地霊殿、応接間。供された地底ティーは湯気を失って久しい。
館の主である古明地さとりは、肘掛けの存在を忘れたかのように身を乗り出している。
誰あろう来客のため。自信満々に腕組みをする、蒼い髪をした河童のためだ。
「それで。私を頼ろうってわけだ」
「にとり、家主の目の前で金勘定をするのをやめなさい。そういうことは事務所に帰ってからやりなさい」
「おっと、こりゃあ失礼。でも許しておくれよ。こんなにやりがいのある工事なんて、そうそう無いんだよ」
「そう口で言いながら金勘定をするのを止めなさい、にとり」
「なぁにか、勘違いしてらっしゃる。古明地の奥方」
不遜にも館の主を指さす、施工主……河城にとり。
「金勘定が真っ先に始まるって事は……あんた。それだけ本気だって事だ。何を仕入れ、どのように配置し、どうやって追い込むか。夢の話ならいくらだってできるさ。叶わない夢でこの話を終わらせちまって良いんだったら……、私だってお花畑みたいな頭の中をご開帳もできようさ。だがちがう。あんたは本気だ。なら私も本気だ。必ずご希望に沿えるよう、ありとあらゆる手を尽す。そのためにはまず先立つものが必要だ。主たるもの、そのくらい分かるだろう?」
「報酬は後払いですが」
突如、熱く仕事の流儀を語り出すにとり。しかしその頭の中は、さとりが払う報酬で買えるだろうキュウリの量でいっぱい。さとりにはそのギャップが見えてしまう。見えてしまうから、目の前の河童がどれほど本気なのか、いまいち測りかねている。
「それに……」
だが、にとりがおもむろに言い放ったその一言は。
「あんただって、心の底じゃワクワクしてるんだろう? この試みが、うまく行くかどうか」
さとりの枯れかけていた心に、再び火を付けた。何せ枯れかけの渇いた心だ。それはとても良く燃えた。
「……ふん。ならば、その頭の中にある見積もりの、二倍積みましょう」
「ほぉ、大きく出たな」
「請けますか、請けませんか」
「もちろん、請けるとも」
両者起立。地底ティーテーブルの上で固い握手。契約締結。
これより地霊殿は、戦場となる。
「うちは短納期ですよ」
「河童の技術力を御照覧あれ」
「では、三日で」
「三日で。承知しました…………え、三日?」
「あの子が出発したのが今朝のことです。統計的に、三日以内に帰ってくることが予想されます。なので三日です」
「この、構想を全部?」
「ええ、あなたの頭の中にあるそれ、全て。だから二倍積んだのですよ」
美味しい話には裏がある。
欲望の、裏の裏まで全てお見通しのさとり妖怪相手に、交渉術は何の意味も持たない。
にとりは天を仰ぎながらも、地上で控えていた施工部隊に詫びと指示を出す。
河城じるしの信頼と実績を、こんな地底の底に棄てて行くわけにはいかない。
「みんな……三徹でヨシ! ご安全に!」
†
古明地こいしが長い外出から帰ってきたのは、それから四日後のことだった。
色々なことをして遊んだのだ……と思う。スカートの裾が破けているからだ。ブラウスの袖も少し、焼け焦げている。でも何にも覚えてない。意識していないから? そうかもしれない。でもどうでもいいの。楽しかった。その感情さえ残っていれば、過程なんてどうでも良い。
「ただーいま、おねーちゃん!」
地霊殿にこうして帰ってくる意味も、本当はないのかも知れない。外出にかける時間は回数を重ねるごとに延びているし、そのうちこのお家のことも意識に上らなくなっちゃうのかも知れない。でも、それでもいいのかな。だって。
「おねえちゃーん……! 帰ってきたよー!」
こうやって呼びかけてみても、お返事一つないのだもの。
「おねえちゃーん」
ため息のような呼びかけとともに、こいしは地霊殿の門扉に手をかけて……押し開くかと思いきや大きく跳躍、二階にあたる出窓をぶち破って衝撃のエントリー。
転がって着地。ここでこいし、異変に気付く。普段ならここで、音に驚いてペットのいくらかが驚いてギャースカわめき立てるはずなのだが、今日の地霊殿は静寂に支配されている。
いや、完全な静寂ではない。耳障りな捲き上げ音。これは……。
「……っ! はっ!」
とっさの判断でこいしは飛び退く。するとどうだ。これまでこいしがいた場所に、人の腕ほどの太さもある綱で編まれたネットが現れて、暗くて見通せない天井の彼方へつり上がっていくではないか。
「あれ……天井、あんな高かったっけ」
こいしが呟いたその一瞬の隙が命取り。割って入ってきた窓の上から、巨大な鉄の分銅が弧を描いてこいしに迫る。今まさに上がっていった網が支えをもぎ取っていったのだ!
