Coolier - 新生・東方創想話

どうか千の非を絶やすな

2019/10/21 04:20:25
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 正邪と暮らし始めてから、また数年が経っていた。今じゃすっかり落ち着いて、最近では買い出しなんかにも行ってくれる。でも怪訝なのは、私が眠ったあと、こいつがどこかへ消えていることだ。夜中に目を覚ますと、隣の布団は平たくなっていて、けれど、私もいちいち探しに行かない。牛乳やなんかを飲んで眠れば、明け方、布団はまた膨らんでいた。
 こいつと一緒に暮らすのは初めてじゃない。今となっては懐かしい口車に乗った日々がはじめで、二回目はそのあと、三、四、五、六回目あたりはいろいろあって、たぶん、今回で七回目になる。でも六回目まではおよそ一、二年間の出来事だったし、それから随分間が開いての七回目だから、厳密には七回目じゃないかもしれない。その上に、今回暮らし始めてからもう数年が経ってるわけだから、私自身、過去のことはもう、いろいろあったとしか形容できなくなっている。本当に。
 だから、寝息に合わせて嘘っぽく上下する布団をこうして眺めるのは、そう珍しいことじゃない。眠れない夜などというのは久しいけれど、なんとなく、布団の中で夜更かしをしてしまうような冬にはぴったりだった。

