私は誰だろう。
そんな疑問が不意に頭をよぎることがある。
こと私の場合に限って言うならば、頭をよぎるという表現は不適切だとも思う。なぜならこのがらんどうの頭には、脳もなにも詰まっていないのだから。一人で薄ら笑いを浮かべた後、私は広大な死の大地を見下ろした。
業風で巻かれた砂がファインセラミックスの皮膚にぶつかり、バチバチと音を立てている。初めのうちはこの大音響に怯んだものだが、今では単調な環境音として意識を向ける価値すら感じない。
思えばあの子と出会ったのも、こんな風の強い、真っ黒な日だった。
昼も夜もない畜生界のはずれで、私は半ばルーチンワークと化した巡回警備を粛々とこなしていた。来る日も来る日も機械のように畜生界を監視し、動物霊に睨みを利かせ、人間霊を見守り、異常無しの報告を上げ、また見回りに戻る。疲れを感じない我々埴輪兵士にとって、最も効率的な警備を行うのは当然の義務である。
それは数時間に亘る巡回を終え、定時報告をしに霊長園へ引き返そうとしていたときのことだった。
吹き荒れる黒い風のなかに、私は幽かに揺れる小さな火のようなものを見た気がした。地獄界から吹き込む業風で視界はほぼ閉ざされている。一瞬、目を疑ったのは事実だが、それによって判断を迷うことなどあってはならない。炎は今にも吹き消されそうなほど弱々しい。私は大急ぎでその炎――畜生界の果てでさ迷う哀れな霊魂のもとへ飛んでいった。
「そこの動物霊! なにをしている!?」
私の姿に気付いた瞬間、その霊魂はにんまりと笑った。
青白くたなびく身体は私よりやや小さくて、三日月の形に吊られた口と、丸い洞穴のような二つの目だけがこちらを向いている。
人間霊だ。
「なぜ人間霊がこんなところに……いや、今日は風が強すぎるわ。早く霊長園に戻るわよ」
私が厳しい口調で言うと、人間霊はすんと表情を消し、どこか焦点の合わない視線を私の目に向けてきた。
いやに不気味な霊魂だ。恐怖というものを感じたことはないが、きっとこれに近い感情なのだろう。
人間霊はしばらく私の顔や体を眺め、その小さな口を開いた。
「……霊長園、ですね。そう、霊長園に行かないと……」
大人とも子供ともつかないか細い声だった。
畜生界では生前の姿を反映している霊が少なくないが、この人間霊は見た目にあまり頓着がないのか、ひどく曖昧な姿をとっている。性別すらも判別できないというのは珍しい。
「ちょっと、大丈夫? ここは霊長園からかなり遠いし、ほとんど地獄と言ってもいい場所……なんだが」
なにか妙だ。
脆弱な人間霊がどうやってこんな所まで? 畜生界における人間霊はパワーバランスの最下層に位置する。保護施設である霊長園を離れれば、すぐに獰猛な動物霊に拐われてしまうはず。
だとしたら、畜生界ではない別のどこかからやってきた?
いや、畜生界の外は地獄界だ。それこそ無事で済むはずがない。
しかし、だったらこの子は――?
「すみません。散歩してたら迷っちゃったんです。ボクって方向音痴だから……。あぁ! 安心しました」
蚊の鳴くようだった人間霊が急に饒舌になり、私は面食らってしまった。
なんだ、ただの迷子だったのか。
声の張りと明るさも増し、女性か子供の霊だとわかった。一人称が僕ということは、まだ小さな男の子だろうか。
「まったくもう……。だったら早く一緒に戻ろう。私は杖刀偶磨弓。あなたは?」
「ボクの名前?」人間霊は一瞬だけ目を見開いた。「……忘れちゃったよそんなの。それとも、元から無かったのかも」
「名前が無い人間? ふーん、そんなのもいるんだ」
てっきり人間霊は動物霊と違って、みんな名前を持っているものだと思っていた。まぁ、そういうこともあるのだろう。
私は気にせず、そのまま霊長園の方角へ足を向けた。人間霊がふわふわと付いてくる。
「磨弓さんって、面白いんですね」
「へ? なに? 面白い?」私は言葉の意味がわからず聞き返した。
「だって……。名前を忘れたなんて冗談、あっさり納得する人は珍しいもの」人間霊がコロコロと笑う。
なんなの? この子。
私は少しムッとして、わざと歩くペースを早めた。
「ごめんなさい、怒った?」
「別に? 私はあなたたちと違って、顕界の文化なんて知らないからね」
振り返らない私の背中に人間霊がぼんやりと相槌を打った。
霊長園で造られた私は、生まれてこのかた畜生界を出たことがなかった。
いつも見ている人間霊たちも、みんな私と違って生前という名の過去を持っている。私の知らない世界を知っている。
どうして私には過去が無い?
それは、私が作り物だから。
体の表面がバチバチと音を立てる。
耳障りだ。
「よく見たら磨弓さんって、霊体じゃないんですね」
びゅうびゅう、ごうごうと風がうるさいのに、まるで人間霊の声だけが耳元で囁かれているようで気持ちが悪い。
この人間霊、頭の回転が遅いのか? 畜生界で埴輪兵士を知らぬ者などいないだろうに。
それとも、わざと言っているのだろうか? お前なんか、死者ですらない土人形だと、本当は私を嘲笑っているのか?
「それに、珍しい……。生きてもいないんだ」
その一言が引き金だった。
どうしようもない苛立ちが錨のように足を引き止め、私はそのまま荒々しく振り返った。
ああ、きょとんとした霊の無邪気な顔にすら腹が立つ。
私は思ったことをそのまま口に出した。
「そうよ。それがどうかした? 埴輪兵士がそんなに珍しい? 霊長園でいくらでも見てるでしょう?」
私の豹変に驚いたのか、人間霊はぽかんと口を開けたまま立ちすくんでしまった。
気分が悪い。どこの誰とも知らない霊が、どうしてこうも私の心を踏み荒らす?
八つ当たりなのはわかっている。わかっていながら、私は次々と湧き上がってくる呪いの言葉を止めることができなかった。
「そう。所詮私の命は作り物の命よ。だから私にはあなたたちと違って、自分の霊魂というものが無い。私の精神の本質は、あなたたち人間の信仰が寄せ集まっただけの継ぎ接ぎでしかないの。もしそれが無くなったら、私はどうなると思う? そこになにが残る? ねぇ。私は誰なんだ……?」
ひとしきりの言葉を浴びせ終えたとき、見計らったように強い風が吹いた。
眼球に砂が入り、反射的に目を瞑る。こういう生物的な反応が、あるいは私を構成する信仰心に刻まれた人間の名残なのだろうか。
ハッと我に返り、慌てて人間霊の方を見る。しかし人間霊がいるはずの場所は、吹き荒れる砂嵐によってすっかり覆い隠されていた。
「ご、ごめん! 言い過ぎたわ」
人間霊からの返事は無い。
それともなにか喋っているが、この風の音にかき消されているのだろうか。
私が一人で狼狽していると、業風は徐々に弱まり始めた。
黒い砂嵐が完全に治まり、再び視界に人間霊の姿が現れる。
人間霊は笑っていた。
「ひっ……」
その笑みに言い知れぬ不吉な霊感を覚え、私は思わず数歩後ずさった。
人間霊はもう笑っていない。目尻が下がり、今にも泣き出しそうな悲しみに暮れた子供の表情そのものになっている。
今のは見間違いだったのだろうか?
良くない感情に支配され、荒んでしまった私の心が創りだした幻覚だったのか?
