腕の上を一匹の蟻が歩いている。
私はそれを払い落とすこともせずただ眺めていた。
日差しが心地良い。私がぼんやり日向ぼっこをしていると、辺りが急に暗くなる。
大きな何かが陽の光を遮ったからだ。
私の顔の何倍もの大きさの顔が、こちらを覗き込んで微笑みかけてきた。
そいつは私の顔を愛おしげに撫でるのだった。
宇佐見菫子。
私はこの名前があまり好きではなかった。
スミレという音はどうにも可愛すぎる。髪はボサボサで高校生にもなって未だに化粧も覚えていない私に、花の名前はあまりにイメージにそぐわない。いわゆる名前負けというやつだ。
ただ、なにがし子という最後についた子という文字の古臭い響き(ウメ子とかトミ子とか)が可愛すぎるスミレという音を野暮ったさで幾らか和らげてくれている。
となると私は自分の名前がそれほど嫌いではないように思えてくる。しかしそんな事はない。
私が小学生の時、同じクラスに須美という名字の男子がいた。
小学生というのは実に下らない生き物で、ふと誰かが「須美が宇佐見と結婚したら須美菫子じゃん」と言い出すと「すみすみだ、すみすみ!」と何も面白くない事で大盛り上がりするのだ。果てには黒板に相合傘を書いたりする始末だ。
そしてこの須美という男子またムカつくことに、顔を耳まで真っ赤にして「こんなブスと結婚するわけないだろ!」と否定するのだ。私だって彼のことを何とも思っていなかったが、そこまで言う事ないじゃないかと思う。
もっとも子供は熱しやすく冷めやすいので、一ヶ月もたたないうちにこのすみすみブームは終わった。今にして思えば小学生らしい他愛のないエピソードだが、子供だった私に菫子なんて名前じゃなければと思わせるには十分な一件だった。
菫子さん。
またこんな話もある。
私の学校の図工の時間は自由席で、私は図工室の左後ろの席にいつも座っていた。
それは当時クラスの中で幅をきかせていたスクールカーストのトップ層の女子グループがいつも右前に座っていたためだ。煩いのが嫌いな私は左後ろの一番はじに座り、彼女たちと極力距離を取っていた。
すると彼女たちは私を指して「隅っこ菫子」と陰口を叩くのだ。大した陰口ではないのだが、当時の私に取っては堪え難い屈辱だった。
そんな風に自分の名前が嫌いになるエピソードは枚挙にいとまがない。
ただ高校生になった今思うのは、弄りようがない名前などこの地上に存在しないということだ。
人間いらない知恵が働くもので、どんな名前でも何かしら人を揶揄するあだ名を思いついてからかうのだ。
菫子さん。
からかわれるのは名前が悪いのでなく当人や周りの人格の問題なのだろう。
つまるところ私が嫌いなのは名前ではなく、きっと自分自身のことが----
「菫子さん!」
「はっ、はい何でしょう!」
「大丈夫ですか?」
早苗が不安そうに私の顔を覗き込む。
外から差し込む日の光で照らされた彼女の緑色の髪は、まるでそれ自体が光を放っているように綺麗だった。
「いやーごめんごめん。何か最近急に意識がどっか行っちゃうことが多くて……」
私と早苗は人里の茶屋にいた。
二人で茶屋で過ごすのが、最近の幻想郷に来たときの日課の一つになっていた。
「具合が悪いなら病院行った方が良いですよ。うん? この場合外の世界の病院と竹林の薬師どちらが……」
「平気平気、体調は別に悪くないよ」
早苗はよく幻想郷の外の様子を私に聞きたがった。別れを告げた故郷とはいえ、思うところがあるのだろう。
そうして話しているうちに何だか気があったのか、外の世界の話とは関係なく良く話すようになった。取り決めがあったわけではないが、毎週この時間に、寺小屋と霧雨道具店の間のちょうど真ん中くらいにあるこの茶屋でお茶するのが習慣になっていた。
早苗は見た目も花があるしクラスの中心にいるようなタイプで私とは合わなさそうだな、と思っていた。しかし彼女は案外とサブカル趣味(ロボットアニメとか少年漫画が好きらしい)で波長が合ったのだ。
「そろそろ帰りましょうか」
「そうだね、だいぶ長居しちゃった」
勘定はいつも割り勘だった。
最初私が無収入だったときは外の話を聞かせてくれるお礼と早苗に奢ってもらっていた。しかし今は香霖堂に現実から持ち込んだ適当なものを売りつけるという稼ぎ口があるので割り勘にできる。
奢られるというのは中々落ち着かないものなので、その点は香霖堂の存在に感謝しなければなるまい。
「ごちそうさまです」
そう言うと無口な店主は何も言わず小さく頷いた。
店を出ると、強烈な太陽の光に怯んでしまう。
季節は夏本番一歩手前というところだったが、外の世界のコンクリートジャングルに比べれば幾分か涼しく感じる。
それから早苗の夕食の買い出しに付き合った。
早苗は時折夕食に招待してくれるのだが、私はそこまで迷惑をかけられないというか、早苗の慕う二人の神様とは面識がないので断っている。
「いやーいつも悪いですね」
「ううん。人里で買い物するのは何か面白いから」
「あーわかります。結構田舎人の私でも商店街で馴染みのおばちゃんに声かけられながら買い物、っていうのは無かったし」
「早苗のとこでもそういうのは創作の中の話だったかー」
「私が物心つくころには商店街、ジャスコに駆逐されちゃってましたから」
「ジャスコは強いなー。ジャスコ無くなったけど」
「えっ……?」
早苗は目を丸くしていた。ここまで驚いているのは出会ってから初めてかもしれない。
「まあイオンって名前に変わっただけだけどね」と付け加えると、彼女は何だぁと胸をなでおろしていた。
私たちは人里を出て、原っぱを歩いて帰途へついていた。陽に照らされた緑色が眩しい。
早苗を妖怪の山へ送っているのだが、余所者には過敏な土地なので見送りは麓までだ。
私は歩きながらため息をついた。
「うーん、ちょっと可愛すぎるなぁ……」
「そうですか? 似合うのにもったいないですよ」
私は手のひらで髪留めを転がす。
赤い花の意匠をしつらえた可愛らしい小さな髪留めだ。
質屋のおじさんの口車に乗せられて買ってしまったのだが、正直私がつけるにはあまりに可愛すぎる。もっと地味目なデザインの方が良いのだが。
私はスカートのポケットに髪留めを突っ込んだ。
「あっ、サナエサンだ!」
原っぱの森の入り口の近くで子供達が遊んでいた。
子供達の中の一人が早苗の姿を認めると、皆がこぞって寄ってくる。里の外に住む見た目麗しいお姉さんということで、早苗は子供達の憧れでもあるのだろう。
「早苗さんあれやってよ!」
そう言いながら襟足の長い男の子がけん玉を差し出した。
「あれじゃわかりませんよ?」
「ほら、あの空中で一回転させてからたま入れる奴!」
「円月殺法かな」
そう言うと早苗はけん玉を巧みに操り、私にはぱっと見何が起こっているかわからないが凄い技を披露してみせた。
よくわからないが凄い。子供達が歓声をあげる。
ちなみにけん玉上手いねと早苗を褒めると、彼女は決まって恥ずかしそうに田舎だったのでと答える。真偽はともかくはにかむ早苗が可愛いので何度も褒めてしまう。
私が早苗の様子を眺めていると、ポニーテールの女の子が話しかけてきた。
「菫子姉ちゃん、私亀ができるようになったよ!」
「ホント? 見せて見せて」
私に話しかけてきた女の子は、そう言ってあやとりの紐を取り出した。すると他に二人の女の子が寄ってくる。
気がつけば早苗は子供達と最近教えたサッカーを始めている。(ちなみにボールは私が持ってきて子供達にプレゼントした)
私もサッカーに加わることもあったが、何となく活発な子は早苗と遊んで、大人しめな子は私と遊ぶという役割分担が出来上がっていた。
「できた!」
「おー凄い。もう覚えちゃったかー」
頭を撫でてやるとへへー、と彼女は笑った。可愛い。それにしても子供は髪がサラサラで羨ましい。
それに比べて私の髪の毛は随分傷んでいてボサボサだ。
幼い頃ころスイミングスクールに通っていたせいもあるだろう。私の髪が茶髪に近い色になっているのもそれが原因だ。
「あれ、おかしいなぁ……」
「難しいよー」
その両隣では二人が真似しようと四苦八苦している。私はなるべくアドバイスは最小限になるよう心がけている。あまり横からゴチャゴチャ言うとかえって混乱するからだ。
「菫子姉ちゃん新しいの教えてよ!」
「はいはい」
あやとりなんて箒くらいしか出来なかったが、彼女たちのためにYouTubeを見て勉強したりしてちる。大人はいつだって子供の前ではカッコつけたいのだ。
自前のあやとりをスカートのポケットから出そうとすると、先程しまった赤い髪留めが地面に落ちてしまった。
「あれ、なにそれ。髪留め? めっちゃ可愛いね」
「あー……良ければなんだけど、これいる?」
髪留めを拾い上げてポニーテールの少女にそう言うと、彼女は目を輝かせて答えた。
「いいの? やったぁ!」
「えー、私も欲しいよずるーい」
「ずるいずるーい」
「ごめんごめん、今度みんなの分買ってくるから」
そう言って他の二人を宥める。
他の子がどう思うかまでは考えていなかった。配慮が少し足らなかったようだ。
「……ん?」
はしゃぐ三人娘から目線を外し、森の方へ目を向ける。
するとそこには木に体を隠してこちらを覗く、三人娘と同じくらいの歳の少女がいた。
肌は日に焼けていて褐色で、髪は肩より上で切りそろえられている。
「ねえ、あの子ってこの前もいなかったっけ」
私が口を開くと、三人の少女はちらりと後ろを振り返る。
「あーあの子ね。いつもこっちを見てるんだけど、話しかけてこないんだよね」
「お話ししようとしてもすぐ逃げちゃうしねー」
「ふーん」
私は「ちょっと遊んでてもらえるかな」と三人に告げてそろりと立ち上がる。
ゆっくりと褐色の少女に近づいていく。今はサッカーの方を見るのに夢中なようで、私には気づいていない。
隣まで来たところで私は声をかけた。
「こんにちわ」
「……! こ、こんにちわ」
驚いた様子だが、逃げる素振りはない。緊張しているかもしれないが怖がっているわけではないようだ。
私はしゃがんで彼女に目線を合わせた。
「ねえ、あなたはーーー」
どうしてみんなと遊ばないの?