「ひやっ……!」
何貫あるか分かったものではない鉄塊である。まともに受ければ妖怪だって三日はご飯を食べられないかも知れない。横に転げて躱し、手を付いたところに、ポチリ、と嫌な感触。轟々と響く音、上から降ってくる細かい埃。こいしが見上げれば、あんなに高かった天井が、今や古明地五人分の高さ……降ってくる!
「うひゃぁ!」
幸いにも扉は近い。開いて廊下に転げ出るのが一瞬早かった。ずぅん、と重い音がして部屋が潰れ、こいしは深呼吸をする。暇などない。前方から飛んでくるのは、朧気な記憶のなかにある、針のような弾幕。
これをこいしは屈んで躱す。宙に浮いた帽子が遙か後方へと連れ去られていく。そしてこいしは聴く。今の針弾が押したのだろう、カチリ、という作動音を。
「ここ、お家だよね……?」
疑問ももっともだ。なぜならこいしの後ろから迫ってくるのは、先の針弾を盾に受けて、反対側の頂点を棘としながらそれを回転させ、猛然と迫る石像なのだ。よく見れば足元にはレール。石像はこの上を滑ってきているのだ。
「なになになに、なんなの……!」
元来た部屋は潰れている。廊下沿いに走らざるを得ない。すると、まるでこいしがやってくるのを見計らったかのように、廊下に誂えられている肖像画が笑う、笑う!
「うわーんお姉ちゃんが悪趣味になっちゃったぁ!」
笑うだけならまだ良かった。駆け抜ければそれで終わりだから。だが笑い声は一向に治まる気配を見せない。なぜ? 単純な話。
追ってきているからだ。高貴な婦人が、立派な紳士が、不気味な笑みを浮かべた道化師の油絵が……飛びながら迫ってくる!
「ぎゃーっ!」
いよいよこいしは逃げるしかない。この先は階段。一階に逃げ込むための階段がある。根拠のない希望があった。一階まで逃げれば。逃げ切ることができれば。きっとお姉ちゃんが待っていて。二階の窓を割って部屋を潰したことを叱られて終わりになるはずだ、と。
そんなはずないのに、ね。こいしはある種の諦めを感じながらも走った。
しかし生き物は、窮すれば窮するほどやけっぱちになるものだ。こいしもそうだった。何で私が、こんな付喪神のなり損ないみたいな連中相手に、「こんな思いするなら腹痛抱えて厠を探し回ってる方がマシ」みたいなこと願ってなきゃならないんだ? そう思ったのだ。
「……なめないでよね、このこいし様を!」
奮起してからは早かった。こいしは踵で急ブレーキをかけて、振り向く。撃ち落とすべき的の方へと。
それは、百鬼夜行の様相を呈していた。飛んできていたのは肖像画だけではなかった。廊下に誂えられていた調度品という調度品が、一つの意思を持って怒濤の勢いで迫っていた。
なんのため。こいしを捉えるためだ。
……ムリだ。
「なぁんなのよ、もぉ……」
萎えてしまった気力に鞭打ち、生き残るためこいしは走る。階段へ。転げ落ちるように下の階へ。妙に階段が長い気がするが、こいしの目は突き当たりにぶち当たって壊れてゆくモノたちを見て安心するのに忙しかった。故に気付かなかった。普段通る一階を通り過ぎて、自身が更に下へと導かれていくことに。
