例えばの話。
大きなクマのぬいぐるみ! 可愛いね!
お誕生日プレゼントを受け取って、少女は途方に暮れた。ちょっと気合を入れて喜んだ振りをしてみようと思い立ったかも知れない。でも結局、『あ、そう。ありがとう』くらいのことしか言わなかったと思う。
私はその少女についてよく知っているから、その時の心情は手に取るように理解できる。まるで、心臓に素手で触れているみたいに痛いし、変な感触。雑に扱ったら、死んじゃいそう。良いよ、死んじゃえ。
うんうん、よく理解できるよ。
少女は、家族を追い出した後の暗い部屋で、ぬいぐるみを抱き締めてベッドに体を投げ出した。どうでもいいけど、少女と大きなぬいぐるみの取り合わせって、絵になるね。
決して、嬉しくなかったわけじゃない。気に入らなかったわけでもない。かと言って、照れ臭かったから喜ぶ姿を見せたくなかったのでもない。だって少女の表情は、ひとりきりになった後も、あまり嬉しそうじゃない。
むしろ、忌々しげですらある。
……余計なことを。
とでも思っているのでしょう。どんな反応をして良いか分からなかったのだ。『お姉様は何も分かってない』とさえ口にしなくなって久しい。無言と無反応で答える、そんな自分の態度に心が冷えていく。
手に余るほど大きな贈り物は、自分が心の奇形児であることを知らしめるように大きく、重たかった。
だけどそれはそれとして、ぬいぐるみに罪は無い。持て余す。こんなもの貰って、どうしろと。
全然、違うけどね。
無遠慮に心臓を握り潰された少女が、私に恨めしそうな視線を向けた。良い線行ってると思ったけど、言葉にした途端、別のモノに変わったようだ。
死体のような顔色の少女は物憂げに、後ろから抱き締めたクマの頭に顔をうずめた。なんだ、ちゃんと気に入っているみたいで、良かったよ。素直じゃないけど、可愛い所もあるんだね。
ほんとに欲しいのは、こんなモノじゃない。
少女は声を出さずに呟いた。
じゃあ何が欲しいのよ。
私の問い掛けには、問い掛けで返って来そう。心臓を手に取るように分かるんじゃなかったの? と。
でもね、分かんないよ。だって、もう潰しちゃったもん。私の手にあったはずの何かは別のモノに変わっている。心を言葉にしたら無意味なように、心臓を潰したら、鼓動を打たなくなる。
◇
『フラン様、少しよろしいですか? 血が固まってしまいますよ。お預かりしますね……くすっ』
少女がぬいぐるみを抱いてベッドに転がっている。瞼は落ちていなくて、据わった瞳で暗い天井をじっと見つめているのだった。
小悪魔は少女の愛らしい姿に優しい微笑みを浮かべつつ、断りを入れてぬいぐるみを引き取った。
『おやすみなさいまし、フランドール』
一言、少女は夢も見ない深い眠りの底に落ちる。
丸一日眠った、明くる日。
私の様子を見に来た美鈴は、血染めのベッドを見て、言葉を失った。
……こあはさぁ。やること半端じゃない? シーツも取り換えてよ。
美鈴は間違いなく普通の人間とは違うけど、小悪魔ほど極端な人外でもない。ちゃんと目の前に光景に驚いている。身を起こして、私も少なからず驚いた。乾いた血が、古い鱗がペリペリ剥がれ落ちるように零れていく。乾いていない血溜まりが、グショリと音を立てる。わりと派手にやったらしい。
ところで貴方は、スプラッターとか好き?
