◇◇◇ 第1話 カミのまにまに
詰襟の制服姿、中学生の男の子が、田舎の畦道を浮かない足取りで歩いていた。
市街地を離れて夏の田んぼの中を突き抜ける道は美しいようでいて、少年にとっては見慣れた、見飽きた、目に映す価値も無い、ありふれた通学風景だ。少年は強く奥歯を噛み締めて、凝っと足元だけを睨んで、何事かを呟きながら歩いていた。
口元に耳を寄せなければ聴こえないほどの小さな声だ。しかしその声を聴いているモノは、いる。
少年は、こう呟いていた。
つまり、「──覚えていろ」と。
◇
所変わって、夏休みが明けた中学校の教室。
ある少年が教室の扉を開けて入ってきた瞬間、それまでにわかに騒ついていた教室は、ほんの一瞬、しんと静まり返り、次の瞬間には誰もが無関心を装って、何事も無かったように元通りになった。
「おはようございます。**君」
隣の席の少女が声を気さくに掛ける。少年はロクな返事をしなかったが、もうその時には既に、少女は窓の外を眺めていた。
よお、と。
まるで友達のように、数人の男子グループが少年の肩を叩いた。
放課後、遊ぼうぜ。
にやりと笑って言うリーダー格の少年は、髪を短く刈り込んだ好青年で、無口な少年の方も、別にひ弱な印象は無かった。
そこに、力の弱い男の子とガキ大将といったような、分かり易い力関係の絵図は無い。
ただ、入院沙汰にならない程度の暴力があって、今の所は万単位で済んでいるお金のやり取りがあって、その他諸々の、陰湿なわけではなくカラッとした男の子らしいやり取りがある。少年の青痣は胴体に集中していた。
◇
少年はとっくの昔に絶望していた。
再び、夏の畦道。
「──覚えていろ」
聴こえるか聴こえないかというブツブツした小さな呟きを、あるモノが聴いていた。
『へぇ、それで?』
「いつか絶対に」
『うんうん、成る程、それで?』
「……覚えていろ」
『いや、それはもう分かったから』
「あいつら、許さない」
『許さないとどうなるのさ? 覚えていろと呪うことに、意味は無いよ? 覚えてるわけなんて、無いんだから』
程無くして、少年は不思議な声が自分の妄想の産物でないことを知る。
そしてこの、翌日のことだ。
学校の裏山だった。
適度な広さがあり、人目に付かず、恰好のリンチの舞台となる。その日もいつも通り、男の子のグループは少年を連れ込んだ。遊びと称して始まったリンチはややエスカレートし、少年は命の危機を感じることも少なくない。
しかしその日の少年は妙に無抵抗で、言われるがまま裏山にまでやって来た。その唇が不敵に歪んでいることに、グループの男の子達は気付かない。すぐにリンチが始まった。
中学生の男の子の想像力から繰り出される暴力は、趣向に欠けたものだ。最初は遊びと称していたからにはプロレスごっこの延長のようなものだったのかも知れないが、今となっては、頭部は避ける程度のルールしかない。そんな遊びはつまらない。だから飽きる。だからエスカレートする。
だから、暴力も趣向も雑になる。観客がいれば、さぞ白けた目をしているに違いない。はて、いったいどうオチを付けてくれるのやら。
ふとした瞬間に誰かの膝が良い所に入って、少年は今日一番の呻き声をあげた。しかし顔には、不敵な笑みが張り付けたまま。
さぞ不気味だったろう。
鳥肌が立つ寒気を感じた男の子のグループは、格下相手にそんな感情を覚えたことを認めたくなくて、自分を鼓舞するように、更に激しい暴力を振るった。箍は、外れ掛かっていた。
その狂乱の渦が最高潮になった頃だ。
「お前らッ!」
少年は叫んだ。
「アレを見ろッ!」
少年は指差した。
そこにいたのは、一匹の白い蛇だった。
◇
田舎の畦道を、姉妹のように瓜二つの、二人の少女が歩いている。
「……ねぇ、お姉ちゃん」
ランドセルを背負った女の子が、中学生の姉に、不安げな表情で声を掛けた。
「お姉ちゃんの学校で、事件があったんだって?」
「ええ、ありました。同じクラスの子ですね」
「……裏山にいた男の子達が、入院中って」
「どこから聴いたんです? それ」
「えっと、ただの噂、だけど」
「うーん、流石は田舎ですねぇ。人の口がガバガバです」
「何があったの?」
女の子、東風谷早苗にとっては、この頃から美人で自慢の姉だった。正確には親戚の従姉で、そして、当代の祟り神の巫女。
その従姉が、少し先まで歩いて、溌溂とした笑顔と共に振り返る。
「死者一名。重傷者数名。少年達は、いわゆる、いじめっ子といじめられっ子の関係でした」
──さて、何があったと思います?
早苗は、じっと考え込む。
その事件に神様が介在していることは、薄々ながら察している。当代が否定しないのだから、そこはほぼ確実と見て良い。
「……天罰、かな? 死んじゃったのは、リーダー格の男の子で……あれ? でもそれだと、いじめられっ子はどうなったの? もちろんその子だけは無事に助かったんだよね?」
「いいえ、無事に済んだ子はいませんよ。あと一つ訂正、死んだのはいじめられっ子の方です」
あ、隣の席の子なんですけどね。
どうでもいいことのように付け足した従姉に、早苗はゾッとするものを感じた。
「あんまり言いたくないですけど、これでも一応ブレーキは掛けた方なんですよ? それが私の主な役目ですし……ここだけの話、ちょっと手は抜きましたけど。まあ、今回の件なら死者一名くらいが妥当な所ですかね。これ以上は流石にやり過ぎなので、止めました」
「ねぇ、待って。どうして、いじめられていた方が死んでるの?」
早苗の素朴な問い掛けに、少なくとも妹の前でだけは優しい従姉は少し仕方が無さそうに、少し困った風な、そんな曖昧な表情で、首を傾げる。
「神様は人の都合なんかで罰を与えませんよ。いじめっ子とかいじめられっ子とか、そんなの神様にとってはどうでもいいことじゃないですか」
「──えっ?」
その通り、なの? その通り、かも知れない。
一瞬でも納得しかけて、幼く真面目な早苗は、それでも子供心に何かおかしいと感じた。だって悪いのはいじめっ子の方で……そんなモヤモヤした思いを拙い語彙で伝えようとして、結局、言葉にはならない。
その場の全員に祟りがあり、唯一の死者は、よりにもよって、いじめられっ子。そこには本当に何の理由も無く、ただの理不尽な祟りと済ませられてしまうことなのか。もしそうなら、いくら何でも納得できない。
「簡単なことですよ」
巫女としての先輩は一言、戸惑う後輩に、こう告げる。
「蛇を指差しちゃ、いけないんですよ。そんなことをしたら、バチが当たります」
当代の祟り神の巫女は、快活そのものの笑顔で、まるでそれが簡単で当たり前なことのように言ったのだ。
「──このくらい、常識ですよ?」
『蛇を指差してはいけない』『蛇を指差すと、指が腐る』
確かにそれは、早苗も知る所の『常識』だった。
◇◇◇ 第2話 ウミガメのスープ?