着地。尻から落ち、したたかに打ち付ける。
「いたたたたたた……、ってあれ?」
こいしは、辺りを見渡す。
「こんな廊下、あったっけ」
良く覚えていないのだ。特段意識もしない、自宅だから。
その廊下には真っ白な扉が、無数に連なっていた。ただ、それだけ。押して開くタイプの、真鍮製のドアノブが付いた、木製の扉。
良く覚えていなくても、これだけは分かる。こんな廊下、なかった。なぜならお姉ちゃんの趣味じゃなさそうだから。お姉ちゃんが同じような間取りを作るとしたら、きっと紫色にしちゃいそうだから。悪趣味になっちゃったってさっき叫んじゃったけど、元々悪趣味だった――そうこいしが嘲った、まさにその瞬間だった。
「こーいーしー……!」
どこから声を出しているのか、地鳴りのように重く響くこれは、紛れもなく、
「おねえぢゃん!」
「こーいーしっ」
今度は、軽快に明るく。そして。
「いーまいっくよーっっ」
怖気の走るような猫なで声のあと、聞こえてきたのは、足音。
こつーん、こつーん、と長靴の踵が高らかに響く。それに加えて、からから、からから、と金属質の何かを引きずる音が聞こえる。
何か、とても危険なモノを。
「……ぎゃーっ!」
こいしが試みることは一つだ。今転がってきた道を戻ること。
当然のごとく、失敗に終わる。階上への道は、せり出す天井によって塞がれつつあった。それは脱出の道と同時に、地階にあるこの廊下の、唯一の光源が失われて行くことを意味していた。
「あ、あ、やだやだやだやだ」
怯えてみても、ひっかいてみても。ついでに渾身の弾幕をぶつけてみても。天井は非情だった。ずしん、とそれは閉じ、完全なる闇がその場を支配する。知覚できるのは、長靴と、何かを引きずる音だけ……近づいてくる! 確実に!
「……ぃん…………っ!」
もうなりふり構ってはいられなかった。手近な扉に隠れるしかない。しかし、廊下の一番端に隠れるのは、いかがなものか? 見つけてくれと言っているようなものではないか? かといって同じ理屈で考えたら、どんどん音の方に近くなっていってしまう。もう、いろんなものがガマンできない。三番目の入り口に入る。部屋の中も真っ暗闇で、なにがあるのかは分からない。闇に紛れて、こいしは息を潜めて、ただ、音が過ぎ去るのを待つ。
音が大きくなる。こいしの鼓動も速くなる。大きくなる。心と一緒に心臓も閉ざしていられたら良かったのに、とこの時ばかりは恨めしく思う。踵の音、からから、どきどき、からから、こつこつ、ばくばく、共鳴が、次第に収っていく。遠ざかっていく。
何者かの気配が、遠くに行く。そして消える。音がしなくなる。
こいしは、安堵する。ため息を吐く。そして扉から出ようと、立ち上がる。
その瞬間、光が満ちた。
部屋に灯りが付いたのだ。真っ白な、まばゆい光で。
そのことに驚く暇もない。
斧だ。
バン……ッ!
……メキ……ッ!
まさしく生木を割くような音と共に、扉に斧! 斧が埋まっている! いな、打ち込まれている! 激しく、ある一つの意思を込めて!