……大好き……あ、そう。いや、意外じゃない。好きそうだなって思ってた。私は別に好きじゃないけど。
枕元に、綺麗なままのクマさんが座っていた。その様子に、少しだけ口元が綻ぶ。今初めて、笑えたかも知れない。
『気に入ったんですね』
『……そうね』
自傷くらいで騒がないで欲しい。その点、美鈴は弁えている。これがお姉様だったらと思うと、また嫌な気持ちが募る。うろたえる家族を前に、醒めた目などしたくない。
まだ今の所は、本気で死ぬつもりなんて無いんだから。
本当にお願い。無駄に騒がないで。
私からすれば、胸を掻き毟らずにいられる生き物の方が、不思議なんだ。
本当に誰も、目に見えているものが嫌で、眼球を潰したくなったことは無い? 聴こえる音が嫌で、鼓膜を突き破りたくなったことは無い? 明日が来ることが嫌で、手首を切りたくなったことは?
美鈴に訊ねたことがある。
『私がおかしいの? 私が悪いの? 私は何なの? ……私が、弱いの?』
『どうして、他のみんなが耐えられることに、私だけが耐えられないの?』
答えは無い。
答えられないと知っていながら答えろと要求するのはフェアじゃない。
他の誰でもない美鈴にだけは、分かるはずが無かった。だって美鈴は、他の誰もが耐えられないことにさえ耐えることのできる、強い人だから。
『普通って、何?』
安易な答えを寄越さなかっただけ、マシというものだった。
頼りにならないオトナ達は、本当は頼もしいってこと、ちゃんと分かってる。彼女達が強いから、私は守ってもらえている。それは分かっているよ、だけどね。
大好きだよ。それと、早く出てってね。
◇
本当に気に入っていた。
咲夜は澄まし顔で、黙々と針仕事をしている。
『どうして。って言わないの?』
強い力で引き裂かれたぬいぐるみは、破裂するようにして中身の綿を飛び散らせた。緊急手術。メイドさんの膝の上という集中治療室で、オペが執り行われている。
『言えば良いんですか? どうして』
はい、言いましたよ。
みたいな顔で、咲夜。独特のテンポには、未だに慣れない。
『……ううん、そうじゃなくて』
『?』
『なんでもないわ』
目が怖かった。ぬいぐるみのお腹は柔らかい。黒くつぶらな愛くるしい瞳が、私を責めているように感じられた。
大嘘の言い訳を口にせず済んだ。
『できました』
『そう、ありがと……あのね、咲夜、これ』
咲夜は自慢げな顔をしていた。どうやら自信作らしい。
古い家具の木目を思わせて艶やかなブラウンの毛並みが、敢えて見せるスタイルで縫合されている。私がどうしてと訊きたい。どうして、ちょっと目を離した隙に。
……だいぶ、パンクな感じに生まれ変わったね。
その次の日。
胸の中心を指で撫でる。破ったのは、布地? それとも皮膚?
当ててみて。
◇
そう、皮膚。
なんであんなことしちゃったんだろうって苛付くんだから、自分を責めるに決まってるよね。
ところで、屍が起き上がる理由は何だろう。
生への渇望、生者への恨み、いずれにしても、条理を捻じ曲げるに足る強い気持ち。私はつくづく、らしくないのだと思う。死んでしまえれば良いのにと願っている起き上がり死体って、存在が矛盾している。
ちゃんと墓所の上に芥子を撒いておいてくれないから、甦らなくて良い死者まで甦る。
ぱしゃりと飛び出す血は熱い。溢れ出る血は生温かい。脈すら打たない冷たい体の内側に命の奔流があることが不思議だった。
ベッドの上に仰向けに横たわって、服の胸元をはだけた。真っ白な肌に、白い場所は残っていない。
我慢しても声は漏れる。生理的な痙攣が起こる。
痛みと引き換えにして、荒れ狂うような激昂は収まり、安らぎの時間が訪れる。一瞬の激痛が引いて、その後に残る鈍痛は心地良い。
落ち着く。ひどく落ち着いた安堵の中にいる。
