多々良小傘は悩んでいた。
自分は付喪神である。それは小傘自身自覚しているところである。まるで人間のような姿形を持った自分は仮の姿であり、自分の持っている真紫の番傘、それこそが自分の本来の姿だと小傘は知っている。
だが、小傘には前世、いわゆる傘であった頃の記憶が殆どない。現に今こうして膝を抱えて頭をひねってみても、傘だった頃の記憶として浮かび上がってくるのは、いくつかの風景、際限なく降ってくる雨粒の冷たさ、いくつかの風景、そして持ち主、つまり自分の主人の手の温もり。
だがそれらのいずれも霧がかかったように曖昧模糊としていて、それらが自分のものだという実感がまるで湧かない。まるで誰かの描いた絵を見せられているかのような感覚だった。
小傘がそのことに頭を悩ませるようになったのは、つい昨日のこと、もはや定例となりつつある付喪神会議のことだった。
新しくふらいぱん、という聞きなれない調理器具の付喪神が幻想郷入りした、ということで歓迎会を兼ねてそれは開かれた。
だんだんとその数を増やし、賑やかになってきた会議のメンバーの中、小傘は最初期に幻想郷入りした付喪神ということで、会議の取りまとめのような役割を受け持っていた。
新入りのふらいぱん、の付喪神が仲間たちと打ち解けていくのを微笑ましく思いながら見守っていた小傘だったが、不意に誰かが新入りの前世について尋ねた。それ自体は別段珍しいことではない。どんな所にいた、どんな主人だった、どんなことがあった。中には、あまり聞いていて楽しい気分にはなれない生涯を語るものもあったが、同じ道具としての生を受けたもの同士、道具としてどんな生涯を送ったか語り合うというのはある種信頼関係の表れでもあった。
だが、小傘はあまりこの話題が好きではなかった。理由はごく単純で、先ほどの通り小傘には前世の記憶がほとんどと言っていいほど残っていなかったからだ。
それでも普段は先輩風を吹かせてほどほどにかわしたり、適当に思い出をでっち上げたりしてその場を凌いできた。そうするうちにだんだん話は脱線し、なんとか誤魔化してこれた。
だが、その日は運の悪いことに誰も茶々を入れず、新入りの思い出話に耳を傾けていた。更に運の悪いことに、一通り自分のことを話し終えた新入りは緑茶を一口飲むと、こう続けたのだ。「皆さんはどうだったんですか?」と。
後輩の問いかけに、一人、また一人と口を開いていく。あるものは遥か遠くにある大切なものを名残惜しむように、あるものは思い出したくない過去に幾分表情を歪めながら。それでも、一人一人が当たり前のように自分の中にあるものを皆の前で見せ始めたのだ。
皆の表情を見た小傘は、少々の落胆と、多大な絶望、そして恐怖とともに確信していた。
この中に、胸の内になんの持ち合わせもありはしない大嘘つきはきっと一人しかいない。自分だ。
そんなことを考えていると、不意に自分の名を呼ばれ、いつのまにか俯いて小傘は顔を上げる。
「せんぱいは、どうだったんですか?」
当たり前に発せられた一言が小傘の胸を貫く。思わず飲み込んだ生唾に違和感を抱くものはいなかっただろうか。
「わちき?わちきはねぇ…」
おどけて言った言葉は、震えていなかっただろうか。
今までついてきた嘘の一つ一つを思い浮かべながら、必死で矛盾を生まないように嘘を積み上げた。それでも生まれた矛盾には、必死に砂のように乾ききった、矮小な言葉を振りかけ、目立たないようにした。
処刑台に立たされ、首に縄をかけられて尚、無実を主張する罪人はきっとこんな気分に違いない。そう思いながら、自分のでっち上げを時々笑いながら、時に食い入るように聞き入る後輩たちの姿に、一抹の安堵を覚えた。