腰の抜けてしまったこいしは、「ぁ」とか「ゃ」とか言葉にならない喘ぎを発しながら後ずさることしかできない。
なんで。
何で私がこんな目に。
やだ。
こわい。
木の扉には、ちょうど人が顔を出せるくらいの穴が空いた。その虚ろが、あらゆる想像をかき立てて、恐ろしい。
久しく忘れていた。
こわいという気持ち。
いな、自分自身に、気持ちがあるということすら……。
「……やだぁ! やめてもうやだこわい怖いよ、お姉ちゃん!」
直後、穴から顔が覗く。
それは小さな目を懸命に開いたぎょろ目をしていて。
まるで道化の口のような、ギラギラとした笑みを浮かべていて。
ピカピカに磨き上げられた部屋の床からの照り返しを受けて威容に不気味な。
さとりの顔だったが。
「よく思い出したねぇ、こいし」
「ぎゃーッッッッッッッッッ!」
あまりの恐怖によって半狂乱に陥ったこいしは、前もよく見ずに弾幕を立て続けに放つ。扉は瓦解し、さとりの顔面にハートマークが無数に突き刺さる。
「こいし、やめなさい。こいし」
「ぎゃーッッ! ぎゃーッッ……あれ、お姉ちゃん」
気付かれたのを察して、さとりは制止する手を下げる。代わりに顔に刺さったハートを一本ずつ引き抜く。事のあらましを、説明するために。
「こいし、怖かったですか」
「そりゃあもうお姉ちゃんをぶっ殺しかけるくらいには」
「そうですか。それはよかった」
「なに?」
「スペルカードを構えるのをやめて。これにはれっきとした理由があるのです」
「聞こうじゃないの」
腕組みをするこいし。さとりは、何故自分の方が立場が弱くなっているのか訝りながらも、まぁどうでも良いかとため息を吐く。
「あなたは、消えかかっていました」
愛する妹を、守れたのだから。
「消え?」
「あなた、最近自分のことですら、良く覚えていなかったでしょう。それは意識を閉ざしすぎた結果、自意識という妖怪の根幹からすら目を背けようとしてたからです」
自身を認識する自意識を失ってしまえば、生き物は存在の理由を見失い、腐り果てる。妖怪であれば、存在を保てなくなってしまう。
「だから、多少荒療治ではありましたが……あなた自身の感情に目を向けてもらうことで、自意識という奴を取り戻してもらったのです。いかがでしたか、こいし。ひさびさの恐怖というものはなにをするのですこいしやめなさい。いたい。妖怪の腕はその方向には曲がりません。痛い痛い!」
「えーおかげさまで。全部思い出しましたよ。この気持ち、怒りって言うんだよ。知ってる? お姉ちゃんは、今どんな気持ちかな?」
「痛いです。止めて下さい。おねがいだから」
「えー聞こえないし、私目を閉じてるから、わかんない……や!」
さとりの悲鳴が、存在しないはずの地霊殿地階に響き渡る。
恐怖も痛みも、自身を認識するための手立てとしてはそう変わりはしない。
苦痛は、姉妹で分かち合う。仲睦まじきかな。
ともあれ、地霊殿の呪われた夜は明けた。
新しい日々が始まる。姉妹二人で、歩むことのできる日々が。
館の主である古明地さとりは、肘掛けの存在を忘れたかのように身を乗り出している。
誰あろう来客のため。自信満々に腕組みをする、蒼い髪をした河童のためだ。
「それで。私を頼ろうってわけだ」
「にとり、家主の目の前で金勘定をするのをやめなさい。そういうことは事務所に帰ってからやりなさい」
「おっと、こりゃあ失礼。でも許しておくれよ。こんなにやりがいのある工事なんて、そうそう無いんだよ」
「そう口で言いながら金勘定をするのを止めなさい、にとり」
「なぁにか、勘違いしてらっしゃる。古明地の奥方」
不遜にも館の主を指さす、施工主……河城にとり。
「金勘定が真っ先に始まるって事は……あんた。それだけ本気だって事だ。何を仕入れ、どのように配置し、どうやって追い込むか。夢の話ならいくらだってできるさ。叶わない夢でこの話を終わらせちまって良いんだったら……、私だってお花畑みたいな頭の中をご開帳もできようさ。だがちがう。あんたは本気だ。なら私も本気だ。必ずご希望に沿えるよう、ありとあらゆる手を尽す。そのためにはまず先立つものが必要だ。主たるもの、そのくらい分かるだろう?」
「報酬は後払いですが」
突如、熱く仕事の流儀を語り出すにとり。しかしその頭の中は、さとりが払う報酬で買えるだろうキュウリの量でいっぱい。さとりにはそのギャップが見えてしまう。見えてしまうから、目の前の河童がどれほど本気なのか、いまいち測りかねている。
「それに……」
だが、にとりがおもむろに言い放ったその一言は。
