世界が問答無用で崩壊するまで、あと三日である。
3
崩壊を受け入れる者、受け入れない者。世界の終わりを悲しむ者、楽しむ者。皆思い思いの終わり方を模索し決断しながらも、いよいよその瞬間をただ待つばかりとなった。どこへいっても騒がしく、最後の瞬間を各々が納得する形で迎えようとしている。
そんな中、永遠亭だけはそれまでの静寂さを変わらずに保っていた。踏み入った者を必ず迷わせる霧中の竹林、その最奥に位置する永遠亭には二人の住人がいる。
蓬莱山輝夜。
そして、八意永琳。
つい最近までもう一人住んでいたのだが、月からの来訪者であったその人物は二人の指示によって故郷へ強制送還させられていた。近くに棲んでいるはずの兎妖怪も永遠亭には頻繁に顔を出していたのだが、この頃はとんと見なくなった。
この館の姫である輝夜は、それによって毎日暇を持て余しているようだ。たまに思いついたように動き出しては、竹林に棲む腐れ縁の知人を訪ねて奇襲をかける。
そしてきょうもまた、姫は気ままに出かけようとする。その途中で、たまたま永琳とすれ違った。
「あ、永琳。里でおいしいお饅頭を見繕ってきてちょうだいな。粒あんとこしあん、それから胡麻のものね」
ここ数週間まともに会話すらしていなかったものだから、永琳はいきなり声をかけられたことにまず驚く。それから言葉の内容に対して疑問を抱いた。
「どうしてまた饅頭なんか」
「だって、もう食べられなくなるじゃない。永琳あなた、お饅頭の作り方がわかる?」
「わからないわ」
「そうでしょう。じゃあ、よろしくお願いね」
そう言って、輝夜はふわふわと宙に浮いているような足取りで出て行った。
勝手なこと、と永琳は内心でため息をついたが、特に悪い気はしなかった。輝夜ではないが、永琳もまた暇を持て余していたのだ。新薬の研究が今朝方になってようやく完了し、一眠りして湯浴みをしたあと、さていまから何をしようかと考え始めていたときに姫から声をかけられた。
世界が崩壊するまであと三日。残り時間からみてもさすがに終わらせるのは不可能かと思っていた研究だったが、意地と根性で想定日数を大幅に覆した。
――まあ、できると思ったわけだし。できるかどうかも、やってみないとわからなかったし。ともあれやってよかったわね。
興味の湧かない分野だったらここまで追い込むことなどしなかったろうが、世界が終わる前までに、永琳はどうしてもこの研究だけは終わらせておきたかったのだ。
――結果論とはいえ、あと三日も残ってしまったわね。……どうしようかしら。
これは思ったよりも早めに終わりそうだ、となってからの想定日数は世界が終わる日の明朝であった。しかしその日数すら早まってしまったのは、永琳としても想定外のことである。
まあそんなこともあるか、と過ぎたことは頭の片隅に押しやって、永琳は外出の準備を整えた。
外へ出る。きょうもまた変わらず竹林は濃い霧に包まれている。迷うことなく歩を進め、しばらくして竹林を抜けた。勝手知ったる道ではもはや迷うことを知らない。彼女の知能指数も記憶要領も人のそれとは到底比べることができないのだ。
頭が良すぎいるというのも考え物である、と姫は言う。その思考は限界を知らず、おそらくここで頭打ちだろうということですら、やってみなければわからないと言って聞こうとしない。手に負えないのもそうだが、極めつけはやり遂げてしまうことだろう。だから誰も、彼女の行動を止めることはしなかった。いままで、誰一人として。
里は賑わっていた。世界が終わるまであと三日。それを知らぬ訳でもあるまいに、里の中は活気であふれかえっている。案外、人というのはこういうところが妖怪よりも強いのかも知れない。例えるのなら鬼の生き方に似ている。どうせ死ぬのなら、最後まで笑っていけるようにと、そう考える。
――殊勝なものね。
永琳は心底感心する。
限りある命ある者らしい、一番輝いている最期だろう。そういうふうにいれたらと、きっと誰もが思うに違いない。
だが永琳は知っている。そういうものは理想論であり、人の在り方の極地であり、決して万人がそういう風に在れるものではないと。美麗の裏には醜悪な面が張り付いている。万物とは表裏一体。希望があれば絶望もあるのだ。
遠くで妖精が飛んでいる。あれは春告精だ。シミひとつない白無垢のような洋服を纏い、麗らかな空を飛び回る。彼女が通ったあとは暖かな風が吹き、桜の花びらが舞い踊る。平和の象徴にすら思える、崩壊や滅亡という言葉から一番遠い存在だった。
よく行く和菓子屋はすでに閉じていた。張り紙にはご愛顧を賜ったことに対する礼の文があり、世界崩壊の四日前に閉店したことへの謝罪が書き記されていた。ようするに、昨日来ていれば間に合っていたということだ。姫も間が悪い。勘が働いたにしても一足遅かったようだ。
仕方ない、と永琳はさらに里の奥へと歩を進める。なんの手土産もないまま帰っても姫は納得しない。駄々をこねられても面倒だと、饅頭ではなくてもなにか別の物品を見繕っておこうと思ったのだ。
そうして、ひとつの屋台を見つけた。
……いや、屋台と言うべきだろうか、これは。
至って平凡な家屋の前に、添え置かれただけの四角い台。その奥に三十代ほどの男がうつむいて座り、形の悪い饅頭を台に広げて置いている。白い餅で餡を包んだだけの、素朴で簡素な饅頭だった。ここは屋根もなく、風よけもない。吹きさらしの状態で置かれた和菓子は、水気が飛んだのかもとからそうなのかひどく乾いて見えた。
「もし」
声をかけると、男はひどく緩慢な動作で顔を上げた。
隈がひどい。おまけに窶れている。里のあちこちで見た活気とはかけ離れた様相だった。
世界の終わりに、夢を見ることができなかった人種だった。
「これは饅頭なの?」
「見りゃあわかるだろ」
「わからないわね。こんな不味そうな形はみたことがない」
「形で味なんぞ変わらん。気になるなら食ってみればいい」
「いいの?」
男は億劫そうにああ、と言った。
「どうせ誰も買わん。てめえで饅頭を食いたいから作っただけだしよ」
「どうしてそれを売っているの?」
男は押し黙った。
応える気がないのか、言葉を探しているのか。どちらにせよ待っている時間が惜しい。世界はあと三日で崩壊するのだから。
形が不揃いな中で小ぶりなものを摘まみ、かじるように一口食べる。
「……うん」
ぴくっと男の肩が揺れた。
「無理して食わんでいいぞ。どうせ捨てるもんだ、その辺にほっぽっておきゃあいい」
「あら、捨てるの? これ」
男は見ろ、と言って視線で指し示す。永琳はそれにつられて週を眺め見た。
「飲み屋以外の店はもうどこも閉まってる。あと三日で世界が終わるってのに、のんきに饅頭を食おうなんてやつはおらん」
「私と、あなた以外に?」
そう言うと、男は怪訝そうな顔を向けてきた。
その顔に向けて永琳は言った。
「それなら全部もらえるかしら。どうせ捨てるのでしょう」
「……揶揄ってんのかい?」
本気も本気よ、と言いながら、永琳は懐を探る。いくらかしら、と財布を取り出したところで、男は魂消たな、とぼやいた。
「持ってきな」
「いいの?」
「いまさら金なんぞ、あってもどうしようもねえ」
「それもそうね。なら気持ちだけでも受け取って。持っててもどうしようもないから」
永琳なりの冗談だったが、男はくすりともしなかった。
包装紙がないというので、適当な紙に包んでもらった。まさか売れると思っていなかったからな、とぼやくように言いながら、男は意外にも丁寧に饅頭を包んでいる。器用な手先をしていた。
「助かったわ。思えばこんな時に饅頭を売ろうなんて人がいるはずもないわよね」
「物好きな女だ」
永琳は空を仰ぐ。男もそれに吊られて視線を上げた。そこには春を告げる妖精が、この世の美しいものをすべて詰め込んだような笑顔と、薄紅色の花弁を振りまきながら飛んでいる。
「どいつもこいつものんきにしやがって、死ぬのが怖くねえのかよ」
「さあ。私は怖いと思うわ。ただ死ぬことよりも怖いものを知ってるだけ」
永琳は踵を返す。後腐れもなく立ち去っていく背中に、男はぼそりとなにやらつぶやいていたが、永琳はまったくもって意に返すことはしなかった。どうせ、三日後にはなにもかもなくなっているのだから。
「……あるわけがねえ。そんなの」
そんな言葉が聞こえていたとしても、すべてなくなってしまうのだから。
2
地上に降りてから、どれだけの時間が経っただろう。世界が崩壊するとなったときに漠然とその事実を受け入れられたのは、きっとそのあたりがもう曖昧になっていたからだ。生き続けるということが、生かされているということにいつの間にか変わってしまっていたからだ。生き続けたいと思っていない自分の存在に気づいてしまったからだ。
しかし死ぬことはできないだろう。世界が崩壊したとしても、時間の枠から外れてしまった者はその影響を受けることがない。蓬莱の薬を口にした時点で、この身は星の成り行きとは無関係になった。だから死ぬことはない。たとえそれ以外が死んだとしても、その後というものがどんなに生存が難しい環境であったとしても、絶えず関係なく生き続けていく。例外なく、至極当たり前に。それは喜劇でも悲劇でもない、ただの事実。当たり前にやってくる現実に他ならなかった。
「そんなに死にたいのなら、ひとりで死ねばいいわ」
そんなことを姫の口からさらっと、冷静に言われたものだから、永琳もころっとその気になってしまった。そこに怒りや悲しみはないし、ましてや喜びもない。わずかなりとも感情が動いたということもない。何故ならば永琳は別段、姫の言うように死を望んでいるわけではなかった。ただ単純に、純粋に、生き続ける理由がわからなくなってしまっただけなのだ。
後天的に不死を得たものが生きる目的を見失うとあっては、それはもはや不死とは言い難い。死んでいないだけの、辛うじて生き物らしい営みを残した亡者に過ぎない。そんな生き方はしたくなかった。
ああ、それならば。
