帝国挙兵の報に城内は浮き足立っていた。
その報せを伝えて回る人々の顔には困惑と狼狽あるいは悲嘆。けれどもその裏には本国がようやく救援に動いたという露骨な安堵があった。
これでようやく邪悪な吸血鬼の支配から解放される、と。
「黙れ」
主の冷淡な呟きはざわつきにの中にもよく響いた。
氷を浴びせられたように臣下たちが沈黙すると、宣戦の声明を読み上げる使節が魔法の杭で串刺しになる音が続いた。それはまだ序文だったが、何を言おうとしているのかなど今更聞くまでもない。
レミリアがこの荘園を支配するようになってから五十日が経っていた。吸血鬼の少女は眉を顰め、不快の情を露わにして指先で死体を片付けるように指示する。
この地が隆盛の頂点にある帝国に属していることなど興味はなく、豊かな税収が得られる恵穣の地であることもどうでもよかった。
ただ広すぎず狭すぎず、十分な人口があり立派な城塞がある。それだけだった。
丸く肥えた前領主が蓄えていた黄金と玉石を溶かして拵えた玉座で頬杖をつき、眼下で凍りつく有象無象に問う。
「そういえば確認していなかったわね。この地に軍隊はいるのかしら」
「軍隊は貴女が全て殺しました」――誰もが答えを持っていたが、口を開くものはなかった。時が止まったような城間に、石造りの床に突き刺さった死体を片付ける小間使いだけが動いている。
しかし此度レミリアが求めるのは沈黙ではない。
ざん、と串刺しの音が再び静寂を裂く。前秘書官であった男の頭が口から無数の杭を吐いて狼狽える間もなく死んだ。
「この地に軍隊はいるのかしら」
「いません!今は!」
串刺しの隣で一人の男が恐怖に駆られて叫ぶ。次は自分だという直感があった。
「前領主の命で……みな死にました」
「前領主の?ああ、あれが軍隊。だったらいてもいなくても同じね」
溜息を吐いて、レミリアは玉座から立ち上がる。
階下を見渡しても優れた軍隊を率いるような人材は見当たらなかった。肉付きのいい体が驕り貪る性質を体現している。
所詮あの肥え太りに癒着していた蝿どもだ。そうであるならば、それらを区別することに意味はない。
「お前と、お前と、お前。さっきの使節の首を持って敵陣へ。そのまま皆殺しにしておいで」
「わ、私が?」
いずれも軍事に関わるような者ではないのだろう。指名された男たちは一様に自らを指差して信じられないという顔をした。
無論、それが一騎当千の働きをするなどとは考えていない。
「我々は、」
彼らは口を開くもレミリアが指を鳴らすと一斉に斃れ、そして立ち上がった。
融け落ちた眼球からは黒い焔が立ち上り、明らかに既に人ではない。直前まで舌上にあった反論など消え失せている。
多少の損傷は即座に再生し、ただ殺戮のみを旨とする。帝国が差し向けた兵力の数が如何程かは知らないが、人の理を逸脱した兵器は数百、あわよくば千の数を滅ぼすだろう。
「他に志願者はいるかしら?」
微笑みかけると少なくない人数が立候補した。期待したよりも多い数だったが構わない。
熱心な立候補者たちは一斉に広間の出口に向かって駆け、悲鳴をあげ床を這い狂乱して――沈黙した。
†
「大いなる我らが女王、レミリア・スカーレット陛下。気高き紅の玉座にお招きいただき光栄でございます」
空気の澄んだ夜だった。
滴るように熟れた満月と、ひどい渇きをよく覚えている。
臙脂色のローブに身を包んだ少女たちが階下に平伏して、それぞれの口上を述べていた。
「我らハイレンベルゲの月光にて清められた極上の血、齢十四の今日に至るまで純潔であることのみを旨とし栄えあるこの場に供されるべく努めてまいりました」