人里で気が向いた時にやっていたお守りの経験が、まさかこんな形で活きるとは思わなかった。もし子供達に読み聞かせなどやっていなかったら、きっとこう上手くはいかなかっただろう。
背中にびっしょりとかいた冷や汗が、晩夏の夕暮れに吹く風で冷たく感じてきた頃、後輩たちの拍手で自分の嘘にまみれた懺悔が終わったことに気付いた。
口々に面白かった、感動したと賞賛を浴びせてくる後輩たちの様子を認識したのち、どっと疲れが吹き出してきた。嘘というものはこんなにも疲れるものなのか。と小傘が大きく息を吐いた時、誰かが言ったそろそろご飯の時間だ、という言葉でその場は解散の流れになった。
近頃すっかり餌場兼塒として定着した命蓮寺に戻る小傘の足取りは重かった。
思考がぐるぐると同じところを回り続ける。
今まで大して気にもしてこなかった、皆に当たり前にあるものが自分には無いという実感。その薄ら寒さ。それを隠していかなければならないということの息苦しさ。
もしあの場で全てを詳らかにしてしまえたら。
そんな後悔は、直後に浮かんだ後輩たちの笑顔の前に吹き飛んだ。
自分だけが異端だと明らかにする恐怖。後輩たちの期待の眼差しを裏切る恐怖。
命蓮寺の墓場に帰り着いた小傘はその場でへたり込み、膝を抱える。
きっと、今こうして後悔に打ちひしがれている自分があの瞬間に引き戻されたとしても、きっと同じことを繰り返すだろう。
異端だと爪弾きにされる恐怖も、失望を目の当たりにすることになる恐怖にも、自分は打ち勝てない。そこまでの強さは無い。
小傘はゆるゆると被りを振る。
顔も思い出せない主人の手の温もりが、生まれ変わってから初めて恋しくなった。
すっかり太陽は沈み、あたりを包む闇は深くなる一方だった。
もうこのまま、誰にも見えなくなればいい。
小傘は自分の膝を一層強く抱きしめ、内に閉じこもった。
小傘がその日、その場を動くことはなかった。
自分は付喪神である。それは小傘自身自覚しているところである。まるで人間のような姿形を持った自分は仮の姿であり、自分の持っている真紫の番傘、それこそが自分の本来の姿だと小傘は知っている。
だが、小傘には前世、いわゆる傘であった頃の記憶が殆どない。現に今こうして膝を抱えて頭をひねってみても、傘だった頃の記憶として浮かび上がってくるのは、いくつかの風景、際限なく降ってくる雨粒の冷たさ、いくつかの風景、そして持ち主、つまり自分の主人の手の温もり。
だがそれらのいずれも霧がかかったように曖昧模糊としていて、それらが自分のものだという実感がまるで湧かない。まるで誰かの描いた絵を見せられているかのような感覚だった。
小傘がそのことに頭を悩ませるようになったのは、つい昨日のこと、もはや定例となりつつある付喪神会議のことだった。
新しくふらいぱん、という聞きなれない調理器具の付喪神が幻想郷入りした、ということで歓迎会を兼ねてそれは開かれた。
だんだんとその数を増やし、賑やかになってきた会議のメンバーの中、小傘は最初期に幻想郷入りした付喪神ということで、会議の取りまとめのような役割を受け持っていた。
新入りのふらいぱん、の付喪神が仲間たちと打ち解けていくのを微笑ましく思いながら見守っていた小傘だったが、不意に誰かが新入りの前世について尋ねた。それ自体は別段珍しいことではない。どんな所にいた、どんな主人だった、どんなことがあった。中には、あまり聞いていて楽しい気分にはなれない生涯を語るものもあったが、同じ道具としての生を受けたもの同士、道具としてどんな生涯を送ったか語り合うというのはある種信頼関係の表れでもあった。
だが、小傘はあまりこの話題が好きではなかった。理由はごく単純で、先ほどの通り小傘には前世の記憶がほとんどと言っていいほど残っていなかったからだ。
