熱い、途轍もなく熱い。
月人、それも高位の存在である輝夜がそう感じるのだから、その熱量は尋常ではない。あちこちで竹が内なる空気の膨張に爆ぜて破音を響かせる。炎と血と殺戮。さながら銃撃戦のような戦禍は、しかしただの二人によって巻き起こされていた。
増幅する妹紅の炎は留まるところを知らない。輝夜の神格を帯びた衣服が焦げている。限界を超えた熱は魔法的防護を貫き、超人的強度の皮膚を焼き、やがて激しい痛みへと変わった。思わず苦悶の声が喉元で疼く。
「どうした姫様!笑ってみろよ、腹の立つ高慢な顔で見下してみろよ!いつもみたいにさぁ!」
「笑ってやるわよ、実にくだらない」
防護魔法を裂こうと力任せに爪を立てる無謀な右腕を吹き飛ばす。どれだけ鍛えていようと輝夜にとって人間の肉体など紙のようなものだ。輝夜の能力による神速の魔法は皮膚も肉も骨すらも容易く砕き、目標を等しく鮮血の飛沫に変える。
正常な生き物であれば片腕を粉砕されれば狂乱もしくは失神する。想定し得ない痛みに心身が耐えられないからだ。この脆弱な惑星で、人間の肉体とはそういう合理性のもとで進化してきた。
だがその肉体は、精神は十分に逝かれきっていた。
「ああ、痛いねぇ!気が狂いそうだ!お前を同じ目に遭わせてやりたくて頭が爆発しそうだよ!」
"右腕"が魔法の防壁を殴りつける。あらゆる接触を拒む永遠で編んだ壁を一度、二度。その殴打のたびに人間の脆い肉と骨は歪み、崩れ、しかし炎となって――燃える拳は三度目に障壁を透過して輝夜の首に伸びた。
「ぐうっ!」
「同じ気分を味わいやがれ」
「このッ――」
輝夜の言葉は途絶えた。物理的に続けることができなかった。
「同じ気分」と聞いて、咄嗟に右腕に力を込めた自分の無垢な愚かさが可笑しくなる。きっと声を上げて笑っていただろう。そうするに必要な器官が全て爆炎のもと消し飛ばされていなければ。
「思い知ったか、化物め」
「――くだらない」
焦げ散った髪の塵から即座に再生して輝夜は呟く。
彼女にとって死は変化と呼ぶにも値しない事象ではあるが、どういう理屈か感情だけがリセットされるのだった。記憶がなくなるわけではない。けれども何故か先程あんなに可笑しかった言葉遊びには冷めてしまった。
再生した場所が悪かったらしい。見上げると地を這う雑虫を眺めるような妹紅の視線がある。
不快だった。
「頭が高い」
天上に突如発生した黄金の層が妹紅を撃つ。観測不可能なほどに細分化された時間の中で紡がれる輝夜の魔法は事実上最速であるがゆえに必中、そして輝夜の気紛れな手心が加わらない限り必殺である。幻想郷の原則――弾幕などという生易しいものではない。使う相手を間違えたなら即刻幻想郷の籍を抹消される反則の業だ。
だが、この一匹の人間には暗黙ながらそれが許される。輝夜の掟破りに対して唯一の回答を持つゆえに。
赤い血肉と宙空に咲かせながら、散った一滴の血は再び妹紅の形を取った。彼女の刹那の死は再誕の炎となり、復讐に過熱する。
降り注いだ返り血が燃え上がり輝夜を焼く。なんとしつこいことだろう。眼前で再生した妹紅が振りかぶった拳を潰すと噴出した血が火炎となって目を炙った。そしてすかさず再生した拳が頬に入る。それよりも一瞬早く刎ね飛ばした首が彼方でにやりと笑い、胴体と共に炎に還るとその中間で熱風を熾して再生した。
「あと何度殺せば気が済むのかしら」
「さあな、お前はあと何回だ?」
「妹紅、あんたは本当に――」
身の程知らずめ。喉も頭も正しくそこにあったが、輝夜はその台詞を吐かなかった。互いの心も関係も、この千年余の時間に交わした炎のうちにすっかり爛れてしまっていた。飲み込んだ言葉は水銀のように重く胃を掻き毟る。それを発散させるべく、輝夜は次なる攻撃に向けて掌に魔力を熾した。
自分たちはこうして、永遠の命と無限の再生をもたらす蓬莱の薬を得たもの同士、永劫殺しあう。
そう思っていた。
†
「輝夜」
一晩中繰り返した死と再生に飽き、永遠亭に帰還すると玄関先で永琳が立っていた。帰りが遅くなった子どもを叱る母親のようだと輝夜は思った。しかし自分は子どもではないし、叱られる立場でもない。そして永琳が言おうとすることは手に取るように分かった。
「派手にやったでしょ」
悪戯な笑みで焼け焦げた襤褸と化した袖をひらひらと泳がせ、彼女が言うであろう台詞をに先回りしてやる。特に火に対して高い耐性を持つ火鼠の皮衣。それがここまで損傷するほどの激しい喧嘩は珍しい。袖だけでなくあらゆる箇所が火、もしくは物理的な攻撃によって穴だらけになっていた。なんとか燃え残った布で体にぶら下がっているだけでほぼ裸に近く、輝夜は無邪気にはにかんだ。