「いらないって言ってんじゃん」
 そう言って、こいつはいつも、私に卵の黄身を寄越す。いくら両面焼いてあるからって、生焼けの黄身だけを箸でつまんで私の皿に移すとは、随分器用なものである。私にはできない。
「嫌いなんだって」
 どうして食べないのかを聞けばいつだって、なんでもなさそうにこいつは言う。これだけ長く一緒に居ればもうすこし具体的な理由を知るのは簡単なことで、どうやら、やつは熟れたトマトが嫌いらしい。それから、こいつが卵の黄身を嫌う理由を知ったときに、もうひとつ分かったことがある。それは、こいつにそれ以上の具体性を求めるのは難しいってことと、時間は苛々とする些細な興味だって、やさしく押し流していくってこと。
 とにかくこいつの嗜好だのなんだのに具体性を求めるのは無駄で、こいつの行動はいつも突発的だった。すぐに思い出せるものでひとつ。あれはいつかの冬の初めで、冬のわりに雪の降らない、普通の冬のことだった。遅れて起きてきたこいつに「なにたべたい」を尋ねれば、こいつはいつもどおりに「なんでもいい」を発音した。けれど冬先のことだったから、私の問いかけに、こいつは白菜とか豆腐とか、そのあたりの食い物で返答したかもしれない。とにかく白菜なんて高いからダメだったし、豆腐なんてのは、こいつじゃすぐに足りなくなるから論外だった。そもそも、あればあるだけなんでも食べるわけだから、正直聞くだけ無駄だった。冷蔵庫や引き出しに鍵をつけることを、いまだって検討している。
 その頃にはもう魚釣りなんてやめていたから、食べるのはだいたい安い麺類とか、生姜に味噌を塗ったのとか、極々質素なものだった。それでも私とこいつの腹を満たすには十分だったし、夜になればぐっすりと眠れた。もっともこいつがぐっすりと眠ることは少なかったけれど、それはたまの気まぐれに贅沢をした夜でも同じことで、要望通りに鍋やなんかをつついた夜にさえ、こいつは何度も、寝苦しそうに寝返りをうってみせた。
 しかしどうだっただろう。思えば、はじめの頃ならこいつは夜、比較的おとなしく眠っていた気がする。とすると、こいつの寝相が悪くなったのはちょうどその冬のことだったかもしれない。
 その冬に初めて、やっとちらちらと雪が待った夜のことだった。何事もなく眠っていた私の布団は不意に剥がれて、理不尽な寒さに憤って飛び起きれば、電気まで点いているのだからすこし驚いた。溜息を吐いて眠い目を擦っている間、正邪はなにやら喚いていて、ともするとそれは涙の混じった声色だった。そんなことは初めてというか、久々というか、まあ、ほとんど初めてのことだったから、怪訝に感じて、私は寒さに眠気を苛められながら、惚けた視界にやつの姿を探した。当然狭い部屋だから、大した苦労もなく、すぐに畳の上を犬みたいにぐるぐるとするあいつを見つけられた。
「いらないんだ、こんなもの、いらない、いらねえ」
 なにかそんなことを焦った口調でぶつぶつとやっていて、背中には懐かしい風呂敷を背負っていた。それは正邪が窃盗の際に好んで使う唐草で、見ればどうにも、トマトを盗んできたらしかった。唐草模様から赤黒く覗く鮮やかさは、蛍光灯の明るい夜には陰鬱だった。
「盗ってきたんだよ!」
 私がしっかり起きたと分かれば、聞くまでもなく正邪は叫んだ。そのまま続く言葉はたしか、「でもな」それか、「だけどな」で、どちらにせよ、寝起きにはどうでもいいような文句だった。
「なぁ、わたしはいらないんだ! こんなもんはさぁ!」
 半ば泣き叫びながらどたどたと窓を開けて、そのまま風呂敷ごと、正邪はトマトを外にほうった。一つのトマトだったら、ぐしゃ、とか、そんな軽い音が響いただけで済んだのかもしれないが、風呂敷には結構な量が包まっていた上に、向かいの安い長屋の壁にぶち当たったもんだから、随分な音が夜に響いた。
 その後いっしょになって知らんふりを決め込んだのも、牛乳やスパゲッティを腹いっぱいやらせてやったのも、久々の窃盗を犯したあいつに対する処遇としては、ちょっと甘かったかもしれない。
 そうしてその日はおとなしく眠ったけれど、そうだ。こいつの寝付きが悪くなったのは、きっとその日からだったに違いない。
 私の寝相が悪くなったのもその頃だ。河童の企業努力の賜物によってテレビ・ラジオ類の普及した今となっては怪訝な、ともすれば面妖で危機感を煽るだけ煽るニュースはときたま神妙に放映された。内容といえば事実模糊とした、或いはオカルティックなもので、どうやらこの幻想郷に長い、あまりにも長すぎる紐が発生したらしい。第一発見者などはどうでもいいが、発見された場所は延々と続く田園地帯のあぜ道だから、おそらく暇を持て余した妖精が発見者で違いない。談によれば件の紐の“先端”はあぜ道の道すがらになおざりにされているようで、けれど、その紐の“先端”は時たま“短く”なっているらしい。噂、憶測が飛び交って、どうやら巷ではその紐に“導火線”という銘が打たれた。短くなった先端はいつだって焦げ跡がついて、週になんべん、或いは月になんべんかその長さを失っていった。
 されどもその導火線がどこに繋がっているのか、知る者はこの狭い世界に一人としていやしない。導火線はまるで、排水パイプのように、至るところで散見された。人里にも、路地にも、稗田低付近の横丁にも、普段買い出しに行く目抜き通りでだって、いつも私の目についた。しかし、導火線は複数存在するわけではない。アレはあくまで一本の、途轍も長い紐であり、紐は延々と続くあぜ道から誰も知らないどこかへと繋がっている。ここから先はすべて私の憶測にはなるけれど、あの紐は、なにか、そう。世界の滅亡へと繋がっている気がしてならない。薄い、ティッシュのような根拠を述べるのならば、管理者の奴隷のマスメディアがあぜ道の、時たま短くなっていく紐に虎柄のロープを張ったことぐらいだ。とどのつまり、あの紐が導火線だとして、それが短くなるとどうしようもなく困る者がいるから、そういった措置を取るのである。私は間違っているのだろうか。
 そう。あぜ道といえば田園だ。田園といえば作物だ。この時期ならばトマト泥棒にとっては絶好の稼ぎ処に違いない。あぜ道、トマト、紐――導火線。そこに、あの天邪鬼との相関を見いだせないことなんて、私に可能なのだろうか? そんなことは自明だ。あいつは夜な夜なトマトを盗んで、ようわからん心持ちで導火線に火をつけて、そしてまた、日和ってそれを踏みにじって帰途を辿る。そうして生まれるのが、隣家の外壁に染み付いて腐敗するトマトの果汁だ。
 あー、わかってる。あいつは今でもまだ天邪鬼を捨てきれずに、どうしようもなく迷ってる。まったくもって、どうしようもないとしか形容することができないね。実際。

 似たような日常がしばらく続いた。似たような、とはいえ、おんなじ日常なんて言葉は存在しない。賽、連続して出た一の目は同一ではない。とどのつまり、虎柄のロープなどは無視されて、あぜ道の紐は日に日に、少しずつ、少しずつ短くなっていった。伴って厳戒態勢が敷かれたが、無意味だった。紐はもはやあぜ道からは消え失せて、いよいよもって人里の入り口にまで差し迫ってきている。ブン屋がなにか憶測を飛ばすかと思いきやそうでもないらしい。ともすれば、あの紐はこの世界にとって、この世界の存続にとってよほど重要なものなのかもしれない。世界は大きな地雷だと昔誰かに教えられたことがある気がする。或いは、自身で作り出したかっこつけの言葉かもしれないが、ともかくとして。あの紐は紛れもなく導火線で、果てしなく長い導火線の先にはきっと、超弩級爆弾が鎮座しているに違いない。

