この手記を読む者は他に居るのでしょうか。正直に言って私のこの手記を読む存在が居るとは思いませんが、それでももし居るのであれば読んで欲しい。私という存在が確かに思考した証として。
あなたには恐ろしいものがあるでしょうか。
あなたには怖く思うものがあるでしょうか。
それは何でしょう。いえ、それは別に何だろうと構わない。
これから記すのは私が恐怖するものの話です。
私が恐怖したのはある少女です。
ただし、そこら辺に居る普通の少女ではありません。覚の少女です。
この手記を読んでいるという事は覚妖怪の事も知っているでしょうからその説明は省くとて、私は決して心を読まれるのが怖い訳ではありません。
むしろその逆。
心を閉ざしている覚の少女だから怖いのです。
私はその少女の幼い頃から一緒に居ました。
母親、父親の両方から十分な愛を受けて育っていたはずでした。
少女は常に「いい子」でありました。
何を言われても素直に言う事を聞き、従順に従う。まさに子供の手本と言わんばかりの存在でした。
少女の両親はそれはそれは可愛がった事でしょう。なにせ命令に忠実に従う親の奴隷に相違ないのですから。
しかし、私は気付いてしまったのです。
少女のその行動は何も考えていないからなのだと。その思考は停止されているからなのだと。
つまり、親からの命令に対する好意や悪意といった感情が存在していないのです。
ただ、柔らかな笑みだけがその顔を覆っていました。
私が少女の空虚さに気付いてしまってから、私は少女が恐ろしく感じるようになりました。
どんな時だろうと、その少女が気になって仕方がないのです。少女の一挙手一投足が目に付くようになったのです。
両親と会話をしていようと、本を読んでいようと、近くの子供と遊んでいようと、食事をしていようと、湯浴みをしていようと、寝ていようと。
私にとっては得体の知れない化物が微笑みの面を付けてそこに居るようにしか思えないのです。
私は様々な方面に警告を続けました。「彼女はみんなが思っている様な存在ではない」と。
しかし聞き入れられる事はありませんでした。ただ、それも無理はありません。
私の様な単なる――つまり我儘も言えば反抗もするような――子供と、少女の様な従順な子供と、周りが信用するのは後者に違いないからです。
幼い私はその事に気付くのに時間を要し、数ヶ月程言い続けました。
その間、私は苦悩し続けました。
誰にも聞き入れられず、むしろ疎まれるようになる。ともすれば嫉妬だと揶揄されたり、怒られて殴られたりもしました。
その度に、どうして誰も理解できないのか、どうして誰も気付かないのか、と一人涙を流していました。
さて、そんな無価値な涙で枕を濡らした後の事です。
私はようやく自分の行動の無意味さを悟り、口を噤むようになりました。
そう、最初からこれで良かったのです。
彼女の危険性を誰も理解しないのであれば、何も知らないまま呑気に過ごしていればいい。
得体の知れないものと共存するというのがみんなの意志であるなら、私はもう何も言わない。
そして、そのまま滅んでしまえ。
これが、私と少女の話でした。
今でこそ、幼さの暴走であると自覚ができますが、当時は本気でそのような事を考えていたのです。
では、本題に入りましょう。
何故私がこの手記を書いたのか、その事です。
私が、私であるうちに残しておきたかったのです。
私が、恐怖したものに打ち勝つ事を誰かに知っていて欲しかったのです。
これは、誰にも伝わる事のない、私個人の宣戦布告。
誰にも伝わる事はないとしても、遺したかった意志。
私はこんな夢を見ました。
暗い所に立っているのです。上下も左右も分からない暗闇。
不安になってただ闇雲に足を動かしています。それでも前に進んでいるのか、後ろに進んでいるのか、はたまた進んでいないのか。それすら分からないで足を動かしています。
やがて息が上がってくると、前方に誰かが立っています。
それは見間違える事のない、紛れもない、少女の後ろ姿です。
私は無性にその少女の表情が気になって仕方なくなってきます。
すると、ゆっくりと、本当にゆっくりと少女が振り返るのです。
そして私は後悔するのです。ああ、見なければ良かった、と。
その少女の表情は分かりませんでした。面を被っているからです。しかも張り付いたような微笑の面を。
柔和な微笑みの面なはずなのに、異様なまでの冷たさを放っていました。
私は気味が悪くなって逃げようとしますが、足が動きません。
視線を向けると私の足は石になっていました。いえ、足だけではありません。
腰も、胸も、腕も。
全てが石になっていました。
少女はそんな私を前に面を外します。
嫌だ、見たくない、やめてくれ。私のその思いは言葉になることはなく、私の体の中をぐるぐると駆け回るだけです。
目を閉じる事も叶わず、少女の面が外されて、私は再び後悔するのです。
何故なら面を外した少女の顔に浮かんでいたのは、その面と寸分違わぬ凍てついた笑みなのですから。
そして少女は抵抗する事すらできない私の顔にゆっくりと外した面を近づけてきます。
違う、私はそんな意志のない表情を浮かべたりしない。
私は、私はお前と違って心がある。
私は生きているんだ。
そんなところで目が覚めるのです。
そう、私には心があるのです。
あの人とは違うのです。
だから私は考えました。
あの人とは違う道を進んでいこう。
もうナイフは用意してある。
後は、これを「目」に突き立てるだけ。
私は、私はもう恐れない。
私には意志がある。
この手記を読んでくれた人へ宣言します、私は恐怖を克服したのです。
私は、お姉ちゃんに勝ったのです。
心を閉ざした覚に勝ったのです。