「あんただって、心の底じゃワクワクしてるんだろう? この試みが、うまく行くかどうか」
さとりの枯れかけていた心に、再び火を付けた。何せ枯れかけの渇いた心だ。それはとても良く燃えた。
「……ふん。ならば、その頭の中にある見積もりの、二倍積みましょう」
「ほぉ、大きく出たな」
「請けますか、請けませんか」
「もちろん、請けるとも」
両者起立。地底ティーテーブルの上で固い握手。契約締結。
これより地霊殿は、戦場となる。
「うちは短納期ですよ」
「河童の技術力を御照覧あれ」
「では、三日で」
「三日で。承知しました…………え、三日?」
「あの子が出発したのが今朝のことです。統計的に、三日以内に帰ってくることが予想されます。なので三日です」
「この、構想を全部?」
「ええ、あなたの頭の中にあるそれ、全て。だから二倍積んだのですよ」
美味しい話には裏がある。
欲望の、裏の裏まで全てお見通しのさとり妖怪相手に、交渉術は何の意味も持たない。
にとりは天を仰ぎながらも、地上で控えていた施工部隊に詫びと指示を出す。
河城じるしの信頼と実績を、こんな地底の底に棄てて行くわけにはいかない。
「みんな……三徹でヨシ! ご安全に!」
†
古明地こいしが長い外出から帰ってきたのは、それから四日後のことだった。
色々なことをして遊んだのだ……と思う。スカートの裾が破けているからだ。ブラウスの袖も少し、焼け焦げている。でも何にも覚えてない。意識していないから? そうかもしれない。でもどうでもいいの。楽しかった。その感情さえ残っていれば、過程なんてどうでも良い。
「ただーいま、おねーちゃん!」
地霊殿にこうして帰ってくる意味も、本当はないのかも知れない。外出にかける時間は回数を重ねるごとに延びているし、そのうちこのお家のことも意識に上らなくなっちゃうのかも知れない。でも、それでもいいのかな。だって。
「おねえちゃーん……! 帰ってきたよー!」
こうやって呼びかけてみても、お返事一つないのだもの。
「おねえちゃーん」
ため息のような呼びかけとともに、こいしは地霊殿の門扉に手をかけて……押し開くかと思いきや大きく跳躍、二階にあたる出窓をぶち破って衝撃のエントリー。
転がって着地。ここでこいし、異変に気付く。普段ならここで、音に驚いてペットのいくらかが驚いてギャースカわめき立てるはずなのだが、今日の地霊殿は静寂に支配されている。
いや、完全な静寂ではない。耳障りな捲き上げ音。これは……。
「……っ! はっ!」
とっさの判断でこいしは飛び退く。するとどうだ。これまでこいしがいた場所に、人の腕ほどの太さもある綱で編まれたネットが現れて、暗くて見通せない天井の彼方へつり上がっていくではないか。
「あれ……天井、あんな高かったっけ」
こいしが呟いたその一瞬の隙が命取り。割って入ってきた窓の上から、巨大な鉄の分銅が弧を描いてこいしに迫る。今まさに上がっていった網が支えをもぎ取っていったのだ!
「ひやっ……!」
何貫あるか分かったものではない鉄塊である。まともに受ければ妖怪だって三日はご飯を食べられないかも知れない。横に転げて躱し、手を付いたところに、ポチリ、と嫌な感触。轟々と響く音、上から降ってくる細かい埃。こいしが見上げれば、あんなに高かった天井が、今や古明地五人分の高さ……降ってくる!
「うひゃぁ!」
幸いにも扉は近い。開いて廊下に転げ出るのが一瞬早かった。ずぅん、と重い音がして部屋が潰れ、こいしは深呼吸をする。暇などない。前方から飛んでくるのは、朧気な記憶のなかにある、針のような弾幕。
これをこいしは屈んで躱す。宙に浮いた帽子が遙か後方へと連れ去られていく。そしてこいしは聴く。今の針弾が押したのだろう、カチリ、という作動音を。
「ここ、お家だよね……?」
疑問ももっともだ。なぜならこいしの後ろから迫ってくるのは、先の針弾を盾に受けて、反対側の頂点を棘としながらそれを回転させ、猛然と迫る石像なのだ。よく見れば足元にはレール。石像はこの上を滑ってきているのだ。
「なになになに、なんなの……!」
元来た部屋は潰れている。廊下沿いに走らざるを得ない。すると、まるでこいしがやってくるのを見計らったかのように、廊下に誂えられている肖像画が笑う、笑う!
「うわーんお姉ちゃんが悪趣味になっちゃったぁ!」
笑うだけならまだ良かった。駆け抜ければそれで終わりだから。だが笑い声は一向に治まる気配を見せない。なぜ? 単純な話。
追ってきているからだ。高貴な婦人が、立派な紳士が、不気味な笑みを浮かべた道化師の油絵が……飛びながら迫ってくる!