永琳は長い溜息を吐いて、姫のあられもない姿から目を逸らした。
「派手にやられた、でしょ」
「いいえ、私の勝ちよ。最後は動けないように地面に串刺しにして縫いつけてやったわ」
「鈴仙、輝夜を湯へ」
「はーい」
引き戸の向こうから現れた鈴仙も輝夜の姿を見て驚いたようだ。慌てて湯を沸かしに廊下を駆けてゆく。
「大概にしなさいね」
鈴仙の小刻みな足音が彼方に消えてから、永琳が溜息と共にぼやいた。
「なにが?」
「分かってるでしょ」
輝夜は我ながら、何故一度とぼけたのか不思議に思った。誰よりも自分はそれを分かっているはずだった。
「ああ、妹紅のこと」
「長くないわよ、あの子」
「そうね、昨晩も結局死に損なったみたいだけど」
輝夜は知っている。妹紅の「永遠」は自分たちのそれとは違う。
妹紅は既に人間としては「永遠」に値する時を生きた。老いることも、死ぬこともなく絶えず再生を繰り返す不死鳥として。
結局のところ、人間としての存在の限界であろう。彼女の火鼠を焼くほどの超常的な火力はその命の最期の燃焼であるらしい。
「放っておいてあげたら?最期くらいあの子は自分の生き方を選ぶ権利があるわ」
「永琳は知らないからそう思うのよ。あいつの底無しの愚かさをね」
妹紅の気持ちは自分が一番知っている。本人は絶対にそんなことを口に出しはしないだろうけど。だからあんなに熱くて痛い思いをして遊んでやっているのだ。
「妹紅は私無しでは生きられないのよ。ああ、精神的な意味でね。自分の生き方なんて百歳を超えたあたりで腐り落ちているわ。きわめて健全よ」
「そういうものかしら。でも輝夜、私が心配しているのは――」
やけに今日は人の心が読める。そろそろ湯が沸く頃だ。輝夜は永琳の言葉を遮って立ち上がり、廊下を歩み始めた。
残念ながら永琳の心配は杞憂に終わるだろう。自分が彼女の死を悼む。そのような可愛らしい心は朽ちて久しい。笑って送ってやろうではないか。
それは不死の元凶として千年を共に戯れながら生きた責任?
結局のところ永遠を謳いながらも死にゆく生命の儚さへの憐憫?
あるいは血みどろの交わりの中で、最終的に生き残るのが自分だという優越感?
「そんな馬鹿な」
自嘲。いずれも否だと胸を張って言える。千年の時の収穫は、そんな一言で済むような陳腐なものじゃない。悲喜交々、様々な感情が熟れて爛れて積み重なった奇跡の琥珀。その味を知るのは自分だけでいい。
「最後までしっかり殺してあげなくちゃね。あの子の生も死も私のものなのだから」
†
六回。
魔法で編んだ刃を神速で振るい、その体は容易く二つに散った。
僅かながら確実に、妹紅の再生は鈍くなっている。その一瞬が最後になるかもしれない。そう思うと、その死のひとつひとつを数えずにはいられなかった。
「まだ終われないようね」
「そうみたいだな」
どの破片から再生したのか、背後から妹紅の手が腹腔を貫いていた。痛みと共に臓物が煮えたぎるような熱さを覚え、抗う間もなく感覚もろとも飛散した。
「今日もすこぶる調子がいい」
血肉の雨を浴びながら妹紅が笑う。
「そう」
七回。
「ご健勝でなにより」
一瞬のうちに伸びた蓬莱の珠の枝が妹紅を貫いていた。七色の宝珠が実る枝先にぶら下がった赤黒い心臓は体外への排出に気付かない様子で未だ強く脈打っている。しかしそれは輝夜が砕くよりも先に赤熱して爆ぜた。脈動のように数回の段階に分けた爆発とそれに伴う衝撃は再生した妹紅の姿を数秒隠し、その間に枝を伝って輝夜の懐へ潜り込む。
「あいにくと今日も死ぬって感じが全くしないんだよ!」
「それは結構、では存分に死ぬがいい!」
炎の旋脚と火鼠の皮衣がぶつかり爆炎を撒いた。続いて炎弧が三度首を狙って飛来する。ひとつは回避し、ひとつは打ち消し、ひとつは頚を掠めるに止まった。
自分はどう足掻いても不死で、妹紅はやがてそうではない。それでもなお自分を害そうとする健気さに応えてやらなければなるまい。
枝を振ると増殖した七色の宝珠が夜を飾った。輝夜の魔法で編まれた無数の蓬莱の珠は、致命的な毒であり骨肉を引き裂く爆弾であり正気を蝕む呪いである。いずれも速やかな死へと収束するのならば過程にさほど意味は無い。ゆえに色鮮やかに輝くのだ。
「どれが最期になるか分からないわよ、しっかりと焼きつけなさいな」
八回、九回。本来ならば誰もが何と引き換えても守ろうとする最期の砦が次々と引き裂かれていく。本来唯一無二であるはずの、何よりも尊いはずの生命が、十回、十一回。
