愛を示せ
私は、待っている。
電車の終着を待っている。
乗客がふえることに気を使って、端の席に折りたたまれたように座っていたが、そんな配慮は不要だった。電車に乗りこんだあと、つい眠りこけ目が覚めたとき、乗客の顔ぶれは乗車時と何も変わらなかった。車両のなかには陰気なやつが三、四人。満員電車が好きなわけではないが、こうも少ないと今度はさむざむしい印象を受ける。からっぽの胃ぶくろをかかえている感じ。
暇になり、誰かが置いていった新聞紙を取りあげてみる。
ドレミー・スイート、支配者への就任××××年を記念して感謝祭をひらく
以下、当にんのコメント……私が眠りの支配者にえらばれたことはまったく必然でありました。それは堕落したモルフェエウス(当時の夢の神)よりも夢を愛し、夢に奉仕する覚悟があったからであります。だからこそ夢の思想はモルフェエウスよりも、ただ一匹の獏を認められました
たしかに夢を創造したのはモルフェエウスです。しかし創造された世界が創造主に従う義務がどこにありましょう。今に彼女は私の腹のなか。それは創造された世界が創造主を罰することを望んだからであります
この夢に、ギリシアの統治はもはやない!
私は、不愉快になる。
いやな新聞を読んでしまった。あいつは何をしているのだろう。自作自演もよいところである。
夢の世界は、あいつの自由。この新聞だって、彼女が創ったにちがいない。そしてヘンにこだわる彼女のことだ。まず紙の材料を創り、材料を加工する工場を創り、工場ではたらく作業員を創り、そのほか内容を書きあげる執筆家など、挙げればきりのないありさまだ。しかし、そんなふうにこだわる彼女だからこそ、夢の思想にえらばれたのかもしれない。
「もう要らないのかもしれないね……」
私は、急に思いだす。
電車の外の風景は、空だと感じれば々になり、海だと感じれば々になる。流体の風景。乗っているのは電車ではなく、夢の帯にほかならない。
「何が?」
「私たちさ。最近は幻想郷もうまく安定してきたし、もう成すにまかせよの時期ってことだよ」
私は、魔多羅隠岐奈に反論した。
「そんなことはない、まだやれることがあるはずよ」
「どうかねえ、もう巫女なんて謂う私たちの代役までいるから」
「ただの人間じゃないの。あんなのに幻想郷のすべてをゆだねてたまるものですか」
「いずれにせよ、創造主がいつまでも介入してよいものだろうか。子ばなれなんて言葉もあるのだし」
「どうしてそんなことを言うの?」
「べつに悪意はないんだよ。しかし永遠の頂点を守ろうとする王族たちが、それに成功した例はないじゃないか」
「がんばって創った幻想郷なのよ」
「紫、泣いているのかい」
「泣いているわ」
「ごめんよ、私がわるかったよ。袖でなみだを拭いてやるから」
私は、死んじゃえ! と言いはなち、隠岐奈が寄せてきた袖を振りはらう。
背を向けて泣きつづけ、振りかえったころには、彼女はうしろ戸のとばりへ消えてしまい、それから一度も会っていない。
私は、こだわる。
しかし隠岐奈は、そう考えない。今でもこちらが幻想郷を割れやすい飴細工だと言えば、彼女は安全な自動運転車だと言いかえすにちがいない。
私は、揺れる。
停車しようとする電車の慣性のためである。黒板と爪のかなでる異音にも似た、車輪の悲鳴。静止する外の風景は、なぜか砂漠である。こまかい、つぶつぶの集まり。最も単純な鉱石の銀河系。
私は、まぶしくなる。
いつもかぶっている帽子の鍔は短すぎて、日をさえぎられそうにない。尤も砂漠で日やけを気にするなど、所帯じみていると謂うより、ただの楽天家である。砂漠と、日やけ止め。その連想はいささか、こっけいでさえある。いずれからからにひからびれば、どんなにプライドの高いやつでも、日やけ止めどころか、絆創膏の芯までしゃぶりつくすと決まっているのに。
改札を抜けると、駅内の埃っぽい体臭が鼻を突く。交差する、床のタイル。虫ごのみの、ライトの明かり。壁にあるポスターは、やはり全部あいつの写真いりなのだ。自己顕示もこうあからさまだと、むしろすがすがしいものがある。
私は、売店の“なんでも売り”に話しかける。
なんでも売りは透明なのか、あるいは体がないのか、深くかぶったフードの奥には、反対側の生地が見えるだけである。しかし声だけでも表情はつかめるものである。その調子は、足もとを見ている表情だ。
「なんでもありますよ、なんでもありますよ」
「なんでもあるの」
「なんでもありますよ、なんでも売りでございますから」
私は、注文する。
ジャケツ、革靴、婦人帽、リュック・サック、水筒、水、パン。
なんでも売りのとなりには、つねに乳母車が置いてある。そこから注文された物を取りだすのだ。腕を突きこまれた乳母車は、決まっていやがりけいれんする。はらわたをさぐられている気分なのかしら、それともくすぐったいのかしら。
宇宙の黒渦のように、乳母車はなんでもはいっているタンス。生きるタンス。人間タンスの絵画って、ダリだっけ。外の砂漠は、時計がダリの融けたやつになるくらい、暑そうだ。
「代金はドレミー・スイートにつけておいて」
私は、無断でつけておく。
べつにかまわないだろう。無賃乗車だろうと、無銭飲食だろうと、夢から覚めれば白紙である。自覚ある夢は自由にあつかえると同時に、あじけない。覚めて見る夢のようである。
「それと」 私は、つけくわえる 「地図もね」
「どこへの地図でしょう」
「幻想郷……」
「ありません!」
そんな反応をすると、最初から知っていた気もするのだ。
「砂漠からニューヨーク、シャンデリゼへの地図さえございます。それでも幻想郷への地図だけはないのです」
「なんでもあるんじゃなくって」
「そうですけれど……」
「嘘つき」
「そんなこと言わないで」
「嘘つき!」
「堪忍え!」
なぜか京言葉。叫びをあげたなんでも売りは、急にくしゃくしゃになり、服を残して消えてしまう。
私は、売店に乗りこむ。
そして乳母車から取りだされた革靴を履き、ジャケツを着こみ、婦人帽をかぶって、ほかはリュックに詰めてしまう。
「あんたに誰かを嘘つきと言う権利があるの?」
これは乳母車の声だ。彼女はぱかぱかと蓋を口がわりに動かした。
「己〈ワタシ〉の知るかぎり、あんた以上の嘘つきはいない。あんたが嘘つきなのは、自分があばかれることを怖れるからよ。いつも気どった調子でいるくせに、中身は臆病で繊細。どうして萃香があんたと友達でいられるのか、己にはまったく理解できないわ」
私は、乳母車を蹴りとばしてやる。
乳母車は横だおしになり 「痛いわ!」 と文句を言う。
駅内から階段をあがり外にでると、予想どおりの灼熱地獄である。ぎらぎらの太陽がぎらぎらの陽光を刺しつけぎらぎらの砂がぎらぎらの反射光を照りかえす。そして夜になれば、今度は涸れ井戸さえ凍えこおりつく極寒が牙をむくのだろう。この両極端こそ、まさに砂漠の思想。道は東部へと続いている……。
「砂漠はすべて心さらけだす鏡になる。発生論的、生理学的には異質であり、肉体的には残酷であり、審美的には抽象であり、歴史的には天敵である。だからこそ、その気があれば歩くがよい。砂漠へ行くがよい、予言者たち巡礼者たちよ。砂漠へ向かって行くがよい、創造主たち喪失者たちよ」
どうやって階段をあがったのか、じっと砂漠を眺めていると、いつのうちにか乳母車がとなりにいて、そう語りかけてくるのである。
「連れがいないと孤独でしょう。あんた、ただでさえ友達が少ないのに」
いつも幸福な思いでの端に、捨てさるべき猥褻な意思が隠れひそみ、しあわせな記憶に冷水を浴びせる。幻想郷を創ったとき、よろこびがあったが、同時に深い悲しみもあった。
私は、乳母車を押す。
夢の砂漠を歩く。
吹きつける、砂のカーテン。ほそくするどい、紫外線のナイフ。荒野は燃えつきた地図の上にむげんの空白をたたえている。
熱、乾き、そしてつねに振動し這いまわる砂の流動。この苛烈な法則に、ついに砂漠の民でさえ、わずか砂漠の思想から許された小さな土地にしがみつくほか、果てしない永遠の歩行をくりかえすより道はなかった。
砂漠は奪った者物をけっして返してくれない。本当だ。それだけが真実。富者だけが、ラクダの背に乗れる。砂漠のなかで一粒の星屑を探すのと、都会のなかで新種のゴキブリを探すのなら、どちらが無理なことなのだろう。どちらも円周率の最後の数をもとめようとするくらい、馬鹿げている。
それでも夢の砂漠が現実の法則で動いているとはかぎらないじゃないか。現実の砂地は下北砂丘だろうとサハラ砂漠だろうと同じ動きをしているらしいのである。そう言えば、この国で最も大きい砂漠は鳥取砂丘ではなく、青森県の下北砂丘なんだっけ。
私は、観察する。
夢の砂漠を観察する。しかし、たとえ双眼鏡なみに視力の倍率をあげられたとしても、どうやら夢の砂漠は現実の砂地となんら変わりないようである。
風にえがかれ波うつ紋様は、なんだか腸壁の断面図にも似ている。砂丘の奥には砂丘があり、その奥にはまた砂丘がある。入りくんだ地形より、地平線まで同じ風景が続いているほうが、かえって迷路じみている。振りかえると五十歩ほどうしろの軌跡は、もう風に吹きちらされて、影もみとめられない。
つかれてしまい、砂丘の傾斜と太陽の位置関係で闇を落とした影に腰を降ろす。ためしに砂の腹へ、ゆびでらくがきでもしてみようか。砂漠に似つかわしくない絵。
私は、さくらの木を描いてみる。
「死ぬまえの私ってどんなやつだったのかしらねえ」
私は、さくらの木のとなりに西行寺幽々子をえがく。
さくらは満開にしてみよう。
「性格のわるいやつだったのかも」
「紫のように?」
「失礼ね」
「知らないようなことを言って、本当は死ぬまえの私を知っているんでしょう」
私は、知らないと言う。
幽々子は 「嘘つき」 と笑う。そのとおり、生前の彼女のことは知っている。そして亡霊は過去をあばけば成仏してしまうだろう。だから言わない、と謂うことだけが、言わない理由ではない。
幽々子は、友達である。そしてうつくしい。
私は、うつくしいことが好き。
だから自分の国からうつくしいことが少なくなるのは、耐えられない。
私は、友達を成仏させたくない。
それは友達を失うこと以上に、幻想郷からうつくしいことが少なくなるのがいやだからだ。
もうすこしで完成するのに、さくらの木も幽々子も、風にけしとばされて散ってしまう。それは東部からの向かい風。
「立ちなよ」
乳母車が言う。
私は、言われるままに立ちあがる。
進んでいると思いたければ思えばいいし、まだまだと思いたければ思うがいい。ニューヨークへの、シャンデリゼへの地図なんて必要ない。欲しいのは幻想郷への地図なのだ。それが燃えつきていようとずぶぬれだろうとかまわない。
水筒がもうからになった。さかさまにすると、奥のほうから雀のなみだがしたたりおちる。
「水!」
乳母車のなかに腕を入れる。なんでも売りがすくいそこねた水の一滴が残っているかもしれないと期待したのである。しかし一滴どころか、湿った空気さえないありさまだ。
「ちくしょう。もう萃香くらい淹れるのがへたくそでもいいから、緑茶でも誰か作ってくれないかな」
「己、緑茶を淹れるの得意よ」
そんなことは言われなくても知っているし、湯と茶葉と器具があったら無理にでも作らせてやるところだった。
私は、砂上に倒れる。
口のなかに砂の味がする。もう死んでしまおうか。夢は死んだときに覚めると相場が決まっているじゃないか。墜落の夢、溺死の夢、圧死の夢……しかし、この夢は死ぬだけでは終わらない気がする。また電車のなかに戻ってしまう予感があったのだ。死んでもまだ夢。夢中夢のなかの夢中夢のなかの夢中夢のなかの夢中夢だったらどうしよう……。
それに死のうとして起きられなかった実例もあった。あるとき、いつものように夢でだらけているとあいつが現れた。
私は、よくわがもの顔で夢にいすわる。
いごこちがよいからである。いまに砂漠だが、いつもは羊毛につつまれているくらい快適なのだ。
「あなたは夢中毒になっているわ。だらしない顔。アヘン中毒病者みたい」
つねづね小言を垂れるだけだったのに、あいつはある夜、唐突に奇妙な怪物をけしかけてきた。それは全身に毛がはえた二足歩行の人間サイズのゲジゲジだった。
私は、ゲジゲジ人間から逃げまわった。
そのうしろであいつはげらげらと笑っていた。最後は目ざめるためにどこかの崖から飛びおりた。しかし、なぜか起きられず、落下地点の崖下の河原を衝撃でばねのように三回くらい跳ねまわった。べつに痛くはなかった。ただみじめだった。崖の上で彼女はゲジゲジ人間と肩を組み、まだげらげらとピエロのように笑っていた……。
むかついてきた! いまに考えれば、なんであんな仕うちを受けなければならなかったのだろう。べつにむげんにある夢の一区画くらい、占領したっていいじゃないか。けちくさいやつだと思う。
いずれたっぷりと報復をしてやろう。あいつも最近は現実に現れることが多くなった。現実ならこちらが有利だ。罠を張って、境界にとじこめ三日三晩、目ざまし時計を爆音で鳴らし、彼女の大好物の安眠を奪いとってやることにしよう!