願わくば、この手記が誰かの恐怖に対抗する力と成らん事を。
古明地こいし
あなたには恐ろしいものがあるでしょうか。
あなたには怖く思うものがあるでしょうか。
それは何でしょう。いえ、それは別に何だろうと構わない。
これから記すのは私が恐怖するものの話です。
私が恐怖したのはある少女です。
ただし、そこら辺に居る普通の少女ではありません。覚の少女です。
この手記を読んでいるという事は覚妖怪の事も知っているでしょうからその説明は省くとて、私は決して心を読まれるのが怖い訳ではありません。
むしろその逆。
心を閉ざしている覚の少女だから怖いのです。
私はその少女の幼い頃から一緒に居ました。
母親、父親の両方から十分な愛を受けて育っていたはずでした。
少女は常に「いい子」でありました。
何を言われても素直に言う事を聞き、従順に従う。まさに子供の手本と言わんばかりの存在でした。
少女の両親はそれはそれは可愛がった事でしょう。なにせ命令に忠実に従う親の奴隷に相違ないのですから。
しかし、私は気付いてしまったのです。
少女のその行動は何も考えていないからなのだと。その思考は停止されているからなのだと。
つまり、親からの命令に対する好意や悪意といった感情が存在していないのです。
ただ、柔らかな笑みだけがその顔を覆っていました。
私が少女の空虚さに気付いてしまってから、私は少女が恐ろしく感じるようになりました。
どんな時だろうと、その少女が気になって仕方がないのです。少女の一挙手一投足が目に付くようになったのです。
両親と会話をしていようと、本を読んでいようと、近くの子供と遊んでいようと、食事をしていようと、湯浴みをしていようと、寝ていようと。
私にとっては得体の知れない化物が微笑みの面を付けてそこに居るようにしか思えないのです。
私は様々な方面に警告を続けました。「彼女はみんなが思っている様な存在ではない」と。
しかし聞き入れられる事はありませんでした。ただ、それも無理はありません。
私の様な単なる――つまり我儘も言えば反抗もするような――子供と、少女の様な従順な子供と、周りが信用するのは後者に違いないからです。
幼い私はその事に気付くのに時間を要し、数ヶ月程言い続けました。
その間、私は苦悩し続けました。
誰にも聞き入れられず、むしろ疎まれるようになる。ともすれば嫉妬だと揶揄されたり、怒られて殴られたりもしました。
その度に、どうして誰も理解できないのか、どうして誰も気付かないのか、と一人涙を流していました。
さて、そんな無価値な涙で枕を濡らした後の事です。
私はようやく自分の行動の無意味さを悟り、口を噤むようになりました。
そう、最初からこれで良かったのです。
彼女の危険性を誰も理解しないのであれば、何も知らないまま呑気に過ごしていればいい。
得体の知れないものと共存するというのがみんなの意志であるなら、私はもう何も言わない。
そして、そのまま滅んでしまえ。
これが、私と少女の話でした。
今でこそ、幼さの暴走であると自覚ができますが、当時は本気でそのような事を考えていたのです。
では、本題に入りましょう。
何故私がこの手記を書いたのか、その事です。
私が、私であるうちに残しておきたかったのです。
私が、恐怖したものに打ち勝つ事を誰かに知っていて欲しかったのです。
これは、誰にも伝わる事のない、私個人の宣戦布告。
誰にも伝わる事はないとしても、遺したかった意志。
私はこんな夢を見ました。
暗い所に立っているのです。上下も左右も分からない暗闇。
不安になってただ闇雲に足を動かしています。それでも前に進んでいるのか、後ろに進んでいるのか、はたまた進んでいないのか。それすら分からないで足を動かしています。
やがて息が上がってくると、前方に誰かが立っています。
それは見間違える事のない、紛れもない、少女の後ろ姿です。
私は無性にその少女の表情が気になって仕方なくなってきます。
すると、ゆっくりと、本当にゆっくりと少女が振り返るのです。
そして私は後悔するのです。ああ、見なければ良かった、と。
その少女の表情は分かりませんでした。面を被っているからです。しかも張り付いたような微笑の面を。
柔和な微笑みの面なはずなのに、異様なまでの冷たさを放っていました。
私は気味が悪くなって逃げようとしますが、足が動きません。
視線を向けると私の足は石になっていました。いえ、足だけではありません。
腰も、胸も、腕も。
全てが石になっていました。
少女はそんな私を前に面を外します。
嫌だ、見たくない、やめてくれ。私のその思いは言葉になることはなく、私の体の中をぐるぐると駆け回るだけです。
目を閉じる事も叶わず、少女の面が外されて、私は再び後悔するのです。
何故なら面を外した少女の顔に浮かんでいたのは、その面と寸分違わぬ凍てついた笑みなのですから。
そして少女は抵抗する事すらできない私の顔にゆっくりと外した面を近づけてきます。
違う、私はそんな意志のない表情を浮かべたりしない。
私は、私はお前と違って心がある。
私は生きているんだ。
そんなところで目が覚めるのです。
そう、私には心があるのです。
あの人とは違うのです。
だから私は考えました。
あの人とは違う道を進んでいこう。
もうナイフは用意してある。
後は、これを「目」に突き立てるだけ。
私は、私はもう恐れない。
私には意志がある。
この手記を読んでくれた人へ宣言します、私は恐怖を克服したのです。
私は、お姉ちゃんに勝ったのです。
心を閉ざした覚に勝ったのです。
願わくば、この手記が誰かの恐怖に対抗する力と成らん事を。
古明地こいし
良かったです。
素晴らしい発想でした
手記という体裁を見事に活かしていたと思います