「まったくお前というやつは、どうして生まれてきたんだい?」
唐突に投げかけられたその言葉に、動揺が無かったといえば嘘になるだろう。しかしその動揺が、言葉の主の――造形神、埴安神袿姫の想定にあるものとは異なっているであろう事は容易に想像できた。してみると、返すべき反応もまた自然と一つに絞られるのだ。
「おはようございます。朝食はお召しになりますか?」
「お召すー」
こてん、と机に頭を転がせるようにして着席し、袿姫は目を閉じた。ふわりと机に広がる水色の髪は、まるで湖を思わせるようだと言えれば美しいのだろうが、泥や木屑が絡み染料でそこかしこを汚した様は、迷走の末に全てを諦めてインクをぶちまけたキャンバスのようだという程度がせいぜいだろう。
「ハニートーストです。どうぞ」
「埴輪だけに! ハニー! ぎゃはははははは!」
何が楽しいのか一人で勝手に笑いだし、挙げ句声が引きつり始めて呼吸困難の様子を見せる。今日はいつにも増してひどいな、と磨弓は嘆息した。
「つまりだね、私は失望しているんだよ」
「はあ」
たっぷりの砂糖をまぶし、その上からチョコレートソースをふんだんにかけたハニートーストをかじりながら(ついでにそのソースが盛大に飛び散って水色のキャンバスに新たな色味を加えた)、袿姫は磨弓を叱責する。
「この造形神が武を模して作り上げたお前が、正面から切った張ったの勝負で遅れを取るというのは、いかにも気に食わない。やられるにしても、もっと気の利いたやられ方が欲しいわけよ」
このところ袿姫が語ることは、もっぱら先日の騒動に集約されている。
畜生界の動物霊が繰り出した思いがけない奇策や、生身の人間が持つ底知れない力というのは、磨弓にして未知なる体験であり知見ではあったが、すでに終わった事でもある。世界がそのようにあるとして、それが磨弓の在り方にいかほどの影響をもたらすものでもない。それを定めるのは常に目の前の造形神に他ならない。
「倒され方にも工夫が必要というお話でしょうか」
「お前はユーモアが足りない。美しいだけの芸術は飽きられるものだよ。例えばそう、斬られて飛び散った血しぶきが私の居場所を指し示す地図になるとか、そういう感じの」
「私から血は流れませんが」
「がんばれ」
「努力します」
あの騒動以来、袿姫から磨弓への扱いは随分と変わった。
それまでの袿姫は磨弓を慈しむ事に余念がなく、事あるごとに褒めそやしてはキスをした。のみならず、抱きついて頬ずりするだの、服を脱がして鑑賞するだの、揉むだの噛むだの舐めるだのと暇さえあれば磨弓にひっついていた。
もっともそれは平時の話であり、気分が沈んでいる時の袿姫に不用意に近づいたりすれば、焼けた鉄串を投げつけられるような事もあったのは確かだ。泣きながら弱い力で何度も殴りつけてくるような事や、首を絞めてくれと頼んでくる事もあった(その時はうまく加減できず、泡を吹いて気絶した)。「全力で暴行して。泣いて懇願しても止めないで」と言われた時は、いったいどのタイミングで止めれば良いのか判断がつかず、定期的に「そろそろ止めますか」と聞いていたのが癇に障ったらしく、拗ねて一ヶ月ほど工房に閉じこもってしまった。どうすれば良かったのか、今でも判然としていない。
それらの事に比べて、今の袿姫は随分と大人しいと言って良いのだろう。磨弓への語り口は概ねそっけなく、まるで興味を無くしたかのようだ。しかし、そうかと言って磨弓が側仕えを離れる事は許可しない。今一度畜生界の支配に乗り出すのか、新たな場所に拠点を作るのか、いずれにせよ磨弓には埴輪兵団を指揮するという役目があるのだが、袿姫の側を離れられない以上はできる事も限られる。その代わりと言うように袿姫が投げかけてくる言葉は、おおよそ意図の掴みかねるような事ばかりだった。
「考えてみたら、偶像たるもの血の10リットルや20リットル流れないとダメだなぁ。埴輪に血液の循環機構でも組み込むか」
「では血液の回収をしてきましょうか? 人間のは骨が折れそうですが」
「いや、それだとせっかくの血が冷たくなっていけない。むしろ埴輪に生きた人間を組み込むか……」
袿姫の言葉はどんどん小さくなり、ついには口の中だけでつぶやくだけになる。それでも磨弓には充分聞こえるが、そうした時の袿姫の言葉に返事をすると、返事をしない時よりも気分を害する確率が高い事を磨弓は経験から学んでいる。