で、あるならば。
ここで死ぬというのも、それほど悪いことではないのかもしれない。
だから、八意永琳は世界崩壊とともに自身の命を終えることとした。
◇
「ねえ、永琳。昨日のお饅頭、また買ってきてくれない?」
歯を磨きながら口元に泡を作っていた永琳に向かって、輝夜は機嫌の良さそうな声で言った。寝ぼけ眼には少しだけまぶしい。
「どこで買ってきたかしらないけど、あれ、なかなかよかったじゃない。油断して食べ始めたものだからろくすっぽ味も思い出せないの。だから、ね」
永琳は返事もせずしゃこしゃこと磨きをかけ続ける。彼女なりの拒絶反応だったが、輝夜はたとえ面倒でもわたしのためなら買ってくればいいじゃない、とでも言わんばかりの笑顔をたたえてよろしくね、とだけ言い残したあと廊下を曲がっていった。
水で口をゆすぐ。吐き出した水はいつもより勢いが強い。したたかに跳ね返って寝間着を濡らした。
「泣けるわ」
それからあらかたの支度を終え、戯れに惰眠を貪ったあと、鉛のように重い頭を引きずるようにして出かけた。
人里の様子は昨日とあまり変わらなかった。呑めや歌えの騒がしさもあれば、平穏な陽気を満喫しながら談笑している人々もいる。子どもたちは何も知らされていないのか、好き勝手はしゃぎながら走り回っていた。
そんな中、人目に付かないようにしているのか、ひそひそと物陰に隠れながら話している彼らの姿は逆に目を引いた。里の様子を眺めるふりをしながら、何の気なしに小耳を立てていると、
「こいつで落としてやるさ。大丈夫、心配要らねえ。相手は妖精だ。たいした力も持っちゃいねえ」
「でもこんな往来でやるこたあねえよ。やるならもっと外れでよ、思いっきりたたき落としてやれ」
「ったくよ、春告精だかなんだか知らねえが、こんな状況だってのにのんきに現れやがって」
「ああ、痛い目みしてやる」
「ついでにこっちは、世界の終わりにいい思いさせてもらうがな」
聞いてるだけで気分が悪くなるような声だ。永琳はさっさとその場を離れて、昨日の男がいた屋台に向かった。
どちらかといえば、終末の世界にありがちなのはあの男たちのほうだ。強いとか弱いとかそういうものは一切関係なく、人間とはそういう面を少なからず持っている。それを良くない、健全ではないと思うがために明るく振る舞おうとするのだ。
彼らもきっと、ああやって一時の感情に翻弄されながらも、そんな自分に嫌気が差している部分があるはずなのだ。いまこのときばかりはその理性的な情動を優先する余裕がないだけ。
――いや、違うわね。きっとあれは、自己保存を優先しているだけだわ。
彼らは満たされたいのだ。何かひとつでも。世界が崩壊するという未来、否が応でも訪れる死の恐怖、それを一瞬でもいいから忘れたい。心にあいたその空虚な穴を埋めていたい。何でもいい。そのためなら善良な妖精にも危害を加えよう。たとえそれが、なんの益体にもならない虚栄心を満たすだけの行為だったとしても。それで安心できるのなら、もうそれで構わない。
それで傷つく矜持がないから。
あるいは失いたくないものすらも忘れてしまっているから。
彼らは安易に堕ちていく。本来望むはずのなかった、その道行きに後悔しかあり得ない選択をする。あるいはそれが、本当に救いになるのかもしれないから。
屋台に着くと、男は昨日と同じようにそこにいた。だが彼の前にある台には何も載っていない。男は永琳の姿を認めると、驚いたように目を見開いた。
「また来たのか」
「ええ。うちの姫がとても気に入ったようで、買いに来させられたわ」
「姫? ……あんた、子持ちか」
はあん、と男は気の抜けた声を出す。
「見えねえな。ちと若すぎる」
「褒め言葉として受け取っておくわね」
永琳はあえて訂正することもせず、台の上を指さした。
「きょうは売っていないの?」
「ああ。きょうは皮だけの饅頭を売ってたんだが、さっき全部持ってかれたよ。一足遅かったな」
あらそう、と永琳はとくに落胆する様子もなく言った。
「熱心ね。あと一日半で世界が終わるというのに、饅頭を作って売ってるなんて」
「そいつを買ってって、また買いに来るお前さんもたいがいだ」
男の声には覇気がない。明らかに昨日よりも痩せている。肌や唇の色から察するに、おそらく何も口にしていないのだろう。
聡い永琳は、それでなんとなく察した。男が饅頭を食べようとして作ったにもかかわらず、ひとつも口にせずに売っていた理由。
「食べられなかったのね、饅頭」
男はわずかに肩を揺らした。
「それどころか、何も喉を通らないようね。何日くらい食べてないの?」
「……そんなことを知ってどうする?」
「別に、気がついたから聞いてみただけだけれど……、思えばこんなことを訊ねても無駄ね」
どうせ明日が終われば、なにもかもなくなるのだし。そう言って永琳は背を向ける。饅頭がないのならもう用はない。
するとおい、と後ろから声がかかる。振り返りざま、視界に飛び込んできた白い物体を反射的につかみ取った。小さくて相変わらず歪な形をした饅頭だ。
「これは?」
「てめえで食おうとして取っといた分だよ。ガキによろしく言っといてくれ」
「もらってもいいのかしら」
いい、と男は小さな声で答えて、吐き捨てるようにどうせ食えやしねえ、と言った。
「じゃあ、ありがたくもらっておくわね」
永琳は帰路につく。
行きがけに見た人間たちの事を思い出した。彼らはいまも計画を進めているところだろうか。それとも馬鹿らしくなって思い思いに最後の一日を過ごしているだろうか。
饅頭を売っていたあの男も、そんな彼らとあまり変わらない。死ぬのが怖い。ただそれだけ。
「中身がなくても、饅頭は饅頭よね」
そうつぶやきながら、永琳は皮だけの饅頭を頬張っていた。
1
「永琳、あなた死ぬのよね?」
ええ、そのつもりよ、と答えた。
「そう」
輝夜はいつもと変わらない薄い笑みを浮かべている。
何も変わらず、ただそのままで幾星霜を生きていた。ときには得たこともある。同じくらい失ったこともある。そうして今度は、自分以外のすべてを失うことになった。
しかし何も変わらない。
蓬莱の民は、ただそのままでいるだけだから。
輝夜は永琳、と静かな声で言った。
「いままでありあとう」
永琳は、何も答えられなかった。
◇
正午をすぎた頃、永遠亭に藤原妹紅が訊ねてきた。左肩に春告精を担ぎ、右脇に人間の男を抱えている。カテゴライズとしては珍客だった。
「世界も終わるっていうのに、何を拾ったの?」
妹紅は何も言わず、じっと永琳の顔を見据えている。あまり穏やかな視線ではなく、まるで裏切り者でも見るような目だった。
妹紅は口元だけを小さく動かして、竹林で拾った、と言った。
「最後くらい、薬師の仕事をしてみなさいよ」
棘だらけのその一言で合点がいった。永琳がきょう死のうとしているということを、おそらく輝夜が話したのだろう。
だが彼女の感情の動きがよく理解できない。永琳が死ぬからと言ってどうして妹紅が怒るのだろうか。釈然としないまでも、夜まで特にすることもないということもあり、永琳はすんなりと二人の患者を受け取った。
診察に使っていた部屋は先日の研究で物置と化したため、客間の一室を開放して二人を寝かせる。その部屋に面した縁側で、妹紅はそっぽを向いて煙草を吹かしている。二人の容態が気になるのか、はたまた永琳の行動でも監視するつもりなのか、二人を預けたから帰るということはしなかった。
見た限りでは春告精に大きな傷はない。こめかみに大きなこぶができているが、命に別状はないだろう。疲れて眠っているとみるのが妥当なところだ。
対して男はひどい有様だった。全身に青あざと傷だらけ、骨も数カ所折れている。加えて栄養失調気味だ。何日も食べ物を口にしていないようだった。
「饅頭を作るだけしか能がないと思っていたのに、何をしているのよあなたは」
――折れたあばらが肺を貫通しているのが、致命的だった。普段ならあまり見ない症例だが、患者の健康状態が最悪だったことと、おそらくほぼ無抵抗のまま暴行を受け続けたことでここまで悪化したのだろう。
そこまで診てふと、治療はするべきだろうかと疑問に思った。
人間には無理だとしても、永琳にはここまでになった彼を確実に治療できる技術がある。しかし肺を傷つけたとあっては、たとえ治ったとしても激痛が伴うだろう。それこそ世界が終わる瞬間まで、彼はその痛みを受け続けなければならない。
そうなったとき、彼ははたしてどちらを望むだろうか。
「知らない天井だわね」
突如目を覚ました春告精が、がばりとその身を起こした。
「ここはどこ。わたしはリリー・ホワイト。なんにも思い出せないわ」
「あなた、名前があったのね」
春告精はぐりんと首を捻る。永琳の顔を見た瞬間、晴れやかな笑顔を見せてはじめまして、と言った。
「あなた竹林の薬師ね、うさぎさんから話は聞いてるわ」
「光栄ね」
「ああそうだわ。あなた、薬師ってことは治療もできるかしら。診てほしい人間がいるのだけど」
永琳は男を指さして、彼のこと? と訊いた。
「あ、そうこの人よ! わたしが人間たちに襲われていたところを助けてくれたの。とってもいい人よ。お願い、助けてもらえないかしら?」
「それは彼を治療しろということかしら。あと数時間で世界は綺麗さっぱりなくなるというのに」
「だって、人間ってば生きたがりよ。ううん、違うわ。生かせたがりなの。だから助けてあげれば、あとは自分でなんとかすると思うわ」
永琳は閉口した。なんという妖精らしい思考だろうか。本質を見ようとせず、物事を形でしか捉えていないからこういう言葉が出てくる。ひとつの見方しかしないものだから、どうしたってそれは本質を突いてくる。これはもう妖精という種族が持つ性質だろう。
永琳には彼を治療する理由はなかったが、力強く懇願する春告精に迫られて断る理由もまたなかった。彼女からすれば片手間に施術したところで成功するような簡単な治療だ。時間も小一時間ほどで足りるだろう。
