隣で誰かが咳き込む声がして目が覚めた。
暗闇の中、薄弱とした意識に逆らいながら腕に力を入れて上半身を起こす。
「……姉さん?」
左隣で寝ていたはずの姉の姿を視認する。横になりながら、まるで猫のように背を丸めて、頭と両腕をお腹の中に抱えて呻いている。手入れの足りていない指通りの良くなさそうな髪の毛が横顔の上を流れていて、表情は窺えない。見なくてもわかる。
私は小さくため息をついた。
痩せ細った姉の背中をそっとさすってあげると、手の内側の感触がわずかに弛緩したのがわかった。
「お腹いたいの?」
「ち、がう……」
知ってる。そうであったらいいと思っただけだ。
私はまた、今度は少しだけ大きくため息をついた。腕に入れた力が少しだけ増す。
「……どの辺がいい?」
「もうちょっと、上……」
「この辺?」
「うん……うぅっ」
声にならない姉の苦痛を、私は彼女の肩の震えから感じとる。人の寝静まる深夜、非連続に発せられる嘔吐の声音は、ちょっとした突風の一つで吹き飛びかねない狭いボロ小屋の空間にはよく響く。
姉の紫苑のそれは、別に珍しいことではなかった。
月の満ち欠けが二、三回りするかしないかくらいの頻度で、不定期にこういった発作を起こすのが私の姉の常だった。
周囲のあらゆる財と運気を負の形に換えてしまう姉は、時折こうして身の内に溜め込んだ負債を自らの意思に関わらず吐き出そうとする。
その契機がある程度彼女の感情に沿ったものであるのならいいのだが、大半は今のように彼女の意に反して突発的に生じ、ただ淡々と彼女自身を苦しめる。意識的にせよ無意識的にせよ、きっと彼女の中で何かしらの一線を超えるたびに降りかかるその哀傷は、横で見ていることしかできない私からしてみれば、まるで逃げ場のない牢獄のようにも思えた。
だから、夜中に目が覚めて、姉さんが背中を丸めているとき、私はいつも彼女がきっと肯定しないであろう期待の薄い問いを投げかけていた。それを姉さんが否定するまでが、誰がとり決めたわけでもない私達の間の儀式だった。
これで最後。きっと次はもうないと姉の細い背中をさする。月日が巡ったある夜更けに目が覚め、横にいる姉の丸まった背中を見て、今回こそは違うのではないかと的外れな問いをかける。
私はこうして、もはや数える気も起きないくらいに、色のないため息をついている。
半刻も過ぎただろうか。
動かしている腕の内側に疲労による痺れを感じてきた頃、姉はゆっくりと身体を起こし始める。私も、姉さんも、何も言わない。これも毎度のことだった。発作が落ち着いたわけではなく、むしろ横になっていてはこれ以上耐えることができないという一つの限界の証左なのだった。
あいも変わらず背中を丸めたまま、正座を崩したようなお尻を地につけた体勢になって、震えながら両腕を抱く。両目から音もなく流れ出る液体を拭おうともしない姉の、ゾッとするくらいに青白い横顔を私はのぞき見る。いつもそう。このときが一番辛そうなのだ。
姉の背中にぐっと力が入ったかと思うと、髪を振りまくように頭を下げて悲壮な嘔吐の声を上げる。その口から固形物は何も出ず、吐き出されるのは口内とお腹の中の体液が混ざりあった半透明の粘性物くらいだった。
姉がまともに口を抑えようともしないので、私は空いている方の手で彼女の口元を覆う。荒い吐息と吐瀉物の熱に、姉の有形としての温もりを感じ取る。果たして意味があるのかどうかわからない背中のさする手を、私はただひたすらに、単調に動かしている。
うずくまる姉の後ろ姿を見下ろしながら、いったい私達は何なのだろうと考える。
貧乏神と疫病神。
持ち得る性質こそ違えど、共通するのはその存在が周囲を不幸にするということ。
私は別にいい。他者に貢がせる行為への罪悪感など、とうの昔に忘れてしまったから。
でも、姉さんは。
所構わず不幸を振りまいて、それで誰が得をするかといえば、そんなやつは誰もいない。
本人さえも不運に見舞われ、こうして真夜中に重苦にあえぐ姉がいても、誰一人として救われない。こんなに吐いて、こんなに泣いているのに。
この行為にどんな意味があるのかと考えて、意味などないのだと首を振る。
妖怪も、神様も。そこに在るのは意味ではなく、一つの役割であり、性質だ。
から傘お化けが人を驚かすことに喜びを感じるように、人食い妖怪が人間を襲うことに疑問を抱かないように。人を不幸に陥れることに、理由なくただ幸福を得ることができればよかったのに。
でも、それは決して叶わない。不運を象る私達は、その性質が故に幸福であり続けることを許されない。
だからといって、救われたいわけじゃない。救ってほしいとも思わない。それを望むことは私達自身を否定する行為だから。ただ、姉の背中をさするたび、私達はもう少しうまく日々を過ごせないものだろうかと思うときがあるというだけで。
完全憑依の異変を起こしたときのことを思い出す。
事の顛末として、調子に乗った私達姉妹は結局博麗の巫女から手痛いしっぺ返しを受けた。あのときも姉さんは身に溜め込んだ不幸を暴走させていたけれど、それでも、あの瞬間の姉さんは今ほどに苦しまずに負を吐き出せていたように思う。餅は餅屋といえばいいのか、その辺はやはり異変解決のプロを謳っているからこそ為せる業なのかもしれないと、当時の私は内心少しだけ感心したのだ。