七人か、八人、それくらいの人数。彼女らはなるべく個性の出ないよう均一に、淡々と発声していく。
まるで複製されたかのような一群。目深に被ったローブも、それぞれに異なる貌を隠すためのものである。
至高の製品は一律に等しく整えられているべきであり、不揃いであることは主の不興を買う冒涜に他ならないことを荘園の隷たちは幾つかの悲劇から学んでいた。
「ご苦労」
いかなる賛美も渇きを満たさない。だがレミリアは冗長な謳を遮ろうとはしなかった。
疼くような飢餓は貪欲に血を催促するが、吸血鬼である以前に貴族であるという矜持がそれを抑えている。
貪り食うかつての同胞たちは、いずれも惨めに死んでいった。誇りのない獣であったゆえに。
品位とは鎧であり、身を飾ると共に護るものでもある。そしてそれは作法にこだわるからこそ輝かしく高められるのだ。彼女はそう信じている。
やがてそれぞれの供物を吐き出し終え、贄の少女たちは平伏したまま両腕の内を主に向けて掲げた。
荘園の民はいずれもレミリアにとって血を沸かす生ける泉であり、庇護の見返りとして定期的に血税を捧げることにしている。手首に刻まれる献血の痕は彼女の隷であることを示す刻印だった。
しかし直接の馳走たる宿命の子として育てられた彼女らは特別で、いずれも無傷で白く無垢な肌が保たれている。手首の内を晒す姿勢はそれを証明するものである。
陶器のような十数本の腕は、いずれも暗闇と月光によく映えた。
「いい子ね」
贄の一人が突如床に空いた穴に落下するように、音もなく闇に融けた。
彼女らも生物であるゆえに痛覚をもち、自分にとって児戯のような刺激でも醜く狂乱することをレミリアは理解している。静かに一呑みにするのは彼女なりの慈悲であり、貴きものとして食事を優雅にこなすための流儀でもあった。
影の口腔が少女を擂り潰すと、体内に甘く濃厚な充足がはじけた。
ひとつ、またひとつ。唇を舌で撫でながら、均一に並んだ少女たちを摘んでいく。
贄たちは腕を掲げ、同じ農園で育った血の姉妹を見送り、黙して自分も闇の胃袋に落ちていくのを待っていた。
「さて」
やがて二人の贄が残された。
「ひとつは骨が多くて、ひとつは錆臭い。ハイレンベルゲの農園も地に落ちたものね」
レミリアは立ち上がる。玉座の間に冷たい風が吹いた。
一人はローブの下に無数の銀の刃を隠し持っており、一人は水銀を服用している。
「懺悔があれば聞いてみたいものだけど。まずは致死量の水銀で死にそうなあなたから」
指差した少女が崩れ落ちる。水銀の毒が十分に回ったのかとも思ったが、舌を噛んだらしい。蹲った顔面から血の湖畔が広がった。
「あら」
片割れの覚悟の死に触発されて、銀刃の娘もその刃の一片を自らの首に当てる。
「あなたは逃がさないわよ」
レミリアは捕食の影を操って刃もろとも娘の手首を消滅せしめた。痛みと恐怖に開いた口に、すかさず影を差し込んで自害を阻む。
「どうしてかしらね、お前みたいな輩が後を絶たない。重税と弾圧が好きな肥え太った領主の方がましだった?生きてれば湧いてくる血を捧げるよりも、汗水垂らして育てた麦と肉と金を奪われ続ける方がお好きなのかしら」
階段を下り、影に轡された少女のローブを下ろす。農園で養殖された人間らしく個性のない顔立ちだ。恐怖に見開いた目は充血して、滝のような涙が溢れている。
「ハイレンベルゲの農園は解体。馬鹿な施設の連中の身体もね。それだけの刃、腕に覚えがあるのでしょう?あなたも彼らの屠殺を手伝ってくれるのなら生かしておく理由になるのだけれど」