純白のシーツを汚してまで、まだ血が赤いこと、温かいことを確かめる。指に付いた血を舐め取ると、ちゃんと血の味がする。青くはないし、酸っぱくもない。赤くて、少し甘い、砂糖水。
矛盾しているのは分かっている。死んでしまいたいのなら、冷たい肌の下に熱い血が流れていることは朗報にはならない。だけど、これが私だ。たとえ矛盾していても、醜くても、このカタチが私だ。
脇腹を伝う流血がくすぐったい。矛盾に、痛みに、確かな自分を取り戻したという感覚がある。
力無く腕を投げ出して、安らかに眠るように目を閉じた。傷も程無く塞がるだろう。加減を誤って危うくなる時もあったけれど、目分量にも慣れてきた。
死にたいのではない。死にたいと思うには、家族の存在がしがらみとなった。
私が死ねば、姉は、ひどく悲しむだろう。もし私が耐え難い衝動に襲われて死を選ぶとすれば、自分に関わりのある諸共を整理してからのこと。本気で死を試みる時、大好きな姉を先に殺すだろう。もちろん悲しませないために。
私が家族を殺して館を焼いたら、誰もが『どうして』と問うだろう。こんなにも分かり切ったことだと言うのにね。
殺したくなんてない。だから、その延長線程度の理由で、死にたくもない。
痛みは麻酔。しっかりと調整して処置をしている。心のビョーキの本を読んで学ぶよりも、何倍も効く治療法。
それなのにお姉様は私からコレを取り上げようとする。平気だって、言っているのに。
◇
私達は、心の奇形児。
産まれる時に何を忘れてしまったんだろう。欠けている大切な何かは、成長すれば生えてくるの?
家族は私を愛している。
私は家族を愛している。
家族は私を愛しているから、私のビョーキを治そうとする。私も家族を愛しているから、治るのなら治れば良いと思っている。
でもそれって、死体がもう死んでいることから目を逸らしたまま、羽毛の布団を被せて看病するような、哀しくて滑稽な情景。あるいは、折れた翼で飛ぼうとして、繰り返し地面に叩き付けられるような、家族にも、私にも、等しく痛みを伴う、無謀な試み。
赤子と人形を取り違えて育てる、錯乱した母親に似ているかも知れない。
いっそ嫌いになってしまえば楽なのにね。
囁きながら、ぬいぐるみの縫合痕に指を這わせる。
控え目なノックの音。咲夜は決まった時間にしか地下室に来なくて、じゃあこれは美鈴。
「本当に気に入ったんですね。正直、意外でした」
「……美鈴。最近少したるんでない?」
「と、言うと?」
「私がぬいぐるみに独り言を話し掛けるような子だと思う?」
でも友達じゃないよ。
割れた鏡に映った自分の姿。血の繋がらない双子の妹。友達とは、呼びたくない。
「あ」
「あ、じゃないよ」
「すぐにお茶をお持ちします」
……もっとも、私の話に頷いてくれている女の子は、聴いているのか聴いていないのか曖昧で、どこか遠くを眺める焦点の合ってない目をしているのだけれど。私が言うのも何だけど、誤解されてそうな子だなぁ。
ねぇ、もしもしー、起きてますかー?
「うん」
こいしは頷いた。
カサブタをいじるのがやめられない子供のように、膝の上に投げ出された、その固く閉ざした瞳の縫合痕を弄っていた。
傷を抉るのをやめなさいと言っても、聴かない。聴くわけない。
何故と問えば、『無意識だからしょうがないね』とでも。
私は知ってるよ。
そのカタチが貴方だから、触って確かめているんでしょう?
傷跡があることは、証明だから。
傷跡だけが、理不尽な世界に対して示せる唯一の抵抗の証だから。
この世界が少女一人をこれだけ傷付けている真実を、確かなカタチにしておくべきだと思うから。
絶対に、認めないのだと。
絶対に、許さないのだと。
その条項を、自分を傷付けることでしか証明できない種族は存在する。
どうしてこの子は、他のみんなが耐えられることに耐えられなかったんだろうねぇ? そんなことに、答えは無いけど。
「私も、フランと同じようにすると思う」
大きなクマのぬいぐるみ! 可愛いね!