そしてこうした時の袿姫は、身体の方の反応にはとんと無頓着になる。磨弓は袿姫の手を引いて立ち上がらせ、浴室に連れて行って服を脱がせた。小さい世話役の埴輪が脱いだ服を運んでいくのを横目に、風呂椅子に袿姫を座らせ、石鹸を泡立てた手でその身体を丹念に洗う。髪は特に念入りに洗わねばならない。袿姫の水色の髪は非常に豊かで、全体にゆるいウェーブがかかっている為にゴミがまとわりつきやすい。ひどい時は虫が巣食っている。
髪を洗われている最中、袿姫は目を閉じないどころかほとんど瞬きもしない。泡が目に入ると流石に嫌がって暴れだすので、お湯で流す際は顔を上に向けさせる必要がある。
そして、そうして上向けられた袿姫の瞳が、まるで待ち構えていたかのように磨弓の目を捉える時がある。決して目を逸らしてはならないと語りかけるようなその目線は、ひどく磨弓を落ち着かない気持ちにさせた。全てを見透かされているような、暴かれ晒されるような感覚というのが、それに近いのかもしれない。
見透かされるも何も、この杖刀偶磨弓という存在は袿姫によって作り出されたもので、身体の隅々から思考の末端まで全てが袿姫の所有物だ。磨弓に関わるどのような事でも、それを袿姫が知らないという事はありえない。袿姫の指は磨弓の至る所に触れ、袿姫の目は磨弓の何もかもを見て、袿姫の声は磨弓の全てを支配していた。最初からそのようにして磨弓は作り出されたのだ。
袿姫に対して、見られたくないものも、見られてはならないものも、磨弓は決して持ち得ない。それでもそのような、羞恥かあるいは畏れのような感覚に襲われる事が、磨弓にはひどく不可解だった。
そしてそうした困惑が、まっすぐに袿姫の目を見据える磨弓の視線をわずかに揺らがせる。その揺れを見て取った時、袿姫はとても嬉しそうに笑みを浮かべる。それが何を意味するのか磨弓には分からないし、分かる必要もないのだろう。分かる必要があるのなら、彼女は自分をそのように作っているはずなのだから。
「役立たずめ」
とても、とても嬉しそうな笑顔で袿姫はそんな事を言う。そうした、迂遠さを忘れた直接の罵倒を放つ時、袿姫はいつでも心底嬉しそうにしていた。身体に触れる磨弓の手を気持ちよさそうに受け入れ、タオルで身体を拭き服を着せる磨弓を見下ろす目は楽しげだった。
磨弓は袿姫のそうした罵倒に弁明した事がない。それが真実であろうとなかろうと、磨弓のすべき事は変わらないし、それが不要となれば処分されるだけの事だからだ。
「昼食はいかがなさいますか?」
「はちみつー」
「それは料理ではありません」
「じゃあはちみつのはちみつ掛けにはちみつを添えてー」
磨弓は麩菓子を取り出して器に適当にあけ、蜂蜜を切らしていたので代わりに砂糖をまぶして机に置いた。
袿姫は食事に際して色々と要求はするが、結局のところ甘ければ何でも良いので、糖分量さえ一定値を確保していれば何を出されても喜んで食べる。一度、その辺の草に蜂蜜をまぶしたものを出してみた事があるが、何も言わずに食べていた。そういえば、その時は妙にニコニコと笑顔を浮かべていたような気もする。
「楽しいねぇ。ねぇ磨弓?」
「このところはお加減もよろしいようで、何よりです」
「病人みたいに言うない。天下の邪神さまだぞー。イドラデウスさまだぞー」
随分と機嫌の良い様子で袿姫は麩菓子をボリボリと貪る。糖分量がちょうど良かったのかもしれない。彼女にとって、甘味の具合がどの程度なら良いのかは日によって変わるらしく、最良の味付けを探る試みが諦めという結論に至ったのも昔の話。今では適当に調整しているのだが、不思議と昔よりも今のほうが気に入られる事は増えたように思う。
「霊長園が荒らされるのも久しく無かったし、あんな愉快な人間たちに出会えたのも僥倖だねぇ。お前たちを作っているだけでも楽しいのに、ますます面白い事がいくらでも出てきそうで、楽し死にしやしないか私は不安だよ」
「人間界に乗り込みますか? それとも畜生界を今一度……」
「それでも充分楽しそうだけどねぇ。お前はどうしたら良いと思う?」
目を細めて、袿姫はじっと磨弓を見つめる。その意味する所は問いか、あるいは脅しなのかもしれない。
お前に私を楽しませる事ができるのか、と。
「私にはいかようにも。袿姫様のお望みのままに動くだけですので」
袿姫は全く表情を変えずにそれを聞いていた。しばし沈黙し、それからふっと息をついた。
「良い答えだ」
「そうでしょうか」