娘の身体が震える。激化する病的な痙攣は恐怖のそれを超えていた。火薬の匂いがする。
「ああ、そう」
レミリアは身を翻して玉座に翔び戻る。見下ろす少女のローブが膨らんだかと思うと轟音と閃光、追って煙と衝撃に弾かれた銀の刃が玉座の間に飛散した。
そのうちのひとつを吸血鬼の卓越した動体視力が捉える。まるで少女の遺志に導かれるように真っ直ぐ玉座に及んだそれを、強靭な蝙蝠の羽が弾き落とした。
焼け跡だけになった儀式の間を見てレミリアは溜息を吐く。足元に落ちた刃を階下に蹴落とした。
この頃には、もはや城にそれを片付ける人間はいなくなっていた。
捕食の影を床に這わす。
焼けた刃も水銀に穢れた血痕も、小さな叛逆の痕は無為に彼女の胎内に消えていった。
†
愚かなことだ。
銀の矛先を受け止めながら、レミリアは思う。
単身で城に踏み込む気概は買うが所詮人の身である。翻った袂は金の刺繍が幾重にも編み込まれており、教会の傲慢な虚飾を体現していた。
卑鉄に申し訳程度の銀を貼り合わせただけの刃を素手で握るなど造作もなく、掌を硬化の魔法で覆うまでもない。
掌握の指先で刃に刻まれた文様を撫でる。祝福とやらが施されたそれはレミリアの肌を焦がすことさえせず、所詮は欺瞞であるらしい。
その文様に教会の謳う魔を祓う力があるとすれば、この指は確かに邪悪であるはずだが。
欺瞞であれ信仰によって当人の志気が高まるのであればまあ良かろうが、誇大な解釈のもと身を滅ぼすとなれば哀れといわざるを得ない。
さっさと手を離して次の武器を取る、もしくは逃げ出せばいいものを。
レミリアがぼんやりとそんなことを思っていると、教会の使徒は渾身の力を込めて何某の聖槍だとか、死んでも離さないだとか、そういうことを宣った。
摂理を信仰と力学で覆せると思っているらしい愚者の背後に目をやると、無数の灯が群集を照らしていた。荘園の隷たちだ。
教会に唆されたのだろう。気を配ってはいたが、連中はどれほど戸締りをしても隙間から入り込んで人々を誑かす。まるで教会が忌み嫌う楽園の蛇そのものではないか。
悲しいかな、レミリアの長い生涯においては見慣れた光景だった。
恐怖も規律も威光も慈悲も理屈も暴力も……人々を支配し得ない。どうしてか遂に彼らは狂い、自滅の道を進むのだった。
あまりに足掻くのが憐れになり、掴んだ槍を放してやる。
「覚悟しろ、悪魔め!」
何を期待したわけでもないが、案の定その矛先は再び自分に向かった。先程通らなかった刺突が、なにゆえ次は通ると思ったのだろう。
ああ、きっと愚か者は――それゆえに何度でも繰り返す。
火を持った群集が迫る。
彼らの目は須らく聖槍が悪しき吸血鬼を貫き、浄化の火がその骸を跡形も無く焼き尽くすという白昼夢を見ている。
その果ては教会の私腹を肥やすために畑を耕し金を掘り、欺瞞の文様に跪く隷属の日々であるというのに。
「弁えなさい、所詮お前たちは血の泉」
平手打ちを使徒の頬に当てる。
ただそれだけでその頭部は粉々に砕け、頭蓋骨と脳漿を噴き上げた。
死んでも離さないと喚いていた槍を力の入らなくなった手から奪い、狼狽する群集へ向ける。
静寂にレミリアの布告が響き渡った。
「全員、直ちに元の暮らしに戻りなさい」
取り返しのつかない愚行も寛大にも赦そう、この程度の過ちを咎めていたら限がない。
頭部と聖槍を失い、崩れ落ちる欺瞞の使徒。自分たちが縋ろうとしているものの正体をその目で見るがいい。
「今日は何事も起きず、どこぞの教会の干渉もそもそも無かった。どうかしら?」
精一杯の慈悲を束ね、痺りつく彼らに優しく微笑んだ。つもりだった。