大妖怪ぬえ様は、えっへんと胸を張って言いました。
「一番怖いのはね、人間ではないわ。だからと言って人喰いのバケモノでもない。本当の本当に一番怖いのはね、『正体が分からない』ことなのよ」
里の大通りのとある角を曲がり、裏通りに入る。更に裏路地を進んで行くと、表の喧騒とはまた違った、やや猥雑とも取れる賑やかさに出迎えられる。
薄汚れた暖簾を出したラーメン屋に、同じく薄汚れた男共が五人ほどの行列で並んでいる。店の席数が少ないために、この程度の人数で行列になるのだった。とは言え行列の魔法なのか、一人また二人と後ろに着いて、昼時となると行列は途切れることが無いのだった。
店主は、威勢の良いことが常のこの職種の男達と違って、頭にタオルを巻いた寡黙な男だった。客が来ても僅かに頷くのみ。どんな来歴の男なのか全く素性は知れず、片足は義足だ。頭のタオルも人前で外したことは無いという徹底振りで、馴染みの常連客は頭にタオルを巻いていると見れば、全く関係無い場所でも、ここの店主を連想してしまう。
肝心のメニューはと言えば、細めの中華麺に、あとはメンマといった基本的な具材がスープの上に浮かぶのだが、そのスープがまた、珍味なのだ。
まず魚介ではない。豚骨でもない。どうやら動物由来のダシと醤油ベースのスープを割っているらしいという所までは分かっているのだが、では何の動物なのか、という話になると、店主は秘伝だと言って口を割らない。
巷で人気の店のある日、腐れ縁の男二人が、こんな会話をしていた。
「なあ知ってるか? ここの店、何の骨でダシを取ってるか」
声は潜めているものの、店主に聴こえないはずもない。しかし店主は無言で麺の湯切りをしていて、まるで興味を示した様子もない。
ある意味、鎌でも掛けてやろうというつもりなのだ。
意味深に笑って話す男は、もう一人の男と、そして何より店主を窺いながら、こう告げた。
「見た奴がいるんだよ。人骨を突っ込んだバケツを持って、無縁塚の方向から歩いてくる、あの店主の姿を見た奴がな」
狭い店の空気が、しん、となった。
営業妨害も甚だしいが、店主は我関せず。先に折れたのは、今の話をした男の方だった。
「じょ、冗談だって」
「これから喰う所なのに、悪趣味なこと言うなよな……」
「すまん」
悪趣味と言うか悪質と言うか、しかしながら、元より本気だったわけではない。何のダシかは依然として謎のままだけれど、他の客は気にせずに、再びスープを啜り始める。
トン、と空の器が置かれた。完食である。その気持ちの良い食べっぷりに、客の誰もが目を向けた。と言うのも、こんな場所にはそぐわない、赤いリボンを付けた金髪の少女だったものだから。「ごちそうさまでした」と呟いた少女は、それから怪訝そうに、右に左にと、小首を傾げる。
「ん~? んん~? うん。いや、人間の味じゃないよ?」
今度の沈黙は、先とはまた種類が違っていた。何と言うか、そう、あれ、気まずい、とでも言うべき感じ。
「まあ良いや。ごちそうさま、美味しかったよ。それじゃあね」
少女が上機嫌で店を去った後、奇妙にいたたまれない空気に取り残された男達は、困惑しきりの顔で、手元の、その透き通ったスープに目を落とした。
恐る恐る、レンゲで少し掬う。美味い。美味いものは、美味いのだ。
ある意味、人間を使った禁断の味と言われれば納得もしてしまう。悪質な冗談であれ、たとえ人骨という噂が付き纏ったとて、ガサツな連中は気にもしなかっただろう。悪い噂を承知で笑い飛ばし、怖がる小心者を笑ったことだろう。その男達が、困っていた。お困りです。
人喰い妖怪として知られる金髪の少女曰く、謎のスープは、人間の味ではないらしい。
──じゃあ、コレは何だよ。
客の全員が一斉に、心の中でツッコミを入れた。
相変わらず、頭のタオルが特徴の店主は寡黙な態度で、そして相変わらず、短い行列は続いていた。
◇◇◇ 第3話 頭の中のお花畑
女の子は夢を見ています。
そこは不思議な不思議な、王国でした。
水色、ピンク色、レモン色、柔らかくて優しい色のお花がたくさん咲いて、空からはやはり同じ色の花弁が降り注ぎます。
王国にはチョコレートもクッキーもありますから、お姫様は何一つ不自由なく過ごすことができるのでした。集めた花弁をわあっと撒き上げたり、花冠のティアラを作ったり、王国の遊びは尽きることもありません。
お姫様は幸福です。
夢の国が豊かなのは、現実でも愛されている証拠です。世間では何かと、貧しい子供こそ幸福な国を夢想して逃避するものだと誤解されがちですが、それは違います。絶対に違うのです。現実で注がれる愛情なくして、夢の国の繁栄は有り得ません。
ある日、幸せの王国に、日傘をクルクルと回しながら、赤いチェック柄の服を着た、嫋やかなお姉さんがやって来ました。
「こんにちは、お姫様」
さてさて、本当のことを言いますと、女の子は怖かったのです。何と言ってもそのお姉さん、ぽんやりふわふわしているようでいて、どことなく怖い怪物のような目付きをしています。
彼女がやって来た方角の空は、見たこともないような紫色の月が浮かぶ、満天の星空です。
普通のお客様ではないと、女の子は悟りました。しかし怖がるわけにもいけません。何しろ女の子は、この王国のお姫様なのですから。
怪物は大前提として人に害を為します。ひょっとすると些細な、例えば指を差してしまうくらいのことであっても、少し格の高いヘビさんなら指を腐らせますし、どこかのケロちゃんであれば、たまたま近くにいただけなのに、という人間まで含めて容赦なく一呑みにしてしまうことでしょう。
その一方で怪物は気まぐれです。きちんとした対応をすれば、珍しい慈悲で見逃してくれることもあるのですよ。
畏まって、心からのご挨拶。これで十回に一回くらいは助かります。いえ、本当は怖いモノに出遭ったら、そうと知らずにやり過ごせる幸運を祈るのが一番なのですけれど。
「こんにちは。私はこの国の姫よ。貴方は?」
女の子、いいえ、お姫様は、毅然とした態度で誰何します。
怪物は、ちょっとした失敗を誤魔化すように微笑を零しました。
「これは失敬しましたわ。私はあちらの空の下の、夢幻館というお屋敷に棲んでいる、幽香という者です」
スカートの裾をちょこんと持ち上げて、上品なカーテシー。マナーはばっちりです。これは大変、賓客として目一杯のおもてなしをしなければ、王国の名折れです。
「まあっ、こちらこそ失礼致しましたわ。さあさあ、素敵なお嬢さん、どうかこちらにいらしてくださいまし」
素敵な挨拶には、ならなかったかも知れません。子供がごっこ遊びに興じるようなものだったでしょう。それでも怪物、幽香は気を良くしたようです。お姫様に手を引かれ、花の王国の散策を楽しんだのでした。
王国を一周する案内を終えて、優雅なティータイム。
目を細めて花畑を見やる幽香は、優しい表情で言葉を紡ぎます。その表情があまりにも真摯で、きっと大切な福音だと分かったから、お姫様はよく耳を傾けます。
「綺麗な花畑ね。良いこと? 花は、土の中に含まれる色を吸い上げて、美しく色付いていくのです」
「はい」
「良い土が無ければ、美しい花は咲かないわ。そして貴方の王国の花は、綺麗よ。これはね、貴方が住む環境が良い土壌であることの証拠なの。別に感謝しろと説教しているわけじゃない、でもね、覚えておいて。貴方が幸せなのは、貴方が愛されているからなのよ」
「はい。分かりました」
◇
……いつ以来だろうか、昔の夢を見るのは。