幻想郷は自由だけれど、それでも人間も妖怪も少なからず自身を取り巻く何かしらに縛られている。その中で、あの博麗の巫女だけは万有に縛られていないように見える。巫女という役割を与えられていながら、しかし彼女は、いや、彼女だけが絶対的に自由だと思わせられる。そして、それが真実であるかどうかは、あまり重要ではないのかもしれない。私がそう思うことこそが、彼女が博麗の巫女たる所以なのだとおぼろげに理解する。
許容量を超えて受けきれなくなった私の手のひらの上から、姉の体液が干からびた敷布団の上に黒い染みを作る。後で乾かさないといけないな。それか、捨てて代わりの新しい物を誰かから貢いでもらうか。
ああ、でも、姉さんは嫌がるかもしれないな、と思う。瑕がついたら捨てればいいという考え方を持つ私と対照的に、姉さんはこちらがびっくりするくらいに物を大事にしようとする。しようとするだけで、大抵は彼女の前からいなくなってしまうんだけど。それでも懲りずに、何でもすぐに手放してしまう私の性質について愚痴を言う。似ているようで似ていない。違うようで違わない。私達姉妹は昔から、まるで噛み合わないが故に回る歯車のような、矛盾を抱えた形容し難い関係にあった。
ふと、ある過日の出来事を思い出す。
以前、姉さんが衰弱した黒猫を拾ってきたときがあった。
その日は誰かが龍神の怒りを買ったのではないかと錯覚するくらいのひどい雷雨の日で、髪も服も水気を含んでドロドロの姿で家の戸口に現れた姉さんは、両腕に震える黒猫を抱えて佇んでいた。
『姉さん、なんで——』
なんでこんな日に外でずぶ濡れになっているのかという罵倒と、なんで姉さんが生き物なんて拾ってきたのかという失笑のどちらを口にするか迷っているうちに、姉がボソボソとした低い声で答える。
『女苑』姉はじっと私の瞳を見つめて、私の名を呼んだ。『この子を置いてきて』
『なに、言って』
『早く。じゃないとこの子、助からない』
言っている意味が理解できなかった。苛立ちが募って、私は息を吸った。
『姉さんが拾ってきたんじゃない。自分でなんとかしてよ、そのくらい。だいたいなんで姉さんが生き物なんか——』
呆れて笑いながら首を振った私の腕を、姉は唐突に掴んでくる。力が入っていた。
『ダメなの』姉は見たことのない目と声音で訴えてきた。『私じゃ……ダメなの。女苑じゃなきゃ』
知っている。不幸を背負う姉さんじゃこの子を助けられないなんてこと。
姉さんだってそのことは重々承知のはずで、だからどんな理由があれ生き物を拾ってくることはないはずだった。その理由がわからなかったから、姉のその未知の気迫に呑まれて従うほかなかった。
私は姉の指示通りに、人間の里のとある民家の前の軒下に、丁寧に重ねた綿布を敷き、その上に預かった黒猫を乗せてその場を去った。個人的な印象としては、大して羽振りの良さそうな家ではないなと思ったくらいだった。
その後、その黒猫がどうしているのか私は知らない。姉さんは知っているのかもしれないけれど、あえて私から訊ねる理由もなかった。
黒猫を拾ってきた理由について、姉さんは仔細を語らなかったけれど、断片的な情報をまとめると大まかな経緯は理解できた。
雷雨の日のふたつきほど前、姉は村の外れの道端でこの黒猫を見つけた。その時は特に衰弱もしておらず元気な様子だったという。
姉が近づくと猫は逃げていった。元々、姉はあまり生き物に好かれない。動物は特に相手の性質に敏感なためか、常日頃から不幸を纏う姉さんの気配を本能的に警戒しているのかもしれない。
逃げた先に、村の若い男が立っていた。懐いているのか、猫は腰を下ろした男の手の中に首を突っ込んで何かを食べているようだった。容姿ははっきりと覚えてないらしいが、背が高く体付きも良い健康的な顔色が印象に残る青年だったという。姉はその男と二、三言会話をし別れた。それっきり、その男と会うことはなかったという。
それから幾日かの時が経った頃、姉は風の噂で村の男が崖道から足を滑らせて転落死したという話を耳にした。詳しく話を聞いて回ると、亡くなった男の容貌が以前に出会った若い男に酷似していた。母親との二人暮らしで、力自慢の好青年で、動物が好きでよく野良猫に餌をあげていたりしたという。
姉はその日の夜、私に介抱された。
黒猫の行方が気になった姉は数日かけて探し回ったが、どこにも姿が見当たらなかった。あちらこちらを駆け回り、ようやく見つけたのが雷雨の日。黒猫は村近くの林の中にある、大きな木の下の根元に身を寄せるようにして震えていた。
姉は迷った。自分がこの猫を連れ帰ったとしてもこの猫は決して幸せにはなれない。だからといってこのまま放置してしまっては、衰弱死する可能性も避けられない。
悩んでいる途中でふと、死んだ男についての記憶が脳裏をよぎった。息子に先立たれ、一人になったという母親の存在を思い出す。それで助かるかどうかの確信はなかったけれど、当時の姉にこの猫を救える可能性のある希望はそれしかなかった。
