箸で掴んで鈴仙の目の前に持っていく。鈴仙は口を開けてその放物線の動きを受け止めた。
「どう? ちょっと味付けを薄くしてみたのよ。前に作ったものはご飯にはとっても合うのだけれどやっぱり食べさせるとなると、それだけで満足してもらう方がいいのかなって思ったのよ。ねえ、うどんちゃん? 美味しいでしょ? それとも前の方がよかったかしら? うどんちゃんのこともっと知りたいわ。だって私はうどんちゃんじゃないものね。ねえ、うどんちゃんどっちが好き?」
「どっちも好きですよ、純狐さん」
「まあ!! それって私が作るものなら何でも好きってことかしら。嬉しいわ」
鈴仙の頭のフィルムには、先ほどのあり得ない方向にねじ切られた扉の鍵と火花の残像が焼き付いていた。この人の前では私は無力……、逆らっちゃダメだ。命がいくつあっても足りやしない。鈴仙は機械的に口を開け、事務的な気分で表情を浮かべる。鈴仙にとって純狐が差し出す箸は銃口に、食材は弾丸か何かに見えた。弾を口で受け止め咀嚼して飲み込むと不安という味が体全体に広がった。
「あら、おかずが無くなってしまったわ。もっとたくさん作ってこればよかったわ。そうだ! ご飯も食べさせてあげる。はい、あーん」
鈴仙は口を開ける。純狐は白米に振りかけをかけ、鈴仙の口元を目指してそれを運ぶ。何故か、いつかてゐとやった餅つきを連想した。
「あーん……。あれ、純狐さんは食べないんですか?」
「私はもう食べてきたのよ、うどんちゃん。うどんちゃんと一緒に食べるのも楽しいのだけど今日は食べているうどんちゃんをずっと眺めていたかったのよ。
あら、もう無くなってしまったわ。やっぱり楽しい時間は過ぎるのが早いわね。あ、うどんちゃんご飯ついているわよ。うーん左よ、左。私がとってあげる……、ふふふ、おいしいわ。お弁当片づけるわね。次はデートよ、デート。この家の中案内して頂戴ね。
そうそう、うどんちゃん。昨晩マフラー徹夜して編んできたのよ。はい、プレゼント。ほら、首に巻いて、そうそう……。んー? うどんちゃん、マフラー巻いたことないの? ふふふ、かわいいわね。ほらここをこうして……、そうそう、それで余ったところをこの輪っかに入れるの。ほら出来た! かっこいいわ、うどんちゃん。王子様みたい。お姫様は誰かしら? ほら手を繋ぎましょう、そうそう、ぎゅーとして……。うどんちゃんの手冷えちゃっているわね。今度手袋も編んであげる。その素敵なお耳用にも四つ必要ね」
差し出される手に応じながら鈴仙は考える。どうして私は純粋に楽しめないのだろう、なんだか悪いことをしている気分になってきた……。心の中に微量の罪悪感が注ぎ込まれ混ぜ合わされる。今の鈴仙にとって純狐の表情は目のくらむような眩しさであり、精神的に受け入れがたいものであった。
昼食後、鈴仙は純狐を連れて、家の中を案内していく。見慣れたはずの部屋も純狐はあまりにも根ほり葉ほり聞くので観光地か何かに思えた。そして永遠亭観光ツアーはそろそろ終わりを迎えようとしている。
「ここが私の部屋です」
「入っていいかしら? うどんちゃんがどんな所で寝ているか私気になるのよ。将来的にも、こういうのってやっぱり早く知っておくべきことじゃない?」
「構いませんけど……、ってあ!」
鈴仙は自分の布団が出したままであることに気づく。あんなもの純狐さんに見せたらどんなことになるか分かったものじゃない。丸腰で戦場に突っ込むような行為じゃないか! しかし鈴仙が気づいた時にはもう純狐は隣には立っておらず。見ると襖を開いて中に入ろうとしていたところだった。
「ちょっと、純狐さん、ストップストップ!」
「え、何? ってきゃあ」
それは純狐らしかぬ悲鳴であった。そして純狐の姿が部屋の中に吸い込まれるようにして消えてしまう。それと同時に純狐の声は急速に鈴仙から遠ざかっていった。
「え? え? 純狐さん?」
「あーーーーーーーれーーーーーーー」