肉の塊になり、血の飛沫になり、しかし不死鳥は甦る。眩しい閃光と爆炎、吹き付ける熱と轟音。幾度となく破壊した右腕は此度も真っ直ぐと輝夜に振り下ろされる。魔法の障壁でそれを阻むも、続く左右の拳が急拵えの拒絶を割いた。無礼な両腕を射抜いたと同時、顎下を直撃した蹴りが輝夜の頭部に致命的な衝撃を与える。傾く体の内側に火花のちらつきを感じた次の瞬間には迅速な再生が心を冷徹に醒ましていた。再生先の宙空は妹紅を睥睨する位置にあり、気分がよかった。矮小な灯に雨を降らせてやる。十二回。真珠の散弾は細切れになった血肉をさらに細かく散らしていく。火花と灰が混じり、炎と肉が舞う。煌々と輝く弾幕に赤い死が踊るのが実に面白い。その光景に浸っていた輝夜は無防備に真下から生じた火柱に焼かれた。だが死ぬには至らず、そのまま爛れ焦げた皮膚だけが再生した。恍惚は消えず、再び真珠の業を直下へ放つ。今度は体を炎に変化させて往なされた。炎の体が叫ぶと一帯を覆うような爆発が全てを凪ぐ。咄嗟に火鼠の皮衣を召喚し爆風から身を守るが、その爆風に乗って飛翔した妹紅に首を獲られた。その手の中で燃える竹林を見ながら、次の瞬間にはその焼け跡に再生する。翔び上がった妹紅より下に位置してしまったが、まあ良いだろう。見上げれば龍の頸の玉から放たれた魔力の杭に貫かれた体が垂直に落ちていった。十三回。
妹紅は再び炎の体となって再生した。爆風と共に姿を消し、竹林の火をカモフラージュに辺りを翔んで輝夜の目を欺こうとする。先程召喚した火鼠の皮衣が持つ強い火への耐性を拡張して振ると、その風に煽られた火が次々と消えていく。次々と縮小していく隠れ蓑に覗く炎の尾を捉えた刹那、後頭部を殴打された。咄嗟に振り返ったのは悪手で、顔面で燃え上がる拳を迎えてしまう。脳震盪によろめく体を、先程追いかけていたダミーの火の尾が貫いて爆ぜた。死に際に覚えた苛立ちも、生まれ変われば何のことはない。手元に凝縮されたエネルギーの結晶、燕の子安貝を生じて一撫ですると網状の閃光が夜を引き裂く。同時に展開した蓬莱の珠の枝が網目の逃げ場を埋め、後方で奇襲を仕掛けようとした妹紅を蒸発させた。十四回。すぐさま火花がちらつく。子安貝を宙空に放り投げ、火鼠の皮衣で再生の爆炎を阻んだ。すかさず正面に耐火の風を放ち、無防備になった妹紅を宙空の子安貝が一点集中のレーザーで貫いた。焼ける鉄板に水を落としたような音を立てて、十五回目の生命も散る。
互いに死と再生を繰り返す。戦闘の興奮が神経を研いで攻めるも守るも熾烈さを増していく。これほどまでに命の安い夜はなく、それでも輝夜は一つ一つの死を覚えていった。十六回、十七回、十八回――。
額から流れる汗に気付いたのは一枚天井が妹紅に二十二回目の死を贈りつけた時だった。胸の中に興奮と恍惚、苛立ちに憐憫が溢れている。二十三回目の妹紅を見て、今の自分は今夜何度目だろうと不意に思った。随分と死んでいない気がする。つまるところ輝夜が殺される回数が減って、妹紅の死ぬ回数が増えていた。妹紅の狂犬のような表情は変わらないが、いつからかその生意気な声を聴いていない。
一度の死に二度の殺で報いようとする執念の炎は脆く燻り始めている。いつからかその再生は歪で、傷口に生じる小規模な火が思い出したかのように爆ぜて傷を繕っている。そこからは観察するよりも先に手が動いた。二十三回。
「終わりが近いようね」
止まらない狂気を全力で振るいながら、輝夜は呟く。
しかしその言葉は妹紅の今夜二十四回目の死の狭間にあり、虚しく空に消えた。
心に灰が積もっていく。仄温かい粒子は自分を焼くには温すぎる。そして、もはや誰もそれを吹き飛ばしてくれない。
血の湖から立ち上る黒ずんだ煙がゆっくりと再びその姿を形作り、申し訳程度の火花が散る。その右肘から先は遂に再生することはなかった。銀色の髪を血が赤黒く染めている。いつもは即座に爆ぜて新たな生に収束する紅は液状のままでそこに在る。
輝夜は直感した。これが最期のリザレクション。
その最期を、千年の物語の終わりを、いかにして彩ろうか。輝夜の頭に幾万の絢爛の業が浮かんでは消える。赤橙黄緑青紺紫どんな輝きも十分ではないように思えた。降り積もった不快な灰を一掃し、そして二度と降らぬように一切を消滅せしめる終止の魔法。それはとても素敵な難題の、はずだった。
「……怖いって言いなさいよ」
月を背に浮かび上がると、妹紅の暗く濁った瞳が追う。遙かな生と死の果てで、睥睨するのは輝夜で仰ぐのは妹紅だった。