そう言いそうになったが、すんでのところで飲み込んだ。
それは私の嫌いな言葉だった。
上手く周りに馴染めないからとでも答えれば良いのか。惨めな気分になるだけの残酷な質問をわざわざすることはない。
「あー……お姉ちゃんと一緒に遊んでくれるかな?」
「……うん」
小さな声ではあったが、彼女は首を縦に振って返事をしてくれた。一緒に遊びたくないわけじゃないとわかって少し安心した。
「それじゃお手玉でもしよっか」
私がそう言うと、彼女は首を横に振った。
「私、お手玉できないよ……」
「へーきへーき」
二つお手玉を手渡した。
不安そうに彼女は私の方を見た。私は精一杯の笑顔で「私が手伝うから」と答えた。
私の意図することがわからなかったのだろう。彼女は首を傾げた。
彼女は両手のお手玉に目線を落とした。そしてそれを恐る恐る空中に放り投げた。
「……えっ!」
彼女は驚いて声をあげた。
お手玉が空中で静止した状態になっていたからだ。
私がパチンと指を鳴らすと、浮いていたお手玉が重力を思い出したかのように、彼女の手へ落ちていった。
「今のって……!」
「言ったでしょ。お姉ちゃんが手伝うって」
私は彼女の両手を握り、ゆっくりと動かす。それと合わせてお手玉をサイコキネシスで操ってゆっくりと浮かせる。
とても遅いスピードでお手玉をやらせて、体に動きを覚えさせようというわけだ。
「す、すごい……」
彼女は驚き半分嬉しさ半分といった様子だった。
段々スピードを上げていく。やがて手を離し、サイコキネシスを使うのもやめた。自転車の練習の時に、後ろから押している手を離すのと同じ要領だ。
「あれ……すごい! 私お手玉できた!」
一度感覚を覚えてしまえば、超能力による補助輪は要らないだろう。次からは一人でもできるようになっているはずだ。
「あー! 菫子姉ちゃんにそれやってもらったんだ!」
「……!」
先ほどまであやとりで遊んでいた三人娘の内の一人が寄ってくる。褐色の少女は驚いて少し身構えている。
「四つ! 私四つでできるよ!」
ポニーテールの彼女はお手玉を四個でやってみせる。得意げな表情だ。
褐色の彼女は「すごい……」と呟いて目をキラキラさせてそれを見ていた。
「私にもできるかな……」
「じゃあ私が教えたげる! まずは三つからだね」
そうしてお手玉のレッスンで二人が楽しそうにしていると、まだあやとりをしていた残りの二人も近づいてきた。
今までだってずっと隠れて見ていた少女が気になっていたのだろう。ただ、話すきっかけがなかっただけで。
「そうだ、これあげる!」
褐色の子に、さっきまで自分がしていた赤い髪留めを差し出した。
さっき私がプレゼントした髪留めだ。
プレゼントしたものをすぐ手離されるのはちょっと複雑な気分もならないことはなかったがまあいい。
「ええっ、そんな悪いよ」
「いいのいいの、友達の証!」
そう言って歯を見せて笑う彼女は、友情の証というフレーズを気に入ったのか「そう友情の証!」と何度か繰り返している。
褐色の少女はおずおずと髪留めを受け取った。
「……ありがとう。嬉しい」
髪留めをつけてはにかむ彼女には、花が咲くような笑顔、という表現がぴったりだった。
「お姉ちゃんもありがとう」
どういたしまして、と答えて私はお手玉を手に取った。
「それじゃ今日は三つでお手玉できるように頑張ろっか!」
三人娘の中にも一人、三つでお手玉が出来ない子がいるので、残りの三人でできない二人につきっきりで教える。
あーでもないこーでもないと悪戦苦闘していたが、一刻もしないうちに二人とも三つでのお手玉をマスターしてしまった。子供は吸収が早い。
その後は歌いながらお手玉をしていた。
「あんたがたどこさー、肥後さ、肥後どこさ、熊本さ……」
そうやって歌っていると、一陣の風が吹いた。
青色の夕日に私は目を細めた。遊んでるうちに大分時間が経っていたようだ。
「日もだいぶ傾いてきたかな」
そろそろ帰らなくてはと考えていると、あるものが目についた。
地平線まで続く人一人っこいない花畑の中に、目を惹く一輪の花があった。他の花と違って強烈な存在感を放っている。
私はそれに話しかけた。
「誰?」
その女性の髪はウェーブのかかっていて肩のあたりで切りそろえられている。早苗とおなじ緑色の髪だったが、より植物に近い印象を受ける。
背丈は私より大きく、赤いチェック柄の上着とスカートを身にまとっていた。
「忘れてしまったの?」
彼女がため息をつくと、それはタンポポの綿毛になって宙を舞った。
言われてみれば初めて会った気はしない、どこかで見たことある顔だった。
「風見幽香よ、ちゃんと覚えていて。風見鶏の風見に、幽けき香りで風見幽香」
彼女はそう言って微笑んだ。その赤い目は、どこか昆虫の複眼を思わせた。
むせ返るような甘い香りがする。空に目をやれば、青色の花畑が広がっていた。
脳が痺れるようにぼんやりしているのがわかるのに、自分ではどうすることもできない。
このまま眠ってしまおうか、と思うと声が聞こえてきた。
「菫子お姉ちゃん、どしたの?」
「さっきからぼーっとしてるけど」
四人の少女が、不安そうに私に声をかける。サッカーに興じる子供達の喧騒が戻ってきた。
私は眼鏡をかけ直しながら、無理やり微笑んだ。
「あ……うん、何でもないよ、平気平気」
何だ、今のは。
異常な事態に、冷や汗が額を伝う。
あたりを見渡すが、夕日はオレンジ色だし、周りは原っぱで隣に森があるだけで、花畑なんてどこにもない。
これまでも突然意識が飛んでしまうことはあったのだが、こんな鮮明な幻覚を見たのは初めてだった。
白昼夢なのだろうが、あまりに鮮明すぎる。
地の果てを超え天上にまで広がる花畑。誰もいない世界。その光景を異常だと思うどころか、どこか落ち着く場所だと感じていたことが何より恐ろしかった。
あの女性について調べれば何かわかるだろうか。しかし名前を聞いたはずなのに、全く名前を思い出せなかった。それどころか見た目すら思い出せず、記憶に靄がかかっている。
「そろそろ皆んな帰りますよー」
早苗が声をかけると、子供達がぶーたれる。まだまだ遊んでいたいのだろう。
「怖い妖怪に襲われちゃいますよ!」
おきまりの脅し文句で、ようやく子供達は帰途に着き始めた。
「じゃーねー、菫子お姉ちゃん」
「うん……」
私は必死に笑顔を作って、彼女たちに手を振った。
きっと、少し疲れただけだろう。
まわりには自分の背丈よりも大きい向日葵が見渡す限り咲いていた。空を仰ぐと、空も一面のひまわり畑になっている。
気をぬくと溶けてしまいそうな甘い香りがした。
「あ……」
目の前で、風見幽香が白いテーブルに座って紅茶を飲んでいた。彼女は紅茶の入ったカップをカチャリと置いた。カップは白い花びらになって崩れていった。
「自分が何者なのか、自分の本当の姿が何なのか思い出せたかしら?」
「私の……本当の姿……」
さっきまで椅子に座っていたのに、いつのまにか風見幽香は目の前にいた。彼女は私の顔に、優しく触れた。触れられた部分が熱くなる。
「ゆっくりと息を吐いて、ここの空気に身を任せて。あなたは---」
私はベッドから跳ね起きた。
いつもの自分の部屋であることを認めると、私はゆっくりと深呼吸した。汗で湿った下着が不快だった。
「何で……今の夢……」
「随分うなされていたようですねぇ」
「うおおおお!?」
急に人の声がするものだから、驚いて私はベットからすっ転げ落ちた。冷静になれば、その声はだいぶ聞きなれたものだった。
「仮にもうら若き乙女がうおー、はどうかと思いますよ。こういう時はキャーとかもっと可愛い悲鳴の方が……」
「芋くて悪かったわね!」
「誰も芋なんて言ってないですよ」
暗い部屋の中、手探りで眼鏡を見つけて私はそれをかけた。
暗闇に目が慣れてきた。ベッドに腰掛ける女性が楽しそうに笑っているのがわかる。
白黒の妙な服にサンタ帽を被った青い髪。彼女の名はドレミー・スイートという。
「まあまあ、どうぞベッドに腰掛けてください」
ぽんぽん、と彼女は自分の横を叩いて私に座るよう示唆する。
「私のベッドなんだけど……ていうか人の部屋に勝手に現れないでよ」
「いいじゃないですか。散らかってるわけでもないですし。持ち主のイメージに反してクマさんクッションとか小物が可愛い感じ好きですよ、この部屋」
「……」
「おやおや、からかい過ぎてしまいましたね」
そう言って彼女はクスクスと笑う。頭に血が上っていくのが感覚でわかる。
だがドレミーには聞きたいことがたくさんある。怒って追い出すわけにはいかない。
私は大げさに彼女の隣に腰かけた。
「いくつか聞きたいことがあるんだけど」
「何なりと」
「何か最近妙な夢を見るのよ。大体花畑の夢で……酷くリアルな白昼夢と言うか、そう、会話の最中でもその度に意識が急に飛んでしまって……」
「なるほど。わかりません」
「……は?」
あまりに投げやりな答えに私は狼狽えた。
「あなた仮にも夢の支配者でしょ? それなのに何もわからないことないでしょう」
「夢の支配者ってのはちょっと盛った表現です。実際には夢の世界のお節介おばさんくらいです」
「えー……夢の世界の管理人みたいなことしてるじゃない」
「自分の餌場が荒らされても困りますしねぇ。まあできることをやってるに過ぎませんよ」
それはともかく、とドレミー。
「貴女は非常にややこしい存在なのですよ。ちょっと整理しましょうか」
彼女が手を叩くと三人の私をデフォルメしたぬいぐるみが出てくる。
ドレミーと話している今この瞬間は現実なのか夢なのか分からなくなってきた。しかし余計な情報を増やすと混乱しそうなので質問せず脱線させないことにした。
「一つに現実の貴女、二つに夢人格の貴女、三つにドッペルゲンガーの貴女がいるわけです」
三人の私のぬいぐるみの額にキョンシーよろしくポストイットが貼られる。それぞれに現実、夢、ドッペルゲンガーと書かれている。
「で、貴女が幻想郷に来ているのは夢幻病のせいですが、実際どういうことかと言うと、現実の貴女は寝ている間、精神が体を離れドッペルゲンガーと意識を共有しています」
現実の私のポストイットがぬいぐるみから剥がされ、ドッペルゲンガーのぬいぐるみに貼り付けられる。
「そして夢人格がドッペルゲンガーを……おっと、この話はややこしいし貴女も知らないでしょうから省略しましょう」
「え、何、気になるんだけど」
彼女は私の言葉が全く聞こえないかのようなフリをして話を続ける。
「まあつまり幻想郷の貴女の肉体はドッペルゲンガーの肉体ということになります」
「えーと、私がドッペルゲンガーの肉体を乗っ取っているってこと?」
「違います」
切り捨てられてしまった。少し傷つく。
「夢人格やドッペルゲンガーと相対してしまってる貴女が誤解するのも無理はありませんね。あれらは特例です。そのことは忘れてフラットな状況で考えてください。菫子さん、貴女は普通に夢を見たときに夢人格に会いますか?」
「……会ったときないわね」
「そうです。夢人格、つまり夢の中の貴女も貴女自身なのです。その点においてはドッペルゲンガーも違いはありません」
ドレミーが指をパチンと鳴らすと、三体いたぬいぐるみが一体になる。
「貴女が相対してしまった夢人格やドッペルゲンガーは己の影や足跡のようなものに過ぎないというわけです。それが異変のせいもあって独立して動いてしまったというだけの話です」
「でも夢人格と私って結構性格違うんだけど」
「そうでしょうね。ですが紛れもなく貴女の一面です。自分というものをどう切りとるかよって差異が生じるのは当然です」
誰が相手でもどんな状況でも全く同じように振る舞う人なんていないでしょう、とドレミーは付け加えた。
「うーん……」
整理してもらったものの、難しいことに変わりはなかった。
私はそのまま後ろに倒れてベッドで仰向けになった。
「じゃあ他の私を倒しても自分の一部が死ぬだけってこと?」
「何と答えたら良いか……完全に死ぬことはないでしょうね。先ほども言ったように他の貴女は己の影や足跡に過ぎません。本人が生きている限り、勝手に生じるものです」
「……何か話難しくない?」
「本来夢は曖昧かつ主観的なものです。言語化して客観的に説明するのはひどく難しいことです」
何となくニュアンスはわかったような気がするので、それで良しとしてこれ以上掘り下げるのはやめておこう。
とっとと本題に入ることにした。
「基本状況の整理は良いとしてさ、最近見る白昼夢は何なんだろう。幻想郷にいるときでも意識が飛ぶんだけど、これって夢中夢っていうやつ?」