中で一体何が。とにかく尋常じゃないことが起こっていることは確かだ。鈴仙が襖からのぞき込んで中の様子を確認してみると、部屋の畳が全て無くなり、部屋の底が抜けている。そして代わりに巨大な大きな穴が張り巡らされた悪意の如く大きな口を開いて待ち構えていたのだった。その穴はまるで地獄にでも繋がっているようで、見たところ深さの加減は全く持って分からない。部屋にあったはずの畳や花瓶、本棚や机はこの穴が持つ無限の容量に全て飲み込まれてしまったようである。何これ。ここって私の部屋だよね……。誰でも想像を超えた不可解なことに遭遇すると脳が正常に動作しなくなる。これは鈴仙にとっても例外ではなく、気づいた時には既に鈴仙の足は独りでに玄関へ向かっていた。そして変わり果てた姿となった玄関の鍵が視界に入る。鈴仙の頭の中で火花が躍る。鈴仙は正気に戻る。
「うわああ、玄関が……って純狐さんが!!」
鈴仙は頭を再び働かせる。つまり純狐さんはあの穴の中へ……、どうしよう。純狐さんなら大丈夫そうだけど……、でも万が一何かあったら……、想像の中をあっちこっちと動き回りながら鈴仙は部屋の前に戻ってくる。
「純狐さん!!! 大丈夫ですか!!!!」
穴の中に向かって大声で叫んでみる。口から飛び出た声は穴の中を反響しながら進んでいく。数十秒待ってみる。何も反応がない。鈴仙は泣き出したいような気分になった。
なんて日常はこんなにも脆いのだろうか! 鈴仙は絶望のトンネルに一人取り残されていた。
しかしさんざん悩んだ挙句、鈴仙はついに決心を固める。この穴に飛び込んで純狐さんを助けに行こう! 鈴仙は永遠亭の倉庫から懐中電灯、救急箱、そして万が一のために食料と水が入ったリュックサックを持ち出す。その後居間に行き、戻ってきた永遠亭の住人の為に、簡単な書き置きを残すことにした。
今私は自分の部屋に突然現れた穴の中にいます。何を言っているか分からないと思いますが、その疑問は私の部屋の中を見ていただければ解決するはずです。お師匠様、留守番という簡単な仕事もできない私を許してください。
鈴仙・優曇華院・イナバ
鈴仙は穴の前に再び舞い戻る。整えた装備がもたらす重量が鈴仙の心の支えになっていた。恐怖と微妙な高揚感が渦巻いている自分に気づき、なるべく平常心でいようと鈴仙は深呼吸をする。新しい空気を取り入れることで別の自分に成れたような気がした。穴から下がり、助走をつける。飛び込む瞬間が一番怖い。これを勢いという力を借りて行おうという算段である。鈴仙は一気に走り出して手前で飛び跳ねると頭から飛び込んだ。好調な滑り出し。だが、そこで想定外のことが発生する。あれ、飛べない……。鈴仙はパニックを起こしてバランスを崩す。そういえば、空を飛べるはずの純狐さんもここから落ちていた……、何かの力が働いているのだろうか。浅はかだった……。鈴仙は落下しながらなんとか体制を立て直そうとする。どうして底は見えてこないの? この勢いのまま地面に叩きつけられたら……、 頭に死という文字が一瞬よぎる。
「嫌! 姫様助けて!!!」
焦れば焦るほど、どんどん状況は悪くなる。まるで体に絡みつく底なし沼のようである。地上から差し込んでいた僅かな光も下へ行けば行くほど届かなくなり、辺りにはどんどん闇が押し寄せる。急いで懐中電灯をつけて辺りを調べてみようと考えても、凄まじい落下速度のせいでそれどころではない。そして挙句の果てに救急箱を放してしまい、そのまま救急箱は穴に充満している暗黒に飲み込まれてその姿を隠してしまう。覆いつくすような勢いが体を引っ張り続ける。鈴仙の心は恐怖心から急速に現実感を失い初め、浮遊感から湧き上がる一種の心地よさを感じ始めていた。そして、それに吸いだされるような形で鈴仙の僅かに保っていた意識も飲み込まれ、その体と共に落下の波に巻き込まれ落ちていく。穴の中の黒は完全なものと成り、既に地上の光は一切届いていなかった。