つまり永琳にしてみれば、ここで春告精の願いを断ることと男の治療をすること、どちらにより労力を使うのかという問題であったのだ。
永琳は浅く息を吐く。
「わかったわ」
春告精の顔がほころぶのを横目に、永琳は立ち上がる。縁側の方からは舌打ちが聞こえてきた。
まだ日は高い。
さらっと終わらせれば、もろもろ、夜までにはひとりになれるだろう。
◇
「ほんと、人間っておかしいのだわ」
治療を終えて客間に戻るとすでに春告精の姿はなく、見れば部屋に面した中庭でふわふわと浮いていた。傷の影響もあまりないらしい。
縁側で寝そべっている妹紅を尻目に、永琳は治療を終えた旨を報告した。すると春告精が満面の笑みを浮かべて近づいてきて、永琳の胸に飛び込んできた。うれしいのだわ、うれしいのだわ、と体全体で喜びを表現する。悪い気はしなかった。
そうして二人は何の気なしに縁側に腰掛けた。そして春告精が言ったのだ。
「どうしてわたしに石なんか投げたのかしら。どうしてわたしを助けたりしたのかしら。わたしが石を投げられるようなことをしたのかしら? わたしが助けられるようなことをしたのかしら? 人間ってほんとにおかしいのだわ」
「おかしいわね、ほんとに」
「でもすっごく素敵よ。ちょっと驚いちゃったけど、あの人間はわたしのことを助けてくれたもの」
「別の人間に襲われたのに?」
「? ……生き物ってそういうものでしょ? きょうみたいなことはこれが初めてじゃないわ。妖精が人里に近づきすぎるとたまにはこういうこともあるわ」
永琳はふうん、曖昧に返事をする。
「あなたにとっては、当たり前のことなのね。だから助けられたことが特別だったのね」
「そうよ、そうなの! とっても素敵」
永琳は賛美歌でも似合いそうな妖精をぼうと眺める。胸の内側にしこりがある気がする。それはときおり動き回って、痞えるような嫌悪感を与えてきた。
春告精、リリー・ホワイト。
初めて接した彼女は底抜けに明るい。頭の中まで春爛漫という噂はあながち間違いではないのかもしれない。その明るさを前にして、少しだけ後ろめたさを感じるのはどういうことか。この胸の痞えはなにが原因なのか。
しばらく考えて、永琳はぼんやりと、昔の輝夜に似ているのか、と悟った。天真爛漫なまま、物事の本質を見抜く悪辣な眼力。強いて言えば輝夜との違いは、好意による悪意があるかどうかだろう。春告精は妖精であるがゆえ、他人に対しては基本的に興味がないのだ。
「あなたは怖くないのね。明日、みんな死ぬというのに」
そんなのいやだわ、と意外にも当たり前のように春告精は言った。
「いやにきまってるわよ。どうして当たり前のことをあなたは訊くのかしら、不思議だわ」
「でもあなたは春を告げているじゃない。きょうも人里に行ったのでしょう。昨日も人里で見かけたわ。世界が終わるというのに、あなたは春を告げている。そこにはなんの意味があるの?」
「だって春が来るんだもの。わたし、春がとってもとっても好きなの。この気持ちを知ってほしいじゃない。誰も彼も当たり前みたいに言うもんだから、わからせてやろうと思って弾幕を放ることもあるけど、わたしはみんなで分かち合いたいだけなの。春が来る! 春が来るのよ! って、みんなと言い合いたいだけなの。世界の終わりなんて関係ないわ」
眩いばかりに、その言葉は輝いていた。
それに目が眩んだのは、きっと昔にも似た言葉を聞いたからだ。永琳の脳裏にその言葉が浮かんでくる。あのとき、この妖精によく似た少女が言った台詞。
――わたし、地上が好きよ。あなたにも知ってほしいくらい、素敵な時間をいっぱい過ごしたわ。でも誰もわかろうとしないから、みんなわたしを連れ戻そうとする。罪がわたしを地上に降ろし、地上にいることが罰となるのなら、わたしは永遠に罪人でいい。たとえ世界が終わっても。……あなたにこの気持ちがわかるかしら。ねえ、永琳?
胸の中のしこりが大きくなっていく。
あのとき永琳が出した答えは明白だ。月の監視から逃れ、二人は幾星霜を地上で過ごした。長すぎるその時間が答えだ。
ではどうして、自分は輝夜の手を取ったのだろう。
地上に魅力を感じたわけではない。
ましてや月に嫌気が差したわけでもない。
……わたしは。
たとえ世界が終わっても、貫き通したい意地があっただろうか。あったような気がする。だからいまも輝夜と一緒にいる。
――最低だ。まさかこんな瀬戸際で、あんな昔のことを思い出すなんて。
どうして輝夜と一緒にいるのか。
誘われたから? 懇願されたから?
いいや違う、どれも的外れだ。
いったいどうして、なにを思って、この地上で生き続ける道を選んだのだろう。
と、そのとき。
「――なひ?」
なに? と永琳は言ったのだが、両頬を引っ張り上げられて上手く発音ができなかった。いつの間にか永琳の前に移動した春告精が、ぐいぐいと永琳の頬を引っ張っている。
「あなたってばずぅっと難しい顔してるわ。せっかくの春なのに、それじゃあもったいないわよ。春を楽しみましょう!」
「わはったはら手をはなひてひょうらい」
ぱちんと音が鳴りそうなほど乱暴に離される。頬を摩りながら春告精を睨みつけた。
「春は悩みの多い季節よ。いろんなことに悩むの。過去現在未来、自分のことも誰かのことも、恋してる誰かのことも。世界がいかに素敵かってことでも。でもあなたは、ちょっと悩みすぎだわ」
「世界が終わるのよ。悩むくらいするわ」
春告精はうぅん、と首を捻る。
「そんなに重要なことかしら、世界が終わるのって」
「少なくとも、わたしは生きる目的を見失ったわ」
視界の端で、妹紅が体を起こすのが見えた。鋭い視線が永琳たちに向けられている。そんなことも知らず、春告精が破顔して言った。
「生きることに目的なんていらないわ。生きることは素敵なことなんだもの」
「目的を失ったら生きられないわ」
「ならわたしたちはみんな、目的を持って産まれてきたってことなの?」
「……」
「そう。なんにもないのよ、目的なんて。生きることにも死ぬことにも、目的とか理由とかはいらないの。世界が終わるからって悲嘆することはないの。だって誰も生きる目的なんてないんだもの。生きるために何をするかじゃない、何をするために生きるのかが大事なのよ。わたしは春を告げる妖精だから、生きている間は春の到来をみんなと分かち合い続ける。それがわたしのしたいこと」
春告精は空高く舞い上がった。彼女の行く道には、その生き様を祝福するように桜の花びらが現れる。茜の滲む空一面に、いつしか薄紅のカーテンがたなびいていた。
とても、……とても綺麗な光景だった。
「たとえ、明日世界が終わるとしても?」
そう、と春告精は大きな声で断言する。
「たとえそうだとしても」
「――それでもまた、春はやってくるから!」
そうして春告精は去って行く。あの人間をお願いね、とだけ言い残して、最期の時まで春を告げるために彼女は幻想郷の空へと飛んでいった。
永琳はその残影を追うように、視線だけを空へ向けている。
そのあとは、嵐が去ったようだった。茫洋と過ぎていく時間だけがそこにある。ときおり竹の笹を揺らす風の音が聞こえるが、意味のあるものはなにひとつなかった。
世界が終わるとか、そういうことも関係なく。
もともと、ここにはなにもなかった。
ただ綺麗で、美しくて、かけがえのない世界がそこにあるだけだった。
そうだったわね、と永琳は心の中でつぶやく。
輝夜はそれを愛したのだ。何の意味がなくとも、ただそこにあるだけで美しい光景を愛したのだ。
永琳はその光景を知らなかった。輝夜が見たものが何なのかわからなかった。それでも輝夜とともにいることを選んだ。あのとき何を考えていたのか。その答えを、輝夜なら知っているだろうか。
無性に、輝夜と話がしたかった。
「それでも春はやってくる、か」
妹紅が立ち上がる。
紫煙を燻らせながら、中庭を横切って玄関へ向かおうとしている。
その道中、一度だけ立ち止まった。
「泣いてたわよ、あいつ。従者のくせに管理が杜撰なんじゃない?」
それだけを言って、妹紅は去って行った。
◇
すぐにでも輝夜の元へ向かいたかったが、一旦男の様子を確認しておくことにした。
物置同然の診察室の隣が手術に使う部屋だった。無菌状態を保っているその部屋の隅に、男が寝ているベッドはある。もうどうせ使わないだろうと、永琳はなんの処置もしないまま手術室に入った。
ちょうど折良く、男が目を覚ましたところだった。
「気分はどうかしら。麻酔が効いているはずだから、それほどきつい痛みはないはずよ」
男は永琳の姿を見るなり、飛び上がりそうなほど驚いていた。永琳は自分が医者であったことを告げると、男は鉛でも飲み込んだような顔を浮かべた。
「あと……、どれくらいだ?」
世界が終わるまでの時間を聞いていることはすぐにわかった。
「あと三刻ほどでしょうね」
男の顔が苦しそうに歪む。麻酔が効いているとはいえ、無理をすれば痛みは起こる。
「……どうして、っ、生かした。そんな手間を取らなくても、すぐに死ぬ」
「わたしも迷ったわ。文句ならあの妖精に言ってちょうだい」
それだけで、もう何も言うことがなくなったようだ。
男は寝台に体を預け、虚しい光を瞳の奥に映したままぼんやりと天井を見上げている。永琳はその枕元に立ち、男を見下ろした。
「どうして春告精なんて助けたの?」
「そいつは訊くな」
「どうして?」
男は押し黙った。唇を真一文字に固く結んで、それ以上を喋ろうとしない。それがいまにも飛び出しそうな言葉をしまい込んでいるように見えたものだから、永琳はあえて待つことにした。
やがて根負けしたように、男は口元がもごもごと動き始める。
「俺ぁ怖がりだ」
ええ、と永琳は相づちを打つ。
「死ぬことが怖え。世界があと数日で消滅するってわかってから、もっといろんなものが怖くなった。剥げた瓦屋根、道ばたの穴ぼこ、流れの速い川、遠くで鳴った雷。毎日毎日、俺ぁ震えてた。終いには、てめえが食いてえから作った饅頭すら、喉に詰まらせることが怖くなって食えなくなった。いろんなことに怯えてた」