「死にたくないって言いなさい」
蓬莱の毒が抜け落ちた人の子に囁く。そこに在るのは、この惑星に芽生えた唯一個の取るに足らない生命。輝夜はこれまでの永い永い歴史に思いを馳せた。有限とはかくも愛しいものだったのか。
自分でも可笑しくなるほどに、先程まで考えうる限りの殺戮に興じていたにも関わらず、口から零れたのは慈悲と憐れみと赦しに満ちた聖母の言葉だった。天上の月が吊られたように立ち尽くす妹紅を蒼白く飾っている。
目の前の矮小な生命を前に、いつかの永琳の戯言がフラッシュバックする。今、妹紅が立つのは遥か千年の呪いの終点。あるいは彼女が愚かにも生を望むのならば叶えてやらなくもない。慈悲も赦しも勝者の特権であるゆえに。
銀色の灰が降っている。躁の粒子が胸を這って苛立ちを掻き立てる。この心地悪さを魔力に乗せて咆哮と共に吐き出してしまいたい。絢爛の魔法を編んで妹紅に叩き付けたい。そしてこのどうしようもない感情を、この身諸共、復讐の炎で――。
けれど火はなく灰は積もる。目の前には触れれば崩れる脆弱な生命が一つ。
輝夜は閃いた。そしてその愚かで下らない提案を口にした。
「もしあなたが望むのなら」
「馬鹿め」
中指を立てて、妹紅は言葉を遮る。喀血のような赤い舌が伸びて輝夜を嘲った。
輝夜は再びこの難題に相応しい回答を逡巡する。しかし妥協を知らない彼女は出口のない迷路に解を見出せず、どこからか妹紅が取り出した懐刀に致命的な遅れをとった。
「妹紅!」
月光を白く照り返した切先が妹紅の腹部に沈むと、一分の躊躇もなく脇腹から脇腹へと横一文字に奔った。蓬莱の加護を失った体は無抵抗にそれを受け入れ、鮮烈な華は芽生えると共に瞬く間に拡がり憐れなほどに一瞬で咲き乱れた。
眉一つ動かすことなく、別れの言葉もなく、濁った瞳は最期まで輝夜を見つめていた。崩れ落ちる体と反比例して、鮮血は睥睨する輝夜へ手を伸ばすように空へと迸る。
なにか言葉が喉を衝いて出たが全ては手遅れで、何者もその飛翔を追うことは叶わない。飛び去る無形の痕跡はいつかの富士を思い出させた。
魂が失せると視線は輝夜から外れて骸は倒れ、雄弁な血肉と呪詛が呆然と立ち竦む輝夜に辿りつき、頬にそっと触れる。
生暖かい緋はやがて緩やかに滑り落ちて、二度と燃え上がることはなかった。
†
籠に詰め込まれた色彩は、ほとんど木製の永遠亭のどの場所にあっても眩しく思えた。永琳が畳の上にそれを置くなり輝夜はその中から一番鮮やかな色合いの丸々とした桃を取り、器用に魔法で皮を裂いて齧りつく。期待通りの上物で、口の中で果肉が甘く拡がった。
「ちょっと」
「いいじゃない。死人に口無しってね」
「まさか全部そのつもりで?」
永琳が狼狽しているのが面白くて輝夜はけたけたと笑う。妹紅の墓参りにと用意させた供え物に手を突っ込み、今度は無花果を引き当てた。申し付けたときに深刻な悲壮感を漂わせたのが功を奏したらしい。用意されたのは随分と気合の入った品である。
「さすがに全部はいらないわ。あいつには私の食べ残しがお似合いよ」
永琳は呆れて溜息を吐く。その中には確かな安堵があり、輝夜は満足げに無花果の実を齧った。
妹紅との永い戯れが終わり、輝夜は退屈な日々を過ごしていた。結局心蕩けるような収穫は得られず、逃げられるような形で千年の友誼は死に別れてしまった。ある意味仕方のない結末だったのだと思う。永琳は案じていたようだが、あの瞬間に心を病んでやるほど私の永遠は俗なものではない。
再び籠に手を伸ばすと永琳の鋭利な視線が刺さる。輝夜はにやにやと笑い、果実ではなく籠の取っ手を持って立ち上がった。
「妹紅は確かに私にとって特別だったわ。大切な存在だった」
「だったら、」
「だからこそよ」
ふざけた表情のまま、月の賢者を後に輝夜は部屋を出た。そのまま縁側から竹林へ向けて空へ発つ。
火鼠の皮衣を喚び出し、頭上に翻して陽光を遮る傘にする。しばらくはこれが猛火から身を護る目的で使われることはないだろう。
幻想郷は平和で、自分は永遠の魔法に隠れた深窓の貴人。つまるところ妹紅のような不届き者は金輪際現れない。しばらくは死ぬこともないだろう。
あの時の灰は今もちらついている。深々と降り積もるそれを止める術はもはや無く、仄かな熱をもって心を煤けさせていく。哀れな不死鳥が遺した稚拙な呪い。
「さよなら、妹紅」
竹林の空は遠く澄み渡っている。輝夜は籠から適当に手掴みした果実を食んだ。軟く熟れた実は甘く、舌の上で融けるようにして消えていった。