何かのもの音がする。頭の隅を叩くような……。鈴仙は目を覚ます。そこは完璧なまでの闇だった。鈴仙はそこでそばらくぼうっとしていた。記憶は前後左右滅茶苦茶になっており感覚も何やら曖昧である。ここはどこだろう……、私はどうしてこんなところに……。鈴仙は本棚の本を年代別に並び替えるように少しずつだが頭を働かせ始めた。そして最後の棚が全て本で埋まり、鈴仙は大急ぎで上を見上げる。しかし目に入るのはただの闇。なんでこの高さで落ちて生きているの私……、まさか既にここが死後の世界じゃ……。鈴仙は自分の足がきちんと地面を踏み締めていることを確認しひとまず安心する。しかし、今日はどうにもおかしい事ばかりだ……。起きた出来事を深く考えると気が狂いそうだったので鈴仙は何もかもを運のせいにして、思考の掃除を行った。いちいち理由を考えていては前に進めない。
「純狐さーん!!! 返事してください!!」
返事を期待して闇の中に向かって呼びかける。しかし何も返ってこない。どういうことなんだろう……、一体純狐さんはどこへ。まずはできることから始めようと、鈴仙は自分に降りかかっている状況を理解することから始めることにした。まずは体の状況を確認……、鈴仙は朝からこんなことばかりやっていると、何とも情けない気分になりながら体を触り確認する。強く押してみてもどこも傷まない。全く不思議だ……。踏み締めている地面は石でも敷き詰められているのかとても固く、どうして助かったのか鈴仙には見当もつかなかった。次に荷物を確認する。リュックはいつの間にか鈴仙の肩から外れてしまったらしく、無くなっていた。救急箱も見つからない。鈴仙は辺りに落ちていないか穴の中を歩き始めた。
「純狐さーん!!」
鈴仙は歩きながらも声を出す。勿論、純狐を見つけ出す目的もあったが、そうしていないと取り巻く不可思議に自分という存在が混ざってしまいそうだったのだ。
迷路を抜けるための方法の一つに右手法というものがある。これは壁に右手を当てて歩き続けて出口を見つけるという方法で、鈴仙はこれを利用して荷物や純狐を見つけ出そうと考えた。これなら何も見えなくても大丈夫だ。しかし真っ直ぐ歩いているはずなのに一向に壁にぶつからない。鈴仙はとにかく明かりが欲しかった。暗闇が孤独感をより鋭いものにした。ひたすら歩き続ける。段々自分の行為に確信が持てなくなってくる。果たして私は本当に真っ直ぐ歩けているのだろうか。同じところを行ったり来たりしているだけではないだろうか。大分歩いたつもりだが、実は一分も経ってないのでは……。鈴仙は叫び出したいのをこらえて必死で進んだ。純狐に呼びかける声には段々恐怖と懇願の色が混じり始めた。
鈴仙はとうとう歩けなくなる。しかし体の疲れからではない。自分が全く無意味なことをしているような気分になったのだ。何故か全く体の疲労は無かった。これが現実とのつながりを遠ざけ、虚無感を増大させた。鈴仙はその場にしゃがみ込む。全てを投げ出してしまいたい。実はこれは全部夢で目が覚めたら暖かい布団の中にいたりしないかな……。鈴仙は誰でもいいからとにかく人が恋しかった。鈴仙は目をつぶる。情報をできるだけ遮断する。そして想像の中に逃避する。
「姫様、姫様、姫様、姫様……」
輝夜の声を想像する。顔、そして表情。体を想像する。儚げでそれでいて力強い。服装、そこから僅かに見える手、そして足。想像の中の輝夜は鈴仙だけのものである。そのうっすらとした輝夜の存在は鈴仙を勇気づけた。必要性の糸と空しさの糸は絶対に交差しない。そして今鈴仙に必要なのは話し相手であり、神の存在であり、輝夜だった。
「姫様、私はどうしたら……」
「いいのよ、イナバ。辛かったら休めばいいの。頑張れるときに頑張ればいいの。直接じゃなくても、きっと時間が解決してくれるわ」
「姫様……」