本題に話を引き戻すと、ドレミーは複雑そうな顔をした。
「菫子さんの場合、夢中夢という表現が正しいのかも怪しいくらい特殊なんですよね……ちなみにどんな夢なんですか?」
どんな夢かと聞かれても夢の話なので記憶がおぼろげだ。
「何かこう……いつも花畑があって、それで綺麗な花? というか女の人が……」
「……その女性は風見幽香と名乗っていませんでしたか?」
ピントが合った、とでも言うべきか。今までぼんやりしていた夢の記憶の輪郭がハッキリしてきた。
「そう! その人! 話は聞いたことあるけど会ったこともないのに何でかその人が……」
芋づる式に全てが思い出せるようになった。
ウェーブのかかった緑色の髪。優しげなのに人間とは明らかに異なるあの微笑み。
「魔理沙っちに聞いたけど花を操る妖怪なんだっけ?」
「それは彼女の力の一端に過ぎません。彼女は強引に他人の夢に介入するほどの力を持った強力な妖です」
以前は夢と現実の間の夢幻館という場所に居を構えていたという話も聞きますし、生来夢に関する力を持った妖怪という可能性もありますが、とドレミーは付け足した。
なるほど、夢に現れていたのが誰かはわかった。
彼女が私の夢に無理やり入ってきているのだろうか。そう思うと空寒い気持ちがした。
「用心が必要ですね。これを受け取ってください」
そういうと、ドレミーはゴソゴソと帽子の中を漁り始めた。
そして「それ」を私に差し出した。
「………………なにこれ」
ドレミーの手のひらには、小さなデフォルメされたドレミーが乗っていた。
小さなドレミーは寝っ転がったポーズをしている。
「ドレミーちゃんキーホルダー(全6種)です。クリア仕様のシークレットもありますよ」
「いや…………なにこれ……可愛いけど」
「可愛いでしょう。まあ悪夢避けのお守りのようなものだと思ってください」
「はあ……」
お守りならもう少しそれっぽい方が良かった。タリスマンとかパワーストーンとかならもう少しカッコつくと思うのだが。
私は渋々ドレミーちゃんキーホルダーを受け取り、スカートのポケットに突っ込んだ。
「心してください。夢は自分の認識が全ての世界です」
ドレミーは私の方へ居直る。
「肉体の鎧がなく彼我すら危うい夢の世界では、自分は自分だという確固たる自我が必要なんです。自分というものを強く持ってください」
「……」
初めてドレミーの真剣な顔を見た気がした。
「でも私、自分----」
僅かに甘い香りがした。花の香りだろうか。
私の意識はそこで途切れた。
原っぱで子供達が遊んでいる。早苗と子供達はサッカーボールを使ったベースボールに興じていてた。私は早々にバテてしまい、木陰で休んでいる。
みんな楽しそうに歓声をあげて遊んでいる。
ただ、その中に褐色の少女の姿はなかった。
「今日もいないな……」
私がそう独りごちると、隣から声がした。
あの少女に赤い髪留めを渡した、ポニーテールの女の子だった。
「そうなんだよね。物陰から見てるだけだったけど、今までいない日は無かったのに」
余程バテていたらしく、彼女が隣に来ていたことに気づかなかった。そういえば彼女は最近体調があまりよろしくなく、町医者から派手な運動は控えるように言われていたのだった。
「そうなんだ」
「うん」
早苗と子供たちの声がどこか遠くに聞こえる。日差しがフィルターになっているかのようだ。
「仲良くなれたと思ったんだけどな……」
寂しそうに彼女は言った。それは私に話しかけているというより、ほとんど独り言に近かった。
私は何て言葉をかけたら良いかわからず、毒にも薬にもならない相槌を打つのが精一杯だった。
「……どうしちゃったんだろうね」
彼女の身に何かあったのだろうか。
実は良いところのお嬢様で、こっそり抜け出して来ていたのがバレたとか。いや、少し失礼な話だが彼女に育ちの良さのようなものは感じなかった。
そういえば、と気づいた。
彼女が居なくなってから花の夢を見なくなった。
夢など起きたそばから忘れてしまうようなものなので確証はないが、そんな気がする。
風見幽香の標的は、私ではなくあの少女だったとしたら。
厭な想像が広がっていく。
「お姉ちゃん……大丈夫? 酷い顔してるけど」
「うん……平気だよ」
早苗にも風見幽香が夢に出ることは相談した。
ただやはり夢を見るだけでは話のしようもない。夢にアンタが出てくるのでどうにかして欲しい、と言いに行くわけにはいかないだろう。
もし仮に本当に私に何かしていたとしても、シラを切られればそれまでだ。
この季節なら向日葵畑にいるだろうが、危険な妖怪なので近づかない方が良いとのことだった。
しかしあの奥手な少女に風見幽香が何かしたのなら、黙っているわけにはいかないだろう。
でもやはり確証が無い。
私がため息をつくと、それはタンポポの綿毛になった。
「菫子さーん」
早苗の呼ぶ声で思考の沼に落ちていた意識が引きずり上げられた。
「帰る?」
「はい、疲れちゃいました」
早苗は屈託無く笑う。
「えーもう帰っちゃうんだ」
「大人は体力ないんですよ」
ポニーテールの少女が不満そうに言うと、早苗は彼女の頭を撫でながらそう言った。
桜の花びらが舞い散る中で微笑む早苗は非常に絵になる。
やはり彼女は私と違って可愛いな、と少し嫉妬してしまった。
真夏の冷たい麦茶は何にも代えがたい。
一気飲みすると、店主が黙ってお代わりを注いでくれた。私がお礼を言うと、彼は無言で頷いた。
いつも早苗と来る茶屋に来ていたが、まだ彼女の姿はなかった。
店には店主と私を除けば、母親と息子の組み合わせの親子がひと組いるだけだった。
「……どこに行っちゃったんだろうな」
独り言が夏の湿った空気に溶けていく。
褐色の少女が再び姿を見せることはなかった。少なくとも人里では子供が神隠しにあったというような騒ぎは起きていないようだった。
やはり親に外出を止められたとか、そういう事情なのだろう。
そうに決まっている。あの子の身に何か起こったわけじゃないはずだ。
そう自分に言い聞かせるほど、得体の知れない不安が胸の内にじんわりと広がっていく。
「えー、何で行っちゃダメなのー?」
小さい男の子が母親に不満げに抗議する。
集中力が途切れたのか、今まで耳に入っていなかった店内の親子の会話に意識がとられる。
「すごい綺麗な花畑って寺小屋で友達に聞いたもん」
「ダメです。知らないの? あの花畑はーーー」
その会話を聞いてるうちに、私は目の前の景色が傾いていくかのような錯覚を覚えた。
今、母親の方はなんて言った?
動機が激しくなっていく。厭な予感が明確な形を得ていく。
「おじさん……勘定」
脳内で思考が渦巻く中、辛うじて私はそう口にしてお代を支払った。
「早苗には、ちょっと用ができたって」
店主が小さく頷くや否や、私駆け出していた。道行く人を避けながら私は走る。
私の杞憂ならそれで良い。それを確かめに行くだけだ。
でももし私の予感が当たっていたら。そう思うといてもたってもいられなかった。
私は向日葵畑へと走った。
乱れた呼吸を整えながら、私は眼前の向日葵畑に目を向けた。
早苗が言っていた。今の季節なら風見幽香はここにいるだろうと。
いたずらに危険な妖怪との接触するのは避けたいので、私は息を潜めて向日葵の群れの中へわけ入った。
向日葵は全て私の方を向いているようでひどく不気味だ。
そもそも私は向日葵があまり好きじゃない。自分の背丈より大きいので威圧感があるし、よく見ると種が密生しているのが気持ち悪い。
向日葵たちの間を分け進んでいく。なるべく空いている方を進んでいくが、葉っぱが自分の肌に触れるのは避けられない。それがまた少し不快だった。
いつの間にか向日葵が大きくなっているような気さえする。向日葵たちに見下ろされて、何だか自分が小人になったような気分だった。
私は茶屋でのあの親子の会話を反芻した。
だが、もしあの母親の言葉が本当なら----
「あ……」
少しひらけたところで、私をそれを見つけてしまった。
予感は当たっていた。外れていたらどれだけ良かっただろう。
背丈の高いひまわりたちに囲まれて、一つだけ低い背のひまわりがあった。
その茎には、赤い髪留めがついていた。
『あの花畑は、元は全部人間だったのよ。怖い妖怪が悪い子は花に変えちゃうの』
茶屋で聞いたあの母親のセリフが思い起こされる。
風見幽香は私を狙っていたんじゃない。彼女の獲物はあの褐色の少女だったのだ。あの少女を自分の向日葵畑の一員へと変えたのだ。
パニックで叫びそうになる自分の口を押さえる。彼女を元に戻す方法はあるだろうか。
「あら、こんにちわ」
後ろから声がした。全身が総毛立つ。
夢の中で何度も聞いた声だった。
ゆっくりと私が振り返ると、そこには風見幽香がいた。緑色の髪が夕日に照らされている。
人ならざる赤い目が細められていて、弧を描く口は裂けているようだ。
「あなたがこの子を……!」
恐れていては駄目だ。何を恐れることがある。
私がかつて異変で戦ったのだって妖怪だ。
「この子を向日葵から人間に戻して!」
風見幽香は笑った。
目と口の先には暗闇が広がっているようで、そこから赤い眼光が覗く。
「何で私が貴女お願いを聞かなくちゃいけないのかしら」
彼女は手に持った傘で地面を叩いた。地面は柔らかい土のはずなのに金属を叩いたかのような硬質な音がした。
すると周りの向日葵たちが意思を持ったかのように全て私の方に振り返る。そして蔓のようなものが伸びてきて私の手足を搦め捕ろうとした。
「この……っ!」
私はそれを必死に引きちぎる。
向こうから手を出してきたのは、むしろ好都合かもしれない。とっちめて花にされたあの子を元に戻させれば良い。
サイコキネシスで私は足元に埋まっていたソフトボールくらいの大きさの石を掘り出して宙に浮かべた。
「これでもくらえ!」
石をサイコキネシスで風見幽香へ投擲する。
しかし彼女は避けるそぶりすら見せなかった。
「え……」
石は確かに命中した。
しかしそれと同時に、彼女の体が石の当たった部分から花びらへと霧散する。数秒のうちに彼女は完全に花びらになって消えてしまった。
即座に周りを見渡すが、数え切れないほどの向日葵が私を睨み返すだけだった。
「随分と乱暴ね。そういう子、嫌いじゃないけど」
声が耳元からした。
振り返ろうとするが遅かった。
集まった花びらが風見幽香を形成していく。出来上がった顔が私の肩に乗せられ、腕が私の腕を抑えている。
「貴女も花にしてあげる。きっと綺麗な花が咲くわ」
地面から蔦が生えてきて私の体を搦めとる。
「離せ……!」
自由を奪われ、体から段々と力が抜けていく。
何年か前に高熱で寝込んだときのことを思い出した。意識に靄がかかったようで、上手く体に力が入らないあの感覚に近い状態だ。
「貴女が周りから浮いてるのも当然よ。だって貴女は花であって人ではないんだもの」
「何を……」
拘束から逃れようとする内に、空が目に入った。綺麗な青色の花畑だった。ネモフィラという名前の花だったか。テレビで見たことがある。その中で大きな向日葵が一輪咲いていた。あれが太陽なのだろう。
「いっそ自分が人間でなかったらこんな悩むことはなかったって思ったことはない? 当然よ。貴女は花だったんだもの」
薔薇のような赤い唇で風見幽香は語りかけてくる。彼女はいつのまにか私の正面にいた。
その眼窩からマリーゴールドが覗いていた。私に顔に触れるその手は群生したマーガレットだ。
「私、は……」
呼吸がうまく出来ず、咳き込んでしまう。すると口からスミレの花びらが溢れてくる。
足が葉と茎になってしまった。立ったままではいられずその場に倒れてしまう。
地面には牡丹が、クレマチスが、アマリリスが、色んな花が入り混じって咲いていた。もう向日葵だけじゃない。寂しくない。
その花畑は地平の果てまで広がっていて、ネモフィラの空に溶けていく。それが何よりも嬉しかった。感激のあまり目から花びらが溢れていく。
世界の全てが咲いていた。咲いていないものは何一つとしてなかった。
「教えて。貴女は何の花?」
…………スミレの花
そう口にすると、今まで感じたこともない幸せで心が震えた。私はスミレの花に埋もれていた。違う。私自身がスミレの花だった。
湿った土がひんやりとしていて芯まで癒される。向日葵から差す陽の光は蕩けそうになるくらい気持ちよかった。
何だかひどく眠い。私は甘い香りに身を委ねて、ゆっくりと眠りにつこうとした。
……あれ?