「ごめんなさい……。ボクはそんなつもり、全然なくて……」
人間霊は深く俯き、しおれた草花のような弱々しさで私に謝罪を繰り返している。
やはり、さっき見たものは気のせいだ。きっと砂嵐のせいで、目が錯覚を起こしたのだろう。
私は自分の未熟な精神を恥じ、人間霊の頭にそっと手を置いた。
「私が悪かったわ。毎日毎日、休みもなく霊長園を警備していたものだから、最近ちょっと神経質になってたの。……ね、もうお互い気を取り直して、霊長園に帰りましょう?」
人間霊は笑っているとも泣いているともつかない表情になり、再び私の後を付いてきた。
畜生界の中心へ向かうにつれて地獄からの業風も鳴りを潜め、代わりに高くそびえるビル群が増え始めた。
周囲にはちらほらと動物霊の姿も見える。彼らは血走った目を隠そうともしない。針のような視線で私の後ろの人間霊を睨めつけ、隙あらば飛びかからんと狙いを澄ましているのがよくわかる。
しかし、彼奴らが私たちを襲うことはない。我々埴輪兵士には霊魂が無いから、動物霊による霊的な攻撃が通用しないのだ。
「その身体、ボクは羨ましいですよ」
「うぇっ!?」
突然口をきいた人間霊に驚き、おかしな声で叫んでしまった。
「だって磨弓さんの身体、丈夫そうだもの。砂礫の風にも動じてなかったし、きっと痛みも無いんでしょう?」
「ええ、まぁ……そうだけども」
人間霊はうっとりとした顔でこちらを見ている。
「生物だろうと偶像だろうと、動いて喋れば同じ魂にしか見えませんよ。そうなると、差別化できる点は、何に宿っているかです。壊れやすいヒトの肉体よりも、磨弓さんの偶像の身体はずっとすばらしいと思うんです」
「す、すばらしい?」
人間霊はニコニコと笑って頷いている。
たしかにこの身体は便利なものだ。いくら働いても疲れないし、怪我をしても修復できる。脳や心臓といった有機生物特有の弱点も無い。
だけど、まさか人間霊にそんなことを言われるとは思ってもみなかった。
どうせ彼らは心のなかで、私たちのことを血の通っていない土人形としか見ていない――ずっとそう思っていたからだ。
「そうですよ。ボクもそんな身体が欲しかったなぁって思いますもの」
「そ、そう?」私は内心、頬がひび割れるほど嬉しかった。「人間から見てもそうなんだ……。へぇ……」
「あ、森の入り口が見えてきましたね」
「えっ? あ、うん」
人間霊が指差す先には、畜生界の中心に位置する広大な森――霊長園の入り口が近づいていた。
かつてこの世界に神がいなかった頃、動物霊たちが人間霊の保護を目的に作った収容所。
動物霊は知らなかったのだ。単体では脆弱で無力な人間という種族が、いかにして顕界の支配者となったのかを。
霊長園の門は見張りもおらず、いつも通り開け放たれていた。
今さら動物霊たちが攻め入ることもないとは思うが、せめて埴輪の一人でも立たせておくべきではないだろうか。後で袿姫様に進言しておこう。
それから……できれば、袿姫様に私の悩みを聞いてもらいたい。
私は歩きながら人間霊の方を見た。
この子には悪いことをしてしまったけど、お陰で今は心が軽くなったように感じる。きっと、自分の正直な気持ちを吐き出したからだろう。
勇気を出して袿姫様に相談しよう。もしかしたら、案外あっさりと霊魂を貰えるかもしれない。それは無理でも、私の話を聞いてもらえるだけで十分だ。
この子にはなんのお礼もできないけど、感謝しなくちゃいけないな。
「――さあ、着いたわ。もう勝手に遠くまで行っちゃ駄目だからね」
そう声をかけたが、人間霊はなぜか動こうとしない。
どうしたのだろう? まさか、自分の住み処がわからないわけじゃあるまいし。
「磨弓さん、また明日も会えませんか?」
人間霊がぽつりと呟いた。
私は心底驚き、そして少し悲しんだ。
「それは難しいかな。私の仕事には休みが無いし、それに私たち埴輪兵士は、あまり人間霊に肩入れしちゃいけないことになってるから」
これは袿姫様に言われたことだった。
私たち埴輪兵士にとって、生みの親である袿姫様の言うことは絶対だ。
命じられたことを愚直に守り、ただ霊長園の警備だけに努める。その忠誠心こそが、私たちの強さの理由でもある。
人間霊はなにか考え込むような仕草を見せたが、すぐに青白い口を開いて笑った。
「――だったらボクが霊長園から出れば、また磨弓さんに守ってもらえるんだ」
「ちょ、ちょっと!?」
焦った私は目を見開いて、人間霊に手を延ばす。
人間霊はひらりとかわし、小さな口から赤い舌を見せてまた笑った。
「嘘ですよ」
人間霊はそう言うと風のように飛び去り、あっという間に見えなくなってしまった。
「……まったくもう」
私は固い頬を緩ませた。
「袿姫様、磨弓です」
私の声に反応し、幾何学模様の石の扉がガタガタと開いた。
「失礼します」
背後で扉がひとりでに閉まる。
部屋の壁には埴輪、鏡、銅鐸といった袿姫様の作品たちが所狭しと飾られている。その並びはまるで宇宙の始まりから決まっていたように完全で、どれかひとつが百分の一度傾いただけでも簡単に壊れ、幻のように消え去ってしまうだろう。それはまさしく、極限下の最高芸術だ。
しかし、私はこの部屋に入るたび、猛烈な違和感に襲われる。個々の配置は完全なのに、部屋の明かりか、床の角度か、あるいは空気中に含まれる塵の密度なのか、本来ならば到底捉えることのできない、微かな「間違い」が部屋の調和を破壊しているのだ。
究極の美が、心臓を抜かれて死んでいる。
このほとんど偏執狂的な「作品」にべったりと身を包まれて、私はいつものように早足で奥の作業場へ向かった。
部屋の奥を覗くと、袿姫様は机に向かって彫像を彫っていた。
仕事中の袿姫様は鬼気迫るものがある。私の入室に気付いていたとしても、その手を休めることは滅多にない。
「巡回の報告? ……あぁ、もうそんな時間なのね」
袿姫様はちらりとも振り返らずに言った。いつものことだ。
「はい。……あの……、袿姫様」
そのとき、鑿を持つ袿姫様の手がピタリと止まった。
まずい。なにか怒らせるようなことをしてしまっただろうか?
袿姫様は丸い小さな木の椅子を回し、体全体をこちらに向けた。
「悩み事?」
私に向けて見開かれた両目の奥で、紫の瞳がぎらりと光っている。
あの一言だけで読み取ったのか。
私は改めて袿姫様の慧眼に平伏し、同時にぞわぞわとする寒気を感じた。
「私が造ったんだもの。なんだってわかるわ。……で、どうしたの?」
袿姫様が私なんかのために作業を中断してくださった。これほど光栄なことが他にあるだろうか。
私は胸の内を明かすことに決めた。
「袿姫様。我々偶像に、霊魂を宿すことは可能ですか?」
袿姫様は不思議そうな顔をした。
「霊魂? あなたの身体には、もう杖刀偶磨弓がいるじゃない」
「そうじゃありません。私は〝芯〟が欲しいんです。信仰を失っても消えてしまわない、確かで揺らがない心が欲しいんです」
袿姫様は自分の顎に手を触れ、私の目をじっと見つめた。
「磨弓は死ぬのが怖いの?」
「いいえ。……たぶん、違います。そもそも私は生きているんですか?」
「それは生物の定義に話が飛ぶわね。じゃあ、そうね。あなたは自分が誰だかわからないのかしら?」
私はうろたえた。「わ、私は杖刀偶磨弓です。……でも……私は……」
自分でも理解できていない核心を突かれたことで、私は自分の意見がまったく整理されていないことに気がついた。どうしてこんな曖昧な感情のまま、袿姫様に相談してしまったのだろう。
私はなにが欲しいんだ?
私はなにを怖がっている?