鈴仙はある種の酩酊状態に陥りそうだったが不完全がその邪魔をした。声や服装は完璧。だけど上手く顔が再現できない……、毎日見ているはずなのに……。輝夜の幻影は薄い一枚の布が顔にかかっており、うまく確認することが出来なかった。これでは妄想の快楽に没頭することができない。鈴仙はそっと近づき、優しく布を捲ろうとする。だが、輝夜がすかさず手で押さえてしまい、顔をきちんと確認できない。何度も繰り返すがどうしても上手くはいかない。そこで鈴仙は素早く輝夜の後ろに回ると強引に布を取り上げた。輝夜は振り返り鈴仙に顔を向ける。
「助けてうどんちゃん!」
純狐の顔だった。鈴仙は慌てて眼をあける。只そこに広がるのは無限の暗闇。鈴仙は途方にくれた。
どれくらい時間がたったのだろうか。太陽の無い世界では時間というものは無意味なのかもしれない。鈴仙は固い地面の上で横になっていた。神経衰弱の波はとうに過ぎ去り、感覚がひたすら研ぎ澄まされ、闇と体が同化しつつあることを感じていた。暗闇はやがて鈴仙の体の一部となる。暗闇の中では鈴仙は何にでもなれた。その場を動かなくてもどこへでも行けた。これまで苦しめられていた絶望感と孤独に対して鈴仙は愛着すら覚え始めていた。心の中には墨で濁った水のような、黒く煙がかった快活さが鈴仙を満たしていた。
無制限に流失していく時間の中で、何の前触れもなく闇の中でコトリ、と小さな音がする。蚊の鳴くような音だったが鈴仙の意識はこれを捉えて離さなかった。もう一度、音が鳴る。今度は先ほどよりは幾分か大きな音だった。
「純狐さん……?」
反射的に鈴仙はそう口に出していた。また音がする。ずるずると何かを引きずるような音だった。鈴仙は起き上がる。そして音のなる方へ歩き出す。足が痺れていたが、それをかき消すように出来るだけ大股で進んでいく。音は少しずつ大きくなる。鈴仙の鼓動はそれに比例するかのように早鐘を打ち始める。もしこの音が消えてしまったら……。これが最後のチャンスかもしれない。冷たく固い地面を蹴り走り出した。鈴仙にできることはただ祈ることだけだった。
そしてついに発生源と思わしき所に到着する。この下からだ……。地面からは錆びついたようなノイズ音が定期的に流れていた。鈴仙が床を軽く蹴ってみるとそこだけ妙にしなるような弾力があり、力いっぱい踏みつけると軽く割れるような音が辺りに響く。そこから夕焼け色の光が辺りにあふれ出した。突然の光に目が暗み、鈴仙は思わず手で目を覆った。光が暗闇を照らしだす。目が慣れてくると鈴仙は辺りを見渡す。地面には光の届く先まで赤色のレンガが敷き詰められている。不自然なまでに完璧に並べられたそれを見ていると鈴仙は狂気を生のまま食べているような気分になる。誰かが作ったんだろう……。そして一体どういう目的で。今度はオレンジ色の光の穴へ向かっていく。進むにつれて警戒の色が心の中で濃くなっていった。先ほど壊したところはそこだけ木製だったらしく、指をかけて慎重に中を覗いてみると小部屋ほどの空間がそこには存在した。人の気配はなく、危険は見たところ無さそうである。鈴仙は一息つくと、よく確認するため恐る恐る中に潜っていく。もしかしたら脱出の手がかりがあるかもしれない。
鈴仙は器用に着地すると注意深く辺りを見渡した。蝋燭が放つ病的なオレンジ色、それに照らされる古ぼけた椅子と机、そしてそこに座る黒い影。あなたはあの時の……。しかし認識の薄い板が記憶の海に落ちる寸前に鈴仙の目の前の景色はコーヒーに入れた砂糖のように崩壊しあっという間に溶けてしまった。
鈴仙の夢:純狐さんこわい
ある日の夜。鈴仙とてゐそして輝夜は、三人で楽しく机を囲んでお喋りしていました。すると、何やら黒いものがスッと横切ります。
「きゃあ、ゴキブリ!!」
「え? どこです?」
「下! 下! てゐの右のほう!」
「うわ! 鈴仙が手で潰した!」
「早く洗ってきなさい!」
「分かりました……」
手を洗った鈴仙が戻ってきます。