そこまで考えたところで、不意に眩暈のフラッシュが思考をさえぎり、気がつくと夜になっていた。どうやら気絶していたらしい。とても寒く、ダリ時計になっていた体が、血管までこおりついている。
私は、穴を掘る。
そしてうずまり、すこしでも寒さをしのごうとする。粒状のカンガルー・ポッケット。
頭上には、にぶくかがやく金色の満月。夢の月にもあの都市があるのかもしれない。そうだとしたら虫唾が走る。あれは痰の色だ。たまごくらいの痰を街灯で照らしたら、あんなふうにひかるにちがいない。あんな都市、どうせ三日天下だとも。いずれ、われわれがほろぼしてやる。
私は、あの都市に報復するためだけにでもまだ強くなりたい。
「強さの秘訣だって。知らない、そんなこと言われても私は最初から強いもん」
伊吹萃香は頭がよくないから、そんな解答しかしてくれない。
「そんなこと聞かなくってもさ、あんた強いわ。癪だけど私より強いんじゃないの」
そうじゃなかった。本当に欲しいのは萃香のような素直さだったのに。
私は、いつも姑息な策を弄するしかない。
乳母車は 「どうして萃香があんたと友達でいられるのか」 と言った。それは無知だ。心にうとい考えだ。
私は、剛力がない。
萃香にはさかしさがない。
たりないことが極端だからこそ気が合うのだ。みんな乳母車のように、万葉すべてを持って誕生できるわけがない。
「起きて」
誰の声?
「起きて、紫」
やさしい声。
まるで聖母のようだと思う。いまわしい悪夢から、解放してくれる音色である。しかし、そんな考えが馬鹿げているとすぐに思いしらされるのだ。
あいつだった。目が覚めると、いつも三日月を口に張りつけている彼女がいたのだ。顔がほてる。これのどこが聖母なのだろう。どう見たってサタンじゃないか。むかつくやつだ。
「おはようございます」
「おはよう」 乳母車は朝の体操をしながら返事をする。
私は、朝のあいさつを返さない。
尤も、朝なのかはあやしいものである。
「水! ってね」
私は、自分の独りごとでからかわれる。
いないようなそぶりをして、最初から眺めていやがったのだ。
「おはようございます!」
「うるさいな、もう!」
「なら言ってよ」
「はい、はい。おはようございます!」
不意にドレミー・スイートの靴下とスカートのあいだにある、白い脛を注視する。急に忘れていた渇きが、触発されて喉を駈けのぼる。
私は、砂から這いだしドレミーの脛へかぶりつく。
「大胆ですね」
その脛は、まるで噛みかけのガムのようにくにゃくにゃとつぶれて、一滴の血も流れないのだ。いったいどうやって直立しているのだろう。
「水!」
「どうしよっかな」
あまりに一方的すぎる関係だ。これが現実ならすぐに逆転するはずなのに。
「まあ、いいよ。水くらい、いくらでも飲ませてあげますよ」
あたりまえだ! 発展途上国でもあるまいし、水くらいだしおしみしないでもらいたい。
ドレミーはナイト・キャップのなかから水筒を取りだした。一目散にそれを奪いとり、むしゃぶりつくと、ついでにリュックからパンを取りだしかじりつく。やはり砂の味がする。
「いい天気だ! 運がよかった、私に会えて。あとすこしで……」
「すこしで?」
「死んでしまって、また最初からやりなおすところだった」
肌がけばだち、ぞっとする。動脈を輪ゴムできゅうっとしぼられる感じ。
砂を吐きだし、砂をはらって立ちあがる。
肩に違和感をおぼえ、見るとサソリが乗っていた。べつになんとも思わなかったが、いつまでも乗せておくわけにもいかないので、とりあえずばりばりと食べておく。
砂漠は不毛だが、そこに適応した生命もいる。まずわずか植物がいて、その植物の体液を吸う虫がいて、その虫を食べる爬虫類がいる。サソリを食べた自分もその連鎖に仲間いりしたと謂うわけだ。
砂漠。あまりに過酷なために、生存競争のかすかな土地。森や都会、さかえた土地にこだわるからこそ、あのわずらわしい競争が巻きおこる。あえて砂漠に住んでしまえば、もはやどんなはげしい闘争もありえない。灼熱のかたわらに咲く、サボテンのように……。
「つかれは取れましたか」
「まったくよ」
「そうでしょうとも。私は昨日ベッドで寝ていましたが……」
「夢に昨日なんて法則があるとは知らなかった」
「ありますとも。べつに今日と平行でもいい、あなたが望むなら」
「昨日が今日へ今日が明日へ、流れると確信するから生きていられる。時間が横になってたまるものですか」
「紫」
「何よ」
「歩きましょう、荷物は持つよ」
「そんなことより起きたいわ」
「あなたが望むなら」
荷物と言えるほどの物はない。リュックはすでにからだった。あとは乳母車だが、それくらい自分で押してやる。
私は、リュックを捨てた。
私は、歩きつづける。
ドレミーは軟弱だからよく遅れる。
「待て! ね、休憩しよ」
「べつに無理してついてこなくってもいいのよ」
「水あげたでしょ!」
「ああ、ああ。忘れた!」
私は、強いはずだ。
ドレミーもそのはずだ。
なのに何をしているのだろう。不意に視界が、自分たちをプロペラ機の視線で撮影し、俯瞰する。まるで虫けらのようだと思う。いまなら乞食にでもなれそうだ。
やがて折りたたまれていた時間が再生ボタンを押されて動きだし、星が何度も降りはじめる。欠けゆく月で宇宙飛行士が手を振っていた。アメリカ国旗がたなびいている。あれはアームストロングだ。
ある新月の夜ふたりで抱きあいながら、ふるえつつ砂の布団で寝そべっていると、彗星が流れていった。それは天を光のうねりで埋めつくし、シリウスさえもそのかがやきにすごすごと引きさがってしまうのだ。
「どうして私にかまうの」
私は、聞く。
「友達でしょ?」
おまえとわたしはもう友達だと思っていたよ。ちがった? そう思っていたのはわたしだけだった……?
あの宴会の日、ひどく酔いつぶれてしまい、そのうち眠ってしまった。起きたとき、頭を膝に乗せてくれていたのは、なぜか霧雨魔理沙だったのだ。
私は、なぜ介抱してくれたのかと口にした。
「友達だろ?」
私は、きょとんとした。
魔理沙はそんな顔を見て、悲しそうにした。
「そうなの?」
「おまえとわたしはもう友達だと思っていたよ。ちがった? そう思っていたのはわたしだけだった……?」
ちがうと思った。他人と言うほどでもなかったが、かと言ってしたしくもなかった。それでも知りあってからそれなりに経っているので、魔理沙は友達だと言うのだろう。
「そうね。私と魔理沙は、友達。えへ、えへ」
「なんだ、きもちわるいよ」
私は、まだ酔っていた。しかし素面でも意に反してそう言ったにちがいない。魔理沙は妖怪が人間に友達だと言われてどれほどうれしいか知らないのだ。矛盾しているな。妖怪は人間の敵なのに、人間がいないと生きられないなんて。人間は妖怪がいなくても生きられるのに……うっかりと、したしくもない彼女に見せてしまった、写真屋で現像するまえの言葉……。
「ドレミーは、友達じゃない」
「そう……」
「でも、いいよ。夢のなかくらいなら、おまえと友達でも」
「やった!」
翌日、これまで見たこともないような大砂丘にさしかかる。まるでケー・ツーの山脈だ。それはさすがに誇張かもしれない。これを越えれば、幻想郷がオアシスのようにたたずんでいるのだろうか。それともまだ荒涼の風が吹きつけるだけなのか。
一歩ずつ踏みしめる、肌色にきらめく巨人の枕。背後にはこれまで歩いてきた平坦なしとねが続いている。
あとすこしのところで、ドレミーがぐったりと倒れてしまう。
「暑い、死ぬ」
「もうすこしよ」
「置いていってください」
「ふぬけ! 立て!」
そんなふうに発破をかけても、ぴくりともしないのだ。こんなに暑いのに、導火線だけ湿らせるなんて器用なやつだ。自分の国のくせに、何をしているのだろう。
突然ドレミーがオエエエと何かを吐きだした。腕だった。胃液まみれで、しかしすこしだけしか溶けていない。腕は這いうごき、彼女の首をしめつける。あの動きは憤怒の表情だ。
モルフェエウス!