「お前、そう答えたら私に失望されるかもしれない、と思いながら、それでも答えただろう? そういうところがお前は美しい」
袿姫は立ち上がって磨弓の眼前に立った。並び立てば、彼女の方が少し背が高い。磨弓の首を両手でそっと抱き、鼻先が触れるほど顔を側に寄せた。
「お前は余計な事ができない。私がお前をそう作ったからだ。だが、余計な考えを抱く事はできるかもしれない。それは私にはできない事だ」
袿姫はすっと唇を寄せ、それから口を開いて磨弓の鼻にかじりついた。思い切り歯を立てる。皮膚の表面が削れた感覚があった。
彼女の口内に広がるのは泥の味のはずだったが、袿姫はお構いなしに磨弓の鼻についた歯型を丹念に舐める。
袿姫が自分を重用する事。溺愛する事。あるいは失望し、不要と切り捨てる事。そのどれも、磨弓にとっては何ら意味を持たない。
自分は袿姫が求める用途の為に存在している。必要に応じてそれを為す以外に、磨弓にとっての意味を持つ事柄は存在しない。用をなさなくなったなら存在する意味もなくなるし、その時は必要な用途をより的確に実行する何かが、袿姫の側にあるはずだった。
磨弓にとって重要であるのは、絶対の忠誠心をもって袿姫に仕える事、その一つだけだ。
袿姫は今、新しい埴輪兵長の制作を進めている。霊長園に乗り込んできた人間たちの戦い方を参考に、より武力を高めた戦士となるはずだと言う。
未だ本格的に着手はしていないが、彼女がその気になれば一昼夜の内に兵団が一つ出来上がっている。その日は明日にも来るかもしれない。
「……場所を……」
「ん?」
言葉がうまく出なかった。自分が言葉を言い淀んだというその事実に、磨弓は動揺した。
「……自分を破棄する場所を、今から見当しておいた方がよろしいでしょうか。不逞の輩に拾われても良くないでしょう」
袿姫はその問いに、少しの間沈黙していた。目線はずっと磨弓の顔を見ていた。自分の表情はピクリとも動いていなかっただろう。だがそれが、そのようである故にそうであったのか、そのようにあらんとしてそうであったのかは、自分にも分からない。
にい、と口を歪めるようにして袿姫は笑った。
両手で磨弓の頭を抱えるようにし、指を添えて瞳を大きく開かせた。れる、と音を立てるようにして眼球を何度も舐める。
その行為は何らの痛痒を伴うものでもない。削ろうが折ろうが砕こうが、磨弓は痛みに怯む事も、恐怖に竦む事もない。
「まるで泣いているみたいね」
口を離した袿姫がそう言うと、磨弓の瞳からつうと雫が流れ落ちた。それは今しがた舐めていた袿姫の唾液であり、決して磨弓自身が流したものではなかったが、その液体の中に、磨弓の内にある何かが溶かされて排出されてしまっているようにも思えた。
そして、どうしてそんな事を思ったのだろう、と疑問を抱いた。
「袿姫様は、私が何を思う事を望まれているのでしょうか」
「んん? んふふふ……」
口の奥で笑いを漏らして、袿姫は磨弓から離れた。
手近にいた、食器を片付ける埴輪の一体を捕まえて持ち上げ、思い切り机に叩きつける。硬質な音が響き、埴輪はボロボロと崩れ落ちた。
「今壊れたこの子とお前の間には、何も違いがない。この子が何を思っていたとしても、それはお前の思う事と何も違いがないし、それはこれから作られる埴輪たちの全てに同じ事が言える。意思があるのなら、それは私がそのように作ったからだし、個性があるのなら、それは私を模してそのような形を取ったにすぎない」
袿姫はボロボロになった埴輪のかけらを手に包み込み、ぎゅっと強く握りしめた。手のひらが傷ついて血が流れ、それが崩れて砂となった埴輪のかけらと混ざり合い、やがて形を伴っていく。程なくして、崩れる前よりも一回り小さい埴輪が完成した。机に置くと、自分の役目をすでに察しているかのように――ではなく、実際に察して、食器の片付けをする埴輪たちに合流していった。
「でも、もしかしたら、そうではないかもしれない」
袿姫は再び向き直り、両手でそっと磨弓の頬を撫でた。未だその手からは血が流れていて、磨弓の顔を赤く汚したはずだった。
「私がどういう存在か、何を好み何を嫌って何を思うか、お前は全て知っている。普段は忘れているかもしれないけどね。それは、私がお前をそう作ったからではない。お前が私から生まれたからだ。ほんの僅かまで薄れていて、時には忘れてしまいもするけど、私が――いや、ありとあらゆる造形物という物の中には、それを作り上げた者を構成する何もかもが、欠片程度ではあっても存在している。表面に見えているものなどは、それこそほんの欠片程度にすぎない。遺伝子の螺旋のように、全てが連なって受け継がれているんだ」