「しかし、珍しいわね。ゴキブリなんて……。ほんとあいつらどこにでも湧くんだから」
「ん? どうしたのさ、鈴仙。ぼーっとしちゃって」
「その、姫様にも怖いものがあるんだなって……」
「当り前でしょう。 私をなんだと思っているのよ。大体あいつらは最悪よ。まず、形が悪いわね。足が沢山あって気持ち悪い」
「虫ならどれも沢山あるじゃないですか」
「後、色も気持ち悪い。黒色で高速で動くなんて。何考えているのかしら」
「別に好きでやっているわけじゃないと思うんですけど……」
「やけにゴキブリの肩を持つじゃない。イナバ」
「ゴキブリって肩あるのかな」
「そうゆうわけじゃないですけど……」
「鈴仙はさ、怖いものなさそうだよね」
「うーん、そうかな……。そういうてゐはどうなのよ」
「私? 私はねぇ……、クモが怖いな」
「くも? 空に浮いていて……」
「そっちのわけないでしょ。わざとやってない? ほらあいつら、ああやって巣をつくってかかる獲物を待っているわけでしょ。あれが嫌。落とし穴作って落ちる人をじっと待っている私の真似されているみたいで」
「同族嫌悪……」
「イナバは何かあるの?」
「私は……そうですね……、あっ」
「鈴仙の顔真っ青だ!」
「大丈夫? そんなに怖いなら別に無理に話さなくてもいいのよ?」
「いえ、大丈夫です。その……、純狐さんが……」
「純狐? ああ、鈴仙に懐いている……」
「確かに怖いわね」
「うう、思い出したら急に寒気が。今日はもうお蒲団敷いて寝てしまいます。お休みなさい!」
「鈴仙、震えていたよ」
「よっぽど怖かったのね……」
「ねえ、姫様。私ひとつ面白い事思いつきましたよ」
「何かしら?」
「今から、その純狐って人連れて来て鈴仙の部屋に投げ込むんです。そしてらきっと楽しいですよ。キャーバタバタ、キャーバタバタって」
「その様子を私たちがゆっくり眺めるってわけね。面白そうじゃない。ちょっとてゐ、探しに行ってきて」
「分かりましたー」
暫く輝夜が待っていますと、玄関の扉を開く音がしまして、てゐが純狐を連れて戻ってきます。
「ただいま帰りました」
「うどんちゃんはどこかしら?」
「ようこそ、永遠亭へ。イナバの部屋はあちらですよ」
「うどんちゃーん」
「ふふふ、楽しみね」
二人は今か今かと待っていますが中々始まりません。
「鈴仙の部屋やけに静かですね……」
「そうね……」
「ま、まさか、驚きのあまり死んじゃったんじゃ……」
「そ、そんなわけ……。ちょっと覗いてみましょう」
「あ、鈴仙が純狐とイチャついてる!」
「ちょっとイナバ! 純狐が怖いって嘘だったのね! 結局あなたは何が怖いのよ」
「えーっとですね、今度は姫様が怖いです」
「ひぅぃ!」
声にならないような叫びをあげて。鈴仙は恐怖のあまり飛び上がった。額からは汗が流れ落ち、心臓はいまだにはち切れんばかりに動いている。何か恐ろしい夢を見ていたような……。何か無理やり注ぎ込まれたような……。しかし、夢の記憶は時間と共に急速に形を失っていきそして消えてしまう。そこで鈴仙は今自分が暗闇の中にいることに気づく。あれ、私は確か……、何でここに戻って来たの? そもそもあれが夢だったの……、鈴仙の体を得体のしれない何か悍ましいどす黒いものが包み込んだ。もはや鈴仙には自分すら信じることすらままならなかった。
「助けて! 姫様!!!!!!!!!!!!!」
鈴仙は喉が張り裂けんばかりの、ありったけの声量を振り絞って精いっぱい叫んだ。そして無我夢中で走りだした。ダムが崩壊したのだ。声は無間の空間に無慈悲に吸い込まれるが鈴仙は止めようとしない。喉にじんわりとした小さな痛みが花を咲かせるが必死さのあまり鈴仙は気づかない。