しかし、自分ではその任を負うことはできない。同じ轍を踏むだけだ。自分は貧乏神だから。不幸を導いてしまうから。だから姉である私に託したのだ。姉さんが私に託したのは、別に私の能力的側面を期待してのことではなかった。単に、すぐに頼れる相手が私くらいしかいないからだった。そして、そんなことにいまさら優越感を覚えるほど私と姉とが過ごした時間は短くはないということは、わざわざ確認するほどのことでもなかった。
姉さんの能力は、あくまで周囲に不運をもたらすだけであって、他者を死に至らしめるような力はない。だから、いくら姉の近くに長期間いるからといって、それだけで命を落としたりすることはまずないといっていい。ましてや、道端で立ち話をしただけの相手を死に誘うような強力な効用があるはずもなく、たとえ姉さんの力が暴走状態にあってもあり得ない話であった。
ただ、直接作用しなくても、間接的に作用することは当然ある。
人間はあまりにも容易に死に至る。妖怪から襲われるまでもなく、ただの風邪をこじらせたり崖道で足を滑らせたりしただけで致命傷になる。そんなとき、何が悪かったのかと振り返ると、大抵は運が悪かったのだという話になる。些細なことが思いも寄らない不幸を呼んでしまうのだから、そう割り切るほかないのだろう。
その些細なきっかけに、姉の不運の能力が全く関係ないのかと問われれば、それは素直に首を縦にも横にも振れない問題なのだった。当て推量はできても、決して証明はできないのだ。それでも、私から言わせれば「考えすぎ」だとしか思えないけれど。
一方で、姉さんは身に染み付いた生来の産物とでもいうべきか、良し悪しの判断がつかない事柄に対してはほぼ間違いなく悪い方へ倒してしまうという仕方のない悪癖を持ち合わせてもいた。そういうときの姉さんを説得するのは、本当に疲れるし、その多くは徒労に終わる。
そうやって、背負わなくてもいい不幸まで馬鹿みたいに背負って。
姉さんと一緒に過ごしていると、そう言いたくなるときが山ほどあるけれど、私はいつもその悪罵を喉の手前まで迫ってきたすんでのところで押し留め、代わりにため息をつく。言って変わるのなら、それこそそんなに幸せな話はないのだと、私達は互いに理解しているから。最近は、それでも幾分か慣れた方だ。
あの黒猫の件について、姉さんはあまり多くを語りたがらない。
けれどひとつだけ。
まるで翼を失った鳥のように低く力のない声。
ぽつりと呟いた彼女の言葉が、今も耳の奥に残って離れない。
『猫のためと思って、私は悲しみに暮れるあの母親に託した。ついでに、生き物に触れることで彼女の心の傷が少しでも癒えればと思ったの。でも、こんなの自作自演でしかない。私が殺した男の母親に、私の我儘で捨て猫を助けてあげて、なんて。男も、母親も、あの黒猫にとってもいい迷惑だわ。やっぱり——私が関わるとみんなみんな、不幸になる』
虚ろな目をして放たれたその独り言になんと返せばよかったのか、私は今でもわからない。
思い耽っているうちに、思ったよりも時間が経過していた。
山場は抜けたのか、姉さんの様態はだいぶ落ち着いてきていた。呼吸も安定していて、流れていた涙もいつの間にか止まっている。ここまでくればもう大丈夫だろう。背中に当てていた右手を下ろす。ついでに口元の左手もゆっくりと離してあげると、唾液の混じった細い糸がすっと引かれて音もなく切れた。
「姉さん、もういい?」
「うん……」
こくりと頷いたが、姉は目も合わせようとしなかった。記憶している限りにおいて、私が介抱している間、姉が私の方へ顔を向けようとしたことはなく、まともに目も合わせない。名前すら呼ばない。もちろん、そんな些細なことで苛立つわけではないのだけれど、発作の間の姉は、言葉数がとても少ない。それ故に、いったい何を考えているのか全く読めなかった。
いつもだったらこの後はほとんど会話もなく、軽く後始末をして再び眠りについていた。
だから今日は、魔が差したというやつなのだろう。
「姉さんさ」私は少しだけ顔を近づけて言った。「今日みたいなとき、名前呼んでくれないよね」
「えっ?」
まるで今初めて私が隣にいることに気付いたかのように、姉は本当に驚いた様子で私の方へ振り返った。そしてすぐにハッとした表情を浮かべたかと思うと、眉をハの字にしてばつの悪そうな顔色になる。
「ねぇ、なんで?」
その表情の変化が少し新鮮で面白かったので、私は気にせず追及した。
暗闇の中でも、姉の深い藍色の瞳がキョロキョロと忙しなく動き回っているのがわかった。何かを思案するように前髪を梳きながら、半身ほど身体をこちら側へ向ける。
しばらく口をパクパクさせていた。それでも私が目を逸らさないので、逃げ切れないと思ったのか、斜め下に視線を向けながらぽつぽつと言葉を漏らし始めた。
「……呼んじゃったら、うつっちゃうから」
「なぁに?」
「……やっぱり、いい」姉はぷいと顔を背けて言う。「だって、絶対、馬鹿にするもん」
「しないから」
「ほんとに?」
「ほんとに」
諦めがついたのか、姉は目を逸らしつつも少しだけ声を大きくする。
「……今の、力を制御できていない状態の私が、名前を呼んじゃったら……不幸が、その、うつっちゃうかもしれないから」
「誰に?」
「だから」
そこでおずおずと顔を上げて私を見る。
眠気が一気に覚めた。