少し補足しておくと、今、あの頃と同じ種類の夢を見たのではない。少女時代に見た夢を、過去の思い出として、今に思い出したのだ。ではその切っ掛けとなった夢がどんな夢だったかと言うと、夢の記憶は靄の彼方に。
とりあえず短大に入って、そこそこバイトをしながら卒業して、だらだらと一年間フリーターをして、今年の春から、正社員としてデザイン系の職種に就いていた。
正直、大学は全然そちらの業界ではなく、苦労の連続ではあったが、まるでやりたくもない仕事よりはマシだろう。ダメ元で面接を受けてふらっと突然に就業できただけ、運が良いのだ。未経験者歓迎などという惹句の嘘を嫌という程知った身としては、今の仕事に必死で喰らい付いていくしかない。
今の所、大きな失敗も問題も無い。仕事上でのストレスは多かったが、なんとか自分を誤魔化しながらやっていくことが出来ていた。
目が覚めた時、カラカラに乾いて、粘つく唾液の絡んだ喉が不快だった。時計も見ずに布団から這い出して台所に立ったのだが、現時刻、深夜の三時。これなら、あと三時間は眠れる。コップの水の残りを飲み干して、すぐに布団に戻った。
泥のように眠り、もう夢なんて、見なかった。
◇
夢の世界のどこかに、打ち捨てられた王国があります。
ある一時期、王国の花畑は、まるで毒素でも吸収したように毒々しい色となり、形も奇妙な捻花となっていましたが、今はもう、そんなこともありません。
──だって、王国そのものが、失くなっているのですから。王国は寄り付く人もいなくて、ぽっかりと開けた空き地を残すばかりになっています。もはやそこに王国があり、お姫様がいたことなんて、窺い知ることはできないでしょう。
ところで。まあ、それはそれとして。
かつて女の子だった女性は、まあそれなりに仕事を一生懸命にこなして、結構な頻度で理不尽なことを言う上司から、たまに褒められて、その程度のことで嬉しくなったりして。
ある程度仕事に慣れてくれば、時間と気持ちにも余裕が生まれて、休日くらいは羽を伸ばすこともできました。
そうして、女性は幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。ほんと、笑っちゃいますね。
◇◇◇ 第4話 置き純狐
霧雨魔理沙は変な夢を見た。
まず、魔理沙は刑事だった。そして舞台は、とある閑静な高級住宅街。
「成る程、そう来たか……」
その住宅では残虐な殺人事件があり、刑事である魔理沙はもちろん調査にやって来たわけだ。
昨夜、夫が夜遅くに帰宅すると、妻と子供が無惨にも殺害されていた。字面にしてみればこれだけで、犯人は妻と子の二人をリビングに集め、わざわざ同じ部屋で見せ付けるように殺したらしいという犯行状況も、魔理沙の頭にはミステリ小説のシチュエーションのようなものとして入って来た。おかげで生々しさを感じることもなく、魔理沙はベテラン刑事の顔付きで唸り声をあげる。
それもそのはず、歴戦のベテラン刑事でもつい唸ってしまうような、難事件の予感があったのである。
リビングには、『純狐』がいたのだ。
大きな画面のプラズマテレビの横に、『純狐』がいるのだ。ちょっと小粋なリビングの、大きな画面のプラズマテレビの横に、置くタイプの『置き純狐』がいる。
「これはこれは、困った状況ですね」
「お前は……?」
キラン、と光る横目で、声の主を睨む。
魔理沙はすっかり刑事に成り切っています。
「申し遅れました。エリート刑事のドレミーです」
ナイトキャップを脱いで一礼する、ドレミー刑事。その如才ないエリートっぽさに、現場叩き上げ系、という設定の魔理沙刑事は、またも唸り声をあげた。エリートには負けられない。
「で、困った状況と言うのは?」
まずは軽いジャブ。
「いえ、ね。だってこのリビングに置くタイプの『置き純狐』がいるということは……」
「ああ、そうだな」
「ですよね」
つまりは、ある種の不可能状況というやつだ。刑事として、これを認めるのは釈然としないものがある。
「四角い部屋の一辺、そこにいる『純狐』の死角となる場所は、存在しません」
「ってことは、『純狐』に見られずに犯行を遂げるは不可能だったというわけだ」
「そうなってしまいます」
魔理沙は頭を抱えて、恨めし気に『純狐』に視線をやる。こいつのせいで話がややこしくなっているのだ。
不可能状況、本当にそうとしか言いようが無い。ドレミーに言われるまでもなく、このリビングに『純狐』の死角となる場所が無いことくらい分かっている。逆に言えば、リビングにいれば嫌でも『純狐』が目に付く。
しかしどうやって、『純狐』に見られずに犯行に及んだのか。
「……例えば、だ。例えば、犯行自体は他の部屋で行い、その後で遺体をこの部屋に運んだ、とか」
「それは無いでしょう。血痕の状況からして被害者がこの部屋で殺害されたことは確実とされていますし、何より、犯人はどうしてわざわざ『純狐』の前に立つリスクを犯してまで、『純狐』のいる部屋に遺体を運んだのですか? その必然性は無いでしょう」
絶妙に人を嘲弄した腹の立つ顔で、ドレミー・エリート刑事。
「言ってみただけだ」
何か無いのか。何か、『純狐』の存在を掻い潜って犯行を可能とする、そんなトリックが。
「例えば、『純狐』はこちらを向いているだろう? だったらさ、『純狐』を持ち上げて後ろを向かせるなり何なりすれば、どうだ?」
「成る程。しかしその後、犯人はわざわざ後ろを向かせた『純狐』を元に戻した、ということになりますが」
「ああ、そうだ。そうすれば、『純狐』による密室の演出にもなるからな」
自分で言及して初めて、魔理沙はこれが密室殺人であることに思い当たった。
密室とは、何も物理的な施錠が全てではない。例えば、通行人の視線に晒された通りのように、犯行に及ぶ人間の心理的な事情を鑑みて、開けた密室が成立することもある。『純狐』のいる部屋は、まさにその密室だった。
冗談じゃねぇぜ。
探偵ならばいざ知らず、刑事にとっては悪い冗談のような言葉だ。『純狐』による密室だと? ふざけるのも大概にしろ。刑事の仕事は、探偵の道楽ではない。
「ですが」
ドレミーの声で、魔理沙は物思いから帰ってきた。
「ですが『純狐』には、人の手で動かされた形跡が無いのです」
「何だって……?」
となると、早くも手詰まりではないか。
「いやいや、待て待て。何も動かす必要は無いんだ。とにかく『純狐』の視線さえ遮れば、犯行は可能だろう」
ドレミーはやっぱり絶妙な表情で、呆れた風に首を横に振って露骨な溜め息を吐いた。
とにかく『純狐』には人の手で触れた痕跡が無い、と。
「……なんてこった」
考えろ。
考えろ。
考えるんだ、魔理沙。
落ち着いて情報を整理しよう。
・犯行現場は間違いなくリビングである。リビングには『純狐』の死角となる場所は存在しない。
・また、『純狐』を動かす等の、『純狐』に作用する仕掛けが用いられた形跡は無い。
・重ねて、犯行現場は間違いなくリビングである。犯人は『純狐』のいる部屋で、家の妻子を殺害した。
・『純狐』は置くタイプの『置き純狐』である。
何かあるはずだ。この『純狐』による密室を打ち破る、何らかのトリックが。
「……………………」
しかし、現実は無情である。「いや夢ですけどね」というドレミーの呟きはともかく、現実は無情なのだ。魔理沙には、『純狐』に隠れて犯行を可能とするトリックが思い付かない。
「……いや?」
何か、引っかかる。
何だ? 『純狐』に隠れて犯行を可能とするトリック……?