「け、袿姫様には……わからないと思うんです」ああ、私の頭は本当に混乱しているらしい。「生者か死者かもわからない……、土の塊の、化け物の、感情なんて」
私はそのまま俯き、袿姫様の前で黙りこくってしまった。
顔を上げることができない。私はなんて馬鹿なことをしているんだ。
袿姫様を失望させてしまった。
沈黙に身を引き裂かれそうだ。いっそこのまま消えてしまえれば、もうこれ以上恥を重ねることもないだろうに。
なにかが私の冷たい身体を包み込んだ。
私はなにが起きたのかわからず、袿姫様の顔を見上げようとした。
「ごめんね、磨弓」
声はすぐ耳元で聞こえた。
私はそのときになってようやく、袿姫様の両腕が私の身体を抱きしめていることに気がついた。
「ごめんね、気付いてあげられなくて。磨弓がひとりで悩んでること、苦しんでること……私、なんにもわかってなんていなかった」
「袿姫様……」
囁くような袿姫様の声は、今までに聞いたことのない優しい声だった。
「ごめんね、磨弓。お詫びに今日は今までの分、ふたりでいっぱいお話をしましょう?」
袿姫様の慈愛に満ちた笑顔を見た途端、私の両目からぽろぽろと水がこぼれ始めた。
袿姫様はもう一度腕を回して、私の頭を優しく撫でた。私は強く、しっかりと抱きしめ返す。初めは涙を見られたくなかったけれど、すぐに我慢ができなくなって、声をあげて泣きだした。
それは主と従者ではなく、創造主と創造物でもなく、生まれて初めて普通の人間の母と娘のように過ごした、温かい時間だった。
「……はい、こんなものかな」
袿姫様は泣きすぎて跡がついた私の目元を修復し、満足そうに頷いてみせた。
「申し訳ありません、お手を煩わせてしまって」
「いえいえ。磨弓には、もっといろんな世界を見せてあげないとね」
「世界ですか?」
「そうよ。例えば顕界――俗に言う人間界には、あなたと同じような存在が沢山いるの。『八百万の神』なんて呼ばれるほどにね」
「ヤオヨロズの、神?」
袿姫様は微笑んだ。「私が生きていた日本という国では、あなたみたいな存在も立派な神様なの。それに、埴輪はずいぶんマシな身体よ。日本人はなんでもかんでも祀るから、依代も山だったり、川だったり、木だったり……。ね、身体があっても動けないの」
私は思わず笑ってしまった。
「そうだったんですね。だったら、私と同じ悩みを持ってる神様も……」
「いっぱいいるでしょう。それとも、みんな案外なんにも気にしてないかも」
「偶像人生の先輩たちかぁ」私はうっとりと溜め息をついた。「まったく、夢のような現実だわ」
「あなたならどこへでも行けるわ」袿姫様は私の瞼を指でなぞり、慈悲心に満ちた表情で言う。「あなたは私の子で一番強くて、一番美しくて、一番愛おしい娘なんですから」
「袿姫様……」再び涙が出そうになるのをぐっとこらえて、私は胸の前で拳を握った。「私は埴輪兵士です。他の世界のことも気になりますが……、今はまだ、この霊長園の警備だけに全霊を注ぎます!」
「……ありがとね」
袿姫様は私を立たせると、いろいろな角度から確認し、やがて大きく頷いた。
「それと一応、霊魂の件なんだけど。あれはやっぱり、我慢してもらっていいかしら?」
「あ、はい。もう大丈夫です。でも、なにか不都合があるんですか?」
袿姫様は表情を曇らせた。
「まず第一に、埴輪兵士に霊魂を宿したら、動物霊どもの攻撃が防げなくなってしまうでしょう? あなた一人を特別扱いは……できなくもないけど、戦力には若干の不安が生まれる」
「高く評価していただけていると、前向きに受けとめます」
「もう一つの理由は、あなた自身の問題よ」
「私の、ですか?」
袿姫様はさらに渋い顔になり、真剣な面持ちで私に向き合った。
「この身体に新たな霊魂を宿すというのは、その霊魂と今の磨弓の精神が深く混ざりあってしまうということ。それこそ、本当に磨弓が磨弓じゃなくなってしまうのよ」
「それは……そうか。本末転倒な気がしますね」
袿姫様は机の上にあった鑿をポケットにしまいながら、白状するように話し始めた。
「埴輪たちには、人間霊へ過度な接触をしないよう言っているでしょう? あれだって本当は、あなたたちが霊に取り憑かれてしまうのを防ぐためなのよ。万が一ってこともあるからね」
「そうだったんですね。私はてっきり、いつか人間霊を酷使するときのために情が湧かないようにしているのかと」
「あら、私だって元は人間よ。同族にそんな酷いことをする気はないわ」
「し、失礼しました! では袿姫様、私はそろそろ……」
「うん。また何か困ったことがあれば……あっ! 待って待って」
巡回に戻ろうとした私を呼び止め、袿姫様は珍しく不安そうな表情を見せた。
「忘れるところだったわ。磨弓、あなた今日の巡回中になにか……嫌な気配を感じなかった?」
「嫌な気配、ですか?」私は首をひねり、記憶をたどる。「いえ、特には。なにかお気付きになったんですか?」
袿姫様は少し考えたあと、小さく息を吐いて言った。「いいや、ごめん。きっと気のせいね」
それから少しの時が経ち、私の心はすっかり落ち着きを取り戻していた。
初めは袿姫様に恥ずかしい姿を見せたと悔やんだりもしたが、袿姫様は今回の件を重く受け止め、なんと我々に十二時間おきの休憩時間を義務づけてくださった。肉体的な休息は不要であっても、心を休める時間が必要だと判断されたのだろう。
これには他の埴輪兵士たちも大喜びだった。誰も表立って言わなかっただけで、本当はみんな心が擦り切れかけていたようだ。
私たちの身体は土と水でできている。だけど、心は案外普通だった。それは普通の生き物と同じように、脆くて壊れやすいモノだった。
偶像も、神も、生者も、死者も。人間霊も、動物霊も、袿姫様も、私も……。根っこはなにも変わらない。みんな同じ心を持っていたんだ。
もう自分の存在に疑いを持つこともない。
私は、私だ。
もしあの人間霊にもう一度会えたなら、大事なことを気付かせてくれたお礼を言いたい。
ただ、霊長園の人間霊はあまりに多く、私はあの子の名前すら知らない。偶然出会う確率は絶望的だ。
――探してみようか。
あの子の容姿には特徴が無いが、特徴の無さが特徴とも言える。あやふや過ぎる輪郭やしゃべり方、背の高さなんかを手がかりに聞き込めば、見付けだすこともできるかもしれない。
善は急げだ。私は人間霊たちに聞いて回ることにした。
何人かの霊に話を聞いた結果知ることができたのは、彼らが周囲に一切関心を払っていないという事実だけだった。
見ず知らずの他人のことなど誰も覚えていない。それ以前に、彼らはなんとか思い出そうという素振りすら見せなかった。
私はここが地獄の一部であることを思い出した。こんな所にいる霊魂に、善良な人間性を期待する方が間違いなのかもしれない。
では、あの子は?
私が探しているあの人間霊も、生前の行いが良くなかったのだろうか。
……いや、そんなことは関係ない。顕界での罪の一つや二つ、この弱肉強食の畜生界では吹けば飛ぶようなものだろう。
私は諦めず、もうしばらく聞き込みを続けることにした。
「すみません、霊を探しているのですが」
「……はぁ」
「私より少し小さくて、髪型も服装も定まっていない希薄な人間霊です。どこかで見かけませんでしたか?」
「……はぁ」
老人の姿をした霊魂は指で額を突っつきながら、たっぷり十秒以上も考え込んだ。
「あの……ご存じないようでしたら、もう大丈夫ですよ?」
諦めかけたそのとき、老霊がハッと顔を輝かせた。
「そうそう! 思い出したよ埴輪さん!」
「えっ!? 本当ですか!?」
「一、二時間くらい前かなぁ。そんな感じの子を見た気がする」
「どこで?」
「どこって……霊長園の出口の近くじゃよ」
嫌な震えが全身に走った。
老人が視界から消え、足元の芝生が抉れ飛ぶ。
思考するよりも早く、私は全速力で霊長園の出口へ向かって駆け出していた。
間違いない。あの子は霊長園の外に出たんだ。それも、私のせいで。
霊長園の門は瞬きをする間に通り過ぎた。
やはり見張りは立っていない。私のせいだ。あのとき、ちゃんと袿姫様に報告していれば!