袿姫はずっと笑いながら、磨弓に語りかけていた。それ以上は歩み寄る事も、離れる事もしない。
だが磨弓には、二人の間に途方もなく大きな断絶が生じたような気がしていた。それは袿姫の足元からひび割れとして伸びていき、磨弓を取り囲んでその足元を削り取っていった。一歩でも足を踏み出せば二度と戻ってこれない奈落に、数多の埴輪達が転げ落ちていった。それらは磨弓の身体を持ち、袿姫の顔をして微笑んでいた。
笑い、泣き、怒り、愛で、唾棄し、欲情し、崇拝し、忘れる。
そのどれも、袿姫から磨弓に対して向けられる事はあっても、逆は決してない。だが、遥かな断絶の向こう側に目をやってみれば、微笑みながら磨弓の世話を焼く袿姫がおり、怒り狂って袿姫を切り刻む磨弓がいて、涙を流して磨弓の前にひざまずく袿姫の姿があり、激しい欲情に駆られて袿姫を犯す磨弓の姿があった。
あるいはその二人は、どちらも袿姫の顔をしていたのかもしれない。
「私は、袿姫様、貴方なのでしょうか」
「そうだよ。だけど、違うかもしれない」
遥かなる断絶を忘れてしまえば、そこにいる埴安神袿姫にいつもと変わる所はない。彼女は磨弓をひどく溺愛し、時に深く嫌悪していた。その相反が矛盾なく成立するとすれば、それは己自身へと向ける想いに他ならないだろう。
「お前がただ私なのであれば、捨てられる事を恐れる必要なんかないね。新しく生まれてくるものも私で、それはつまりお前でもあるのだから、今のお前が破棄されたって何も問題ない。だけど」
袿姫は磨弓の方へと一歩を踏み出した。その間にある絶対の断絶も、彼女だけは飲み込む事ができない。彼女は神であり、造形師である。それはつまり、彼女は無限の存在であるという事でもあった。永遠無限に己というものを生み出し続ける、神。
「だけど、もし、お前が私ではないのなら……私が持っていない何かが、お前の中に存在しているのなら、それはとても愉快でしょう? それはつまり、無から有を生み出す事。神を産むに等しい事だもの」
袿姫はじっと磨弓を見つめる。その目は、決して己自身を見つめる類のものではなかった。興味か、憧れか、歓喜か、そのような何らかの感情を携えて、磨弓の内、そのどこかに己とは異なる個を探していた。
正しくそれがあるのなら、その個は確かな自我となって、杖刀偶磨弓という一つの人格を形成するだろう。その時、磨弓は袿姫に連なる部品としてではなく、自立した一つの存在として世に立つ事となる。側に立つ何者をも、己とは異なる存在として受け入れて。
「磨弓。お前は、私に捨てられるのが怖い?」
また側近くに顔を寄せて、袿姫は磨弓の目を覗き込む。
その歩みは一本の道だった。あらゆるものから断絶された孤独でちっぽけな大地に、髪の毛一本程のごく細い道があり、それが自分の全てを――全てだと信じたいものを内包する者のところへと伸びている。
それを失ってしまえば、自分は孤独になる。例えば壊れても、破棄されても問題なかったはずの己を、失えなくなる。奈落へと落ちないように、断絶に飲み込まれぬように、足を踏みしめ、己を守らねばならなくなる。
失っても代わりがいる。より優れた杖刀偶があれば立ち代わる――そういう存在でいられなくなる。
「怖くはありません」
それでは、自分の役目を全うできない。
杖刀偶磨弓という名前が持つ意味を。
「そっか。じゃあやっぱり、私もまだまだという事かな」
すっと視線を外し、袿姫は離れていった。戸棚から角砂糖の袋を取り出し、適当に掴んで口に放り込む。ガリガリと音を立てながら、勢いよく工房の扉を閉めた。しばらく籠もるという意思表示だ。次にその扉が開く時には、素晴らしい傑作が完成したぞという笑顔か、全くダメだ自分はおしまいだという泣き顔のどちらかを見せるだろう。
「……私は、お役目を果たす為に生まれてまいりました。それを果たせなくなった時が、死すべき時と心得ております」
聞こえないように、磨弓はつぶやいた。
あえて死という言葉を使ってみて、そこに何の感慨も湧いてこない事に磨弓は安堵し、またほんの少しだけ、寂しいような感覚を抱いた。
つう、と頬をまた流れる液体は、袿姫に付けられた血か、さもなくばまだ残っていた唾液のはずだ。
確かめようとは思わなかった。その役目を、自分は持っていない。