「それだ!」
魔理沙は最初から誤解をしていたのだ。
犯人は、『純狐』に隠れて行動したのではない。そもそもこの密室は心理的な密室。心理的な壁さえ突き抜けてしまえば、後は入りたい放題の出たい放題で、密室でも何でもないのだ。唯一、『純狐』のことを何とも思っていない者にだけは、犯行が可能となる。
「──つまりさ、犯人は『純狐』の見ている前で、堂々と犯行に及んだんだ!」
この夢をミステリか何かだと思っている魔理沙は、そのシチュエーションの生々しさを想像しなかった。だから、無関係のまま切り抜けることができたのかも知れない。
◇◇◇ 第5話 人間のすることだから
今から数十年以上も昔、人間の里は現在ほど発展してはいなかった。その頃の話だ。
妾腹として産まれた男の子を襲ったのは、紛うこと無き謂れのない理不尽な暴力だった。半分は実子でありながら扱いは丁稚奉公以下の奴隷。存在そのものを疎まれ、住まいとして提供された離れの小屋すら彼の居場所ではなかった。
殴る蹴るは当たり前、ほとんど食事も与えられず、行動の自由も無い。胆力さえあれば自力で日々の糧を得られる浮浪児の方が、よっぽど健康な生活を送っていたかも知れない。
とは言え、その境遇を不幸だと言うのは間違いだ。
何故って、男の子にはそれを判断するだけの知恵が無く、比較するべき世界を知らない。そんな生き物は、はっきり言って動物と変わらない。だから、家の人間は動物を虐待しているというわけだった。
大人達は口汚く男の子を罵倒しながら、暴行を繰り返した。唾と共に投げ掛けられる言葉の意味は大半が理解できなかったけれど、お前は人間以下だと言われていることだけは、なんとなく理解できた。
──どっちが人間以下だ。
男の子が産まれて初めて思った、皮肉っぽい内容の言葉だった。
周囲の人間は鬼畜生以外にはいないのだと、男の子はすっかり信じ切っていた。虐げられる側も虐げる方も、どちらも人以下の、醜い畜生だ。
◇
そのまま何事も無く、と言うには凄惨な日常ながらも、男の子は少年となり、少年が青年となるだけの月日が流れた。
額から側頭部に掛けてまで大きな火傷があった。寒い冬に火鉢をねだったばかりに、頭を鷲掴みにされ、焼けた火鉢の中に突っ込まれたのだ。恐怖と憎悪を感じる時間は多々あったが、痕跡として一番大きく残ったのが、その時の大火傷だった。以来、青年はどんなに寒くても熱源無しで耐え忍ぶ決意を固めた。
青年は相変わらず痩せ衰えていたけれど、その機会だけは虎視眈々と狙っていた。つまりは復讐。人間以下と罵られるのなら、それは結構。本当に人間ではないものに成ってやる。そう思って、そう行動して、その結果、青年は逞しく成長を遂げる。
食事は僅かな残飯しか与えられない。これでは、いけない。何がいけないって、強くなれない。
青年は隠れて運動に励みながら、注意を怠っている人間を襲って、生き血を飲んだ。血は滋養強壮に優れた貴重な蛋白源だ。矮躯が改善するには時間が掛かるだろうが、青年の体には、しなやかな筋肉が付き始めた。
さて、問題となるのは決行の期日。
今となっては青年に興味を向ける者などいないけれど、いつか青年の変貌振りに家の誰かが気付くだろう。そうなれば、連続する殺傷事件と関連付けられる危険性がある。
十分な膂力が備わり、かつ注意がこちらに向いていない、そんな都合の良い状況を見極めなければ、復讐の成功は無い。しかしその瞬間を、青年は天性のバランス感覚で見抜いてみせた。
屋敷の中を、走る、走る、跳ぶ。殺戮技術の師は、ネズミを狩る猫だった。青年は人間とは思えない身のこなしで、瞬く間に復讐を遂げた。言うまでもなく、関係者全員、皆殺しだった。
これで心身ともに名実ともに怪物になった。なってしまったのだと後悔もしなかったのに、月夜に轟く勝鬨の遠吠えは、彼にとっても不思議なことに、どこか哀切な響きを伴って聴こえた。野犬が哭いているものと、誰もがそう思った。
◇
無縁塚に人喰い妖怪が棲み始めた。
人里に、そんな噂が流れていた。墓地へ遺体を捨てに行った者が、姿を見た。襲われて帰って来なかった者もいる、という話だ。
人骨を、文字通り骨組みにして、土で固めた家を建てて棲んでいる。
人間を襲い、生き血を啜る。少し前に里で暴れたのも、この妖怪だろう。
人骨を突っ込んだ容器を持って、無縁塚の中を歩いている姿を見た。
等々。人々は口々に噂して、結果その一件は、当時の当代の巫女の知る所となった。
その夜の暗闇は際立って濃いようで、夜空には冴えた月が浮かび、白々とした月の光が差し込んでいる。だからなのか、一寸先も闇、という諺とは違っていて、その深く濃い暗闇を、彼方までも見通すことができるのだ。
喩えるのなら、光の差す海底洞窟の絶景。夜の底に満ちた暗闇は透明に澄み切っていて、あるいは、一切の不純物も含まれない暗闇とは、本来はこんな風に綺麗なのかも知れなかった。
無縁塚を怒濤のように征く巫女は、赤いリボンを付けた金髪の少女と出くわした。
ルーミアはふよふよと遊覧するような歩みを止めて、巫女もまた、およそ三間の距離を取って着地する。
タールの沼地、の、ようなものと見えた。とぷ、とぷ、と湧き出る粘度の高い液体が、背の低いドーム状に広がりながら、ルーミアの膝下ほどの水嵩で、粘っぽく纏わり付いていた。一切の光を通さないそちらの闇は、透明度の高い夜の空気とは、重さも密度も何もかもが違う。まるで、濾過。ルーミアが暗闇に含まれる栄養素を吸収することで暗闇の透明度が高くなり、その一方で、漂う不純物を掻き集め混ぜ合わせ捏ね繰り回して圧縮したものが沈澱する。
巫女はそれを、たった一瞥しただけで済ませた。
「ここで、人喰いの妖怪が活動していると聞いたわ」
「そーなの? でも、私じゃないよ。だって、さっき来たばかりだし」
「ここで、人喰いの妖怪が活動していると聞いたわ」
再度、巫女は有無を言わせない強い口調で繰り返す。
「いないよ」
ルーミアは、今夜の闇に似て澄んだ声で言った。
「ここで、人喰いの妖怪が活動していると聞いたわ」
巫女が繰り返す。これで三度目。
無理もない。ルーミアは血肉の付いた骨を咥えている。
「だから、ここには人喰いの妖怪なんて、いなかったってば」
人間の足の骨、脛骨と腓骨を二本ともまとめて噛み砕き、ごっくんと嚥下すると、ルーミアは哀れむような眼差しで、背後を見やる。
「──だってこれ、人間の味だもん」
お祓い棒を握る巫女の手の甲に、血管が浮いた。斬れば剣、突けば槍、殴れば鈍器、術を出せばマジックアイテム、巫女愛用のお祓い棒は万能の武器だ。それでもルーミアは何ら動じずに、何ら悪びれもせずに、静謐な夜気を乱さない静かな声で続ける。
「人間だよ。同じ人間を虐げるのも、虐げられて復讐する人間も、いじめっ子もいじめられっ子も、神様のことが大好きな巫女さんも、お客によく分からない物を食べさせる変な人も、幸せに生まれた普通の女の子も、妻と子を惨殺する妄想に耽る夫も、もちろん貴方だって。みーんな、同じ人間なんだよ?