私は地面を蹴りつけ、その場で数十メートル上昇した。
視界に入るのは無数のビルに、休憩中の埴輪兵士たち、そして、獰猛な動物霊ども。
「クソッ! まだ先か!!」
私はまっすぐ北に向かって飛んだ。
あの子の目的が私に見つけてもらうことだとすれば、きっと複雑な経路はたどっていない。出口から直進しているはずだ。
胸の辺りがざわざわする。心臓も肺も無いのに、どんどん呼吸が荒くなる。
飢えた動物霊に見つかれば、人間霊などひとたまりもない。
あの子は依然見つからない。動物霊がいる。まずい。本当に間に合わなくなる。
やがてビル群も見えなくなり、真っ黒な業風が吹き荒れ始めた。
パチパチ、バチバチという音が激しさを増すにつれ、焦りと絶望が際限無く膨らんでいく。
ここまで来ると巡回する埴輪兵士の姿も見えない。視界に入るのは動物霊ばかりだ。
どこからか叫び声が聞こえた。
私は矢のように自らを加速させる。
すぐに声の聞こえた辺りに降りたが、砂嵐のせいでなにも見えない。
「どこにいる!?」
私は声の限りに叫んだ。風と砂の弾ける音に掻き消され、あの子からの返事は聞こえてこない。こちらの声も届いていないのかもしれない。
風に乗って再び悲鳴が聞こえた。反射的に振り返ったが、改めて耳をすますと、人間の悲鳴のような音は四方八方からやってきている。もはやどれが風の音で、どれが助けを求める叫び声なのかは判別のしようがなかった。
私は狂ったように叫びながら砂嵐の中を進んだ。泥土に足を取られるたびにひっくり返り、大量の砂と汚泥が口の中に入り込んだ。
私は何回も立ち上がり、口の中の泥を吐き捨て、前へ進み、足を取られ、砂の山に顔面を埋め、立ち上がり、口の端から砂を垂れ流し、幻聴を追って彷徨い続けた。
何十年ほどそうしていたのだろう。あるいは、十分にも満たない時間だったのだろうか。気まぐれな業風は、なんの前触れもなく収まり始めた。
声を張り上げようとしたが、咳込んでしまい上手く叫べない。喉に詰まった泥を掻き出そうとして口の奥に指を突っ込んだ。全身が痺れるような不快感の直後、私は腹に溜まっていた大量の土砂を雪崩のように吐き出した。
気付けば辺りは嘘のように静まり返っていた。
「どこに……いるの……」
そのとき、背後から物音が聞こえた。
私は尽きかけた気力を振り絞り、音のした方へ顔を向けた。
「あ……」
そこにはぐったりと動かなくなった人間霊と、その体を取り合うように貪っている数匹の動物霊の姿があった。
痩せこけた犬の霊が脇腹を食い破り、中からなにか細長い管のようなものを引っ張り出そうとしている。犬は人間霊の腹を前脚で押さえつけ、咥えていた管を一気に引いた。管の先にずるりと大きな臓器がついてきた。いっしょに抜けたものが胃袋であると気づいた途端、犬は僥倖とばかりに目の色を変えて喰らいついた。
辺りにもすでに喰い散らかされた臓物の破片が散乱し、まるで生ゴミの集積場のようになっている。少し離れたところでは、別の動物霊がほっそりとした棒状のものを一心不乱にかじっていた。腕なのか、それとも脚なのかはよくわからない。
さらに別の一匹は、その大きな顎で人間霊の頭を挟みつけ、今まさに頭蓋骨を噛み砕こうとしている最中だった。左目の眼底に巨大な犬歯が食い込んでいき、そのまま木の枝を折るみたいに頭が潰れた。右目は先に喰われたらしく、ぽっかりと空いた空洞が埴輪の目のように揺れている。
手足は一本残らずもぎ取られ、胴体の損傷も甚だしいが、生命の象徴たる血液はただの一滴も出ていない。
青白い体。青白い顔。青白い脂肪と筋肉と背骨。
裂けた頬からだらりと垂れたかわいらしい舌だけが、唯一、目の覚めるような赤だった。
「あぁ……」
私は真っ白になった。
これは現実?
それとも夢?
なにも見たくない。こんな現実があってはならない。
頭がぐらぐらする。
身体の芯になにかが入り込んでくる。
動物霊が私に気付いた。
だからなに?
どうでもいい。
私は真っ黒になった。
視界の端で動物霊の首が刎ね飛んだ。世界がぐるりと回転し、もう一匹の胴が真っ二つに割れる。
逃げ出そうとした最後の一匹は刀で背中を突き刺され、身動きできなくなったところを何度も何度も何度も殴りつけられた。
私はその一部始終をまるで夢のなかにいるようなきぶんでながめていた。
いつのまにかりょうてにひびがはいっている。あれ、ゆびってなんほんだったっけ。かたかたかたかたとふるえてうまくかぞえられない。
ああいやだな。まるでげんじつのようなゆめだ。
そう、これはゆめ。ゆめだ。ゆめなんだ。
身体を打ち続ける砂の音だけが、私を現実から逃がさなかった。
私は誰だろう。
なぜだか、たまにそんな言葉が頭をよぎる。
実にくだらない問いだ。
自己とは、自ら掴みとるもの。あらゆる者は常に移ろい、自らが欲したモノとなる。
私はこの偶像の身体と、人々の想いで形作られた精神が、杖刀偶磨弓という自分が好きだ。少し前までは深く思い悩んでいたような気もするが、今にして思えばあれは一種の精神病のようなものだった。
私はあれから考えを変えた。
この世に確かなものなんて無い。揺るがない自己なんてものも無い。無敵の身体を持つ私だろうと、絶対的な力を持つ袿姫様だろうと、どうせいつかはあの人間霊のように、無慈悲で砂を噛むような最期が待っている。
だからこそ面白い。
私の心は縛られない。身体なんかに、神程度に、世界ごときに縛られない。
私とは、無限だ。
霊長園の外からなにかが飛んでくる。
侵入者か、それとも護るべき人間霊か。
それは雨のような弾幕の隙間を縫いながら、一直線に霊長園へ向かっているようだ。
紅白の少女が目の前で止まった。
「人間?」私は訝しみながら声をかける。「さっさと霊長園に戻らないと、飢えた畜生達に捕らわれるよ」
「霊長園?」あら。誰かと思えば、楽園の巫女じゃない。「後ろの鍵穴みたいな奴かしら」
「霊長園を知らないだって?」
――楽園の巫女?
「と言うかお前……畜生界の人間霊じゃないな!」今のはなんだろう。「生身の人間だ!」
私はこんな奴は知らない。見たこともない。
「どうやって、この究極の弱肉強食の畜生界で生き延びてきた?」
まあ、……別に良いか。
「私はここの住人じゃなくて、動物霊達を退治しに地上からやって――」
私は誰だろう。
私はあなた。
あなたは誰だろう?
もちろん、私。
私は杖刀偶磨弓だ。
もちろん。それ以外の何者でもない。
では……杖刀偶磨弓とは、誰だろう?