「ほら。やっぱり馬鹿にしてる」
「してない」
「してる! そういう顔してる」
「してないってば」
本当に、なんでこう、私の姉はなんでも悪い方へ考えてしまうのだろう。心の底まで貧乏くさくて呆れてしまう。今が夜中でよかったと思う。可笑しくて、耳どころか首の後ろまで熱くなっている。そんな状態の顔色を陽の光の下で晒したくはない。
姉は不貞腐れたように、私に背中を向けて布団を被ろうとする。
「もう寝る」
「はいはい」
「寝るまで口聞いてあげないから」
「呼んでいいよ」
姉の方へわずかに身体を寄せて言った。
「呼びなよ。名前。今更だよ。私達、どれだけの間一緒にいると思ってるの。その程度で何かが変わるのなら、もうとっくにどうにかなってるよ。そうでしょう?」
「……」
「それに私、姉さん程度の力に当てられて弱るほど、神格で負けてるだなんて思ってないから」
「……それは、ちょっと生意気」
「事実でしょ」
「私がいなきゃ、完全憑依の異変は起こせなかったくせに」
「それ、姉さんだって同じでしょう」
指摘すると、姉はモゴモゴと何かを呟きながら掛け布団を口元まで被った。生意気なのは私じゃなくてむしろ姉の方だろう。さっきまで介抱されていたくせに、回復した途端すぐに愚痴ばかり吐く。どこまでも卑屈で、嫌われ者。
わかっている。自分たちはどこまで行っても嫌われ者だ。そういう風に生まれついたのだから、そういう風に生きるしかないのだ。善人として数多くの誰かから感謝されるような反吐が出る生き方なんて、最初から望んでいない。
最凶最悪の双子姉妹。私達は、それでいい。
手を洗わなきゃ、と思う。ついでに、姉さんの顔を拭う布巾も持ってこないと。
立ち上がってから、ふと、件の顛末について訊いてみようか、という気になった。
「姉さん」
「なに?」
「そういえば、あのときの黒猫。結局今はどうしてるの」
特に深い理由はなかった。話をしたついでというつもりだった。
だから、「ああ」と呟いた後、続く姉さんの声が突然低く、か細くなった落差に、私は少なからず動揺した。
「いなかった」
「えっ?」
「いなかったの」姉はその言葉を繰り返した。「いなかったのよ。あの家の、どこにも」
「それって、いつの」
「今日……いや、もう昨日か。見に行ったわ。ちょうど留守のところに入って、家中を見て回った。大して広くもない家だったから、そう時間はかからなかった」
私が口を挟む暇もなく、姉は続けて言った。
「人間以外の生き物が生活している痕跡はなかったわ。何一つ」
「そう」
私はそれ以上、何も言わなかった。言えなかった、のかもしれない。まばたきがうまくできなくて、何かが吸い取られるように目が乾いていく感触がした。
そうだ、手を洗わなきゃ。そのために立ち上がったのだ。
流し台へ向かおうとする私の背後から、透き通った声が流れた。
「女苑」
私の名を呼んだ姉の声に振り返らず、その場で立ち止まる。姉は静かに言った。
「ありがとう」
「……うん」
それだけ返して、私は寝床から立ち去った。
暗闇の中、私は何をするでもなくただ流し台の前に立ちすくんでいた。
外からは風の音一つしない。過度の静寂がどこまでも耳の奥を打ってくる。
考えていた。
可能性はいろいろ存在する。
雷雨が去った後、黒猫は自分で立ち去ったのかもしれない。一時的に介抱してもらい、元気になった後にすぐまた野良へと戻ったのかもしれない。雷雨の日、たまたま通りかかった誰かが家の前の黒猫を拾って連れ帰ったのかもしれない。
姉さんは事実から判断できない事象をすぐ悪い方へ考えてしまうから、そういう可能性に思い至らないのだ。いつもそう、考えすぎなのだ。
可笑しくなってくる。考えすぎなのはどちらだろう。
今しがた、自分だってずっと考えていたじゃないか。
どちらが正しいかなんて判断できない。あの家の中に入った黒猫の生死を確定させることは今の私達には不可能だし、そもそもあの家の中へ入ったのかどうかすらあやしいのだ。
あの雷雨の日から、もうそれなりの月日が流れている。
あの母親に訊ねれば、その答を得られる可能性はあるだろう。しかし、それを実行することに何か意味はあるだろうか。違う。意味など必要ない。理由もいらない。知りたいと思うのならただ訊ねればいいのだ。それだけの話だ。
ただ私が、知りたくないんだ。
姉さんは訊ねたのだろうか。さっきはそのことについて、何も触れていなかったけれど。
それも訊ねればいい。ただそれだけだ。それだけで終わる話だ。
左手についた粘液は既に乾いていて、少しベタつきが残る程度になっている。
私はそれに唇を近づけ、ちろりと舐めた。
仄かに酸っぱい味がした。
人の不幸は蜜の味、などと言ったのはいったい誰だったか。
不幸がどんな味かなんて、疫病神たる私でさえはっきりわからない。きっと、貧乏神である姉さんも。
さっき、姉さんは、いったい何に対して「ありがとう」と言ったのだろう。
わからない。私には何も、わからない。
わかりたくないのかもしれない。
黒猫の行方も。不幸の味も。姉の真意も。
ただ一つわかることは、私達が最凶最悪の双子姉妹だということ。
それだけの話だ。
私達は、それでいい。