それが人間の可能性。あのね、真っ当で善良な人間だけが人間じゃないの。人間の心には闇があって、その部分だって、同じ人間の一部なんだから。『あんなことをする人間がいるなんて信じられない』なんて言う人間もいるけど、それはその人の狭量と怠慢だよ。一見してどんなに酷くて惨いことだって、人間のすることで、人間の想像する程度のことでしかないんだから、人間って結構そういうことするよね。だから人間が何をしたって、それは結局いつものことだよ。あー、またなのかー、ってなるだけ。現代社会の息苦しさも閉鎖社会の因習も、程度の問題として同じ次元。善とか悪とか、正義とか狂気とか、そういうの全部をひっくるめて、同じ人間。まあ、そういうのを認められないのも、同じ人間なんだけど」
「私の知ったことじゃないわ。私は巫女よ」
「私は知ってる。貴方は巫女で、確かに知ったことじゃないんだろうね。でも貴方も人間なんだってば」
「あ、そう」
「お腹の底に落ちれば、みんな一緒でしょう?」
そのシンプルな理屈は、脳味噌まで筋肉でできている巫女さんの腑にも、ストンと小気味良い音を立てて落下した。
「成る程、道理だわ」
滅多なことでは顔色一つ変えない巫女が、少しだけ笑ったように見えた。
「人のお肉と獣のお肉とではね、味が違うんだよ。人のお肉は、やみ味? みたいなのがするから、食べ比べてみればすぐに分かるよ。アソート程度の食べ応えじゃあ、少しガッカリするけどね」
「それこそ知ったことじゃないわね。貴方が人を襲うなら、私のすることは一つだわ」
間合いを一足で詰めて、狙いは脳天を割る唐竹割り。剣気で切れた金髪の数本が宙に散って、「食べ損なった」と残念そうな声。
ルーミアの気配が何処かへ去るのと共に、少女が引き連れていた暗闇も消えた。夜の透明度は瞬く間に失われて、真っ暗で一寸先も見えない、けれども暗闇が通常そうであるべき範疇に留まった、いつもの闇に閉ざされる。後にはもう、何も見えなくなった。
詰襟の制服姿、中学生の男の子が、田舎の畦道を浮かない足取りで歩いていた。
市街地を離れて夏の田んぼの中を突き抜ける道は美しいようでいて、少年にとっては見慣れた、見飽きた、目に映す価値も無い、ありふれた通学風景だ。少年は強く奥歯を噛み締めて、凝っと足元だけを睨んで、何事かを呟きながら歩いていた。
口元に耳を寄せなければ聴こえないほどの小さな声だ。しかしその声を聴いているモノは、いる。
少年は、こう呟いていた。
つまり、「──覚えていろ」と。
◇
所変わって、夏休みが明けた中学校の教室。
ある少年が教室の扉を開けて入ってきた瞬間、それまでにわかに騒ついていた教室は、ほんの一瞬、しんと静まり返り、次の瞬間には誰もが無関心を装って、何事も無かったように元通りになった。
「おはようございます。**君」
隣の席の少女が声を気さくに掛ける。少年はロクな返事をしなかったが、もうその時には既に、少女は窓の外を眺めていた。
よお、と。
まるで友達のように、数人の男子グループが少年の肩を叩いた。
放課後、遊ぼうぜ。
にやりと笑って言うリーダー格の少年は、髪を短く刈り込んだ好青年で、無口な少年の方も、別にひ弱な印象は無かった。
そこに、力の弱い男の子とガキ大将といったような、分かり易い力関係の絵図は無い。
ただ、入院沙汰にならない程度の暴力があって、今の所は万単位で済んでいるお金のやり取りがあって、その他諸々の、陰湿なわけではなくカラッとした男の子らしいやり取りがある。少年の青痣は胴体に集中していた。
◇
少年はとっくの昔に絶望していた。
再び、夏の畦道。
「──覚えていろ」
聴こえるか聴こえないかというブツブツした小さな呟きを、あるモノが聴いていた。
『へぇ、それで?』
「いつか絶対に」
『うんうん、成る程、それで?』
「……覚えていろ」
『いや、それはもう分かったから』
「あいつら、許さない」
『許さないとどうなるのさ? 覚えていろと呪うことに、意味は無いよ? 覚えてるわけなんて、無いんだから』
程無くして、少年は不思議な声が自分の妄想の産物でないことを知る。
そしてこの、翌日のことだ。
学校の裏山だった。
適度な広さがあり、人目に付かず、恰好のリンチの舞台となる。その日もいつも通り、男の子のグループは少年を連れ込んだ。遊びと称して始まったリンチはややエスカレートし、少年は命の危機を感じることも少なくない。
しかしその日の少年は妙に無抵抗で、言われるがまま裏山にまでやって来た。その唇が不敵に歪んでいることに、グループの男の子達は気付かない。すぐにリンチが始まった。
中学生の男の子の想像力から繰り出される暴力は、趣向に欠けたものだ。最初は遊びと称していたからにはプロレスごっこの延長のようなものだったのかも知れないが、今となっては、頭部は避ける程度のルールしかない。そんな遊びはつまらない。だから飽きる。だからエスカレートする。
だから、暴力も趣向も雑になる。観客がいれば、さぞ白けた目をしているに違いない。はて、いったいどうオチを付けてくれるのやら。
ふとした瞬間に誰かの膝が良い所に入って、少年は今日一番の呻き声をあげた。しかし顔には、不敵な笑みが張り付けたまま。
さぞ不気味だったろう。
鳥肌が立つ寒気を感じた男の子のグループは、格下相手にそんな感情を覚えたことを認めたくなくて、自分を鼓舞するように、更に激しい暴力を振るった。箍は、外れ掛かっていた。
その狂乱の渦が最高潮になった頃だ。
「お前らッ!」
少年は叫んだ。
「アレを見ろッ!」
少年は指差した。
そこにいたのは、一匹の白い蛇だった。
◇
田舎の畦道を、姉妹のように瓜二つの、二人の少女が歩いている。
「……ねぇ、お姉ちゃん」
ランドセルを背負った女の子が、中学生の姉に、不安げな表情で声を掛けた。
「お姉ちゃんの学校で、事件があったんだって?」
「ええ、ありました。同じクラスの子ですね」
「……裏山にいた男の子達が、入院中って」
「どこから聴いたんです? それ」
「えっと、ただの噂、だけど」
「うーん、流石は田舎ですねぇ。人の口がガバガバです」
「何があったの?」
女の子、東風谷早苗にとっては、この頃から美人で自慢の姉だった。正確には親戚の従姉で、そして、当代の祟り神の巫女。
その従姉が、少し先まで歩いて、溌溂とした笑顔と共に振り返る。
「死者一名。重傷者数名。少年達は、いわゆる、いじめっ子といじめられっ子の関係でした」
──さて、何があったと思います?
早苗は、じっと考え込む。
その事件に神様が介在していることは、薄々ながら察している。当代が否定しないのだから、そこはほぼ確実と見て良い。
「……天罰、かな? 死んじゃったのは、リーダー格の男の子で……あれ? でもそれだと、いじめられっ子はどうなったの? もちろんその子だけは無事に助かったんだよね?」
「いいえ、無事に済んだ子はいませんよ。あと一つ訂正、死んだのはいじめられっ子の方です」
あ、隣の席の子なんですけどね。
どうでもいいことのように付け足した従姉に、早苗はゾッとするものを感じた。
「あんまり言いたくないですけど、これでも一応ブレーキは掛けた方なんですよ? それが私の主な役目ですし……ここだけの話、ちょっと手は抜きましたけど。まあ、今回の件なら死者一名くらいが妥当な所ですかね。これ以上は流石にやり過ぎなので、止めました」
「ねぇ、待って。どうして、いじめられていた方が死んでるの?」
早苗の素朴な問い掛けに、少なくとも妹の前でだけは優しい従姉は少し仕方が無さそうに、少し困った風な、そんな曖昧な表情で、首を傾げる。
「神様は人の都合なんかで罰を与えませんよ。いじめっ子とかいじめられっ子とか、そんなの神様にとってはどうでもいいことじゃないですか」
「──えっ?」
その通り、なの? その通り、かも知れない。
一瞬でも納得しかけて、幼く真面目な早苗は、それでも子供心に何かおかしいと感じた。だって悪いのはいじめっ子の方で……そんなモヤモヤした思いを拙い語彙で伝えようとして、結局、言葉にはならない。
その場の全員に祟りがあり、唯一の死者は、よりにもよって、いじめられっ子。そこには本当に何の理由も無く、ただの理不尽な祟りと済ませられてしまうことなのか。もしそうなら、いくら何でも納得できない。
「簡単なことですよ」
巫女としての先輩は一言、戸惑う後輩に、こう告げる。
「蛇を指差しちゃ、いけないんですよ。そんなことをしたら、バチが当たります」
当代の祟り神の巫女は、快活そのものの笑顔で、まるでそれが簡単で当たり前なことのように言ったのだ。
「──このくらい、常識ですよ?」
『蛇を指差してはいけない』『蛇を指差すと、指が腐る』
確かにそれは、早苗も知る所の『常識』だった。
◇◇◇ 第2話 ウミガメのスープ?