 夜半だ。私は眠っていた。例のごとくやつが寝室をぐるぐると、犬のように徘徊するから目が覚めた。
「また盗ってきたのか。なぁ、返してこいよ。いらないんだろ、そんなもの」
「あー。あぁ……」
 曖昧に返事をすると、やつは例の唐草の風呂敷からトマトをばらまいて、床に落ちたそれを自身の口内に嫌というほど押し込んだ。口元は赤にも紅にも及ばない中途半端なトマトの果汁で汚れて、トマトはやつの嫌いな食べ物であるからして、やつは嘔吐きながらもそれを嚥下した。
「おう、美味いかよ」
「……嫌いだ。嫌いなんだよ、こんなもん」
 その翌朝には、目玉焼きを振る舞ってやった。

 さて、あいつが革命に失敗してからの経歴を語る必要はあるのだろうか? 端的に済ませば、やつはいろいろな職業訓練をやらされた。寺子屋での補佐。哨戒天狗たちへの迎合。とりわけて続いたのは寺子屋での業務で、案外、上白沢慧音とは上手くやっていたようだ。三人で呑みに行ったこともあるが、しかしまぁ、結局なにもかも上手くはゆかず、地味な内職をこなす日々に辿り着いた。内職はもちろん、すべて私の仕事になっている。やつといえば、無心をすることはないが、まあ、いわば私のヒモのような状態になっている。自覚の有無に問わず私とあいつはソリが合わないから、あいつが家に居る時間は少ない。日中はどこぞをぶらついて、夜になれば帰ってきて、私の用意した夕飯に億面もなくありつく。しかし帰ってこない日のほうが多いかもしれない。ともかくとして、件の紐に火をつけてはビビって短縮されていく導火線を踏みつけ鎮火しているのは、あいつに間違いないだろう。

「って話なんだけどさ。ねえ、私の憶測は見当違いだと思う?」
「え、ええと、そのぅ」
 とんで甘味処。買い出しに伴って翻る旗に拐かされるがまま、私は団子を啄みながら白狼天狗と話している。うっすらきょとんと眉をひそめて腕を組む白狼天狗は犬走椛という、哨戒部隊長だ。かつて哨戒部隊に仮編入させられた際、やつはこの白狼天狗に随分と世話になっていたようだった。部隊の連中は概ね鬼人正邪という不穏分子を実に不穏分子らしく扱ったが、犬走椛は違った。もっとも、それはこの部隊長の有する日和見主義とも云える穏和さに由来する事なかれの習性による事象だったのかもしれない。ともかくとして、往来を眺めながら啜る濃い抹茶と団子は平和という語句そのもので、視界の端に映る例の紐の不穏さなど取るに足らないものに思えた。
「なあ、見えるだろう? あの長い紐が。日に日に短くなってる。紐の警備は報道の通り山の仕事だろう? 実際のところ、どうなんだよ、あの紐はさ」
「えっと、ですね。……なんというか、率直に言えば、そのう。……見えないんですよね。針妙丸さんの仰るその紐というのが、私には」
 不可解だった。私の視界には確かに、排水パイプが如くそこかしこに紐が見えていた。急におかしな気分になった。団子の味も、抹茶の味も、なんだかよくわからなくなった。
「でも現に、連日、ニュースでやってるじゃないか。なにかようわからんが、あの紐が短くなると困るから、山は厳戒態勢を敷いてあの紐の短縮を抑えようとしている。そうだろ?」
 犬走椛はやおら眉を潜めた。組んだ腕の片方を口元にあてて、まさしく怪訝そうに考え込んだ。往来、有象無象の一人が紐を、導火線を踏みつけて歩いてゆく。不可解なイメージだ。やつの、かつての鬼人正邪の煌々とした、野心を称える目つきに乗っ取られたような心持ちになった。
「……そんなニュース、わたしは見たことも、聞いたこともないですよ」
 なら私の見ているあの紐は、一体全体、どこに繋がっているのだろう。