何かの感触がした。何だろう。固い。小石くらいのサイズだ。
そういえば自分が妙なデザインのキーホルダーを持っていたことを思い出した。
『心してください。夢は自分の認識が全ての世界です』
そういえば誰かがそうなことを言っていたっけ。
でもそれもどうでも良い気がした。だって私はこんなに幸せなのだから。
咲くことがこんなに嬉しいことなんて知らなかった。私は今まで何をしていたんだろう。あれ、今まで? 今までって何だろう。ずっと私はスミレだったんじゃないのか。
せっかく意識が閉ざされそうになっているのに、キーホールダーが気になってうまく眠りにつくことができない。
----■■さん
誰かが何かの言葉を叫ぶ声が聞こえた。
それが何を意味するのかはわからない。でも、とても大切な言葉だった気がする。
自分の中に血肉が流れ込んでいくように、体に力が戻っていく。
『夢は自分の認識が全ての世界です』
先程思い出した言葉を反芻してみる。
そうだ。どうして風見幽香は私に何の花なのか尋ねたのだろう。
私を花にするのであれば、勝手にそうすれば良いじゃないか。そう聞く必要があったとしたら。私に自分を花だと思いこませようとしたのではないだろうか。
これはある種の自己暗示を使った催眠術のようなものかもしれない。
ならばそれを打ち破るのは自分の認識だ。
現実にスミレの花になってしまった自分が見える以上、その強固なイメージを跳ね除けるのは難しいかもしれない。
でも、今ならできる気がした。
「■■■■■----」
私はそれを叫ぼうとした。
しかしそれは意味のない言葉の羅列にしか聞こえなかった。
『肉体の鎧がなく彼我すら危うい夢の世界では、自分は自分だという確固たる自我が必要なんです』
ドレミーの言葉を思い出した。
必要なのは自分は自分だという確固たる自我。
夢の中では自分と思うものが自分なのだ。夢の中では自分が他者の視点になっていたり、鳥になって空を飛ぶこともある。しかしそれは自分がそういう自分だと思っているからだ。
同じように、自分を自分だと思えば良い。
私は息を吸い込み、お腹にぐっと力を入れてもう一度叫んだ。
十何年間も付き合ってきた、少し嫌いだけど紛れもなくずっと私であったその言葉を。
「私は宇佐見菫子だ! スミレの花なんかじゃない!」
風景にヒビが入ったかと思うと、それはすぐに砕け散った。
無限に続く花畑はもうどこにもない。向日葵畑に戻ってきた。
「菫子さん!」
私は半泣きになっている早苗に抱きかかえられていた。彼女に抱きしめられる。息ができない。
自分の手のひらを握ったり開いたりする。大丈夫だ。花ではない。ちゃんと自分の体だ。
「何で勝手に行っちゃうんですか! 」
「……ごめんて」
今にして思えば私はずっと風見幽香の影響下にあったようだ。到底まともな精神状態ではなかった。
私が辺りを見回すと、風見幽香はそこにいた。少し驚いた顔をしていた。
慌てて立ち上がり彼女に対峙する。
すると彼女は両手をひらひらと上げた。
「ああ、今日のところは私の完敗ね。貴女は綺麗な花であるべきだと思うんだけど、それを望まないみたいね」
「そんなことはどうでもいい! あの子を早く元に戻して!」
私が赤い髪留めをつけた向日葵を指差して声を荒げると、彼女は笑い始めた。
「な、何……?」
「察しが悪いわねぇ。もうマトモな意識が戻ってるはずだけど」
こほん、と風見幽香は居直って私に告げた。
「この子は向日葵にされた人間じゃないわ。その逆よ。人間になっていた向日葵よ」
「……は?」
今こいつは何て言った。
私が茫然自失としていると、風見幽香はため息をついて説明してあげるわ、と話し始めた。
「知らなかったでしょうけど、貴女が遊んでいた原っぱの隣の森の中にね、一輪だけ向日葵が咲いてしまっていたのよ。たまたま種が流れ着いちゃったのでしょうね」
それが彼女、と髪留めのついた向日葵を風見幽香は指差した。
「たまたま一輪だけ咲いてしまったものだから、森の中でずっとひとりぼっちだった。そんな孤独に苛まされているとき、貴女たちが毎日楽しそうに近くで遊んでいたのを見て、自分も混ざりたいと思ってしまったのね」
人ならざるものがいつのまにか人に混ざっているという話は確かに珍しくない。
子供であればなおさらだ。遊んでいるうちに知らない子が混ざっているというタイプの怪談は古今東西問わず枚挙にいとまがない。
「ただそういった怪異との触れ合い基本的には人間にとっては毒よ。悪影響を及ぼすことがあるわ。子供たちの中で調子の悪い子はいなかった?」
「そういえば……」
早苗がそう言うのを聞いて私も思い出した。
私からもらった髪留めを褐色の少女にプレゼントしたポニーテールの女の子は体調を崩していた。
「私にとっては人間の子供がどうなろうが知ったことではないのだけれどね。あの森で咲き続けるのは寂しいだろうし日当たりも悪いと思って、この花畑に植え替えてあげたってわけ」
ひょっとしたら彼女が背の低い向日葵なのは、年齢以外にも日当たりが悪かったせいかもしれない。
大筋で納得しかけていたが、私はいつもの茶屋で聞いた話を思い出した。
「で、でも人里で花畑の花は、花になってしまった人間って話聞いたし……」
「あー、私もその話聞いた時あるけれど、それって向日葵畑じゃなくって鈴蘭畑の話じゃないかしら?」
風見幽香の言葉に早苗が頷き、彼女は私に説明してくれた。
「鈴蘭畑は別名無名の丘といって、古くは子供を間引くのによく使われた曰く付きの場所だそうで、人が花になってしまうという脅し文句で子供を近づけないようにしているという話は私も聞いたことがあります。……捨てた子供が鈴蘭になったという話が転じたのでしょうね。」
あと毒人形の妖怪が出るので実際危険な場所だそうですし、と早苗が付け加える。
確かに毒人形が出没する上そのような曰く付きの場所であれば、そういった創作話で子供たちを遠ざけることは考えられる。
「するとさ……私って何、勘違いで突っ走ってこんな酷い目にあったわけ……?」
あははは、と風見幽香は笑った。
「ともあれ貴女は私に打ち勝った。それは大したものよ。ますます欲しくなったわ」
そう言って彼女は赤い目を細めた。血の色の赤ではない。花の色だ。
人外の眼差しに私は少し怯んだ。
「この場で腕ずくで手に入れても良いのだけど、この小さい向日葵がやめてほしそうにしてるからね。潮時だわ」
どうやら見逃してくれるらしい。冷静になった今では、彼女は私ごときが太刀打ちできる妖怪ではないとわかる。
ほっと胸を撫で下ろしていると、指先が私の頰に触れた。風見幽香の指だ。
「でもいつか必ず花にしてあげるわ」
私は動けなかった。息が止まる。
彼女の顔を見た。人間と同じ顔をしているが、きっとこの顔の向こうには人間と同じように血肉があるわけではない。
目や口は体の機関というより、ただ穴が空いているだけのようにも見えた。
「……!」
早苗が風見幽香の私に触れている手をつかもうとすると、つかもうとした部分が花びらになって霧散した。
そのまま風見幽香は花びらになって消えた。
「見逃してくれた……みたいですね」
今度こそ私は胸を撫で下ろした。
すると早苗が私の両肩に手をかけて言う。怒っていた。
「何か言うことはありますか?」
「……先走っちゃってごめん」
早苗はため息をつくと、私を立ち上がらせた。
「詳しく聞かせてもらいますからね。今日は菫子さんの奢りです」
「はーい……」
だいぶ心配させてしまったようだし、一回奢るだけで済むなら安い話かもしれない。
私たちは茶屋に向かって歩き出そうとする。
だがその前に、赤い髪留めをつけた背の低い向日葵を振り返った。
「……また遊びに来るよ」
向日葵が風にそよいだのが、私には彼女が小さく頷いたように見えた。
もっとも遊びに来るのは風見幽香がいない時を見計らってになってしまうが。出来ることならもうあの妖怪とは会いたくなかった。
しかし、と私はここ最近のことを振り返る。
なぜ私の夢に風見幽香が出てくるようになったのだろう。風見幽香は一体いつから私に目をつけていたのだろうか。
風見幽香は白いテーブルとティーカップを用意して、紅茶を嗜んでいた。あたりには花が一面に広がっている。
「本当やってくれるわね……ドレミーとか言ったか」
言葉とは裏腹に彼女は嬉しそうだった。
向日葵の植え替えのついでに菫子をおびき寄せることに成功し、一石二鳥と思っていたが、結局菫子をものにする計画は失敗してしまった。
敗着があるとすれば、ドレミー・スイートが思いの外菫子に目をかけていたことだろうか。それとも東風谷早苗が店主に教えてもらった情報で推理し向日葵畑に向かったことだろうか。
いや、結局のところ幽香の誘惑を跳ね除けたのは菫子自身の意思だ。それが全てだろう。
「宇佐見菫子……ますます気に入ったわ」
敗北することは彼女にとって悪いことではなかった。それは菫子が自分の誘惑を拒絶できるほどの力と意思を持った強い人間である証左に他ならなかったからだ。幽香は強い人間が好きだった。
それに簡単に手に入ってしまっては永えの無聊の慰みにならない。
あの子が人間のままでいるのはもったいない。きっと美しい花が咲く。
彼女はティーカップをカチャリと置いた。
「本物の方は、貴女と違って随分と骨があるわね」
テーブルの上にはティーセットの他に、鉢に植えられた一輪のスミレの花があった。
葉っぱの上を一匹の蟻が歩いている。
風見幽香は微笑み、そのスミレの花びらを愛おしげに撫でるのだった。
『ひとはなふたつめ』おわり
私はそれを払い落とすこともせずただ眺めていた。
日差しが心地良い。私がぼんやり日向ぼっこをしていると、辺りが急に暗くなる。
大きな何かが陽の光を遮ったからだ。
私の顔の何倍もの大きさの顔が、こちらを覗き込んで微笑みかけてきた。