お誕生日プレゼントを受け取って、少女は途方に暮れた。ちょっと気合を入れて喜んだ振りをしてみようと思い立ったかも知れない。でも結局、『あ、そう。ありがとう』くらいのことしか言わなかったと思う。
私はその少女についてよく知っているから、その時の心情は手に取るように理解できる。まるで、心臓に素手で触れているみたいに痛いし、変な感触。雑に扱ったら、死んじゃいそう。良いよ、死んじゃえ。
うんうん、よく理解できるよ。
少女は、家族を追い出した後の暗い部屋で、ぬいぐるみを抱き締めてベッドに体を投げ出した。どうでもいいけど、少女と大きなぬいぐるみの取り合わせって、絵になるね。
決して、嬉しくなかったわけじゃない。気に入らなかったわけでもない。かと言って、照れ臭かったから喜ぶ姿を見せたくなかったのでもない。だって少女の表情は、ひとりきりになった後も、あまり嬉しそうじゃない。
むしろ、忌々しげですらある。
……余計なことを。
とでも思っているのでしょう。どんな反応をして良いか分からなかったのだ。『お姉様は何も分かってない』とさえ口にしなくなって久しい。無言と無反応で答える、そんな自分の態度に心が冷えていく。
手に余るほど大きな贈り物は、自分が心の奇形児であることを知らしめるように大きく、重たかった。
だけどそれはそれとして、ぬいぐるみに罪は無い。持て余す。こんなもの貰って、どうしろと。
全然、違うけどね。
無遠慮に心臓を握り潰された少女が、私に恨めしそうな視線を向けた。良い線行ってると思ったけど、言葉にした途端、別のモノに変わったようだ。
死体のような顔色の少女は物憂げに、後ろから抱き締めたクマの頭に顔をうずめた。なんだ、ちゃんと気に入っているみたいで、良かったよ。素直じゃないけど、可愛い所もあるんだね。
ほんとに欲しいのは、こんなモノじゃない。
少女は声を出さずに呟いた。
じゃあ何が欲しいのよ。
私の問い掛けには、問い掛けで返って来そう。心臓を手に取るように分かるんじゃなかったの? と。
でもね、分かんないよ。だって、もう潰しちゃったもん。私の手にあったはずの何かは別のモノに変わっている。心を言葉にしたら無意味なように、心臓を潰したら、鼓動を打たなくなる。
◇
『フラン様、少しよろしいですか? 血が固まってしまいますよ。お預かりしますね……くすっ』
少女がぬいぐるみを抱いてベッドに転がっている。瞼は落ちていなくて、据わった瞳で暗い天井をじっと見つめているのだった。
小悪魔は少女の愛らしい姿に優しい微笑みを浮かべつつ、断りを入れてぬいぐるみを引き取った。
『おやすみなさいまし、フランドール』
一言、少女は夢も見ない深い眠りの底に落ちる。
丸一日眠った、明くる日。
私の様子を見に来た美鈴は、血染めのベッドを見て、言葉を失った。
……こあはさぁ。やること半端じゃない? シーツも取り換えてよ。
美鈴は間違いなく普通の人間とは違うけど、小悪魔ほど極端な人外でもない。ちゃんと目の前に光景に驚いている。身を起こして、私も少なからず驚いた。乾いた血が、古い鱗がペリペリ剥がれ落ちるように零れていく。乾いていない血溜まりが、グショリと音を立てる。わりと派手にやったらしい。
ところで貴方は、スプラッターとか好き?
……大好き……あ、そう。いや、意外じゃない。好きそうだなって思ってた。私は別に好きじゃないけど。
枕元に、綺麗なままのクマさんが座っていた。その様子に、少しだけ口元が綻ぶ。今初めて、笑えたかも知れない。
『気に入ったんですね』
『……そうね』
自傷くらいで騒がないで欲しい。その点、美鈴は弁えている。これがお姉様だったらと思うと、また嫌な気持ちが募る。うろたえる家族を前に、醒めた目などしたくない。
まだ今の所は、本気で死ぬつもりなんて無いんだから。
本当にお願い。無駄に騒がないで。
私からすれば、胸を掻き毟らずにいられる生き物の方が、不思議なんだ。
本当に誰も、目に見えているものが嫌で、眼球を潰したくなったことは無い? 聴こえる音が嫌で、鼓膜を突き破りたくなったことは無い? 明日が来ることが嫌で、手首を切りたくなったことは?