私は、悟る。
ドレミーが食べてしまった本当のドリーム・ペインター。夢の女神。
憤怒と言ったが、悲しみにも思える。あれは創造主の立場を奪われたのだ。そのみじめさは、どんなに大きいものだったのだろう。しかし、ついにチャンスが巡ってきたのだ。つかれきった彼女の体から脱出する、千載一遇の機会……。
「助けて……」
私は、迷う。
なんの関係があるのだろう。べつに幻想郷と夢には、なんの契約もない。他国のいざこざは、黙って眺めるのが一番なのだ。笑ってやってもいい。
「死んじゃえ!」
私は、言ってやった。
腕にである。ドレミーの首にしがみついている腕を蹴りとばし、踏みつぶしてやる。そのうち腕は動かなくなり、砂のようにさらさらと消滅していった。
「やってやった!」
私は、勝ちほこる。
なぜ助けたのかは自分でもよく分からない。らしくない。ただの、水の礼なのだ。
「こわかったよう、こわかったよう」
ドレミーが泣きすがってきた。まるで子供のようだと思う。彼女をかつぎあげ、乳母車を片手で押してゆく。自分にこんな力があるとは知らなかった。まえに家の整理をしているときは、タンスだって動かせなかったのに。いまなら、横綱に勝てそうだ。彼女はまだぐずぐずと鼻をすすっていたが、大砂丘の頂点へ到ると、ようやく泣きやんだ。
砂漠はすべて心さらけだす鏡になる。発生論的、生理学的には異質であり、肉体的には残酷であり、審美的には抽象であり、歴史的には天敵である。
ドレミーを助けたことも、彼女が素直に泣きついてきたことも、砂漠の効力。心のひけらかしなのだろうか。たしかにこの極限の虚無変換器のなかでは、よほど遠くへ逃げないと、かくれんぼさえできそうにない。そうだとしたら、怖ろしい。賢人はつねに見くびられることにおびえている。本音をとざし、心をすがめ、そして誰にもたよらない。
「ない。何も、ない」
それは大砂丘の向こう。幻想郷はどこにも見えなかった。同じ砂漠が続いている。ただちがっているのは、すこし遠くのほうで、スフィンクスたちが大名行列をつくりあげ、砂漠を横断していることだけだ。
だから、なんだってんだ? 猫に用はない。いまは砂漠観光より、自分の国の空気を吸いたいのだ。横断したけりゃ、勝手にしろよ!
「おい、私を起こせ! できるんでしょ……ここまでついてったりして、本当はからかってるんでしょ?」
ドレミーはつかれきって、すうすうと眠っている。
私は、膝をつく。
革靴が砂でいっぱいになっていた。
私は、吠える。
「ちくしょう……グ、グ、グ、グ……ちくしょう! 何かがまちがっていて、それを正すまで目ざめられないと言うのなら、神よ! そのまちがいを余白いっぱいに証明しろ! すがたを見せろ、神よ。ちくしょう……神よ、証拠を見せろ。目ざめの声を!」
なんの返事もない。夢の神はこの膝に頭を乗せて眠っているのだから。
この砂漠ときたら、心のささえになりそうな物なんてひとつもありはしない。できることなど、せいぜい旅の道づれの友達をぎゅうっと抱きしめ、すがりつくことくらいだろう。それはべつに、ささえではない。ドレミーの体は、杖にするには細すぎる。
私は、座りこんでいる。
人間たちが月に行って以来、宇宙へのこころみをほとんど忘れてしまったように、長いこと大砂丘から動けない。
「あれが天秤座」
「私、星座ってどうにも分かりません。いささか無理やりと言うのか……」
「ロマンチシズムに欠けているのね、夢の民なのに」
「あなた、知らないんです。夢って、叶わない現実のしぼりかすよ」
分かるような気がした。
夜の蓋に大烏が舞っている。大烏はいかにも上機嫌だ。サソリがこのまえ死んだからだろう。あれはサソリ座と仲がわるいのだ。そこから離れたところでたわむれているかわいらしい星たちは、おそらくポウセ童子とチュンセ童子。エーテルの周波数とひとつになり、今日も星を調べよう。攪拌する、光のつぶて。光は長い旅行の果てに降りしきる時の崖。あかいめだまのさそりひろげた鷲のつばさあおいめだまの小いぬ、ひかりのへびのとぐろ。オリオンは高くうたいつゆとしもとをおとす、アンドロメダのくもはさかなのくちのかたち。大ぐまのあしをきたに五つのばしたところ。小熊のひたいのうえはそらのめぐりの……。
「めあて! ハハハハ」
「おかしなひと、星を見ているだけでどうして笑うの」
「おまえも笑えばいい」
「遠慮します」
手をこっそりとドレミーのうしろに伸ばし、脇ばらをくすぐってやる。
「くすぐったい!」
ドレミーが笑った。それがまたなぜかこちらの笑いをさそうのだ。
私は、砂まみれになってなお笑いころげる。
あのわずらわしい現実とくらべて、なんと謂う爽快さだろう。もう、暑くもないし寒くもない。幻想郷を創ってから、こんなふうに休めたことは一度もなかった。労苦は住民がふえるほど複雑になり、創造主を痛めつける。しかも住民は、家賃を払わなければ、定住許可証にサインも書かないありさまだ。こちらもべつに、書類と判子を用意したわけではなかったが、それくらい向こうでこしらえるべきだろう。
わがもの顔で礼も言わずに幻想郷へ住みついた妖怪に、創造主たちはなんの要求もしなかったし、尊敬しろとも言わなかった。しかし、内心では自分を妖怪に奉仕するぼろくずのように感じ、つねに見かえりを望んでいるものだった。幻想郷が機能することを見かえりだと、思いたければ思えばいい。それでも、はたらき以上の見かえりを求めないほど、聖人ぶれるはずがないのだ。
不意に、足もとを見るとまさにいま、爬虫類に虫が飲みこまれた。いつのうちにか昇っている、しろがねの太陽。
私は、急にひえきったドレミーの視線を感じる。
「どうしたの」
「いつまでこうしているの?」
これは哀れみの表情だ。ドレミーの目じりが、悲しみにくぼんでいる。
「立ちどまるよりほかに、何をすればいい」
「歩けばいい!」
「歩くって……?」
「また探すんですよ、幻想郷を」
私は、その言葉に憎悪さえおぼえるのだ。
「歩いたわよ。歩いて、走って、飛んで……幻想郷を創るまえも、あとも……もう、はたらきすぎて、つかれちゃった。私のいまの気分が分かる? 肩がとても軽いんだ!」
私は、砂漠をつかむ。そして砂を引っぱると、その部分がまるで壁紙でも剥がすように、ぺりぺりとめくれあがるのだ。内側には、腐った植物のように臭って、蠅まみれの、自分の魂がある。誰にも見せたことがない、最大の恥部だった。
「私の魂、こんなになってしまって。ずたずたになるまで、がんばったのに。ドレミー、怖ろしい? それとも、きもちわるい? おまえも創造主でありつづけるなら、いずれはこうなるのだ」
ドレミーは黙りこくってしまう。そして、代わりに乳母車がけらけらとののしるのだ。
「きたない、最低。己、見ていられない。労働って本当に残酷なのね!」
「おまえは黙っていろ!」
私は、乳母車を蹴りつける。
大砂丘をころがりおちながら、彼女は 「また蹴った!」 と泣きごとを言う。いまさら蹴られるくらい、なんだと言うのだろう。ここまで押しあるいてやったし、現実でさえ彼女をささえつづけてやっていたのに。
「紫、目を覚まして。夢は見る場所であっても、とじこもる場所じゃない。以前からそんなふうに夢を使うあなたがきらいだった。それでも、この場所にくるまでは歩いていたじゃない。私は、歩くあなたなら好き。戦わなくちゃ、現実と!」
「知らないくせに、現実のこと。無垢なおまえに教えてやる。おまえ、言ったね? 夢って、叶わない現実のしぼりかすだって。じゃ、現実ってのはその反対よ。現実ってのは、かすだ! しぼられてない、かすだ。笑える、どちらに逃げようとけっきょくはかすまみれなんだな……」
「私の国を、馬鹿にするな!」
「ほら、すぐ怒る。やっぱり無垢だ」
「そんなふうに、下劣なことを言って。でも、その臆病で稚拙なところを見せるってことは、ようやく心をひらいてくれたってわけだ」
私は、いぶかる。
ドレミーが白いゆびで、砂漠の一角を指ししめす。それをおこなう表情は、彼女ではない。それは“あいつ”のときの表情だ。よく知っている、役者じみた、三日月のくちびる。
「砂漠はすべて心さらけだす鏡になる。発生論的、生理学的には異質であり、肉体的には残酷であり、審美的には抽象であり、歴史的には天敵である……だから砂漠の夢は多く諦念の象徴なのだ。熱とつめたさは痛みを、乾きは飢えを、そして何もかもを飲みこむ砂の流動こそあきらめの化身なのだ。伝説の開拓者でさえ、砂の性質には絶対に打ちかてない」
私は、こだわる。
その“あきらめ”と言う文字が癪にさわり、胃がやたらとむかついた。
「あきらめだって。私を見ろ、この創造主の力。私は強かった。国を創ることさえ可能だった。誰にも負けなかった。誰にでも勝ち、なおかつ誰も敗北させずに幸福にしてやることすらできるのだ。私こそ伝説の開拓者だ! 何をあきらめる必要がある?」
砂漠が、ふるえる。大砂丘の下で魔物のいびきのような地ひびきが鳴り、巨大な塔が持ちあがる。塔は鋼鉄で造形されていた。
「見ろ! 夢は畑ちがいの場所。それでも私は成すことができる」
私は、勝ちほこる。
何を勝ちほこっているのかは、自分でも分からない。そうしなければ、今にも弱味が、まぶたの裏から噴きだしてきそうだった。
なさけない心臓の音。ひどく叫んでいるくせに、血を送る血管のほうは、萎縮しているような感じがする。
「おどろいて、声もでないのか!」
「そうですか。それなら夢の出口も創ってみるがいい」
私は、言葉に詰まる。また喉が渇きはじめた。
「ほら。やれ、やれ!」
「うるさい、煽るな! 害獣の分際で!」
「あなたは周囲に、気を許すべきだ。心をひらいて、たよるべきだ」
「無理よ、できない。私には……できない」
「そうしなければ、この悪夢は永遠に覚めやらない」
ドレミーが突然、砂漠に右手を突きさした。
急に足が重くなる。
私は、足もとを見た。
足が砂に沈んでいる。
「何をする!」
ドレミーは耳を貸さなかった。このままでは、すぐに全身が、砂漠に喰われてしまうだろう。
「已めろ! 已めろと言うのが、聞こえないの!」
背後で音がする。塔も沈んでいるのだろう。みしみしと、塔は悲鳴をあげている。
私は、埋まりゆく。
ついには腰が埋まり、肩が埋まり、そして首だけになった。砂漠に首から下を埋めて、飢えと渇きで処刑するのは、エジプト人の作法だったっけ。
「恩を忘れたのか」
「恩?」
「助けてやった、モルフェエウスから」
ドレミーは失笑した。
「助けさせて“あげた”のです。あなたの良心のために」
「……ドレミー、おまえは死ぬべきだ。殺してやる」
「ふん、助けてくれたのは事実です。しかたがありません、選別にこれを渡しておきましょう」