唐突に投げかけられたその言葉に、動揺が無かったといえば嘘になるだろう。しかしその動揺が、言葉の主の――造形神、埴安神袿姫の想定にあるものとは異なっているであろう事は容易に想像できた。してみると、返すべき反応もまた自然と一つに絞られるのだ。
「おはようございます。朝食はお召しになりますか?」
「お召すー」
こてん、と机に頭を転がせるようにして着席し、袿姫は目を閉じた。ふわりと机に広がる水色の髪は、まるで湖を思わせるようだと言えれば美しいのだろうが、泥や木屑が絡み染料でそこかしこを汚した様は、迷走の末に全てを諦めてインクをぶちまけたキャンバスのようだという程度がせいぜいだろう。
「ハニートーストです。どうぞ」
「埴輪だけに! ハニー! ぎゃはははははは!」
何が楽しいのか一人で勝手に笑いだし、挙げ句声が引きつり始めて呼吸困難の様子を見せる。今日はいつにも増してひどいな、と磨弓は嘆息した。
「つまりだね、私は失望しているんだよ」
「はあ」
たっぷりの砂糖をまぶし、その上からチョコレートソースをふんだんにかけたハニートーストをかじりながら(ついでにそのソースが盛大に飛び散って水色のキャンバスに新たな色味を加えた)、袿姫は磨弓を叱責する。
「この造形神が武を模して作り上げたお前が、正面から切った張ったの勝負で遅れを取るというのは、いかにも気に食わない。やられるにしても、もっと気の利いたやられ方が欲しいわけよ」
このところ袿姫が語ることは、もっぱら先日の騒動に集約されている。
畜生界の動物霊が繰り出した思いがけない奇策や、生身の人間が持つ底知れない力というのは、磨弓にして未知なる体験であり知見ではあったが、すでに終わった事でもある。世界がそのようにあるとして、それが磨弓の在り方にいかほどの影響をもたらすものでもない。それを定めるのは常に目の前の造形神に他ならない。
「倒され方にも工夫が必要というお話でしょうか」
「お前はユーモアが足りない。美しいだけの芸術は飽きられるものだよ。例えばそう、斬られて飛び散った血しぶきが私の居場所を指し示す地図になるとか、そういう感じの」
「私から血は流れませんが」
「がんばれ」
「努力します」
あの騒動以来、袿姫から磨弓への扱いは随分と変わった。
それまでの袿姫は磨弓を慈しむ事に余念がなく、事あるごとに褒めそやしてはキスをした。のみならず、抱きついて頬ずりするだの、服を脱がして鑑賞するだの、揉むだの噛むだの舐めるだのと暇さえあれば磨弓にひっついていた。
もっともそれは平時の話であり、気分が沈んでいる時の袿姫に不用意に近づいたりすれば、焼けた鉄串を投げつけられるような事もあったのは確かだ。泣きながら弱い力で何度も殴りつけてくるような事や、首を絞めてくれと頼んでくる事もあった(その時はうまく加減できず、泡を吹いて気絶した)。「全力で暴行して。泣いて懇願しても止めないで」と言われた時は、いったいどのタイミングで止めれば良いのか判断がつかず、定期的に「そろそろ止めますか」と聞いていたのが癇に障ったらしく、拗ねて一ヶ月ほど工房に閉じこもってしまった。どうすれば良かったのか、今でも判然としていない。
それらの事に比べて、今の袿姫は随分と大人しいと言って良いのだろう。磨弓への語り口は概ねそっけなく、まるで興味を無くしたかのようだ。しかし、そうかと言って磨弓が側仕えを離れる事は許可しない。今一度畜生界の支配に乗り出すのか、新たな場所に拠点を作るのか、いずれにせよ磨弓には埴輪兵団を指揮するという役目があるのだが、袿姫の側を離れられない以上はできる事も限られる。その代わりと言うように袿姫が投げかけてくる言葉は、おおよそ意図の掴みかねるような事ばかりだった。
「考えてみたら、偶像たるもの血の10リットルや20リットル流れないとダメだなぁ。埴輪に血液の循環機構でも組み込むか」
「では血液の回収をしてきましょうか? 人間のは骨が折れそうですが」
「いや、それだとせっかくの血が冷たくなっていけない。むしろ埴輪に生きた人間を組み込むか……」
袿姫の言葉はどんどん小さくなり、ついには口の中だけでつぶやくだけになる。それでも磨弓には充分聞こえるが、そうした時の袿姫の言葉に返事をすると、返事をしない時よりも気分を害する確率が高い事を磨弓は経験から学んでいる。