大妖怪ぬえ様は、えっへんと胸を張って言いました。
「一番怖いのはね、人間ではないわ。だからと言って人喰いのバケモノでもない。本当の本当に一番怖いのはね、『正体が分からない』ことなのよ」
里の大通りのとある角を曲がり、裏通りに入る。更に裏路地を進んで行くと、表の喧騒とはまた違った、やや猥雑とも取れる賑やかさに出迎えられる。
薄汚れた暖簾を出したラーメン屋に、同じく薄汚れた男共が五人ほどの行列で並んでいる。店の席数が少ないために、この程度の人数で行列になるのだった。とは言え行列の魔法なのか、一人また二人と後ろに着いて、昼時となると行列は途切れることが無いのだった。
店主は、威勢の良いことが常のこの職種の男達と違って、頭にタオルを巻いた寡黙な男だった。客が来ても僅かに頷くのみ。どんな来歴の男なのか全く素性は知れず、片足は義足だ。頭のタオルも人前で外したことは無いという徹底振りで、馴染みの常連客は頭にタオルを巻いていると見れば、全く関係無い場所でも、ここの店主を連想してしまう。
肝心のメニューはと言えば、細めの中華麺に、あとはメンマといった基本的な具材がスープの上に浮かぶのだが、そのスープがまた、珍味なのだ。
まず魚介ではない。豚骨でもない。どうやら動物由来のダシと醤油ベースのスープを割っているらしいという所までは分かっているのだが、では何の動物なのか、という話になると、店主は秘伝だと言って口を割らない。
巷で人気の店のある日、腐れ縁の男二人が、こんな会話をしていた。
「なあ知ってるか? ここの店、何の骨でダシを取ってるか」
声は潜めているものの、店主に聴こえないはずもない。しかし店主は無言で麺の湯切りをしていて、まるで興味を示した様子もない。
ある意味、鎌でも掛けてやろうというつもりなのだ。
意味深に笑って話す男は、もう一人の男と、そして何より店主を窺いながら、こう告げた。
「見た奴がいるんだよ。人骨を突っ込んだバケツを持って、無縁塚の方向から歩いてくる、あの店主の姿を見た奴がな」
狭い店の空気が、しん、となった。
営業妨害も甚だしいが、店主は我関せず。先に折れたのは、今の話をした男の方だった。
「じょ、冗談だって」
「これから喰う所なのに、悪趣味なこと言うなよな……」
「すまん」
悪趣味と言うか悪質と言うか、しかしながら、元より本気だったわけではない。何のダシかは依然として謎のままだけれど、他の客は気にせずに、再びスープを啜り始める。
トン、と空の器が置かれた。完食である。その気持ちの良い食べっぷりに、客の誰もが目を向けた。と言うのも、こんな場所にはそぐわない、赤いリボンを付けた金髪の少女だったものだから。「ごちそうさまでした」と呟いた少女は、それから怪訝そうに、右に左にと、小首を傾げる。
「ん~? んん~? うん。いや、人間の味じゃないよ?」
今度の沈黙は、先とはまた種類が違っていた。何と言うか、そう、あれ、気まずい、とでも言うべき感じ。
「まあ良いや。ごちそうさま、美味しかったよ。それじゃあね」
少女が上機嫌で店を去った後、奇妙にいたたまれない空気に取り残された男達は、困惑しきりの顔で、手元の、その透き通ったスープに目を落とした。
恐る恐る、レンゲで少し掬う。美味い。美味いものは、美味いのだ。
ある意味、人間を使った禁断の味と言われれば納得もしてしまう。悪質な冗談であれ、たとえ人骨という噂が付き纏ったとて、ガサツな連中は気にもしなかっただろう。悪い噂を承知で笑い飛ばし、怖がる小心者を笑ったことだろう。その男達が、困っていた。お困りです。
人喰い妖怪として知られる金髪の少女曰く、謎のスープは、人間の味ではないらしい。
──じゃあ、コレは何だよ。
客の全員が一斉に、心の中でツッコミを入れた。
相変わらず、頭のタオルが特徴の店主は寡黙な態度で、そして相変わらず、短い行列は続いていた。
◇◇◇ 第3話 頭の中のお花畑
女の子は夢を見ています。
そこは不思議な不思議な、王国でした。
水色、ピンク色、レモン色、柔らかくて優しい色のお花がたくさん咲いて、空からはやはり同じ色の花弁が降り注ぎます。
王国にはチョコレートもクッキーもありますから、お姫様は何一つ不自由なく過ごすことができるのでした。集めた花弁をわあっと撒き上げたり、花冠のティアラを作ったり、王国の遊びは尽きることもありません。
お姫様は幸福です。
夢の国が豊かなのは、現実でも愛されている証拠です。世間では何かと、貧しい子供こそ幸福な国を夢想して逃避するものだと誤解されがちですが、それは違います。絶対に違うのです。現実で注がれる愛情なくして、夢の国の繁栄は有り得ません。
ある日、幸せの王国に、日傘をクルクルと回しながら、赤いチェック柄の服を着た、嫋やかなお姉さんがやって来ました。
「こんにちは、お姫様」
さてさて、本当のことを言いますと、女の子は怖かったのです。何と言ってもそのお姉さん、ぽんやりふわふわしているようでいて、どことなく怖い怪物のような目付きをしています。
彼女がやって来た方角の空は、見たこともないような紫色の月が浮かぶ、満天の星空です。
普通のお客様ではないと、女の子は悟りました。しかし怖がるわけにもいけません。何しろ女の子は、この王国のお姫様なのですから。
怪物は大前提として人に害を為します。ひょっとすると些細な、例えば指を差してしまうくらいのことであっても、少し格の高いヘビさんなら指を腐らせますし、どこかのケロちゃんであれば、たまたま近くにいただけなのに、という人間まで含めて容赦なく一呑みにしてしまうことでしょう。
その一方で怪物は気まぐれです。きちんとした対応をすれば、珍しい慈悲で見逃してくれることもあるのですよ。
畏まって、心からのご挨拶。これで十回に一回くらいは助かります。いえ、本当は怖いモノに出遭ったら、そうと知らずにやり過ごせる幸運を祈るのが一番なのですけれど。
「こんにちは。私はこの国の姫よ。貴方は?」
女の子、いいえ、お姫様は、毅然とした態度で誰何します。
怪物は、ちょっとした失敗を誤魔化すように微笑を零しました。
「これは失敬しましたわ。私はあちらの空の下の、夢幻館というお屋敷に棲んでいる、幽香という者です」
スカートの裾をちょこんと持ち上げて、上品なカーテシー。マナーはばっちりです。これは大変、賓客として目一杯のおもてなしをしなければ、王国の名折れです。
「まあっ、こちらこそ失礼致しましたわ。さあさあ、素敵なお嬢さん、どうかこちらにいらしてくださいまし」
素敵な挨拶には、ならなかったかも知れません。子供がごっこ遊びに興じるようなものだったでしょう。それでも怪物、幽香は気を良くしたようです。お姫様に手を引かれ、花の王国の散策を楽しんだのでした。
王国を一周する案内を終えて、優雅なティータイム。
目を細めて花畑を見やる幽香は、優しい表情で言葉を紡ぎます。その表情があまりにも真摯で、きっと大切な福音だと分かったから、お姫様はよく耳を傾けます。
「綺麗な花畑ね。良いこと? 花は、土の中に含まれる色を吸い上げて、美しく色付いていくのです」
「はい」
「良い土が無ければ、美しい花は咲かないわ。そして貴方の王国の花は、綺麗よ。これはね、貴方が住む環境が良い土壌であることの証拠なの。別に感謝しろと説教しているわけじゃない、でもね、覚えておいて。貴方が幸せなのは、貴方が愛されているからなのよ」
「はい。分かりました」
◇
……いつ以来だろうか、昔の夢を見るのは。