永琳はじっと話を聞いた。降り止まぬ雨のように、男は言葉を止めなかったからだ。
「だが一番怖かったのは、……ひとりで死ぬことだ。かみさんが死んだとき、俺ぁ傍にいてやれなかった。それがどんなに寂しかったか、いまなら……わかる。痛いくらいわかる」
きつく閉じた男の目尻から、一筋の涙が落ちる。愛するものを亡くした男は本当に失うものがなくなる。女はその姿に惚れることもあれば、救いようがないと匙を投げることもある。永琳は……、どちらでもなかったが、いまは傍にいてやろうと思った。
「世界が滅びるとわかってから、あの妖精はいつも里の上にいた。あいつがいなくなることを想像したら、それぁいつもの毎日じゃなくなるような気がして、俺ぁまた怖くなった。死ぬことを考えたくなかった」
「だから助けたのね?」
「なさけねぇ。あとちょっとで世界が滅ぶってぇのに、俺ぁ最後まで後ろ向きなままだ。かみさんに合わせる顔がねえ」
男は嗚咽を漏らして目頭を手で覆う。肺が痛むだろうに男は構わず泣き続けた。
永琳は男が聞き取れるよう、そっと耳元に口を寄せて訊ねた。
「あの饅頭、とてもおいしかったわ。あなたはあれを作り慣れていたのではないの?」
男はああ、と鼻声で答える。
「かみさんが好きだった。砂糖が手に入ったときには、たまにつくってやってたよ。子どもみたいにはしゃいで、うまそうに食ってた」
そう言うと、またも涙があふれ出てきていた。
永琳は思った。彼の心にある信念のようなもの、それはきっと愛情なのかもしれないと。男は胸の内に秘めた幻影を守り続けているのだ。今はもういない、自分の愛した人間の面影を忘れないように生きている。
ふと、永琳の脳裏にも映像が浮かんできた。
なつかしい光景だ。
夜半に浮かぶ月は、群青にぽかりとあいた孔にさえ思える。それを背にした輝夜は、言葉もないほどに美しかった。その輝夜が言うのだ。
――わたしは地上にいたい。
その光景を、永琳はいままで忘れてしまっていた。長い年月で摩耗した記憶が、星の一生に等しい時間を経て再び蘇る。あのとき、その光景を目の当たりにした自身がなにを想い、なにを感じたのか。
それをいま、ようやく思い出せそうな気がした。
永琳は胸ポケットを探る。二日前からずっとそこにしまっていたもの。小瓶に入った液体は薄い紫色をしていて、口に含めばほのかに甘い味がする。
それこそが永琳の研究成果。
この世で作られる最後の薬。
――蓬莱人をすら殺める毒薬である。
いまのいままで、永琳は迷っていた。この薬をどうするべきかどうか。
昨日までならば、迷わず自分に使っていたことだろう。だがここにきて、永琳は失っていた自分というものを取り戻しかけている。生きるために何をするかではなく、何のために生きるのか。その何かがようやく、長い時を経てふたたび定まった。
永琳はその小瓶を、男の見える位置に持っていく。
それは悪魔の取引か。
永琳の話を聞く男は、とても穏やかな目をしていた。
0
風呂で身を清めたあと、永琳は輝夜のいる部屋に向かった。身体は重く、頭も痛い。身体の節々が悲鳴を上げている。しかし努めて平静を装ったまま、静かに輝夜の部屋の前に立った。
「輝夜」
すると中から声がした。
「え?」
思っていたよりも素っ頓狂な声だった。うそ、永琳? と続けざまに聞こえてくる。
「そう。入るわよ」
「え、だめ」
がんっ、と後頭部を殴られたような気がした。あの輝夜に拒絶されるなど考えもしなかった。
「だめって、どうして?」
「だ、だめなものはだめなの。ああ、うそ。うそよ永琳。わたしも話したいと思っていたわ」
「だったらいいでしょう。入るわよ」
「だ、だからだめよ。ちょっとだけ待って。待ってくれたら大丈夫だから」
輝夜がなにを言っているのかさっぱりわからない。ちょっと待つと言っても、もう世界が滅びるまで半刻もないのだ。悠長な事を言っていられる場合ではない。
永琳はもはや構わず、といった様子で襖を開けた。
い草の香りが鼻先を漂う。薄暗い部屋の中は淡い月明かりに満たされていた。空を仰ぐ円形の窓から降り注ぐ月光を、美しい女が一身に浴びてきらめている。おかしなことに袖で表情を隠しているため、その顔を確認できない。
だが永琳は意にも介さずつうつうと輝夜の前に歩を進め、正座で対面に座った。
「輝夜、話があるんだけど」
「――」
「輝夜……?」
空いた手を差し出される。早く続きを言えということだろうか。
「妹紅から聞いたわ。あなた、最近あの子に会いに行っては泣いていたそうね」
輝夜は肩をぴくりと揺らしたが、それ以外に反応はない。止めようとする気配もないため、永琳は続けることにした。
「死にたいのなら死ねばいい。あなたにそう言われた日から、わたしは死ぬことばかりを考えていた。何のために生きていたのかすっかり見失ってしまって、目的ばかりを探して、生きることそのものから目を背けてしまっていた。……でもきょうで、少しだけ考えが変わったわ」
春告精は言っていた。
――生きることに目的なんていらないわ。生きることは素敵なことなんだもの。
そう思えば、理由なんてそれだけでよかったはずなのだ。死ねばいいと言われて、死ぬ手段を見つけたそのときから、生きる目的なんてものを探し始めていた。考えたことすらなかったはずなのに、まるで思春期の少女のように悩んで傷ついた。そしてようやく答えを得ることができた。
春告精はああ言っていたが、やはり目的は必要だ。でなければ、いつか遠い未来にまたこうして迷うことだろう。目的と手段が一緒であると知っていれば、もう迷うこともないはずだ。
……ああそうだ。わたしの目的はいつだって――。
もしも輝夜以外の人物から、死ねばいいといわれたところで莫迦を言うな、と一蹴していただろう。輝夜に死ねばいいと言われたから、永琳はならば死のう、と思えたのだ。永琳がここまで自分を見失うこともなかった。
だがそれも本心ではないとわかった。
永琳もまた、春告精との会話で思い出すことができた。忘れていた大事なこと、きょうに繋がる原風景を。
「死ぬのはやめたわ」
「え?」
「死ぬのはやめた。都合のいい話だけど、きょうを過ぎてもあなたと一緒にいたいの。ねえ、輝夜」
降り注ぐ月光を背に、美しい輝夜がそこにいる。あのときに見たのは間違いなくこの光景だ。大きな月を背に、この地上で生きていきたいと言った輝夜の姿は、他のすべてをなげうってでも手に入れたいと思わせるものだった。
月に浮かび上がる輝夜。月にいては見ることの適わない、奇跡のようなその光景に心が止まった。生物が理解できる範疇を超えた、領域外の美しさ。白い月に浮かぶ白磁の輪郭と際立つ絹のような黒髪。幼さの残る表情に妖艶な笑みをたたえて蠱惑的に誘う。抗いがたいその容姿。
あの奇跡を、希ったのだ。
「綺麗だったわ、輝夜。いまでもそうよ。あなたが不老不死でなくなって、たとえ老いて死ぬようなことになっても、あの美しさが色あせることはない。あなたがいる、それだけで素敵なことなの。素晴らしいことなのよ。だからわたしは、あなたと一緒に生きたい。あのときと同じように、そう想って生きていたい」
輝夜の顔を隠していた袖が下がる。
露わになった表情は、永琳が思わず顔をほころばせてしまうくらいひどい有様だった。ずっと泣いていたのだろうか、両目が取り返しの付かないほどに赤く腫れてしまっている。昼間は化粧で上手く隠していたらしいが、涙で剥がれ落ちたのか大きな隈が表れていた。まるで狸だ、と永琳はその姿をいじらしく感じた。
「わたし、生きていていいかしら?」
「あたりまえじゃない!」
叫ぶように輝夜が言う。
「私だって永琳と生きていたい。本当はずっとそうだったわ。なのに勢い余ってあんなことを言ってしまって、私、ずっと後悔していたもの」
ごめんなさい、ごめんなさい、と輝夜は何度も口にする。永琳は胸が締め付けられる思いだった。後ろめたさではない。ただその姿が愛おしかったからだ。自分と一緒にいたいと言って泣いてくれる彼女が、狂おしいほどに愛おしかったからだ。
「ありがとう、輝夜」
「でもいいの? 私、きっとあなたを苦しめるわ。私といても幸せになんてなれない。きっと不幸にするんだから。……それでもいいの?」
「なら一緒に不幸になりましょう」
輝夜が息を呑む。
「あなたと一緒にいることが不幸になるのなら、わたしは永遠に不幸でありたい」
えいりん、と輝夜は嗚咽混じりに名前を呼ぶ。
「ずっと不安だった。あなたがいなくなってしまった世界を想像するたび、辛くて寂しくて、不安で不安でしかたなかった。……あなたのせいよ、永琳。ずっと一緒にいたくせに、私の前からいなくなろうとしたせいよ」
あなたのせいなんだからぁ、と輝夜はついに決壊した。永琳はすぐに寄っていって、いまにも崩れ落ちそうな身体を抱きとめる。
「ごめんなさい。ずっと一緒だから。ずっと離さないから。ずっとあなたと一緒に生きるから」
「やくそくよ、えいりん。やぶったら、いやだからね」
「ええ、約束よ」
愛おしい少女を抱きしめる。
永琳の腕の中で、これまでの時間を取り戻すように輝夜は泣き続けた。
まるであの日に戻ったみたいだ。
涙なんてとうに枯れ果てたと思ったのに、輝夜も自分も、まだ流せる涙があったのだ。いまはすこし、それがうれしい。
世界の終わりはもう間近。
それでもこの身は不死である。
ならばかかずらう必要もない。
気の済むまでこうしていよう。
次に顔を上げたとき、たとえ世界が滅んでいても。
そんなこと、もはや少女たちには関係のない話なのだから。
…
これもひとつの終末世界。
私は静かに目を閉じた。
3
崩壊を受け入れる者、受け入れない者。世界の終わりを悲しむ者、楽しむ者。皆思い思いの終わり方を模索し決断しながらも、いよいよその瞬間をただ待つばかりとなった。どこへいっても騒がしく、最後の瞬間を各々が納得する形で迎えようとしている。