そしてこうした時の袿姫は、身体の方の反応にはとんと無頓着になる。磨弓は袿姫の手を引いて立ち上がらせ、浴室に連れて行って服を脱がせた。小さい世話役の埴輪が脱いだ服を運んでいくのを横目に、風呂椅子に袿姫を座らせ、石鹸を泡立てた手でその身体を丹念に洗う。髪は特に念入りに洗わねばならない。袿姫の水色の髪は非常に豊かで、全体にゆるいウェーブがかかっている為にゴミがまとわりつきやすい。ひどい時は虫が巣食っている。
髪を洗われている最中、袿姫は目を閉じないどころかほとんど瞬きもしない。泡が目に入ると流石に嫌がって暴れだすので、お湯で流す際は顔を上に向けさせる必要がある。
そして、そうして上向けられた袿姫の瞳が、まるで待ち構えていたかのように磨弓の目を捉える時がある。決して目を逸らしてはならないと語りかけるようなその目線は、ひどく磨弓を落ち着かない気持ちにさせた。全てを見透かされているような、暴かれ晒されるような感覚というのが、それに近いのかもしれない。
見透かされるも何も、この杖刀偶磨弓という存在は袿姫によって作り出されたもので、身体の隅々から思考の末端まで全てが袿姫の所有物だ。磨弓に関わるどのような事でも、それを袿姫が知らないという事はありえない。袿姫の指は磨弓の至る所に触れ、袿姫の目は磨弓の何もかもを見て、袿姫の声は磨弓の全てを支配していた。最初からそのようにして磨弓は作り出されたのだ。
袿姫に対して、見られたくないものも、見られてはならないものも、磨弓は決して持ち得ない。それでもそのような、羞恥かあるいは畏れのような感覚に襲われる事が、磨弓にはひどく不可解だった。
そしてそうした困惑が、まっすぐに袿姫の目を見据える磨弓の視線をわずかに揺らがせる。その揺れを見て取った時、袿姫はとても嬉しそうに笑みを浮かべる。それが何を意味するのか磨弓には分からないし、分かる必要もないのだろう。分かる必要があるのなら、彼女は自分をそのように作っているはずなのだから。
「役立たずめ」
とても、とても嬉しそうな笑顔で袿姫はそんな事を言う。そうした、迂遠さを忘れた直接の罵倒を放つ時、袿姫はいつでも心底嬉しそうにしていた。身体に触れる磨弓の手を気持ちよさそうに受け入れ、タオルで身体を拭き服を着せる磨弓を見下ろす目は楽しげだった。
磨弓は袿姫のそうした罵倒に弁明した事がない。それが真実であろうとなかろうと、磨弓のすべき事は変わらないし、それが不要となれば処分されるだけの事だからだ。
「昼食はいかがなさいますか?」
「はちみつー」
「それは料理ではありません」
「じゃあはちみつのはちみつ掛けにはちみつを添えてー」
磨弓は麩菓子を取り出して器に適当にあけ、蜂蜜を切らしていたので代わりに砂糖をまぶして机に置いた。
袿姫は食事に際して色々と要求はするが、結局のところ甘ければ何でも良いので、糖分量さえ一定値を確保していれば何を出されても喜んで食べる。一度、その辺の草に蜂蜜をまぶしたものを出してみた事があるが、何も言わずに食べていた。そういえば、その時は妙にニコニコと笑顔を浮かべていたような気もする。
「楽しいねぇ。ねぇ磨弓?」
「このところはお加減もよろしいようで、何よりです」
「病人みたいに言うない。天下の邪神さまだぞー。イドラデウスさまだぞー」
随分と機嫌の良い様子で袿姫は麩菓子をボリボリと貪る。糖分量がちょうど良かったのかもしれない。彼女にとって、甘味の具合がどの程度なら良いのかは日によって変わるらしく、最良の味付けを探る試みが諦めという結論に至ったのも昔の話。今では適当に調整しているのだが、不思議と昔よりも今のほうが気に入られる事は増えたように思う。
「霊長園が荒らされるのも久しく無かったし、あんな愉快な人間たちに出会えたのも僥倖だねぇ。お前たちを作っているだけでも楽しいのに、ますます面白い事がいくらでも出てきそうで、楽し死にしやしないか私は不安だよ」
「人間界に乗り込みますか? それとも畜生界を今一度……」
「それでも充分楽しそうだけどねぇ。お前はどうしたら良いと思う?」
目を細めて、袿姫はじっと磨弓を見つめる。その意味する所は問いか、あるいは脅しなのかもしれない。
お前に私を楽しませる事ができるのか、と。
「私にはいかようにも。袿姫様のお望みのままに動くだけですので」
袿姫は全く表情を変えずにそれを聞いていた。しばし沈黙し、それからふっと息をついた。
「良い答えだ」
「そうでしょうか」
「お前、そう答えたら私に失望されるかもしれない、と思いながら、それでも答えただろう? そういうところがお前は美しい」