だが素手で人間の頭蓋を砕き、崩れ落ちる死体の返り血を浴びながら笑む姿は群衆にとって慈悲深い存在とは見なされなかったらしい。
発端は誰からともなく、悲鳴じみた喊声と共に恐慌の火蓋は切って落とされた。
彼らの衝動を映すように、火は見境なく放たれ瞬く間に拡がる。冬のはじめの風は乾いており、収穫期を終えた村は藁に溢れていた。
破滅の崖を踏み越えた彼らに、もはやどんな言葉も届かない。
炎の逆光を背負った群衆は蠢く一つの影となり、レミリアに押し寄せた。
この期に及んでなお支配の術を探っている自分が可笑しくなり、自嘲がこぼれた。それからようやく苛立ちを覚える。
一歩踏み出すと、石畳の道が冷たく靴底を鳴らす。
結局のところ、何もかもが思い通りにならない。
「いい加減、目を醒ましなさいな。くだらない夢はここで終わり」
諦めと共に呟く言葉は狂騒にかき消され、いつも通り無力に融ける。
皮肉なことに、聖槍とかいう鈍は彼らを戮して回るには随分と勝手がよかった。
†
目を開くと見慣れた天井があった。
安楽椅子が自分の身体を緩やかに漂わせている。
暖炉には灯が燈っており、部屋を満たす温もりと薪のはじける音が心地いい。
随分と寝ていた気がするが、薪は新しく、灰がちになっていなかった。
懐かしい夢に気分が悪い。
終ぞ、自分は彼らを支配することができなかった。
「…………」
もはや夢は醒め、今となってはどうでもいい。
「咲夜」
かぶった覚えのない毛布を寝台に放り投げ、従者の名を呼ぶ。
「はい、お嬢様」
一枚の扉を挟んで即座に咲夜は応えた。寝覚めの不機嫌さをそのままに一言「紅茶」とだけ告げる。
「承知しました」
咲夜が去ったあと、必要最低限の時間を安楽椅子に揺られて過ごす。
六十秒で湯が沸き、カップは二十秒で温められ、四十秒で茶葉が抽出される。
彼女はとても有能で、殊、時間については寸分の狂いも起こさない。わざわざ数えてはいないが、きっとちょうど百二十秒。淹れたての紅茶が届けられた。
「ご苦労様」
琥珀色の水面からは加蜜列の香りが漂う。
十字架と同じで、この魔除けの香草も別段嫌いではなかった。透き通る葉の香りと仄かな甘みは善と悪を区別しない。
一口啜ると程よく融けた蜂蜜が強張っていた頬を綻ばせた。
「悪い夢でも?」
咲夜が問う。
一口の紅茶に洗い流されてしまう取るに足らない記憶である。レミリアははにかんだ。
「悪魔が悪夢を見ると思う?私はいつだって悪夢を見せる側よ」
「なるほど」
咲夜も笑った。我ながら上手いこと言ったと思う。
「でも美味しいわ、ありがと」
紅茶を啜る。
悪い寝覚めはすっかり失せていた。
思い返せば、随分と躍起になっていたものだ。
支配したかった。服従させたかった。
それを叶えたその果てに望むのは一杯の紅茶と下らない冗句。ただそれだけだというのに。
「ねえ、咲夜」
「はい、何なりと」
安楽椅子に凭れ、首を上げて咲夜を見る。
次の命令を待つ彼女は遊んでもらえると察した子犬のようで、もしその尻に尻尾があれば大いに振り回していることだろう。
続く言葉を考えるが……別段何も思いつかない。
咲夜は催促することもなく、ただ嬉しそうに自分の言葉を待っている。
奇妙な沈黙さえ満たされていて、それがなんだか可笑しかった。
自分が言い始めたことで見詰め合うのもやがて恥ずかしくなり、重心を戻して紅茶を飲み干す。仄かな蜂蜜の甘さは、尽きると途端に恋しくなった。
紅茶の器は中身が枯れてなお温かく、白磁の底に探していた支配の言葉を見つけ出す。
「仰せのままに」
咲夜は満面に笑み、差し出したカップを受け取った。