暗闇の中、薄弱とした意識に逆らいながら腕に力を入れて上半身を起こす。
「……姉さん?」
左隣で寝ていたはずの姉の姿を視認する。横になりながら、まるで猫のように背を丸めて、頭と両腕をお腹の中に抱えて呻いている。手入れの足りていない指通りの良くなさそうな髪の毛が横顔の上を流れていて、表情は窺えない。見なくてもわかる。
私は小さくため息をついた。
痩せ細った姉の背中をそっとさすってあげると、手の内側の感触がわずかに弛緩したのがわかった。
「お腹いたいの?」
「ち、がう……」
知ってる。そうであったらいいと思っただけだ。
私はまた、今度は少しだけ大きくため息をついた。腕に入れた力が少しだけ増す。
「……どの辺がいい?」
「もうちょっと、上……」
「この辺?」
「うん……うぅっ」
声にならない姉の苦痛を、私は彼女の肩の震えから感じとる。人の寝静まる深夜、非連続に発せられる嘔吐の声音は、ちょっとした突風の一つで吹き飛びかねない狭いボロ小屋の空間にはよく響く。
姉の紫苑のそれは、別に珍しいことではなかった。
月の満ち欠けが二、三回りするかしないかくらいの頻度で、不定期にこういった発作を起こすのが私の姉の常だった。
周囲のあらゆる財と運気を負の形に換えてしまう姉は、時折こうして身の内に溜め込んだ負債を自らの意思に関わらず吐き出そうとする。
その契機がある程度彼女の感情に沿ったものであるのならいいのだが、大半は今のように彼女の意に反して突発的に生じ、ただ淡々と彼女自身を苦しめる。意識的にせよ無意識的にせよ、きっと彼女の中で何かしらの一線を超えるたびに降りかかるその哀傷は、横で見ていることしかできない私からしてみれば、まるで逃げ場のない牢獄のようにも思えた。
だから、夜中に目が覚めて、姉さんが背中を丸めているとき、私はいつも彼女がきっと肯定しないであろう期待の薄い問いを投げかけていた。それを姉さんが否定するまでが、誰がとり決めたわけでもない私達の間の儀式だった。
これで最後。きっと次はもうないと姉の細い背中をさする。月日が巡ったある夜更けに目が覚め、横にいる姉の丸まった背中を見て、今回こそは違うのではないかと的外れな問いをかける。
私はこうして、もはや数える気も起きないくらいに、色のないため息をついている。
半刻も過ぎただろうか。
動かしている腕の内側に疲労による痺れを感じてきた頃、姉はゆっくりと身体を起こし始める。私も、姉さんも、何も言わない。これも毎度のことだった。発作が落ち着いたわけではなく、むしろ横になっていてはこれ以上耐えることができないという一つの限界の証左なのだった。
あいも変わらず背中を丸めたまま、正座を崩したようなお尻を地につけた体勢になって、震えながら両腕を抱く。両目から音もなく流れ出る液体を拭おうともしない姉の、ゾッとするくらいに青白い横顔を私はのぞき見る。いつもそう。このときが一番辛そうなのだ。
姉の背中にぐっと力が入ったかと思うと、髪を振りまくように頭を下げて悲壮な嘔吐の声を上げる。その口から固形物は何も出ず、吐き出されるのは口内とお腹の中の体液が混ざりあった半透明の粘性物くらいだった。
姉がまともに口を抑えようともしないので、私は空いている方の手で彼女の口元を覆う。荒い吐息と吐瀉物の熱に、姉の有形としての温もりを感じ取る。果たして意味があるのかどうかわからない背中のさする手を、私はただひたすらに、単調に動かしている。
うずくまる姉の後ろ姿を見下ろしながら、いったい私達は何なのだろうと考える。
貧乏神と疫病神。
持ち得る性質こそ違えど、共通するのはその存在が周囲を不幸にするということ。
私は別にいい。他者に貢がせる行為への罪悪感など、とうの昔に忘れてしまったから。
でも、姉さんは。
所構わず不幸を振りまいて、それで誰が得をするかといえば、そんなやつは誰もいない。
本人さえも不運に見舞われ、こうして真夜中に重苦にあえぐ姉がいても、誰一人として救われない。こんなに吐いて、こんなに泣いているのに。
この行為にどんな意味があるのかと考えて、意味などないのだと首を振る。
妖怪も、神様も。そこに在るのは意味ではなく、一つの役割であり、性質だ。
から傘お化けが人を驚かすことに喜びを感じるように、人食い妖怪が人間を襲うことに疑問を抱かないように。人を不幸に陥れることに、理由なくただ幸福を得ることができればよかったのに。
でも、それは決して叶わない。不運を象る私達は、その性質が故に幸福であり続けることを許されない。
だからといって、救われたいわけじゃない。救ってほしいとも思わない。それを望むことは私達自身を否定する行為だから。ただ、姉の背中をさするたび、私達はもう少しうまく日々を過ごせないものだろうかと思うときがあるというだけで。
完全憑依の異変を起こしたときのことを思い出す。
事の顛末として、調子に乗った私達姉妹は結局博麗の巫女から手痛いしっぺ返しを受けた。あのときも姉さんは身に溜め込んだ不幸を暴走させていたけれど、それでも、あの瞬間の姉さんは今ほどに苦しまずに負を吐き出せていたように思う。餅は餅屋といえばいいのか、その辺はやはり異変解決のプロを謳っているからこそ為せる業なのかもしれないと、当時の私は内心少しだけ感心したのだ。