袿姫は立ち上がって磨弓の眼前に立った。並び立てば、彼女の方が少し背が高い。磨弓の首を両手でそっと抱き、鼻先が触れるほど顔を側に寄せた。
「お前は余計な事ができない。私がお前をそう作ったからだ。だが、余計な考えを抱く事はできるかもしれない。それは私にはできない事だ」
袿姫はすっと唇を寄せ、それから口を開いて磨弓の鼻にかじりついた。思い切り歯を立てる。皮膚の表面が削れた感覚があった。
彼女の口内に広がるのは泥の味のはずだったが、袿姫はお構いなしに磨弓の鼻についた歯型を丹念に舐める。
袿姫が自分を重用する事。溺愛する事。あるいは失望し、不要と切り捨てる事。そのどれも、磨弓にとっては何ら意味を持たない。
自分は袿姫が求める用途の為に存在している。必要に応じてそれを為す以外に、磨弓にとっての意味を持つ事柄は存在しない。用をなさなくなったなら存在する意味もなくなるし、その時は必要な用途をより的確に実行する何かが、袿姫の側にあるはずだった。
磨弓にとって重要であるのは、絶対の忠誠心をもって袿姫に仕える事、その一つだけだ。
袿姫は今、新しい埴輪兵長の制作を進めている。霊長園に乗り込んできた人間たちの戦い方を参考に、より武力を高めた戦士となるはずだと言う。
未だ本格的に着手はしていないが、彼女がその気になれば一昼夜の内に兵団が一つ出来上がっている。その日は明日にも来るかもしれない。
「……場所を……」
「ん?」
言葉がうまく出なかった。自分が言葉を言い淀んだというその事実に、磨弓は動揺した。
「……自分を破棄する場所を、今から見当しておいた方がよろしいでしょうか。不逞の輩に拾われても良くないでしょう」
袿姫はその問いに、少しの間沈黙していた。目線はずっと磨弓の顔を見ていた。自分の表情はピクリとも動いていなかっただろう。だがそれが、そのようである故にそうであったのか、そのようにあらんとしてそうであったのかは、自分にも分からない。
にい、と口を歪めるようにして袿姫は笑った。
両手で磨弓の頭を抱えるようにし、指を添えて瞳を大きく開かせた。れる、と音を立てるようにして眼球を何度も舐める。
その行為は何らの痛痒を伴うものでもない。削ろうが折ろうが砕こうが、磨弓は痛みに怯む事も、恐怖に竦む事もない。
「まるで泣いているみたいね」
口を離した袿姫がそう言うと、磨弓の瞳からつうと雫が流れ落ちた。それは今しがた舐めていた袿姫の唾液であり、決して磨弓自身が流したものではなかったが、その液体の中に、磨弓の内にある何かが溶かされて排出されてしまっているようにも思えた。
そして、どうしてそんな事を思ったのだろう、と疑問を抱いた。
「袿姫様は、私が何を思う事を望まれているのでしょうか」
「んん? んふふふ……」
口の奥で笑いを漏らして、袿姫は磨弓から離れた。
手近にいた、食器を片付ける埴輪の一体を捕まえて持ち上げ、思い切り机に叩きつける。硬質な音が響き、埴輪はボロボロと崩れ落ちた。
「今壊れたこの子とお前の間には、何も違いがない。この子が何を思っていたとしても、それはお前の思う事と何も違いがないし、それはこれから作られる埴輪たちの全てに同じ事が言える。意思があるのなら、それは私がそのように作ったからだし、個性があるのなら、それは私を模してそのような形を取ったにすぎない」
袿姫はボロボロになった埴輪のかけらを手に包み込み、ぎゅっと強く握りしめた。手のひらが傷ついて血が流れ、それが崩れて砂となった埴輪のかけらと混ざり合い、やがて形を伴っていく。程なくして、崩れる前よりも一回り小さい埴輪が完成した。机に置くと、自分の役目をすでに察しているかのように――ではなく、実際に察して、食器の片付けをする埴輪たちに合流していった。
「でも、もしかしたら、そうではないかもしれない」
袿姫は再び向き直り、両手でそっと磨弓の頬を撫でた。未だその手からは血が流れていて、磨弓の顔を赤く汚したはずだった。
「私がどういう存在か、何を好み何を嫌って何を思うか、お前は全て知っている。普段は忘れているかもしれないけどね。それは、私がお前をそう作ったからではない。お前が私から生まれたからだ。ほんの僅かまで薄れていて、時には忘れてしまいもするけど、私が――いや、ありとあらゆる造形物という物の中には、それを作り上げた者を構成する何もかもが、欠片程度ではあっても存在している。表面に見えているものなどは、それこそほんの欠片程度にすぎない。遺伝子の螺旋のように、全てが連なって受け継がれているんだ」