その報せを伝えて回る人々の顔には困惑と狼狽あるいは悲嘆。けれどもその裏には本国がようやく救援に動いたという露骨な安堵があった。
これでようやく邪悪な吸血鬼の支配から解放される、と。
「黙れ」
主の冷淡な呟きはざわつきにの中にもよく響いた。
氷を浴びせられたように臣下たちが沈黙すると、宣戦の声明を読み上げる使節が魔法の杭で串刺しになる音が続いた。それはまだ序文だったが、何を言おうとしているのかなど今更聞くまでもない。
レミリアがこの荘園を支配するようになってから五十日が経っていた。吸血鬼の少女は眉を顰め、不快の情を露わにして指先で死体を片付けるように指示する。
この地が隆盛の頂点にある帝国に属していることなど興味はなく、豊かな税収が得られる恵穣の地であることもどうでもよかった。
ただ広すぎず狭すぎず、十分な人口があり立派な城塞がある。それだけだった。
丸く肥えた前領主が蓄えていた黄金と玉石を溶かして拵えた玉座で頬杖をつき、眼下で凍りつく有象無象に問う。
「そういえば確認していなかったわね。この地に軍隊はいるのかしら」
「軍隊は貴女が全て殺しました」――誰もが答えを持っていたが、口を開くものはなかった。時が止まったような城間に、石造りの床に突き刺さった死体を片付ける小間使いだけが動いている。
しかし此度レミリアが求めるのは沈黙ではない。
ざん、と串刺しの音が再び静寂を裂く。前秘書官であった男の頭が口から無数の杭を吐いて狼狽える間もなく死んだ。
「この地に軍隊はいるのかしら」
「いません!今は!」
串刺しの隣で一人の男が恐怖に駆られて叫ぶ。次は自分だという直感があった。
「前領主の命で……みな死にました」
「前領主の?ああ、あれが軍隊。だったらいてもいなくても同じね」
溜息を吐いて、レミリアは玉座から立ち上がる。
階下を見渡しても優れた軍隊を率いるような人材は見当たらなかった。肉付きのいい体が驕り貪る性質を体現している。
所詮あの肥え太りに癒着していた蝿どもだ。そうであるならば、それらを区別することに意味はない。
「お前と、お前と、お前。さっきの使節の首を持って敵陣へ。そのまま皆殺しにしておいで」
「わ、私が?」
いずれも軍事に関わるような者ではないのだろう。指名された男たちは一様に自らを指差して信じられないという顔をした。
無論、それが一騎当千の働きをするなどとは考えていない。
「我々は、」
彼らは口を開くもレミリアが指を鳴らすと一斉に斃れ、そして立ち上がった。
融け落ちた眼球からは黒い焔が立ち上り、明らかに既に人ではない。直前まで舌上にあった反論など消え失せている。
多少の損傷は即座に再生し、ただ殺戮のみを旨とする。帝国が差し向けた兵力の数が如何程かは知らないが、人の理を逸脱した兵器は数百、あわよくば千の数を滅ぼすだろう。
「他に志願者はいるかしら?」
微笑みかけると少なくない人数が立候補した。期待したよりも多い数だったが構わない。
熱心な立候補者たちは一斉に広間の出口に向かって駆け、悲鳴をあげ床を這い狂乱して――沈黙した。
†
「大いなる我らが女王、レミリア・スカーレット陛下。気高き紅の玉座にお招きいただき光栄でございます」
空気の澄んだ夜だった。
滴るように熟れた満月と、ひどい渇きをよく覚えている。
臙脂色のローブに身を包んだ少女たちが階下に平伏して、それぞれの口上を述べていた。
「我らハイレンベルゲの月光にて清められた極上の血、齢十四の今日に至るまで純潔であることのみを旨とし栄えあるこの場に供されるべく努めてまいりました」