月人、それも高位の存在である輝夜がそう感じるのだから、その熱量は尋常ではない。あちこちで竹が内なる空気の膨張に爆ぜて破音を響かせる。炎と血と殺戮。さながら銃撃戦のような戦禍は、しかしただの二人によって巻き起こされていた。
増幅する妹紅の炎は留まるところを知らない。輝夜の神格を帯びた衣服が焦げている。限界を超えた熱は魔法的防護を貫き、超人的強度の皮膚を焼き、やがて激しい痛みへと変わった。思わず苦悶の声が喉元で疼く。
「どうした姫様!笑ってみろよ、腹の立つ高慢な顔で見下してみろよ!いつもみたいにさぁ!」
「笑ってやるわよ、実にくだらない」
防護魔法を裂こうと力任せに爪を立てる無謀な右腕を吹き飛ばす。どれだけ鍛えていようと輝夜にとって人間の肉体など紙のようなものだ。輝夜の能力による神速の魔法は皮膚も肉も骨すらも容易く砕き、目標を等しく鮮血の飛沫に変える。
正常な生き物であれば片腕を粉砕されれば狂乱もしくは失神する。想定し得ない痛みに心身が耐えられないからだ。この脆弱な惑星で、人間の肉体とはそういう合理性のもとで進化してきた。
だがその肉体は、精神は十分に逝かれきっていた。
「ああ、痛いねぇ!気が狂いそうだ!お前を同じ目に遭わせてやりたくて頭が爆発しそうだよ!」
"右腕"が魔法の防壁を殴りつける。あらゆる接触を拒む永遠で編んだ壁を一度、二度。その殴打のたびに人間の脆い肉と骨は歪み、崩れ、しかし炎となって――燃える拳は三度目に障壁を透過して輝夜の首に伸びた。
「ぐうっ!」
「同じ気分を味わいやがれ」
「このッ――」
輝夜の言葉は途絶えた。物理的に続けることができなかった。
「同じ気分」と聞いて、咄嗟に右腕に力を込めた自分の無垢な愚かさが可笑しくなる。きっと声を上げて笑っていただろう。そうするに必要な器官が全て爆炎のもと消し飛ばされていなければ。
「思い知ったか、化物め」
「――くだらない」
焦げ散った髪の塵から即座に再生して輝夜は呟く。
彼女にとって死は変化と呼ぶにも値しない事象ではあるが、どういう理屈か感情だけがリセットされるのだった。記憶がなくなるわけではない。けれども何故か先程あんなに可笑しかった言葉遊びには冷めてしまった。
再生した場所が悪かったらしい。見上げると地を這う雑虫を眺めるような妹紅の視線がある。
不快だった。
「頭が高い」
天上に突如発生した黄金の層が妹紅を撃つ。観測不可能なほどに細分化された時間の中で紡がれる輝夜の魔法は事実上最速であるがゆえに必中、そして輝夜の気紛れな手心が加わらない限り必殺である。幻想郷の原則――弾幕などという生易しいものではない。使う相手を間違えたなら即刻幻想郷の籍を抹消される反則の業だ。
だが、この一匹の人間には暗黙ながらそれが許される。輝夜の掟破りに対して唯一の回答を持つゆえに。
赤い血肉と宙空に咲かせながら、散った一滴の血は再び妹紅の形を取った。彼女の刹那の死は再誕の炎となり、復讐に過熱する。
降り注いだ返り血が燃え上がり輝夜を焼く。なんとしつこいことだろう。眼前で再生した妹紅が振りかぶった拳を潰すと噴出した血が火炎となって目を炙った。そしてすかさず再生した拳が頬に入る。それよりも一瞬早く刎ね飛ばした首が彼方でにやりと笑い、胴体と共に炎に還るとその中間で熱風を熾して再生した。
「あと何度殺せば気が済むのかしら」
「さあな、お前はあと何回だ?」
「妹紅、あんたは本当に――」
身の程知らずめ。喉も頭も正しくそこにあったが、輝夜はその台詞を吐かなかった。互いの心も関係も、この千年余の時間に交わした炎のうちにすっかり爛れてしまっていた。飲み込んだ言葉は水銀のように重く胃を掻き毟る。それを発散させるべく、輝夜は次なる攻撃に向けて掌に魔力を熾した。
自分たちはこうして、永遠の命と無限の再生をもたらす蓬莱の薬を得たもの同士、永劫殺しあう。
そう思っていた。
†
「輝夜」
一晩中繰り返した死と再生に飽き、永遠亭に帰還すると玄関先で永琳が立っていた。帰りが遅くなった子どもを叱る母親のようだと輝夜は思った。しかし自分は子どもではないし、叱られる立場でもない。そして永琳が言おうとすることは手に取るように分かった。
「派手にやったでしょ」
悪戯な笑みで焼け焦げた襤褸と化した袖をひらひらと泳がせ、彼女が言うであろう台詞をに先回りしてやる。特に火に対して高い耐性を持つ火鼠の皮衣。それがここまで損傷するほどの激しい喧嘩は珍しい。袖だけでなくあらゆる箇所が火、もしくは物理的な攻撃によって穴だらけになっていた。なんとか燃え残った布で体にぶら下がっているだけでほぼ裸に近く、輝夜は無邪気にはにかんだ。