そいつは私の顔を愛おしげに撫でるのだった。
宇佐見菫子。
私はこの名前があまり好きではなかった。
スミレという音はどうにも可愛すぎる。髪はボサボサで高校生にもなって未だに化粧も覚えていない私に、花の名前はあまりにイメージにそぐわない。いわゆる名前負けというやつだ。
ただ、なにがし子という最後についた子という文字の古臭い響き(ウメ子とかトミ子とか)が可愛すぎるスミレという音を野暮ったさで幾らか和らげてくれている。
となると私は自分の名前がそれほど嫌いではないように思えてくる。しかしそんな事はない。
私が小学生の時、同じクラスに須美という名字の男子がいた。
小学生というのは実に下らない生き物で、ふと誰かが「須美が宇佐見と結婚したら須美菫子じゃん」と言い出すと「すみすみだ、すみすみ!」と何も面白くない事で大盛り上がりするのだ。果てには黒板に相合傘を書いたりする始末だ。
そしてこの須美という男子またムカつくことに、顔を耳まで真っ赤にして「こんなブスと結婚するわけないだろ!」と否定するのだ。私だって彼のことを何とも思っていなかったが、そこまで言う事ないじゃないかと思う。
もっとも子供は熱しやすく冷めやすいので、一ヶ月もたたないうちにこのすみすみブームは終わった。今にして思えば小学生らしい他愛のないエピソードだが、子供だった私に菫子なんて名前じゃなければと思わせるには十分な一件だった。
菫子さん。
またこんな話もある。
私の学校の図工の時間は自由席で、私は図工室の左後ろの席にいつも座っていた。
それは当時クラスの中で幅をきかせていたスクールカーストのトップ層の女子グループがいつも右前に座っていたためだ。煩いのが嫌いな私は左後ろの一番はじに座り、彼女たちと極力距離を取っていた。
すると彼女たちは私を指して「隅っこ菫子」と陰口を叩くのだ。大した陰口ではないのだが、当時の私に取っては堪え難い屈辱だった。
そんな風に自分の名前が嫌いになるエピソードは枚挙にいとまがない。
ただ高校生になった今思うのは、弄りようがない名前などこの地上に存在しないということだ。
人間いらない知恵が働くもので、どんな名前でも何かしら人を揶揄するあだ名を思いついてからかうのだ。
菫子さん。
からかわれるのは名前が悪いのでなく当人や周りの人格の問題なのだろう。
つまるところ私が嫌いなのは名前ではなく、きっと自分自身のことが----
「菫子さん!」
「はっ、はい何でしょう!」
「大丈夫ですか?」
早苗が不安そうに私の顔を覗き込む。
外から差し込む日の光で照らされた彼女の緑色の髪は、まるでそれ自体が光を放っているように綺麗だった。
「いやーごめんごめん。何か最近急に意識がどっか行っちゃうことが多くて……」
私と早苗は人里の茶屋にいた。
二人で茶屋で過ごすのが、最近の幻想郷に来たときの日課の一つになっていた。
「具合が悪いなら病院行った方が良いですよ。うん? この場合外の世界の病院と竹林の薬師どちらが……」
「平気平気、体調は別に悪くないよ」
早苗はよく幻想郷の外の様子を私に聞きたがった。別れを告げた故郷とはいえ、思うところがあるのだろう。
そうして話しているうちに何だか気があったのか、外の世界の話とは関係なく良く話すようになった。取り決めがあったわけではないが、毎週この時間に、寺小屋と霧雨道具店の間のちょうど真ん中くらいにあるこの茶屋でお茶するのが習慣になっていた。
早苗は見た目も花があるしクラスの中心にいるようなタイプで私とは合わなさそうだな、と思っていた。しかし彼女は案外とサブカル趣味(ロボットアニメとか少年漫画が好きらしい)で波長が合ったのだ。
「そろそろ帰りましょうか」
「そうだね、だいぶ長居しちゃった」
勘定はいつも割り勘だった。
最初私が無収入だったときは外の話を聞かせてくれるお礼と早苗に奢ってもらっていた。しかし今は香霖堂に現実から持ち込んだ適当なものを売りつけるという稼ぎ口があるので割り勘にできる。
奢られるというのは中々落ち着かないものなので、その点は香霖堂の存在に感謝しなければなるまい。
「ごちそうさまです」
そう言うと無口な店主は何も言わず小さく頷いた。
店を出ると、強烈な太陽の光に怯んでしまう。
季節は夏本番一歩手前というところだったが、外の世界のコンクリートジャングルに比べれば幾分か涼しく感じる。
それから早苗の夕食の買い出しに付き合った。
早苗は時折夕食に招待してくれるのだが、私はそこまで迷惑をかけられないというか、早苗の慕う二人の神様とは面識がないので断っている。
「いやーいつも悪いですね」
「ううん。人里で買い物するのは何か面白いから」
「あーわかります。結構田舎人の私でも商店街で馴染みのおばちゃんに声かけられながら買い物、っていうのは無かったし」
「早苗のとこでもそういうのは創作の中の話だったかー」
「私が物心つくころには商店街、ジャスコに駆逐されちゃってましたから」
「ジャスコは強いなー。ジャスコ無くなったけど」
「えっ……?」
早苗は目を丸くしていた。ここまで驚いているのは出会ってから初めてかもしれない。
「まあイオンって名前に変わっただけだけどね」と付け加えると、彼女は何だぁと胸をなでおろしていた。
私たちは人里を出て、原っぱを歩いて帰途へついていた。陽に照らされた緑色が眩しい。
早苗を妖怪の山へ送っているのだが、余所者には過敏な土地なので見送りは麓までだ。
私は歩きながらため息をついた。
「うーん、ちょっと可愛すぎるなぁ……」
「そうですか? 似合うのにもったいないですよ」
私は手のひらで髪留めを転がす。
赤い花の意匠をしつらえた可愛らしい小さな髪留めだ。
質屋のおじさんの口車に乗せられて買ってしまったのだが、正直私がつけるにはあまりに可愛すぎる。もっと地味目なデザインの方が良いのだが。
私はスカートのポケットに髪留めを突っ込んだ。
「あっ、サナエサンだ!」
原っぱの森の入り口の近くで子供達が遊んでいた。
子供達の中の一人が早苗の姿を認めると、皆がこぞって寄ってくる。里の外に住む見た目麗しいお姉さんということで、早苗は子供達の憧れでもあるのだろう。
「早苗さんあれやってよ!」
そう言いながら襟足の長い男の子がけん玉を差し出した。
「あれじゃわかりませんよ?」
「ほら、あの空中で一回転させてからたま入れる奴!」
「円月殺法かな」
そう言うと早苗はけん玉を巧みに操り、私にはぱっと見何が起こっているかわからないが凄い技を披露してみせた。
よくわからないが凄い。子供達が歓声をあげる。
ちなみにけん玉上手いねと早苗を褒めると、彼女は決まって恥ずかしそうに田舎だったのでと答える。真偽はともかくはにかむ早苗が可愛いので何度も褒めてしまう。
私が早苗の様子を眺めていると、ポニーテールの女の子が話しかけてきた。
「菫子姉ちゃん、私亀ができるようになったよ!」
「ホント? 見せて見せて」
私に話しかけてきた女の子は、そう言ってあやとりの紐を取り出した。すると他に二人の女の子が寄ってくる。
気がつけば早苗は子供達と最近教えたサッカーを始めている。(ちなみにボールは私が持ってきて子供達にプレゼントした)
私もサッカーに加わることもあったが、何となく活発な子は早苗と遊んで、大人しめな子は私と遊ぶという役割分担が出来上がっていた。
「できた!」
「おー凄い。もう覚えちゃったかー」
頭を撫でてやるとへへー、と彼女は笑った。可愛い。それにしても子供は髪がサラサラで羨ましい。
それに比べて私の髪の毛は随分傷んでいてボサボサだ。
幼い頃ころスイミングスクールに通っていたせいもあるだろう。私の髪が茶髪に近い色になっているのもそれが原因だ。
「あれ、おかしいなぁ……」
「難しいよー」
その両隣では二人が真似しようと四苦八苦している。私はなるべくアドバイスは最小限になるよう心がけている。あまり横からゴチャゴチャ言うとかえって混乱するからだ。
「菫子姉ちゃん新しいの教えてよ!」
「はいはい」
あやとりなんて箒くらいしか出来なかったが、彼女たちのためにYouTubeを見て勉強したりしてちる。大人はいつだって子供の前ではカッコつけたいのだ。
自前のあやとりをスカートのポケットから出そうとすると、先程しまった赤い髪留めが地面に落ちてしまった。
「あれ、なにそれ。髪留め? めっちゃ可愛いね」
「あー……良ければなんだけど、これいる?」
髪留めを拾い上げてポニーテールの少女にそう言うと、彼女は目を輝かせて答えた。
「いいの? やったぁ!」
「えー、私も欲しいよずるーい」
「ずるいずるーい」
「ごめんごめん、今度みんなの分買ってくるから」
そう言って他の二人を宥める。
他の子がどう思うかまでは考えていなかった。配慮が少し足らなかったようだ。
「……ん?」
はしゃぐ三人娘から目線を外し、森の方へ目を向ける。
するとそこには木に体を隠してこちらを覗く、三人娘と同じくらいの歳の少女がいた。
肌は日に焼けていて褐色で、髪は肩より上で切りそろえられている。
「ねえ、あの子ってこの前もいなかったっけ」
私が口を開くと、三人の少女はちらりと後ろを振り返る。
「あーあの子ね。いつもこっちを見てるんだけど、話しかけてこないんだよね」
「お話ししようとしてもすぐ逃げちゃうしねー」
「ふーん」
私は「ちょっと遊んでてもらえるかな」と三人に告げてそろりと立ち上がる。
ゆっくりと褐色の少女に近づいていく。今はサッカーの方を見るのに夢中なようで、私には気づいていない。
隣まで来たところで私は声をかけた。
「こんにちわ」
「……! こ、こんにちわ」
驚いた様子だが、逃げる素振りはない。緊張しているかもしれないが怖がっているわけではないようだ。
私はしゃがんで彼女に目線を合わせた。
「ねえ、あなたはーーー」
どうしてみんなと遊ばないの?