七人か、八人、それくらいの人数。彼女らはなるべく個性の出ないよう均一に、淡々と発声していく。
まるで複製されたかのような一群。目深に被ったローブも、それぞれに異なる貌を隠すためのものである。
至高の製品は一律に等しく整えられているべきであり、不揃いであることは主の不興を買う冒涜に他ならないことを荘園の隷たちは幾つかの悲劇から学んでいた。
「ご苦労」
いかなる賛美も渇きを満たさない。だがレミリアは冗長な謳を遮ろうとはしなかった。
疼くような飢餓は貪欲に血を催促するが、吸血鬼である以前に貴族であるという矜持がそれを抑えている。
貪り食うかつての同胞たちは、いずれも惨めに死んでいった。誇りのない獣であったゆえに。
品位とは鎧であり、身を飾ると共に護るものでもある。そしてそれは作法にこだわるからこそ輝かしく高められるのだ。彼女はそう信じている。
やがてそれぞれの供物を吐き出し終え、贄の少女たちは平伏したまま両腕の内を主に向けて掲げた。
荘園の民はいずれもレミリアにとって血を沸かす生ける泉であり、庇護の見返りとして定期的に血税を捧げることにしている。手首に刻まれる献血の痕は彼女の隷であることを示す刻印だった。
しかし直接の馳走たる宿命の子として育てられた彼女らは特別で、いずれも無傷で白く無垢な肌が保たれている。手首の内を晒す姿勢はそれを証明するものである。
陶器のような十数本の腕は、いずれも暗闇と月光によく映えた。
「いい子ね」
贄の一人が突如床に空いた穴に落下するように、音もなく闇に融けた。
彼女らも生物であるゆえに痛覚をもち、自分にとって児戯のような刺激でも醜く狂乱することをレミリアは理解している。静かに一呑みにするのは彼女なりの慈悲であり、貴きものとして食事を優雅にこなすための流儀でもあった。
影の口腔が少女を擂り潰すと、体内に甘く濃厚な充足がはじけた。
ひとつ、またひとつ。唇を舌で撫でながら、均一に並んだ少女たちを摘んでいく。
贄たちは腕を掲げ、同じ農園で育った血の姉妹を見送り、黙して自分も闇の胃袋に落ちていくのを待っていた。
「さて」
やがて二人の贄が残された。
「ひとつは骨が多くて、ひとつは錆臭い。ハイレンベルゲの農園も地に落ちたものね」
レミリアは立ち上がる。玉座の間に冷たい風が吹いた。
一人はローブの下に無数の銀の刃を隠し持っており、一人は水銀を服用している。
「懺悔があれば聞いてみたいものだけど。まずは致死量の水銀で死にそうなあなたから」
指差した少女が崩れ落ちる。水銀の毒が十分に回ったのかとも思ったが、舌を噛んだらしい。蹲った顔面から血の湖畔が広がった。
「あら」
片割れの覚悟の死に触発されて、銀刃の娘もその刃の一片を自らの首に当てる。
「あなたは逃がさないわよ」
レミリアは捕食の影を操って刃もろとも娘の手首を消滅せしめた。痛みと恐怖に開いた口に、すかさず影を差し込んで自害を阻む。
「どうしてかしらね、お前みたいな輩が後を絶たない。重税と弾圧が好きな肥え太った領主の方がましだった?生きてれば湧いてくる血を捧げるよりも、汗水垂らして育てた麦と肉と金を奪われ続ける方がお好きなのかしら」
階段を下り、影に轡された少女のローブを下ろす。農園で養殖された人間らしく個性のない顔立ちだ。恐怖に見開いた目は充血して、滝のような涙が溢れている。
「ハイレンベルゲの農園は解体。馬鹿な施設の連中の身体もね。それだけの刃、腕に覚えがあるのでしょう?あなたも彼らの屠殺を手伝ってくれるのなら生かしておく理由になるのだけれど」
娘の身体が震える。激化する病的な痙攣は恐怖のそれを超えていた。火薬の匂いがする。