永琳は長い溜息を吐いて、姫のあられもない姿から目を逸らした。
「派手にやられた、でしょ」
「いいえ、私の勝ちよ。最後は動けないように地面に串刺しにして縫いつけてやったわ」
「鈴仙、輝夜を湯へ」
「はーい」
引き戸の向こうから現れた鈴仙も輝夜の姿を見て驚いたようだ。慌てて湯を沸かしに廊下を駆けてゆく。
「大概にしなさいね」
鈴仙の小刻みな足音が彼方に消えてから、永琳が溜息と共にぼやいた。
「なにが?」
「分かってるでしょ」
輝夜は我ながら、何故一度とぼけたのか不思議に思った。誰よりも自分はそれを分かっているはずだった。
「ああ、妹紅のこと」
「長くないわよ、あの子」
「そうね、昨晩も結局死に損なったみたいだけど」
輝夜は知っている。妹紅の「永遠」は自分たちのそれとは違う。
妹紅は既に人間としては「永遠」に値する時を生きた。老いることも、死ぬこともなく絶えず再生を繰り返す不死鳥として。
結局のところ、人間としての存在の限界であろう。彼女の火鼠を焼くほどの超常的な火力はその命の最期の燃焼であるらしい。
「放っておいてあげたら?最期くらいあの子は自分の生き方を選ぶ権利があるわ」
「永琳は知らないからそう思うのよ。あいつの底無しの愚かさをね」
妹紅の気持ちは自分が一番知っている。本人は絶対にそんなことを口に出しはしないだろうけど。だからあんなに熱くて痛い思いをして遊んでやっているのだ。
「妹紅は私無しでは生きられないのよ。ああ、精神的な意味でね。自分の生き方なんて百歳を超えたあたりで腐り落ちているわ。きわめて健全よ」
「そういうものかしら。でも輝夜、私が心配しているのは――」
やけに今日は人の心が読める。そろそろ湯が沸く頃だ。輝夜は永琳の言葉を遮って立ち上がり、廊下を歩み始めた。
残念ながら永琳の心配は杞憂に終わるだろう。自分が彼女の死を悼む。そのような可愛らしい心は朽ちて久しい。笑って送ってやろうではないか。
それは不死の元凶として千年を共に戯れながら生きた責任?
結局のところ永遠を謳いながらも死にゆく生命の儚さへの憐憫?
あるいは血みどろの交わりの中で、最終的に生き残るのが自分だという優越感?
「そんな馬鹿な」
自嘲。いずれも否だと胸を張って言える。千年の時の収穫は、そんな一言で済むような陳腐なものじゃない。悲喜交々、様々な感情が熟れて爛れて積み重なった奇跡の琥珀。その味を知るのは自分だけでいい。
「最後までしっかり殺してあげなくちゃね。あの子の生も死も私のものなのだから」
†
六回。
魔法で編んだ刃を神速で振るい、その体は容易く二つに散った。
僅かながら確実に、妹紅の再生は鈍くなっている。その一瞬が最後になるかもしれない。そう思うと、その死のひとつひとつを数えずにはいられなかった。
「まだ終われないようね」
「そうみたいだな」
どの破片から再生したのか、背後から妹紅の手が腹腔を貫いていた。痛みと共に臓物が煮えたぎるような熱さを覚え、抗う間もなく感覚もろとも飛散した。
「今日もすこぶる調子がいい」
血肉の雨を浴びながら妹紅が笑う。
「そう」
七回。
「ご健勝でなにより」
一瞬のうちに伸びた蓬莱の珠の枝が妹紅を貫いていた。七色の宝珠が実る枝先にぶら下がった赤黒い心臓は体外への排出に気付かない様子で未だ強く脈打っている。しかしそれは輝夜が砕くよりも先に赤熱して爆ぜた。脈動のように数回の段階に分けた爆発とそれに伴う衝撃は再生した妹紅の姿を数秒隠し、その間に枝を伝って輝夜の懐へ潜り込む。
「あいにくと今日も死ぬって感じが全くしないんだよ!」
「それは結構、では存分に死ぬがいい!」
炎の旋脚と火鼠の皮衣がぶつかり爆炎を撒いた。続いて炎弧が三度首を狙って飛来する。ひとつは回避し、ひとつは打ち消し、ひとつは頚を掠めるに止まった。
自分はどう足掻いても不死で、妹紅はやがてそうではない。それでもなお自分を害そうとする健気さに応えてやらなければなるまい。
枝を振ると増殖した七色の宝珠が夜を飾った。輝夜の魔法で編まれた無数の蓬莱の珠は、致命的な毒であり骨肉を引き裂く爆弾であり正気を蝕む呪いである。いずれも速やかな死へと収束するのならば過程にさほど意味は無い。ゆえに色鮮やかに輝くのだ。
「どれが最期になるか分からないわよ、しっかりと焼きつけなさいな」
八回、九回。本来ならば誰もが何と引き換えても守ろうとする最期の砦が次々と引き裂かれていく。本来唯一無二であるはずの、何よりも尊いはずの生命が、十回、十一回。