少し補足しておくと、今、あの頃と同じ種類の夢を見たのではない。少女時代に見た夢を、過去の思い出として、今に思い出したのだ。ではその切っ掛けとなった夢がどんな夢だったかと言うと、夢の記憶は靄の彼方に。
とりあえず短大に入って、そこそこバイトをしながら卒業して、だらだらと一年間フリーターをして、今年の春から、正社員としてデザイン系の職種に就いていた。
正直、大学は全然そちらの業界ではなく、苦労の連続ではあったが、まるでやりたくもない仕事よりはマシだろう。ダメ元で面接を受けてふらっと突然に就業できただけ、運が良いのだ。未経験者歓迎などという惹句の嘘を嫌という程知った身としては、今の仕事に必死で喰らい付いていくしかない。
今の所、大きな失敗も問題も無い。仕事上でのストレスは多かったが、なんとか自分を誤魔化しながらやっていくことが出来ていた。
目が覚めた時、カラカラに乾いて、粘つく唾液の絡んだ喉が不快だった。時計も見ずに布団から這い出して台所に立ったのだが、現時刻、深夜の三時。これなら、あと三時間は眠れる。コップの水の残りを飲み干して、すぐに布団に戻った。
泥のように眠り、もう夢なんて、見なかった。
◇
夢の世界のどこかに、打ち捨てられた王国があります。
ある一時期、王国の花畑は、まるで毒素でも吸収したように毒々しい色となり、形も奇妙な捻花となっていましたが、今はもう、そんなこともありません。
──だって、王国そのものが、失くなっているのですから。王国は寄り付く人もいなくて、ぽっかりと開けた空き地を残すばかりになっています。もはやそこに王国があり、お姫様がいたことなんて、窺い知ることはできないでしょう。
ところで。まあ、それはそれとして。
かつて女の子だった女性は、まあそれなりに仕事を一生懸命にこなして、結構な頻度で理不尽なことを言う上司から、たまに褒められて、その程度のことで嬉しくなったりして。
ある程度仕事に慣れてくれば、時間と気持ちにも余裕が生まれて、休日くらいは羽を伸ばすこともできました。
そうして、女性は幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。ほんと、笑っちゃいますね。
◇◇◇ 第4話 置き純狐
霧雨魔理沙は変な夢を見た。
まず、魔理沙は刑事だった。そして舞台は、とある閑静な高級住宅街。
「成る程、そう来たか……」
その住宅では残虐な殺人事件があり、刑事である魔理沙はもちろん調査にやって来たわけだ。
昨夜、夫が夜遅くに帰宅すると、妻と子供が無惨にも殺害されていた。字面にしてみればこれだけで、犯人は妻と子の二人をリビングに集め、わざわざ同じ部屋で見せ付けるように殺したらしいという犯行状況も、魔理沙の頭にはミステリ小説のシチュエーションのようなものとして入って来た。おかげで生々しさを感じることもなく、魔理沙はベテラン刑事の顔付きで唸り声をあげる。
それもそのはず、歴戦のベテラン刑事でもつい唸ってしまうような、難事件の予感があったのである。
リビングには、『純狐』がいたのだ。
大きな画面のプラズマテレビの横に、『純狐』がいるのだ。ちょっと小粋なリビングの、大きな画面のプラズマテレビの横に、置くタイプの『置き純狐』がいる。
「これはこれは、困った状況ですね」
「お前は……?」
キラン、と光る横目で、声の主を睨む。
魔理沙はすっかり刑事に成り切っています。
「申し遅れました。エリート刑事のドレミーです」
ナイトキャップを脱いで一礼する、ドレミー刑事。その如才ないエリートっぽさに、現場叩き上げ系、という設定の魔理沙刑事は、またも唸り声をあげた。エリートには負けられない。
「で、困った状況と言うのは?」
まずは軽いジャブ。
「いえ、ね。だってこのリビングに置くタイプの『置き純狐』がいるということは……」
「ああ、そうだな」
「ですよね」
つまりは、ある種の不可能状況というやつだ。刑事として、これを認めるのは釈然としないものがある。
「四角い部屋の一辺、そこにいる『純狐』の死角となる場所は、存在しません」
「ってことは、『純狐』に見られずに犯行を遂げるは不可能だったというわけだ」
「そうなってしまいます」
魔理沙は頭を抱えて、恨めし気に『純狐』に視線をやる。こいつのせいで話がややこしくなっているのだ。
不可能状況、本当にそうとしか言いようが無い。ドレミーに言われるまでもなく、このリビングに『純狐』の死角となる場所が無いことくらい分かっている。逆に言えば、リビングにいれば嫌でも『純狐』が目に付く。
しかしどうやって、『純狐』に見られずに犯行に及んだのか。
「……例えば、だ。例えば、犯行自体は他の部屋で行い、その後で遺体をこの部屋に運んだ、とか」
「それは無いでしょう。血痕の状況からして被害者がこの部屋で殺害されたことは確実とされていますし、何より、犯人はどうしてわざわざ『純狐』の前に立つリスクを犯してまで、『純狐』のいる部屋に遺体を運んだのですか? その必然性は無いでしょう」
絶妙に人を嘲弄した腹の立つ顔で、ドレミー・エリート刑事。
「言ってみただけだ」
何か無いのか。何か、『純狐』の存在を掻い潜って犯行を可能とする、そんなトリックが。
「例えば、『純狐』はこちらを向いているだろう? だったらさ、『純狐』を持ち上げて後ろを向かせるなり何なりすれば、どうだ?」
「成る程。しかしその後、犯人はわざわざ後ろを向かせた『純狐』を元に戻した、ということになりますが」
「ああ、そうだ。そうすれば、『純狐』による密室の演出にもなるからな」
自分で言及して初めて、魔理沙はこれが密室殺人であることに思い当たった。
密室とは、何も物理的な施錠が全てではない。例えば、通行人の視線に晒された通りのように、犯行に及ぶ人間の心理的な事情を鑑みて、開けた密室が成立することもある。『純狐』のいる部屋は、まさにその密室だった。
冗談じゃねぇぜ。
探偵ならばいざ知らず、刑事にとっては悪い冗談のような言葉だ。『純狐』による密室だと? ふざけるのも大概にしろ。刑事の仕事は、探偵の道楽ではない。
「ですが」
ドレミーの声で、魔理沙は物思いから帰ってきた。
「ですが『純狐』には、人の手で動かされた形跡が無いのです」
「何だって……?」
となると、早くも手詰まりではないか。
「いやいや、待て待て。何も動かす必要は無いんだ。とにかく『純狐』の視線さえ遮れば、犯行は可能だろう」
ドレミーはやっぱり絶妙な表情で、呆れた風に首を横に振って露骨な溜め息を吐いた。
とにかく『純狐』には人の手で触れた痕跡が無い、と。
「……なんてこった」
考えろ。
考えろ。
考えるんだ、魔理沙。
落ち着いて情報を整理しよう。
・犯行現場は間違いなくリビングである。リビングには『純狐』の死角となる場所は存在しない。
・また、『純狐』を動かす等の、『純狐』に作用する仕掛けが用いられた形跡は無い。
・重ねて、犯行現場は間違いなくリビングである。犯人は『純狐』のいる部屋で、家の妻子を殺害した。
・『純狐』は置くタイプの『置き純狐』である。
何かあるはずだ。この『純狐』による密室を打ち破る、何らかのトリックが。
「……………………」
しかし、現実は無情である。「いや夢ですけどね」というドレミーの呟きはともかく、現実は無情なのだ。魔理沙には、『純狐』に隠れて犯行を可能とするトリックが思い付かない。
「……いや?」
何か、引っかかる。
何だ? 『純狐』に隠れて犯行を可能とするトリック……?