幻想郷は自由だけれど、それでも人間も妖怪も少なからず自身を取り巻く何かしらに縛られている。その中で、あの博麗の巫女だけは万有に縛られていないように見える。巫女という役割を与えられていながら、しかし彼女は、いや、彼女だけが絶対的に自由だと思わせられる。そして、それが真実であるかどうかは、あまり重要ではないのかもしれない。私がそう思うことこそが、彼女が博麗の巫女たる所以なのだとおぼろげに理解する。
許容量を超えて受けきれなくなった私の手のひらの上から、姉の体液が干からびた敷布団の上に黒い染みを作る。後で乾かさないといけないな。それか、捨てて代わりの新しい物を誰かから貢いでもらうか。
ああ、でも、姉さんは嫌がるかもしれないな、と思う。瑕がついたら捨てればいいという考え方を持つ私と対照的に、姉さんはこちらがびっくりするくらいに物を大事にしようとする。しようとするだけで、大抵は彼女の前からいなくなってしまうんだけど。それでも懲りずに、何でもすぐに手放してしまう私の性質について愚痴を言う。似ているようで似ていない。違うようで違わない。私達姉妹は昔から、まるで噛み合わないが故に回る歯車のような、矛盾を抱えた形容し難い関係にあった。
ふと、ある過日の出来事を思い出す。
以前、姉さんが衰弱した黒猫を拾ってきたときがあった。
その日は誰かが龍神の怒りを買ったのではないかと錯覚するくらいのひどい雷雨の日で、髪も服も水気を含んでドロドロの姿で家の戸口に現れた姉さんは、両腕に震える黒猫を抱えて佇んでいた。
『姉さん、なんで——』
なんでこんな日に外でずぶ濡れになっているのかという罵倒と、なんで姉さんが生き物なんて拾ってきたのかという失笑のどちらを口にするか迷っているうちに、姉がボソボソとした低い声で答える。
『女苑』姉はじっと私の瞳を見つめて、私の名を呼んだ。『この子を置いてきて』
『なに、言って』
『早く。じゃないとこの子、助からない』
言っている意味が理解できなかった。苛立ちが募って、私は息を吸った。
『姉さんが拾ってきたんじゃない。自分でなんとかしてよ、そのくらい。だいたいなんで姉さんが生き物なんか——』
呆れて笑いながら首を振った私の腕を、姉は唐突に掴んでくる。力が入っていた。
『ダメなの』姉は見たことのない目と声音で訴えてきた。『私じゃ……ダメなの。女苑じゃなきゃ』
知っている。不幸を背負う姉さんじゃこの子を助けられないなんてこと。
姉さんだってそのことは重々承知のはずで、だからどんな理由があれ生き物を拾ってくることはないはずだった。その理由がわからなかったから、姉のその未知の気迫に呑まれて従うほかなかった。
私は姉の指示通りに、人間の里のとある民家の前の軒下に、丁寧に重ねた綿布を敷き、その上に預かった黒猫を乗せてその場を去った。個人的な印象としては、大して羽振りの良さそうな家ではないなと思ったくらいだった。
その後、その黒猫がどうしているのか私は知らない。姉さんは知っているのかもしれないけれど、あえて私から訊ねる理由もなかった。
黒猫を拾ってきた理由について、姉さんは仔細を語らなかったけれど、断片的な情報をまとめると大まかな経緯は理解できた。
雷雨の日のふたつきほど前、姉は村の外れの道端でこの黒猫を見つけた。その時は特に衰弱もしておらず元気な様子だったという。
姉が近づくと猫は逃げていった。元々、姉はあまり生き物に好かれない。動物は特に相手の性質に敏感なためか、常日頃から不幸を纏う姉さんの気配を本能的に警戒しているのかもしれない。
逃げた先に、村の若い男が立っていた。懐いているのか、猫は腰を下ろした男の手の中に首を突っ込んで何かを食べているようだった。容姿ははっきりと覚えてないらしいが、背が高く体付きも良い健康的な顔色が印象に残る青年だったという。姉はその男と二、三言会話をし別れた。それっきり、その男と会うことはなかったという。
それから幾日かの時が経った頃、姉は風の噂で村の男が崖道から足を滑らせて転落死したという話を耳にした。詳しく話を聞いて回ると、亡くなった男の容貌が以前に出会った若い男に酷似していた。母親との二人暮らしで、力自慢の好青年で、動物が好きでよく野良猫に餌をあげていたりしたという。
姉はその日の夜、私に介抱された。
黒猫の行方が気になった姉は数日かけて探し回ったが、どこにも姿が見当たらなかった。あちらこちらを駆け回り、ようやく見つけたのが雷雨の日。黒猫は村近くの林の中にある、大きな木の下の根元に身を寄せるようにして震えていた。
姉は迷った。自分がこの猫を連れ帰ったとしてもこの猫は決して幸せにはなれない。だからといってこのまま放置してしまっては、衰弱死する可能性も避けられない。
悩んでいる途中でふと、死んだ男についての記憶が脳裏をよぎった。息子に先立たれ、一人になったという母親の存在を思い出す。それで助かるかどうかの確信はなかったけれど、当時の姉にこの猫を救える可能性のある希望はそれしかなかった。