そう言いそうになったが、すんでのところで飲み込んだ。
それは私の嫌いな言葉だった。
上手く周りに馴染めないからとでも答えれば良いのか。惨めな気分になるだけの残酷な質問をわざわざすることはない。
「あー……お姉ちゃんと一緒に遊んでくれるかな?」
「……うん」
小さな声ではあったが、彼女は首を縦に振って返事をしてくれた。一緒に遊びたくないわけじゃないとわかって少し安心した。
「それじゃお手玉でもしよっか」
私がそう言うと、彼女は首を横に振った。
「私、お手玉できないよ……」
「へーきへーき」
二つお手玉を手渡した。
不安そうに彼女は私の方を見た。私は精一杯の笑顔で「私が手伝うから」と答えた。
私の意図することがわからなかったのだろう。彼女は首を傾げた。
彼女は両手のお手玉に目線を落とした。そしてそれを恐る恐る空中に放り投げた。
「……えっ!」
彼女は驚いて声をあげた。
お手玉が空中で静止した状態になっていたからだ。
私がパチンと指を鳴らすと、浮いていたお手玉が重力を思い出したかのように、彼女の手へ落ちていった。
「今のって……!」
「言ったでしょ。お姉ちゃんが手伝うって」
私は彼女の両手を握り、ゆっくりと動かす。それと合わせてお手玉をサイコキネシスで操ってゆっくりと浮かせる。
とても遅いスピードでお手玉をやらせて、体に動きを覚えさせようというわけだ。
「す、すごい……」
彼女は驚き半分嬉しさ半分といった様子だった。
段々スピードを上げていく。やがて手を離し、サイコキネシスを使うのもやめた。自転車の練習の時に、後ろから押している手を離すのと同じ要領だ。
「あれ……すごい! 私お手玉できた!」
一度感覚を覚えてしまえば、超能力による補助輪は要らないだろう。次からは一人でもできるようになっているはずだ。
「あー! 菫子姉ちゃんにそれやってもらったんだ!」
「……!」
先ほどまであやとりで遊んでいた三人娘の内の一人が寄ってくる。褐色の少女は驚いて少し身構えている。
「四つ! 私四つでできるよ!」
ポニーテールの彼女はお手玉を四個でやってみせる。得意げな表情だ。
褐色の彼女は「すごい……」と呟いて目をキラキラさせてそれを見ていた。
「私にもできるかな……」
「じゃあ私が教えたげる! まずは三つからだね」
そうしてお手玉のレッスンで二人が楽しそうにしていると、まだあやとりをしていた残りの二人も近づいてきた。
今までだってずっと隠れて見ていた少女が気になっていたのだろう。ただ、話すきっかけがなかっただけで。
「そうだ、これあげる!」
褐色の子に、さっきまで自分がしていた赤い髪留めを差し出した。
さっき私がプレゼントした髪留めだ。
プレゼントしたものをすぐ手離されるのはちょっと複雑な気分もならないことはなかったがまあいい。
「ええっ、そんな悪いよ」
「いいのいいの、友達の証!」
そう言って歯を見せて笑う彼女は、友情の証というフレーズを気に入ったのか「そう友情の証!」と何度か繰り返している。
褐色の少女はおずおずと髪留めを受け取った。
「……ありがとう。嬉しい」
髪留めをつけてはにかむ彼女には、花が咲くような笑顔、という表現がぴったりだった。
「お姉ちゃんもありがとう」
どういたしまして、と答えて私はお手玉を手に取った。
「それじゃ今日は三つでお手玉できるように頑張ろっか!」
三人娘の中にも一人、三つでお手玉が出来ない子がいるので、残りの三人でできない二人につきっきりで教える。
あーでもないこーでもないと悪戦苦闘していたが、一刻もしないうちに二人とも三つでのお手玉をマスターしてしまった。子供は吸収が早い。
その後は歌いながらお手玉をしていた。
「あんたがたどこさー、肥後さ、肥後どこさ、熊本さ……」
そうやって歌っていると、一陣の風が吹いた。
青色の夕日に私は目を細めた。遊んでるうちに大分時間が経っていたようだ。
「日もだいぶ傾いてきたかな」
そろそろ帰らなくてはと考えていると、あるものが目についた。
地平線まで続く人一人っこいない花畑の中に、目を惹く一輪の花があった。他の花と違って強烈な存在感を放っている。
私はそれに話しかけた。
「誰?」
その女性の髪はウェーブのかかっていて肩のあたりで切りそろえられている。早苗とおなじ緑色の髪だったが、より植物に近い印象を受ける。
背丈は私より大きく、赤いチェック柄の上着とスカートを身にまとっていた。
「忘れてしまったの?」
彼女がため息をつくと、それはタンポポの綿毛になって宙を舞った。
言われてみれば初めて会った気はしない、どこかで見たことある顔だった。
「風見幽香よ、ちゃんと覚えていて。風見鶏の風見に、幽けき香りで風見幽香」
彼女はそう言って微笑んだ。その赤い目は、どこか昆虫の複眼を思わせた。
むせ返るような甘い香りがする。空に目をやれば、青色の花畑が広がっていた。
脳が痺れるようにぼんやりしているのがわかるのに、自分ではどうすることもできない。
このまま眠ってしまおうか、と思うと声が聞こえてきた。
「菫子お姉ちゃん、どしたの?」
「さっきからぼーっとしてるけど」
四人の少女が、不安そうに私に声をかける。サッカーに興じる子供達の喧騒が戻ってきた。
私は眼鏡をかけ直しながら、無理やり微笑んだ。
「あ……うん、何でもないよ、平気平気」
何だ、今のは。
異常な事態に、冷や汗が額を伝う。
あたりを見渡すが、夕日はオレンジ色だし、周りは原っぱで隣に森があるだけで、花畑なんてどこにもない。
これまでも突然意識が飛んでしまうことはあったのだが、こんな鮮明な幻覚を見たのは初めてだった。
白昼夢なのだろうが、あまりに鮮明すぎる。
地の果てを超え天上にまで広がる花畑。誰もいない世界。その光景を異常だと思うどころか、どこか落ち着く場所だと感じていたことが何より恐ろしかった。
あの女性について調べれば何かわかるだろうか。しかし名前を聞いたはずなのに、全く名前を思い出せなかった。それどころか見た目すら思い出せず、記憶に靄がかかっている。
「そろそろ皆んな帰りますよー」
早苗が声をかけると、子供達がぶーたれる。まだまだ遊んでいたいのだろう。
「怖い妖怪に襲われちゃいますよ!」
おきまりの脅し文句で、ようやく子供達は帰途に着き始めた。
「じゃーねー、菫子お姉ちゃん」
「うん……」
私は必死に笑顔を作って、彼女たちに手を振った。
きっと、少し疲れただけだろう。
まわりには自分の背丈よりも大きい向日葵が見渡す限り咲いていた。空を仰ぐと、空も一面のひまわり畑になっている。
気をぬくと溶けてしまいそうな甘い香りがした。
「あ……」
目の前で、風見幽香が白いテーブルに座って紅茶を飲んでいた。彼女は紅茶の入ったカップをカチャリと置いた。カップは白い花びらになって崩れていった。
「自分が何者なのか、自分の本当の姿が何なのか思い出せたかしら?」
「私の……本当の姿……」
さっきまで椅子に座っていたのに、いつのまにか風見幽香は目の前にいた。彼女は私の顔に、優しく触れた。触れられた部分が熱くなる。
「ゆっくりと息を吐いて、ここの空気に身を任せて。あなたは---」
私はベッドから跳ね起きた。
いつもの自分の部屋であることを認めると、私はゆっくりと深呼吸した。汗で湿った下着が不快だった。
「何で……今の夢……」
「随分うなされていたようですねぇ」
「うおおおお!?」
急に人の声がするものだから、驚いて私はベットからすっ転げ落ちた。冷静になれば、その声はだいぶ聞きなれたものだった。
「仮にもうら若き乙女がうおー、はどうかと思いますよ。こういう時はキャーとかもっと可愛い悲鳴の方が……」
「芋くて悪かったわね!」
「誰も芋なんて言ってないですよ」
暗い部屋の中、手探りで眼鏡を見つけて私はそれをかけた。
暗闇に目が慣れてきた。ベッドに腰掛ける女性が楽しそうに笑っているのがわかる。
白黒の妙な服にサンタ帽を被った青い髪。彼女の名はドレミー・スイートという。
「まあまあ、どうぞベッドに腰掛けてください」
ぽんぽん、と彼女は自分の横を叩いて私に座るよう示唆する。
「私のベッドなんだけど……ていうか人の部屋に勝手に現れないでよ」
「いいじゃないですか。散らかってるわけでもないですし。持ち主のイメージに反してクマさんクッションとか小物が可愛い感じ好きですよ、この部屋」
「……」
「おやおや、からかい過ぎてしまいましたね」
そう言って彼女はクスクスと笑う。頭に血が上っていくのが感覚でわかる。
だがドレミーには聞きたいことがたくさんある。怒って追い出すわけにはいかない。
私は大げさに彼女の隣に腰かけた。
「いくつか聞きたいことがあるんだけど」
「何なりと」
「何か最近妙な夢を見るのよ。大体花畑の夢で……酷くリアルな白昼夢と言うか、そう、会話の最中でもその度に意識が急に飛んでしまって……」
「なるほど。わかりません」
「……は?」
あまりに投げやりな答えに私は狼狽えた。
「あなた仮にも夢の支配者でしょ? それなのに何もわからないことないでしょう」
「夢の支配者ってのはちょっと盛った表現です。実際には夢の世界のお節介おばさんくらいです」
「えー……夢の世界の管理人みたいなことしてるじゃない」
「自分の餌場が荒らされても困りますしねぇ。まあできることをやってるに過ぎませんよ」
それはともかく、とドレミー。
「貴女は非常にややこしい存在なのですよ。ちょっと整理しましょうか」
彼女が手を叩くと三人の私をデフォルメしたぬいぐるみが出てくる。
ドレミーと話している今この瞬間は現実なのか夢なのか分からなくなってきた。しかし余計な情報を増やすと混乱しそうなので質問せず脱線させないことにした。
「一つに現実の貴女、二つに夢人格の貴女、三つにドッペルゲンガーの貴女がいるわけです」
三人の私のぬいぐるみの額にキョンシーよろしくポストイットが貼られる。それぞれに現実、夢、ドッペルゲンガーと書かれている。
「で、貴女が幻想郷に来ているのは夢幻病のせいですが、実際どういうことかと言うと、現実の貴女は寝ている間、精神が体を離れドッペルゲンガーと意識を共有しています」
現実の私のポストイットがぬいぐるみから剥がされ、ドッペルゲンガーのぬいぐるみに貼り付けられる。
「そして夢人格がドッペルゲンガーを……おっと、この話はややこしいし貴女も知らないでしょうから省略しましょう」
「え、何、気になるんだけど」
彼女は私の言葉が全く聞こえないかのようなフリをして話を続ける。
「まあつまり幻想郷の貴女の肉体はドッペルゲンガーの肉体ということになります」
「えーと、私がドッペルゲンガーの肉体を乗っ取っているってこと?」
「違います」
切り捨てられてしまった。少し傷つく。
「夢人格やドッペルゲンガーと相対してしまってる貴女が誤解するのも無理はありませんね。あれらは特例です。そのことは忘れてフラットな状況で考えてください。菫子さん、貴女は普通に夢を見たときに夢人格に会いますか?」
「……会ったときないわね」
「そうです。夢人格、つまり夢の中の貴女も貴女自身なのです。その点においてはドッペルゲンガーも違いはありません」
ドレミーが指をパチンと鳴らすと、三体いたぬいぐるみが一体になる。
「貴女が相対してしまった夢人格やドッペルゲンガーは己の影や足跡のようなものに過ぎないというわけです。それが異変のせいもあって独立して動いてしまったというだけの話です」
「でも夢人格と私って結構性格違うんだけど」
「そうでしょうね。ですが紛れもなく貴女の一面です。自分というものをどう切りとるかよって差異が生じるのは当然です」
誰が相手でもどんな状況でも全く同じように振る舞う人なんていないでしょう、とドレミーは付け加えた。
「うーん……」
整理してもらったものの、難しいことに変わりはなかった。
私はそのまま後ろに倒れてベッドで仰向けになった。
「じゃあ他の私を倒しても自分の一部が死ぬだけってこと?」
「何と答えたら良いか……完全に死ぬことはないでしょうね。先ほども言ったように他の貴女は己の影や足跡に過ぎません。本人が生きている限り、勝手に生じるものです」
「……何か話難しくない?」
「本来夢は曖昧かつ主観的なものです。言語化して客観的に説明するのはひどく難しいことです」
何となくニュアンスはわかったような気がするので、それで良しとしてこれ以上掘り下げるのはやめておこう。
とっとと本題に入ることにした。
「基本状況の整理は良いとしてさ、最近見る白昼夢は何なんだろう。幻想郷にいるときでも意識が飛ぶんだけど、これって夢中夢っていうやつ?」