「それだ!」
魔理沙は最初から誤解をしていたのだ。
犯人は、『純狐』に隠れて行動したのではない。そもそもこの密室は心理的な密室。心理的な壁さえ突き抜けてしまえば、後は入りたい放題の出たい放題で、密室でも何でもないのだ。唯一、『純狐』のことを何とも思っていない者にだけは、犯行が可能となる。
「──つまりさ、犯人は『純狐』の見ている前で、堂々と犯行に及んだんだ!」
この夢をミステリか何かだと思っている魔理沙は、そのシチュエーションの生々しさを想像しなかった。だから、無関係のまま切り抜けることができたのかも知れない。
◇◇◇ 第5話 人間のすることだから
今から数十年以上も昔、人間の里は現在ほど発展してはいなかった。その頃の話だ。
妾腹として産まれた男の子を襲ったのは、紛うこと無き謂れのない理不尽な暴力だった。半分は実子でありながら扱いは丁稚奉公以下の奴隷。存在そのものを疎まれ、住まいとして提供された離れの小屋すら彼の居場所ではなかった。
殴る蹴るは当たり前、ほとんど食事も与えられず、行動の自由も無い。胆力さえあれば自力で日々の糧を得られる浮浪児の方が、よっぽど健康な生活を送っていたかも知れない。
とは言え、その境遇を不幸だと言うのは間違いだ。
何故って、男の子にはそれを判断するだけの知恵が無く、比較するべき世界を知らない。そんな生き物は、はっきり言って動物と変わらない。だから、家の人間は動物を虐待しているというわけだった。
大人達は口汚く男の子を罵倒しながら、暴行を繰り返した。唾と共に投げ掛けられる言葉の意味は大半が理解できなかったけれど、お前は人間以下だと言われていることだけは、なんとなく理解できた。
──どっちが人間以下だ。
男の子が産まれて初めて思った、皮肉っぽい内容の言葉だった。
周囲の人間は鬼畜生以外にはいないのだと、男の子はすっかり信じ切っていた。虐げられる側も虐げる方も、どちらも人以下の、醜い畜生だ。
◇
そのまま何事も無く、と言うには凄惨な日常ながらも、男の子は少年となり、少年が青年となるだけの月日が流れた。
額から側頭部に掛けてまで大きな火傷があった。寒い冬に火鉢をねだったばかりに、頭を鷲掴みにされ、焼けた火鉢の中に突っ込まれたのだ。恐怖と憎悪を感じる時間は多々あったが、痕跡として一番大きく残ったのが、その時の大火傷だった。以来、青年はどんなに寒くても熱源無しで耐え忍ぶ決意を固めた。
青年は相変わらず痩せ衰えていたけれど、その機会だけは虎視眈々と狙っていた。つまりは復讐。人間以下と罵られるのなら、それは結構。本当に人間ではないものに成ってやる。そう思って、そう行動して、その結果、青年は逞しく成長を遂げる。
食事は僅かな残飯しか与えられない。これでは、いけない。何がいけないって、強くなれない。
青年は隠れて運動に励みながら、注意を怠っている人間を襲って、生き血を飲んだ。血は滋養強壮に優れた貴重な蛋白源だ。矮躯が改善するには時間が掛かるだろうが、青年の体には、しなやかな筋肉が付き始めた。
さて、問題となるのは決行の期日。
今となっては青年に興味を向ける者などいないけれど、いつか青年の変貌振りに家の誰かが気付くだろう。そうなれば、連続する殺傷事件と関連付けられる危険性がある。
十分な膂力が備わり、かつ注意がこちらに向いていない、そんな都合の良い状況を見極めなければ、復讐の成功は無い。しかしその瞬間を、青年は天性のバランス感覚で見抜いてみせた。
屋敷の中を、走る、走る、跳ぶ。殺戮技術の師は、ネズミを狩る猫だった。青年は人間とは思えない身のこなしで、瞬く間に復讐を遂げた。言うまでもなく、関係者全員、皆殺しだった。
これで心身ともに名実ともに怪物になった。なってしまったのだと後悔もしなかったのに、月夜に轟く勝鬨の遠吠えは、彼にとっても不思議なことに、どこか哀切な響きを伴って聴こえた。野犬が哭いているものと、誰もがそう思った。
◇
無縁塚に人喰い妖怪が棲み始めた。
人里に、そんな噂が流れていた。墓地へ遺体を捨てに行った者が、姿を見た。襲われて帰って来なかった者もいる、という話だ。
人骨を、文字通り骨組みにして、土で固めた家を建てて棲んでいる。
人間を襲い、生き血を啜る。少し前に里で暴れたのも、この妖怪だろう。
人骨を突っ込んだ容器を持って、無縁塚の中を歩いている姿を見た。
等々。人々は口々に噂して、結果その一件は、当時の当代の巫女の知る所となった。
その夜の暗闇は際立って濃いようで、夜空には冴えた月が浮かび、白々とした月の光が差し込んでいる。だからなのか、一寸先も闇、という諺とは違っていて、その深く濃い暗闇を、彼方までも見通すことができるのだ。
喩えるのなら、光の差す海底洞窟の絶景。夜の底に満ちた暗闇は透明に澄み切っていて、あるいは、一切の不純物も含まれない暗闇とは、本来はこんな風に綺麗なのかも知れなかった。
無縁塚を怒濤のように征く巫女は、赤いリボンを付けた金髪の少女と出くわした。
ルーミアはふよふよと遊覧するような歩みを止めて、巫女もまた、およそ三間の距離を取って着地する。
タールの沼地、の、ようなものと見えた。とぷ、とぷ、と湧き出る粘度の高い液体が、背の低いドーム状に広がりながら、ルーミアの膝下ほどの水嵩で、粘っぽく纏わり付いていた。一切の光を通さないそちらの闇は、透明度の高い夜の空気とは、重さも密度も何もかもが違う。まるで、濾過。ルーミアが暗闇に含まれる栄養素を吸収することで暗闇の透明度が高くなり、その一方で、漂う不純物を掻き集め混ぜ合わせ捏ね繰り回して圧縮したものが沈澱する。
巫女はそれを、たった一瞥しただけで済ませた。
「ここで、人喰いの妖怪が活動していると聞いたわ」
「そーなの? でも、私じゃないよ。だって、さっき来たばかりだし」
「ここで、人喰いの妖怪が活動していると聞いたわ」
再度、巫女は有無を言わせない強い口調で繰り返す。
「いないよ」
ルーミアは、今夜の闇に似て澄んだ声で言った。
「ここで、人喰いの妖怪が活動していると聞いたわ」
巫女が繰り返す。これで三度目。
無理もない。ルーミアは血肉の付いた骨を咥えている。
「だから、ここには人喰いの妖怪なんて、いなかったってば」
人間の足の骨、脛骨と腓骨を二本ともまとめて噛み砕き、ごっくんと嚥下すると、ルーミアは哀れむような眼差しで、背後を見やる。
「──だってこれ、人間の味だもん」
お祓い棒を握る巫女の手の甲に、血管が浮いた。斬れば剣、突けば槍、殴れば鈍器、術を出せばマジックアイテム、巫女愛用のお祓い棒は万能の武器だ。それでもルーミアは何ら動じずに、何ら悪びれもせずに、静謐な夜気を乱さない静かな声で続ける。
「人間だよ。同じ人間を虐げるのも、虐げられて復讐する人間も、いじめっ子もいじめられっ子も、神様のことが大好きな巫女さんも、お客によく分からない物を食べさせる変な人も、幸せに生まれた普通の女の子も、妻と子を惨殺する妄想に耽る夫も、もちろん貴方だって。みーんな、同じ人間なんだよ?
それが人間の可能性。あのね、真っ当で善良な人間だけが人間じゃないの。人間の心には闇があって、その部分だって、同じ人間の一部なんだから。『あんなことをする人間がいるなんて信じられない』なんて言う人間もいるけど、それはその人の狭量と怠慢だよ。一見してどんなに酷くて惨いことだって、人間のすることで、人間の想像する程度のことでしかないんだから、人間って結構そういうことするよね。だから人間が何をしたって、それは結局いつものことだよ。あー、またなのかー、ってなるだけ。現代社会の息苦しさも閉鎖社会の因習も、程度の問題として同じ次元。善とか悪とか、正義とか狂気とか、そういうの全部をひっくるめて、同じ人間。まあ、そういうのを認められないのも、同じ人間なんだけど」
「私の知ったことじゃないわ。私は巫女よ」
「私は知ってる。貴方は巫女で、確かに知ったことじゃないんだろうね。でも貴方も人間なんだってば」
「あ、そう」
「お腹の底に落ちれば、みんな一緒でしょう?」
そのシンプルな理屈は、脳味噌まで筋肉でできている巫女さんの腑にも、ストンと小気味良い音を立てて落下した。
「成る程、道理だわ」
滅多なことでは顔色一つ変えない巫女が、少しだけ笑ったように見えた。
「人のお肉と獣のお肉とではね、味が違うんだよ。人のお肉は、やみ味? みたいなのがするから、食べ比べてみればすぐに分かるよ。アソート程度の食べ応えじゃあ、少しガッカリするけどね」
「それこそ知ったことじゃないわね。貴方が人を襲うなら、私のすることは一つだわ」
間合いを一足で詰めて、狙いは脳天を割る唐竹割り。剣気で切れた金髪の数本が宙に散って、「食べ損なった」と残念そうな声。
ルーミアの気配が何処かへ去るのと共に、少女が引き連れていた暗闇も消えた。夜の透明度は瞬く間に失われて、真っ暗で一寸先も見えない、けれども暗闇が通常そうであるべき範疇に留まった、いつもの闇に閉ざされる。後にはもう、何も見えなくなった。
不思議な雰囲気の短編集でした。氏のルーミアはとても妖怪然としていて可愛い……
不気味な作品群の合間合間に挟まっている、奇妙でシュールで変な笑いの漏れるような作品が、いい具合にアクセントになっているなと感じます。お見事でした。
置き純弧です
ルーミアのキャラがよかったです
悪いところも含めて人間だものなぁと妙に納得してしまいました