ドレミーが何かを投げつけてきた。それは額に当たって、目のまえにころがりおちてきた。
タバコが、一箱。
私は、首を上にあげる。もう口に、砂がはいってしまいそうだ。
「マ……」
「ま?」
私は、叫ぶ。
「マッチ!、!、!、!」
「ウヒヒヒ、ヒヒ!」
目もとが沈みきるまえに、笑いころげるドレミーが見えた。
You've got to accentuate the positive(前むきになろうよ)
Eliminate the negative(暗くなるのは已めて)
To lilustrate my last remerk(結局のところ)
Jonah in the whale,Noah in the ark. What did they do,Just when everything looked so dark(クジラに飲みこまれたヨナと、箱船に乗ったノアはとじられゆく世界でこう言ったと思うんだ)
Man,the said(そうさ)
We better accentuate the positive.Eliminate the negative(あかるくいこうよ! 悩んだところでどうにもならない)
……しかしヨナの場合もノアの場合も、本当に真実的なポジティブさかどうか? ヨナの場合は自分の愚を嘲笑するためにちがいないし、ノアの場合は絶望を振りはらうためのから元気にちがいない。
これは、そんな歌である。
砂漠の下には巨大な空洞、あるいは巨大な洞窟があった。砂漠の胃ぶくろのようだと思う。塔も乳母車も目が覚めたころには、この洞窟へともに落ちていた。
タバコのほかに落ちているのは、マッチとラジオ。あとから投げいれてくれたらしい。
埋もれかけのタバコを拾った。フィルムをむしり、タバコを取りだす。タバコをくわえて、マッチで儀式のように火をともす。
「ふウーー……ウウ」
煙を深く吸いこむと、神経に快楽の幕が垂れさがった。これはアメリカン・スピリッツだ。ほうっておくと、火が消える。強く吸わないと、葉が燃えてくれない。
箱には癌についての警告が書いてある。そんなことは、言われなくとも知っていた。
みんなが知っているのである。
「ふウーー……ドレミー、おまえはユダより最低だわ」
「ユダって?」
「ふウーー……」
乳母車を無視して、塔を眺める。その大きさのためなのか、地下へ落ちているのに、先端が洞窟の天井に突きささっていた。
これは運がよい。塔を登れば、地上に出られるかもしれない。
私は、自分の造形術を内心で褒めた。
タバコを捨てると、立ちあがる。
私は、乳母車を押して歩きはじめる。
洞窟の中はひんやりとしている。風のない、魔物の胃袋。夜の砂漠とは別種の冷気がまとわりつく。洞窟の床、壁、天井から発光する水晶体がはえている。周囲はその微光で照らされていた。
塔へはいるまえに、広場を見つけた。広場は牧場のように柵で囲まれていた。
広場の口に看板があった
神墓(かみはか)
とマジックで書いてある。
背中につめたい汗が流れる。
広場にはいると、名のとおり墓があった。しかも古今東西、あらゆる形式の物が乱立していた。墓々には、誰かが来た痕跡もなく、その表面のほとんどは砂にけずられて、もう名前も分からない。
しかし、みっつだけ新品の墓がある。
字が読める。
八雲紫
ドレミー・スイート
モルフェエウス
と彫られている。
モルフェエウスの墓はすでにとじられていた。残りのふたつは、口をひらいて、入居者を待ちわびていた。
それ以上のことはない。おそらくドレミーのいやがらせだろう。
私は、墓地から離れようとする。
しかし、足を途中で止めた。モルフェエウスの墓の下から、声がしたのだ。
オオオオ……ドン、ドン、ドン、ドン……! ドレミー、ドレミー、ドレミー、ドレミー・スイート。呪われよ、々われよ。夢のしたっぱよ。々のぬすっとよ。オオオオ……ドン、ドン、ドン、ドン……!
私は、耳をふさぐ。
乳母車を押しているので、片方だけしかふさげない。
ドン、ドン、ドン、ドン……! 開けてください、おねがいします。々けてください、おねがいします! おねがいします、おねがいします、おねがいします……おねがい、しますよ……ドン、ドン、ドン、ドン!
なんと謂う、悲惨な声だろう。乞食が金を欲しがっているようだと思う。
分かっている。いずれはあんなふうになるのだ。
私は、神さまに愛されない。
この魂が腐るのは、幻想郷を創るとき、そこに住んでいた神々を殺したからだ。その神々が、この魂を呪っているためだ。
いつまでも。
塔の内部へはいりこむと、自分のずさんな造形を思いしらされる。内部はほこりまみれで、かびくさかった。それを支える鉄柱は、錆だらけでゆがんでいた。できそこないの、塔の肋骨。
私は、乳母車をかかえて階段を登りはじめた。
これが自分の造形物とは、認めたくもなかった。砂をあやつった、ドレミーの手腕を思いだす。さすがに夢の支配者は伊達じゃない。そこは褒めてやってもよかった。
階段は延々と続いている。
一度は砂漠であきらめたのに、どうして歩いているのだろう。
汗腺から汁が噴きだし、肺は痛みをうったえる。足がぴりぴりとしびれはじめた。
何者かに背中を押されているような感じ。
侵略者に打ちのめされて、砂漠へ逃げだし、無限の歩行をくりかえす、故郷喪失者たち。ジプシーのように、定住しては追いだされる。
逃亡者の荷物の量は、おどろくほどの軽さ。極限状態を体感すれば、旅人にギターを持つ余裕がないと知るだろう。音楽を奏でる旅人は、物語の産物に過ぎないのだ。
……乳母車はどうだろう。これは本当に生活必需品なのだろうか?
たしかに乳母車は、便利な道具だ……もちろん赤子を入れるために、あるいは道具を入れるために……しかし、こいつと来たら皮肉を言うくらいしか能がない。
うたがいようはなかった。これは捨てるべきだったのだ。
私は、乳母車から手を放そうとする。
そして揚々と階段を楽に登るのだ。
しかし、乳母車は接着剤で固めたように、手から放れない。
私は、手を振りまわす。
乳母車をこわそうと、塔の内壁にぶっつけてやる。
傷のひとつもつかなかった。
「己は最後まであんたにしがみついているわ」
乳母車は鈴のような声で言った。
「冗談じゃない! 何もかも、おまえの手がらになるのは沢山だ! 霊夢、分かる? …… おまえじゃない、私の力だ! 裏でおまえを支えつづけてやっていたから、おまえはどんな異変でも、解決することができたんじゃないか! だから、私が……私のほうが……幻想郷に愛されるべきなんだ!」
私は、噛みつく。
自分の右腕にである。
「あんたは冷徹なんだな……己だって、幻想郷のために尽くしたのに」
痛い。なんて痛いんだ。それでも塔を登りきりたかった。乳母車なんかにかまっている暇はない。
私は、両腕を喰いちぎった。
そして乳母車を蹴りつけた。ぶざまに階段をころがってゆく。
腕の断面から、むらさき色の煙がしゅうしゅうと立ちこめる。途方もない激痛が、神経を雑巾のようにしぼりあげた。
「フフフフ、フフ。やった……やった!」
開放感で胸がときめいた。
私は、独りだ!
別に怯える必要はない。言うまでもなく、周囲の誰も信用せず、これまで独りで生きてきたのだ。
私は、また塔を登ろうとする。
「紫」
不意に声がした。
私は、振りかえる。
「これで本当によかったの?」
「ドレミー……」
なぜか宇宙服を着ている。あれはアームストロングの宇宙服だ。
急に塔が揺れはじめる。振動して、骨をきしませ…… 「テン、ナイン、エイト、セブン」 ……どこからともなくスピーカーを通した声で、カウント・ダウンが開始される。そしてゼロになったとき、塔は破竹の勢いで上昇しはじめた。
私は、混乱する。
こんな機能はつけていない。それでも塔は飛んでいた。
塔の先端が、その勢いで砕かれる。
夜だった。先端が砕かれたので、それが見えた。
あまりに意味不明すぎている。夢と言うやつは、どうして既存の法則に従ってくれないのだ。
満月に向かってゆく塔は、燃料が切れて、唐突に宙空で制止した。そして今度は、そこばかりは既存の法則に従って、引力で砂漠に墜落してゆく。
私は、浮遊感をおぼえる……。
体にのしかかる、鋼鉄の重み。力を込めて、なんとか残骸から這いだした。
ふたたび砂漠に戻ってきた。
もう歩けそうにない。全身をいましめる、複雑骨折の痛み。血は頭から流れおちる。
「か、か……」 私は、言う 「神さま……神さま、神さま! 助けてください、おねがいします!」
神だのみ! この土壇場で、神に祈る滑稽さ。
滑稽で、よろしい……この極限状態で現実主義や、哲学理論がなんの役に立つ……虫けらに土下座してもかまわないから、とにかく幻想郷に帰りたいんだ!
すると祈りがつうじたのかもしれない。ぼやけた視界にそれが映った。
あれは博麗神社の鳥居じゃないか。この広大な砂漠で場ちがいにもぽつんと直立している。
その入り口に、幻想郷が映っている。うたがいようもなく、夢の出口として機能していた。
私は、砂を這いまわる。
砂浜で暮らす昆虫のように、鳥居のほうに突きすすむ。
しかし、なぜか鳥居は入り口へはいりこむまえに、あろうことかその二本足で後退してしまうのだ。
私が、進む。鳥居は、さがる。
私が、止まる。鳥居も、止まる。
私が、進む。鳥居は、さがる。
私が、進む。鳥居は、さがる。
まるでからかわれているようだと思う。
「からかってるのか!」
実際にそう叫んでみたりする。
ここが目的地。逆回転するエスカレータのように、無限の歩行を強要する、暗くつめたい終焉の夢。
「どうして? ……私たちは、幻想郷に尽くしたのに、このうえまだ働けと言うのか! 理不尽すぎる……あまりに冷酷すぎている……愛してくれ。創造主ばかりが荷を担ぐのは不公平だ。私も霊夢のように、幻想郷に愛されたいんだ! ……そうでければ、賢者たちが、あまりに哀れすぎるじゃないか……う、う、う、う……」
ちくしょう! ……もうすぐそこに、幻想郷があるのに……それでも、いつまでも砂漠をさまよわなければばらないんだ……砂漠はすべて心さらけだす鏡になる。発生論的、生理学的には異質であり、肉体的には残酷であり、審美的には抽象であり、歴史的には天敵である……だからこそ、その気があれば歩くがよい……砂漠へ行くがよい、予言者たち巡礼者たちよ……砂漠へ向かって行くがよい、創造主たち喪失者たちよ……。
頭上で満月が輝いている。それをにらめつけて、立ちあがった。がくがくと膝が笑っている。
私は、愛を示す。
大口を開け、渾身の力で、月をめがけて跳びあがる。そして月に喰らいつき、くずれるように着地すると、頭を振りかぶり、くわえた月を、全力で砂漠に叩きつける!