肉の塊になり、血の飛沫になり、しかし不死鳥は甦る。眩しい閃光と爆炎、吹き付ける熱と轟音。幾度となく破壊した右腕は此度も真っ直ぐと輝夜に振り下ろされる。魔法の障壁でそれを阻むも、続く左右の拳が急拵えの拒絶を割いた。無礼な両腕を射抜いたと同時、顎下を直撃した蹴りが輝夜の頭部に致命的な衝撃を与える。傾く体の内側に火花のちらつきを感じた次の瞬間には迅速な再生が心を冷徹に醒ましていた。再生先の宙空は妹紅を睥睨する位置にあり、気分がよかった。矮小な灯に雨を降らせてやる。十二回。真珠の散弾は細切れになった血肉をさらに細かく散らしていく。火花と灰が混じり、炎と肉が舞う。煌々と輝く弾幕に赤い死が踊るのが実に面白い。その光景に浸っていた輝夜は無防備に真下から生じた火柱に焼かれた。だが死ぬには至らず、そのまま爛れ焦げた皮膚だけが再生した。恍惚は消えず、再び真珠の業を直下へ放つ。今度は体を炎に変化させて往なされた。炎の体が叫ぶと一帯を覆うような爆発が全てを凪ぐ。咄嗟に火鼠の皮衣を召喚し爆風から身を守るが、その爆風に乗って飛翔した妹紅に首を獲られた。その手の中で燃える竹林を見ながら、次の瞬間にはその焼け跡に再生する。翔び上がった妹紅より下に位置してしまったが、まあ良いだろう。見上げれば龍の頸の玉から放たれた魔力の杭に貫かれた体が垂直に落ちていった。十三回。
妹紅は再び炎の体となって再生した。爆風と共に姿を消し、竹林の火をカモフラージュに辺りを翔んで輝夜の目を欺こうとする。先程召喚した火鼠の皮衣が持つ強い火への耐性を拡張して振ると、その風に煽られた火が次々と消えていく。次々と縮小していく隠れ蓑に覗く炎の尾を捉えた刹那、後頭部を殴打された。咄嗟に振り返ったのは悪手で、顔面で燃え上がる拳を迎えてしまう。脳震盪によろめく体を、先程追いかけていたダミーの火の尾が貫いて爆ぜた。死に際に覚えた苛立ちも、生まれ変われば何のことはない。手元に凝縮されたエネルギーの結晶、燕の子安貝を生じて一撫ですると網状の閃光が夜を引き裂く。同時に展開した蓬莱の珠の枝が網目の逃げ場を埋め、後方で奇襲を仕掛けようとした妹紅を蒸発させた。十四回。すぐさま火花がちらつく。子安貝を宙空に放り投げ、火鼠の皮衣で再生の爆炎を阻んだ。すかさず正面に耐火の風を放ち、無防備になった妹紅を宙空の子安貝が一点集中のレーザーで貫いた。焼ける鉄板に水を落としたような音を立てて、十五回目の生命も散る。
互いに死と再生を繰り返す。戦闘の興奮が神経を研いで攻めるも守るも熾烈さを増していく。これほどまでに命の安い夜はなく、それでも輝夜は一つ一つの死を覚えていった。十六回、十七回、十八回――。
額から流れる汗に気付いたのは一枚天井が妹紅に二十二回目の死を贈りつけた時だった。胸の中に興奮と恍惚、苛立ちに憐憫が溢れている。二十三回目の妹紅を見て、今の自分は今夜何度目だろうと不意に思った。随分と死んでいない気がする。つまるところ輝夜が殺される回数が減って、妹紅の死ぬ回数が増えていた。妹紅の狂犬のような表情は変わらないが、いつからかその生意気な声を聴いていない。
一度の死に二度の殺で報いようとする執念の炎は脆く燻り始めている。いつからかその再生は歪で、傷口に生じる小規模な火が思い出したかのように爆ぜて傷を繕っている。そこからは観察するよりも先に手が動いた。二十三回。
「終わりが近いようね」
止まらない狂気を全力で振るいながら、輝夜は呟く。
しかしその言葉は妹紅の今夜二十四回目の死の狭間にあり、虚しく空に消えた。
心に灰が積もっていく。仄温かい粒子は自分を焼くには温すぎる。そして、もはや誰もそれを吹き飛ばしてくれない。
血の湖から立ち上る黒ずんだ煙がゆっくりと再びその姿を形作り、申し訳程度の火花が散る。その右肘から先は遂に再生することはなかった。銀色の髪を血が赤黒く染めている。いつもは即座に爆ぜて新たな生に収束する紅は液状のままでそこに在る。
輝夜は直感した。これが最期のリザレクション。
その最期を、千年の物語の終わりを、いかにして彩ろうか。輝夜の頭に幾万の絢爛の業が浮かんでは消える。赤橙黄緑青紺紫どんな輝きも十分ではないように思えた。降り積もった不快な灰を一掃し、そして二度と降らぬように一切を消滅せしめる終止の魔法。それはとても素敵な難題の、はずだった。
「……怖いって言いなさいよ」
月を背に浮かび上がると、妹紅の暗く濁った瞳が追う。遙かな生と死の果てで、睥睨するのは輝夜で仰ぐのは妹紅だった。
「死にたくないって言いなさい」