そんな中、永遠亭だけはそれまでの静寂さを変わらずに保っていた。踏み入った者を必ず迷わせる霧中の竹林、その最奥に位置する永遠亭には二人の住人がいる。
蓬莱山輝夜。
そして、八意永琳。
つい最近までもう一人住んでいたのだが、月からの来訪者であったその人物は二人の指示によって故郷へ強制送還させられていた。近くに棲んでいるはずの兎妖怪も永遠亭には頻繁に顔を出していたのだが、この頃はとんと見なくなった。
この館の姫である輝夜は、それによって毎日暇を持て余しているようだ。たまに思いついたように動き出しては、竹林に棲む腐れ縁の知人を訪ねて奇襲をかける。
そしてきょうもまた、姫は気ままに出かけようとする。その途中で、たまたま永琳とすれ違った。
「あ、永琳。里でおいしいお饅頭を見繕ってきてちょうだいな。粒あんとこしあん、それから胡麻のものね」
ここ数週間まともに会話すらしていなかったものだから、永琳はいきなり声をかけられたことにまず驚く。それから言葉の内容に対して疑問を抱いた。
「どうしてまた饅頭なんか」
「だって、もう食べられなくなるじゃない。永琳あなた、お饅頭の作り方がわかる?」
「わからないわ」
「そうでしょう。じゃあ、よろしくお願いね」
そう言って、輝夜はふわふわと宙に浮いているような足取りで出て行った。
勝手なこと、と永琳は内心でため息をついたが、特に悪い気はしなかった。輝夜ではないが、永琳もまた暇を持て余していたのだ。新薬の研究が今朝方になってようやく完了し、一眠りして湯浴みをしたあと、さていまから何をしようかと考え始めていたときに姫から声をかけられた。
世界が崩壊するまであと三日。残り時間からみてもさすがに終わらせるのは不可能かと思っていた研究だったが、意地と根性で想定日数を大幅に覆した。
――まあ、できると思ったわけだし。できるかどうかも、やってみないとわからなかったし。ともあれやってよかったわね。
興味の湧かない分野だったらここまで追い込むことなどしなかったろうが、世界が終わる前までに、永琳はどうしてもこの研究だけは終わらせておきたかったのだ。
――結果論とはいえ、あと三日も残ってしまったわね。……どうしようかしら。
これは思ったよりも早めに終わりそうだ、となってからの想定日数は世界が終わる日の明朝であった。しかしその日数すら早まってしまったのは、永琳としても想定外のことである。
まあそんなこともあるか、と過ぎたことは頭の片隅に押しやって、永琳は外出の準備を整えた。
外へ出る。きょうもまた変わらず竹林は濃い霧に包まれている。迷うことなく歩を進め、しばらくして竹林を抜けた。勝手知ったる道ではもはや迷うことを知らない。彼女の知能指数も記憶要領も人のそれとは到底比べることができないのだ。
頭が良すぎいるというのも考え物である、と姫は言う。その思考は限界を知らず、おそらくここで頭打ちだろうということですら、やってみなければわからないと言って聞こうとしない。手に負えないのもそうだが、極めつけはやり遂げてしまうことだろう。だから誰も、彼女の行動を止めることはしなかった。いままで、誰一人として。
里は賑わっていた。世界が終わるまであと三日。それを知らぬ訳でもあるまいに、里の中は活気であふれかえっている。案外、人というのはこういうところが妖怪よりも強いのかも知れない。例えるのなら鬼の生き方に似ている。どうせ死ぬのなら、最後まで笑っていけるようにと、そう考える。
――殊勝なものね。
永琳は心底感心する。
限りある命ある者らしい、一番輝いている最期だろう。そういうふうにいれたらと、きっと誰もが思うに違いない。
だが永琳は知っている。そういうものは理想論であり、人の在り方の極地であり、決して万人がそういう風に在れるものではないと。美麗の裏には醜悪な面が張り付いている。万物とは表裏一体。希望があれば絶望もあるのだ。
遠くで妖精が飛んでいる。あれは春告精だ。シミひとつない白無垢のような洋服を纏い、麗らかな空を飛び回る。彼女が通ったあとは暖かな風が吹き、桜の花びらが舞い踊る。平和の象徴にすら思える、崩壊や滅亡という言葉から一番遠い存在だった。
よく行く和菓子屋はすでに閉じていた。張り紙にはご愛顧を賜ったことに対する礼の文があり、世界崩壊の四日前に閉店したことへの謝罪が書き記されていた。ようするに、昨日来ていれば間に合っていたということだ。姫も間が悪い。勘が働いたにしても一足遅かったようだ。
仕方ない、と永琳はさらに里の奥へと歩を進める。なんの手土産もないまま帰っても姫は納得しない。駄々をこねられても面倒だと、饅頭ではなくてもなにか別の物品を見繕っておこうと思ったのだ。
そうして、ひとつの屋台を見つけた。
……いや、屋台と言うべきだろうか、これは。
至って平凡な家屋の前に、添え置かれただけの四角い台。その奥に三十代ほどの男がうつむいて座り、形の悪い饅頭を台に広げて置いている。白い餅で餡を包んだだけの、素朴で簡素な饅頭だった。ここは屋根もなく、風よけもない。吹きさらしの状態で置かれた和菓子は、水気が飛んだのかもとからそうなのかひどく乾いて見えた。
「もし」
声をかけると、男はひどく緩慢な動作で顔を上げた。
隈がひどい。おまけに窶れている。里のあちこちで見た活気とはかけ離れた様相だった。
世界の終わりに、夢を見ることができなかった人種だった。
「これは饅頭なの?」
「見りゃあわかるだろ」
「わからないわね。こんな不味そうな形はみたことがない」
「形で味なんぞ変わらん。気になるなら食ってみればいい」
「いいの?」
男は億劫そうにああ、と言った。
「どうせ誰も買わん。てめえで饅頭を食いたいから作っただけだしよ」
「どうしてそれを売っているの?」
男は押し黙った。
応える気がないのか、言葉を探しているのか。どちらにせよ待っている時間が惜しい。世界はあと三日で崩壊するのだから。
形が不揃いな中で小ぶりなものを摘まみ、かじるように一口食べる。
「……うん」
ぴくっと男の肩が揺れた。
「無理して食わんでいいぞ。どうせ捨てるもんだ、その辺にほっぽっておきゃあいい」
「あら、捨てるの? これ」
男は見ろ、と言って視線で指し示す。永琳はそれにつられて週を眺め見た。
「飲み屋以外の店はもうどこも閉まってる。あと三日で世界が終わるってのに、のんきに饅頭を食おうなんてやつはおらん」
「私と、あなた以外に?」
そう言うと、男は怪訝そうな顔を向けてきた。
その顔に向けて永琳は言った。
「それなら全部もらえるかしら。どうせ捨てるのでしょう」
「……揶揄ってんのかい?」
本気も本気よ、と言いながら、永琳は懐を探る。いくらかしら、と財布を取り出したところで、男は魂消たな、とぼやいた。
「持ってきな」
「いいの?」
「いまさら金なんぞ、あってもどうしようもねえ」
「それもそうね。なら気持ちだけでも受け取って。持っててもどうしようもないから」
永琳なりの冗談だったが、男はくすりともしなかった。
包装紙がないというので、適当な紙に包んでもらった。まさか売れると思っていなかったからな、とぼやくように言いながら、男は意外にも丁寧に饅頭を包んでいる。器用な手先をしていた。
「助かったわ。思えばこんな時に饅頭を売ろうなんて人がいるはずもないわよね」
「物好きな女だ」
永琳は空を仰ぐ。男もそれに吊られて視線を上げた。そこには春を告げる妖精が、この世の美しいものをすべて詰め込んだような笑顔と、薄紅色の花弁を振りまきながら飛んでいる。
「どいつもこいつものんきにしやがって、死ぬのが怖くねえのかよ」
「さあ。私は怖いと思うわ。ただ死ぬことよりも怖いものを知ってるだけ」
永琳は踵を返す。後腐れもなく立ち去っていく背中に、男はぼそりとなにやらつぶやいていたが、永琳はまったくもって意に返すことはしなかった。どうせ、三日後にはなにもかもなくなっているのだから。
「……あるわけがねえ。そんなの」
そんな言葉が聞こえていたとしても、すべてなくなってしまうのだから。
2
地上に降りてから、どれだけの時間が経っただろう。世界が崩壊するとなったときに漠然とその事実を受け入れられたのは、きっとそのあたりがもう曖昧になっていたからだ。生き続けるということが、生かされているということにいつの間にか変わってしまっていたからだ。生き続けたいと思っていない自分の存在に気づいてしまったからだ。
しかし死ぬことはできないだろう。世界が崩壊したとしても、時間の枠から外れてしまった者はその影響を受けることがない。蓬莱の薬を口にした時点で、この身は星の成り行きとは無関係になった。だから死ぬことはない。たとえそれ以外が死んだとしても、その後というものがどんなに生存が難しい環境であったとしても、絶えず関係なく生き続けていく。例外なく、至極当たり前に。それは喜劇でも悲劇でもない、ただの事実。当たり前にやってくる現実に他ならなかった。
「そんなに死にたいのなら、ひとりで死ねばいいわ」
そんなことを姫の口からさらっと、冷静に言われたものだから、永琳もころっとその気になってしまった。そこに怒りや悲しみはないし、ましてや喜びもない。わずかなりとも感情が動いたということもない。何故ならば永琳は別段、姫の言うように死を望んでいるわけではなかった。ただ単純に、純粋に、生き続ける理由がわからなくなってしまっただけなのだ。
後天的に不死を得たものが生きる目的を見失うとあっては、それはもはや不死とは言い難い。死んでいないだけの、辛うじて生き物らしい営みを残した亡者に過ぎない。そんな生き方はしたくなかった。
ああ、それならば。
で、あるならば。
ここで死ぬというのも、それほど悪いことではないのかもしれない。
だから、八意永琳は世界崩壊とともに自身の命を終えることとした。
◇
「ねえ、永琳。昨日のお饅頭、また買ってきてくれない?」