愛を示せ 終わり
私は、待っている。
電車の終着を待っている。
乗客がふえることに気を使って、端の席に折りたたまれたように座っていたが、そんな配慮は不要だった。電車に乗りこんだあと、つい眠りこけ目が覚めたとき、乗客の顔ぶれは乗車時と何も変わらなかった。車両のなかには陰気なやつが三、四人。満員電車が好きなわけではないが、こうも少ないと今度はさむざむしい印象を受ける。からっぽの胃ぶくろをかかえている感じ。
暇になり、誰かが置いていった新聞紙を取りあげてみる。
ドレミー・スイート、支配者への就任××××年を記念して感謝祭をひらく
以下、当にんのコメント……私が眠りの支配者にえらばれたことはまったく必然でありました。それは堕落したモルフェエウス(当時の夢の神)よりも夢を愛し、夢に奉仕する覚悟があったからであります。だからこそ夢の思想はモルフェエウスよりも、ただ一匹の獏を認められました
たしかに夢を創造したのはモルフェエウスです。しかし創造された世界が創造主に従う義務がどこにありましょう。今に彼女は私の腹のなか。それは創造された世界が創造主を罰することを望んだからであります
この夢に、ギリシアの統治はもはやない!
私は、不愉快になる。
いやな新聞を読んでしまった。あいつは何をしているのだろう。自作自演もよいところである。
夢の世界は、あいつの自由。この新聞だって、彼女が創ったにちがいない。そしてヘンにこだわる彼女のことだ。まず紙の材料を創り、材料を加工する工場を創り、工場ではたらく作業員を創り、そのほか内容を書きあげる執筆家など、挙げればきりのないありさまだ。しかし、そんなふうにこだわる彼女だからこそ、夢の思想にえらばれたのかもしれない。
「もう要らないのかもしれないね……」
私は、急に思いだす。
電車の外の風景は、空だと感じれば々になり、海だと感じれば々になる。流体の風景。乗っているのは電車ではなく、夢の帯にほかならない。
「何が?」
「私たちさ。最近は幻想郷もうまく安定してきたし、もう成すにまかせよの時期ってことだよ」
私は、魔多羅隠岐奈に反論した。
「そんなことはない、まだやれることがあるはずよ」
「どうかねえ、もう巫女なんて謂う私たちの代役までいるから」
「ただの人間じゃないの。あんなのに幻想郷のすべてをゆだねてたまるものですか」
「いずれにせよ、創造主がいつまでも介入してよいものだろうか。子ばなれなんて言葉もあるのだし」
「どうしてそんなことを言うの?」
「べつに悪意はないんだよ。しかし永遠の頂点を守ろうとする王族たちが、それに成功した例はないじゃないか」
「がんばって創った幻想郷なのよ」
「紫、泣いているのかい」
「泣いているわ」
「ごめんよ、私がわるかったよ。袖でなみだを拭いてやるから」
私は、死んじゃえ! と言いはなち、隠岐奈が寄せてきた袖を振りはらう。
背を向けて泣きつづけ、振りかえったころには、彼女はうしろ戸のとばりへ消えてしまい、それから一度も会っていない。
私は、こだわる。
しかし隠岐奈は、そう考えない。今でもこちらが幻想郷を割れやすい飴細工だと言えば、彼女は安全な自動運転車だと言いかえすにちがいない。
私は、揺れる。
停車しようとする電車の慣性のためである。黒板と爪のかなでる異音にも似た、車輪の悲鳴。静止する外の風景は、なぜか砂漠である。こまかい、つぶつぶの集まり。最も単純な鉱石の銀河系。
私は、まぶしくなる。
いつもかぶっている帽子の鍔は短すぎて、日をさえぎられそうにない。尤も砂漠で日やけを気にするなど、所帯じみていると謂うより、ただの楽天家である。砂漠と、日やけ止め。その連想はいささか、こっけいでさえある。いずれからからにひからびれば、どんなにプライドの高いやつでも、日やけ止めどころか、絆創膏の芯までしゃぶりつくすと決まっているのに。
改札を抜けると、駅内の埃っぽい体臭が鼻を突く。交差する、床のタイル。虫ごのみの、ライトの明かり。壁にあるポスターは、やはり全部あいつの写真いりなのだ。自己顕示もこうあからさまだと、むしろすがすがしいものがある。
私は、売店の“なんでも売り”に話しかける。
なんでも売りは透明なのか、あるいは体がないのか、深くかぶったフードの奥には、反対側の生地が見えるだけである。しかし声だけでも表情はつかめるものである。その調子は、足もとを見ている表情だ。
「なんでもありますよ、なんでもありますよ」
「なんでもあるの」
「なんでもありますよ、なんでも売りでございますから」
私は、注文する。
ジャケツ、革靴、婦人帽、リュック・サック、水筒、水、パン。
なんでも売りのとなりには、つねに乳母車が置いてある。そこから注文された物を取りだすのだ。腕を突きこまれた乳母車は、決まっていやがりけいれんする。はらわたをさぐられている気分なのかしら、それともくすぐったいのかしら。
宇宙の黒渦のように、乳母車はなんでもはいっているタンス。生きるタンス。人間タンスの絵画って、ダリだっけ。外の砂漠は、時計がダリの融けたやつになるくらい、暑そうだ。
「代金はドレミー・スイートにつけておいて」
私は、無断でつけておく。
べつにかまわないだろう。無賃乗車だろうと、無銭飲食だろうと、夢から覚めれば白紙である。自覚ある夢は自由にあつかえると同時に、あじけない。覚めて見る夢のようである。
「それと」 私は、つけくわえる 「地図もね」
「どこへの地図でしょう」
「幻想郷……」
「ありません!」
そんな反応をすると、最初から知っていた気もするのだ。
「砂漠からニューヨーク、シャンデリゼへの地図さえございます。それでも幻想郷への地図だけはないのです」
「なんでもあるんじゃなくって」
「そうですけれど……」
「嘘つき」
「そんなこと言わないで」
「嘘つき!」
「堪忍え!」
なぜか京言葉。叫びをあげたなんでも売りは、急にくしゃくしゃになり、服を残して消えてしまう。
私は、売店に乗りこむ。
そして乳母車から取りだされた革靴を履き、ジャケツを着こみ、婦人帽をかぶって、ほかはリュックに詰めてしまう。
「あんたに誰かを嘘つきと言う権利があるの?」
これは乳母車の声だ。彼女はぱかぱかと蓋を口がわりに動かした。
「己〈ワタシ〉の知るかぎり、あんた以上の嘘つきはいない。あんたが嘘つきなのは、自分があばかれることを怖れるからよ。いつも気どった調子でいるくせに、中身は臆病で繊細。どうして萃香があんたと友達でいられるのか、己にはまったく理解できないわ」
私は、乳母車を蹴りとばしてやる。
乳母車は横だおしになり 「痛いわ!」 と文句を言う。
駅内から階段をあがり外にでると、予想どおりの灼熱地獄である。ぎらぎらの太陽がぎらぎらの陽光を刺しつけぎらぎらの砂がぎらぎらの反射光を照りかえす。そして夜になれば、今度は涸れ井戸さえ凍えこおりつく極寒が牙をむくのだろう。この両極端こそ、まさに砂漠の思想。道は東部へと続いている……。
「砂漠はすべて心さらけだす鏡になる。発生論的、生理学的には異質であり、肉体的には残酷であり、審美的には抽象であり、歴史的には天敵である。だからこそ、その気があれば歩くがよい。砂漠へ行くがよい、予言者たち巡礼者たちよ。砂漠へ向かって行くがよい、創造主たち喪失者たちよ」
どうやって階段をあがったのか、じっと砂漠を眺めていると、いつのうちにか乳母車がとなりにいて、そう語りかけてくるのである。
「連れがいないと孤独でしょう。あんた、ただでさえ友達が少ないのに」
いつも幸福な思いでの端に、捨てさるべき猥褻な意思が隠れひそみ、しあわせな記憶に冷水を浴びせる。幻想郷を創ったとき、よろこびがあったが、同時に深い悲しみもあった。
私は、乳母車を押す。
夢の砂漠を歩く。
吹きつける、砂のカーテン。ほそくするどい、紫外線のナイフ。荒野は燃えつきた地図の上にむげんの空白をたたえている。
熱、乾き、そしてつねに振動し這いまわる砂の流動。この苛烈な法則に、ついに砂漠の民でさえ、わずか砂漠の思想から許された小さな土地にしがみつくほか、果てしない永遠の歩行をくりかえすより道はなかった。
砂漠は奪った者物をけっして返してくれない。本当だ。それだけが真実。富者だけが、ラクダの背に乗れる。砂漠のなかで一粒の星屑を探すのと、都会のなかで新種のゴキブリを探すのなら、どちらが無理なことなのだろう。どちらも円周率の最後の数をもとめようとするくらい、馬鹿げている。
それでも夢の砂漠が現実の法則で動いているとはかぎらないじゃないか。現実の砂地は下北砂丘だろうとサハラ砂漠だろうと同じ動きをしているらしいのである。そう言えば、この国で最も大きい砂漠は鳥取砂丘ではなく、青森県の下北砂丘なんだっけ。
私は、観察する。
夢の砂漠を観察する。しかし、たとえ双眼鏡なみに視力の倍率をあげられたとしても、どうやら夢の砂漠は現実の砂地となんら変わりないようである。
風にえがかれ波うつ紋様は、なんだか腸壁の断面図にも似ている。砂丘の奥には砂丘があり、その奥にはまた砂丘がある。入りくんだ地形より、地平線まで同じ風景が続いているほうが、かえって迷路じみている。振りかえると五十歩ほどうしろの軌跡は、もう風に吹きちらされて、影もみとめられない。
つかれてしまい、砂丘の傾斜と太陽の位置関係で闇を落とした影に腰を降ろす。ためしに砂の腹へ、ゆびでらくがきでもしてみようか。砂漠に似つかわしくない絵。
私は、さくらの木を描いてみる。
「死ぬまえの私ってどんなやつだったのかしらねえ」
私は、さくらの木のとなりに西行寺幽々子をえがく。
さくらは満開にしてみよう。
「性格のわるいやつだったのかも」
「紫のように?」
「失礼ね」
「知らないようなことを言って、本当は死ぬまえの私を知っているんでしょう」
私は、知らないと言う。
幽々子は 「嘘つき」 と笑う。そのとおり、生前の彼女のことは知っている。そして亡霊は過去をあばけば成仏してしまうだろう。だから言わない、と謂うことだけが、言わない理由ではない。
幽々子は、友達である。そしてうつくしい。
私は、うつくしいことが好き。
だから自分の国からうつくしいことが少なくなるのは、耐えられない。
私は、友達を成仏させたくない。
それは友達を失うこと以上に、幻想郷からうつくしいことが少なくなるのがいやだからだ。
もうすこしで完成するのに、さくらの木も幽々子も、風にけしとばされて散ってしまう。それは東部からの向かい風。
「立ちなよ」
乳母車が言う。
私は、言われるままに立ちあがる。
進んでいると思いたければ思えばいいし、まだまだと思いたければ思うがいい。ニューヨークへの、シャンデリゼへの地図なんて必要ない。欲しいのは幻想郷への地図なのだ。それが燃えつきていようとずぶぬれだろうとかまわない。
水筒がもうからになった。さかさまにすると、奥のほうから雀のなみだがしたたりおちる。
「水!」
乳母車のなかに腕を入れる。なんでも売りがすくいそこねた水の一滴が残っているかもしれないと期待したのである。しかし一滴どころか、湿った空気さえないありさまだ。
「ちくしょう。もう萃香くらい淹れるのがへたくそでもいいから、緑茶でも誰か作ってくれないかな」
「己、緑茶を淹れるの得意よ」
そんなことは言われなくても知っているし、湯と茶葉と器具があったら無理にでも作らせてやるところだった。
私は、砂上に倒れる。
口のなかに砂の味がする。もう死んでしまおうか。夢は死んだときに覚めると相場が決まっているじゃないか。墜落の夢、溺死の夢、圧死の夢……しかし、この夢は死ぬだけでは終わらない気がする。また電車のなかに戻ってしまう予感があったのだ。死んでもまだ夢。夢中夢のなかの夢中夢のなかの夢中夢のなかの夢中夢だったらどうしよう……。
それに死のうとして起きられなかった実例もあった。あるとき、いつものように夢でだらけているとあいつが現れた。
私は、よくわがもの顔で夢にいすわる。
いごこちがよいからである。いまに砂漠だが、いつもは羊毛につつまれているくらい快適なのだ。
「あなたは夢中毒になっているわ。だらしない顔。アヘン中毒病者みたい」
つねづね小言を垂れるだけだったのに、あいつはある夜、唐突に奇妙な怪物をけしかけてきた。それは全身に毛がはえた二足歩行の人間サイズのゲジゲジだった。
私は、ゲジゲジ人間から逃げまわった。
そのうしろであいつはげらげらと笑っていた。最後は目ざめるためにどこかの崖から飛びおりた。しかし、なぜか起きられず、落下地点の崖下の河原を衝撃でばねのように三回くらい跳ねまわった。べつに痛くはなかった。ただみじめだった。崖の上で彼女はゲジゲジ人間と肩を組み、まだげらげらとピエロのように笑っていた……。
むかついてきた! いまに考えれば、なんであんな仕うちを受けなければならなかったのだろう。べつにむげんにある夢の一区画くらい、占領したっていいじゃないか。けちくさいやつだと思う。
いずれたっぷりと報復をしてやろう。あいつも最近は現実に現れることが多くなった。現実ならこちらが有利だ。罠を張って、境界にとじこめ三日三晩、目ざまし時計を爆音で鳴らし、彼女の大好物の安眠を奪いとってやることにしよう!