美鈴に訊ねたことがある。
『私がおかしいの? 私が悪いの? 私は何なの? ……私が、弱いの?』
『どうして、他のみんなが耐えられることに、私だけが耐えられないの?』
答えは無い。
答えられないと知っていながら答えろと要求するのはフェアじゃない。
他の誰でもない美鈴にだけは、分かるはずが無かった。だって美鈴は、他の誰もが耐えられないことにさえ耐えることのできる、強い人だから。
『普通って、何?』
安易な答えを寄越さなかっただけ、マシというものだった。
頼りにならないオトナ達は、本当は頼もしいってこと、ちゃんと分かってる。彼女達が強いから、私は守ってもらえている。それは分かっているよ、だけどね。
大好きだよ。それと、早く出てってね。
◇
本当に気に入っていた。
咲夜は澄まし顔で、黙々と針仕事をしている。
『どうして。って言わないの?』
強い力で引き裂かれたぬいぐるみは、破裂するようにして中身の綿を飛び散らせた。緊急手術。メイドさんの膝の上という集中治療室で、オペが執り行われている。
『言えば良いんですか? どうして』
はい、言いましたよ。
みたいな顔で、咲夜。独特のテンポには、未だに慣れない。
『……ううん、そうじゃなくて』
『?』
『なんでもないわ』
目が怖かった。ぬいぐるみのお腹は柔らかい。黒くつぶらな愛くるしい瞳が、私を責めているように感じられた。
大嘘の言い訳を口にせず済んだ。
『できました』
『そう、ありがと……あのね、咲夜、これ』
咲夜は自慢げな顔をしていた。どうやら自信作らしい。
古い家具の木目を思わせて艶やかなブラウンの毛並みが、敢えて見せるスタイルで縫合されている。私がどうしてと訊きたい。どうして、ちょっと目を離した隙に。
……だいぶ、パンクな感じに生まれ変わったね。
その次の日。
胸の中心を指で撫でる。破ったのは、布地? それとも皮膚?
当ててみて。
◇
そう、皮膚。
なんであんなことしちゃったんだろうって苛付くんだから、自分を責めるに決まってるよね。
ところで、屍が起き上がる理由は何だろう。
生への渇望、生者への恨み、いずれにしても、条理を捻じ曲げるに足る強い気持ち。私はつくづく、らしくないのだと思う。死んでしまえれば良いのにと願っている起き上がり死体って、存在が矛盾している。
ちゃんと墓所の上に芥子を撒いておいてくれないから、甦らなくて良い死者まで甦る。
ぱしゃりと飛び出す血は熱い。溢れ出る血は生温かい。脈すら打たない冷たい体の内側に命の奔流があることが不思議だった。
ベッドの上に仰向けに横たわって、服の胸元をはだけた。真っ白な肌に、白い場所は残っていない。
我慢しても声は漏れる。生理的な痙攣が起こる。
痛みと引き換えにして、荒れ狂うような激昂は収まり、安らぎの時間が訪れる。一瞬の激痛が引いて、その後に残る鈍痛は心地良い。
落ち着く。ひどく落ち着いた安堵の中にいる。
純白のシーツを汚してまで、まだ血が赤いこと、温かいことを確かめる。指に付いた血を舐め取ると、ちゃんと血の味がする。青くはないし、酸っぱくもない。赤くて、少し甘い、砂糖水。
矛盾しているのは分かっている。死んでしまいたいのなら、冷たい肌の下に熱い血が流れていることは朗報にはならない。だけど、これが私だ。たとえ矛盾していても、醜くても、このカタチが私だ。
脇腹を伝う流血がくすぐったい。矛盾に、痛みに、確かな自分を取り戻したという感覚がある。
力無く腕を投げ出して、安らかに眠るように目を閉じた。傷も程無く塞がるだろう。加減を誤って危うくなる時もあったけれど、目分量にも慣れてきた。