本題に話を引き戻すと、ドレミーは複雑そうな顔をした。
「菫子さんの場合、夢中夢という表現が正しいのかも怪しいくらい特殊なんですよね……ちなみにどんな夢なんですか?」
どんな夢かと聞かれても夢の話なので記憶がおぼろげだ。
「何かこう……いつも花畑があって、それで綺麗な花? というか女の人が……」
「……その女性は風見幽香と名乗っていませんでしたか?」
ピントが合った、とでも言うべきか。今までぼんやりしていた夢の記憶の輪郭がハッキリしてきた。
「そう! その人! 話は聞いたことあるけど会ったこともないのに何でかその人が……」
芋づる式に全てが思い出せるようになった。
ウェーブのかかった緑色の髪。優しげなのに人間とは明らかに異なるあの微笑み。
「魔理沙っちに聞いたけど花を操る妖怪なんだっけ?」
「それは彼女の力の一端に過ぎません。彼女は強引に他人の夢に介入するほどの力を持った強力な妖です」
以前は夢と現実の間の夢幻館という場所に居を構えていたという話も聞きますし、生来夢に関する力を持った妖怪という可能性もありますが、とドレミーは付け足した。
なるほど、夢に現れていたのが誰かはわかった。
彼女が私の夢に無理やり入ってきているのだろうか。そう思うと空寒い気持ちがした。
「用心が必要ですね。これを受け取ってください」
そういうと、ドレミーはゴソゴソと帽子の中を漁り始めた。
そして「それ」を私に差し出した。
「………………なにこれ」
ドレミーの手のひらには、小さなデフォルメされたドレミーが乗っていた。
小さなドレミーは寝っ転がったポーズをしている。
「ドレミーちゃんキーホルダー(全6種)です。クリア仕様のシークレットもありますよ」
「いや…………なにこれ……可愛いけど」
「可愛いでしょう。まあ悪夢避けのお守りのようなものだと思ってください」
「はあ……」
お守りならもう少しそれっぽい方が良かった。タリスマンとかパワーストーンとかならもう少しカッコつくと思うのだが。
私は渋々ドレミーちゃんキーホルダーを受け取り、スカートのポケットに突っ込んだ。
「心してください。夢は自分の認識が全ての世界です」
ドレミーは私の方へ居直る。
「肉体の鎧がなく彼我すら危うい夢の世界では、自分は自分だという確固たる自我が必要なんです。自分というものを強く持ってください」
「……」
初めてドレミーの真剣な顔を見た気がした。
「でも私、自分----」
僅かに甘い香りがした。花の香りだろうか。
私の意識はそこで途切れた。
原っぱで子供達が遊んでいる。早苗と子供達はサッカーボールを使ったベースボールに興じていてた。私は早々にバテてしまい、木陰で休んでいる。
みんな楽しそうに歓声をあげて遊んでいる。
ただ、その中に褐色の少女の姿はなかった。
「今日もいないな……」
私がそう独りごちると、隣から声がした。
あの少女に赤い髪留めを渡した、ポニーテールの女の子だった。
「そうなんだよね。物陰から見てるだけだったけど、今までいない日は無かったのに」
余程バテていたらしく、彼女が隣に来ていたことに気づかなかった。そういえば彼女は最近体調があまりよろしくなく、町医者から派手な運動は控えるように言われていたのだった。
「そうなんだ」
「うん」
早苗と子供たちの声がどこか遠くに聞こえる。日差しがフィルターになっているかのようだ。
「仲良くなれたと思ったんだけどな……」
寂しそうに彼女は言った。それは私に話しかけているというより、ほとんど独り言に近かった。
私は何て言葉をかけたら良いかわからず、毒にも薬にもならない相槌を打つのが精一杯だった。
「……どうしちゃったんだろうね」
彼女の身に何かあったのだろうか。
実は良いところのお嬢様で、こっそり抜け出して来ていたのがバレたとか。いや、少し失礼な話だが彼女に育ちの良さのようなものは感じなかった。
そういえば、と気づいた。
彼女が居なくなってから花の夢を見なくなった。
夢など起きたそばから忘れてしまうようなものなので確証はないが、そんな気がする。
風見幽香の標的は、私ではなくあの少女だったとしたら。
厭な想像が広がっていく。
「お姉ちゃん……大丈夫? 酷い顔してるけど」
「うん……平気だよ」
早苗にも風見幽香が夢に出ることは相談した。
ただやはり夢を見るだけでは話のしようもない。夢にアンタが出てくるのでどうにかして欲しい、と言いに行くわけにはいかないだろう。
もし仮に本当に私に何かしていたとしても、シラを切られればそれまでだ。
この季節なら向日葵畑にいるだろうが、危険な妖怪なので近づかない方が良いとのことだった。
しかしあの奥手な少女に風見幽香が何かしたのなら、黙っているわけにはいかないだろう。
でもやはり確証が無い。
私がため息をつくと、それはタンポポの綿毛になった。
「菫子さーん」
早苗の呼ぶ声で思考の沼に落ちていた意識が引きずり上げられた。
「帰る?」
「はい、疲れちゃいました」
早苗は屈託無く笑う。
「えーもう帰っちゃうんだ」
「大人は体力ないんですよ」
ポニーテールの少女が不満そうに言うと、早苗は彼女の頭を撫でながらそう言った。
桜の花びらが舞い散る中で微笑む早苗は非常に絵になる。
やはり彼女は私と違って可愛いな、と少し嫉妬してしまった。
真夏の冷たい麦茶は何にも代えがたい。
一気飲みすると、店主が黙ってお代わりを注いでくれた。私がお礼を言うと、彼は無言で頷いた。
いつも早苗と来る茶屋に来ていたが、まだ彼女の姿はなかった。
店には店主と私を除けば、母親と息子の組み合わせの親子がひと組いるだけだった。
「……どこに行っちゃったんだろうな」
独り言が夏の湿った空気に溶けていく。
褐色の少女が再び姿を見せることはなかった。少なくとも人里では子供が神隠しにあったというような騒ぎは起きていないようだった。
やはり親に外出を止められたとか、そういう事情なのだろう。
そうに決まっている。あの子の身に何か起こったわけじゃないはずだ。
そう自分に言い聞かせるほど、得体の知れない不安が胸の内にじんわりと広がっていく。
「えー、何で行っちゃダメなのー?」
小さい男の子が母親に不満げに抗議する。
集中力が途切れたのか、今まで耳に入っていなかった店内の親子の会話に意識がとられる。
「すごい綺麗な花畑って寺小屋で友達に聞いたもん」
「ダメです。知らないの? あの花畑はーーー」
その会話を聞いてるうちに、私は目の前の景色が傾いていくかのような錯覚を覚えた。
今、母親の方はなんて言った?
動機が激しくなっていく。厭な予感が明確な形を得ていく。
「おじさん……勘定」
脳内で思考が渦巻く中、辛うじて私はそう口にしてお代を支払った。
「早苗には、ちょっと用ができたって」
店主が小さく頷くや否や、私駆け出していた。道行く人を避けながら私は走る。
私の杞憂ならそれで良い。それを確かめに行くだけだ。
でももし私の予感が当たっていたら。そう思うといてもたってもいられなかった。
私は向日葵畑へと走った。
乱れた呼吸を整えながら、私は眼前の向日葵畑に目を向けた。
早苗が言っていた。今の季節なら風見幽香はここにいるだろうと。
いたずらに危険な妖怪との接触するのは避けたいので、私は息を潜めて向日葵の群れの中へわけ入った。
向日葵は全て私の方を向いているようでひどく不気味だ。
そもそも私は向日葵があまり好きじゃない。自分の背丈より大きいので威圧感があるし、よく見ると種が密生しているのが気持ち悪い。
向日葵たちの間を分け進んでいく。なるべく空いている方を進んでいくが、葉っぱが自分の肌に触れるのは避けられない。それがまた少し不快だった。
いつの間にか向日葵が大きくなっているような気さえする。向日葵たちに見下ろされて、何だか自分が小人になったような気分だった。
私は茶屋でのあの親子の会話を反芻した。
だが、もしあの母親の言葉が本当なら----
「あ……」
少しひらけたところで、私をそれを見つけてしまった。
予感は当たっていた。外れていたらどれだけ良かっただろう。
背丈の高いひまわりたちに囲まれて、一つだけ低い背のひまわりがあった。
その茎には、赤い髪留めがついていた。
『あの花畑は、元は全部人間だったのよ。怖い妖怪が悪い子は花に変えちゃうの』
茶屋で聞いたあの母親のセリフが思い起こされる。
風見幽香は私を狙っていたんじゃない。彼女の獲物はあの褐色の少女だったのだ。あの少女を自分の向日葵畑の一員へと変えたのだ。
パニックで叫びそうになる自分の口を押さえる。彼女を元に戻す方法はあるだろうか。
「あら、こんにちわ」
後ろから声がした。全身が総毛立つ。
夢の中で何度も聞いた声だった。
ゆっくりと私が振り返ると、そこには風見幽香がいた。緑色の髪が夕日に照らされている。
人ならざる赤い目が細められていて、弧を描く口は裂けているようだ。
「あなたがこの子を……!」
恐れていては駄目だ。何を恐れることがある。
私がかつて異変で戦ったのだって妖怪だ。
「この子を向日葵から人間に戻して!」
風見幽香は笑った。
目と口の先には暗闇が広がっているようで、そこから赤い眼光が覗く。
「何で私が貴女お願いを聞かなくちゃいけないのかしら」
彼女は手に持った傘で地面を叩いた。地面は柔らかい土のはずなのに金属を叩いたかのような硬質な音がした。
すると周りの向日葵たちが意思を持ったかのように全て私の方に振り返る。そして蔓のようなものが伸びてきて私の手足を搦め捕ろうとした。
「この……っ!」
私はそれを必死に引きちぎる。
向こうから手を出してきたのは、むしろ好都合かもしれない。とっちめて花にされたあの子を元に戻させれば良い。
サイコキネシスで私は足元に埋まっていたソフトボールくらいの大きさの石を掘り出して宙に浮かべた。
「これでもくらえ!」
石をサイコキネシスで風見幽香へ投擲する。
しかし彼女は避けるそぶりすら見せなかった。
「え……」
石は確かに命中した。
しかしそれと同時に、彼女の体が石の当たった部分から花びらへと霧散する。数秒のうちに彼女は完全に花びらになって消えてしまった。
即座に周りを見渡すが、数え切れないほどの向日葵が私を睨み返すだけだった。
「随分と乱暴ね。そういう子、嫌いじゃないけど」
声が耳元からした。
振り返ろうとするが遅かった。
集まった花びらが風見幽香を形成していく。出来上がった顔が私の肩に乗せられ、腕が私の腕を抑えている。
「貴女も花にしてあげる。きっと綺麗な花が咲くわ」
地面から蔦が生えてきて私の体を搦めとる。
「離せ……!」
自由を奪われ、体から段々と力が抜けていく。
何年か前に高熱で寝込んだときのことを思い出した。意識に靄がかかったようで、上手く体に力が入らないあの感覚に近い状態だ。
「貴女が周りから浮いてるのも当然よ。だって貴女は花であって人ではないんだもの」
「何を……」
拘束から逃れようとする内に、空が目に入った。綺麗な青色の花畑だった。ネモフィラという名前の花だったか。テレビで見たことがある。その中で大きな向日葵が一輪咲いていた。あれが太陽なのだろう。
「いっそ自分が人間でなかったらこんな悩むことはなかったって思ったことはない? 当然よ。貴女は花だったんだもの」
薔薇のような赤い唇で風見幽香は語りかけてくる。彼女はいつのまにか私の正面にいた。
その眼窩からマリーゴールドが覗いていた。私に顔に触れるその手は群生したマーガレットだ。
「私、は……」
呼吸がうまく出来ず、咳き込んでしまう。すると口からスミレの花びらが溢れてくる。
足が葉と茎になってしまった。立ったままではいられずその場に倒れてしまう。
地面には牡丹が、クレマチスが、アマリリスが、色んな花が入り混じって咲いていた。もう向日葵だけじゃない。寂しくない。
その花畑は地平の果てまで広がっていて、ネモフィラの空に溶けていく。それが何よりも嬉しかった。感激のあまり目から花びらが溢れていく。
世界の全てが咲いていた。咲いていないものは何一つとしてなかった。
「教えて。貴女は何の花?」
…………スミレの花
そう口にすると、今まで感じたこともない幸せで心が震えた。私はスミレの花に埋もれていた。違う。私自身がスミレの花だった。
湿った土がひんやりとしていて芯まで癒される。向日葵から差す陽の光は蕩けそうになるくらい気持ちよかった。
何だかひどく眠い。私は甘い香りに身を委ねて、ゆっくりと眠りにつこうとした。
……あれ?