そこまで考えたところで、不意に眩暈のフラッシュが思考をさえぎり、気がつくと夜になっていた。どうやら気絶していたらしい。とても寒く、ダリ時計になっていた体が、血管までこおりついている。
私は、穴を掘る。
そしてうずまり、すこしでも寒さをしのごうとする。粒状のカンガルー・ポッケット。
頭上には、にぶくかがやく金色の満月。夢の月にもあの都市があるのかもしれない。そうだとしたら虫唾が走る。あれは痰の色だ。たまごくらいの痰を街灯で照らしたら、あんなふうにひかるにちがいない。あんな都市、どうせ三日天下だとも。いずれ、われわれがほろぼしてやる。
私は、あの都市に報復するためだけにでもまだ強くなりたい。
「強さの秘訣だって。知らない、そんなこと言われても私は最初から強いもん」
伊吹萃香は頭がよくないから、そんな解答しかしてくれない。
「そんなこと聞かなくってもさ、あんた強いわ。癪だけど私より強いんじゃないの」
そうじゃなかった。本当に欲しいのは萃香のような素直さだったのに。
私は、いつも姑息な策を弄するしかない。
乳母車は 「どうして萃香があんたと友達でいられるのか」 と言った。それは無知だ。心にうとい考えだ。
私は、剛力がない。
萃香にはさかしさがない。
たりないことが極端だからこそ気が合うのだ。みんな乳母車のように、万葉すべてを持って誕生できるわけがない。
「起きて」
誰の声?
「起きて、紫」
やさしい声。
まるで聖母のようだと思う。いまわしい悪夢から、解放してくれる音色である。しかし、そんな考えが馬鹿げているとすぐに思いしらされるのだ。
あいつだった。目が覚めると、いつも三日月を口に張りつけている彼女がいたのだ。顔がほてる。これのどこが聖母なのだろう。どう見たってサタンじゃないか。むかつくやつだ。
「おはようございます」
「おはよう」 乳母車は朝の体操をしながら返事をする。
私は、朝のあいさつを返さない。
尤も、朝なのかはあやしいものである。
「水! ってね」
私は、自分の独りごとでからかわれる。
いないようなそぶりをして、最初から眺めていやがったのだ。
「おはようございます!」
「うるさいな、もう!」
「なら言ってよ」
「はい、はい。おはようございます!」
不意にドレミー・スイートの靴下とスカートのあいだにある、白い脛を注視する。急に忘れていた渇きが、触発されて喉を駈けのぼる。
私は、砂から這いだしドレミーの脛へかぶりつく。
「大胆ですね」
その脛は、まるで噛みかけのガムのようにくにゃくにゃとつぶれて、一滴の血も流れないのだ。いったいどうやって直立しているのだろう。
「水!」
「どうしよっかな」
あまりに一方的すぎる関係だ。これが現実ならすぐに逆転するはずなのに。
「まあ、いいよ。水くらい、いくらでも飲ませてあげますよ」
あたりまえだ! 発展途上国でもあるまいし、水くらいだしおしみしないでもらいたい。
ドレミーはナイト・キャップのなかから水筒を取りだした。一目散にそれを奪いとり、むしゃぶりつくと、ついでにリュックからパンを取りだしかじりつく。やはり砂の味がする。
「いい天気だ! 運がよかった、私に会えて。あとすこしで……」
「すこしで?」
「死んでしまって、また最初からやりなおすところだった」
肌がけばだち、ぞっとする。動脈を輪ゴムできゅうっとしぼられる感じ。
砂を吐きだし、砂をはらって立ちあがる。
肩に違和感をおぼえ、見るとサソリが乗っていた。べつになんとも思わなかったが、いつまでも乗せておくわけにもいかないので、とりあえずばりばりと食べておく。
砂漠は不毛だが、そこに適応した生命もいる。まずわずか植物がいて、その植物の体液を吸う虫がいて、その虫を食べる爬虫類がいる。サソリを食べた自分もその連鎖に仲間いりしたと謂うわけだ。
砂漠。あまりに過酷なために、生存競争のかすかな土地。森や都会、さかえた土地にこだわるからこそ、あのわずらわしい競争が巻きおこる。あえて砂漠に住んでしまえば、もはやどんなはげしい闘争もありえない。灼熱のかたわらに咲く、サボテンのように……。
「つかれは取れましたか」
「まったくよ」
「そうでしょうとも。私は昨日ベッドで寝ていましたが……」
「夢に昨日なんて法則があるとは知らなかった」
「ありますとも。べつに今日と平行でもいい、あなたが望むなら」
「昨日が今日へ今日が明日へ、流れると確信するから生きていられる。時間が横になってたまるものですか」
「紫」
「何よ」
「歩きましょう、荷物は持つよ」
「そんなことより起きたいわ」
「あなたが望むなら」
荷物と言えるほどの物はない。リュックはすでにからだった。あとは乳母車だが、それくらい自分で押してやる。
私は、リュックを捨てた。
私は、歩きつづける。
ドレミーは軟弱だからよく遅れる。
「待て! ね、休憩しよ」
「べつに無理してついてこなくってもいいのよ」
「水あげたでしょ!」
「ああ、ああ。忘れた!」
私は、強いはずだ。
ドレミーもそのはずだ。
なのに何をしているのだろう。不意に視界が、自分たちをプロペラ機の視線で撮影し、俯瞰する。まるで虫けらのようだと思う。いまなら乞食にでもなれそうだ。
やがて折りたたまれていた時間が再生ボタンを押されて動きだし、星が何度も降りはじめる。欠けゆく月で宇宙飛行士が手を振っていた。アメリカ国旗がたなびいている。あれはアームストロングだ。
ある新月の夜ふたりで抱きあいながら、ふるえつつ砂の布団で寝そべっていると、彗星が流れていった。それは天を光のうねりで埋めつくし、シリウスさえもそのかがやきにすごすごと引きさがってしまうのだ。
「どうして私にかまうの」
私は、聞く。
「友達でしょ?」
おまえとわたしはもう友達だと思っていたよ。ちがった? そう思っていたのはわたしだけだった……?
あの宴会の日、ひどく酔いつぶれてしまい、そのうち眠ってしまった。起きたとき、頭を膝に乗せてくれていたのは、なぜか霧雨魔理沙だったのだ。
私は、なぜ介抱してくれたのかと口にした。
「友達だろ?」
私は、きょとんとした。
魔理沙はそんな顔を見て、悲しそうにした。
「そうなの?」
「おまえとわたしはもう友達だと思っていたよ。ちがった? そう思っていたのはわたしだけだった……?」
ちがうと思った。他人と言うほどでもなかったが、かと言ってしたしくもなかった。それでも知りあってからそれなりに経っているので、魔理沙は友達だと言うのだろう。
「そうね。私と魔理沙は、友達。えへ、えへ」
「なんだ、きもちわるいよ」
私は、まだ酔っていた。しかし素面でも意に反してそう言ったにちがいない。魔理沙は妖怪が人間に友達だと言われてどれほどうれしいか知らないのだ。矛盾しているな。妖怪は人間の敵なのに、人間がいないと生きられないなんて。人間は妖怪がいなくても生きられるのに……うっかりと、したしくもない彼女に見せてしまった、写真屋で現像するまえの言葉……。
「ドレミーは、友達じゃない」
「そう……」
「でも、いいよ。夢のなかくらいなら、おまえと友達でも」
「やった!」
翌日、これまで見たこともないような大砂丘にさしかかる。まるでケー・ツーの山脈だ。それはさすがに誇張かもしれない。これを越えれば、幻想郷がオアシスのようにたたずんでいるのだろうか。それともまだ荒涼の風が吹きつけるだけなのか。
一歩ずつ踏みしめる、肌色にきらめく巨人の枕。背後にはこれまで歩いてきた平坦なしとねが続いている。
あとすこしのところで、ドレミーがぐったりと倒れてしまう。
「暑い、死ぬ」
「もうすこしよ」
「置いていってください」
「ふぬけ! 立て!」
そんなふうに発破をかけても、ぴくりともしないのだ。こんなに暑いのに、導火線だけ湿らせるなんて器用なやつだ。自分の国のくせに、何をしているのだろう。
突然ドレミーがオエエエと何かを吐きだした。腕だった。胃液まみれで、しかしすこしだけしか溶けていない。腕は這いうごき、彼女の首をしめつける。あの動きは憤怒の表情だ。
モルフェエウス!