死にたいのではない。死にたいと思うには、家族の存在がしがらみとなった。
私が死ねば、姉は、ひどく悲しむだろう。もし私が耐え難い衝動に襲われて死を選ぶとすれば、自分に関わりのある諸共を整理してからのこと。本気で死を試みる時、大好きな姉を先に殺すだろう。もちろん悲しませないために。
私が家族を殺して館を焼いたら、誰もが『どうして』と問うだろう。こんなにも分かり切ったことだと言うのにね。
殺したくなんてない。だから、その延長線程度の理由で、死にたくもない。
痛みは麻酔。しっかりと調整して処置をしている。心のビョーキの本を読んで学ぶよりも、何倍も効く治療法。
それなのにお姉様は私からコレを取り上げようとする。平気だって、言っているのに。
◇
私達は、心の奇形児。
産まれる時に何を忘れてしまったんだろう。欠けている大切な何かは、成長すれば生えてくるの?
家族は私を愛している。
私は家族を愛している。
家族は私を愛しているから、私のビョーキを治そうとする。私も家族を愛しているから、治るのなら治れば良いと思っている。
でもそれって、死体がもう死んでいることから目を逸らしたまま、羽毛の布団を被せて看病するような、哀しくて滑稽な情景。あるいは、折れた翼で飛ぼうとして、繰り返し地面に叩き付けられるような、家族にも、私にも、等しく痛みを伴う、無謀な試み。
赤子と人形を取り違えて育てる、錯乱した母親に似ているかも知れない。
いっそ嫌いになってしまえば楽なのにね。
囁きながら、ぬいぐるみの縫合痕に指を這わせる。
控え目なノックの音。咲夜は決まった時間にしか地下室に来なくて、じゃあこれは美鈴。
「本当に気に入ったんですね。正直、意外でした」
「……美鈴。最近少したるんでない?」
「と、言うと?」
「私がぬいぐるみに独り言を話し掛けるような子だと思う?」
でも友達じゃないよ。
割れた鏡に映った自分の姿。血の繋がらない双子の妹。友達とは、呼びたくない。
「あ」
「あ、じゃないよ」
「すぐにお茶をお持ちします」
……もっとも、私の話に頷いてくれている女の子は、聴いているのか聴いていないのか曖昧で、どこか遠くを眺める焦点の合ってない目をしているのだけれど。私が言うのも何だけど、誤解されてそうな子だなぁ。
ねぇ、もしもしー、起きてますかー?
「うん」
こいしは頷いた。
カサブタをいじるのがやめられない子供のように、膝の上に投げ出された、その固く閉ざした瞳の縫合痕を弄っていた。
傷を抉るのをやめなさいと言っても、聴かない。聴くわけない。
何故と問えば、『無意識だからしょうがないね』とでも。
私は知ってるよ。
そのカタチが貴方だから、触って確かめているんでしょう?
傷跡があることは、証明だから。
傷跡だけが、理不尽な世界に対して示せる唯一の抵抗の証だから。
この世界が少女一人をこれだけ傷付けている真実を、確かなカタチにしておくべきだと思うから。
絶対に、認めないのだと。
絶対に、許さないのだと。
その条項を、自分を傷付けることでしか証明できない種族は存在する。
どうしてこの子は、他のみんなが耐えられることに耐えられなかったんだろうねぇ? そんなことに、答えは無いけど。
「私も、フランと同じようにすると思う」
分かり合えない冷たい絶望と受容してくれる周囲のひとたちの暖かさのバランスが見事な、たいへんに良い作品でした。
素晴らしいと思います。ありがとうございます。
自傷とは生きていくためにすることなのだ