「ああ、そう」
レミリアは身を翻して玉座に翔び戻る。見下ろす少女のローブが膨らんだかと思うと轟音と閃光、追って煙と衝撃に弾かれた銀の刃が玉座の間に飛散した。
そのうちのひとつを吸血鬼の卓越した動体視力が捉える。まるで少女の遺志に導かれるように真っ直ぐ玉座に及んだそれを、強靭な蝙蝠の羽が弾き落とした。
焼け跡だけになった儀式の間を見てレミリアは溜息を吐く。足元に落ちた刃を階下に蹴落とした。
この頃には、もはや城にそれを片付ける人間はいなくなっていた。
捕食の影を床に這わす。
焼けた刃も水銀に穢れた血痕も、小さな叛逆の痕は無為に彼女の胎内に消えていった。
†
愚かなことだ。
銀の矛先を受け止めながら、レミリアは思う。
単身で城に踏み込む気概は買うが所詮人の身である。翻った袂は金の刺繍が幾重にも編み込まれており、教会の傲慢な虚飾を体現していた。
卑鉄に申し訳程度の銀を貼り合わせただけの刃を素手で握るなど造作もなく、掌を硬化の魔法で覆うまでもない。
掌握の指先で刃に刻まれた文様を撫でる。祝福とやらが施されたそれはレミリアの肌を焦がすことさえせず、所詮は欺瞞であるらしい。
その文様に教会の謳う魔を祓う力があるとすれば、この指は確かに邪悪であるはずだが。
欺瞞であれ信仰によって当人の志気が高まるのであればまあ良かろうが、誇大な解釈のもと身を滅ぼすとなれば哀れといわざるを得ない。
さっさと手を離して次の武器を取る、もしくは逃げ出せばいいものを。
レミリアがぼんやりとそんなことを思っていると、教会の使徒は渾身の力を込めて何某の聖槍だとか、死んでも離さないだとか、そういうことを宣った。
摂理を信仰と力学で覆せると思っているらしい愚者の背後に目をやると、無数の灯が群集を照らしていた。荘園の隷たちだ。
教会に唆されたのだろう。気を配ってはいたが、連中はどれほど戸締りをしても隙間から入り込んで人々を誑かす。まるで教会が忌み嫌う楽園の蛇そのものではないか。
悲しいかな、レミリアの長い生涯においては見慣れた光景だった。
恐怖も規律も威光も慈悲も理屈も暴力も……人々を支配し得ない。どうしてか遂に彼らは狂い、自滅の道を進むのだった。
あまりに足掻くのが憐れになり、掴んだ槍を放してやる。
「覚悟しろ、悪魔め!」
何を期待したわけでもないが、案の定その矛先は再び自分に向かった。先程通らなかった刺突が、なにゆえ次は通ると思ったのだろう。
ああ、きっと愚か者は――それゆえに何度でも繰り返す。
火を持った群集が迫る。
彼らの目は須らく聖槍が悪しき吸血鬼を貫き、浄化の火がその骸を跡形も無く焼き尽くすという白昼夢を見ている。
その果ては教会の私腹を肥やすために畑を耕し金を掘り、欺瞞の文様に跪く隷属の日々であるというのに。
「弁えなさい、所詮お前たちは血の泉」
平手打ちを使徒の頬に当てる。
ただそれだけでその頭部は粉々に砕け、頭蓋骨と脳漿を噴き上げた。
死んでも離さないと喚いていた槍を力の入らなくなった手から奪い、狼狽する群集へ向ける。
静寂にレミリアの布告が響き渡った。
「全員、直ちに元の暮らしに戻りなさい」
取り返しのつかない愚行も寛大にも赦そう、この程度の過ちを咎めていたら限がない。
頭部と聖槍を失い、崩れ落ちる欺瞞の使徒。自分たちが縋ろうとしているものの正体をその目で見るがいい。
「今日は何事も起きず、どこぞの教会の干渉もそもそも無かった。どうかしら?」
精一杯の慈悲を束ね、痺りつく彼らに優しく微笑んだ。つもりだった。
だが素手で人間の頭蓋を砕き、崩れ落ちる死体の返り血を浴びながら笑む姿は群衆にとって慈悲深い存在とは見なされなかったらしい。