何かの感触がした。何だろう。固い。小石くらいのサイズだ。
そういえば自分が妙なデザインのキーホルダーを持っていたことを思い出した。
『心してください。夢は自分の認識が全ての世界です』
そういえば誰かがそうなことを言っていたっけ。
でもそれもどうでも良い気がした。だって私はこんなに幸せなのだから。
咲くことがこんなに嬉しいことなんて知らなかった。私は今まで何をしていたんだろう。あれ、今まで? 今までって何だろう。ずっと私はスミレだったんじゃないのか。
せっかく意識が閉ざされそうになっているのに、キーホールダーが気になってうまく眠りにつくことができない。
----■■さん
誰かが何かの言葉を叫ぶ声が聞こえた。
それが何を意味するのかはわからない。でも、とても大切な言葉だった気がする。
自分の中に血肉が流れ込んでいくように、体に力が戻っていく。
『夢は自分の認識が全ての世界です』
先程思い出した言葉を反芻してみる。
そうだ。どうして風見幽香は私に何の花なのか尋ねたのだろう。
私を花にするのであれば、勝手にそうすれば良いじゃないか。そう聞く必要があったとしたら。私に自分を花だと思いこませようとしたのではないだろうか。
これはある種の自己暗示を使った催眠術のようなものかもしれない。
ならばそれを打ち破るのは自分の認識だ。
現実にスミレの花になってしまった自分が見える以上、その強固なイメージを跳ね除けるのは難しいかもしれない。
でも、今ならできる気がした。
「■■■■■----」
私はそれを叫ぼうとした。
しかしそれは意味のない言葉の羅列にしか聞こえなかった。
『肉体の鎧がなく彼我すら危うい夢の世界では、自分は自分だという確固たる自我が必要なんです』
ドレミーの言葉を思い出した。
必要なのは自分は自分だという確固たる自我。
夢の中では自分と思うものが自分なのだ。夢の中では自分が他者の視点になっていたり、鳥になって空を飛ぶこともある。しかしそれは自分がそういう自分だと思っているからだ。
同じように、自分を自分だと思えば良い。
私は息を吸い込み、お腹にぐっと力を入れてもう一度叫んだ。
十何年間も付き合ってきた、少し嫌いだけど紛れもなくずっと私であったその言葉を。
「私は宇佐見菫子だ! スミレの花なんかじゃない!」
風景にヒビが入ったかと思うと、それはすぐに砕け散った。
無限に続く花畑はもうどこにもない。向日葵畑に戻ってきた。
「菫子さん!」
私は半泣きになっている早苗に抱きかかえられていた。彼女に抱きしめられる。息ができない。
自分の手のひらを握ったり開いたりする。大丈夫だ。花ではない。ちゃんと自分の体だ。
「何で勝手に行っちゃうんですか! 」
「……ごめんて」
今にして思えば私はずっと風見幽香の影響下にあったようだ。到底まともな精神状態ではなかった。
私が辺りを見回すと、風見幽香はそこにいた。少し驚いた顔をしていた。
慌てて立ち上がり彼女に対峙する。
すると彼女は両手をひらひらと上げた。
「ああ、今日のところは私の完敗ね。貴女は綺麗な花であるべきだと思うんだけど、それを望まないみたいね」
「そんなことはどうでもいい! あの子を早く元に戻して!」
私が赤い髪留めをつけた向日葵を指差して声を荒げると、彼女は笑い始めた。
「な、何……?」
「察しが悪いわねぇ。もうマトモな意識が戻ってるはずだけど」
こほん、と風見幽香は居直って私に告げた。
「この子は向日葵にされた人間じゃないわ。その逆よ。人間になっていた向日葵よ」
「……は?」
今こいつは何て言った。
私が茫然自失としていると、風見幽香はため息をついて説明してあげるわ、と話し始めた。
「知らなかったでしょうけど、貴女が遊んでいた原っぱの隣の森の中にね、一輪だけ向日葵が咲いてしまっていたのよ。たまたま種が流れ着いちゃったのでしょうね」
それが彼女、と髪留めのついた向日葵を風見幽香は指差した。
「たまたま一輪だけ咲いてしまったものだから、森の中でずっとひとりぼっちだった。そんな孤独に苛まされているとき、貴女たちが毎日楽しそうに近くで遊んでいたのを見て、自分も混ざりたいと思ってしまったのね」
人ならざるものがいつのまにか人に混ざっているという話は確かに珍しくない。
子供であればなおさらだ。遊んでいるうちに知らない子が混ざっているというタイプの怪談は古今東西問わず枚挙にいとまがない。
「ただそういった怪異との触れ合い基本的には人間にとっては毒よ。悪影響を及ぼすことがあるわ。子供たちの中で調子の悪い子はいなかった?」
「そういえば……」
早苗がそう言うのを聞いて私も思い出した。
私からもらった髪留めを褐色の少女にプレゼントしたポニーテールの女の子は体調を崩していた。
「私にとっては人間の子供がどうなろうが知ったことではないのだけれどね。あの森で咲き続けるのは寂しいだろうし日当たりも悪いと思って、この花畑に植え替えてあげたってわけ」
ひょっとしたら彼女が背の低い向日葵なのは、年齢以外にも日当たりが悪かったせいかもしれない。
大筋で納得しかけていたが、私はいつもの茶屋で聞いた話を思い出した。
「で、でも人里で花畑の花は、花になってしまった人間って話聞いたし……」
「あー、私もその話聞いた時あるけれど、それって向日葵畑じゃなくって鈴蘭畑の話じゃないかしら?」
風見幽香の言葉に早苗が頷き、彼女は私に説明してくれた。
「鈴蘭畑は別名無名の丘といって、古くは子供を間引くのによく使われた曰く付きの場所だそうで、人が花になってしまうという脅し文句で子供を近づけないようにしているという話は私も聞いたことがあります。……捨てた子供が鈴蘭になったという話が転じたのでしょうね。」
あと毒人形の妖怪が出るので実際危険な場所だそうですし、と早苗が付け加える。
確かに毒人形が出没する上そのような曰く付きの場所であれば、そういった創作話で子供たちを遠ざけることは考えられる。
「するとさ……私って何、勘違いで突っ走ってこんな酷い目にあったわけ……?」
あははは、と風見幽香は笑った。
「ともあれ貴女は私に打ち勝った。それは大したものよ。ますます欲しくなったわ」
そう言って彼女は赤い目を細めた。血の色の赤ではない。花の色だ。
人外の眼差しに私は少し怯んだ。
「この場で腕ずくで手に入れても良いのだけど、この小さい向日葵がやめてほしそうにしてるからね。潮時だわ」
どうやら見逃してくれるらしい。冷静になった今では、彼女は私ごときが太刀打ちできる妖怪ではないとわかる。
ほっと胸を撫で下ろしていると、指先が私の頰に触れた。風見幽香の指だ。
「でもいつか必ず花にしてあげるわ」
私は動けなかった。息が止まる。
彼女の顔を見た。人間と同じ顔をしているが、きっとこの顔の向こうには人間と同じように血肉があるわけではない。
目や口は体の機関というより、ただ穴が空いているだけのようにも見えた。
「……!」
早苗が風見幽香の私に触れている手をつかもうとすると、つかもうとした部分が花びらになって霧散した。
そのまま風見幽香は花びらになって消えた。
「見逃してくれた……みたいですね」
今度こそ私は胸を撫で下ろした。
すると早苗が私の両肩に手をかけて言う。怒っていた。
「何か言うことはありますか?」
「……先走っちゃってごめん」
早苗はため息をつくと、私を立ち上がらせた。
「詳しく聞かせてもらいますからね。今日は菫子さんの奢りです」
「はーい……」
だいぶ心配させてしまったようだし、一回奢るだけで済むなら安い話かもしれない。
私たちは茶屋に向かって歩き出そうとする。
だがその前に、赤い髪留めをつけた背の低い向日葵を振り返った。
「……また遊びに来るよ」
向日葵が風にそよいだのが、私には彼女が小さく頷いたように見えた。
もっとも遊びに来るのは風見幽香がいない時を見計らってになってしまうが。出来ることならもうあの妖怪とは会いたくなかった。
しかし、と私はここ最近のことを振り返る。
なぜ私の夢に風見幽香が出てくるようになったのだろう。風見幽香は一体いつから私に目をつけていたのだろうか。
風見幽香は白いテーブルとティーカップを用意して、紅茶を嗜んでいた。あたりには花が一面に広がっている。
「本当やってくれるわね……ドレミーとか言ったか」
言葉とは裏腹に彼女は嬉しそうだった。
向日葵の植え替えのついでに菫子をおびき寄せることに成功し、一石二鳥と思っていたが、結局菫子をものにする計画は失敗してしまった。
敗着があるとすれば、ドレミー・スイートが思いの外菫子に目をかけていたことだろうか。それとも東風谷早苗が店主に教えてもらった情報で推理し向日葵畑に向かったことだろうか。
いや、結局のところ幽香の誘惑を跳ね除けたのは菫子自身の意思だ。それが全てだろう。
「宇佐見菫子……ますます気に入ったわ」
敗北することは彼女にとって悪いことではなかった。それは菫子が自分の誘惑を拒絶できるほどの力と意思を持った強い人間である証左に他ならなかったからだ。幽香は強い人間が好きだった。
それに簡単に手に入ってしまっては永えの無聊の慰みにならない。
あの子が人間のままでいるのはもったいない。きっと美しい花が咲く。
彼女はティーカップをカチャリと置いた。
「本物の方は、貴女と違って随分と骨があるわね」
テーブルの上にはティーセットの他に、鉢に植えられた一輪のスミレの花があった。
葉っぱの上を一匹の蟻が歩いている。
風見幽香は微笑み、そのスミレの花びらを愛おしげに撫でるのだった。
『ひとはなふたつめ』おわり
物理攻撃すると花びらになってダメージ入らないのがロギアって感じします(すいません)
ただ、全体的にまとまりがないような印象がある
結局なにが一番伝えたいことなのかがよくわからなかったです