 冬だから、それなりに寒い。買い出しを終えて長屋に帰るまでの道中、脳の表面を這い回るのは自身に対する疑念だった。それは蛭に似ていた。ときに吹雪いた。長屋の階段はよく滑って、202号の扉を開けるための鉄製のドアノブは手のひらがくっついてしまうのではないかというほど冷たかった。
 クッションフロアのキッチンを数歩踏みつけて買ってきた食材やなにやらを黄ばんだ冷蔵庫に仕舞った。それからリビングへの敷居をまたぐと、相変わらずやつは居なかったが、その代わりに黒い猫が居た。猫は階段箪笥の二段目をカリカリと爪で引っ掻いていて、黒猫の求めるのは木箱在中の乾物の類だとすぐにわかった。そいつは馴染みの猫だった。誰の嫌がらせかは知らないが、家を出るまでにきっちりと閉めたはずのリビングの窓は、いつだって開け放たれていた。

 夕飯をこしらえたタイミングでやつは当然のような顔をして帰ってきた。長ネギとようわからん畜肉を炒めた料理を、私達二人にはどうにも不釣り合いな、ダイニングテーブルで啄んでいた。その間やつといえば終始無言だった。食事を摂る際には無言が一番で、即した話題が二番。それ以外には無いことを自覚しないでもなかったが、私はどうしたって不可解だった。
「おいせーじゃ。お前、例の紐を知ってるだろ。しらばっくれてくれるなよ、わかってるんだぞ。私には」
「……紐?」
「そうさ、紐。導火線だよ。もともとはあぜ道にあった。トマト畑のあぜ道にさ。それが今では短くなって、先端は里の入り口にまで差し迫ってる。今日買い出しに行ったときにはもっとだ。目抜き通りにまで差し迫ってた。当然先端には焦げ跡があった。誰かが踏みにじったような焦げ跡だよ。……それからあのあぜ道から紐が消えて、ちょうどそのあたりからお前はトマトを盗ってこなくなっただろう? なあ、お前は知ってるんじゃないか。あの紐、あの導火線はどこに繋がってるんだよ」
 リビングを照らす蛍光灯は白い。だから正邪の当惑は際立って視界に映えた。
「な、何の話だよ。紐? 紐ってなんだよ。と、トマトを盗らないのは針妙丸、おまえがやめろって言うから、だからわたしは……」
 その夜。食事を摂り終えてから、なんだか妙に気を使われてしまった。やつは私の布団を敷いたし、食器の片付けだってこなしてみせた。なにか、なにかがおかしい。やつは私の隣に布団を敷いて、どうにも心配そうな眼差しで私をみつめている。せーじゃ、鬼人正邪が私をこんな目で見つめるなんて、どうしたって異常なことに思える。
「おいせーじゃ。なんだよ、その目は。どういう腹積もりだ?」
「どうもこうも……おまえこそ、なんだよ。なんだか変だぜ。どうも妙だよ」
 私の布団は小さい。いつだったか自分用に誂えたものだけれど、どうにも今日は足が冷える。正邪の布団のなかは不可解なまでに温かった。
「な、なんだよ急に。自分の布団で寝ろよ。わたしは寝相が悪いからって、おまえは布団が取られるのが嫌だって、言ってたじゃないかよ」
 寝室、つけっぱなしの電気を消して、また正邪の布団に潜り込んだ。私は何を考えているのか、自分でわからなかった。妙に静かな夜だった。穏やかな夜だった。冬だってのに、鈴虫なんかが鳴いているような気すら起きた。正邪の赤い前髪が目についた。正邪は気まずそうに目をそらした。ほどなくして私の額に当たったのは正邪の薄い胸板だったかもしれない。心音が聞こえた。なんだか、この静かな夜と同じ調子で脈をうっていた。眠たく、眠たくなった。微睡みの中で口から溢れる言葉の真偽を問えるものは居ない。事実それを口にした記憶すら曖昧だ。なにもかも朧げな夜だった。でもたしか、おそらくきっと、私の口からは何かがこぼれた。