「助けて、助けて!!!! 姫様助けて!!!!! 助けて!!! 姫様!!!!!助けて姫様!!!! 帰りたいです!!! ごめんなさい!!! ごめんなさい!!! 許してください!! 怖い、怖い!!! 嫌だ!! 嫌だああああ!! 誰でもいいから助けてよ!! 姫様、助けて!!! 助けて!!! 帰りたい!! 帰りたい!!! 帰りたいよ…… 皆に会いたいよお…… どうしてこんな目に…… もう無理だよ…… 頑張れないよ…… 私何か悪いことしましたか……」
ぜんまいが切れたように鈴仙の歩調が徐々に緩む。言葉で溢れていた壺はほとんど空になっていた。
「助けて、純狐さん……」
鈴仙が最後にそう呟く。途端、鈴仙の頭の中で何か物が弾けるような音がし、そのまま鈴仙は意識を失った。何かスイッチを切られたような感覚が体の中で漂っていた。
鈴仙は目を覚ますとそこは穴の底だった。どうやら落ちた穴はそこまで深くなかったようであり、上を見上げてみるといつも睡眠を共にしている天井が顔を出していた。落ちた時に体を少し打ってしまったらしく、体が僅かに痺れている。辺りを見渡してみると、リュックサック、救急箱が見つかった。どうやら中身は全て無事のようだ。鈴仙は持ってきた懐中電灯を片手に周囲を照らす。穴に光が差し込み、闇の中に隠していたもの差し出していく。そして鈴仙は純狐が穴の隅で倒れているのを発見する。
「純狐さん!」
呼びかけても純狐は呼びかけには答えない。鈴仙は嫌な予感がし、純狐に駆け寄って優しく体を揺する。純狐は体を少し揺らしたと思うと眠たそうに眼をこすりゆっくりと起き上がった。鈴仙はこの一連の動作を見て、何か美しい花が朝日を浴びて開花する情景が連想された。
「大丈夫ですか?」
「うどんちゃん……、あれもう朝かしら」
「もうお昼ですよ」
純狐の腕はゆっくりと鈴仙の方へ近づいていく。そして肩を掴むと腕をなぞるようにして下へ降りていく。
「うどんちゃん……」
純孤は鈴仙の手をその存在を確かめるように強く握った。鈴仙は純孤の手が小刻みに震えていることに気づいたが。何も言わなかった。いや、何も言えなかったのだ。不思議なことに鈴仙は純孤と目を合わせた瞬間、とてつもない疲労が鈴仙を襲って来たのであった。それは有無を言わせず、全てを破壊する旋風のようであった。鈴仙の脳髄は霞がかり、目に映るもの全てが蜃気楼のように曖昧である。果たして自分が今生きているのか、死んでいるのか、呼吸しているのさえ判別することが出来ない。その時、突如としてスポットライトが鈴仙の頭上を照らした。何やら拍手が聞こえる。既に鈴仙は全てがどうでも良くなっていた。
「うどんちゃん……」
純孤が再び鈴仙に呼びかける。鈴仙の浮遊しかけた精神が、名前という記号を通じて再び足を掴まれ天から地に戻された。世界が正常に戻って行くように鈴仙は感じた。そして同時に純孤の姿を見て鈴仙は歓喜した。なんという神々しさ! 私の目の前にいる女性は私の神様、いやそれ以上のもはや言葉で形容することすら憚られる何やら究極めいた存在! 世界が存在しているのはこの人のお陰! 鈴仙の頭の中は再び回転を始める。ぐるぐるぐるぐる……。その回転は竜巻のような自然発生的なものとは異なり、換気扇の羽のような一種の人為的な様相を孕んでいた。純狐は指を絡めてきた。鈴仙は抵抗しない。そこにあるものを受け入れるだけ。人形劇という言葉が鈴仙の脳内に海に沈めた浮き輪のようにゆらりゆらりと浮かんできたがその想像はすぐさま霧散した。そしてそこに残ったのは何やらすこぶる気持ちがいいという快楽とそれと合わせ鏡のようにぴたりと張り付く不安である。
「おめでとう、ウドンゲ」
いつの間にか鈴仙と純狐は舞台の上にいた。段差。照明。赤い幕。観客席。そしてその様子を八意永琳が静かな笑みを浮かべて楽しそうに舞台下から眺めていた。お師匠様! 鈴仙は声を上げようとしたが純孤が鈴仙の唇を奪う方が早かった。
「うむっ」
