命蓮寺には非常ベルがあった。赤く、丸い、強く押す、の文字が印象的な、例の火災報知器だ。
「おいしい水が出るんだよ」
「……おいしい、水?」
外の世界に詳しい封獣ぬえは、村紗水蜜を拐かした。村紗は混乱した。おいしい水とは、なんぞや。
「それは、あれかな? 例の自販機? やなんかで水を買う馬鹿どものはなしと、なにか関係があるってわけ?」
「いいや、関係ないよ。これを押すと出るのは、おいしい水だよ」
村紗は以前、ぬえから外の世界の話を聞いた。外の世界にはご存知の通り自販機があり、自販機にはさまざまな飲料が陳列されている。村紗は、ジュース、というものを飲んでみたかった。村紗は甘いものが大好きで、ともすれば、件の自販機でわざわざ水を買う人間の心がわからなかった。
「おいしい水って、あまいの? ジュースのこと?」
「違うよ。これを押すと出るのは、ジュースじゃなくて、おいしい水」
ジュースではないことがわかった村紗だが、おいしい水の味について、ぬえは教えてくれなかった。とすると、村紗が想像するおいしい水は、なんとなく甘い味のするような気がした。
「いいから、はやく押してみなよ。出るからさ、おいしい水が」
「う、ううむ」
賢者達の取り決めにより、非常警報設備の設置基準を満たしていた命蓮寺には、非常警報設備の設置を義務付けられた。ある日唐突にやってきた河童によって速やかに設置された件の装置について知るものは、この命蓮寺にはいなかった。ただひとり、封獣ぬえを除いては。
「どのくらいの量が、どこからどう出るの?」
「さあ? でも、ほら。強く押す、書いてあるじゃん」
強く押す、非常ベルの中心部、ボタンを覆う丸いガラスには、たしかに、強かにそう綴られていた。強く、押す。村紗はどうにも、強く、押してみたくなった。加えて、ぬえの云う、おいしい水である。村紗はやおら魅了された。強く押す、そう書かれていると云うことは即ち、その箇所は強く押すためだけに存在している。おいしい水という言葉には正体不明の魔力が宿り、ともすれば、村紗の視界に映る強く押す、は、強く押せ、に変貌を遂げた。
押さなければ、村紗は思った。強く、押さなければいけない。村紗は忽ち、そんな、脅迫的な想念に取り憑かれた。
「ほら、押してみなよ。そしたら、おいしい水だよ。おいしいよ」
「……」
村紗は生唾を飲み、なにか昂揚し震える利き手で、強く押す、を、強く押した。
「ハ、こいつ最高にアホ。……火事だー! みんな逃げろ、火事が起きた!」
ぬえの冷徹な侮蔑に続く号砲に似た二の句とともに、命蓮寺に警鐘が鳴り響いた。茶の間から寅丸らのどよめく声や物音がやけに遠く聴こえて、村紗は全てを悟った。否、初めから悟っていた。なぜなら非常ベル、強く押す、の上部には、火災報知器、という語句が克明に刻まれていた。村紗はハナから悟っていた。水を買う意味のわからない村紗に、おいしい水などというものの存在を確信することなど、できるはずもなかった。ひとえに、正体不明の魔力によって、村紗は愚行を犯したのだ。
ぬえは上機嫌になって、寅丸らと一緒に、警鐘の響く命蓮寺から避難した。廊下にひとり取り残された村紗は考える。ぬえは必ずや、村紗の愚かさをみなに吹聴し、嘲るに違いない。火のないところに立つ煙ほど可笑しなものはない。村紗は考える。恥を取るか、火事を取るか。けたたましい警鐘のなか、村紗は一寸の間、神妙にうつむいた。
うつむいた顔を上げれば、村紗は素早かった。最近よく顔を見る疫病神が咥える細筒の、着火剤の隠し場所を知っていた。食器棚を開け、人数分積まれた皿の裏からそれを手に取った。それはご存知デュポンの着火剤で、蓋を開ければ、浴槽の蓋の抜けるような音がした。
そうして、村紗は取り急ぎキッチンに向かい、そこかしこに火をつけた。放火である。放火は愚行に違いない。しかし、村紗は愚者である以前に舵取りだった。
村紗水蜜は舵取りであるからして、臆面もなく恥を捨て、火事を取った。
完!