 ――おい、トマトを盗ってこいよ。それで、それからさぁ……。

 またしばらくが経った。雪が溶けた。しかし春というにはまだ遠い。少し肌寒い窓辺から、遠く桜木の蕾がちらほらと見えた。目抜き通りからほど近い長屋は202号室。ここは二階であるからして、往来を縫うように伸びる一本の長い紐も見えた。やはり先端が焼け焦げていたから、紐は導火線に違いない。
 正邪と云えばあの日の夜以降なんだか情緒が乱れたような、むしろ安定したような状態に陥ったようで、なにをトチ狂ったか私を食事に誘った。
 ――なあ、最近美味い定食屋を見つけたんだ。よかったら一緒に……。
 なんて、誘われるのかと思いきや、後に続いた語句は「ちくしょう!」というわけのわからないもので、それを吐き捨ててはそれからきっかり長屋に戻らなくなった。しかしやつの居ない生活など慣れたものである。むしろそれが平常というものだ。食費も一人分で済めば、食器の片付けも一人分で済む。買い出しの際に重たいビニルによって齎される負担も軽減する。
 そう。今日はそんな普段どおりの白昼、私は内職で得た二人分の生活費でもって一人分の食材を買い出すべく目抜き通りを歩いている。往来にしたって普段どおりに往来を縫ってる。抹茶を啜って団子を啄んでるのも居る。私にしたってそんな通りを縫っている。そうして馴染みの八百屋に差し掛かったときだ。私はやつの、鬼人正邪の背中を、遠巻きから見つけた。やつはどうやら白日の下堂々と八百屋にて狼藉、窃盗を働いたらしく、店主とこっぴどく口論をしていた。やつは唐草から今しがた盗んだであろうトマトを四方八方に投げつけては、往来の有象無象に悪辣な言葉を吐き捨てまさしく逃げるように駆け出した。
 そのとき私の視界に映っていたのはやつの投げて潰れたトマトの果汁と、逃げゆくやつの後ろ姿と、地面に一直線に伸びた例の紐だった。地面に徐々に広がっていくトマトの果汁は、焼け焦げた導火線の先端を湿らせた。しかしどういうわけか、その果汁によって導火線に火が点いた。パチパチと音を立てて、導火線は短縮されていく。どこに繋がっているかはわからない。しかし、導火線は逃げゆくやつを追いかけるように、パチパチと音を鳴らして短くなっていく。
「あー、店主さん。悪いね、あいつの盗ったもんのお代は私が払うよ」
 店主は不服そうに私から幾許かの小銭を受け取って、これまた不服そうに鼻で大きく息をした。そんななか、私は横目で、逃げてゆく正邪の背中を追っていた。厳密には、やつに追従する導火線の非に一瞥をくれていた。
 世界は大きな地雷かもしれない。あの導火線がどこに繋がっているか、私にはわからない。それでも私は、なんだろうね。やつにはどうか……なんだかな。あー。
 追いかけて、導火線の火を踏みにじってやろうとも考えた。でも、私はそれをしない。できなかった。だから、とどのつまり……はは。
 
 私は、あいつの共犯者だ。
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コメント



0.100簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.100サク_ウマ削除
相変わらずよく分からないというか得体の知れない話だなあ、などと。
良かったです。ぐちゃぐちゃとした心情が良く伝わってくるようでした。
3.100ヘンプ削除
本当に皮肉の皮肉ですね……
導火線のくだりとトマトのくだりがとても好きです。
4.90名前が無い程度の能力削除
近代文学みたいな趣のある作品でした。
5.100モブ削除
終始視界の端が薄暗い、そんな感覚を覚えました。フィルムっぽく撮影した邦画みたいな、そんな感じを。文章が厚く、面白かったです
6.90名前が無い程度の能力削除
よかったです。
7.100封筒おとした削除
この背中押したら電車に轢き殺されるよう危うさがたまりませんね
8.100電柱.削除
不条理、としか言えない。面白かった。良かったです。
9.100名前が無い程度の能力削除
すこここ
10.100名前が無い程度の能力削除
こいつらどうしようもない
好きです
11.100南条削除
面白かったです
どうしようもなさ過ぎて素敵でした
12.100名前が無い程度の能力削除
地味に針妙丸も心をやってないですかね…
トマト関連と正邪の証言が謎の面白さ
毎回思いますが良い正針や
13.100仲村アペンド削除
どうしようもなく俗っぽく、ドラマチックでも感動的でもなく、まして美しくもない世界から、どうしてか目が離せない。文章それそのものにある魅力とはこういうものなのかな、と感じます。
16.90名前が無い程度の能力削除
気持ちが行き違ってる正邪と針妙丸がすごくいい
導火線の例えとその顛末もとてもすき
17.100終身削除
こういう距離感の正針好きです 導火線がどうなっていくのか気になったんですけど正邪と針妙丸が共犯者でつかず離れずの関係が同じくらい長く続いていくようで2人にとって大切な象徴みたいなものなのかなと思いました