いやだなぁ。そんなの、決まっているじゃないか。
霊長園には埴安神袿姫に造られた埴輪兵士がうじゃうじゃいる。
杖刀偶磨弓とは、そのなかでも最も強く、最も賢く、最も愛され、最も自由で、そして、
最も美しいボクのことさ。
そんな疑問が不意に頭をよぎることがある。
こと私の場合に限って言うならば、頭をよぎるという表現は不適切だとも思う。なぜならこのがらんどうの頭には、脳もなにも詰まっていないのだから。一人で薄ら笑いを浮かべた後、私は広大な死の大地を見下ろした。
業風で巻かれた砂がファインセラミックスの皮膚にぶつかり、バチバチと音を立てている。初めのうちはこの大音響に怯んだものだが、今では単調な環境音として意識を向ける価値すら感じない。
思えばあの子と出会ったのも、こんな風の強い、真っ黒な日だった。
昼も夜もない畜生界のはずれで、私は半ばルーチンワークと化した巡回警備を粛々とこなしていた。来る日も来る日も機械のように畜生界を監視し、動物霊に睨みを利かせ、人間霊を見守り、異常無しの報告を上げ、また見回りに戻る。疲れを感じない我々埴輪兵士にとって、最も効率的な警備を行うのは当然の義務である。
それは数時間に亘る巡回を終え、定時報告をしに霊長園へ引き返そうとしていたときのことだった。
吹き荒れる黒い風のなかに、私は幽かに揺れる小さな火のようなものを見た気がした。地獄界から吹き込む業風で視界はほぼ閉ざされている。一瞬、目を疑ったのは事実だが、それによって判断を迷うことなどあってはならない。炎は今にも吹き消されそうなほど弱々しい。私は大急ぎでその炎――畜生界の果てでさ迷う哀れな霊魂のもとへ飛んでいった。
「そこの動物霊! なにをしている!?」
私の姿に気付いた瞬間、その霊魂はにんまりと笑った。
青白くたなびく身体は私よりやや小さくて、三日月の形に吊られた口と、丸い洞穴のような二つの目だけがこちらを向いている。
人間霊だ。
「なぜ人間霊がこんなところに……いや、今日は風が強すぎるわ。早く霊長園に戻るわよ」
私が厳しい口調で言うと、人間霊はすんと表情を消し、どこか焦点の合わない視線を私の目に向けてきた。
いやに不気味な霊魂だ。恐怖というものを感じたことはないが、きっとこれに近い感情なのだろう。
人間霊はしばらく私の顔や体を眺め、その小さな口を開いた。
「……霊長園、ですね。そう、霊長園に行かないと……」
大人とも子供ともつかないか細い声だった。
畜生界では生前の姿を反映している霊が少なくないが、この人間霊は見た目にあまり頓着がないのか、ひどく曖昧な姿をとっている。性別すらも判別できないというのは珍しい。
「ちょっと、大丈夫? ここは霊長園からかなり遠いし、ほとんど地獄と言ってもいい場所……なんだが」
なにか妙だ。
脆弱な人間霊がどうやってこんな所まで? 畜生界における人間霊はパワーバランスの最下層に位置する。保護施設である霊長園を離れれば、すぐに獰猛な動物霊に拐われてしまうはず。
だとしたら、畜生界ではない別のどこかからやってきた?
いや、畜生界の外は地獄界だ。それこそ無事で済むはずがない。
しかし、だったらこの子は――?
「すみません。散歩してたら迷っちゃったんです。ボクって方向音痴だから……。あぁ! 安心しました」
蚊の鳴くようだった人間霊が急に饒舌になり、私は面食らってしまった。
なんだ、ただの迷子だったのか。
声の張りと明るさも増し、女性か子供の霊だとわかった。一人称が僕ということは、まだ小さな男の子だろうか。
「まったくもう……。だったら早く一緒に戻ろう。私は杖刀偶磨弓。あなたは?」
「ボクの名前?」人間霊は一瞬だけ目を見開いた。「……忘れちゃったよそんなの。それとも、元から無かったのかも」
「名前が無い人間? ふーん、そんなのもいるんだ」
てっきり人間霊は動物霊と違って、みんな名前を持っているものだと思っていた。まぁ、そういうこともあるのだろう。
私は気にせず、そのまま霊長園の方角へ足を向けた。人間霊がふわふわと付いてくる。
「磨弓さんって、面白いんですね」
「へ? なに? 面白い?」私は言葉の意味がわからず聞き返した。
「だって……。名前を忘れたなんて冗談、あっさり納得する人は珍しいもの」人間霊がコロコロと笑う。
なんなの? この子。
私は少しムッとして、わざと歩くペースを早めた。
「ごめんなさい、怒った?」
「別に? 私はあなたたちと違って、顕界の文化なんて知らないからね」
振り返らない私の背中に人間霊がぼんやりと相槌を打った。
霊長園で造られた私は、生まれてこのかた畜生界を出たことがなかった。
いつも見ている人間霊たちも、みんな私と違って生前という名の過去を持っている。私の知らない世界を知っている。
どうして私には過去が無い?
それは、私が作り物だから。
体の表面がバチバチと音を立てる。
耳障りだ。
「よく見たら磨弓さんって、霊体じゃないんですね」
びゅうびゅう、ごうごうと風がうるさいのに、まるで人間霊の声だけが耳元で囁かれているようで気持ちが悪い。
この人間霊、頭の回転が遅いのか? 畜生界で埴輪兵士を知らぬ者などいないだろうに。
それとも、わざと言っているのだろうか? お前なんか、死者ですらない土人形だと、本当は私を嘲笑っているのか?
「それに、珍しい……。生きてもいないんだ」
その一言が引き金だった。
どうしようもない苛立ちが錨のように足を引き止め、私はそのまま荒々しく振り返った。
ああ、きょとんとした霊の無邪気な顔にすら腹が立つ。
私は思ったことをそのまま口に出した。
「そうよ。それがどうかした? 埴輪兵士がそんなに珍しい? 霊長園でいくらでも見てるでしょう?」
私の豹変に驚いたのか、人間霊はぽかんと口を開けたまま立ちすくんでしまった。
気分が悪い。どこの誰とも知らない霊が、どうしてこうも私の心を踏み荒らす?
八つ当たりなのはわかっている。わかっていながら、私は次々と湧き上がってくる呪いの言葉を止めることができなかった。
「そう。所詮私の命は作り物の命よ。だから私にはあなたたちと違って、自分の霊魂というものが無い。私の精神の本質は、あなたたち人間の信仰が寄せ集まっただけの継ぎ接ぎでしかないの。もしそれが無くなったら、私はどうなると思う? そこになにが残る? ねぇ。私は誰なんだ……?」
ひとしきりの言葉を浴びせ終えたとき、見計らったように強い風が吹いた。
眼球に砂が入り、反射的に目を瞑る。こういう生物的な反応が、あるいは私を構成する信仰心に刻まれた人間の名残なのだろうか。
ハッと我に返り、慌てて人間霊の方を見る。しかし人間霊がいるはずの場所は、吹き荒れる砂嵐によってすっかり覆い隠されていた。
「ご、ごめん! 言い過ぎたわ」
人間霊からの返事は無い。
それともなにか喋っているが、この風の音にかき消されているのだろうか。
私が一人で狼狽していると、業風は徐々に弱まり始めた。
黒い砂嵐が完全に治まり、再び視界に人間霊の姿が現れる。
人間霊は笑っていた。
「ひっ……」
その笑みに言い知れぬ不吉な霊感を覚え、私は思わず数歩後ずさった。
人間霊はもう笑っていない。目尻が下がり、今にも泣き出しそうな悲しみに暮れた子供の表情そのものになっている。
今のは見間違いだったのだろうか?
良くない感情に支配され、荒んでしまった私の心が創りだした幻覚だったのか?