私は、悟る。
ドレミーが食べてしまった本当のドリーム・ペインター。夢の女神。
憤怒と言ったが、悲しみにも思える。あれは創造主の立場を奪われたのだ。そのみじめさは、どんなに大きいものだったのだろう。しかし、ついにチャンスが巡ってきたのだ。つかれきった彼女の体から脱出する、千載一遇の機会……。
「助けて……」
私は、迷う。
なんの関係があるのだろう。べつに幻想郷と夢には、なんの契約もない。他国のいざこざは、黙って眺めるのが一番なのだ。笑ってやってもいい。
「死んじゃえ!」
私は、言ってやった。
腕にである。ドレミーの首にしがみついている腕を蹴りとばし、踏みつぶしてやる。そのうち腕は動かなくなり、砂のようにさらさらと消滅していった。
「やってやった!」
私は、勝ちほこる。
なぜ助けたのかは自分でもよく分からない。らしくない。ただの、水の礼なのだ。
「こわかったよう、こわかったよう」
ドレミーが泣きすがってきた。まるで子供のようだと思う。彼女をかつぎあげ、乳母車を片手で押してゆく。自分にこんな力があるとは知らなかった。まえに家の整理をしているときは、タンスだって動かせなかったのに。いまなら、横綱に勝てそうだ。彼女はまだぐずぐずと鼻をすすっていたが、大砂丘の頂点へ到ると、ようやく泣きやんだ。
砂漠はすべて心さらけだす鏡になる。発生論的、生理学的には異質であり、肉体的には残酷であり、審美的には抽象であり、歴史的には天敵である。
ドレミーを助けたことも、彼女が素直に泣きついてきたことも、砂漠の効力。心のひけらかしなのだろうか。たしかにこの極限の虚無変換器のなかでは、よほど遠くへ逃げないと、かくれんぼさえできそうにない。そうだとしたら、怖ろしい。賢人はつねに見くびられることにおびえている。本音をとざし、心をすがめ、そして誰にもたよらない。
「ない。何も、ない」
それは大砂丘の向こう。幻想郷はどこにも見えなかった。同じ砂漠が続いている。ただちがっているのは、すこし遠くのほうで、スフィンクスたちが大名行列をつくりあげ、砂漠を横断していることだけだ。
だから、なんだってんだ? 猫に用はない。いまは砂漠観光より、自分の国の空気を吸いたいのだ。横断したけりゃ、勝手にしろよ!
「おい、私を起こせ! できるんでしょ……ここまでついてったりして、本当はからかってるんでしょ?」
ドレミーはつかれきって、すうすうと眠っている。
私は、膝をつく。
革靴が砂でいっぱいになっていた。
私は、吠える。
「ちくしょう……グ、グ、グ、グ……ちくしょう! 何かがまちがっていて、それを正すまで目ざめられないと言うのなら、神よ! そのまちがいを余白いっぱいに証明しろ! すがたを見せろ、神よ。ちくしょう……神よ、証拠を見せろ。目ざめの声を!」
なんの返事もない。夢の神はこの膝に頭を乗せて眠っているのだから。
この砂漠ときたら、心のささえになりそうな物なんてひとつもありはしない。できることなど、せいぜい旅の道づれの友達をぎゅうっと抱きしめ、すがりつくことくらいだろう。それはべつに、ささえではない。ドレミーの体は、杖にするには細すぎる。
私は、座りこんでいる。
人間たちが月に行って以来、宇宙へのこころみをほとんど忘れてしまったように、長いこと大砂丘から動けない。
「あれが天秤座」
「私、星座ってどうにも分かりません。いささか無理やりと言うのか……」
「ロマンチシズムに欠けているのね、夢の民なのに」
「あなた、知らないんです。夢って、叶わない現実のしぼりかすよ」
分かるような気がした。
夜の蓋に大烏が舞っている。大烏はいかにも上機嫌だ。サソリがこのまえ死んだからだろう。あれはサソリ座と仲がわるいのだ。そこから離れたところでたわむれているかわいらしい星たちは、おそらくポウセ童子とチュンセ童子。エーテルの周波数とひとつになり、今日も星を調べよう。攪拌する、光のつぶて。光は長い旅行の果てに降りしきる時の崖。あかいめだまのさそりひろげた鷲のつばさあおいめだまの小いぬ、ひかりのへびのとぐろ。オリオンは高くうたいつゆとしもとをおとす、アンドロメダのくもはさかなのくちのかたち。大ぐまのあしをきたに五つのばしたところ。小熊のひたいのうえはそらのめぐりの……。
「めあて! ハハハハ」
「おかしなひと、星を見ているだけでどうして笑うの」
「おまえも笑えばいい」
「遠慮します」
手をこっそりとドレミーのうしろに伸ばし、脇ばらをくすぐってやる。
「くすぐったい!」
ドレミーが笑った。それがまたなぜかこちらの笑いをさそうのだ。
私は、砂まみれになってなお笑いころげる。
あのわずらわしい現実とくらべて、なんと謂う爽快さだろう。もう、暑くもないし寒くもない。幻想郷を創ってから、こんなふうに休めたことは一度もなかった。労苦は住民がふえるほど複雑になり、創造主を痛めつける。しかも住民は、家賃を払わなければ、定住許可証にサインも書かないありさまだ。こちらもべつに、書類と判子を用意したわけではなかったが、それくらい向こうでこしらえるべきだろう。
わがもの顔で礼も言わずに幻想郷へ住みついた妖怪に、創造主たちはなんの要求もしなかったし、尊敬しろとも言わなかった。しかし、内心では自分を妖怪に奉仕するぼろくずのように感じ、つねに見かえりを望んでいるものだった。幻想郷が機能することを見かえりだと、思いたければ思えばいい。それでも、はたらき以上の見かえりを求めないほど、聖人ぶれるはずがないのだ。
不意に、足もとを見るとまさにいま、爬虫類に虫が飲みこまれた。いつのうちにか昇っている、しろがねの太陽。
私は、急にひえきったドレミーの視線を感じる。
「どうしたの」
「いつまでこうしているの?」
これは哀れみの表情だ。ドレミーの目じりが、悲しみにくぼんでいる。
「立ちどまるよりほかに、何をすればいい」
「歩けばいい!」
「歩くって……?」
「また探すんですよ、幻想郷を」
私は、その言葉に憎悪さえおぼえるのだ。
「歩いたわよ。歩いて、走って、飛んで……幻想郷を創るまえも、あとも……もう、はたらきすぎて、つかれちゃった。私のいまの気分が分かる? 肩がとても軽いんだ!」
私は、砂漠をつかむ。そして砂を引っぱると、その部分がまるで壁紙でも剥がすように、ぺりぺりとめくれあがるのだ。内側には、腐った植物のように臭って、蠅まみれの、自分の魂がある。誰にも見せたことがない、最大の恥部だった。
「私の魂、こんなになってしまって。ずたずたになるまで、がんばったのに。ドレミー、怖ろしい? それとも、きもちわるい? おまえも創造主でありつづけるなら、いずれはこうなるのだ」
ドレミーは黙りこくってしまう。そして、代わりに乳母車がけらけらとののしるのだ。
「きたない、最低。己、見ていられない。労働って本当に残酷なのね!」
「おまえは黙っていろ!」
私は、乳母車を蹴りつける。
大砂丘をころがりおちながら、彼女は 「また蹴った!」 と泣きごとを言う。いまさら蹴られるくらい、なんだと言うのだろう。ここまで押しあるいてやったし、現実でさえ彼女をささえつづけてやっていたのに。
「紫、目を覚まして。夢は見る場所であっても、とじこもる場所じゃない。以前からそんなふうに夢を使うあなたがきらいだった。それでも、この場所にくるまでは歩いていたじゃない。私は、歩くあなたなら好き。戦わなくちゃ、現実と!」
「知らないくせに、現実のこと。無垢なおまえに教えてやる。おまえ、言ったね? 夢って、叶わない現実のしぼりかすだって。じゃ、現実ってのはその反対よ。現実ってのは、かすだ! しぼられてない、かすだ。笑える、どちらに逃げようとけっきょくはかすまみれなんだな……」
「私の国を、馬鹿にするな!」
「ほら、すぐ怒る。やっぱり無垢だ」
「そんなふうに、下劣なことを言って。でも、その臆病で稚拙なところを見せるってことは、ようやく心をひらいてくれたってわけだ」
私は、いぶかる。
ドレミーが白いゆびで、砂漠の一角を指ししめす。それをおこなう表情は、彼女ではない。それは“あいつ”のときの表情だ。よく知っている、役者じみた、三日月のくちびる。
「砂漠はすべて心さらけだす鏡になる。発生論的、生理学的には異質であり、肉体的には残酷であり、審美的には抽象であり、歴史的には天敵である……だから砂漠の夢は多く諦念の象徴なのだ。熱とつめたさは痛みを、乾きは飢えを、そして何もかもを飲みこむ砂の流動こそあきらめの化身なのだ。伝説の開拓者でさえ、砂の性質には絶対に打ちかてない」
私は、こだわる。
その“あきらめ”と言う文字が癪にさわり、胃がやたらとむかついた。
「あきらめだって。私を見ろ、この創造主の力。私は強かった。国を創ることさえ可能だった。誰にも負けなかった。誰にでも勝ち、なおかつ誰も敗北させずに幸福にしてやることすらできるのだ。私こそ伝説の開拓者だ! 何をあきらめる必要がある?」
砂漠が、ふるえる。大砂丘の下で魔物のいびきのような地ひびきが鳴り、巨大な塔が持ちあがる。塔は鋼鉄で造形されていた。
「見ろ! 夢は畑ちがいの場所。それでも私は成すことができる」
私は、勝ちほこる。
何を勝ちほこっているのかは、自分でも分からない。そうしなければ、今にも弱味が、まぶたの裏から噴きだしてきそうだった。
なさけない心臓の音。ひどく叫んでいるくせに、血を送る血管のほうは、萎縮しているような感じがする。
「おどろいて、声もでないのか!」
「そうですか。それなら夢の出口も創ってみるがいい」
私は、言葉に詰まる。また喉が渇きはじめた。
「ほら。やれ、やれ!」
「うるさい、煽るな! 害獣の分際で!」
「あなたは周囲に、気を許すべきだ。心をひらいて、たよるべきだ」
「無理よ、できない。私には……できない」
「そうしなければ、この悪夢は永遠に覚めやらない」
ドレミーが突然、砂漠に右手を突きさした。
急に足が重くなる。
私は、足もとを見た。
足が砂に沈んでいる。
「何をする!」
ドレミーは耳を貸さなかった。このままでは、すぐに全身が、砂漠に喰われてしまうだろう。
「已めろ! 已めろと言うのが、聞こえないの!」
背後で音がする。塔も沈んでいるのだろう。みしみしと、塔は悲鳴をあげている。
私は、埋まりゆく。
ついには腰が埋まり、肩が埋まり、そして首だけになった。砂漠に首から下を埋めて、飢えと渇きで処刑するのは、エジプト人の作法だったっけ。
「恩を忘れたのか」
「恩?」
「助けてやった、モルフェエウスから」
ドレミーは失笑した。
「助けさせて“あげた”のです。あなたの良心のために」
「……ドレミー、おまえは死ぬべきだ。殺してやる」
「ふん、助けてくれたのは事実です。しかたがありません、選別にこれを渡しておきましょう」
ドレミーが何かを投げつけてきた。それは額に当たって、目のまえにころがりおちてきた。
タバコが、一箱。
私は、首を上にあげる。もう口に、砂がはいってしまいそうだ。
「マ……」
「ま?」
私は、叫ぶ。