しかし、自分ではその任を負うことはできない。同じ轍を踏むだけだ。自分は貧乏神だから。不幸を導いてしまうから。だから姉である私に託したのだ。姉さんが私に託したのは、別に私の能力的側面を期待してのことではなかった。単に、すぐに頼れる相手が私くらいしかいないからだった。そして、そんなことにいまさら優越感を覚えるほど私と姉とが過ごした時間は短くはないということは、わざわざ確認するほどのことでもなかった。
姉さんの能力は、あくまで周囲に不運をもたらすだけであって、他者を死に至らしめるような力はない。だから、いくら姉の近くに長期間いるからといって、それだけで命を落としたりすることはまずないといっていい。ましてや、道端で立ち話をしただけの相手を死に誘うような強力な効用があるはずもなく、たとえ姉さんの力が暴走状態にあってもあり得ない話であった。
ただ、直接作用しなくても、間接的に作用することは当然ある。
人間はあまりにも容易に死に至る。妖怪から襲われるまでもなく、ただの風邪をこじらせたり崖道で足を滑らせたりしただけで致命傷になる。そんなとき、何が悪かったのかと振り返ると、大抵は運が悪かったのだという話になる。些細なことが思いも寄らない不幸を呼んでしまうのだから、そう割り切るほかないのだろう。
その些細なきっかけに、姉の不運の能力が全く関係ないのかと問われれば、それは素直に首を縦にも横にも振れない問題なのだった。当て推量はできても、決して証明はできないのだ。それでも、私から言わせれば「考えすぎ」だとしか思えないけれど。
一方で、姉さんは身に染み付いた生来の産物とでもいうべきか、良し悪しの判断がつかない事柄に対してはほぼ間違いなく悪い方へ倒してしまうという仕方のない悪癖を持ち合わせてもいた。そういうときの姉さんを説得するのは、本当に疲れるし、その多くは徒労に終わる。
そうやって、背負わなくてもいい不幸まで馬鹿みたいに背負って。
姉さんと一緒に過ごしていると、そう言いたくなるときが山ほどあるけれど、私はいつもその悪罵を喉の手前まで迫ってきたすんでのところで押し留め、代わりにため息をつく。言って変わるのなら、それこそそんなに幸せな話はないのだと、私達は互いに理解しているから。最近は、それでも幾分か慣れた方だ。
あの黒猫の件について、姉さんはあまり多くを語りたがらない。
けれどひとつだけ。
まるで翼を失った鳥のように低く力のない声。
ぽつりと呟いた彼女の言葉が、今も耳の奥に残って離れない。
『猫のためと思って、私は悲しみに暮れるあの母親に託した。ついでに、生き物に触れることで彼女の心の傷が少しでも癒えればと思ったの。でも、こんなの自作自演でしかない。私が殺した男の母親に、私の我儘で捨て猫を助けてあげて、なんて。男も、母親も、あの黒猫にとってもいい迷惑だわ。やっぱり——私が関わるとみんなみんな、不幸になる』
虚ろな目をして放たれたその独り言になんと返せばよかったのか、私は今でもわからない。
思い耽っているうちに、思ったよりも時間が経過していた。
山場は抜けたのか、姉さんの様態はだいぶ落ち着いてきていた。呼吸も安定していて、流れていた涙もいつの間にか止まっている。ここまでくればもう大丈夫だろう。背中に当てていた右手を下ろす。ついでに口元の左手もゆっくりと離してあげると、唾液の混じった細い糸がすっと引かれて音もなく切れた。
「姉さん、もういい?」
「うん……」
こくりと頷いたが、姉は目も合わせようとしなかった。記憶している限りにおいて、私が介抱している間、姉が私の方へ顔を向けようとしたことはなく、まともに目も合わせない。名前すら呼ばない。もちろん、そんな些細なことで苛立つわけではないのだけれど、発作の間の姉は、言葉数がとても少ない。それ故に、いったい何を考えているのか全く読めなかった。
いつもだったらこの後はほとんど会話もなく、軽く後始末をして再び眠りについていた。
だから今日は、魔が差したというやつなのだろう。
「姉さんさ」私は少しだけ顔を近づけて言った。「今日みたいなとき、名前呼んでくれないよね」
「えっ?」
まるで今初めて私が隣にいることに気付いたかのように、姉は本当に驚いた様子で私の方へ振り返った。そしてすぐにハッとした表情を浮かべたかと思うと、眉をハの字にしてばつの悪そうな顔色になる。
「ねぇ、なんで?」
その表情の変化が少し新鮮で面白かったので、私は気にせず追及した。
暗闇の中でも、姉の深い藍色の瞳がキョロキョロと忙しなく動き回っているのがわかった。何かを思案するように前髪を梳きながら、半身ほど身体をこちら側へ向ける。
しばらく口をパクパクさせていた。それでも私が目を逸らさないので、逃げ切れないと思ったのか、斜め下に視線を向けながらぽつぽつと言葉を漏らし始めた。
「……呼んじゃったら、うつっちゃうから」
「なぁに?」
「……やっぱり、いい」姉はぷいと顔を背けて言う。「だって、絶対、馬鹿にするもん」
「しないから」
「ほんとに?」
「ほんとに」
諦めがついたのか、姉は目を逸らしつつも少しだけ声を大きくする。
「……今の、力を制御できていない状態の私が、名前を呼んじゃったら……不幸が、その、うつっちゃうかもしれないから」
「誰に?」
「だから」
そこでおずおずと顔を上げて私を見る。
眠気が一気に覚めた。
「ほら。やっぱり馬鹿にしてる」
「してない」
「してる! そういう顔してる」