「ごめんなさい……。ボクはそんなつもり、全然なくて……」
人間霊は深く俯き、しおれた草花のような弱々しさで私に謝罪を繰り返している。
やはり、さっき見たものは気のせいだ。きっと砂嵐のせいで、目が錯覚を起こしたのだろう。
私は自分の未熟な精神を恥じ、人間霊の頭にそっと手を置いた。
「私が悪かったわ。毎日毎日、休みもなく霊長園を警備していたものだから、最近ちょっと神経質になってたの。……ね、もうお互い気を取り直して、霊長園に帰りましょう?」
人間霊は笑っているとも泣いているともつかない表情になり、再び私の後を付いてきた。
畜生界の中心へ向かうにつれて地獄からの業風も鳴りを潜め、代わりに高くそびえるビル群が増え始めた。
周囲にはちらほらと動物霊の姿も見える。彼らは血走った目を隠そうともしない。針のような視線で私の後ろの人間霊を睨めつけ、隙あらば飛びかからんと狙いを澄ましているのがよくわかる。
しかし、彼奴らが私たちを襲うことはない。我々埴輪兵士には霊魂が無いから、動物霊による霊的な攻撃が通用しないのだ。
「その身体、ボクは羨ましいですよ」
「うぇっ!?」
突然口をきいた人間霊に驚き、おかしな声で叫んでしまった。
「だって磨弓さんの身体、丈夫そうだもの。砂礫の風にも動じてなかったし、きっと痛みも無いんでしょう?」
「ええ、まぁ……そうだけども」
人間霊はうっとりとした顔でこちらを見ている。
「生物だろうと偶像だろうと、動いて喋れば同じ魂にしか見えませんよ。そうなると、差別化できる点は、何に宿っているかです。壊れやすいヒトの肉体よりも、磨弓さんの偶像の身体はずっとすばらしいと思うんです」
「す、すばらしい?」
人間霊はニコニコと笑って頷いている。
たしかにこの身体は便利なものだ。いくら働いても疲れないし、怪我をしても修復できる。脳や心臓といった有機生物特有の弱点も無い。
だけど、まさか人間霊にそんなことを言われるとは思ってもみなかった。
どうせ彼らは心のなかで、私たちのことを血の通っていない土人形としか見ていない――ずっとそう思っていたからだ。
「そうですよ。ボクもそんな身体が欲しかったなぁって思いますもの」
「そ、そう?」私は内心、頬がひび割れるほど嬉しかった。「人間から見てもそうなんだ……。へぇ……」
「あ、森の入り口が見えてきましたね」
「えっ? あ、うん」
人間霊が指差す先には、畜生界の中心に位置する広大な森――霊長園の入り口が近づいていた。
かつてこの世界に神がいなかった頃、動物霊たちが人間霊の保護を目的に作った収容所。
動物霊は知らなかったのだ。単体では脆弱で無力な人間という種族が、いかにして顕界の支配者となったのかを。
霊長園の門は見張りもおらず、いつも通り開け放たれていた。
今さら動物霊たちが攻め入ることもないとは思うが、せめて埴輪の一人でも立たせておくべきではないだろうか。後で袿姫様に進言しておこう。
それから……できれば、袿姫様に私の悩みを聞いてもらいたい。
私は歩きながら人間霊の方を見た。
この子には悪いことをしてしまったけど、お陰で今は心が軽くなったように感じる。きっと、自分の正直な気持ちを吐き出したからだろう。
勇気を出して袿姫様に相談しよう。もしかしたら、案外あっさりと霊魂を貰えるかもしれない。それは無理でも、私の話を聞いてもらえるだけで十分だ。
この子にはなんのお礼もできないけど、感謝しなくちゃいけないな。
「――さあ、着いたわ。もう勝手に遠くまで行っちゃ駄目だからね」
そう声をかけたが、人間霊はなぜか動こうとしない。
どうしたのだろう? まさか、自分の住み処がわからないわけじゃあるまいし。
「磨弓さん、また明日も会えませんか?」
人間霊がぽつりと呟いた。
私は心底驚き、そして少し悲しんだ。
「それは難しいかな。私の仕事には休みが無いし、それに私たち埴輪兵士は、あまり人間霊に肩入れしちゃいけないことになってるから」
これは袿姫様に言われたことだった。
私たち埴輪兵士にとって、生みの親である袿姫様の言うことは絶対だ。
命じられたことを愚直に守り、ただ霊長園の警備だけに努める。その忠誠心こそが、私たちの強さの理由でもある。
人間霊はなにか考え込むような仕草を見せたが、すぐに青白い口を開いて笑った。
「――だったらボクが霊長園から出れば、また磨弓さんに守ってもらえるんだ」
「ちょ、ちょっと!?」
焦った私は目を見開いて、人間霊に手を延ばす。
人間霊はひらりとかわし、小さな口から赤い舌を見せてまた笑った。
「嘘ですよ」
人間霊はそう言うと風のように飛び去り、あっという間に見えなくなってしまった。
「……まったくもう」
私は固い頬を緩ませた。
「袿姫様、磨弓です」
私の声に反応し、幾何学模様の石の扉がガタガタと開いた。
「失礼します」
背後で扉がひとりでに閉まる。
部屋の壁には埴輪、鏡、銅鐸といった袿姫様の作品たちが所狭しと飾られている。その並びはまるで宇宙の始まりから決まっていたように完全で、どれかひとつが百分の一度傾いただけでも簡単に壊れ、幻のように消え去ってしまうだろう。それはまさしく、極限下の最高芸術だ。
しかし、私はこの部屋に入るたび、猛烈な違和感に襲われる。個々の配置は完全なのに、部屋の明かりか、床の角度か、あるいは空気中に含まれる塵の密度なのか、本来ならば到底捉えることのできない、微かな「間違い」が部屋の調和を破壊しているのだ。
究極の美が、心臓を抜かれて死んでいる。
このほとんど偏執狂的な「作品」にべったりと身を包まれて、私はいつものように早足で奥の作業場へ向かった。
部屋の奥を覗くと、袿姫様は机に向かって彫像を彫っていた。
仕事中の袿姫様は鬼気迫るものがある。私の入室に気付いていたとしても、その手を休めることは滅多にない。
「巡回の報告? ……あぁ、もうそんな時間なのね」
袿姫様はちらりとも振り返らずに言った。いつものことだ。
「はい。……あの……、袿姫様」
そのとき、鑿を持つ袿姫様の手がピタリと止まった。
まずい。なにか怒らせるようなことをしてしまっただろうか?
袿姫様は丸い小さな木の椅子を回し、体全体をこちらに向けた。
「悩み事?」
私に向けて見開かれた両目の奥で、紫の瞳がぎらりと光っている。
あの一言だけで読み取ったのか。
私は改めて袿姫様の慧眼に平伏し、同時にぞわぞわとする寒気を感じた。
「私が造ったんだもの。なんだってわかるわ。……で、どうしたの?」
袿姫様が私なんかのために作業を中断してくださった。これほど光栄なことが他にあるだろうか。
私は胸の内を明かすことに決めた。
「袿姫様。我々偶像に、霊魂を宿すことは可能ですか?」
袿姫様は不思議そうな顔をした。
「霊魂? あなたの身体には、もう杖刀偶磨弓がいるじゃない」
「そうじゃありません。私は〝芯〟が欲しいんです。信仰を失っても消えてしまわない、確かで揺らがない心が欲しいんです」
袿姫様は自分の顎に手を触れ、私の目をじっと見つめた。
「磨弓は死ぬのが怖いの?」
「いいえ。……たぶん、違います。そもそも私は生きているんですか?」
「それは生物の定義に話が飛ぶわね。じゃあ、そうね。あなたは自分が誰だかわからないのかしら?」
私はうろたえた。「わ、私は杖刀偶磨弓です。……でも……私は……」
自分でも理解できていない核心を突かれたことで、私は自分の意見がまったく整理されていないことに気がついた。どうしてこんな曖昧な感情のまま、袿姫様に相談してしまったのだろう。
私はなにが欲しいんだ?
私はなにを怖がっている?