「ぎゃーっ!」
いよいよこいしは逃げるしかない。この先は階段。一階に逃げ込むための階段がある。根拠のない希望があった。一階まで逃げれば。逃げ切ることができれば。きっとお姉ちゃんが待っていて。二階の窓を割って部屋を潰したことを叱られて終わりになるはずだ、と。
そんなはずないのに、ね。こいしはある種の諦めを感じながらも走った。
しかし生き物は、窮すれば窮するほどやけっぱちになるものだ。こいしもそうだった。何で私が、こんな付喪神のなり損ないみたいな連中相手に、「こんな思いするなら腹痛抱えて厠を探し回ってる方がマシ」みたいなこと願ってなきゃならないんだ? そう思ったのだ。
「……なめないでよね、このこいし様を!」
奮起してからは早かった。こいしは踵で急ブレーキをかけて、振り向く。撃ち落とすべき的の方へと。
それは、百鬼夜行の様相を呈していた。飛んできていたのは肖像画だけではなかった。廊下に誂えられていた調度品という調度品が、一つの意思を持って怒濤の勢いで迫っていた。
なんのため。こいしを捉えるためだ。
……ムリだ。
「なぁんなのよ、もぉ……」
萎えてしまった気力に鞭打ち、生き残るためこいしは走る。階段へ。転げ落ちるように下の階へ。妙に階段が長い気がするが、こいしの目は突き当たりにぶち当たって壊れてゆくモノたちを見て安心するのに忙しかった。故に気付かなかった。普段通る一階を通り過ぎて、自身が更に下へと導かれていくことに。
着地。尻から落ち、したたかに打ち付ける。
「いたたたたたた……、ってあれ?」
こいしは、辺りを見渡す。
「こんな廊下、あったっけ」
良く覚えていないのだ。特段意識もしない、自宅だから。
その廊下には真っ白な扉が、無数に連なっていた。ただ、それだけ。押して開くタイプの、真鍮製のドアノブが付いた、木製の扉。
良く覚えていなくても、これだけは分かる。こんな廊下、なかった。なぜならお姉ちゃんの趣味じゃなさそうだから。お姉ちゃんが同じような間取りを作るとしたら、きっと紫色にしちゃいそうだから。悪趣味になっちゃったってさっき叫んじゃったけど、元々悪趣味だった――そうこいしが嘲った、まさにその瞬間だった。
「こーいーしー……!」
どこから声を出しているのか、地鳴りのように重く響くこれは、紛れもなく、
「おねえぢゃん!」
「こーいーしっ」
今度は、軽快に明るく。そして。
「いーまいっくよーっっ」
怖気の走るような猫なで声のあと、聞こえてきたのは、足音。
こつーん、こつーん、と長靴の踵が高らかに響く。それに加えて、からから、からから、と金属質の何かを引きずる音が聞こえる。
何か、とても危険なモノを。
「……ぎゃーっ!」
こいしが試みることは一つだ。今転がってきた道を戻ること。
当然のごとく、失敗に終わる。階上への道は、せり出す天井によって塞がれつつあった。それは脱出の道と同時に、地階にあるこの廊下の、唯一の光源が失われて行くことを意味していた。
「あ、あ、やだやだやだやだ」
怯えてみても、ひっかいてみても。ついでに渾身の弾幕をぶつけてみても。天井は非情だった。ずしん、とそれは閉じ、完全なる闇がその場を支配する。知覚できるのは、長靴と、何かを引きずる音だけ……近づいてくる! 確実に!