蓬莱の毒が抜け落ちた人の子に囁く。そこに在るのは、この惑星に芽生えた唯一個の取るに足らない生命。輝夜はこれまでの永い永い歴史に思いを馳せた。有限とはかくも愛しいものだったのか。
自分でも可笑しくなるほどに、先程まで考えうる限りの殺戮に興じていたにも関わらず、口から零れたのは慈悲と憐れみと赦しに満ちた聖母の言葉だった。天上の月が吊られたように立ち尽くす妹紅を蒼白く飾っている。
目の前の矮小な生命を前に、いつかの永琳の戯言がフラッシュバックする。今、妹紅が立つのは遥か千年の呪いの終点。あるいは彼女が愚かにも生を望むのならば叶えてやらなくもない。慈悲も赦しも勝者の特権であるゆえに。
銀色の灰が降っている。躁の粒子が胸を這って苛立ちを掻き立てる。この心地悪さを魔力に乗せて咆哮と共に吐き出してしまいたい。絢爛の魔法を編んで妹紅に叩き付けたい。そしてこのどうしようもない感情を、この身諸共、復讐の炎で――。
けれど火はなく灰は積もる。目の前には触れれば崩れる脆弱な生命が一つ。
輝夜は閃いた。そしてその愚かで下らない提案を口にした。
「もしあなたが望むのなら」
「馬鹿め」
中指を立てて、妹紅は言葉を遮る。喀血のような赤い舌が伸びて輝夜を嘲った。
輝夜は再びこの難題に相応しい回答を逡巡する。しかし妥協を知らない彼女は出口のない迷路に解を見出せず、どこからか妹紅が取り出した懐刀に致命的な遅れをとった。
「妹紅!」
月光を白く照り返した切先が妹紅の腹部に沈むと、一分の躊躇もなく脇腹から脇腹へと横一文字に奔った。蓬莱の加護を失った体は無抵抗にそれを受け入れ、鮮烈な華は芽生えると共に瞬く間に拡がり憐れなほどに一瞬で咲き乱れた。
眉一つ動かすことなく、別れの言葉もなく、濁った瞳は最期まで輝夜を見つめていた。崩れ落ちる体と反比例して、鮮血は睥睨する輝夜へ手を伸ばすように空へと迸る。
なにか言葉が喉を衝いて出たが全ては手遅れで、何者もその飛翔を追うことは叶わない。飛び去る無形の痕跡はいつかの富士を思い出させた。
魂が失せると視線は輝夜から外れて骸は倒れ、雄弁な血肉と呪詛が呆然と立ち竦む輝夜に辿りつき、頬にそっと触れる。
生暖かい緋はやがて緩やかに滑り落ちて、二度と燃え上がることはなかった。
†
籠に詰め込まれた色彩は、ほとんど木製の永遠亭のどの場所にあっても眩しく思えた。永琳が畳の上にそれを置くなり輝夜はその中から一番鮮やかな色合いの丸々とした桃を取り、器用に魔法で皮を裂いて齧りつく。期待通りの上物で、口の中で果肉が甘く拡がった。
「ちょっと」
「いいじゃない。死人に口無しってね」
「まさか全部そのつもりで?」
永琳が狼狽しているのが面白くて輝夜はけたけたと笑う。妹紅の墓参りにと用意させた供え物に手を突っ込み、今度は無花果を引き当てた。申し付けたときに深刻な悲壮感を漂わせたのが功を奏したらしい。用意されたのは随分と気合の入った品である。
「さすがに全部はいらないわ。あいつには私の食べ残しがお似合いよ」
永琳は呆れて溜息を吐く。その中には確かな安堵があり、輝夜は満足げに無花果の実を齧った。
妹紅との永い戯れが終わり、輝夜は退屈な日々を過ごしていた。結局心蕩けるような収穫は得られず、逃げられるような形で千年の友誼は死に別れてしまった。ある意味仕方のない結末だったのだと思う。永琳は案じていたようだが、あの瞬間に心を病んでやるほど私の永遠は俗なものではない。
再び籠に手を伸ばすと永琳の鋭利な視線が刺さる。輝夜はにやにやと笑い、果実ではなく籠の取っ手を持って立ち上がった。
「妹紅は確かに私にとって特別だったわ。大切な存在だった」
「だったら、」
「だからこそよ」
ふざけた表情のまま、月の賢者を後に輝夜は部屋を出た。そのまま縁側から竹林へ向けて空へ発つ。
火鼠の皮衣を喚び出し、頭上に翻して陽光を遮る傘にする。しばらくはこれが猛火から身を護る目的で使われることはないだろう。
幻想郷は平和で、自分は永遠の魔法に隠れた深窓の貴人。つまるところ妹紅のような不届き者は金輪際現れない。しばらくは死ぬこともないだろう。
あの時の灰は今もちらついている。深々と降り積もるそれを止める術はもはや無く、仄かな熱をもって心を煤けさせていく。哀れな不死鳥が遺した稚拙な呪い。
「さよなら、妹紅」
竹林の空は遠く澄み渡っている。輝夜は籠から適当に手掴みした果実を食んだ。軟く熟れた実は甘く、舌の上で融けるようにして消えていった。
お見事でした。大変にかっこよかったです。
狂人とはこのふたりのことなのだろうと思います
まさに永遠に爛れてしまったという感じなんでしょうか