「おいしい水が出るんだよ」
「……おいしい、水?」
外の世界に詳しい封獣ぬえは、村紗水蜜を拐かした。村紗は混乱した。おいしい水とは、なんぞや。
「それは、あれかな? 例の自販機? やなんかで水を買う馬鹿どものはなしと、なにか関係があるってわけ?」
「いいや、関係ないよ。これを押すと出るのは、おいしい水だよ」
村紗は以前、ぬえから外の世界の話を聞いた。外の世界にはご存知の通り自販機があり、自販機にはさまざまな飲料が陳列されている。村紗は、ジュース、というものを飲んでみたかった。村紗は甘いものが大好きで、ともすれば、件の自販機でわざわざ水を買う人間の心がわからなかった。
「おいしい水って、あまいの? ジュースのこと?」
「違うよ。これを押すと出るのは、ジュースじゃなくて、おいしい水」
ジュースではないことがわかった村紗だが、おいしい水の味について、ぬえは教えてくれなかった。とすると、村紗が想像するおいしい水は、なんとなく甘い味のするような気がした。
「いいから、はやく押してみなよ。出るからさ、おいしい水が」
「う、ううむ」
賢者達の取り決めにより、非常警報設備の設置基準を満たしていた命蓮寺には、非常警報設備の設置を義務付けられた。ある日唐突にやってきた河童によって速やかに設置された件の装置について知るものは、この命蓮寺にはいなかった。ただひとり、封獣ぬえを除いては。
「どのくらいの量が、どこからどう出るの?」
「さあ? でも、ほら。強く押す、書いてあるじゃん」
強く押す、非常ベルの中心部、ボタンを覆う丸いガラスには、たしかに、強かにそう綴られていた。強く、押す。村紗はどうにも、強く、押してみたくなった。加えて、ぬえの云う、おいしい水である。村紗はやおら魅了された。強く押す、そう書かれていると云うことは即ち、その箇所は強く押すためだけに存在している。おいしい水という言葉には正体不明の魔力が宿り、ともすれば、村紗の視界に映る強く押す、は、強く押せ、に変貌を遂げた。
押さなければ、村紗は思った。強く、押さなければいけない。村紗は忽ち、そんな、脅迫的な想念に取り憑かれた。
「ほら、押してみなよ。そしたら、おいしい水だよ。おいしいよ」
「……」
村紗は生唾を飲み、なにか昂揚し震える利き手で、強く押す、を、強く押した。
「ハ、こいつ最高にアホ。……火事だー! みんな逃げろ、火事が起きた!」
ぬえの冷徹な侮蔑に続く号砲に似た二の句とともに、命蓮寺に警鐘が鳴り響いた。茶の間から寅丸らのどよめく声や物音がやけに遠く聴こえて、村紗は全てを悟った。否、初めから悟っていた。なぜなら非常ベル、強く押す、の上部には、火災報知器、という語句が克明に刻まれていた。村紗はハナから悟っていた。水を買う意味のわからない村紗に、おいしい水などというものの存在を確信することなど、できるはずもなかった。ひとえに、正体不明の魔力によって、村紗は愚行を犯したのだ。
ぬえは上機嫌になって、寅丸らと一緒に、警鐘の響く命蓮寺から避難した。廊下にひとり取り残された村紗は考える。ぬえは必ずや、村紗の愚かさをみなに吹聴し、嘲るに違いない。火のないところに立つ煙ほど可笑しなものはない。村紗は考える。恥を取るか、火事を取るか。けたたましい警鐘のなか、村紗は一寸の間、神妙にうつむいた。
うつむいた顔を上げれば、村紗は素早かった。最近よく顔を見る疫病神が咥える細筒の、着火剤の隠し場所を知っていた。食器棚を開け、人数分積まれた皿の裏からそれを手に取った。それはご存知デュポンの着火剤で、蓋を開ければ、浴槽の蓋の抜けるような音がした。
そうして、村紗は取り急ぎキッチンに向かい、そこかしこに火をつけた。放火である。放火は愚行に違いない。しかし、村紗は愚者である以前に舵取りだった。
村紗水蜜は舵取りであるからして、臆面もなく恥を捨て、火事を取った。
完!
そして村紗!放火しないで!
面白かったです!
非常に非常ベルな作品でした
ベルが鳴り響いてからの村紗の心境に笑えました
瓢簞から駒…でもないな
なんやこれ
ぬえのコイツ最高にアホとその後の火災報知器の美味しい水の魔力がどうのってくだりは笑いました