歯を磨きながら口元に泡を作っていた永琳に向かって、輝夜は機嫌の良さそうな声で言った。寝ぼけ眼には少しだけまぶしい。
「どこで買ってきたかしらないけど、あれ、なかなかよかったじゃない。油断して食べ始めたものだからろくすっぽ味も思い出せないの。だから、ね」
永琳は返事もせずしゃこしゃこと磨きをかけ続ける。彼女なりの拒絶反応だったが、輝夜はたとえ面倒でもわたしのためなら買ってくればいいじゃない、とでも言わんばかりの笑顔をたたえてよろしくね、とだけ言い残したあと廊下を曲がっていった。
水で口をゆすぐ。吐き出した水はいつもより勢いが強い。したたかに跳ね返って寝間着を濡らした。
「泣けるわ」
それからあらかたの支度を終え、戯れに惰眠を貪ったあと、鉛のように重い頭を引きずるようにして出かけた。
人里の様子は昨日とあまり変わらなかった。呑めや歌えの騒がしさもあれば、平穏な陽気を満喫しながら談笑している人々もいる。子どもたちは何も知らされていないのか、好き勝手はしゃぎながら走り回っていた。
そんな中、人目に付かないようにしているのか、ひそひそと物陰に隠れながら話している彼らの姿は逆に目を引いた。里の様子を眺めるふりをしながら、何の気なしに小耳を立てていると、
「こいつで落としてやるさ。大丈夫、心配要らねえ。相手は妖精だ。たいした力も持っちゃいねえ」
「でもこんな往来でやるこたあねえよ。やるならもっと外れでよ、思いっきりたたき落としてやれ」
「ったくよ、春告精だかなんだか知らねえが、こんな状況だってのにのんきに現れやがって」
「ああ、痛い目みしてやる」
「ついでにこっちは、世界の終わりにいい思いさせてもらうがな」
聞いてるだけで気分が悪くなるような声だ。永琳はさっさとその場を離れて、昨日の男がいた屋台に向かった。
どちらかといえば、終末の世界にありがちなのはあの男たちのほうだ。強いとか弱いとかそういうものは一切関係なく、人間とはそういう面を少なからず持っている。それを良くない、健全ではないと思うがために明るく振る舞おうとするのだ。
彼らもきっと、ああやって一時の感情に翻弄されながらも、そんな自分に嫌気が差している部分があるはずなのだ。いまこのときばかりはその理性的な情動を優先する余裕がないだけ。
――いや、違うわね。きっとあれは、自己保存を優先しているだけだわ。
彼らは満たされたいのだ。何かひとつでも。世界が崩壊するという未来、否が応でも訪れる死の恐怖、それを一瞬でもいいから忘れたい。心にあいたその空虚な穴を埋めていたい。何でもいい。そのためなら善良な妖精にも危害を加えよう。たとえそれが、なんの益体にもならない虚栄心を満たすだけの行為だったとしても。それで安心できるのなら、もうそれで構わない。
それで傷つく矜持がないから。
あるいは失いたくないものすらも忘れてしまっているから。
彼らは安易に堕ちていく。本来望むはずのなかった、その道行きに後悔しかあり得ない選択をする。あるいはそれが、本当に救いになるのかもしれないから。
屋台に着くと、男は昨日と同じようにそこにいた。だが彼の前にある台には何も載っていない。男は永琳の姿を認めると、驚いたように目を見開いた。
「また来たのか」
「ええ。うちの姫がとても気に入ったようで、買いに来させられたわ」
「姫? ……あんた、子持ちか」
はあん、と男は気の抜けた声を出す。
「見えねえな。ちと若すぎる」
「褒め言葉として受け取っておくわね」
永琳はあえて訂正することもせず、台の上を指さした。
「きょうは売っていないの?」
「ああ。きょうは皮だけの饅頭を売ってたんだが、さっき全部持ってかれたよ。一足遅かったな」
あらそう、と永琳はとくに落胆する様子もなく言った。
「熱心ね。あと一日半で世界が終わるというのに、饅頭を作って売ってるなんて」
「そいつを買ってって、また買いに来るお前さんもたいがいだ」
男の声には覇気がない。明らかに昨日よりも痩せている。肌や唇の色から察するに、おそらく何も口にしていないのだろう。
聡い永琳は、それでなんとなく察した。男が饅頭を食べようとして作ったにもかかわらず、ひとつも口にせずに売っていた理由。
「食べられなかったのね、饅頭」
男はわずかに肩を揺らした。
「それどころか、何も喉を通らないようね。何日くらい食べてないの?」
「……そんなことを知ってどうする?」
「別に、気がついたから聞いてみただけだけれど……、思えばこんなことを訊ねても無駄ね」
どうせ明日が終われば、なにもかもなくなるのだし。そう言って永琳は背を向ける。饅頭がないのならもう用はない。
するとおい、と後ろから声がかかる。振り返りざま、視界に飛び込んできた白い物体を反射的につかみ取った。小さくて相変わらず歪な形をした饅頭だ。
「これは?」
「てめえで食おうとして取っといた分だよ。ガキによろしく言っといてくれ」
「もらってもいいのかしら」
いい、と男は小さな声で答えて、吐き捨てるようにどうせ食えやしねえ、と言った。
「じゃあ、ありがたくもらっておくわね」
永琳は帰路につく。
行きがけに見た人間たちの事を思い出した。彼らはいまも計画を進めているところだろうか。それとも馬鹿らしくなって思い思いに最後の一日を過ごしているだろうか。
饅頭を売っていたあの男も、そんな彼らとあまり変わらない。死ぬのが怖い。ただそれだけ。
「中身がなくても、饅頭は饅頭よね」
そうつぶやきながら、永琳は皮だけの饅頭を頬張っていた。
1
「永琳、あなた死ぬのよね?」
ええ、そのつもりよ、と答えた。
「そう」
輝夜はいつもと変わらない薄い笑みを浮かべている。
何も変わらず、ただそのままで幾星霜を生きていた。ときには得たこともある。同じくらい失ったこともある。そうして今度は、自分以外のすべてを失うことになった。
しかし何も変わらない。
蓬莱の民は、ただそのままでいるだけだから。
輝夜は永琳、と静かな声で言った。
「いままでありあとう」
永琳は、何も答えられなかった。
◇
正午をすぎた頃、永遠亭に藤原妹紅が訊ねてきた。左肩に春告精を担ぎ、右脇に人間の男を抱えている。カテゴライズとしては珍客だった。
「世界も終わるっていうのに、何を拾ったの?」
妹紅は何も言わず、じっと永琳の顔を見据えている。あまり穏やかな視線ではなく、まるで裏切り者でも見るような目だった。
妹紅は口元だけを小さく動かして、竹林で拾った、と言った。
「最後くらい、薬師の仕事をしてみなさいよ」
棘だらけのその一言で合点がいった。永琳がきょう死のうとしているということを、おそらく輝夜が話したのだろう。
だが彼女の感情の動きがよく理解できない。永琳が死ぬからと言ってどうして妹紅が怒るのだろうか。釈然としないまでも、夜まで特にすることもないということもあり、永琳はすんなりと二人の患者を受け取った。
診察に使っていた部屋は先日の研究で物置と化したため、客間の一室を開放して二人を寝かせる。その部屋に面した縁側で、妹紅はそっぽを向いて煙草を吹かしている。二人の容態が気になるのか、はたまた永琳の行動でも監視するつもりなのか、二人を預けたから帰るということはしなかった。
見た限りでは春告精に大きな傷はない。こめかみに大きなこぶができているが、命に別状はないだろう。疲れて眠っているとみるのが妥当なところだ。
対して男はひどい有様だった。全身に青あざと傷だらけ、骨も数カ所折れている。加えて栄養失調気味だ。何日も食べ物を口にしていないようだった。
「饅頭を作るだけしか能がないと思っていたのに、何をしているのよあなたは」
――折れたあばらが肺を貫通しているのが、致命的だった。普段ならあまり見ない症例だが、患者の健康状態が最悪だったことと、おそらくほぼ無抵抗のまま暴行を受け続けたことでここまで悪化したのだろう。
そこまで診てふと、治療はするべきだろうかと疑問に思った。
人間には無理だとしても、永琳にはここまでになった彼を確実に治療できる技術がある。しかし肺を傷つけたとあっては、たとえ治ったとしても激痛が伴うだろう。それこそ世界が終わる瞬間まで、彼はその痛みを受け続けなければならない。
そうなったとき、彼ははたしてどちらを望むだろうか。
「知らない天井だわね」
突如目を覚ました春告精が、がばりとその身を起こした。
「ここはどこ。わたしはリリー・ホワイト。なんにも思い出せないわ」
「あなた、名前があったのね」
春告精はぐりんと首を捻る。永琳の顔を見た瞬間、晴れやかな笑顔を見せてはじめまして、と言った。
「あなた竹林の薬師ね、うさぎさんから話は聞いてるわ」
「光栄ね」
「ああそうだわ。あなた、薬師ってことは治療もできるかしら。診てほしい人間がいるのだけど」
永琳は男を指さして、彼のこと? と訊いた。
「あ、そうこの人よ! わたしが人間たちに襲われていたところを助けてくれたの。とってもいい人よ。お願い、助けてもらえないかしら?」
「それは彼を治療しろということかしら。あと数時間で世界は綺麗さっぱりなくなるというのに」
「だって、人間ってば生きたがりよ。ううん、違うわ。生かせたがりなの。だから助けてあげれば、あとは自分でなんとかすると思うわ」
永琳は閉口した。なんという妖精らしい思考だろうか。本質を見ようとせず、物事を形でしか捉えていないからこういう言葉が出てくる。ひとつの見方しかしないものだから、どうしたってそれは本質を突いてくる。これはもう妖精という種族が持つ性質だろう。
永琳には彼を治療する理由はなかったが、力強く懇願する春告精に迫られて断る理由もまたなかった。彼女からすれば片手間に施術したところで成功するような簡単な治療だ。時間も小一時間ほどで足りるだろう。
つまり永琳にしてみれば、ここで春告精の願いを断ることと男の治療をすること、どちらにより労力を使うのかという問題であったのだ。
永琳は浅く息を吐く。
「わかったわ」
春告精の顔がほころぶのを横目に、永琳は立ち上がる。縁側の方からは舌打ちが聞こえてきた。