「マッチ!、!、!、!」
「ウヒヒヒ、ヒヒ!」
目もとが沈みきるまえに、笑いころげるドレミーが見えた。
You've got to accentuate the positive(前むきになろうよ)
Eliminate the negative(暗くなるのは已めて)
To lilustrate my last remerk(結局のところ)
Jonah in the whale,Noah in the ark. What did they do,Just when everything looked so dark(クジラに飲みこまれたヨナと、箱船に乗ったノアはとじられゆく世界でこう言ったと思うんだ)
Man,the said(そうさ)
We better accentuate the positive.Eliminate the negative(あかるくいこうよ! 悩んだところでどうにもならない)
……しかしヨナの場合もノアの場合も、本当に真実的なポジティブさかどうか? ヨナの場合は自分の愚を嘲笑するためにちがいないし、ノアの場合は絶望を振りはらうためのから元気にちがいない。
これは、そんな歌である。
砂漠の下には巨大な空洞、あるいは巨大な洞窟があった。砂漠の胃ぶくろのようだと思う。塔も乳母車も目が覚めたころには、この洞窟へともに落ちていた。
タバコのほかに落ちているのは、マッチとラジオ。あとから投げいれてくれたらしい。
埋もれかけのタバコを拾った。フィルムをむしり、タバコを取りだす。タバコをくわえて、マッチで儀式のように火をともす。
「ふウーー……ウウ」
煙を深く吸いこむと、神経に快楽の幕が垂れさがった。これはアメリカン・スピリッツだ。ほうっておくと、火が消える。強く吸わないと、葉が燃えてくれない。
箱には癌についての警告が書いてある。そんなことは、言われなくとも知っていた。
みんなが知っているのである。
「ふウーー……ドレミー、おまえはユダより最低だわ」
「ユダって?」
「ふウーー……」
乳母車を無視して、塔を眺める。その大きさのためなのか、地下へ落ちているのに、先端が洞窟の天井に突きささっていた。
これは運がよい。塔を登れば、地上に出られるかもしれない。
私は、自分の造形術を内心で褒めた。
タバコを捨てると、立ちあがる。
私は、乳母車を押して歩きはじめる。
洞窟の中はひんやりとしている。風のない、魔物の胃袋。夜の砂漠とは別種の冷気がまとわりつく。洞窟の床、壁、天井から発光する水晶体がはえている。周囲はその微光で照らされていた。
塔へはいるまえに、広場を見つけた。広場は牧場のように柵で囲まれていた。
広場の口に看板があった
神墓(かみはか)
とマジックで書いてある。
背中につめたい汗が流れる。
広場にはいると、名のとおり墓があった。しかも古今東西、あらゆる形式の物が乱立していた。墓々には、誰かが来た痕跡もなく、その表面のほとんどは砂にけずられて、もう名前も分からない。
しかし、みっつだけ新品の墓がある。
字が読める。
八雲紫
ドレミー・スイート
モルフェエウス
と彫られている。
モルフェエウスの墓はすでにとじられていた。残りのふたつは、口をひらいて、入居者を待ちわびていた。
それ以上のことはない。おそらくドレミーのいやがらせだろう。
私は、墓地から離れようとする。
しかし、足を途中で止めた。モルフェエウスの墓の下から、声がしたのだ。
オオオオ……ドン、ドン、ドン、ドン……! ドレミー、ドレミー、ドレミー、ドレミー・スイート。呪われよ、々われよ。夢のしたっぱよ。々のぬすっとよ。オオオオ……ドン、ドン、ドン、ドン……!
私は、耳をふさぐ。
乳母車を押しているので、片方だけしかふさげない。
ドン、ドン、ドン、ドン……! 開けてください、おねがいします。々けてください、おねがいします! おねがいします、おねがいします、おねがいします……おねがい、しますよ……ドン、ドン、ドン、ドン!
なんと謂う、悲惨な声だろう。乞食が金を欲しがっているようだと思う。
分かっている。いずれはあんなふうになるのだ。
私は、神さまに愛されない。
この魂が腐るのは、幻想郷を創るとき、そこに住んでいた神々を殺したからだ。その神々が、この魂を呪っているためだ。
いつまでも。
塔の内部へはいりこむと、自分のずさんな造形を思いしらされる。内部はほこりまみれで、かびくさかった。それを支える鉄柱は、錆だらけでゆがんでいた。できそこないの、塔の肋骨。
私は、乳母車をかかえて階段を登りはじめた。
これが自分の造形物とは、認めたくもなかった。砂をあやつった、ドレミーの手腕を思いだす。さすがに夢の支配者は伊達じゃない。そこは褒めてやってもよかった。
階段は延々と続いている。
一度は砂漠であきらめたのに、どうして歩いているのだろう。
汗腺から汁が噴きだし、肺は痛みをうったえる。足がぴりぴりとしびれはじめた。
何者かに背中を押されているような感じ。
侵略者に打ちのめされて、砂漠へ逃げだし、無限の歩行をくりかえす、故郷喪失者たち。ジプシーのように、定住しては追いだされる。
逃亡者の荷物の量は、おどろくほどの軽さ。極限状態を体感すれば、旅人にギターを持つ余裕がないと知るだろう。音楽を奏でる旅人は、物語の産物に過ぎないのだ。
……乳母車はどうだろう。これは本当に生活必需品なのだろうか?
たしかに乳母車は、便利な道具だ……もちろん赤子を入れるために、あるいは道具を入れるために……しかし、こいつと来たら皮肉を言うくらいしか能がない。
うたがいようはなかった。これは捨てるべきだったのだ。
私は、乳母車から手を放そうとする。
そして揚々と階段を楽に登るのだ。
しかし、乳母車は接着剤で固めたように、手から放れない。
私は、手を振りまわす。
乳母車をこわそうと、塔の内壁にぶっつけてやる。
傷のひとつもつかなかった。
「己は最後まであんたにしがみついているわ」
乳母車は鈴のような声で言った。
「冗談じゃない! 何もかも、おまえの手がらになるのは沢山だ! 霊夢、分かる? …… おまえじゃない、私の力だ! 裏でおまえを支えつづけてやっていたから、おまえはどんな異変でも、解決することができたんじゃないか! だから、私が……私のほうが……幻想郷に愛されるべきなんだ!」
私は、噛みつく。
自分の右腕にである。
「あんたは冷徹なんだな……己だって、幻想郷のために尽くしたのに」
痛い。なんて痛いんだ。それでも塔を登りきりたかった。乳母車なんかにかまっている暇はない。
私は、両腕を喰いちぎった。
そして乳母車を蹴りつけた。ぶざまに階段をころがってゆく。
腕の断面から、むらさき色の煙がしゅうしゅうと立ちこめる。途方もない激痛が、神経を雑巾のようにしぼりあげた。
「フフフフ、フフ。やった……やった!」
開放感で胸がときめいた。
私は、独りだ!
別に怯える必要はない。言うまでもなく、周囲の誰も信用せず、これまで独りで生きてきたのだ。
私は、また塔を登ろうとする。
「紫」
不意に声がした。
私は、振りかえる。
「これで本当によかったの?」
「ドレミー……」
なぜか宇宙服を着ている。あれはアームストロングの宇宙服だ。
急に塔が揺れはじめる。振動して、骨をきしませ…… 「テン、ナイン、エイト、セブン」 ……どこからともなくスピーカーを通した声で、カウント・ダウンが開始される。そしてゼロになったとき、塔は破竹の勢いで上昇しはじめた。
私は、混乱する。
こんな機能はつけていない。それでも塔は飛んでいた。
塔の先端が、その勢いで砕かれる。
夜だった。先端が砕かれたので、それが見えた。
あまりに意味不明すぎている。夢と言うやつは、どうして既存の法則に従ってくれないのだ。
満月に向かってゆく塔は、燃料が切れて、唐突に宙空で制止した。そして今度は、そこばかりは既存の法則に従って、引力で砂漠に墜落してゆく。
私は、浮遊感をおぼえる……。
体にのしかかる、鋼鉄の重み。力を込めて、なんとか残骸から這いだした。
ふたたび砂漠に戻ってきた。
もう歩けそうにない。全身をいましめる、複雑骨折の痛み。血は頭から流れおちる。
「か、か……」 私は、言う 「神さま……神さま、神さま! 助けてください、おねがいします!」
神だのみ! この土壇場で、神に祈る滑稽さ。
滑稽で、よろしい……この極限状態で現実主義や、哲学理論がなんの役に立つ……虫けらに土下座してもかまわないから、とにかく幻想郷に帰りたいんだ!
すると祈りがつうじたのかもしれない。ぼやけた視界にそれが映った。
あれは博麗神社の鳥居じゃないか。この広大な砂漠で場ちがいにもぽつんと直立している。
その入り口に、幻想郷が映っている。うたがいようもなく、夢の出口として機能していた。
私は、砂を這いまわる。
砂浜で暮らす昆虫のように、鳥居のほうに突きすすむ。
しかし、なぜか鳥居は入り口へはいりこむまえに、あろうことかその二本足で後退してしまうのだ。
私が、進む。鳥居は、さがる。
私が、止まる。鳥居も、止まる。
私が、進む。鳥居は、さがる。
私が、進む。鳥居は、さがる。
まるでからかわれているようだと思う。
「からかってるのか!」
実際にそう叫んでみたりする。
ここが目的地。逆回転するエスカレータのように、無限の歩行を強要する、暗くつめたい終焉の夢。
「どうして? ……私たちは、幻想郷に尽くしたのに、このうえまだ働けと言うのか! 理不尽すぎる……あまりに冷酷すぎている……愛してくれ。創造主ばかりが荷を担ぐのは不公平だ。私も霊夢のように、幻想郷に愛されたいんだ! ……そうでければ、賢者たちが、あまりに哀れすぎるじゃないか……う、う、う、う……」
ちくしょう! ……もうすぐそこに、幻想郷があるのに……それでも、いつまでも砂漠をさまよわなければばらないんだ……砂漠はすべて心さらけだす鏡になる。発生論的、生理学的には異質であり、肉体的には残酷であり、審美的には抽象であり、歴史的には天敵である……だからこそ、その気があれば歩くがよい……砂漠へ行くがよい、予言者たち巡礼者たちよ……砂漠へ向かって行くがよい、創造主たち喪失者たちよ……。
頭上で満月が輝いている。それをにらめつけて、立ちあがった。がくがくと膝が笑っている。
私は、愛を示す。
大口を開け、渾身の力で、月をめがけて跳びあがる。そして月に喰らいつき、くずれるように着地すると、頭を振りかぶり、くわえた月を、全力で砂漠に叩きつける!
愛を示せ 終わり
脱帽です
文章で酔います
愛でした
夢ならではの不条理さや理不尽さに襲われつつも歩みを止めなかった紫に彼女の業を感じました
紫はこんな目に遭ってもまだ折れないのでしょう
夢の世界で延々と砂漠を彷徨い、ボロボロになりながらも、時折ドレミーの支配下ながら夢に干渉する辺りは大妖怪だなぁと。
絶対に歩みを止めない・止められない・止めさせないのがとても印象的でした。
紫がんばれ