「……ぃん…………っ!」
もうなりふり構ってはいられなかった。手近な扉に隠れるしかない。しかし、廊下の一番端に隠れるのは、いかがなものか? 見つけてくれと言っているようなものではないか? かといって同じ理屈で考えたら、どんどん音の方に近くなっていってしまう。もう、いろんなものがガマンできない。三番目の入り口に入る。部屋の中も真っ暗闇で、なにがあるのかは分からない。闇に紛れて、こいしは息を潜めて、ただ、音が過ぎ去るのを待つ。
音が大きくなる。こいしの鼓動も速くなる。大きくなる。心と一緒に心臓も閉ざしていられたら良かったのに、とこの時ばかりは恨めしく思う。踵の音、からから、どきどき、からから、こつこつ、ばくばく、共鳴が、次第に収っていく。遠ざかっていく。
何者かの気配が、遠くに行く。そして消える。音がしなくなる。
こいしは、安堵する。ため息を吐く。そして扉から出ようと、立ち上がる。
その瞬間、光が満ちた。
部屋に灯りが付いたのだ。真っ白な、まばゆい光で。
そのことに驚く暇もない。
斧だ。
バン……ッ!
……メキ……ッ!
まさしく生木を割くような音と共に、扉に斧! 斧が埋まっている! いな、打ち込まれている! 激しく、ある一つの意思を込めて!
腰の抜けてしまったこいしは、「ぁ」とか「ゃ」とか言葉にならない喘ぎを発しながら後ずさることしかできない。
なんで。
何で私がこんな目に。
やだ。
こわい。
木の扉には、ちょうど人が顔を出せるくらいの穴が空いた。その虚ろが、あらゆる想像をかき立てて、恐ろしい。
久しく忘れていた。
こわいという気持ち。
いな、自分自身に、気持ちがあるということすら……。
「……やだぁ! やめてもうやだこわい怖いよ、お姉ちゃん!」
直後、穴から顔が覗く。
それは小さな目を懸命に開いたぎょろ目をしていて。
まるで道化の口のような、ギラギラとした笑みを浮かべていて。
ピカピカに磨き上げられた部屋の床からの照り返しを受けて威容に不気味な。
さとりの顔だったが。
「よく思い出したねぇ、こいし」
「ぎゃーッッッッッッッッッ!」
あまりの恐怖によって半狂乱に陥ったこいしは、前もよく見ずに弾幕を立て続けに放つ。扉は瓦解し、さとりの顔面にハートマークが無数に突き刺さる。
「こいし、やめなさい。こいし」
「ぎゃーッッ! ぎゃーッッ……あれ、お姉ちゃん」
気付かれたのを察して、さとりは制止する手を下げる。代わりに顔に刺さったハートを一本ずつ引き抜く。事のあらましを、説明するために。
「こいし、怖かったですか」
「そりゃあもうお姉ちゃんをぶっ殺しかけるくらいには」
「そうですか。それはよかった」
「なに?」
「スペルカードを構えるのをやめて。これにはれっきとした理由があるのです」
「聞こうじゃないの」
腕組みをするこいし。さとりは、何故自分の方が立場が弱くなっているのか訝りながらも、まぁどうでも良いかとため息を吐く。
「あなたは、消えかかっていました」
愛する妹を、守れたのだから。
「消え?」
「あなた、最近自分のことですら、良く覚えていなかったでしょう。それは意識を閉ざしすぎた結果、自意識という妖怪の根幹からすら目を背けようとしてたからです」
自身を認識する自意識を失ってしまえば、生き物は存在の理由を見失い、腐り果てる。妖怪であれば、存在を保てなくなってしまう。
「だから、多少荒療治ではありましたが……あなた自身の感情に目を向けてもらうことで、自意識という奴を取り戻してもらったのです。いかがでしたか、こいし。ひさびさの恐怖というものはなにをするのですこいしやめなさい。いたい。妖怪の腕はその方向には曲がりません。痛い痛い!」
「えーおかげさまで。全部思い出しましたよ。この気持ち、怒りって言うんだよ。知ってる? お姉ちゃんは、今どんな気持ちかな?」
「痛いです。止めて下さい。おねがいだから」
「えー聞こえないし、私目を閉じてるから、わかんない……や!」
さとりの悲鳴が、存在しないはずの地霊殿地階に響き渡る。
恐怖も痛みも、自身を認識するための手立てとしてはそう変わりはしない。
苦痛は、姉妹で分かち合う。仲睦まじきかな。
ともあれ、地霊殿の呪われた夜は明けた。
新しい日々が始まる。姉妹二人で、歩むことのできる日々が。
とても面白かったです。
振り回されるこいしちゃんがかわいらしかったです
三日でこれを作ったにとりがすごい
ヨシ!
暖かいさとこいもいいね