「け、袿姫様には……わからないと思うんです」ああ、私の頭は本当に混乱しているらしい。「生者か死者かもわからない……、土の塊の、化け物の、感情なんて」
私はそのまま俯き、袿姫様の前で黙りこくってしまった。
顔を上げることができない。私はなんて馬鹿なことをしているんだ。
袿姫様を失望させてしまった。
沈黙に身を引き裂かれそうだ。いっそこのまま消えてしまえれば、もうこれ以上恥を重ねることもないだろうに。
なにかが私の冷たい身体を包み込んだ。
私はなにが起きたのかわからず、袿姫様の顔を見上げようとした。
「ごめんね、磨弓」
声はすぐ耳元で聞こえた。
私はそのときになってようやく、袿姫様の両腕が私の身体を抱きしめていることに気がついた。
「ごめんね、気付いてあげられなくて。磨弓がひとりで悩んでること、苦しんでること……私、なんにもわかってなんていなかった」
「袿姫様……」
囁くような袿姫様の声は、今までに聞いたことのない優しい声だった。
「ごめんね、磨弓。お詫びに今日は今までの分、ふたりでいっぱいお話をしましょう?」
袿姫様の慈愛に満ちた笑顔を見た途端、私の両目からぽろぽろと水がこぼれ始めた。
袿姫様はもう一度腕を回して、私の頭を優しく撫でた。私は強く、しっかりと抱きしめ返す。初めは涙を見られたくなかったけれど、すぐに我慢ができなくなって、声をあげて泣きだした。
それは主と従者ではなく、創造主と創造物でもなく、生まれて初めて普通の人間の母と娘のように過ごした、温かい時間だった。
「……はい、こんなものかな」
袿姫様は泣きすぎて跡がついた私の目元を修復し、満足そうに頷いてみせた。
「申し訳ありません、お手を煩わせてしまって」
「いえいえ。磨弓には、もっといろんな世界を見せてあげないとね」
「世界ですか?」
「そうよ。例えば顕界――俗に言う人間界には、あなたと同じような存在が沢山いるの。『八百万の神』なんて呼ばれるほどにね」
「ヤオヨロズの、神?」
袿姫様は微笑んだ。「私が生きていた日本という国では、あなたみたいな存在も立派な神様なの。それに、埴輪はずいぶんマシな身体よ。日本人はなんでもかんでも祀るから、依代も山だったり、川だったり、木だったり……。ね、身体があっても動けないの」
私は思わず笑ってしまった。
「そうだったんですね。だったら、私と同じ悩みを持ってる神様も……」
「いっぱいいるでしょう。それとも、みんな案外なんにも気にしてないかも」
「偶像人生の先輩たちかぁ」私はうっとりと溜め息をついた。「まったく、夢のような現実だわ」
「あなたならどこへでも行けるわ」袿姫様は私の瞼を指でなぞり、慈悲心に満ちた表情で言う。「あなたは私の子で一番強くて、一番美しくて、一番愛おしい娘なんですから」
「袿姫様……」再び涙が出そうになるのをぐっとこらえて、私は胸の前で拳を握った。「私は埴輪兵士です。他の世界のことも気になりますが……、今はまだ、この霊長園の警備だけに全霊を注ぎます!」
「……ありがとね」
袿姫様は私を立たせると、いろいろな角度から確認し、やがて大きく頷いた。
「それと一応、霊魂の件なんだけど。あれはやっぱり、我慢してもらっていいかしら?」
「あ、はい。もう大丈夫です。でも、なにか不都合があるんですか?」
袿姫様は表情を曇らせた。
「まず第一に、埴輪兵士に霊魂を宿したら、動物霊どもの攻撃が防げなくなってしまうでしょう? あなた一人を特別扱いは……できなくもないけど、戦力には若干の不安が生まれる」
「高く評価していただけていると、前向きに受けとめます」
「もう一つの理由は、あなた自身の問題よ」
「私の、ですか?」
袿姫様はさらに渋い顔になり、真剣な面持ちで私に向き合った。
「この身体に新たな霊魂を宿すというのは、その霊魂と今の磨弓の精神が深く混ざりあってしまうということ。それこそ、本当に磨弓が磨弓じゃなくなってしまうのよ」
「それは……そうか。本末転倒な気がしますね」
袿姫様は机の上にあった鑿をポケットにしまいながら、白状するように話し始めた。
「埴輪たちには、人間霊へ過度な接触をしないよう言っているでしょう? あれだって本当は、あなたたちが霊に取り憑かれてしまうのを防ぐためなのよ。万が一ってこともあるからね」
「そうだったんですね。私はてっきり、いつか人間霊を酷使するときのために情が湧かないようにしているのかと」
「あら、私だって元は人間よ。同族にそんな酷いことをする気はないわ」
「し、失礼しました! では袿姫様、私はそろそろ……」
「うん。また何か困ったことがあれば……あっ! 待って待って」
巡回に戻ろうとした私を呼び止め、袿姫様は珍しく不安そうな表情を見せた。
「忘れるところだったわ。磨弓、あなた今日の巡回中になにか……嫌な気配を感じなかった?」
「嫌な気配、ですか?」私は首をひねり、記憶をたどる。「いえ、特には。なにかお気付きになったんですか?」
袿姫様は少し考えたあと、小さく息を吐いて言った。「いいや、ごめん。きっと気のせいね」
それから少しの時が経ち、私の心はすっかり落ち着きを取り戻していた。
初めは袿姫様に恥ずかしい姿を見せたと悔やんだりもしたが、袿姫様は今回の件を重く受け止め、なんと我々に十二時間おきの休憩時間を義務づけてくださった。肉体的な休息は不要であっても、心を休める時間が必要だと判断されたのだろう。
これには他の埴輪兵士たちも大喜びだった。誰も表立って言わなかっただけで、本当はみんな心が擦り切れかけていたようだ。
私たちの身体は土と水でできている。だけど、心は案外普通だった。それは普通の生き物と同じように、脆くて壊れやすいモノだった。
偶像も、神も、生者も、死者も。人間霊も、動物霊も、袿姫様も、私も……。根っこはなにも変わらない。みんな同じ心を持っていたんだ。
もう自分の存在に疑いを持つこともない。
私は、私だ。
もしあの人間霊にもう一度会えたなら、大事なことを気付かせてくれたお礼を言いたい。
ただ、霊長園の人間霊はあまりに多く、私はあの子の名前すら知らない。偶然出会う確率は絶望的だ。
――探してみようか。
あの子の容姿には特徴が無いが、特徴の無さが特徴とも言える。あやふや過ぎる輪郭やしゃべり方、背の高さなんかを手がかりに聞き込めば、見付けだすこともできるかもしれない。
善は急げだ。私は人間霊たちに聞いて回ることにした。
何人かの霊に話を聞いた結果知ることができたのは、彼らが周囲に一切関心を払っていないという事実だけだった。
見ず知らずの他人のことなど誰も覚えていない。それ以前に、彼らはなんとか思い出そうという素振りすら見せなかった。
私はここが地獄の一部であることを思い出した。こんな所にいる霊魂に、善良な人間性を期待する方が間違いなのかもしれない。
では、あの子は?
私が探しているあの人間霊も、生前の行いが良くなかったのだろうか。
……いや、そんなことは関係ない。顕界での罪の一つや二つ、この弱肉強食の畜生界では吹けば飛ぶようなものだろう。
私は諦めず、もうしばらく聞き込みを続けることにした。
「すみません、霊を探しているのですが」
「……はぁ」
「私より少し小さくて、髪型も服装も定まっていない希薄な人間霊です。どこかで見かけませんでしたか?」
「……はぁ」
老人の姿をした霊魂は指で額を突っつきながら、たっぷり十秒以上も考え込んだ。
「あの……ご存じないようでしたら、もう大丈夫ですよ?」
諦めかけたそのとき、老霊がハッと顔を輝かせた。
「そうそう! 思い出したよ埴輪さん!」
「えっ!? 本当ですか!?」
「一、二時間くらい前かなぁ。そんな感じの子を見た気がする」
「どこで?」
「どこって……霊長園の出口の近くじゃよ」
嫌な震えが全身に走った。
老人が視界から消え、足元の芝生が抉れ飛ぶ。
思考するよりも早く、私は全速力で霊長園の出口へ向かって駆け出していた。
間違いない。あの子は霊長園の外に出たんだ。それも、私のせいで。
霊長園の門は瞬きをする間に通り過ぎた。
やはり見張りは立っていない。私のせいだ。あのとき、ちゃんと袿姫様に報告していれば!