「してないってば」
本当に、なんでこう、私の姉はなんでも悪い方へ考えてしまうのだろう。心の底まで貧乏くさくて呆れてしまう。今が夜中でよかったと思う。可笑しくて、耳どころか首の後ろまで熱くなっている。そんな状態の顔色を陽の光の下で晒したくはない。
姉は不貞腐れたように、私に背中を向けて布団を被ろうとする。
「もう寝る」
「はいはい」
「寝るまで口聞いてあげないから」
「呼んでいいよ」
姉の方へわずかに身体を寄せて言った。
「呼びなよ。名前。今更だよ。私達、どれだけの間一緒にいると思ってるの。その程度で何かが変わるのなら、もうとっくにどうにかなってるよ。そうでしょう?」
「……」
「それに私、姉さん程度の力に当てられて弱るほど、神格で負けてるだなんて思ってないから」
「……それは、ちょっと生意気」
「事実でしょ」
「私がいなきゃ、完全憑依の異変は起こせなかったくせに」
「それ、姉さんだって同じでしょう」
指摘すると、姉はモゴモゴと何かを呟きながら掛け布団を口元まで被った。生意気なのは私じゃなくてむしろ姉の方だろう。さっきまで介抱されていたくせに、回復した途端すぐに愚痴ばかり吐く。どこまでも卑屈で、嫌われ者。
わかっている。自分たちはどこまで行っても嫌われ者だ。そういう風に生まれついたのだから、そういう風に生きるしかないのだ。善人として数多くの誰かから感謝されるような反吐が出る生き方なんて、最初から望んでいない。
最凶最悪の双子姉妹。私達は、それでいい。
手を洗わなきゃ、と思う。ついでに、姉さんの顔を拭う布巾も持ってこないと。
立ち上がってから、ふと、件の顛末について訊いてみようか、という気になった。
「姉さん」
「なに?」
「そういえば、あのときの黒猫。結局今はどうしてるの」
特に深い理由はなかった。話をしたついでというつもりだった。
だから、「ああ」と呟いた後、続く姉さんの声が突然低く、か細くなった落差に、私は少なからず動揺した。
「いなかった」
「えっ?」
「いなかったの」姉はその言葉を繰り返した。「いなかったのよ。あの家の、どこにも」
「それって、いつの」
「今日……いや、もう昨日か。見に行ったわ。ちょうど留守のところに入って、家中を見て回った。大して広くもない家だったから、そう時間はかからなかった」
私が口を挟む暇もなく、姉は続けて言った。
「人間以外の生き物が生活している痕跡はなかったわ。何一つ」
「そう」
私はそれ以上、何も言わなかった。言えなかった、のかもしれない。まばたきがうまくできなくて、何かが吸い取られるように目が乾いていく感触がした。
そうだ、手を洗わなきゃ。そのために立ち上がったのだ。
流し台へ向かおうとする私の背後から、透き通った声が流れた。
「女苑」
私の名を呼んだ姉の声に振り返らず、その場で立ち止まる。姉は静かに言った。
「ありがとう」
「……うん」
それだけ返して、私は寝床から立ち去った。
暗闇の中、私は何をするでもなくただ流し台の前に立ちすくんでいた。
外からは風の音一つしない。過度の静寂がどこまでも耳の奥を打ってくる。
考えていた。
可能性はいろいろ存在する。
雷雨が去った後、黒猫は自分で立ち去ったのかもしれない。一時的に介抱してもらい、元気になった後にすぐまた野良へと戻ったのかもしれない。雷雨の日、たまたま通りかかった誰かが家の前の黒猫を拾って連れ帰ったのかもしれない。
姉さんは事実から判断できない事象をすぐ悪い方へ考えてしまうから、そういう可能性に思い至らないのだ。いつもそう、考えすぎなのだ。
可笑しくなってくる。考えすぎなのはどちらだろう。
今しがた、自分だってずっと考えていたじゃないか。
どちらが正しいかなんて判断できない。あの家の中に入った黒猫の生死を確定させることは今の私達には不可能だし、そもそもあの家の中へ入ったのかどうかすらあやしいのだ。
あの雷雨の日から、もうそれなりの月日が流れている。
あの母親に訊ねれば、その答を得られる可能性はあるだろう。しかし、それを実行することに何か意味はあるだろうか。違う。意味など必要ない。理由もいらない。知りたいと思うのならただ訊ねればいいのだ。それだけの話だ。
ただ私が、知りたくないんだ。
姉さんは訊ねたのだろうか。さっきはそのことについて、何も触れていなかったけれど。
それも訊ねればいい。ただそれだけだ。それだけで終わる話だ。
左手についた粘液は既に乾いていて、少しベタつきが残る程度になっている。
私はそれに唇を近づけ、ちろりと舐めた。
仄かに酸っぱい味がした。
人の不幸は蜜の味、などと言ったのはいったい誰だったか。
不幸がどんな味かなんて、疫病神たる私でさえはっきりわからない。きっと、貧乏神である姉さんも。
さっき、姉さんは、いったい何に対して「ありがとう」と言ったのだろう。
わからない。私には何も、わからない。
わかりたくないのかもしれない。
黒猫の行方も。不幸の味も。姉の真意も。
ただ一つわかることは、私達が最凶最悪の双子姉妹だということ。
それだけの話だ。
私達は、それでいい。
この依神姉妹の関係性、とても好き。
紫苑をどうしたいのかも本人は分かっていないし、分かりたくないのかな