発端は誰からともなく、悲鳴じみた喊声と共に恐慌の火蓋は切って落とされた。
彼らの衝動を映すように、火は見境なく放たれ瞬く間に拡がる。冬のはじめの風は乾いており、収穫期を終えた村は藁に溢れていた。
破滅の崖を踏み越えた彼らに、もはやどんな言葉も届かない。
炎の逆光を背負った群衆は蠢く一つの影となり、レミリアに押し寄せた。
この期に及んでなお支配の術を探っている自分が可笑しくなり、自嘲がこぼれた。それからようやく苛立ちを覚える。
一歩踏み出すと、石畳の道が冷たく靴底を鳴らす。
結局のところ、何もかもが思い通りにならない。
「いい加減、目を醒ましなさいな。くだらない夢はここで終わり」
諦めと共に呟く言葉は狂騒にかき消され、いつも通り無力に融ける。
皮肉なことに、聖槍とかいう鈍は彼らを戮して回るには随分と勝手がよかった。
†
目を開くと見慣れた天井があった。
安楽椅子が自分の身体を緩やかに漂わせている。
暖炉には灯が燈っており、部屋を満たす温もりと薪のはじける音が心地いい。
随分と寝ていた気がするが、薪は新しく、灰がちになっていなかった。
懐かしい夢に気分が悪い。
終ぞ、自分は彼らを支配することができなかった。
「…………」
もはや夢は醒め、今となってはどうでもいい。
「咲夜」
かぶった覚えのない毛布を寝台に放り投げ、従者の名を呼ぶ。
「はい、お嬢様」
一枚の扉を挟んで即座に咲夜は応えた。寝覚めの不機嫌さをそのままに一言「紅茶」とだけ告げる。
「承知しました」
咲夜が去ったあと、必要最低限の時間を安楽椅子に揺られて過ごす。
六十秒で湯が沸き、カップは二十秒で温められ、四十秒で茶葉が抽出される。
彼女はとても有能で、殊、時間については寸分の狂いも起こさない。わざわざ数えてはいないが、きっとちょうど百二十秒。淹れたての紅茶が届けられた。
「ご苦労様」
琥珀色の水面からは加蜜列の香りが漂う。
十字架と同じで、この魔除けの香草も別段嫌いではなかった。透き通る葉の香りと仄かな甘みは善と悪を区別しない。
一口啜ると程よく融けた蜂蜜が強張っていた頬を綻ばせた。
「悪い夢でも?」
咲夜が問う。
一口の紅茶に洗い流されてしまう取るに足らない記憶である。レミリアははにかんだ。
「悪魔が悪夢を見ると思う?私はいつだって悪夢を見せる側よ」
「なるほど」
咲夜も笑った。我ながら上手いこと言ったと思う。
「でも美味しいわ、ありがと」
紅茶を啜る。
悪い寝覚めはすっかり失せていた。
思い返せば、随分と躍起になっていたものだ。
支配したかった。服従させたかった。
それを叶えたその果てに望むのは一杯の紅茶と下らない冗句。ただそれだけだというのに。
「ねえ、咲夜」
「はい、何なりと」
安楽椅子に凭れ、首を上げて咲夜を見る。
次の命令を待つ彼女は遊んでもらえると察した子犬のようで、もしその尻に尻尾があれば大いに振り回していることだろう。
続く言葉を考えるが……別段何も思いつかない。
咲夜は催促することもなく、ただ嬉しそうに自分の言葉を待っている。
奇妙な沈黙さえ満たされていて、それがなんだか可笑しかった。
自分が言い始めたことで見詰め合うのもやがて恥ずかしくなり、重心を戻して紅茶を飲み干す。仄かな蜂蜜の甘さは、尽きると途端に恋しくなった。
紅茶の器は中身が枯れてなお温かく、白磁の底に探していた支配の言葉を見つけ出す。
「仰せのままに」
咲夜は満面に笑み、差し出したカップを受け取った。
ともあれ、なかなか格好良くて素敵な作品でした。良かったです。