私は地面を蹴りつけ、その場で数十メートル上昇した。
視界に入るのは無数のビルに、休憩中の埴輪兵士たち、そして、獰猛な動物霊ども。
「クソッ! まだ先か!!」
私はまっすぐ北に向かって飛んだ。
あの子の目的が私に見つけてもらうことだとすれば、きっと複雑な経路はたどっていない。出口から直進しているはずだ。
胸の辺りがざわざわする。心臓も肺も無いのに、どんどん呼吸が荒くなる。
飢えた動物霊に見つかれば、人間霊などひとたまりもない。
あの子は依然見つからない。動物霊がいる。まずい。本当に間に合わなくなる。
やがてビル群も見えなくなり、真っ黒な業風が吹き荒れ始めた。
パチパチ、バチバチという音が激しさを増すにつれ、焦りと絶望が際限無く膨らんでいく。
ここまで来ると巡回する埴輪兵士の姿も見えない。視界に入るのは動物霊ばかりだ。
どこからか叫び声が聞こえた。
私は矢のように自らを加速させる。
すぐに声の聞こえた辺りに降りたが、砂嵐のせいでなにも見えない。
「どこにいる!?」
私は声の限りに叫んだ。風と砂の弾ける音に掻き消され、あの子からの返事は聞こえてこない。こちらの声も届いていないのかもしれない。
風に乗って再び悲鳴が聞こえた。反射的に振り返ったが、改めて耳をすますと、人間の悲鳴のような音は四方八方からやってきている。もはやどれが風の音で、どれが助けを求める叫び声なのかは判別のしようがなかった。
私は狂ったように叫びながら砂嵐の中を進んだ。泥土に足を取られるたびにひっくり返り、大量の砂と汚泥が口の中に入り込んだ。
私は何回も立ち上がり、口の中の泥を吐き捨て、前へ進み、足を取られ、砂の山に顔面を埋め、立ち上がり、口の端から砂を垂れ流し、幻聴を追って彷徨い続けた。
何十年ほどそうしていたのだろう。あるいは、十分にも満たない時間だったのだろうか。気まぐれな業風は、なんの前触れもなく収まり始めた。
声を張り上げようとしたが、咳込んでしまい上手く叫べない。喉に詰まった泥を掻き出そうとして口の奥に指を突っ込んだ。全身が痺れるような不快感の直後、私は腹に溜まっていた大量の土砂を雪崩のように吐き出した。
気付けば辺りは嘘のように静まり返っていた。
「どこに……いるの……」
そのとき、背後から物音が聞こえた。
私は尽きかけた気力を振り絞り、音のした方へ顔を向けた。
「あ……」
そこにはぐったりと動かなくなった人間霊と、その体を取り合うように貪っている数匹の動物霊の姿があった。
痩せこけた犬の霊が脇腹を食い破り、中からなにか細長い管のようなものを引っ張り出そうとしている。犬は人間霊の腹を前脚で押さえつけ、咥えていた管を一気に引いた。管の先にずるりと大きな臓器がついてきた。いっしょに抜けたものが胃袋であると気づいた途端、犬は僥倖とばかりに目の色を変えて喰らいついた。
辺りにもすでに喰い散らかされた臓物の破片が散乱し、まるで生ゴミの集積場のようになっている。少し離れたところでは、別の動物霊がほっそりとした棒状のものを一心不乱にかじっていた。腕なのか、それとも脚なのかはよくわからない。
さらに別の一匹は、その大きな顎で人間霊の頭を挟みつけ、今まさに頭蓋骨を噛み砕こうとしている最中だった。左目の眼底に巨大な犬歯が食い込んでいき、そのまま木の枝を折るみたいに頭が潰れた。右目は先に喰われたらしく、ぽっかりと空いた空洞が埴輪の目のように揺れている。
手足は一本残らずもぎ取られ、胴体の損傷も甚だしいが、生命の象徴たる血液はただの一滴も出ていない。
青白い体。青白い顔。青白い脂肪と筋肉と背骨。
裂けた頬からだらりと垂れたかわいらしい舌だけが、唯一、目の覚めるような赤だった。
「あぁ……」
私は真っ白になった。
これは現実?
それとも夢?
なにも見たくない。こんな現実があってはならない。
頭がぐらぐらする。
身体の芯になにかが入り込んでくる。
動物霊が私に気付いた。
だからなに?
どうでもいい。
私は真っ黒になった。
視界の端で動物霊の首が刎ね飛んだ。世界がぐるりと回転し、もう一匹の胴が真っ二つに割れる。
逃げ出そうとした最後の一匹は刀で背中を突き刺され、身動きできなくなったところを何度も何度も何度も殴りつけられた。
私はその一部始終をまるで夢のなかにいるようなきぶんでながめていた。
いつのまにかりょうてにひびがはいっている。あれ、ゆびってなんほんだったっけ。かたかたかたかたとふるえてうまくかぞえられない。
ああいやだな。まるでげんじつのようなゆめだ。
そう、これはゆめ。ゆめだ。ゆめなんだ。
身体を打ち続ける砂の音だけが、私を現実から逃がさなかった。
私は誰だろう。
なぜだか、たまにそんな言葉が頭をよぎる。
実にくだらない問いだ。
自己とは、自ら掴みとるもの。あらゆる者は常に移ろい、自らが欲したモノとなる。
私はこの偶像の身体と、人々の想いで形作られた精神が、杖刀偶磨弓という自分が好きだ。少し前までは深く思い悩んでいたような気もするが、今にして思えばあれは一種の精神病のようなものだった。
私はあれから考えを変えた。
この世に確かなものなんて無い。揺るがない自己なんてものも無い。無敵の身体を持つ私だろうと、絶対的な力を持つ袿姫様だろうと、どうせいつかはあの人間霊のように、無慈悲で砂を噛むような最期が待っている。
だからこそ面白い。
私の心は縛られない。身体なんかに、神程度に、世界ごときに縛られない。
私とは、無限だ。
霊長園の外からなにかが飛んでくる。
侵入者か、それとも護るべき人間霊か。
それは雨のような弾幕の隙間を縫いながら、一直線に霊長園へ向かっているようだ。
紅白の少女が目の前で止まった。
「人間?」私は訝しみながら声をかける。「さっさと霊長園に戻らないと、飢えた畜生達に捕らわれるよ」
「霊長園?」あら。誰かと思えば、楽園の巫女じゃない。「後ろの鍵穴みたいな奴かしら」
「霊長園を知らないだって?」
――楽園の巫女?
「と言うかお前……畜生界の人間霊じゃないな!」今のはなんだろう。「生身の人間だ!」
私はこんな奴は知らない。見たこともない。
「どうやって、この究極の弱肉強食の畜生界で生き延びてきた?」
まあ、……別に良いか。
「私はここの住人じゃなくて、動物霊達を退治しに地上からやって――」
私は誰だろう。
私はあなた。
あなたは誰だろう?
もちろん、私。
私は杖刀偶磨弓だ。
もちろん。それ以外の何者でもない。
では……杖刀偶磨弓とは、誰だろう?
いやだなぁ。そんなの、決まっているじゃないか。
霊長園には埴安神袿姫に造られた埴輪兵士がうじゃうじゃいる。
杖刀偶磨弓とは、そのなかでも最も強く、最も賢く、最も愛され、最も自由で、そして、
最も美しいボクのことさ。
磨弓のある種の成長を感じたと同時に「人間らしさ」も出てきたな、と思ったらあの文ですよ……ヤバイ……
袿姫様の言った「人間霊に取り憑かれる」というのも憑依と"俺たちの心の中で生き続けるんだ……"的なアレの2つの意味があったのかも……(例の人間霊は動物霊に喰われてしまったので個人的には後者だと思いますが)
など、読み終わった後色々考えても楽しめる作品でした。ありがとうございます
鬼で一番好きなキャラに目を向ける良い機会になりました!
業風に巻き上げられた砂が磨弓の空洞の身体にばちばちと当たっていく描写も全体の乾いた空気感につながっていて良かったです
各所に散らばめられた不気味を暗示する記述、
そしてラストシーンの急転直下……とても面白かったです。