まだ日は高い。
さらっと終わらせれば、もろもろ、夜までにはひとりになれるだろう。
◇
「ほんと、人間っておかしいのだわ」
治療を終えて客間に戻るとすでに春告精の姿はなく、見れば部屋に面した中庭でふわふわと浮いていた。傷の影響もあまりないらしい。
縁側で寝そべっている妹紅を尻目に、永琳は治療を終えた旨を報告した。すると春告精が満面の笑みを浮かべて近づいてきて、永琳の胸に飛び込んできた。うれしいのだわ、うれしいのだわ、と体全体で喜びを表現する。悪い気はしなかった。
そうして二人は何の気なしに縁側に腰掛けた。そして春告精が言ったのだ。
「どうしてわたしに石なんか投げたのかしら。どうしてわたしを助けたりしたのかしら。わたしが石を投げられるようなことをしたのかしら? わたしが助けられるようなことをしたのかしら? 人間ってほんとにおかしいのだわ」
「おかしいわね、ほんとに」
「でもすっごく素敵よ。ちょっと驚いちゃったけど、あの人間はわたしのことを助けてくれたもの」
「別の人間に襲われたのに?」
「? ……生き物ってそういうものでしょ? きょうみたいなことはこれが初めてじゃないわ。妖精が人里に近づきすぎるとたまにはこういうこともあるわ」
永琳はふうん、曖昧に返事をする。
「あなたにとっては、当たり前のことなのね。だから助けられたことが特別だったのね」
「そうよ、そうなの! とっても素敵」
永琳は賛美歌でも似合いそうな妖精をぼうと眺める。胸の内側にしこりがある気がする。それはときおり動き回って、痞えるような嫌悪感を与えてきた。
春告精、リリー・ホワイト。
初めて接した彼女は底抜けに明るい。頭の中まで春爛漫という噂はあながち間違いではないのかもしれない。その明るさを前にして、少しだけ後ろめたさを感じるのはどういうことか。この胸の痞えはなにが原因なのか。
しばらく考えて、永琳はぼんやりと、昔の輝夜に似ているのか、と悟った。天真爛漫なまま、物事の本質を見抜く悪辣な眼力。強いて言えば輝夜との違いは、好意による悪意があるかどうかだろう。春告精は妖精であるがゆえ、他人に対しては基本的に興味がないのだ。
「あなたは怖くないのね。明日、みんな死ぬというのに」
そんなのいやだわ、と意外にも当たり前のように春告精は言った。
「いやにきまってるわよ。どうして当たり前のことをあなたは訊くのかしら、不思議だわ」
「でもあなたは春を告げているじゃない。きょうも人里に行ったのでしょう。昨日も人里で見かけたわ。世界が終わるというのに、あなたは春を告げている。そこにはなんの意味があるの?」
「だって春が来るんだもの。わたし、春がとってもとっても好きなの。この気持ちを知ってほしいじゃない。誰も彼も当たり前みたいに言うもんだから、わからせてやろうと思って弾幕を放ることもあるけど、わたしはみんなで分かち合いたいだけなの。春が来る! 春が来るのよ! って、みんなと言い合いたいだけなの。世界の終わりなんて関係ないわ」
眩いばかりに、その言葉は輝いていた。
それに目が眩んだのは、きっと昔にも似た言葉を聞いたからだ。永琳の脳裏にその言葉が浮かんでくる。あのとき、この妖精によく似た少女が言った台詞。
――わたし、地上が好きよ。あなたにも知ってほしいくらい、素敵な時間をいっぱい過ごしたわ。でも誰もわかろうとしないから、みんなわたしを連れ戻そうとする。罪がわたしを地上に降ろし、地上にいることが罰となるのなら、わたしは永遠に罪人でいい。たとえ世界が終わっても。……あなたにこの気持ちがわかるかしら。ねえ、永琳?
胸の中のしこりが大きくなっていく。
あのとき永琳が出した答えは明白だ。月の監視から逃れ、二人は幾星霜を地上で過ごした。長すぎるその時間が答えだ。
ではどうして、自分は輝夜の手を取ったのだろう。
地上に魅力を感じたわけではない。
ましてや月に嫌気が差したわけでもない。
……わたしは。
たとえ世界が終わっても、貫き通したい意地があっただろうか。あったような気がする。だからいまも輝夜と一緒にいる。
――最低だ。まさかこんな瀬戸際で、あんな昔のことを思い出すなんて。
どうして輝夜と一緒にいるのか。
誘われたから? 懇願されたから?
いいや違う、どれも的外れだ。
いったいどうして、なにを思って、この地上で生き続ける道を選んだのだろう。
と、そのとき。
「――なひ?」
なに? と永琳は言ったのだが、両頬を引っ張り上げられて上手く発音ができなかった。いつの間にか永琳の前に移動した春告精が、ぐいぐいと永琳の頬を引っ張っている。
「あなたってばずぅっと難しい顔してるわ。せっかくの春なのに、それじゃあもったいないわよ。春を楽しみましょう!」
「わはったはら手をはなひてひょうらい」
ぱちんと音が鳴りそうなほど乱暴に離される。頬を摩りながら春告精を睨みつけた。
「春は悩みの多い季節よ。いろんなことに悩むの。過去現在未来、自分のことも誰かのことも、恋してる誰かのことも。世界がいかに素敵かってことでも。でもあなたは、ちょっと悩みすぎだわ」
「世界が終わるのよ。悩むくらいするわ」
春告精はうぅん、と首を捻る。
「そんなに重要なことかしら、世界が終わるのって」
「少なくとも、わたしは生きる目的を見失ったわ」
視界の端で、妹紅が体を起こすのが見えた。鋭い視線が永琳たちに向けられている。そんなことも知らず、春告精が破顔して言った。
「生きることに目的なんていらないわ。生きることは素敵なことなんだもの」
「目的を失ったら生きられないわ」
「ならわたしたちはみんな、目的を持って産まれてきたってことなの?」
「……」
「そう。なんにもないのよ、目的なんて。生きることにも死ぬことにも、目的とか理由とかはいらないの。世界が終わるからって悲嘆することはないの。だって誰も生きる目的なんてないんだもの。生きるために何をするかじゃない、何をするために生きるのかが大事なのよ。わたしは春を告げる妖精だから、生きている間は春の到来をみんなと分かち合い続ける。それがわたしのしたいこと」
春告精は空高く舞い上がった。彼女の行く道には、その生き様を祝福するように桜の花びらが現れる。茜の滲む空一面に、いつしか薄紅のカーテンがたなびいていた。
とても、……とても綺麗な光景だった。
「たとえ、明日世界が終わるとしても?」
そう、と春告精は大きな声で断言する。
「たとえそうだとしても」
「――それでもまた、春はやってくるから!」
そうして春告精は去って行く。あの人間をお願いね、とだけ言い残して、最期の時まで春を告げるために彼女は幻想郷の空へと飛んでいった。
永琳はその残影を追うように、視線だけを空へ向けている。
そのあとは、嵐が去ったようだった。茫洋と過ぎていく時間だけがそこにある。ときおり竹の笹を揺らす風の音が聞こえるが、意味のあるものはなにひとつなかった。
世界が終わるとか、そういうことも関係なく。
もともと、ここにはなにもなかった。
ただ綺麗で、美しくて、かけがえのない世界がそこにあるだけだった。
そうだったわね、と永琳は心の中でつぶやく。
輝夜はそれを愛したのだ。何の意味がなくとも、ただそこにあるだけで美しい光景を愛したのだ。
永琳はその光景を知らなかった。輝夜が見たものが何なのかわからなかった。それでも輝夜とともにいることを選んだ。あのとき何を考えていたのか。その答えを、輝夜なら知っているだろうか。
無性に、輝夜と話がしたかった。
「それでも春はやってくる、か」
妹紅が立ち上がる。
紫煙を燻らせながら、中庭を横切って玄関へ向かおうとしている。
その道中、一度だけ立ち止まった。
「泣いてたわよ、あいつ。従者のくせに管理が杜撰なんじゃない?」
それだけを言って、妹紅は去って行った。
◇
すぐにでも輝夜の元へ向かいたかったが、一旦男の様子を確認しておくことにした。
物置同然の診察室の隣が手術に使う部屋だった。無菌状態を保っているその部屋の隅に、男が寝ているベッドはある。もうどうせ使わないだろうと、永琳はなんの処置もしないまま手術室に入った。
ちょうど折良く、男が目を覚ましたところだった。
「気分はどうかしら。麻酔が効いているはずだから、それほどきつい痛みはないはずよ」
男は永琳の姿を見るなり、飛び上がりそうなほど驚いていた。永琳は自分が医者であったことを告げると、男は鉛でも飲み込んだような顔を浮かべた。
「あと……、どれくらいだ?」
世界が終わるまでの時間を聞いていることはすぐにわかった。
「あと三刻ほどでしょうね」
男の顔が苦しそうに歪む。麻酔が効いているとはいえ、無理をすれば痛みは起こる。
「……どうして、っ、生かした。そんな手間を取らなくても、すぐに死ぬ」
「わたしも迷ったわ。文句ならあの妖精に言ってちょうだい」
それだけで、もう何も言うことがなくなったようだ。
男は寝台に体を預け、虚しい光を瞳の奥に映したままぼんやりと天井を見上げている。永琳はその枕元に立ち、男を見下ろした。
「どうして春告精なんて助けたの?」
「そいつは訊くな」
「どうして?」
男は押し黙った。唇を真一文字に固く結んで、それ以上を喋ろうとしない。それがいまにも飛び出しそうな言葉をしまい込んでいるように見えたものだから、永琳はあえて待つことにした。
やがて根負けしたように、男は口元がもごもごと動き始める。
「俺ぁ怖がりだ」
ええ、と永琳は相づちを打つ。
「死ぬことが怖え。世界があと数日で消滅するってわかってから、もっといろんなものが怖くなった。剥げた瓦屋根、道ばたの穴ぼこ、流れの速い川、遠くで鳴った雷。毎日毎日、俺ぁ震えてた。終いには、てめえが食いてえから作った饅頭すら、喉に詰まらせることが怖くなって食えなくなった。いろんなことに怯えてた」
永琳はじっと話を聞いた。降り止まぬ雨のように、男は言葉を止めなかったからだ。