それでも普段は先輩風を吹かせてほどほどにかわしたり、適当に思い出をでっち上げたりしてその場を凌いできた。そうするうちにだんだん話は脱線し、なんとか誤魔化してこれた。
だが、その日は運の悪いことに誰も茶々を入れず、新入りの思い出話に耳を傾けていた。更に運の悪いことに、一通り自分のことを話し終えた新入りは緑茶を一口飲むと、こう続けたのだ。「皆さんはどうだったんですか?」と。
後輩の問いかけに、一人、また一人と口を開いていく。あるものは遥か遠くにある大切なものを名残惜しむように、あるものは思い出したくない過去に幾分表情を歪めながら。それでも、一人一人が当たり前のように自分の中にあるものを皆の前で見せ始めたのだ。
皆の表情を見た小傘は、少々の落胆と、多大な絶望、そして恐怖とともに確信していた。
この中に、胸の内になんの持ち合わせもありはしない大嘘つきはきっと一人しかいない。自分だ。
そんなことを考えていると、不意に自分の名を呼ばれ、いつのまにか俯いて小傘は顔を上げる。
「せんぱいは、どうだったんですか?」
当たり前に発せられた一言が小傘の胸を貫く。思わず飲み込んだ生唾に違和感を抱くものはいなかっただろうか。
「わちき?わちきはねぇ…」
おどけて言った言葉は、震えていなかっただろうか。
今までついてきた嘘の一つ一つを思い浮かべながら、必死で矛盾を生まないように嘘を積み上げた。それでも生まれた矛盾には、必死に砂のように乾ききった、矮小な言葉を振りかけ、目立たないようにした。
処刑台に立たされ、首に縄をかけられて尚、無実を主張する罪人はきっとこんな気分に違いない。そう思いながら、自分のでっち上げを時々笑いながら、時に食い入るように聞き入る後輩たちの姿に、一抹の安堵を覚えた。
人里で気が向いた時にやっていたお守りの経験が、まさかこんな形で活きるとは思わなかった。もし子供達に読み聞かせなどやっていなかったら、きっとこう上手くはいかなかっただろう。
背中にびっしょりとかいた冷や汗が、晩夏の夕暮れに吹く風で冷たく感じてきた頃、後輩たちの拍手で自分の嘘にまみれた懺悔が終わったことに気付いた。
口々に面白かった、感動したと賞賛を浴びせてくる後輩たちの様子を認識したのち、どっと疲れが吹き出してきた。嘘というものはこんなにも疲れるものなのか。と小傘が大きく息を吐いた時、誰かが言ったそろそろご飯の時間だ、という言葉でその場は解散の流れになった。
近頃すっかり餌場兼塒として定着した命蓮寺に戻る小傘の足取りは重かった。
思考がぐるぐると同じところを回り続ける。
今まで大して気にもしてこなかった、皆に当たり前にあるものが自分には無いという実感。その薄ら寒さ。それを隠していかなければならないということの息苦しさ。
もしあの場で全てを詳らかにしてしまえたら。
そんな後悔は、直後に浮かんだ後輩たちの笑顔の前に吹き飛んだ。
自分だけが異端だと明らかにする恐怖。後輩たちの期待の眼差しを裏切る恐怖。
命蓮寺の墓場に帰り着いた小傘はその場でへたり込み、膝を抱える。
きっと、今こうして後悔に打ちひしがれている自分があの瞬間に引き戻されたとしても、きっと同じことを繰り返すだろう。
異端だと爪弾きにされる恐怖も、失望を目の当たりにすることになる恐怖にも、自分は打ち勝てない。そこまでの強さは無い。
小傘はゆるゆると被りを振る。
顔も思い出せない主人の手の温もりが、生まれ変わってから初めて恋しくなった。
すっかり太陽は沈み、あたりを包む闇は深くなる一方だった。
もうこのまま、誰にも見えなくなればいい。
小傘は自分の膝を一層強く抱きしめ、内に閉じこもった。
小傘がその日、その場を動くことはなかった。
次回も期待してます
ふらいぱん、って言い方が可愛い