鈴仙は何か甘い毒のようなものを流し込まれたような気がした。一体どんな種類の毒なんだろう……。後でお師匠様に聞いてみよう……。思考の翼は感情の海へと向かって羽ばたこうとした瞬間、何者かに撃ち落され、滑落した。脳は既にその機能を失いつつあった。思考は線で繋ぐことはもはや不可能でそれは夜空を照らす星のようにただその場で瞬いている独立した存在となりつつあった。頭がどんどんこんがらがる。体の力が抜けていく。全身の感覚という感覚が消失していく……。純孤が舌を口の中にねじ込む。鈴仙は店頭にならぶ人形のように何もすることができず只々身を任せるのみ。頭が重い……、何が起きているの。鈴仙は舞台から観客を見下ろす。いつの間にか沢山の知り合いたちが自分たちを見つめており、そして楽しそうに眺めている。しかし、その立ち並ぶ視線は嘲笑するような類のものではなく、むしろ神聖なそして秘匿されるべきものを見つめるような祝福の眼差しであった。そして周りの景色は高速回転を始める。鈴仙の思考は停止する。そして全ての感情は純狐への尊敬と情愛の念へと変化した。狂気にも似た感情が全身を支配した。鈴仙の体は喜びによって震えだす。私はこの人と同じにならなくてはいけない! 私は純孤さんだ! 鈴仙は全体重を純狐の体に預けた。そして、二人の体は徐々に溶けていき、そして混ざりあっていく。いつの間にか景色は全て作り物へと変貌し、全てが一つの劇場となった。四角く切り取られた箱庭空間。会場から大きな拍手が鳴り響く。箱庭全体が拍手によって振動する。
途切れかかった意識の中、鈴仙はもはや何が起きているのか全く分かっていなかったが既に思考を放棄し、只々自然の成り行きに身を任せる心地よさ、そしてそこから生じた甘い快楽の蜜をひたすら収集する作業に没頭していたため、それどころではなかった。現実と想像が混ぜ合わされ、時間感覚というものが完全に破壊されていた。鈴仙は自分が全知全能の神になったような、一種の万能感に酔いしれていた。
「へへぇ」
安心感から自然と声にも成らないような小さな笑いが湧いてくる。ああ、なんて素晴らしい。きっとこの為に月から逃げたのだ。きっとこの為に幻想郷に到達したのだ。きっとこの為に無様に生にしがみついていたのだ。そしてきっとこの為に……。
「ふふふふふふふ」
混濁した意識の端で別の笑い声を捉えた。きっと純狐さんの笑い声だな。純狐さんも喜んでいるんだ。鈴仙はそう考える。なんという幸せ! なんという甘美! 私の長年の孤独は完全に満たされた!
拍手喝采。感動のフィナーレ。鈴仙と純狐は二人で手を繋いで観客を舞台から眺めていた。二人は幸福という糸で繋がっている。そこには不安や恐怖といったものはもはや入る余地が無かった。鈴仙は左から、純狐は右から、初めから示し合わせていたように順に観客に向けて手を振った。
「おめでとう! イナバ!」
「万歳!!!」
二人が手を振るとそれに応えるかのように皆は手を振る。口笛で賛美するもの、涙を流すものもいた。現実と虚構を区別する舞台幕が別れを惜しむように徐々に降りていく。拍手は最後まで鳴りやまない。とてつもない盛り上がりである。観客の心に焼き付いていたのは大団円の三文字。そして舞台の照明は落とされ、全ては完全に暗闇に包まれた。
そこで鈴仙は目が覚めた。枕元の時計に目をやるといつもの起床時間をとうに過ぎていた。何やら大掛かりな夢を見ていた気がする。寝坊するなんていつ以来だろう……。ひとまず顔を洗ってすっきりしよう。頭に残る困惑と寒さに抗いながら、温もりの籠った蒲団から無理やり這い出る。震える体を摩りながらゆっくり立ち上がる。
鈴仙は鏡を覗き込む。向こうに映る鈴仙も鏡を覗き込む。
鈴仙の不安定さがとてもよく出ていて良かったです。
正気か???
凄まじい夢オチだった
もうベストオブ227はこれでいいんじゃないすかね
素面でこんな夢(?)のようなものを書けるのは恐ろしいとしか言えないです
素晴らしいんじゃないですか(思考放棄)
すごいとおもいます(こなみかん)
このとりとめの無い不条理感がまさに悪夢といった感じでよかったです