「だが一番怖かったのは、……ひとりで死ぬことだ。かみさんが死んだとき、俺ぁ傍にいてやれなかった。それがどんなに寂しかったか、いまなら……わかる。痛いくらいわかる」
きつく閉じた男の目尻から、一筋の涙が落ちる。愛するものを亡くした男は本当に失うものがなくなる。女はその姿に惚れることもあれば、救いようがないと匙を投げることもある。永琳は……、どちらでもなかったが、いまは傍にいてやろうと思った。
「世界が滅びるとわかってから、あの妖精はいつも里の上にいた。あいつがいなくなることを想像したら、それぁいつもの毎日じゃなくなるような気がして、俺ぁまた怖くなった。死ぬことを考えたくなかった」
「だから助けたのね?」
「なさけねぇ。あとちょっとで世界が滅ぶってぇのに、俺ぁ最後まで後ろ向きなままだ。かみさんに合わせる顔がねえ」
男は嗚咽を漏らして目頭を手で覆う。肺が痛むだろうに男は構わず泣き続けた。
永琳は男が聞き取れるよう、そっと耳元に口を寄せて訊ねた。
「あの饅頭、とてもおいしかったわ。あなたはあれを作り慣れていたのではないの?」
男はああ、と鼻声で答える。
「かみさんが好きだった。砂糖が手に入ったときには、たまにつくってやってたよ。子どもみたいにはしゃいで、うまそうに食ってた」
そう言うと、またも涙があふれ出てきていた。
永琳は思った。彼の心にある信念のようなもの、それはきっと愛情なのかもしれないと。男は胸の内に秘めた幻影を守り続けているのだ。今はもういない、自分の愛した人間の面影を忘れないように生きている。
ふと、永琳の脳裏にも映像が浮かんできた。
なつかしい光景だ。
夜半に浮かぶ月は、群青にぽかりとあいた孔にさえ思える。それを背にした輝夜は、言葉もないほどに美しかった。その輝夜が言うのだ。
――わたしは地上にいたい。
その光景を、永琳はいままで忘れてしまっていた。長い年月で摩耗した記憶が、星の一生に等しい時間を経て再び蘇る。あのとき、その光景を目の当たりにした自身がなにを想い、なにを感じたのか。
それをいま、ようやく思い出せそうな気がした。
永琳は胸ポケットを探る。二日前からずっとそこにしまっていたもの。小瓶に入った液体は薄い紫色をしていて、口に含めばほのかに甘い味がする。
それこそが永琳の研究成果。
この世で作られる最後の薬。
――蓬莱人をすら殺める毒薬である。
いまのいままで、永琳は迷っていた。この薬をどうするべきかどうか。
昨日までならば、迷わず自分に使っていたことだろう。だがここにきて、永琳は失っていた自分というものを取り戻しかけている。生きるために何をするかではなく、何のために生きるのか。その何かがようやく、長い時を経てふたたび定まった。
永琳はその小瓶を、男の見える位置に持っていく。
それは悪魔の取引か。
永琳の話を聞く男は、とても穏やかな目をしていた。
0
風呂で身を清めたあと、永琳は輝夜のいる部屋に向かった。身体は重く、頭も痛い。身体の節々が悲鳴を上げている。しかし努めて平静を装ったまま、静かに輝夜の部屋の前に立った。
「輝夜」
すると中から声がした。
「え?」
思っていたよりも素っ頓狂な声だった。うそ、永琳? と続けざまに聞こえてくる。
「そう。入るわよ」
「え、だめ」
がんっ、と後頭部を殴られたような気がした。あの輝夜に拒絶されるなど考えもしなかった。
「だめって、どうして?」
「だ、だめなものはだめなの。ああ、うそ。うそよ永琳。わたしも話したいと思っていたわ」
「だったらいいでしょう。入るわよ」
「だ、だからだめよ。ちょっとだけ待って。待ってくれたら大丈夫だから」
輝夜がなにを言っているのかさっぱりわからない。ちょっと待つと言っても、もう世界が滅びるまで半刻もないのだ。悠長な事を言っていられる場合ではない。
永琳はもはや構わず、といった様子で襖を開けた。
い草の香りが鼻先を漂う。薄暗い部屋の中は淡い月明かりに満たされていた。空を仰ぐ円形の窓から降り注ぐ月光を、美しい女が一身に浴びてきらめている。おかしなことに袖で表情を隠しているため、その顔を確認できない。
だが永琳は意にも介さずつうつうと輝夜の前に歩を進め、正座で対面に座った。
「輝夜、話があるんだけど」
「――」
「輝夜……?」
空いた手を差し出される。早く続きを言えということだろうか。
「妹紅から聞いたわ。あなた、最近あの子に会いに行っては泣いていたそうね」
輝夜は肩をぴくりと揺らしたが、それ以外に反応はない。止めようとする気配もないため、永琳は続けることにした。
「死にたいのなら死ねばいい。あなたにそう言われた日から、わたしは死ぬことばかりを考えていた。何のために生きていたのかすっかり見失ってしまって、目的ばかりを探して、生きることそのものから目を背けてしまっていた。……でもきょうで、少しだけ考えが変わったわ」
春告精は言っていた。
――生きることに目的なんていらないわ。生きることは素敵なことなんだもの。
そう思えば、理由なんてそれだけでよかったはずなのだ。死ねばいいと言われて、死ぬ手段を見つけたそのときから、生きる目的なんてものを探し始めていた。考えたことすらなかったはずなのに、まるで思春期の少女のように悩んで傷ついた。そしてようやく答えを得ることができた。
春告精はああ言っていたが、やはり目的は必要だ。でなければ、いつか遠い未来にまたこうして迷うことだろう。目的と手段が一緒であると知っていれば、もう迷うこともないはずだ。
……ああそうだ。わたしの目的はいつだって――。
もしも輝夜以外の人物から、死ねばいいといわれたところで莫迦を言うな、と一蹴していただろう。輝夜に死ねばいいと言われたから、永琳はならば死のう、と思えたのだ。永琳がここまで自分を見失うこともなかった。
だがそれも本心ではないとわかった。
永琳もまた、春告精との会話で思い出すことができた。忘れていた大事なこと、きょうに繋がる原風景を。
「死ぬのはやめたわ」
「え?」
「死ぬのはやめた。都合のいい話だけど、きょうを過ぎてもあなたと一緒にいたいの。ねえ、輝夜」
降り注ぐ月光を背に、美しい輝夜がそこにいる。あのときに見たのは間違いなくこの光景だ。大きな月を背に、この地上で生きていきたいと言った輝夜の姿は、他のすべてをなげうってでも手に入れたいと思わせるものだった。
月に浮かび上がる輝夜。月にいては見ることの適わない、奇跡のようなその光景に心が止まった。生物が理解できる範疇を超えた、領域外の美しさ。白い月に浮かぶ白磁の輪郭と際立つ絹のような黒髪。幼さの残る表情に妖艶な笑みをたたえて蠱惑的に誘う。抗いがたいその容姿。
あの奇跡を、希ったのだ。
「綺麗だったわ、輝夜。いまでもそうよ。あなたが不老不死でなくなって、たとえ老いて死ぬようなことになっても、あの美しさが色あせることはない。あなたがいる、それだけで素敵なことなの。素晴らしいことなのよ。だからわたしは、あなたと一緒に生きたい。あのときと同じように、そう想って生きていたい」
輝夜の顔を隠していた袖が下がる。
露わになった表情は、永琳が思わず顔をほころばせてしまうくらいひどい有様だった。ずっと泣いていたのだろうか、両目が取り返しの付かないほどに赤く腫れてしまっている。昼間は化粧で上手く隠していたらしいが、涙で剥がれ落ちたのか大きな隈が表れていた。まるで狸だ、と永琳はその姿をいじらしく感じた。
「わたし、生きていていいかしら?」
「あたりまえじゃない!」
叫ぶように輝夜が言う。
「私だって永琳と生きていたい。本当はずっとそうだったわ。なのに勢い余ってあんなことを言ってしまって、私、ずっと後悔していたもの」
ごめんなさい、ごめんなさい、と輝夜は何度も口にする。永琳は胸が締め付けられる思いだった。後ろめたさではない。ただその姿が愛おしかったからだ。自分と一緒にいたいと言って泣いてくれる彼女が、狂おしいほどに愛おしかったからだ。
「ありがとう、輝夜」
「でもいいの? 私、きっとあなたを苦しめるわ。私といても幸せになんてなれない。きっと不幸にするんだから。……それでもいいの?」
「なら一緒に不幸になりましょう」
輝夜が息を呑む。
「あなたと一緒にいることが不幸になるのなら、わたしは永遠に不幸でありたい」
えいりん、と輝夜は嗚咽混じりに名前を呼ぶ。
「ずっと不安だった。あなたがいなくなってしまった世界を想像するたび、辛くて寂しくて、不安で不安でしかたなかった。……あなたのせいよ、永琳。ずっと一緒にいたくせに、私の前からいなくなろうとしたせいよ」
あなたのせいなんだからぁ、と輝夜はついに決壊した。永琳はすぐに寄っていって、いまにも崩れ落ちそうな身体を抱きとめる。
「ごめんなさい。ずっと一緒だから。ずっと離さないから。ずっとあなたと一緒に生きるから」
「やくそくよ、えいりん。やぶったら、いやだからね」
「ええ、約束よ」
愛おしい少女を抱きしめる。
永琳の腕の中で、これまでの時間を取り戻すように輝夜は泣き続けた。
まるであの日に戻ったみたいだ。
涙なんてとうに枯れ果てたと思ったのに、輝夜も自分も、まだ流せる涙があったのだ。いまはすこし、それがうれしい。
世界の終わりはもう間近。
それでもこの身は不死である。
ならばかかずらう必要もない。
気の済むまでこうしていよう。
次に顔を上げたとき、たとえ世界が滅んでいても。
そんなこと、もはや少女たちには関係のない話なのだから。
…
これもひとつの終末世界。
私は静かに目を閉じた。
ただテーマと構成が嚙み合っていないというか、何かちぐはぐな印象を受けました。
クライマックスは永琳と輝夜の関係に置かれていますが、そうすると男とのエピソードが浮いているように感じました。
不死者の自己消失がテーマだとするとクライマックスが取ってつけたようだし・・・
文章の作りが綺麗だなあと。読んでて「躓き」が無いのがすごい。御馳走様でした。面白かったです
リリーのへんとか若干ちぐはぐかな? と思いましたが、ラストはすごくいいシーンでした