袿姫はずっと笑いながら、磨弓に語りかけていた。それ以上は歩み寄る事も、離れる事もしない。
だが磨弓には、二人の間に途方もなく大きな断絶が生じたような気がしていた。それは袿姫の足元からひび割れとして伸びていき、磨弓を取り囲んでその足元を削り取っていった。一歩でも足を踏み出せば二度と戻ってこれない奈落に、数多の埴輪達が転げ落ちていった。それらは磨弓の身体を持ち、袿姫の顔をして微笑んでいた。
笑い、泣き、怒り、愛で、唾棄し、欲情し、崇拝し、忘れる。
そのどれも、袿姫から磨弓に対して向けられる事はあっても、逆は決してない。だが、遥かな断絶の向こう側に目をやってみれば、微笑みながら磨弓の世話を焼く袿姫がおり、怒り狂って袿姫を切り刻む磨弓がいて、涙を流して磨弓の前にひざまずく袿姫の姿があり、激しい欲情に駆られて袿姫を犯す磨弓の姿があった。
あるいはその二人は、どちらも袿姫の顔をしていたのかもしれない。
「私は、袿姫様、貴方なのでしょうか」
「そうだよ。だけど、違うかもしれない」
遥かなる断絶を忘れてしまえば、そこにいる埴安神袿姫にいつもと変わる所はない。彼女は磨弓をひどく溺愛し、時に深く嫌悪していた。その相反が矛盾なく成立するとすれば、それは己自身へと向ける想いに他ならないだろう。
「お前がただ私なのであれば、捨てられる事を恐れる必要なんかないね。新しく生まれてくるものも私で、それはつまりお前でもあるのだから、今のお前が破棄されたって何も問題ない。だけど」
袿姫は磨弓の方へと一歩を踏み出した。その間にある絶対の断絶も、彼女だけは飲み込む事ができない。彼女は神であり、造形師である。それはつまり、彼女は無限の存在であるという事でもあった。永遠無限に己というものを生み出し続ける、神。
「だけど、もし、お前が私ではないのなら……私が持っていない何かが、お前の中に存在しているのなら、それはとても愉快でしょう? それはつまり、無から有を生み出す事。神を産むに等しい事だもの」
袿姫はじっと磨弓を見つめる。その目は、決して己自身を見つめる類のものではなかった。興味か、憧れか、歓喜か、そのような何らかの感情を携えて、磨弓の内、そのどこかに己とは異なる個を探していた。
正しくそれがあるのなら、その個は確かな自我となって、杖刀偶磨弓という一つの人格を形成するだろう。その時、磨弓は袿姫に連なる部品としてではなく、自立した一つの存在として世に立つ事となる。側に立つ何者をも、己とは異なる存在として受け入れて。
「磨弓。お前は、私に捨てられるのが怖い?」
また側近くに顔を寄せて、袿姫は磨弓の目を覗き込む。
その歩みは一本の道だった。あらゆるものから断絶された孤独でちっぽけな大地に、髪の毛一本程のごく細い道があり、それが自分の全てを――全てだと信じたいものを内包する者のところへと伸びている。
それを失ってしまえば、自分は孤独になる。例えば壊れても、破棄されても問題なかったはずの己を、失えなくなる。奈落へと落ちないように、断絶に飲み込まれぬように、足を踏みしめ、己を守らねばならなくなる。
失っても代わりがいる。より優れた杖刀偶があれば立ち代わる――そういう存在でいられなくなる。
「怖くはありません」
それでは、自分の役目を全うできない。
杖刀偶磨弓という名前が持つ意味を。
「そっか。じゃあやっぱり、私もまだまだという事かな」
すっと視線を外し、袿姫は離れていった。戸棚から角砂糖の袋を取り出し、適当に掴んで口に放り込む。ガリガリと音を立てながら、勢いよく工房の扉を閉めた。しばらく籠もるという意思表示だ。次にその扉が開く時には、素晴らしい傑作が完成したぞという笑顔か、全くダメだ自分はおしまいだという泣き顔のどちらかを見せるだろう。
「……私は、お役目を果たす為に生まれてまいりました。それを果たせなくなった時が、死すべき時と心得ております」
聞こえないように、磨弓はつぶやいた。
あえて死という言葉を使ってみて、そこに何の感慨も湧いてこない事に磨弓は安堵し、またほんの少しだけ、寂しいような感覚を抱いた。
つう、と頬をまた流れる液体は、袿姫に付けられた血か、さもなくばまだ残っていた唾液のはずだ。
確かめようとは思わなかった。その役目を、自分は持っていない。
磨弓の中に新しい光明が感じられるような関係がとてもいいと思いました